○村田
公述人 いささか準備に手間取りまして、前のお二人のような詳しい要旨を準備することができませんでした。お手元の簡単なレジュメをごらんいただきたいと思います。そこにございますように、「
憲法・
国民主権・立憲主義」、このようなタイトルをつけさせていただきましたが、本日のところは、この三つ目の立憲主義という言葉が私の話のキーワードになります。
九〇年代に入りましてから、立憲主義が
憲法研究者の大きな関心事項となりました。直接の
契機は、東欧諸国にそれまでの西側モデルの
憲法体制が導入されたことにあります。立憲主義的
憲法が
世界の大
部分を覆うことになったわけであります。この事態は、当時フランシス・フクヤマ氏が述べましたような、
歴史の終わりの到来を
意味することではありませんでした。そのことは、今日も日々のさまざまな事象によって示されているとおりだろうと思います。しかし、立憲主義、より正確には民主的な立憲主義あるいは立憲
民主主義と言ってもよろしいかと思いますが、これがいわば人類が発見した最高の統治形態であるという
認識あるいは評価は、国際的に見れば、今日も揺るぎがないところだと思われます。
ところが今日、
日本では、この立憲主義の危機を憂える声が頻繁に聞かれます。そのような声は、
憲法学界内部からだけではなく、外からも聞こえてくるわけでございます。そこで、私は、近年の
憲法の運用の仕方を観察しながら気がかりに思うことを述べたいと思います。
まず、立憲主義とは何かということが問題であります。学界ではこれをめぐってさまざまな
議論があるところでありますが、
憲法による権力の拘束、
憲法に基づく政治の原則、このようなミニマムの一致点はあります。この最小限の
意味については特に
議論のないところであります。したがいまして、立憲主義という言葉は、きょうのところはそのような
意味で用いたいと思います。
そうしますと、問題は、
憲法とは何かということと、
憲法に基づくとはどういうことか、これが問題となってくるわけであります。
そもそも
憲法とは何か、あるいはその特質は何か。これは、大学の
憲法学の教科書では必ず初めに出てくることであります。授権規範、制限規範、最高規範、こういう三つの規範的特質が必ず指摘されるわけであります。
まず、授権規範とは、文字どおり権限を授ける規範、つまり公権力に権限を与える規範という
意味であります。つまり、公権力は、
憲法上の根拠がなければ
活動できないということを
意味します。この際注意したいことは、授権の権というのは、あくまでも公権力の権限のことでありまして、
国民の
権利のことではないということです。戦前の
憲法上の臣民の
権利と違いまして、
日本国憲法が保障する
人権とは、
憲法や
国家によって創設されるような
権利ではなく、
国家以前の
権利なのであるということです。この点は、新しい
人権という問題を考える際にも銘記しておくべき問題だと思います。
次に、制限規範という
意味ですけれ
ども、これまた読んで字のごとく、制限する規範、つまり公権力を制限する規範のことであります。
憲法が授権した権限が何でもできる権限であったとしたら、これは
憲法がないのと同じことを
意味します。
憲法は、単に公権力の
活動の根拠を提供するだけではなくて、さらに公権力の限界を
組織や
手続、実体の面から明らかにする法規範であります。これが制限規範ということの
意味です。そうしますと、戦前の
憲法は、曲がりなりにも授権規範であったということは言えるかもしれませんが、制限規範という性格は極めて薄かったというふうに言えるわけです。
第三に、
最高法規という
意味です。これは、一
国内における最高の法規範、一国の法秩序の最高位に位置し、それに反する下位規範は無効になる法規範という
意味です。それでは、なぜ
憲法は
最高法規なのか。これが問題となります。いわゆる実質的
意味の問題です。それは、言うまでもなく、
憲法が
国家や
社会にとって最も重要な
価値を保障することにあります。
いわゆる近代
憲法と言われる
憲法は、自由権を中核とした
人権を保障しました。
国民主権を保障しました。権力分立、こういった
基本原理を最も重要な
価値としていたわけです。いわゆる
現代憲法と言われる今日の
憲法は、こういった近代
憲法の掲げた
価値をより一層発展させたものとなっています。詳細は述べられませんけれ
ども、例えば、
人権問題でいえば、先ほど
江橋先生の報告にもありましたような生存権を中核とする
社会権、これが新たに保障されるようになったこと。
国民主権の問題で申しますと、単なる代表民主制にとどまらない直接民主制が保障されているということ。権力分立制の問題でいいますと、違憲立法審査制が取り入れられたといったこと。そして、
平和主義であります。
現代憲法に属する
日本国憲法は、さらに独特の
内容としまして、平和的生存権の保障、一切の
戦争放棄を
内容とする
平和主義を持っております。
憲法が
最高法規でありますのは、こうした
社会や
国家にとって最も重要な
価値を内包するからであります。通常の多数決で安易に変更してはならない
価値を内包するから、
最高法規なのであります。時々の多数派が簡単に乗り越えられるようなものでありましたら、
憲法が
憲法である
意味はないと言えるわけです。
人権尊重主義、
国民主権、
平和主義を三大基本原則とする
日本国憲法は、そのような基本原則を保障するための
最高法規であり、授権規範であり、制限規範である、このように言うことができます。
こうした
憲法を
解釈、運用する場合、どのようにすべきかということが今問われています。すなわち、
憲法に基づくということの
意味であります。結論を一言で申しますと、民主的かつ立憲主義的な
解釈、運用を行うべきであるというふうに言えると思います。そうしますと、そのような観点から、現に行われている
日本国憲法の
解釈や運用は、どのように見えるのでしょうか。
幾つかの問題を考えてみたいと思いますが、まず、民主的な
憲法の運用、
解釈の大前提は、言うまでもなく、国会が
主権者である
国民の意思を忠実に反映することにあります。
国民主権の原則がどのように扱われているのか、国会と
国民の
関係は今どうなっているのか、これが問われるわけであります。
選挙制度につきまして、
憲法は、四十三条、四十四条、四十七条におきまして、これを法律で定める旨定めています。しかし、これは決して法律で定めれば何でもよいという
意味ではありません。いわゆる広範な立法裁量が認められているわけではありません。例えば、両議院の議員及びその選挙人の資格に関する四十四条は、ただし書きで、人種や信条などなどによる差別を
禁止しています。選挙区や投票方法等の選挙に関する事項に関する四十七条は、とりたててそのようなただし書きは置いておりません。しかし、
憲法十五条が選挙権を
国民固有の
権利とし、そのほかに普通選挙の原則などを定め、さらには
憲法十四条が平等原則を保障している以上、これらの定めを無視して法律で自由に選挙制度を設計することは
憲法上許されないということになります。
選挙権の
意味につきましては、最高裁が一九七六年四月十四日判決におきまして明確に述べているところであります。これは、レジュメの中にも紹介してあるとおりですので、あえて読みませんけれ
ども。最高裁が言うようにまさに、議会制
民主主義の
根幹をなす選挙権が立法府によってどのように扱われているかは、立法府自身の議会制
民主主義に対する姿勢を示すものと言えます。
現在の選挙制度は、小選挙区制を主体とする選挙区制によりまして、多様な民意が議席数に反映しない仕組みになっております。各投票が選挙の結果に及ぼす影響力においても平等であること。これは最高裁判決の中に出てくる文言でありますが、こういった平等の実現にはほど遠い
状況にあるということが言えます。また、さまざまな問題がありますが、例えば、在宅投票が極めて限られた人にしか認められていないという問題、これは高齢化
社会において大きな問題となるところであろうかと思います。そのような方々が投票する意思を持ちながら投票できない、こういった事態が発生する。これは、
国民の国政への参加の機会を保障する基本的
権利として選挙権が十分に保障されているとは言えないということを
意味します。
選挙と選挙の間、つまり、在任中議員は公約を守る義務がある、このように考えることができるわけですけれ
ども、
現行制度上、特にそのような
責任を問うような仕組みはありません。つまり、今のところ、この公約を守るべしという義務は道義的な義務にとどまっているということが言えるわけです。
としますと、議員の
国民代表としてのモラルが問われるということになるわけです。しかし、残念ながら、大小さまざまな公約違反、また、それと無
関係とは言えない政治腐敗が有権者の政治不信の大きな一因となっているように思われます。NHK放送
文化研究所が編集しました「
現代日本人の
意識構造」という本があります。第五版、二〇〇〇年に出たものですから、データはやや古くなっているかと思われます。しかし、この本を見ますと、選挙の有効性に対する
国民の信頼が長期的に低落の一途をたどっていることが明らかになります。各種選挙における低投票率は、有権者のまさに疎外感を反映しているのではないでしょうか。
ルソーは、イギリス人民は自由だと
自分では考えているがそれはとんでもない誤解である、彼らが自由なのも議会の構成員を選挙する期間中だけのことで、選挙が終わってしまえばたちまち奴隷の身となり、なきに等しい存在となるのである、このように
社会契約論の中で喝破しました。これはまさに、今日の
日本の有権者の実感をあらわす言葉ではないかと思われます。
こうしてみますと、今日、民主的な
憲法の
解釈、運用の前提が果たして十分に整っているのであろうか、このようなことが問題として浮かび上がってくるわけです。
次に、立憲主義的な
憲法解釈、運用ということの
意味について述べてみたいと思います。
憲法を民主的に
解釈、運用すべきといいましても、その時々の民意に忠実な
解釈であればそれでよいというわけではありません。それでは、どうにでも
解釈してよいということになりかねないからであります。民主的な
手続によって
制定された法律は民意の表明とみなされますが、そのような法律も、裁判所の違憲立法審査に服することになっています。とにかく民意に忠実であればよいという考え方は、このような違憲審査を否定する考え方と言うこともでき、
憲法の
最高法規性を否定するものであります。
そもそも、民意というものが常に明確な実体を持つわけでもありません。仮に明白な民意がある場合でも、それが間違っていることもあり得ると考えなければなりません。これは、まさにナチズム体験の教訓であり、戦後
制定された立憲主義的
憲法、各国の
憲法が共有しているものでもあります。
中には、
憲法擁護が、
憲法典擁護、
条文そのものの擁護であってはならない、
条文そのものよりも大事なものがあるという考え方もあろうかと思われます。なるほど、テキストだけを読むのではなく、コンテキストにも目配りする必要がある、これは確かにそのとおりでございます。しかしながら、テキストとコンテキストとをあれかこれかと択一的にとらえ、さらにはテキストを軽視するというのは妥当ではありません。民意が必ずしも常に明確な実体を持つわけではない以上、何よりも公権力は、
憲法を
解釈、運用する際、テキストを
尊重しなければならないはずであります。
それでは、
憲法のテキストを
尊重するとはどういうことでしょうか。それは、
憲法の文言を
尊重するということであり、さらには、
憲法の規範的特質を
尊重するということであります。
憲法は、授権規範であり、制限規範であります。したがいまして、
主権者である
国民の信託を受け公権力を行使する公務員は、
憲法上明確に授権された権限を
憲法に従って行使しなければなりません。より正確に言いますと、
憲法そして
憲法に従って
制定された法律の定めに従って行動しなければならないということです。公務員は、
憲法や
憲法に従った法律に書かれていないことはできません。また、それらに書かれていることは、誠実に実行しなければなりません。これが
憲法の
解釈、運用上の立憲主義の具体的
意味と言えます。
そこで、
憲法の
解釈、運用の実際のありようを見てみますと、特に
平和主義条項の
解釈、運用に重大な問題があると言わなければなりません。
従来、
政府は、九条につきまして、
自衛のための実力行使を禁じるものではなく、そのための実力の保持も
禁止されていないと
解釈しました。ここでは、この
解釈の具体的な
問題点すべてに触れることはできません。ここで問題としますのは、仮に
自衛目的の実力の保持と行使が
禁止されていないとしても、だからといって直ちに
憲法上できることにはならないということであります。これが立憲主義的な
憲法解釈の
あり方と言えます。
禁止されていないことはできると
解釈することは、
憲法が授権規範にして制限規範であることを無視した
解釈であります。言いかえれば、
憲法を
憲法とは考えない
解釈ということになります。
そこで、従来、
政府は、以上のように九条を
解釈した上で、
自衛のための実力の保持と行使を積極的に根拠づけるものを示してきました。それが、いわゆる個別的
自衛権です。個別的
自衛権は、例えば、
個人の正当防衛権になぞらえたり、あるいは国際法上の当然の
権利として正当化されたりしますが、何よりも
憲法上明文がないことが、立憲的な
解釈上、重大な問題であります。
ともあれ、従来の
政府解釈は、曲がりなりにも、
禁止されていないから可能であるといった乱暴な考え方はとりませんでした。その限りでは、立憲主義の一線を守る姿勢があったというふうに見ることもできます。ところが、近年の論議では、集団的
自衛権を前提にしなければ成り立たないような
自衛隊の
活動について、およそまともな説明が聞かれません。
憲法問題を聞かれると、時には神学論争はやめましょうというような声も聞こえてきます。これでは、
戦争放棄ならぬ、説明
責任の完全放棄と言わざるを得ないわけであります。
もう一つ、政教分離原則についても触れておきたいと思います。
これほど明白な禁則の例外は、よほどのことでなければ認められないはずであります。政教分離が
憲法上の原則である以上、よほどの例外は、これまた
憲法上示されている必要があります。いわゆる津地鎮祭訴訟最高裁判決は、極めて緩やかな目的効果
基準をとりまして、学説上種々批判を浴びているところであります。この最高裁判決は
政府のよりどころにもなっているようであります。
さまざまな問題が指摘できますが、立憲主義という観点から申しますと、仮に緩やかな目的効果
基準によって政教分離の原則に反しないと言えたとしても、これまた
禁止されていないからといって許されることにはならないはずであります。すなわち、当該行為を積極的に根拠づける
憲法規範が不可欠になるはずであります。地鎮祭が世俗化した慣行であるとしても、
国家や自治体は、そのような慣行を担う市民ではありません。習慣ではなく、
憲法に従って
活動すべき公権力は、まず何よりも
憲法上の授権規範を必要とします。閣僚の靖国参拝にしても同断ということが言えます。これは決して
個人の自然の感情で説明してはならない問題と言えるわけです。
以上に述べましたような立憲主義的
憲法解釈を貫けば、新しい
人権も問題になるのではないかと考えられるかもしれません。しかしながら、これは、立憲的
意味の
憲法や
人権というものの考え方を取り違えた考え方と言わなければなりません。すなわち、既に述べましたように、
人権とは、
国家以前、
憲法以前の
権利であります。
人権をそのようなものとして
尊重することが
人権尊重主義の本旨ということが言えます。
繰り返しますが、
憲法が授権規範であるということの
意味は、公権力に権限を授けるということでありまして、
人権を
国民に授けるという
意味ではありません。したがいまして、公権力の
活動に関しましては、
憲法上あるいは法律上、
禁止されていないことでも、明確に授権されていないことはできないと解すべきなのに対して、人の営みについては、
禁止されていないことは許されると解さなければならないわけです。例えば、表現の自由について、法律でやっていいと積極的に書かれていないことは何もできないなどとする学説は存在しません。
新しい
人権に関しても同様でありまして、明文がないからそんなものは認められないという見解は存在しないし、成り立たないわけであります。プライバシー権や知る
権利などは、
現行憲法の
解釈上、問題なく認められるところでありまして、これについて、
改正までして認める必要は考えられないわけであります。
以上、簡単に見てきましたが、このような概観からも、
日本国憲法は、民主的かつ立憲主義的な
解釈、運用を受けているとは言えない
状況にあろうかと思われます。今日のところ、必要なのは
改正ではなくて、そのような
解釈、運用であると考えます。
日本国憲法は、決して寿命が尽きたわけではなく、むしろまだまだ使いこなされていないと言えます。
現実に合わないから
憲法を変更するというのは、極めて安易で倒錯した考え方ではないかと思われます。
憲法の
解釈、運用を正すことが先決事項であると考えます。
著名な比較
憲法学者のミルキヌ・ゲツェビッチという人は、第二次大戦後間もない一九四八年に、平和と
民主主義との間には極めて近い関連がある、このように述べたことがありました。ゆがめられた
国民主権、
人権尊重主義を立憲主義的な運用によって正すということは、まさに平和の礎を築くことになります。
日本国憲法は、武力によらない方法で
世界平和に貢献することを
国家に授権しています。
アメリカ政府の危険な予防攻撃戦略に加担することは、国際緊張を高めることにしかなりません。そのような道を歩むのではなく、紛争の原因となる貧困を解消し、
国家間の対立に際しては軍事力を頼みにすることなく外交的解決に粘り強く取り組むこと、そのような
意味での積極
平和主義を実践することこそ、
国際社会の緊張を緩和、除去し、
国際社会における
日本の信頼を高め、友好
関係の形成と発展をもたらすことになると考えます。
憲法の立憲主義的
解釈あるいは運用といったものは、決して何もしない不作為を
意味するのではなく、むしろ、創造的な努力を必要とする能動的な
活動であると考えます。そのような
活動はまだやり尽くされていない、そこに最大の問題があるというのが、きょうの私の結論でございます。
御清聴、ありがとうございました。(拍手)