○中島章夫君 民主党・新緑風会の中島章夫でございます。
ただいま西岡
委員の方から
私学振興助成法の
昭和五十年、五十一年のころのことが話題に出ました。私も常日ごろ、
教育の長期の流れをとらえながら
教育の政策を検討していくべきだと常に考えているものですから、たまたま大変大事な節目のところに話題が出ましたので、そこからひとつ入らせていただきたいと思います。
お手元に「
学校段階別進学率の推移」という、これはたまたま元文部省の
大学局長、それから学術国際局長、次官等をされました木田宏さんが書かれました「学習
社会の
大学」という一九九五年の本から抜き出したものでございます。
私が見ていただきたいのは、それはちょっと見にくいんでありますが、上にどうも汚い字を書いてまた消したりして申し訳ありませんが、一九五〇年、つまり
昭和二十五年ですね、新制
大学がスタートをした年であります。それで、二番目の欄の、上の二番目の欄の進学率というのは、これは高校の進学率であります。一九六五年、つまり
昭和四十年のところを見ていただきますと、進学率は七割、七〇・七であります。これ、fなんて書いてあるのは、左側がm、男性で、右側が女性であります。ついでに申しておきますと、
昭和四十五年、一九七〇年に女子の進学率が、高校の場合、男子を凌駕したということになっております。
そのことはさておきまして、さっきの欄で、一九六五年、
昭和四十年の七〇%から一九七五年の九一・九、
昭和五十年ですね、急速な進学率の伸びがございました。つまり、戦後のベビーブームの波が
昭和三十年代の後半に高等
学校へ押し寄せまして、
昭和四十年代に入りますと
大学へ押し寄せると、こういう時期に入っていたわけであります。
ついでに、先に見ておいていただきたいんですが、その次の
三つ目の欄、上で、進学率3とありますところ、一九五五年、
昭和三十年ですね、一〇・一%であった、新制の
最初の卒業生が出ていったころ一〇・一%でありました
大学への進学率が、その後増えてまいりまして、どんどんどんどん増えてまいりまして、一九六五年には一七%、そして先ほど言いました七五年、
昭和五十年には三七・八%になっておりますが、そこから後、五年ごとの数字で、一九八〇年、八五年、九〇年と、実は九〇年の平成二年のところまで、約十八年間ですが、二十年近く
高等教育の進学率が止まっております。
ところが、進学率5の欄でごらんいただきますと、
昭和五十年に、一九七五年ですが、三・五。まあこれは実際はこの年にスタートをしたんですが、
制度的には、実際の卒業者の、進学の実際の
学校のスタートは一九七六年ですが、それで印が書いてあるんですが、いずれにしても三・五から始まって、九四年、この本を書いた時期には一八・五、今日二〇%ぐらいまで増えてきている、つまり専修
学校が増えてきていると、こういう数字であります。これは、実は先ほど西岡先生がおっしゃった
私学振興助成法のころからの後の趨勢をとらまえておりまして、この間抑制をされたわけであります。
ただ、私がここでちょっと指摘をしたいのは、その前にいわゆる四六答申、
昭和四十六年ですね、一九七一年に四六答申が出まして、その直後に
高等教育懇談会というのが出ておりまして、
高等教育の
整備計画についてということをこのとき言っておりまして、当然にこの進学者の高等
学校から
大学へ押し寄せていく、そういう数を将来どのようにして受け止めるかと。
これは、
大学というのは、
大学に限らず、特に
大学はそうですが、一律にしてはならないわけですから、ある種の計画を、予測をして計画を立て、それに対応するというのは当然必要になってくるわけであります。で、
昭和六十一年、一九八五年ぐらい、八六年ぐらいですね、六十一年の進学率を四一%と想定をいたしまして、その進学率の上昇の間に国
公立を毎年一万人近く増員すると、そして、この間
私学がずっと増えてきておりましたので、地域間の進学率の格差や公私の比率を是正しようという、こういう計画を持っていたということであります。
つまり、
高等教育については今日大変大きな数、
私学では八割をだかえているわけですが、すべての
私学がエクサレンスに相当する
教育内容と水準を持っているわけではないと。非常に多くの
教育の機会を提供してくれてはおりますが、いざそれにどういうふうに補助し、そしてこれから集中的に支援をしていこうかというときに、それに平等にみんなというわけにはいかないと。今日、手ぬるいとはいいながら、
私学助成もそれぞれ特色のあるところに重点的にという建前でやっておられるはずです。
ところが、実はこのときに、今
一つおっしゃった、西岡先生が言われた
私学振興助成法、これができてまいりましたのは、実は先ほど言われた
昭和四十五年のころから、学部の設置についてはその補助金をもらうときに、
私学が作っていくときに学部の設置については認可が必要でしたが、その下の学科の設置とか定数の増というのは自由だった。したがって、どんどんどんどん
私学はそういう
部分で、学部のところはあれですが、学科を増やし定数を増やすということで
私学助成をどんどん手に入れると。
こういう、つまり
私学助成を増やしてみても、
私学は勝手に定数は増やすし、学科を増やしてしまうというようなことでは、水準の維持ということもありましょうし、何かざるにお金を、水を入れているようなものだと、こういう
判断もあったし、このころから、
高等教育がここまで伸びてくると、本当に
高等教育というのはこれ以上進学率が伸びていくというのは本当の姿であろうかという、そういう御検討も与党の政策の中にあったはずでございます。
そういうことから、実は
私学の緊縮措置、つまりこの
私学振興助成法では、学部、学科の新設、それから定数の増に至るまで認可にかかわらしめた。ちょうどこのころ、
高等教育機関等を大都市にこれ以上作らせないとか、いろいろそういう動きもあったやに聞いております。したがって、この
法律が、先ほどちょっと見ていただきましたように、この辺りからずっと増えてきた
高等教育の進学率が約二十年間止まると。その代わり、都市部にできてきて、特に男子で特徴的になります専修
学校へずっと流れていく、こういう動きができたのがその
前提であります。
実は、私がちょっと先に言っておきたいのは、
高等教育計画ということが、先ほど言いましたように事前に、そういう
社会の発展、それから生徒がどういうふうに増えていくかということは、先ほどお話がありましたように常にその計画を立てて対応しておかないと、後追いでは駄目なんですね。ところが、このころから
高等教育計画というのが聞かれなくなった。
つまり、私は前にも一回中等
教育のところで指摘をしたんですが、中等
教育の増加はその直前からずっと始まっておりましたが、その枠を増やすのにもう精一杯で、量的な拡充ばかりに手一杯でありまして、質的な拡充は本当にやらずに、もうほとんど、こう言っちゃ悪いですが、手付かずのまま今日まで来ております。私はこれ大問題だと思っておりますが。
高等教育に関しても、
私学に量的な拡充をお任せをするという形がこの時期から実は、専修
学校もほとんど
私学でありますから、そういう形に定着をしてしまって、
高等教育の水準をどこが守るかというその非常に大事な
判断を欠いてしまっているんではないかということを私は言いたいのであります。
ちょっと長くなりますが、もう
一つ、同じころのアメリカの発展をちょっと御
参考までに申しますと、アメリカの
大学が大衆化いたしますのは一足先でありますが、ちょうど第二次大戦が終わります直前の一九四四年に、御存じの方がいらっしゃると思いますが、GI法というのが
成立をいたしまして、いわゆる復員軍人に対しまして生活費、学費付きで特に
高等教育機関に収容していったということで、
高等教育がずっと増えていきます。このGI法は、一九五〇年の例の朝鮮戦争、
昭和二十五年ですね、このときにも有効に働きまして、またその後、一九五〇年代には、例のケネディの公民権法、ケネディに至ります公民権法ということで、それまで
高等教育に入るチャンスを与えられていなかった黒人その他の
人たちにもずっと広がっていく、こういう時代であります。
そこで、この時期にトルーマン、一九四七年ですが、トルーマン大統領の
委員会が
高等教育に関する長期計画目標を立てまして、
大学適齢人口のうち最小限、四九%は
大学前期、つまり今のコミュニティーカレッジぐらいの、
大学前期ですね、教養の、まあ教養はなくなりましたが、
教育を受ける知能ありと、こういうことを発表しまして、その後、一九六〇年代にかけて約七百校のいわゆるコミュニティースクールというのができていったという、そういう時代であります。つまり
公立、税金で賄われている
公立でそういう
社会的な
高等教育の拡充政策を受け入れたという、そういう政策を一方で取ったわけであります。
このことには、例のカリフォルニアのマスタープラン、カリフォルニア州で州立
大学のマスタープランが出まして、上位、トップはバークレーとかUCLAとかというユニバーシティーのところは一二・五%、トップ。それから、次位の三分の一ぐらいは州立四年制カレッジ、今カリフォルニア州には二十四ほどあるはずです。残り三分の二のところまで、同年齢層の三分の二のところまではコミュニティーカレッジというふうに、どこの州もこれをかなり
参考にしたものですから、
公立で受け入れていったということであります。
ちょうど同じ時期に、ハーバードとかイエールとか、いわゆるアイビーリーグはこの拡充をしませんで、入試水準を引き上げて授業料も引き上げるという、こういうことをやって、結局、こういうところがアメリカでは今日学問水準の維持を図っているという
大学であるということがもうその後明確になっているんですね。
こういう政策、
つまり国公
私立によります役割分担、こういったものがずっとありました。アメリカではそういう形ですが、
日本の場合には、このちょうど一九五〇年、いや、一九七五年、
昭和五十年前後の
大学の拡張期に
私学にお任せをし、
私学振興法というのができたところで安心をしちゃって、計画、つまり
高等教育計画というものが忘れ去られて、その反面で
大学のエクサレンスという
部分をどこで守るのかという政策が消えたんではないかという気がするんですが、この辺について
大臣の
コメントをいただければと思います。