○
山本正和君 その当時は子供を、習い屋と言ったらおかしいですけれ
ども、なんかへやらないし、いわゆる今の塾ですね、ほとんどやっていませんし、親はどっちかといったら子供をほったらかして、働くのに精一杯だったですね。それから、子供たちも、そうはいっても、子供たち同士でぶつかり合って、例えば、私はよく、この話が忘れられないんで、大変、時々使わせてもらうんだけれ
ども、加藤さんが、自民党の幹事長だった、彼が山形で小
学校のときに、一年生から六年生まで一緒に山に登ったと。そうしたら、なかなかいろんなのが取れないと。何ですか、マツタケか何か取りに行ったんでしょうけれ
どもね。そしたら、お兄ちゃんがちゃんとくれたと、みんな一年生の子供にね。そういう時代があったという話を彼がされるんですね。
私は、だからこの国が、今の私が言いました、別にこれはもうちょっと下かもしれませんよ、ある年齢以上の
人たちには、そういう自然に年上の者は年下の者をかばうとか、お父さん、お母さんが忙しくてきりきり舞いしておったら自分たちでやっていくとか、そんな、親に甘えて塾へ行ったり予備校へやってくれなんというようなことを言わなかった時代があった。今はそれを親に甘えるのが当たり前になってしまっていますし、またお父さん、お母さんも、三十になってもフリーターだって喜んで、自分のうちにおってくれたらいいものですから、そんな人もおる、全部とは言いませんよ。
こういう世相の中で大変な時代が今来ているんだろうと私は思うんですね。しかし、それだけに、本当からいいますと、政治の場で
教育の問題を論議することの重要性はかつてないだろうと私は思う。人によっては、このままではこの国は滅びるんじゃないかというようなことも言っている人もおるわけですね。だから、政治の場で
教育の問題を本当に心の底から
議論しなきゃいけないと私は思うんですね。
ところが、どうも
心配で仕方ないのは、何ですか、経済財政諮問
会議ですか、なんかが
教育はこうすべきだと言って、ぱっといろいろなことを注文を付けてみたり、
教育に対するお金はこうしなさいと言ってみたり、今度、
学校を、
義務教育にまで金もうけの手段として株式会社をほうり込んでもいいといったように
議論が出たり、分かりませんけれ
ども、必ずしも私は中身知りませんからね、詳しくは。しかし、要するに、
教育という問題をそういうお金もうけとか、いわゆる経済の効率とかいうところから
議論が加えられてきている。私は、それは後だと思うんですよ。
教育の
議論が先にあって、さらにそれを経済的にどうするかという
議論はあってもいいんですよ。上から掛かってきてやられると、この前から私が言っている
中教審に対するあの理念まで、名前が変わってしまったというふうなことも含めて、何か外からやってこられて
教育の問題が
議論されていると。これは私はおかしいような気がしてならないんですよ。
だから、やっぱりここで、文部
大臣、この前から本
会議でもしっかりした決意を表明していただきましたけれ
ども、私はやっぱり、この国が今置かれている
状況からいったら、この文教
委員会の役割は極めて重要だと思いますし、ですからその、どう言ったらいいんでしょうかね、
大臣がひとつ、この前からいろいろ言っていただいておりますけれ
ども、そういう意味で、大変苦しい時代ですけれ
ども頑張っていただきたいと、ちょっとこれは
お願いしておきますけれ
ども。
そこで、
質問に入るんですが、
教育は人なりとよく言われるんです。私
どもも、
考えてみたら自分が教えてもらった
先生、何人か印象が残っております、
教育は人なりという。ところが、その教えている
先生たちは今どういう
状況にあるんだろうと。
今日、
有馬先生が
東大の教授の、いや
学校の
先生のお話ちょっとされておられたけれ
ども、私も実は、これはちょっと息子から聞いたんですけれ
ども、今は
大学の教授になりましたけれ
ども、前は、助教授時代ですね、
入学試験の採点をずっとやらされると言うんですよ、明けても暮れても採点ばかり。そうしたら、どうも単にそこばっかりじゃなしに、ほとんど
私学のかなりのところが
大学の助教授といえば
入学試験の採点、きりきり舞いさせられるらしいですね。
国立大学もひょっとしたらそうじゃないかと思うんですけれ
ども。また、事務的な処理、
大学における、これを教授とか助教授とかいう名前の人がさんざんやっていると、こういうの。
ちょっとその片りんを今日、
有馬先生言っていただいておられたけれ
ども、私は実は、そうしたら今度は
高等学校、中
学校、小
学校にそれを下ろしていったらどうなるだろうかと。
先生が子供と一緒におる時間よりも、PTAの事務やらされたり、計算やるんですよ、会費集めて云々とか。あるいは、物を売ったと、配ったと、お金取ると、その整理やらされたりして、ばたばたばたばた
先生が事務をやっている。そして、おまけに今度は職員
会議は物すごく大変、数が多いんですよね。そして、出張といったら、何かといったら、難しい何か、やれ中央から来たかくかくしかじかのことを伝達するだけ、伝達来る。子供を教えることについての悩みならいいんですけれ
どもね。だから、
先生が本当に、
先生というのは子供に教える、
学生と触れる、
研究をする、それが本来の本務なんですよね。本務から切り離されている
状況が非常に多いということを私はこの前から
心配でならないんですけれ
どもね。
ところが、なぜ塾へ行ったら子供の成績上がるかと私も
考えてみたんです、孫が塾行っておったですからね。私はこらって怒ったけれ
ども、もう仕方ないんですけれ
ども。それは、塾へ行ったり、それから例えば慶応幼稚舎ですか、名門の小中
学校行ったら子供が良くなるという。なぜ良くなるのかと、ちょっと調べてみた。そういう塾の
先生といわず予備校の
先生といわず、名門
私学の
先生は雑務がないんですよ。子供を教えることに専念できる。子供を教えることだけに一生懸命専念しておる。一人一人の顔も覚えること一生懸命やるわけ。
公立学校の
先生はあっちひょろひょろこっちひょろひょろあいさつに行くんです。PTAが替わったらPTAにあいさつせにゃいかぬ。雑務がどんと来る。おまけに、採点しようと思ったらうちへ持って帰らなきゃいかぬ。
先生はつらく暗い顔をしておるんですよ、正直言ってね。これはどうしてもおかしいような気がするんです。
だから、
学校の
先生というのは本当の仕事は何なんだということをきちっとして、
先生たち自信を持って、子供の方だけ向いておきなさいと、
研究と
学生の方だけ向いておきなさいと、こういうふうな条件を整備することをしなければ駄目になるだろうと。競争したら、それは塾がいいのに決まっていますよ。何にも雑務せずにひたすら教えるだけ教えるわけですからね。あるいは、受験勉強に勝つ手段だけ一生懸命教えるわけだからね。だれでもできます、それは。今の
公立学校も全部そうしたら一遍に良くなりますよ、別に塾なんか要らぬくらい。
それが実は
教育の目的じゃないはずなんですね。
大学入試が目的じゃないんですよ。手段にすぎないんですね。そこのところが、一番根っこのところが忘れられて、何か知らぬけれ
ども学校が、そういう
大学に、
入学試験に通るためにはどうやったら効率的かと。どうやったらお金安く、いかに効率よく、三年じゃなしに二年で、浪人でも、できたら一年で行けないかと。こういうことになったら、それは公
教育が破壊されるのは当たり前だと私は思うんですね。だから、
教育とは何かという原点をもう一遍しっかりと
考え直さなきゃいけないと。
そういう意味で、これは
大臣、
お願いと
質問兼ねるんですけれ
ども、
教職員の本務とは何かということについての諮問を、
中教審なり、あるいは何らかの
機関なり、あるいは役所の中に設置して、
教育の仕事をする者、子供に接する者、
学生に接する者の本来の任務は何かということについて、これはひとつ
調査研究を
是非お願いしたいと思うんですが、いかがでしょうか。