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参考人(
菊谷秀吉君) ただいま御紹介いただきました
伊達市長の
菊谷でございます。
今、
三田さんの
お話を聞いていまして、深い共感と共鳴を覚えました。全くそのとおりだなと
思いながら聞いておりました。
私どもの伊達について若干
お話をさせていただきたいと
思いますが、まず二〇〇〇年の有珠山噴火に際しましては、伊達市に災害対策本部が置かれたということもございまして大変国の
関係機関にお世話になりました。その
関係もありまして、昨年十一月に国の防災センター、防災モデル事業で
お金をいただきまして防災センターを完成をして、次の噴火に備える体制がようやくできたというところでございます。
それでは、本題に入らさせていただきます。
まず初めに、伊達市についての若干の概要を説明させていただきます。伊達市は、明治三年に、仙台藩一門、南になりますけれども、亘理という町から領主の伊達邦成とその家臣
たちによって開拓がされた町でございます。それ以前にも、約七千年前から縄文の遺跡群がたくさんございますし、またさらに平安中期にできたお寺がございまして、これは江戸時代に、当時の幕府が先住民のアイヌの
方々を教化するための蝦夷三官寺として開かれたお寺でもございます。それだけに、北海道内におきましては比較的早くから歴史が開けた町でございまして、最近は道内外からたくさんの定年退職者が移り住む町でございます。これは本州からも相当来てございます。それだけに、人口三万六千の町としては高齢化率が非常に高くて、大体一月で〇・一ぐらいの高齢化が進むという町でございます。ちなみに、
平成十五年の十二月は二四・七五ですが、一か月後には二四・八五になってございます。
次に、
障害者との取組でございます。
伊達市は
知的障害者と早いときから向き合ってきたということもございまして、その点について若干触れたいと
思います。
昭和四十三年に、北海道が、
知的障害児、
障害者の一貫した処遇を目指したモデル
施設として、
全国に先駆けて総合援護
施設として北海道立太陽の園を伊達市に建設をいたしました。当時、十二の市町村が誘致に名乗りを上げたというふうに聞いております。いろんな条件が出されて最終的には伊達市というふうに決まったというふうに聞いております。昭和四十三年八月八日に、定員四百名、通所が二十名で、合計四百二十名でスタートをいたしました。当時は
施設が余りございませんでしたので、太陽の園に入るということは大学に入るよりも難しいと言われたぐらい待望久しかった
施設だというふうに聞いております。
当時私は高校生でございまして、ほかの町に下宿して、休みに帰省すると、当時の伊達市は、伊達町でしたけれども、「みどりと太陽のまち」というキャッチフレーズを使っていまして、よく町の人がこんなことを言っていました。緑と太陽とばかの町と言われた。それほど、差別が若干あったんじゃないかなと
思いますけれども、それが最近、最近というか随分変わりまして、
施設を出て町で暮らすという本、先ほど
三田先生から
お話あったように、近い本ですけれども、その中では、
障害を持つ親の方が、伊達の駅に降りるとほっとするというまで言われる町になりました。それについて少し
お話をしたいと
思います。
このきっかけは、
入所した
本人たちが一日も早く
施設を出て町で暮らしたいという強い願いでございました。それで、この太陽の園が
入所者の
社会自立を進めるということもございまして、進めようといたしましたけれども、親の方から、せっかく苦労して
施設に入ったのに、もし
社会に出て失敗したらどうするのかということで大きな反対が起きました。そのときに、その太陽の園の
施設の
方々が、
本人の願いと家族の不安という相反する
テーマに対しまして親
たちを説得をするわけでございます。その説得をいたしまして、ようやく町で暮らすための準備が始まります。昭和四十八年に伊達市立の通勤センター旭寮ができまして、ここでまず町で暮らすための準備をして、それから順序よく町に暮らすという段取りになったわけであります。実際に通勤寮を出まして
援助付きの住宅ができましたのが昭和五十三年でございます。当時、
グループホームなどという
制度がありませんでしたので、試行錯誤でいろいろやりながら進めてまいりまして、ようやくその後、
制度が後からできるという
状況でございました。
そういった変遷を経まして、
平成十年に
地域援助センターらいむというのができるわけであります。
皆様のお手元の資料の「まちに暮らす」というピンク色の冊子がございます。これが仕組みを書いてございます。それができまして、ようやく体制ができたということでございます。今の現在の
状況でございます。
皆様の資料の十ページを、このピンクのやつの十ページをお開きいただきたいと
思います。その十ページの次のページに、ページ振っていないものですから、
地域生活支援システムというのがございます。横になっていますけれども。これに基づいてちょっと説明をしたいと
思います。
町で暮らすためには五つの最低の条件があると言われております。
一つは、暮らすという住宅ですね。この問題につきましては、お手元の資料の「暮らす」というのがございます。これはいろんなタイプの住宅環境がなければ現実には暮らすことができません。そういうことで、
グループホームだとか
生活寮、ケア付きホームなどがございます。
その下の一番下に太陽の園
地域生活実習ホームというのがございます。これは太陽の園に
入所している、先ほど四百名と言いましたけれども、その
うちの町で暮らせそうな人は実習ホームにまず出て、それから次のステップに上がっていくという仕組みになっております。
そして、二つ目は、就労の場でございます。福祉的就労だけではなくて、企業就労もなければ、伊達市で約三百名弱の方がおられますので、現実には無理でございます。これも受け入れるために昭和五十六年に西胆振心身
障害者職親会、西胆振というのは
地域名でございます。伊達市を中心に六市町村で西胆振という
地域の全体の呼称がございまして、これに約四十社の参加をいただきまして、この職親会というのができました。これは
障害者の方が企業就労する会社の会でございます。こういうものが増えまして、現在七十三社が参加しておりまして、五十一社が実際に就労を受け入れています。この会に入っていない四社もございますので、企業就労は五十五社になっております。ここは毎年新規の就職者とか、あるいは勤続者を表彰しながら、パーティーをやりまして、御両親だとかあるいは
本人とか、あるいは職親会のメンバーとかということでいろいろ取組をやってございます。
もう
一つここで大事なことは、皆様のさっきのピンクの資料の一番最初のページをちょっとお開きいただきたいと思うんです。これは先ほど「暮らす」ということで説明をしましたけれども、この図面というのはほぼ伊達市の中心の中心でございます。中心の中心にこういった
生活する場がございます。そして企業就労する場がこの周辺、これもちろん中心もありますけれども、周辺にございます。
私なんかも毎日仕事に出掛けるときに、必ず
知的障害者の方と会います。当然皆さん歩いていたり自転車で通勤いたしますから、日常的にこういう姿を目にいたします。これが実は
自立に大きく影響しているんではないか。
つまり、暮らすということと、就労というこの企業就労が非常に大きなウエートではないかなと思っております。
三つ目には所得の保障でございます。
これは
障害者年金の問題ももちろん重要な課題でございます。そこで私が一番今心配していますのは、かつては
知的障害者、余り長生きしないと言われておりましたけれども、最近は随分長生きするようになりました。そうすると、先ほど
三田先生の話もございましたけれども、高齢化という問題が次の大変重要な問題になってくるんではないのかなと、こう感じております。
それから四つ目は、余暇活動の充実でございます。
私も
知的障害者というイメージだけで物を考えがちですが、実は私、元々民間出身で行政経験がございません。市会議員三期やりましたけれども、正直申し上げて福祉と余り
関係のない立場でございました。実際にこういう立場になって五年になりますけれども、いろいろお会いしたり話をしますけれども、
知的障害者といっても相当、
軽度の方は知識とか水準が高いと
思います。それだけにこの豊かな暮らしというのが非常に重要な
ポイントになるんではないのかなと、こう
思います。
伊達市は、何か特に特筆すべきなのは武者太鼓というのがございまして、これは市のいろんな行事があるときにいろんな団体が、
障害者が太鼓打つんですけれども、呼んでくれていただけます。いろんな発表の場がございます。これもう非常に大きな励みになって中身が非常に良くなっているんじゃないのかなと、こう感じています。
最後の五つ目でございます。
これはもう一度戻りまして、十ページの次のページですね、
支援団体というのがございます。これは適切な
援助の保障がなければ実際に町で暮らすということは困難だと
思います。この
支援団体はほとんどがかかわる方、親の方とかいろんな方が、かかわる方ばかりでございます。これにもう
一つ大事なことは市民の協力と理解だと
思います。先ほど暮らすと働くで申し上げましたけれども、こういったものが大きな要素になっているんではないのかなと
思います。
さて、この五つを
地域としてどうこたえていくかということが大変重要な課題でございます。
先ほど申し上げましたように、最初
施設ができたときには随分偏見もございました。しかし、一番大事なことは市民自らが慣れるということが非常に大事だと思うんです。ですから、先ほども
お話ありましたように、
施設に閉じ込めるということは理解を減退させると、差別を助長すると、私もそう感じております。それだけに町で暮らすということを仕組みとしてやっていかなきゃいけないだろうと。その仕組みを作るためには、申し上げた五つの
ポイントがあるのではないかなと感じております。
最後に、今後の課題について申し上げたいと
思います。
多分、
武田さん、後ほどの
武田さんから
お話もあるかもしれませんが、問題なのは、国の認可の
グループホームに直接入居する場合は問題がございません。これもちょっといろいろ
動きがございました。問題なのは、無認可の
グループホームに入る場合にだれが負担するかという問題が出てまいります。今、市町村、非常に厳しい財政の中にございまして、その負担をめぐってトラブルが随分ございます。要するに実施機関がだれかということでございます。
それで、無認可の場合ですと、居住するということになりますと、
グループホーム、無認可のホームがある市町村が負担をするということになります。これで押し付け合いというのが随分ございます。これは何も
知的障害者の
施設だけではなくて、医療でもそういう
実態もございますし、介護なんかでもそういう
実態もございます。ここを何とかしなきゃいけないだろうと。私としては市町村の在り方も含めて本当に今の仕組みでいいのかという非常に大きな疑問がございます。この点について検討していただければなと思っております。
それから次に、三位一体の改革で少し申し上げさせていただきたいと
思います。
青いページのちょっと資料をごらんになっていただきたいと
思います。資料の五ページに実は介護保険の
状況ですね、北海道は御案内のとおり医療費も介護保険も非常に利用が高い。
つまり、それだけ財政負担が大きいということになってまいります。私どもは今いろんな福祉に対する
支援をしていこうと思っておりますけれども、実はこの介護保険
制度も大きな問題でございます。
この表の、ごらんになっていただければお分かりだと
思いますけれども、要
支援・要介護の認定率という表が大体中段の下にございます。
平成十二年が一三・八、
平成十四年が実に一八・一でございます。たしか十二年の、十三年ですか、レベルで
全国で一一・
幾つという数字だったと記憶しておるんですが、これほどすごい数字になるというのは予想を超えております。なぜこうなったのか。これは、私
思いますのには
支援、
自立をできる人も
自立させないんです、この仕組みというのは。これが非常に実は問題でございます。こういうことがあって非常に財政的な負担がございます。
それから一番
最後のページ、ちょっとお開きいただき、今の青い表ですね、失礼しました、十二ページごらんになっていただきたいと思うんです。これは
知的障害者の福祉費の決算額の推移でございます。昭和六十年から
平成十五年度までの伸びを示してございます。
私どもの北海道伊達市は、私は昭和五十八年に市議会議員になりましたけれども、当時の税収が二十八億五千万、今現在幾らかといいますと三十億八千万程度でございます。ピークで三十三億ぐらいでございますから、いかに負担が大きいかということでございます。それにもかかわらず一生懸命我々は取り組んでまいりました。
十三ページをお開きいただきたいと
思います。ここで私は国の三位一体の改革に非常に期待をしました。本当に実のある、そして自由に使える、市町村が自主
自立できる改革が進むだろうと思っておりました。しかし、ごらんになっていただければお分かりのとおり、三位一体の改革の影響ですね、一億二千三百万減で、2ですね、2の国の三位一体の改革で、そして措置されたのは五千八百万ですから、実に半分以下、措置率は六八ですけれども、実質半分以下と。
この中で問題なのは、保育所の運営負担金が減らされていると。伊達市の保育所というのは五園ございます。その
うち四園が公立です。これは歴史がございます。私は市長になって、
職員を約一割以上減らしました。にもかかわらず、今の地方自治
制度の中でどうやって保育所を民営化できるんでしょうか。しかも、民間保育所と常設の市の公立保育所の違いというのは、一園当たり約五千万財政負担が多いわけです。それはなぜかといいますと、さきの
三田さんの
お話にあった
施設の人件費と同じ理屈なんです。でも、我々はそれに対して何もする手だてもございません。だから、減らすことができるんであれば私はやりたいと
思います。にもかかわらず、なぜこういう改革が進むのか。もっと違う方法があったんではないかなと
思います。これが非常に私としては不満でございます。
3の歳出削減の取組で、これほどの減らしを一年間ですらやっていると。やってもやっても実は追い付きません。ですから、介護保険を含めて福祉に対する中身をも
うちょっと考えていただかないと、もう我々がなすすべもない。実際に必要とするものに
支援すらできない
状況だということを是非お分かりいただきたいと
思います。
そこまで私言うつもりではなかったんですけれども、あえて申し上げましたのは、もう高齢化に耐えられないと。にもかかわらず、我々は何かをしなきゃいけない。ましてや市町村長というのは、私も市長になって、五人集まればタウンミーティングでもう五年間やってまいりました。行くといろんな方がおりまして、
最後は泣かれることもございます。それにも耐えて、切るものは切る、付けるものは付けると。でも、もう付けるものはできません。ですから、私が言いたいのは、切れるものは切りたいんです。しかし、切れないものは切れないんです。ですから、中身を十分精査されまして、努力した跡を認めてほしい。
ちなみに、
平成十六年度
予算で、公債費、市債ですね、発行は約十四億ちょっとです。しかし、いわゆる公共事業に使う市債というのはわずか四億を切っています。ピークのときには約二十三億、前の市長さんのときは二十三億ぐらいの市債を発行しております。これはほとんど公共事業です。実際に今十四億の
うち十億は借換債でありますとか、いわゆる赤字公債なんです。これだけ減らしても、財政は健全化の道すら見えない。一体どうしてなのか。私は非常にそれに対して不満でございます。ですから、もう少し国も地方の痛みを、中身を十分理解して今後の
社会保障政策を進めてほしい。
最後に申し上げたいのは、
自立できる人はちゃんと
自立させる仕組み、何でも
支援すりゃいいというものではないと思うんです。その中身を十分精査されますことを私なりに
意見として申し上げまして、終わらせていただきます。ありがとうございました。