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2004-04-01 第159回国会 衆議院 憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会 第3号
公式Web版
会議録情報
0
平成十六年四月一日(木曜日) 午前九時
開議
出席小委員
小
委員長
山花
郁夫君 小野
晋也君
倉田
雅年
君
棚橋
泰文
君 平井 卓也君 船田 元君 古屋
圭司
君
松野
博一
君
園田
康博
君 辻 惠君 村越
祐民
君 笠
浩史
君 太田 昭宏君 山口 富男君
土井たか子
君 …………………………………
憲法調査会会長
中山 太郎君
憲法調査会会長代理
仙谷
由人君
参考人
(
大阪大学大学院高等司法研究科教授
)
松本
和彦
君
衆議院憲法調査会事務局長
内田 正文君
—————————————
四月一日 小
委員棚橋泰文
君三月十八日
委員辞任
につき、その
補欠
として
棚橋泰文
君が
会長
の
指名
で小
委員
に選任された。 同日 小
委員松野博一
君、
園田康博
君及び
笠浩史
君三月二十三日
委員辞任
につき、その
補欠
として
松野博一
君、
園田康博
君及び
笠浩史
君が
会長
の
指名
で小
委員
に選任された。 同日 小
委員土井たか子
君三月二十五日
委員辞任
につき、その
補欠
として
土井たか子
君が
会長
の
指名
で小
委員
に選任された。
—————————————
本日の
会議
に付した案件
基本的人権
の
保障
に関する件(
公共
の
福祉
) ————◇—————
山花郁夫
1
○
山花
小
委員長
これより
会議
を開きます。
基本的人権
の
保障
に関する件、特に
公共
の
福祉
について
調査
を進めます。 本日は、
参考人
として
大阪大学大学院高等司法研究科教授松本和彦
君に御
出席
をいただいております。 この際、
参考人
に一言ごあいさつを申し上げます。 本日は、御多用中にもかかわらず御
出席
をいただきまして、まことにありがとうございます。
参考人
のお立場から忌憚のない御
意見
をお述べいただき、
調査
の
参考
にいたしたいと存じます。 本日の議事の順序について申し上げます。 まず、
松本参考人
から
公共
の
福祉
、特に、
表現
の自由や
学問
の自由との
調整
について御
意見
を四十分以内でお述べいただき、その後、小
委員
からの質疑にお答え願いたいと存じます。 なお、発言する際はその都度小
委員長
の許可を得ることとなっております。また、
参考人
は小
委員
に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。 御発言は着席のままでお願いいたします。 それでは、
松本参考人
、お願いいたします。
松本和彦
2
○
松本参考人
大阪大学
の
松本
でございます。よろしくお願いいたします。 私に依頼されましたテーマは、
公共
の
福祉
、特に、
表現
の自由や
学問
の自由との
調整
というものでございます。 初めに、問題の所在を指摘させていただきまして、
公共
の
福祉
という概念のもとで何が論じられているのか、あるいは何が論じられるべきかということについてお話しさせていただきたいと思います。
公共
の
福祉
という言葉は、
憲法
上四カ所で
規定
されておりまして、いずれも
人権条項
であります。ここに
公共
の
福祉
が
人権
との
関係
で論じられる源があると言ってよいかと思います。 この
人権
と
公共
の
福祉
の
関係
をめぐる
争い
というものは、
問い
の立て方をめぐる
争い
だったというふうに私は考えております。いかなる
問い
を立てるべきか、これが
最初
の問題であります。 通説的な
理解
によりますと、
人権
と
公共
の
福祉
というのは相対立する事項ととらえられまして、
人権
は
公共
の
福祉
によって
制限
できるのか、そして、この
問い
に答えた後に、では、
人権
を
制限
する
公共
の
福祉
とは何なのかというふうに問うていくということであります。
人権
は
公共
の
福祉
によって
制限
できるのかという
問い
を
問い
一、
人権
を
制限
する
公共
の
福祉
とは何かという
問い
を
問い
二といたしまして、
問い
一、
問い
二の
順番
でお話ししたいと思います。 まず、
問い
一をめぐる
議論
、
人権
は
公共
の
福祉
によって
制限
できるのかという
問い
をめぐる
議論
であります。 これについて、
最高裁判所
は、
昭和
三十二年の
チャタレー事件判決
という
事件
におきまして次のように
回答
しております。ちなみに、この
チャタレー事件判決
というのは、
刑法
百七十五条によりまして
わいせつ文書
の頒布というものが処罰されていることの
合憲性
を問うた
事件
であります。
最高裁
は、この
事件
におきましてこのように言っております。「
憲法
の
保障
する各種の
基本的人権
についてそれぞれに関する各条文に
制限
の
可能性
を明示していると否とにかかわりなく、
憲法
一二条、一三条の
規定
からしてその濫用が禁止せられ、
公共
の
福祉
の
制限
の下に立つものであり、絶対無
制限
のものでないことは、当
裁判所
がしばしば判示したところである。この原則を出版その他
表現
の自由に適用すれば、この種の自由は極めて重要なものではあるが、しかしやはり
公共
の
福祉
によつて
制限
されるものと認めなければならない。」
最高裁
は、つまり、
問い
一の問題を肯定したわけであります。学説もおおむねこの
問い
については肯定するわけであります。が、若干の異論もございます。それは、
表現
の自由と
公共
の
福祉
というのを相対立させて論じる、その論じ方についてであります。 例えば、
刑法
は二百二十二条によって
脅迫行為
というものを処罰しておりますし、あるいは二百四十六条で
詐欺行為
というのを処罰しておりますが、こういう
脅迫
や
詐欺
の処罰というのは、そもそも
公共
の
福祉
による
表現
の自由の
制限
というふうにとらえてよいのか。そもそも、
脅迫
の自由や
詐欺
の自由などというものが
憲法
によって
保障
されているというふうに言っていいのか。
人権
ならざる
行為
の
規制
を
公共
の
福祉
による
人権制限
というふうにとらえていいのか。こういう疑問があるからであります。
最高裁判所
は、
昭和
二十七年の
初期
の
判決
におきまして、犯罪の教唆の自由というような
事柄
を述べておりまして、そんな自由はそもそもないという
言い方
をしております。 つまり、
人権
、非
人権
というものをまずきちっと区別しないと、何でも
人権
としてしまった上でそれを
公共
の
福祉
によって
制限
するという論じ方になってしまうわけでありまして、それが問題であるというふうに言っているわけであります。このような
考え方
にはそれなりに
理由
があるわけでありますけれども、しかし、
人権
、非
人権
というものをまず区別するという
考え方
にも問題があります。 それは、
人権
を
定義
することによって、その
定義
によって
人権
を
制限
するという結果になってしまわないのかということであります。
人権
の
定義
の
段階
で
表現
の自由というものを
余り
狭くとらえ過ぎてしまいますと、これはもう
公共
の
福祉
による
制限
ということを言う前に、その
行為自体
が
憲法
上の
保護
を受けなくなってしまいますので、それでは都合の悪い場合が出てくるのではないかということであります。 例えば、
名誉毀損
の
理解
をめぐる
最高裁判所
の
見解
にこの点の問題があらわれておりまして、
初期
のころ、ここでは
昭和
三十三年の
判決
を挙げさせていただきますが、
昭和
三十三年の
判決
におきましては、
最高裁
は、
名誉毀損
というのは、「
言論
の自由の乱用であつて、
憲法
の
保障
する
言論
の自由の
範囲
内に属するものと認めることができない。」というふうに判示しておりました。つまり、
名誉毀損
というのは、これはもう
表現
の自由じゃないんだ、それは
表現
の自由の
範囲
内に属しないんだ、こういう
言い方
をしたわけであります。 しかし、その後、
最高裁判所
は
態度
を変更いたしまして、これは
北方ジャーナル事件
という有名な
判決
ですが、
昭和
六十一年の
判決
におきまして、
名誉毀損
という
行為
も
言論
の自由の
範囲
に一応属すると考えた上で、しかし、
名誉権
という、これも
憲法
の
保護
を受ける
権利
でありますが、
名誉権
と、そして
表現
の自由という
憲法
上の
二つ
の
権利
が衝突している
事例
であるというふうにとらえました。そして、その衝突については「
調整
を要することとなる」とした上で、「いかなる場合に
侵害行為
としてその
規制
が許されるかについて
憲法
上慎重な考慮が必要である。」というふうに判示したわけであります。 ここから考えまして、確かに、
脅迫行為
あるいは
恐喝行為
といったようなものを
憲法
上の
権利
の
行使
と見るのは難しいかもしれない。つまり、
憲法
上の
権利
の
行使
とは言えない
表現行為
というのはあり得るだろう。しかし、それは一見して明らかに
憲法
の
保護
を受けることのない
表現行為
だけに限定して考えるべきであって、疑わしきは
憲法
上の
権利
と推定した上で、そして
表現
の自由と
公共
の
福祉
との
関係
として論じていくべきではないかというふうに考える次第であります。 以上が、
問い
一をめぐる
議論
であります。 次に、
問い
二をめぐる
議論
であります。
問い
二というのは、
人権
が
公共
の
福祉
によって
制限
される、
制限
できるとした上で、では、
人権
を
制限
する
公共
の
福祉
とは何かという問題です。 これについての
最高裁
の
回答
は、
正面
からの
回答
はございません。
個別事例ごと
にアドホックに
回答
していくというのが
最高裁
の
態度
でありまして、先ほどの
わいせつ文書規制
が問題となった
チャタレー事件判決
においては、「
性的秩序
を守り、
最少限度
の
性道徳
を
維持
することが
公共
の
福祉
の内容をなすことについて疑問の余地がない」とした上で、その
規制
を
合憲
であるというふうに判示しております。 しかし、このような
公共
の
福祉
とは何かという
正面
からの
問い
という
問い
の立て方が適切かどうかについては疑問があるわけでありまして、近年ではこのような
問い方自体
がされなくなりつつあります。いわば
問い
の転換がなされているわけでありまして、
公共
の
福祉
とは何かという大上段の
問い
から、
人権
と
公共
の
福祉
の
相互調整
の
方法
というものがどのようなものかというふうな
問い
へと変わってきているというわけであります。 これは、
人権
も大事だけれども
公共
の
福祉
も大事だという
議論
と、それから、
公共
の
福祉
も大事だけれども
人権
も大事だというこの
二つ
の
議論
、これはどちらにも
理由
があるということで、そうすれば、結局
両者
の微妙な
調整
ということが問題とならざるを得ないのではないか。
公共
の
福祉
とは何かということだけを問うても、それでは済まない。
人権
と
公共
の
福祉
というのは
相互制約
の
関係
にあるのであって、
人権
を守るということは、それは
公共
の
福祉
もまた制約されるということを
意味
する。
公共
の
福祉
を守るということは
人権
が制約されるということを
意味
するんだけれども、逆にまた、
人権
を守るということは
公共
の
福祉
の方も制約される、そういう
相互制約
の
関係
にあると
理解
すべきなのではないか。だとすれば、
両者
の微妙な
調整
ということを真剣にとらえる必要があろうということであります。 そこで、どう考えていくかですが、
公共
の
福祉
と
人権
というのを、単に対立させるだけではなくて、
目的
、
手段図式
というものによって再把握する。すなわち、
公共
の
福祉
による
人権制限
を正当な
目的
を達成するための正当な
手段
による
規制
と考えまして、
目的
、
手段とも
に正当な
規制
であれば
公共
の
福祉
に適合した
人権制限
とみなす。
規制
の
目的
、
手段
を多方面から考察することで細やかな検討をしていき、
公共
の
福祉
を重視しつつも
人権
を尊重するということを可能にするわけであります。 そこで、
規制目的
の
正当性
、そして
規制手段
の
正当性
という二
段階
で
問い
を立てていくことになります。 まず、
規制目的
への
問い
ということでありますが、
人権制約
の
目的
が
正当化
できるかというふうに問題を立てます。ここで、
人権制約
の
目的
の
正当化
としてしばしば挙げられるのは、
一つ
は、
他者
の
人権
の
保護
ということであります。そしてもう
一つ
は、
公共
の
利益
の
保護
であります。
最初
の
他者
の
人権
の
保護
というのは、
公共
の
福祉
の
中身
として
他者
の
人権
というものを考える、そして
人権
を別の
人権
によって
制限
する。例えば、その例として、
名誉毀損
の
事例
におきます
名誉権
というものが挙げられます。名誉を
保護
するために
表現
の自由を
規制
するという場合がその例です。それから、
ビラ張り規制等
で挙げられております
他者
の
財産権
の
保護
ということもその例として挙げられます。 それから、
公共
の
利益
の
保護
については、これもいろいろあるんですが、
公共
の
利益
とここで申しますのは、
他者
の
人権
に還元できないような、個人の
権利
に戻せないような
公益
の
保護
ということであります。かつては、こうした
公益
によって
人権
を
制限
するということは、それ
自体
が許されないのではないかという
意見
が強かったんですが、最近は、
憲法学者
の間でもそのように考える人は少なくなってきておりまして、
最高裁判所
はもうずっと以前から、こういう
他者
の
人権
に還元できない
公益
の
保護
というものを正当な
人権制約
の
規制目的
であると考えております。 例えば、その例としては、
わいせつ文書規制
における
性的秩序
、
最少限度
の
性道徳
の
維持
でありますとか、あるいは
有害図書規制
における
青少年
の健全な育成の
保障
、それから、
屋外広告物規制
におきます都市の
美観風致
の
維持
、最近では
景観法
というものが制定されることが見込まれているそうですが、そこでも
美観風致
というものが
規制
の
理由
として挙げられているわけです。あるいは、公務員の
政治活動
を禁止する
理由
として挙げられます
行政
の
中立的運営
の
確保
とこれに対する国民の信頼の
維持
でありますとか、あるいは
選挙運動規制
で挙げられています
選挙
の公正、公平の
確保
というものがあります。 これらは、いずれも正当な
規制目的
であると言ってよいかと思いますが、
目的
が正当であるからということだけで直ちに
人権制限
が許されるというわけではありません。まず、その
規制目的
の
審査
をする場合には、とりわけ
公益保護
ということが問題となるときに言われることでありますが、その
公益
の
中身
というのをできるだけ
明確化
あるいは
特定化
する必要があるということです。これは、
目的
が抽象的なままでは、
意味
のある
目的審査
ができないということが
理由
であります。 例えば、
選挙運動
の
規制目的
として挙げられています
選挙
の公正、公平の
確保
ということがありますが、これだけだと
目的
としては非常に抽象的であります。
最高裁判所
は、この点について、
昭和
四十三年の
判決
それから
昭和
五十六年の
判決
におきまして、この
目的
を
明確化
、
特定化
いたしました。 具体的に、例えば買収、
利害誘導
の防止であるとか私生活の平穏の
維持
、
候補者
の煩瑣の回避、多額の出費の抑制、投票における
情実支配
の排除、こういうふうにできるだけ具体的な
目的
へと言いかえていくわけです。こうすることによって、
意味
のある
目的審査
が可能になるわけであります。もちろん、すべての
公益
についてこのような
具体化
が可能であるというわけではありませんが、これはできるだけその方向で
目的審査
というのを行うべきであるというふうに考えられます。 それから、
規制目的
として、何らかの
弊害
が発生するので、その
弊害
を防止することが
目的
であると言われることもしばしばあります。特に、
公益
に対する
弊害
ということが挙げられることが多いわけですが、この場合、
弊害発生
の
蓋然性
というのを考えておく必要があります。幾ら正当な
目的
であっても、
弊害
が観念的であると、やはり
意味
のある
目的審査
にはならないと思われます。 つまり、
規制目的
への
問い
の
段階
では正当な
規制目的
なのかどうかということをまず考え、そしてその
目的
の
中身
について
明確化
、
特定化
、そして
弊害発生
の
蓋然性
というものを具体的に考えるということが必要になるのではないかということであります。 この
規制目的
の
審査
というものをクリアした後、
規制目的
が正当であると考えた後に、次は
規制手段
について問うわけです。
人権制約
の
手段
が
正当化
できるかということを問うわけであります。 これについては、
表現
の自由についてでありますけれども、
憲法
二十一条二項におきまして
検閲
というのが特に禁止されているということがありますので、まず
規制
の
手段
としてそれが
検閲
に該当しているかどうかということを考える必要があります。これは
表現
の
自由特有
の問題でありますが。
手段
として
検閲
という
方法
をとっていた場合は、もうそれだけでその
手段
は
正当化
できないということです。 しかし、
表現
の自由以外の自由については、このように禁止された
手段
というものが
憲法
上明文化されているということはほとんどありませんで、
規制手段
の
正当性
というものを、
憲法
から直接その
基準
を導き出すということは難しいわけであります。 そこで、どうするかといいますと、
目的
との
関係
で
手段
の
正当性
を問うということです。 まず第一に、
手段
の
目的有用性
を問う、言いかえますと、
目的達成
にとって役に立つ
手段
かどうかということを問うということであります。これは、逆に言いますと、幾ら正当な
目的
を追求する場合であっても、その
目的達成
にとって役に立たない
手段
であればそれは
手段
として不当であるということになります。したがって、そのような
手段
は
正当化
できないということになります。 それから次に、
手段
の
必要最小限度性
を問うということであります。同じ
目的
を達成するために
手段
というものは通常複数考えられるわけでありますので、その中でも、より緩やかな
手段
がないかどうか、より緩やかな
代替手段
ということを考える。いわば、
手段
の間で比較を行って、
人権
に対する
規制度
が最も緩やかな
手段
でないと
手段
としては
正当化
できないというふうに考えるということであります。 そして
最後
に、得られる
利益
と失われる
利益
というものを衡量するということです。それは、損失以上の
利益
を見込める
手段
かどうかを問うということであります。幾ら正当な
目的
を達成するための有用かつ
必要最小限度
の
手段
であっても、失われる
利益
が得られる
利益
よりも大きいと
判断
される場合については、それは
手段
としてやはり
正当化
できない、こう考えるわけです。 このように、
公共
の
福祉
とは何かということを
正面
から問うのではなくて、
規制目的
の
正当性
、
規制手段
の
正当性
ということを個別に問うことによって
人権制限
の
合憲性
というものを
判断
すべきであるというのがここでの
見解
であります。 ただ、このように
問い
を転換することに対しましては批判もございまして、やはり
公共
の
福祉
の実体を
正面
から
問い
直すべきだ、
公共
の
福祉
とは何かということをもっと真っ
正面
から考えるべきだという
見解
もございます。 このような
見解
にも
意味
があると思うわけでありますが、ただ、こうした大きな
議論
というのは、
道具性
を欠いていることから非実践的な
議論
になりがちではないかというふうに私は考えております。それより、むしろ、先ほど申し上げましたような
規制目的
、
規制手段
というような小さな
問い
を積み上げていって
一つ
ずつ
順番
に答えていくという
やり方
をとる方が生産的な
議論
になるのではないかというふうに考えております。
公共
の
福祉
とは何かという大きな
問い
を立ててしまいますと、そこでの話というのは勢い抽象的な
議論
になりかねないわけでして、それは
実践的議論
にはほど遠いものになるというふうな気がするからであります。 さて、
最後
に、残された
問い
について考えてみたいと思います。それは、だれが
問い
に答えるのかということであります。すなわち、だれが正当な
目的
、正当な
手段
について考え、答えるのかということであります。 ここでは、四つ挙げてみました。 まず第一に、
憲法制定者
がこの
問い
に答えるということです。あるいは、もっと正確に言いますと、
憲法改正権者
がこの
問い
に答えるということです。つまり、現在、
憲法
に多くの
人権条項
がありますが、その
人権条項
に
憲法改正権者
が
制限事由
をつけ加える、つまり、
憲法
上明らかに
制限
されるべき
理由
というのを明文化しておくという
やり方
が
一つ
の
やり方
であります。 例えば、
ドイツ連邦共和国
の
憲法
、
基本法
には、
表現
の自由の
制限理由
として、名誉の
保護
や
青少年保護
といった
事柄
が
規定
されております。このように、
憲法
上、例えば正当な
規制目的
というものを明文化しておく。つまり、
憲法制定権者
あるいは
憲法改正権者
のところで
人権
と
公共
の
福祉
の
調整
を行うというのが
一つ
の
やり方
です。 ただ、この
ドイツ
の
やり方
というのは、正当な
規制目的
を明示しただけのことでありまして、
規制手段
についてでありますとか、そういった細かいところまで
規定
しているわけではありません。名誉の
保護
にいたしましても、
青少年保護
にいたしましても、それ
自体
正当な
規制目的
であるというのは
憲法
に
規定
されていなくとも明らかでありますので、このようなことだけであれば
憲法
に
明文規定
を置くことにそれほど大きな実益があるというわけではないと思います。 仮に、このような正当な
規制目的
を
憲法
上明示したといたしましても、
人権
と
公共
の
福祉
の
相互調整
の
必要性
それ
自体
はやはりなくならないわけでありまして、
憲法
上微妙な
調整
というものをあらかじめすべて明示しておくということ、これは無理であります。というのは、やはり
憲法
というのはどうしても抽象的な
規定
にならざるを得ないというところがありまして、
抽象的判断
の限界と申しますか、
具体的判断
がどうしても必要になるからであります。 そこで求められますのが、
議会
による
調整
あるいは
行政
による
調整
であります。
議会
は
法律
を制定して
人権
を
制限
いたします。そして、この
議会
の
一般的判断
を踏まえまして、
行政
が命令、処分を通じて
人権
を
制限
いたします。いわば、
議会
の
一般的判断
を踏まえて
行政
が個別的な
判断
をするということであります。 そして、この
議会
やそれから
行政
の
判断
というものを、
裁判所
が、
具体的事例
においてでありますけれども再
審査
するというのが通常の
行き方
であろうと思われます。
憲法学
は、従来、
裁判所
の
判断
の仕方について主として論じてまいりました。例えば、二重の
基準論
という
考え方
が
憲法学
の通説としてございますが、これは、
合憲性
の
審査
においては、
精神的自由権
について厳格な
審査基準
を用い、
経済的自由権
について緩やかな
審査基準
を用いて
裁判所
が
判断
せよという
考え方
であります。つまり、
人権
と
公共
の
福祉
の
相互調整
の主体として、主として
裁判所
を念頭に置いて、その
裁判所
による
相互調整
の仕方ということを従来の
憲法学
は主に論じていたということであります。 これはこれで非常に重要な
議論
であるわけでありますけれども、しかし、私はここで、その
裁判所
の
議論
の前に、とりわけ
議会
の役割ということを強調しておきたいと思います。
憲法
上の
権利
の
制限
、
公共
の
福祉
による
制限
については、まず
議会
がそれを行うということであります。
議会
が
人権
と
公共
の
福祉
の
相互調整
というのをまず行うということでありまして、これは非常に重要なことだろうというふうに考えております。 そして、
議会
の
判断
を
法律
の形式で
表現
するということであります。
法律
に
議会
の
判断
をできるだけきちっと書き込むということが、
人権
と
公共
の
福祉
の
相互調整
を行うという点においては重要なのではないかというふうに考えているわけであります。
言い方
をかえますと、
行政
に
判断
を丸投げするような立法はしないということであります。あるいは、
法律
の
規律密度
を高めて
行政裁量
の領域を小さくするということであります。 従来、
法律
は、一般的、抽象的であるということを心がける
余り
に、みずから
人権制限
について微妙な
相互調整
ということをやらずに
行政
に
判断
を丸投げしていたというようなところがなかっただろうかと考えるわけでありまして、むしろ、
行政
でやることはなくならないわけではありますけれども、しかし、できるだけ
議会
のところできちっと
判断
をして、そして
相互調整
を行う。そして、
議会
が行った
相互調整
を踏まえて
行政
が
判断
するというその
行き方
、仕方というものにもう少し敏感であるべきではないかというふうに考えているわけであります。 このように、
人権
と
公共
の
福祉
の
調整
の場面における
法律
の意義ということをここで特に強調させていただきまして、私の話を締めくくりたいというふうに考える次第であります。 どうも御清聴ありがとうございました。(拍手)
山花郁夫
3
○
山花
小
委員長
以上で
参考人
の御
意見
の開陳は終わりました。
—————————————
山花郁夫
4
○
山花
小
委員長
これより
参考人
に対する質疑を行います。 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。平井卓也君。
平井卓也
5
○平井小
委員
先生、どうもきょうはありがとうございました。私、自由民主党の平井であります。
人権
は
公共
の
福祉
によって
制限
できるかということに関しては、最近、我々の同僚議員の
関係
の問題でいろいろありましたりして世間でも注目されているんですが、
表現
であればすべて
表現
の自由という
憲法
上の
保障
が得られるということではないということはわかっているんですが、じゃ、どのような
表現
までが
表現
の自由で
保障
されるかということがまず一点。 それと、私、もともと放送局で仕事をしていたこともあるんですけれども、放送に対する
規制
に比べて、新聞、特に雑誌ですね、出版物に対する
規制
が緩やかではないかなと前々から思っているんです。そのことに問題があるかどうか。新聞と放送の間に、電波の希少性や社会的影響力に現在顕著な差異は認められないと私は思っているんです。そう考えたときに、放送の方の
規制
を緩和していくという
議論
もあるのかな、そのときにどのようなことが検討課題になるのかということが
二つ
目の質問です。 それと、今回
裁判所
による出版物への仮処分の手続がありましたが、どのような
基準
によってそういうことがなされるべきなのかなということが三つ目の質問。 それと、
最初
の命題一の方について、あともう
一つ
は、インターネットによる
表現
の拡大は、はっきり言ってプライバシーの侵害などの
人権
に関する問題を物すごく引き起こしていると思うんです。こうした現状はもともと想定できなかったことだと思うんですけれども、
憲法学
の
議論
にどんな影響があるのかということ。そして、インターネット上の
表現
というものを
審査
する場合に、従来の
表現
の自由に対する
規制
とどのように仕分けをしたらいいのかということをまずお聞きしたいと思います。
松本和彦
6
○
松本参考人
表現
の自由といいましても、確かに限界があるわけでありますが、しかし、どのような
表現行為
までが
表現
の自由としての
保護
を受けるのかという点については、これは抽象的にお答えするのは非常に難しいわけであります。 ただ、先ほど私が述べましたように、
憲法
上の
権利
の
行使
とは言えない
表現行為
はあり得るとは思うのですけれども、それはだれがどう考えても、これは
憲法
上の
保護
を考えるまでもなく許されないだろうと思われるような
行為
だけを
表現
の自由の
保障
領域から排除するべきでありまして、逆に言いますと、
議論
があるような
行為
については、これは
表現行為
ととらえた上で
公共
の
福祉
による
制限
を考えるべきであろうというふうに考えております。 それから、インターネット等の新しい技術が普及することによって、さまざまな新しい
表現
の自由の問題というのは確かに出てきておりますが、原理的な問題については、実はそれほど昔から変わっていないのではないかというふうに考えております。それは、技術が新しくなったというだけのことでありまして、それぞれの新しい技術の特性に合わせて従来の原理をどう応用していくかという話になっていくだけだろうというふうに思います。 それから、出版物に対する
規制
が、あるいは放送等に対する
規制
が緩やかではないかという点につきましては、これは
表現
の自由というものに対してどのくらいコミットするかという問題ともかかわると思いますが、
表現
の自由というのは、やはり傷つきやすい自由であるというふうに私は思います。どちらかというと、名誉
保護
とかあるいはプライバシー
保護
ということによって
表現
の自由というものを
規制
すべきであると言う方が何となく耳ざわりがいいわけでありますが、しかし、
表現
の自由というのは一たん傷つきますと取り返しがつかないことになりやすいわけでありまして、その
意味
で、
表現
の自由に対する感度と申しますか、その傷つきやすさに対する配慮というものは、幾ら強調しても強調し過ぎることはないのではないかというふうに考えております。 仮処分の
規制
についての手続については、これもいろいろ
議論
があるわけでありますが、
最高裁判所
は、
北方ジャーナル事件
判決
という
昭和
六十一年の
判決
において一応の
基準
を出しておりまして、やはり回復不可能な侵害があるような場合、しかも
弊害
が明白であるというような場合に限って、仮処分という緩やかな手続でもって事前に
規制
することが許されるというふうに言っております。 この
考え方
が正しいかどうかについては異論もあるわけですけれども、しかし、仮処分というのは手続としては非常に緩やかな手続でありますので、先ほど申し上げた
表現
の自由の傷つきやすさということを考える際には、
表現
の自由を尊重するという観点を忘れることなく手続に臨むべきであろうというふうに考えております。 以上です。
平井卓也
7
○平井小
委員
人権
を
制限
する
公共
の
福祉
とは何かという二番目の
問い
ですが、きょうは先生
余り
、書物、文献の中で随分書かれていますが、
法律
の留保について、少しお聞きしたいと思います。
人権制約
原理の中で、
法律
の留保とはどのような
意味
合いを持つのか。それは一体何か。そしてまた、それは日本ではどのようなものとしてとらえて、現在それをめぐってどのような
議論
がなされているか。 これは、我々
議会
に身を置く人間にとっては非常に大きな問題ですし、先生は
議会
制民主主義、やっぱり
議会
がもっと仕事をしろという御主張のように、
参考
文献を読ませていただいてそう考えたんですが、一方、
議会
制民主主義に対する不信感というものもあるし、多数決に関するやっぱりいろいろな異論もある。その辺のところを、先生に少しお話をお聞きしたいと思います。
松本和彦
8
○
松本参考人
法律
の留保原則というのは、これは日本の公法学においてはもう昔から
議論
になっている
事柄
でありますが、
憲法学
においては、かつて
法律
の留保原則というのが、
法律
さえ制定すればその
法律
によって
憲法
上の
権利
も
制限
して構わない、そういう趣旨で
理解
されたこともあって、非常に不人気な
考え方
なわけです。 しかし、
憲法
上の
権利
が仮に
制限
できるとすれば、それは
法律
の根拠がなければならないということは、これはだれもが認めていることでありまして、
言い方
をかえますと、
法律
の根拠もなしに、
行政
の
判断
だけで
憲法
上の
権利
が
制限
できるわけではないという点についてはコンセンサスがあるわけです。 そこで、日本の公法学においては、とりわけ
行政
法学においてこの
法律
の留保原則というのがずっと
議論
されてきたわけであります。ところが、肝心の
憲法学
の方では、先ほど言った不人気ということもありまして、
余り
論じられなくなってきている。しかし、そのせいでありましょうか、
法律
に
人権制限
の根拠というものを明確に書き込むということについて、少し配慮が足りなくなってきているのではないかということを私は考えるわけであります。
議会
というところは、多様な利害が代表されている場でありますし、また、公開の場であります。これは、
行政
の場合といろいろな点で違うわけでありまして、この
議会
の特性というのを十分に生かして、まず
議会
において、
人権
と
公共
の
福祉
の
相互調整
を行う、その上で、その
調整
を行った結果、つまり
議会
自身の
判断
を
法律
の上に
表現
する、これを私は
憲法
上の
法律
の留保原則というふうに考えておりまして、いわば
議会
の自己決
定義
務ということを著書の中でも強調しているわけであります。 以上です。
平井卓也
9
○平井小
委員
時間がなくなってしまって残念なんですが、これから後の質問者の中から出てくると思うんですけれども、先生が指定文献の中に書かれている本質性の原理についても、ぜひ今後の質疑の中でまた御
意見
を聞かせていただければと思います。 どうも、きょうはありがとうございました。
山花郁夫
10
○
山花
小
委員長
次に、
笠浩史
君。
笠浩史
11
○笠小
委員
松本
先生、きょうはどうもありがとうございます。民主党の
笠浩史
でございます。 今も質問ありましたけれども、昨日、やはりこの週刊文春の事前差しとめで、高裁の
判決
が一転して地裁の
判決
を否定したということで、非常に久しぶりに
表現
の自由にかかわる問題が大変クローズアップされていると思うんですが、先ほど先生のお話で、
表現
の自由というものは非常に傷つきやすい自由だと。私も、議員になる前、放送局におったもので、大変そのお言葉を聞いて心強くしているところなんです。 ただ、一方で、この手の裁判が、昔は多分、国家と例えば
表現
の自由の闘い、そういったことは非常にわかりやすかったし、むしろ、やはり国民的にも、国家権力がマスメディアに対して
表現
の自由を侵害してはいけないという論理があったわけです。しかし、今一番難しくなっているのは、週刊誌あるいはインターネット、そうしたところで、ともすると、個人のプライバシーの問題とこの
表現
の自由の対立というものが、いろんな角度で、いろんなところで今争われてきている中で、今回の裁判でも、例えば
公共
性、
公益
性、そして被害の重大さと回復の困難さ、この三点をめぐって
判断
がなされているわけです。これで本当に十分なのか、視点が。その点についてどのようにお考えか、お聞かせいただければと思います。
松本和彦
12
○
松本参考人
表現
の自由と国家権力の
関係
ということ、これは相変わらず重要な
議論
でありますが、今おっしゃられましたように、個人の
人権
をめぐる状況というのは、私人対私人の間でもやはり問題となるだろうと思います。その場合、国家がどういう位置にあるかということを考える必要があるかと思っています。私は、私人対私人の
関係
についても、国家を含めた三者
関係
で考えるべきだというふうに考えております。 その場合、国家は、一方において、
表現
の自由によって被害を受けた私人を
保護
すべき立場にあるだろうというふうに考えています。これは、最近
憲法学
においても有力になりつつある
議論
でありますが、基本権
保護
義務という
考え方
がございまして、国家が私人間における被害を防止する義務というのを負うという
考え方
であります。つまり、ある私人の
表現
によって別の私人が損害をこうむる場合、この別の私人の損害を国家が防止して、その個人の
人権
を
保護
しないといけないという
考え方
です。ここで、
憲法
上、基本権
保護
義務というのが国家に課せられる。 しかし、他方で、国家がその
保護
義務を履行しようとすれば、
表現
を行った私人の
表現
の自由に介入せざるを得ないわけでありまして、ここに個人対国家の
表現
の自由の問題というのは残らざるを得ない。それで、
表現
の自由をその
表現
した私人が持っている以上、ここには、その私人から国家に対して
表現
の自由の主張というのが常になされるわけでありまして、これを国家の側から見ると、私人の
表現
の自由を侵害してはならない義務、
人権
侵害防止義務というものが課せられることになる。 つまり、国家には、基本権
保護
義務と基本権侵害防止義務の
二つ
の義務が同時に課される、そしてこの
二つ
の義務の間で
調整
を行わないといけないということになる、こういうふうに考えていくべきだろうと考えております。
笠浩史
13
○笠小
委員
今回の週刊文春のこの問題において、先ほど北方ジャーナルの
事件
の点が先生の方からも御披露あったわけでございますけれども、北方ジャーナルに関しては、やはり
名誉毀損
、
名誉権
というものをめぐる
争い
であったように私は
理解
をしているんです。 ちょっとあえてこだわりたいんですが、やっぱりプライバシー権というものが
憲法
の十三条によるという解釈は確かにできると思いますけれども、今、さらに一歩進めて明文化しておかなければ、この
判断
というものが非常に難しくなっていくんではないかという危惧を私は持っているわけでございます。その点についてはいかがでしょうか。
松本和彦
14
○
松本参考人
プライバシー権を明文化するというのは、
憲法
上明文化するという
意味
と、それから
法律
でもってプライバシー権というのを
保護
するという
意味
と、恐らく
二つ
あるのではないかと思いますが、これは、明文化することによってその
中身
がより明確になるということであれば、明文化する
意味
があると思います。 しかし、ただ単にプライバシーという言葉を
法律
に書き込む、あるいは
憲法
に書き込むというだけであれば、その明文化による実益というものはそれほどないのではないかというふうに考えます。これは立法技術の問題もございますので、プライバシーの
保護
そのものは、これは重要でありますし、否定されるべきではありませんので、明文化することによってよりプライバシーと
表現
の自由との
調整
がうまくいくということであれば、これはそうされるべきであると思いますが、ただ単にプライバシーという言葉を盛り込むというだけであれば、実益はないであろうというふうに考えております。
笠浩史
15
○笠小
委員
先ほど先生の御説明で、
議会
の役割、
公共
の
福祉
の
制限
について、まず
議会
がその役割を一義的に担うべきだというようなお話があったわけです。 私、その
考え方
はいいとは思うんですけれども、ただ、私自身は、今の
憲法
のもとで
議会
にそれを担わせたとしても、やはり
公共
の
福祉
の
制限
にかかわる、例えば先ほど申し上げましたプライバシーの
権利
であるとか、あるいは知る
権利
であるとか、そこらあたりについて、
一つ
踏み込んだ具体的な条項というものを
憲法
の中に盛り込んだ上で
議会
にその役割を担わせなければ、なかなかこれは
判断
ができないのではないか。あるいは、恣意的に、この国会の場で本当にそういうことが、そのときどきの都合で
判断
をされることになる危険性がないのか。そうした疑問を非常に持っているわけでございますけれども、それについてちょっとお伺いできればと。
松本和彦
16
○
松本参考人
憲法
上、例えば
制限理由
を盛り込むというような場合については、そういう
方法
がないわけではない、あるいはそういう
方法
も有効な場合もあるかもしれないとは思うわけですが、ただ、
憲法
上の決定というのは、これは非常に長期的な考慮を要することでありますし、また国民的な賛同を要することだろうと思います。したがって、だれがどう考えてもそのような
制限
が必要であるというような場合に限ってなされるべきことではないかというふうに思います。 とりわけ
人権
につきましては、その
制限
というのは、これはやはり原則として許されないことでありますので、その許されないことを
憲法
において実現するという以上は、国民的な賛同が得られるような
事柄
でないとならないのではないかと思います。そうだとすると、それほど多くの
事柄
を
憲法
に期待することはできないのではないかというふうに考えております。
笠浩史
17
○笠小
委員
いや、私も、それはおっしゃるとおりなんですけれども、ただ、
制限
することを加えるということではなくて、今の
人権
というものが、グローバルスタンダードにおいて、果たして今のままで十分なのかなと、その
基本法
の
憲法
の中における位置づけというものが。その部分をむしろきちんと検討して、もちろん十分な時間もかけなければいけないけれども、
一つ
踏み込んだ形でやはり盛り込まなければ、何が、例えば
議会
で
議論
をするにしても、
制限
が逆にできるのか、してはいけないのか、その部分というものが、やはり明確な
基準
化という
意味
でも必要になってくるのではないかと思っているわけでございますけれども。
松本和彦
18
○
松本参考人
人権
というものを
憲法
上どのくらい列挙するかという点については、これは国によってさまざまでありますけれども、日本国
憲法
の
人権
のカタログというのは私は割と豊富な方であるというふうに考えておりまして、例えばアメリカ合衆国の
憲法
なんかに比べますと非常に
人権
の数も多いですし、
基準
として、特にグローバルスタンダードに照らしてみても劣るところはないというふうに考えております。 しかし、そのことを踏まえた上でさらに
人権条項
を充実させていくということ、それ
自体
は私も否定するつもりはございませんが、現在の日本国
憲法
の
人権条項
がグローバルスタンダードから見て特に劣っているというふうには考えておりません。
笠浩史
19
○笠小
委員
どうもありがとうございました。
山花郁夫
20
○
山花
小
委員長
次に、太田昭宏君。
太田昭宏
21
○太田小
委員
公明党の太田昭宏です。 時代の変遷とともに、今、笠さんがおっしゃったように、新しい
人権
ということも含めて提起をされていますが、
調整
対立項目であるというそれぞれの
人権
ということにつきましても、私はこうした、よりプライバシーが
保護
されるという時代であるべきである。人格ということについても幅広くやらなくてはいけない。同時に、
表現
の自由というのが非常に大事である。それらをもう少し、
昭和
二十一、二年当時よりも、現在の状況、あるいは未来のそうした情報通信社会、あるいは人々がより言葉をもって
表現
するという時代にあって、もう少し鮮明に、あるいはもう少しバランスよくたくさん書き上げるという、豊富であると今おっしゃったわけですが、私はそういうことが大事だというふうに思うんです。まず、このことについて
一つ
お伺いをしたいと思います。 そのときに問題となってくるのは、
議会
という、立法措置ということを言いましたが、私も、そういう場合非常に大事だと思うんですが、現在の、司法に任せるという場合に、どうしてもそれは事後処理的になる。そして、現在、環境権ということが司法の場で認められ、プライバシー権の中での肖像権、これが認められ、そして、
名誉毀損
、この
名誉権
というものが、司法の場ではそのくらいでしょう。 そうしたことで結論が出るといった場合、私は、立法措置での処理ということを考えても、立法措置がたくさん、環境なら環境でいろいろ立法措置が行われます。その根拠が、
憲法
の上で
表現
するということは、立法措置をする場合でも
一つ
必要になるのではないのかというふうに思うわけです。司法だと事後になるから、事前という
意味
での立法と
憲法
的な措置。そして、立法措置という場合の、
法律
をさまざまつくるということであるならば、その根拠となる
憲法
の条項というものを
表現
するという
意味
で、新しい
人権
とか現在の
憲法
論議というものは進めていった方がいいという整理を私はするわけなんです。
憲法
十三条の幸福追求権、そして
公共
の
福祉
との関連性、こういうものですべてのものが読み切れるという、これはこれでバランスでしょう。しかし、一歩進んでそういう時代になったんだ、私はそう思うわけですが、いかがでしょうか。
松本和彦
22
○
松本参考人
人権
と
人権
の
調整
というのは、これは非常に微妙な考慮を要するわけでありまして、これは、先ほど申し上げましたように、
憲法
上でそれを行うということには限界があるだろうと考えております。その
意味
で、立法の役割というのは非常に重要でありますし、それから
行政
の役割、そして
裁判所
の役割、とりわけ私人間における
人権
と
人権
の衝突の
調整
において
裁判所
の果たす役割というのは、これは永遠になくならないだろうというふうに考えております。 そのことを踏まえました上で、立法の前に何らかの
調整
、特に
憲法
上の
調整
というのが要るのかどうか、とりわけ今環境権のお話をされましたので、それについてお答えしたいと思うわけです。 私自身は、環境権というものを
憲法
に取り込むという点については、環境というものが、個人の
権利
というより、これは
公共
の
利益
である、そういう側面の方が強いのではないかというふうに考えますことから、環境権という形での
規定
については必ずしも積極的ではございません。 もし環境について
憲法
上何らかの
基準
が必要であるというのであれば、私は、国家の環境保全義務というものを
規定
するというような方向で考えるべきではないかと考えております。つまり、国が環境を
保護
する義務を負っているのだというふうに考え、そして、その国家の環境保全義務を基礎に、国はさまざまな環境
保護
立法を行っていくというような
やり方
といいますか方向性で考えるべきではないかというふうに考えております。 個人の
権利
としての環境権というものを
規定
するという方向よりは、国家の環境保全義務を
規定
するという方向の方がベターではないかというふうに考える次第です。
太田昭宏
23
○太田小
委員
プライバシー権ということを加えていくということも私は大事だというふうに思うわけですが、そのプライバシー権ということをつけ加えた場合に、当然そこには、
表現
の自由ももう少し強化する書き方というものがあってしかるべきである。 その辺の、例えばスペイン
憲法
などでは、名誉、プライバシー、肖像権、住居の不可侵、通信の秘密ということでずっと書いたり、あるいは
表現
の自由、知る
権利
、事前
検閲
の禁止というようなことをかなり書き込んでいるわけですね。あるいは、オランダ
憲法
においてもプライバシーの
権利
ということを書き込んだり、韓国の
憲法
でも、プライバシーということについて言うならば、すべての国民は私生活の秘密及び自由を侵害されない、これは簡単でありますが、そういうふうに書いてある。 バランスが当然必要であるというように思うんですが、私が先ほど申し上げたように、それぞれについてもう一歩書き込んでいくという作業が、その後の
法律
をつくる場合でもさまざまに必要である。 今の環境権ということについての先生の考えは、環境権というものを個人の
権利
ととらえるからです。私は、
人権
という項目の中には、法体系にはなかなかない、
権利
と義務しかないんですが、責任という項目の中で、国民の責任や国家の責任、責任という
一つ
の媒介指数というものをとるという時代になってきたんではないかというふうに思っているわけなんです。そのことはいいんですが、前半の私の話はいかがでしょうか。
松本和彦
24
○
松本参考人
プライバシー権を
憲法
上に
規定
すべきかどうかということでありますが、これも、先ほど述べましたように、プライバシー権
自体
が
憲法
上の
権利
としての
保護
を受けるべきだという点については、これは
憲法学
界もそうでありますし、私も肯定しております。したがって、現在、日本国
憲法
にはプライバシー権という
権利
は
明文規定
にはありませんが、それが
憲法
上の
保護
を受けるということについては異論がないわけであります。 ですから、その異論のない
権利
を新たに明文で
規定
するということについて、それ
自体
は特に反対すべき
理由
はないわけですが、ただ、逆に言いますと、もう既にプライバシー権が
憲法
上の
権利
であるということを、これは学界だけではなくて
裁判所
を含めて多くの人が認めている中で、新たに
規定
することの実益がどのぐらいあるかということについては、私自身は、
余り
ないのではないかというふうに考えているということであります。 それから、国民の責任について考えるべきだという御指摘につきましては……(太田小
委員
「国家と国民」と呼ぶ)国家の責任について、私自身は、
憲法
というものは、国家権力というものを創出し、かつそれを統制するというところに
意味
があるというふうに考えておりますので、例えば、国民の
権利
が
規定
されているのも、これは国家権力を統制するためにあるわけです。 あるいは、国会に立法権、
行政
に
行政
権、それから
裁判所
に司法権が
規定
されているのは、
憲法
が、国家権力というものを
規定
することによって、権力の
行使
を授権している、認めている。しかし、国家に権力
行使
を認めた以上、その権力が乱用されたり、あるいは暴走したりしないように、さまざまに統制する仕組みを同時に設けなければならないということで、国民の
権利
、
人権
というものが
規定
されているというふうに
理解
しておりますから、
憲法
上の
権利
というのはすべて、これは国家権力の統制という点から考えていくべきである。 その
意味
で、環境権というような
権利
が、
権利
として
憲法
にふさわしいかどうかというふうに考えたので、先ほどのような発言になったわけでございます。
太田昭宏
25
○太田小
委員
時間がもうオーバーしてしまいましたが、例えばプライバシー権を明示した場合、先ほど申し上げましたように、それに対する
権利
ということ
自体
も書き込むという作業が私は必要だというように思うわけですが、それはどうなんですか。
松本和彦
26
○
松本参考人
人権
と
人権
の衝突の
調整
というのは、私自身は非常に微妙な作業であると考えておりますので、これは最終的には具体的なレベルでしか行えないだろうと考えております。 ですから、
憲法
上で行えることには限界があるというのが私の
見解
であります。
憲法
上でやるよりはむしろ立法上で行う、そしてそれを最終的には
裁判所
で行うというふうに、ある程度具体的なレベルで行わないと、こういう微妙な
調整
というのはできないのではないかというふうに考えております。
太田昭宏
27
○太田小
委員
ありがとうございました。
山花郁夫
28
○
山花
小
委員長
次に、山口富男君。
山口富男
29
○山口(富)小
委員
日本共産党の山口富男です。 きょうは、大きく
二つ
のテーマでお聞きしたいんですけれども、
基本的人権
論と
公共
の
福祉
論に分けてお尋ねしたいんです。 初めに
基本的人権
論なんですけれども、きょう、日本国
憲法
の
人権
規定
が大変カタログが豊富だという話があったんですが、これにかかわって、一点は、やはりこれは明治
憲法
下の
基本的人権
を認めなかった時期の教訓や反省に根差しているのかどうかという点の
参考人
の評価。 それからもう一点は、先ほど、環境権やプライバシー権をめぐって、判例法理や
憲法学
界の中でも、これが
憲法
上根拠を持つという考えになってきているんだという話がありました。例えば、環境権ですと、六〇年代から七〇年代にかけて公害問題が起きて、いろいろな運動や、それから
憲法学
界の中から、十三条、二十五条に基づいてこれがあるんだという考えになり、それが国連の一連の環境
会議
なんかでも認められるという
意味
では、日本初の
一つ
の
権利
の豊富化だったというふうに思うんです。そういうふうに考えますと、日本国
憲法
で定められた
人権
という問題が、それぞれの社会の発展の中で、いろいろな運動などによって豊富になってきているという認識をお持ちなのか。 その二点、まず初めにお尋ねしたいと思います。
松本和彦
30
○
松本参考人
まず、日本国
憲法
の
人権
に対する明治
憲法
の影響でありますけれども、確かにそれはあると思います。 ただ、明治
憲法
下でのさまざまな経験ということだけではなくて、日本国
憲法
というのは、近代立憲主義という非常に大きな流れの中に位置づけられる
憲法
でありますので、世界各国のさまざまな
憲法
上の経験というものが大きく影響しているということでありまして、明治
憲法
下での経験を否定するわけではもちろんありませんけれども、それだけではないということであります。 それから、環境権を初めとしてさまざまな
人権
が主張されるようになって、それが
人権
カタログというものをどんどん豊富にしていくのではないかということでありますが、それはおっしゃるとおりだろうと思います。 ただ、私は、
人権
の観念が豊富になっていくことと、それから日本国
憲法
の
権利
というものが変化していくということについては一応分けて考える必要があると考えておりまして、先ほども申し上げたように、
憲法
というのは、国家に対して権力を与えると同時に、それを統制するという役割を担っておりますので、
憲法
上の
権利
も、国家権力の統制というこの課題からはやはり逃れることはできないというふうに考えます。 先ほど、私人間の
人権
調整
の場面で、基本権
保護
義務ということを申し上げましたが、これも、基本権を
保護
する義務、
人権
を
保護
する義務というのが国家にあるとはいえ、これは国家権力を統制するという観点からそういう義務を国家に課すべきだという
考え方
でありまして、いわば国家の権力統制という場面から離れていくような形での
人権
の豊富化というのは、これは
憲法
上の
権利
の問題としてはむしろ警戒しないといけないのではないかというふうに考えております。 いわば国家の権力というものをフリーハンドにするような形で、つまり国家の権力の統制が外れていくような形で
議論
がもし進んでいくとすれば、それは
憲法
の最も重要な課題というものが傷つけられるのではないかというふうに考える次第です。
山口富男
31
○山口(富)小
委員
私も、今の日本国
憲法
の
人権
問題について言いますと、
参考人
がおっしゃったように、明治
憲法
の教訓、それから二十世紀の社会権の広がりがありますから、そういうものを踏まえたことである、それからまた、
人権
の豊富化についても、
人権
そのものが、近代立憲主義で国家権力との
関係
で
規定
されておりますから、今おっしゃったことをきちんと踏まえなきゃいけないなというふうに思います。 さて、
公共
の
福祉
論なんですけれども、きょうのお話ですと、結局、
初期
の
最高裁
の判例があるわけですけれども、実際には
人権
と
人権
のぶつかり合いの中で問題になってきますから、どうしても裁判という形で争われますので、
最初
に
裁判所
のいろいろな判例が出て、その中で
公共
の
福祉
とは何かという
議論
になったというのは、いわば根拠があったと思うんですね。しかし、きょう、チャタレー
事件
から
北方ジャーナル事件
の説明があったわけですけれども、
初期
の
段階
で
公共
の
福祉
論がいわば
制限
論として使われた時期があって、それに対して、近年、これはやはり
人権
間の
相互調整
の
方法
なんだと、それぞれがきちんと持っている
基本的人権
が上手に実現するように、その
調整
をするものとしての
公共
の
福祉
論にいわば
理解
が深まってきたといいますか、そういう経過のものとしてとらえていいのかということを、ちょっとまずお尋ねしたいんです。
松本和彦
32
○
松本参考人
おっしゃるように、
公共
の
福祉
論というのは、今は
人権
と
公共
の
福祉
の
相互調整
の
方法
というものが最も重要な
議論
になってきているというふうに私は
理解
しております。しかし、それは、
人権
と
人権
の
相互調整
だけではなくて、
人権
と
公共
の
利益
の
相互調整
という問題も含んでおります。 かつて、明治
憲法
下の教訓を踏まえて、
人権
の
制限理由
としては
人権
しかあり得ないんだ、つまり、ある人の
人権
を
制限
することが許されるのは別な人の
人権
を守るためだけなんだ、そういう
理解
が一般的だったんですが、しかしそれでは、先ほども申し上げたさまざまな
公共
の
利益
というものの
保護
が説明できなくなってくるわけであります。例えば、都市の美観、風致の
維持
というような
事柄
について、これを個人の
権利
の
保護
という観点から考える
見解
もないわけではないのですが、しかし、やはりそれは無理があるだろうと。そういう無理を重ねていきますと、
人権
でないものを
人権
の名前で
正当化
することになりかねないわけであります。 私は、
人権
の
制限理由
として、
公共
の
利益
、つまり個人の
人権
に還元できないような
公益
というものもまた正当な
人権
の
規制目的
であると認めるべきだというふうに考えておりまして、その場合は、
人権
と
公共
の
利益
の
相互調整
ということも考える必要が出てくるということでございます。
山口富男
33
○山口(富)小
委員
最後
の点は
参考人
の御
意見
として承ったんですが、当初
最高裁
が
公共
の
福祉
論を
制限
条項として見たという、これは一九五〇年代ですけれども、それはやはり、この
憲法
上の定めというのが十分こなされていないというか、そういう時期に下された
判決
だったというふうに考えてよろしいんでしょうか。
松本和彦
34
○
松本参考人
最高裁
の
考え方
が今の点についてどのように変化したのかということについては、これは
理解
がいろいろあり得るんだろうと思うのですが、私自身は、大きく変わったというふうには考えておりません。と申しますのも、
最高裁
は
初期
から一貫して、
人権
は
公共
の
福祉
によって
制限
できるという立場をとっておりまして、それは現在も変わっていないわけであります。 私も、
人権
は
公共
の
福祉
によって
制限
できるという命題そのものを否定する必要まではないと考えております。それを否定しなくとも、先ほど申し上げた、
人権
と
公共
の
福祉
の
相互調整
という話はできるわけでありまして、いわば
人権
と
公共
の
福祉
の二項対立図式それ
自体
を否定する必要まではないのではないかと。その
意味
で、
最高裁
の基本的な立場ということは特に否定する必要はないというふうに考えております。
山口富男
35
○山口(富)小
委員
今の点は、
最高裁
としてはそうなんでしょうけれども、学界の通説的
理解
としてはどうなんですか。
松本和彦
36
○
松本参考人
学界はいろいろな人がいらっしゃいますので、いろんな
見解
があるわけですが、通説的な
理解
としては、
初期
のころは、
最高裁
の
判決
の結論に対する批判というものが強かったこともありまして、私も
最高裁
の結論それ
自体
を必ずしもすべて
正当化
できるとは考えていないわけでありますけれども、その結論に対する批判というところから、直ちに、
人権
が
公共
の
福祉
によって
制限
できるというその命題
自体
を否定するという
考え方
、これは有力だったと思います。そして、
人権
は
公共
の
福祉
によって
制限
できるのではなくて、
人権
は
人権
によってのみ
制限
できるのだという
考え方
、こちらの方が有力だっただろうと思います。 しかし、先ほども申し上げたように、現在は、
人権
を
人権
のみによって
制限
するという
考え方
自体
に疑問が出てきてまいりまして、もちろん、
人権
による
人権制限
ということ
自体
は否定されないんですが、それ以外の、
公共
の
利益
による
制限
ということもやはり考えられるし、考えるべきではないか、それを
正面
から認めた上で
議論
をした方が生産的ではないかというふうに少しずつなってきている、こういうふうに
理解
しているわけです。
山口富男
37
○山口(富)小
委員
わかりました。 どうもありがとうございました。
山花郁夫
38
○
山花
小
委員長
次に、
土井たか子
君。
土井たか子
39
○土井小
委員
きょうはありがとうございました。
松本
先生がお書きになった「基本権
保障
の
憲法
理論」を読ませていただきまして、大変示唆を受けました。もう今のお答えを聞いておりまして、お聞きしたい
一つ
目のことに対しての先生御自身の御
見解
というのがわかった気がいたしますけれども、重ねてという格好になることをお許しいただいて、三点聞かせていただきます。
一つ
は、本来、人類普遍の原理に立って
人権
というのを考えてみますと、やはり
人権
そのものというのは制約を受けたり
制限
されるものではないということを基本的には認識していなければならないと私は思います。だから、そういうことから考えますと、
公共
の
福祉
という概念はどういうふうにそれを求めたらいいかということを考えたときに、ほかの人の自由権を侵さないなら
権利
衝突というのはそもそも起こらないわけなんですね。しかし、むしろ
権利
調整
というふうに申しましょうか、
二つ
の
権利
が衝突する場合どちらを尊重するかというふうな問題が具体的にあって、避けて通れないというときに、国は国家という立場でその
態度
を明らかにするというときに、この
公共
の
福祉
という問題が
意味
を持って動いてきたという過去の経緯がございます。 しかし、いずれにしても大事なことは、国家とか国家権力のために
人権
を
制限
するということはできないわけですから、この点は
公共
の
福祉
を考える場合にも、
基本的人権
と
公共
福祉
の
関係
で一番大事な点はそこにあると。国家とか国家権力のために
人権
に対して
制限
を求めてはならないというところにあるというのをやはり認識していなければいけないんじゃないかなというふうに思っているわけです。 これからを考えますと、今まで現存している秩序を守るためとか、それから全体の奉仕者であるためにこれは考えていかなきゃならないとか、いろいろ
公共
の
福祉
の
中身
の、ある部分を強調して、しかもそれを曲げたような形で取り扱われて、
人権
に対しての認識ということが国家のいろんな機関によって行われてきたという経緯があるものですから、私は、特に今申し上げた点というのがこれからますます意識されることが重要になってくると思いますが、その辺の、国家とか国家権力のために
制限
することはできないということを思うと、
公共
の
福祉
ということのありようをその点からどのように考えたらいいかというのをもう
一つ
お示しいただけたらというのが
一つ
。
二つ
目は、先生御自身は
法律
の留保原則というのをおっしゃっています。私は、しばしばこれは、
法律
事項とか、それから
法律
問題とかいうふうな呼び方で言っているわけですが、
人権
を
規定
するのには、やはりそれは
法律
で具体的にきちっと
保障
するということが原則だと思うのですね。 唯一の立法機関と
憲法
の四十一条で
規定
されている国会の役割というのは、国会というのが徹して
法律
を制定する国の唯一の機関だということに対しての認識を強く持つということだと思うのですね。だから、
法律
事項であるはずの
人権
を取り扱う
法律
の中に、白紙委任のような形で省令に任せたり政令に任せたり、ましてや
行政
指導にゆだねるなんというふうなことはあってはならぬというふうに思うわけですね。 それからすると、今、毎回国会が終わるたびごとに問題になりますのは、どれだけの法案が出されてどれだけの法案が成立したかというのがよく新聞記事にもなるんですが、どれだけの法案が出されてと言われているその法案の
中身
を見ますと、議員が議員立法として出す法案の数よりもはるかに多いのが、内閣が閣法と称して内閣提案で出してくる法案です。先生もこの点に触れてお書きになっていらっしゃいますけれども、実は、私は、内閣から出す法案というのは、内閣法五条で議案は提案できるようになっていますから、今の
法律
からするとそれを認めている立場に立つんです。しかし、内閣法五条というのは、本来は
憲法
四十一条から考えると違憲の
中身
だと私自身は思っているわけですね。本来は、だから議員立法に徹して国会の立法機関という役割というのは考えられていいし、考えていくところに
意味
があると私は実は思っています。 だから、それから考えると、内閣が提案するという立法の中で、やはり省令とか政令によって
事柄
が動いていくという部分をむしろ大事に思うという嫌いが十二分にあるんじゃないか。そうすると、
人権
を
保障
するという
法律
の中に、今の閣法という形で出された
中身
というのは、各省庁の
意見
というのが十分に織り込まれると同時に、その立場というのが物を言っていますから、どうしてもそれは避けて通ることができない問題としてあるというふうに思っていますので、そこのところを、ひとつ先生のお考えを聞かせていただけたらと思います。 三つ目は、少し大きな問題です。 これは九七年の四月だったと思いますけれども、沖縄について特に問題になりました、米軍基地に対しての駐留軍用地特別措置法の改正がございました。その
中身
について詳しく申し上げるという余裕がございませんけれども、この
中身
で、米軍の基地として提供する
目的
だったら、政府は、借地料を払うなんかの補償以外は、一般的な土地収用手続をすべて無視して民有地を供給してもらうことができるという
中身
なんですね。 問題になるのは、やはり国民の
財産権
を侵すものではないかという問題になります。そして、
憲法
二十九条でこれは
保障
されている
中身
ですから、
憲法
二十九条違反ではありませんかという問題が出てまいります。それに対して、政府の方は、私有財産を正当な補償のもとに
公共
のために用いることができると
憲法
二十九条の三項には
保障
されているから、これを引いて、この
やり方
は違憲ではありません、正当ですという物の
言い方
だったんですね。 しかし、私有
財産権
と、
公共
のためと言われている、まさしくこの
公共
のためというのを考えていくと、それを具体的に
調整
してつくられている法がございます。土地収用法ですね。土地収用法では、これに該当するものでなければ事業として認めないという
中身
を限定して三十五項、道路とか鉄道とか港湾とか、いろいろ限定してこれを列挙しているわけですが、その中には軍事あるいは防衛
目的
のものは全く含まれていないんです。これは
憲法
第九条との
関係
ですね。これは政府の方も、第九条との
関係
でこの土地収用法の中にはそれが含まれておりませんということをはっきり認めているんですね。 そうすると、こういうことについて特別措置法というのをわざわざつくって、私有財産に対しての
財産権
の
制限
という特例を認めていく
やり方
というのは、やはり、日本国
憲法
の
基本的人権
の
保障
を侵しても、なおかつ守っていかなきゃならない何物かがあるからだと思わざるを得ません。そうすると、そこにあるのは何かといったら、日米安保条約という形になるわけでして、これは条約優位の形で
憲法
の
人権
が考えられるという例に当たりはしないかと私は思っています。 だから、このことに対して、先生のお考えというのを三問目には聞かせていたただきたい。 以上でございます。よろしくお願いします。
松本和彦
40
○
松本参考人
まず第一点でありますが、
人権
の
制限
というのは原則としては不可なのではないかということでありますが、これはおっしゃるとおりでありまして、日本国
憲法
に
人権
が
制限
されたということは、要するに原則として
人権
は
制限
してはいけないということだろうと思います。 ただ、この原則としてという部分をとってしまって無
制限
であるというふうに考えてしまうと、それはそれでまた不都合が発生するわけであります。先ほども少しお話の中で申し上げましたように、
人権
は
制限
できないというその命題を堅守して、そのかわり、不都合な
権利
行使
を、それはそもそも
人権
の
行使
じゃないんだ、それは非
人権
の領域なんだという
言い方
で区別しよう、そういう
考え方
がございます。しかし、私は、
人権
、非
人権
を区別する
考え方
よりは、
人権
の
制限
は原則としては認められないけれども、例外的には認められる、それは
公共
の
福祉
を守らなければならないときである、こういうふうに問題を立てる方が、むしろ
人権
の尊重という
考え方
に沿うのではないかというふうに考えております。 ですから、
人権
の
制限
は、確かに原則としては許されないのですが、例外的には認められる、そして、その例外が認められるべき場合というのを細かく考えていこうということであります。この場合、
人権
の
行使
自体
は
正当化
する必要がないということを確認しておく必要があると思います。どのような
人権
行使
であれ、それが
人権
の
行使
である以上、それがいいとか悪いとかいうことを考える必要はない。いいとか悪いとかを考えないといけないのは
人権制限
の方でありまして、
人権
を
制限
する場合については、そちらの方はきちっと
正当化
しないといけない。
人権制限
の
正当化
をきちっと行えれば、私は
人権
尊重の原理には十分かなうだろうというふうに考えております。 それから、
二つ
目の問題ですが、内閣提出法案というものが
憲法
上疑義があるのではないかということでございます。
憲法学
界にも確かにそのような
考え方
は有力にありますが、私自身は、内閣が
法律
を提出する権限それ
自体
は、
憲法
上問題はないと考えております。むしろ、日本国
憲法
にははっきりと書いておりませんが、議院内閣制を定めた趣旨から考えると、内閣には
法律
案の提出権限が
憲法
上与えられているというふうに考えております。 しかし、内閣に
法律
案を提出する権限があったとしても、それだけで話が終わるわけではありませんで、先ほどおっしゃられたように、それが単に
行政
の利害を
調整
しただけで、さまざまな国民の
権利
と
公共
の
福祉
の
調整
をきちっと行っていないのであれば、これはやはり
憲法
上の疑義を免れないわけであります。これは内閣が法案を提出しているかどうかとは別の問題であるというふうに私は考えております。 そして、内閣の提出法案、確かにおっしゃるように、それは各省庁、
行政
の利害の代表ということもあるのかもわかりません。しかし、国会はさまざまな
利益
の代表の場でありますから、そこで十分に審議して、そしてその利害
調整
の結果を
法律
に書き込むべきである。そして、その
法律
にきちっと
調整
された結果が書き込まれていないのであれば、そのことをもって
憲法
違反であると
裁判所
が
判断
すべきであるというふうに考えています。つまり、国会がみずからの
判断
をきちっと行っていない、
議会
の自己決
定義
務を果たしていないのであれば、そのこと
自体
が
憲法
違反であるとして、
裁判所
は事後的に判定すべきであろうというふうに考えております。 それから、三つ目は難しい問題でありまして、私は十分にお答えする準備はないわけですけれども、
財産権
に対する
制限
があるのであれば、その
財産権
の
制限
は
憲法
上
正当化
されなければなりません。そして、その
憲法
上
正当化
する
方法
は、先ほど申し上げたように、
規制目的
が正当であるか、そして
規制
の
手段
が正当であるかという形で考えていくべきであろうと思います。単に
公益
のためというだけでは、
正当化
の
理由
としては十分ではありません。むしろ、
正当化
の
理由
を細かく、かつ具体的にはっきりと追求していくことが
人権
保障
につながるわけでありまして、
公益
のためというだけではもちろんだめであります。 もちろん
憲法
九条も、これは
憲法
によって
保障
された価値でありますから、それに反するような
人権制約
というのは、これは正当な
目的
としては認められないということになります。ここは
議会
あるいは
裁判所
において、
規制
の
目的
及び
手段
、両方の観点から細かく
審査
していって、その
正当性
を
判断
すべきであろうというふうに考えます。 以上です。
土井たか子
41
○土井小
委員
一つ
申し上げさせていただきたいなと思いますのは、お書きになった中に、国会は、
委員
会の審議は非公開を原則とするというままになっていると。おっしゃるとおりで、残念ながら、今までは、国会法の五十二条の条文では、
委員
会は非公開が原則なんですね。 しかし、この条文を変えるために、過去大変努力しました。衆議院の方では、これを変えて、公開原則という条文の法案を用意したんですが、これが成立しないまま今日に至っているということを一言申し上げさせていただきます。そうでないと、国会、何の努力もしていないと、もし先生がお思いになったら、これはやはりちょっと困る問題でして、努力をさらにいたしますが、もう現在は公開を原則として、実態の方が先に進行しておりますから、その中での国会法、おくれをとっております。そういうことでございます。 どうもありがとうございました。
山花郁夫
42
○
山花
小
委員長
次に、
松野博一
君。
松野博一
43
○
松野
(博)小
委員
自由民主党の
松野博一
でございます。どうぞよろしくお願いいたします。 まず
最初
に、
憲法
で
保護
をするべき
基本的人権
の
範囲
と、新たに承認せられることがあるとすれば、その承認の過程についてお伺いをさせていただきたいというふうに思います。 先ほど来、例えば環境権の問題、プライバシー権、
名誉権
、こういったものを
憲法
に書き込む、列挙する必要があるかどうかというような
議論
がございましたし、先生のお話の中で、例えばプライバシー権というのは、明文の根拠はないけれども、今このプライバシー権が
憲法
上
保護
されるべき
基本的人権
であるということに異論を挟む人はいないというようなお話もいただきました。 そこで、第一の質問なんですが、今
議論
されている、今例示したような
基本的人権
の内容というものが、本来、現在の日本国
憲法
の条文の精神によって
最初
からその範疇の中にあった、要するに、新たに発生をしてきて何らかの承認過程を経て加えられたものではなく、もともとの日本国
憲法
の条文の精神の中にあって、そこから類推をされて、現在当然の
基本的人権
として認められるようになったのかどうかということについてお伺いをしたいというのが一点。 もし、いや、現在の日本国
憲法
の精神の中にあるもともと想定されたもの以外であっても、社会的な変化、歴史的経緯の中で新たに
基本的人権
というのは付加されていくものだよということであれば、その場合にはどういうような承認の過程が必要かということについてお伺いをしたいと思います。 平成十二年にヒトに関するクローン技術等の
規制
に関する
法律
というのを国会で審議したわけでありますけれども、その中で、新たに
一つ
の争点として、リプロダクトの
権利
というものが上がってきました。バイオテクノロジーの発展等で、今まで想定されなかったような、子孫を残していくというような技術的な
方法
に関しては今どんどん拡大をされているわけでありますけれども、リプロダクトの
権利
をどうとらえていくかというような
議論
もあったわけであります。 そういったさまざまな分野で、これは人間が
保障
されるべき
権利
だという
議論
がある分野が新たに出てきているわけでありますけれども、新たな分野への対応として、
憲法
上
保護
される
基本的人権
というものの性質、冒頭の言葉に戻りますけれども、日本国
憲法
の現状の精神に承認されている範疇の中にあるべきものとして導かれるのか、新たに付加される要素があるのか、そのことについて御
意見
をいただきたいというふうに思います。
松本和彦
44
○
松本参考人
人権
の
範囲
についてでありますけれども、先ほども申し上げましたように、日本国
憲法
の
権利
のカタログ
自体
は割合豊富でありますので、現在
明文規定
のある
人権条項
、それをまずよく見まして、そこから新しい
人権
と呼ばれるものが導かれるかどうかということを
最初
に考える必要があろうかと思います。新しい
人権
といっても、よくよく考えるとそれほど新しいことを言っていないということも往々にしてございますので、既にある
人権
の中に含まれた
権利
なのかどうかということを
最初
に確認する必要があるかと思います。 その上で、既存の
人権
規定
からはどうしても導けないという場合については別に考える必要がございまして、もちろん
憲法
を改正して新たな
人権
をつけ加えるというのも
一つ
の
方法
でございますけれども、日本国
憲法
を初めとして多くの先進諸国の
憲法
というのは包括的
人権条項
というのを置いておりまして、仮に
明文規定
がなかったとしても、しかし既存の
人権条項
と同じくらい重要で、かつそれらの
人権条項
と整合性を持って説明できるような
権利
が観念できるとすれば、それは
憲法
上
保障
された
人権
として承認しても構わない、こういうふうに考えているわけであります。 日本国
憲法
の場合は、それは
憲法
十三条の生命、自由及び幸福追求に対する国民の
権利
というのがそうであるというふうに言われています。生命、自由及び幸福追求に対する
権利
というのは、その言葉
自体
は非常に抽象的でありまして、それ
自体
明確な
中身
を持っているわけではありませんで、むしろ、今申し上げたように、
憲法
に
明文規定
のない
権利
を根拠づけるための条項であるというふうに考えられています。それは、先ほどおっしゃったような条文の精神もそうでありますが、
憲法
全体の
規定
と整合的に解釈できるかどうかという観点から、そしてまた、ほかの
人権条項
と同じだけの重要性、重みを持っているかどうかという観点から
判断
した上で、包括的
人権条項
に根拠づけることによって、新しい
人権
というものを現在の日本国
憲法
でもって根拠づけることが可能になるのではないかというふうに考えております。
松野博一
45
○
松野
(博)小
委員
個人の
基本的人権
を制約するためには優越する
公共
の
福祉
の概念が必要だというお話でありますけれども、
基本的人権
の制約の正当
目的
として挙げられている、優越する
公共
の
利益
についてお話をお伺いしたいと思いますが、例えばチャタレー
事件
の判例において、優越する
公共
の
利益
というのは、
わいせつ文書
の
規制
における
性的秩序
、最小限度の
性道徳
、健全な風俗の
維持
等が挙げられているわけであります。 今列挙したような事由は、その時代ごとの価値観にかなり大きく影響を受けるものではないかというふうに思いますし、現実に、例えば今の雑誌のグラビア等の
表現
であれば、かつてであればとても認められなかったような
表現
が、相当今
規制
が緩やかになってきているように思います。 不可侵の基本的な
人権
を制約する
公共
の
福祉
の概念が時代とともに変化をするものという概念でいいのかどうか、それに対して先生はどういうふうな整理をされているのかについて、お話をお伺いしたいと思います。
松本和彦
46
○
松本参考人
憲法
上の
権利
も、時代の影響を全くこうむらないで済むというわけには恐らくいかないだろうと思いますが、ただ、おっしゃいますように、
憲法
上の
権利
というのは、やはり普遍性を標榜する必要があろうかと思います。ですから、十年、二十年ぐらいの時代の流れによって変化するということでは、これは
憲法
に
規定
することは望ましくないのではないかというふうに考えます。 ですから、私が
最初
に申し上げましたように、立法の役割というのが重要だという話になるわけであります。
人権
は確かに普遍的でありましても、その
人権
を
制限
する
公共
の
利益
、こちらの方も時代とともに変化していくわけでありまして、この時代とともに変化していく
公共
の
利益
、これは
法律
に明文化することによって、一方においてその
公共
の
利益
を守る、そして他方において、それが時代おくれになったときに訂正するということが可能になるわけであります。 国民的な広い賛同が受けられ、かつ、時代とともに変遷することがまず考えられないと思われるような普遍的な
利益
であれば、
憲法
上、明文化することに
意味
があると思いますが、時代の影響を受けることが明らかなものについては、これはもう
憲法
に取り込むことは不適切であろうというふうに考えております。
松野博一
47
○
松野
(博)小
委員
ありがとうございました。
山花郁夫
48
○
山花
小
委員長
次に、
園田康博
君。
園田康博
49
○
園田
(康)小
委員
きょうは、
参考人
、
松本
先生の多面にわたるお話をいただいておりまして、大変
参考
になっているところでございます。あるいはまた、今までの学界の通説といいますか、
議論
の流れの中で、新たな
規制目的
あるいは
規制手段
の
正当性
を用いて
人権
規制
に対する
憲法
判断
を行っていくべきであるというような、私にとりましても本当に新しい視点としての御提言をしていただいたのかなという気がしております。 そこで、まず学説、ただ、学説のさまざまな
議論
の中で、今まででしたら、一元的外在制約説であるとか、あるいは内在・外在二元的制約説、あるいはまた一元的内在制約説というようなさまざまな
議論
の流れがあって、その上で、先ほど先生も少し触れられましたけれども、
憲法
判断
の中でいわゆる比較衡量論的な部分が出てきて、なおかつ、二重の
基準
ということに触れられていらっしゃったわけでございますけれども、少しこの二重の
基準
というものに着目して、私からは御質問をさせていただきたいというふうに思っております。 まず、概念的な整理でいくならば、私の
理解
しているところで、一九三〇年代、三八年だったと思うんですが、アメリカの連邦
最高裁
の判例において出されたもの、ダブルスタンダードというものから派生をして日本に入ってきた理論であるというふうに考えているところでありますけれども、まずその二重という言葉の概念ですけれども、私の
理解
しているところでは、
人権
のいわゆる序列といいますか、そういう価値序列というものに対して、重なるという、二重という
議論
を使うことに関して、すなわち、上下
関係
あるいは前後
関係
が重なるということに出てくるわけでございますけれども、少し私は違うのではないかと。 すなわち、
人権
に関しては、先ほど先生もおっしゃっておられたように、豊富な
人権
カタログがこの
憲法
典の中に組み込まれているわけでありますけれども、いわゆるどの
人権
に関しても、やはり対等に、あるいはそれなりに、それなりにといいますか、大変貴重なものとして扱うべきではないかというような気がしております。したがって、これは
憲法
の
判断
の中で、いわば取り扱いの違うものとして扱われてきたというふうに考えるのが妥当なものではないのかなと。 そうなってきますと、二重というよりは、どちらかというと二種、種類ですね、二種の
基準論
として、この二重の
基準
というものをとらえなければいけないのではないのかなという気がしているんですが、先生の御
意見
をいただければと思っております。
松本和彦
50
○
松本参考人
二重の
基準論
は、先ほども申し上げましたように、
裁判所
が国会あるいは
行政
の
行為
を事後的に
審査
する場合に、どういう
態度
でもって国会、
行政
の
判断
を再
判断
するかというときに問題となる
事柄
でありまして、
裁判所
にとって特に
意味
のある
基準
であるということをまず御了解していただきたいと思います。 ですから、
議会
が
人権
を
制限
する場合に、それが例えば
精神的自由権
であれ、
経済的自由権
であれ、
人権
の
制限
には変わりがないわけでありますので、それが許されるかどうかということはきちっと考えて、つまり、
目的
、
手段
、双方の側面からきちっと考えて行うべきであろうというふうに考えます。 その上で、二重の
基準
についてお答えしますが、これは
人権
の序列をあらわしたものではないとおっしゃる趣旨は、私もそのとおりだろうと考えております。二重の
基準論
の通説的な
見解
においては、
精神的自由権
が
経済的自由権
に優越する、そういう
理解
もあるわけですが、先ほども述べましたように、例えばビラ張り
規制
においては、
財産権
を
保護
するために
表現
の自由を
制限
するというようなことが実際なされていますし、それが違憲であるという
見解
は非常に少ないわけです。やはり、幾ら
表現
の自由だからといって、他人の家に勝手にビラを張ってもいいかというと、やはりそうではないだろうと。 そうすると、これは
財産権
の方が
表現
の自由よりも上にあるのかというと、これはそういう
理解
ではないわけでありまして、単に
人権
に価値の高いもの、低いものがあるという単純な
理解
をしてしまいますと、今言ったような奇妙なことが起きるわけです。ですから、そういった序列というような
考え方
で考えるべきではないというのはおっしゃるとおりだと思います。 その上で、二重の
基準論
というのは、
裁判所
が
議会
あるいは
行政
の
行為
を事後的に
判断
する場合に、例えば
表現
の自由のような傷つきやすい
権利
については、当然、それなりに厚い配慮といいますか、十分な考慮をした上で行うべきである、そういう心構えを
表現
したものであるというふうにとらえるべきではないかというふうに考えております。
園田康博
51
○
園田
(康)小
委員
そうしますと、例えば
昭和
五十年四月三十日の薬事法の薬局距離
制限
事件
の違憲
判決
があったわけでございますけれども、こういった部分になってきますと、今までの二種の
基準
というか、ダブルスタンダードではなくて、もう
一つ
中間
基準
、いわゆる厳格な
審査
とそれから緩やかな
審査
とともに、中間
基準
としての厳格な合理性の
審査基準
というものが、ここで、ある種、二種から三種へとこの
判断
基準
というものが出てきているのではないのかなという気がしているんですが、先生のお考えはどうでしょうか。
松本和彦
52
○
松本参考人
これは、学説上、
基準
というのをできるだけ精緻化していこう、そういう
見解
はございまして、おっしゃるように、三種の
基準
だという
考え方
もございます。 ただ、私は実は、二重の
基準
という
考え方
、それ
自体
に必ずしも重きは置いておりませんで、二重の
基準
あるいは三重の
基準
というふうに細かく分けていっても、やることにそれほど大きな差は出てこないだろうというふうに考えています。 薬事法の
事例
は、これは経済的自由、特に職業の自由の
制限
が問題となった
事例
でありますが、経済的自由であれば緩やかな
基準
で
判断
してもよいのかと言われると、やはり
人権
の
制限
であることには変わりはございませんので、きちっと
判断
するということに違いはありません。ですから、これで違憲
判決
が出たからといって、緩やかな
基準
よりも少し厳格な合理性の
基準
をとったのだというような
言い方
を仮にしたとしても、私自身は、そこにはそれほど大きな
意味
を認めるべきではないというふうに考えています。 ただ、
精神的自由権
については、特に
表現
の自由については、傷つきやすいという性質を持っておりますので、その点の配慮が要るということに気をつけるべきであるというだけのことでありまして、経済的自由だからといって、緩やかでもよい、そういうふうに考える必要はないと考えております。
園田康博
53
○
園田
(康)小
委員
なるほど。おっしゃるとおり、よく頭の中が整理できたと思っています。 さらに、まず
表現
の自由の、先ほど来から出ております、いわゆる政治的に回復されにくいという脆弱性という性質がありますけれども、これは、本来
精神的自由権
全般に見られることではないのかなという思いと、それからさらに、
表現
の自由そのものの射程といいますか、
憲法
が予定している
範囲
というものに関して、まず、いわゆる
表現
をするための国民の知る
権利
、情報の発信の知る
権利
というものがあり、そして、言いたいことを言いたいときに言いたい場所で言う自由としての
表現
の自由が認められ、さらには通信の秘密と言われるものの過程があって、最終的には知る
権利
へと、今度は逆に情報の受け手の知る
権利
へという形で、情報流通の全過程まで射程にしているんだという考えに私も立っているわけなんです。 さらに、そこでいくならば、やはり国民の知る
権利
というものの性質について、元来さまざまな
議論
がここの中で行われてきたんではないのかなというふうに思っているんですが、いわば自由権的な側面とそれから受益権的な側面において、知る
権利
そのものがなかなか
憲法
上明記しづらい
権利
であるというふうに
議論
がなされてきております。 そこで、ただ、かといって、国民の知る
権利
というものをそのままほかっておくわけにはいかないんではないのかという思いから、その意義と本質、限界というものをここでしっかりともう一度明確にすべきではないのかというふうに私自身は考えております。 そういきますと、もう一歩進めて、
憲法
上に国民の知る
権利
、新たなる
人権
という形で位置づけても
余り
意味
がないという御指摘もあろうかと思われますけれども、ただ、そういう知る
権利
というものに対して
憲法
上明記を仮にするならば、自由権的な側面あるいは受益権的な側面から、どういう位置づけで
憲法
典の中に組み込むことができるのかということを
最後
に先生にお伺いしたいと思います。
松本和彦
54
○
松本参考人
表現
の自由の射程につきましても、これはいろいろ
議論
がございます。 とりわけ、情報の受け手の
権利
という観点から、つまり、情報の送り手の観点だけではなくて受け手の観点から
表現
の自由というのをとらえ直すべきだという
意見
には、これは私は説得力はあるというふうに考えております。 その
意味
で、知る
権利
論というのは重要な
議論
ではあるわけですが、ただ、おっしゃるように、知る
権利
という言葉それ
自体
を
憲法
に明記したとしても、そこからどれだけ生産的な
議論
が引き出せるかという点については、これはなかなか難しいのではないかと思っております。むしろ、知る
権利
と言われているものの中にはさまざまな
権利
がございますので、それを
一つ
一つ
分解して考えていった方がよいのではないかと思います。 例えば、情報を受領する
権利
。送り手が情報発信した、その場合、その発信した情報は、遮断されなければそのまま多くの人々の手元に届くわけですが、特定の人のところには届かなかったときに、送り手の側の
権利
ではなくて、届かなかった受け手の側の
権利
が侵害されたという観点から論じるという
やり方
、これは
一つ
あり得ると思います。いわば、情報受領権というものを観念いたしまして、その情報受領権が
制限
されているんじゃないか、こういう
議論
の仕方ですね。 それから、情報というものは能動的に収集して回らないと手に入らないということもございますので、情報収集の
権利
というものを観念するということも可能かと思います。これは、従来、取材の自由という形で
議論
になっている
事柄
とも重なるわけでありますし、
最高裁判所
も、
憲法
二十一条の
表現
の自由の精神の中には取材の自由というものも含まれる、そういうふうな
言い方
をしております。ですから、情報収集の
権利
というもの、取材の自由というものを
表現
の自由の派生的なもの、派生的な
権利
として考えるということ、これは
一つ
あり得ると思います。 それから、もう
一つ
難しいのは情報請求の自由でありまして、これは自由とは言えない、請求権でありますので自由権とはまた異なる性質を持つものでありますが、これをどう考えるかというのは難しい問題であります。これは、
憲法
だけで解決できるかどうかというと、私は少し難しいかなと考えております。 ただ、現在、例えば国のレベルでも、情報公開法というような
法律
が制定されまして、政府情報については公開請求権というものが国民に与えられております。こういう情報公開法の制定といったような形で、情報の公開請求権といったものを実質的に
保障
していくということが認められておりますので、私は、情報公開法の制定のような立法
行為
を通じて、
一つ
一つ
そういう請求権的なものも
保障
していくというふうに考えていけばよいというふうに考えております。
園田康博
55
○
園田
(康)小
委員
ありがとうございました。
山花郁夫
56
○
山花
小
委員長
次に、船田元君。
船田元
57
○船田小
委員
自民党の船田元でございます。
松本参考人
には、大変長時間にわたりまして我々の質問に答えていただいておりまして、ありがとうございます。これが
最後
でございますので、おつき合いいただきたいと思います。 先生のお話の中で、私自身も大変感銘といいましょうか、大変目を開かせていただいたのは、
公共
の
福祉
という概念を多くの方々は大変漠然としたものとしてとらえている、そういう傾向が多いんですが、
松本参考人
は、特に
目的
、
手段図式
によってこれを再把握する、もう一度
定義
づけをしていこう、こういうお話がありました。大変これは
参考
になる話でございました。 そこで、実際の現在の
憲法
の中での
公共
の
福祉
の
表現
されている場所をもう一回ちょっと検証し、お考えを聞きたいのでありますけれども、第三章、国民の
権利
と義務の部分がございます。その中で、第十二条と十三条、これは、
公共
の
福祉
ということを
権利
全般の中でどう扱っていくか、あるいはどう位置づけるかという非常に包括的な
規定
である。そして、それぞれの
権利
あるいは自由という項目の中では、二十二条の居住、移転、職業選択の自由などをそこで
規定
をし、それから二十九条、
財産権
のところで
規定
をしている。しかし、そのほかの個別のところでは、
公共
の
福祉
というものは特に意識をされて書いていない、こういうことになっております。 これは、先ほどダブルスタンダードという話が出ましたけれども、例えば
財産権
にしても職業選択にしても、これは法的にいろいろと後ほど修正ができる、そういう
権利
であるから、これは
公共
の
福祉
というのを書いてもいいんではないか。逆に、精神的な自由にかかわるような非常に脆弱な
権利
あるいは自由ということについては、そのところで
公共
の
福祉
という言葉を書いてしまうと、それは
公共
の
福祉
の要素の部分が大き過ぎちゃって、本来の自由という部分が負けてしまうんじゃないか。そういう
憲法
制定当時の配慮があったのかな、こう私は解釈しているんですけれども、
参考人
はどのようにお感じでしょうか。
松本和彦
58
○
松本参考人
私も同じような
理解
であります。
表現
の自由を初めとする
精神的自由権
、これもまた
公共
の
福祉
による
制限
に服すということ、これは私も認めざるを得ないだろうと思います。 二十一条には
公共
の
福祉
による
制限
を明示する
規定
はありませんが、しかし、
公共
の
福祉
による
制限
を全く受けないというふうに考えることは、これはできないだろうと思います。ですから、
憲法
は、十二条あるいは十三条の一般的な
権利
規定
のところで、
公共
の
福祉
というのをやはり一般的に
規定
しているわけでありまして、二十二条や二十九条の経済的自由のところに
規定
しているのは、これは、なくても別に、特に不都合はなかったのだと思うんですが、しかし、経済的自由は、これはその
行使
が往々にしてほかの
利益
との衝突を起こしますので、特に傷つきやすい
人権
というわけでもありませんから書いたということだろうと思います。ですから、二十一条に書かなかったのは、おっしゃるように、
憲法制定権者
の政策的な
判断
だったのだろうというふうに考えます。 理論的には、二十一条であっても
公共
の
福祉
の
制限
それ
自体
は免れないというふうに
理解
してよいのではないかと思います。
船田元
59
○船田小
委員
ありがとうございます。 それでは、少し細かいところにちょっと触れていきたいと思うんです。先ほど平井議員からだったと思いますが、
表現
の自由の
一つ
の形態だと思いますが、報道の自由、これが、いわゆるプリントメディア、新聞とか雑誌とかそういう部分では割と、かなり自由な状況であるけれども、一方で、電波、いわゆる放送の自由、そういう点においては、例えば放送法が極めて厳格に
規定
がございます、さまざまな
規制
もございます。これは、報道の自由、プリントメディアの自由と放送の自由というのを比較した場合に、かなり差が今でもあるのではないか、こういうふうに私は思っております。 人によっては、放送の自由ということについては、昔は電波法などによって放送の流し手がかなり限定をされてしまって、ですから、それだけにやはり特殊な影響力を、非常に大きな影響力を持っている、そうなると、やはり放送については相当な
規制
が必要だったけれども、今は、例えばCATVとかCS放送、BS放送あるいはインターネットを通じた放送とか、いろいろな放送の主体がいっぱい出てきている、そうすると、これはもうプリントメディアの量とそんなに変わらないんではないか、だから放送法などによって放送の自由をある程度
規制
するということはそろそろ考えた方がいいんじゃないか、こういう
議論
もあります。また、逆に、いや、プリントメディアの方の自由の方が自由奔放過ぎちゃって、これはやはりもう少し
規制
をすべきではないか、こういう
議論
があって、私は両方存在すると思うんですが、
参考人
はこの
議論
に対してはどのようにお考えでしょうか。
松本和彦
60
○
松本参考人
非常に微妙な話でありまして、正確にお答えするのは非常に難しいんですが、電波メディアについては、最近、メディアが多様化してきているということもありまして、インターネットも普及していますし、BS、CS放送あるいはケーブルテレビといったものが普及してきたということもありまして、従来のような電波メディアの
規制
というものの根拠というものが揺らいできているというのはおっしゃるとおりだと思います。 ただそれは、従来は、電波メディアは特殊なメディアであるというところから
規制
を強化するという方向で
議論
されていたのが、メディアが多様化することによってそれほど特殊なメディアではなくなった、だからむしろ
規制
は緩和すべきだという方向で
議論
されているということでありまして、私は、そういう方向性それ
自体
は間違えていないのではないかと思います。メディアが多様化すればするほど、それは
規制
を緩和する方向でいってよいというふうに考えますが、だからといって、現在の放送法をプリントメディアの
規制
と全く同じように扱うというところまでは、現在はまだいっていないのではないかというふうに考えます。 プリントメディアの
規制
を強化すべきかどうかについても、これも少し具体的に考えないと一概にはお答えできないのですが、今のところ、特別の
法律
を設けて
規制
をしないといけないというような場面があるというふうには私は認識しておりません。むしろ、現在は
表現
の自由の
規制
の方がだんだん強化されつつある、そういう
意見
もございまして、そちらの
意見
にも私は聞くべきところがあると思いますので、今直ちにプリントメディアの
規制
を従来よりも特に強化すべきであるというふうには認識しておりません。
船田元
61
○船田小
委員
ありがとうございました。 それから、これも先ほどちょっと同僚議員から出たと思いますが、いわゆるインターネットを初めとするサイバースペースが非常に拡大をしている、このように現代では
表現
をされておりますが、そういう中で、先ほどは
表現
の自由とサイバースペースとの
関係
という話でしたが、私は、通信の秘密とサイバースペースの拡大、これをちょっとお聞きしたいと思っております。 過去におきましては、まさに、通信といいましても、これは送り手が一人、受け手が特定の一人ということで、一対一という
関係
が非常に強かったと思いますね。こういう時代においての通信の秘密というのは、これは割合守れるというんでしょうか、よほどのことがなければ
保護
できる分野であったと思っております。 しかし、現在は、一対多数、これは放送などでは一対多数になりますが、サイバースペースでは多数対多数、しかも、それが非常に複雑に錯綜して情報の交換をやり合っている、こういう状況にありまして、この時代での通信の秘密というものは、先ほど先生からは、要するに、技術が新しくなっただけであって基本的な部分は変わらないだろう、こういうお話がありましたけれども、私は、どうも、この通信というものの量的な変化というのはもう飛び越えちゃって、それが質的な変化に変わっているんじゃないかというふうに思っております。 そういう状況からすると、この通信の秘密という
憲法
上
規定
された文章あるいは概念を、
公共
の
福祉
あるいは
公共
の
利益
というものと絡ませて考えるならば、もうちょっと言葉を変えていく必要があるんじゃないかなという気が私にはしてならないんですが、いかがお考えでしょうか。
松本和彦
62
○
松本参考人
憲法
は、二十一条の一項で
表現
の自由を
保障
していて、二項で通信の秘密を
保障
しているわけで、二十一条という同じ条文の中に
表現
とそれから通信というものが入っているので、似たような性質の
権利
である、こういうふうに受け取られがちなわけです。ただ、おっしゃいますように、現在、通信とそれから放送というものの境というのはますます不
明確化
してきておりまして、サイバースペースというのはまさに従来的な
意味
での通信の領域と考えるのは難しくなってきているかなというふうに思います。 通信の秘密というものの
憲法
上の
意味
というのを考えますと、それは実はプライバシーの
保護
だったのではないかと私は考えております。
憲法
二十一条一項の
表現
の自由は、これはまさに
表現
の自由の
保障
でありますが、通信の秘密の方は、これはプライバシーの
保護
でありまして、
保護
される
利益
というのがもともと違っていたというふうに考えます。ですから、通信の秘密の考察とそれから
表現
の自由の考察というのは、これは分けて考える必要があるだろう。 従来は、通信といえば通信の
中身
が非常に明確であったし、それから
表現行為
の方も、放送といったようなものの
中身
が非常に明確だったので混乱しなかったのですが、最近、技術の発展によって放送と通信の
中身
が融合し始めてきたために、通信だから秘密、それから、放送だから
表現
の自由、こういう区分けができなくなったということです。 今後は、これはプライバシーを
保護
すべき領域なのか、それとも
表現
の自由を
保護
すべき領域なのかという
二つ
の観点から考えて
規制
をするべきでありまして、通信だからとか、あるいは放送だから、そういう区別で考えることはできなくなっていくのではないか。ただ、プライバシーの
保護
あるいは
表現
の自由の
保護
というその
二つ
の観点それ
自体
はなくならないので、この両方の側面があるので、それぞれの側面から
規制
の是非というのを考えていくべきではないかというふうに考えております。
船田元
63
○船田小
委員
ありがとうございました。
山花郁夫
64
○
山花
小
委員長
これにて
参考人
に対する質疑は終了いたしました。 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
松本参考人
におかれましては、貴重な御
意見
をお述べいただき、ありがとうございました。小
委員
会を代表して、心から御礼を申し上げます。(拍手)
—————————————
山花郁夫
65
○
山花
小
委員長
これより、本日の
参考人
質疑を踏まえて、小
委員
間の自由討議を行います。 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、小
委員長
の
指名
に基づいて、自席から着席のまま、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。 御発言を希望される方は、お手元にあるネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。 それでは、ただいまから御発言を願いたいと存じます。御発言を希望される方は、ネームプレートをお立てください。
船田元
66
○船田小
委員
自民党の船田でございます。 今も、
公共
の
福祉
ということについて、
松本参考人
から、大変新しい、斬新な切り口で分析をし、我々に大きな示唆を与えていただきましたが、やはり
公共
の
福祉
と
人権
あるいは自由という問題は、これは永遠の課題といいますか、いつまでにこういう
議論
をすればこういう結論が出るというものではない、その点では永遠の課題であると思っております。 そういう中で、先ほど私が述べましたような、放送、それから報道、あるいは通信、そういう情報の送り手というものによって、その自由とかあるいはその
規制
というものが強くなったり弱くなったりということよりも、やはり、
表現
の自由、そして通信の秘密、何を守るべきか、そういうことに重きを置いた
規制
であったり、あるいは自由の
保障
であったり、こういう
考え方
が
参考人
から示されたことは、大変示唆に富むものであったということを
一つ
指摘したいと思っております。 それからもう
一つ
、これはいずれ我々のこの
憲法
調査
会の総会でも
議論
されると思いますが、
学問
の自由というもの、これはやはり、
表現
の自由あるいは良心の自由と同等に
学問
の自由というのは
憲法
の中で非常に重要な概念として
規定
をされていると思いますが、この問題につきましても、最近の、特に生命科学の発達、発展、そういうことによって人間の尊厳が侵されたり、あるいは直接生命や健康に対する危害が予測されたり、こういうようなことで、非常に、個人の
人権
以上に
公共
の
利益
というものが重要視される、あるいは重要視しなければいけない、こういう事態が今後起こり得ると思っております。ですから、
公共
の
福祉
あるいは
公共
の
利益
をどう守るかという観点を今後もう少し私たちは注意深く
議論
していく必要がある、このことも、特にきょうのお話の中で感じたことでございました。
最後
に、先ほど私の質問の中で、時間がなくてできなかったことなんですが、
意見
ということで申し上げてみたいのは、最近の各地域における、これはもう都会でも農村部でも同じでございますけれども、市民の安全が脅かされる、秩序が乱れている、こういうことが非常に大きな社会問題となり、また政治問題ということにもなっております。 これは、国のレベルよりも地域のレベルとしまして、地方自治体のレベルとして、例えば、千代田区のポイ捨て禁止条例であるとか、くわえたばこ禁止の条例であるとか、あるいは防犯カメラを設置して、一般住民の監視というんでしょうか、監視カメラでウオッチングする、こういった、我々の、市民の安全を守るためにというさまざまな施策と、一方で、私たちの持っている
基本的人権
というものとのせめぎ合いがまた新たな形で起こってきているんじゃないか。このことを大変注目しております。 こういった問題に対しても、我々はやはり、現代的な問題ということで、しっかりと、
公共
の
福祉
あるいは
公共
の
利益
をどう守るか、それから
基本的人権
をどう
維持
していくか、こういうことと非常に密接に関連をし、また、
公共
の
福祉
の部分を、私自身は、もうちょっと広く、あるいはもうちょっと実効的に認めていくという方向で
議論
することが非常に大事になってきているな、このように考えております。 以上でございます。
園田康博
67
○
園田
(康)小
委員
民主党の
園田
でございます。 本日の
松本参考人
、先生からのお話は、私にとりましても、新しい視点からの
憲法
解釈というものを示唆していただいたというふうに思っております。 そして、今船田
委員
からの御指摘がありましたので、私も、本日の
議論
の中で
議論
ができなかったものですから、
学問
の自由に関して少し私見を述べさせていただきたい、そのように思っております。 まず、二十三条におきましては、「
学問
の自由は、これを
保障
する。」という一文しかございませんでした。しかし、この中でも、人類史の過程の中では、科学活動の対象や
方法
や内容、あるいは教授の自由というものでこれを深くとらえることができるのではないかというふうに
学問
上も
議論
がされてまいりました。その上で、大学の自治という制度的な
保障
がこの中に読み取れるものであるというふうに
議論
上はなってきております。 しかし、残念ながら、
憲法
の条文上に大学の自治というものが書かれていないということで、私からは、大学の自治ということになってくると少し
議論
がトーンダウンしてきているのではないかというふうに思っております。したがって、今後、
議論
の中では、大学の自治というものを積極的に解釈、とらえて
議論
を深めていく必要があると思っております。 例えば、東大ポポロ座
事件
の判例にも見られますように、大学と警察権との管轄権の問題、あるいは大学人の
言論
の自由、評論活動とそれから
政治活動
の線引き、あるいは産学協同と言われるさまざまな研究活動の中で、大学に占める科学活動がどういう
段階
まで自主性を保つことができるのかということを、もう
一つ
深めていく必要があると思っております。 そこで、現在、大学の自治に関する制度的な
保障
の枠組みとして
規定
をもし設けるということであるならば、大学人としての研究、教授の自由に関して、人事と研究教育の
方法
、対象、内容、そして施設管理と財政処理の自律権、こういったものをしっかりと制度的な
保障
として今後明記をしていく必要があるのではないか。 すなわち、先ほど申し上げた警察権、あるいは学生の主体、大学の自治の主体になり得るかどうかという
議論
も、こういった
憲法
の解釈上の混乱が今まであった、誤解があったということから、このような裁判例、判例というものが出てきたというふうに私は考えております。 したがって、それらを予防するためにも、ぜひこの点は積極的に、
憲法
の中で明記できるかどうか、あるいはどのように明記をしていくべきであるのかどうかというものを深めていきたいというふうに考えております。
小野晋也
68
○小野小
委員
三点の指摘をさせていただきたいと思います。 一点は、既に一部
議論
もございましたけれども、科学技術と
人権
の問題でございまして、先ほど、
学問
の自由の観点からの御指摘がございましたが、
学問
や研究が自由であるからといってそれが本当に無
制限
に自由であり得るのかどうかという点を、これからひとつ
議論
の俎上にのせる必要があるような気持ちがいたします。 例えば、よく
議論
される原子爆弾等の開発。これは、
学問
においては、研究においては自由であるかもしれないけれども、それが進められたがゆえに多くの人の生存権を結果的に奪う
可能性
を持ってきましたし、現実に多くの人の命が日本においては奪われたという現実もあるわけであります。 また、情報
関係
の技術の進歩というものが、非常に小型のテレビカメラまでつくられ、それが、伝送も自由にできるような技術も生まれることによって、思いもかけないところにカメラ等が設置をされていて、プライバシー権が非常に安易に侵されるような状況が生まれ始めてきているというような問題も生まれてきているわけでございまして、こういうような技術、科学的知見と言われるようなものの研究というものが、果たして本当に自由ということであり得るのか否か。これは、私は結論は今出せませんけれども、
一つ
の問題提起としてさせていただきたいと思います。 それから、第二点目の問題といたしましては、先ほど
参考人
から、
権利
侵害に係る問題については非常に個別の問題であり、その具体的な問題において
調整
されねばならない、それで、一方においては、
法律
において、もっと
人権制限
の
議論
というものについてはきちんと行わねばならない、こういうふうな部分の御指摘もあったわけでありますが、多様な
権利
というものが主張されるようになってくる中において、その
権利
調整
と言われるものは非常に難しくなってきているという現実が起こっていることを改めて認識しなきゃいけないのではないでしょうか。 そうなってまいりますと、果たして、
法律
という形でそれだけ複雑に入り組むような
権利
間の
調整
というのは可能なのか否かという問題もございます。また、ではそれが現実はどうかというと、司法の世界に持ち込まれて、そこで
調整
がなされるわけでありますが、司法における煩雑な手続を経ないとその
権利
調整
ができないという形が果たして妥当な社会のあり方なのか否か。もっと簡明に
調整
される仕組みというようなものも社会の中に組み込んでいく
必要性
が生まれつつあるのではないかという気持ちがいたしました。 それから第三点目には、私ども政治家も同じでございますが、公人と私人と言われる評価の問題も
一つ
論点としてあるような気がいたします。 最近の話題としては、当然、田中眞紀子元外務大臣の娘さんのお話、きのうもそれに対しての
一つ
の
判断
が高裁で示されたわけでありますけれども、どこまでが公人でありどこまでが私人であるのか、こういうところがあいまいなままに運用されれば、どんどん個人の
権利
が侵害されていくという
可能性
を持つわけであります。 また、私ども政治家にしろプロ野球の選手やスターと言われるようないろいろな人たちにしろ、公的な活動をしている部分であっては公人だとしても、私的な活動をしているところまで公人としての扱いをされてプライバシー権が侵されるべきであるか否か、こういう点についても
一つ
の論点があるような思いがいたします。 以上、問題提起ばかりで、それに対してどうだという
見解
は特に今の
段階
であるわけではございませんが、このきょうの
議論
についての問題指摘だけをさせていただきたいと思います。
土井たか子
69
○土井小
委員
きょうは、
松本参考人
からの
公共
の
福祉
に対しての
考え方
というのをしっかり聞くことができた思いでおります。それは、間々
公共
の
福祉
と秩序
維持
というのが混同されまして、同じように考えられるという嫌いが今までにあったのじゃないかと私自身思うんですね。
行政
の側面で、
人権
に対してどのような姿勢で臨むかというときに、まずは
規制
が大事だと。
規制
の要素として考えられるのは、やはり秩序
維持
であると。なぜ秩序
維持
が必要ですかというふうなことを聞いた場合には、やはり
公共
のためにということを考えなきゃなりませんと。
公共
の
福祉
と秩序というのは、何か一体のもののような取り扱い、
考え方
というのがあったのじゃないかと思いますが、これはまるで違うと私はやはり思うんですね。 簡単に言うならば、
公共
の
福祉
というのは、やはり
人権
そのものと矛盾しない。
人権
尊重という立場で、いかに
人権
を尊重していくかということを考えた場合に、きょうのお話では、
公共
の
福祉
という概念というのが
意味
を持つということがはっきりしたような感じがいたします。 きょうの
松本参考人
も含めまして、このところやはり、改憲を急ぐ必要はない、何らないと。現在の
憲法
について、これを的確に
理解
をして、そして生かしていくという努力こそ、十二条、十三条、まさしく
公共
の
福祉
について
関係
のある条文を見た場合には、不断の努力こそ肝心ということがやはり切々と伝わってくるという御
意見
が相次いでおりますから、私は、その御
意見
を尊重しなきゃならぬとますます思うわけでございます。 ありがとうございました。
中山太郎
70
○中山
会長
自民党の中山太郎でございます。 きょうの
松本参考人
のお話を聞いておって、
憲法
の問題に関しても、立法府の
法律
による
規制
というものがやはり重要な時代がやってきているというふうな御
意見
があったかと思います。 私は、この
憲法
も立派な
憲法
と信じていますけれども、ただ、
一つ
言えることは、
憲法
が制定された当時と現在との間に大きな格差が出てきている。それは、科学技術の発展ではないか。きょうも、放送に関する、プライバシーの侵害とかいろいろな問題が出てまいりましたけれども、
憲法
制定時には放送衛星もなかったし、通信衛星もなかったし、偵察衛星もなかった、こういったような状況と今日の状況とでは、もう格段の変化が起こってきている。 特に、このごろ週刊誌とかいろいろなところで問題になってきておりますけれども、送り手と受け手の問題、先ほども船田元君が申されましたけれども、携帯電話の発達というものが驚くべき速度で出始めてきた。今、これが大変社会に影響を与えつつある。こういった問題も含めて、科学技術の発展、発達と社会の受ける影響、そして、それが
憲法
違反かどうかということを
判断
する
裁判所
の能力といったものに
一つ
の大きな問題が潜んでいると思います。 ちなみに、裁判官の学歴を調べてみると、理工系の出身者が大体八名ぐらいですね。こういう
一つ
の、司法と立法と
行政
との間における、それから
学問
の世界における研究、これとの関連性というものを、将来、立法府としてどう考えていくのが必要なのかということをきょうは改めて痛感させられたということを申し上げておきたいと思います。
山花郁夫
71
○
山花
小
委員長
他に御発言ございますか。 それでは、討議も尽きたようでありますので、これにて自由討議を終了いたします。 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。 午前十一時三十一分散会