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金参考人(
通訳) 私は、一九七三年十一月二十四日に、
北朝鮮の
警備艇によって北に
拉致された
金柄淘と申します。
当時、私
どもは
漁業をやっておりまして、何もわからずに
漁業に専念しておりました。ところが、私
どもの船の
船長が
北朝鮮の
スパイに籠絡されまして、したがいまして、その
関係で西海の延坪島というところまで連れていかれてしまいました。
その
北朝鮮の
スパイになってしまった
船長に、なぜこんなところまで私
たちは来なくてはいけないのか、もう
北朝鮮との国境である三十八度線に近いじゃないかと言ったんですけれ
ども、有無を言わせずにそこまで連れていかれてしまったということです。しかしながら、私
たちは、北の海の方に行けば行くほど魚の
漁獲量が多くなるというふうに信じまして、そして
船長に言われるままに
北の方に進んでいったわけです。
当時、私
たちは
自分たちがどこの位置にいるかということはわかっておりませんでした。ですから、三十八度線の近くに来たということもよくはわかりませんでしたけれ
ども、かなり
北の方に来てしまったのではないかというふうな
思いがありまして、たまたま私
どもの横を
韓国の
艦隊が通り過ぎた、船が通り過ぎたわけですけれ
ども、そのときに私
どもは服を脱いで、そして助けてくれというふうに叫んだわけです。そして、北に近くなったと
思いましたので、船首を南に向けて南に行こうではないか、帰ろうではないかというふうに私
たちは言い合いました。
しかしながら、その
韓国の
艦隊が通り過ぎた後に、
北朝鮮の
警備艇三隻があらわれまして、私
どもを捕まえて、北に連れていかれてしまったわけです。そこから私
どもの北での
生活が始まりました。
私
どもは
北朝鮮に行きまして、行った後に
思想教育を一年半ほど受けました。そして、
北朝鮮の、北の
社会に配置されたわけですけれ
ども、私は、
咸鏡南道に
咸興市というのがありますが、そこの
工場に配置されました。
私は、
工場で
仕事をしながら、とにかく生き長らえよう、生命の維持をしようということで、
仕事を一生懸命いたしました。そして、その結果、勲章もたくさんもらいました。そして、
北朝鮮の労働党の信任というものも厚くなりました。
しかしながら、その
工場での
生活は次第に苦しくなっていきました。それで、私は農村の方に出ていきまして、
咸興市の方でやっております
ヤギ牧場で
仕事をすることになりました。私がその
ヤギ牧場で
仕事をしている間、北では
苦難の
行軍という非常に厳しい
行軍がございました。
その
行軍で三百五十万の人が
飢え死にをしたというふうに言われております。この三百五十万の人数というのは、
当局が公式に発表した
数字が三百五十万ということであります。
この
苦難の
行軍ということを考えますに、私が北でどうやって生きてこれたのか、どうやって生き長らえてこられたのか、生きていること自体が奇跡だというふうに考えます。
この
苦難の
行軍の時期を経まして、いわゆる
世界赤十字社、あるいは
韓国、そして
日本政府、またアメリカからも
食糧支援というのを私
どもは受けております。その
数字を見ますと、その当時の
北朝鮮の
住民が十分食べていける量であったにもかかわらず、
北朝鮮ではこの多くの
食糧というものが
人民に行き渡りませんでした。私は、この不可思議というものを考えますに、なぜこういうことになったのかというふうに思ってしまいます。
食糧援助を受けたこの
数字だけを見ても、
北朝鮮の
住民が一年間十分食べていけるだけの量でありました。しかしながら、北の
住民は、本来必要とする量の半分も食べることができず、三百五十万の人が
飢え死にをしたわけです。
つまり、
金正日がそれをどこに隠したのか、どこに売り払ってしまったのか、そういうことだと
思います。それはわかりませんけれ
ども、
世界から
支援を受けた
食糧があったにもかかわらず三百五十万の人が死んだというこの事実だけでも、北の
政府は
十分世界から抗議を受けるに値するというふうに考えます。
咸鏡南道の
咸興市というのは、
化学工業の
基地として知られたところであります。つまり、
化学工業の
工場が非常に多いところであります。この咸興の
化学工場に関しましては、イ・スンギという博士が研究した二・八
ビナロン企業連合所というものがございます。
私は、この
食糧支援の
状況を見ますと、北は戦争の準備しかしていなかったのではないかと思わざるを得ません。
私
どもが北に
拉致された当時
スパイだった
イ・ミヌという人物がいるんですけれ
ども、その
イ・ミヌという
スパイは、私
どもが北で、当然、いわゆる処断された、いわゆる生きていないというふうに考えていたわけですけれ
ども、
平壌市で生きているということに後になって気がつきました。
言ってみれば、彼によって私の二十代の
青春というものは奪われ、五十代になって
帰国をしたわけですけれ
ども、考えてみますに、私の
青春というのは一体どうしてこういうことになったのか、そう考えるだけでも胸が張り裂けそうな
思いがいたします。
私の
青春を捧げたそういう事件でありましたけれ
ども、にもかかわらず、私は何の
補償も受けておりませんし、現在、非常に
生活していく上で困難な
状況にございます。
最後に、
韓国政府そして
日本の
政府、それからすべての
世界のマスコミの
皆さん、多くの
人々が今からでも私
どもを御
支援していただきまして、そして私
どもの
補償問題について何らかの動きをしていただければというふうに考えております。私
ども、北からの
補償というものも受ける、当然そういう立場にあるというふうに考えております。
ありがとうございました。