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菊田参考人 ただいま御紹介いただきました
菊田でございます。
たまたま、きのう、参議院の
法務委員会でも
参考人として
意見を述べさせていただく機会がございました。多少重複することもございますので、御勘弁願いたいと
思います。
最初に、私は、たまたまと申しますか、
行刑改革会議というところの
委員に任命されましたので、その
関係でこの
参考人としてお招きもいただいたんじゃないかというふうに思っております。したがいまして、まず、
改革会議の
あり方といいますか、そのようなところに対する私の
思いから簡単に述べさせていただきたいと
思います。
私的諮問機関と申しますけれ
ども、公的なものでもございますので、
名古屋事件を初めとした不祥事を契機に、今までの
法務大臣の言動を
新聞等々ニュースなどでお伺いするところ、非常に真剣に
改革に取り組もうとされていることがうかがわれますので、長い
間犯罪学を研究してきた者の一人として、この際、一生懸命この
改革に取り組んでいきたいという覚悟をしておるところでございます。
ただ、これは、戦後長い歴史を持つ
矯正と、そして
監獄法という明治四十一年にできた百年に近くなろうとするこの法を、目標としては廃棄して、新しい
刑事施設法をつくろう、これは大きなことでございますので、そう簡単にはいかないという
思いもございます。
当面は、例えば十二月末までに
答申しようということですけれ
ども、
答申は可能でしょう。しかし、それは大きな柱。当面は、今の
受刑者の
状況というものを可能な限り公開するということ、つまり、
外部交通権という
専門用語がありますけれ
ども、すべてにおいて
密行主義が優先しているということを打破しなきゃいけない。これをどうするかという具体的な方策を確立することが、どうしても緊急の
課題だと思っております。
第二点は、今回の
事件にも直接かかわりのあります不服申し立て、これも
制度としてはいろいろな
制度がございます。法規に基づくものもありますし、
弁護士会、あるいは
行政裁判等に対する訴えというものもあります。例えば、国連の
規約人権委員会に対する
政府答弁でも、これこれのものがあります、こう言って、
日本では
人権救済についてはすべて完備しています、こういうふうに言っておりますけれ
ども、
実体が伴っていない。その証拠にこういう
事件が起こっているということでございますので、この不服申し立て
制度を、抜本的に新しい
制度をつくらなきゃならない。
具体的には、
第三者委員会という
言葉がありますが、そういうものを設けてやらなければいけないということでございますけれ
ども、これは少しうがった考え方かもしれませんが、
御存じのように、
人権擁護法案というのが今
法案として出されようとしております。これに対しては、野党を中心として、つまり
法務省の外局としての
委員会、これでは
本当の
意味の
第三者の
人権救済に当たらないという批判があることは
御存じのとおりでありますけれ
ども、もしこういう不服申し立て
制度が、我々、
会議であるべき姿を出しましても、この
人権擁護法案の中に組み入れられるということになりますと、これはまさに
実体を伴わないものになる
危険性が十分あります。その辺について、私
どもは非常に、私個人は非常に問題にしております。
人権擁護法というのを、この
会議の
答申が終わるまで可能な限り差し控えてもらいたいというような
思いもしております。いろいろ技術的な
方法はあろうかと
思います。
以上のほかに、一番緊急の
課題でありますところの
刑務所における医療問題、医者の問題、
医師の問題、これは何としても今回改善しなきゃならない
課題の
一つであります。具体的にはどうするか。今の
医師の
あり方、これも案としては、
法務省から独立すべきだという案も出ております。
以上三点については、当面緊急の
課題として
改革会議がそれを
答申するはずだと私は考えております。
ただ、もう少し大きな問題として、
本当に
刑事施設法案というものを、あるいは新しい
刑事施設法というものをつくるということになりますと、何といっても
懲役、禁錮という、
懲役、これは懲らしめの役です。それで、とにかく八時間、強制労働するということが
基本になっているわけです。それは、背景には
刑法というものがあって、
刑法にそういう規定があるわけですね。ですから、これは
刑法の
改正をしなければ事実上不可能だと
思います。それまで至らなきゃならない。
私は、理論的には、例えば
刑事施設法という
特別法でありましたならば、
特別法というのは
原則法を侵食する、これは法の発展から当然のことでありますので、この際、
刑事施設法というものが新しくできたときには、
刑法の
改正についても
法制審議会で真剣に
懲役をなくするということを議論いただきたいということも考えております。
なお、この
行刑会議自体が、本来私は
議員立法でこういう問題を、具体的に
条文を提示すべきだと思っておりましたが、内容はどうも、
法務省刑事局かあるいは
官房かよくわかりませんけれ
ども、
法務省主導の
もとに具体的な
法案がつくられようと予定されているようですけれ
ども、ここでもう既に
議員立法という手を離れているんじゃないか。そういう点で、幾らある
意味での
答申が出ましても、これに対して骨抜き、
言葉は悪いですけれ
ども、
条文において骨抜きされる
危険性は十分あります。これは、今までの
経験といいますか、経過から見ても、そういうことがよくあったことでございます。
したがって、現時点においては、
議員の方、特に
法務委員会の
先生方、あるいは学者、有識者、
弁護士等々は、
条文の各細則に至るまで
意見を交換し、そして
情報の交換を
法務省もお願いした上で議論を重ねて、あるべき
条文、具体的な
条文というものをつくってもらう必要があるというふうに思っております。
なお、これは私の個人的な
意見が強いんですけれ
ども、一方で
行刑改革をやりながら、一方で
死刑執行というようなことは、これはとても私の良心としてはできません。ですから、私はきのう申し上げたんですけれ
ども、
法務大臣に、こういう
行刑改革の
会議を存続していく、あるいは、近くまた、
死刑執行停止法案というものが出されようとしています。あるいは、国際的にも既に、一月一日までに、EUからは、
死刑執行を含むモラトリアムを何らか具体的に示せという勧告を受けております。それは過ぎております。そういう国際的な
状況の中で、私は、今や
死刑の
執行を停止する時期が来ていると思っております。そういう中での
行刑会議、一方では法的に、合法的に殺人をやりながら、一方では
行刑改革、これはもう理屈としてはとても通らない。
やはり
刑務官というのは、何といっても
矯正教育であります。一方で同じ
刑務官が人殺しをやっているじゃないか、そういう
死刑がある中で、一方ではこういう
事件が起こったからどうのこうのと言っても、それは
基本的に、私はそこに論理の矛盾があると考えております。そういうことを含めて
行刑会議に臨んでいきたいというふうに思っております。
なお、
刑務所の諸問題については広範囲にわたります。たまたま私が「
日本の
刑務所」という本を書きました。それ以前にも、「
受刑者の
人権と
法的地位」とかあるいは「
受刑者の
法的権利」というような本を何冊か書きましたし、「プリズナーの世界」という本も、百名近くの元
受刑者にインタビューして書いた、そういうようなものをまとめて新書に出した。これは、しかし、私が出した直後に
名古屋事件が偶然起こったわけですけれ
ども、今までのような
事件というものは、決してこの数年起こったことじゃなくて、ずっと、十年も前から起こっていることです。それはいろいろな
意味でも、私の書いたことはほかのところでも書かれているんですね。
ところが、いかんせん、マイナーな
出版社であったり、あるいは私自身も、
受刑者にインタビューしても、おまえは一方的な
受刑者だけの
意見だけを聞いて、彼らは
自分の
合理性を主張するのが非常にうまいんだからだまされているんだ、こういうことで、ひそかにぎくしゃくとしたものを感じていた。ところが、
名古屋事件が起こって、あの本がその前に出たということで非常に話題になったわけですけれ
ども、今日始まったわけじゃないわけです。
いろいろな
課題がありますが、
一つは、トピック的な問題として、とにかく
矯正局長、これは
検察官であります。
検察官は、
御存じのように、
検察官一体の
原則に基づいて、これはもう
上命下服の
もとにできている組織であります。これは
訴追官であります。
訴追官が
矯正局という、そういうところのトップにいること
自体が許せないんじゃないか、この際、
検察官は少なくとも
矯正局から排除してほしいということを私は申し上げたい。そのために、ここにおられるけれ
ども、長い
間刑務官として
刑務の
実務を積んできた方が最高に行っても
矯正管区長しかいかない、そんなことがあって許されるか、そういう問題があります。この際、その点を真剣に考えなきゃならないというふうに
思います。
さらに、そういう中で、現在の
刑務所の
職員、この
人たちの
発言の自由というものが極度に制約されています。「
刑政」という、これは
矯正協会のある
意味では私的な
雑誌ですけれ
ども、
全国の
刑務所の
職員に、強制的に全員が買わされて、そしてそこに載せているのは、要するに、
発言したいこと、いろいろな論文を出したい人、そういう人の
意見というものがすべて上司の
許可を受けなきゃ
発言できない。外から見た、もし誤りがあれば、
実務官おられるから後で訂正していただきたいですけれ
ども、要するに、
矯正局の
管理下における
雑誌であるわけです。
矯正協会という
財団法人でありながら、
矯正局の
支配下において発行されている。言論の自由は全くない。
私は、そういう
意味で、
刑務官の
組合をつくらなきゃだめじゃないか、
刑務職員組合、これを早急に検討する必要があると
思います。消防署の人でも
公労協等の
組合のメンバーにもなっているというふうに聞いております。
刑務官が
組合をつくれないはずがない。私は、
刑務官が団結して
組合をつくり、そして自由な
発言をできる場を設定するという
方向に行かなきゃならないだろうというふうに
思います。
細かいことを言うと、そのほか、
刑務官は
自分の
名前を明らかにしていないんですね。これは所によってはやっているようですけれ
ども、
全国的にはそういうことになっておりません。
受刑者も
自分の
名前をほとんどのところでは明らかにしない。
番号で呼ばれている。
番号と、
名前を明かさない
刑務官、これで
人間教育ができるか。それは、いろいろな
事件が起こったときに、だれだれにこういうことをされたということが特定できない、そういうような
状況を予想しているんじゃないか。簡単なことで、
刑務官に胸に
名前をつけなさい、
受刑者を
名前で呼べ、そういう簡単なことも、これは実現可能なことでありますから、私はやっていただきたいというように思っております。
あるいは、私
どもに大いに
関係のあることですけれ
ども、
一言に申しますと
情報公開。
規則とか、そういう大きなことではなくて、通達とか達示とかいろいろな通知とか、人によると毎日、
所長がかわるごとにいろいろなことが出てくるようですけれ
ども、指示とかですね、そういう、いわゆる
行政命令、そういうものが自動的に我々に入ってこない。
例えば、昔、
矯正六法というのがありました。そして、私
どもの自宅に自動的に配付されてきました。それはもう全部ストップをされて、今は十年以上前の台本だけが残っていて、差しかえができなくなっております。あるいは
全国の
刑務官が持っている赤六法というのがありますけれ
ども、それは全部
番号を振っていて、仮に、退職した人もそれを部外の人に見せてはいけない、そういう
状況の中で、
刑務所のことをおまえは知らないとか、あるいはどうのと言うこと
自体がおかしいじゃないか。こちらも努力しなきゃいけない。もちろん努力すれば手に入ります。だけれ
ども、相当な努力をしないと
弁護士もなかなか手に入らないという、こういうようなことを
情報公開の中の一環として、ぜひともこれは公開するという
方向にやっていただきたい。
あと、いろいろございます。個別的にも御質問を受けた上でお答えしたいと
思いますけれ
ども、
受刑者の問題としましては、単純なこと、
丸坊主。これは
法律上、一センチとか五センチとか、いろいろやっていますけれ
ども、
刑務所に入った途端に
丸坊主にして、これは屈辱を示す何物でもない。おまえは悪いことをしてきたんだから、頭を丸める、こんなことが今なお許されているということ
自体が問題だ、こういうふうに私は
思います。
あるいは衣食住という点からいきますと、
食事の点もいろいろございますけれ
ども、例えば水が飲みたい。私も今ここで話していて水が飲みたい。水が飲みたいといっても、時間が決まり、そして飲む量というか、それも限られている。水というものは、飲むということは、飲みたいときに飲ませる、これが
一つの、人の
扱いの
基本じゃないか。
そういうようなことも含めて、人としての
扱い、人としての
存在、いかに
犯罪者とはいえ、人としての
存在、それを
刑務所、そして
社会全体が認めているという中での
本当の
意味の
処遇というのが成り立つ。
今、朝、
受刑者が起きて、同僚におはようと言っても、これは
規則違反なんですよ。もちろん
刑務所によって違いますよ。だけれ
ども、多くの
刑務所はそういうふうに、黙して語らず、
仲間とも
あいさつもしない。ましてや、工場で
作業中に物を落として、拾うときにも、手を挙げて
許可を受けていなければ、人の物を拾っては
違反だ。そういう
善意でやる行為すら許されない。こういうような、いわゆる一口に言うと
軍隊調というものが今なお
全国の
刑務所を支配している。
これは昔はそうじゃなかったです。一九七〇年以前はそういうことはなかったように私は
思います。
死刑囚の
扱いも非常に緩やかな
扱いでした。だけれ
ども、今はとにかく想像を絶する
状況に変わってしまった。なぜ変わったのか。これは
法律によるとか
規則によるとか、そういうことじゃございません。どうも
刑務官という
人たちが、そういう
社会に、
善意な人も非常に立派な人も、そういう慣習の中に置かれると、その置かれた中で従わなければ
自分も生きていけない。そういう悪い
意味の
日本型行刑、いい
意味の
日本型行刑じゃなくなって、悪い
意味の
日本型行刑が今は定着して、そしてああいう
事件になって発展してきたんじゃないかなというふうに
思います。
したがいまして、例えば
保護房という問題をとりましても、
保護房というものは、あの今ある
保護房というものは私は廃止すべきだと
思います。
本来、
保護房というのは
自殺とかいう危険のある者を保護するためのものでありながら、今使われている
保護房というのは、
懲罰に利用されています。私は、そうじゃなくて、
保護房というのは、もっと窓が明るくて、そして
原則的に、今まで住んでいた
居房と同じ物理的な
状況の中に置く。そして、
審査会を経て
本当に
違反ということが明らかになったときに、改めて
懲罰を科す。その
懲罰はいろいろ種類がありますでしょう。そういう段取りのためのものであって、今、
保護房というものが
目的外に使われている。軽
屏禁と言われるような刑罰以外に、
保護房そのものが
懲罰の
手段として使われているというようなことがございます。
ここで、今、
革手錠廃止ということが決まりましたけれ
ども、それにかわるものとしていろいろなことを考えられているようです。だけれ
ども、私は、何でそんな、かわるものが必要かと
思いますね。いすに座らせて、そして
強制力で拘束する、あるいはベッドに寝かせて手足をくくる、みんな同じですよ、どんな
方法をとろうと。暴れてどうしようもないのなら、
精神的に問題があれば、これは
精神上の処置をとらなきゃならない相手であり、ただ単に暴れるのなら、それは警察の
保護房というか、フェルトの入った、
自殺を試みても安全なところに置くというようなことで十分であるわけですね。そういう形に、それ以上に
保護房に入れた上でさらに物理的に拘束するというものがあってはならないというようなことを思っております。
いずれにしても、
あと、
受刑者の賃金問題とか、その他、
受刑者が
弁護士とかあるいはその他の
審査会、
人権擁護委員会等に
手紙を出すについても、全部検閲するんですね。今回、
情願の問題もそうですけれ
ども、
情願は検閲できないようになっていますが、
法務省で幹部があけていたということですね。これはもう全然その
精神が通っていないわけですね。だから、これは、その他公的な
手紙は一切検閲してはならないということも確立しなきゃならないだろうと
思います。
そういうことがなされていないために、
受刑者は不満を申し上げることが事実上できない。これは、いろいろな
方法があります。例えば、廊下に箱を置いて、それで
受刑者がいつでも言いたいことを書ける。そして、
第三者委員会が来て、あるいは、
刑務所訪問委員会というものが諸外国の
先進国にありますが、そういう
人たちが来て、その
人たちだけが読むことができる。中には、
訴訟狂と言われるような、いても、いることも承知の上でそういう
制度を設けることこそ、
本当の
意味の
人権というものを未然に擁護する
一つの姿勢だと。
とにかく、人を人として扱うこと。
食事にしても、
刑務所に入った途端に、これは
人間として我々を扱ってくれているんだ、そういう
思いから、
受刑者は積極的に時間というものを
自分のものとして過ごそうという気持ちになるわけです。ところが、今の
状況は、お互いに、監視する方と監視される側が
本当に
敵対関係、こういう異常な
状況です。
受刑者に言わせると、
仲間と一緒じゃなくて
刑務官の中に一人置かれたら非常に恐怖を感じる、こういうようなことが、現に今の
刑務所の中にあるんじゃないか。それはすべてとは言わない、
刑務所長によっては非常にすばらしい
施設もあるわけです。だけれ
ども、その
所長がかわれば、また非常に、
もとのもくあみになる。
こういうような、地方によって、人によって変わる。これは、国際的あるいは
人道化という旗印の
もとにおける今後の
刑務所の
あり方としては、
人権という点においては、もっと普遍的なものであってなきゃならない。そういうような
方向での手だてというものを、いろいろな形で、
一つや二つでは済まない
手段を必要とします。いろいろな形で、また積み重ねが必要です。そういうことの、細かいことを含めた提示を今後ともやっていかなきゃならないというふうに思っております。
また、いろいろ御質問いただいた中でお答えできればありがたいと
思います。ありがとうございました。(拍手)