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道参考人 本日は、私のような若造をお招きいただきまして、
法務委員会もなかなか大胆というか、やるではないかと感服いたしております。お手やわらかによろしくお
願いします。
私は、
弁護士になりまして、登録いたしまして九年目でございますが、この一年半は
日弁連において
法科大学院の問題を
中心に携わってまいりました。本日議論をいたします、略称で申し上げますが、
派遣法については、私が見ておりまして、ともすると一連の
法科大学院関連法案のいわばおまけのように位置づけられて議論されがちなのですが、実はそうではない。私は、この
法案は、
法科大学院の
あり方、そして、ひいては
専門職大学院全体の
あり方を決する重要な
法案になる、
影響力の大きい
法案になるというふうに考えております。
したがって、私は、この
法案を考えるに当たっては、私どもの知性と感性、
センシティビティーという言い方をした学者もおられましたが、これを総動員いたしまして、なぜ今
日本に
法科大学院をつくるのかということから問い直して、この
法案とそして
法科大学院に期待されるいい
教育との
関係を考えていく必要があるというふうに思っております。
以下、私の個人的な
センシティビティーに基づいて御
意見申し上げたいと思っております。
私は、個人的に、
日本の
判事、
検事は極めて質の高い
実務家であるというふうに尊敬しております。もしかしたらこれは
日弁連と考え方が違うところかもしれませんが。とりわけ米国、
アメリカに留学中の体験、
経験を通じまして、
日本の
判事、
検事の
実務能力の高さ、そしてその清廉さは、ある
意味世界の
トップレベルではないかというふうに感じました。別にこれは
リップサービスでも何でもありません。さりながら、こうしたすぐれた
実務家がすぐれた
教育者になるかどうか、これは必ずしも同義ではない、別の問題であるというふうに考えております。
私は、こうした
問題意識を、別に理屈から引っ張り出して得たわけではなくて、私の
実体験を通じて、別に
弁護士としての
実体験ではなくて、比較的最近
教育を受ける、教えられる側にあったというその
実体験を通じて体得したというふうに言ってもいいかと思います。
私は、二〇〇〇年から
アメリカの
ニューヨーク大学というところの
修士課程に留学いたしました。
ニューヨーク滞在中は、私は、
アメリカが
理想の国だというふうに思ったことは一度もありませんで、逆に
日本はいい国なんだなというふうに改めて感じることの方が多かったと思います。
しかし、その中でも私は、
ロースクールで実践されていた
教育、これには深い感銘を受けました。特に、そこの
教育者の資質、そしてその
姿勢、
学生との
関係の持ち方、これについてはもう感服したと言っても過言ではない。私は、もちろんそれより以前に
日本の
大学、
法学部を卒業しておりますし、司法
研修所も修了しております。しかしながら、
アメリカで出会ったような
教育者には、私は今まで
日本では出会わなかったというふうに思います。どちらがすぐれていてどちらが劣っているという単純なことではなくて、明らかに質的に違う。
まず、
大学の、
日本の
法学部の
先生方との違いというのは、これは私が言うまでもなくよく取りざたされることで、
アメリカの
ロースクールの
教員たちというのはそれぞれに充実した
実務経験を有しており、少なからずそれに根差した
教育を行っているという
意味で、そういった
要素が少ない
日本の
法学部の
教育とは異なるというふうに言えると思います。
しかしながら、私は、
アメリカの
ロースクールで出会った
教育者たちは明らかに
日本の
研修所の
教官たちとも違っていた、同じ
実務家でありながら違っていたというふうに感じました。
つまり、
アメリカの
ロースクールの
教員たち、特に
専任教員は殊さらにそうなんですが、豊かな
実務経験を有しながらも、同時にあらゆる
法律実務家の
立場から自由であるということが最大の特徴であったと思っています。彼らは、その時々の
法律実務や立法を常に批判と
分析の
対象にしておりますし、
司法制度や
社会制度全体に対しても非常に
分析的で批判的な提言と
検証を行っている。
しかも、その
分析や
検証というのは高度にアカデミックなバックグラウンドを有するんですね。つまり、深い理論的な裏づけを有する。彼らは、もちろんその
専門分野に関して多くの論文や著作を世に送り出しているということが言えます。言ってみれば、彼らの
教育というのは、
実務経験を生かしながらも、その
実務という枠組みを超えて高度に学術的であり
分析的である。そして、常に
社会の
あり方を問い直していくというその
姿勢、その
意味で、非常にポリティカル、政治的でさえあるというふうに言えると感じました。
私は、元
検察官だった非常にすてきな、魅力的な
先生に出会いましたけれども、彼らは、時の
捜査実務というものを非常に
分析的に、そして批判的に
検討して、それを
学生に伝える。そして、人種のるつぼである
アメリカという
社会において
犯罪捜査はどうあるべきなのかという問題を根本から問い直しておられました。こうした授業にあって私
たち学生は、
知的探求心とともに
社会への関心というものを呼び覚まされました。そして、それについて
自分なりの考えを持って、ディスカッションを通じて人にそれを伝え、そして
自分も
世の中を、
社会を変えていくという楽しみ、そのことの喜びというものを学んでいくわけなんですね。
恐らく、あちらの
教育者、
ロースクールの
教育者は、
教え子たちが
世の中に出たときに、単なる優秀な
実務家であるということに甘んじることなく、
社会を不断に向上させ改善させていく
本当の
意味でのエリートになってほしいと願って
教育をしているのではないかというふうに考えました。私は、こういう
教育が、
アメリカ社会の美徳であるその底知れないエネルギーとそして向上心の高さ、そういったものを支えているんだというふうに心の底から実感いたしました。恐らく、
日本にはこれまでそういう
教育者が余りいなくて、もしもっとそういう
教育者が多く
日本にいたならば、私は、
日本にもっと自立的で生意気な若者、
人材が育っているのではないかというふうに思っております。
そして、この
ロースクールという
制度を
日本に移植するということの
意味ですが、私は実は、
アメリカから帰国した直後に
日本に
ロースクールができるんだということを聞きまして、
最初はげげっと思ったんですね。その主な
理由は、
学費が高くなる、高騰するということへの憂慮でした。私は、あちらで年間三百万ほどの
学費を払っておりましたので。
しかし、この
制度改革を機に、
日本に
アメリカで出会ったような
教育者たちが出現して、そしてああいった
教育が行われるのであれば、私は、これは
日本にとって大きな
チャンスである、失われていた活力とそして
自浄作用を取り戻す大きな
チャンスではないかというふうに思っております。多くの苦しみを伴いながらこの
制度改革をするわけですから、この
教育を実践しなければうそであるというふうに私は思っております。そして、そのために必要なのは、決して優秀な
実務家ではなくてすぐれた
教育者である、それを育てるチャレンジ精神旺盛で柔軟な
法科大学院なのであるというふうに考えております。
そして、この
法案が、そういったいい
法科大学院における
教育者、
教育というものを育てていく上でどういう
意味を持つのか。私は、これには
積極的側面と
消極的側面の両面があるというふうに思っております。
まず、
積極的側面としては、確かに
日本では
アメリカと違ってこれまで
法曹実務家と
研究者、
教育者というものがお互いそのテリトリーを切り分けてすみ分けてきましたので、一朝一夕に、先ほど申し上げた
教育者がすぐに出現するということは期待しにくい。そうした現状にかんがみると、当初は、まずは優秀な
実務家を
大学に送るということが、ある
意味、
一定程度意味を持つというふうに思っています。その限りにおいて、この
法案は、私が申し上げた
理想に対して、ある
意味、
追い風になる、しかし、その本質的な役割は過渡的であるというふうには考えておりますが、
追い風になり得るというふうに思っています。
ただ、同時に、消極的な
側面も持っている。この
法案は、ともすると、先ほど申し上げたような
理想の足かせにもなり得ると思っています。それは、この
法案の中に登場する
派遣という言葉に象徴的にあらわれていると思っています。
第一に、この
法案では、
教員は、みずから手を挙げるわけではなく、
派遣元が
組織や
キャリアシステムの一貫としてその
人事を決めて、それに基づいて
派遣が行われるわけです。これによると、必ずしも、
教育というものに主体的な意欲を持って、その適格を備えた人間が選ばれるということにはならないわけです。
そして二番目に、
法科大学院の側も基本的には
教員の
人選に関与しないということが、この
法案では原則とされているようです。これは、ある
意味、私、この
法案の致命的な欠点だと思っているんですね。
ロースクールが、先ほど述べたような力強い
教育をするとすれば、その
教員一人一人の
人選というのは、
ロースクールの命運を握る重要な
決定事項なんです。そこでは、どのぐらいの
実務経験があるかというような形式的、表層的な
基準だけではなくて、どのような
視点やメッセージを持って
学生を教えるのか、そして、
教育者としていかに魅力的であるのかということが重要な
要素となります。こうした角度からの
教員の
選任が行われない本
制度は、明らかに、大きな問題を抱えて出発していると言わざるを得ません。
そして第三に、
派遣という
システム、その
波及効果として、
派遣された
教員が、
派遣元から
教材や
教え方の
バックアップを受けて、ノウハウの伝授を受けて
教育を行うということが予想されます。そして、現にその動きもあるというふうに聞いております。こうした
バックアップは、
本当の
本当に立ち上げ時には、一定程度積極的な
意味を持つということがあるとは思いますが、時間を経て、ともすると、検察庁の
教育あるいは
何とか省の
教育というものを形成するおそれがあるわけです。これは、先ほど申し上げた、
実務に根差しながらもそこから自由である
ロースクールの
教育者の姿とは相入れないものであると思います。
四番目に、本
法案では、
派遣された
教員が、その本来の職務の対価を超えて国から
給与を補てんされるということが
制度化されています。これは、今まで挙げた三つの
問題点と相まって、一層、
教員が、
派遣元の
組織、
実務家としての
立場から自由になるということを妨げるものであると思っております。
私は、
大学を卒業して、数年、民間の企業に勤めまして、今も実は
日弁連からお給料をもらって働いておりますので、
サラリーを払う側ともらう側の
関係のせつなさというのは何となく肌身に感じて、知っているつもりでおります。別に、
判事さん、
検事さんがそうなるというようなことを言っているわけじゃなくて、
自分がそうだったら、恐らくそうなるということであると。
サラリーをくれる人に対して、思い切った、批判的な
分析をすることは難しくなるだろうというふうに、私の
センシティビティーで予測するわけです。
そして最後に、
派遣された
教員たちが、
教育の場を担うにとどまらず、その
法科大学院の
教授会に入るなどして
管理運営に参画していく場合、その場合には、もう
一つ別の
レベルの問題が生じると考えています。
つまり、先ほど言ったような、いい
教育をはぐくむ、そのためのチャレンジ精神豊かで柔軟な
法科大学院、これを育てていくためには、その
自主性と
多様性が何よりも大切なんですね。こういったことにかんがみると、
派遣された
教員が、
現職の
公務員のままで、その
法科大学院の
管理運営に関与するという場合、ひときわ高度に、外の
組織から自由である、独立であるということが要求されるというふうに思っております。
とりわけ、名指しで申し上げますと、
文部科学省や
法務省という
役所は、
法科大学院の生殺与奪の権限を持っているわけです。こうした
役所から
派遣された
教員と
法科大学院の
関係がゆめゆめ不健全なものにならないように、継続的に対策を講じていく必要があると思っております。
私は、
一つここで申し上げたいのは、先ほど
永井参考人がおっしゃられたように、本
法案が、
法科大学院とその
学生に対する財政支援としての
側面を持っているということに関してですが、そういう
側面を持っていることも否定はできませんが、私は、同じお金を、ここに突っ込むのではなくて、むしろ
法科大学院に直接、そして
学生たちに直接突っ込む、これが本来の
あり方であり、そうであれば、彼らにその金をどう使うかという選択権が残されているわけですから、そういった道を選択するべきだというふうに思っております。
以上、申し上げた点を踏まえると、私は、本
法案について、次の五点を留意するべきだというふうに思っております。
一つは、
法科大学院の
教育者にふさわしい意欲と適性を備えた
人材を、この
法案を通じて、透明な
基準と手続に基づいて選んでいくべきだというふうに思っております。
二番目に、その
人選を行う際には、最大限、
法科大学院の意向を尊重するべきだと考えます。
三番目に、
法科大学院と、教える、
教育に当たる
教員たちの
自主性や
多様性を妨げないように、むしろそれを促進する方向で
派遣の
実務が行われるべきだと思っております。
四番目に、先ほど申し上げたように、
給与の補てんの要件は、明確かつ具体的に、そして限定的に行うべきだというふうに思っております。
そして最後に、この
法案が積極的な
意味を持っているとしても、その役割は本質的に過渡的なものであると思っておりますので、この
制度、
法案が、過渡的な
意義を持つ、過渡的なものであるということを明確にすべきであるというふうに思っております。
最後に、私は、今後、
法曹三者と
研究者出身の
教員たちが共同して、
法科大学院におけるいい
教育を実現するために前向きに行動していくことが必要であると考えています。何より、ここが我々
日本人にとって大きな課題になると思うんですが、それぞれの
意見の違いを感情的な溝につなげずに、むしろ互いの考え方の違いを楽しみながら、それを最大限に活用しながら、よりよい
教育をこの国に実現していくという潔さとたくましさが必要なんではないかというふうに思っております。
以上でございます。(拍手)