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高橋参考人 ただいま御紹介いただきました高橋でございます。
本日は、
憲法調査会の
最高法規としての憲法の
あり方に関する
調査小委員会にお招きいただきましてありがとう存じます。
委員長の紹介にもございましたが、私は元
共同通信の社会部の記者でございまして、ちょうど今から三十年ほど前になりますけれども、
昭和天皇の御訪米、在位五十年、それから
エリザベス女王の来日といった大きな皇室の行事が続いてありましたときに、宮内庁の
記者クラブを担当いたしました。わずか二年半でございましたけれども、その後、
共同通信に戻りまして、いろいろなポストにつきました。昨年六月退任いたしましたが、現在までずっと皇室に関心を持ち続け、取材して本をまとめたり、あるいは、今御紹介にあずかりましたように、大学でお話をしたりしております。
ただ、こうした憲法の
調査委員会で、憲法の専門家でもございませんし、また
法制史家でもありませんし、歴史をきちっと勉強したわけでもございませんし、私のような者が当
委員会の委員の方々の議論の材料になりますかどうか、甚だ危惧しているところでございます。
しかし、事務局からの依頼もございましたので、私の
取材経験などをもとにいたしまして、
皇位継承の問題や、あるいはあるべき
象徴天皇の姿というようなものについて、お時間の許す限りお話しさせていただきたいと思います。
昨年十二月のことでございます。
皇太子夫妻は九日間の日程でニュージーランド、オーストラリアを訪問されました。
それを前に
記者会見がございまして、
皇太子妃の雅子さんは次のような心境を述べられました。今回、公式の訪問としては八年ぶりということで、
大変楽しみにしております。最近の二年間は、私の妊娠そして出産、子育てということで最近の二年は過ぎておりますけれども、それ以前の六年間、正直を申しまして、私にとりまして、結婚以前の生活では、私の育ってくる過程そしてまた結婚前の生活でも外国に参りますことが頻繁にございまして、そういったことが私の生活の一部となっておりましたことから、六年間の間、
外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は、正直申しまして、私自身、その状況に適応することはなかなか大きな努力が要ったということがございますと。
雅子さんは、言葉を選びながら丁寧に言われたもので、
十分意味が伝わりにくいかもしれませんけれども、要は、結婚前は、この方は外交官でございますので、外国に行くことが生活の一部だった、しかし、六年間どこへも行けず、またそうした生活になれるのは非常につらいことだったと言っておられるわけです。
それでは、なぜそうなのかということでありますけれども、結婚されてずっと
お子様がいなかったことは御承知のとおりでございます。八年後にやっと
内親王様が
生まれました。雅子さんのおっしゃっているのは、その間の長くつらかった日々が続いたということだと思います。
内親王様でしたから、現在の
皇室典範では皇位も継承できず、
皇太子夫妻にとりましては、まだまだこの悩みは続くわけです。
お手元に資料を三枚お配りしてありますけれども、その一枚目に、
皇位継承の憲法と
皇室典範の規定が書いてあります。これを読み上げますけれども、現在の憲法第二条は「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した
皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」とございます。それから、その条文を受けまして、
皇室典範第一条でございますが、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」とあります。
それから、かつての
大日本帝国憲法の第二条でも「
皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依
リ皇男子孫之
ヲ継承ス」とございます。また、それを受けまして、旧典範第一条には「
大日本国皇位ハ祖宗ノ
皇統ニシテ男系ノ男子之
ヲ継承ス」とございます。
字句の違いは多少ございますけれども、内容は同じと考えてよろしいと思います。旧典範の、皇位は祖宗の皇統にある
男系男子ということは、
皇祖天照大神に始まりとする
神武天皇以下歴代の天皇の血筋を受けた者が皇位を継承するという意味でございまして、現在の憲法ではそれを世襲としたというふうに思います。
次に、
皇室典範の第九条でございます。
第九条で、「天皇及び皇族は、養子をすることができない。」と書いてあります。旧典範四十二条、一番下でございますけれども、「
皇族ハ養子ヲ為
スコトヲ得ス」とあります。これは、一八八九年、明治二十二年でございますけれども、そのときに
皇室典範ができた。そして、
起草者たちは、皇族がふえると血筋があいまいになるというようなことは懸念いたしました。それが第一点。それより大きな問題もございまして、多数の皇族を抱えるということは、将来、皇室が財政的に立ち行かなくなることを憂えたというのもございます。
そしてさらに、第十二条でございますが、「
皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。」とございます。
最近では、
三笠宮家にお二人の
内親王がおられますが、その
内親王は、それぞれ結婚されまして
三笠宮家を離れて、一般の籍に入られました。後でも触れますけれども、
秋篠宮家、
寛仁親王家、
高円宮家、それぞれ女子の皇族がおられますが、この方々が将来結婚されて皇族の身分を離れれば、皇族でなくなります。それからもう一つは、生涯独身を続ければその宮家におるということになりますけれども、いずれにしても、亡くなったときにその宮家はなくなります。
そういたしますと、現在の
皇室典範では
男子継承、現在のところ女子しかおりませんので、この部分が一つ問題がある。それからもう一つは、皇位ばかりではなく宮家が、将来的にこれも不安定になるというようなことがございまして、私はやはり、現在の
皇室典範の改正というものは必要ではないかというふうに思っております。
この男子の継承ということにつきまして、歴代の天皇は大変苦労なさいました。少しその苦労の話をさせていただこうと思いますけれども、
近代日本の牽引車とも言える
明治天皇と、
皇后美子という方でございますが、そのお二人の間には
お子様がございませんでした。
明治天皇は、そこで六人の側室、当時の言葉では御
側女官と申し上げますけれども、御
側女官を置きまして、そのうち五人の側室から十五人の
お子さんがお
生まれになった。しかし、そのうちの十人は夭折されまして、成人されたのは五人でございます。その五人のうちたったお一人だけが親王、
大正天皇でございます。
大正天皇は、御承知のように、非常にお小さいころ病弱でございまして、元老の
山県有朋や
松方正義らは事態を憂慮しまして、もう一人親王をもうけてほしい、そのためには若い側室を置くように説得してほしいということを
侍従長の
徳大寺実則に伝えました。徳大寺は、さすがに自分で直接
天皇陛下に申し上げるのは遠慮しておられまして、
宮内省の編さんした「
明治天皇紀」にはこういうふうにあります。側室を置くということは、「敢えて逸楽のため召させたまふにあらず、誠を国家に致し、
皇祖皇宗に対する大孝を全うせらるゝの所以に外ならず」ということでございます。しかし、天皇は聞こし召さなかったと記録にございます。そのとき
明治天皇は四十五歳でした。
当時は医学が大変未発達でした。
明治天皇の曾祖父に当たる
光格天皇の皇子は十九人ございまして、そのうち、成人したのは二人でした。次の仁孝天皇は十五人で、成人したのは幕末の
孝明天皇と
内親王二人でございました。
明治天皇はその
孝明天皇を父といたしましたけれども、
孝明天皇の第一番目の
お子さんはすぐ亡くなりまして、
明治天皇は第二子でございます。
平安時代にさかのぼりますと、嵯峨天皇には、正室、側室が何と二十九人おりまして、皇子女は五十人を数えております。京の
都平安京を開いた
桓武天皇は、同じく二十六人、それから、
お子様は三十六人を数えております。
したがって、こういう皇位が男子でずっと続いてきたということは、側室の力が非常に大きかったというふうに考えてよろしいかと思います。したがって、一八八九年に発布された
皇室典範には、側室の皇子、つまり庶子でございますけれども、それも皇位の継承ができるというふうに書いてございます。先ほど申し上げました一枚目の紙の旧典範の第四条に、「
皇子孫ノ皇位ヲ
継承スルハ嫡出ヲ
先ニス皇庶子孫ノ皇位ヲ
継承スルハ皇嫡子孫皆在
ラサルトキニ限ル」とございますが、これは当然の規定でございました。
明治天皇の次の
大正天皇は、御承知のように、
昭和天皇、秩父宮、高松宮、
三笠宮と、四人の親王様がお
生まれになりました。恐らく、この方は歴代の天皇の中で、皇后との間に四人の親王をもうけられるということは初めてではないかというふうに思います。
次に、
昭和天皇でございますけれども、
昭和天皇は、一九二四年、大正十三年に結婚されまして、翌年、御長女の
内親王照宮を生みました。しかし、
内親王がずっと四人続きまして、一九三三年、昭和八年に、五人目に今の
天皇陛下、六人目に
常陸宮様が
生まれました。女子が余りにも続くので、
皇后陛下は女腹と陰口を言われたということもございます。それから、側近も非常に心配いたしまして、元老の
西園寺公望は、当時、内大臣だった牧野伸顕と相談いたしまして、先ほど申し上げました、養子をすることはできないというこの規定、これを変えてはどうかというような相談までいたしております。これは「
牧野伸顕日記」の中に出てまいります。
男系男子をずっと厳しく守ってきたわけですけれども、古代には女性の天皇もいたし、それからさらに、
江戸時代にもいたという話でございます。
それでは、なぜこういうような女性の天皇が存在したのか、あるいは、
女性天皇にならなかったのか、そのようなお話をしたいと思いますが、資料の二枚目に、過去の女性の天皇の一覧表が真ん中の方に書いてあります。最初の女性の天皇は
推古天皇でございます。
推古天皇の次が三十五代の皇極天皇でございまして、この方は、重祚といいまして、二度皇位を践まれました。そして、三十七代の
斉明天皇。次が、四十一代の
持統天皇。次が、四十三代の
元明天皇。四十四代は
元正天皇。四十六代は
孝謙天皇でございまして、この方が四十八代の
称徳天皇として重祚されます。
奈良時代には、ここに書いておりますように、六人の天皇がおりまして、八代の皇位を継承いたしました。それから八百五十年後の
江戸時代になりまして、第百九代に
明正天皇、第百十七代に後桜町天皇の二人が女性でございます。今の天皇からわずか八代前、時間的には二百三十年たっておりますけれども、八代前には女性の天皇でございました。
女性が即位したのは、簡単に申し上げますが、お世継ぎ、つまり皇嗣が幼少だったり、あるいは天皇が突然崩御されたり、あるいは退位するなどしたため、
皇位継承が危うくなりまして、その中継ぎ的な役割を果たしたということ、あるいは外戚の政治的な目的のためでございました。
女帝の共通点がございまして、皇太后、寡婦か、あるいは
内親王でも生涯独身を通したという方でございます。つまり、女性の天皇には
お子さんがいなかった。そして、この天皇が退位あるいは崩御いたしますと、
皇族男子の中から
適任者を選んで即位させまして、再び
男系男子に戻ったということがございます。
こういう
男系男子が継承するという古代からの慣習は、明治に入って
皇室典範で成文化されました。一八七五年、明治八年に
元老院が設立されまして、憲法の試案が幾つもつくられました。一八八五年、
宮内省の
制度取調局が立案した「
皇室制規」というのがございますけれども、ここでは「若
シ皇族中
男系絶ユルトキハ皇族中女系ヲ
以テ継承ス」とありまして、女性の天皇を認めております。
このころ、
皇位継承に関する規定が二十二できまして、そのうち男子のみと厳しく規定したのはたった四つでございます。四案だけでございます。そういうふうに女性を認めてもよいという規定がたくさんあったわけでございますけれども、この
男系男子に大きくシフトさせたのは
井上毅という方でございます。
この方は憲法や
教育勅語に深くかかわっておりまして、井上は、一番初めにその理由として、過去八人の女帝のうち、皇統が女系に移るのを避けようと、四人は独身を貫き
配偶者はいなかった、今後もこの方針を貫くならば、
天理人情に反する、そして妥当性を欠くと。また、
配偶者を迎えるとすれば、相手は皇族以外となります。
皇族男子がいれば当然皇位は継承するからでありまして、
配偶者は皇族以外になります。この場合、皇統は男系から女系に移ります。そして、
日本古来の伝統が断絶する。したがって、男系でなければいけないというふうなのが一点です。
このほかにも、女帝は、先ほど私が申し上げたように、中継ぎ的な君主であった、つまり便法だったというわけです。井上が申しますには、祖宗の常憲にあらず、つまり、先ほど申し上げました
皇祖皇宗の決まりではないんだというようなことを言って、まあ
緊急避難だというような意味だと思います。
それから第三番目でございますけれども、これは欧州の方でも原則的には男が践むんだ、継承するんだということを述べております。井上は若くして
フランスやドイツに学びまして、欧州の法典に明るかった人です。
フランク族の
サリカ法典の第五十九条に、妻は夫の土地を継承できないとありまして、これを援用して
フランス、
ベルギー、プロイセンなどでは女性の
王位継承権が認められておりませんでした。
伊藤博文は「
皇室典範義解」という
皇室典範の解説書のようなものを書いておりますけれども、これは井上の起草したものでございます。この中で、万世にわたって変えてはいけない三大則を井上は書いております、三大原則でございますが。一つは、皇祚を践むは皇胤に限る、皇祚を践むは男系に限る、皇祚は一系にして分裂すべからざることの三つを挙げております。
男系男子という原則は、戦後の
皇室典範改正のときも当然のように貫かれました。もちろんこの中で、憲法第十四条の法のもとの平等ということがございまして、
女性天皇の議論もされたわけですけれども、結果的には
皇位継承は
男系男子ということになりました。
国務大臣の
幣原喜重郎という方は、
貴族院での答弁で、当時親王がおる、今の
天皇陛下、
常陸宮様、それから
三笠宮寛仁親王、そういった方がおられるのを見て、現在は女帝を立てる、そういう情勢には迫られていないということを言っておられますし、
憲法担当大臣の
金森徳次郎は、女子に
皇位継承の資格を認めるかどうかということになりますと、実に幾多の問題が起こってくるのでありまして、男系でなければならぬということは、もう
日本国民の確信であろうかと存じますと話しております。しかし、その一方で金森は、憲法第二条で世襲としてありますが、これは必ずしも
男系男子を意味するということは決まっていないのだということを言っておりまして、
時代時代の研究によって世襲は男子であるのか女子であるのかと考える余地を残しております。
また、これは後日談になりますけれども、一九五九年の
憲法調査会で、かつて
皇室典範の
改正作業に加わりました
高尾亮一という
宮内省の当時の
文書課長でございますけれども、この方がこういう証言をしております。私どもは
男系男子の伝統ということを尊重しようという、出発点から先に立ったような話ではありますが、そういうことで立案したのであります。女帝を置くということになりますと、
皇配殿下、プリンスコンソートの問題が起きます。イギリスや
オランダのように皇配についての伝統が確立していればともかく、その取り扱いと皇配の選考とについて、非常に複雑な問題になってしまいますと証言しております。
こう見ますと、女子の
皇位継承の問題は、戦後のときも余り問題にはなっていなかったような気もいたしますし、一方、深い議論は女性の天皇については避けたのではないかという印象を私は持っています。
皇太子妃が懐妊したという発表のあった後、
女性天皇に関する関心が急速に高まってまいりました。その資料は、二枚目の
日本世論調査会の資料がございます。この
日本世論調査会というのは、
共同通信の加盟社が集まった
世論調査会でございます。この中に、過去二十六年間に七回、
女性天皇について
アンケート調査をしておりますが、一九七五年には「男子に限る」という回答が五五%ございました。「女子でもよい」というのは三二%でした。それが二〇〇一年七月、
皇太子妃が懐妊したという発表があった後は、それぞれ一五%と七〇%に大きく逆転しております。
世論調査では
女性天皇について圧倒的な支持がありますが、実現するためには現行の
皇室典範を改正しなければなりません。
皇太子妃雅子さんがこの先男児を出産する可能性は否定するものではありませんけれども、
皇位継承の危機は依然として続くということになります。
このお渡しいたしました資料の中に、
皇位継承順位というのが書いてございます。新旧の
皇室典範第二条以下に
皇位継承順位が細かく規定されておりますけれども、簡単に申し上げますと、
直系長系主義をとっていると考えてよろしいと思います。
この私の資料の中で、
皇位継承順位の一番は、
皇太子殿下でございます。それから、
長系主義でございますので先に
皇太子殿下が皇位を継承いたしまして、次に
秋篠宮さんが第二番目の
皇位継承者ということになります。直系で上に上ってまいりまして、
常陸宮様が第三位。それからまた上に上りまして、
昭和天皇が
皇位継承者になります。
長系主義ですから
昭和天皇になりまして、その次に秩父宮、高松宮というふうに
皇位継承順位はまいりますけれども、しかし、もうお二人とも薨去されておりますので、四番目の
継承順位が
三笠宮崇仁親王ということになります。
長系主義で下におりてまいりまして
寛仁親王、桂宮というようなことでございます。
問題はここからです。一番若い
皇位継承者の
秋篠宮様は三十七歳でございます。そして、この方の後には皇族は女子しかございません。今の
天皇家の御長女の紀宮様が三十三歳、それから敬宮様、愛子さんはお
生まれになったばかりでございますし、
秋篠宮の眞子さんが十一歳、佳子さんは八歳、
寛仁親王家の彬子さんは二十一歳、瑶子さんは十九歳、高円宮さんの承子さんは十六歳、典子さんは十四歳、絢子さんは十二歳というふうになっております。現在、前から申し上げているように、女子に
皇位継承権はありませんし、将来的には、
秋篠宮様がお亡くなりになった段階では、このままでいきますと、
皇位継承者はいなくなってしまうということでございます。
まず、どうするかといいますと、大きなものが二つございまして、明治の三大則にこだわるとするなら旧皇族の復帰を図る。これは、旧皇族は天皇の血筋を引いておりますので先ほどの
井上毅の三大則に合うわけでございますけれども、一九四七年、昭和二十二年に皇籍から離脱した十一宮家の末裔からふさわしい人を皇族に戻すということがございます。しかし、臣籍に降下した人が天皇になったという例は五十九代の宇多天皇に例があるだけでございまして、この方は三年間降下しただけでございました。しかし、十一宮家の方は降下してもう既に半世紀以上がたっていますし、
国民感情からいってこの話は無理だというふうに思います。
次は、女系を認めることでございます。
千数百年続いた
天皇家の血統の大転換ということになりますけれども、
天皇家の血を引いている世襲には違いございません。典範の第十二条で、
皇族女子は一般の人と結婚すると皇族の身分も離れることになっておりますけれども、それを、
皇族男子と同じように結婚に際して宮家を創設できるように改正するのはどうかというふうに思います。
この場合、
天皇直系の女子だけを残すのか、あるいは傍系も認めるのかということが問題になります。今、直系は
愛子内親王以下四人おられますし、傍系は、先ほど御紹介いたしましたけれども、二宮家の五人いますが、双方とも皇族でございます。しかし、日本は
永世皇族制をとっておりますので、皇族がふえるということになりますと大変問題になります。その範囲をどこでどのようにして歯どめをかけるのかということもございますし、
高尾証言のように、女性が皇位を継承すると皇配を探すのは大変難しい問題になるのではないかというふうに思います。
ヨーロッパの王室の例も一枚目に書いておりますが、
男子優先、女子も可という国は、英国、デンマーク、スペイン。ただし、英国は
長子優先の方向に進むというようなことになっております。それから、長子、第一子優先は、スウェーデン、
オランダ、
ベルギー、ノルウェーというふうになっております。
仮に、女性に
皇位継承を認めるのはよいとして、イギリス型のように
男子優先、女子でも可ということにいたしますと、いつの時点で男子が
生まれないということを見きわめるのか、その見きわめをつけるのか、そのようなことを考えているうちに時間がたち、対象となる
皇族女子が成長してしまったりすることがある。
皇位を継承するということは単に世襲で血筋がつながっていればよいというのではないというふうに思います。天皇になるということは、極端なことを言いますと、
生まれたときから帝王学が始まり、本人もあるいは周囲の人たちもそういう目で見る、そして天皇という人格が形成されるのではないか。そういうふうに考えますと、いつまでも不安定な状態のままではなくて、私は、ためらいなく、第一子が皇位を継承するというふうに改めてよいのではないかと思います。
今申し上げました帝王学の問題でございますけれども、歴代の天皇は、中世のころから、次代の天皇のため、あるいは後に来る天皇のために幾つものテキストを残しております。
まず、さきに述べました宇多天皇でございますけれども、この方は、「寛平御遺戒」というものを書いておりまして、その中で、天皇というものは愛憎に迷うなかれ、意を平均に用いて好悪によるなかれ、よく喜怒を慎みて色をあらわすなかれと述べています。八十四代順徳天皇の「禁秘御抄」にはこうあります。およそ禁中の作法、神事を先にし他事を後にす、旦暮敬神の叡慮、懈怠なし。旦暮、朝晩ですね、敬神は神を敬うという心は怠ってはいけない。もっとほかにも幾つかありますが、こうしたテキストで歴代の天皇が述べていることは、神事を大事にすること、学問、教養を深めること、万人に公平であること、常に一般の国民のことについて忘れてはいけないというようなことであります。
現在の
天皇陛下は、九〇年の十一月十二日に即位礼を挙げられまして、正殿に立たれて次のように言っておられます。全文を読ませていただきますと、
御父
昭和天皇の六十余年にわたる御在位の間、いかなるときも、国民と苦楽を共にされた御心を心として、常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国及び
日本国民統合の象徴としてのつとめを果すことを誓い、国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。
というふうに述べております。
私は、この短い平易なお言葉の中に
象徴天皇としてのキーワードが含まれているというふうに思います。それは、国民とともに、国民の幸福を願う、憲法を遵守するなどでございますけれども、こういったことが
象徴天皇としてのあるべき形ではないかというふうに思いまして、これが
象徴天皇の第一の要件ではないかと思います。
その次の要件といたしまして、これは幾つもあるわけでございますけれども、一番身近な例として、天皇のお名前に仁という言葉がついております。裕仁、明仁というようにでございますが。この仁という意味は、愛情をほかに及ぼすこと、思いやりや慈しみの心を持つことということでございます。最初に仁という名前がついた天皇は、五十六代の清和天皇でございまして、以後七十代の後冷泉天皇からはほとんどの天皇にこの仁という名前がついております。常に仁というものを忘れるなという戒め、皇室としての戒めではないかというふうに思います。
天皇家が千数百年続いてきたのは、天皇が象徴であったからというふうに思います。ですから、
象徴天皇という概念は、形としてはそうであっても、決して米国から押しつけられたものではないと思います。
横浜国大の今谷明さんという先生は、歴史家の津田左右吉博士が終戦直後こういうふうに書いていると言っています。天皇は国民的結合の中心であり、国民精神の生きた象徴であるところに皇室存在の意義があることになる。それからまた、国家主義者で国体をよく研究されました里見岸雄という博士は一九三二年の論文で、天皇は日本民族の社会及び国家における最高の象徴という言葉を使っておられます。今の天皇も皇太子時代の御発言の中で、天皇は文化といったものを大事にして、権力がある独裁者というような人は天皇の中では少なかった、象徴というものは決して戦後にできたものではなく、非常に古い時代から天皇は象徴的存在だったと思うというふうに言っておられます。
次に、
象徴天皇として大切な要件でございますけれども、やいばに血を塗らざる伝統というのがあると思います。この意味は、みずから刀を手にして戦わないという意味です。今の陛下も、皇室の伝統を見ると、武ではなく常に学問でした、歴史上、軍服姿の天皇は少なかったのですと言っておられます。
その天皇あるいは皇帝が、外国の例を見てみますと、外国の皇帝は権力を持っております。ですから、常に自分の身を守らなきゃいけない。そのために自分の住むところは、例えば中国の故宮のように幾重にも厚い壁があり、そしてそのずっと奥の方に皇帝が住んでいる。ヨーロッパのお城も御存じのとおり高いところに建っていたり、あるいは日本の武士も堀をめぐらせて高いところに建って、石垣を建てるところに住んでいるのは、常に権力があったということです。それは外敵から身を守らなきゃいけませんし、いつ倒されるかわからない、そういう不安があったからだと思います。
しかし、天皇が千年来住んでいた京都の御所というものは、平らなところにあり、築地塀で囲まれているといっても簡単に破られるような代物でございました。それでも倒されずにきたのは、天皇は政治と離れて不親政であり、やいばに血を塗らざる伝統を受け継いできたからではなかったでしょうか。
実際問題として、終戦直後のことでございますが、高松宮と
三笠宮が、今皇居は、かつては宮城と言っておりましたけれども、宮城が城と呼ばれ、幾重にも堀をめぐらされているようなところに住んでいるのは悪いんではないか、皇居をどこかほかに移転してはどうかというような論議をしています。これは当時侍従次長でありました木下道雄の日記に書いてあります。
そうはいいましても、かつて武の天皇もおられました。時間がございませんので説明は避けますけれども、後鳥羽天皇、鎌倉幕府や、あるいは九十六代の後醍醐天皇。
明治天皇の正装も軍服姿でございました。
大日本帝国憲法は、天皇を国の元首とし、統治権を総攬することをうたい、陸軍、海軍を統帥し、宣戦を布告し、講和を結ぶ権限を持たせた。憲法の条規によってという抑制はございましたけれども、憲法の条章を見れば軍服を着た天皇でありまして、権力者としてのイメージのある天皇でございます。この姿も皇室の伝統にもとり、明治憲法は五十八年でついえたというふうに思います。長い
天皇家の歴史の中で、やいばを振りかざしたという天皇は本当にごく少ないというふうに思います。
平成の天皇は、皇太子時代から皇后とともに、さきの発言やお言葉に見られるように、
象徴天皇としての道を模索してこられました。よく災害などのお見舞いで行かれますけれども、あのときの姿、例えば、阪神・淡路大震災の現地を見舞った日は大変寒い日でした。そこで、その寒い日のところに、国民とともにある天皇は靴下のまま被災者の話を聞いて、車いすの老人の手が毛布からはみ出しているのに気づいた皇后はそっと手を押し込んだというようなことがございます。こうした天皇の姿は皇太子時代から私も何回も見たことでございます。
しかし、文芸評論家の江藤淳という人は、今の陛下の平成流を次のように雑誌で批判されます。何もひざまずく必要はない、被災者と同じ目線である必要もない、現行憲法上も特別な地位におられる方であれば、見舞いは馬上であろうと車上であろうとよいというふうに言っておられます。
しかし、他人にどう言われても、天皇は目線を国民と同じレベルに置き続けるというふうに思います。即位十年の
記者会見で、天皇は、困難な状況にある人々に心を寄せることは私どもの務めであり、さらに心を尽くしてこの務めを果たしていかなければならないというふうに思いますと言っておられます。
象徴天皇が五十年たちますと、
象徴天皇の基本的な形というものが本来のものからゆがめられるということも私は散見するものでございます。申し上げるまでもありませんけれども、天皇の国事行為は憲法にきちんと十二項定められております。それ以外の行為は私的行為、それから真ん中に公的行為というものがございますが、そのゆがめられている形のうちとして私が一つ思いますのは、皇室外交についてでございます。
天皇が外国を訪問すること自体は政府の判断でありまして、それ自体が政治的な色彩があり、政治的であるということは否めないと思います。しかし、その動機が、政府の都合、外交交渉が失敗したときの補完、あるいは外交交渉が乗り上げたときのそういった補完によって皇室、天皇の外交が行われるときもあるんではないか、あるいは相手国の意向によって天皇に行っていただくというような場合もあるのではないかというふうに思います。
今の天皇が皇太子時代、六〇年安保のときに、アメリカに結婚したばかりの皇后とともに参りました。これは、当時の日本の反米感情に対して、アメリカの気持ちを柔軟にする、やわらかくするという意味もございましたし、九二年、中国に天皇が訪問した、このときも大変反対がございました。あるいは、
昭和天皇の一九七五年の訪米、このときは大変もめまして、日米関係の総決算というものはございましたでしょうけれども、佐藤内閣、田中内閣、三木内閣、その三代の交渉がございまして、やっと三代目に七年間越しの話で決まりました。しかし、天皇の訪米をめぐってはかなり国論が割れまして、野党は天皇の政治利用ではないかというふうに反対して、皇室が大変な政治問題に巻き込まれたということもございます。
政治色を皇室外交からできるだけ抜くというようなことは必要なことでございますし、私が思いますのは、両陛下の
外国訪問には必ず元首相とか元副総理とか外務大臣経験者といったような大物の政治家が首席随員としてついてまいりますが、果たしてこれは必要なことなんでしょうか。そうした大物政治家の同行が、かえって天皇の外交に政治色を持たせるような感じがいたします。
これまでるる述べてまいりましたけれども、
象徴天皇というのは、日本に長い伝統があり、日本人にもなじんだものになっていると私は思います。各種の
世論調査では、
象徴天皇は今の形が一番よろしいというものが半数以上をはるかに超えております。私も支持する一人でありますけれども、
象徴天皇で問題点が、先ほど一つ申し上げました皇室外交の点などでございます。
そういう問題点があるというようなことについてやはり是正していきながら、私が申し上げた、ずっと日本に伝わっている
象徴天皇の姿を求めていく。そのためには国会などで大いに議論していただくのも結構でございます。ただ、天皇について議論をいたしますと、どうしても戦前の天皇の姿が目に浮かびまして、実はそうではなくて、日本の本来あるべき
象徴天皇の姿について議論していただきたいというふうに思います。
それからもう一つは、さきに申し上げました
皇室典範の改正の問題でございます。
象徴天皇は現在非常に支持されている、それから、あるべき形としてはすばらしいものだというふうに私は思いますが、しかし、そのもとである皇位の問題が不安定では、これは天皇の形として、あるいは日本国としても非常に問題ではないか。これをきちんと整えることが政治家の資格ではないかというふうに私は思います。
途中、時間がございませんで、多少はしょったことがございますし、私の話が十分行き届かない点もございましたが、貴重なお時間をちょうだいいたしましたことをお礼申し上げます。
ありがとうございました。(拍手)