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首藤小
委員 民主党の
首藤信彦です。
国際協力、すなわち、
我が国の
資源をどのように
国際の平和あるいは
貧困対策、
福祉の
向上、そうしたものに、
国際協調そして
国際協力、それを深めることによって貢献していくかということであります。それに対して
我が国の
資源を移転するわけですが、
PKOも含め、この問題に関してはさまざまな
要素が含まれます。きょうは、
課題に従い、その中でも
ODAの
あり方を
中心として話していきたいと思います。
一時は、一兆円を超え、
国民一人当たり一万円と言われた
ODAですが、最近では、
外務省スキャンダルにより
国民の支持を失い、
政府失政と
景気後退を受けて減少している、そうした傾向があります。それでもいまだに九千億円
程度の水準にあるわけですが、しかし、よく考えてみれば、なぜ
国民の
税金が
ODAという
枠組みで
他国の
国民のために使われるのか、その
憲法上の
根拠はどこにあるのかということは、必ずしも明確ではないように思われます。
そこで、最近では、
ODAをより短期的な
国民利益やあるいは
国益に直結させようという主張が強くなってきています。また、縮小し続ける原資、
資金を
外交手段に有効に活用しようとすることによって、いわゆる
ODAの
戦略性というものが最近強く主張されるようになりました。
そこで、ここでは
ODAの
憲法上の
根拠に基づいて
意見を述べたいと思います。
日本の
憲法についてですが、
修正を頻繁に行う諸外国の
憲法と異なり、
日本国憲法がこれまで無
修正で来たことは、その
特質の
一つであると言うことができると思います。その背景は、両議院の三分の二の発議と
国民投票による過半数の賛成など、主として、その
改正手続のハードルの高さが
指摘されてきましたが、私は、むしろ、第二次
大戦という未曾有の惨禍の後に、
国際平和を希求する
社会において、過去の
政治システムと断絶した
基本法システムをつくり出した、すなわち、
憲法成立時の
国際状況が生み出した高い
精神性、
先見性、そして
国際性こそが、
日本国憲法が原形を
変化することなく今日に至ってきた理由であると考えております。
すなわち、
憲法に込められた
自由平等概念、
差別撤廃、
人権擁護や
福祉向上、そして
国際平和主義など
現代社会の
中心テーマの先取りこそが現
憲法、もとの
憲法の寿命を延長してきた、そういうふうに考えております。
そして、本来、国内的な規範である
憲法の前文に、諸
国民との協和による成果、
人類普遍の原理、さらに、
世界の専制と隷従の
排除、圧迫と偏狭の
排除をうたい、
国際社会において名誉ある地位を占めたいという
意思を持ち、恐怖と欠乏を追放して、平和のうちの生存を
世界の
国民と分かち合うという
国際性や、今流に言えば
グローバル社会における
人間の
安全保障を求めているところにこの
特質があると思います。
憲法の本文に
明文規定のない
ODAでありますが、私はここにこそ
ODAの
根拠が求められるべきであろうと思っております。
現在、
平成十四年の
ODAを見ますと、九千百億円に達しているわけですが、その起点というものは、
人類の普遍的な
価値に基づく
国際協力や
海外援助ではありませんでした。当初は、言うまでもなく、
日本軍が占領した
アジア地域に対する戦後
賠償であり、占領と
戦争が破壊したものに対する回復でありました。それは言うなれば
日本の
損害賠償行為であり、ある
意味で国内問題であると定義することもできたわけであります。後にそれは
経済協力という
用語によって行われるようになりました。
しかしながら、その
用語自体は、もともと
フランスなどの
海外州、
海外県、そういった
植民地を抱える国が持っていた
海外州、
海外県への
交付金でありまして、
日本の
海外援助とは異なっていたはずであります。
しかし、次第に
日本の
経済協力は極めて
タイド性の強い、言うなれば
日本企業が受注することを
前提とした
要素が強いようになり、その
意味では、国内的なものであり、また狭義の
国益概念とも合致したわけであります。
同様に、
海外援助を
自国の
安全保障の一環と把握することも可能であります。要するに、
海外援助は、それが主権
国家においてそれを
構成する
要素に貢献する場合、すなわち、
国益に直結する場合は、たとえそれが
憲法上に明記がなくても認められるべきものでありましょう。
問題は、
ODAの
タイド性が薄れ、
人間の
安全保障と言われるように、
国際社会の新しいニーズに
対応する
援助であります。これは
日本国の主権の外側への
経済支援であり、また、
憲法が成立した時期には想像もしていなかった
要素でありますし、そうしたものに関して
憲法的な
根拠に疑義があると言わざるを得ません。
このように考えると、現在
日本において、いわゆる
国益に直結しないものに九千億円の一部とはいえ、このような対象に支出を行う
ODAが法的な
根拠に乏しいという
指摘が出てくるのも当然であると考えます。
そこで、改めて
憲法前文の
価値が出てくるというのが私の主張であります。
憲法本文の中に
海外援助に関する明文がなくても、その前文において、むしろそれを積極的に展開することが求められているからであります。
このような前文の精神は、
憲法が
制定される過程における当時の
世界の時代精神が強く影響していると想像されます。一九四六年二月三日のいわゆるマッカーサー三原則とされるものに、
日本は
紛争解決のための
手段としての
戦争及び自己の安全を保持するための
手段としてのそれも放棄する、
日本はその防衛と保護を今や
世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねるというのがあります。
もちろん、その後に、個別的自衛権に関する部分は当然のことながら否定されたわけですが、この当時において、
戦争と
戦争の原因となる
貧困や差別をも含めて
世界的な
枠組みで
解決しようという理想主義的な
考え方が存在したことを示しております。
すなわち、
国益や
国家の内的な問題を
世界全体の普遍的な問題として再定義し、それを
世界枠の中で
解決しようとする
方向性が、ちょうどそれが、当時、急激に進行した
冷戦構造成立の過程で無視されていったように、現在、
冷戦構造が
崩壊した後、その
冷戦構造崩壊後の冷戦後
世界において、再度その
価値が重視されるべきではないかと考えております。
冷戦後
世界における、民族、宗教
紛争、
地域紛争や内戦、難民、避難民、核兵器の拡散、テロリズムの蔓延など
安全保障上の問題、交通、通信
手段の発達、カジノ化した
経済、グローバリズムの登場、蔓延する
貧困、遺伝子工学による食品の生産、エイズの蔓延、高齢化
社会の登場など、冷戦後の十年間に発生した劇的な
変化と
社会変容は枚挙にいとまがありません。
このような激変の中で、
冷戦構造期に成立した
国際機構もまた、制度疲労と
機能不全を起こしています。それは、
国連安保理だけではなく、ユニセフやUNDP、IMFやIBRDのように、設立、創設当初のミッションの変更を迫られている
機関も、また、既存の
国際機関がカバーしていない部分で新たに発生する問題もあります。私は、これを
国際機構の失敗ととらえています。失敗というのは、一般に使われる失敗という
意味ではなくて、いわゆる市場の失敗、すなわち、それが
機能不全に陥っている、あるいは不存在であるという
意味の失敗でありますが、まさに現在の
世界は、そうした、
国連も含めて
国際機構の失敗というのが顕著化している
世界であります。
国際機構の変容と再編が求められているわけですが、同時に、
日本のマルチ
分野での
資金提供、すなわち、そうした
国際機関への
資金提供というものも再
検討する時期にあるということを
指摘しておきたいと思います。
現在、
世界においてそうしたさまざまな新しい
要素が出てきております。それは
憲法制定時には存在しなかった
要素でありますが、そうしたものに関して、これから、
国際協調、
国際協力というものも、そうした
要素を勘案しながら対処していく必要があると思っております。
例えば、
安全保障と
経済協力の
相互連関性、あるいは、
国家というものあるいは国境というものがどんどん変容していく、さらに、冷戦後に発生した
地域紛争、いわゆる亜
国家の
紛争と言われるテロリズム、
国家以下の
主体によるそうした
紛争行為、テロリズム、あるいは巨大化した犯罪集団。そのように、新たなアクターというものが
国際社会に登場してきている。そして、その多くがまたいろいろな問題を引き起こしているわけであります。何よりも新しい
要素としては、グローバルな視座というものが求められるということであります。それは、今までの
国家間、国をベースとした
国家間の
関係だけではなく、我々が住んでいる地球全体を考える、そうしたグローバルな視座もまた登場してきています。
そして、私たちの平和と安全という点においては、
人間の
安全保障という
考え方が登場してきました。そこにおいては、
安全保障の単位は
国家ではなく家族や個人であり、またその家族や個人を脅かす
要素というもの、脅威となる
要素が決して
他国の侵略ではなく、むしろ
貧困などの
経済問題であったりする、差別の問題であったりする、こうした
視点が新たに登場してきているわけであります。
同じように、そうした問題に対して
国際社会がどのようにそれを改善していくかということで、ガバナンスとか民主化
努力というものも、
国際協力の大きな
要素として登場してきております。そして、そうしたものを行うのが、今までの
国家だけではなく、いわゆるCSOと言われるものが非常に重要な
役割を演ずるようになりました。すなわち、
国家と個人の間に市民
社会組織というものがあって、これはCSOと言われるわけですが、そうした組織、いわゆるNGOでありますが、そうした非
国家の、非営利の組織というものが登場し、それが
現実にはこの
分野での大きな
要素となってきているわけであります。
しかし、今述べてきたような問題は、当然のことながら
憲法制定時には存在していなかったわけでありまして、新しく登場して我々がもう無視できないNGOに関しても、
憲法八十九条において、
国家の管理に帰属しないものに対してはそれに対しての
資金提供ができないということで、
日本ではNGOに対して直接的な
資金提供ができず、したがってまた、
日本が先進国の中では際立ってNGOの成長がおくれている
地域であるということは皆さん御存じのとおりであります。
このように考えまして、今こそ、
国際協力、そして
海外援助が我々にとって一体何であるかを考え、新たな定義を立て、
国際の平和の創造と
維持、そして回復のために私たちは今何をすべきかを討議すべき時期に来ていると思っております。
これまで述べてきたことを
前提に、以下の提言をしたいと思います。
まず第一に、
海外援助の理念、
あり方について、平和
維持活動、いわゆる
PKO活動と同じように、
憲法上の
規定が必要だということであります。
憲法の前文にこの理念が盛り込まれているわけでありまして、そこにおいて高い
精神性の中でそうした
国際協調の
あり方が述べられているわけでありますが、それと同時に、やはり本文においても明
文化する必要があると考えます。
第二に、
海外援助に関しては、ちょうど
アメリカ憲法において、外国との協定などが大統領の権限ではなく議会の権限とされているように、何らかの議会の関与を明
文化する必要があると思います。
憲法というものが
国際的な問題に触れているのは必ずしも多くないわけですが、
アメリカ憲法においては、
国際的な問題は大統領の権限ではなく、むしろ議会の権限とされています。それは
アメリカ憲法が成立した時期の特殊な
状況から出てきているわけですが、やはり、この
海外援助に関しては議会のチェックということが必要となる、こういうふうに考えております。
第三に、
国益と
世界益というか地球益というか、そうしたものをどのようにバランスさせるかというのが重要となるわけであります。場合においては短期的な政策目標において矛盾するような事態が存在するような
現実にかんがみ、その
価値基準を明確化し、その実行及び
評価に第三者の厳格な監視を必要とする、そういうふうに考えております。
こうした
要素を
憲法の中に盛り込んで、そして、我々の冷戦後
世界において登場してきているさまざまな問題に対して、
日本がどのように、そして私たちがどのように
対応するかということをこれから早急に詰めていかなければならない、そういうふうに考えております。
さて、現在、
イラクに
アメリカの攻撃が行われ、ほとんど無力な一般
国民の上に大量殺傷爆撃が行われているわけですが、その遠因には、
国家予算の四割を軍事費につぎ込んで軍事
大国化した
イラクに
ODAをつぎ込み、ひいては、
世界平和への脅威と、六千億円とも言われる
日本の不良債権を生み出した
日本政府の
責任も追及されるべきだ、そういうふうに思います。
また、
ODAが極端な貧富格差や特定階層の
貧困化を放置している国に供与され続ければ、当該国の民主化も
人間の
安全保障も満たされず、さらに
世界における欠乏と恐怖と
紛争を拡大する可能性もあり、そうした
ODAは現
憲法下においても反
憲法的であると言わざるを得ないというふうに言及しておきたいと思います。
さて最後に、この
意見をまとめるに当たって、
憲法調査会事務局が用意した基礎資料集をいただきました。これは大変な参考になりました。これまでの事務局の
努力にも謝意を述べたいと思います。望むらくは、このような資料がCD—ROM化されて、大学や高校あるいは市民団体の教材として広く活用されることを望みたいと思います。
以上で終わります。(拍手)