○中川(智)
委員 社会民主党・市民連合の中川智子です。
私は、
拉致被害者の
皆様そして御
家族のこの二十数年間を思いますと、本当に心が張り裂ける思いがいたします。この許しがたい
国家犯罪に対して、これまでの
政府の
対応はもちろんのこと、我が党の取り組みの足りなさに対して衷心よりおわびを申し上げ、今後徹底した真相究明とできる限りの正常化に向けて
努力することを党としてしっかりこの場で誓いたいと存じます。
あわせて、現在
帰国された五人の
方々が
日本で安心して暮らせるよう、その一助となるように、この
拉致被害者等の
支援法に
賛成し、一日も早く充実した
支援策が講じられるように一生懸命頑張っていきたいと思っております。
先ほど
安倍副
長官が、
政府の取り組みの問題、その御答弁の中で、一人一人、一個人として政治家がどのように向き合ってきたかということをそちらから投げかけられました。私は、私自身の取り組みの中で痛感した問題をまず最初に
お話をし、質問をしたいと思います。
私は、被爆者の
方々の問題を私自身の
一つの仕事として取り組んでまいりました。特に、在外の被爆者問題をやってまいりました。韓国そしてブラジル、アメリカ、現在世界で三十三カ国に被爆者の
方々が暮らしていらっしゃいます。しかし、国交のない
北朝鮮に対しましては、その人数が何人いるかもわからない、そして、そこでどのような
医療を受けていらっしゃるか、どのような暮らしをしているかわからないという現実がありました。
一九四五年のあの敗戦までは
日本人として
日本で強制的に働かされていた人々が被爆をし、八月十五日からはもう
日本人じゃないというふうに宣告をされ、多くの
方々が被爆という重い障害を持って祖国に帰られました。
考えてみますと、平均年齢が七十五歳を超えて、年々亡くなっているという状態が在日の被爆者の
方々から寄せられました。
私は、いても立ってもいられない思いと、いま
一つには、解明されていないさまざまな問題に対して、アリの一穴でもいいので頑張りたいと思って
北朝鮮に参りました。九九年八月、初めてピョンヤンで原爆展が開かれました。それに参加をいたしました。
そして、一昨年、二〇〇〇年の七月に再び、この被爆者問題で何とか信頼関係を持ちつつ、私にできることは何なのか、そう思いながらピョンヤンに参りました。私は、横田めぐみさんの写真の姿を脳裏に刻みながらピョンヤンの町を歩いて、横田さんの姿も捜しました。でも、結局は、被爆者の問題やこの
拉致の問題は
政府間交渉でしかなし得ないということを痛感いたしました。
交渉をしようとするたびに窓口が変わってしまう、
責任者の姿が見えない。それでもあきらめないことが大事だ、そんな思いで、
北朝鮮に対して、被爆者問題の解決と、そして
日本で言われているさまざまな問題に対して話し合いを持ちたいと思って参ってまいりました。しかし、本当に野党の一議員のそのようなある
意味では行動は、全く話し合いのテーブルにさえ着けない。
それで、私は思い余って、これは
政府間交渉に持っていっていただく以外にないと思いまして、外務省、
日本赤十字に
調査を依頼しました。初めて被爆者の
調査団が
北朝鮮を訪れました。そして、帰ってきてから日朝国交正常化交渉のテーブルの中でこの被爆者問題をしっかりと議論していくと言われておりました。
私がここでやはり言いたいのは、
政府間交渉でなければしっかりとした
情報も得られない、信頼関係を結ぼうと思っても、一個人の言動は非常に軽いということを痛感いたしました。
そこで、
坂口大臣に伺います。
北朝鮮に対して、この被爆者問題は一円の援助もされていません。年々亡くなってまいります。国交がないこの国に対しての被爆者問題、今回の正常化交渉のテーブルの中で一言でも議論になったでしょうか、
坂口大臣はそれを要求されたでしょうか。