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岩井國臣君 やはり、e—Japanとの
関係で、これはもう積極的にオンライン化を進めなければならない。しかし、片方で
本人確認の問題、これは戸籍でもあるわけですけれども、
本人確認の問題がある。しかし、この登記、
土地の登記について、これはやっぱり悪意を持って成り済ましてやられる方も、これは増えていくおそれが多分にあるわけですからね。そうすると、なかなか難しい問題だと思いますね。
そこで、やはり私は、
司法書士、言葉は悪いですけれども、かむ形で、いい
一つの
解決方法が出てくるのではないかなという
感じがいたしますので、ひとつ十分、
司法書士関係団体の
意見も聞いていただくなどして、要するにその
土地の登記について遺憾のないようにひとつよろしくお願いしたいと思います。
小泉改革と俗に言うわけでありますけれども、橋本内閣のときには橋本
改革というのがありました。あのときは、第三の民主主義
改革というようなことが言われたかと思います。第三という意味は、明治維新と戦後
改革に匹敵する第三という意味でありますけれども、私は、トニー・ブレアの言う第三の民主主義
改革という意味合いをも
感じておりました。右でもない左でもない
改革、右といえば右かも分かりませんが、左といえば左かも分からない。しかし、
真ん中というのが当然あるわけで、それが中心だと思います。
行政の論理とそれから
民間の論理のどちらの論理にも偏しない中立公正な論理に立って、ただひたすら人類の英知を追い求め、人類の英知を発揮する、そういう
立場、つまり
リーガリズムの
立場を中心としてやはりやっていくのがいいのではないか。もちろん、
行政の
世界にやや踏み込んだ
法道具主義、あるいは
民間の
世界にやや踏み込んだインフォーマリズムを全面否定するわけにはいかぬわけでありますけれども、そういう側面をも含む
司法制度にならざるを得ないと思いますけれども、やはり私は
裁判所らしいのがいいと思います。
立法と
行政と
司法、三権分立ということでありますから、それぞれ独立しているわけであります。
司法が
行政の代わりをするというわけにはやっぱりいかないし、同時に
民間のできるところまで乗り出していくというのもやはり時代の流れからしていかがなものかなと、こんなふうに思うんです。
行政訴訟でも和解勧告というのが時々あります。私も経験したことがございますが、民事
訴訟では
裁判官は和解勧告というのを通常やられる。しかし、あの辺はちょっとどうなのかなという
感じを私は実は持っておるわけであります。
日本の文化というものは村
社会の文化でありますから、争いというものは本来的に好まない文化なんですね。死力を尽くして戦うということは大変やらないんです。まあまあというようなところで収める。しかし、これからの時代は河合隼雄さんが言っておられますように、そういう日本文化と西洋文化の言うなれば矛盾システムを生きていかなければならない、このように思います。もはや村
社会の論理だけでは駄目だということだろうと思います。やっぱり大岡裁きというのはいかぬのではないかな、もう時代の流れからしてどうかなと。
裁判というものはやはり死力を尽くして戦う場だ、戦場でなければいけない、知力と言った方がいいのかも分かりませんが、やはり
裁判というものは知力を尽くして戦う場だ、そのように私は思います。
私も、水害
訴訟でいろんな勉強をさせていただきました。加治川
裁判、谷田川の水害
訴訟、長良川の水害
訴訟、そして多摩川の水害
訴訟等々、重要な水害
訴訟にはほとんど
関係させていただきました。多摩川の水害
訴訟では、一審、二審、そして最高裁からの差戻し審にも
関係させていただきまして、いろいろ
法務省とも何度となく協議させていただいた、大変苦労をいたしました。最終的に河川
局長として最後の幕引きをやったわけでありますけれども、建設省で相当の抵抗もあったんですね。
あれは和解じゃなくて敗訴の決断をしたと、こういうことなんでありますけれども、そういう経験からして、本当にやっぱり
裁判というのは大変だな、死力を尽くして戦うというか、知力を尽くして戦う、正に戦場だなと、こう思うんですね。面白いといえば面白いですけれども、怖いといえば怖いんですよね。すごい、すごいものだというふうに私の実感であります。
しかし、
考えてみますと、
立法と
行政と
司法、三権は分立しているわけでありますから、
司法は
司法でないとできないことがある。戦いなんですね。
法廷で知力を尽くして戦う、そのことの積み重ねで国家の知、国家知というものが形成されていくのではないか。各国のそれらが国家知が合わさって人類の英知というものが成熟していくのではないか、このように思うんです。やはり、
司法の本質は、
裁判至上主義と言っていいのかどうか分かりませんけれども、
裁判長がやっぱり判決を下す。和解じゃなくて判決を下すというふうなところにあるのではないかと、こんなふうに実は思っておるわけであります。
しかし、片方で、これ
考え方としては矛盾するところあるかも分かりませんが、
国民とのコミュニケーションというのが非常に大事ではないかなと。今朝の日経新聞の社説にもちょっと出ておりましたけれども、
国民との
関係というものが極めて大事だと、そうでないとやはり
法文化というのは育っていかないように思うんですね。
そこで、最後の
質問になりますけれども、
大臣にお尋ねさせていただきたいと思います。
リーガリズムの
確立を図りながら
国民とのコミュニケーションをどう図っていくのか。これは理性と感性の問題であり、誠に難しい
法哲学の問題になるかとは思いますけれども、
法務大臣の
基本的なお
考えをお伺いしたいと思います。