○
参考人(
遠藤義雄君) ただいま御紹介いただきました
遠藤でございます。
既に前半で
清水参考人が広い
立場というか、広い視覚から
イスラム社会とその
開発という問題に言及されましたので、私の場合はあえてぐっと
地域を絞り込んで、
アフガニスタンという
地域に絞り込んだ形で話をしてみたいと思います。
まず
最初に、この
アフガニスタン問題というのは、九・一一
事件以降、今年の一月二十一日の東京の
支援会議まで新聞、
テレビ等で大変に注目され報道もされましたので、いろいろな
印象やら御感想を
先生方はお持ちでないかと思いますが、ここであえて私は強調したいことは、
アフガニスタンというのは、タリバンという勢力が出てくるのが必然であったということでは全くない、全く逆行して、やっと本来の
アフガニスタンが百年掛けて目指してきた社会作りにもう一遍復帰したと、この時点にあるんだということを理解していただけるような形で話を進めてみたいと思っております。
アフガニスタンというのは
御存じのとおり
イスラム社会であります。
人口のほぼ、一〇〇%とは言えませんが、九七、八%が
イスラム教徒であります。
人口は現在、推定でありますけれども二千二百万人くらい、国土は
日本の一・八倍の広さであります。
この
地域には、
イスラムには二つの大きな派閥といいますか、宗派がございます。
イスラム世界で一般的なのがスンニー派と言われるものでありますが、このスンニー派が
アフガニスタンにおけるところの多数派であります。少数派、といっても約国民の二〇%が
イランの国教となっております
シーア派に属しております。
シーア派に属しているのは少しユニークなところがございますので、多少説明をしてみたいと思いますが、
アフガニスタンでモンゴル系の
民族が住んでおります。それがハザラと言われる
人々でありますが、この
人たちのほとんどがこの
シーア派に属します。もう
一つ、キズルバッシという少数
民族がございます。しかし、このキズルバッシというのは
アフガニスタンのブレーンなんです。歴代の
アフガニスタンの王朝は、このキズルバッシというごく少数の
民族から
政府の役人をほとんど調達している。これは
イスラム世界に共通したところです。バグダッドの
イスラム世界もトルコ人だけを大切にするという政策がある。
アフガニスタンや
イランではこのキズルバッシというモンゴル系の人であります。ハザラ人と非常に区別が付きにくい、付けにくいくらいに似たような表情をしている人です。しかし、ごく少数です。しかし、この
人たちが実はその
アフガニスタンの王朝においてそのセクレタリーの部分を占めてきたという人です。この
人たちも
シーア派であります。
あと、ごく一部のタジクの
人たちが
シーア派に属しています。しかし、この三つの
民族を合わせますと
人口の約二〇%くらいになる。ハザラそのものが二五%もいると言われておりますが、二〇%と計算しましても、ハザラの人が全部が
シーア派じゃございませんので、
アフガニスタンの
人口の二〇%がこの
シーア派に属する
人たちであります。
もう
一つ、
イスラム世界にはイスマイール派というセクトがございます。このセクトの管長はパリに豪邸を構えておりますアガ・ハーンという人です。アガ・ハーンという人は、その
イスラム世界で病院を建てたり学校を建てたりということですね、アフリカや
アジアの恵まれない
地域に、そういう恵まれない
地域を目指して福祉事業をしている、そのセクトがございます。このセクトに属する
人たちも、ごくわずかではありますが存在しております。これはバダフシャン地方、要するにパミール高原という高地に住んでいる
人たちです。このイスマイール派というのは隣の国のタジキスタンにも大勢おります。
このような三つの宗派があります。この宗派間の
対立というのはそんなに深刻ではありません。この二十数年間の内戦で宗派の
対立が激化したと、こう言われるようにはなりました。しかし、この宗派の
対立はそんなに深刻ではありません。むしろ、タリバンという勢力が出てきて以降の方がこの宗派間の違いというものが
対立の道具に使われるようになって、多少深刻になりました。宗派間の
対立が最もひどいのは
インドとか、それ以上にひどいのは
パキスタンであります。
アフガニスタンは宗派間の
対立が比較的少ない国であります。それくらいに
アフガニスタンというのは穏やかな
イスラム教徒の住んでいる国であるということであります。
二番目の、
イスラム政策と
イスラム運動という二つの軸でこの百年をざっと見てみたいと思います。
アフガニスタンというのは一七四七年に王朝ができまして、それ以降、今日まで
アフガニスタンという国が存在しているわけです。アラブの
世界がほとんど植民地になってしまった十九
世紀の後半に、
アフガニスタンは独立を維持して今日まで来ております。むしろこの独立が、完全な独立ではないわけですが、独立を維持してきたということ。ですから、アラブの
世界、
イスラムの
世界でも植民地の経験が非常に薄い国であります。
その
植民地主義の影が薄い
アフガニスタンの十九
世紀の後半にアブドゥル・ラフマンという国王が出ます。鉄の王とも言われた王ですが、この王が、
アフガニスタンはまだそのときは部族主義の強い国です。そこから近代的な国家づくりを彼が開始します。このアブドゥル・ラフマン国王がやったことは、宗教よりも
イスラムの勢力よりも国王の力が上であるという
立場を築くことに力を注ぎます。
普通は、
イスラム世界ではウラマーという
イスラム法とか何かを操る、そういった知識
人たちが大変な力を持っているんです。しかし、
アフガニスタンは部族社会から近代国家になるこの転換期の時期にウラマーを国王、王権の下に置くという政策を断行します。ですから、
イスラム法から見ると、あなた、国王がやっているその政策がいいとか悪いとかと一切干渉させない。あるいはウラマーの
意見を聞きます。しかし、最終的判断はラフマン国王そのものが下すと。
十九
世紀の後半において、
イスラム世界はほとんど植民地化されていて
発言力を持っていない
時代に、このアフガンの国王、ラフマン国王はこの問題をします。つまり、世俗主義政治を導入することを
イスラム社会で早い時期に着手したということでございます。そして、ウラマー、要するに
イスラムのいろんな勢力を監視する制度を作っていきます。
イスラムのウラマー
たちや、あるいはモスクと言われているところにはいろんな特権が許されているわけですが、この特権を監視する、あるいはある一部を剥奪してしまいます、例えばモスクの土地とか何かを。モスクに属するものなんです、しかしそれを管理します。つまり、王権がそれを剥奪したりあるいはそれを管理するということによって王権の管理下に入れてしまうということをいたします。
この一方で、ほとんどが
イスラム教徒の
世界でこれをやるわけですから相当の反発が出るに違いありません。実際にそういう反発が強くあったわけですね。そこでこの国王は、アフガンのウラマーとか宗教界の
人たちは十分な勉強をしておらぬという考えから、
インドの先進
地域の学校、あるいは
中央アジアの今の
ウズベキスタンのブハラにあるナクシバンディとかというそういう本山に、
イスラム教徒の
人たちにもっと勉強しなさいということで、そういうところに留学させます。
こういうことからデオバンド、今の
インドのデオバンドという
地域、デリーから車で三十分くらい北に行ったところにある
大学がございます、民間の
大学ですね。ここに学ばすためにアフガン人を送り込みます。このデオバンドというのはタリバンのふるさとであります。学派的に見ますとここなんですね。こういう政策をします。それで宗教を管理化するけれども、しかし宗教についてもっと勉強しなさいと。そうすることになると私の政策が分かるというふうな政策をして絶対君主制の体制を築いていきます。
次に、彼の、このラフマンの孫王アマヌラーという国王が出現します。この国王は
日本とも大変に
関係を持った国王であります。一九一九年から二九年、約十年間
アフガニスタンを支配するわけですが、この国王は祖父のやった政策に甘んじることができずに絶対君主から立憲君主制に変える、非常に、開明君主とも言われたように進歩的な政策を打ち出してきます。それで、かつての祖父の
時代は
イスラムの学校に
イスラム教徒を送って
イスラムを勉強させるという程度でしたが、今度は、この孫の国王は近代的な学校を作ります。
フランス語の、ドイツ語の、英語の学校という専門、高等学校を作ります。官立の学校を作って若者をどんどんどんどんこの官立の学校に入れます。
その一方で、祖父はデオバンドとかナクシバンディという伝統的な
イスラムの学校にアフガン人を送りましたが、この孫王は、
インドにイギリスが作ったアリガル・
イスラム大学というのがあります。近代的な
イスラム大学であります。そこに若者を送ります。自分自身もこの
大学を視察に行っております。そして、つまり近代主義というものを取り入れることにこの孫王は努めたわけであります。
この孫王の進歩的な政策が、まだ部族主義の意識の強く残っているアフガン人ですから反発が出まして、彼は追放されます。ドイツに亡命し、戦後に亡くなります、この国王は。しかし、彼がやった近代化政策、それは宗教面においても、また政治、制度の面においてもですが、多くのアフガン人から誤解されます。つまり、宗教改革、女の人にベールを外してもよろしいとかいうふうなことをやったことが反発が来たんだというふうにずっと説明されてきていました。実はそうではなかったんですね。
アフガニスタンというのは、
経済的に自立できない、略奪王朝としてスタートした
アフガニスタンは、イギリスとロシアの帝国に押されて領土が小さくなって今日の
アフガニスタンになる。そういうことから、略奪することによって国民
経済を、国庫を潤してきた。略奪が二十
世紀になってできなくなった。しかも、英ロという両帝国に領土を取られて小さい
アフガニスタンにされてしまった。このことで、実は自分の国を強くしよう、あるいは近代化しようとしても、その資金源を税金からしか取れない。そのために、アマヌラーというこの近代主義者、開明君主は税金を取り立てることになった。そうしたら、そっちこっちから反発が出てきて彼は追放されることになりました。
それを
イスラムの復古的な考える方は声を大きくして国王を追放したんだというふうにずっと今日まで説明されてきました。しかし、そうじゃなかったんです。国民
経済が築かれない
アフガニスタンの中で大胆な近代化主義をやった、その資金源は税金だったということから反発を受けた。ですから、
イスラムの改革を唱えたから反発が来たと普通の人は考えたものですから、次の王朝は、今のローマにおられるザーヘル国王のお父さんの
時代に入ります。
イスラムを更に復古的な
イスラム主義、穏健な
イスラム主義中心に変わっていきます。ですから、
インドの近代的な
イスラム大学に送るよりも、デオバンドとかナクシバンディという伝統的な学校にアフガン人を送って、
イスラムを勉強させるという政策に変わっていきます。
そして戦後です。戦後は、
イスラムに対して今の元国王であるザーヘル・シャーの
時代も戦後続くわけですが、この
過程で行われたことは何かというと、戦後の
イスラム運動は、要するにアマヌラー国王の反動として行われた
イスラム政策に対して飽き足らない
人たちが増えていきます。そこで、
イスラムの改革を唱える人、あるいは今日の
言葉で言うと
イスラム主義者。
イスラム主義者というのを簡単に定義すると、現在ある
イスラムの制度とかあるいは尊重されている慣行というものは本来の
イスラムとは違うものだ、だから、それを本来のものに変える、あるいは本来のものに近づけようという考えを持つ人を
イスラム主義者と言っていいと思います。
イスラム教徒と
イスラム主義の違いはそこにあるかと思います。この
イスラム主義を唱える人が出てきたということですね。
こういう
イスラム主義者に対して、実はザーヘル・シャーのいとこであるダウドという皇太子がおりましたが、この
人たちはアマヌラー国王の後継者、近代主義ということを標榜してきたけれども、
イスラム主義者を非常に煙たがって弾圧します。この弾圧に
アフガニスタンの共産党が
協力します。
こういうことで、戦後の
アフガニスタンの
イスラムというのは、片方で
イスラムに目覚めて、あるいは
イスラムというものを本当の
イスラムの姿に戻そうという
動きに対して、共産主義という
アフガニスタンの近代化を早くしようというマルキストの闘いになってくる。これでソ連軍が来て、この闘いにある程度の決着が付けられたような形になりました。しかし、この
イスラム主義者
たちは、アフガンのゲリラとして、
アメリカとか
サウジアラビアとか
パキスタンの
援助を受けて、十年間ソ連軍と戦って、ソ連軍を追い返すというふうなことになって、
イスラム政府を作るわけですね。しかし、この
イスラム政府というのは、いろんな内部の
紛争に巻き込まれた、あるいはその周辺国の干渉を受けて四年でつぶれて、そしてタリバーンという勢力が出てきます。
タリバーンというのは、
アフガニスタンのこれまでの
イスラムの系譜から見ますと、デオバンド学派という学派に所属します。しかし、
インドでは、デオバンド学派とアリガル・
イスラム大学、一八七七年に作られた
大学で、二つの流れがある。デオバンドの特徴というのは、
イスラムの中から、植民地などされない、あるいはそれをされても
イスラムをもう一遍取り戻すことができるんだという考えを持った
人たちです。一方のアリガル・
イスラム大学というのは、建物は
イスラム的な建物、内部は全く近代的な教育をするんです。英語で徹底的にイギリス式をやる。こういう二つの
対立があります。この
対立というのは
アフガニスタンでも演じてこられているわけですが、タリバンはどっちにも属しないような性格を持った勢力だということが言えるのではないかと思います。
どっちにも属さないとはどういうことかということなんですが、彼
たちは長い
イスラムの
復興運動をしたり、あるいは反ソ連軍闘争したとか、あるいは近代主義という、
イスラム主義者に対抗してきたということをしてきていない。ぽっくりと現れてきて、そして二年間の戦いの中で首都を取ってしまうということが行われているんですね。彼
たちは
イスラム主義とは何かとかということを余り唱えてきていない。そして、首都を取る。それは全く外国、特に
パキスタンから支援されたグループであると。そういう外圧的な成果から彼
たちが政権を取るというふうなことになったわけです。
ですから、デオバンド、私もこのデオバンドの実際の本部に行って学生
たちに聞いてみました。タリバンがやっているの、あなた
たちどう思うと言うと、良く理解できないと言うんですね。デオバンドの考え方は、
イスラムの考えの中にいろんな外国勢力にも対抗していけるアイデアとか解決策がある、それを掘り起こすことというのがデオバンドの考えです。タリバンはそのことをほとんど口にしなかった。しかし、女には働きに出るな、女の子供には学校に行くな、男はひげを伸ばせという
イスラムのスタイルを強調した。ですから、非常に
アフガニスタンの百年の
イスラムの歴史の中で見ても際立った特徴を持っている。そして余り生産的なことを言わなかったという勢力であります。
さて、この勢力も、皆さん御承知のとおり、昨年の暮れに、十二月の初期に崩壊しました。そして、その
アフガニスタンは久しぶりに、二十数年ぶりにして近代主義者
たち、マルキシズムでない近代主義者
たちが政権の座に座ることになるわけです。
この三番目でございますが、そういう
意味で私は
アフガニスタンの再出発とそしてまた
復興プログラムという項目を立てたわけでありますが、このことについて触れてみたいと思います。
アフガニスタンの今の政権は暫定政権であります。が、この軸に座っている
人たちはローマ・グループと北部同盟の二つと言っていいと思います。
ローマ・グループは王党派と言ってもいいと思いますが、ローマに亡命生活を送ってこられて、近々
アフガニスタンに戻るということを主張しておられますザーヘル・シャーであります。このグループにはドイツに亡命していたりしている人が多く接近をしておりまして、元
大学教授であったりあるいは官僚を務めた
人たちがこのローマ・グループ、王党派におります。その
人たちは、かつては
アメリカやヨーロッパや、あるいは何人かは
日本にといったように、留学したインテリであると同時にインテレクチュアル、インテリゲンチアです。しかも、近代主義者であります。こういう
人たちがこのローマ・グループにおります。
一方、この北部同盟に関してはいろいろな報道をされました。しかし権力の、今の暫定政権の権力の中にいる北部同盟というのは実は、既に
イスラム運動の中で触れたことがありますが、
イスラム近代主義者
たちです。外務大臣のアブドラー・アブドラー、内務大臣のユヌス・カヌニー、あるいは国防大臣を務めているファヒムという、こういった顔ぶれがこの北部同盟の顔ぶれでありますが、この
人たちに共通していることはカブール
大学の卒業生であります。そして、どちらかというと工学系の
人たちが多い。そして、かつて学生運動をして彼
たちは
指導者になってくるわけですが、その中で主張したことは何かというと、
イスラムの近代主義、要するに預言者ムハマッドの
時代に戻れということは言わない。コンピューターや科学、そういった技術をどんどん導入して
アフガニスタンを近代的な社会、近代的な国家にするんだと主張してきた
人たちであります。
北部同盟にはもう
一つの、ウズベクのドスタム勢力などというのがあります。しかし、この
人たちにはこういう
背景はない。だが、この北部同盟で今、権力の中枢にいる
人たちはそういう経歴を踏んできた人であります。ですから、私は、このローマ・グループと北部同盟の人を合わせても、共通していることは近代主義者
たちだ。近代主義者
たちが復権を図ったということであります。
さて、この近代主義者が復権を図ったのは、彼
たちの独自の力で復権を図ったわけではありません。
アメリカの支援が物を言ったわけですね。その象徴的なのが、ドイツのボンで昨年の十一月から十二月にかけて政権協議が行われたわけですが、このボンで交わした合意事項に注目してみる必要があると思います。
このボン合意の内容を簡単にお話ししますと、要するに、二年半の期間を掛けて
アフガニスタンを新しい憲法の下で
選挙を行ってそして本格的な国民に選ばれた
政府を作るというのがこのボン合意の真髄であります。
急に、二十数年間内戦に明け暮れてきた
アフガニスタンですから、すぐに
選挙をするなどということは非現実であります。また、アフガンの
人たちは、一九六〇年代に二回
選挙した経験を持っているけれども、それ以降、
選挙したという経験を持ってきておりません。そういうことで、二年半の期間を掛けて
選挙を行って本格的な国民的な
政府を作るということがこのボン合意の目標であるわけですが、この二年半の中で何が行われると。ロヤ・ジルガといって、代表者による二回の
会議が開かれて、この二年半の
民主化へ、あるいは本格的政権発足への、何というんですか、通過儀礼を行います。これが重要であります。
アフガニスタンはジルガの国家、ジルガの社会と言われるように、代表者によっていろんな重要なことを決めて、そしてそれがそのジルガで通れば、
日本で言ったなら国会を通過したと同じような
意味を持つわけであります。これが二回開かれます。
今年の七月に開かれます、第一回目。ここでは、今は臨時の内閣でありますから、本格的な暫定政権、移行政権と彼
たちは言っておりますが、この移行政権を作ると。で、このロヤ・ジルガで移行政権のメンバーが承認されますと、このメンバー
たちは新憲法作りの草案と、そして
選挙をするための準備をします。準備が終わった時点で、来年の後半ころになるんでしょうか、そのころにもう一度ロヤ・ジルガという代表者
会議が開かれます。この代表者
会議が新憲法と
選挙のやり方を承認しますと、半年以内に
選挙が行われる。そして、来年か再来年には新
政府が誕生するという、こういったプログラムが立てられているわけです。
しかし、問題は、この二年半、この暫定政権がもつのかもたないのかということであります。国際社会はこの暫定
政府と暫定
政府の二年半のプログラムを承認しているわけですね。アフガンの多くの
人たちも承認しております。問題は、二年半もち続けることができるかできないかという問題があります。二年半この暫定政権がもって、本格的な政権ができるまでの間をどう、何ですか、そのプロセスを動かしていくかという問題がありますが、そこで大事なことは、やっぱり早く、暫定政権とはいえど中央
政府の姿を作り出すという必要があります。ここでは中央権力の確立と、こう私は
レジュメには書いておりますが、それをする必要があります。
むしろ、ボン合意の重要なところは、国際社会が二年半世話をするという約束をしているわけです。
援助を、切れ目のない
援助が行われる必要があります。暫定政権は公務員に給料を払うお金もない、国庫ゼロから始まります。ですから、公務員に、半年間、公務員は給料をもらっていなかった。その
人たちに働く意欲をもたらすために、取りあえず十八億ドルの金が必要になる。その十八億ドルの金、まだ実はできていない。こういうことになりますと、この暫定
政府というのは二年半の期間ですから、もたないかもしれません。今年要するにつぶれちゃうかもしれません。ですから、切れ目のない国際
援助、世話が必要だということですね。
もう
一つは、
アフガニスタンの周辺国で一番重要なのが
パキスタンであります。そして、
イランです。この二か国が、少なくとも
アフガニスタンの二年半の猶予を与えられた中で、
アフガニスタンの
人たちが本格的な
政府を作ることができる方向に
協力するかしないかということにも懸かってくると。この三つの要素が相まって暫定政権は二年半の任期を全うし、そして
選挙で選ばれた新政権を作るということになるわけでありますが。
もう既に去年の十二月の二十二日から暫定政権は発足して動いているわけです。最近になればなるほど非常に憂鬱なニュースが一杯続いてくる。要するに、かつての軍閥がいろんな地方で、何ですか基盤作りをしているとか、あるいは
NGOも、あるいは国際の人道
援助団体も活動しにくいような治安の乱れが生じているとか。ごく最近では、暫定政権の観光大臣が
サウジアラビアに、ハッジに行こうとした飛行機に乗るその時点で殺されてしまうと。これは、派閥
対立というか、
対立が演じられて殺されるというふうなことが起こっております。
恐らく、
一つには、そのまだ暫定
政府の
人たちが警察力を、あるいは
軍事力を全然持っていない。それをイギリスの国際治安部隊という、三千人しかまだ入っていない、五千人規模のものがまだ三千人しか入っていないということなんですが、このように治安が悪い。そして、暫定
政府が二年間の中で優先しているのは国軍の創設なんです。全国ににらみを利かせる軍隊をもう一遍作るということです。これには、
アメリカとかイギリスが
協力することなんですが、それを
課題としているが、この機能も全くゼロで、外国の治安部隊に依存しなくちゃならないという状態にあるわけですね。
ですから、どんな、
復興プログラムとか、あるいは向こう十年にわたって百八十億ドルですか、という膨大な国際社会からの
援助があるように言われているんですけれども、その膨大な
復興資金だって全く使われずに済んで終わってしまうかもしれないんです。国内の治安が悪かったら外国の
援助をする人、スタッフが行って活動できませんし、
援助の物資を必要な村や町に届けることができません。ですから、治安を確保することが最大の
課題になっております。
ところが、それがうまくいっていない。要するに、国際社会の
援助、東京で約束されたお金が十分に今のところ流れていないという問題があります。アフガンの
人たちは、どこに金があるのかということが重要なんです。金があるところに人は顔を向けるんです。アフガン人に限りませんでしょう。しかし、アフガン人は二十数年間で何もない。ですから、権力にすがるか、お金にすがるかなんです。
二年半の時間しかもらっていない暫定
政府は、外国の金で公務員に金を払って、小麦をもらって、医療費を
アフガニスタンにまくことによって中央権力をもう一遍復活させようとしているわけです。アイデアはそうなっているけれども、それに附属する、それを実現させる実弾が、お金が伴わないといけないわけです。お金ばかりじゃなくて、要するに、そっちこっちに軍閥がいるわけですね。それがロシアのひもが付いていたり、
イランのひもが付いていたり、
パキスタンのひもが付いて、
アメリカのひもが付いているわけです。それを束ねていくためには
軍事力が必要なわけです。国軍を創設する必要がある。しかし、そのお金すらないということでありまして、
復興プログラムも、もしかすると空プログラムになりかねない
危険性を持っているということであります。
ですから、支援の、アフガンの
復興のためには、いわゆるツーリトル・ツーレートはいけない。レッドテープもいけない。どんどんどんどんやれることを速やかにやっていく必要があると。そういうことによって、分裂している
アフガニスタンをさらに分裂させないため、中央に、カブールに人が目を向けるように仕向けていく。これは、アフガン人の責任であると同時に、ボン合意を交わさせた国際社会の責任でもあると、僕はそう思っております。
ここで重要なことは、ですから、早く
政府を運転させる資金を注入する必要があります。そして、国際治安部隊を広げる必要があります。まだ三千人しか入れていない。これからトルコとかいろんな国が派遣をします。イギリスも五千を約束していて、三千しか出していない。
フランス、ドイツがこれから続きます。こういった国際部隊が、首都のカブールだけじゃなくて、主要なマザリシャリフとかジャララバードとかヘラートとかカンダハルという、少なくとも五つの都市の治安を確保するのに展開される必要が出てくるかもしれません。アフガン人にやれと言ってもそれはできないんです。アフガン人はまだ軍閥に分かれたりいろんな部族に割れたりして、セクト争い、セクト感情が強くて、国軍を創設するというところまで意識が達していないわけです。その間、国際社会がカバーしてやらなくちゃならないと、こう私は見ております。
もっと大事なことは何か。
アメリカのコミットメントが継続するということをきちっと
アメリカが示す必要があるということであります。ボン合意の保証なんというのは
アメリカであります。そして、
アメリカは今のところアルカイダのリーダーとかタリバンのリーダーを捕まえるという作戦に終始しているわけですが、いずれ、近いうちに治安のためにも
アメリカ軍は
協力するというふうなことにならないといけないのではないかと思います。恐らく、二、三日前、ブッシュ政権はそういうふうにしていくかもしれないという意向を示してきております。
以上、私からの話を終わらせていただきたいと思います。