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参考人(
平山健太郎君) よろしく
お願いいたします。
パレスチナ問題です。
いろいろ宗教問題とか
冷戦を含む様々な大国の思惑が重なり合ったパワーポリティックスの舞台にもなってきたんですけれども、裸にしてみますと、結局、せんじ詰めれば土地問題なんですね。その土地問題に絞って
お話をさせていただきます。
今から十一年前、あの
湾岸戦争があって
アメリカが勝利いたしましたけれども、その
湾岸戦争の始まる前に
クウェートを占領しておりました
イラクのサダム・フセインは、
クウェートが占領地と言うならば
イスラエルが占領しているパレスチナ占領地はどうしてくれるんだと。この問題を一括
解決しようということも含めたいわゆるパレスチナ・リンケージ論というものを言い出すわけですね。
アメリカは大変当惑いたします。ブッシュ、お父さんの方ですけれども、これを握りつぶして、泥棒に追い銭をやるようなことはできないと
クウェートは武力で奪還するんですけれども、
クウェートを武力で奪還した直後、三月六日、三十分間のテレビ演説をいたしまして、そのうちの二十分間を費やして、
クウェートは終わった、今度はパレスチナだ、それは外交努力でやるので、それも
アメリカがやるという方針を打ち出しております。
つまり、サダム・フセインのパレスチナ・リンケージ論というのは、今回のビンラーデンのときも非常に似ている局面が現れましたけれども、
アラブあるいは
イスラム教徒の関心を引き付ける一番大きな最大公約数だったからですね。それをほうっておいては
アメリカに対する反感は募るばかりであるというセキュリティーの計算もあったんでしょう。当時のベーカー国務長官が半年の間に七回、現地に足を運んで、当時の
イスラエル、今のシャロン政権と同じタカ派のリクード政権の、シャミル政権ですけれども、この嫌がるのを無理やり説得して、同じ年の十月、スペインのマドリードで初めて
アラブと
イスラエル政府の代表が同席する平和会議を招集しております。その際に、
アメリカの招集の基本ガイドラインとして挙げられた
言葉がランド・フォー・ピース、土地と平和の交換です。
それじゃ、どの土地かというのは非常にそれぞれの受け取り方、思惑が違いますので、その領土、境界線の変遷を
地図で御説明していきたいと思います。お手元にお配りした資料の中にそれが入ってございます。(OHP映写)
イスラエルの建国は一九四八年、昭和二十三年ですね、今から五十四年前になります。その前の年に国連総会が、当時、
イギリスが委任統治領にしておりましたパレスチナを
アラブ人の国とユダヤ人の国に分割する決議を採択いたします。大体半分ずつ分けるんですね。エルサレムは国際管理、少なくも十年間は国際管理にして、残りを何か市松模様みたいに六つに分けて、その六つのうちの
三つずつ、この白いところはユダヤ人の国を作ると。それから、斜線を施した今のヨルダン川西岸辺りですね、それからガザ寄りやや広い部分、それからレバノン国境、これは
アラブに渡すと。白い部分はユダヤというような仕分をいたします。
当時、ユダヤ人側はこの決議を受け入れるんですが、
アラブは拒絶いたします。
アラブが拒絶した理由は当時の人口比です。
アラブは当時、百二十万人おりまして、それに対してユダヤ人は五十万人です。しかも、ユダヤ人五十万人のうちの半分はナチス・ドイツの迫害を逃れて第二次大戦直前に流入してきたか、あるいは強制収容所で生き残った人が戦後入ってきた、そういうような言わば駆け込み移民ですね。
アラブは、
アラブを主体にした、ユダヤ人を少数民族として抱え込んだ独立
国家を作りたいという構想があったわけですから、ですから分割に反対だったわけですね。ユダヤ人側は自前の、水入らずの国が欲しいと、分割を取りあえず受け入れます。
イギリスは、第二次大戦で国力を使い果たしてパレスチナどころではなくなって、国連に押し付けた形で撤退してしまいます。撤退の当日、
イスラエルは建国を宣言いたしまして、当日、
戦争を始めました。
三つのことが一度に起きるんですね。それが一九四八年の五月です。九か月間
戦争をやった挙げ句、
アラブは国の頭数は多いんですけれども統制が取れておりませんで、
アラブに割り当てられた土地のちょうど半分ぐらいを失ってしまいます。ガザが小さくなりまして、ヨルダン川西岸も小さくなり、北部のイエス・キリストが生涯の大部分を過ごしたナザレなんかがある部分ですね、これはすっかり消えてしまいます。
こういう形で、お互いにといいますか、周りの
アラブの国々は
イスラエルを承認することなく、休戦ラインと言うんですけれども、これを挟んだ形でのにらみ合いが十九年間続きます。そして、今度は今から三十五年前、一九六七年の第三次
中東戦争で、
アラブ側の手にわずかに残っておりましたこのヨルダン川西岸、ガザも占領されてしまい、更にエジプトはシナイ半島を全部取られ、新たにシリアはゴラン高原を奪われます。
その後、あのオイルショックのありました一九七三年の第四次
中東戦争で、それをきっかけにエジプトは単独講和をいたしまして、シナイ半島を返してもらって戦線から脱落します。残りは基本的にはそのままと、それを
拡大いたしますとこういうことになります。
今日、国際的な用語で占領地と言われておりますのはこのヨルダン川西岸それからガザ、それからシリアがその
戦争で奪われましたゴラン高原もありますけれども、これはパレスチナじゃございませんで
イスラエルとシリアの
関係になりますので、今日はそれには触れません。パレスチナ占領地と言われておりますのはヨルダン川西岸とガザです。
この中で、この占領地が生まれたときに、同じ年、六七年の十月、
戦争が起きてからもう五か月ぐらいたってから、有名な国連
安全保障理事会決議二百四十二号というものが採択されます。それは、この線を基本にして妥結しなさいと。
イスラエルはこの
戦争での占領地から撤退し、
アラブは以後
イスラエルを認めて
共存しなさいというガイドラインですね。
ただし、この二百四十二号決議というのは大変あいまいさがある。あいまいだったから通過したようなもので、この
戦争での占領地からの撤退、占領地のところの
表現が英語でテリトリーズという
言葉が使われておりますね。
アラブ側あるいは当時、
アラブを全面的に
支援しておりましたソビエトはザ・テリトリーズと、つまり全面撤退という文面に固執したんですけれども、それは
イスラエルが頑として聞かない。
イギリスの妥協案でテリトリーズという格好になっておりますので、どれだけ撤退したらそれじゃ妥結するかということが国連決議の中で示されないまま今日に至っております。
今申し上げましたように、
アラブ側はこれは全部と受け取っておりますし、
イスラエルはおしるし
程度に返せばそれでいいんだと考えておりますし、じゃ
アメリカ、かぎを握っております
アメリカはどう考えているかというと、大部分と考えているのが相場ですね。若干の手直しは必要であろうと。つまり、テルアビブの空港から首都エルサレムまで行くハイウエーも占領地を通っているようなところがあるわけですから、それを手直しするというようなことは非常に技術的にも困難なので、大部分、多少の手直しという考えです。
次に、
イスラエル政府部内なんですけれども、政治勢力の中でいつも
二つの傾向というものが
対立しております。
一つは土地で譲歩しても
アラブとの
関係を正常化した方がいいと考えるいわゆるハト派ですね、これは労働党が中心であります。ここに名前を挙げておりますのはいずれも首相をやった
人たちですけれども、ラビン、ペレス、バラクといったような人々。それから、占領地保持に固執いたしまして
アラブとの平和の約束というのを信用していない、これはリクードを中心とするシャミル、ネタニヤフ、シャロン、現在の政権もそうですね、そういう人々であります。
このマドリード会議でシャミル・
イスラエル、当時の首相は、
出席はしたんですけれども
アメリカの要請に対して面従腹背です。のらりくらりと土地の返還問題についてはまともに取り組もうとしない。彼は政界を引退したときに記者会見でもって本音を漏らしたんですね。十年間、話を引き延ばしておいてうやむやにしてしまうつもりであったと。彼がよく使っておりましたキャッチフレーズ、響きはいいんですけれども、ランド・フォー・ピースじゃなくてピース・フォー・ピース、平和と平和の交換、つまり平和になれば君も楽だろうと。土地は返さないよということですね。その思想は今のシャロン政権にもつながってきております。
テロをやめろ、
テロをやめれば封鎖を解除する、おまえの方も楽だろうと。ただし、土地は返すとは言わないわけですね。そういう
二つの傾向があって、それが政権がこっちへ行ったりあっちへ行ったりしております。
ちょっと余談になりますけれども、労働党はいわゆる左派勢力と言われておりますし、リクードは右派と言われているんですけれども、これが
イスラエルの場合は国内問題についての社会主義とか資本主義とかいう尺度じゃなしに、領土問題でタカ派的であるかハト派的であるかということですね。ハト派的な人々のことは便宜上、左派と呼ばれている傾向もあります。財産は左派の
人たちはたくさん持っています。むしろ、右派の方が貧しい
人たちが多いんです。
それで、結局、ブッシュお父さんの方はどうしたかというと、シャミル政権に圧力を掛けます。当時、
ソ連崩壊でたくさん
ソ連圏から
イスラエルに移住者が、百万人入ってまいりましたけれども、それに住宅を提供するために
アメリカから百億ドルの借金を、
アメリカの市中銀行から借りようとして当時のシャミル政権、特使が何回も参ります。それは、
アメリカ政府の債務保証が必要だったんですけれども、それに応じないという形で圧力を掛けます。
それも
一つの要素になって、そのマドリード会議の翌年、九二年の選挙にシャロンは負けてしまいます。シャロンを破って登場したのがあのラビン首相ですね、軍人出身。ようやく
イスラエル部内にハト派が登場してブッシュさんはやりやすくなったんですけれども、その
イスラエルに圧力を掛けたことがたたって、ブッシュさんの方は落選してしまいます。当選したのは
クリントンさんですね。
それから一年後、話合いがまとまりましたということで、ワシントン、ホワイトハウスであの劇的な歴史的和解のセレモニーが行われます。間に立っている
クリントンさんは何もしないで、棚からぼたもち、頼まれ仲人をやって、彼の
中東和平推進に対する関心が非常に個人的にも高まります。途中であのモニカ・ルインスキー事件なんというのが起きて名誉が失墜したのを何とか一発逆転、ノーベル賞でももらいたいという動機になったのが、出発点になったのがこれです。
それで、じゃ、この合意のことをオスロ合意と言うんですね。ワシントンでサインしているんですけれどもなぜオスロ合意かというと、その下交渉をノルウェー政府も若干かかわり合った形でパレスチナと
イスラエルの間でそこで仮調印が行われているからです。
このオスロ合意の骨子は何かというと、パレスチナ側が
テロを放棄する代わりに、
イスラエル側はPLO、アラファト議長の組織を交渉の相手方として認知する。それから、いきなりその占領地全部返すというようなところにはとても行けないので、暫定自治というものを
発足させ、それを五年間やる。五年間の三年目から最終地位交渉というものをやって、最終的な着地点を決める。その最終地位交渉の議題を特定したんですね。そこに書いてございますように、占領地に
イスラエルが造った入植地をどうするか、最終的には境界線をどうするか、エルサレムをどうするか、それから難民、パレスチナ難民の帰国をどうするか、そういうことです。
これを議題だけ書いたのは、両方とも自分の選挙区があるからですね。アラファトさんの方はエルサレム問題あるいは難民帰国、議題に押し込んだんだ。必ず五年間我慢してくれ、これは達成できる目標だという形で提示し、またラビンさんの方は、議題として提示されただけで、向こうの要求はその
議論の場で値切るあるいは断れば済む話だと。お互いに自分の陣営をだましだましでまとめた合意です。そこから今日の問題がいろいろ発生してくるわけですね。
ここでは最終着地点としてのパレスチナ独立
国家ということは全く言及されておりません。これも
イスラエル側のお家の事情からです。しかし、ラビン首相の労働党は、オスロ合意の前の選挙、九二年の春の選挙で党の綱領の中から、これまで抱いてきたパレスチナ
国家は認めないという条項を削除しております。つまり、どういうふうにも
対応できる下準備、布石は打ったという形でしょう。
それで、その翌年、九四年から暫定自治というものが始まります。初めはごく小さなものをだんだん膨らまして、これは皆さんのお手元にお配りしてありますが、これが自治区の現状です。これはヨルダン川西岸とガザと
二つありますけれども、大きい方の固まりがヨルダン川西岸ですね。
イスラエルと占領地を合わせた面積が大体四国ぐらいです。ヨルダン川西岸が茨城県ぐらいの大きさです。
なぜヨルダン川西岸と言うかというと、ここにヨルダン川が流れていて、どうしてここだけをヨルダン川西岸と言って
イスラエルがそう呼ばれないかというと、
戦争で取られる前はここは隣のヨルダン王国が併合していたんですね。ヨルダン王国の中の
地域の呼び名で、こちら側がヨルダン王国のヨルダン川東岸、こちらが西岸だったわけです。その名前が国際的に定着して、今ウエストバンクとかヨルダン川西岸と言われているのがこれです。
そのヨルダン川西岸でパレスチナ自治区になっておりますのはごらんのとおりです。この白塗りの部分ですね。全体の四一%です。警察権ぐるみ、完全な自治区、いわゆるAゾーンとなっておりますのはこのうち更に三分の一です。あとの三分の二は、行政権だけはパレスチナ側に渡したことになっておりますけれども、
イスラエル軍の立入り自由な
地域です。警備、公安、すべて
イスラエルが入り込める。ゾーンAというその三分の一のところですね、そこには立ち入らないという約束だったんですけれども、ここのところは連日中に入り込んでパレスチナ人捕まえたりいわゆる爆薬で壊したりしております。お互いにつながっておりません。
アラファト議長はラマラーというここの町に今いるんですけれども、ここから去年の十二月以来外に出られないでいるんですね。ここにイエス・キリスト誕生のベツレヘムという町があって、そこの教会にアラファト議長は、自分は
イスラム教徒なんですけれども、キリスト教国へのPRも兼ねて毎年クリスマスにはミサに参加していたんですけれども、今年は
イスラエル軍に拒絶されてここからここに動くことができない。アラファトばかりじゃなしに、この辺でも全部で、白塗りのところ、小さいのを合わせると二百か所ぐらいに分断されております。隣の自治区の学校にも行けない、病院にも通えない。ふだんは通れるんですけれども、ちょっと治安
状態が悪く、
テロなんかが起きるとここが封鎖されます。
イスラエル軍が戦車、機関銃で封鎖してしまうんですね。
どうしてこんなずたずたの形になっているかというと、この三角印、
イスラエルが国連、同盟国
アメリカの批判さえ無視して三十五年間の間に造ってきた入植地があるからですね。入植者を守るために軍隊が駐留します。入植者や軍隊が使うための道路が造られます。それらはすべてパレスチナの土地の収奪の上に成り立っております。これじゃ独立国の体を成さないですね。隣の国ともつながっていません。出入国管理はすべて
イスラエルが一手に握っているという形です。
もしラビンさんが生きていたらどういうシナリオが考えられたかというと、だんだんだんだんこれを膨らませていって三分の二、この全体の三分の二あるいは八割ぐらいのところまで自治区を膨らませる、それで邪魔になる入植地はできるだけのけていく、それで最終的に境界を決めるという
考え方だったんです。
ところが、ラビンさんが暗殺されてネタニヤフというタカ派の政権ができてきます。この人が新しい概念を打ち出すんです。それは合意の双務性ということです。合意は、
テロをやらないという約束をパレスチナ側はやったんだ、
テロをやったらばこの
和平プロセス、つまり自治区の
拡大もおしまいですよ、あるいはお休みですよという、そういう
考え方です。
それに比べて、ラビンさんの名せりふで今でも鮮明に覚えているんですけれども、
テロ対策と土地を返すこと、
和平プロセスというものを切り離したんですね。
和平プロセスは
テロなどあたかもなかったように進める、
テロ対策は
和平プロセスなどなかったように厳しくやると。その切り離しによって、
テロ対策で弾圧しながら土地は広げていった。つまり、ラビンはこの形そのものが治安悪化の原因であると。境界線を単純化する、土地を返すことによって平和という大枠を作ることが一番安全につながるということを認識していたわけですね。しかし、今のシャロンさんあるいはネタニヤフさんにつながる
人たちはそうではないという。
それで、
アメリカ、
クリントン時代に行われた調停工作のところまで
お話しして、私の今の話を中断したいと思います。
これがおととしの七月、
クリントン大統領が大統領の山荘、キャンプ・デービッドにアラファトそれからバラク、当時の
イスラエルの首相、バラク、両者を呼んで、ちょうど沖縄サミットと重なった時期です。そこで出た
イスラエル側の提案がこれです。大体ヨルダン川西岸のうちの九%ぐらい、お手元に
地図をお配りしておりますけれども、左側から、西側からこう入り込んだこの
地域を
イスラエルが併合する、つまり入植地を整理統合して
イスラエル領土にしてしまうんですね。その代わり、ばらばらではなしにもうちょっと固まりの大きくした領土をパレスチナ側に引き渡すというものです。
ただ、この併合だけでは済みませんで、併合は九%と言われていましたけれども、それと同じぐらいの大きさ、東の方から、右側からこう横線で触れている部分があります。これは租借するというんですね、大体十五年ぐらい。その租借の理由は、東側からの軍事的脅威。ヨルダン王国というのはおとなしい国ですけれども、その隣に
イラク、
イランという順に並んでいます。両方とも
イスラエルから見れば脅威です。それらの国が東側から攻めてきた場合、ここで
防衛するという名目で、その脅威が消えたらば返すと。パレスチナ側で返してくれると信じている者は一人もいません。
要するに、こういう形で
アメリカのメディア、
イスラエルのメディアはもちろんですけれども、かつてない寛大な、気前のいい領土上の譲歩であるということを言いまくりました。しかし、ごらんのように領土は分断されています。隣の国とつながっておりません。パレスチナ側が拒絶するんですね。それがおととしの七月です。九月に暴動が始まります。インティファーダ、第二次インティファーダと呼ばれますね。今日までまだ続いております。
当時のバラク首相は、仮にもラビンさんの弟子ですから、弾圧しながら交渉というラビン流のやり方を踏襲いたしまして、去年の一月、ちょうど
クリントン大統領の任期ぎりぎりぐらいにもう一回、エジプトのタバというところで新しい譲歩の案を出します。それは、この安全上の租借地というのが消えてなくなります。それから、併合
地域が九%から四%に減ります。この
安全保障は、当時の
クリントンさんが米軍がやってやるという提案をするんですね。これで領土問題については妥結寸前という共同声明が出るところまで行くんですけれども、その一週間後の選挙でバラクさんは負けてしまって今のシャロン政権が登場します。
シャロンさんの立場は元のもくあみです。これもこれも国会の承認を得ないで、経ないでバラクが勝手にやったことだから、これは御破算であると、この
状態です。この
状態のままにらみ合いが今でも続いているんですけれども、最終的にシャロンさんがどの辺の着地点を考えているかというと、これに非常によく似た
地図、これは皆さんのお手元にお配りしておりませんけれども、シャロンさんが在野のころに言っていたシャロン・プランと言われている
地図ですね。内陸封じ込めです。二百何か所ではなしに、もうちょっと数は大ざっぱにまとまっておりますけれども、これが、これではパレスチナ人の独立
国家の願望には到底結び付きませんから、
テロは減らないというか、形になります。
テロが起きればそれに対する非常に強圧的な懲罰行為が加えられますし、
通常この周りは取り巻かれております。この形、私はテレビでも言ってるんですけれども、ソルジェニーツィンの小説には収容所列島というのがありますね、収容所列島ですね。この収容所列島では最終着地点になり得ないということは
イスラエルでも知識のある
人たちはみんな知っているんですね。しかし、どんなにつばを吐かれようが、外国で軽べつされようが、とにかく自分
たちにとって一番必要なのは土地だと思い込んでいるのがリクードのグループ、特にシャロンさんという形になります。
それで、ガザの方は七五%、ヨルダン川西岸よりも多少はパレスチナの方が多いんですけれども、これはこんな具合になっていまして──もうちょっと広角にしてください、引いてください。
これはこのエジプトとの国境ですね。こちらが北側になります。地中海です。ここが四十キロ、この幅の狭いところは七キロぐらい、広いところでも十キロちょっとです。そこに入植地がこういう形で割り込んでおりまして、その入植地と
イスラエル本土をつなぐための道路が横からこう入り込んでいます。ちょうどパレスチナ側の主な国道がちょうどつくねのくしみたいに、こういうふうに入っているんですけれども、それを横からつっつくような形で
イスラエル側の入植地専用道路があって、この交差点がいつも衝突現場になるところです。これが二五%ぐらい、この土地の面積が入植地として収用されています。
ここに飛行場が一本あります。これガザ飛行場ですけれども、今、使われておりません。
イスラエル軍が報復攻撃の一部としてブルドーザーでもって滑走路のペーブメントをはがしてしまったんですね。アラファトさんがどこへも行けないようにこうしてしまった。そういう行為に対して、ヨーロッパ連合は損害賠償を求めるなんて言って息巻いて
イスラエルに抗議をしているという形であります。
それで、また
和平プロセスの、こちらに移ります。
この間に大きな違いがあります。キャンプ・デービッドはパレスチナ側がのまなかった。しかし、タバは妥結寸前まで行って、何が変化の要素になったか。
一つは暴動ですね。それからもう
一つは
アメリカです。
おととしの十二月二十三日、クリスマスイブの前夜に、
アメリカの当時の
クリントン大統領がこういう形を提示したんですね。
地図まで書いて渡さなかったんですけれども、趣旨としてはバイアブル・パレスチナ・ステート、自立し得るパレスチナ
国家ができるようにしろと。
アメリカの意向とすり合わせながらバラク政権が作った
地図がこれです。
同時多発テロ事件の起きる二日前に、私はテルアビブで、このタバの交渉に
イスラエル側の代表として
出席しておりましたヨシ・ベイリンというバラク政権の閣僚で、ちょうどラビン・アラファトの握手のおぜん立てをしたオスロ合意の裏交渉をまとめた功労者ですけれども、その人、今浪人していますけれども、その人にテルアビブで会いました。
そこで、あれ残念だったねと。ここで七月に交渉が不調に終わって九月には暴動が始まった。八月は、
アメリカは一体
クリントンさん何をしていたんだと。もっと早く介入していい案を出してくれたらこんなことにならなかっただろうと言ったら、彼の答えは、
クリントンがすべきだったことは、七月にキャンプ・デービッド、招集したその場で
アメリカはこう考えるというこの線に近いものを出してくれたらば局面打開できたはずだと言ったですね。本当にそうかどうか分かりません。
ただ、それが非常にできにくいのは、先ほど
立山参考人が触れておりましたように、
アメリカの国内事情、
一つは民主党と
共和党が非常に接戦で張り合っているような中で、有権者の数は少なくても集票あるいは世論、集金、そういった点で非常に
影響力を持っておりますユダヤ・ロビーが強いことと、それから四千万に上るクリスチャンライトと言われているキリスト教系の原理主義といいますか、初めから
イスラエルびいきの
人たちがいて、ですから
アメリカ行政府が独自に
イスラエルにプレッシャーを掛けるようなことをやるのは、ブッシュさんのお父さんの落選の轍を踏みたくない、
アメリカの政治家
たちにとっては非常に困るわけですね。ですから、
アメリカの政治家
たちが一番願っているシナリオというのは、
イスラエル自体でハト派が政権を握ってくれると、それを全面的にバックアップして自分は目立たないように。目立たないようにといっても、結局は目立ちたかったのは
クリントンさんではあるんですけれども。
その辺りが、
ブッシュ大統領が今回の
テロ撲滅
作戦で自立可能なパレスチナ
国家という
言葉は口走ってはおります。それは十月初めの話で、案外、非常に
アフガニスタンのタリバン撲滅
戦争が楽勝で済んでしまったものですから余りこだわらなくなってしまったといいますか、実際に身を入れて動くか動かないかというのは今後の決め手になってくると思うんですね。
ただ、ここ二、三日見ていますと、ブッシュさんが、先ほど
立山さんがおっしゃった
サウジアラビアとの
関係修復のために
サウジアラビア政府、王室に向けた手紙の中で、
サウジアラビアがかなり納得するような、つまりパレスチナ問題について
アメリカの見解を述べていると言われます。どう動くか分かりませんけれども、とにかくかぎを握るのは
アメリカであり、そして中心の問題は土地であるということだけ強調して、今の発言は終わらせていただきます。