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参考人(
戸松秀典君) 御紹介にあずかりました、私、
学習院大学で
憲法の講義を担当しております
戸松でございます。
参考人としてお呼びいただき、大変光栄に思っています。
それでは、早速でありますけれども、私には、
事務局からの依頼によりますと、当
審査会では
基本的人権についての
検討に入るということで、まず総論的、全体にわたった話をするようにというふうに求められております。また、私が
アメリカ憲法の研究をしている
関係で、できたら
アメリカの
人権保障との
関係にも触れてほしいという、こういう要望でございました。それらを含めまして、三十分ほどまずお話しさせていただきたいと思います。お手元の
レジュメに大体沿ってお話ししていきたいと思っております。
まず、全体の
人権保障ということの私の考えている
見方なのでございますけれども、
人権保障の
規定、
条文というのは、どこの国の
憲法の
規定も大体同じことなんですけれども、そんなに詳細に、個別具体的に決まっているわけではないわけです。その一般的、抽象的に書かれていることだけを見て
人権保障の
在り方等が分かるわけではない、むしろ、その下で生じている
実態を見て、
実態との
関係で
議論しなくちゃいけないんじゃないかというふうに思われます。そういうことで、そのような観点から本日もお話しするという、そういうつもりでございます。
それから、もう
一つは、
憲法秩序の形成ということをそこに記しておりますけれども、これはもう
一つ、私の
考察視点、
考察姿勢というふうに言っていいかと思いますが、そういうものであるわけです。
司法権の担い手である
裁判所の
判断を通して
人権保障が実際に具体的に
実現していくんだと、そういうことによって
憲法秩序が形成されるという、こういうこと、これが重要な
視点となるべきじゃないかということであります。
ここには、もちろん
立法とか
行政の
政治部門の
作用がかかわっておりまして、それを無視するわけでありませんけれども、
司法権による
具体的実現ということが
憲法という法というものを
具体化し秩序立てていくんだという、こういうことでございます。
そこで、まず
人権保障の
展開といいますか
概観ということをしたいと思っております。ちょっと私、声が小さいから失礼しているかもしれません。
まず、
人権保障につきましては、今
実態を見ろというふうに言いましたけれども、その
発展過程というものが重要であるというふうに思われます。
裁判を通して
人権保障が
実現されるということに注目するということになりますと、
人権保障の
発展過程というのは通常よく言われる
憲法訴訟とか
憲法裁判の
展開過程と軌を一にしたものであるということが言えます。
私もその
レジュメの一番下に番号を振って書いてある
参考文献を触れながらお話ししたいと思いますけれども、二の「
憲法訴訟」というこの本の中で、
憲法訴訟の
展開、
発展過程を
論述しております。
該当ページがそれなんですけれども、そこではとりあえず
萌芽期、
成長期、
成熟期などとよくやる分類をいたしまして、
人権保障もこのような
経過をたどってきていて、現在は
成長期を経て
成熟期に入り掛けているんじゃないかという、こういうような
分析をしているわけです。
ここには、
日本の
人権保障の
発展過程を見ますと、
アメリカの
裁判法理の
影響、ここでは
裁判法理ということを言っていますのは、初めのところで言いましたように、
司法を通した
人権保障ということが重要だというそのこととの
関係でございますが、
アメリカの
裁判法理が
萌芽期、
成長期、特に
成長期辺りから盛んに
影響を及ぼしているということは言えるかと思います。
ただ、
影響を及ぼしているというふうに言っても単純ではなくて、その
文献の一のところで全体を見回した
論述を
展開したわけですけれども、簡単に言えば
日本化ということがなせる、
アメリカの
法理を形としては取り入れておりますけれども、
日本に合ったように、あるいはある
場面では一見取り入れているようだけれども頑固に
日本的な
様相のものに変わっているという、そういうことが言えるかと思います。
このことは、考えてみれば当たり前のことかもしれないわけです。
人権保障というのは、その国の歴史的な伝統とか
社会慣習とか、
国民社会の人々の
意識とか、そういうものなどに強くかかわるものでありますから、
外国の
影響によって直ちに
日本的なものが
変化して
アメリカ的なものになるなんてことはなくて、
日本的なものの
発展、
成長の
過程に何かの刺激が与えられたり、
作用が及ぼされているというふうに見ればいいんじゃないかと思います。
そういうわけで、詳細な
論述は避けますけれども、一の
文献などを見ていただければよろしいんですけれども、いろいろ試みて、
学説上も
アメリカの
法理を盛んに
裁判の中に取り入れるように説いても、
裁判の結果を見て
分析してみますと
日本的なものに変わってきているというふうに言えるんじゃないかと思います。
ただ、そういう
観察をした上で全体として見ますと、
日本国憲法のこの五十年余の
人権保障の
経過は独自な、ある程度積極的な、
分野によっていろいろな異なりがありますけれども、
発展を示してきているんじゃないかということが言えます。
その
発展性、その国の
独自性などということにつきましては、例えば三の
文献で私は
アメリカの
平等原則の
様相を
分析研究いたしまして、更に
日本の
平等原則についての
分析にも比較研究しながらやったのが三の
文献ですけれども、そこで示しておりますように、その国の独自の
発展の経緯ということに特に注目する必要があるだろうと。
アメリカは
アメリカの
平等原則の
展開をしているんだという、こういうことが言えるんじゃないかと思います。その点が、その三の
文献の九ページから二十四ページをごらんいただきたいということで指定したのはそういう意味でございます。
アメリカの
平等原則の
展開を見ますと、それは決して
日本と同じではあり得ないし、そのまま
日本に導入できるものではないということが言えるんじゃないかということが言えます。
ただ、そうかといいましても、現在では
諸国で
展開されている
人権保障の
実態がお互いに
影響し合っているということも見逃せないんではないかというふうに言えます。そのことが
レジュメの一の三番目のところに指摘しております
国際間での
人権保障実現の
動向ということです。これについても注目する必要があるんじゃないかということです。このことは
日本国憲法制定時に比べまして、現在では非常に大きな違いを見せている点ではないかということが言えます。この
国際間の
人権保障の
実現の
動向ということを無視して、
人権保障のことは考えられないんではないかというふうに思っているわけです。
私がここで言うまでもなく、
国際人権規約というものは存在し、この国会でも承認され、加入しておりますし、さらに
女子差別撤廃条約、
人種差別撤廃条約など
日本が加入している
条約、これらは
国際的な
人権保障の
動向を示すものでありますが、ただそれだけではなくて、
人権侵害に対する
国際的な関心の
傾向あるいは
国際的世論というものの
動向というのが大変
影響し合っているということが言えるんじゃないかというふうに思います。
非常に大ざっぱでありますが、
人権保障の
展開、
概観をそのようにした上で、
人権保障の
特徴としてどんなことがあるのか、さらにどういう
課題がここでは見られるのかということに少し触れてみたいかと思います。
まず、
日本の方を見ますと、この五十年余の間に非常に
発展した
領域と、そうではなくて、それほどの
発展が見られず、むしろ
学説上はあるいは
裁判の
動向を見ますと
発展が特に求められる
領域などというのに二分できるんじゃないかというふうに思われます。
よく
発展した
領域というのは、
平等原則、
憲法十四条の法の下の平等の
原則についてであるかと思います。これは
性差別の問題だけではなくて、
議員定数不均衡の問題で
投票価値の平等ということもありますし、それだけではなくて、様々な
社会での
差別についての
問題意識が浸透して、
裁判で争われ
違憲の
判断が出ればいいというわけではないというのが私の
考え方、それは二の「
憲法訴訟」で書いていることですけれども、合憲の結論が出ても、そこでよく
議論が尽くされていて
法理が
発展しているということが重要ですけれども、そういう面からいいますと、
人権保障の
発展過程で
平等原則というのは非常によく
発展しているということが言えます。この点は、別に
日本だけではなくて世界的な
動向と軌を一にしているんじゃないかということも言えます。
次は、
経済活動の自由の
領域、
財産保障とか
営業規制に対する
保障などというのは、これは
日本的な
特徴かと思いますけれども、
裁判所も積極的に立ち入った
判断をしていて、よく
展開している
領域じゃないかというふうに思われます。
それから、これは比較的近年の
傾向でございますが、
憲法二十条及び八十九条の
政教分離原則についての
展開であります。これは
訴訟提起の仕方も
地方自治法の
規定の
住民訴訟のやり方がありますので、それを利用して多くの
訴訟が提起され、
裁判所がこれに
対応し、
愛媛玉ぐし料訴訟では
最高裁が
違憲の
判断を出すというふうになっておりますので、これは非常に
発展している
領域であるというふうに思われます。
この点は、
社会において信教の自由、
政教分離原則についての
意識が浸透してきているからだということも言えますし、それから諸
外国での
動向も
影響、特に
アメリカの
影響もその面ではあるというふうに言えます。
影響はあると言うんですけれども、前の話に戻りますと、
裁判法理なるものは、
アメリカのものをそのまま使っているわけじゃなくて
日本化がなされているという、そういう
特徴も見られるわけです。
次に、一層の
発展が求められる
領域ということでは、精神的自由の中でも特に
表現の自由の
領域というのは、どういうわけか
日本の
社会ではそれほどこの五十余年の間、
発展したとは言えないんじゃないかということが言えます。これは
法律等の
規制がそんなになされていないからだということも言えますし、
アメリカのように、州の段階での各
法律、
条例等の
規定が乱暴であって、そのために
違憲の
判断が出しやすいのと比べて、
日本は周到な法令の
制定がなされているからということが言えますけれども、それを差し引いてもいろいろ
議論があり、また、
十分裁判法理上も
展開していないところじゃないかというふうに思われます。
刑事手続上の
人権につきましても同じようなことが指摘できるんじゃないかと思います。
これは、もうその国その国による
犯罪等の実情、そういうものが
影響しておりますので、
手続上の
議論としては、
アメリカの
影響がかなりあるかのように見えますけれども、実際上はそれほど
アメリカの理論そのままは生かされてはいない
領域だと。
見方にこれはよりますけれども、もっと
裁判所が踏み込んだ救済の
手続をすべきではないかという、こういう
議論もあるところで、もっと
発展が求められているところであるというふうに思われます。
このように、非常にこれも大ざっぱに見ましてどういう
課題があるかということでありますが、これについては
最初に申し上げました
司法過程と
政治部門との
関係、特に
司法過程を中心にした
観察をした上でのことでありますけれども、
裁判所の
判断が
政治の
場面でもう少し生かされるべきであると。つまり、
立法府による
対応ということが求められるのではないかということが言えます。
裁判所の
判断が
立法過程で十分
対応されるという、そういう
環境であると
裁判所も積極的な
判断ができるんだけれども、
立法部門が
対応できないような
状況では
裁判所が消極的な
判断にとどまるということにならざるを得ないんじゃないかということです。そして、全体に見ますと、
社会の
変化への
対応ということが望まれているんだけれども、それが十分ではないんじゃないかということが
観察し得るわけです。
そこでの
裁判法理上の問題としまして、
裁判所が積極的な
対応が得られないためにどうしているかということですけれども、これは
裁判法理で言いますと
立法裁量論という、そういうふうに私が名付けている、私が名付けているというよりも、
裁判所がそういう
判断をしているところをとらえて言っているわけですが、それをまとめた
論文集としまして四のものがございますが、
アメリカと比べますと、
最高裁を始めとする
日本の
裁判所は、
立法府の
政策判断を尊重して立ち入った、
裁判所独自の立ち入った
判断を控える
傾向にあると。この点が先ほど言いました
表現の自由のような精神的自由の
領域でもなされる、ここに
課題があるんじゃないかというふうに思われるわけです。
これをどう克服するかということですけれども、その克服については、
独り裁判所のみではなくて、
政治部門が先ほど言った
対応の
姿勢を取ることが必要ではないかという、そういうことでございます。
単純に言って、そういうふうに言いますと、
立法府は
対応していないかというふうに簡単に性格付けちゃうように受け取られるのも私も本意ではなくて、詳細に見れば、積極的に
対応する
分野と、それから
立法府の
裁量に全くゆだねている
領域とそうじゃない
領域というのが
人権の各
領域とかあるいは
立法の
性格等についてございます。
経済活動の自由の
領域につきましては、
立法裁量論を前提として取りながらも、比較的
裁判所は立ち入った
判断をしている
領域ではないかというふうに思います。最も立ち入った
判断をして
立法裁量論が排される
傾向があるのが
平等原則の
領域で、その
展開を見ると
人権保障の
在り方についての
一つのヒントが得られるんじゃないかというふうに思われるわけです。
もちろん、
社会福祉にかかわる
人権とか、それから
租税法にかかわる
人権、そういう
領域については
立法府の
裁量を尊重せざるを得ない。これは、
裁判所が立ち入って
判断するよりも、
政治過程の
政策的判断に任せた方が良いというふうに思われる
領域でありまして、そういうふうに
分析しますと、一律に
立法裁量論を克服すればいいというわけではなくて、
人権保障の
領域ごとに
検討の必要があるということじゃないかと思います。
これに加えて、
国際的動向ということを先ほど言いましたけれども、
国際的動向への
対応ということが必要かと思います。特に
外国人に対する
人権の
保障というのは現在の大変重要な
課題になっておりまして、
外国人ということで
人権保障の
在り方を
日本国民と変えていいのかというと、そう単純ではなくなっているわけです。その
人権保障の
内容ごとに
対応しなければいけない。
選挙権などというものとそうじゃないものとの区別などということも、
一つの重要な
課題であろうというふうに思われるわけであります。
今後、
人権保障は、ではどういう展望がなされるかという、将来に向けてのことでありますけれども、
一つは、先ほども触れていることに
関係いたしますけれども、
社会の
変化への
対応をする必要があると。これはどういうふうにしてやるのかということですが、
社会の
変化への
対応というのは、
一つは、
人権保障の
規定をもっと現在の
状況に合わせて盛り込めばいいではないかという、こういう
考え方も
学説上もなくはないわけです。要するに、
人権保障規定の
憲法改正によって
対応すればいいということで、よく取り上げられているのは、例えば
環境権という
権利でございますが、これを
憲法にうたえばいい、うたうことによって
環境保全ということが促進されるという
考え方、あるいは
現代社会の
状況として、
個人情報ないし
プライバシーの
侵害ということが非常に顕著であるから、だからこれを、
プライバシーの
保護、
プライバシー権の
保障ということを
憲法にうたえばよいという、こういう
考え方がありますけれども、私はこれについてはどうもそれほど魅力的な考えではないというふうに思われます。
これは、そもそも
最初に申し上げましたように、
人権保障規定というのを一般的、抽象的な
言葉で語るわけで、そこに何かの
価値が盛り込まれているといっても、そこで一義的な
価値が定まるわけではなくて、
憲法に盛り込まれたところは
立法によって
具体化し、
実現していかなくちゃいけない、さらに、
司法過程によって
個別具体化をする必要があるということであります。ですから、現在の
日本国憲法の
条文の
規定によって何らかの
人権の
解釈が可能であるならば、
憲法の
改正をしなくても、その下に更に
立法をして
具体化すればいいではないかという、こういうことです。
もちろん、これに対する反対の
考え方がありますけれども、例えば
環境権について、
環境権の
保障を
憲法にうたうと
環境保全が一気に促進されるなんということはだれも期待できないわけで、むしろ
環境権を十三条なり二十五条なりそういうところから読み取って、
憲法上の
権利であるけれども、それを
実現するためには
環境保全にかかわる様々な
立法をしなくてはいけなくて、その
立法の下に具体的な施策がなされれば、それで
環境権なる
人権が具体的に
保障が
実現されるということになるんじゃないかという、こういうわけであります。
諸国には
環境権をうたった国がありますけれども、その下でどんな
立法がなされているかということを見ない限りは、
環境権の
保障ということについての
実態が分からないんじゃないかということは言えます。
プライバシー権についても同様でございまして、もうじき
制定され、
実現されようとしています
個人情報保護法の
制定がなされ、そして
制度化がなされて、その運用がなされる
過程で
プライバシーの
権利というのが実際に具体的に
保障されるわけですから、現在のように
憲法十三条の生命、自由、
幸福追求に対する
権利という、この
規定から
プライバシーの
権利を読み取れば読み取ることができるというふうに
裁判法理上はなっておりますので、その下で十分じゃないか、むしろ
立法による
具体化、
制度化ということが重要ではないかという、そういうふうに思われます。
こういうわけで、
人権保障につきましては、
憲法の
規定はとにかくあるとして、その下でどういう
立法がなされて、どういう
憲法秩序が形成されるかということが重要ではないかというふうに、私はいろいろ研究した
過程で思っているわけであります。
既に昨年度から
制度化が
具体化し、実施に移されておりますあの
情報公開制度も正にそういうものでございまして、
学説によれば、知る
権利というのは
憲法上の
人権だというふうに言って、何条から読み取れるということを言っておりますけれども、それで知る
権利の
具体的実現がすぐなされるわけではなくて、今一年ほどたっております
情報公開制度が運用されていく
過程でこの知る
権利というのが
具体化され
実現されていくということです。ですから、
憲法上の根拠をどこに求めるかというのは
解釈、技術上の問題にすぎなくて、知る
権利の
実態というのは、
情報公開制度を含めて見ることによって把握できるんじゃないかというふうに思われるわけです。
ほかに、これは言い出せばずっと全部そういうことの説明が成り立つわけですけれども、
福祉給付権、
生存権についても同様であるかと思います。
生存権などは、特に二十五条の
条文を幾らにらんでも具体的な
内容は出てこないんではないかという気がいたします。もちろん、人によっては
憲法二十五条は具体的な
権利だと言う人がありますけれども、それはその人の思いを、希望、願いを込めて言っているだけで、
憲法秩序上それが
保障されるわけではなくて、二十五条の一般抽象的な
言葉から様々な
福祉立法がなされて、そしてそれが
行政上実施されて、その
過程で問題があれば
裁判で争われ、そしてその
裁判の
過程で是正が求められて
立法府に投げ返されて、
立法府がその
問題点については修正なり
改正して
対応して二十五条の
権利が一層
具体化し
発展すると、こういうふうになっていくんじゃないかというふうに思われます。
同じようなことを繰り返しませんが、
女性差別の問題についてもそうであろうというふうに思われます。
こういうわけで、私の目から見ますと
憲法訴訟とか
憲法裁判の機能が大変重要でありまして、それとの
関係で
政治部門が
対応していくことによって
人権保障が
実現されていくんじゃないかと。この間では相互の
関係が重要でありまして、決して
司法が独自に独り歩きし先導しても
社会の
変化が得られるわけではないわけで、どちらかといえば
司法というのは、
立法府、
政治過程で政策決定なされたところに後追いの形で
憲法の名においてチェックしていくという、こういう
過程、形がなされるんではないかというふうに思われるわけです。
こんなわけで、
人権保障の実効化、効果を十分発揮するということにつきましては、繰り返しになりますけれども、
政治過程と
司法過程との連携、
政治部門と
司法部門の相互
関係ということを経てなされるんではないかというふうにとらえるわけです。
こういうわけで、積極的な
社会の
変化に
対応した
立法が求められますけれども、
立法されればそれでよいわけではなくて、それが
社会に適用されて、様々な形で
訴訟が提起されて、その
訴訟が提起されますと極めて個別具体的な争点というのが明らかになりますから、それに対して
裁判所が
判断を下し、それが
立法府なり
行政府なり
政治過程に投げ掛けられて、そこでまた再
検討されるという、こういう
過程がダイナミックに
展開されることが必要じゃないかというふうに思われます。そこがダイナミックな
展開が見られないと、
人権保障が停滞しているとか様々な問題が指摘されることになるんじゃないかというふうに思われるわけです。
そういうような考えを最後に
レジュメのところに、番号振っていないものですけれども、昨年の一般向けの講演でやったところを雑誌に載っけておりますので、そのようなことを述べたのがそこの最後の
規定でありまして、
憲法価値の
具体的実現ということを言いましたが、
憲法はもちろん皆さん御承知のように様々な
価値が込められているわけですが、その
価値というのは一義的ではなくて、それを具体的に
実現するというのは、今申し上げたような
経過をたどってなされるべきであろうと、
人権保障については特にそういう面が必要ではないかというふうに思われるわけです。
およそ与えられました時間が過ぎたと思いますので、これで取りあえず説明とさせていただきます。よろしく。