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参考人(
舘澤貢次君)
舘澤です。
私、取材記者の
立場から
石油開発行政、
石油公団を見てまいりまして、その取材記者の目からこの流れについてお話しさせていただきたいと思います。
基本的には、私、
現状の
石油開発自体、行政並びに
公団の動きを見まして、一九七一年の昭和四十六年、これは政府の方が派遣しました
海外エネルギー事業調査団という巨大な、六百八十
ページにわたる報告書がございます。団長が有沢広巳様で、当時の原子力
委員会の
委員の方が団長をされ、稲葉秀三さんを始め、当時の通産省から栗原昭平さんが参加され、
あとは
石油公団から津村光信さんという後の企画課長が。その報告書をまた改めて読んでみましたら、
現状の我が国の
石油行政、
石油公団は、そこからある
意味で一歩も出ていないんじゃないかなという感じがしてなりません。
まず、その視察団の結論を皆さんにちょっとお話ししたいと思いますけれども、視察団の結論としては、
石油の安定かつ低廉な
供給の
確保、それと
輸入先の分離と
石油資源の探査
開発、官民協力による万全の措置、並びに主な点を挙げますと、
日本の
原油輸入の自主性
確保という言葉がございます。
原油輸入の選択の範囲を多く広げたいと。当時は
中東依存は六〇%ぐらいでしたんですけれども、これを五〇対五〇の比率まで持っていきたいという結論をまとめておりました。当然、そこで原子力
開発の推進と
備蓄の推進を掲げております。この当時、この調査報告書の後にすぐ第一次
石油危機、第二次
石油危機が間もなく始まります。しかし、この調査団が行っているときには、既に
イランの国有化、イラクの国有化という、
石油資源の国有化
政策が次々に発動されておりまして、その
状況の中でこういう報告書をまとめられたと。
その後に、この年の十月に
石油公団が発足いたしました。まあ
石油公団の発足は、
石油資源開発という
国策会社を継承する形で発足したんですけれども。それから、この当時の
石油公団の役割としては、私自身、この調査報告にのっとった形の展開としては非常に
評価するんですけれども、それ以降歴代の、最初の総裁だけは
民間人の三村起一様という住友財閥系の方がなりましたのですが、二代目から通産省並びに
経済産業省のお役人さんが歴代総裁、並びに副総裁は大蔵省、国税庁から参られまして、そのほかの理事は通産省並びに大蔵省、そして自治省等のほかの官庁から来られております。
第二代の島田総裁の
意見について私は非常に共感しておるんですけれども、なぜかといいますと、島田総裁はこの当時、全
世界的な規模で
事業をやれるような和製
メジャーの
体制を、統合された組織を持つべきである、そのために
石油公団は捨て石になると。しかし、このとき設けられたのが、現在言われているワンカンパニー・ワンプロジェクトという
政策です。一
鉱区に対して一
企業です。
なぜこれが設けられたかと申しますと、根本的に親
会社の
リスクを軽減するためというのが第一の理由でございます。それと同時に、この当時の持ち株
会社の法律上から、こういう
国家的、
国策的な大きな統合
会社を作るのは非常に困難であるという二つの点で、結局のところ、この
石油公団ができたときにはまだ二十七社しか、
企業は、
石油開発会社はございませんでした。しかし、ワンカンパニー・ワンプロジェクトという名の下ででき上がって、結果は二百九十三社、今日まででき上がりました。これらはほとんど
中東依存の形で投下されましたんですけれども。
私の手元には一九七〇年の
原油輸入の統計がございますんですけれども、一億九千五百万、これは一九七〇年代、
原油輸入の依存率は九九・五%。それ以降、約二億トンをずっと来ております。三割自主
原油、日の丸
原油構想を立てた
石油公団発足時、これは本来なら十年後の昭和五十三年に達成される予定だったということです。
これはなぜかといいますと、発足と同時に、
イラン石油の
イラン国王のパーレビ国王さんと三井物産の契約により、あそこのモービルが持っていた利権を、ADMA
油田というところを、ジャパン
石油開発という
会社を設立することによって二千五百万キロリットルが当時入る予定でした。
イラン石油の方はモービルからです。ジャパン
石油開発はブリティッシュ・ペトロリアムから譲り受けたんです。これが七億ドルというとてつもない、その当時としては金額でもって、
開発されている、既に油が出ている
油田を買い取ったのがジャパン
石油開発です。この七億ドルという買収資金は、もう当時から非常に問題になっておったんですけれども、このときにどんどんできた
会社が財閥系
石油会社と言われる三菱
石油、芙蓉
石油開発ですか、その流れがその当時、雨後のタケノコのようにでき上がる最初のターンになったと思うんです。
このジャパン
石油開発ができたときには、私は、これ具体的に申し上げるのは、これが今日、大きな
石油公団の爆弾になっている一番
負債、
不良債権の大きい
会社なんですけれども、ここに当時、十二社の
会社が
出資しました、百二十億円。一社当たり十億円の
出資でもって六大財閥
会社が、三井、三菱、住友、芙蓉、東洋
石油等ですね、これが六社十億円ずつ。
ところが、この
会社は全部外資系の
石油会社を持っておりまして、その外資系の
石油会社が、シェル系、エクソン系、カルテックス系、モービル系という
会社がみんな、興亜
石油、
日本石油、東燃、そういったところは皆、財閥系の統括
会社の系列になっています。そこに
日本から丸善
石油、大協
石油という民族系が入りまして、ここで非常に、ここから国産
原油、日の丸
原油がずれてくるんです。
石油公団と通産省は、その際、ジャパン
石油開発が取得するBPの
油田に対して、本来ならば七割その
原油を民族系がもらって、
あとの三割、これが財閥系に行くという契約だった。契約というんですかね、最初の買収の過程だったんですけれども。
それが物の見事にひっくり返りまして、ここから話がおかしくなりまして、先ほどのパーレビ国王からもらった、モービルが捨てた
油田を買った
イラン石油、これが三井物産が最終的に大平内閣時代に七千五百億円のしりぬぐいをして撤退したといういわく付きのIJPC、ICDCという
会社でございます。その
会社が本来なら二千五百万、それと先ほどのジャパンが二千五百万。更にもう
一つ大きなこのときプロジェクトを考えております。それがソ連のチュメニ
油田です。チュメニ
油田開発に、当時の
資源派財界人の方がそこに投下したのが、五千万キロリットルが入る予定で、当時、五十三年の予定は、十年後の昭和五十三年の予定は、二億五千万キロリットルが
日本の
原油の消費量。そうしますと、二億五千万キロリットルのうちの一億キロリットルが昭和五十三年に
確保できる、そうしますと三割は達成できると。そういう読みがあったわけですけれども、
イランの方は
イラン・イラク戦争でもって完全に計画がつぶれまして、チュメニはチュメニで幻の
石油開発構想になりまして、残っているのはアラビア
石油の二千五百万トン、これだけです。
それ以降、一向に今日まで増えずに、
会社だけがどんどん増えてきていると、これが実態でございます。その
会社の中では既に百二十社近くがもう解散、清算に追い込まれていると。現在、黒字
会社は十三社と言われております。それで、ジャパン
石油開発会社は、規模の大きいところは九社と言われておるのが現在の実態だと思います。
中東脱却という
意味合いで来ておるんですけれども、当時六〇%の
中東依存が、現在は通産省統計では
OPEC合計で八〇・六%、逆に増えていると。増えていますけれども、これは結局、危険な地域ではやらない。
特に、一番これ最初は南ベトナムです。ここから国と
石油公団と
民間会社で大変な焦りがあった。南ベトナム
石油開発には、当時の
資源派財界人と言われる方は手を出すなと。あそこは、ベトナム戦争が終わった後、あそこで
石油利権に着手すると火事場泥棒になるというような話で、行かない方がいいというのが当時の、いや、しかし、愛知揆一当時の外務
大臣は、いや、しかし、危険なところでもやはり
石油の
確保のためには行かざるを得まいというので大分激論したんですけれども、当時の
石油公団の関係者、
役員の方は、やはり安全な
石油が出る安全な国は旧ソ連と
アメリカだけだろうと、政情的に安定しているところは。
あとは、ほかはどの国を見ても絶対無理である、危険であると。しかし、危険なところに行かなければ絶対成り立たないわけです。
日本の
石油を
確保できないんだと。それが逆にワンプロジェクト・ワンカンパニーを多く生んだ背景にもなっておるんですけれども。
それ以上に問題なのは、貸す、融資した、
出資、融資、千三つの
世界で
石油公団、通産省が取ったその
政策が、失敗したら返さなくてもいいよと。これが基本的に
民間企業から見ればとんでもないと。しかし、その当時の
民間企業の
石油統括
会社作ったところは、そういう
政策ならば国が全部面倒見てくれるんだと、じゃ乗っかっていこうと。それで強引に、強引というのかな、通産省から
石油開発会社づくりのためにアルミ
会社に声掛けたり、商社に声掛け銀行に声掛けたりして、結局、先ほどのジャパン
石油の場合、十二社の統括
会社とおっしゃいましたけれども、これにぶら下がった
企業は三百八十六社もございます。三百八十六社が十二社の株主になっているわけです。その十二社がジャパン
石油開発を作ったんです。そのジャパン
石油開発作ったときにも、まだ
会社ができていなかった統括
会社もあるんです。ペーパー上だけです。
ですから、そういった当初の、私から見れば甘い融資、
出資をして、それが非常に、うまく使ってくれればよかったんですけれども、残念なことに
石油開発公団、現在の
石油公団の理事、総裁、これは任期来れば、いわゆる渡り鳥官僚、現在
石油公団は十人のうち五人
役員さんが天下ってきていますけれども、完全に、私が何度か会った官僚出身の
公団の理事は、私はアルミ出身だから何も分からぬよとか、あるいは、次は私は国のある
大学の学長になるんで、その学長の勉強のために
あと一年いるだけだと、そういう話を堂々とされておりました。ですから、熱心というより分からないわけですね、基本的に。ですから興味もない。二年いればよろしい、二期四年、これでよろしいと。そうしますと、メスが入りません。
しかし、
石油公団のプロパーの方はもう非常に熱心に今
世界じゅう飛び回っています。しかし、頭の方がそういった形でありますので、これは
石油開発会社の方でも同じなんです、
民間会社でも。結局一人で、先ほど二百九十三社のうち、
社長を十社ぐらい兼任している天下りの官僚さんもいらっしゃるわけです。この方が全
世界に、カナダとヨーロッパとアフリカと、いろんなところの
生産拠点に果たして
事業しに行けるかと。まず不可能でございます。結局、東京にいるだけです。東京で、自らの国の金を使ってその
事業をするのは、実際、現場のプロパーでございます。任期が来れば替わっていきます、渡り鳥ですから。
ですから、こういったせっかくの大事なお金を使う、その首脳陣の方が非常に
民間的な
リスク管理、資本主義社会における
出資、出と入りを全く考えないという、私から言えばそう断定せざるを得ないような行政並びに
石油開発事業をやってきたのは政府、
公団、それと
石油開発会社の首脳になっている官僚さんの方々ではないかと。
その方々が、今度は
石油公団を
廃止すると。しかし、これに今まで二兆円、そして一兆三千五百億円の焦げ付き、これに対する、一体なぜ失敗したのか、なぜ三割
原油はできなかったのか、どうして二百九十三社もできて百二十社も
会社がなくなったのか、何の反省もなしに、はい、三百三十人しか職員がいないと、道路
公団とかの数千人よりもわずかな
人間だから簡単に
廃止できるのかというような、私から見れば余りにも簡単にこの
石油公団を
廃止し過ぎはしないかと私は思います。
やはり国の支援というのは、
石油公団は、
国策上どこでも
国家の最高策として位置付けられておりますので、これがまた第二の
石油公団みたいな形で
独立行政法人、特殊法人でやられれば全く二の舞で、和製
メジャーができるどころではございません。和製
メジャーを本当に作りたいなら、現在の既存の生き残って頑張っている
石油資源開発とか国際
石油開発、これらの
企業を育て、更に育てて、そのために支援をして、その中で彼らが上場して、やっぱり十三社が一緒になって
国策会社を作ろうと、和製
メジャーを作ろうと言うなら、そのときは政府が全面的に応援すべきではないかと。当然そのときの資金は提供する、しかし一切官僚はそこには入れないと。私の
意見でございます。