○
岩崎参考人 筑波大学の
岩崎でございます。座ったままで失礼いたします。
本日は、お呼びいただき、どうもありがとうございます。
地方自治に関する
調査小委員会ということで、
地方自治についてということなのですが、とりわけ
分権と
連邦制についての話をということだと理解しておりますので、そのような内容で話を進めさせていただきたいと思います。
お手元に、レジュメといいましょうか、三枚で、
最初のところにきょうの話させていただく概要を列挙したものがございますので、そちらに沿って話をしていきたいと思います。
まず、「
地方分権改革」ということでございますけれども、
地方分権というのは、今や
世界的な
潮流となっております。
日本だけのことではございません。
地方分権を推進する力というのは、これは
世界的に幾つかいろいろな
動きがあるのですが、それを同じような力のところに
グループ分けをしますと、ここに書いてございます
五つに分けることができます。
まず、
民主化の
動きです。
民主化を求める
動きが
地方分権を求めるということでございます。これは、よく
発展途上国等で、
権力がすごく遠いところで、
権威主義体制など、一部に集中しているのを
自分のところに取り戻すというところで、古くは
地方自治は
民主主義の学校と言われたこともありますが、
民主主義、
民主化と
地方分権は密接に結びついているということになります。
二番目は、
文化的アイデンティティーです。これは、私は
カナダを
専門にしているのですが、特にケベックですとか、それから
イギリスですと
スコットランド、それからスペインのカタロニアですとかバスクとか、そういうところで文化的な
アイデンティティー、
自分たちの
民族、言語、
宗教等、そういう
自分たちの
民族集団、
文化集団が
自分たちで
自治を求めたいというときに
分権になるんですが、ここで重要なのは、
自治を求めるときに、ただ
自治をというのではなくて、ベースとなる
領域を持っているということが極めて重要になります。
つまり、
分権というのは、機能的な
分権もあるのですけれども、
地方分権という限りは、その
地方地方、
一定の
領域を持った上で、それを
自分たちの土地として、そして
領域として、そこでの
自治を求めるというふうになりますので、そういうふうな
文化的アイデンティティーが
地方分権を求めていく。
これは、余り行き過ぎますと
国家にとっては統合の危機ということになりますので、バルカンなどをごらんになっていただくとわかるのですけれども、余りこれが行き過ぎるとかえって分断をしてしまうということになっていきまして、必ずしもポジティブなイメージではないということもございます。どちらの
立場に立つかですけれども、そういうことでございます。
それから、
近代化の
終えんというのがございます。これは、
キャッチアップで、挙国一致で、
中央政府に
権力を集中して効率的に資源を配分していこうという
近代化が進むわけですけれども、それがある程度達成されますと、そこの段階で新たに
自分たちの近くに
権力を置いて、そこで決めていきたいというふうな
動きが出てくるということになります。恐らく、
日本はこの
近代化の
終えんに近いところがあるのかなという気がしますが、そういうことです。
それから、
行財政改革というのがございます。これは特に
イギリス等々で見られるんですけれども、
中央政府が、
自分が肥大しているのをスリムになりたいというところで、いろいろな
仕事をなるべく
民間と
地方にゆだねるということになりますので、これも
日本の現在の
動きには
関係があるというふうな気がいたします。
それから、
五つ目は
グローバリゼーションです。これは若干矛盾して聞こえるかもしれないのですけれども、
国家を超えてのいろいろな国際的な
協力ですとか、
グローバルスタンダードも含めて、進んでいくにつれて、より身近なところに対しての
人々の
意識が高まるというのがございまして、
グローバリゼーションが進めば、逆に、近いところに対しての
意識がちょうど相殺するように高まっていくというので、
グローバリゼーションも意外に
地方分権の
推進力ということになります。
それで、このように大きく
五つに分けて
地方分権を推進する力が
世界あちこちであるわけです。その
推進力はこのようにさまざまなのですが、
分権化の
潮流といいましょうか、
方向としては、ある
一定の
方向がうかがえます。
一つは、
官治分権から
自治分権にということと同じなんですけれども、
権限委譲から
権限移譲に。ここの
イジョウのイの字が、委ねる場合と移す場合でかなり異なるわけであります。どちらを使うかで、まだ
官治分権的な要素が残っているか、つまり、委ねる場合、委ねるけれども何かあったらまた引き戻すということなので、まだ根っこは委ねる側にあるというふうになります。移す方は、移してしまいますので、移された方が極めて
自由度が高いということになりますので、同じ
権限イジョウにも違いがあるわけであります。
日本の
地方分権改革を見ておりまして、やはり
官治分権から
自治分権へ、これは
明治から始まって、今回の
改革も含めてなんですけれども、ディコンセントレーションという
官治分権から
自治分権の方に着実に動いているということが言えると思います。
前回の
改革、
前回のと申しますのは
地方分権推進委員会がやられた
改革と理解しておりますが、この
前回の
改革には
三つの柱というものが立つのではないかと思っております。
一つは、
機関委任事務制度の廃止であります。この
機関委任事務制度というのが、まさに
官治分権といいましょうか、
権限委譲の方でありまして、
委任という
言葉が出ますように、
選挙で選ばれる首長の方に国の
行政官庁が
事務を
委任してしまう、それで
下級機関のように扱うというふうなことは、もう
官治分権の最も顕著な型でありましたが、これが廃止されたということであります。
それから、二番目の柱としては、国の
関与が縮減をされた。
法定受託事務と
自治事務に分かれましたので、それぞれに
関与の仕方が
ルール化をされ、そしてそれが
法定主義になったということで、いわゆる
行政ラインでぎしぎしと締め上げてきたのが、もう少し
透明性が高まったということになります。
三番目の柱として、これらを
実効性のあるものにするためには、
国地方係争処理委員会というのがなければ、何か起こったときに判断ができないということで、この
国地方係争処理委員会をつくったというのが
三つ目の柱だと思います。
では、これですべて終わったのかと申しますと、そうではなくて、やはり残された
課題があるわけで、私は、ここにもやはり
三つの
課題というふうに大きく分けることができるのではないかという気がいたします。
まず
一つ目の
課題ですけれども、
地方自治というよりは、
地方分権というふうに語るときに、国と
地方という
二つの
レベルの
政府の
関係をどうするかというふうに考えていくと、先ほどの
機関委任事務というのは国の
下請として
地方があったということになりますが、この
機関委任事務制度が廃止されたことによって、
行政面での
下請関係がなくなった。そういう
意味で
対等、
対等というのは、イコールではなくてコーディネートというふうに英語では言うのだと思いますが、そういうふうに
対等になったということだと思います。
しかしながら、同じように国と
地方の
関係の中で残されたものとしては、
行政面ではなくて、
税財政面という裏づけのところ、まさに
行政を行う一番基本のところがまだ残っておるわけでありまして、したがって、国と
地方の
関係を見ていくとき、
行政面では
前回ある程度の達成を見ましたけれども、
税財政面は手つかずで残っているというところが残された
課題の一番目だと思います。
二番目はどこかといいますと、今度は、国と
地方ではなくて、
地方を見ていくわけでありますけれども、
地方を見たときに、では、今のままの
地方制度でやっていけるのかということになります。
明治以来、
市町村は合併を繰り返して少し数は減りましたけれども、それでも三千幾つあるというふうにおっしゃられますが、府県は
明治以来ほとんど同じ
領域でやってきておりますので、このように人の
動きが非常に大きな範囲で動くようになってくるときに、そのままの
制度でいいのかということになります。これは、
市町村なり
都道府県の
領域、狭過ぎるかということなんですが、その
領域の問題と、それからもう
一つは、
市町村と
都道府県という
二つの
レベル、二層制をこのまま維持するのかということであります。
例えば、都市はもう自立をして一層制にしていくということも
一つの手でありますし、そうではなくて常に二層制でいくのかということも、これはもう大きな
デザインをしなければいけないということで、
地方制度の大きな
デザインというのが残された
課題として
二つ目に挙げられると思います。
三つ目は、これは
自治体サイドの問題でありますけれども、
自治を担うだけの実力があるのかどうかということで、
能力をつけるということであります。
これは何も
規模を拡大するだけではなくて、
説明責任ですとか、最後に申し上げようと思っていることにもつながるのですが、
官官分権と言われる国と
地方の
権限の
分権だけではなくて、
市民社会への
分権ということで、そこに
市民のいろいろなリソースを一緒に活用できるような、いわゆる官が公を独占する状態ではなくて、民も公に
参加をできる、そういうようなことが、実は
ローカルレベルというか、国よりも
地方レベルで一番実現しやすいのではないかということも含めて、
自治体が、今までのように国の方ばかりを見ていくのではなくて、みずからよって立つ
領域の
社会といいましょうか、
地域社会を見ることができるかというのも含めて、もちろん
法務能力ですとか条例とかございますので、そのような
組織としての
能力及び
市民社会との
双方向の
チャネルという
意味での
能力も含めて、そういう
自治体の
あり方というのが
三つ目の
課題としてあるのではないかという気がいたします。
自治体の話になりましたので、二番目の「
自治体の
規模と
能力」というところで、これはきょうの
分権と
連邦制というのから少し離れるのですが、どうしても触れておかなければと思いまして、この項目を立てました。
まず、
規模をめぐる
価値基準ということなのですが、
自治体は、
基礎自治体と
広域自治体に分けることができまして、
基礎自治体というのは
市町村で、
広域自治体は
都道府県というふうに御理解をいただくといいと思うのです、国によって呼び方は違うんですけれども。
基礎自治体の
あり方をまず一番近いところから考えてみたいということでありまして、
自治体の
存在根拠というのは、私は
二つあると思うわけであります。
一つは、近いところに
参加できる、
自分たちが
自分たちの
地域社会を
経営する。そういう、
経営なりいろいろな
あり方なりに
参加ができるということで、
政治参加ということに大きな
意味があると思います。
地方組織があったとしても、それが単に国の
機関の
出先であるとすると、そこには
選挙というのはございませんので、
双方向の
チャネルではございません。一方的に国の
地方機関から作用が及ぶわけで、
人々が
参加というふうな
双方向の
チャネルがないわけであります。これが
自治体と
出先機関の大きな違いになります。
そのような
参加ができるかどうかというのが、
自治体かそれ以外の
機関かというふうに分かれるところでございますけれども、
政治参加ができるというのが、まさに
自治体が
存在する
意味の
一つなんであります。
そうなりますと、
参加の
有効性を高めるには、やはり
サイズとしては
スモール・イズ・ビューティフルということになってきます。小さい方がより
参加の
実効性が上がるわけでありますので、小さい方がいいというふうになっていくわけであります。
しかしながら、
自治体に託された
役割というのはもう
一つありまして、それは、
公共サービスの
供給であります。
公共サービスと申し上げてもいろいろあるわけでございますけれども、特に
基礎自治体は
対人サービス、一番人に近い
政府でございますので、人に
サービスを提供する、
供給をする、そういうのが
存在の
根拠になります。そうすると、ここでは
規模の
経済というのが働くわけで、
スケールメリットがやはり出てくるわけであります。
そうすると、
スモール・イズ・ビューティフルというふうに、小さい方がいろいろ
参加の効果が上がるというのと、
あと規模の
経済、大きいことの方が
経営としては成り立ちやすいというふうな、この
二つの相反する
価値基準といいましょうか、
役割がこれまでずっと葛藤してきたということになります。しかしながら、このどちらかをとらなくてはいけないのではなくて、まさに
地方制度の
組みようによっては、両方とることができるということが言えると思います。
そこで、私は、海外のいろいろな
基礎自治体の
あり方を調べてみましたら、
基礎自治体の
規模が極めて小さい、小さいからたくさんあるということなんですが、そういうのと、比較的大きいというのがあります。それから、
地方制度それ
自体が、いろいろな
制度を認め、
多様性があるかということと、それから二層制、かっちり決めてしまって比較的画一的かという
二つの軸になるんですけれども、それぞれに四つの象限ができるわけで、それを見ますと、多様でいろいろな
制度があって、かつ
自治体が非常に小さくてたくさんあるというのが
アメリカなんですね。
アメリカも三万以上の
自治体がありますから。州によっていろいろ
自治体の
あり方は違うのですけれども、数からいったらすごく多いわけですね。
自治体がカバーしていない
地域もございますので、本当に
地方制度は多様で数は多い。
アメリカの
考え方としては、
公共サービスは提供されればいいのであって、
自治体が提供しようがどこが提供しようが別に構わない。だから、ディストリクトですとか
民間の公益の
機関ですか、そういうのが提供するわけで、何も
選挙でもっている
自治体がすべて提供するわけではございません。こういうのを
アラカルト型と私は呼んでおりますけれども、その
アラカルトであります。
自治体の数はすごく多いけれども、
制度としては比較的画一的であるというのが
フランスでありまして、これは三万六千の
コミューンがございまして、
革命時代からずっとこのまま三万六千なんです。しかしながら、
制度としてはかっちりと
コミューン、
デパルトマン、レジオンというふうに非常にはっきりと全国的に同じ
制度をひいているということになります。
これも、
日本はちょっと厳しいかなという気がするのは、
フランスの
基礎自治体はほとんど
公共サービスの
供給というふうな
仕事を期待されておりません。実際に
仕事をするのは
デパルトマンという、昔は国の
出先だったのですけれども、今は県ということなのですが、ナポレオンがプレフェを任命して、全国津々浦々同じような
サービスをということになってきます。そういうふうな
フランス型と、
日本のたくさん
仕事をする
市町村とはなかなかうまく結びつかないかなという気がします。
それから、
自治体の
規模は大きいのですけれども、
制度としては多様であるというのが
イギリスでありまして、これも
アラカルト型で、いろいろな
供給主体が
公共サービスを提供するということになります。
ちなみに、
イギリスは
成文憲法はございませんので、
地方自治の
本旨などを決めたものが
憲法としてはございません。したがって、
議会主権なので、
議会で
制定法を決めていった。それが
自治体の
あり方を全部決めていくことになりますので、例えば、保守党では絶対に認められなかったであろう
スコットランド等々の
地域議会が労働党のブレアでは認められるというふうになっていきますので、
政権交代で
地方制度が極めて揺らぐ、変わるというところであります。その
意味で、極めて
中央集権的な
地方制度と言えます。
北欧型というのは、これは、
福祉国家のための
公共サービスを提供するために、
規模が大きくなくてはそれだけの
仕事ができないということで、
規模が比較的大きな
自治体として再編しました。
制度としては、二層制ということで、ある
意味で画一的といいましょうか、そういう
制度であります。
私は、
日本は多分、この
北欧型が一番土壌に合うのかなというふうな気がしておりますけれども、そのためには、
基礎自治体の再編は避けて通れないということになっていきます。
それで、その
基礎自治体が再編されますと、どういう形で再編されるかはわからないのですが、再編された後にどうしても出てくるのが、では、
広域自治体はこのままでいいのかということになります。
基礎自治体の
規模が大きくなるということは、
広域自治体は
都道府県ですけれども、そのままの
サイズでいいのかということになって、必ずここで道州制あるいは
連邦制等々が出てくると思います。
私は今、
基礎自治体から道州制なり
連邦制を考える
アプローチをとりました。一番近い
政府からというふうにとりましたけれども、
国家制度から見て、
基礎自治体ではなくて、まず、国に一番近い
地方レベルをどうするかというふうな
考え方から
広域自治体を考えるという
アプローチもないわけではございません。
その道州制と
連邦制なんですけれども、これは、私も並べて書いてしまいましたけれども、道州制、
連邦制というふうによく並べるのですが、
制度は本質的に違います。例えば
君主制と
共和制が違うように、
議院内閣制と
大統領制が違うように、
連邦制と
単一制では違います。一番大きな違いは何かといいますと、
連邦制度をとる限り、
憲法に、
二つの
レベルの
政府、
中央と
地方になるのですが、
二つの
レベルの
政府の間の
立法権の
分割が明記されなくては
連邦制度とは言えません。
世界に、つぶれたりいろいろ動いておりますので十五、六、七ぐらいでしょうか、
連邦国家がございますけれども、
連邦制というふうに言えるのは、これはまさに
世界基準ですが、すべて
憲法に
立法権の
分割が明記されているところであります。いかに
分権的な
国家であろうが、
単一制度でも
分権的な
国家があるわけで、
連邦制をとっていても集権的な
国家があるわけでありますけれども、
政治制度としての
連邦制を見る限り、その
立法権の
分割を書いた
憲法が必要であります。
分割の仕方なのですが、その
立法権、
権限自体を
分割できるのではなくて、
立法する
分野を
分割しているわけでありまして、例えば防衛ですとか通貨ですとか外交ですとか、
国家の存立にかかわるものは
連邦議会が
立法をするという
書き方です。
いろいろな
書き方があるのですけれども、
アメリカが
世界で
最初に
連邦制度を
国家制度とした国なのですが、その
書き方は、いろいろな州、ステートが集まって
国家政府をつくり上げていくわけで、なるべく
国家の
権限を限定したいということで、
連邦の
権限を列挙しておりまして、それ以外は州に属するというふうな
書き方をします。それ以外は州に属するというようなことでも、
立法権が
分割されたことになります。
私は
カナダを
専門にしておりますけれども、
カナダは、
連邦議会が
立法できる
分野と
州議会が
立法できる
分野を双方列挙しておりまして、それ以外の列挙しない
残余権限は
連邦に属するというふうにしておりまして、いろいろなバリエーションがあるわけでありますけれども、それは、それぞれの国がどのような
権限を
連邦を構成する
地域政府に任せるかどうかというところでありまして、この
権限分割の
デザインによって、たとえ
連邦制をとっていても、極めて集権的な国も出てくるわけであります。
例えばラテン
アメリカ、アルゼンチン、ブラジル、ベネズエラ、メキシコというのは
連邦制度です。しかし、
分権的かと言われると、多分そうではないというふうに思われると思いますが、
憲法を見ても、
連邦議会の
列挙権限の
リストが非常に長くあって、それ以外は州にというふうに書いてございますので、れっきとした
連邦憲法なんですけれども、それ以外は一体何があるのかというぐらい長い
リストなわけですね。でも、それでも
連邦制なんです。
日本国憲法も、
地方自治の
本旨と書いてございますし、
地方自治の章も第八章がございますけれども、
立法権の
分割ということについては書いてございませんので、もしも
連邦制というふうなことを考えるのであれば、まさに
憲法改正という、
立法権をどのように
分割するかというふうな、その
立法分野の
リストをつくらなければならないというふうな、大きなハードルがあるというふうに思います。
道州制というのは、これは多分
日本独特の
言葉でありまして、
単一制度の中での、恐らく
広域の、
都道府県に相当するリージョナルなガバメントの
領域を広くする、四十七ではなくて、多分七つとか八つとか九つとか、そういう道州にして、そこに大きな
権限を与えるということなのかなという気がしますが、でもそれは、
立法権がどうかというところで、
連邦制に行くかそうじゃないかというところが分かれるということになっていきます。
それで、道州制への
課題ということなんですが、では、例えば
日本で道州制等々をお考えになる場合に、一番重要なのは
領域をどうするかということであります。昔は、
地方総監府とか
地方行政連絡会とか、協
議会でしたか、戦時中にございまして、九つに切ったりしておりますけれども、それを、
地方分権と言いながら、国が上から線を引いて、こことここをまとめるというふうに言っていいものかどうか、そういう具体的なことも含めて、
領域をどうするかという問題があると思います。
それから、例えば、州になったときにそこのトップをどのような方法で選ぶかということで、官治であるか
自治であるかというふうになってくると思います。
第四次
地方制度調査会が出した
地方庁構想というのは、総理大臣が任命する方がその
地方の長になるということで、これはかなり大きな反対を受けたというのは、
官治分権を再度実現するということになってしまったので、官治というのはやはり今の状況だと考えにくい、
自治分権だと思います。
そうすると、例えば七つか八つに分けますと、そこの、知事と呼ぶんだったら知事かもしれませんが、かなり大きな
権限を持つということになっていきますので、選び方等々も含めてそういう問題があると思います。端的に言えば、
デザインをどうするかという問題が道州制にはあるということになります。
それから、二層制、三層制と書いてございますけれども、現在の
都道府県を例えば昔の郡のような感じで残してさらに大きな州をつくってしまうか、その中間に現在のを残しながらさらに上をつくるということが考えることはできると思います。
例えば、先ほど申し上げました
フランスというのは、
コミューンという三万六千があって、百近い
デパルトマン、県があって、その上に二十のレジオンというのをつくりまして、三層構造をとっておりますので、既存の
制度にはさわらないで上にレジオンをつくったということであります。
最初は官治で、そのうちに
自治になったということになりますので、
参考にできないことはないと思います。
連邦制への
課題というのは、先ほど申し上げましたように、
憲法改正が絶対に必要である、
立法権を
分割しなくてはいけない。かつ、
世界でも、二院制をとっている国は一院制をとっている国に比べてうんと少ないのですけれども、
連邦制の
国家は必ず二院制をとります。
連邦の上院がその
連邦構成
政府から選ばれる
地域代表制を具現するわけでありますけれども、そのような上院を、選出方法も含めてどういうふうに
デザインするかということがあります。
それから、
連邦制を考えるときに、ちょっと忘れられがちなんですけれども、
連邦制の中での
市町村というのは極めて弱い
存在であります。州が強い分だけ
市町村は極めて弱いです。
例えば、
アメリカは五十州なので五十通りの
地方自治法があると思ってくださって結構だと思うんですが、
市町村の
あり方は各州が決めていくので、チャーターですとか憲章で
自治できますけれども、州の締めつけはかなり厳しいということです。
カナダもそうです。十州ありますけれども、十通りの
地方自治法があって、
市町村の
あり方はそれぞれ違っているということになります。
日本の
市町村はかなりたくさんの
仕事をしておりますけれども、
連邦制の
国家では、
市町村よりも州がたくさん
仕事をして、
市町村はほんの身近なところの
サービスしかやっていないということになります。
時間が押してまいりましたので、少しまた早口になってしまいますが、
連邦国家の現実を少しお話ししておきたいと思うのです。
連邦制を選択する理由はさまざまでありまして、先ほどの
文化的アイデンティティーという、例えば言語なり文化なり、違う人たちがそこにいるので、そこに
自治を与えるかわりに
国家としては統合するというふうなことも含めて、いろいろな理由がございます。
自治と申すのは、
権限の
分割の仕方によってはさまざまでありまして、
制度としては
連邦制度と
単一制度というのははっきり分かれるのですけれども、実態としての
分権の度合い、
自治度の度合いは、例えば
連邦国家で極めて集権的なメキシコとかオーストラリアを見ますと、
日本の方が、単一
国家でありながら
分権的であるというふうに言えるわけですので、
制度を見るのか、実態を見るのかというところで、これはまさにここでどちらの方を目指されるのかということをお決めいただかないと、その後のシナリオは組めないということになっていくと思います。
それから、「
分権と政党」と書いてございますのは、たとえ
連邦制をとっていても、
中央と
地方の
レベルで、
連邦と州の
レベルで
権限が
分割されているにもかかわらず、それにまたがる政党
組織があるとすると、それは
立法権の
分割というふうな構造ではなくて、
立法者が政党のネットワークでつながっていきますので、その場合は
分権には実態はなりません。メキシコのPRI、
制度的革命党などがこれに入ると思います。
制度は、メキシコは
連邦制なんですけれども、実態は覇権型政党と言われるように、非常に大きなピラミッドのところで人が
動きますので、構造としては
分権にはならないということであります。
分権を担保しようと思えば、極めて強い
地域文化性か、あるいは構造としての政党が
地域政党をベースにして組み上がっていくというふうに考えないと少し難しいかと思われます。
それでは、
日本はどのような
地方分権を目指すかということなんですけれども、恐縮ですが、お手元の資料の一枚目の表をごらんになっていただきたいのです。
分権には大きく四つのモデルがあるというふうに考えることができると思います。細々と書いておりますけれども、どこを見ていきたいかといいますと、この
地方組織、この絵ではBに相当するんですが、Bに相当するこの
組織が
市民からのアクセスがあるかどうかというところです。つまり、そこの長が任命か
選挙かということなんですが、長が選出をされるということは
市民からのアクセスがあるわけで、そして
選挙は定期制と競争制というのがベースになるとすると、
市民が今度は違う人を選びたいとか、同じ人を選ぶとか、そういうふうな
市民側からのアクセスがあるわけであります。
市民側からのアクセスがなければ官治、任命だとアクセスがないわけですから
官治分権、先ほどのディコンセントレーション、ここで言うと
出先型ということになります。アクセスがあると
自治分権になっていまして、ここだと連合型、
連邦型、単一型というこの
三つが
自治分権になると思います。
それから、もう
一つ大きな基準なんですけれども、ここで言うBの
組織なんですが、
地方組織、
地方団体の
権限と
存在の
根拠がどこにあるかであります。
存在と
権限の
根拠が
憲法にある場合が
連邦型でありまして、
中央議会の法律による場合が単一型になってきます。
ですから、
日本は、
憲法は
存在と
権限までも決めていませんので、法律にゆだねていまして、
地方自治法が決めますので、そうすると、
皆様方が
地方自治法を変えると言えば、
地方団体の意向にかかわらず変えられるわけです。どんなふうな影響が及ぼされるか及ぼされないか、一番影響が及ぶところは決定に
参加できないで、
中央議会で変えることができるということでありまして、そういう
意味で、
連邦型だと
憲法を変えなくてはいけないので、おのずから
地方団体、国民等とも
参加をするということになっていくので、ここのところが違うと思います。
日本はこの単一型に入っております。
次のページなんですけれども、今のだと非常に大まか過ぎるので、もう少し分けたいと思ってつくったのがサブモデルということであります。
そうすると、国が決めるとしても、実際に執行する
地方側が、執行に当たってある程度の裁量を行使できるかどうか、現場に合わせてちょっと柔軟に変えることができるかどうか。それとも、きっちりと国が決めたことをやらなきゃいけないのかというところで、裁量がプラス、マイナスになってくる。ここで言うプラス、マイナスというのはそういうことなんですが、国が決めたことを
地方が執行する場合に、裁量が持てるかどうか、柔軟性が持てるかどうか。持てない場合はマイナス、持てる場合はプラスというふうに書いてあります。
それからもう
一つは、国が決めるわけでありますが、みずからに
関係あることを決められるときに、そこに影響力を行使できるかどうか。実際の
立法者は国会でありますけれども、しかしながら、こういうふうな
方向で
立法をお願いしたいというふうな、
一定のお願いというか影響力といいましょうか、そういうのが行使できるかどうかという、行使という言い方はちょっときついですけれども、それがプラス、できなければマイナスというふうに考えていきますと、四つの形に分けることができると思うんです。
それで、
日本が目指すのはどこかといいますと、
憲法を変えないで十分だと思いますので、単一型の
分権のメーンモデルでいいと思うんですが、しかし、現実に今
日本は
出先型に非常に近い単一型なんですね。国が言ったことをそのままやらなきゃいけないというふうになっていますので。そうすると、サブモデルとしては4型なわけであります。両方とも非常に弱いということになります。
ですから、そこではなくて、サブモデルの1型、国が決めたことを現場で執行する場合に、現場のニーズに合わせて
一定のフレキシビリティーが持てるというふうなところで裁量がプラスになる。それから、
地方が行うことに関して、
地方の現実を反映できるような
立法になるようにする、影響力を行使できるという
意味で、1型ということで、単一型の中の4型から1型に移るというのが最もなじむのではないかなという気がしています。
ちなみに、EUですけれども、EUは、連合型の1型から、ECからEUになって、
連邦型の方に移ってきていますので、逆
方向に、言い方を変えれば集権化の
動きの方に移ってきているわけでありまして、どちらの方に移るかというのは、
権力が多元化しているか、一元化しているかというところでありまして、
日本は多元化の
方向に移っていかなければ
分権とは言えないと思いますが、いろいろな型の統合の仕方があるということになります。
それから、影響力の問題を考えていきますと、どうしても国の
機関といいましょうか、第二院に
地方の代表性をいかに高めるかを考えておく
意味があるのかなという気がします。
先ほど、
連邦制は必ず二院制をとっておりまして、上院には
地域代表制を、州の代表が送られているということを申し上げましたけれども、例えば
日本も単一型の
分権の中で、メーンモデルは単一型ですが、サブモデル1型に移るのであれば、第二院の代表性というのは必ず考えなくてはいけないというふうに思います。
それから、最後は、
官官分権ではなくて
市民社会への
分権ということを申し上げたいと思います。
それで、まとめといいましょうか、私がもともと海外の政治を勉強していまして、
日本に戻ってきて
日本を見たときに、この国の
地方分権というのは、どうして
地方分権を
地方ではなくて国が言うのかなというのはすごい気になっていたのですけれども、
中央政治を
地方政治から独立させるというと変ですけれども、
中央と
地方が余りにも絡み合ってしまって、相互依存というよりは相互浸透といいましょうか、もう織り込まれてしまっているんですね。そうすると、ドミノのような感じで、
一つ倒れれば全部倒れるということになっていきます。これは、国としての基礎体力は余りにも弱いという気がします。
そう考えていきますと、それぞれが自立をして、それぞれの
立場から国民に向かって、相互
協力ができるような
意味で、相互浸透ではなくて相互依存の方に切りかえるというのが、この国がそうではないともたないかなという気がしております。すべてが絡み合ってしまうと、責任の所在等々、それから、今のリソースが少なくなっていく時代で、ちょっと厳しいのかなという気がします。こんな生意気なことを言いましてお許しいただきたいと思いますけれども、ずっと
カナダにおりましたらそういうふうに思いました。
ちょっと長くなりました。以上でございます。(拍手)