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2002-07-04 第154回国会 衆議院 憲法調査会政治の基本機構のあり方に関する調査小委員会 第5号
公式Web版
会議録情報
0
平成十四年七月四日(木曜日) 午後二時三十分
開議
出席小委員
小
委員長
高市 早苗君
伊藤
達也君 奥野
誠亮
君 谷垣 禎一君
中曽根康弘
君
中山
正暉君
額賀福志郎
君 島 聡君 伴野 豊君 松沢
成文
君 斉藤 鉄夫君 藤島 正之君 山口 富男君
金子
哲夫
君
井上
喜一
君 …………………………………
憲法調査会会長
中山
太郎君
憲法調査会会長代理
中野 寛成君
参考人
(
高崎経済大学助教授
)
八木
秀次
君
衆議院憲法調査会事務局長
坂本 一洋君
—————————————
七月四日 小
委員井上喜一
君六月六日
委員辞任
につき、その
補欠
として
井上喜一
君が
会長
の
指名
で小
委員
に選任された。 同日 小
委員土井たか子
君同日小
委員辞任
につき、その
補欠
として
金子哲夫
君が
会長
の
指名
で小
委員
に選任された。 同日 小
委員金子哲夫
君同日小
委員辞任
につき、その
補欠
として
土井たか子
君が
会長
の
指名
で小
委員
に選任された。
—————————————
本日の
会議
に付した案件
政治
の
基本機構
の
あり方
に関する件 ————◇—————
高市早苗
1
○高市小
委員長
これより
会議
を開きます。
政治
の
基本機構
の
あり方
に関する件について
調査
を進めます。 本日は、
参考人
として
高崎経済大学助教授八木秀次先生
に御
出席
をいただいております。 この際、
八木参考人
に
一言
ごあいさつを申し上げます。 本日は、大変御多用中にもかかわりませずお出ましをいただき、本当にありがとうございます。
参考人
のお
立場
から忌憚のない御
意見
をお述べいただきまして、私
ども調査
の
参考
にいたしたいと存じます。よろしくお願いいたします。 次に、議事の順序につきまして申し上げます。 最初に
参考人
の方から御
意見
を四十分以内でお述べいただき、その後、小
委員
からの質疑にお答え願いたいと存じます。 なお、発言する際はその都度小
委員長
の許可を得ることとなっております。また、
参考人
は小
委員
に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。 御発言は着席のままでお願いいたします。 それでは、
八木参考人
、よろしくお願いいたします。
八木秀次
2
○
八木参考人
本日は、本来二時から開会のところを、私の都合で三十分おくらせていただきましたことを、まことに感謝にたえません。四十分という限られた時間ですので、早速
本題
に入らせていただきたいと思います。 与えられたテーマは、
明治憲法下
の
統治構造
ということであります。レジュメを八枚及び別紙を
最後
に一枚つけておりますので、それをごらんになった上でお聞きいただければと存じます。
明治憲法
、
大日本帝国憲法
は、今日ではいわば過去の遺物として、だれもまともに取り上げようとしないもののように思われます。しかしながら、
憲法論議
をするに当たって、
明治憲法
という存在は無視してはならないものだと私はとらえております。 と申しますのは、
憲法
とは何より
コンスティチューション
のことであり、
コンスティチューション
とは
国柄
のことであります。であるならば、
憲法論議
は、まず
国柄
に関する
議論
でなければならないはずであります。
明治憲法
は、まさにその点を重視して制定されたものであります。
明治憲法
は、
我が国
の
国柄
とは何かという、その点を重視して制定した。また、その点において、我々は今日、
憲法論議
をするに当たって、
明治憲法
に学ぶべきものがあると私は思うわけであります。
国柄
の上に
憲法
が成り立つべきであるという
論議
は、これは
明治憲法
の
起草者
ばかりが持っていたわけではありません。実は
明治
維新以降、
我が国
が
近代憲法
を制定するに当たって、折に触れてその点は確認されているところであります。
二つ目
の
白丸
をごらんいただきたいと思いますが、
明治
九年九月に
国憲起草
の勅語というものが出されます。これはその後の
憲法起草
の
指針
となったものでありますが、この中に、何より「
我建国
ノ
体ニ基キ
広
ク海外各国
ノ
成法
ヲ
斟酌シ以テ国憲
ヲ定
メントス
」、こういう
理念
が掲げられているわけであります。すなわち、「
建国
ノ体」、
我が国
の
政治伝統
と、「
海外各国
ノ
成法
」、これは
近代憲法
ということであろうと思いますが、その
両者
の融合ということが、
明治期
において、
憲法
、
国憲
を制定するに当たっての何よりの
指針
であったという点であります。
我が国
の
国柄
、ここを重視したという点であります。 さて、
明治
十三年に
元老院
という組織が第三次の
国憲草案
を出しますが、その際に、後に
憲法
の
起草者
となる
伊藤博文
は、この
元老院
の
国憲草案
が何より
我が国
の
国柄
に基づいていないという点をとらえて、これを否定的に
評価
したという点も忘れてはならないと思います。 次に、私
たち
が
明治憲法
に学ぶべきものとして、これは
明治憲法
の
中身
というよりは、むしろ
明治憲法
を制定したその
姿勢
、
心構え
ではないかと思います。
心構え
、
姿勢
と申しますのは、先ほどから言っている、
憲法
とは
国柄
のことである、
国柄
の
議論
の上に
憲法論議
は成り立たなければならない、そういう点であります。 ここで、幾つかエピソードを申し述べたいと思います。
一つ
は、
伊藤博文
が
明治
十五年の三月に
我が国
を出発して、
ヨーロッパ
に
憲法調査
に出かけます。その際に、
ベルリン大学
の
グナイスト
、
ウィーン大学
の
シュタイン
という二人の
学者
に
憲法
について学ぶわけであります。しかし、
伊藤
は、この二人から
憲法
の
中身
を学んだというよりは、実は
憲法
をつくっていく上での
姿勢
、
心構え
の面であったということであります。 と申しますのは、
伊藤
は、帰国後、彼らの考えに全面的に依拠したわけではありません。彼らに学んだのは、
憲法構想
の内容というよりは、
憲法起草
に際しての
姿勢
であります。
グナイスト
、
シュタインとも
に、
歴史法学
という、法は
民族精神
の発露であると考える学派に連なる
学者
でありました。そして、彼らは
伊藤
に、
憲法
はその国の
歴史
や
伝統
の上に成り立つものでなければならないと教えたわけであります。この点を
伊藤
は何より重視したわけであります。
伊藤
は、それ
ゆえ
に、
憲法
ができ上がった後、
シュタイン
に、「いかなる点においても、他国のあれこれの
憲法
の単なる模倣ではなく、徹頭徹尾
日本
的なものである」との書簡を送っております。 次に、もう一人の
憲法起草者
でありますが、
井上毅
は、彼はもともと
ドイツ法学一辺倒
の
考え方
をとっていた人ですが、
憲法
についての
研究
を重ねていく中で、
我が国
の
歴史典籍
の
研究
が必要であるという
認識
にたどり着きます。
我が国
の
歴史典籍
、これは
古事記
、
日本
書紀に始まるものでありますけれども、それを
研究
した上で
我が国
の
国柄
を明らかにし、その上に
我が国
の
憲法
を
起草
する、そういう
認識
にたどり着くわけであります。いわば
日本版
の
歴史法学
と言っていい
認識
であります。 ここに、
井上
の代表的な
言葉
を
引用
しておきました。
井上
は、
憲法
ができ上がった後に、「
我が国
の
憲法
は
ヨーロッパ
の
憲法
の写しにあらずして、すなわち遠つ御祖の不文の
憲法
の今日に発達したるものなり」という
認識
に至っております。
井上
の場合は、
古事記
の中に発見した治す(
しらす
)と領く(
うしはく
)という
二つ
の
統治理念
をとりわけ重視いたしまして、後に
憲法
の第一条のもとになります彼の案でありますけれども、その中に、「
大日本帝国ハ
万世一系ノ
天皇
ノ
治ス所ナリ
」という有名な
条文
を
起草
しているわけであります。ただ、この
条文
は、後の
明治憲法
の
成文
に必ずしも反映されたかどうかについては
議論
のあるところであります。
井上
が重視したのは、この治す(
しらす
)という概念の中に、
天皇統治
の
公共性
というものを見たわけであります。二枚目、はぐっていただきますと、
一行目
に書いておりますが、「
憲法義解
」という、後に
明治憲法
の
公定解釈書
として発行されたものですが、その中に、「一人一家に享奉するの私事にあらざる」、こういう
言葉
があります。
天皇統治
は、
天皇個人
やその一族のためになされるものではなくて、すぐれて公共的なものである、こういうことを
井上
は特に強調したところであります。 次の
引用
は飛ばします。 もう一人、
金子堅太郎
という
人物
もその
起草
に携わっておりますが、
金子
の場合も、
保守主義
という
一つ
の思想的な
立場
に立脚し、また、
歴史法学
という
一つ
の
立場
に立っている人であります。彼は、
我が国
の
歴史
、
伝統
の上に
憲法
というものはなければならないという点を強調したわけであります。 以上、三人取り上げましたが、三人三様別々の経緯をたどりながらも、期せずして、
憲法
というものはその国の
歴史
、
伝統
の上に成り立つものでなければならない、そういう
認識
に至ったという点であります。 彼らは決して、
歴史
、
伝統
を重視するということから、
復古主義
の
立場
に立ったわけではありません。
近代憲法
を制定するに当たって、ここは
日本
の
憲法
だという、
日本
という
視点
を忘れなかったという点であります。さらに、
憲法
というものはその国の
歴史
の所産である、そういった点をも
認識
したということであります。 今日の
憲法論議
は、
日本
の
憲法
がどうあるべきかについての
調査研究
であります。そうである以上、やはり
日本
という
視点
を忘れてはならないと思います。そして、この点こそが
明治憲法
の
起草者たち
がこぞって重視した
視点
でありまして、この
意味
におきまして、私は、
明治憲法起草者
の
憲法制定
の
姿勢
、
心構え
といった点に学ぶべきであろうと思っているものであります。 その次の問題でありますが、今日において、
明治憲法
は甚だしくその
評価
が低いものとなっております。私の本を読んだ若い読者から、
明治憲法
というものは、ショッカー、すなわち仮面ライダーの悪の軍団がつくったものであるかのように
自分たち
は
認識
していた、しかし、実際によく読んでみると違うんですねという感想を漏らしておりました。私は全くそのとおりだと思うんです。 それではその次に、今日の
学校教育
で
明治憲法
がどのように教えられているのかという点を、代表的なものを挙げております。 全部読む時間がございませんのでかいつまんでとらえてまいりますが、まず、ここで
二つ
引用
しておりますが、言わんとしているところは、
天皇
が最高の
権力者
であるというふうに定めているということ、そして、「
帝国議会
・
内閣
・
裁判所
も
天皇
を助けるものと位置づけた。」あくまでも
天皇
が
主体
である、
天皇
が
権力
の
担い手
である、こういう点です。さらに、「
天皇
が
軍隊
を統率し、指揮する」、
天皇自身
が
軍隊
を統率し、指揮するようにここでは読めてしまいます。 あるいはその次の
引用
でありますが、「
天皇
の
権限
は強く、
議会
の召集・解散、
軍隊
を指揮すること、条約の締結や
戦争
を始めることなどは、
天皇
の
権限
(
天皇大権
)とされた。」これまた
天皇
の
権限
というものが実際に非常に強いものである、
憲法
上の名目的なところのみならず、実際のものとして非常に強いものであったという点がここで強調されているわけであります。
一言
で
表現
するならば、
天皇制
絶対
主義
という
考え方
が、
学校教育
で教えられている
明治憲法
の
基本
にあるものではなかろうかと思います。 いずれにしても、
天皇
が実際に
権力
を振るったかのように見えるわけであります。しかし、これは正確な
理解
ではありません。何より
大臣責任制
についての言及がここではないからであります。この点については後ほど述べたいと思います。 このような
学校教育
における
明治憲法観
というものがどのようにしてでき上がってきたかといいますと、その後少し書いておりますが、省略させていただきまして、いわゆる
講座派
の
明治憲法観
の
影響
というものが
学校教育
において見られるわけであります。これは
学校教育
のみならず、
憲法学者
の多くも何らかの形で
講座派
の
明治憲法観
の
影響
を受けているわけであります。簡単に言いますと、
天皇制
絶対
主義
という
理解
をしているということであります。 ここから
明治憲法悪玉論
というものが出てくるわけであります。これに対して、
日本国憲法善玉論
というものが対置されると思われます。
明治憲法
、
日本国憲法
との対比で、
日本国憲法
を少しでもよく見せようというトリックが私は働いているように思うのであります。しかし、これは
明治憲法
を不当におとしめる、いわばためにする
議論
ではないかと私は思っております。 次に、
本題
であります
明治憲法下
の
統治構造
について説明申し上げます。特に、
内閣制度
と
天皇
との
関係
であります。 この問題を考えるに当たって、
明治憲法
は
伊藤博文
と
井上毅
との間で
認識
に
かなり差
があるということを注意しておきたいと思います。すなわち、
両者
の間の
天皇観
の
相違
によって、
内閣制度
をどうとらえるのかということが異なってくるわけであります。実際、
明治憲法下
の
内閣制度
は、
両者
の
妥協
の
産物
であると言えます。したがって、
解釈
、
運用
に明瞭ならざるものが残っております。 しかし、結論として言えば、大きく言えば、
伊藤
の
憲法観
がほぼ反映されたと言っていいかと思います。
伊藤博文
の
天皇観
は、
一言
で言えば、
受動的君主
ということであります。彼は、
天皇
を非
政治
化して、
政治
争点化させないことを考えました。すなわち、
天皇
の
不可侵性
、
政治的法的無責任性
をいかにして確保するのかということを考えるわけです。これによって、あくまで
総理大臣
が
政治主体
となる
政治システム
を
構想
したというわけであります。その点が
憲法
第五十五条にあらわれていると考えられております。 五十五条では、「
国務
各
大臣ハ天皇
ヲ
輔弼シ其
ノ
責ニ任ス
凡テ法律勅令其
ノ他
国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣
ノ
副署
ヲ要ス」、こういう
条文
でありますが、ここで言わんとしていることは、特に
大臣
の
副署
ということでありますけれども、
大臣
の
副署
がないものは
詔勅
としての効果がないんだと、すなわち、
大臣
が実質上の
政治責任者
になるんだということがここで述べられているわけであります。
天皇
の
大権行使
は
国務大臣
の
副署
がない場合は無効とされる。これによって、
天皇
の恣意的、
個人的意思行為
が排除される
趣旨
であります。これは
国務大臣
の
輔弼責任
を明らかにすることで、
天皇
の
不可侵性
、
政治的法的無責任性
を確保する
趣旨
であります。 そのように、
大臣責任制
ということを前提といたしますと、
憲法
第三条、「
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
」という、今日では、これは
学校教育あたり
でも
天皇
の
神格性
をあらわす
表現
という記述が見受けられますけれども、そういうものではなくして、これは
立憲君主制
の
国家
においてはごくありがちな
規定
でありまして、
立憲君主
としての
天皇
の無
答責条項
をいうものであります。 この点については少し長く
引用
しておりますが、
明治憲法下
において通説的な
見解
を形成した
美濃部達吉
の
見解
を紹介しております。 長いのでかいつまんで述べますけれども、
天皇
が無
責任
である、つまり、無
答責
であるということは、
国務大臣
がその
責任者
である、したがって、すべての国政について
君主
が
自分
の御随意に専行したまうことはできない、こう言っているわけであります。すべての
国務
について、
君主
は
国務大臣
の
輔弼
によらなければ
大権
を行わせらるることがない、そのために
君主
は無
責任
である、無
答責
である、こういう点を述べているわけでありまして、
天皇
の不
親裁
ということを指摘しているわけであります。 この点は、
国務大臣
のみならず枢密院においても、これも
伊藤
が
構想
したものでありますが、これも
天皇親裁
を回避するための
機構
として位置づけられているわけであります。その点については、ここにやはり
美濃部達吉
の
見解
を出しております。 すなわち、
伊藤
によれば、
国務大臣
や
枢密顧問
を含むところの何重もの
意味
での
天皇
という名の
集団指導体制
を
構想
していたという点であります。
個人
としての
天皇
は、
政治主体
ではない、いわば
政治運営
の精神的よりどころ、さらに言えば
政治理念
の
具現者
として位置づけられているという点であります。 それでは、
憲法
第四条が言う
統治権
の
総攬
とはどういうことなのか。この
統治権
の
総攬
というところをもって絶対
主義的天皇制
という
評価
があらわれているところでありますが、これも実は誤解であります。「
憲法義解
」の中に、
統治権
を
総攬
することを
主権
の体といい、
憲法
の
条規
によりこれを行うのを
主権
の用という。
主権
の体、
主権
の用、こういうふうに区別しているところがあります。 これは、
ドイツ
のヘルマン・
シュルツェ
の
憲法理論
を採用したものと考えられております。この
シュルツェ
の
憲法理論
を少し説明させていただきます。
シュルツェ
は、
国家権力
の保持と
行使
とを区別しました。
国家権力
の
主体
ないし
担い手
はただ
一つ
でなければならない。このただ
一つ
の
主体
ないし
担い手
も、
国家権力
の個々の作用の
行使
に当たっては、それぞれの
憲法
の定める
特定
の
機関
を用いなければならない、このように考えたわけであります。 これを
主権
の体と用というように言っているわけであります。
主権
の体として、
統治権
を
総攬
する。しかし、
統治権
を
総攬
しながら、その下の問題については、これは
特定
の
機関
に委任するということを言っているわけであります。 一番下の
白丸
をごらんください。いわば、
天皇
による
統治権
の
総攬
のもとで
権力
の分立が行われいたというのが
明治憲法下
の
統治構造
であります。すなわち、
行政権
は
国務
各
大臣
、すなわちこれは
内閣
のことですが、これに預けられ、
立法権
は
帝国議会
に、
司法権
は
裁判所
に、軍の
統帥
は
輔翼機関
にそれぞれ委任されていたということであります。
伊藤
の
内閣構想
は、
内閣総理大臣主体
の
政治運営
というものを考えたということであります。この点は、
内閣制度
が発足したときの
明治
十八年十二月の「
内閣職権
」に、その辺の
伊藤
の
考え方
が強くあらわれていると言われているものであります。特に
最後
の
あたり
であります。
内閣総理大臣
が「大政ノ
方向
ヲ
指示シ行政各部
ヲ
統督ス
」と。
内閣
全体の
方向
を指示する。同輩中の
筆頭者
ではないという点であります。 さて、これに対して
井上
は、
天皇
を能動的な
君主
ととらえております。
天皇
を実質的な
政治主体
であると考え、その上で公平な
徳治的君主
としての
統治理念
を治す(
しらす
)というふうにとらえているわけであります。
内閣
は
政治
の
中心
ではなく、あくまで
天皇大権
のもとで
天皇
を補佐する
役割
を負っている。
憲法
第一条及び第四条の「
天皇
」とは、
文字どおり天皇個人
であるととらえているという点であります。彼の
考え方
があらわれている、これはその
憲法
の試案でありますけれども、ここに引いております。「
内閣ハ天皇臨御シテ
万機ヲ
親裁スルノ所トス
。」こういうところであります。 さて、実際の
明治憲法
第五十五条及び
明治
二十二年十二月、すなわち
憲法
ができ上がった後の「
内閣官制
」では、
伊藤
と
井上
の異なる
内閣構想
、その
妥協
の
産物
であったという点に留意しておきたいと思います。 もっと具体的に申しますと、
憲法
第五十五条一項の「
国務
各
大臣ハ天皇
ヲ
輔弼シ其
ノ
責ニ任ス
」の
解釈
は、
規定
のどの部分に
重点
を置くかにその
両者
の
見解
が分かれております。
伊藤
においては、その
重点
は「
輔弼
」、つまり
内閣
が全体として
政治運営
の
主体
となるという点に置かれた。
井上
においては「
国務
各
大臣
」、つまりあくまで
天皇
が
政治主体
であって、
国務大臣
が個別に
天皇
を
輔弼
、補佐するという点に置かれたわけであります。この
井上
の
考え方
が取り入れられまして、
明治憲法
では
内閣
という
言葉
が使われておりません。 第五十五条は、繰り返しになりますけれども、
両者
の
構想
の
妥協
の
産物
であった。それ
ゆえ
に、その後、
解釈
及び
政治運営
に明瞭ならざるものを残しております。ただ、その後の展開は、
伊藤
の
構想
の線にほぼ沿ったものと言ってよろしいかと思います。
明治憲法
が、当初、
イギリス流
の
議院内閣制
、
政党内閣制
を忌避するものでありました。しかし、それが次第に許容するものとなってまいります。
明治
三十一年六月に、
伊藤
の決断によって初の
政党内閣
、
隈板内閣
が組織されます。そして、
明治
三十三年九月には、何より
伊藤
みずからが
政党
を組織しまして、第四次
伊藤内閣
を組織しているという点を我々は注目したいと思います。 この点について、
大隈重信
、もともと
イギリス流
の
議院内閣制
、
政党内閣制
を
構想
していたが
ゆえ
に、
明治
十四年の政変で政権から追いやられた
人物
でありますが、その
大隈重信
が、これは
明治憲法
が発布された十日後のことでありますけれども、
憲法
の妙は
運用
にある、したがって、法文がいかに不十分であっても、
政党内閣
はこの
憲法
で十分できるんだということをここで述べているわけであります。実際、
大隈
が言ったとおりになったわけであります。 大正七年の九月に初の本格的な
政党内閣
、
原敬政友会内閣
が成立しております。これも
大隈
の期待したところであったかとは思います。しかし、
総理大臣
の
統制権
が実は弱かったというところから、軍部に、
陸海軍大臣
の
現役武官制
や
統帥大権
などを理由に
政治介入
を許してしまったという点も見落としてはならないとは思います。 さて、
天皇
と
内閣
との
関係
については、その通常の状態は、
昭和天皇
が大
東亜戦争
、太平洋
戦争
の
開戦
の
手続
と
終戦
の
手続
の
相違
を説明したものの中に的確にあらわれております。もう読んでいる時間がございませんが、
昭和
二十一年二月の
昭和天皇
の回想でありますけれども、
終戦
のときと
開戦
のときでは全く事情が異なったということが述べられているわけであります。
我が国
においては厳として
憲法
がある、
天皇
はこの
憲法
の
条規
によって行動しなければならない。
憲法
によって、
国務
上ちゃんと
権限
をゆだねられ、
責任
を負わされた
国務大臣
がいる。この
国務大臣
がいるのに、
天皇
がその
意思
によって勝手に容喙し、干渉し、これを制肘することは許されないんだ。したがって、
憲法
上の
責任者
が慎重に審議を尽くして、ある方策を立て、これを
規定
に従って提出して
裁可
を請われた場合には、私はそれが意に満ちても意に満たなくても、よろしいと
裁可
する以外にとる道はない。こういうことをおっしゃっているわけであります。 この点は、
昭和天皇
の
憲法
の師匠であります
清水澄
の
憲法講義
の中にも、次のように「もし
天皇
が、
国務大臣
の
輔弼
なくして、
大権
を
行使
せらるることあらば、
帝国憲法
の正条に照らして、畏れながら違法の御所為と申し
上ぐる
の外なし」、このような
表現
で語っていることであります。ここで
引用
しております「
帝国憲法
」というのは、これはまさに
昭和天皇
の
憲法
の教科書であります。 ところで、
明治憲法
の特色として、
権力
の
割拠性
ということが言われます。先ほど、
統治権
の
総攬
のもとに
権力
が分立しているということを言いましたけれども、横のつながりがないという点が
明治憲法
の
欠陥
といえば
欠陥
であります。しかし、本来はそれを統括するのが
天皇
の
役割
であります。しかし、
天皇
はその
役割
を果たさないということが
憲政
の
常道
とされていたわけであります。 したがって、いわば
統治
の
中心
が
不在
になった。しかし、
天皇
がそれを
行使
しないかわりに、
元老
という
役割
があって、
元老
がそれを
天皇
にかわって担っていたわけでありますが、
元老
が消滅することによって
統治
の
中心
が
不在
になっていた。ここに軍の独走を許した
昭和
の悲劇があると私は考えております。 さて、
昭和天皇
は、
立憲君主
としては逸脱しながらも、民の父母としての
天皇
として、そういう
役割
として
終戦
を決断されたということが述べられております。 七枚目の一番目の黒丸でありますが、
明治憲法
は、いわば常態においては
公議
を尊重するということであります。これを
憲政
の
常道
としております。
法律
の
裁可
から始まって
戒厳令
に至るまで、これはいずれも
天皇大権
でありますが、これは
天皇
がお一人で、あるいは独断で
行使
し得るものではありません。いずれも
輔弼者
が存在するわけで、その
輔弼者
が事実上の
責任者
とされるわけであります。 このように見てまいりますと、
明治憲法下
の
政治体制
は
立憲君主制
であるということが言えるかと思います。 それでは、
明治憲法
に対して、
日本国憲法
の象徴
天皇制
度はどうであるのかということであります。 結論を先に述べますが、私は、
明治憲法下
の
伊藤
の
構想
と象徴
天皇制
度は、それほど差はないというように考えております。 象徴
天皇制
度、これはどういうところから出てきたのかといいますと、これについては既に証言があります。GHQの民政局に所属していたネルソンとプールという二人の若い軍人
たち
が象徴
天皇制
度の
規定
を
起草
したと言われております。彼らは、英国のような王室に
日本
の皇室をすることが不可欠であるというように考え、さらに、
天皇
に
権限
ある地位ではなく、意義ある地位を与えようということであります。意義ある地位です。 彼らが象徴
天皇制
度を考えるに当たって参照した文献があります。これがウォルター・バジョットの「イギリス
憲政
論」という本であります。一八六七年の著作であります。 一番下の黒丸をごらんください。このバジョットのイギリス
憲政
論の中にこういう部分があります。 国民は党派をつくって対立しているが、
君主
はそれを超越している。
君主
は表面上、政務と無
関係
である。そしてこのために敵意をもたれたり、神聖さをけがされたりすることがなく、神秘性を保つことができるのである。またこのため
君主
は、相争う党派を融合させることができ、教養が不足しているためにまだ象徴を必要とする者に対しては、目に見える統合の象徴となることができるのである こういうことですね。まさに国民統合の象徴という
言葉
は、このバジョットの中で使われているわけであります。 バジョットの考えをまとめてみます。 バジョットは、
君主
の
役割
を、党派をつくって対立している国民を融合させる、目に見える統合の象徴であることに見出したわけです。それは、
君主
が政務、つまり実際
政治
と無
関係
で、それを超越しているが
ゆえ
に可能なのだというように考えているわけです。国民統合の象徴とは、バジョットの文脈でいいますと、
立憲君主
の有する機能を言った
表現
であります。 さて、バジョットの
立憲君主制
論について若干説明をしておきたいと思います。 バジョットは、
政治
を
二つ
の部分から成るものと考えます。
一つ
は尊厳的部分、もう
一つ
は実効的部分。尊厳的部分を担うのが
君主
、王室であるということ、実効的部分を担うのが
内閣
その他であるということであります。 これを
日本国憲法
の第一章と突き合わせてみるとどうなるかといいますと、このバジョットの
立憲君主制
論を参照しますと、第一章が非常に明快に
理解
できるわけであります。第一章の第六条、第七条で言っている国事に関する行為、
天皇
が行う国事に関する行為とは、
政治
の尊厳的部分であります。 「国政に関する権能を有しない。」とされて禁じられている国政に関する権能とは、
政治
の実効的部分であります。第四条一項「
天皇
は、この
憲法
の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」というのは、まさにこのバジョットの
立憲君主制
論をここで述べているわけであります。さらに、国事行為に関しては、
内閣
の助言と承認を必要とし、
内閣
がその
責任
を負う、
大臣責任制
がここで述べられているわけであります。
日本国憲法
は、第一条を見る限り、バジョット流の
立憲君主制
憲法
であると言えると思います。既に政府
解釈
では、
我が国
の現在の
政治体制
は
立憲君主制
であると言っても差し支えないであろうと思うということが言われているわけであります。 さて、このバジョットの
議論
、さらに象徴
天皇制
度、これを
理解
するに当たって、福沢諭吉の「帝室論」というものが非常に
参考
になります。と申しますのは、この福沢諭吉の「帝室論」というものは、バジョットの「イギリス
憲政
論」を下敷きにして書かれたものであるからであります。したがって、この「帝室論」の考えを参照するならば、
日本国憲法
第一章の
理解
が深まる、象徴
天皇制
度の
理解
が深まるということであります。 福沢諭吉は、「帝室は
政治
社外のものなり」と言っております。これはバジョット流に言いますと、政務と無
関係
であるということを言っているわけであります。さらに、「我帝室は
日本
人民の精神を収攬するの
中心
なり。」これは国民統合の象徴ということを言っているわけであります。その次に、「国会の政府は二様の
政党
相争うて、火の如く、水の如く、盛夏の如く、厳冬の如くならなんと雖も、」云々以下は、これはバジョットの
考え方
をそのまま福沢流に書き直したものであります。 この福沢諭吉の「帝室論」でありますが、これも興味深いことでありますが、今上
天皇
が皇太子の時代に小泉信三から帝王教育を受けますが、その際に二人で御一緒に輪読した本の
一つ
がこの福沢諭吉の「帝室論」であるということであります。したがって、戦後の新しい帝王学、帝王教育は、この「帝室論」あるいはバジョットの「イギリス
憲政
論」、こういったところが下敷きであるという点であります。 この「帝室論」あるいはバジョットの打ち出した
立憲君主制
でありますが、これはいわば受動的な
君主
というものを想定しているわけであります。政務と無
関係
で超越している、それ
ゆえ
に
不可侵性
を確保できる。また、それ
ゆえ
相争う国民を統合させる象徴となることができる。そして、
天皇
というものは、儀礼的、精神的な存在である。
政治
の
主体
ではなくて、
政治
の精神的なよりどころである、あるいは
政治
的
伝統
の体現者であるということを言うわけですね。その点がこの辺のところで確認できるかと思います。
最後
でありますが、実は、
日本国憲法
の第一章は、これは繰り返しになりますけれども、バジョット流の
立憲君主制
の
憲法
と言うことができるかと思いますけれども、これは実質的に
明治憲法
を継承していると考えてよろしいかと思います。 その
意味
は、
明治憲法
は
イギリス流
の
立憲君主制
にだんだんと転じていくわけであります。当初は
ドイツ
流の君権
主義
の
立場
に立っておりますが、それがだんだんと
立憲君主制
に転じていく。そういう
意味
での
明治憲法
を継承していると考えられます。
伊藤
の想定した
立憲君主制
とそれほど大きな差はありません。 ただ、現行
憲法
は六十八条で首相に
国務大臣
の任免権を与えておりますので、これは
立憲君主制
としてはいささか異例な
規定
であります。
立憲君主制
である以上は、名目上は
君主
に
国務大臣
の任免権は与えるべきでありますが、この点、アメリカの大統領制とイギリスの
立憲君主制
とがミックスされた結果と見られております。 ともあれ、象徴とは、政務と無
関係
で、それを超越しているがために国民を融合させるという、
立憲君主
の機能の面を言った
表現
であります。その
意味
で、決して象徴にすぎないというものではありません。 そういうことを申し述べまして、私の
意見
陳述とさせていただきます。(拍手)
高市早苗
3
○高市小
委員長
以上で
参考人
の御
意見
の開陳は終わりました。
—————————————
高市早苗
4
○高市小
委員長
これより
参考人
に対する質疑を行います。 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。奥野
誠亮
君。
奥野誠亮
5
○奥野小
委員
私には往復で十分の時間を与えられているわけでございまして、なかなか上手に使えませんので、お尋ねしたい点、あるいは私なりの
考え方
、先に全部しゃべらせていただきまして、あとの時間で、大変無礼かもしれませんけれども、お話をいただくということにさせていただきたいと思います。 まず第一に、
国柄
に関する
論議
が
憲法
に関する
論議
でなければならないというお話、大変感銘深く聞かせていただきました。
日本国憲法
が生まれる過程では、占領軍の総司令部総司令官であったマッカーサー元帥がスタッフに三原則を示して書かせた。その三原則の
一つ
には、
天皇
は元首と書かれておった。それを元首と書いたんじゃ
明治憲法
と同じように受け取られかねない、そんなことから第一条の
言葉
が生まれてきたと私は承知しているわけでございまして、あるいはケーディスの話だったかなと思ったりしているわけでございますが、昔のことでありますから確かなことは忘れてしまいました。 そして、この象徴というのは、仰ぎ見る存在、こういう
解釈
が当時
日本
側の政府から答えられておったように思います。それならむしろ、本来の
日本
の
天皇制
の
あり方
、この方が似ているんじゃないかな、こう私は受けとめたわけでございます。
天皇
が、太政官でありますとか神祇官でありますとか征夷大将軍でありますとか、いろいろな官職をつくってこられて、専ら任命権者におなりになった。みずからは専ら神事を担当してこられたように思います。だから、あの戦国の時代におきましても、武将が京都へ京都へと向かっていって、征夷大将軍の職にある足利家を通じて
天皇
からお墨つきをいただこうとした。だから、命のとり合いをしているにかかわらず社会は安泰だった。 やはりその上に
天皇
家があるということだったからだと考えておるわけでございまして、そういう
意味
で、
天皇
は、
日本
国の象徴、
日本
国民統合の象徴、新しい
憲法
でもこれはそのまま使える
言葉
じゃないだろうかなと私なりに思っているわけでございます。 ただ、見ていきますと、例えば第八条には、皇室に財産を譲り渡す、あるいは皇室が財産を賜与される、国会の議決を経なければならないと書いてあるわけでございまして、
天皇
家の財産をみんな国に取り上げちゃったわけでございまして、その後を恐れた余りに占領政策がこういう
言葉
を残したんじゃないかなと私は思うわけでございます。
天皇
の尊厳にかかわるようなことは、皇室
会議
というものがあるわけでございますから、こういうものは任せておけばいいんじゃないかな、私なりにそういう
考え方
を持っているわけでございます。 それから、
明治憲法
につきまして、いろいろお話を伺って、
理解
が深まったように思うんでございますが、私は、今まで、
明治憲法
は
天皇
親政に走り過ぎた、その
欠陥
を私なりに指摘しておったわけでございます。過ちがあれば御指摘いただきたいと思うんでございますが、例えば、いろいろなことを
大権
事項に取り込み過ぎた。その
欠陥
が、例えば行政組織は
大権
事項でありました。
内閣
におきまして、
陸海軍大臣
は現役武官でなければならないというような閣議了解もやった。こういう行政組織というものについては国会は関与できなかった。そういうことも原因が若干あっているんじゃないかな、私はこう思っているわけであります。 あるいは、
統帥
権につきましては、国会だけじゃありませんで、
内閣
も関与できなかった。だから、
昭和
十二年七月七日の盧溝橋事件が始まったときに、参謀本部が三個師団の増派をやっちゃった。これが、私は、
戦争
不拡大を唱え続けておったにかかわらず、拡大に火がついたんじゃないかなという心配をしているわけでございまして、こういう
統帥
権の独立も
明治憲法
の落とし穴だったんじゃないかな、こう思っておるわけでございます。 お話、よくわかるわけであります。わかるわけでありますが、私は、
明治憲法
が
天皇
親政に走り過ぎた、こういうところからああいう事態に陥ったな、こう考えているわけでございます。 第三に、
国柄
の大事なことをいろいろお教えいただきながら、
日本
の現状を考えますと、昨年来、韓国や中国との間でいろいろなことがございます。 私は、
内閣
の
姿勢
に危惧の念を抱いている一人でございます。例えて申し上げますと、扶桑社の
歴史
教科書、私
たち
が内容を知らないうちから、ああいうものを検定で認めるべきではないという申し入れが韓国や中共からございました。どうも検定
委員
会の
委員
の一人がだれかに渡しておったのが流れていっているんじゃないかなと思うんでございます。また、靖国神社に小泉総理が参りますと、参るべきじゃないという申し入れが韓国や中国からなされておるわけでございます。
歴史
の見方は国によっていろいろございます。宗教についての
考え方
もまたいろいろでございます。まさに私は内政干渉だと思うんです。内政干渉に対して、
日本
の政府の
姿勢
が何ということか。けんかはしちゃいけないけれども、
日本
の
考え方
というものは、私はじゅんじゅんと説き伏せていく努力をもっと明らかにしていかなきゃいけないんじゃないかな。私は、
日本
がアメリカに大変な恩を受けていると思います。しかし、また、アメリカが嫌がるからというて、嫌がることを
日本
があえて言わないような
姿勢
は避けていった方がいいと思いますし、中共との間におきましても親密な、ことしは国交樹立三十年であります、大事な年だと思っております。 三十年前に、田中角栄さんと大平外務
大臣
、国交樹立の話し合いをしますときに、周恩来首相との間で、侵略
戦争
をやったやらないで大問題になったわけでありました。周恩来首相は、
日本
は侵略
戦争
をやったと言う、田中角栄さんは、
日本
には侵略の意図は毛頭なかったと言って、大変なけんかになったわけでありましたけれども、だんだん、
日本
みずからが、侵略
戦争
をやったようなことを言い出す。 私は、
国家
の
意思
がどこにあったかということは宣戦布告の詔書で考えるべきだという論者でございまして、いろいろな見方があることを否定はしません。否定はしませんけれども、余りにも他国の意に沿うことを第一に考えまして、言うべきことを言うていない。これでは、
内閣
のこれからの
あり方
に危惧の念を持つ。若者が、今度会うときには靖国神社で会おうと言って散っていった。散っていたにかかわらず、別な追悼の施設をつくろうという
研究
会を持ったりする。情けない
日本
になっているものだな、こう思っているわけでございます。 まだ言いたいことはたくさんあるんですけれども、大分時間が少なくなったようでございますから、これで遠慮させていただきます。 ありがとうございました。
八木秀次
6
○
八木参考人
一言
だけ申し述べますが、冒頭の方で、
天皇
が任命権者であったというお話がございましたが、この辺、権威と
権力
をうまく使い分けて、
権力
の側にどんな
姿勢
があろうとも、
国家
の連続性が担保できるという、これは
君主
制といいますか、
我が国
のある種の知恵だろうと思っております。 その次でありますが、
明治憲法
は
大権
事項を多く取り込み過ぎたという御指摘ですが、私もそういう感想も持っております。 ただ、例えば
統帥
権の独立などでは、これは
天皇
というものを
公共性
の象徴というふうに考えますので、そうでありますと、軍は公共的な存在である、政府といういわば幕府、これにつながるものであってはならない、そういった
理解
でありまして、これは自由民権論者も多く当時はそのような
見解
をとっていたわけです。それが後にだんだんと性質が変わっていったという点でありまして、そこまで
明治憲法
の
起草者
に求めるのは酷かなという気もいたします。
奥野誠亮
7
○奥野小
委員
では、恐縮ですが、もう
一つ
。 私は、
昭和
二十年八月から
昭和
二十七年四月までは
戦争
状態が継続しておった、こう考えているわけであります。その中で極東国際軍事裁判などが行われたわけでございまして、同時に、サンフランシスコ講和条約が発効する際に、その講和条約の中で、
日本
が極東国際軍事
裁判所
の裁判を受諾する、英文ではジャッジメンツを受諾すると書いてあるわけであります。 裁判というのは、辞書を引きますと、いわゆる裁判と判決と両方の
意味
に使われておるわけでありまして、ジャッジメンツに対応しますと当然判決だと思うんです。判決だと思いますから、禁錮刑などの人を勝手に出したりはしなかった、絞首刑になった人に異議の申し立てはしなかった。それだけのことだと思うのでございますけれども、これを裁判と解して、あの裁判において行われた、
昭和
六年の満州事変以来、
日本
は
戦争
を企画し、準備し、遂行してきたということで絞首刑や何かにもなってこられたわけでございました。こんなことまで受諾していることはないと思うのでございます。 そこで、絞首刑になった人を靖国神社にお祭りしているんじゃないかということが、私は中国から苦情が言われてきている
一つ
じゃないかなと思うんですけれども、
戦争
中の出来事でございますし、ああいう裁判は国際法学界では認められるべきものじゃないんじゃないかな、私はこう思っておりますし、
日本
国では、国会で既にその間禁錮になっておった方々の年数も年金の期間に算入していますし、また、遺族には遺族年金を差し上げているわけでありまして、犯罪人とは処遇していないわけであります。 中共は犯罪人と考えているのかもしれませんが、
日本
は犯罪人としては考えていないわけでございますし、殊に、
日本
の仏教でも神道でも、人が死ねば、みんな神であり、仏なんですよ。生前において何をしてきたかということは問わない。罪人でありましても、みたま安かれという法事などをやっているわけなんです。宗教に対する
考え方
も違うんです。 先ほど、
国柄
ということをおっしゃった。私は、
国柄
というものをよく説明して、納得させていく努力を
内閣
としてももっとやられるべきだ。いろいろなことについて、まず相手の意に沿うような
姿勢
が先に立っていることを大変心配しているものでございますから、御感想でもあればおっしゃっていただきたいなと思って、あえて時間を使わせていただいたわけでございました。
高市早苗
8
○高市小
委員長
八木参考人
、簡潔にお願いいたします。
八木秀次
9
○
八木参考人
私の
意見
陳述との
関係
でいいますと、やはり
我が国
の
国柄
は何かという
議論
をしなければならないと思うんです。それこそが
明治憲法
を制定するに当たっては何より重視されたことで、繰り返しですけれども、この点に学ぶべきだと言っているんですけれども、今日、その辺の
議論
がなく、ただ普通の国になろうとしている。もちろん、安全保障の面では普通の国でもいいんですけれども、その上にさらに
国柄
の問題を
議論
すべきだというのが私の本日の主唱であります。
奥野誠亮
10
○奥野小
委員
ありがとうございました。
高市早苗
11
○高市小
委員長
それでは、伴野豊君。
伴野豊
12
○伴野小
委員
民主党の伴野豊でございます。
八木
先生、本日は、大変お忙しい中、貴重なお話を賜りまして、ありがとうございます。
八木
先生は、一九六二年のお生まれというふうにお伺いしておりまして、私は一九六一年の生まれでございまして、同じ世代というようなことで、非常にきょうは興味深く聞かせていただきました。 それから、きょうのお話もさることながら、先生が平成十二年五月一日に産経新聞の「正論」に寄稿されました「
憲法
を考える あくまで
日本
の匂いのする
憲法
を」という記事は、非常に自然に私の体の中に入ってきたな、そんなふうに思い、読ませていただきました。 とりわけ、きょうは
国柄
ということで、それをにおいという置き方をされた。
国柄
、あるいは地域柄、それから家庭といいますか家柄というのもあろうかと思いますが、よく私も小さいときを思い出しますと、それぞれのおうちににおいがあったな。玄関へ入ると、その家々の特徴のするにおい、場合によってはそれで覚えていた、だれだれちゃんのおうちと。それから、父のにおい、母のにおいというのもあったような気がいたします。 それで、どうしてもきょうお話しいただいた中で三点ほどお聞かせいただければと思うわけでございますが、その
国柄
というものを、どう、特におぎゃあと生まれた子に、
自分
で勝手に息ができたらにおいをかぎなさいというのも
一つ
の方法かもしれませんが、においをかぎ分ける力といいますか、そういうものを与えていくためには、やはり教育というものは避けて通れないものであろうと。 そうしたときに、先生も私も同じ世代ということからすると、我々が受けた教育といいますか、経験上、これは私だけかもしれませんけれども、私の経験から言わせていただけば、あえてそのにおいを消してきたといいますか、無臭がいいという教育をされてしまったのかな。あるいは、とりわけにおいのきついものを避けてというか、かがせない教育をしてきてしまった。それによって、いつの間にかかぎ分ける力も失ってしまったのではないかな。そんなふうに、今先生のこの産経新聞の記事を見せていただきながら思っておりました。 先生は、御経験上、教育の今の姿、今後はどうあるべきか、
国柄
をどう教えていくかというか、どう伝えていくかというところで、においをどうかぎ分けさせるかという点で、お考えがあればお聞かせいただきたい。 それに関連しまして、
二つ目
としまして、国を愛する心といいますか、自国を愛する心。よく心理
学者
の先生から私も聞かされたことの
一つ
に、
自分
を愛せない人は他人をも愛せない。これを国に置きかえますと、自国を愛せない人は他国をも愛することはできないというふうに置きかえられると思うわけでございますが、今の多くの
日本
人というと、別に私は統計をとったわけではありませんが、自国すら意識できなくなってしまう、自国のにおいすら感じられなくなってきているのではないかな。 それをグローバル化と勘違いしている方もいらっしゃるような気がするんですが、私は、経済がグローバル化すればするほど、国境がなくなればなくなるほど、あえて、他国を
理解
するために、自国のにおいを意識しなければ、あるいは自国のにおいをきちっと意識した上で他国とのにおいの違いをかぎ分ける力を持っていないと、本当のグローバル化というのはできないのではないか、あるいは本当の平和というのは求められないのではないか、そんなふうに考えておりますが、その点はいかがでしょうか。 いま
一つ
、
最後
の質問といたしまして、先生の「
明治憲法
制定の
姿勢
に学べ」というこのお話の中に、私は、今を語らせていただく
政治
家としまして、新たな
日本国憲法
を
起草
するぐらいの気概を持てというように読ませていただいたんですが、先生はその
あたり
のところをどうお考えか。もし新たな
日本国憲法
を
起草
すべきだというお考えであるとするならば、
天皇
というものをどう位置づけ、そして、もし具体的にお聞かせいただければ、差し支えなければ、首相公選制との絡みでお話しいただければありがたいかと思います。 以上です。
八木秀次
13
○
八木参考人
御質問、どうもありがとうございました。 まず第一点目ですが、教育の問題でありますけれども、
国柄
というものは、これは、私はにおいというふうに言っているんですが、なかなか
表現
のしづらいものがありまして、いわば不文のものですので、これをどう
表現
するのかというところが非常に難しいところなんですね。実は、
明治憲法
の
起草者たち
もその
表現
を成功したかというと、私は必ずしもそうでもないように思っているわけです。しかし、そういう
姿勢
があったということを私は
評価
しているんです。 ただ、この不文の、なかなか
表現
しづらい
国柄
というものでありますけれども、しかし、それは
明治憲法
の
起草者たち
が立ち返ったように、
我が国
の
歴史
というものに行かざるを得ないと思うんです。
歴史
をたずねることによって何となく立ち上ってくるにおいというものがあると思うんですね。ですから、古代から
我が国
の
歴史
をそのまま教えればいいと思うんです。
特定
のイデオロギーに立つものではなくて、我々の父祖の
歴史
として子供
たち
に語っていけば、それが
国柄
というものを形づくるものになろうかと思います。 御指摘のように、においというものを消してきたのが戦後だったと思います。コスモポリタンだとか、今だって地球市民だとかそういうことが言われておりますが、このにおいの重要性をまた
憲法論議
の中で再
認識
していただければと思います。 二番目の、自国を愛する心ということでありますが、この点も、戦後、我々は自国を愛する心を抑圧されてきたと思います。今度、ワールドカップであんなに若者
たち
が盛り上がったのは、その抑圧されたものが噴出してきたというところであろうと思います。 しかし、ナショナリズムというものは、健全なナショナリズムもあるけれども、そうでないものも実はあるわけです。ナショナリズムというのは両面があるわけです。したがって、今後我々が考えるべきは、ナショナリズムというものにいかに作法を与えていくのかということだと思うんですね。
日本
チームが勝ったことによって、渋谷でタクシーが持ち上げられたりとか、そういう動きにもなっていくわけです。きれいな美しいナショナリズムの作法というものを私
たち
は考え、そして子供
たち
に語っていくべきであろうと思っております。 三番目ですが、新たな
日本国憲法
を
起草
せよというふうに読めるという御感想でありますが、私も本来はそれが望ましいと思います。それぐらいの気概を今の私
たち
は持つべきであろうと思うんです。 その際に、
天皇
をどう
表現
するのかということでありますが、これは非常に難しい問題であります。
日本国憲法
下の象徴
天皇制
度というのは、これは一週間でつくった割にはよくできているものがありまして、ただ、象徴という
言葉
が、これは
立憲君主
の機能の面を言っただけで、法的に、あるいは
憲法
としてもうちょっと熟した
言葉
があると思いますので、それを尋ねていきたいということであります。 首相公選制との
関係
ということでありますが、
議院内閣制
というのは、本来は
立憲君主制
のもとにおける制度であります。したがって、
我が国
が現在
立憲君主制
であるかどうかについては
議論
のあるところであろうとは思いますけれども、しかし、公選の首相ということになりますと、これは共和制の大統領である。ここの
関係
をどう整理するのか、その懸念をどう払拭していくのか、その辺が解決しない限りは、首相公選というものも軽々に出してくるべきではないのではないかなというふうに私は思っております。
伴野豊
14
○伴野小
委員
どうもありがとうございました。以上で質問を終わらせていただきます。
高市早苗
15
○高市小
委員長
次に、斉藤鉄夫君。
斉藤鉄夫
16
○斉藤(鉄)小
委員
公明党の斉藤鉄夫でございます。きょうは、大変貴重なお話、ありがとうございました。 私も
八木
先生と同じ広島出身でございまして、広島で公教育をずっと受けてきますと、
昭和
二十年の破綻の原因は
明治憲法
にあり、また、現
憲法
と
明治憲法
は全く根本的に相入れないもの、こういうイメージでまいりましたけれども、きょう先生のお話を伺って、
明治憲法
について勉強したのはある
意味
できょうが初めてだったのではないかなというぐらい、本当に恥ずかしい話ですけれども、聞かせていただきました。 そういう中で、きょうのお話を伺って、
明治憲法
と現在の
日本国憲法
、相入れないものではなく、かなりの共通性があるということもきょう初めて
認識
させていただきました。 先生のお話を聞きながら頭に浮かんだ
言葉
として、普遍性と土着性という
言葉
が浮かんできたんですけれども、ある
意味
で、今の
日本国憲法
は普遍的なものを強調したものではないか。 そして、
日本
のにおいという
言葉
を先生は使われておりますけれども、
明治憲法
は土着性のもの、ある
意味
では、同じものを、土着性が強い
憲法
、もしくは普遍性が強い
憲法
、こういうふうにも見られるのかなと、きょう、思いつきで感じたんですけれども、この点について、こういう
認識
でいいのかどうかということが第一点目でございます。 第二点目は、
日本国憲法
の、今三原則と言われておりますけれども、
基本
的人権の尊重、国民
主権
、それから平和
主義
、この平和
主義
の部分は除きまして、国民
主権
ということに対して
明治憲法
は
天皇
主権
、ここは絶対相入れないというふうに私も
認識
してきたんですけれども、どうも、きょうの先生のお話を聞くと、そうでもない、国民
主権
と言ってよかったのではないかというようにも思えてまいりました。 現
憲法
の原則と言われております国民
主権
、それから
基本
的人権の尊重、こういうものが
明治憲法
ではどうだったのかということを二番目にお伺いさせていただきます。 三番目、たくさん言って申しわけないんですが、先ほども伴野
委員
のお話に出てまいりましたけれども、教育ということですが、現在、
日本
でも教育
基本
法の改正ということが
議論
されております。教育改革国民
会議
も改正ということを提言しておりますけれども、いわゆる
明治憲法下
の教育勅語、それから現
憲法
下の教育
基本
法、このことについての先生の御
意見
をお伺いできればと思います。 以上です。
八木秀次
17
○
八木参考人
一番目の御質問ですが、普遍性と土着性ということでありますけれども、これは、
明治憲法
が土着性というところにこだわったのは確かなんですけれども、しかし、普遍性も忘れていないわけですね。ですから、
国柄
というものをどう
表現
するのかということです。あるいは、その普遍的なものを
日本
流にどう
表現
するのかということによって、普遍性と土着性というのが、ある場合には普遍性であり、ある場合には土着性というふうに分かれてくると思うんです。 例えが適切かどうかわかりませんけれども、植物も、外来の植物を別の土地に植えると枯れる場合があるわけです。やはりその植物の育った土壌というものをよく吟味する必要がある。これは、西洋の法制度だったりするんですね。これを
日本
に移してきた場合に、果たしてそれがそのまま根づくものなのか。そのときに、根づくようにいろいろと工夫をその植物に加えてやる、こういうようなことが必要だと思うんです。ここのところが土着性を重視するということにつながっていくと思うんです。しかし、戦後の
議論
は、とかく横のものを縦にするという、それで来ているんですね。 ついでですから申し上げますけれども、
明治憲法
の
起草者
の
金子堅太郎
が当時の法学教育を批判しているんですね。当時は、法学教育というと、イギリス法学か
ドイツ
法学かフランス法学か。今の私立大学の前身になっているものは大抵そういう外国法学を教えている
法律
学校です。
金子
は、外国法学はあるけれども、
日本
にないのは
日本
法学だ、
日本
法学こそ今後は必要なんだということを言うんですね。そこで、
日本
法律
学校というものをつくるんです。これが現在の日大の法学部なんです。
日本
法学という名称が日大法学部の
研究
紀要であるんですけれども、あれは
日本
大学法学部の略ではなくて、
金子
の打ち出した
日本
法学というものを掲げたという点をここで申し添えさせていただきます。 次ですが、二番目、国民
主権
の問題であります。 通常、
学校教育
の
理解
ですと、
明治憲法
が
天皇
主権
で、そこから
日本国憲法
の国民
主権
に移ったんだ、こういう
理解
ですね。しかし、
明治憲法下
において
天皇
主権
ということが言われていたのは、ごくわずかの
学者
を除いて、
天皇
主権
ということはほとんど述べられておりません。
特定
の数人の
学者
が
天皇
主権
ということを述べていたわけで、通説的な
見解
としては、
国家
法人説、言いかえますと
国家
主権
、
国家
主権
説の
立場
に立っているわけであります。したがって、
明治憲法
が
天皇
主権
という
理解
自体が、ある
立場
に立った
理解
であるというふうに私はとらえております。この辺、
明治憲法
と
日本国憲法
とをあえて対比させる、そういうのが背景にあるのかなという気がしております。 それから、
憲法
三原則という言い方ですが、
基本
原則という言い方ですが、これは必ずしも三つに限る必要はないと思うのです。かつて、鳩山
内閣
のときに
憲法
改正が持ち上がったときに、護憲派がこれだけは絶対譲れないものとして三原則ということを言ったものが教科書に載り始めたということでありまして、戦後の「あたらしい
憲法
のはなし」の中には、例えば象徴
天皇制
度や
議会
制民主
主義
やそういったことも
基本
原則の中に入っております。ですから、
憲法学者
によっては五原則とか六原則とかというふうに言っておりますので、三原則という
表現
にとらわれる必要はないということも申し添えておきます。 三番目、教育
基本
法と教育勅語との
関係
ですが、これは、戦後の一年三カ月間は教育
基本
法と教育勅語が並立していた時期があります。といいますのが、教育
基本
法の
起草者たち
は教育勅語を否定しておりません。教育勅語を道徳の
理念
として想定しながら、それで足りない部分を、すなわち新
憲法
との
関係
で足りない部分を教育
基本
法でうたったわけです。 したがって、本来は、戦後教育は教育
基本
法と教育勅語の両輪でスタートしたわけです。しかしながら、一年三カ月後に、GHQの圧力によって国会で排除決議、失効確認決議が行われまして、葬り去られたということであります。それ以降、戦後の教育は、教育勅語にかわる道徳教育の
理念
を失っております。私は、その辺のところに今日の教育の混迷、荒廃の原因の
一つ
があるのではないかなというふうに考えているわけです。 道徳教育なくして、
個人
の尊厳、
個人
の尊重ということをやたらと言うという、教育
基本
法そのものはそれほど問題はありませんけれども、本来は教育勅語との補完
関係
であったということでありますから、教育
基本
法を再考する上では、本来教育
基本
法に盛り込まれなかったものがあるんだということを確認して、それを今後は盛り込む必要があるのではないかという、そこまでその
議論
を持っていく必要があるのではないかと思っております。 以上でございます。
斉藤鉄夫
18
○斉藤(鉄)小
委員
ありがとうございました。
高市早苗
19
○高市小
委員長
次に、藤島正之君。
藤島正之
20
○藤島小
委員
自由党の藤島正之でございます。 二、三点お伺いしたいと思うのですけれども、まず最初に、
明治憲法
ができたときは白紙にできたわけです。その際に、
歴史
と
伝統
というものを体現するようなものであるのがいいということで、
伊藤博文
が勉強した上でそういうことになったということなんですけれども、
天皇制
について見ますれば、その前、江戸幕府、室町、鎌倉とあるわけですけれども、果たしてああいう
天皇制
が
歴史
と
伝統
を体現する形であったのかどうか。あるいは、当時の国論をまとめていくには一番まとまりやすいという点が念頭にあった上での話であったのではないかなという感じがするんです。 それはそれとして、現時点でちゃんとした立派な
憲法
があるわけですけれども、現在、見直すに当たって、
歴史
と
伝統
といったものはどういう考えで基礎的な
考え方
の中に取り入れていけばよろしいのか、お伺いしたいと思います。
八木秀次
21
○
八木参考人
歴史
と
伝統
ということで、江戸幕府のことは入らないのかというお尋ねだと思いますけれども、特に、
明治
以降、
明治憲法
の
起草者
も含めて
明治
の
中心
人物
たち
が
認識
したのが、やはり
天皇統治
という概念だと思うのです。 その際に、この
天皇統治
の内容ですが、これは一般的に今日
理解
されているような絶対
主義
的な支配ということではなくして、むしろ、五カ条の御誓文にあらわれているように、「万機公論ニ決スヘシ」いわば
公議
衆論の尊重ということですね。これは民主
主義
の
我が国
の
政治伝統
に基づいた取り入れ方であろうと私は
理解
できると思うのですね。 もう
一つ
が、
天皇統治
の内容としては、人民の福祉の増進ということが入っているんですね。これも五カ条の御誓文の中に、「人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス」という
言葉
が入っておりますけれども、その辺にあらわれていると思います。これは、今日的な言い方で言いますと、いわば
基本
的人権の尊重でありますとかあるいは社会福祉でありますとか、そういったものの
日本
的な内容であろうと思うのですね。 すなわち、
天皇統治
と民主
主義
は矛盾しない、
天皇統治
と
基本
的人権も矛盾しない、こういうふうに
理解
し、これは政府の当事者だけではなくて、自由民権家
たち
の多くがというか、私は一人も例外を知らないんですけれども、すべての人がこういう
理解
をしていると考えられるわけです。 したがって、こういうものを果たしてどう
表現
するのかという問題については、これは甚だ難しい問題ではありますけれども、例えば、今日の
日本国憲法
の前文は、あれはやはりあの当時の
歴史
の所産だと思います。あのときの、戦後の敗戦という
歴史
的な事象の
産物
で、そのことがあの文言の中に非常に色濃く出ていると思いますけれども、ああいうこともさることながら、前文
あたり
に
我が国
の
歴史
と
伝統
に基づいた何らかの
表現
ができないのかということを私は考えているわけです。 しかし、それが具体的にどういうものであるのかについては、これは多くの人
たち
が
議論
すべきことだと思うんですね。私は、
憲法論議
は
憲法学者
の特権事項ではないと思っております。
明治憲法
を
起草
するに当たって、例えば
井上毅
は
歴史
学者
をスタッフにそろえました。国史
学者
をスタッフにそろえたんですね。あるいは、いろいろな人を訪ねていくわけです。 ありとあらゆる学問分野の人
たち
の見識を結集して、それで
我が国
の今後のあるべき
憲法
の姿というものをここで
構想
していけばいいと思うんですね。その
意味
では、広く国民的な
議論
に
憲法論議
というものはしていかなければならないと思っております。 御質問については以上でございます。
藤島正之
22
○藤島小
委員
先ほど斉藤
委員
もちょっとそんな感触であれしたんですけれども、
明治憲法
というのは本当に
天皇
の
大権
に
一つ
にまとまった
憲法
で、今の
憲法
とは全然相入れないといいますか、対極にあるというような
認識
でいたんですけれども、きょうの御説明だと、ほとんど同じようなものだというようなお話だったんですけれども、まだ果たしてそうだろうかという感じが実はしておるわけです。
天皇制
だけの問題じゃないんですけれども、民主
主義
といいますか、国民の権利義務の
考え方
が、百年たったことでまた変わってきていると思うんですね。それで、現在の
憲法
ができたときからも変わってきている。先ほどの
伝統
とかいうことにも絡んでくるわけですけれども、そう見てきたときに、今後の
我が国
の
憲法
を、
明治憲法
と現行
憲法
と置いて、また次に、理想的な
方向
としてもし先生が考えられている
方向
があれば、ちょっとお聞かせいただきたいと思うんです。
八木秀次
23
○
八木参考人
なかなか難しい御質問でありますけれども、
明治憲法
は、一応、名目上は
天皇
の
大権
にするわけです。しかし、実質の部分は
大臣
があるいはほかの
輔弼者
が担当しているわけです。先ほどヘルマン・
シュルツェ
の理論を出しましたけれども、これは、名目として、
主権
の体は
天皇
が握るとしているわけです。しかし、
主権
の用、これは実質の部分なんですが、これはその
輔弼者
が担当する。 現行
憲法
も実は名目と実質と分けてはいるんです。国事行為は、これは名目なんですね。しかし、例えば
内閣総理大臣
は国会で
指名
をされますが、
天皇
の認証を受けなければ
内閣総理大臣
になれません。国会の
指名
が実質行為なんですけれども、名目的な行為として、
憲法
上は
天皇
の任命を必要とするわけです。 このように、現行
憲法
においても、現行
憲法
は
明治憲法
と比べると
大権
事項ははるかに少ないんですけれども、しかし、それでも名目として、
天皇
の現行
憲法
で言う国事行為、これは残しているということですね。これを使い分けているというところが
立憲君主制
の妙といいますか、その部分だと思うんですね。 それと、
最後
は、これが一番難しい問題でありまして、むしろ
日本国憲法
に盛り込まれているものはかなり充実したものがありますので、ただ、例えば安全保障の面だとか、あるいは前文のところだとか、あるいは
天皇
を果たして象徴というふうに
表現
するかだとか、そういったところ以外の問題は、内容としてはかなり熟してきているとは思うんですね。 ほかに政教分離の問題等、
解釈
が分かれるところがありますので、その辺のところをすっきりさせるとかいろいろとありますけれども、一応、
明治憲法
と
日本国憲法
とを置いて、両方を認めた上で、その上で今後の新しい時代に足りないところは書くとか、あるいは、
歴史
と
伝統
ということを私は強調しておりますけれども、
国柄
ということを強調しておりますけれども、その部分を前文
あたり
で確認する。
我が国
は、戦後できた国ではなくして長い
歴史
と
伝統
を持った国であるということをわかるように書く、そういう作業が必要であろうと思います。
藤島正之
24
○藤島小
委員
ありがとうございました。終わります。
高市早苗
25
○高市小
委員長
次に、山口富男君。
山口富男
26
○山口(富)小
委員
日本
共産党の山口富男です。 私は、国の
憲法
を
構想
するという場合に、それはその時代の課題に取り組む大がかりな仕事だと思うんですね。 きょう、
八木参考人
の方から
明治憲法
の形成の問題でお話があったんですけれども、
明治憲法
を考えた場合も、あの時期は、
一つ
は対外諸国との
関係
でそういうものが必要になったということと、民権運動に対して
議会
を開くということを決めた
関係
で、
憲法
を急いで作成する必要があったと思うんですね。 そうすると、その時期に、
明治憲法
への流れと同時に、先ほど少し民権運動のお話も出ましたけれども、自由民権運動の中やあるいはその周りで民権派の
憲法構想
も随分生まれました。 その代表的な例は、やはり植木枝盛の、人権の保障を前提にして人民
主権
で抵抗権まで明記したような、ああいう到達が
一つ
あったと思うんですね。当時は、ちょうど
天皇制
の
統治
機構
が現実に目の前にありますから、彼の場合もそのことがいわば念頭にありながら
憲法
を
構想
したと思うんですけれども、今の時点でごらんになって、この時期の、特に植木枝盛などの
憲法構想
についてどういう位置づけで
評価
をなさっているのか、この点をまずお尋ねしたいと思います。
八木秀次
27
○
八木参考人
植木枝盛についてでありますが、専ら戦後のある時期から、家永三郎さん
あたり
から始まった
議論
だと思いますけれども、抵抗権の一項目があるということで非常に先進的である、あるいは人民
主権
の
規定
があるということで、その辺を
評価
するということでありますが、一方、彼の
憲法
草案の中には、極めて強い皇帝の
大権
というものの
規定
があるわけですね。家永さん
あたり
は、
天皇
と言わずに皇帝という
表現
を使っているので、これはきっと
天皇
をおとしめるためだろうというところで何か
評価
なさったようでありますけれども。 しかし、植木枝盛の
憲法
草案をそのまま見ますと、これは
明治憲法
よりはるかに強い皇帝の
大権
を
規定
しているんですね。これはどうも
ヨーロッパ
の皇帝を想定しての
規定
ではないかという
評価
が今日ありますけれども、私は多分そうだろうと思うんです。あるいは、何か人権
規定
とこの皇帝の
大権
の
規定
が両立しているというところが、家永さん
あたり
が語らない彼の思想を
表現
しているようにも私は見えるわけです。まず、そういうふうなところです。
山口富男
28
○山口(富)小
委員
植木枝盛の場合、おもしろいのは、皇帝といいましても、いわば国民と上下
関係
じゃないんですね。国民の中の一人で、それでその人に、今おっしゃったような、それが
明治憲法
に比べて大きかったかどうかは別ですけれども、いろいろな
権限
を与えたわけです。同時に、給料を払うとか、なくす問題についての
手続
の問題だとか、いろいろな
構想
があったと思うんです。 そういう点で、私は、
明治期
の
憲法
の問題として考える場合に、
明治憲法
と同時に、民間が考えていたあの当時の
憲法構想
というものは、もう一度吟味する必要があるというふうに思っているんです。 さて、
明治憲法
の話なんですけれども、
歴史
問題としてこれを見る場合に、私は、
法律
自体の構造と、それが
歴史
の実際の中でどういう
役割
を果たしたのかという両面からの検討が必要だと思うのです。それで、きょうの
八木参考人
のお話ですと、
立憲君主制
の
一つ
と呼んでいいというお話なんですけれども、
立憲君主制
といった場合、これは君権
主義
あるいは
君主
主義
を残しながら、同時に絶対性を否定して
権力
の乱用を食いとめるような
政治
上の形態になるわけです。そういたしますと、
明治憲法
の場合に、君権
主義
なり
君主
主義
の絶対性を否定したような
規定
というのはあるんですか。
八木秀次
29
○
八木参考人
それは、書いていないだけという問題もありますから。ただ、
運用
においては、
起草者たち
がどう
構想
したのかというところを見ておりますと、紛れもなく制限
君主
制というところ、
伊藤博文
の発言がありますけれども、いわゆる午前は皇室を
国家
の機軸とするという発言をし、午後は
憲法
をつくる以上は君権を制限しなければならないという発言をしております。有名な発言ですけれども、実は、この午前と午後の発言がまさにヘルマン・
シュルツェ
の
主権
の体と用ということでありまして、用の部分は制限するということなんですね。 そういう
意味
でいいますと、第四条の後段の部分は「
憲法
ノ
条規
ニ依リ之ヲ行フ」ということでありますので、それは君権の制限と読めるのではないでしょうか。
山口富男
30
○山口(富)小
委員
今お話しになりました機軸発言というのは有名ですけれども、それと並んでもう
一つ
おもしろいのは、彼が
ヨーロッパ
に
憲法調査
に出かけた際に、随分
日本
国内に手紙を送っていますね。その中で、
憲法調査
の大眼目は何かということで、「死処ヲ得ル」という手紙を書いているでしょう。そこでは、
天皇
の
大権
を損なわないでどうやって
憲法
上の体制をとるのか、これを
研究
、検討するのが今度の
憲法調査
なんだという話をやっておりますね。 きょうの
参考人
のお話でも、
井上毅
と
伊藤博文
の
構想
は錯綜していたんだというお話がありましたけれども、やはりそれは
明治憲法
の中に反映していると思うんです。それは、冒頭でもそれから三条でも
君主
の神聖
不可侵性
というものをきちんと言って、それで四条などで、先ほど体と用のお話をされましたけれども、あれは、何か用があるから、先ほど委任という
言葉
がございましたけれども、委任ということじゃなくて、
天皇
の
大権
、体というものを具体的に
運用
する用の
あり方
はこのように定めておりますよということだと思うんです。私は、
伊藤博文
の「
憲法義解
」を読みましても、やはりこの中から
立憲君主制
論を導き出すのはちょっと難しい。 それで、きょうは、美濃部さんの当時の通説的
見解
について紹介がありました。あれは
昭和
期に入って、いわば国からだめだというふうにされてしまうわけですけれども、私は「
憲法義解
」からは
立憲君主制
論は導き出せないと思っているんですが、美濃部学説が最終的に国の中で排除されたという点についてはどういう
評価
をされるんですか。
八木秀次
31
○
八木参考人
では、
最後
の問題から。
昭和
十年に
天皇
機関
説事件が起きまして、美濃部学説が排除されますが、私は、これによって
明治憲法
はほぼ葬り去られたと思っているんです。よく
戦争
と、とりわけ第二次大戦と
明治憲法
との
関係
が取りざたされるわけですけれども、むしろ戦時下におきましては、
明治憲法
は邪魔な存在として扱われているわけです。この
憲法
では
戦争
ができない、戦時体制はしけない、余りにもリベラル過ぎるという
見解
です。
美濃部達吉
も、
昭和
十年にほぼ公職を追放されて、敗戦後、
明治憲法
の改正の要否の問題が持ち上がったときに、
美濃部達吉
はむしろ
明治憲法
のままでいいという態度を一貫して表明したわけです。つまり、
昭和
十年以降の
憲法
の
運用
といいますか、ほぼ
憲法
を無視した
運用
が問題なのであって、これは当時の美濃部の発言ですが、
明治憲法
そのものは何ら問題はない、このままこれを下敷きにして、例えば軍の独走を許すような
統帥
条項を除くだとか、その点でとどめていいという
見解
を述べているわけです。 したがって、
美濃部達吉
のその
見解
をもって戦前の代表的な
解釈
論といいますか、あるいは
運用
論といいますか、それが語られるのではないかという
趣旨
で私は
美濃部達吉
を出してきたわけです。
山口富男
32
○山口(富)小
委員
もう終わりますが、
最後
に、現行
憲法
の前文に「われらは、これに反する一切の
憲法
、法令及び
詔勅
を排除する。」というふうに言っていて、その場合の原理は何かといいますと、やはり
主権
在民と平和
主義
の問題なんですね。その点では、
明治憲法
と
日本国憲法
の、先ほど継承性という
言葉
がありましたけれども、それを見ようとするのは、この
規定
からいってやはり無理があるというふうに私は思います。 以上で、時間が来ましたので終わります。
高市早苗
33
○高市小
委員長
次に、
金子哲夫
君。
金子哲夫
34
○
金子
(哲)小
委員
社会民主党・市民連合の
金子
でございます。 今のお話と関連して、私もちょっとお伺いしたいと思うんです。 今先生は、
昭和
十年から実質上、
明治憲法
は停止したというか、崩壊したということをおっしゃいましたけれども、それに至る過程にあって、
明治憲法
そのものに本質的な問題はなかったのか、そういうことを発生させる本質的な問題はなかったのか。例えば
統帥
権の問題ですとか、形式的な
議会
制度とか、そういった面がなかったのか。その原因はどのようにお考えか、お伺いしたいと思います。
八木秀次
35
○
八木参考人
明治憲法
は不磨の大典と言われまして、結局、一度も改正されなかったわけであります。
昭和
十年に至る間の中で、
明治憲法
の問題は折に触れて指摘されているわけです。特に、
統帥
権の問題などは指摘されているわけであります。あるいは
憲法
のところまで行きませんけれども、
陸海軍大臣
の
現役武官制
の問題だとか、そういうのが指摘されているわけであります。 しかし、そういう問題があったにもかかわらず一度として改正しなかった。むしろ、その硬直した
姿勢
がいろいろその後に悲劇を招いたのではないかと私は見ております。したがって、本質的な問題は確かに部分的にあるわけです。しかし、それはその都度修正していけばよかったのですが、それをしなかったということだろうと思います。
金子哲夫
36
○
金子
(哲)小
委員
そのことと関連してお伺いをしたいんです。 先ほど先生は、
明治憲法
にもリベラル的なところがあって、それが排除されたために誤った
戦争
への道を走ったというようにお聞きをしたわけですけれども、そうした反省の上に立って、さらにより平和
主義
をうたった現在の
憲法
というものがあるように私は思うんです。 今さまざまな、有事法制も含めてそうですけれども、
憲法
の改正の問題もそうですけれども、そういうことが再び、むしろ
戦争
への道を歩むことにつながるようなことを危惧するわけですけれども、その点はどのようにお考えでしょうか。
八木秀次
37
○
八木参考人
明治憲法
がリベラル過ぎるというのは、特に国民の権利保障の問題だったんです。例えば所有権についてはこれを保障している。そうなると統制経済はうまく回らないわけですね。したがって、戦時体制においては、
憲法
の
条文
は厄介なものとなっていったわけです。 さて、有事法制の問題でありますが、有事法制の問題は、私は、近代
国家
の
基本
原則である法治
主義
の
考え方
にのっとれば、自衛隊が出動した後の細かな法規がないということは、むしろ、前から
議論
されているように、有事の際にはまさに超法規的に動かざるを得ないわけで、そうなると、これこそが法治
主義
を侵すものであるというふうに考えているんです。自衛隊が出動した後、どういう形で動くのがいいのかというのを国会で
議論
して、それを
法律
として定めることによって、むしろ自衛隊をコントロールする、そういう法治
主義
の
考え方
が有事法制
論議
の
基本
だと私は思っているわけです。 したがって、有事の際の諸
規定
をつくるということ自体が
戦争
につながるという
議論
は、私は
理解
ができないわけで、むしろ自衛隊を法的にコントロールするという、極めて民主的な
手続
として有事法制というものが必要だろうと思っております。
金子哲夫
38
○
金子
(哲)小
委員
それから次にお伺いしたいことは、先生の資料の六ページから七ページにかけて、さきの大戦の
終戦
時における
天皇
の
役割
の問題について記載をされておりますけれども、もう
一つ
の
見解
として、ポツダム宣言が出されて以降、国体の護持というようなことが言われて、最初、無条件降伏には従えないということで、
戦争
が延びてきたのも一方の事実だと思うんですね。そして、ここにも書かれておりますように、原子爆弾投下まで触れられておりますけれども、広島、長崎も体験したわけです。そうしてまいりますと、必ずしもここに書かれているだけではないんじゃないかという
意味
を持つと思うんです。 私がちょっと御質問したいのは、国体の護持ということが強調されたように思うわけですけれども、無条件降伏ではだめなんだということが強調されたと思いますけれども、その守ろうとした国体の護持とは一体国民にとってどういうものであり、また、そもそもそれはどういうことを守ろうとしたのかという点についてお伺いしたいと思います。
八木秀次
39
○
八木参考人
これは大変難しい問題でありまして、国体の概念をどう定義するのかということであろうと思いますが、やはり、
天皇統治
ということを無視はできない話、これをおいて国体の護持を
議論
するわけにはいかないと思います。 名目的であれ、
天皇
を
中心
とする
政治体制
であるというこの点、さらに、
天皇統治
という概念の中に、先ほど申し上げましたけれども、
公議
衆論の尊重だとか人民の福祉の増進だとか、そういったものをも含むというふうに考えるべきだろうと私は思いますし、当時の国民
たち
も、そういうふうな
理解
のもとで、ただ
天皇個人
あるいは皇室だけが助かろうということで国体護持を言っているのではないという
理解
だっただろうと思うのです。そういうことです。 それと、
終戦
のときの話ですが、
開戦
のときの
昭和天皇
の説明を見ますと、これもまさに現行
憲法
下の
天皇
の
役割
に極めて近いものを感じますけれども、このときに
政治
家が決断をしなかった。だれも決断をしないという不幸が
終戦
時に訪れたわけですね。そこで、
天皇
が決断をせざるを得なくなった。そういう、
立憲君主制
としては極めて逸脱行為であるというふうに
昭和天皇
御自身も認めておられるような事態がここで発生したと
理解
をしております。
金子哲夫
40
○
金子
(哲)小
委員
最後
の質問です。 先ほど、
明治憲法
も、国民
主権
ということでは、今の
憲法
とそう
相違
はないのではないかと受け取れるような御発言もあったように思うんですけれども、しかし、全体の流れから見ますと、
天皇
を
輔弼
する
立場
にある
内閣
の方が、
議会
に対して、しかも、
議会
を選出される選挙権、被選挙権の問題もありますけれども、確かに
議会
も独立していたと思いますけれども、実質的には
天皇
を
中心
とした
内閣
の方がはるかに
権限
が強くて、形式的ではなかったかというふうに私は思うんですけれども、その点についてのお考えがあればお聞かせいただきたいと思います。
八木秀次
41
○
八木参考人
明治憲法
は国民
主権
だととれるという発言は私はしておりませんで、
明治憲法
も現行
憲法
も
立憲君主制
であるというふうなことを言っているわけです。
一つ
、国民
主権
の概念の内容でありますが、これも多義的な概念でありまして、国民
主権
の中に、国民
主権
のもとで
立憲君主制
が許容できるという説が、これはかなり支持を得られている説だろうと思いますけれども、いわゆるナシオン
主権
という
考え方
です。
立憲君主
と国民
主権
は両立するという
考え方
があります。 それともう
一つ
の御質問ですが、
議会
の
権限
が弱くて、
内閣
の
権限
がより強かったということでありますが、それは確かにそうは言えるわけですけれども、これも実際の
運用
上は、かなり
議会
が、
大臣
に対して国会で
政治
上の
責任
を問うという場面はあったわけで、実際そのようなことができるというのが当時の通説的な
憲法
解釈
だったわけです。 ですから、これも
条文
にあらわれている名目的なものと実際の
運用
とは、これは山口
委員
がおっしゃった御指摘のところでもありますけれども、
歴史
と
規定
の部分、これは一応区別しながらも、しかし全体として見るべきだろうというように私は思っているわけです。 与えられたテーマも、
明治憲法
体制下の
統治構造
ということですから、
解釈
、
運用
も含めたものをここで語っているわけです。
金子哲夫
42
○
金子
(哲)小
委員
ありがとうございました。
高市早苗
43
○高市小
委員長
次に、
井上喜一
君。
井上喜一
44
○
井上
(喜)小
委員
保守党の
井上喜一
でございます。 きょうは、
参考人
、御苦労さんでございます。
憲法
は国の
基本
法でありますから、普遍的な諸
規定
を含むことはもちろんでありますけれども、同時に、その国独自のもの、あるいはその民族独自のそういったものを含まないといけない。つまり、その国のにおいがするものじゃないといけないということ、それは当然のことだと思います。
天皇制
はまさにそういう
意味
で
日本
独自の制度だと私は思いますが、現行
憲法
は、
明治憲法
と違いまして象徴という
言葉
を使っている。これは非常に特徴があると思うんですね。これが国会で
議論
されますときに、やはりこの
言葉
遣いが問題になったようでありまして、当時の金森徳次郎
国務大臣
が、象徴というのは要するにあこがれなんだ、あこがれの的なんだ、こういうような答弁をしたというように記憶をいたしているわけでありますけれども、私は、こういう
理解
のもとにこの象徴という
言葉
が使われているというのは、
表現
としては非常にうまい、いい
表現
じゃないかと思うんですね。
天皇
に関する
規定
は、いろいろな問題があるかもわかりませんけれども、私は、割合とよく整備されている
規定
じゃないか、こんなふうに思っています。 公述人は、
立憲君主制
だから、それにもっとふさわしい
条文
の整理をしたらどうかというような御
趣旨
にもとれたのでありますが、そういうことなのかどうか。もしそうであれば、どういうような
規定
を新たに入れていくのか、あるいはどういう改正をしていくのか、お聞かせいただきたい。
八木秀次
45
○
八木参考人
私は、
意見
陳述の中でも述べましたように、現行
憲法
が想定している
立憲君主制
、しかも、バジョットの
立憲君主制
論というものは、これはよきものとして
評価
しているわけであります。 先ほどのお話の中に、金森徳次郎のあこがれの的ということがありましたけれども、これはまさに国民統合の象徴ということなんですね。国民を統合させるというものなんですね。期せずして、非常に適切な
表現
をなさったものだと思っております。 さて、私は、現行
憲法
の第一章は
基本
的に
立憲君主制
の
規定
と
理解
しておりますが、その際に、果たして、その国民統合の象徴という
言葉
は残してもよろしいかと思いますけれども、それだけで
立憲君主
を
表現
できるかというと、そうではないと思うんですね。 むしろ、
意見
陳述の中でも述べましたように、国民統合の象徴というのは、これは
立憲君主
の
一つ
の機能に焦点を当てて
表現
したものでありますから、その他、
我が国
の元首はだれに当たるのかという
議論
はかねてから行われておりますけれども、政府
解釈
といいますか、少なくとも外務省の
見解
ですと
天皇
ということになっておりますので、この辺、堂々と
憲法
に明記したらどうだというふうに私は思っております。 元首というものも、これは
権力
を持っている者というよりも、元首の概念がだんだんと変わっておりまして、今日では、対外的な代表者を元首とするというのが比較
憲法
学で言う一般的な
考え方
のようであります。したがって、元首という
言葉
を堂々と入れることをお勧めしたいと思います。
井上喜一
46
○
井上
(喜)小
委員
今日の
憲法
、教育
基本
法とこれは一体のものになっておりますね。教育
基本
法にもそのことがきちっと書いてあるのでありますが、ちょうど
明治憲法
、これは教育勅語と一体のものであった、同じだと思うのでありますけれども、現行の教育
基本
法につきましてちょっとお話が出ておりましたけれども、これについての所見をお伺いしたいと思います。
八木秀次
47
○
八木参考人
ちょっと手元に教育
基本
法がないので正確な発言ができませんが、私が気になっているところは、例えば宗教教育のところです。あれは宗教教育その他宗教的活動をしてはならないということが書いてありますが、原案は宗派教育だったわけですね。これは、
特定
の宗派に立った宗教教育はしてはならないという
趣旨
です。しかし、それが宗教教育というふうに
表現
が改められたことによって、宗教教育全般を否定したかのようにとられているわけです。 宗派教育を禁じ、宗教教育を是認したというふうに
理解
すれば、今日、心の教育ということが声高に叫ばれておりますので、例えば学校に宗教者を招いて話を子供
たち
に聞かせるということも可能なのですが、それが現行の教育
基本
法の
解釈
ではなかなか難しい。あるいは、給食の時間にいただきますと手を合わせる、つまり合掌することさえ教育
基本
法の
趣旨
に反しているという
理解
も現場にはあり、笛や太鼓の合図で給食を食べているという学校があると聞いております。 そういう極端な
理解
がなされている教育
基本
法は、ここらですっきりと常識に沿ったものにしていいのではないか、このように考えております。
井上喜一
48
○
井上
(喜)小
委員
憲法
九条の問題ですが、九条の
規定
ぶりというのは、
理念
として、あるいは向かうべき目標としては非常に立派な
中身
になっておりますが、なかなか現実的に機能しない、そういう側面があるわけですね。
参考人
は、九条の改正につきましてはどんな御
意見
をお持ちですか。
八木秀次
49
○
八木参考人
九条につきましては、これはまさに敗戦後の米ソのつかの間のみつ月時代にでき上がったものでして、その後、朝鮮
戦争
が始まり、つまり冷戦が始まり、国際情勢が変わって、
憲法
が本来は想定していない自衛組織がつくられるようになっていったわけです。したがって、侵略
戦争
をしないという
趣旨
のものはあってもよろしいかと思いますけれども、しかし陸海空軍を持たないという
規定
はいささか行き過ぎでありまして、もう一度今日の国際情勢の中に置いてみて、これまた常識的な
議論
をしていって、その上で
規定
し直せばいいのではないかと思っております。
井上喜一
50
○
井上
(喜)小
委員
終わります。
高市早苗
51
○高市小
委員長
次に、
中山
正暉君。
中山正暉
52
○
中山
(正)小
委員
きょうはまことにありがとうございます。 クリーム色のスーツがよく似合う若武者のような先生から、温故知新、まさに古きをたずね新しきを知るという感じです。 私は十三歳まで
明治憲法
のもとで成長してまいりました。いろいろな時代がありましたが、
グナイスト
に
伊藤博文
が指導を受けに行ったときに、維新後の
日本
はどうして運営していったらいいだろうかということを聞きましたら、あなた方の村々町々には氏神様があるじゃないか、その氏神様の先祖が
天皇
陛下だということにして、
天皇
親政をやれ、むしろ
天皇
で
日本
の
明治
維新以後の人心をまとめる
役割
をしてはどうかということをサジェスチョンをいただくといいますか、フランスは王様を殺してしまったからだめだ、英国がちょうどいいんじゃないか、
ドイツ
も王様が亡くなる、だから英国式がいいんじゃないかということを指示を受けて、その後、
明治憲法
第三条に「
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
」とやっております。これは
内閣制度
が発足する三年、四年前に
憲法
ができてしまったので、
総理大臣
、首相という
言葉
が
明治憲法
の中には
一言
もないんですね。 これが
統帥
権の干犯、ロンドンの軍縮条約、ここ、私の隣には、海軍で御活躍をなすっていた大勲位の中曽根元総理もおられますが。それで、軍人が大変興奮をして、戦前の
内閣
というのは、今は
大臣
の首は一人ずつすげかえられますが、昔は、一人がやめるということは総辞職するということでした。陸軍
大臣
を送らないとか海軍
大臣
を送り込まないとか、海軍と陸軍の対立があるとか、それが結局は
統帥
権の干犯ということになった。 今でも
大臣
と、
明治憲法
の何か
伝統
を踏襲しているみたいなところがありまして、
天皇
の臣ということになっています。 高橋是清のような、日露
戦争
のときには英国へ行って、クーン・ロエブとかシフというようなユダヤ財団から、日露
戦争
の戦費は十八億かかっておりますが、六億は外債を借りております。そういう、世界に顔のきいた英米派の人が二・二六事件でみんな一掃されてしまいました。
政治
家が軍人に物を言わなくなってしまいました悲劇の時代。
昭和
十四年には、陸軍
大臣
東条英機に対する反軍演説をした斎藤隆夫先生がこの国会の議場からすぐに除名をされてしまう。
憲法
の、先生がお話になっていらっしゃったような、いわゆるいい部分が生きずに、全部軍人等、北一輝のような
国家
社会
主義
を唱えた人
たち
に導かれて二・二六事件が起こりました。陸軍の真崎甚三郎、真三郎兄弟が
日本
に
国家
社会
主義
の政権をつくろうとしてクーデターを起こしました。五・一五もそうでございます。そんな中での悲劇が、結局は、かつてない、
日本
に困窮の社会を呼んでしまったと私は思っております。 先生が、
日本
のにおいのする
憲法
ということをおっしゃいました。私は、はるか聖徳太子様の十七条の
憲法
には大変すばらしいことが書いてあると思うんです。和をもってとうとしとなせ、逆らうことなきを旨とせよ、人には皆たむろあり。たむろという字は、民主党とか自民党とか共産党とかの党という字が書いてあります。 だから、聖徳太子様という方は、蘇我と物部、どっちかと言えば物部の方の系統に属しておられましたが、中国の大混乱、隋とか周とか唐とか明とかは必ず大混乱が起こって、民衆が逃げ惑う、そんな悲劇を
日本
には起こさないようにというので、いわゆる易姓革命それから天命思想という、英雄豪傑が出てきて国をひっくり返すというのはいかぬ。そこで
天皇制
という知恵が出てきたと私は思うんですね。
権力
と権威を全く分離した、この
考え方
は、やはりこれからも
伝統
を守っていく上で、大変必要なことではないか。百二十五代という
天皇
が続かれた、この知恵というのは私は大変な知恵があると思うのです。 英国は、元首といい、王様といってもまだ二百年しか実績はありません。
日本
は皇紀でいえば二千六百六十一年になるんでしょうけれども、現実は千五百年ぐらい前のときからはっきりしたぐらいのところでしょう。その中でのこれからの世界というのは、私は、キリスト教の社会、ロシアとかアメリカが、無宗教の中国がイスラムの世界を背後にして、悪いシナリオを考えると、それが世界を舞台にして一神教の世界が激突する時代が来るんじゃないかと思うんです。そのときに私は、
日本
のにおいがして、世界の平和のために大変に貴重な思想が備わっているのは聖徳太子様の十七条
憲法
の心。 いきなり大昔にさかのぼりまして恐縮でございますが、私はこの間、自民党の役員会でも十七条
憲法
の六条を読んだんです。なかなか疑惑のある人を始末できないものですから、ここには、悪い人には悪いと言わないと国を滅ぼす剣になるぞと書いてあります。大変立派なことが書いてある。これこそ私は倫理の
基本
だと思っているんですが。 その
意味
で、先生、今度は中国の空軍大佐ですが、喬良と王湘穂という「超限戦」の著者ですが、新しい
戦争
というのを言っておりまして、軍人にとって、ますます戦場以外の天地が戦場となる、それから、非軍事の
戦争
行動、
戦争
状態に対する
理解
は軍事行動の包容能力をはるかに上回る人類すべての活動領域に拡大するだろうと。それから、非
戦争
の軍事行動というところでは、平和維持活動、麻薬取り締まり、暴動の鎮圧、軍事援助、軍備管理、災害救助活動、海外在住の自国民の退去、テロ活動への打撃なんという、戦場は世界全体になるというような恐ろしい予測をしているときに、
日本
は核を持たないという宣言をして、世界に平和を私どもは徹底させようとしている中に、今度は専守防衛ですから、
日本
国土が戦場になるということを前提にしないといけないと思うんです。 私なんかはもう死んでしまうからいいんですが、先生が生きていらっしゃる間にはいろいろなことが起こってくるんじゃないかと思います。新しい
憲法
を
論議
する、論憲といいまして、改正までいかないということが悲しいこの
委員
会の宿命のような気がして残念でなりませんが、その
意味
での、先生が理想的とする、そういう世界の悲劇を救うための
日本
のにおいのする
憲法
というのはどんなふうに考えたらいいか。質問の方が長くなってしまいましたので、先生のお考えの凝縮した部分を拝聴できればありがたいと思います。
八木秀次
53
○
八木参考人
御質問にお答えする前に若干訂正をさせていただきたいと思うんですけれども、先ほどの御発言の中に、
内閣制度
発足前に
明治憲法
ができたというお話ですが、これは逆なんですね。先に
内閣制度
ができて、それでその後
明治憲法
ができましたけれども、
内閣制度
ができたときの
内閣職権
というところには
内閣総理大臣
という
規定
は当然あるわけです。ただ
憲法
にはないということですね。この辺、
井上毅
の
構想
が
影響
を与えていると考えられております。 私は、これは後知恵ですけれども、
伊藤博文
の
構想
は首相の強い
権限
というものを想定しておりますから、これならよかったんじゃないのかなという気がしております。大正の終わりから
昭和
の初めにかけて、いわば
統帥
権の独走によって
明治憲法
の
統治構造
全体が否定されてきたというのが
昭和
の悲劇だと思うんですね。こういうことを起こさないために、むしろ首相の強い
権限
があった方がよかったのではないかと考えております。 その十七条
憲法
についてですが、これはもちろん
井上毅
も参照したんですね。十七条
憲法
も含めてありとあらゆる
日本
の古いものを読んでみて、それで
憲法
はどんなものなのかということを
構想
しようとしたんです。私は、
構想
しようとしたというその
姿勢
、
心構え
というものに着目をしているわけで、具体的にどういうものがいいのかという点については、これはもはや私の任ではないと思いますので、ここでは答えは差し控えさせていただきます。
中山正暉
54
○
中山
(正)小
委員
どうもありがとうございました。
高市早苗
55
○高市小
委員長
次に、島聡君。
島聡
56
○島小
委員
きょうはありがとうございました。
最後
でございます。 今十七条の
憲法
が出ましたので言いやすくなったんですが、私が、ある総合雑誌で
憲法
前文をつくろうという企画がありまして、そこに書かせていただきました。そこには、やはりきょう先生がおっしゃったように
国柄
が大事でございますので、前文には、この
憲法
は、十七条の
憲法
、
大日本帝国憲法
、
日本国憲法
を基盤にしながら新しくつくるという
趣旨
のことを書いたことがございます。 質問でございますが、今、先生が元首というのを明記すべきだという話をされました。
大日本帝国憲法
四条には、「
天皇
ハ国ノ元首ニシテ」とあります。
日本国憲法
にはありません。元首という
言葉
が明記されていません。したがって、わかりにくくなって、元首はだれなんだという
議論
になってきています。 ただ、私も、そういう
意味
で明記するのもいいのかなと思う反面、例えば、それをイメージすると、ひょっとしたら昔の元首——恐らく元首というのもだんだん質が違ってきていると思うんです。例えば、
君主
というのは、独任
機関
であること、それから
行政権
を有すること、対外的に
国家
を代表すること、国の象徴であることというような形が
君主
の要件だと言われていますけれども、
天皇
は、
日本国憲法
でも、例えば大使、公使の接受権というのがあるわけですので、そういう
意味
では元首の機能は持っているといえば持っている。 だから、今新たに元首という
言葉
を使うにも、いろいろな
意味
で新しい概念なんだというふうに整理して
言葉
も使うべきだと思うんですが、いかがでしょうか。
八木秀次
57
○
八木参考人
その点については、私、先ほどどなたかの御質問のときに申し上げた点でありますけれども、元首という概念は、近年では、対外的な代表性というこの一点で使っていいというのが多くの人
たち
の
見解
になりつつありますけれども、その
意味
で、まさしく現行
憲法
下において、
天皇
は
我が国
の元首であるわけです。ただ、元首という
言葉
が文言上ない。したがって、象徴という名の元首、そのような
理解
をする人もいるわけです。 しかし、元首というその
言葉
にそれほどいかめしいイメージを持つ必要はないわけで、こういう
意味
で使っているんだということを国民に認知させた上で、あえて明記してもいいのではないかと思うんです。 といいますのは、
憲法
というのは、
国家
とその国民との約束事でありながら、かつ、国の
統治構造
や国の
姿勢
というものを諸外国に指し示すものでもあるわけですね。その際に、おたくの国の元首はだれなのかという話が常に出てくるわけです。今回のワールドカップにおいても、高円宮様と小泉首相のどちらの席次が上なのかという愚にもつかない
議論
が行われているわけです。これは、元首の
規定
がはっきりしていればああいう
議論
さえ起きないわけですね。この際、はっきりさせた方がいいというのが私の
意見
であります。
島聡
58
○島小
委員
今お話しの中で、いわゆる
明治憲法
、
大日本帝国憲法
には
権力
の
割拠性
があったという話がありました。それで、
伊藤博文
の
意見
としては、
ドイツ
を
参考
にしましたから、多分大宰相
主義
をとるべきだと思ったんだと思うんです。私もそれは賛成であります。
権力
の
割拠性
というのは今の
日本国憲法
でも同じ状況が生まれていまして、
憲法
六十六条には
内閣
の首長たる
総理大臣
とありますけれども、御存じのように、
内閣
法では議長になっていますし、
国家
行政組織法ではほとんど一般の
大臣
と同じとなっております。 したがって、先ほどさらっと先生が言われましたけれども、
元老
が消滅した、つまり
統治
の中枢
機構
が消滅したと。
日本国憲法
も同じような状況だと思うんです。 二点質問なんですが、一点は、こういうように
統治
の
中心
を持たないというのは
国柄
なんでしょうかというのが
一つ
です。私としては、例えば
憲法
六十六条のところに、首長たる
内閣総理大臣
というふうに直すべきだと思っているんですが、それについてどういうふうにお考えでしょうか。その二点をお願いしたいと思います。
八木秀次
59
○
八木参考人
一番目の御質問で、
統治
の中枢を持たないのは
国柄
なのかということでありますが、これは
国柄
ではないと思うんですね。
統治
の中枢を持たないということにおいて、だれも決断しない、
責任
の所在がはっきりしないということがかつてあり、いろいろな悲劇を招いたと思うんです。その辺の
歴史
的な事象に学べば、
権力
の
割拠性
というものは、これは一見民主的なんですけれども、
権力
を分散せさつつ、しかし、あるときには握る、これが必要だと思うんですけれども、そのバランスを欠いているというのが今日の状況かと思うんです。 首相は、
憲法
上はアメリカ大統領にもまさる極めて強い
権限
を与えられておりますが、しかし、それがさまざまな諸法規で手足を縛られているのが現状であります。したがって、首相の強い
権限
というものは、私は確保すべきだろうと思います。 二番目の御質問は、ちょっと
最後
聞き取れなかったんですけれども、御
意見
としては賛成をいたします、大体
趣旨
はわかりましたので。
島聡
60
○島小
委員
ちょっと質問の流れが変わって恐縮なんですが、
大日本帝国憲法
は、「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」というふうにあります。
日本国憲法
にかわるときには、皇室典範というのは普通の
法律
になってきました。今、私などは、御存じのようにかつては女帝もおられたわけですから、そういうのも可能なのではないかというような思いをしております。これは官房長官にも聞いたことがあるんですが、そういう形になっても、別に
憲法
違反ではないという話は聞いております。 この「皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」という、
大日本帝国憲法
には書いてあるんだけれども、
日本国憲法
にかわるときにこういうのが消えたというのは、何か事情を御存じでしょうか。
八木秀次
61
○
八木参考人
皇位は世襲のものとするというところで、その後、皇室典範を受ける、そういう御
趣旨
であろうと思います。 女性
天皇
の問題ですが、
一言
申し添えますと、女性
天皇
の出現はよしとしますが、その女性
天皇
のお子さんが皇位についたことは一度もないわけです。過去百二十五代、
明治憲法
が言う万世一系というのは、これは男系継承なんですね。一度も女系がないということ、この百二十五代の重みということを考えた上で皇室典範
論議
をすべきではないかというのが私の
意見
であります。
島聡
62
○島小
委員
終わります。ありがとうございました。
高市早苗
63
○高市小
委員長
これにて
参考人
に対する質疑は終了いたしました。 この際、
一言
ごあいさつを申し上げます。
八木
先生におかれましては、大変長時間にわたりまして御一緒いただき、貴重な御
意見
をお述べいただきました。小
委員
会を代表して、御礼を申し上げます。ありがとうございました。(拍手)
—————————————
高市早苗
64
○高市小
委員長
これより、本日の
参考人
質疑を踏まえ、
政治
の
基本機構
の
あり方
について、小
委員
間の自由討議を行いたいと存じます。 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、小
委員長
の
指名
に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いをいたしたいと存じます。 小
委員
の発言時間の経過につきましてのお知らせでございますが、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせしたいと思います。 御発言を希望される方は、お手元にあるネームプレートをこのようにお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。 それでは、ただいまから御発言を願いたいと存じます。
中山正暉
65
○
中山
(正)小
委員
十分のうちの八分ぐらいではなかなか
憲法論議
は難しいわけですが、私が言おうと思ったことは、
二つ
の思想をあがめるという、神様と仏様を一緒にお祭りした、東大寺を守る春日大社、それから京都の東寺を守る石清水八幡宮、神護寺、神を守る寺なんというのがありますが、私はこの思想、やおよろずの神の思想というのは大事にしなきゃいかぬし、そうではないかなという気がするんです。家の中にも、どなたも一番恐れをなす神様というのはおかみさん、各御家庭にはおかみさんがいらっしゃるわけでございまして、そのすべてが神だ。水の神、火の神、そういうものを私はこれからの世界にちゃんと示すような
日本国憲法
の、きょうの、におい、
日本
の体臭がする
憲法
というものを考えるときには、そんなものを考えなきゃいけないのじゃないかなという思いでお話を申し上げたいと思って、きょうは
八木
先生に申し上げたわけでございます。
日本
の
天皇
様の過去の御実績というのは、
一言
で
戦争
が始まったということになっておりますが、私は一番重視すべきは、
天皇
の
一言
で
戦争
が終わったと。阿南という陸軍
大臣
は、御前
会議
では
最後
まで徹底抗戦ということを言いました。中には、満州に
天皇
をお移しして、長野にお移しするという話は有名でございますが、満州に
天皇
をお移しして徹底抗戦をやろうとした軍人さんがいたわけでございます。それを阿南さんは、御前
会議
で主張したことを、今度は、
自分
の官邸に帰って腹を切って、むしろ陸軍が蜂起することを御
自分
の腹を切っておとめになった。全陸軍を抑えて、まあ近衛師団だけがちょっと
最後
に反乱を起こしましたが、私は、
一言
で
戦争
を終わらせられた
天皇
様のお
立場
というのが、本土決戦にならずに済んだ大変な御業績であったと思うわけでございます。 初代の神武
天皇
様の橿原宮での勅諭の中には、正しきを養い、暉きを重ね、慶びを積み、もって矛に血塗らずして天の下を覆いて家となさんと書いてあります。刀に血を塗らないようにして世界を
一つ
の家にしよう、八紘一宇ということをおっしゃったのが、いつの間にか、矛に血塗らずしてという
言葉
が
戦争
中に消えてしまいまして、結局は、神武
天皇
の勅諭と言われている、まあ後の方が書かれたのかもわかりませんが、それは思想として私は大切な思想だと思いますので、それが変えられてしまった。 だれかが変えようとしても変えられないような思想を盛り込む、私は、理想の
憲法
を、二十一世紀、世界が悲劇にならないために、
日本
がそういうことに、原爆を浴びた
国家
としてなすべきではないかな。そんなことが申し上げたかったというのが、
言葉
足らずでございましたので、この時間をちょうだいして言わせていただきましたことを
委員長
に感謝を申し上げます。
高市早苗
66
○高市小
委員長
他に御発言ございませんか。 それでは、これにて自由討議を終了いたします。 本日は、これにて散会いたします。 午後四時四十九分散会