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2002-05-23 第154回国会 衆議院 憲法調査会政治の基本機構のあり方に関する調査小委員会 第4号
公式Web版
会議録情報
0
平成十四年五月二十三日(木曜日) 午前九時
開議
出席小委員
小
委員長
高市 早苗君 伊藤 達也君 奥野
誠亮
君 谷垣 禎一君
中曽根康弘
君 中山 正暉君
額賀福志郎
君 島 聡君
仙谷
由人君 伴野 豊君 松沢 成文君
斉藤
鉄夫
君 藤島 正之君
山口
富男
君
金子
哲夫
君 井上 喜一君 …………………………………
憲法調査会会長代理
中野 寛成君
参考人
(
大阪大学大学院法学研究
科教授
)
松井
茂記
君
衆議院憲法調査会事務局長
坂本 一洋君
—————————————
五月二十三日 小
委員土井たか子
君四月二十五日
委員辞任
につき、その
補欠
として
金子哲夫
君が
会長
の
指名
で小
委員
に選任された。 同日 小
委員斉藤鉄夫
君及び
山口富男
君同月十六日
委員辞任
につき、その
補欠
として
斉藤鉄夫
君及び
山口富男
君が
会長
の
指名
で小
委員
に選任された。 同日 小
委員金子哲夫
君同日小
委員辞任
につき、その
補欠
として
土井たか子
君が
会長
の
指名
で小
委員
に選任された。
—————————————
本日の
会議
に付した案件
政治
の
基本機構
の
あり方
に関する件 ————◇—————
高市早苗
1
○高市小
委員長
これより
会議
を開きます。
政治
の
基本機構
の
あり方
に関する件について
調査
を進めます。 本日、
参考人
として
大阪大学大学院法学研究科教授松井茂記先生
に御
出席
をいただいております。 この際、
参考人
の方に一言ごあいさつを申し上げます。 本日は、
大変お忙しい
中、遠路お出ましいただきまして、まことにありがとうございます。
参考人
のお
立場
から忌憚のない御
意見
をお述べいただきまして、私
たち調査
の
参考
にいたしたいと存じますので、よろしくお願いいたします。 次に、議事の順序について申し上げます。 最初に
参考人
の方から御
意見
を四十分以内でお述べいただき、その後、小
委員
からの質疑にお答え願いたいと存じます。 なお、
発言
する際はその都度小
委員長
の許可を得ることとなっております。また、
参考人
は小
委員
に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。 御
発言
は着席のままでお願いいたします。 それでは、
松井参考人
、お願いいたします。
松井茂記
2
○
松井参考人
大阪大学
の
松井
と申します。お呼びいただきまして、どうもありがとうございます。 私は、大学で
日本国憲法
を教えておりますが、
比較
の
対象
といたしまして
アメリカ
の
憲法
を勉強してまいりまして、特に、
アメリカ
の
最高裁判所
が
法律
の
合憲性等
を
審査
する
権限
を有しておりますが、この
権限
について
アメリカ
の建国以来闘わされてきました
議論
をずっと研究してまいりまして、それとの
比較
におきまして、
日本
の
最高裁判所
の同様の
権限
についていろいろと
発言
をさせていただいてまいりました。きょうは、そのような
立場
に基づきまして、少し
意見
を述べさせていただきたいと思います。
日本国憲法
の第八十一条は、「
最高裁判所
は、一切の
法律
、
命令
、規則又は
処分
が
憲法
に適合するかしないかを決定する
権限
を有する
終審裁判所
である。」と定めております。この
規定
は、
裁判所
に
司法審査
の
権限
を付与したものと
理解
をされております。 この
司法審査
という
言葉
ではなく、
法令審査権
とか
憲法裁判権
とか、いろいろな
言葉
が用いられますが、実は、この第八十一条の
権限
をどのように
理解
するのかによって、若干、この
権限
をどう呼ぶのか異なってまいります。後でお話しさせていただきますように、私は、この第八十一条の
権限
は、
アメリカ
の
最高裁判所
が行使してきた
権限
、つまり
司法審査
の
権限
と同じものだと
理解
しておりますので、八十一条は
司法審査
の
権限
を
最高裁判所
に付与したものだと
理解
しております。 これに関連いたしまして、きょうお話しさせていただきたいのは、この
権限
はどのような
性質
の
権限
なのかという点と、
最高裁判所
はこの
権限
を適切に行使してきたかという点と、この
権限
を行使するに当たって
最高裁判所
にふさわしい
役割
は何なのかという点と、そして最後に、
憲法改正
の
必要性
はあるのか、もしあるとすればどう改正すべきなのかという点の四点でございます。 まず第一点でございますが、この
権限
は果たしてどのような
性質
の
権限
かという点に関しまして、
日本
の
最高裁判所
は非常に早くから、この
規定
は
合衆国最高裁判所
が
マーベリー
対
マディソン事件判決
で認めた
司法審査
の
権限
を
明文
の
規定
で確認したものだと
理解
してまいりました。 レジュメに
最高裁判所
の
判決
を引いておきましたが、
現今通常一般
には、
最高裁判所
の
違憲審査権
は、
憲法
第八十一条によって定められていると説かれるが、一層根本的な
考方
からすれば、よしやかかる
規定
がなくとも、第九十八条の
最高法規
の
規定
又は第七十六条若しくは第九十九条の
裁判官
の
憲法遵守義務
の
規定
から、
違憲審査権
は十分に抽出され得るのである。
米国憲法
においては、前記第八十一条に該当すべき
規定
は全然存在しないのであるが、
最高法規
の
規定
と
裁判官
の
憲法遵守義務
から、一八〇三年の
マーベリー
対
マディソン事件
の
判決
以来幾多の判例をもって
違憲審査権
は
解釈
上確立された。
日本国憲法
第八十一条は、
米国憲法
の
解釈
として樹立せられた
違憲審査権
を、
明文
をもって
規定
したという点において特徴を有するのである。 と述べております。 そして、
一般
にこの
趣旨
は、いわゆる
警察予備隊違憲訴訟
の
判決
で確立されたと
理解
をされております。ここで
最高裁判所
は、 わが
裁判所
が
現行
の
制度
上与えられているのは
司法権
を行う
権限
であり、そして
司法権
が発動するためには具体的な
争訟事件
が提起されることを必要とする。我が
裁判所
は具体的な
争訟事件
が提起されないのに将来を予想して
憲法
及びその他の
法律命令等
の
解釈
に対し存在する
疑義論争
に関し抽象的な
判断
を下すごとき
権限
を行い得るものではない。けだし
最高裁判所
は
法律命令等
に関し
違憲審査権
を有するが、この
権限
は
司法権
の範囲内において行使されるものであり、この点においては
最高裁判所
と
下級裁判所
との間に異るところはないのである。 このように述べております。 この
解釈
に従いますと、
憲法
第八十一条の
権限
は
司法権
に内在する
権限
であって、
裁判所
は、
最高裁判所
と
下級裁判所
とを問わず、
司法権行使
に付随して当然この
権限
を行使することができる。しかし、逆に、
司法権行使
の
要件
を満たすような
事件
ないし
争訟
がなければ
裁判所
はこの
司法審査権
を行使することはできない、こういう
結論
になるはずでございます。それ
ゆえ
、この
権限
はしばしば
付随的違憲審査権
であるとも述べられているとおりでございます。 ただ、この点につきまして、
警察予備隊違憲訴訟判決
が、「わが
裁判所
が
現行
の
制度
上与えられているのは」というふうに述べておりますため、この「
現行
の
制度
上」というのが、
法律
がないということを指すと
解釈
する
学説
も一部にございまして、この
学説
によりますと、
警察予備隊違憲訴訟判決
は、必ずしも
先ほど
述べたような
趣旨
を明確にとったものとは言いがたいと
解釈
されておられます。 ただし、この
警察予備隊違憲訴訟
の
判決
だけを見ると確かにそのような若干不明確な点がございますが、さきの
判決
と照らし合わせて
解釈
いたしますと、
最高裁判所
としましては、
先ほど
も述べましたように、
憲法
上、
司法権
に付随して
司法審査権
を行使することができるという
考え方
を早くからとっていたと考えることができるのではないかと思います。
学説
の多くは、この
最高裁判所
の
解釈
を支持してまいりました。 これに対しまして、
学説
の中には有力な
反対説
もございます。それによりますと、
憲法
第八十一条は、
通常
の
司法権
に内在する
司法審査権
を超えて、特別な
憲法裁判権
を
最高裁判所
に付与しているとされます。
反対説
のAというふうに呼んでおきたいと思いますが、この
立場
は、
ドイツ
におきまして
連邦憲法裁判所
がございますが、その
連邦憲法裁判所
の
権限
を念頭に置きまして、
事件
や
争訟
が存在しなくても、
最高裁判所
は
法律
、
命令等
の
憲法適合性
を
審査
、決定できるというふうに主張されるわけです。 ただし、同じように、
憲法
第八十一条は、
通常
の
司法権
に内在する
司法審査権
を超えて、特別な
憲法裁判権
を
最高裁判所
に付与しているとしながらも、
現状
ではこのような
憲法裁判権
を行使する
手続
を定める
法律
が制定されていないため、
最高裁判所
が実際にこの
権限
を行使することはできないという
立場
もございます。
反対説B
と私は呼んでおきたいと思います。 この
立場
は、結果的に言いますと、
憲法
第八十一条は、その
権限
の
性質
について特定の
立場
をとっておらず、
国会
が裁量によって
最高裁判所
に
憲法裁判権
を付与することは妨げられないという
立場
、
反対説
のCと呼んでおきたいと思いますが、これと変わらないのではないかと思います。 この
後者二つ
の
立場
によりますと、
国会
が例えば
憲法裁判権
を行使する
手続
を定める
憲法訴訟法
というような
法律
を制定すれば、
現行
の
日本国憲法
のもとでも、
最高裁判所
はそのような
憲法裁判権
を行使することができるということになります。 私はどのように考えるのかという点でございますが、やはり
憲法
第七十六条は、
最高裁判所
を含む
裁判所
に
司法権
しか付与しておりません。そして、言われるような
司法権行使
の枠を超える
憲法裁判
というものについて、
憲法
上、
手続等
何ら
規定
は置かれておりません。したがいまして、私は、
最高裁判所
の
立場
と同様、
憲法
第八十一条は、
合衆国最高裁判所
が行使してまいりました
司法審査
の
権限
を
明文
の
規定
で確認したものだと
解釈
すべきではないかというふうに考えております。 この
解釈
によりますと、
最高裁判所
を含めすべての
裁判所
は
司法権行使
に付随して
司法審査権
を行使できますが、逆に、
司法権行使
の
要件
を満たすような
事件
や
争訟
がなければ
司法審査権
を行使することはできないということになります。そして、
裁判所
は、
司法権
を行使する際に付随して、つまり
具体的事件
の解決に付随いたしまして、その
具体的事件
に適用された限りで
法律
の
憲法適合性
を
審査
、
判断
することになります。それ
ゆえ
、
ドイツ
の
連邦憲法裁判所
のように、提訴に基づき、
事件
、
争訟
がなくても
法律
の
憲法適合性
を
審査
し、しかも
具体的事件
を離れておよそ
法律
の
憲法適合性
を
審査
、
判断
するということはできないと考えております。 ただし、
一般
には
アメリカ
の
司法審査制度
と
ドイツ
の
憲法裁判制度
というものが対比されるわけでございますが、実際には
両者
の間の違いはそれほど大きくはございません。しばしば
憲法学者
が、
合一化
の傾向があるというふうに指摘しておりますように、
両者
の間は極めて接近しております。 それはどうしてかと申しますと、
アメリカ
におきましても、
裁判所
は
司法権行使
に付随してしか
司法審査権
を行使することができないと考えられておりますが、
連邦議会
や州の
議会
が
法律
を制定したときには、
国民
がその
憲法適合性
を争う道がかなり広く認められております。そのため、
アメリカ
におきましては、
法律
ができますとほとんど常に
裁判所
がその
法律
の
憲法適合性
を
審査
することが可能になっております。 また、
アメリカ
におきましても、
裁判所
は、
当該具体的事件
に適用された限りで
法律
の
憲法適合性
について
審査
、
判断
するんだと言われておりますが、実際には、場合によっては、
法律そのもの
の
憲法適合性
を
審査
し、そして
法律そのもの
が
憲法違反
だと
判断
することもしばしばございます。 したがいまして、
アメリカ
はかなり
ドイツ
に近いというふうに言うこともできます。 さて、二番目の点でございますが、
最高裁判所
は、果たしてこの
権限
を適切に行使してきたのかという点です。 この点、
日本国憲法制定
後、この半
世紀
ぐらいの間に、
最高裁判所
はこの
司法審査権
を極めて消極的に行使してきたと言うことができるのではないかと思います。
最高裁判所
が
法律
、
命令等
を
違憲
と
判断
した
事例
は極めて少のうございます。 この点につきましては、既に
衆議院
のこの会合におきましても
最高裁判所
の方から御説明があったというふうに承知しておりますので、それぞれの
事件
について詳しくお話をするのは避けさせていただきたいと思いますが、大まかに申しますと、
平等権
に関して言いますと、刑法の尊属殺の
規定
を
違憲
だと
判断
いたしました尊属殺
事件判決
と、それから、
公職選挙法
の
議員定数
の不
均衡
が著しく
平等権
に
違反
していると
判断
いたしました二件の
議員定数
不
均衡訴訟判決
。 それから、
政教分離原則
について申しますと、
愛媛県知事
が靖国神社に参拝して
玉ぐし料等
を
公金
で支出したことが
政教分離原則違反
だと
判断
いたしました
愛媛玉ぐし料訴訟判決
。 それから、経済的自由に関して言いますと、
薬事法
の定めておりました
薬局開設
の
距離制限規定
を
違憲
だと
判断
いたしました
薬事法訴訟判決
と、
森林法
にありました
共有林
の
分割制限規定
を
憲法違反
だと
判断
いたしました
森林法訴訟判決
。 それから、
裁判
を受ける
権利
に関して言いますと、
金銭債務臨時調停法
に基づく
強制調停
の
制度
を
違憲
だと
判決
をしたもの。 それから、
適正手続
の
権利
に関して言いますと、
第三者所有物
の
没収
を、告知、弁解の機会を与えることなく
没収
を命じている点で
違憲
だとした
判決等
、こういったものが重立ったものでございます。 これ以外にも、
訴訟手続
上の
権利
につきまして
憲法違反
の
判決
が幾つかございますが、実際に
法律
が
違憲
だと
判決
をされた
事例
は、尊属殺の
事件
、二件の
議員定数
不
均衡訴訟判決
、
薬事法判決
、
森林法判決
の五件でございまして、それ以外は、
法律
に基づく具体的な
行為
、あるいは
公金
の
支出等
の具体的な
行為
を
違憲
だと
判断
したにとどまります。したがいまして、この半
世紀
の間に、
法律
を
違憲
だと
判決
をした例は、恐らく五件だというふうに言ってもいいのではないかと思います。 果たして
最高裁判所
は、
法律
、
命令等
の
憲法適合性
をきちんと
審査
し、
司法審査権
を適切に行使してきたのかと問われますと、
最高裁判所
は、当然その
権限
を適切に行使してきたと答えております。したがいまして、
最高裁判所
の
立場
では、きちんとその
権限
を行使してきたということになります。しかし、
憲法
の
学説
の多くは、
最高裁判所
は余りにも消極的ではないかと
批判
的でありまして、同じように
批判
的な
考え方
を持つ市民の数は少なくないと考えております。 では、どこに問題があったのかという点なんですが、第一点はやはり、
先ほど
触れましたように、
違憲判決
が非常に少ない。どうも
最高裁判所
は、
法律
、
命令等
の
合憲性
が問題となったときに、しっかりと
審査
をしていないのではないかという点が
批判
の
対象
になっているわけです。 それからもう一点、この点も重要な点であると思いますが、そもそも
最高裁判所
が
憲法事件
を
審査
することが極めてまれでございまして、逆に言えば、
国民
の側が
法律
、
命令等
の
憲法適合性
を争うことが著しく困難だと言うことができます。 つまり、
日本
では、
国会
が
法律
を制定しても、
国民
はその
憲法適合性
を争う道がございません。
国民
がその
法律
に
違反
をして逮捕、起訴され、
刑事事件
になり、
法律
の
違憲性
を主張するか、あるいは、その
法律
が具体的に
行政機関
によって適用され、その
処分
の
適法性
を争う
行政訴訟
を提起するか、あるいは、
法律等
によりまして
権利
を侵害されて、
国民
が
国家賠償
を求める
国家賠償訴訟
を提起するか、こういった形でないと
法律
の
合憲性等
を争うことができないわけです。 しかし、現実には、
刑事事件
におきまして
被告人
が
法律
の
違憲性
を主張しましても、
裁判所
は極めて冷たく、また
行政訴訟
の提起は極めて困難であります。しかも、実際にはその数は極めて少ないわけです。また、
国家賠償
を得るためには、
国家賠償法
上違法な
行為
であったと認められないと
賠償
は認められませんし、公務員に故意、過失がないと
賠償
は認められません。しかも、たとえ
賠償
が認められたといたしましても、
賠償
というのは金銭的な償いですので、実効的な救済とは言えないわけでございます。 この点、
日本
と同じく
付随的違憲審査制
をとっております
アメリカ
では、
先ほど
も触れましたように、
議会
が
法律
を制定したとき、その
法律
が適用されて不利益を受けるおそれのある人は、その
法律
の
違憲性
の確認と執行の差しとめを求めて当然
訴訟
を提起することができると考えられておりまして、
裁判所
はそのような
訴訟
で
法律
の
憲法適合性
について
司法審査権
を行使しております。 したがいまして、
日本
の
司法審査制度
は、
アメリカ
型と言われながら、実はその
アメリカ
から大きく隔たっているのが
現状
でございます。
最高裁判所
がその
権限
を適切に行使してきたのかどうか、その評価は、
最高裁判所
が
日本国憲法
のもとでどのような
役割
を果たすことが期待されているのかについての
考え方
によって異なり得ます。したがいまして、
先ほど
の問いに答えるためには、その
前提
といたしまして、
最高裁判所
にふさわしい
役割
は何かということを考える必要がございます。この点が三番目の点でございますが、
最高裁判所
はどのような
役割
を果たすべきか、みずからの哲学と申しますか、
立場
を明確にはしておりません。 これに対しまして、
先ほど
触れましたように、
学説
の多くは、
最高裁判所
の
立場
を
批判
してまいりましたが、従来は、必ずしも
最高裁判所
にふさわしい
役割
が何であるのかということを明確にすることなく
議論
してきたように思います。
基本的人権
は、
憲法
に先立って存在する
自然権
でありまして、この
人権
を守るということが
最高裁判所
の
役割
だととらえられてまいりました。
最高裁判所
は、しばしば
憲法
の番人だとも呼ばれております。そして、多数者あるいは多数決の
手続
によりますと
少数者
の
権利
が侵害されるおそれがあるので、多数者の決定を常に監視する
必要性
があるというふうに言われ、いわば
人権
は多ければ多いほどよく、
裁判所
の
役割
は広ければ広いほどいいというような
発想方法
が暗黙のうちにとられていたのではないかと思います。 その根底には、
民主主義
よりも自由というものを非常に重視する
考え方
があったのではないかと思います。もちろん、後でも触れさせていただきますように、自由が保護されることが
民主主義
だという
考え方
に立てば、
両者
の間に矛盾はないということになりますが、従来の
憲法学
の支配的な
考え方
はやはり
自由中心
の
考え方
であったというふうに言うことができると思います。この
考え方
によりますと、
最高裁判所
の
違憲判決
が非常に少ないということは、
人権保障
の
役割
を怠ってきたことだとされまして、
最高裁判所
は
司法審査権
を
十分適切
には行使してこなかったという
批判
が出てくるわけでございます。 しかし、その後、このような漠然とした
批判
にかわりまして、
アメリカ
におきます
司法審査
をめぐるさまざまな
議論
を契機にいたしまして、より緻密な
憲法理論
を展開する動きが見られるようになってまいりました。 これがいわゆる二重の
基準論
と呼ばれる
考え方
でございまして、それによりますと、
民主主義原理
のもとで、
国会
は
国民
の
選挙
によって選出された全
国民
の
代表
によって構成されておりますので、
裁判所
は、
原則
としてその
判断
を尊重し、
国会
の制定した
法律
は
憲法
に適合すると
推定
をいたしまして、それが合理的かどうかを
審査
すべきであると考えます。いわゆる
合憲性
の
推定
と言われるものでございます。 ただ、一定の
権利
につきましては、それは
民主政過程
に不可欠な
権利
であるため、その
権利
を
国会
にゆだねておくことができない、それ
ゆえ
、
裁判所
がそれを擁護する最終的な
責任
を持っているはずだと考えられます。そこで、このような
権利
については
裁判所
の厳格な
審査
が正当化されると考えられました。 この
立場
におきましては、
裁判所
が積極的に
司法審査権
を行使できるのは、
基本的人権
すべてではなく、そのうちの一部に限られるということになります。特に、表現の
自由等
の
民主政過程
に不可欠な
権利
については、
裁判所
は積極的に
司法審査権
を行使すべきであるが、それ以外については
国会
の
判断
を尊重すべきだ、こういう
考え方
になるわけでございます。 ただ、このように、この
学説
は、
民主政過程
に不可欠な
権利
についてだけ
固有
の
裁判所
の
役割
を認めたわけでございますが、実際には、
民主政過程
に不可欠な
権利
とは言いがたいのではないかと思われる経済的自由につきましても、
最高裁判所
はある程度厳しい
審査
をすべきだと考えております。また、
人格的自律
ないし
人格的生存
に不可欠な
権利
だといたしまして、
生存権等
につきましてもやや厳格な
審査
が正当化されると考えてまいりました。その結果、
憲法
の
保障
する
基本的人権
につきまして、
裁判所
の
司法審査権
はかなり積極的に行使することができるという
結論
が結果的に擁護されたのではないかというふうに思います。 この点、私は、現在の
憲法学
の支配的な
考え方
とは若干異なった
意見
を持っておりまして、確かに、
憲法
の
保障
している
基本的人権
のほとんどは
国民
が
政治
参加するために必要不可欠な
権利
でありますので、これらの
権利
については、
民主政過程
に不可欠な
権利
であるとしてそれを保護することは
裁判所
の
固有
の
権限
だと考えるべきではないかと思っております。また、それが
裁判所
にふさわしい
役割
でもあると考えております。 しかし、この
立場
を貫きますと、逆に、このような意味で
民主政過程
に不可欠とは言えない
権利
については
国会
の
判断
を尊重し、緩やかな
審査
をすることが妥当なのではないかと思っております。
国会
の
判断
あるいは多数者の
判断
を常に
裁判所
が監視すべきだという
考え方
は、私は妥当ではないと考えております。と申しますのは、
国民
がもし選択を誤り、
国会
が
国民
の利益を害するような結果になった場合には、
国民
は次の
選挙
でその意思を示すことができるはずであり、また示すべきではないかと考えるからです。
民主主義
の
原則
のもとでは、
国民
の
権利
を守るということも
国民
あるいは
国民
の
代表者
の
責任
でありまして、
裁判所
が常にこのような
役割
を担うべきだと考えるのは、
裁判所
に余りにも多くのものを期待し過ぎなのではないかと思います。また、
裁判所
にそのような
役割
を期待することは、
裁判所
にかなり困難な課題を負わすことになり、実際、期待可能以上のものを期待することによって、逆に
裁判所
が身動きできなくなってしまうのではないかというふうに考えるからです。 私は、このような
考え方
をプロセス的な
司法審査理論
と呼んでおります。この
考え方
では、
裁判所
の
役割
は、
民主主義プロセス
の
擁護者
であって、それに尽きると考えるべきではないかと考えております。この
立場
の
前提
は、現在の支配的な
憲法学
の
考え方
は、
憲法
は実体的な目標ないし
価値
を定めたものだと考えておりますが、それとは異なり、
憲法
というのは、あくまで
統治
の
手続
を定めた
手続
的ないしプロセス的な文書だと考えるプロセス的な
憲法観
でございます。 現在の支配的な
考え方
は、
憲法
の
目的
は
人権
の
保障
で、
民主主義
を含む
統治
の
原理
はすべて
人権保障
のための手段だと考えておりますが、私は、
統治
の
原理
と
人権
の
保障
はコインの裏表の関係で、表裏一体ではないかと考えております。
基本的人権
というのは、
政治
が手を出してはならない実体的な
価値
だと考えるのが支配的な
考え方
で、私はこれを実体的な
価値
の
基本的人権観
と呼んでおりますが、これに対し、私は、
憲法
の
保障
している
人権
というのは、守らなければいけない
手続
的なルールだと考えるべきではないかと思っております。これを私はプロセス的な
基本的人権観
と呼んでおります。 そこから、
司法審査
の
目的
は、
実体的価値
として
理解
された
基本的人権
の
価値
の実現と見る支配的な
考え方
、これを私は
実体的価値
の
司法審査理論
と呼んでおりますが、これと異なり、
司法審査
はあくまで
憲法
の定めている
手続
の
保障
だというプロセス的な
司法審査理論
が導かれるのではないかと考えているわけです。 もちろん、このような
考え方
の違いには、
日本国憲法
が
前提
としている個人あるいは
政治
のシステムについての
理解
の違いがございまして、支配的な
考え方
が
前提
としている個人の
考え方
というのは、私は、好きなことをさせておいてくれ、ほっておいてくれと主張する個人ではないかと考えておりますが、
憲法
は実はそうではなく、他の人とともに
政治
共同体を組織し、互いに他を尊重しながら一緒にやっていくことを求める市民としての個人ではないかと考えております。 そして、
憲法
の目標あるいは
目的
は
人権
の
保障
だと考えるリベラリズムの
考え方
とは異なりまして、
政治
に参加をする市民が、
政治
の中でさまざまな
意見
を調整し、望ましい
政治
の
あり方
を決定していく、その
政治
のプロセスを
憲法
は
保障
したものだととらえ、そのプロセスをプリュラリズム、いわゆる多元主義と
理解
すべきではないのかと考えております。したがいまして、この
政治
のプロセスを超えた問題は、
憲法
の問題ではなく
政治
の問題だと考えるべきではないかと考えております。 したがいまして、私は、
憲法学
の支配的な
考え方
よりも
裁判所
にふさわしい
役割
をやや限定的にとらえておりまして、余りたくさんのことを
裁判所
に期待するよりか、
裁判所
にふさわしいことだけをしっかりと
裁判所
にしてもらいたいという
考え方
をとっております。 この
立場
によりますと、
最高裁判所
は基本的に、経済的事由に関する
事例
では
国会
の
判断
を尊重すべきであったと思われます。したがいまして、
国会
の
判断
を幾つかの
判決
で覆しておりますけれども、このような
事例
には疑問があるのではないかと思っております。他方、逆に、表現の自由など市民の
政治
参加に不可欠な
権利
につきましては、このような
権利
を擁護することが
裁判所
の
固有
の
役割
だと私は考えておりますので、
国会
の
判断
を
裁判所
がしっかりと見きわめることなくこれらの
権利
の制約を非常に簡単に認めてきたことは、やはり疑問なのではないかと思っております。 したがいまして、私も、
最高裁判所
は適切に
司法審査権
を行使してきたとは言いがたいと考えております。 また、
先ほど
も触れましたように、
日本
の
司法審査制度
が
アメリカ
型だと言われながらも、
司法権行使
の
要件
を、
アメリカ
とは異なり、非常に狭く
理解
いたしまして、事実上
法律
、
命令等
の
憲法適合性
を争う道が閉ざされてまいりましたが、このような
理解
も妥当ではなかったのではないかと考えております。特に、
日本国憲法
は第三十二条で
国民
に
裁判
を受ける
権利
を
保障
しておりますが、現在のような運用の仕方は、
国民
の
裁判
を受ける
権利
を無意味にするものであって、極めて疑問だと言わないといけないのではないかと考えております。 では最後に、
憲法改正
の
必要性
はあるか、あるとすればどのように改正すべきかという点でございますが、このような
現状
を打開するために、
憲法裁判
所の構想がいろいろな形で打ち出されております。例えば、伊藤正己元最高
裁判
事もそのような提言をしておりますし、読売新聞社等の
憲法改正
案などでも
憲法裁判
所の構想が出されております。 このような構想につきましては、
先ほど
の
最高裁判所
の
立場
に関する
解釈
を
前提
としますと、これは
現行
の
憲法
の
趣旨
に反することになりますので、このような
憲法裁判
所の設置には
憲法
の改正が必要だと私は考えております。 では、そのような改正は必要なのか、あるいは望ましいのかどうかという点でございますが、私は、このような
憲法裁判
所の設置が問題の解決となるかどうか疑問ではないかと考えております。 既に諸先生方も御承知のように、伊藤正己元
最高裁判所
判事は、
日本
の
最高裁判所
が
司法審査権
行使に消極的な理由につきましていろいろな要素を指摘しておられます。
裁判官
の中に和の尊重の意識が存在して、なかなか個々の
裁判官
の
意見
を言うことが難しいとか、あるいは、他の政府の機関との間でも正面的な対立を避けたいという和の気持ちがあることとか、あるいは、
最高裁判所
が非常に多くの
事件
を抱えていて、その中で
憲法事件
について十分考える余裕がないこととか、あるいは、大法廷と小法廷の区別によって
憲法
判断
が非常に難しくなっている、等々の要素を指摘しているところでございます。 経験に裏づけられた指摘として非常に重く受けとめるべき
必要性
があるのではないかと思うのですが、伊藤正己元
最高裁判所
判事が提言をされる解決策としての
憲法裁判
所の設置がこれらの問題点の解決につながるかどうか疑問ではないかと思います。また、
憲法裁判
所を設置すれば、果たしてその
憲法裁判
所が急に
法律
、
命令等
の
合憲性
を厳しく
審査
するようになるだろうかと考えますと、そのように考える理由はどうもないのではないかと思います。 そして、
事件
、
争訟
性の
要件
があるから
裁判所
が
法律
、
命令等
の
憲法適合性
を
審査
することが非常に困難なのだと
一般
に言われますが、実際には、
先ほど
申しましたように、
事件
、
争訟
性の
要件
そのものは極めて柔軟でありまして、
アメリカ
におきましては、非常に簡単に
法律
、
命令等
の
憲法適合性
が争われております。したがいまして、問題点はどこか別のところにあるのではないかという気がいたします。しかも、
事件
、
争訟
性の
要件
を満たさないと
司法権
を行使することができないという
考え方
にはそれなりの理由がございまして、それをすべて否定してしまうことが妥当かどうか、疑問ではないかというふうに思っております。 ではどのようにすればいいのか、私もまだ決まったこれという
意見
を持っているわけではありませんが、当面のところ必要なのは、
憲法改正
ではなく、意識改革と
制度
改革ではないかというふうに私は考えております。
先ほど
も触れましたように、
裁判所
の
司法権
は
憲法
第七十六条によって
憲法
上付与されたものであって、
法律
によって付与されたものではありません。したがいまして、
裁判所
は、その
憲法
上の
固有
の
司法権
を行使して、もっと積極的に
司法権
を行使することができるはずでございます。
事件
、
争訟
性の
要件
も
アメリカ
では極めて緩やかに
解釈
されておりますので、
日本
でももっと柔軟に
解釈
をすれば、
国会
が
法律
を制定すれば、それが適用されて不利益を受けるおそれのある人は、だれでも
法律
の
違憲性
の確認とその執行の差しとめを求める
訴訟
を当然提起することができるんだと考えることが可能ではないかと思いますし、また、そのような
解釈
の方が
日本国憲法
に適合的なのではないかと思います。 その上で、
国民
の
政治
参加に不可欠な
権利
につきましては、
裁判所
が
憲法
上
固有
の
権限
と
責任
を負っているのだということをしっかりと自覚をしていただければ、もっと積極的に
司法審査権
を行使していただけるのではないかと思います。 ただ、そのためにはやはり、いろいろな形で
制度
改革が必要なのではないかと考えております。
最高裁判所
の
裁判官
の任命等につきましては、現在実質的に、
下級裁判所
や検察官、弁護士等の名誉職的な最終ポスト的な扱いがされておりますが、このような人事を根本的に改めるとともに、もっと若い人を積極的に登用する等の新たな改革が必要になるのではないかというふうに思います。 また、
現状
では
訴訟
の提起が極めて困難であって、
憲法事件
を争うことも困難な状況でございますので、
訴訟
の上でも
憲法事件
を争うことができるように、さまざまな形で
制度
を改革することは十分考えてもよいのではないかと思っております。 したがいまして、私は、基本的には、
憲法裁判
所の設置ではなく、
憲法
の付与している
司法権
あるいは
司法審査権
についての
考え方
を改めること、そして、もっと
裁判所
が
司法権
あるいは
司法審査権
を行使しやすいようにする
制度
改革、そして、そのような
制度
改革を実質的に意味のあるものとするためには、
裁判官
の増員や
訴訟手続
の改正による
訴訟
の提起の
要件
の緩和化、そしてさらに、
憲法
訴訟
を支えることができるような大幅な弁護士の増員等、根本的な司法
制度
改革なのではないかというふうに考えております。 以上、簡単ではございますが、
現行
の
憲法
第八十一条の定めております
司法審査
の
権限
について、私の考えているところを述べさせていただきました。御拝聴ありがとうございます。(拍手)
高市早苗
3
○高市小
委員長
以上で
参考人
の御
意見
の開陳は終わりました。
—————————————
高市早苗
4
○高市小
委員長
これより
参考人
に対する質疑を行います。 質疑の申し出がございますので、順次これを許します。伊藤達也君。
伊藤達也
5
○伊藤(達)小
委員
伊藤達也でございます。どうもおはようございます。 本日は、先生から大変貴重なお話を伺うことができまして、本当にありがとうございます。 私からは、まず最初に、先生がお話しになられた
司法審査権
の活性化についてさらにお話をお伺いさせていただきたいと思います。 先生は、今のお話の中で、基本的に
国会
の
判断
を尊重しつつも、
国民
の
政治
参加のプロセスに不可欠な諸
権利
の保護について、
裁判所
が
司法審査権
というものをもっと積極的に行使していくべきだというお話があったと思います。これを積極的に行使していくために、
憲法
の改正ではなくて、意識の改革と
制度
改革にというお話をいただいたわけでありますが、この二点についてもう少し具体的にお話をお伺いしたいと思うんです。 まず、意識改革のところでありますけれども、私たちが考えていかなければいけない
裁判官
の理想像というのはどういうところにあるのか。ともすると、私たちからすると、どうも
裁判官
というのは、顔が見えなくて没個性で画一的であるのがいい
裁判官
なのかどうかというところがあるんだと思うんです。そういう意味で、先生の
裁判官
としての理想像はどういうところにあるのか。 それと、私どもは、司法の
裁判所
の現場がよくわからないんですが、本当に最高裁の判事の方々は、
憲法
に対する感覚がどれぐらい鋭いのかというところがよくわからないところがあるんですね。その感度を高めていくというのも意識改革の一つだというふうに思うんですが、その点について、どのように考えておられるのかお伺いしたいと思います。 それから、
制度
改革について幾つか例示がございましたけれども、やはり根本的に、
訴訟
制度
でありますとか、
裁判官
、
裁判所
全体を変えていかなければいけないということで、先生から少し
訴訟
の
要件
の緩和等々のお話がございましたが、さらに具体的に変えていかなければいけない御提案がありましたら、ぜひお聞かせいただきたいと思います。
松井茂記
6
○
松井参考人
順番にお答えさせていただきます。 まず、どのような
裁判官
が望ましいのかということでございますが、この点につきましては、伊藤正己元
最高裁判所
判事も、現在の
裁判所
制度
のもとでは、顔のない
裁判官
が理想的とされ、個性的な方はどちらかというと好感を持って受けとめられないということを指摘しております。 これは、やはり司法
制度
全体の一つの問題点ではないかと思いますが、もっと個性のある
裁判官
がいろいろとおられるということの方が望ましいのではないかと思いますし、
最高裁判所
の
裁判官
につきましても、穏当な方ばかりではなく、いろいろな
意見
の方が入ってこられるのが望ましいのではないかというふうに思っております。その上で、いろいろな形で
議論
を行って、そして、
法律
の
憲法適合性
について異なった
考え方
を持たれる方がお互いに
議論
を闘わすというのが、やはり
憲法
訴訟
の活性化にとっては望ましいのではないかと考えております。 それから、第二点でございますが、
裁判官
の
憲法
に対する感覚がどの程度鋭いものなのかという点でございますが、現在の
裁判所
の中におきましては、私のように外から見ている者の感覚といたしまして、
憲法
というのは、どちらかというと、余り触れたくない問題だととらえられているのではないかという気がいたします。特に、
刑事事件
等におきまして
憲法
問題が提起されましても、多くの
裁判官
の方は、ほかに争うことはないのかというふうな意識で対応されているのではないかとしか思われないようなところがございます。 私は、どうも現在の
裁判官
の方たちの
憲法
に関する意識というのは、民法や刑法というような目に見える
法律
と違いまして、
憲法
というのは非常に抽象的であって、しかも、根本
原則
を定めているものなので、具体的な内容のある
法律
とは言えないのではないかと思っておられるのではないかと思っています。 実際には、
先ほど
触れました
マーベリー
対マディソン
判決
で
アメリカ
の
最高裁判所
が一番重視したのは、
憲法
が一番最高位の
法律
であって、法が何であるのかを確認することができるのは
裁判所
の
固有
の
権限
だという
考え方
でございますので、
日本
で
司法審査制度
が定着するためには、
憲法
が最高位の
法律
であるということを確立することではないのか。そのような意識を
裁判官
の方に幅広く持っていただくということが必要なのではないかと考えております。 それから、三番目につきましては、さまざまな司法
制度
改革が必要ではないかと思いますが、
アメリカ
を一例に申し上げますと、
憲法事件
は、
先ほど
も触れましたように、ほとんどが
法律
の
違憲
の確認と執行の差しとめを求める予防
訴訟
として提起されております。しかも、その際には、クラスアクションと申しますが、多くの方が集団として
訴訟
当事者に加わるという
制度
が幅広く利用されております。 また、
違憲
の確認と
法律
の執行の差しとめを求める
訴訟
でございますので、現在の
日本
の
訴訟
制度
のもとで要求されるような
裁判
費用等につきましても、
アメリカ
の場合には、
訴訟
提起が非常に容易になっております。さらに、
アメリカ
におきましては、弁護士さんが勝訴したときにだけ弁護士費用を受け取るということを約束して
訴訟
の代理を引き受けておりますので、勝ち目のある
訴訟
かどうかということを考えて弁護士さんが
憲法
訴訟
を引き受けるという
制度
になっております。これは、
訴訟
を起こしたいと考えております
国民
の
立場
からは非常に便利な
制度
でございます。 このようなさまざまな仕組みにつきましては、
日本
でも導入を検討する余地は十分あるのではないかというふうに考えております。
伊藤達也
7
○伊藤(達)小
委員
先生のきょうのお話が大変興味深いものがあったものですから、少し広く
憲法
のお話をお伺いさせていただきたいというふうに思います。 先生のきょうのお話、そして先生の資料を見ておりますと、「「ほっといてくれ」の
憲法学
から「みんなで一緒にやろうよ」の
憲法学
へ」という御提言もされておりまして、こうした先生の御提言を伺っておりますと、私なりに
解釈
しますと、ほっておいてくれという先生の御主張は、みんなで一緒にやっていこうよという形にパラダイム転換をしていく中で、
憲法
において個人の社会参加のプロセスというものをもっと明確にしていく、よって、
憲法
の要諦は、
統治
の
目的
ではなくて、
統治
のプロセスを定めるところにあるということを大変強調されているように思うんです。 その場合の理念は多元主義。つまり、各個人から、みずからの福祉と考えるもの、つまり公益の実現ということを考えておられて、そして共同体形成へ向かう運動哲学というものがそこにあるような気がいたすんですが、そうなった場合に、先生は、主権とは自己決定権であり、それを論拠に各人が共同体を形成するということをお考えになられているわけですが、一方で、現在の主権の概念が、個人ではなく総体として主権が観念されているという
憲法
解釈
があるわけでありまして、こうしたことをどのようにお考えになられているのかというのをぜひお伺いしたい。 それと、先生のお考えの中でもう一つ、きょうのテーマから外れてしまいますが、地方自治というものをどうとらえておられるのか。先生のお考えを敷衍していくと、やはり分権思想というものが出てくると思うんですが、この分権を進めていく中に、中央集権と対立する概念として分権、そこに地方自治体があるという
考え方
と、もう一つ、NPOの運動や民というものを大切にして、そこから地方自治をつくり上げていくという
考え方
も成立すると思うんですが、そうしたことも踏まえて、残された時間、わずかでありますけれども、先生のお考えを伺えれば、よろしくお願いいたします。
松井茂記
8
○
松井参考人
国民
主権につきましては、実は
憲法学
の中でも非常に
意見
が分かれているところでございますが、私は、基本的には、
国民
主権というのは、
日本国憲法
を制定したのが
日本
国民
であるということの
趣旨
だというふうに
理解
をしております。したがいまして、
日本国憲法
という
憲法
を制定し、現在の国の
統治
の基本を定めたのは
国民
でございます。では、その
憲法
のもとで具体的な日々の
統治
をどのように行っていくのか、これが問題になるわけなんですけれども、従来の
憲法学
では、この日常的な
統治
の
あり方
の問題が十分
議論
されてこなかったのではないかと考えております。 私は
先ほど
、
日本国憲法
は民主政
原理
あるいは
民主主義原理
に立っているということを
前提
にしてお話をさせていただきましたが、実は私は、
日本国憲法
は、
国民
主権を宣言するとともに、日々の日常的な
統治
の
あり方
としましては、
代表
民主政
原理
をとっているということを基本にいたしまして、そのことを
前提
として、その
代表
民主政
原理
に根本的に背反しないような
司法審査制度
の
あり方
というものを考えてきた次第でございます。
先ほど
私がお話しさせていただきました
民主主義プロセス
の
擁護者
としての
司法審査
というのは、まさに
代表
民主政
原理
と調整のつくような
司法審査
の
あり方
として考えているものでございます。 また、このような私の
考え方
から申しますと、国政に関しましては、
憲法
は
国会
を中心といたします
代表
民主政をとっておりますが、地方におきましてはもっと積極的な住民の参加というものを考えておりますし、また、
政治
の
あり方
につきましては、人々が市民として
政治
に参加するということを当然
前提
にしておりますので、さまざまな市民運動やあるいは公益団体等を通して
政治
に参加するということをもっと積極的に評価し、それが
政治
の中に反映されることをぜひ期待したいというふうに考えております。
伊藤達也
9
○伊藤(達)小
委員
どうもありがとうございました。
高市早苗
10
○高市小
委員長
次に、島聡君。
島聡
11
○島小
委員
民主党の島聡でございます。
憲法裁判
所構想につきまして、伊藤正己元
最高裁判所
判事の提言、読売新聞社の
憲法改正
案が取り上げられておりますが、我が党、民主党の
憲法
調査
会の中間報告でも
憲法裁判
所構想を出していますので、ぜひ御記憶にとどめていただきたいと思います。 その観点から質問させていただくんですが、私は、現在の司法消極主義というのは、今の
日本
の
憲法
をうまく機能させるために非常に問題ではないかというふうに思っています。それは私の
意見
でありますが、現実の
国会
でやりますと、内閣法制局についてお聞きしたいんですけれども、具体的に
憲法
解釈
、これは
違憲
か合憲かというのは、
国会
審議というのは内閣法制局が権威を持っているんですよ。不思議なことでは、例えばテロ防止特別
委員
会で、私も
委員
でしたが、これはどこまで
憲法
で可能か、内閣が
法律
を提出してくるわけですから、内閣法制局を通るわけですから、合憲と言うに決まっているわけですよ。政府の一機関にすぎない内閣法制局が
憲法
解釈
をする、これは、権力分立の
あり方
としては非常に問題が大きいんじゃないかと私は思います。 もちろん私は、現在のテロ特もあるいは事態対処法も、本当に合わなくなったら
憲法
自身見直すべきだという
判断
のもとに申し上げているんですが、閣法で提出してきて、内閣法制局がやって、答弁を聞いたら合憲と言うに決まっているわけであります。これは権力分立の
あり方
として問題が大きいと私は思うんですが、先生のお考えの中では、例えば司法消極主義と内閣法制局の
あり方
ということに関連してはどういうふうにお考えですか。
松井茂記
12
○
松井参考人
まず、
前提
問題として、現在の
日本国憲法
のもとで内閣に法案提出権があるのかどうかにつきまして、
現状
ではそれを肯定する
考え方
が支配的ですし、実務もそのようになっておりますが、
憲法学
の中にはそれに異論を唱える
考え方
もございまして、私は、どちらかというとそれに反対する
立場
をとっております。
国会
というのは唯一の立法機関でございますので、私は、
法律
案を提出することができるのは
国会
議員だけだと考えるべきではないかというふうに思っております。 それはおいておきまして、
現行
の
制度
を
前提
にして考えますと、内閣法制局というのはあくまで行政権の中の組織でございますので、内閣法制局が
憲法
問題について合憲だと言ったかどうかというのは、
裁判所
にとっては本質的な問題ではないはずでございまして、伊藤正己元最高
裁判
事が、
日本
には内閣法制局があるのでその
解釈
が非常に重きを置かれるということを、
裁判所
が
司法審査権
行使に消極的になる理由の一つとして挙げておられますけれども、これはやはり本末転倒ではないかと考えます。
裁判所
が
憲法
上の
権限
に基づいて
法律
の
憲法適合性
について
審査
をするので、内閣法制局がどのような
解釈
をとっていたのかということは、一つの
参考
にはなるかもしれませんけれども、それが決定的なものではございません。 したがいまして、私は、
最高裁判所
を初め
裁判官
は、
裁判官
としての
立場
で
法律
の
憲法適合性
について
判断
すべきではないかと考えております。
島聡
13
○島小
委員
基本的な枠組みについてちょっとお尋ねしたいんですが、例えば、司法がこの
法律
は
違憲
であるとする。立法府は、これはもう出したと。今、先生のお話でいくと、意識改革があって、
司法審査
要求をして、これは差しとめだという
意見
が出たとする。それがどんどん続いていった場合、具体的に言うと、例えば安全
保障
上の問題なんかにおいて、これは必要であると言う。でも、これは
違憲
だ、
違憲
だ、
違憲
だと司法が出てくる。とはいうものの、
統治
的な問題においては必要だと言う。そういうような状況になった場合にはどのように考えればいいんでしょうか。
松井茂記
14
○
松井参考人
アメリカ
でも、
先ほど
申しましたように、
裁判所
が
司法審査権
を行使するほとんどの
事例
は、
法律
の執行に先立ちまして
法律
の
違憲
の確認と執行の差しとめを求める
訴訟
でございますけれども、
裁判所
にそのような
訴訟
が起こされますと、当事者の方は、仮
処分
といたしまして、暫定的に、
裁判所
の
判決
がおりるまでの間、
法律
の執行を仮に差しとめることを
裁判所
に求めるのが通例でございます。 その際に、
裁判所
は、執行の差しとめを認めないとどのような不都合が生じるのかということを一方で検討し、さらに、この
訴訟
にどの程度勝訴の見込みがあるのかということを検討し、その上で、執行の差しとめを認める
必要性
があると考えた場合にのみ、
裁判所
の
判決
がおりるまでの間の仮の差しとめを認めるわけでございます。したがいまして、当事者が執行の差しとめを求めれば常に
法律
の執行が差しとめられるというわけではございません。 また、
アメリカ
の場合には、このように
法律
の執行の仮の差しとめが認められた後も、極めて迅速に
審査
をすることが可能でございます。
アメリカ
の
裁判所
は、先般の
アメリカ
大統領
選挙
のときの
訴訟
にも見られますように、わずか数日間で
判決
を下すことも行っております。したがいまして、極めて重要な案件であれば、
裁判所
がそのような柔軟な形で処理をすれば極めて短期間の間に
事件
は処理されますので、御指摘のような弊害というものはそんなに起きないはずでございまして、そのことを考えれば、
日本
でも、差しとめ等の救済を認めるということは妨げにはならないのではないかと考えております。
島聡
15
○島小
委員
先生は表現の自由の専門家でもあるというふうに承っております。例えば、個人情報保護法というのが今
議論
されています。これは
憲法
二十一条で問題がある、だれかが請求するとする。今おっしゃったように、
アメリカ
は迅速に
結論
が出ますけれども、
日本
は、司法
制度
改革をしなくちゃいけないのも迅速なものだという話になっている。そういう場合にでも問題がないと思われますか。
松井茂記
16
○
松井参考人
現在、
訴訟
を
通常
の
手続
に従って処理しますと、やはりかなり時間がかかるということは否めないと思います。私は、
訴訟
の処理等は
裁判所
の
固有
の
権限
であると考えておりますので、
裁判所
が
憲法
上の
権限
に基づき裁量で
判断
をすればいいのではないかというふうに考えておりますが、
先ほど
意見
を述べさせていただきましたように、
現行
の司法
制度
はかなり窮屈にできておりますので、そういう差しとめ等の救済を認めるに伴いまして、やはり
法律等
を改正して、
裁判所
がもっと柔軟に
訴訟手続
を行うことができるような整備をするということは十分考えてもいいのではないかと思っております。
島聡
17
○島小
委員
きょうは
憲法
調査
会にお越しいただいているんですが、この
憲法
調査
会は発議権がない
調査
会となっておるんです。例えば、今、
日本
において
憲法
と
法律
というものがぎりぎりどうかという
判断
をするときに、司法消極主義で、
裁判
も今のところはなかなか難しい。 例えばですけれども、この
憲法
調査
会を常任
委員
会にして、そこに、立法と
憲法
、いろいろな問題が出てきますが、その意味で本当に
憲法
を
調査
するというような
権限
をこの
憲法
調査
会に付与するようなことを考えた場合、いわゆる三権分立の
考え方
からすると何か問題が出てくるでしょうか。
松井茂記
18
○
松井参考人
国会
が
憲法改正
につきまして発議をする
権限
がございますので、そのために必要な
調査
を行うということは、私は
国会
の
権限
内だと考えておりますけれども、そのことと、常時
憲法
問題について
調査
をするような
会議
が必要かどうかというのはまた別問題ではないかと思います。
島聡
19
○島小
委員
ありがとうございました。
高市早苗
20
○高市小
委員長
次は、
斉藤鉄夫
君。
斉藤鉄夫
21
○
斉藤
(鉄)小
委員
きょうは大変ありがとうございました。 ちょっと、ある意味では非常に幼稚な質問からさせていただきたいと思いますが、三権分立の中で、例えば立法と行政については正当性の根拠が非常に我々
理解
しやすい。例えば
国会
は、
国民
から直接
選挙
で選ばれた、それから行政については、その
選挙
で選ばれた議員で内閣を組織するということなんですが、いわゆる司法がよって立つところの正当性の根拠というのはどこにあるんだろうかな、こう考えますと時々わからなくなるんですけれども、この点について、学校の授業の質問のようですけれども、教えていただきたいと思います。
松井茂記
22
○
松井参考人
もともと、司法というのは法をつかさどる作用ということでございますけれども、
一般
的な
理解
によりますと、司法というのは法の支配と呼ばれる
考え方
を
制度
化したものだととらえることができるんではないかと思います。
国民
主権
原理
に基づきまして、
国民
が
憲法
を制定し、その
憲法
のもとで
国民
が
政治
に参加をして、
代表
民主政に基づき
統治
を行うわけでございますが、
憲法
というのは、その
国民
によって制定をされ、みんなが守らなければいけない法として定められたものでございます。
裁判官
は、その法が遵守されるように確保する
役割
を担っているわけでございまして、
国民
の
選挙
に対比されるところの法が司法のすべての正当性の根拠を提供していたというふうに言うことができるだろうと思います。 ただ、昔は、法を
解釈
し、適用する司法の
制度
というものは、客観的に存在する法の意味を探り、それを
裁判官
は
法律
的な訓練によって身につけた特別な技術で確認し、そしてそれをそのまま具体的な
事件
に適用するものだと考えられておりましたが、その後、現在に至るまで、実際には、
裁判
というのはそのような単純なプロセスではなく、
裁判官
の
考え方
ですとかいろいろなものによって影響を受ける、複雑な複合的なプロセスであるということが認められるようになってまいりました。 その結果といたしまして、
裁判官
が、例えば
国会
の制定いたしました
法律
を
憲法違反
だと考えたときに、なぜそれは
憲法違反
なのかと問われたとき、昔は
憲法
にそう書いてあるからだと答えることができたんですけれども、今は、
憲法
にはそう書かれているとは限らない、私の考えではそう言ってはいないというふうに言われますので、従来のような
考え方
で
司法権
の行使を正当化することは難しいのではないかと考えております。 現在の支配的な
考え方
は、
憲法
はそれぞれ具体的な
実体的価値
を定めておりますので、
裁判官
はその実体的な
価値
を擁護する
役割
を担っているととらえられておりまして、その実体的な
価値
によって
司法権
の行使が正当化されるという構図になっておりますが、私は、司法と立法の間には違いがあって、その違いの
ゆえ
に司法というものが正当化されるのではないかと考えております。 その違いはどこにあるのかと申しますと、立法の
手続
というのは、
国会
議員の先生方がそれぞれ集まって
国会
の場で
議論
をして、そして最終的には多数決によって
法律
を制定するわけですが、
裁判
の
手続
というのは、原告、被告という相対立する二人の当事者がそれぞれ自分の利益あるいは自分の主張を掲げて対立している、その対立している
手続
の中で、
裁判官
がいわば第三者的な
立場
から法の
あり方
を考えて具体的な
事件
を解決する。このような
裁判
という
手続
の特殊性と申しますか、そのような特殊性の
ゆえ
に
裁判
には独自の存在
価値
があり、そしてその
裁判
の独自の
手続
の
ゆえ
に
司法権
の行使が正当化されるのではないかと私は考えております。
斉藤鉄夫
23
○
斉藤
(鉄)小
委員
法そのもの、そして
手続
そのものに正当性の根拠があるということなんですが、非常に率直に申し上げまして、例えば、法に細かく具体的なことが書いてあれば、それに基づいて
裁判官
に我々
判断
してもらう、これはよくわかるような気がするんです。ところが、
先ほど
も先生おっしゃっておりましたけれども、
憲法
というふうに、ある意味では非常に広い概念のことが抽象的に書いてある場合について、その正当性だけを根拠に
判断
を司法にゆだねることについて心配する向きがないでもない。
国会
の場合は、ある意味では開かれた、今ワイドショー
政治
とかいろいろ言われておりますけれども、かなりオープンになってきて、いろいろな
議論
が
国民
に見えます。また、使っている
言葉
も
国民
にわかりやすい
言葉
なわけですけれども、司法の場合、なかなか見えにくい、また使われている
言葉
も大変難しい。まあ、それは当然なのかもしれませんが。そういう中で、限られた人の、また
先ほど
の根拠によっての
判断
にすべてがゆだねられるということについて多少の危惧があるということについて、先生の御
意見
をお伺いできればと思います。
松井茂記
24
○
松井参考人
憲法
の
規定
は抽象的で、
憲法
の
規定
だけから見ると具体的な
結論
がなかなか出てこないのではないかということは、よく指摘されるところでございます。 私は、そのような指摘がなされたときには、
憲法
の
規定
も、
先ほど
触れました民法や刑法の
規定
と本質的には変わらないではないかというふうに答えることにしております。例えば、私がよく挙げるのは、民法七百九条の不法
行為
の
規定
でございます。他人の
権利
、利益を侵害しまして損害を与えた場合には、その損害を
賠償
しなければならないということを定めている
規定
でございますが、これは、生命の侵害から、名誉毀損から、プライバシーの侵害から、交通事故から、すべての
事例
をカバーしておりまして、しかも、
法律
上に書かれている
言葉
はほんのわずかですので、極めて抽象的なんですね。この
規定
と
憲法
二十一条の
規定
とどちらが抽象的かと言われれば、私は変わりはないんじゃないかと思うんです。ということは、法を
解釈
するという点で、特段
憲法
だけが特別だと考える
必要性
はないのではないかというふうに思います。 ただ、その上で、御指摘のように、やはり
国民
主権
原理
に基づきまして、日々の
統治
は
代表
民主政
原理
に基づいて行われるべきだと考える私の
立場
から申しますと、
国会
というのは、
国民
が
選挙
で選出した
国民
の
代表者
によって構成されておりますので、
国会
の
行為
というのは、いわば
選挙
、
国民
の選択というものによって正当性を経ております。これに対して、
裁判官
の方は、法を適用し、法という正当性だけでその
判断
を覆すことになるわけでございますので、
先ほど
申しましたように、やはり
裁判所
が常に
政治
を監視すべきだとか、
国会
の
判断
はすべて一応おいておいて、
裁判所
が独自に法を
解釈
すべきであるというのは、ちょっと危険性が高いのではないかと考えております。 そのために、
先ほど
申しましたように、私は、
裁判所
の
固有
の
役割
というのを考え、その
役割
のところでだけしっかりと
権限
を行使してほしい。それは、
民主主義
のプロセスがしっかりと作動するように
保障
することだ。そのように考えれば、
裁判所
が
司法審査権
を行使するということは、
民主主義
のプロセスが作動するように確保することですので、おっしゃられるような危険性は
比較
的少なくて済むのではないかという感じがします。 また、そのような観点からいきますと、
憲法
の
解釈
につきましては、
固有
の
裁判官
だけの問題ではなく、もっと広い視野と申しますか感覚が当然要求されることになると思いますので、
固有
の意味での
裁判官
だけが
憲法事件
を扱うというのはやはり適切さを欠くのではないかな。そういう観点からいけば、
最高裁判所
の
裁判官
等にはもっと幅広い知識を持ったいろいろな人が入っている方が望ましいのではないかというふうに考えております。
斉藤鉄夫
25
○
斉藤
(鉄)小
委員
ありがとうございました。
高市早苗
26
○高市小
委員長
次に、藤島正之君。
藤島正之
27
○藤島小
委員
自由党の藤島正之でございます。 先生のおっしゃっている、
民主政過程
に不可欠な
権利
については厳しく、それから経済的自由については緩やかに
違憲
審査
をすべきである、これは私も大変賛成なんですけれども、それはそれとしまして、
統治
行為
論というのがあったわけですけれども、これについてはどういうふうにお考えになりますか。
松井茂記
28
○
松井参考人
一般
に、国の
統治
の基本にかかわるような根幹的な問題については、
裁判所
が
司法権
あるいは
司法審査権
を行使すべきではないというのが
統治
行為
論と呼ばれるもので、
政治
問題の法理というふうに呼ばれることもございます。御承知のとおり、
日本
の
最高裁判所
は苫米地
事件
と砂川
事件
等でこのような
考え方
をしております。学界におきまして、このような法理を認めるのかどうかをめぐって
意見
が分かれているところでございます。 私自身は、
統治
行為
論と呼ばれるものが極めて不明確であるということと、何かいろいろなものが
統治
行為
論という
言葉
で語られているために、非常に適切でない状況を招いているのではないかというふうに考えております。
司法権
が
憲法
によって
裁判所
に付与されておりますが、
日本国憲法
は、
裁判所
以外の機関に一定の
事件
の紛争の解決を
明文
の
規定
でゆだねております。また、
明文
の
規定
がなくても、
憲法
の
規定
を読んでおりますと、そこから暗黙のうちに
裁判所
以外の機関に対して一定の
事件
の処理をゆだねていると考えることができるような
事例
がございます。私は、例えば
衆議院
の解散などはそういう
事例
ではないかと考えております。したがいまして、このような
事例
では、やはり
裁判所
の
司法権行使
には限界があると思っております。 ただ、それを超えて、高度に
政治
的であるとか、あるいは
統治
の根幹にかかわるような問題だからであるという、ただそれだけの理由で
司法権
の範囲から外れると考えるのは妥当ではないんじゃないかと私は思っております。
藤島正之
29
○藤島小
委員
それから、
憲法裁判
所の問題です。
先ほど
先生、説明あったんですけれども、伊藤元判事のおっしゃっている和の問題だとか、他の
行政機関
との融和の問題だとか、あるいは熟慮している時間がないとか、人事だとか、いろいろな問題があるということなんですけれども、そうであればあるほど、私は、独立した
憲法裁判
所をつくって専門にこれを審議する、こういう方がいいんじゃないかと思うんです。この点、先生は、余り詳しい御説明がないまま、
憲法裁判
所には賛成できない、こうおっしゃっているんですけれども、もう少し詳しく教えていただけますか。
松井茂記
30
○
松井参考人
憲法裁判
所にどのようなことを期待されるのかということによっても異なってくるのではないかというふうに思いますけれども、私は、
現状
のような
アメリカ
型の付随的
審査
制というもののもとでも、十分
裁判所
は
司法審査権
を積極的に行使することができるはずだと考えております。 それから、
先ほど
もちょっと触れた点ですが、私は、
裁判
の正当性の根拠というのは
裁判
の
手続
にあると考えておりまして、その
手続
は、原告と被告という相対立する当事者が、自己の利益をベースにいたしまして、
憲法
問題につきまして積極的に主張を展開する、その中で
裁判所
が、具体的な
事件
の重みの中で
法律
の
憲法適合性
を
審査
するというところにあるのではないかと考えております。 ですから、
事件
・
争訟
性の
要件
にはそれなりの理由があると考えておりますし、
現行
の
制度
のもとで、
裁判所
が
原則
として具体的な
事件
を目の前にしながら、その具体的な
事件
の解決に適用される限りで
法律
の
憲法適合性
について
審査
をするということは、やはり重要な意味があるのではないかというふうに考えているわけでございます。 これに対しまして、
憲法裁判
所を設置いたしますと、
憲法
問題は実質的にその
憲法裁判
所に専属することになります。それは確かに
憲法
の
事件
ばかりを扱うことができるので専門的だと言われるかもしれませんけれども、でも
憲法
というのはそんなに特殊なものではなく、
先ほど
紹介させていただきましたように、私は民法とか刑法と変わらないという
考え方
をとっておりますので、特定の専門的な方だけが
憲法事件
を
審査
、
判断
するというのではなく、むしろすべての
裁判官
の方が日々の
司法権行使
の中で
憲法
問題について検討していただく方が望ましいのではないかというふうに思っております。 また、
ドイツ
型の
連邦憲法裁判所
ですと、およそ
法律
が
憲法
に適合するかどうかということを
審査
、決定することになるわけでございますが、
先ほど
触れましたように、
アメリカ
型の
考え方
では目の前にある具体的な
事件
を念頭に置いて
法律
の
憲法適合性
を
審査
しますので、どちらがいいのかと考えたときに、私は、一概には言えないと思うんですけれども、具体的な
事件
の重みの中で
法律
の
憲法適合性
を
審査
するということの意義はあるのではないかというふうに思っている次第です。ですから、
憲法裁判
所という独自の
制度
をつくることについては否定的な
考え方
をとっている次第でございます。
藤島正之
31
○藤島小
委員
もう一つ、司法と行政との関係なんです。
最高裁判所
が
違憲
審査
である
法律
を
違憲
とした場合に、
国会
がそのままほっておくというケースは間々あるわけですけれども、その際に、行政府はどういうふうに行動するのがいいのかという点はどうでしょうか。
松井茂記
32
○
松井参考人
それは、
最高裁判所
の
違憲判決
がどのような重みを持つのかという問題でございまして、行政府が
訴訟
当事者である場合には、当然、
訴訟
当事者といたしましてその
違憲判決
に拘束されることになりますが、当該具体的な
事件
を離れて、行政府が
違憲
だとされた
判決
にどのように対応すべきなのかというのは、また別問題として考える必要があると思います。 この点につきまして、
日本
では、
一般
に行政府は
法律
を誠実に執行する義務がございますが、
最高裁判所
によって
違憲
とされた以上はその
法律
を執行すべきではないという
考え方
が支配的でございまして、
現行
の
制度
のもとで
日本国憲法
が
裁判所
に
法律
の
憲法適合性
について
判断
をする
権限
を与えた
趣旨
から考えれば、私はその
解釈
が妥当ではないかと考えております。
藤島正之
33
○藤島小
委員
最後に、
裁判
も余り専門家ばかりでやるのはいかがかなという感じがするんですが、そういう観点から、今陪審制の問題が
議論
されているんですが、その点についてはどういうふうにお考えでしょうか。
松井茂記
34
○
松井参考人
憲法
の問題、
憲法裁判
所の問題とは離れますが、私もやはり
裁判
に市民が参加をするということは望ましいことだと考えておりますので、陪審制等の導入というものは十分考慮に値するというふうに考えております。
藤島正之
35
○藤島小
委員
ありがとうございました。
高市早苗
36
○高市小
委員長
次に、
山口富男
君。
山口富男
37
○
山口
(富)小
委員
日本
共産党の
山口富男
です。 きょうは、
参考人
のお話をお聞きしまして、
司法審査
についての
憲法
の定めと五十年間それが持ってきた意味、それを踏まえたお話で、特に二十一
世紀
の初頭に当たって、今必要なのは
憲法改正
ではなくて、もともとの
憲法
の定めの方向での改革が必要じゃないかという提議をいただきまして、大変興味深くお聞きいたしました。 まず、第一にお聞きしたいのは、今の
憲法
が定めている
司法審査
の盛り込まれた意味合いなんです。 それで、
先ほど
のお話ですと、実体的な
価値
の問題なのか、プロセス的なものと見るのかという違いはあるようなんですけれども、いずれにしても、
日本
の
憲法
が、平和と
人権
の問題で他の国の
憲法
と比べても非常に広範囲なくだりというような
規定
を持っておりまして、そういうものと
司法審査
というのは当然調和しているものだと思うんですね。 それで、世界で見ますと、一九七〇年代以降、特に各国で、
違憲
審査
という
言葉
を使うこともありますけれども、
司法審査
というものが強調されて、いわば普遍化する傾向にあると思うんですね。そうなりますと、
日本
の
憲法
は
アメリカ
型だというふうにとらえたとしても、
明文
という形で
憲法
の中に
司法審査
の
規定
を設けたという点ではかなり早い部類に入ると思うんです。その点で
参考人
は、
憲法
に
司法審査
の
権限
が盛り込まれた意味合いについてどのようにとらえているか、まずお尋ねしたいと思います。
松井茂記
38
○
松井参考人
先ほど
も申し上げましたように、
憲法
というのは、
憲法
という
法律
を制定いたしまして国の
統治
の基本を定め、そして
政治
が守らなければいけないルールを遵守することを確保しようという試みでございます。 ただ、
憲法
が制定されたからといって、その
憲法
がだれによって執行されるのかによって
憲法
の実際の
あり方
は大きく変わってくるわけでございまして、例えばフランスなどでは、
憲法
が制定されましたが、もともとは、
憲法
を
裁判所
が
議会
に対して執行するという
考え方
がとられてはおりませんでした。ですから、
議会
が
法律
をつくるときに、それが
憲法
に適合するかどうかは
議会
が
判断
することであって、その
判断
を覆すことができるようなだれかはいなかったわけでございます。これに対して
アメリカ
は、早くから
裁判所
が
憲法
を執行し、立法者が制定いたしました
法律
が
憲法
に適合しているかどうかは
裁判所
が
審査
するんだという
制度
を樹立したわけでございます。 ですから、私は、もともとの
憲法
の
趣旨
であります法の支配というものを具体化する仕組みから見れば、
司法審査制度
というのはむしろ不可欠の
制度
だったのではないかというふうに思っておりますので、
司法審査制度
あるいは
裁判所
による
憲法
の執行という仕組みが取り入れられて初めて、もともと持っていた
憲法
という仕組みが生かされるようになったというふうに考えております。 ですから、次第に
アメリカ
あるいは
ドイツ
を含め、いろいろな違いは若干ありますけれども、
裁判所
を通して
憲法
を立法者に対しても執行するという仕組みが普遍化してきたということは、もともとの
憲法
という
考え方
がようやく貫徹されるようになってきたというふうに
理解
することができるのではないかと思います。
山口富男
39
○
山口
(富)小
委員
そうしますと、二つ目に、
先ほど
最高裁の問題で、今の最高裁が
司法審査
について大変消極的だと。それで、出している内容も問題だし、
政治
への寛容の態度もかなり評判が悪いわけですけれども、きょう、
参考人
はお話の中で、適切に
司法審査権
を行使してきたとは言いがたいというお話をされました。 そうしますと、私は二つお尋ねしたいのですが、行使してきたとは言いがたいということは、最高裁の
現状
が、
憲法
の定める
司法審査権
のいわば阻害要因になってきたのじゃないか、そういうふうに認識されているのかということを一点お尋ねしたいのと、もう一つは、その際に、
参考人
が、表現の自由などに関する
事例
で、「
裁判所
が
国会
の
判断
をしっかりと見きわめることなく
基本的人権
の制約を簡単に認めてきたことも疑問とされなければならない。」というふうにされたところを、もう少し具体的にお話を聞かせていただきたいと思います。
松井茂記
40
○
松井参考人
司法審査権
を行使する最終的
責任
を負っておりますのは
最高裁判所
ですので、
最高裁判所
がどのようにその
権限
を行使するのかということによって、
司法審査権
の存在意義が生かされるかどうか、やはり変わってきてしまうと思います。ですから、そういう点でいえば、
日本
の
最高裁判所
がもっとしっかりと
司法審査権
を行使してきていただければありがたかったなというふうに思います。 ただ、
現状
のような形になってしまった要因というのは非常に複合的でございまして、
最高裁判所
だけには責められないような理由もございます。ですから、一方的に
最高裁判所
が何か怠慢であったというふうな言い方は少し適切さを欠くのではないかというふうに考えております。 それから、次に、表現の
自由等
につきまして、
裁判所
が
法律
の
憲法適合性
についてしっかりと見きわめることなく制約を支持してきたのは疑問だというふうに述べさせていただきましたが、
通常
、
法律
は、一定の
目的
を達成するための手段としてとらえることができます。
憲法
の
保障
しております
基本的人権
は絶対無制約なものではございません。公共の福祉のために、必要な場合には制約を受けることもやむを得ないと考えられます。 ただ、その場合に、
裁判所
といたしましては、制定されております
法律
が一体どのような
目的
を達成しようとしているのか、そして、その
目的
はどのように重要なものなのか、これを当然見きわめるべきだと思いますし、
法律
がとっている手段、
手続
が、その
目的
を達成するために必要なものなのか、どの程度必要なものなのか、これをやはり
裁判所
はしっかりと見きわめる必要があるのではないかと思うわけです。 ところが、現実には、
最高裁判所
の
判決
で、特に表現の
自由等
に関する
判決
の中には、今お話をしたようなことについてほとんど触れることなく、重大な害悪をもたらす危険のある
行為
であるからとか、おそれがあるから、したがってその制約はやむを得ないというふうに、いとも簡単に制約を認めてしまっている
判決
がかなりございます。 私は、表現の自由についても絶対無制約だとは思いませんけれども、その制約を認めるに当たりましては、今お話をしたような、立法
目的
が何なのか、その
目的
は正当なのか、どの程度重要なのか、とられようとしている手段はその
目的
を達成するために必要なのか、どの程度必要なのか、それをもっとしっかりと
審査
した上で、本当にやむを得ないものだけを合憲といい、そうでなければやはり
憲法違反
だと
判断
すべきではなかったかと考えているわけです。
山口富男
41
○
山口
(富)小
委員
私は、
基本的人権
については、これは
憲法
がとわの
権利
、永久の
権利
として定めたもので、その制約というのは非寛容の
立場
なんです。 それで、最高裁がそういう
現状
にあるのは共通の認識があると思うのですが、下級審の方で、例えば朝日
訴訟
で生存権について光が当てられたり、長沼ナイキ
訴訟
で平和的生存権について非常に意義深い
判断
がなされたりする形で、下級審での
憲法
判断
というのは幾つかあるわけですね。そうしますと、最高裁の
現状
と、それから下級審の、そういう
憲法
についてその後
解釈
や
理解
を深めたような
判決
の問題、それはどういう関係にあるというふうにごらんになっていますか。
松井茂記
42
○
松井参考人
日本
の
現状
の
制度
のもとでは、
下級裁判所
の
裁判官
も
最高裁判所
の
裁判官
と同様、
司法審査権
を行使することができますので、
下級裁判所
の
裁判官
も
裁判官
として
法律
の
憲法適合性
を
審査
し、
憲法違反
だと考えれば当然
違憲
の
判決
を下すことができるはずでございます。 ただ、私は、
日本
の
現行
の
制度
のもとで、
裁判所
の
判決
というものには重みがあるので、一たん
裁判所
が
判決
を下した以上はその
判決
の重みをしっかりと受けとめるべきだと考えておりますので、先例があればその先例に従うべきだ、
原則
として従うべきではないかと考えております。したがいまして、下級審の
裁判官
といたしましては、
最高裁判所
の先例があればその先例に
原則
として従うというのが本筋ではないかと思います。 ただし、
最高裁判所
の
判決
が常に正しいとは限りませんし、また時代の流れの中で
最高裁判所
の
判決
が疑問とされるような場合もございます。したがいまして、下級審、
下級裁判所
の
裁判官
は、そのような一定の制約はございますが、その中で、みずからの
裁判官
としての良心に基づき、
法律
の
憲法適合性
を
審査
していけばいいと考えております。 ただ、
現状
のもとでは、
最高裁判所
の司法行政権の縛りの中で、
下級裁判所
の
裁判官
は必ずしも、
先ほど
お話をしたような、自由な
立場
で
憲法
解釈
をすることができないような事態に陥っているのではないかということがしばしば指摘をされております。ですから、私は、そういう点でも、
下級裁判所
の
裁判官
の任命あるいは人事の
あり方
等について、一定の
制度
改革を行い、それによって
下級裁判所
の
裁判官
もしっかりと独立して
司法審査権
を行使することができるように促進すべきではないのかと考えております。
山口富男
43
○
山口
(富)小
委員
時間が参りましたので終わりますが、最後におっしゃいました司法
制度
の改革で、官僚的な
裁判官
への行政指導、そういう問題についても改革が必要だという点は全く同感です。 ありがとうございました。
高市早苗
44
○高市小
委員長
金子哲夫
君。
金子哲夫
45
○
金子
(哲)小
委員
社会民主党・市民連合の
金子
でございます。 幾つか、お話の中でお伺いをしたい点がございますので、質問させていただきたいと思います。
参考人
は、
憲法
は市民の
政治
参加のプロセスを
保障
するものという
考え方
に立たれて、
裁判所
の
役割
というものも、
司法審査
というのは市民の
政治
参加のプロセスに不可欠なものを中心に行うべきだということで、逆に言いますと、
基本的人権
をめぐる
憲法
訴訟
にあっても、問題とされるような
基本的人権
が市民の
政治
参加のプロセスに不可欠な
権利
である場合には積極的にやるべきで、そうでないような場合には、
国会
の
判断
を尊重して緩やかな
審査
をすることが妥当だというようなお考えのようにお伺いいたしました。 そうしてみますと、
基本的人権
の中に市民の
政治
参加のプロセスに不可欠な
人権
、例えば今表現の自由というようなこともおっしゃいまして、そういうのはそういうことになるのかな。そうでないもの、例えば経済的な自由とかいうことを指されているのかなというふうに思うんですけれども、その他にさまざまな
基本的人権
が
保障
されているわけですけれども、一体それは何が
政治
的な参加のプロセスというふうに考え、そしてそれは
政治
にゆだねればいい、
憲法
上に
規定
されている問題に対しても、というふうな
判断
になりますと、具体的にもうちょっと詳しく、先生のお考えの中で、例えばの
事例
で結構ですけれども、こういうものとかというふうなことがありましたら、お教えいただきたいと思います。
松井茂記
46
○
松井参考人
もともと
基本的人権
の発達の過程の中で、本来、
基本的人権
の出発点となりましたのはイギリスのマグナカルタでございますが、イギリスでずっと認められてまいりましたのは、主として、
裁判
手続
によらないで財産や生命等を剥奪されないというような
手続
的な
権利
ですとか、同意がなければ課税をされないというふうな、そういう
権利
でございます。ですから、私は、本来の
国民
の
権利
というのは、そのような意味で、
手続
的な性格を持っている
権利
だったのではないかととらえているわけです。
日本国憲法
は、そのような諸外国、特に欧米等で発達してきた
権利
保障
の
考え方
を引き継いで、第三章の中で
国民
の
権利
を
保障
しているわけですが、私は、そこで
保障
されている
権利
のほとんどについて言えば、そのような意味で
手続
的な
権利
だと考えることができるのではないかと思っているわけです。特に典型的な
権利
として、十五条の
選挙
権、それから二十一条の表現の自由を挙げさせていただきましたが、私は、十五条を含め、ずっと挙がっているもののほとんどは、そういう意味で
政治
参加に不可欠な
権利
と考えることができると考えております。 ただ、二十九条が財産権を
保障
し、また二十二条が職業選択の自由を
保障
しておりますが、これらは
一般
的に、経済的な自由を
保障
したものだと
理解
されております。 これらの経済的自由や財産権の問題につきましては、私は
先ほど
お話をしたような観点から申しますと、
代表者
を信頼できないと考えるような特別な理由はないのではないかと考えておりまして、
代表者
の
判断
に
原則
としてゆだねておき、そして、もし何かその
代表者
の
判断
に不都合があった場合には、
国民
が次の
選挙
でその
判断
を覆す機会があるわけですので、そのような機会が確保されているということを条件にしてでございますけれども、これらの問題については、
裁判所
は
国会
の
判断
を尊重し、
国会
に
原則
としてゆだねておくのが望ましいのではないかと考えている次第です。
金子哲夫
47
○
金子
(哲)小
委員
ありがとうございました。 一つ具体的なことでお伺いしたいんですけれども、民法の相続にかかわって、婚外子の差別
規定
があるわけです。これについて、最高裁は今のところ合憲というような
判断
を出しておりますけれども、この点について
参考人
の御
意見
をお伺いしたいことと、もし、仮にそのかかわりの中において、今お話が出てきました、例えば
違憲
だというふうに考えられるとしたら、この市民の
政治
参加のプロセスに不可欠の関係からいいますと、どういうふうに考えたらいいのかということをお伺いしたいと思います。
松井茂記
48
○
松井参考人
憲法
の仕組みの中では、私は、個々の市民が
政治
参加の
権利
を持っていると同時に、
憲法
第十四条に示されますように、すべての市民が平等に扱われるということが不可欠ではないかと考えております。 その観点から申しますと、
日本国憲法
の第十四条が特に人種、信条、性別、社会的身分または門地による差別を禁止しておりますけれども、これらは、過去の経験のもとにおきまして、不合理な差別が行われてきた典型例だと考えられて、明示的に禁止をされたのではないかと考えております。 したがいまして、私は、そこに挙がっているような理由に基づきまして
国民
相互間で差別を行う場合には、極めて例外的な場合を除いて、許されないと考えるべきではないかと思っております。 いわゆる婚外子ないし非嫡出子と呼ばれる方がこの列挙されている事由に当たるかどうかということでございますが、
最高裁判所
はそのようには
判断
しておりませんが、私は社会的身分の中に当たるのではないかと考えておりますので、婚外子ないし非嫡出子の方に対する異なった取り扱いは、極めて例外的な場合を除いて、許されるべきではないと考えておりますので、私自身の
理解
では、相続上の差別は
憲法
第十四条に反し、
憲法違反
なのではないかと考えております。
金子哲夫
49
○
金子
(哲)小
委員
それでは、国際条約との関係でお伺いしたいんです。 特に、一九七九年に
日本
が批准した国際
人権
規約のB規約、いわゆる社会権規約を援用して
憲法
訴訟
を起こした場合、
日本
の
裁判所
は、条約の
解釈
とか適用について極めて消極的な状況にあると思うんです。最高裁に至っては、実際には民事
訴訟
法の三百十二条によって、上告の理由に当たらないということで棄却をするというような決定を下していると思いますけれども、このような国際条約との関係の中における
裁判
の
現状
について、
参考人
はどのようにお考えでしょうか。
松井茂記
50
○
松井参考人
もちろん、
日本国憲法
のもとで条約は十分尊重されるべきだと思いますし、また、特に国際的な
人権保障
に関する条約の
趣旨
は十分尊重されるべきだと考えております。 したがいまして、
日本
の国内におきましても、特別な
法律
上の措置がなくても自動的に執行可能であるような、いわゆる自動執行的な条約につきましては、当然
裁判所
において適用され、
裁判所
におきまして、その条約に
違反
しているかどうかということを争うことができるべきだと考えております。 ただ、さまざまな国際条約が
保障
していますいわゆる国際的
人権
のほとんどのものは、実は
日本国憲法
が
保障
している
基本的人権
とかなりのところオーバーラップしておりまして、
訴訟
当事者の方が
憲法違反
と同時に条約
違反
を主張されましても、実質的には同じ論点になっておりまして、
憲法違反
を主張すれば当然上告の可能性はありますので、条約
違反
だけでは上告できないということがそんなに致命的な問題かどうかといいますと、必ずしもそうは言えないかなというふうに思います。 他方で、
最高裁判所
が
事件
を取り上げるかどうかということにつきましては、私は、ある程度
最高裁判所
が引き受ける
事件
数というものを制限し、それによって個々の
事件
を十分
審査
、検討する時間的な余裕を確保することが望ましいのではないかと考えておりますので、ある程度
最高裁判所
が上告を受理する裁量をきちんと認めていく方がむしろ
制度
的には望ましいのではないかなと考えております。
金子哲夫
51
○
金子
(哲)小
委員
時間になりましたので、これで終わります。ありがとうございました。
高市早苗
52
○高市小
委員長
次に、井上喜一君。
井上喜一
53
○井上(喜)小
委員
井上喜一でございます。 きょう、
参考人
、お忙しいところ本当に御苦労さまでございます。簡潔に質問をいたしたいと思うのであります。
法律
解釈
、これは
憲法
解釈
を含めてでありますけれども、私は、司法が
判断
する場合、大変重要なものだと思います。今、内閣法制局が、いわゆる有権
解釈
と称しまして、
憲法
を初めいろいろな
法律
につきまして公定の
解釈
をいたしております。特に
解釈
が必要でないような
法律
もありますが、私は、要するに立法と司法は別なんだという
考え方
をすれば、それは司法が独自に
判断
していいんだ、そういうことも言えるかと思うんでありますけれども、現実には、
法律
解釈
、大変大事だと思うんですね。そういう点からいいますと、立法府が
憲法
を含めて
法律
の
解釈
のガイドラインをきちっと出していく、こういうことについてどういうお考えをお持ちですか。
松井茂記
54
○
松井参考人
法の
解釈
というのは司法の
権限
でございますので、それは
憲法
上
裁判所
に与えられた
権限
だと考えます。 したがいまして、その法
解釈
をどうあるべきだということを
国会
が
裁判所
に対して命じるということは、やはり許されないのではないかと思います。
井上喜一
55
○井上(喜)小
委員
ただ、立法の
趣旨
はこうなんだ、こういう条文はこういうことで
規定
されたんだということは、立法府として当然言うべきじゃないかと思うんですが、いかがですか。
松井茂記
56
○
松井参考人
立法
目的
あるいは立法の
趣旨
等を
法律
を制定する際に明記すること、あるいは、その
法律
の
解釈
に当たって考えなければいけないことを
法律
の中に
規定
すること、これは当然許されることでございます。また、
国会
が
法律
を制定するに当たりましては、立法
目的
をしっかりと明記するということは非常に意味のあることでございまして、そのようなことが行われれば、当然、
裁判所
はその立法に明記をされている
目的
に照らして
法律
を
解釈
することができますので、それは非常に
参考
になると思います。 しばしば、立法ができる過程でいろいろな妥協がなされた結果、立法
目的
が非常に複雑になっているような
事例
では、
裁判所
はその
法律
の
趣旨
を
解釈
する際に非常に困難を覚えますので、そういうふうな形で明記をされているというのはやはり望ましいと言えると思います。
井上喜一
57
○井上(喜)小
委員
解釈
で百八十度違うような結果になる場合もあるわけです。現に、
憲法
九条、自衛権で、特に集団的自衛権の
解釈
につきまして大きく割れているわけですね。自衛権もある、集団的自衛権もあるんだけれども、その行使はできないんだというのが今の内閣法制局の
解釈
なんです。ところが、いやいや、それは
解釈
を変更すれば集団的自衛権だって行使ができるんだ、そういう政党もあるわけであります。これなんかは、
解釈
の問題とはいえ、
日本
の
政治
にあるいは国際社会とのかかわりに非常に大きな影響を与えるものだと思うんですよ。単に
解釈
の問題としてあるいはそれを司法に
判断
してもらうというようなことが適切なのかどうなのか。
統治
行為
論なんかあります。ありますけれども、
憲法
九条の
解釈
というのは若干違うんじゃないかとも思うんです。ですから、私は、
統治
行為
に関連する分野は司法の
判断
の外だということ、大体それは定説的になってきていると思いますけれども、それ以外にも、司法が
判断
をする、それが
日本
の命運を決するような分野については
判断
を控えるべきじゃないかという感じがするんですね。 ですから、
統治
行為
以外に何かそういう分野があるんじゃないかと思うんですが、これについての
参考人
の御
意見
をお伺いしたいのです。
松井茂記
58
○
松井参考人
憲法
の
解釈
におきまして、
先ほど
お話をさせていただきましたように、私は、
裁判所
の
固有
の分野といいますか
責任
のある領域と、それから
国会
の
判断
を尊重すべき分野と二つあるのではないかというふうに考えておりますけれども、
統治
行為
論と呼ばれますように、高度に
政治
的であるというだけの理由で
裁判所
の
司法審査
が及ばないという領域は認められないのではないかというのが私の
考え方
でございまして、
憲法
が
統治
のプロセスの基本を定めております以上、その
統治
のプロセスの
手続
について言えば、
裁判所
に
固有
の
権限
があると考えてもいいのではないかと思っております。 ただ、
先ほど
もちょっと出た点ですが、
憲法
の中には、経済的自由の問題も含め、必ずしも守らなければいけない
手続
的な約束事とは言えないようなものも含まれております。九条の問題は非常に微妙な点でございますが、そういう問題につきましては、
裁判所
が独自に
司法審査権
を行使して
憲法
解釈
を行うよりは、
国会
あるいは
国会
と内閣を含め、
政治
の場における
解釈
あるいは
判断
に基本的にはゆだねておくというのが望ましいのではないかというふうに考えていますので、高度に
政治
的かどうかという観点よりは、
裁判所
の
固有
の領域かどうかという観点で区別をした方がいいのではないかというのが私の
考え方
でございます。
井上喜一
59
○井上(喜)小
委員
まさにそれでありまして、その
固有
の分野がどういう範囲まで入るのか、その辺のところをもう少し具体的にお話しいただけたらと思うのです。
松井茂記
60
○
松井参考人
私の
理解
では、
憲法
の定めている
基本的人権
のほとんどのものは
手続
的な約束事だと考えておりますが、
先ほど
触れさせていただきましたように、
選挙
権ですとか思想、良心の自由、表現の
自由等
の
国民
が市民として
政治
参加をするために不可欠な
手続
、そして、そのようにして
国民
が
政治
参加をし、その上で
国会
が
法律
を制定し、その
法律
が具体的に適用される際に問題になるさまざまな
手続
的な
権利
、これは刑事
裁判
ですとか行政
手続
上の
権利
も含まれると思いますが、これらの問題については
裁判所
の
固有
の
権限
だと考えてもいいのではないかと考えています。
井上喜一
61
○井上(喜)小
委員
それから、
憲法
と条約の関係です。
日本国憲法
は、九十八条、九十九条、あるいはその他の条文も関連したものはありますけれども、今のこの運用は、国内法では
憲法
を頂点にした
法律
体系を
前提
にしていると思うのですね。仮に、その国内法が、
日本
が批准をしております条約と矛盾することがありましても、国内法というものを
前提
にして今
制度
が組み立てられている、こういうことだと思うのであります。この点について、そうでない、いやいや国際法が優位で、国際法と矛盾するといいますか、背馳する国内法は無効なんだというような説もあろうと思うのでありますが、
参考人
自身、この
解釈
についてはどんなお考えなんですか。
松井茂記
62
○
松井参考人
国際法と国内法の関係につきましては、御指摘のように、いろいろな
考え方
がございまして、
憲法
を頂点といたします国内法よりも国際法の方が優位するという
考え方
が確かにございます。ただし、現在の
日本
の
憲法学
説の支配的な
考え方
は、国内法の仕組みといたしましては
憲法
が最終的に優位するという
考え方
に立っておりますので、国際法であります条約が国内法的に適用される限りにおきましては、
憲法
が条約に優位するというのが支配的な
考え方
でございます。 その点に関しましては、私もその支配的な
考え方
と同様、国内法秩序におきましては
憲法
が
最高法規
でありまして、条約が国内法に適用される限りにおきましては、条約は
憲法
に
違反
することはできないと考えております。
井上喜一
63
○井上(喜)小
委員
ありがとうございました。 以上です。
高市早苗
64
○高市小
委員長
次に、
額賀福志郎
君。
額賀福志郎
65
○額賀小
委員
松井
先生、もう二時間近くなるわけでありますが、どうも御苦労さまであります。どうぞリラックスしてください。 多くの
委員
の皆さん方からお話があったわけでありまして、私は視点を変えまして、先生のコメントをいただいた中にこういう文章があります。「
日本国憲法
が
前提
としている個人は、好きなことをさせてくれ=ほっておいてくれと主張するだけの個人ではなく、他の人と共に
政治
共同体を組織し互いに他を尊重しながら一緒にやっていくことを求める「市民」としての個人。」そういうものが
憲法
の
前提
になっているというお話でございます。 そうすると、現在の
国民
の皆さん方の意識とか認識というものが、
民主主義
の
原理
原則
の一つである個人主義について、先生が
前提
としておっしゃったようなことが共通の認識として持っておられるかどうかについて、まず聞かなければなりません。私は、そうはなっていないというのが
現状
だと思います。 そうすると、
憲法
の
前提
が崩れていくことになるわけであります。そういたしましたならば、では、そういう今の私の認識のように、
現状
は先生がおっしゃったようなことにはなっていないとするならば、それはどういうわけで先生が理想とするような形になっていないのか、その原因を探らなければならないと思います。 私は、やはり戦後の教育とかあるいは
憲法
の導入の仕方とか、あるいは
憲法
が
国民
になじんでいない背景、こういうものをきちっと整理していかなければ、
国民
の間に、おっしゃるような個人主義というようなもの、あるいは
憲法
というものが定着していかないのではないかという思いがするわけでありますが、まずこの認識について、お聞かせいただきたい。
松井茂記
66
○
松井参考人
御指摘のように、現在
国民
の多くの方が私が考えるような
考え方
を共有しているかとおっしゃられますと、私も、確かに必ずしもすべての方によって共有されているわけではないということを認めざるを得ないと思います。 また、実際、
先ほど
も申し上げましたように、
日本
の
憲法学
においてすら、個人というのは裸の人間であって、それは干渉されることなく、みずからの命の生き方をみずから決定していく、それが個人だという
考え方
が支配的でございまして、私のように、個人というのは本来
政治
参加をする
政治
的な存在なんだという
考え方
は極めて少数の
立場
でございます。ですから、
前提
条件が満たされていないのではないかというのは御指摘のとおりだと思います。 ですから、私は、むしろ本来の
日本国憲法
の
趣旨
は私の考えるような意味での個人主義だったのではないか。それが、残念ながら、
日本国憲法制定
後の歴史の中で十分
理解
されることなく、現在のような支配的な
考え方
になってしまったのではないか。そうだとすれば、むしろもう一度原点に立ち戻って、
日本国憲法
の本来の
趣旨
というもの、私の考えるところの
趣旨
というものを見直し、そこに復帰をする、そしてその上で、新しい
世紀
にふさわしいような
日本国憲法
の
理解
をつくっていくということが望ましいのではないかと考えている次第です。 なぜ私の考えるような
考え方
が共有されないような状況になったのか、理由については私なりにいろいろと考えることがございますが、やはり戦後の歴史の中で、
政治
というものが身近なものではなく、どちらかというと
一般
の方からいうと遠い存在であったということと、本当は
一般
の方々にとって日常の生活というのは極めて
政治
的だと思うんですが、何か
政治
的だということが望ましくない事柄であるかのように思われてきてしまったということ、それが非常に問題だったのではないか。 それから、教育
制度
のことも御指摘ございましたが、私は、子供のうちから
政治
参加をするということがもっと強調されておれば、教育の場におきましても、
政治
参加ということがもっと積極的に評価されたのではないかというふうに思っております。 一例を申し上げますと、
日本
では未成年者が
選挙
運動等を行うことができないことになっておりますが、
アメリカ
等におきましては、
選挙
におきまして子供もいろいろな形で
政治
参加をしております。もちろん、未成年者はまだ
判断
能力が十分ではありませんので、完全な市民として参加をすることはできないわけでございますけれども、子供のうちから積極的に市民参加をするということが促進され、そしてそれがもっと身近な問題として意識されるようになれば、多くの方が積極的に市民参加をしていただけるのではないか。 そして実際、
現状
におきましても、さまざまな形で、市民運動ですとか、身近なところから
政治
参加をしていただける方々はどんどんふえてきておりますので、私は、必ずしも
政治
参加する市民を
前提
とした私のような
考え方
が全く異質な
考え方
だとは思っておりませんで、この
考え方
が多くの方によって共感していただければ、もっとこういう
考え方
が広く受け入れていただけるのではないかと考えております。
額賀福志郎
67
○額賀小
委員
私も、
松井
先生と共有する部分があるのであります。やはり、これから多くの住民の皆さん方が、行政が簡素化されていく、あるいはまた
政治
が小さくなっていく中で、NPOとかNGOとか、市民の参加、住民、
国民
の参加というものは不可欠でありましょう。そういう中で新しい
民主主義
のシステムがつくられていくんだと思います。 もう一つは、先生もおっしゃったように、
政治
が身近でないという原因の一つは、
憲法
にはいろいろと、
人権
主義だとか、国際主義だとか、あるいはまた平和主義だとかがありますが、一つ一つ概念が我々の体の中にそしゃくされていないものだと思います。それはやはり原点に返って、長い歴史の慣例だとか、伝統だとか、そういう中からもう一つ再構築していく必要があるんではないかなという思いをいたしております。 もう一つ先生にお聞きしたいのは、
日本
の
裁判
は、
事件
とか
訴訟
がなければ
司法審査権
というか、そういう司法の活性化が生まれてこなかった一つの要因であると。
アメリカ
みたいに、司法が、
事件
とか
訴訟
がなくてもいろいろ関与できることはできるんだから、やったらどうだという話をなされましたね、どんどん司法を活性化していくためには関与していっていいのではないかと。そうすると、いわゆる司法が立法府のように
政治
化していくおそれというのはどうなんでしょうか。
松井茂記
68
○
松井参考人
先ほど
申し上げましたように、
日本
の
裁判所
の
制度
というのは
アメリカ
型だと
一般
に考えられておりますので、
アメリカ
も
日本
も、
事件
、
争訟
がないと
司法権
を行使することができません。したがいまして、
裁判所
は
司法審査権
を行使することができないという仕組みになっております。 この建前は
アメリカ
と
日本
は変わらないんですが、
アメリカ
では、それにもかかわらず、
法律
が制定をされた場合には、その
法律
の
違憲
の確認と執行の差しとめを求める
訴訟
を
通常
提起することができて、
司法審査
を行使することができるんですが、
日本
ではなぜかそれができないと考えられている。 私は、その
日本
の
考え方
が
日本国憲法
の
解釈
としては誤っているのではないか、だから、
アメリカ
でできるのであれば、
アメリカ
のように考えることも可能だということを申し上げさせていただきました。その結果といたしまして、
裁判所
が
法律等
の
憲法適合性
について
審査
をする範囲といいますか機会は、私のような
考え方
をとりますとかなり拡大するだろうというふうに思います。 ただし、
先ほど
来申し上げましたように、私は、
裁判所
のすべき事柄というのは、すべての社会正義の実現でもないし、社会に存在するすべての害悪を除くことでもないし、
国会
の
判断
が常に正しいかどうかということを監視することでもなく、もっと限定的だと考えておりますので、御指摘のように、
裁判所
が何か
国会
にかわるようなオールマイティーな存在になるということはないというふうに考えております。
額賀福志郎
69
○額賀小
委員
時間が来ましたので、ありがとうございました。
高市早苗
70
○高市小
委員長
次に、伴野豊君。
伴野豊
71
○伴野小
委員
民主党の伴野豊でございます。
松井
先生におかれましては、お忙しい中をお越しいただきまして、ありがとうございます。 お聞きするところによりますと、愛知県御出身ということで、私も同郷でございまして、先生のような優秀な方を輩出しているということで心強く思っている次第でございます。 私なりには、きょうのお話を、知的好奇心を刺激していただく非常に有意義なお話ということで承らせていただいたんですが、時間の許す限り、幾つか質問させていただきたいと思うわけでございます。 まず、素朴な疑問として、
言葉
じりをとらえるつもりはないんですが、先生のこのレジュメの中にも出てまいります「
学説
の多くは」というこの表現の仕方なんですが、自然科学におきまして、その手の
学説
の確からしさというのは、再現性という、例えばどの実験室でやっても同じ
前提
条件であれば、Aという物質とBという物質を合わせればCというものが出てくる。例えばプログラムであれば、一つのモデル式の中に同じ
前提
条件のデータをぶっ込めば同じ結果が出てくる。いわゆる再現性をもってその確からしさというのを表現するんですが、この先生のいわゆる
憲法学
界ということにおいては、これは私のうがった見方をすると、それは権威というもので
代表
されてしまっているのではないかという嫌いがあるんですが、先生のこの「
学説
の多くは」という表現の意味と、
憲法学
界においての
学説
の確からしさというのは何をもって表現するのか、教えていただければ。 二つ目でございますが、先生の、
裁判所
は
役割
を果たすべきみずからの
立場
を明確にしてこなかったというところとか、あるいは、
学説
も
最高裁判所
の
立場
を
批判
しながら云々というくだりがあるわけでございますが、
国会
も
政治
家も、私ははっきり申し上げて、この点のお話についてサボってきたと思っているんですが、今後はどうあるべきかということを教えていただければ。私は、やはり
最高裁判所
はみずからの
立場
を明確にすべきだと思いますし、
学説
も、それをきちっと、
批判
を覚悟で明確にすべきではないか、そんなふうに思います。先生の御
意見
をいただければ。 それから三点目でございますが、
先ほど
伊藤先生の質問のお答えの中で触れていらっしゃいましたが、最高
裁判
事すら
憲法
に触れたくない潜在意識があるというようなお話があったと思うんですが、私は、これはやはり、どういうことを唱えようと、
解釈
によって随分
言葉
じりをとらえられる可能性がある
憲法
であると。 もっと言うならば、中学生が読んでわかるように書きかえるべきだという持論を私持っているんです。先生の著書の中に「
日本国憲法
を読み直す」というのもあったわけでございますが、読み直した上で、だれが読んでもそのように
解釈
できる、一つの基準として、中学生の方が読んでわかるようなものにすべきではないか。そういうことをしてこなかったから、最高
裁判
事すら
憲法
に触れたくない、抽象論になっているんではないかなというような感じがいたしているので、そのあたりのところ、いかがでしょうか。 それから、
先ほど
額賀先生の質問の中にも出ておりましたが、やはり私は、教育と
憲法
あるいは
法律
というのは不可分のものだと思っております。それで、私のみずからの経験からしましても、最低限義務教育の中で
憲法
なり
法律
なり、こういう
憲法
があります、こういう
法律
があります、いついつできましたぐらいのことは社会科の中でやるわけですが、その中身に対して伺ったというのは、私の経験上もほとんど皆無でした。 ですから、
先ほど
先生の持論の中の
政治
に参加する市民という感覚からすれば、
選挙
権を持つまでに、義務教育の中で、我が国の
憲法
なり
法律
なりはこういうものだ、あるいはまた国際法とはこういうものだと、派生してくる周辺の歴史とか哲学とあわせもって、できることなら私は義務教育の中でしっかりやるべきではないかという考えを持っております。そういう基本的なことすら教えられない現代の大人は、ゆとり教育とかそういうことを語る以前の問題ではないかというふうに思っているんですが、そのあたり、先生はどうお考えか。 それから、時間がありませんが、もう一つ質問させていただければと思うんですが、いわゆる
統治
の
手続
を定めたプロセス的な文書と見るプロセス的な
憲法観
ということを
前提
にした場合、
憲法
はそれだけを書き込めばいいのでしょうか。そうした場合に、
現行
の
憲法
九条のような条項はどうとらえるべきなのでしょうか。 以上五点、時間の許す限り、お教えいただければ。
松井茂記
72
○
松井参考人
学説
と申しましても、
日本
で
憲法学者
という明確な定義がございませんし、学会に所属をしている方も非常に多く、私が所属をしております
日本
公法学会の会合におきましても、場合によっては千人近い方が来られますので、アンケートをとって数的に確認をしたわけではございませんので、
通常
、我々が通説とか支配的な
学説
というふうに言うときには、やはり有力な指導的
立場
にある
学説
のことを指して使っております。これは、
憲法
の個々の条文等に関します
解釈
に関する
学説
でございますので、その
解釈
につきまして、正当か、客観的に検証することができるようなものはございません。したがいまして、
解釈
が妥当かどうかというのは、ひとえにその
解釈
の説得力にかかっております。 したがいまして、
先ほど
触れましたように、
学説
の多くが、あるいは支配的な
学説
が私とは違った
考え方
をとっておりますけれども、それは
一般
にそのように考えられているということでございまして、私としましては、それとは違う
考え方
を提唱することによって、一人でも多くの方に違った
考え方
をとっていただきたいというふうに考えているわけでございます。 それから第二点でございますが、
最高裁判所
におきましても、なかなか
憲法
について触れることが難しいといいますか消極的な形での姿勢が多いというのは、やはり何か
憲法
が特別だというふうな意識が非常に強いのかもしれません。私は、
先ほど
触れましたように、
憲法
がそれほど特別なものだとは考えておりませんので、もっと身近なところで
憲法
を見出していくべきなんではないかというふうに考えています。その点が、多分、
先ほど
の三番目の点にかかわっていくのではないかと思いますけれども。 ただ、
憲法
というのは
統治
の基本を定めたものでございますので、そうたびたび改正することは望ましいかどうかは、やはり疑問ではないかと思います。そのことを考えますと、
憲法
の
規定
というのは、何年、何十年という先を見据えて
規定
をしなければいけませんので、余りにもきっちりとした
規定
にするということは困難だと思いますし、またそれが望ましいとは言えないのではないかと思います。
先ほど
お話をしましたように、私自身は、
憲法
というのは、本来は、
目的
を定めたものではなくて、
手続
的な約束事を定めたものだと考えておりますので、そのようなとらえ方をすれば、現在の
日本国憲法
の
規定
の程度でも十分
一般
の市民の方にわかっていただけるのではないかと思いますし、そんなに
日本
の
憲法
が難しい条文だとは考えておりません。 それから、教育の場におきまして
憲法
をもっとしっかりと教える必要があるのではないかという点でございますが、私も、子供のころからの教育の中で
憲法
の
趣旨
をもっとしっかりと教えていただくということは、非常に必要なことだと考えております。 しかも、ただ単に
趣旨
を教えるというだけではなく、
先ほど
触れさせていただきましたように、子供のうちからさまざまな形で
政治
にかかわる、あるいは社会に参加するということが実践として行われるようになることがむしろ望ましいのではないか。その中で、子供がみずから主体的に
政治
の事柄、あるいは社会の事柄について考え、そしてその上でみずからの
考え方
を形成していって、最終的には成人になって
選挙
権を行使することができる、そういう全体のプロセスの中で教育を考えていく
必要性
があるのではないかと思いますので、できれば、教育の中で
憲法
の
趣旨
が教えられると同時に、そういう実践的なものが幅広く行われるような仕組みになってもらえるとうれしいなというふうに考えております。 それから最後に、
憲法
九条の点でございますが、私自身、
憲法
九条につきましてはずっと考え、その間、どのように考えるべきなのか何度も悩んできたところでございます。したがいまして、九条をどのようにするのかということにつきましての私の
考え方
をすっぱりと申し上げるということは、非常にまだ難しいということをあらかじめお断りした上ででございますけれども、私は、
日本国憲法
が九条で平和主義を定めたということの意味は非常に高く評価しております。ただ、平和を実現するためにどのような手段をとったらいいのかということについて、
日本国憲法
の九条が余りにも一義的に定め過ぎているのではないかという
批判
は、当然あり得るところだろうと思います。
先ほど
来、
憲法
の
解釈
について、いろいろな
解釈
があるのではないかということが御指摘されましたが、私も、
憲法
九条につきましては必ずしも一義的な
規定
ではないと考えておりますので、この
憲法
九条の平和主義の枠の中でどのような措置が許されるのかということについては、
解釈
は分かれ得るのではないかと思っております。その際に、
裁判所
がそのうちの一つの
解釈
をとって、
国会
あるいは内閣がとった措置を
憲法
に照らして
判断
すべきなのかという点が当然問題となると思います。 私は、
先ほど
触れさせていただきましたように、
統治
行為
という
考え方
は適切ではないと思いますので、
裁判所
は、
憲法
九条に関しても、
統治
行為
だとして逃げることなく
憲法
の
解釈
を行い、そして
国会
、内閣のとった措置を
憲法
に適合しているかどうかということを
判断
すべきだと思いますが、現時点におきましては、私は、この問題について
裁判所
が
憲法
九条に照らして踏み込んだ
審査
をするというのは非常に困難ではないかと考えておりますし、また、
先ほど
お話をしたような私の
考え方
では、この問題は、最終的には
国民
の
政治
的な
判断
というものを尊重した方がいいのではないかと考えております。 ですから、この九条に関する問題に関して言えば、
裁判所
が、
政治
プロセスの
判断
を尊重し、最終的には
国民
の
政治
的な決定にゆだねるのが適切な対応なのではないかと考えております。
伴野豊
73
○伴野小
委員
ありがとうございました。
高市早苗
74
○高市小
委員長
これにて
参考人
に対する質疑は終了いたしました。 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
松井
先生におかれましては、長時間御一緒いただき、貴重な
意見
をお述べいただき、また大変明快な御答弁もいただき、心から感謝を申し上げております。小
委員
会を
代表
いたしまして、御礼といたします。ありがとうございました。(拍手)
—————————————
高市早苗
75
○高市小
委員長
これより、本日の
参考人
質疑を踏まえ、
政治
の
基本機構
の
あり方
について、小
委員
間の自由討議を行いたいと存じます。 一回の御
発言
は、五分以内におまとめいただくこととし、小
委員長
の
指名
に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いをいたしたいと存じます。 小
委員
の
発言
時間の経過につきまして、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせしたいと存じます。 御
発言
を希望される方は、お手元にあるネームプレートをこのようにお立てください。御
発言
が終わりましたら、またネームプレートを戻してください。 それでは、ただいまから御
発言
を願いたいと存じます。
島聡
76
○島小
委員
きょうは、私どもは
憲法裁判
所の話をさせていただきました。
先ほど
仙谷
委員
にちょっと教えていただいたんですが、例えば
ドイツ
の
憲法裁判
所があって、
法律
が
違憲
であるといったときには、
法律
を執行停止するのか、それから
憲法
を変えるのか、どちらなんですかというふうにお聞きしましたら、要するに両方ともあると。もちろん、
憲法
を変える方が難しいんだ。ただ、そういう
憲法
の改正についてあいまいなまま五十年も置いておかないということだという話をお聞きしました。非常にそれは重要な
考え方
だと思うんです。 きょう、司法消極主義の話、これは私の思い込みかもしれませんが、
日本
の
憲法
は変えるのに余りに厳しい。九十六条で、御存じのように、非常に厳しい
憲法
状況になっています。そうなってくると、司法の方も消極主義にならざるを得なかったんじゃないかなと思うときがあるわけです。 例えば、きょうは
ドイツ
や
アメリカ
の例を出されましたが、
アメリカ
や
ドイツ
の
憲法改正
手続
には
国民
投票はありません。
国民
投票を
規定
した
日本国憲法
が制定された当時の
日本
人口は約七千万人で、今は一億二千万人です。これだけの
国民
投票というのは、今
国民
投票法の
議論
もありますが、物理的にもかなり難しくなってきています。
国民
投票を
規定
している先進国で一番大きい国はフランスで、これは五千九百万人ぐらいであります。 何を申し上げたいかというと、本当にこの
憲法
を生きたものにする。塩野七生さんがおっしゃったように、ローマ繁栄の原因が、人間を法に合わせたんじゃなくて、法を人間に合わせたことにあるとするならば、司法消極主義になってしまった原因も、ひょっとしたら、物すごいかたい、硬性
憲法
であったことにも原因があるんじゃないかということも含めると、
憲法改正
手続
を伴う九十六条というものをある意味で検討して、例えば
アメリカ
や
ドイツ
のように、
国民
投票の部分もあってもいいし、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で
憲法
の改正案が可決されるということにしておけば、そこまで取り上げていけば、ある意味で、司法の問題というのも、消極主義というのも、もう一歩前進するのかなということを私自身思った次第でございます。 私どもは、
憲法裁判
所というものをやはり
議論
していく必要があるという思いを、きょう改めて、先生の御
意見
はちょっと慎重論でありましたけれども、私は、
憲法裁判
所というものをきちんと考えて、
先ほど
うちの伴野議員が、
政治
家の方も問題を先送りにしたというような御
趣旨
で言われましたけれども、本当にそうだと思いますので、
国会
としては、内閣法制局にゆだねるのじゃなくて、きちんとした
憲法
の
判断
ができるような形をとっていくべきであるということを、改めてきょう思った次第でございます。 以上です。
中山正暉
77
○中山(正)小
委員
私は、昭和四十四年から
国会
におらせていただいておりますが、その中でちょっと疑問に思ったことをこの際指摘しておきたいと思うんです。
憲法
九十八条の二項、「
日本
国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」 日中条約のころのことなんですが、日中条約というのは、御承知のように、一九五二年から
日本
と中華民国との平和条約がありました。これは、一九七二年、廃棄されるときに、大平外相が記者会見で廃棄したんですね。これは永久条約で、期限がなかった。私はそのときに非常に疑問に思って、一秒間の
国会
審議にもかけずに永久条約を廃棄するとはどういうことかと疑問に思いました。 そういう意味で、私は、そのときの外務
委員
会で、私たった一人でしたが、日中条約に反対をしました。それから、本
会議
、
衆議院
で、
出席
して反対したのはたった三人でした。それから、参議院では源田実、玉置和郎、
衆議院
では中山正暉、浜田幸一、林大幹、両院を通じこの五人が
出席
して反対しました。おかしいではないかと言う理由は、新しい条約は、
日本
が戦争に負けて四年たった昭和二十四年の十月の一日に建国をした中華人民共和国と、戦争を終わらせる、世界に一つしかない平和友好条約、過去と未来を結ぶ条約を結んでいいのかとの
趣旨
からです。 総理大臣に、一人十五分、総理官邸の小食堂で、六人でしたが、一人十五分
意見
を言えというから、私は福田総理にそれを言いました。あなたは、戦争を終わらせる平和条約というのを、戦争が済んで四年もたってできた国と、平和条約という戦争を終わらせる条約を結ぶのはおかしいとは思いませんか、我々は中華民国という蒋介石の政府と戦争をしたはずだと。 その国とは、御承知のように、ビルマというところでハーレーという公使とスティルウェルという将軍がいて、これが蒋介石に、おまえたちは
日本
と戦っていないから毛沢東と結ぶと言われたときに、蒋介石は、それでは
日本
と和睦するぞと言ったんですね。それが原因で、蒋介石はヤルタ秘密協定にも参加していませんし、ポツダム
会議
にも、連合国の中にありながら全く参加させられなかった。 そして、結果的には、新中国の外交戦略が成功して、永久条約が記者会見で破棄されたということです。私は、こんなことが二度とあってはいけないんじゃないかと。私は、二つ中国があるではないか、一つだと言うからおかしいではないですかということで随分
議論
をしましたが、そのころは、まるで大きな力が働き、犬はほえる、されどキャラバンは進むという形で、私どもはキャンキャンワンワンほえましたけれども、キャラバンは進んでいきました。 その結果が、今の中国との瀋陽
事件
等で、
日本
が非常にばかにされる原点だと思います。私は世の中の進歩のぐあいはわかっています。わかっていますが、私は、こういうときにこそ、もう一度、
日本国憲法
のこういう条項を再認識するべきです。堂々と吉田茂総理大臣が、単独で中華民国との平和条約を結びました。サンフランシスコ平和条約には、御承知のように、英国は中国を出そうとした、
アメリカ
は台湾を出そうとした。その両方がぶつかったために、サンフランシスコ平和条約には両中国は出ていません。 先般、九月の五日から七日まで、
土井たか子
先生と私と二人でしたが、韓国で、
日本
におられる崔相龍大使の御推薦で国際フォーラムに参加し、韓国へ行って
議論
したときに言いました。八月十五日になぜ総理大臣が靖国神社に参るかという話が向こうから出ましたから、あれは戦争に負けた日ですと。
日本
は戦争に負けたときに、岡村寧次という支那派遣軍の司令官は、
日本
の参謀本部に対して、おまえたちは
アメリカ
に負けたのならば
アメリカ
にだけ手を上げろ、おれたちは中国では戦争に勝っているから続けてやると言って、結局、暴に報いるに徳をもってするといった蒋介石の
言葉
で決断し、中華民国何応欽将軍に、降伏文書にサインして提出したのが上海で九月の十二日だと。だから、あなた方に
価値
のある日は九月の十二日、
アメリカ
の
日本
に対する戦勝記念日は九月の二日、ソ連の戦勝記念日は九月の三日。八月の十五日は終戦の日であり、それ以上の意味がない。開戦の日、十二月八日に参ったらお怒りになって結構でございますと言いました。反対はありませんでした。 ですから、その意味で、この
憲法
解釈
という中での条約等の
解釈
に、そういうときに
裁判所
がしっかりしていたら、私は、
手続
も経ず、間違って永久条約を破棄するような結果にはならなかったと思っております。 以上です。
奥野誠亮
78
○奥野小
委員
先ほど
来の
議論
の中で、
憲法
九条をめぐってのお話もございました。同時にまた、
日本
の
憲法
が大変改正の難しい
憲法
になっているという話もございました。私はそういうことを聞いておって、難しくしているのは
政治
家じゃなかったかな、こう思っているわけでございます。当時から、あの
憲法
にいささかも手を触れさせないというグループがあった。こういういきさつを持った
憲法
だから、早く
日本
の
憲法
を自分たちでつくりたいという空気もあった。昭和三十年ですか、岸内閣のときに
憲法
調査
会をつくっても、反対をされるし、政党に割り当てられた人数の
委員
を全く出さない政党もあった。
憲法
についても、だんだんと自由に
議論
ができるようになってきたわけでございますから、せめて
憲法
調査
会ぐらいは、あの当時のことから今日に至るまで、言論の自由を本当に守り通す
憲法
調査
会であり続けたいな。あんなことを言うたからけしからぬということじゃなしに、自由濶達に
議論
し合いながら、
日本
の将来にふさわしい
憲法
をつくっていきたいな。これは私のお願いであります。
先ほど
来、たびたび内閣法制局の話が出ておりました。
日本
占領軍は、あの
憲法
ができましたときに、直ちに、内閣法制局の局長といいましたか、佐藤さん以外は全部交代を命じたのであります。法制局の職員、全部かえた。新しい
日本国憲法
の精神に基づいて、
日本
の法制を見直させたわけでございました。 一つの例だけ申し上げますと、
日本国憲法
で戦争を放棄したんじゃないか、戦争を放棄した
日本
国でスパイ罪なんて要らないじゃないかということで、ばっさり刑法からスパイ罪を削ったわけであります。今スパイ罪をつくろうとすると、大変な反対される
政治
勢力もあるわけでありますけれども、そういうふうなことで、いつの間にやら、内閣法制局が字句どおりにあの
憲法
を
解釈
するような癖が出てきたと思うのであります。 また、当時の
日本
も、軍事力は完全に武装解除されておりましたし、
国民
総生産も世界の一、二%だったと思います。反対に
アメリカ
は、全世界を相手に戦っても
アメリカ
が勝ったと思います。同時に、
アメリカ
の
国民
総生産は、世界の総生産の半分以上を生産しておったと思います。だから
アメリカ
は、
日本
を占領いたしましても、何ら軍事的に
日本
の力を必要としなかった。だから全面的に軍事力を持たせない、軍事力につながるようなものも持たせませんでした。例えば、大学の航空学科、全部廃止になりました。そして、ほかの学科に移したわけであります。 またこういうことを言いますと時間がかかりますからほどほどにしておきますけれども、あの当時と今とは、国際情勢も
日本
の姿もすっかり変わっているんです。だから、余り
日本国憲法
の字句にとらわれないで、これからの
日本
はいかにあるべきかということをあわせて
議論
した方がいいじゃないかと私は思うんです。 あわせて
議論
をしながら、やはり
日本
もある程度は軍事力を持っていなかったら世界に貢献できない、世界と歩調を合わせて世界のために役に立つことができない。そんなことなら、もう一遍九条を読み直してみたら、国際紛争解決の手段としてはという
言葉
が入っております。御承知のとおり芦田修正だったと思います。国際紛争解決の手段としては陸海空軍は持てないと書いてあるんだから、相手から攻撃を受けた、その場合にはある程度これに備える力を持たなければならない。というなら、侵略のための軍隊を持てないんだと読むなら、ある程度の軍事力を持つことは許されるじゃないか、こう思うわけでございます。 こういうように、何か私は、この
憲法
調査
会が、基本の姿勢をまず
議論
しておいて、我々がいかに
日本国憲法制定
に対して貢献できるかというぐらいのところから意思統一ができればありがたいな、こう思うんです。 私も一人の被害者であります。二十二年前でしたでしょうか……
高市早苗
79
○高市小
委員長
済みません、御
発言
は……
奥野誠亮
80
○奥野小
委員
じゃ、もうやめておきましょう。
高市早苗
81
○高市小
委員長
申しわけございません。ありがとうございます。
仙谷由人
82
○
仙谷
小
委員
最近の事象を見ておりまして、
政治
の
基本機構
との関係で感ずるところを少しばかりお話をさせていただきたいと思います。 経験上、十数年前に、私ども
国会
議員一年生が例の湾岸戦争のときにバグダッドに行こうと計画をいたしました。パリで、まだ現在外務省の要職にある外交官につかまえられましてというか、呼び出しを受けまして、外交は外務省の我々がやる、
国会
議員の一年坊主あたりが行くことは国益に反する、だから行くのはやめろ、こういうふうに横柄に物を言った外務官僚がおりました。現在もまだ大きな顔をして外務省で働いております。 事ほどさように、私はこのときに、
日本
の官僚システムを構成する官僚、この人たちの意識というのは、外務省は特に、在外公館に菊の御紋章をつけていますから、ほとんど変わっていないんじゃないか。つまり、天皇制官僚として国家高権をまさに実現するエリートとして振る舞っている。そのみずからのポジションの根拠が、
国民
の意思、あるいは
選挙
、そういうものに全く関係ないということに気づかないままに、みずからの強大な
権限
を行使しているということになっておるんではないかというふうにそのときに感じました。 そして、今や
日本
が多くのところで大変な
制度
疲労を起こして窒息状況になっているというのも、そのことと大いに関係があるんではないか。つまり、官僚のある種の天皇制官僚の意識を引きずったままの独特の機構というのが護送船団や規制と保護と無差別に結びついて、みずからの権益を保持するためだけにベクトルが働く。そこに改革を妨げ、
国民
生活を顧みないことになっても、そのことについては思いをいたさないということになっておるんではないか、そんな気がしてなりません。 最近感ずるところ、例えば、私はちょっとした病気をしたものですから、医療のシステムについて考えるときに、今の医師ほか医療従事者の研修といいましょうか、あるいは育成といいましょうか、そういうことを少々考えなければいかぬなというふうに思いました。 昨日、一昨日もそのことで、例えば厚生省に、現在のいわゆる医師国家試験を受かった人の研修のシステムがどうなっているんだ、こういうふうに聞きますと、いや、大学病院については文部省です、こういう話であります。さらに、じゃ、公立病院についてはどうなんだ、ああ、それは自治省ですと。そのほかに、例えば旧労働省管轄の労災病院もあるよね、ここはどうしているんだ、いや、それはわかりません。 事ほどさように、医師という
国民
の非常に関心の高い医療にかかわる人々の養成すらも一元的に行われない。それぞれの各省庁の官僚が、その養成システムなり、あるいはそこで行われている医療の実態も顧みることなくある種の既得権化するという、この構造を何とか変えなければならないと思います。 一つの道は、私は、官僚システムの中にもポリティカルアポインティーを導入するということが必要だと思いますし、これから私どもが
憲法
、
統治
機構について考えるときに、あらゆる意味で
政治
がそこに関与できる、あるいは
国民
が関与できる。きょう、
参考人
の
松井
先生のお話ですばらしいなと思いましたのは、やはり、
国民
の
選挙
によって選出された全
国民
の
代表
によって構成される
国会
が決めるという部分が大事なんだというお話であったんではないか、そんなふうに感じたところでございます。 以上でございます。
山口富男
83
○
山口
(富)小
委員
日本
共産党の
山口
です。
先ほど
中山
委員
からお話がありましたけれども、
日本
の外交や国益が辱めを受けているんじゃないかというお話で、私も、その原因として、
憲法
が掲げている旗印があるわけですね、国際社会に対して。それと違うことをやっている、乖離しているじゃないかというところがやはり一つの大きな問題だと思うんです。 この点は、いろいろな問題で
立場
は違いますけれども、立憲主義を掲げている国なんですから、
憲法
の定める方向での外交努力が一番基本であるということを感じました。それは、
仙谷
委員
がおっしゃった、外交の中で、戦前来のいろいろな構造的な問題があるじゃないかという指摘とも関連した問題だと思っているんです。 それと、島
委員
から
憲法裁判
所の問題が出されましたので、私どもは、
憲法裁判
所については、その導入に消極的な
立場
です。それは、きょう
参考人
もおっしゃっていたことなんですが、
憲法
上、
司法審査
の
権限
が現実にあって、それを生かすべきだという問題と、今の最高裁の
現状
からいって、
憲法改正
を伴うようなそういう機構をつくった場合に機能するのかという実際上の問題があります。 それと、九十六条なんですが、私は、この問題は、やはり主権者
国民
の
立場
から見て、このハードルは高いのかということを真剣に考える必要があると思うんです。 といいますのも、私たちは
選挙
によって洗礼を受けて、
代表
民主政として
国会
に出てきているわけですけれども、
国民
主権者にとって
憲法
をどうするかという
判断
をしたときに、あれだけの
国民
の意思表示を求めたというのは、私はきちんと踏まえて今後当たるべきだというふうに考えておりますので、高いか低いかという
議論
は、九十六条についていいますと、なじまないのではないかというふうに考えています。 以上です。
金子哲夫
84
○
金子
(哲)小
委員
社会民主党・市民連合の
金子
です。 私は、きょうのお話を聞いて、今の討論もお聞きをしながら、
憲法
の
解釈
をめぐってさまざまな
意見
があり、また、この
調査
会でもいろいろ
意見
が出てまいりますけれども、この中で、もう一つの側面として、そういう
議論
を起こさざるを得なかった、また
政治
的な
法律
の問題、そこまで進んだ中に、やはり
最高裁判所
の
違憲審査権
が正当に行使されてこなかった。すべて
政治
の
判断
にだけゆだねてきた、何のために
憲法
上
保障
されていた問題が行使をされなかったかということも大きな側面の一つではないかというふうに思います。そのことの
判断
をしなかったがために、ある意味では、現実の
政治
の状況と
憲法
との間の乖離をさらに拡大していった側面というのはあるというふうに思うんですね。 そうしますと、
憲法裁判
所の問題もありますけれども、そこにもし
政治
の方が優位に働きながら
判断
、仮に同じようなシステムで同じような、そこの中に
憲法裁判
所を行えば、きょうの先生のお話にもありましたけれども、一体、ではどこがどう改善をされて、どのようにそのことが本当に
判断
ができるのかという問題は、やはり私は残るように思うんですね。 現在の
裁判
のシステムの中に、むしろ問題とすれば、きょうも御指摘がありましたけれども、そういう本来
憲法
で定められた
最高裁判所
の
役割
というものをきっちりと果たしてこなかったところにも、
現状
の
政治
と
憲法
との乖離を生み出してきたことがやはりあるんではないかということを私自身は今強く感じております。 そういう意味では、やはりそういう意味の側面で、私ども
憲法
調査
会の中で改めて、この五十有余年の
憲法
のありようと
国民
生活についてきっちりと、過程というものをしっかりと論議するということもこの
憲法
調査
会の
役割
ではないかということを申し上げて、私の
意見
とします。
藤島正之
85
○藤島小
委員
自由党の藤島正之でございます。 隣にいてあれなんですけれども、
山口
委員
の方から
発言
が二点ありましたので、それについて私の方から
意見
を述べさせていただきたいと思います。 まず、
憲法裁判
所でございますけれども、きょうの
松井
先生は反対のようですけれども、私どもは賛成でございます。ぜひつくるべきだというふうに思っております。 それと、九十六条の改正
規定
ですが、やはり私は、ハードルがちょっと高過ぎるという点が一つと、これに関する
法律
ができていないので、速やかに
法律
を制定すべきである、この二点を申し上げておきたいと思います。
高市早苗
86
○高市小
委員長
それでは、討議も尽きましたようですので、これで終了いたします。 本日は、これにて散会いたします。 午前十一時三十七分散会