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2001-10-11 第153回国会 衆議院 本会議 第6号
公式Web版
会議録情報
0
平成
十三年十月十一日(木曜日)
—————————————
平成
十三年十月十一日 午後零時三十分 本
会議
—————————————
○本日の
会議
に付した案件
渡部恒三
君の故
議員伊藤宗一郎
君に対する
追悼演説
午後零時三十三分
開議
綿貫民輔
1
○
議長
(
綿貫民輔
君) これより
会議
を開きます。 ————◇—————
綿貫民輔
2
○
議長
(
綿貫民輔
君) 御報告することがあります。
議員伊藤宗一郎
君は、去る九月四日逝去されました。まことに
哀悼痛惜
の至りにたえません。
伊藤宗一郎
君に対する
弔詞
は、
議長
において去る九月五日既に贈呈いたしております。これを朗読いたします。 〔
総員起立
〕 多年憲政のために尽力し 特に院議をもってその功労を表彰された
議員従二位勲一等伊藤宗一郎
君は さきに本
院議長
の要職につき また再度国務大臣の重任にあたり 終始
政党政治
の確立につとめ
議会制民主政治
の進展に多大の貢献をされました その功績はまことに偉大であります
衆議院
は 君の長逝を
哀悼
し つつしんで
弔詞
をささげます
—————————————
故
議員伊藤宗一郎
君に対する
追悼演説
綿貫民輔
3
○
議長
(
綿貫民輔
君) この際、弔意を表するため、
渡部恒三
君から
発言
を求められております。これを許します。
渡部恒三
君。 〔
渡部恒三
君登壇〕
渡部恒三
4
○
渡部恒三
君 ただいま
議長
から御報告のありましたとおり、本
院議員
、前
衆議院議長伊藤宗一郎
君は、九月四日、東京都港区の御自宅において逝去されました。 予期せぬ
先生
の訃報は、この上ない寂しさとともに、今改めて、
痛恨哀惜
の念を強くするものであります。私はここに、ありし日の
先生
の面影をしのび、諸君の御同意を得て、
議員一同
を代表し、謹んで
哀悼
の
言葉
を申し述べたいと存じます。(
拍手
)
伊藤先生
は、大正十三年、
宮城
県加美郡中新田町で
呉服屋
を営まれていた
父宗太郎
氏と
母とき
さんの
長男
としてお生まれになりました。
先生
は、
旧制古川中学校
、第二
高等学校
、
東北大学
で学び、
政治家
を志し、読売
新聞
社に入社されました。
先生
が
高等学校
に入学された
昭和
十六年は太平洋
戦争
が勃発し、
戦争
が日一日と激しさを増す中、
東北大学法学部
に進まれたのであります。
先生
は、身内や同級生の戦死という悲しい知らせに何度も接し、
先生
御自身も祖国に殉じる覚悟を決められ、在学のまま一年間、軍務に服し、
陸軍少尉
に任官されました。
先生
の
少年時代
の
東北地方
は、
昭和恐慌
や冷害のため、
人々
は貧しさに苦しみ、さらに、
戦争
が多くの
人々
の尊い命を奪うことになりました。
先生
は、こうした
時代
に御母堂様より、「名もなき民の心」を大切にすることを教えられたのであります。このことが、平和を守り、名もなき庶民の
生活
を守るために、
先生
をして
政治家
を志させたものと思います。(
拍手
)
先生
は、みずから進んで
政治部記者
となり、
昭和
三十一年の第一回
日ソ漁業交渉
の
報道特派員
となり、
河野一郎農林大臣
に同行することになりました。 一カ月余りの
モスクワ滞在
中に、ますます
政治家
たらんとの決意を固められた
先生
は、一九六〇年に、みずから
東北
のケネディと名乗り、三十六歳の若さで
宮城
一区から見事に当選されました。以後、通算十三回の当選を果たされ、在職三十八年に及ぶ
議員生活
を全うされたのであります。 底抜けの明るさと気軽につき合える
人柄
から、「宗ちゃん」の愛称で親しまれてきた
先生
の面目は、
先生
のお葬式の日に期せずして発揮されました。 その日、
先生
の
友人たち
の中から
旧制
二高の校歌が歌われ、会場に広がってまいりました。この場面を目の当たりにして、私はしみじみと感動いたしました。
先生
は、一九八一年には
鈴木内閣
の
防衛庁長官
として入閣、さらに
竹下内閣
の
科学技術庁長官
を務め、一九九六年十一月に第六十九代
衆議院議長
に就任し、二〇〇〇年六月の
衆議院解散
まで実に千三百四日の長きにわたって、その誠実な
人柄
で見事なまでの名
議長
としてその任を全うされました。(
拍手
)
伊藤
さんが
防衛庁長官
に就任した際、「男子の本懐」とその喜びを素直に表現されたことは、当時、自衛隊がいまだ十分に認知されていなかった中で、隊員の士気を鼓舞し、
国民
に平和を守ることの大事さを訴えた、まことに素晴らしい
発言
でした。
政治家
の
発言集
の中で、後世の歴史に残るでしょう。 さらに、
科学技術庁長官
として、「
資源エネルギー
のない
日本
がここまで来れたのも
科学技術
の力だ。これから
科学技術
をもって
世界
に貢献しなければならない。」と言われ、創造的な
基礎研究
に力を入れてこられたのも、今日思えば素晴らしい見識でした。
伊藤
さんが亡くなられた次の日の
新聞
は、「誠実な
人柄
」「
議会運営
に公正を貫く」「
議会人
の良識を示す」などの見出しが躍っておりましたが、まさにそのとおりです。
伊藤議長
のもとで
議院運営委員長
を務められた
大島理森
氏は、「
与野党激突
の中でも、
議長
は公正な
立場
で判断した。清廉で誠実な
政党政治家伊藤
さんらしい
行動
だった。」と語っております。 確かに、
伊藤議長
は、
与野党国対委員長
を初め
与野党
の代表と会うときは必ず私の同席を求め、事あるごとに、「私は副
議長
と
一心同体
である。」と明言しておられました。年金問題や
定数是正
で
与野党
が激突したときも、いささかもこの姿勢を変えませんでした。
伊藤先生
の親友であり、私の尊敬する先輩であった
竹下登
元首相は、私が与党の
国会対策委員長
であった当時、「
国会運営
に当たってはできる限り野党の
立場
を尊重してあげなさい。」と常に教訓していただきましたが、まさに
伊藤議長
は、みずから
行動
をもってそのことを示してくれました。(
拍手
) 私は、三年六カ月の長きにわたって
伊藤議長
のもとで副
議長
としてお仕えしたことを生涯の
政治生活
の誇りにしたいと存じております。(
拍手
)
伊藤先生
、お別れしなければなりません。 人生は人と人との出会いだと申しますが、私が
伊藤先生
の御指導をいただくことになったのは四十五年以上も前にさかのぼります。まだ私が
早稲田大学
の
雄弁会
で
政治家
たらんと
青雲
の志を燃やしていた
時代
でありました。 今、この
議場
で
伊藤先生
の御冥福を祈っておられる
海部俊樹
君、
藤波孝生
君、
森喜朗
君なども一緒でした。何よりも残念なことは、当時同じ仲間だった
小渕恵三
君をこの
議場
に見ることができないことであります。 戦後、貧しい
時代
の
日本
でした。これも人の縁というものでしょう。当時、
早稲田大学
の
学生課長
をしていた
渡辺辰巳先生
という方が新宿区弁天町に
青雲塾
を創り、私
たち後輩
を寄食させてくれておりました。その邸内に、当時、読売
新聞
の
政治部次長
であった
宮崎吉政先生
がおられ、当時、
宮崎
さんの部下であった
伊藤宗一郎先生
がしばしばやってこられました。 当時、
政治記者
にあこがれ、
政治家
たらんと夢見ていた私にとって、当時、政界の
実力者
と言われた
河野農相
とともに
モスクワ
に行き、しばしば
特派員
としての記事が
新聞
に載った
伊藤先生
は、まぶしいばかりの存在でした。 そして、みずから我々に語っておったとおり、
議員バッジ
をつけてこられたときの
伊藤先生
の姿は、いまだ私のまぶたに残っております。 忘れようとして忘れることのできない青春の一ページでした。 その後、四十数年たって、
伊藤先生
に副
議長
としてお仕えできたことは、本当に幸せでした。 今、この国は、
内外とも
に、生きるか死ぬかの危機にさらされております。
国民
の皆様の
生命財産
を預かる
国会
の責任は、はかり知れざるほど大きくなっております。今この時期に
伊藤先生
を失ったことは、
国家国民
にとって大きな損失であり、まことに
痛恨
のきわみであります。
伊藤先生
をここまで育てられた
宮城
県の
皆さん
、特に今日まで
伊藤先生
とともに苦難の道を歩んでこられた、
つや子夫人
、御
長男
の信太郎君を初めとする御家族の
皆さん
の悲しみを思うと
万感胸
に迫り、流れ出る涙をとどむることができません。 ここに、
伊藤先生
の御遺徳をしのび、残された私
ども議員一同
、
世界
の平和と
国民
の幸せのための素晴らしい
議会政治
を確立することを誓って、
追悼
の
言葉
とさせていただきます。(
拍手
) ————◇—————
綿貫民輔
5
○
議長
(
綿貫民輔
君) 本日は、これにて散会いたします。 午後零時四十八分散会