○山谷
委員 おっしゃることはよくわかるんですけれども、それにしては、今の教職員養成の課程でそういう
ような視点でのカリキュラムというのは圧倒的に足りないというふうに
思いますし、それから、百科事典で読む
ように宗教を読んで理解するというものではございませんので、例えば神社、仏教関係のお寺あるいはキリスト教会、いろいろな場所に行ってお話を聞いてみるとか、そういう
ような
体験的なものも含めて教職員の養成のあり方を
見直していただきたいというふうに
考えております。
それから、イギリスでは、週に二時間から三時間、公立
学校での宗教
教育を義務づけております。ドイツも、二時間から四時間、カトリック、プロテスタント、それぞれの宗派を自由意思で選んで、もちろん選びたくない子は選ばなくてという
ような形でやっているわけでございますけれども、
日本でどの
ような形が現実的であり、また実り多いものかということをこれから
考えていったらいいというふうに思うのです。
私が公立の小
学校のPTAの会長をやっておりましたときに、図書館に行きまして、その町の一番大きな神社がいかに町の人々によって明治時代から支えられてきたか、あそこの家のひいじいちゃんがこうやったとか、屋根をふいたとか、そんな話をお母様方にしてさしあげましたところ、お祭りのみこしの動きが非常によくわかる
ようになったとか、
子供に説明してあげることができてよかったとか、あるいは、これも自由活動でございますけれども、放課後近くのお寺に
子供たちが落ち葉掃きに行って、そしてそこの御住職に御法話を聞くという
ような活動も計画したりいたしました。自由参加のそういう
ようなプログラムを地元の方
たちと協力してやっていく可能性というものを
教育委員会も含めてつくっていくということによって、やはりもう少し推進できていくのではないかというふうに
考えております。
学校の行事なんかは、例えば花祭りとか、七夕、お盆、七五三、クリスマス、あるいは給食のメニューとかでいろいろな行事の
意味を、そのときにその由来を教えるとか、何かそういうものを加えて
学校行事というものをやっていくのもいいのではないかというふうに
考えております。
芸術活動でも、ダンスとか音楽とか美術とか、もちろん文学もそうです、やはり宗教がベースになっているものも非常に多うございますので、これからは、その
ような視点というものを教える
ような——国際社会というのはそういうところでございますので、トルコも、神殿が真ん中にあって、それから競技場があって、図書館があって、文化施設があってという、そういう町の構成になっているわけですよね。そういう世界のあり方を国際人として理解するためにも、そういった視点というものを伝えるという
努力をしていかなければ、非常に洞察力のない
子供たちに育つのではないかなというふうに
考えております。
私がなぜこんなことを言ったかといいますと、
学校現場でいろいろなことが行われております。先ほど
森岡議員より、
修学旅行先で、
海外は多くなったけれども京都、
奈良はこの十年で半分になったというお話がありましたけれども、例えば伊勢神宮の
修学旅行、昭和五十年に五十四万人、六十年に三十五万人、平成九年に七万人と、こちらももう激減しております。大阪市立の小
学校に聞きましたところ、さっと見学して、中には鳥居の手前でもう解散という
ようなところもあるということでございます。とにかく、神宮の細かい説明はできない、それは宗教活動になってしまうからと。
そこまで
考えるのはどうなのかなというふうに思うんですが、例えばほかに、富山の小
学校、浄土真宗王国でございますので、給食の前にいただきますと手を合わせていた、ところがPTAのある方が、それは宗教的行為ではないかということでクレームを出しまして、いや、そうかもしれないということで、数十校で、給食の前に手を合わせていただきますと言うことをやめた。心の中で言いましょうというふうに
先生は御指導なさったらしいんですけれども、それからは、給食の前がぐざぐざぐざっという
ような形で非常に、食べ物に対する感謝の
気持ちとか、いろいろな方の御苦労で私
たちが生かされているという
ような、何か静かな、清らかな雰囲気でいただき始めるという
ような雰囲気が全くなくなったという
ようなこともございます。
あるいはまた、千葉で、やはり問題になりまして武道場から神棚が外されていったとか、あるいは、小
学校でおみこしをつくってそれを運動会などでやろうと思ったらやはりクレームが来たとか、ちょっと何か過敏過ぎるのではないかなと。九条二項の解釈をめぐってちょっと過敏になっている。やはり人間の存在、それから
日本人の存在というのは、伝統、
歴史、文化、さまざまなものがつながって生きているわけでございますから、それを徹底的に排除してしまったら、
日本人、人間の存在としても何か偏ったものになっていくのではないかというふうに
考えておりますが、その
ような現状についてはどう思われますでしょうか。
ちなみに、昭和二十四年文部事務次官通達では、公立校でも宗教的施設の訪問は許される、強要はしないけれども許されるというふうになっておりますけれども、その辺はいかがでございましょうか、
遠山大臣。