○森田
参考人 森田でございます。本日は、この
憲法調査会におきまして
意見を述べる機会を与えていただきまして、大変光栄に存じております。どうぞよろしくお願いいたします。
きょうは、統治構造に関する諸問題といたしまして、主として内閣
制度の
あり方を中心に私の
意見を述べさせていただきたいと存じます。
初めにお断りしておきたいと存じますけれども、私自身の専門としておりますのは、広い
意味におきます
政治学の一分野でございます行政学という学問でございます。行政学と申しますのは、行政
組織であるとか官僚制であるとか、あるいは
政策の
形成過程、また、公務員
制度の
あり方、
地方自治等、広く
現代国家における行政と呼ばれております諸現象を研究の対象といたしております。
したがいまして、
憲法、行政法の専門ではございませんので、内閣
制度、行政
組織に関する厳密な
法律論につきましては、専門的な
意見を述べる能力は必ずしも有しておりません。しかしながら、行政という現象自体が
憲法の枠の中で、あるいは
法律に基づいて実施されますので、内閣
制度を初めとしましてそのほかの行政
制度の
あり方については大変大きな関心を持っております。
そこで、きょうは、行政学という学問の観点から我が国の統治構造の諸問題について述べさせていただきたいと存じます。
なお、具体的な論点について私の
意見を申し上げる前に、あらかじめ私が考えております
憲法の問題の前提となる認識というものをお示ししておきたいと存じます。
その第一は、内閣
制度に限らず、
政治、行政に関するあらゆる
制度について言えることであろうと思いますけれども、
制度といいますのは、それ自体、体系的で完結的なものでなければならない。言いかえますと、
制度は、筋の通った
論理に基づいて
形成されていなければならない。ある
意味では当然のことでございます。そうでない
制度の場合には、
運用の段階におきましていろいろと矛盾が生じてきたり、あるいは不合理な結果を招く
可能性が多いということでございます。
第二に、このような筋の通った
制度というものを考えた場合に、この世の中に唯一ベストのもの、最善のものが
一つだけあるかというと、そうではなくて、多数のものが考えられるのではないかと思います。こうした
制度は、それぞれの国の置かれている
状況、歴史的な
背景であるとか、いろいろな要素によってベストのものが決まってくるということでございまして、その中からどれを
選択するかというのがまさに
制度選択の問題であろうと考えられます。
第三点といたしまして、これは
憲法にかかわることでございますけれども、我が国の
憲法を初めといたしまして、
国家の統治構造の基本を定めております
憲法というのは非常に大まかな
枠組みを示したものであって、その中で今申し上げましたような多様な
制度の
選択というものが可能であろうというふうに思います。その
憲法の大きな枠の中で、それぞれの国は、その時代、その
状況に適した形での
政治制度を
選択する、それが望ましい
あり方ではないかというふうに考えるわけでございます。
ただし、その場合に、ある
制度が望ましいと思って
選択しようといたしましても、どうしても
憲法上の
枠組みがその制約になる、それと抵触するという場合が生じてきますと、その場合に初めて
憲法の改正ということを真摯に検討する必要があるのではないかというふうに考えます。そして、その
憲法の枠内における具体的な
制度と申しますのは、それぞれ、我が国で申し上げますと内閣法その他の
法律によって規定していく、そこのところの
選択の幅はかなり広いものではないかというふうに考えるわけでございます。
以上、ある
意味で当然のことかもしれませんけれども、あらかじめ申し上げさせていただきまして、続きまして、以下、具体的な問題点について
お話しさせていただきたいと思います。
お話し申し上げる順番は、お手元の
レジュメに沿って申し上げるつもりでございます。
まず初めに、今申し上げました行政学におけるとらえ方というものについて簡単に
お話をさせていただきます。
現在、我が国の統治構造について、通説的な理解といいましょうか、一般的な
考え方は、
立法、行政、司法の三権分立を基本的な原理とするというものでございまして、これは
憲法でもそれぞれの章が割り当てられているところでございます。これらの機関は、それぞれかなり自律性を持った機関として位置づけられており、相互には対等で、相互に抑制と均衡の
関係にあるというふうに説明されてまいりましたし、私たちも子供のころから学校でそういうふうに習ってきた記憶があるわけでございます。そして、現在の統治構造の内容を具体的に定めております内閣法その他の
法律も、こうした原理に基づいてつくられていると思います。
その場合に、対等であってそれぞれ自律的であるとしますと、例えば
憲法四十一条の「国権の最高機関」が何を
意味するかというようなことがしばしば問題として
指摘されるわけでございますけれども、それにつきましては、国会に対して一定の敬意を払う
意味における美称説というのがかなり通説として理解されているように聞いております。
我が国では、国の
立法、行政、司法という機関についての分担あるいは
関係についてこのような理解が一般的であると考えられますけれども、私が専攻いたしております、
アメリカで誕生いたしました行政学という学問の観点からしますと、特に
立法と行政の
関係につきましては違った理解の仕方をしておりまして、それも可能ではないかと思われます。
どういう理解の仕方をしているか、一言で申し上げますと、
選挙で選ばれた人から成る
政治の世界というものと、それとは別の、そこで
決定されたことを実施する行政の世界というものを区分するという
考え方でございます。その
政治、行政という
考え方自体は決して珍しいものではありませんけれども、それを別のものとしてとらえて、二者の
関係として統治構造を見ていくというのが
一つの行政学的な
見方であろうと申し上げることができるかと思います。
御存じのように、
アメリカ合衆国という国は、建国以来、徹底した権力の分立、そして
民主主義というものを原則として国の
制度をつくってまいりました。そこでは、権力の集中を避けるためにそれぞれの機関にかなりの独立性を持たせ、そして相互に牽制させると同時に、さまざまな公職につく人はできるだけ直接国民の民意が反映されていることが望ましいという
考え方から、多くの役職を
選挙で選ぶというような
制度を採用してきたわけでございます。
これは、連邦
政府の場合には限定されておりますけれども、州ないし
地方自治体の場合には、かなりの公職が
選挙で選ばれるという仕組みを採用してまいりました。これは、だれでも行政ができる、だれでも
政治の職、公職につける、したがって、
有権者の信頼を得た人がそのポストにつくのが望ましいという
考え方であったわけでございまして、
アメリカがかなり
社会的にも素朴な
社会構造を持っているような時代にはこれが十分
機能した、こういう
考え方で
機能したというふうに考えられると思います。
しかしながら、
アメリカ合衆国も、十九
世紀の後半になってまいりますと、
社会が次第に複雑になってまいりました。それに伴いまして、行政の仕事の内容も高度化し、専門化してまいりました。そうしますと、そうした素朴な
民主主義的なやり方では現実にはなかなかうまくいかず、いろいろな問題が発生してきたというのが歴史の示すところでございます。
具体的に申し上げますと、高度に発展した行政について、だれでもできるというような形で、言うなれば素人の人が公職についてもなかなか実際の行政はうまく行えない。そこからいろいろと不合理が出てきたり、非能率が起こってくるということになります。他方、公的なポストがかなり大きなお金を動かすということになりますと、それが
政治的な腐敗に結びつくということもございました。
その結果、何が
アメリカで起こったかといいますと、
アメリカ流の
民主主義も非常に重要なわけですけれども、それとは別に、きちっとした形での行政が行われなければならない、その行政の分野を
機能的に
政治と切り離すことが必要であるというふうに考えられるようになりました。そこから行政学という学問が行政の分野を対象として誕生することになったわけでございますけれども、その両者を区分する
一つのポイントは、公職につける人をどのような形で選ぶのか、
政治的に選ばれる人なのか、あるいは公務員という資格に基づいて公務員試験によって選ばれるのか、この公務員
制度の発生、確立というのが、
アメリカの場合、
一つのそうした行政についてのとらえ方の画期になってきたわけでございます。
他方、ヨーロッパの方はどうかと申し上げますと、これはそもそも絶対主義の時代におきましては、君主の統治権の担い手としてかなりしっかりとした官僚制、行政
組織というものが確立されておりました。それが、市民革命が起こりまして、国民の代表によって
政治が行われるべきである、
民主主義の観点から
制度がつくられるべきであるというふうに考えられるようになりまして、その結果、簡単に申し上げますと、
議会というものが設けられ、そしてその
議会が君主の統治権というものといわば対立するといいましょうか、対峙する
関係で位置づけられるようになりました。
最終的には、だんだん市民勢力といいますか市民階層の力が強くなるにつれまして
議会がますます強くなり、
議会の中から行政権のトップを選ぶという
制度が確立されるようになってきたわけでございまして、これが
議院内閣制というふうに考えられるわけですけれども、基本的にその
議院内閣制が確立されるまでも、そしてその後の時代もと申し上げていいのかもしれませんけれども、統治構造の
制度をつくる場合の
一つの軸といたしましては、市民から
構成されるところの
議会というものと君主の側の行政権ないしは統治権というもの、この二つの対立
関係がその統治構造の図式として存在していたということでございます。
アメリカ、ヨーロッパと簡単に
お話ししてまいりましたけれども、このように申し上げますとおわかりいただけると思いますけれども、
政治と行政の対立する構図というのは、もちろん大陸型、ヨーロッパと
アメリカ型とは少し違っておりますけれども、いずれにしましても、こうした
民主主義の原則に基づいて行われる
政治の世界とは、それとは別の行政の世界とどのような
関係にあるのかということでございまして、言い方を変えますと、
選挙で選ばれる方から成る選出部門とそうではない非選出部門、これは
政治学の方でしばしばそういう言い方がされておりますけれども、その両者の
関係としてとらえようというとらえ方が
政治学ないし行政学的なアプローチではないかと思います。
そして、行政学の場合、今日におきましては、具体的な統治
制度の
あり方を
議論する場合に問題となりますのは、
現代国家においてこの境界線をどのあたりに
制度上引くのが望ましいのか。これは、一方におきましては、
民主主義をどれくらいきちっと確立していくか、他方におきましては、高度の専門的な行政というものをきちっと行うような形をつくっていくのか、この両者の
あり方が、特に人事の
制度をめぐっていろいろと
議論されてきたところでございます。
このように申し上げますと、ここから先詳しい説明は不要かと思いますけれども、我が国の場合には、
権力分立という通説的な
考え方に基づきまして、
立法機関である国会が
政治部門というふうにとらえられるのは、今申し上げたアプローチと同じなわけでございますけれども、他方で内閣はどうかといいますと、内閣を
構成する方々は、今の言い方をしますと選出部門に属するわけですけれども、これが我が国の場合には行政部門として位置づけられているというのが一般的な理解であろうかと思います。
今申し上げてきたような
考え方に立ちますと、それとは少し違いまして、
政治と行政の境界線というのは、一方で、国会で選出される総理大臣と、総理大臣が任命する大臣、さらにはそのもとに置かれます
政治的な任命職の行政上のポストの方、これが
政治部門に属するというふうに考えられるわけでして、それに対しまして、他方、いわゆる公務員試験によって公務員として採用された方が行政に属するということになります。
これから申し上げたいのは、我が国の
憲法構造に基づく今の統治構造の理解の仕方は、そこのところのずれからいろいろな問題が生じてきているのではないかということでございます。
簡単に、視覚的に御理解いただくために、学生向けにつくった図式で非常に粗っぽいものでございますけれども、添付しております「
参考図」というのをごらんになっていただければと思います。
これは、Bの方がどちらかといいますと現在の通説的な理解の仕方だとしますと、別な理解の仕方として、Aのような理解の仕方ができるであろう。これは別に私が初めて申し上げるわけではなくて、かなり大勢の方がこういう
指摘をされておりますけれども、少し明確にわかりやすくかきますと、こういうことになるのかなというふうに思います。
この場合、ごらんになればおわかりになると思いますけれども、内閣がどちらに属すると考えるのか、それによって
制度の理解の仕方が違ってくるというふうに思われるわけでございます。
さらに、こうした
考え方、行政学的なとらえ方をした場合に、もう一言つけ加えさせていただきますと、それぞれの機関ないし部門、Bの方ですけれども、
立法府と
行政府というものは対等で相互に牽制し合う
関係というふうにとらえられているところが多いと思いますけれども、
民主主義という
考え方、国民主権という
考え方に立った場合には、これもしばしば
指摘されているところではございますけれども、むしろその優劣
関係というものをはっきりさせるというとらえ方もあるのではないかと思います。
主権者であるところの国民が
国会議員の方を選び、そして
国会議員の方が
構成する国会が内閣総理大臣を選び、そして内閣総理大臣が各国務大臣を任命し、そして各国務大臣が各省の行政官を指揮監督するという
考え方でございます。これは別に、どちらが偉いとか偉くないとか、そういう尺度とは必ずしも一致いたしませんけれども、むしろ、主権在民の
考え方に立った場合には、どちらが正当性の根拠が強いのかという理解の仕方があろうかと思います。したがいまして、例えば行政官の方がある
決定をした場合に、その彼の
決定が持つ正当性の根拠というのはどこから来るのか、そういう形での
議論ができるのではないか、そういうふうに考えるわけでございます。
海外の事例につきましては、それぞれの国が相当複雑な
制度を持っておりますので詳細についてはよく存じませんが、
議院内閣制のモデルとされております例えば
イギリスにおきましては、
議会と内閣の
関係はかなり密接なものであるというふうに理解しております。そして、
議会の優位というものを前提にして、内閣と
議会がかなり一体化したものとして考えられている。そこでそれを結びつける要素といいますか、その基盤になっている要素がやはり
政党であり
与党であるということでございまして、そうした
与党と一体化した政権党が
政治の世界に属するわけでございますけれども、それが行政部門を監督している、そのような図式が
議院内閣制のモデルとして考えられているのではないかと思います。
したがいまして、
イギリスの場合には、対立といいますか、対峙する
関係にありますのが、
議会と内閣というよりも、むしろ
与党と野党というとらえ方をする方が自然ではないかなと思います。このことは、例えば大陸型の国会、我が国もそうですけれども、その国会の議席のレイアウトと
イギリスの議席のレイアウトの違い、それにもあらわれているような気がいたします。
ただ、もう一言申し上げておきますと、最後に少し触れさせていただく予定でございますけれども、こうした
イギリスのとらえ方というのはかなり伝統的なものでございまして、近年では、内閣総理大臣の位置づけが少し変わってきているというふうに理解しております。
さて、今申し上げたことを要約いたしますと、
議会と内閣の
関係を、
日本の場合にはかなり別なものとしてとらえられているように思いますけれども、これをむしろ一体として考える
余地があるのではないか。そのように考えた場合に、具体的に我が国の内閣
制度における問題点がどのようなものか、次にそちらの方の論点に入らせていただきます。
私自身は、冒頭に申し上げましたように、いろいろな
制度の理解の仕方があり得ると思いますし、
憲法の許容する範囲内でそれをどう
選択するかは、まさに
政治的な
選択の問題であろうかと思っておりますけれども、これから申し上げますような
考え方というものも十分に成り立ち得るのではないかというのが申し上げたいことでございます。
現在、
政治優位、
政治主導ということも言われておりますけれども、そのような観点から見た場合には、今までの通説的な
考え方よりも、むしろ、今申し上げたような
考え方の方が合理的とも言えるのではないか。この辺につきましては、もっと詰めて勉強しなければ答えは出せないところでございますけれども、そういう感触は持っております。
以下、具体的に、三つの論点について述べさせていただきたいと思います。
一つは、国会と内閣の
関係でございます。
今申し上げてまいりましたことから御理解いただけると思いますけれども、我が国では、
権力分立の観点から、国会と
行政府、内閣はいわば対立
関係にある、そして抑制・均衡の
関係にあるということはよく言われておりますけれども、今申し上げましたように、むしろ両者は一体として、近接性を持っているというふうに理解した方がいいのではないか、することもできるのではないかということでございます。
内閣総理大臣が国会で指名され、内閣が連帯して国会に対して責任を負うということからも、国会、内閣を両者一体として考えることも可能であり、それが行政各部を監督するという図式が、先ほど申し上げました図でいいますと、左側のAの方になるというふうに考えられます。その場合には、先ほど申し上げましたように、対立
関係といいましょうか、いろいろと
議論をする
関係になりますのは、国会と内閣というよりも、むしろ
与党と野党の
議会の場である、そういうふうに考えられるのではないかと思うわけでございます。
このことは、時々聞かれることでございますけれども、例えば
与党の側、政権党の側におきます
与党と
政府の間の二重性であるとか、そこの間の
意見の違いであるとか、そういうことが問題になっているように聞いておりますけれども、そうした問題がなぜ生じてくるのかといいますと、やはりそこのところの
関係のとらえ方が、両者を別のものとして、そこの間に線を引いているからではないかというふうに思いますし、さらに申し上げますと、
与党の方が内閣に対して質問をすることの
意味はどういうことなのかということも考えてみる価値があるのではないかと思う次第でございます。
もちろん、こうした
考え方をしていった場合に、解散権というものをどう考えるのか。これはなかなか難しい問題で、必ずしもこうであるというふうに私自身も整理できておりませんけれども、国会の優位といいましょうか、
議会は
与党を中心として国民から選ばれた機関であるという
意味での優位性というものはあり得るというふうに理解できるのではないかと思いますし、そう考えますと、
憲法四十一条の「国権の最高機関」という
考え方も、そうした理解の方が素直に読めるのではないかと思うわけでございます。
ただ、この場合、ここから先は私もまだ
結論が出ているといいましょうか、十分に考えておりませんけれども、国会というふうに一言で述べましたけれども、今申し上げましたような
議院内閣制のシステムに非常にうまく適合いたしますのは、どちらかといいますと
衆議院の方でございます。他方で、
参議院の方は不信任の
権限もありませんし、解散もないということで、この
参議院の性格と
役割をどのように理解するのかというのは、よくわからないと申しましょうか、
最初に使った言い方をしますと、
制度の
論理というものが必ずしもよく見えてこないような気がいたします。これは既に
議論されているところではないかと思います。
なお、さきの行政改革
会議におきましては、さまざまな点の改革を、これまでの
制度を大きく変えるという提言をされておりますけれども、国会と内閣の
関係については直接触れられておりません、そのように理解しております。
党派的な
政治の世界と異なる行政の世界を前提にして、その中での改革というものをお考えになっていると思いますけれども、その行革
会議が触れられなかった理由はわかりませんけれども、私自身は、そうしたものも通してですけれども、どうも、多様な党派から成り立っております
政治の世界とは別に、まさに国全体を代表するような公共性というものが実体として存在する、それが行政を支える価値である。別な言い方をしますと、
政治的な中立性というふうに言えるのかもしれませんけれども、そうした
イメージないし観念というものが、どうも
制度を考えるときに存在しているのではないか、そのような印象も持たないわけではありません。
さて、二番目の論点に入らせていただきますけれども、これは次のレベルといいましょうか、内閣総理大臣と他の国務大臣との
関係でございます。
内閣については、合議体であるということが強調されておりまして、そして、連帯して責任を負うというふうに説明されているわけでございますけれども、国会で選ばれますのは内閣総理大臣だけであって、内閣の閣僚みんながパッケージとしてその
選挙で選ばれるわけでは必ずしもないわけです。内閣総理大臣が各大臣を任命する、そして、その任命された大臣と御一緒に内閣を
構成するということになるわけですけれども、その任命
関係と内閣の合議制というものをどのように考えるのか、この点につきましてもいろいろと問題があるような気がいたしております。
自分が任命した者に自分の
意見が拘束されるということになるのかどうか。国会で選ばれるのは内閣総理大臣だけでございますので、その内閣総理大臣がみずから任命した閣僚によって合議体として拘束される、この辺につきましては、内閣法の六条で、「閣議にかけて
決定した方針に基いて、行政各部を指揮監督する。」ということの問題、
あり方として、行革
会議でも
議論されたところでございます。
また、さらに申し上げますと、内閣における閣議自体が、事前に調整されたアジェンダについて、全員一致という形で
決定が行われているというふうに言われているわけでございまして、そうだといたしますと、全員一致の
意味はどういうことなのか。一人でも反対された場合に、その
決定をどのようにとらえたらいいのか。
そこで、行革
会議の特に中間報告の方では、たしか、
多数決を入れることについても考えるという御
意見があったかと記憶しております。その場合、
多数決も、内閣総理大臣だけが少数になった場合にはどのように考えるのか、そういう問題も出てくるわけでございまして、基本的には、どのようにお決めになるのかというのはそれぞれの内閣がお決めになる話であって、
制度で縛るのはいかがなものかという気もいたしますけれども、いずれにいたしましても、内閣総理大臣と他の大臣の
関係というものももう少しはっきりさせた方がいいのではないかなという気がしております。
その場合、内閣総理大臣の
権限を強化するということにつきましては、余りにも強い権力を持ち過ぎるのではないかという
意見もあるわけでございますけれども、逆に言いますと、内閣総理大臣だけが国会から選ばれているということでございますので、その辺をどうするのかということにつきましては、幅広くもっと
議論をする必要があるのではないかと思っております。
ちなみに、今次の行政改革では、内閣法の四条で内閣総理大臣の発議権というものが認められるようになったわけでございますけれども、先ほど言いました指揮監督権につきましては、弾力的に
運用するという前提のもとで、
制度についてはさらに幅広い検討が必要であるという
指摘にとどまっているわけでございまして、これはまた、残された論点であろうかと思っております。
さて、三番目の論点として述べさせていただきたいのが、今度は、大臣と各省行政
組織、各省の
関係でございます。
むしろ、行政学という観点からいいますと、先ほども申し上げましたように、
政治と行政のインターフェースといいましょうか、接触面はこの
部分になるわけでございまして、ここの
関係をどうするかということが大変大きな関心事でございます。
しかしながら、先ほどから何度も申し上げておりますように、我が国の場合には、
憲法でいいますと内閣と行政各部、それが一体として行政権というふうなとらえ方をされているために、必ずしもそこのところの違いといいますか区別が国会と内閣ほど強く意識されていないのではないか、そういう気がしないわけではございません。これは、内閣法における問題としましては、主任の大臣という概念であるとかあるいは分担管理という概念、これをどのようにとらえるかということにかかわってくるのではないかと思います。
分担管理の原則については、それに対する
批判的な
見解が行政改革
会議の最終報告書等でも述べられているところでございますけれども、その分担管理ということの
意味を、一体として行うには困難な仕事を分担して行うという
組織の基本的な原則として考えるならば、これはある
意味で当然のことでございます。
しかしながら、どうも我が国の分担管理の原則にはもう少し強い
意味が込められているように思われるわけでございまして、むしろ、その分担管理の原則によって、それぞれの省の所管する行政事務の範囲が非常に強く、聖域化されていると言うと少し言い過ぎかもしれませんけれども、そうした形でしっかりと確立されている。そのことが、一定の分担管理の範囲内におきましては、事務の円滑な遂行あるいは内部における調整ということを可能にするわけでございますけれども、それを超えた事務の調整というものを非常に困難なものにしている。これが、行革
会議でも触れられておりますように、いわゆる総合調整をどのようにやっていくか、それにコストがかかるということが現在のそれぞれの行政
組織の問題ではないかというふうに
指摘されているところではないかと思います。
この点に関して申し上げますと、我が国の場合には、これはすべてかどうか確認したわけではございませんのでわかりませんが、多くの先進諸国の中では例外的に、行政
組織法定主義というふうに言っておきますけれども、行政
組織のかなり細かい
あり方についてまで
法律で定められているということでございます。具体的に申し上げますと、各省設置法によって決められているということになっているわけでございまして、いわば行政
組織の編成の
あり方も
立法府が決めているということでございます。
これは、ある
意味では、行政に対する
立法府、国会の側の
一つの統制の手段である、あらわれであるというふうに考えられないこともないわけでございますけれども、先ほどから申し上げておりますように、国会と内閣がもう少し一体的に結びついたものとして考えますと、
自分たちが選んだ、信頼を置いている内閣が行政
組織をいろいろと改編する、その改革というものに対してかなり厳しい制約を課しているというふうにも理解できるわけでございまして、その
意味でいいますと、行政
組織を弾力的につくり、そして、それをしばしば変えると言ってはあれですけれども、それをうまく使って
政策を実施していく、これはその政権、内閣の責任ではないか。その
意味でいいますと、行政
組織法定主義というのも
一つの、先ほど言いました通説的な
考え方のあらわれではないかというふうに思うわけでございます。
もう
一つは、主任の大臣というふうに申し上げましたけれども、大臣は、よく言われておりますように、いわゆる
政治の世界に属する国務大臣としての性格と、もう
一つは、主任の大臣としての、各省庁の行政
組織の長としての性格を持っている。少し言葉は悪いかもしれませんけれども、いわゆる二重人格を持っていらっしゃるわけでして、その
部分で、行政に対する
政治の統制をうまく働かせるというのが
議院内閣制の仕組みではないかと思われるわけでございますけれども、我が国の場合には、行政
組織が非常に自律的である、分担管理の原則で自律性を持っているわけでございます。その
組織のトップとしての性格、そちらの側面が強く出ますと、今度は、内閣における統合といいましょうか、
政治的な一体性というものに制約となるところもあるのではないかという気がいたしております。
もちろんこれは、そのレベルの話になりますと、
個々の
政治家の方、
個々の大臣、
個々の内閣がどのようにそれを
運用されるかということによっているわけでございまして、その方がうまくいくケースもあろうかと思いますけれども、今申し上げておりますのは、
制度の
あり方の問題といたしまして、どのような
状況においても、どういう形で内閣あるいは
政治状況が展開したといたしましても、それなりにうまくいく仕組み、
制度というものを考えなければいけない、そういう観点から見た場合に、今申し上げましたような問題点が
指摘できるのではないかと思っております。
その
意味でいいますと、次に出てきますのは、行政改革
会議の方でも
議論になったところでございますけれども、内閣の
機能を強化していく、それによって、それぞれの行政各部、行政省庁の活動に対するコントロールを強化していくという
考え方であり、そのための
制度をどうするかという話になるわけでございます。
これにつきましては、先般の行政改革におきまして内閣
機能の強化ということが言われ、そして、そのための内閣に属する
一つの機関として新たに内閣府というものが設けられました。これは、今私が申し上げておりますような方向での
一つの改革であるというふうに思われますけれども、内閣府の性格につきましてはなかなか微妙なところもあろうかなというふうに思っておりまして、果たして、今申し上げました私の区切りでいいますと、
政治の世界に属して行政をきちっとコントロールするという
意味での
組織的な性格が明確に与えられたかといいますと、ここのところはまだ
議論の
余地があるのではないかと思います。
ただ、このレベルの
組織になりますと、今も触れましたけれども、
運用の
あり方によってかなりその様相が変わってまいりますので、早計に
結論を出してどうこう
判断する、評価をするというのは問題があろうかと思いますけれども、そういう問題点をはらんだ形での改革というものが実施されたというふうに認識しております。
さて、今申し上げてまいりましたこと、時間もありませんので主要なことだけしか申し上げませんでしたけれども、
結論として申し上げたいのは、我が国の場合に、内閣をどう考えるかということもございますけれども、やはり
政治部門の範囲をしっかりさせる必要があるのではないかということでございまして、そのためには、国会と内閣の
関係をもう少しきちっとしておく、それと同時に、行政との
関係をもう少しこれも別な
意味ではっきりさせるということでございます。
今のままですと、どうも内閣自体が行政の中に取り込まれているわけでして、そのことが、
立法府によるさまざまな法規制もありますけれども、内閣の活動、そちらの持っております
政治的なダイナミズムをむしろ制約しているのではないか、そのような気がいたしているわけでございまして、
政治主導という観点から見ても、もう少し内閣がそのダイナミズムを発揮できるような形での
制度というものを考えてもいいのではないか。
そして、今申し上げましたような筋からいいますと、現在の
憲法の中でもかなりそうした形での
制度というものをつくることが可能ではないかと思っております。
ただ、ここで一言申し上げておきますと、
政治の優位ないし
政治の主導ということを、そういう観点からどのようなことが考えられるかということを申し上げてまいりましたけれども、
現代国家におきまして、行政がけしからぬとか、行政が権力を持ち過ぎているということを言うつもりは必ずしもございません。
現代国家におきましては、非常に
社会が複雑になっておりますし、先ほども申し上げましたように、行政の専門性というのは非常に高まってきております。
こうした高度の専門性を担い、そしてそれに対してきちっとした
政策の提言をする、そのためには優秀な官僚機構というものは必要であろうというふうに思います。むしろ、そうした優秀な官僚機構をどのように
政策の場に
政治が使っていくのか、それがうまくできるような
制度というものを考えるべきではないかということでございまして、現在の場合には、
立法と行政というその区切り方が、どうもその使い方というものを、十分な能力を発揮させないようになっているのではないか。
一つの
考え方としては、それを遮断している神話といいましょうか
考え方として、やはり
立法と行政の区別、
権力分立、そして
政治的中立性、これは要らないというものではございませんけれども、そのとらえ方をもう少し柔軟に考える必要があるのではないか、そういうふうに思う次第でございます。
さて、時間がなくなってまいりましたので、あとは少し簡単に
お話しさせていただきたいと思います。
それでは、今のような内閣といいましょうか、我が国の統治構造の
考え方がどこから来たのか。これは、これからどう考えるかである以上、それほど問題でないのかもしれませんけれども、一言触れさせていただきますと、やはり明治
憲法下における天皇の行政権、統治権と帝国
議会の
関係、そのモデル、これ自体は我が国固有のものではなくて、先ほど申し上げましたように、ヨーロッパ、大陸系の国で君主と
議会の
関係にかなり近いものがあると思いますけれども、こうした図式がそのまま戦後も引き継がれたのではないか、そういう気がいたしております。
戦後の場合には、確かに現在の
憲法ができました。そして、申し上げてまいりましたように、現在の
憲法ではいろいろな形での
制度の設計の
余地があったのではないかと思いますけれども、それが今のような形で定着してまいりましたのは、やはりそこに
議会と
行政府という二項
関係、二元的な
関係というものが、どうも、我が国のそのときの
制度をつくった方の頭の中に、あるいは国民の意識の中にあったのではないかと思うわけでございます。
そして、それをある
意味できれいに説明するといいましょうか、サポートするような理屈が、やはり
アメリカ的な
権力分立の
あり方、
考え方ではないかなと思っております。
アメリカ的な権力の分立、
アメリカの
大統領制というのは、これは、
大統領制をしいている国は世界でたくさんございますけれども、かなり例外に属するのではないかなと思っておりまして、確かに
権力分立の
考え方、それはそれなりに
意味を持っておりますし、我が国においてもそういう原則に従って
制度の設計を考えていくことは必要であると思いますけれども、
アメリカ型の
権力分立だけが絶対的なものでは必ずしもないのではないか。むしろ、
議院内閣制と言われながら、
権力分立と言われておりますけれども、
イギリスの場合に、本当に同じような
意味でそれが使われているのかどうか、私もよく存じませんけれども、必ずしもそうではないような気がいたしております。
そういった
意味で、戦前の発想、呪縛と言いますとちょっと強過ぎるかもしれませんけれども、それが継承されてきているということはしっかりと認識しておく必要があるのではないかというふうに考えております。
さて、時間が残り少なくなりましたので、最後に、内閣
制度の変化ということで、今
議論になっております
首相公選制について少し触れさせていただきたいと思います。
首相公選制については、私としましては、ほとんどこれまで考えたこともなかったわけでございますし、問題そのものが唐突に最近出てきたので非常に戸惑っております。
しかしながら、
首相公選制をサポートするような流れがこれまでなかったかというと、必ずしもないわけではないと思います。どういうことかといいますと、やはり内閣総理大臣の
あり方、国民にとっての受けとめ方が、特に二十
世紀の後半になって大きく変わってきたということです。
二つ理由があると思いますけれども、
一つは対外的な
関係であって、非常に国際
関係の密度が高くなってくる。そして、即座にといいましょうか、緊急にその国の考えないし
意見を決めなければならない、表明しなければいけない。特に、その国の顔というものが必要になってくる。そういう場合において、どうしても、内閣総理大臣の地位、それの対外的な顔、
日本を代表するという
意味でのとらえ方というものが強調されてきたのではないかということです。
もう一点は、やはりこれはマスメディアの影響だと思います。かつてはどうだったか知りませんけれども、内閣総理大臣が何を言うか、どうしているかということが余り国民の目に触れることはなかったのではないかと思います。テレビの時代、さらに申し上げますとインターネットの時代になり、一挙手一投足が国民の目にさらされる。それについて、必ずしも
政治的な考えだけではなしに、さまざまな面から国民がコメントをする。
このことは二つあるわけでございまして、
一つは、そういった
意味でいいますと、国民は、総理大臣が非常に重要な人物だと、実際以上に
政治的に重要な存在としてとらえるようになるのではないか。だから、そういう人たちは、
自分たちが選ぶことがいいのではないか、選びたいという意識が出てくるかと思います。
また、内閣総理大臣の方も、今までは
議会をベースにして選出されていたのかもしれませんけれども、まさに国民の
支持率がみずからの正当性といいましょうか、力に結びついてくるということになりますと、そちらの国民の直接の
支持というものに総理大臣の側も非常に関心を持つ。その両者が結びついたときに、やはり
首相公選制という主張が出てくるのではないかなと思っております。
これは
首相公選に限らず、このメディアの持つ力で出てまいりましたのは、最近で申し上げますと、住民
投票制度創設の要求というのも同じような流れではないかなという気がいたしております。国民が主権者として、
自分たちでこれを決めたい、決めさせてほしい、そういう要求が非常に強くなってきたのではないかと思います。
それ自体、
民主主義の観点から
批判すべきことではないとは思いますけれども、ただ、非常に多くの情報の中で、確かに国民の
判断というものは正しく、また
判断能力が高まっている、こういう言い方をしては失礼かもしれませんけれども、そのように考えるといたしましても、限られた時間の中で大量の情報を正確に把握して複雑な問題を理解した上でどう
判断するのか、これはなかなか難しいところではないかと思います。
そこで、具体的に
首相公選制について最後に触れさせていただきますけれども、今まで申し上げてきた流れの中から、むしろ私自身は、
議会と内閣は
政治部門としてある
意味でもう少し緊密性、一体性を持った方がいいのではないか、そういう
考え方を持っておりますので、
議会とは別な正当性根拠を持たせることになる
首相公選制については、必ずしも積極的な
考え方は持っておりません。ただ、これはまだ十分勉強しておりませんので、最終的にそういうふうに
判断というところまで行くかどうかわかりませんけれども、今はそう考えております。
それにつきましても、
首相公選制の場合にはいろいろな問題が存在していると思います。例えば、選出する場合でも、相対多数で、複数の候補の中から一番得票をとった人が
首相になっていいのか、あるいは、ある国の
大統領選挙に見られますように、かなりフィクションを使っても、過半数をとるまで複数回
選挙をする、それによってより正当性を高めるという
制度もあり得るわけでございまして、どういう形をとるのか。また、これは
憲法改正が必要だと思っておりますけれども、
アメリカであるとか
フランス、ドイツ、いろいろな国で
大統領制を持っておりますけれども、
議院内閣制と
大統領制を組み合わせたような
制度もございますので、それらをどういうふうに考えるのかということにつきましては、もっと情報を集めて真剣に、慎重に検討する必要があるのではないかと思っております。
ただ一点、やはりどうも難しいのではないかと思いますのは、国民が
選挙によって選ぶということはかなり可能かもしれませんけれども、
政治的な
リーダーの存在をできるだけ民意に沿った形にしておくためには、どういうときにやめさせることができるのか、ちょっと表現は悪いかもしれませんけれども、その
制度についても一緒に考えなければならないのではないかと思っております。近くアジアの国で
大統領を弾劾するというケースが複数回ございましたけれども、それを見ておりましても、やめさせることが非常に難しいという
制度はそれなりに別の問題を持っているのではないか。もちろん、これもいろいろ考えてその問題点をクリアできるのかもしれませんけれども、それにつきましては、もう少し勉強してから私として考えをまとめていきたいと思っております。
少し時間をオーバーいたしましたが、以上でございます。どうもありがとうございました。(拍手)