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山本正和君 久しぶりに文教
委員会にやってまいりまして、
町村大臣にいろいろと御意見を伺いたいんですが、初めに、この法案については私どもは衆議院では反対をいたしましたが、参議院では賛成をいたします。これは別に内部の矛盾ということじゃなしに、よく勉強した結果賛成ということでございますから、ひとつそういうふうに御理解願いたい。
ただ、
大臣、これは先ほどから
松村議員、それから
佐藤議員、特に松議員が大変懸念されて問題点を御
指摘されました。それについてはひとつ全力を挙げて取り組みます、こういう御答弁がありましたから、それが前提ということで私ども賛成いたしますので、十分御理解願いたいと思います。
きょうは、時間を二十分いただいておりますので、ちょっと日ごろ思っていることも含めてお伺いしていきたいと思うんですが、私が文教
委員会、きょうは扇先生、
大臣がお見えなのでひょっと思い出したんですけれども、十五年前、扇先生が筆頭
理事でそこへ座っていたんですね。筆頭
理事だったんです、たしか。
委員長があの四国の仲川先生で、小野清子先生がお見えになりまして、それから共産党は吉川先生、我が党は粕谷さんと、女性が四名おる
委員会というのは当時は大変希有な
委員会だったんですよ。華やかで美女ばかり、美女という
言葉は使ったらいかぬですか、すてきな人ばかり四人おるということで、そんな
委員会だったことを今思い起こしておりますが、今ここでこういうゆめ
基金の話ができると、やっぱり十五年というのは大きな変化だなと、こういうふうなことを思っております。
それからまた、その十五年前、私も当時はまだ現場でばんばん頑張っていたんですけれども、たしか中曽根総理が随分、当時は政調か政審か忘れたんですけれども、田中角栄総理が、学校の先生というのは、特に義務教育の先生というのはもっと国が大事にせないかぬと。だから、初め一般の公務員よりも三割、五割でしたかな、月給を高くするといって、いわゆる教職調整手当という法案をつくって、実際は二割五分ぐらい義務教育の先生の給料が上がったんですね。そこで教職員に対する魅力がどんとふえて、随分教育の質も上がったというふうなのがその十五年前で、三十年前です。
そんなことを思い起こしながら
お話を聞いておったんですが、ここで私が
大臣にお伺いしておきたいのは、
大臣も大変若い世代でございますし、戦後の
日本の二十世紀を背負って、二十一世紀、いよいよ出発するという重要な
役割を背負われる
政治家だろうと思うんです。私どもは、二十世紀一生懸命やってきて残りわずか、二十一世紀の皆さんに最後の年寄りのお願いといいますか提言を申し上げるぐらいの立場ですけれども、私は、このゆめ
基金というのができたときの経過を、先ほど松先生から
お話がありましたけれども、本当にすばらしい発想だと思うんですね。全党派が入ったというのも当然なんです。
しかし、なぜそうなってきたんだろうかと思うのに、私は実は高等学校の教員になったのが一九四九年、
昭和六年生まれの子が高校三年生だったんですね。それから、私が最後に教員で授業を教えたのが
昭和十七年生まれの子ですから、どっちかといえば貧しい
時代の高校生を教えた教師です。その中で、東大に入ってちゃんとお役所の審議官になった子もいますし、大学の教授もおるし、お医者さんもおるし、実業家で成功した人もおるし、いろいろおるんですよ。それで、私どもを同窓会に呼んでくれるんです、教え子が。このごろ聞いたら、同窓会をやっても余り先生を呼んでくれなくなってきたと。
町村先生たちのときはきっと同窓会をやったら呼ばれるだろうと思うんだけれども。
だから、私らの
時代は、あんなに貧しくて、しかもどっちかといったら私も半分暴力教師みたいなもので、ようついてこぬやつはしりをたたきよったですよ。初めは水産高校におったんですけれども、それから後は進学校に行ったわけだけれども、この前のえひめ丸のように、ちょうどそのときに、
昭和二十五年にやっぱり難破しまして、校長は責任をとってやめた、そんな学校です。
そのときに、遠泳訓練というのをやるわけですよ。私は化学の教員だけれども、おまえ水泳できるのか、よしやろうというので、毎日三千メートル泳がすんですよ。私が伴走したんです、全部。十キロ遠泳をやるんですね。みんなふんどしですよ、女性の前で済みませんけれども、当時はふんどしですよ。泳げない子はふんどしを後ろからつかまえて、しりをひっぱたいて泳がすんです。その十キロ訓練をやって、最後は今度は浜島まで十キロ泳がすんですよ。一日三十キロぐらいですね。また、マラソンといっても、これも十キロマラソンをやらせるんです。最後は、漁業科の連中は太平洋の方の黒潮がぶわっと来る物すごい潮のあるところを直線で一里泳がすんです。そんな訓練をしたんですよ。今ならあなた、みんな親が反対して、こらと言って、学校そのものがつぶされる。
そういう中でやってきた
子供たち、それで、私が松阪へ、これは進学校に行ったんだけれども、その
子供たちも、先生、大台ケ原を登ろうと私に言うわけです。何でだと言ったら、先生、あんた剣道もやるし体が強そうだから、あなたなら大丈夫だというわけです。そして登った、三日間。校長に言うだけですよ。そうしたら、校長は、ああ
山本さんが行ってくれるならどうぞどうぞと。
計画書をつくったり、そんなことせぬですよ。生徒が全部
計画して、磁石と五万分の一の地図、それで全部調べて、私のところへ来て一緒に登ったんです。
そういう、何と言ったらいいんですかね、
昭和の戦争に負ける前に生まれた
子供たち、今は立派な大人ですけれども、森さんもちょうどその年代に入るけれどもね、森総理も。その人たちの小学校、中学校、高等学校という
時代の育ちというのは夢がなかったかというと、そうではない、私は夢があったと思うんですね。なにを、こんちくしょうという根性があったですよ、みんな。少々たたかれても、け飛ばされても、なにをと思った。生き抜く力を身につけようとみんな思っておったですよ。
そこのところが、何か今度はどうやったら育つかしらんといってみんながはらはらばらばらしながら、そしてお父さんもお母さんも
子供に何を言うかといったら、小学校へ入る前から勉強してちょうだいよ、勉強してちょうだいよと頼む。学校へ行ってちょうだい、学校へ行ってちょうだいよと、いい学校へ進学してくださいと頼むんですよ。私らの大
日本帝国のときは、
柳川さんもさっきおられたけれども、我々のときは、我々
子供が、お父さん、お母さん、勉強するから学校へやってくれと頼んだんです、旧制中学にね。
どうも一体、今、何がこうなっているんだろうということを私いつも思うんだけれども、それは余りにも大人が
子供の教育のことにああじゃこうじゃと言い過ぎるんじゃないかと。
昔は文部省というのはもっと怖かったですよ。しかし、つまらぬことを言わなかったですよ。細かいことを言わなかったです。国家の基本にかかわることだけはがちっとやるけれども、あとは言わぬですよ。みんな現場の校長先生に判断を任せていた。
これもまた大
日本帝国の話でしかられますけれども、三重県の津の中学校、いわゆる津中ですよね、各県でいう第一中学、この校長先生の宮中叙位は連隊長より上、知事より上ですよ、三重県津中学校の。それぐらいの人がやっぱり校長先生をしておった。だから、教育というものに対して国がかける思いというものがそういういろいろなところであらわれてくるんですよね。もちろん小学校の先生といったら、師範学校へ行った先生は、ここの東京の永田町小学校は半分ぐらいおったらしいけれども、ほかは師範を出た先生はほとんど一人か二人しかいないんですよ、あとはみんな代用教員。師範の先生の月給は四十五円。当時、大工の日当は一円五十銭。そうして、代用教員は五円ですよ。そういう中でずっと
日本の教育が行われてきておったんです、戦前。
それを反省してどうするかということからいろんな議論をする中で今日の今の教育をつくったんだけれども、みんな親も文句言う、
子供も不安だ、そして役所ももう心配でどうしたらいいかというようなことばかり
子供のことを話している。おまけに、総理
大臣が教育のことを言い始めたらきっとそのときにはもう教育は滅びておると思うんです。総理
大臣は教育のことなんか言わぬでいいんですよ。本当に私はそう思う。姿を示せばいい。
政治家というのは、最大の教育は自分の政治姿勢を
国民の前に見せることです。
政治家が
子供たちに説教するんじゃないんですよ。私はそう思うんですね。
その辺のことが何か、
子供たちのゆめ
基金の問題ですから、私は心配でならないのは、政治の世界におる者が教育はこうあるべきだとか余り説教をぐじゃぐじゃやったらおかしくなると。文部省というのは、何ぼ言っても国が責任を持っている教育ですから、教育の根本の部分、国の共通の部分だけはきちっと押さえにゃいかぬですよね。あとはどうぞ御自由にと、こうやって任せればいいんですよ。その辺のことが私はどうも気になって仕方がないんです。
そこで、
質問を
一つしますが、
独立行政法人国立
オリンピック記念
センターの背景に教育改革
国民会議がありましたですね。その中での提言というものをもとにしてあります。ところが、この
国民会議を私は斜めにしか読んでいないので、ひょっとしたら読み落としがあるかもしれぬのを心配するんだけれども、例えばこの
センターのこっちの方も、
センターの
業務は
自然体験活動、
社会奉仕体験、それから読書だけでしょう。何で芸術や
スポーツや趣味は載らないんですか。なぜここに入らないのか。
それからもう
一つ、教育改革
国民会議の方も
子供たちにやらせなければいけないことをいろいろ書いてあるんですよ、いろいろなことが、これからの目標と。なぜ
子供たちに、地域での
スポーツだとか地域での趣味、いろんなものがあるんですよ、
子供たちの生活というのは。
例えば、加藤紘一さんなんか、私とよく話したとき彼が言うのは、よく
子供のときに山の中で、あの人の小学校は小さい学校だからみんなで一緒に山登りした、木の実拾いしたと。木の実拾いしたら一年生の子はよう拾わぬかった、六年生の子がおいとくれたと。そこで何とも言えないいろいろなものができると。
子供たちはやるんです、そういうことを。
そういう地域における本当の自由な
活動というものにもっと目を向ける。教育改革
国民会議はどうも何か学者、私は学者を軽蔑するんじゃないですが、学者の皆さん方が本当に実践を、自分も一遍経験されるといいんです。本を読むのが学者の
仕事ですけれども、有馬先生みたいな大
科学者は別ですよ、そうじゃなしに、教育学者の話なんですね。教育学者はぜひともそうしてほしいと思う。だけれども、なぜそういうことが載っていないんだろうかと。
韓国は今大変な勢いでコンピューターの
ソフトの技術者をつくっていますね。それから、中国もそうですよ。インドがそうでしょう。そうしたら、その
ソフトをやるのが強い理由をこの前私は中国のある大使館に関係する人ですけれども聞いたら、いや、先生、中国の
子供はいいと思ったけれども、韓国の
子供にこのごろ負け始めたと。調べてみたら、韓国は義務教育で囲碁を全部教えるんですって、囲碁を。白い石と黒い石だけです。文字は何にも書いていない。中国も教えていますけれども、韓国はもう本当に抽象化して、全く抽象化して白と黒だけですよ。それで、十九路盤で一生懸命やっているんです。いろんなものを考えるようになってきます。
だって、文部省は昔は省庁対抗したらいつも優勝しておったんですよ。今の文部省はどうも弱くなってきてだめだけれども、昔は加戸さんという愛媛へ行った知事、彼だとか國分さんとか、みんな六段から七段ですよ。このごろどうも弱くなったけれども、余り考えぬものだから。
私が言うのは、そんなことへも目をつけて
子供たちに考える場を与える、じっと物を考える場を。だから、チェスでもいいんですよ、将棋でもいいですよ、考える場を与える。あるいは、遊びの場と書いてあるけれども、私は思うけれども、男の子でも女の子でも
子供のとき見ておったらぱっと踊るんですよね、立ち始めたら。踊りというのは人間は本能的にあると思う。なぜ踊りをもっと育てないんですか。扇先生や松先生に負けぬような、もっとすばらしい子ができるかもしれない。
そういうもっと斬新な発想で文部省は
国民に訴えていくということが私は教育への
国民の信頼の回復じゃないかと。説教することじゃないと思うんですよ。奉仕
活動というのは大切ですよ。しかし、それは自分でやろうと思ってやっていく、ただしそれを強いて言うならばもっと小さいときから。
例えば昔はおぜんがあって、おぜんの前に
子供は座って御飯を食べた、やっと座れるようになったら。そのときにいただきますとやって、ごちそうさまとやった。手を合わせてこうやってやっていた。それは生まれながらの体験でやるわけですよ。ところが、中学生だとか高校生だとか理屈を言って親の言うことを聞かぬような子に強制的にばっと奉仕
活動やれと、単位やるからと、こうやってやったら、それは本物にならぬ。もっと小さいときに、三つ子の魂ですよ、三つ子の魂百までというところに置くんならいいけれども、そんな反抗期の子にやったら全部だめになっちゃう。大
日本帝国であれだけ優秀な軍隊をつくっても反乱軍が出るんですよ。そういうことも含めて考えていただきたい。
あと三分ぐらいあるんですが、ひとつ
大臣の方で残り時間、いかがですか。