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2000-10-17 第150回国会 衆議院 法務委員会 第4号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成十二年十月十七日(火曜日)     午前十時四分開議  出席委員    委員長 長勢 甚遠君    理事 太田 誠一君 理事 杉浦 正健君    理事 山本 有二君 理事 横内 正明君    理事 漆原 良夫君       岩屋  毅君    河村 建夫君       後藤田正純君    左藤  章君       笹川  堯君    武部  勤君       平沢 勝栄君    宮澤 洋一君       望月 義夫君    森岡 正宏君       渡辺 喜美君    池坊 保子君       上田  勇君    上川 陽子君       土屋 品子君     …………………………………    参考人    (東洋大学法学部教授)  森田  明君    参考人    (国際医療福祉大学教授) 小田  晋君    参考人    (東京家政学院大学人文学    部人間福祉学科教授)   原口 幹雄君    参考人    (新庄幼稚園園長)    児玉 昭平君    参考人    (医師)         土師  守君    参考人    (読売新聞社論説委員長    )            久保  潔君    参考人    (川越市立城南中学校教諭    )            河上 亮一君    法務委員会専門員     井上 隆久君     ————————————— 委員の異動 十月十七日  辞任         補欠選任   加藤 紘一君     望月 義夫君   上田  勇君     池坊 保子君 同日  辞任         補欠選任   望月 義夫君     宮澤 洋一君   池坊 保子君     上田  勇君 同日  辞任         補欠選任   宮澤 洋一君     加藤 紘一君     ————————————— 本日の会議に付した案件  少年法等の一部を改正する法律案麻生太郎君外五名提出衆法第三号)     午前十時四分開議      ————◇—————
  2. 長勢甚遠

    長勢委員長 これより会議を開きます。  開会に先立ち、民主党・無所属クラブ、自由党、日本共産党社会民主党・市民連合の各委員出席を要請いたしましたが、いまだ出席されておりません。やむを得ず議事を進めます。  麻生太郎君外五名提出少年法等の一部を改正する法律案を議題といたします。  本日は、本案審査のため、午前の参考人として、東洋大学法学部教授森田明君、国際医療福祉大学教授小田晋君、東京家政学院大学人文学部人間福祉学科教授原口幹雄君、以上三名の方々に御出席いただいております。  この際、参考人各位委員会を代表して一言ごあいさつを申し上げます。  参考人におかれましては、御多用中のところ本委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお聞かせいただき、審査参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願いをいたします。  次に、議事の順序について申し上げます。  まず、森田参考人小田参考人原口参考人の順に、各十五分程度御意見をお述べいただき、その後、委員の質疑に対してお答えをいただきたいと存じます。  なお、念のため申し上げますが、発言の際は委員長の許可を得ることになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。  それでは、まず森田参考人にお願いいたします。
  3. 森田明

    森田参考人 ただいま委員長より御紹介いただきました森田でございます。  私は、現在、東洋大学法学部で、未成年者保護法という、少し幅の広い、子供少年一般に関する法律問題の研究をずっと続けておりまして、少年法歴史的研究がその中の一つのテーマでございます。  今回、ここにお招きいただきまして、自分研究の一端を明らかにせよと。私がお話しできることは、歴史的な角度から少年法を見るということが非常に重要ではないかと、自分なりに勉強しておるものですから、多分、私に課せられた任務はそれであるということで来させていただいた次第です。  十五分と伺いましたので、これはもう私どもにとりますれば一種のサーカスをやるようなものですので、非常に悩みました。原稿をつくったら、これは確実に失敗します。レジュメがなければいかぬし、レジュメはまた余り少な過ぎても困るしということで、時間を合わせて全力を投球いたしますが、どうぞその趣旨をお酌み取りいただければありがたく思います。  一応、お手元にお配りいたしましたレジュメ資料に沿ってお話を申し上げます。  少年法の場合、特にここのところ数年間、議論が非常に活発に行われておるわけですが、歴史を見ますと、さかのぼっても昭和二十三年、一九四八年の現行法成立の時期以降の問題ですね。これはこれで非常に重要な問題を我々に提出してまいりますが、実は日本少年法というのは、研究という方からさかのぼりますと、少なくとも明治四十年、一九〇七年までさかのぼりませんと全体像が見えてこないという独特の構造を持っておるものであります。  敗戦ということで不幸にしてこの間が切れておりますけれども、実は御承知のように、家庭裁判所少年審判所少年院は矯正院、かつての司法保護委員制度保護観察と、パーツは全部同じですね。しかも、実務も全部同じです。変わったのは、家庭裁判所をめぐる手続構造がある意味で変化して、理念がある意味で変化した。したがいまして、我々が持っている少年法歴史的遺産というものを、そのプラスもマイナスも含めて、今後何をそこから酌み出せるかというときには、戦前の四十年史を外してしまいますと大事な根っこを落としてしまう、私はこのように思っております。  以上のような角度から、戦後と戦前の両方について、その特徴を主として一点ずつお話し申し上げて、今日の法改正問題あるいは今日起こっている少年問題というのが一体どういう構造歴史の中にあるのだろうかということについて多少のサジェスチョンをきょう私がお話しできれば十分だと思っております。  まず、現行少年法成立、つまりここ五十年の歴史のところについて一点だけ、最初立法時に伏在していた問題という観点からお話し申し上げます。  もう御案内のことは多々でございますので、現行少年法成立した時点、つまり昭和の方で申しますと昭和二十二年の二月から昭和二十三年の七月までの一年半、この時期に少年法成立する、ある種の疾風怒濤の時代があるのですが、そこで起こった問題が今日にどういう形で尾を引いているのか、こういう問題ですね。  昭和二十二年の二月に、GHQセーフティーセクションバーデット・ルイスという、これは大変優秀な学者ですが、日本司法省保護課に対して「少年法改正意見」という非常に簡略なものを提示いたします。これは、以下三つの点で、根本的に我が大正十一年少年法に変更を迫るものであった。これは教科書にみんな書いてある。  私の順番で整理いたしますが、一点目は、少年審判所裁判所にしろ。二点目は、新しくできる少年裁判所は全少年に対して管轄権を持つ。今でいうと全件送致というものですね。つまり、事前検察官による振り分けは許さない。三点目は、刑事裁判所に送致することのできる年齢を十六歳以上にしろ。この三点についてまず論議が起こるわけでありまして、この中から一年半の間にどういう形で少年法案ができ上がっていくか。  順次プロセスを追うことはここではできませんが、最初の半年間は司法省保護課はかなり懸命なバーデット・ルイスに対する抵抗をするわけです。それについてはデータ的にもある程度残っておりまして、私が自分研究に使いましたものとしては、二十二年の五月と六月に、お手元にあります「少年法改正草案に対するルイス博士提案についての意見」、これは今回の改正関係のある部分を一点抜いてまいりましたけれども、以下のような文章が出てくるわけです。出典は私の著書と、もしあえて引くとすれば家庭裁判月報だと思います。  ずっとあります、反論書の中ですね。年齢部分ですが、ルイス刑事責任年齢を上げろと言ったわけじゃない、送致することを許さぬということです。「これは、一六歳未満少年に対しては絶対に刑罰を科さないことであって、つまり刑事責任年齢を一六歳以上に定めたことになるわけである。我が国においては、一四歳を刑事責任年齢を定めて約四〇年に及び、その間、この点について少しも世間から批難をうけ、又実務上不都合を感ずるようなことはないのであって、このことはこの刑事責任年齢が国民にとって適当であることを意味するであろう。従って、今、これを直ちに一六歳に引き上げることは、我が国の実情に照して、妥当でないと思われる。」これは非常な不合理であるという抵抗をするわけです。ダブルスタンダードになってしまう。  これに始まるような論争がここで起こるわけですが、私はパーツはみんな残っていると申しましたが、何しろある意味では手続上の大改造ですので、この部分はさほどディスカッションが起こらずに、結局新法の中に現在のような形で定着するという経過をとったようです。事ほどさように、アメリカGHQ理想とした少年法と、実はこれは少年法ではなくて少年裁判所法なんです、ここが決定的に違うわけであります。  少年法という場合には、保護刑罰に両翼ににらみをする、刑罰という意味少年用刑事責任、それと保護処分の両にらみをするというスタイルなんですが、少年裁判所法と申しますのは、刑罰とは一切遮断された、ある意味児童福祉的な箱の中で少年犯罪も扱えるんだという、これはある意味アメリカ的な理想主義ですね。  ですから、少年法であるか少年裁判所法であるかというのはとても重要であります。最後までこの名称では問題が残りましたが、とうとう少年法として成立いたしました。つまり、その意味では、旧法改正という形で、旧法構造を大幅に引き継ぐ形で現行法成立するわけです。  一点だけ特徴を申し上げます。  今申し上げました、冒頭に出しましたバーデット・ルイスが提起した提案は、アメリカ型の児童福祉型、あるいは私はここでは児童福祉政策的保護とも申し上げましたが、あえて言うとすればこういった理念。この中身は、十八歳未満は一切大人ではないんだから、大人というのは十八歳以上、十八歳未満子供という。アメリカでは日本語で言う少年、青少年というコンセプトはないのです、チルドレンまたはアダルトであります。チルドレンはノンクリミナルである。したがって、そのチルドレンを扱う少年裁判所がクリミナルなことをやっていいわけがない、これは論理的にはある程度筋が通っているわけです。  その面から見ると、日本法というのは少年という中間層をねらっているわけです。まずそこに一つずれが生じていたわけですが、この非常に多端な時期にそんな細かいことをだれも考えられる暇がない。起こったところを連想するしかなかったわけですね。  以上のような児童福祉政策的な保護に基づくアメリカ少年裁判所の構想、これを向こうのラテン語を使いまして、よくパレンス・パトリエと申します。パレンスというのはペアレント、パトリエは祖国、国は最後の親である。児童福祉的なわけですね。つまり、パレンス・パトリエ的福祉裁判所の中に少年を取り込んだモデル提案した。  ところが、日本は、少年をそういった福祉少年には広げない。福祉少年という意味は、具体的に言えば孤児浮浪児、被虐待児、これがアメリカ少年裁判所メーンターゲットなわけです。そこへ犯罪少年を突っ込んだ格好になっている。日本は、いや、そうじゃないのだ、そんな児童福祉少年の群れが町にあふれている実社会ではなかった。戦後はちょっと別ですよ。したがって、犯罪少年を軸とした刑事手続保護にスライドした構造日本はとりたい。今から考えますと、このずれが当初から非常に激しく起こっていた。理論的にこういう整理はなされておりませんが、五十年たつとこの点の問題がよく見えてくるわけです。  ですから、それをあえて言えば、学術用語を使いますと刑事政策的保護と申します。刑事責任が前提になっている。十四歳以上は犯罪なんだ。これに対して法がどう対応をとるかということになれば、どうしたって刑事責任を問うということを一方の軸に据えなければならない。そうじゃなかったら、刑事政策立法にならない。しかし、保護ということは限りなく追求さるべきであるというのが日本法のスタンスであったわけですが、ルイスの目から見ますと、お話し申しましたように、十八歳未満少年に対して刑罰を追求しておる、これはけしからぬという、誤解というか、つまりここでは大変な文化接触の問題が起こっておるわけですね。  そういうわけで、でき上がった少年法案は非常におもしろい法案になった。というのは、日本側立法担当者、我々の大先輩です、固有名詞を挙げませんが、K教授は、今でも当時の書かれた文章が残っておりますが、自分たちはとにかくこの裁判所を刑事的な裁判所として構成することに全力を注いだ。ということは、裁判所管轄権の中に孤児浮浪児遺棄児を入れては困る、これは民事でやってくれ、この点だけはずっと何とかして抵抗しようとするのですね。検察官先議とかいろいろな問題は、外堀は落ちますけれども、最後の内堀は。  そして、そこは不思議なことに、抵抗が聞かれたからではなくて、当時起こった別なハプニングが幾つか重なることによって、何と少年法少年裁判所法として制定されずに、つまり犯罪少年、準犯罪少年を対象とした少年法として制定されました。これは現在の三条ですね。  そして、一条をよく見てみますと、あそこには健全育成のもとに刑罰保護というのは二つのツール、手段として設定されておりますが、これは大正十一年少年法構造がそのまま生きておる。そういう骨格はそのまま生き延びる結果になった。つまり、刑事政策立法骨格は生き延びる。ただし、手続構造の中には、ルイスが、アメリカ側が強く主張した、つまり、中は一切ピューニティブ責任追及的であってはならない、なぜなら我々は国の親として責任能力なりなんなりが全くない子供たち児童福祉的な保護を加えるんだという。  したがって、現行法成立時に起きていた問題を一言でまとめますと、一種混合立法である。つまり、刑事政策的保護という維持された骨格児童福祉政策的保護という、つまり手続過程から一切の責任を問う契機を削除した手続接ぎ木された形になっているわけです。  これは、もちろん最近になって、五十年たって距離がぐっと出ますから見えてくることですが、実はかなり早い時期に、日本家庭裁判所実務の中で十年ほどたちますと自覚されます。  これ以上ここではお話しできません。ただ、この骨格手続の間のずれというのが戦後の少年法改正論争と呼ばれるものを引き起こしてきた源泉であったわけでありますし、そして、今のずれが、あるいは接ぎ木部分がぴたっと接がれていないところで、例えば非常に保護的な、児童福祉的な手続を予定した中で刑事的な対応が起きてしまうと少年審判自体がストップしてしまう。それが去年の政府原案ですね。つまり、事実認定に対して検察官の関与を入れるという構造をとらなきゃならないという。  あるいは、先ほどの十六歳未満は送致していいか悪いかという問題については、実は、少年若年凶悪犯罪が少なければ、当初のようにあの議論はしないで済んでいた、五十年間それで済んできた。しかし、刑事政策的保護児童福祉的保護の間に根本的な、根本的というか不整合とずれが本来含まれていた。それがぱっくり穴をあける、こういうことが今日起きているのであって、法構造としてはそう慌てた話ではないと言うとちょっと語弊があるかもしれませんが、そういう問題が一つございます。私は、この問題をどう理解したらいいかと。  現在、私の結論は、やはり刑事政策的な保護ということを我々はもう一遍本気で考えなきゃいけない。これはやはり保護なのです。保護なのですが、児童福祉的保護とはやはりどこかで線が引かれた保護ということを考えなきゃいけないというところに立ち至っていて、うっかりするとこれは失敗する危険が高い領域だと思います。  そのときに、ヒントになると思いますのは、何といいましても、大正十一年に日本アメリカの影響を受けながら自前でつくり出した大正十一年少年法だと私は思います。これは第一に、非常に手近なところにある日本人の経験として。しかし、単なる過去の経験ではなくて、現在の実務の中に、あるときには隠れた形で、時にははっきりした形でずっと生き延びているあるメカニズムがあるわけでして、これはある意味で、もう一度自覚して掘り出すことを通して今後のことを考える必要があるんだろうと思うのです。  この特徴一つだけ申し上げて、私の話はこれでおしまいになるのですが、ルイス提案の背後にありましたアメリカ法との対立とか対話というのは、戦後起こったことじゃなかったのですね、歴史を見てみますと。実は、明治三十三年の時点感化法という法律ができますが、この時点で、アメリカ法に対してどう対応するかということに真剣に日本立法者は悩んでいる。  そして、大正十一年に成立する、私はこれを大正十一年法と申します、旧法というよりもむしろ生きたものと思いますので、成立するいわゆる旧少年法といいますのは、先ほどお話ししましたアメリカパレンス・パトリエ理念を十分煮詰めた上で、それを日本的に換骨奪胎する。つまり、児童福祉的なあのモデルを、そのエッセンスをとりながら、実は刑事政策的な保護枠組みへ全部移しかえるという作業をしているのですね。これはもう大変な作業で、私、この研究のために十年没頭いたしましたが、飽きたことがなかったです。つまり、ある種の血沸き肉躍る話があって、少なくも学者の冥利というのはこんなところにあるのだと思うのです、それは東西の比較、それからドラマの展開という点で。  結局、換骨奪胎のできた作品というのはどんなものだったかというと、これもたくさんございますが、一点だけお話ししておきます。  戦後、大変悪評の高い検察官事前振り分けシステムというのを一つとってみますと、それがよく出てまいります。検察官事前振り分けするからあれはピューニティブだ、責任主義的だというのは、これは先ほどのルイス・メッセージからよくわかりますね。しかし、もう一歩考えて、これは刑事政策立法なんだといったら、どうして検察官のそういう事前振り分けはいかぬのだろうということになると、日本法は、実は保護ゴールにするわけです。保護を純化して、少年審判所保護手続を行いたい。つまり、少年が否認したり余り重大犯罪少年が入らない形でないと保護純化手続がつくれません。そのために、万やむを得ないし、また社会がこれでは許容しないという犯罪少年に対して、検察官事前振り分けをやる。私が調査いたしましたところでは、二十五年間の実務の中でのデータでございますから大体の概数しか出ませんが、検事局取扱数の大体二・八%が少年用刑事手続へ送致されています。現在は、逆送しろというと大人の世界へやってしまいます。これはアメリカ型です。  大正十一年法は、中間少年用刑事手続というのを持っております。そして、ここから少年刑務所という制度を持っております。二・八%です。あとの九七%は少年審判所へ送られる。そのうち二〇%は検事手元保護的に処遇される。つまり、保護ゴールとすればするほど、実は責任という要素が刑事政策としては一方に出てこなきゃいけない。しかし、日本法ゴール保護なんだと。  お手元にあります資料三をちょっとごらんいただきたい。これが大正十二年一月二十七日に司法省から全国の検事局に出されました、どういう振り分けの基準にするのかというガイドラインで、これは後の少年法を全部貫きます。そして、見事な、これにぴたっと合った数字が出てきます。「少年法矯正院法実施相成候ニ付テハ、同法ノ精神ニ鑑ミ」これは保護ということです。ただし、保護と当時は呼びません。真ん中の「少年法案理由」をごらんいただきますと、当時は「教養」という言葉を使います。これは現在の健全育成とぴたっと同じなんです。  現在、健全育成というのは、ともすると刑罰を排斥する概念としてとらえられておりますが、健全育成教養というのは、達成する手段として保護処分刑事処分があるというのが日本少年法基本的パターンです。この教養あるいは保護という精神から見れば、やたらに起訴してはいかぬのだ、二つパターンだけ考えておけ、つまり、「到底改悛セシムルノ見込」がないような少年改悛ということがかぎなんです。保護のためには改悛が必要だと。  もう一つは、一般警戒、これは現在でいいますと一般予防あるいは公益的見地からの少年責任という言い方もあります。一般警戒のために刑の執行をしなければ社会バランスがとれない、その場合には保護を犠牲にしてでも一般予防あるいは一般警戒を全面に出さなきゃいかぬ、こういう場合があるからその部分だけは気をつけろ、これは起訴しなきゃならない、しかし、そのほかについては起訴してはいかぬということです。いかぬという言い方ではございませんが、法にはその条文が出てまいります、審判所へ送れと。  このときのからくりを、ちょっと一言だけ。次の誓約書をごらんください。これは検事手元で、どちらかといえば微罪少年が、先ほどの審判所へ送らないでも済むような場合ですが、こういう誓約書を書くわけです。「此度悪い事を致し申訳ありませぬ。御情により一時御許し下されまことに有難う存じます。此後は必ず心を入れかへ御教へを守って決して悪い事は致しませぬ。今茲に堅くおちかいを致し後の為め此の書面を差出します。」これに引受書がついています。  そうすると、つまり事実をまず自認しなければならない。それだけじゃなくて、それについてある改悛の状を示さなければならない。それが検事とのあるお情け関係、今でいうとお情けというのは嫌なニュアンスがありますが、ある情緒的な人間関係と言っていいと思います、これを介する中で、実は検事が同時に訴追官ではなくて、それならおまえ、今回は頑張ってみろ、ただし、仏の顔も三度までだぞという形で審判所へ送るわけです、あるいは手元保護する。  これは、当時の実務家言葉を代表いたしますと、鬼面仏心というのです。鬼の面に仏の心と。鬼面仏心が一人のパーソナリティーの中に共存していることが非常に重要なんだと。それをやらないと、刑罰へ突っ走るか保護へ突っ走るか、分極してしまう。  ここまでお話しできれば、私のあれはほぼ達したことになります。旧法の中で、これは何も少年法だけがつくり出したのではない、むしろ日本法文化の深いところにあるものが、少年法という形で浮かび上がってきている。しかも、このパターンは現在でも実務の中に僕は生きていると思います。ただし、今の検察官振り分け権というのは、戦後、もう悪代官が何か悪いことをしているような感じがちょっと出ましたから目にはよく触れてまいりませんが、よく見ますと、家庭裁判所実務の中に、調査官がやっている試験観察の中に、審判不開始の中に、あるいは、私は実は十五年ほど現場の保護司のお仕事を少し手伝っておるのですが、まさにそういう中にこの鬼面仏心構造というのは生き延びているわけです。  これは、アメリカで一方で物すごい勢いのパレンス・パトリエが進み、片っ方で今は大変な刑事化が進むという、両極分解を起こさないバランスメーターを持っているわけで、「おわりに」ということの意味は、もちろん、今日起きている事態は、最初にお話ししましたように、立法のスタートラインにおいて生じていたある接ぎ木のひずみの部分を我々は五十年たって刈り取っているんだ。その意味で、刑事政策立法として少年責任ということを考えなきゃいけないことはもう五十年の課題である。しかし、それはあくまで刑事政策的保護という枠組みの中で我々は考えていかなきゃいけない問題でありまして、下手をしますと、アメリカ法は一九七〇年まではあの理想主義的なパレンス・パトリエで走っている、ルイス先生が日本にこれがいいんだと言った。ところが、七〇年を超えたら、アメリカ法はまっしぐらに今度は刑事司法へ向かって走り出した。我々は理解できないわけです。鬼面仏心というのは、両またにかかっています。アメリカは仏面仏心だったわけです。それに挫折するわけです。あるいは、当てにならない、信用できない、何だ、少年裁判所というのは偽善の集団じゃないかと鬼面鬼心になってしまうという危険があるわけです。  日本法が恐らく今心しなければいけないと私が歴史の過程から考えますのは、今の日本法はちょっと仏面仏心ぽいところがあります。先ほどお話ししただけではございません、刑事政策立法の枠の上にアメリカ法手続が乗っかっているだけですから。しかし、少年法には仏面仏心から鬼面鬼心へ転化しやすいという力学が入っているんだということを歴史的に頭に入れながら、大正十一年から現場で実に蓄積されて今日にまで生き延びておる鬼面仏心構造というものをもう一度、掘り起こすというよりもはっきりさせるということが僕は必要でないんだろうかと。  今回御議論法案、申し上げる時間がもうなくなりましたけれども、例えば年齢を下げるというのは、もう当初の宿題がどうしてもそうなってきたので、十四歳に下げたから、鬼面鬼心でいくのならこれは十四歳少年を刑務所へ入れますよ、しかし鬼面仏心構造ではそうじゃないわけです、鬼面が表に出るだけなんですから。  二十条二項の修正というのは、ちょっと日本の法のお家芸のパターンからどうなんだろうかということを私は感じます。ただし、まだ拝見したばかりですので、何とも決定的なことを申すことができません。御質問があればお答えしたいと思います。  大変時間もオーバーいたしましたが、私が申し上げたかったことは、今の九十年史の問題であります。御参考にしていただければありがたいと思います。  終わります。(拍手)
  4. 長勢甚遠

    長勢委員長 ありがとうございました。  次に、小田参考人にお願いいたします。
  5. 小田晋

    小田参考人 本日は、お招きいただいて恐縮でございます。存じ寄りを述べさせていただきます。  本日の午後の法務委員会の審議では、神戸幼女・小学生連続殺人事件の被害者土師淳君の父君、山形マット殺人事件の被害者の父君児玉昭平さんの両父君が参考人として出席して、遺族の立場から参考人陳述を行うことになったようであります。ようやくここまで来たかというのがこの報道を聞いた国民の大多数の意見だろうと思います。  少年法改正について、平成十二年六月にテレビ朝日の「ニュースステーション」が行った電話調査では、少年法のより厳しい方向での改正を望む世論は九三%に達しておりました。どの調査でも、八〇%を割っているものはありません。これは、本年に入ってからの衝撃的な少年事件の影響であるとは言えないのでありまして、新情報センターが長崎功子氏の依頼によって平成十年に行った調査では、全国千三百五十人の成人中、現行少年法を寛大過ぎるとする者が七五・一%、改正すべきだとする者は七三・六%に上っていたのであります。  およそ、一般の国民の沈黙の多数派、政治的にはこれはサイレントマジョリティーというんでしょうが、その声と少年法学者、弁護士団体、一部の精神科医、教育評論家、一部大新聞の論説など、識者と称する人たちのような、これは政治用語ではないので私の造語ですが、声高な少数派、ノイジーマイノリティーの声がこれほど根本的に食い違っている争点は少ないと思います。  では、多数国民の意見は理性を欠いた感情的な発言にすぎないのでしょうか。過去四十年間、医療少年院、少年鑑別所の技官として、あるいは精神鑑定人として、及び犯罪精神医学研究者として、実務研究に携わっていた経験から、現在述べられている論点について検討してみたいと思います。  まず、個々の事件をとらえて少年法改正を論じるのは短絡かということです。  少年による凶悪事件を契機にしてこの問題が論じられていて、法制審議会少年法部会が問題を提起してから既に四半世紀以上を経過しています。そのたびに、いわゆる識者の声ばかりが大きく報道されて、問題点は封印されて、有効な対策は封じ込められてきました。決して唐突に浮上してきた問題ではないんです。  第二に、少年犯罪はふえていないという報道が、最近、キャンペーンとして多くなされているんですが、第二次世界大戦後、少年犯罪は、二十六年をピークとする第一波、三十七年をピークとする第二波、五十八年をピークとする第三波、これを記録しておりまして、そのたびに、第一波より第二波、第二波より第三波とピークが高くなっています。平成八年以来の第四波はまだ上昇の傾向にあって、これを現時点で阻止する必要があるのです。  さらに、この改正案は、少年犯罪全般に対して重罰を企図するものではありません。犯行が重大で、被害者及び遺族の打撃が深い事件について条理にかなった処分ができないという現状に対応するのが主眼であります。しかし、改正によって、少年犯罪であっても、従来のように二十歳になるまで何をしても大丈夫という少年犯罪に対するいわば自由通行証を与えられているという錯覚を少年たちから取り去るという、信号作用というんですが、そういう効果は十分に期待できると思います。  それから、改正案は少年法制定の趣旨に反するかということなんですが、反対論の立場に立つ者は、現行少年法制定当時の立法、運用に携わった学者家庭裁判所関係者、矯正職員等のうち、改正反対の立場に立つ人たちを捜し出してこのような発言を引き出して、これらの人々の意見を聞けと主張するのですが、しかし、その一人である元家庭裁判所の判事さんは、現行法が、GHQの中のリベラル派によって、米国でも行われていないほどの無罰主義の実験を行おうとしたものであるという経緯を図らずも明らかにしています。  現行法参考としたと思われるのはイリノイ州法でありますが、一九八〇年代の少年非行の激増、悪質化に伴い、各州は続々と法改正を行って、少年犯に対する強硬政策、タフポリシーと彼らは呼んでいるようですが、に転じています。  我が国の場合、昭和二十年代の少年非行対策は、戦災孤児、貧困、周囲の理解欠如、欠損家庭等、まず理解と保護が必要であるとされたんだ、そういうことには理由があるのですが、その後の情勢変化、つまり少年非行が年少化して、一般化して、そして思春期が早発化して、例えば十三歳でも従来だったら十七歳で起きたような犯罪が起きる。それから、青少年犯罪の原因が快楽追求的、愉快犯的、劇場犯罪といって、むしろ犯罪が報道されることが本人にとって快楽であるという犯罪になっておりまして、これらは保護一点張りの方法にはなじみにくいと思います。  さらに、少年たちは成人以上に情報人間化していまして、これはもうITの普及なんかを見てもよくわかりますが、この程度の行動に対するどの程度の処分があるかという相場にはむしろ成人以上に敏感です。  それから、少年の心を理解し、カウンセリングを導入することはもちろん必要ですが、重大犯罪を起こしたような事例では、事後に検討してみても、例えば神戸小学生・少女殺傷事件が典型的ですが、従来的、一般的なカウンセリングの方法では犯罪を防止できません。児童相談所でのカウンセリング続行中に土師淳君の殺害が起きております。これには法改正を伴う専門的方法が必要で、現行法をそのままにする口実にカウンセリングの必要性を持ってくるということは妥当とは言えません。  非行少年を安易に刑事罰にして、刑務所に送って刑務作業をさせる、これは一種の切り捨てじゃないかというのは時に専門家からさえ聞かされる意見ですが、これも実情を見ての意見であるということはできません。一般に非行生活を重ねた上で収容されることになる特別少年院と、場合によっては初犯で、しかも重大犯罪を犯した者が収容される少年刑務所では、後者の雰囲気が格段に穏やかであります。収容期間が長いために十分な処遇が可能であることはよく知られています。  例えば、岡山県長船町で発生した、十七歳の高校生による金属バットを用いての母親と下級生の殺傷事件の場合、特別少年院送致という処分は、恐らく本人にとって最も残酷な処遇で、少年院の方が本人の心理状態を酌み取っての専門的な処遇ができるという家裁決定に対する賛辞が寄せられたのですが、実は、家裁が検察官の逆送意見を無視して、一連の重大な少年事件についてあたかも意地になってでもいるように不送致決定を続々と出しつつあることについてのいわば改正反対派の勝利宣言だ、それにすぎないと言ってもいいと思います。  重大事件についての原則逆送の規定は修正されるべきか。この意見はあるのですが、しかし、この規定は今次改正案の背景で、この点を欠いては今次修正案はほとんどその意義を失うと言っても過言ではありません。法制審議会、植松正部会長の少年法部会が少年法改正案をまとめた際、少年非行に対する検察官先議の是非をめぐって最高裁家庭局と法務省との間に所轄の争いが生じ、改正反対運動の中で家裁関係者の中に意識変化が行われていたとおぼしいのですね。検察官の送致意見と家裁の決定がはさみ状に開いてくる傾向は既に始まっています。  例えば、昭和五十七年ですが、検察官は年長少年の殺人、強盗事件、凶悪事件について四六・五%の検察官送致意見をつけ、家裁は二〇・二%についてこれを認容していますのに、平成十年では、検察が二四・二%について逆送意見をつけているのにすぎないのに、家裁は、これは年長少年で、しかも殺人と強盗なんですけれども、八・二%しかこれを認容していません。つまり、一九九〇年代後半に、検察官は、これを幾らつけてもむだだというので検察官送致意見をつけるものの比率を急激に引き下げているのです。にもかかわらず、家裁による認容数は上がっていません。  名古屋家裁は、あの五千万円恐喝事件の主犯格の少年でさえ中等少年院送致、つまり、これはせいぜい一年ないし長くても二年で出てくるのでありますが、そういう処分にしています。  殺人、強盗のような凶悪犯についても、年長少年の結局一四から一七%しか正式裁判を受けていません。殺人、強盗を犯しているのに、実はその半数前後が少年院にさえ送られることなく、そのまま社会に出ているのです。とりわけ、おやじ狩りと呼ばれる強盗傷害事件に対する処分が法外に軽いのは、家裁が非行進度と呼ばれる独善的な概念を用いて、おもしろ半分でやったという非行少年を見逃すのが少年保護だとしてきたからではないでしょうか。  一連の重大な少年犯罪が多発し、それについての処分が軽過ぎます。少年法自体、保護主義に凝り固まっている上に、その運用そのものが、世間の憤激や被害者の怨念に少しでも耳をかすのは古風な応報主義だとする少年法学者や家裁関係者などの、いわば現行制度になじみ過ぎた人たちの主張に操作されてきたからではないでしょうか。僕はこういう人たちを家裁マフィアと言っています。改正少年法によって少年非行を実際に減少させるためには、家裁そのものの再検討、関係者の再教育が必要になってきているのじゃないかと思います。  厳罰主義は犯罪を減少させないかという問題なんです。  厳罰主義は犯罪を減少させないということはあたかも自明のように言われているのですが、それはたとえどんな権威の口から出たものであっても、どんな尊敬すべき方がそのことをおっしゃっていても、最近の犯罪研究の結果も実践も無視した考え方です。  米国の事例で最も顕著だったのは、犯罪のるつぼであったニューヨーク市の市長選で、前の連邦検事であったルドルフ・ジュリアーニが当選した後の変化です。彼は犯罪、非行に対するタフポリシー、強硬政策を採用することを公約して、それを実践しました。実は、米国の精神医学や心理学の学説はそれ以前から水面下で変わっています。従来多く唱えられていた欲求不満攻撃説、つまり欲求不満があるから人は攻撃に出る、欲求不満を取り除くべきであるという力動心理学的な、精神物理的な考え方だったのですが、これは衰退しています。一般に精神物理的な考え方が衰退して行動主義が表に出ているのですが、人間はその行動によって期待される正のインセンティブ、これは賞ですね、それから負のパニッシュメント、罰によって支配されるという行動主義心理学の方が優勢になりました。  ジュリアーニ市長は行動主義心理学者のブロークン・ウインドー・セオリーを採用しました。つまり、ガラスにハンマーで一撃を加えて都会に放置しておきますと、例えばビュイックのような上等な車を放置しておきますと、その車はあっという間に略奪されてスクラップになります。窓に一撃を加えなくたって、いずれ車上盗に遭いますが、まずこの車からやられる。窓の小さな穴がより大きな穴を呼び込むのでありまして、犯罪についても同じで、懲罰と摘発が犯罪を制するというので、ニューヨーク地下鉄の落書きやかっぱらい、おやじ狩り行為など、少年がよくやる軽い犯罪に対しても一斉検挙が命じられたのであります。  これは従来のリベラル派的少年犯罪とは正反対の方針でありますけれども、これによって少年犯罪も凶悪犯罪も、そして犯罪一般も急減しました。殺人事件は、ピーク時の一九九〇年は二千二百六十二件あったのが、九八年には三分の一強の六百二十件。ジュリアーニ市長は、ニューヨークは人口百万人以上の都市の中で最も安全であると胸を張っています。その結果、郊外に脱出したミドルクラスの都市へのUターン、観光客の増加で税収も増加し、市の財政は黒字に転じています。犯罪率の低下は、麻薬の封じ込め、警官の増員、連邦、地方政府の犯罪撲滅への強い政策が背景にありますし、その効果は全米に波及しておりまして、米国は一九六〇年代の社会の安全性を回復しつつあると言われています。  それから、やはりこの「だけでは論」というのが問題なんです。  この期間は米国では、一方では、米国民統合の象徴であるとアメリカの政治学者が言うところの大統領、そのころはクリントン大統領なんですが、そのスキャンダルに注視していた時期でありますし、当時のギングリッチ下院議長が指導するアメリカの約束という政策で福祉予算の少々乱暴な削減が行われた時期でした。  これらはいずれも望ましくないことであることは確かですが、犯罪・非行対策だけでは犯罪はなくならない、大人がまず身を慎むことが大事だという「だけでは論」に対する反証にはなり得るだろうと思います。大人が身を慎むことも、福祉的な社会をつくることも、それ自体望ましいことであるかもしれませんが、理想的な社会ができるまで非行対策はむだであるというのではかえって社会の崩壊と解体をもたらします。福祉社会のスウェーデンでは、犯罪白書によりますと、人口当たりの犯罪率は実は先進国中最も高いのであります。犯罪、非行、触法精神障害者に対する対策はそれ自体として行わなければなりません。タフポリシーはそれ自体有効であるということが示されました。  米国における少年数の減少を犯罪・非行率の減少は上回っています。経済の好況に原因を持っていくことも実はできないのです。好況によって減るのは窃盗を中心とする財産犯でありますが、少年犯罪、凶悪犯は減らないというのは従来の通例で、今回はそういうことはなかったのであります。  今後の問題点なんですが、与党三党は、低年齢化をする少年犯罪対応して、十分な捜査と処遇が行われるように、刑事罰可能な年齢を十四歳に引き下げることを提案していらっしゃいます。  思春期が早発化して、それによる少年犯罪の態様が変化しています。これは十三歳の少年犯罪が続発した二、三年前の状況を考えてごらんになったらおわかりになると思いますが、これは児童自立支援施設、厚生省管轄、旧教護院の現況でそういう凶悪な少年を処遇することは非常に困難であるということに配慮して、この困難であるということは私は自分で診察して知っています、下限の年齢は十三歳でもいいと思われますし、精神医療が必要な事例に入院や通院の義務を課するという医療的保護観察制度を導入することも望ましいと思われます。  犯罪責任を自認させ、自覚を促すという意味で、少年法の二十二条「審判は、懇切を旨として、なごやかに、これを行わなければならない。」という規定を改正するというのは極めて妥当なのですが、厳正かつ和やかにと修正した方が望ましいと思いますし、六十一条の実名報道禁止の規定を、特に公益上必要であると考えられる場合を除いてと限定する案も検討されることが将来考えられると思います。  何より重要なのは、被害者及び遺族から検察審査会法に基づく請求ができ、それによって、検察官不送致となった事例を含めて再検討の可能性を開いておくことでしょう。被害者保護といっても、それはカウンセリングの名のもとに、被害者を言いなだめて復讐心理を捨てさせるものにすりかえられてはなりませんし、情報が与えられても、それに対して遺族はそれ以上何もできない、手も足も出ないというのでは、被害者遺族の無念と歯ぎしりの種は増すばかりだからです。  どうもありがとうございました。(拍手)
  6. 長勢甚遠

    長勢委員長 ありがとうございました。  次に、原口参考人にお願いいたします。
  7. 原口幹雄

    原口参考人 東京家政学院大学の原口でございます。  私は、昭和三十三年に京都家裁の家裁調査官に採用されて、以後三十六年間、家裁調査官として勤務いたしました。ただいまの小田参考人によれば、家裁マフィアの一員であって、再教育が必要な一人かもわかりませんが、よろしくお願いいたします。  平成六年の三月に最高裁の家庭審議官を最後に退職しまして、同年四月から、家族紛争あるいは子供の問題などの相談を受けております家庭問題情報センターの理事をし、そして同じように、慶応義塾大学法学部刑事政策を担当する非常勤講師をしております。そして昨年の四月から、現在の東京家政学院大学人文学部の人間福祉学科の教授となりました。本日は、長年家裁調査官として少年事件実務に携わってきた経験と、それから、その後、外から家裁や少年非行を眺めてきたということで、若干意見を述べさせていただきたいと思います。  初めに、家裁調査官の紹介と少年審判手続における家裁調査官の役割ということについて御説明をいたしたいと思います。  家裁調査官は、主として心理学、社会学、教育学等の人間関係諸科学を専攻した者から採用されます。そして、家裁調査官研修所というところで一定期間の養成訓練を受けて、各家裁で家事事件あるいは少年事件の調査実務を担当するという仕事でございます。  家裁が少年事件を受理いたしますと、裁判官は家裁調査官に調査命令を出します。家裁調査官は、少年の性格、日ごろの行動あるいは生育歴、家庭環境、そういうことについて専門的な知識を活用しながら調査をいたします。そして、時には家庭訪問をしたり、学校で先生とお話をしたり、あるいは職場の雇い主とお話をしたりしながら、その結果を報告書にまとめ、そして意見をつけて、いろいろな照会の回答書と一緒に裁判官に提出いたします。裁判官は、それを見て、そして審判廷で少年保護者に会った上で最終的な処分をするということになります。  このように、家裁調査官は、少年事件の受理の段階から、時には処分後の少年の動向視察、少年院に行ってその後少年がどうなっているかというようなことを観察したりして、全過程に家裁調査官は関与しているということが言えると思います。  次に、最近の少年非行の状況について感じていることを述べさせていただきます。  最近、非行に至る動機その他において一見理解できないような重大事件が相次ぎましたために、社会の人々が、少年に対して、子供に対して不安や恐れや、場合によっては怒りなどを抱いておられる状況になっていると思います。しかし、これは即少年非行が凶悪化しているということではないのではないかと考えます。  その理由をこれから申し上げますが、私が若手の家裁調査官として勤務しておりました昭和三十四、五年ごろは、殺人、強盗、強姦等のいわゆる凶悪事件というものは、年間に八千二百件以上ございました。それがどんどん減りまして、現在では四分の一以下の千七百件ぐらいで推移していると思います。それから、殺人事件をとりましても、当時は四百件近くございましたが、これも急激に減りまして、現在では五十件程度で推移していると思います。  さらに申しますと、犯罪事件を家庭裁判所に送致する手続として、簡易送致という手続がございます。これは、家裁と検察庁と警察の三者が協議して、一定の基準を満たす軽微な事件については、家裁に少年保護者を呼び出すだとかその他保護的な措置を一切しないで、事案軽微ということでそのまま審判不開始にして処理するという約束のもとに送致される事件でございますが、これは、昭和それから平成に入るまでは数%からせいぜい一〇%台で推移しておりましたが、平成六年度に急に二九・七%に上昇いたしました。そして、さらに四年後の平成十年度には四一・九%まで上昇しております。この間、いわゆる軽微な事件で家裁が何もしないでもいいという約束のもとで送致された簡易送致事件は、四年間で約二万八千人も増加しております。これは、この四年間で一般事件がふえた、ふえたと言われたんですが、それをはるかに上回る事件、つまり、少年事件の増加というのはこの簡易送致事件がほとんどであった、それが、少年非行が増加したというふうに言われているわけでございます。  これらのことから、少年事件全体が凶悪化しているというわけではないということはおわかりいただけたと思います。何しろ、軽微事件が一般事件の半数近くに上っている。昔は数%であったのが、今や一般事件の半数近くは軽微事件。家裁は何もしなくてもいいということで警察、検察庁が送致していくという事件であるということを御理解いただきたいと思います。ただ、先ほども申しましたように、一見理解に苦しむ重大な事件が相次いで起こったために、このことが社会の人々に不安や恐れを抱かせているというふうに私は考えております。  次に、年齢区分と処遇選択について申し上げます。  家裁における処遇選択は、一般には、認定される非行事実と家裁調査官の調査結果に基づいて、第一に、非行事実。動機とか原因だとかその背景だとか、そういうものをひっくるめての非行事実でございます。第二に、少年の性格、心身の状況、家庭の状況、交友関係、学校関係、職場関係。第三に、処遇を行う際の利用できる社会資源それから協力態勢。以上の三点を踏まえまして、どのような処分が少年の更生に役立つであろうか、適当であろうかということで処遇が選択されます。  もちろん、家裁も司法機関でございますから、社会の安全の要請を満たすことは当然のことでございます。また、少年に対する教育の観点からも、その年齢、立場に応じた責任を自覚させるということは言うまでもございません。その上で処分が選択されているということになります。  しかし、私の実務経験から申しますと、少年自身が自分の事件の重大さだとか被害者の痛みの深さだとか責任の重さというものを自覚するのは、家裁が調査、審判でかなり働きかける、あるいは、長期にわたって保護観察所あるいは少年院等で個別的に指導、教育が行われた結果、自分のやった事件の重みを自覚する、そういう例が非常に多いというふうに痛感しております。  最近、世上を騒がせているような少年の事件の場合、多かれ少なかれ、彼らの心は屈折し、場合によっては病んでいる少年が多いと私は考えます。このような少年に対しても、同じように長期的な、個別的な処遇が必要な少年が多いのではないかというふうに考えております。  以上、述べましたように、少年の凶悪犯の減少、あるいは軽微事件の割合の上昇、また家裁で処分を受けた者の再犯の減少、これは一例を申しますと、平成二年には家裁に来る少年の一九・五%が前に家裁で処分を受けていた者でございます。ところが、平成十年には一三・二%に減っております。家裁で処分を受けた者が再犯するという比率は物すごく減っております。これは、その前はもっと、二〇%ぐらいありましたので、かなり家裁の処分の効果というのはあるのではないかと私は思います。このようなことを考えますと、家庭裁判所、いろいろ問題はあるかと思いますが、基本的に、大筋においては適正な処遇をしてきたのではないかというふうに考えております。  今回の法案で、刑事処分可能年齢を十四歳に引き下げ、原則検送事件を規定するにしても、家裁の調査や裁量の上で検送決定がなされる、検送の可否が検討されるということであれば、家裁は処遇選択の幅を広げて、より適正な処遇選択ができるものと考えております。  次に、事実認定手続の整備の必要性について申し上げたいと思います。  私は、家裁調査官として、大体五千件ぐらいの少年事件を担当したと思いますが、非行事実について本格的に争われたという経験はほんの数例しかございません。このように、少年事件は、非行事実に争いのない事件が大多数でございます。そのような事件については、少年の処遇をどうするか、少年の処遇選択が中心になりますが、これに対して、数は少ないものの、非行事実が争われる否認事件の場合は、まず、非行事実の認定手続が中心になります。それは、少年健全育成という目的を達成するためには、真に、本当に非行のない少年は速やかに手続から解放する必要があるからでありますし、一方、非行のある少年には早期に適切な保護を加える必要があるからでございます。少年が本当に非行を犯しているのであれば、その責任を自覚させ、適正な処分をすることが少年の心情の安定や更生の出発点だと考えます。  少年が非行事実の存否を激しく争う事案、あるいは証拠関係が複雑で非行事実の存否の認定が難しいような事案においては、家裁調査官から見ても、現行法手続は裁判官にかなり困難なことを強いているように思います。  そこで、裁定合議制度について触れますと、現在、少年審判は裁判官が一人で取り扱うことになっていますが、少年が非行事実の存否を激しく争う事件においては、裁判官が非常に苦慮されております。このことは、処遇の選択が難しい事案についても同じように苦慮されるわけでございます。  このような場合、裁判官はほかの裁判官とディスカッションし、より客観的な判断をしたいと思われるのは当然のことかと思います。三人で検討すればよりよい結論を出せることは間違いないというふうに考えております。  次に、検察官の関与についてでございますが、裁判官としては、客観的な事実認定を行うために、少年の側の視点、見方と少年側とは異なる視点、見方の双方から証拠を吟味し、判断するように努めておられるわけですが、少年が非行事実の存否を激しく争う事案においては、裁判官が少年側の証拠について吟味を加えると、あたかも裁判官と少年側とが対立するかのような様相を呈することがございます。このような場合、裁判官は中立ではなく、少年から見たら自分の敵だと思うこともあるだろうと思います。そのあげく、裁判官が保護処分を言い渡したとしても、少年は不信感の塊のようになって、その決定を受け入れようとはしないだろうというふうに思います。  そのようなおそれがある場合に、検察官出席させて、裁判官が直接少年と言い争う対象から外れるということになれば、少年は、裁判官やその判断に対する受けとめ方が違ってくるのではないかというふうに考えます。  次に、観護措置期間の延長についてでございますが、観護措置は少年の身柄を保全するとともに、行動観察、心身の鑑別を行うという目的を持っております。その間、家裁調査官が調査を行い、報告書をまとめて、裁判官に提出するまでに大体三週間程度を要しております。最近のように、事案が複雑、困難な背景を持っていて非行理解が難しいというような事件がふえてまいりますと、通常の身柄事件でも家裁調査官はこの期間で調査を終了するというのは相当な努力を強いられることになっていると思います。  したがって、非行事実の認定に困難を来すような事件においては、非行事実の存否の審理を行った上で、それから調査官の調査も行うということは現行の四週間ではとてもできない、終了させることが困難だということは御理解いただけると思いますし、実務経験から申しますと、非行事実認定に関係者が格別の協力をされたとしても、八週間で審理を遂げることが難しい事件もあるのではないかというふうに考えます。  次に、被害者の方に対する配慮についてでございますが、少年事件の被害者の方に対する配慮については、率直に申し上げてこれまで十分ではなかったと思います。私の、自分のことを考えても十分ではなかったというふうに反省をしております。  ただ、最近は、被害者の方から処分結果の問い合わせがあった場合には、特に支障がない限り、主文程度は教えたり、損害賠償請求訴訟を提起するために必要な場合には、少年事件の秘密性を踏まえながらも、一定の範囲で記録の閲覧等に応じたりするようになってきていると聞いております。  今回、法律案成立して、審判結果の通知だとか記録の閲覧とか意見陳述について法律上の根拠ができれば、その趣旨を十分踏まえて、家裁としても被害者の皆さんの気持ちに十分こたえられるように運用していくものと思います。  それから、保護者に対する措置でございますが、少年非行の原因や背景に親の養育態度だとか親子関係の問題があることは、御提案の趣旨に全く同感であります。家裁では現在もある程度保護者に対する働きかけを行っておりますが、これまでは明文の規定がなかったということもあって、必ずしも十分ではなかったかなと思います。今後は、立法の趣旨に従って、これらの措置を一層充実させることができるであろうと期待されます。  長年家裁で働いてきた者として、やや我田引水的なところ、自画自賛的なところがあってお聞き苦しいところもあったと思いますが、家裁に対して、国民の期待があるとともに、厳しい目も向けられているということも承知しております。私が本日お話ししたことが、家裁の調査、審判の現状に関する御理解、あるいは今後の審議にお役に立てればありがたいと思います。  説明を終わらせていただきます。(拍手)
  8. 長勢甚遠

    長勢委員長 ありがとうございました。  以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。     —————————————
  9. 長勢甚遠

    長勢委員長 これより参考人に対する質疑に入ります。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。岩屋毅君。
  10. 岩屋毅

    ○岩屋委員 自由民主党の岩屋毅と申します。よろしくお願いいたします。  きょうは、大変お忙しい中、森田先生、小田先生、原口先生、それぞれ時間をお割きいただきまして、また、それぞれのお立場から貴重な意見を賜りまして、まことにありがとうございました。  この少年法改正というのは、まさに国民的関心事、国民の皆さんは極めて高い関心を持っておられると思います。私の地元の大分県でも、先般、十五歳の少年が顔見知りのお隣の一家六人を次々と殺傷するという事件が起こったばかりでありまして、これまで、ともすれば少年犯罪というのは大都会で、これはちょっと語弊があるかもしれませんが、隣の人は何をやっているかわからない、そういう地域でこういう凶悪犯罪が起こるものではないかというふうに考えておったのが、本当に田舎の山村の、だれもが顔を知っているというところでもそういうことが起こったということで、非常に衝撃を受けているところであります。  本当は野党の皆さんにも出てきていただいて、恐らく野党の皆さんの言い分にも聞くべきところがあろうかと思いますので、まさに全国会的、全国民的な議論をしてから改正をすべきだと思っておりますので、そのことは私は非常に残念に思っておりますが、しかし、私どもの立場としては、できるだけ深い考察をして、今国会で成立をせしめたいというふうに思っているところであります。  きょうは、三先生のお話それぞれ、最初森田先生は大正十一年法、旧少年法のお話をなさいまして、平たく申し上げれば、あれは非常にできがいい、バランスもとれた法律だった、そこにアメリカ法的な物の考え方が入ってきて、木に竹を接ぐような形になった、今回の改正で、そのゆがみを正していって、いいバランスになっていくのではないか、こういうお話だったというふうに受けとめたのですけれども、そういうような解釈でよろしいのか。  そして、なおかつ、今改正が済んでも、先生としてさらに御注文というか、ここが懸念されるというか、ここが心配されるというところがあれば、ちょっとお聞かせをいただきたいと思います。
  11. 森田明

    森田参考人 先ほど申し足らなかったことを聞いていただいたものですから、大変正確に御理解いただいてありがとうございました。  私は、アナクロニズムではないのでありまして、ノスタルジーを言っているわけではなくて、日本人の経験の中に、あそこには我々の文化の深いところにおりているものがあるから、これはある意味では日本の宝として生かさにゃいかぬというくらいの気持ちは持っておるということです。それから、現実の少年実務の中に生きているというふうに申し上げました。  ただ、今回の法案最後に一点、私はちょっと留保をつけたのですが、もし今度の二十条二項の修正が行われるのだとすれば、今後やはり相当根本的な、つまり私、実はこれで日本少年法バランスが回復されるとは全然思えないのです。むしろ現在起きている問題に対する非常な対症療法という面はだれも否定できないと思うんですね。この二十条二項の修正型で物が終わってしまったら、これは日本法アメリカ化してしまう危険があるということをちょっと話させてください。  八〇年以降アメリカで起きてきた動きは、翻訳しますと、少年たちに断固たる措置をとれ、彼らはけだものだ、だから大人の世界へ切り落とせと。つまり、子供の世界から大人の世界へ捨てちゃうわけです。このときの手続が逆送制度なんです。日本法は、もともとは逆送などという制度はとらなかったのです。子供に対しては、保護で受けとめると同時に責任を問わせるという形で受けとめていたわけですね。私は、ここに一つ問題があるともともと思うわけです。逆送制度ということをどう考えるべきか。  その観点は、やはり逆送というのは自明の、もう動かせない前提だと考えて地方裁判所にやっちゃうんだという構造自体が、実は今御案内をいたしましたアメリカ児童福祉純化から出てきたメカニズムである。今日起きておりますアメリカ法は、かつてはこれは例外的だよと言っていた。ところが、八〇年以降これがメーンになってきちゃったのです。  例えばシカゴのイリノイ法を例に挙げますと、パブリックハウジングといいまして、割と経済的に恵まれない、ヒスパニックとかが住んでいる大きなビルがばあっと建っているところがあります。ここのあたりは、もちろん犯罪が非常に起こりやすい、実際に起きている。そうしますと、自動的移送、日本語で言いますと原則逆送なんです。これは警察に自動的移送を要求するスタイルですが、パブリックハウジングから百ヤード以内を歩いている何歳から何歳までの少年で、ポケットにガンが入っていた場合はオートマチックにトランスファーして、彼に刑事罰を科せ、彼は必ずプリズンに入れろという。つまり、非常に機械的なメカニズムをとるわけですね。行為に対して必ず、目には目を、歯には歯をという、これが大人の世界の話だと。  僕は、日本法はこのパターンじゃないのだと思うんです。それをさっき鬼面仏心という形で申し上げている。伝家の宝刀抜くべからずというのがありますが、その前に、保護人間関係を何とかつくり出して、しかし、抜くときは断じて抜くということがないと、刑事政策立法としては片手落ちになってしまう。その部分が恐らく戦後法から落ちたと思います。  この二十条の原則逆送、私はあの規定が、まだ拝見したばかりでどうもよくわからないです。あれは、型としてはむしろ四十一条の後ろにくっついてくる、十六歳以上の少年については例外的に検察官に直接に起訴する起訴便宜主義を与えるという方が何となく素直な感じが旧法から見ていくとするのですが、それをむしろ裁判官に与える。  ところが、どうも鬼面仏心構造がとれていないのです。恐らく、そういうふうに運用するのは難しいと思います。なぜか。第二十条の初めが裁量規定になります。前項の規定にかかわらず送らなきゃいかぬというわけですから、これは相当にきついですね。そして、いや、これには例外があっていいんだよとくると、非常にこじれた規定のように見える。これはアメリカのトランスファーシステムとは違いますが、ちょっと似た部分がある。  しかし、もしこの規定で今後いくのだとすれば道がないわけじゃないので、私は、旧法が、あるいは日本法が持っていた構造、つまり子供大人の世界へ切り捨てるという構造はとっていないんだ、子供大人とは違う子供なりの刑事責任を問うんだということになれば、家裁が、例えば今一階で保護審判をやる、二階で少年用刑事手続自分たちがやるんだという方向が必要となるように思われます。二階でのきついおきゅうと一階でのやわらかいおきゅうということでしょう。  実は保護処分刑罰の間は、そんなに天国と地獄のような違いがあるわけじゃないのです。つまり、二つの刀を持って、鬼面仏心というのは私は二つの刀と申しましたが、一種の二焦点的な構造をとって、場合によっては切りかえるという構造をとるのであるならば原則逆送の制度でもつような気がしますが、今の構造のままでどんどん地方裁判所少年が流されていくとなれば、アメリカ型のトランスファーに似てくる。アメリカはこれは子捨てと言いますね、これはやはり日本人が非常に危惧することになるのではないのだろうか、そういう問題が含まれていると思われます。刑事政策立法として責任の観点が復元することは大切だとは思いますが、やはりアメリカの悪い、前車の轍は踏んではまずいというのが私の一つの主張であるわけです。その点をぜひ御理解いただきたい。まだ立法論としてはいろいろ出てくると思います。
  12. 岩屋毅

    ○岩屋委員 ありがとうございました。  ただ、後で原口先生にもお伺いしますが、二十条二項の原則逆送というのは、これまでの家裁の雰囲気からすると、あえてそこに、重大犯罪については原則というところで踏み込んでおかないと、ちょっと私はまた緩くなっていくような懸念も持っているものですから。  時間がないので、ちょっと先を急ぎたいと思います。  小田先生、ありがとうございました。森田先生は鬼面仏心ということを使われましたが、何となく小田先生は鬼面鬼心的なお話だったのかな、ちょっと誤解があるかもしれませんが。  つまり、この議論をやっているときに盛んに反対論者から言われるのは、いわゆる厳罰化は犯罪抑止にはつながらないよ、減らないよ、これが反対論のかなり中核になってくるわけですね。ところが、先生からお話しいただいたように、アメリカで実際タフポリシーというのが効果を上げたということもあるわけで、私は、そういう可能性というものも決してなくはないというふうに思っている者の一人なんです。  というのは、後で伺いますが、先ほど原口先生から、決して少年犯罪はふえているわけではない、凶悪化しているわけではないというお話もございました。ございましたが、最近の凶悪犯罪、犯行の動機が、愉快犯的であったり快楽追求型であったり劇場犯罪的であったり、まさに小田先生おっしゃったように、欲求不満があるから犯罪に及ぶというんじゃなくて、そういう犯罪行動を起こしたときにプラスとマイナスどっちが大きいか、余り大したことにならないんだったらやってみようと。人を殺したかったから殺したんだ、実際にそう言い放った少年もいたわけでありまして、そういう傾向というのを考えてみたときには、小田先生おっしゃるタフポリシー的な物の考え方も必要なのではないかな。つまり、犯罪を犯すことによって、どう考えても明らかにマイナスの方が大きいという法を用意することも一つの対処方法なのではないかなと思って小田先生のお話を承らせていただいたんですが、いわゆる反対論者の厳罰化に対する批判について、もう一度先生のお考えを承りたいと思います。
  13. 小田晋

    小田参考人 私は別に鬼面鬼心を否定するものではありません。というのは、少年にとって一番いいのは犯行を犯さないことなんですね。もし犯して、最近の少年たちはしら切り、ごね得、口裏合わせという言葉をよく使いますが、それで結局処分をされずに免れたりしたとしたら、その瞬間にもう彼らの遵法精神は崩壊しているわけであって、それが一生を通じて彼らにいい教育的効果を及ぼすとは思えない、これは教育にも保護にも値しないということです。  それは結局、家庭裁判所が、非常に多くの不送致事件があるから、それがふえたから、少年が凶悪な事件を犯していない、少年犯罪は実は減っている、ないしはそんなにふえていないという理屈は本末転倒でありまして、現在の家庭裁判所の方針が、要するに、少年保護観察にさえしない、そのことが少年の権利と少年の将来の更生を維持するゆえんだというふうにお考えになっていらっしゃって、そうして再犯も減っているじゃないかというのは、実は、本来初めの時点で処分されるべきものが処分されていなくて、かなり大きな事件になってから初めて処分される、そういう感じになっているんじゃないか、それが実感であります。  これは私の身辺で知っていることですが、いわゆるおやじ狩りの被害に遭った場合、結局少年少年院にさえ送られていない、場合によっては鑑別所にさえ入れられていない、不処分で済んでいるというケースが結構多い。あるいは、遊びであるから非行深度が深くないというのがどうも家裁の調査官の先生たちの多年にわたる経験から得られた結果のようですが、実は少年たちに、これは信号作用と申します、少年の間は何をやっても無事だ、暴走族の場合は暴走族応援団というような人たちがいまして、そういう応援団からの拍手もわくというようなことで、暴走行為とか、あるいはおやじ狩り行為という。  そういう犯罪は、家庭裁判所の調査官の先生から見ればさぞかし軽微な行為なのでありましょうが、現実に被害を生じますし、少年たちのモラルを崩壊させている。つまり、少年たちをわなにかけて、より重大な犯罪に入るまでのバリアがなくなるという意味では、実は不親切な制度なんじゃないか。少年の更生、保護ということを場違いに言い立てている。要するに、少年に手を出さないのが更生だと、私たちは思っていないと言うけれども現実にそういうことになるような運用がなされているということについて言うと、これは決して仏面仏心でもなくて、こういうのは仏面魔心と言うのです。  それにより日本社会が崩壊していくこと、実は一九七〇年代以来のいわゆる全共闘、新左翼の理論によるとそれは望ましいことなので、そういうことに少年保護の体系全体が影響されているとしたら、僕はそんなことはないと信じますがと一応申し上げておきますが、ゆゆしいことであると思います。
  14. 岩屋毅

    ○岩屋委員 ありがとうございました。  時間がなくなってきたので、最後原口先生にお伺いしたいと思います。  先生は長いこと家裁に実際かかわっておられて、また今現在外からも見ておられるということで、あえて言えば仏面仏心的なお立場からのお話だったかなと思うのでありますけれども、ただ、今回の立法一つの動機になりましたのは、例えば山形マット死事件のように、事実認定をめぐってあそこまでこじれていく。これは一体、家裁の審理というのは本当に信頼に値するのか、こういう国民の皆さんの御批判、不満というのもあったと思いますし、そもそも少年に対する処遇がやはりちょっと甘過ぎるのではないか、こういう見方もずっとあったと思うのですね。  今回の改正案について、先生は、おおむねいろいろな点についてほぼ妥当ではないか、こういうお話だったと思います。今回の改正が成った後、家裁が今回の立法の趣旨にのっとって、今まで以上に国民の皆さんの御期待にこたえられるものになっていってほしいなと思うのですが、実際にその中でお仕事をされてきた先生のお立場から、今改正案の予定されるというか期待されるべき効果について、最後にちょっと話していただければありがたいのですが。
  15. 原口幹雄

    原口参考人 これが施行された場合にどうなるかというのはちょっと予測がつきませんけれども、ただ、さっきの厳罰化というのが、私は刑事処分だから厳罰化ということではないというふうに考えております。  といいますのは、私の実務経験の中で、十七、八歳の子供少年院に送られそうになりますと、調査官にぜひ刑事処分にしてほしいと頼む例は、これはかなりございます。それは、刑事処分になれば執行猶予で自宅に帰れるというふうなことです。それで、そうは問屋が卸さないということで、少年院送致の決定になるということもかなりございますので、刑事処分イコール厳罰、まあ厳罰の定義にもよりますけれども、保護処分もかなり厳しい処分であるというふうに、そういう意味では、仏の顔をして鬼のようなところに送られる、鬼のようにとは言いませんが、そういうこともございます。  今度の法改正が行われたときにどうなるか。先ほどから出ております、処分が甘いのではないか、検送率が少ないとか、あるいは少年院送致が少ないというのは、先ほど御説明しましたように、一般事件の半数近くは、家庭裁判所は何もしなくていいという簡易送致事件なんですね。そうすると、残りで通常の処遇が行われるというようなことも関係しているのだと思います。  ちょっと話がそれましたけれども、私は、立法の趣旨に沿って、家裁が運用していくだろうというふうに思います。
  16. 岩屋毅

    ○岩屋委員 どうもありがとうございました。終わります。
  17. 長勢甚遠

    長勢委員長 参考人に申し上げますが、大変恐縮でございますが、質問者の質問時間が限られておりますので、答弁はなるべく簡潔にお願いしたいと思います。よろしくお願いいたします。  漆原良夫君。
  18. 漆原良夫

    ○漆原委員 公明党の漆原でございます。  きょうは、三人の参考人の先生方、本当にありがとうございました。  まず、森田参考人に三点お伺いしたいんですが、第一点は年齢問題でございます。  刑法で刑事責任能力は十四歳、少年法では刑事処分の可能年齢を十六歳としている。こうなった理由について少し詳しく述べていただきたい。第一点でございます。  第二点は、先生が日経新聞でリレー討論された新聞を読ませていただきまして、少年法責任保護関係について、「いわば厳父として少年なりの責任を持たせ、慈母として保護を加えるという考え方を追求してきたのが、明治末以来の日本少年法の基本的スタンスです。」そして「保護責任を相互補完的に考える伝統が、日本少年育成の思想の中にあります。」というふうに指摘されております。  そこで、少年法保護責任かを二者択一の関係としてとらえるのではなくて、相互補完的にとらえているということについての御説明をもう少し承りたい。  第三番目は、改正法は、少年責任と自覚を促すという観点から、刑事処分可能年齢の引き下げ、そして一定の重大犯罪について原則逆送の制度を設けております。これに対して、少年法保護主義に反するという非難が、批判がなされておるわけでございますが、この少年法保護主義という観点から見て、今回の改正法案の御意見を承りたい。  この三点でございます。
  19. 森田明

    森田参考人 簡略に申し上げます。  まず、年齢問題です。いきさつについての御質問ですが、これも先ほど申し上げて、資料の一の部分だけではいささか不十分かもしれませんが、つまり、アメリカ法は、十八歳未満はチャイルドだ、十八歳未満はみんな保護で直らなきゃいけない、こういう児童福祉理念だったわけですね。ところが、アメリカ法には妙な避雷針と呼ばれるものがついておりまして、十六歳、十七歳に関しては、本当は保護で直らなきゃいけないんだけれども、例外的に大人の世界へほうり出していいというのが、一九二〇年ごろからだと思いますが、できてくるんですね。これは理論からすればおかしい。しかし、現実との妥協だとよく言われました。なぜか。非常な凶悪犯罪少年少年裁判所で審理されて、しかも保護だということになると少年裁判所はつぶれちゃうということで、これは一つの解釈ですが、私の理解では、避雷針としての移送制度であったわけです。  こういう形で、アメリカでは十六歳という年齢が出てきたわけです。これが全米標準裁判所法一九四三年版の六条というのに出てきた。先ほどのバーデット・ルイス日本に、これでいったらどうだと強いサジェスチョンを加えたものが、今の全米裁判所基準六条でありました。ここは動かしちゃだめだと。これがいきさつですね。  ですから、その限りではアメリカ法児童福祉理念日本刑事政策理念の間のずれが埋め切れないまま児童福祉理念現行法に定着してしまった。この点について、これ以上日本側抵抗した形跡はありません。なぜか。ほかの点が余りにも大きかったからです。ということで第一点は御理解ください。後でもし個人的にお聞きくだされば幸いであります。  第二点の御質問ですが、これは私は久しく勉強しておりますおもしろい部分で、厳父慈母というのは、これは日本に古くからある言い方で、保護責任がどういう、むしろ相互補完性についての御質問だろうとは思います。  歴史データを一つだけ申し上げてみますと、先ほどお話ししたように、アメリカ型のパレンス・パトリエ明治三十三年に入ってきますと、これは日本人に物すごくアピールいたします。ところが一方で、それは批判を生み落とす、甘過ぎるんじゃないかと。つまり、日本人はアメリカ法に対して相異なる、相反する、しかし両方とも正しいんだとか思う感情を持つんですね。これが厳父慈母としてあらわれてくる。  例えば、明治四十一年に小山温という当時の監獄局長は、非常にアメリカ的な処遇をした刑務官たちの面前で、少しく申してみたいのは、我々は同情は必要だけれども、犬や猫のように子供をかわいがっちゃいけない、心ある人間としてかわいがれ、愚母がその寵児に対するものであってはいかぬ、厳父がその子に対するものであれと。つまり、彼の頭の中には厳父慈母というキーワードがあるわけですね。これはコンセプトとしてはずっとあるわけです。  これがどういう形で今度は相補性を持つかということですが、これはもう先ほどお話しした中に出てまいります。つまり、大正法ですと、年長重罪少年の場合、必ず検事手元に行かなきゃいけない、あとは直接今のように全件送致で済むわけですが。その場合には、少年の前方には、ある意味では少年刑務所が見えているわけですね、少年刑事手続が見えているわけです。これはやはり、非常に怖い壁ではあるし、鬼面なわけです。  ところが、これがあることによって、検事のトレーニングが非常によくできて、少年の依存、日本語で言うと甘えと言った方がいいのかもしれませんが、これを引き出すことができると、少年が、いや、済まなかった、今度は頑張りますから今回は勘弁してくださいというシチュエーションに人間関係をつなぐことができる。  これが、検事の足元を見る、なめるやり方ではなくて、純粋に出るためには、やはり後ろ盾が必要なんですね。これがあることによって依存が出てくるし、依存があることによってこれが成り立つという、両方が客観的には二つあることによって、つまり、保護というのは、保護だけのパイが広がったらいい保護になるんじゃなくて、保護というのはそれのカウンターパートがあることで保護が本当に生きるんだ、こういうことを申したかったし、また、これが現実であったし、ともすると仏面仏心に我々流れがちなのでありまして、実務家はよほど気をつけなきゃいかぬ。私は、保護観察の現場ではもう始終失敗します。  それから、改正法でありますが、もう私が今申し上げたことから結論が出ちゃっているんですが、年齢引き下げの方は、保護主義というのを、つまり刑事責任を排斥する児童福祉的保護主義というふうにつかまえるのであるならば、これは論理的に反するのでございますね。しかし、少年法というのは犯罪少年を対象とした法律ですから、刑事責任ということから逃れるわけにはいかない。だから、それはある程度少年に対して問うていくということが必要になる。そういう意味での刑事政策的保護ということが必要になると思います。多分御質問の向きは、そうではない保護主義かなと。  やはり、刑事政策的保護バランスを回復する方向へ向かうべきでしょう。だとすれば、私は、立法時の当初に持っていたダブルスタンダードずれというのは解決して、そう大きな問題は起きないと思います。日本法には鬼面仏心の伝統がありますから、厳罰主義でないですから、十四歳の子供をみんな刑務所へ入れることはまず一〇〇%ないと思います。これが一つ。  それから、ただ、二十条のただし書きについては、ちょっと先ほどお答えしたのと同じですが、これはある意味ではアメリカ型の、行為があったら必ず処罰せよ、つまり起訴強制で、今度は検察官には訴追裁量権がありません、現行法のままですと。これは、下手をすると、アメリカの例が一番いいんですが、処罰はどうしてもしなきゃいかぬというのを推し進めていきますと、まず社会全体が非常に冷笑主義的になる、保護なんというのはないんだ、それから将来がないんだと。アメリカ裁判所へ見学に行きますと、これがすごく満ちているように僕は思います。  やはり両面というものがあって、原則は責任なんだということが必要だと思いますので、間違っているとは思いませんが、二十条二項の修正ができるとすれば、手当てをしなきゃならない法条項というのが実は少年法の中に相当数あるというのが私の理解でありまして、あれだけで済んじゃう問題じゃないだろうと。  今の部分はちょっと御質問の向きにぴたっと答えなかったと思いますが、御了解いただけないでしょうか。
  20. 漆原良夫

    ○漆原委員 小田参考人にお尋ねします。  きょうのペーパーの中に医療的保護観察という言葉が出てきております。先生前にお書きになった「最新精神医学」の中にも、やはり同じく医療的保護観察制度を導入した方がいいんだというような趣旨の、少年法改正についての提言の中に載っておったかなと思うんですが、この中身をどんなふうに先生お考えになっているのか、この辺を御説明願いたいのが一点と、それから、諸外国でこういう医療的保護観察という制度が行われているのかどうか、その辺のお答えをお願いしたいと思います。
  21. 小田晋

    小田参考人 私の学術論文まで読んでくださって、ありがとうございます。  医療的保護観察というのは、家庭裁判所少年事件に、この場合、少年事件がコンテクストですからそう申しましたが、これは少年事件の少年に、出所後、通院の形で、また入院の形で精神医療を受けるということを言い渡す。この場合、普通の精神保健福祉法のコンテクストとどう違うかといいますと、ある程度の強制力がありまして、通院を怠ったり、あるいは服薬を怠ったりしますと、これは最近の医学用語では契約遵守違反という言い方をするのでありますが、コンプライアンスが悪くなるという意味ですが、その場合は例えば矯正施設への戻し収容を可能とするという制度であります。  例えば、神戸小学生及び幼女殺人事件の場合でも、もし司法精神医学に精通している精神科医が、あの少年が幼女を殺すところの前に、彼の友人が彼の暴力のために転校した、あるいは猫をたくさん殺していたという情報を得た上で治療をしていたら、例えば持続性向精神薬を注射することによって、猫でとめていたなと私たちは言っています。  それから、酒鬼薔薇事件などの場合ですが、日本以外の国ではすべて、持続性の男性ホルモン抑制剤の使用が異常性犯罪者に対する治療の常識になっています。出所後、こういう制度を採用するということで、外来通院によって軽微なうちに重大犯罪への発展を予防し、または再犯を予防することが可能だと思います。  米国では、一部の州では、コート・マンディーテッド・トリートメント、つまり法廷によって命じられた治療、あるいは司法取引としての治療、そういうことが行われていますし、大体、外国の場合、日本以外のすべての国では、ほとんどの先進国では、要するに、刑事裁判所責任能力がない、あるいは限定されているというような場合は、刑事裁判所または刑事裁判所の委託した委員会によって司法精神病棟に入院させられるという制度があります。  これは日本では、法務省がかつて御提起になりましたときに、これは保安処分である、ナチスの政治犯に対して行った制度と同じだという奇妙な反論がなされまして、実現していないんですが、これはこのコンテクストじゃありません。  要するに、少年事件について、先ほど言った、ある意味では国が保護者になるというような意味の治療を行って、再治療と同時に——いわゆる普通の精神医療では現実的には犯罪を予防するという意味精神医療はほとんどできません、その技術は日本ではなかなか発達していませんので。それから、そのことに踏み出しますと、精神医療としては分を越えたことであるというような批判がなされますので、むしろ再犯防止あるいは犯罪の進行防止という意味合いからの医療が導入されれば、特に重大な性犯罪者などについて言えばかなり高率のものについて予防ができる、社会適応させることができると私は思っています。
  22. 漆原良夫

    ○漆原委員 最後に、原口参考人にお尋ねします。  長い間調査官のお仕事をされてきた経験からいろいろなことを述べてもらいましたが、今回の改正法で、裁定合議制導入それから検察官関与も導入ということで、今まで携わってこられた審判のありようが本当にさま変わりするんじゃないかな。三人の裁判官がいて、検察官がいて、そしてまた弁護士である付添人が出る、そういう意味では、刑事の合議の法廷と同じような構造ができ上がるわけですね。  今まで、裁判官と少年、調査官と少年、付添人と少年という人間関係の中で少年事件を審判してきたんですが、こういう新しい制度の導入によって審判のありようが大きく変わるんじゃないかというふうに懸念される向きもあるんですが、これに対して御意見を賜りたいと思います。
  23. 原口幹雄

    原口参考人 検察官が関与する、出席する事件というのは本当に限られた、事実認定について争いがあるというふうなものに限られるだろうと思います。  それで、裁判官が合議で三人で審判をされるということでも、必ずだれかが主務者という形で、少年に対する質問とかそういうことをされると思います。それから付添人も、少年法ができて五十年の歴史がございますが、弁護士たる付添人の方々は、家裁における付添人の役割ということを物すごく理解をいただけるようになっていまして、本当に家裁の審判の協力者という形で付添人をやっていただいております。検察官についても、私は、やはり少年法理念にのっとった審判の協力者という立場であって、刑事裁判における検察官とは違う立場で出席していただきたい、また、そういうふうな運用になっていくだろうというふうに思っております。  それから、一対一でやる方がいいのではないかというふうなお話もございますが、今、重大事件につきましては、調査官の方も、共同調査という形で二人ないし三人で共同で調査をしております。それも主務者を決めて、そしてほかの人はいろいろな助言をしたり相談に乗ったりする、あるいは手分けをして調査するというふうな形でやっております。また、共同調査をすることによって、少年への教育的な効果が薄れるとかそういうことはないように思っております。  以上です。
  24. 漆原良夫

    ○漆原委員 以上で終わります。三人の先生方、大変ありがとうございました。
  25. 長勢甚遠

    長勢委員長 上川陽子君。
  26. 上川陽子

    ○上川委員 21世紀クラブの上川陽子でございます。  本日は、参考人の諸先生方には、大変貴重な御意見を賜りまして、本当にありがとうございます。十五分ということですので、早速質問に入らせていただきたいと思います。  まず、森田先生にお伺いいたしますけれども、少年法歴史ということでお話がございました中に、今回の法案の柱の一つ二つになっております被害者の問題と少年保護者の問題ということにつきましては今お触れにならなかった点でございますけれども、今回の制度の中にその二つの要素が組み込まれるということにつきましては、過去の歴史の中で考えたときに、どのように評価というか、あるいは考えたらよいのかということについて、御意見をお願いいたします。
  27. 森田明

    森田参考人 今の点は、必ずしも私は歴史の中で詰めてみたわけではありませんが、少年法では今日のような形で被害者問題が出てきたということはなかったと思います。  むしろ、少年法のプリンシプルというのは、凶悪犯罪を除きますと、少なくとも中程度以下の犯罪については社会がとにかく我慢しろ、我慢するかわりにいい子になれというのがいわゆる保護主義の一つのプリンシプルで、社会が被害をある程度受忍するというところがないと、少年法のプリンシプルはそもそも成り立たない部分がございます。この点は時々誤解されている面があると思うので、刑法とは違います。  その点がなくなると、そもそも保護という基礎がおかしくなって、実はこの点を、少年法をつくっていった最初の人々は懸命の努力をした。その意味では、むしろ被害だということでぎゃあぎゃあ言わないでくれみたいなことをやってきたということは、記録としてたくさんあります。その面も、私は少年法の真理ではないかと思います。  ただし、もう一つ、凶悪犯罪に関して言いますと、インフォーマルな形で、例えば、保護司の前身は司法保護委員という制度昭和十年からできておりますが、司法保護委員保護司さんたちが事実上被害者との調整に走り回っている、こういうのもまた地域のデータの中に出ておりますね。ですから、被害者問題が全然視野の外にあったということはないと私は思います。
  28. 上川陽子

    ○上川委員 その規定を明文化するということについて、今回の少年法に入れるわけでありますけれども、そのことは今までの少年法理念と照らしたときに何の問題もないというふうにお考えなのかということについて、ちょっと補足的にお願いいたします。
  29. 森田明

    森田参考人 その点は余り議論されていない部分だと思います。前から気になっておりまして、行き過ぎると少年法理念を壊すことになります、極端になりますと。  あえてちょっと時代に逆行する点を申しましたが、もちろん被害者について、特に重大犯罪についてのケアというのは絶対必要ですが、被害者と社会全般とはやはり区別しなきゃならない問題がありますし、少年法における保護というのは、ある程度今の点は、辛抱できる部分は辛抱するからというところから保護理念というのは、刑罰でなくて保護を、そのかわり将来に向かって考えろということですね。  となると、ずっと煮詰めていきますと、被害者問題はやはり責任の問題ですから、少年法の中に保護責任バランスしなきゃいけないわけですが、こちらばかりが出てくると保護の方はずるっと後退してしまう危険は潜在的にはあると僕は思います。僕は別に反対という意味ではありません。しかし、理論的にはそういうことが言えます。
  30. 上川陽子

    ○上川委員 原口先生にお尋ねいたしますけれども、今の少年法で逆送制度というのがあるわけでありまして、逆送の率というのは全体的にも極めて低い、しかも凶悪犯罪につきましても、この間の当局の方の発表ですと四・四%、そのうち殺人は二三・四%で傷害致死が四・五%、こういう形で凶悪犯罪でも逆送率は非常に低いということに現実にはなっているということなんですが、家裁の中で審判をしていらっしゃるお立場の中で、できるだけ逆送しないようにしよう、そして少年保護、更生に導こうという理念というのが脈々と生きているというような運用状態だと思うんですけれども、しかしぎりぎりで刑事の方の逆送をしていこうという判断をなさるときの基準というのは何なのか。  それから、その後小田先生にもちょっとお伺いしたいのですけれども、少年精神鑑定等をやられるわけでありますが、そういう中に精神鑑定の中の結果が重きを置かれた形で出てくるのか。精神鑑定をした場合に、精神疾患があるというケースが特に凶悪犯罪の場合にはかなり多いというような、そういう現場の声も聞くわけでありますが、その点につきましての実態と、それから、原則逆送にした場合には全く関与しなくなるわけでありますので、家裁というお立場の中から、今までの運用の中でいろいろ現場の中で判断してきたものが、原則逆送になったときにその理念が損なわれるんじゃないかという懸念もあるわけですけれども、その辺についてお考えをお聞かせください。
  31. 原口幹雄

    原口参考人 検察官送致をするかどうかという決め手をお尋ねでございますが、個々の事件についてどういうふうに裁判官が判断されているかわかりませんが、私たち家裁調査官の調査というのは、要保護性の調査だというふうに言われております。  要保護性というのは何かといいますと、三つありまして、一つは再犯危険性があるかどうか、もう一つは矯正可能であるかどうか、それからもう一つは、矯正可能にしても、それは保護処分の中で矯正可能であるかどうか、この三点が要保護性というふうに言われているものでございますが、理論的に言えばこの三点についてそれぞれ調査官が意見を出して、そして判断を受けるということになる。それで、保護ではだめだということになれば刑事処分に付される。もちろん、保護処分で十分な事件でも、事案が大きければ、それは司法機関として家裁が社会の安全の要請を満たすという意味で、刑事処分に付されることもあります。  刑事処分の率が非常に少ないということの一つには、統計のとり方にもよると思いますが、最近、年齢が年少化しております。十四、五歳で殺人を犯したりするのがふえておりますので、そういう意味で、現行法ではそれは刑事処分することはできませんので、そういうことも関係があるかと思います。どのような統計かちょっと存じませんが、そういうことが一つあるかと思います。  それから、原則逆送という中に、ちょっと私の読み違いかもわかりませんが、家裁が調査した上で、ほかの処分よりも刑事処分がいいという場合に逆送するというふうになっていたと思います。それであれば、刑事処分にふさわしいものは刑事処分になるし、そうでないものは保護処分として扱われるようになると思います。  お答えになっているのかどうかわかりませんが……。
  32. 上川陽子

    ○上川委員 逆送率が低いという理由の中に、精神的な鑑定をして、それに対しての疾患というか問題があるというような判断があったときに、逆送をしないというケースが出てくるのか。犯罪精神的な問題というものの間に、特に凶悪犯罪の場合には精神的なトラブルが多いというようなお子さんが多いというふうに現場の声もよく聞くんですけれども、実際に犯罪の凶悪化と精神的な問題というのはどの程度かかわっているのか、お願いいたします。
  33. 小田晋

    小田参考人 逆送率が低いということは、実は精神障害の問題とは余り関係がないと思います。それはありますけれども、ネグリジブルスモールだと思います。それから、犯罪の年少化とも関係がありません。というのは、年長少年についての逆送、しかも強盗と殺人についての逆送率が昭和五十七年から平成十年の間に激減しておりますので、これは家庭裁判所のスタンダードの変化、先ほど申し上げた家庭裁判所関係者の意識の変化ということに主要な原因があるとしか考えられません。私が申し上げているのは、少年犯罪全体じゃなくて殺人と強盗ですから、それに対しては軽くなっているのです。年長少年に対する処分が軽くなっている。  精神障害の場合、最近精神鑑定で問題になるのは、精神分裂病であるとかあるいは非常にはっきりした知的障害であるとか、そういうようなはっきりと精神病であるという兆候のある少年が多いわけじゃなくて、精神障害と人格障害の中間ぐらいの境界例というのがふえていて、そういう境界例に対する処遇は、そういう鑑定が出ますと家庭裁判所も困惑されて、困惑されてというか、医療少年院送致ということ。  ところが、例の土師君の事件までは、医療少年院は上限三年しかいられない、治らなくても出さなきゃならないという制度になっているために、これだったらやはり五年ないし十年の懲役にしておいて、そして、医療刑務所というのがありまして、医療刑務所は日本の矯正施設では最も充実した医療機能を持っていますから、そこでやるか、あるいは少年刑務所の医療機能を充実するか、そういう方向の方が十分な期間の処遇ができるんじゃないかという説があります。  ただ、実際、議員がおっしゃっているようなことというのは、確かに最近、境界例がふえている。境界例がふえているために、例えば普通の特別少年院での処遇にはなじまない、精神病院での処遇にもなじまない、結局医療少年院となってくると、医療少年院は大変悪戦苦闘していらっしゃる、そういう状態だと思います。
  34. 上川陽子

    ○上川委員 ありがとうございます。  改正法によりますと、原則逆送という規定がございまして、そうなりますと少年刑務所送致が現状よりもふえるということが予想されるわけでございますけれども、少年刑務所の目的というのが少年の矯正というよりも刑の執行というところに重点が置かれているということで、少年の矯正の可能性を狭める、あるいは矯正不能な少年を生み出す危険性というのも一部に指摘されているところでございますが、それにつきまして小田先生、原口先生、よろしくお願いいたします。
  35. 小田晋

    小田参考人 今の日本刑事政策は教育刑それから矯正ということが成人の犯罪者にとっても真ん中に据えられていまして、確かに刑の執行と矯正とは違うとおっしゃいますけれども、成人刑務所が全くそれを考えていないわけではありません。  現実に、少年刑務所少年院の処遇を考えてみますと、先ほど申しましたように、例えば特別少年院に初犯の少年がほうり込まれると物すごく残酷です。周りが非行進度が進んだ少年ばかりですし、そういう少年たちを処遇するための処遇ですから。それに対して少年刑務所の方は、初犯で犯罪が大きいという少年がかなりたくさん入っておりますし、それから、今のところは、現在の日本ではほとんど逆送がなされないためにどこの少年刑務所も余裕があるせいかもしれませんけれども、一対一で、マンツーマン的に、職業生活まで考えて、例えば川越少年刑務所を見ますと非常に充実した職業補導が行われています。確かに、検察官送致にされて、執行猶予にならなくても少年刑務所に入れてくれと、私がもし重大犯罪を犯したとしたらそう言いそうな気がします。  ただ、医療機能を充実しなきゃならぬことになりますでしょう。特に境界例についての医療機能でございます。
  36. 原口幹雄

    原口参考人 原則逆送というのが、家裁が全くノータッチで逆送されるということではないと思います。そこでは調査が入り、ほかの処分ではなくて検察官送致がいいというものは検察官送致しなければいけないということでございますから、矯正の可能性を狭めるとかそういうことにはならないのではないかというふうに思います。  ただ、そういう法律ができた、原則逆送という条文ができたということは、そういう重大な事件についてはそれなりの立法趣旨を踏まえて運用に当たるようにということだと思いますので、その影響は出てくるかもわかりません。  以上でございます。
  37. 上川陽子

    ○上川委員 時間が来ましたので終わらせていただきます。本当にありがとうございました。
  38. 長勢甚遠

    長勢委員長 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。  この際、参考人各位一言御礼を申し上げます。  参考人各位には、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。厚く御礼を申し上げます。  午後二時三十分から委員会を再開することとし、この際、休憩いたします。     午後零時五分休憩      ————◇—————     午後二時三十二分開議
  39. 長勢甚遠

    長勢委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  再開に先立ち、民主党・無所属クラブ、自由党、日本共産党社会民主党・市民連合の各委員出席を要請いたしましたが、いまだ出席されておりません。やむを得ず議事を進めます。  麻生太郎君外五名提出少年法等の一部を改正する法律案審査のため、午後の参考人として、新庄幼稚園園長児玉昭平君、医師土師守君、読売新聞社論説委員長久保潔君、川越市立城南中学校教諭河上亮一君、以上四名の方々に御出席いただいております。  この際、参考人各位委員会を代表して一言ごあいさつを申し上げます。  参考人におかれましては、御多用中のところ本委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお聞かせいただき、審査参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願いをいたします。  次に、議事の順序について申し上げます。  まず、児玉参考人、土師参考人、久保参考人、河上参考人の順に、各十五分程度御意見をお述べいただき、その後、委員の質疑に対してお答えをいただきたいと存じます。  なお、念のため申し上げますが、発言の際は委員長の許可を得ることになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。  それでは、まず児玉参考人にお願いいたします。
  40. 児玉昭平

    ○児玉参考人 私がこの席に呼ばれましたのは、恐らくは平成五年一月十三日に私のせがれ有平が明倫中学校において殺された事件、並びにそれに関しまして逮捕、補導されました少年七人に対するその後の少年審判並びにその経緯について話をしなさいという意味ではないかと思ってやってまいったわけでございます。  私のせがれ有平の事件のときもそうでございましたが、現行の少年法少年審判の場合に、加害者の少年が否認に転じた場合には大変構造的な欠陥が生じるようになっております。本来ならば事実認定が一番肝要かと思われるわけなのですが、その事実認定におきまして、加害者の少年本人が否認に転じますとなかなか事実認定がしづらいというふうなことがございます。そういうことで、私どものせがれの事件のときもそうでございましたが、その辺の構造的欠陥を見直さなくてはいけない時期なのではないかというふうなことを思っております。何にも増しまして、どんな事件が起こったのか、何が起きたのかということが肝要であると思われます。そのためにも、事実認定をきちんとやってから少年審判が進行するというふうな形を整えていただきたいというふうに思っております。  また、今まで少年法に欠落いたしておりました被害者に対する配慮と申しますか、被害者を格段の扱いにせよとは申しませんが、せめて加害者と同等並みに配慮をいただきたいというふうな条項もつけ加えていただけたら大変ありがたいというふうに思っております。  また、本人の、少年の更生に関しましては、これも従来のようなやり方ではちょっと真の更生が成り立つとは私といたしましては到底思っておりませんので、これは恐らく国民の皆様方が同様に考えていることではないかと思います。  細かいことを順に申し上げたいと思います。  まず、私は、少年法に抵触した少年におきましては、軽微な犯罪を起こした少年と殺人事件のような凶悪な犯罪を犯した少年審判には一線を画して当然だと思っております。それを一律に扱うこと自体が大変な間違いを生じるものだと思っております。  では、凶悪な事件とは何かと申しますと、刑事事件におきまして死刑もしくは無期懲役、三年以上の懲役に値するものが凶悪な事件だと僕は思っております。  そのような事件を起こした場合には第六十一条の適用は除外されるべきだというふうに私としましては考えております。第六十一条の除外というのは、写真や氏名を公表しない、加害者の少年を特定できないような足かせがあるわけなのですが、それは除外すべきだというふうに考えております。  なぜならば、ことしの夏に、部活中に部活の仲間を殴って、母親を殺しまして逃走した少年がおりました。六十一条が足かせになっておりまして、指名手配には写真は添付されませんでした。これが第二、第三の被害者を生まなかったことは幸いでございますが、もし第二、第三の被害者が生じたとすれば、それはもしかしたら六十一条による被害だったのかもしれないということを考えると、六十一条は凶悪犯罪を起こした少年に関しましては除外すべきだというふうに思います。  また、欧米でもそういう六十一条のようなことは適用になっておりません。ですから、欧米で更生の妨げにならないのに、もし日本では更生の妨げになるのでしたら、そういうところの議論ももっともっとお願いしたいものだというふうに思っております。  そういう凶悪な事件を起こした場合の少年少年審判に関しましては、裁判官の合議制ということが一つ挙げられると思います。  あと、検察官出席、対審構造ということになります。現在のところ、どのような審判におきましても、裁判におきましても、対審構造というのがグローバルスタンダードと言われておりますので、これが今のところ最善の方法ではないかと思います。  それから、検察官の抗告権を認めるということですね。  それから、観護措置を従来よりも延長する。私としましては十二週間まで認めて構わないのではないかというふうに考えております。  以上の四点は、事実認定に関して、どんなことが起きたのかということを認定して掌握するにはどうしても欠かせない手段の四点でございます。  それからもう一つ少年審判に関して言いますれば、希望すれば少年審判に被害者もしくは遺族並びに遺族の代理人の傍聴を認めることができるという条項をつけ加えていただきたいと思います。  ちなみに、私の場合でしたら、もし認められたといたしましても、私は傍聴はしなかったと思います。なぜかと申しますと、私どもの事件の少年審判の場合に、自分の息子が殺されたことが争点になっているわけでございますから、微に入り細にわたり、自分の息子が殺される状況を冷静な一市民として見て、聞いているわけには到底いかないのでございますので、私でしたらそれは希望はしなかったというふうに思っております。  それから、少年審判すべてに関してでございますが、被害者や遺族に意見を求めるということが一つ挙げられます。  二つ審判の結果を被害者や遺族に通知するということが挙げられます。  それから、審判の記録閲覧、コピーを被害者や遺族に認めるということでございます。  あと、四番なんですが、どのような審判に関してもそうなんですが、偽証を阻止するような条項を何か入れていただきたい。現在のところ、少年法にはそれがありませんので、私どもの事件でもそうなんですが、虚偽のアリバイというものを申し立てても、何らそれを抑止する手だてがありません。また、少年法では虚偽のアリバイということがよく言われますが、そういうことを防いでいただきたいというふうなことを思います。  それから、少年犯罪に関しましていろいろな、私なんかは専門家ではないわけでございますが、刑法の専門の方、また法律の専門の方が、少年犯罪の原因は社会にあるというふうなおっしゃり方をなさる方がいらっしゃいます。社会が悪かったら、早急にその社会を是正する方策を提案すべきではないかと思っております。そういうことはちょっと不可能ではないかというふうに私は考えております。もし十五歳の少年が凶悪な犯罪を起こしたのであれば、その少年は十五年間にわたりまして社会から悪影響を及ぼされていたと考えるべきではないでしょうか。そうした場合に、従来のような短な更生期間で果たして十五年間の社会から受けた悪影響が更生にすぐ切りかえられるとは僕は毛頭考えられません。  そうなってきますと、更生の期間というものは、物理的にただ長くすればいいということではありませんけれども、従来よりももっと時間をかけて行うべきではないかなというようなことを思っております。また、社会が悪ければ、その社会から若干隔離する期間という解釈も成り立つものだと僕は思います。  このようなことを私なりに考えております。  以上で終わります。(拍手)
  41. 長勢甚遠

    長勢委員長 ありがとうございました。  次に、土師参考人にお願いいたします。
  42. 土師守

    ○土師参考人 児玉さんのお話ともかなり重複する部分がありますけれども、その点は御容赦ください。  皆様方も御存じのように、三年半前に発生し、日本じゅうを震撼させましたあの神戸連続児童殺傷事件で、私は次男を亡くしました。当時十四歳の少年により私の子供が殺害され、さらにその頭部を犯人の少年が通っていた中学校の正門前に放置されるという極めて残酷で猟奇的な事件でした。  事件発生当初から、事件のその特異性のために、マスコミ各社の報道合戦はすさまじい状況で、私たちは通常の生活を送ることさえもできない状態が長く続きました。犯人が逮捕され、それが顔見知りの十四歳の少年であったため、やっと鎮静化しつつあったマスコミ各社の報道合戦はさらに一層熱を帯びたものとなりました。  逮捕された犯人が十四歳であったことで、初めて私たちは少年法というものに向き合うことになったのです。それ以前にも私は少年法というものがあるということは知ってはいましたが、現実に少年犯罪の被害者遺族になって初めて、この法律がはらんだ矛盾に驚かされると同時に、我が国の後進性に気づかされることになりました。  十四歳の少年が逮捕された後、少年法に基づいて手続が進行していきました。しかし、私たちの悲しみや憤怒は全く晴れることはありませんでした。最愛の我が子をあのような形で失ったという悲しみとショックがすっかり心をふさいでしまっていたことも理由の一つでしたが、それ以外にも全く別の理由が少年法そのものにありました。いかに少年といえども、犯した罪を考えると余りにも保護され過ぎているのではないか、また、余りにも被害者の心情を無視しているのではないかと、実際少年法に接してみて感じざるを得ませんでした。  審判が開始されますと、私たち被害者遺族は完全に蚊帳の外に置かれることになりました。どのように審判が進んでいるのか、少年はどのようなことを述べているのか、また、少年の両親は自分たち子供が犯した犯罪についてどのように思い、被害者やその遺族に対してどのような気持ちを抱いているかなど、私たち被害者遺族が知りたいこと、当然知ることができると思っていたことさえ知ることができませんでした。  審判を傍聴することが認められず、審判の状況を知ることもできず、また、私たちのやりきれない、つらい心情を審判廷で発言することもできませんでした。被害者遺族として事件の背景を知りたいと思う気持ちは至極当然のことだと思います。そのため、せめて両親の供述調書や少年精神鑑定書くらいは見せてもらえないかと思い、これを要求しましたが、それもかないませんでした。その結果、私たちは、審判についてほとんど何も知らされず、何も発言できないという立場に終始させられてしまいました。私たちが知ることができたのは、ただ新聞、テレビ、雑誌などによる伝聞のみで、何が真実なのかということは一切わかりませんでした。  そのような状況の中、審判が終了し、犯人の少年は医療少年院に入所の上更生の道を歩むという決定が下されました。このときも、当然の気持ちですが、審判決定書の全文を見ることぐらいはできないものかと思いましたが、やはりできませんでした。  私たちは、事件の背景を知るため、また責任の所在を明らかにする目的で、民事訴訟を起こしました。しかし、やはり資料等は見ることはかないませんでした。  少年犯罪の被害者やその遺族は、現行少年法によって、何も言うことができず、何も知ることができない上に、犯人の少年は罪に見合うだけの罰を受けることもありません、そのような八方ふさがり、そして屈辱的な状態に陥ってしまいます。そして、最終的にはだれも責任をとらないという、被害者を余りにも無視した、甚だ耐えられない結果となっています。  現行の少年法の問題点につきまして、私なりの考えを述べさせていただきたいと思います。  もちろん、少年法の基本的な精神には私も賛同しております。異を唱えるつもりは毛頭ありません。犯罪を犯した少年保護、更生を考えることは非常に重要なことだと思います。しかしながら、被害者が存在するような犯罪、特に傷害、傷害致死や殺人などの重大な犯罪と他の軽微なものとを同列に扱うことは許されることではないと思います。  多くの軽微な少年犯罪については、現行の少年法の運用でほとんど問題なく対処することができると思います。少年が犯した犯罪が、私たちのような特に深刻な、遺族というような形の被害者をつくらない場合は、少年保護を第一に考えることは非常に重要だと思います。  しかし、少年の犯した犯罪が深刻な被害者を生み出す場合は、考える次元が大きく変わってくると思います。殺人、傷害致死などの凶悪な犯罪と万引きや窃盗などの軽微な犯罪とを同じレベルの犯罪として扱うことは、一般的な人間感情からは完全に逸脱していると言えます。犯罪を犯した少年保護するということと、その少年の権利を過剰に擁護して甘やかせるということとは意味が異なります。保護とは、少年が犯した罪に目をつぶるという意味ではないはずです。  しかし、現行の少年法では、犯罪そのものの質を問うというのではなく、要保護性のみを問うということなのです。どのような犯罪を犯したかではなく、この少年には保護が必要かどうかということが問題になってくるだけなのです。そこには、罪を糾明する、解明するという視点はおろか、罪悪感を持つ、持たないの確認すらないのです。罪も問わず、どのような保護を施すかということだけが議論されています。このことは、少なくとも一般の国民感情からは完全に逸脱したものと言えると思います。  偏った見方をしますと、少年犯罪における被害者にとって、少年法とは加害者の利益のみを保護する法律であると言えるのではないでしょうか。深刻な苦痛をこうむった被害者が存在するような事件で、その被害者の権利、人権が全く無視されているのが少年犯罪事件です。現行少年法は、少年の起こした凶悪犯罪の被害者をなおざりにしているどころか、事件を起こされた方が悪いとでも言っているかのような法律に見えてきます。  処分の厳罰化ということが話題に上っていますが、後述しますように、今回の改正案でも特に厳罰化にはなっていないと思います。厳罰化という言葉の前に、犯した罪に対する罰が余りにも緩過ぎるということを指摘するべきだと思います。最近の凶悪な少年犯罪を見ても、犯人の少年たちは少年法のことをよく知った上で行動しています。何歳であればどのような処分を受けるか、また逆にそのような処分にはならないかということをよく承知しています。ことしも少年による凶悪な事件が多数発生しました。福岡のバスジャック事件を起こした少年は、少年法のことを熟知した上で犯罪を犯しています。そのような状況の場合では、厳罰化はある程度の犯罪の抑止力になることは疑いようのないことだと思います。少年犯罪の増加を抑制するためには、もちろん健全な精神的発育を促すような社会的環境の整備が必要不可欠だと思います。さらに、それに加えて、犯罪を犯すと相応の罰を受けるということ、そのことを確立することが少年犯罪の増加を抑えるための重要な因子であると思っています。  次の問題ですが、憲法上、裁判は公開が原則になっておりますが、少年審判は、少年の将来の不利益を避けるという理由に基づいて非公開が原則になっています。しかしながら、審判を一般に公開しないことはまだしも、当事者である被害者にさえも一切公開しないということは、被害者の知る権利を奪っているわけです。どのような理由で、またどのような状況で被害を受けたのか、その加害者がどのような人間か、そしてどのような環境で育ったのか、どうすればその被害を未然に防ぐことができたのかなどのことは、深刻な犯罪に遭った被害者であればあるほど知る権利があると思います。加害者を守るために被害者がその権利を奪われるということは、本末転倒ではないでしょうか。  また、先ほども児玉さんが述べておりましたが、事実認定に関することがあります。  警察での取り調べでは認める供述をしていながら、家庭裁判所審判が開始されると一転して犯罪行為を否認する場合が出現しています。少年犯罪といえども、重大な犯罪での事実認定は何よりも重要なことです。現状では、一人の裁判官が検察官、弁護士そして裁判官の三役をこなさなければなりません。そのため、事実認定で争いがある場合には、どれほど優秀な裁判官でも一人ですべてを行うことには限界があると思います。少年審判への検察官の関与や複数の裁判官による合議制、観護措置期間の延長などは、重大な犯罪の場合には絶対必要なことです。それらのことにより非行少年保護、育成に支障を来すことは絶対にありません。口裏合わせや証拠の偽装なども防げます。きちんとした事実認定により、冤罪は防げますし、その後の少年保護処分にも反映させることができるのではないでしょうか。  犯罪を犯した少年を更生させることを目指すのは当然のことだと思います。更生とは、犯した罪を忘れ去ることではありません。加害少年に、一刻も早く事件のことは忘れて、立ち直りなさいということではないはずです。  では、更生の第一歩に何をなすべきなのでしょうか。私は、何よりもまず、犯した罪を十分に認識させることが必要だと思います。その罪の意識が真の更生への第一歩だと思います。その意識が生まれないままでは、どんな指導も説教も彼らを更生へと導くことはできないに違いありません。罪の意識は、被害者への謝罪の念と密接な関係があると思います。被害者やその関係者に対する痛切なおわびの気持ちが、犯した罪への激しい後悔の念を導くのだと思います。悲しみの底に深く沈んだ被害者や憤怒に震える遺族の姿を知るところから本当の意味での更生は始まるのではないでしょうか。  現行の少年法では、十六歳未満の年少少年はいかに重大な犯罪を犯しても検察官に送致することができず、したがって、刑事処分を科されることはありません。  警察庁の統計では、少年犯罪、特に傷害や殺人等の重大事犯が増加しており、また、犯罪が低年齢化しているということです。また、子供の数が減少しているにもかかわらず、犯罪事件に占める少年事件の割合が増加しているということです。このようなことを考えますと、年齢区分の見直しも考慮すべき時期に来ているのではないかと思います。  少年一つの人格を持っていると思います。人格を持っているということは、成人と同じではないにしても、自分の行動に対しても社会的に責任を持たなくてはいけないということです。成人の犯罪の場合よりも軽減されるにしても、犯罪の重大さに応じた罰や処分があって当然だと思います。非行少年を甘やかすことと保護とは同義語ではないと思っています。  今回提出されている改正案は、少年法が制定されてから五十年もの長きにわたって改正されなかったことを考慮しますと、大幅な前進だと言えると思います。しかしながら、被害者にとってはまだまだ十分とは言えないものだと思います。  今回の改正案に対して、厳罰化という言葉を用いて非難する方々がいます。しかし、今回の改正案についてやや厳しくなったと言えるのは、死刑に値する罪を軽減して無期刑を科した場合において、仮出獄可能期間の特則を適用しないということだけだと思います。刑事処分可能年齢を十四歳に引き下げたとしても、それが即今までより厳しい罰を与えるということにはつながらないと思います。また、私は、凶悪犯罪については、少年であるということで軽減されるということを考え合わせても、犯した罪に見合う罰を与えているとは思っておりません。  処分の見直しの中で、被害者が死亡した事件においては、家裁に判断をゆだねるにしても、検察官送致をするようになっています。しかし、被害者が死亡したときだけではなく、本来ならば重大な傷害の場合も加えるべきであったと思います。ひどい肉体的または精神的な後遺症に悩む被害者は、殺害された被害者と変わらないほどの傷を負っています。  また、今回の改正案では、審判での被害者からの事件に関する意見陳述の申し出を条件つきですが認めております。本来、審判での被害者の意見陳述や審判の傍聴は、被害者が持っている基本的な権利だと思いますが、現行法では、「審判は、これを公開しない。」という条項を拡大解釈することにより、審判から一方の当事者である被害者を完全に締め出していました。この考え方は、本来最初に守られるべき被害者の権利については一切認めないということに通じています。今回の改正案では、他にも被害者通知制度や、制限はあるものの記録の閲覧、謄写が認められております。まだまだ被害者への配慮は不十分だと思いますが、さらに改善の方向に向かってほしいと思います。  今回の改正問題につきまして、ある法律の専門家が、素朴な国民の感情に乗じて、この問題に携わる現場の声も十分に聞かないまま政治的な動機で取りまとめたという意見を新聞に述べているのを読みました。しかし、国民の素直な声を無視するような民主主義は存在しませんし、さらに、ここで言う現場とは、犯罪を犯した少年のことのみを考える現場のことであり、当事者である被害者を排除した偏った現場を指しています。また、今回の改正案が少年法理念から外れているという批判もあります。しかし、ごく軽度の処分の変更はありますが、少年法理念は尊重したままの案だと思っております。  最後になりましたが、現行少年法は、被害者やその遺族にさらなる犠牲を強いることにより成り立っている法律であるということを肝に銘じて議論していただけたらと思います。  どうもありがとうございました。(拍手)
  43. 長勢甚遠

    長勢委員長 ありがとうございました。  次に、久保参考人にお願いいたします。
  44. 久保潔

    ○久保参考人 私は、刑事処分可能年齢を現行の十六歳から十四歳に引き下げるという改正は、現状からやむを得ないと考えておりまして、今回程度の少年法の一部改正については賛成という立場でお話をさせていただきたいと思います。  中身に入ります前に、少年犯罪の現状は法改正を必要とする状況にないというふうなことがよく言われておりますが、それについて少し触れてみたいと思います。  確かに、今、少年犯罪は戦後四番目のピークと言われておりますが、少年の刑法犯の検挙人員を見ますと、平成十年をピークに減少傾向にあります。件数だけを見ますと、昭和の末期の方が多いことも事実であります。第四のピークと言われる状況がこれから下降に向かうのかどうなのか、もう少し慎重に時間をかけて見守っていく必要があると思います。  問題は、犯罪の中身といいますか、質の問題だと思います。少年の凶悪犯の検挙件数がなおふえ続けているということだけではございません。警察当局の分析によりますと、ごく普通の家庭の子供がいきなり非行に走ったり、それも凶悪、粗暴事件を起こすというケースがふえております。検挙した少年自分の家庭の状況、経済状況を警察当局が聞いておりますが、下流と答えた比率が昭和三十年代には六十何%かございましたが、今では一けた台であります。平成九年のデータですが、凶悪犯のうちに補導歴のない少年が四七・八%を占めております。粗暴犯では五八%にも上っております。  数字だけではございません。低年齢化、集団化傾向を強めていると言われております少年犯罪ですが、一方で、衝動的、短絡的な様相も深めております。去年からことしにかけまして、十七歳のあの衝撃的な事件が相次ぎましたが、動機のはっきりしない事件が大変多くて、例えば人を殺す経験がしたかったなどという動機は、我々には到底理解できるものではございません。あるいは最近の大分の一家六人の殺傷事件ですが、六人を殺傷するまで途中でとどまることがなかった、あるいは動機と結果の重大性の間の余りにも大きな乖離、これは不気味な感じがいたします。  こういった事件を称して一部の特異な事件というふうな指摘もございますけれども、そうでしょうか。余り報道されませんけれども、今全国で、遊ぶ金欲しさの少年によるひったくり事件が多発しております。中にはこれが集団的な路上強盗に早変わりするということも多いのですが、単に金を奪う目的でありながら、ナイフとか鉄棒で頭とか胸とか急所を平気でねらっております。あるいはホームレスを少年たちが襲う事件もありますが、社会に役に立たない人間をやっただけだというふうに平然と言う少年もいるそうです。  一連の事件で私が感じますのは、やはり命のとうとさとか他人の痛みや悲しみに対する認識の欠如、規範意識とか罪の意識のなさ、あるいは先ほどの大分の少年のように、途中で引き返すことができない、あるいは手かげんを知らない状況、そしてビデオの影響とも見られるようなゲーム感覚というものが共通しているのではないかと思います。少年を取り巻くこうした状況を一刻も放置できないと私は考えております。  前置きがやや長くなりましたが、中身に入りますと、まず、刑事処分可能年齢を十四歳に引き下げる問題です。これは、この規定だけではなくて、十六歳以上の原則逆送致の規定、あるいは現行の二十二条にございます、懇切、和やかに少年審判を行うというあの規定に、少年に自己の非行について内省を促す旨の文言をつけ加える、こういう三つの規定を合わせて三位一体として考える必要があるのではないかと感じております。  最初に申し上げましたように、今の少年犯罪の根底には、命への恐れとか規範意識の欠如があるのは、これはどなたもが認めることではなかろうかと思います。その状況を変えていくには、まず第一に、かけがえのない命を故意に奪うことの罪の重さを認識させることから始めなければならないと考えております。そのために何をすべきなのか、これはいろいろあると思うのですが、一つは、少年審判の中でじっくりと自分の犯した罪をかみしめさせ、被害者や遺族の心の痛みに思いをはせさせるということが大事でしょう。もう一つは、その罪にふさわしい処罰を用意しておくこと、これが大きな意味があるのではないかと考えます。確かに、教育とか家庭とか地域とか、そういったようなものの力をすべて結集して少年非行に当たるべきだという考えは、それはそのとおりです。しかし、法制上の刑罰を用意しておくこととはまた別のことではないかと考えております。  そして、今申し上げました三つの規定というものは、何よりも、少年の処遇を考える上で、裁判所の判断の幅をかなり広げるものではないかと考えます。あらゆる情報がはんらんする現代社会の中で、少年たちは、私たちが考えている以上に処罰とかいろいろな情報に通じております。そうした状況のもとで、年齢を区切って刑事罰とか処遇の大枠を決めていくという今の制度には、おのずから限界があるのではないかと思います。  少年院でも、今や一律の矯正教育ではなくて、少年の性格とか非行歴とか周辺の環境によって教育の内容を細かく変えていく、処遇の個別化というのを図っていると聞いております。その子供の特性に応じて、時に厳しく、あるいは時に温かく、幅広い選択をするのが少年保護の基本だといたしますと、刑罰もその一手段という柔軟な考え方が必要ではないかと考えております。  今回の改正に当たりましては、先ほどもありましたように、処罰年齢の引き下げなどを指して厳罰化という言葉がかなり定着しております。そして、厳罰か保護かというふうな、問題をやや単純化するような議論が盛んであります。  しかし、果たして今回の改正は厳罰化なのでしょうか。確かに、表面的に見ますと少年にとって厳しい側面は否定できません。しかし、十六歳未満刑事処分の可否につきましては、十四歳、十五歳ですが、家庭裁判所の判断にゆだねられております。また、十六歳以上についても、家裁が状況によっては刑事処分以外の選択もできるというふうな規定もございます。先ほど申し上げましたように、その子供の状況に応じて処遇を考える趣旨からいいますと、大変結構な規定だと考えます。いずれのケースにも家庭裁判所の裁量の余地を残したこと、これによって改正後の少年審判とその処遇にはそれほど現行と劇的な変化は生じないのではないかと私は考えます。  御承知のように、今の職権主義的な審問構造少年審判には、手続については具体的な規定はございません。手続そのものに教育的な性格を持たせようという趣旨からです。その基本構造を変えることなく、その中に社会的に許されない罪を犯した場合にはそれ相応の処罰が待っているんだぞという規定を盛り込んでおく、このことに大きな意味があるように私は感じております。したがいまして、厳罰か保護かというふうな二者択一論には余り意味がないのではないかと考えております。  犯罪者を社会の中で立ち直らせる更生保護制度成立して、五十年がたちます。法務省の統計ですと、この五十年の間に三百六十万人以上が社会の中でこの更生制度のもとで更生を図りました。その四分の三は少年です。その陰には、無給のボランティアとして、およそ五万人の保護司、あるいはそれを支援する婦人会、青年組織、協力雇用主、そして社会復帰への足がかりとなる更生保護施設とかいろいろございます。世界に例のないボランティア制度だと思います。  私は、今、日本更生保護協会の評議員をやらせていただいておりますが、保護司初め関係者の皆様方の献身には常々頭の下がる思いがしております。世界に冠たる我が国の治安のよさは、適正な刑罰の運用もございますが、これとあわせて、社会の中で犯罪者を立ち直らせる、あるいは受け入れる更生保護関係者や少年院などの努力に負うところが非常に大きいのではないかと思っております。それを今回の改正で厳罰か保護かなどと言うのは、こうした関係者に余りにも失礼ではないかと思います。  今回の改正で、こうした人々の五十年にわたる努力が無になるはずもございません。改正後の新たな体制のもとで、これまでの蓄積を生かして、新たな矯正とか更生保護のあり方を確立されるものと私は確信しております。私たちは、戦後の歩みにもっと自信を持って、時代の変化に果敢に対応していく積極性が今必要ではないかというふうに感じております。  それから、今回の改正のもう一つの焦点でもあります少年審判手続であります。特に検察官の関与の問題ですが、一定の少年犯罪審判に裁判官三人の合議制、あるいは場合によっては検察官の関与というふうなものも認めるということですが、大体年間二十万件ぐらいの少年審判があるようですけれども、その中で現実に検察官が関与するのはどの程度の数に上るか、私もよくわかりませんけれども、関係者に聞いてみましたり、あるいは関連の数字を見てみますと、年間せいぜい二百件か三百件ぐらいではないかというふうに感じられます。しかしながら、このわずか二、三百件が少年審判に対する国民の信頼を左右すると言っても過言ではないと思います。これらの事件は、事実関係が激しく争われ、あるいは社会の強い関心を持つ、社会性を持った重大事件だからであります。  今ここでお話しになりました山形マット死事件以降、これらの少数の事件で、家庭裁判所と高等裁判所の判断が割れるケースとか、それから家庭裁判所審判と民事裁判が割れるケースとか、揺れるケースがいろいろありますが、こうした少数の特異なケースを放置しておきますと、せっかくの少年審判への国民の信頼というものが揺らぎかねないと考えます。まず、事実関係をきちんと解明することがすべての基本だと考えます。  今回の改正で私が最も注目したのは、保護者の責任の明確化に関する規定です。家庭裁判所が必要と認めるときは、保護者に対し、訓戒とか指導その他の適当な措置をとれるという規定ですが、少年非行の防止に果たす家庭の役割の重さを考えますと、極めて有意義な提言だと考えております。  今の少年世代の両親もまた豊かさの中で物心がついた世代であります。彼らもまた迷える世代と言うこともできるでしょう。少年事件を扱う家庭裁判所の調査官などによりますと、親世代にも罪の意識の欠如が目立っているということです。傷害事件を起こして身柄を拘束されている我が子に母親が受験参考書を差し入れたり、あるいは受験に差し支えるから早く出してくれなどと泣きついたりする人もいるそうであります。こうした親たちにはやはり一定の支援が必要ではないかと考えます。  さて、最後ですが、反対論者が必ず口にするのは、厳罰化で少年非行は減るのかという問いかけだろうと思います。  これは最も悩ましい問題でありまして、正直言ってやってみなければわからない側面もあると思います。しかしながら、それは少年非行だけに当てはまる問題ではなくて、あらゆる問題に同じことが言えるのではないでしょうか。複雑化する現代社会にありまして、一つの法改正とか一つの施策ですべてが解決するなんということはあり得ないことと考えます。だからといって一つ一つの努力を怠ったのでは、問題は永遠に解決しないのではないでしょうか。  少年問題は、二十一世紀の私たちの社会を担う子供たちをどう育てていくか、社会の選択の問題でもあります。今こそ、戦後それぞれの機関がこつこつと築き上げてきたノウハウを結集する必要があると考えます。少年法改正論議の際には、こうした視点をぜひ忘れないでいただきたいとお願いしたいと思います。  以上であります。(拍手)
  45. 長勢甚遠

    長勢委員長 ありがとうございました。  次に、河上参考人にお願いいたします。
  46. 河上亮一

    ○河上参考人 私は、中学校の一教師ですので、少年事件に関して直接かかわっていませんし、そのことについて発言できるような立場にはいませんので、私が三十数年教師をやっていて、特に中学生なんですけれども、最近の生徒たちがそれ以前の生徒と大きく変わってしまっている状況をお話しして、少年事件のバックグラウンドと申しましょうか、そういうものについてお話しするというふうに最初に断っておきたいと思います。  この十数年、親たちの間に、何か少年事件が起こったときに、うちの子供もやるのではないか、そういうような不安が広く広がっているということがあります。これは教師についても全く同じでして、うちのクラスでも同じことが起こるのではないか、そういうような不安がかなり広がっているということがあります。  後でちょっとお話をしたいと思うのですけれども、二十年ちょっと前に中学校では校内暴力の時代がありました。その時代には、これは括弧づきでお話ししないといけないと思うのですけれども、ワルというふうに括弧づきでお話ししますけれども、ワルがワルをやったのですね。こちらには普通の子がいて、普通の子は極端なことをやらないというのがその当時の状況でした。ところが、校内暴力が十数年前に終息しまして、それ以後ワルというのが、学校の中からといいましょうか、あるいは子供の世界からいなくなって、圧倒的多数の生徒は普通の生徒になりました。そうなってから、普通の生徒がいつ何どき何をするかわからないという状況があらわれているようです。私は、この十数年、それまでと全く違った新しい子供たちが登場したのではないか、こんなふうに考えています。  特徴を幾つかお話しした方がいいと思うのですけれども、非常にひ弱になったこと、社会性がほとんどなくなったこと、それから、時として非常に攻撃的になる。これは一人の子供の中にそういうような特徴をあわせ持っているというふうに考えていただくといいと思います。そういう子供たちが大量に登場してきたというふうに私は考えています。  幾つかその特徴についてお話しした方がいいと思うのですけれども、ひ弱さについては三つばかり挙げられると思います。  一つは、生活の型というのでしょうか、狭い意味でのしつけと言っていいと思うのですけれども、自分の身の回りのことを自分でできる、そういうような問題ですけれども、そういうことがほとんどできない状態で私たち中学校の教師の間に登場してくる、そういう生徒が圧倒的にふえました。これが一つです。ですから、学校の中で生活をするときに、学校には親がいませんから、そうすると一人で生活をしていかなきゃいけないということがあるわけですけれども、残念ながら、自分でいろいろなことができなくて立ち往生してしまうような生徒が大量にあらわれています。これが一つです。  それから二つ目は、学校というところは、家庭と違いまして、つらいことや困難なこと、そういうことを要求して、そういうものをくぐり抜ける中で一人前の大人になっていくということがあるわけです。ですから、学校の中では、家庭と違いまして、つらいことや嫌なことや苦しいことがたくさんあります。ところが、この十数年はっきりしてきたことは、そういうつらいことや苦しいことに直面したときに簡単に参ってしまう、そういう生徒が圧倒的に多くなりました。そのときに、精神的に参ってしまうだけじゃなくて、肉体的な変調も引き起こすということが出てきました。ですから、簡単におなかが痛くなったり頭が痛くなったり、あるいは熱を出すということも、最初のころ私は信じられませんでしたけれども、三十七度ぐらいの熱が簡単に出たり、あるいはまた三十六度台におりたり、そういうことがあります。これが二つ目です。  それから三つ目は、心の問題は外側からはとても見えるわけじゃありませんから、よくわからないので表現が難しいのですけれども、非常に傷つきやすくなったということがあるようです。これは、数年前ですと、傷つくということが流行語のようになった時期があって、私はよくわからなかったのですけれども、傷つくということが子供たちの間の非常に大きな特徴になったようです。そのときに、傷ついたときに、ひ弱さを持った生徒たちは、相手を見て相手が強いとわかると、これは相手の言葉とか働きかけに傷つくわけなんですけれども、そうなったときに、相手が強いとわかったときには自分の周りにバリアを張って内にこもる、そういう状況があらわれています。  そういうようなことが、多分、校内暴力が終わったあたりから中学校では圧倒的に不登校の生徒がふえています。それ以前はそれほど問題にならない程度の数だったのですけれども、それが一つあります。  もう一つは、激しいいじめが原因と考えられる自殺がやはり十数年前から圧倒的にふえているということがあります。そのことは、ひょっとすると、今言ったような非常にひ弱な特徴を持った子供たちが大量にあらわれていることと関係があるのかもしれない、そんなふうに私は思っています。  一方で、ひ弱な生徒たちが、ある場面では非常に攻撃的になる、あるいは非常に強さを発揮するということがあります。今の傷つくということに関連して言うと、A君がB君に対して発した言葉でB君が傷ついたときに、先ほど言ったように、B君がA君を見て、A君が強いとわかると内にこもる、ところが、A君が自分より弱いというふうに判断したときには、猛烈にA君に向かっていくということが出てくるようになりました。そのときに、A君はB君に対して傷つけようと思ってしゃべったわけではありませんので、構えがないわけですね。そのときに、例えばB君が猛烈に相手にがんとぶつかっていって、こちらで身構えていませんから、すっ飛んでしまって、廊下の柱に頭をぶつけて頭を切ってしまうとか、あるいは両手のげんこをこんなふうにしてめちゃくちゃに相手に向かっていって、そのときに、めちゃくちゃに向かっていきますから、眼鏡の上から相手の目を殴ってしまったり、偶然、運悪く歯にげんこつが入ってしまって歯が折れるとか、そういう大きな事故が起こるようなことがふえてきたというふうに私は考えています。  このときに、自分が傷ついたことに対して自分を守るというようなことが根底にあるようですから、そのときのB君が振るう暴力に歯どめがないというような現象が出てくることになります。こうやって思い切り興奮して相手に向かっていきますから、必死になって教師や周りの生徒がそのB君を押さえて別室へ連れていって、少しおさまってから話を聞くのですけれども、そのときのB君の言い分は、A君がああいうひどいことを言ったから僕は向かっていったので、僕は悪くないと言うのですね。  このことに関して、私は別にそのことがおかしいとは思っていません。人間というのは、例えば、殴られたからということよりも、人の発言によって心が傷つけられることによって相手に向かっていくということ、その方が傷つくことが大きいということもありますから、それは私にもわかるのです。しかし、それにしても、例えば前歯を二本折ってしまったということがあって、あれはやり過ぎじゃないかということを私の方でB君に話をしたとしても、B君は簡単にそれを認めようとしません。A君があんなひどいことを言ったので僕は向かっていったので、僕は悪くないんだ、そういうふうに話をする。それ以前の生徒だと、自分がやったことは、これはやり過ぎたなということについて、あれはあいつが悪いんだけれども、おれがやったことも悪かった、そういうような言い方が通ったのですけれども、残念ながら、認めさせることが非常に難しくなっています。それが一つです。  これは、マスコミの人たちが切れるというような言い方でそういうような行動を表現し始めたことがあるのですけれども、これは多分、その切れるというようなことになると思います。  それに関係して、教師の中では、いつか起こるのじゃないかというようなことがあって、非常に不安な状況が続いていたのですけれども、三年ほど前になりますが、栃木県の黒磯で、女の英語の教師が中学一年生の男子の生徒によってナイフで刺し殺された事件があります。  今私が言った女の教師、私は女の教師を攻撃するつもりは全くありませんで、あの女の先生は多分、日本の中学校の中では最も典型的ないい教師だと私は思うのです。いい教師という意味は、例えば、生徒の様子を見て、生徒に対して、もっと一生懸命いろいろなことをやらないと一人前の大人になれないよということを一生懸命指導しようとしたわけですね。ところが、この十数年、自分の受け取りたいことは受け入れるけれども、自分が嫌なこと、受け入れたくないことについては余計なお世話だよという、そういう生徒が圧倒的にふえていますから、多分あのときに黒磯の女の先生は一生懸命その中学一年生の男の生徒を指導しようというふうに頑張ったのでしょう。しかし、生徒の側からすると、そういう教師の指導の仕方がひどく彼の内面を傷つけたということが結果としては多分あったのじゃないかと思います。  ただ、これは厄介なことに、前もってそんなことが予測できることではありません。ですから、あのときに、私は現場にいたわけじゃありませんし、新聞報道とかあるいは記者の方々から様子を聞いただけなんですけれども、無我夢中でポケットにあったナイフを女の先生に突き出して、女の先生がもうほとんど死にかけている状況になっても、なおかつ何度も何度も刺したというようなことがあったようです。さすがにこれは新聞報道ではありませんでしたけれども、何人かの記者から聞きましたから多分事実だと思うのですけれども、最後になって、動かなくなった先生を足で何度もけったというようなことがあったようです。  あの当時、あれほどの憎しみを女の先生に対して抱くということはわからないというような意見が随分あったと思うのですけれども、私ら現場の教師の感想からすると、生徒が傷ついたときに、自分を守るために無我夢中で相手に向かっていくということは生徒同士の間では普通に行われるような状況になっていましたから、そういうふうに考えれば、女の先生がその中学一年の男の生徒の内面を傷つけてしまったということがあって、それに対して、彼が自分を守るために向かっていったというふうに考えると、私は、理解できるのではないかというふうに思っています。  そういうふうなことが言われるような生徒が大量に登場してきています。教師の立場でいっても、例えば、今話をした黒磯の生徒は、ふだんは目立たない、非常におとなしい生徒だったようです。それから、どちらかといえば学校を休みがちだった生徒のようで、ふだんから非常に暴力的で、教師の方が身構えなければいけないような生徒では全くなかったようです。  あのときに、私の学校の教師たちの中で、かなりの教師たちが、うちの学校にもああいう生徒はいるわよねという話をしたことを覚えています。ということは、教師の立場でいっても、いつだれがどこで何をするかわからないという不安が学校の教師の間にも広がっている、こういうことがあります。これは親の立場でも、どうも母親が特にそういう感情を強く抱いているようですけれども、母親の立場で、うちの子もひょっとすると何をするかわからないというふうに考えている親たちが非常にふえているということが現実にあるようです。  私は今、この十数年、生徒たちが大きく変わってしまったというお話をしましたけれども、これは、生徒たちが好きこのんでそういう人間になったということではないと思います。多分、子供の育て方が大きく変わってきてしまったというふうに考えざるを得ません。  ですから、それ以前の育て方と、育て方というのは、親が子供を育てる育て方だけではなくて、社会の育て方というのでしょうか、ちょっと偉そうな言い方をして申しわけありませんけれども、子育ての社会的なシステムというふうに言っていいと思うのですけれども、そういうものがそれ以前と全く変わってしまったということが根底にあるのではないか。そうなってくると、今のような、非常に興奮しやすくて不安定で、非常に傷つきやすくなって、時にナイフも突き出すような、そういう子供たちが大量に出てきているというふうに考えたときに、これは、親が悪いとかあるいは学校の教師が悪いとかあるいはマスコミのせいであるとか、そういうふうに簡単に原因を特定することは多分できないのではないだろうか、こんな感じを私は持っています。  私自身は中学校の教師を三十数年やっていますけれども、この十数年、やはり子供の状況は非常に危機的な状況になっているのではないか、そう考えないと、学校で起こっているいろいろな出来事はわからないのじゃないかというふうに私は思っています。  ただ、残念ながら、その危機的な状況を、具体的にこういう方法をとればうまくいくよというふうにはやはりいかないのだろう。ちょっと大げさに言うと、やはり戦後の日本がここまで来てしまったという中で出てきた現象ではないかというふうに私自身は思っていますので、根本的な解決を見るには非常に長い時間が必要だろうというふうに私は思っています。多分、二十年、三十年、きっとそういうようなものが必要なんだろう。  ただ、その危機的な状況をほうっておくというわけにはとてもいきません。生徒の間には、好きなことは何をやってもいいという雰囲気が広く広がっています。それから、嫌なことはやらなくていいんだ、そういうことが広がっています。それから、大人子供も同じ人間だから、自分に必要なことは言うことを聞くけれども、必要じゃないこと、自分にとって受け入れがたいことについては言うことを聞かなくていいんだという雰囲気も広がっています。こういうふうな、好きなことは何をやってもいい、あるいは大人の言うことは聞きたくなければ聞かなくていいんだという雰囲気が圧倒的に中学生の間に広がっているというようなことがありますから、私は、緊急事態ですから、とりあえず社会的な規制力を取り戻す必要はあるのじゃないか。そういうような規制力を強める中で、とりあえず現状を抑えるということがどうしても必要なのではないかというふうに私は思っています。  ただ、それで問題が解決するということは全くないわけでして、それでとりあえず安定した状況を幾分なりとも取り戻すことができるとすれば、その間に、戦後の社会のつくり方とか私たち大人の生き方とか子供の育て方とか教育の仕方とか、そういうやり方について、何が問題なのかということを圧倒的多数の国民がじっくり考えるということがもう一方で必要になってくるだろう。しかし、そういうことをやるためには、今の状況をとりあえず力で抑えるということも必要になってくるのじゃないかというような感想を持っています。  以上、中学校の生徒の状況を中心にお話ししました。終わりにします。(拍手)
  47. 長勢甚遠

    長勢委員長 ありがとうございました。  以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。     —————————————
  48. 長勢甚遠

    長勢委員長 これより参考人に対する質疑に入ります。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。平沢勝栄君。
  49. 平沢勝栄

    ○平沢委員 自由民主党の平沢勝栄でございます。  四人の参考人の皆さん方には、大変に貴重な御意見を賜りまして、本当にありがとうございました。  とりわけ、児玉参考人そして土師参考人は、少年の残虐な犯罪の被害に遭われたわけでございまして、その意味で、今私どものところに、いろいろな方からいろいろな意見が寄せられています。そうした方々の意見よりは、私は百万倍も重い御発言だなという感じがしております。日弁連だとかなんとかかんとか、いろいろなところから私たちのところに今山ほど意見書といいますか、要望書というのが出されているのです。何と言っているかというと、今度の少年法少年法の改悪だとか、厳罰化で犯罪を防ぐことはできないとか、それから、教育的処遇によって更生や再発防止に資するのが少年法の趣旨であるとか、いろいろなことを言っているのですけれども、私は、こういうむごたらしい犯罪の直接の被害に遭われた児玉参考人そして土師参考人の御意見をよくよく聞いてもらいたい。  私はきのう、児玉参考人が書かれた「被害者の人権」という本を読ませていただきました。そして、土師参考人が書かれました「淳」という本を読ませていただきました。どちらも涙を流さずに読むことはできません。いかに現行の少年法が欠陥だらけか、問題が多いかということがこの御著書の中にるる書かれているわけで、これは直接当事者となられた方でないとなかなかわからないのではないかなという感じがしております。  今いろいろな御発言の中に、事実認定にいろいろ問題があるとか、あるいは軽微な犯罪と凶悪な犯罪を分けてほしいとか、あるいは犯した犯罪をちゃんと認識させる、これこそが更生ではないか、私もまさにそのとおりだろうと思います。そして、今の少年法が、加害者のことは考えているけれども被害者のことは考えていない、忘れているのではないか。それも私は全くそのとおりではないかなということで考えております。  法律は一部法曹関係者の私物ではない、我々プロフェッショナルが反対と言っているのだから法律を知らない素人は黙っていなさいというのであれば、それは誤ったエリート主義である、こういうことが児玉参考人の御著書の中に書いてありますけれども、私も全く同感でございます。加害者のことばかり考えて被害者のことを忘れているのが現行少年法でございまして、その意味で、今回の少年法の一部改正案は、私はまだまだ不十分だと思います。先ほど御発言がありましたように、まだまだ不十分だとは思いますけれども、しかし、一歩前進であることもこれまた間違いないわけでございまして、その意味で、今全国から山ほど判で押したような、同じような反対の文書が届いていますけれども、何を考えているのかなという感じがしないでもございません。  そこで、早速質問させていただきたいと思いますけれども、児玉参考人にお聞きしたいと思います。  今回の改正法で、事実認定手続の適正化が図られることになるわけでございまして、児玉参考人の有平さんのケースについて、児玉参考人の本を読ませていただきましたら、有平は二度殺された、一度目は少年たちによって、そして二度目は家裁によって殺された。私も、その悲痛な叫び、そのとおりではないかなという感じがしております。  三名が十四歳ということで逮捕されて、その三名は、一審の家裁で非行なし、不処分というのが決定されて、そして、残りの三名については非行あり、保護処分になったわけですけれども、その残りの三名がたまたま抗告したがゆえに、抗告審の仙台高裁におきまして、六名に一名を加えた七名について、全員がこの犯行に加わっていたという事実認定がされたわけでございまして、これはもう最高裁でも確定しているわけでございます。七名が有平さんの命を奪ったということは裁判所の判決でも確定しているわけですけれども、しかしながら、一審の家裁の決定を覆すわけにはいかないわけでございます。  今回から裁定合議で、一名の裁判官だけではなくて三名の裁判官になるわけでございますし、検察官の関与の審理が導入されまして、検察官による抗告受理申し立て制度というのができるわけでございまして、今のままだったら同じような過ちがまた起こる可能性がありますけれども、今後はこうした過ちが、一〇〇%とは言いませんけれども、かなり防げるのではないかな、その意味ではかなり大きな前進ではないかなということで考えておりますけれども、これについて、児玉参考人の御意見をお聞かせいただきたいと思います。     〔委員長退席、杉浦委員長代理着席〕
  50. 児玉昭平

    ○児玉参考人 大変、私のつたない本をお読みいただきまして、ありがとうございます。  まず、検察官出席、今回の改正案の条項に盛り込まれておるわけなんですが、検察官出席も必要とあればというふうな条項がついておりますので、私はそれに対しましては若干の危惧は持っております。家庭裁判所の方で審判を行うに当たりまして、検察官の関与が必要がないともし認定されましたらそれは関与しないことになりますので、その辺の運用はどうなるのかということを、今後もしこの改正案が成立になりましたら、その辺を注意して見守っていきたいなと思っております。  私が先ほど申し上げましたように、凶悪犯の場合には必ず検察官出席を認める、それから、裁判官の合議制、ちょっと必ずということではないような改正案になっておるようでございますので、この辺は若干の危惧は持っております。ただ、現行の少年法から見ましたら大変な進歩でありまして、私のせがれの件に関する少年審判時点で、この合議制、検察官の関与それから抗告権、もし三点のうちいずれかでもその時点で成っておりさえすれば、私どものような無念な思いはせずに済んだ方、私もそういう思いでおりますし、また同様の思いで、無念の感情を秘めたまま審判を見守っていた人たちもなくなるのではないかというふうに思っております。
  51. 平沢勝栄

    ○平沢委員 どうもありがとうございました。  同じ質問を土師参考人にもお聞きしたいと思うのですけれども、土師参考人の御著書、これも先ほど申し上げましたように本当に涙ながらに読まないわけにいかない本でございまして、その本の中に、現行少年法につきまして、「少年が犯した非行が、私たちのような特に深刻な、遺族というような形の被害者というものをつくらない場合は、少年保護を第一に考えることは、非常に大事なことだと思います。しかし、少年が犯した非行が、そういった深刻な被害者を生み出す場合は、考える次元が大きく変わってくると思います。」「偏った見方をすると、少年犯罪における被害者にとって、少年法とは加害者の利益のみを保護する法律であるといえるのではないでしょうか。少年に殺されたのだから仕方がない、運が悪かった、で済まされる問題ではない」、こういうことが書いてございます。  それから、この本の中で、犯人が少年だというのがわかったとき、大変にショックを受けたというようなことも書いてありまして、例えば「「淳を殺害した犯人は、せめて二十歳以上の人間であって欲しい」と心から願っていました。なぜなら、犯人が子供であれば、罪に相当する罰を受けることがないと分かっていたからでした。」こういうことも書いてございます。また「犯人が十四歳の未成年だったこと、そしてなによりA少年だったことで、なんとも表現しようのない感覚になっていました。怒りと虚しさ——これで犯人が死刑になることはない、いやそれどころか通常の裁判すら受けることがない、と思うとどうしようもなくやりきれない感情がこみ上げてきました。」と、まさに当事者でなければ書けない御発言ではないかなと思います。  そこで、この本は凶悪な犯罪が行われて一年ちょっとのときに書かれたと思います。それからまた二年ほどが経過しているわけでございますけれども、このお気持ちに変わりはないかどうか。時間が大きく経過したわけでございますけれども、この書かれていることについてのお気持ちに変わりはないかどうか、その辺もあわせてお聞かせいただけますでしょうか。
  52. 土師守

    ○土師参考人 あのときの気持ちというのは、何年たってもまず変わることはあり得ないというふうに思っています。実際、あのときの無念というか、犯人が十四歳、まともな裁判もないし、まともな罰も当然受けないしという、本当に、殺された上に犯人に対する罰もろくにないということ、私たち被害者遺族がそれで納得できるはずもない。そして、この悲しみというものはもう絶対に一年やそこらでおさまるものでもないですし、児玉さんもそうだと思うのですけれども、子供をこういう犯罪で亡くした遺族というのは、まず一生この気持ちからは逃れられないというふうに思っております。
  53. 平沢勝栄

    ○平沢委員 ありがとうございました。  別な質問を児玉参考人と土師参考人にさせていただきたいと思うのですけれども、相手方の親の責任の問題でございます。  御著書を読みますと、相手方の親についてもいろいろ思いがあるということが書かれております。児玉参考人には、ことし七月三十一日、米沢で開かれました少年少女の心を探るフォーラムで御発言されておられまして、その中で、横道にそれることになった子供たちに共通しているのは、大変わがままに育っていて、我慢したことがない、あるいは幼児期に父親の影が見えない等御発言されておられるわけでございます。  いずれにしろ、小さいころの家庭教育が大変に大事だということは明らかでございまして、今回の一部改正案の中に保護者の責任の明確化というのを入れてありまして、家庭裁判所は、必要があると認めるときは、保護者に対し、訓戒、指導その他適切な措置をとることができる、こうなっているわけでございますけれども、私自身は、これでは全く不十分じゃないかな。親の自覚を促すということだろうと思いますけれども、これだけ凶悪な事件を起こした子供、それについての責任はもっとはっきり親にもとらせるという形にした方がいいんじゃないかなという感じがしています。  例えば、イギリスなんかを見てみますと、保護者の自覚を促すために、親としての役割を果たせるように、カウンセリング等の受講を義務づける、こういった例もあるようでございます。日本の今回の規定は余りにも抽象的かつ相手方次第で拘束力がないわけでございまして、どのくらい意味があるのかなという感じもしないでもございませんけれども、この相手方の親に対する思いということについて、児玉参考人と土師参考人から御意見をお聞かせいただけませんか。
  54. 児玉昭平

    ○児玉参考人 相手の、加害者の少年の親御さんに関してでございますが、私どもの事件に関しましては、現在、民事によって争われておりますので、そこには証人として出廷いたしております。そのとき、出廷いたしまして、その親御さんがおっしゃることは、私どもの子供は大変素直でまじめでいい子でありまして、このようなことは犯すわけがないというふうなことをおっしゃっておりますので、その辺からお考えいただけるとありがたいわけなんですが。  この親にしてこの子ありということがありますが、やはり、子供を育てていくときに、その子の生育また性格、その後の生活態度と申しますか、そういうことに一番大きく関与しているのは両親、父親、母親だと思いますので、その辺の影響というものは全くもって、例えば三歳までということで申し上げれば、ほとんどと言っていいほどではないかと思います。  ただし、果たして望むように加害者の少年たちが育ったのかということをおもんぱかってみますと、またそうではないのではないかなということも考えております。どのような加害者の親も一生懸命子供を育てていると思うのですが、ただ、ボタンのかけ違えみたいなものがあったのではないかなということを感じております。  そのためには、審判の後の訓告といいますか指導といいますか、また外国の例のように長いフォローが必要だと思うのですけれども、そういうのは大変必要なことではないかなと思っております。  以上です。
  55. 平沢勝栄

    ○平沢委員 どうもありがとうございました。  ちょっと一言……。
  56. 土師守

    ○土師参考人 私も、特に子供のしつけといいますか、これはほとんど小学校低学年ぐらいまでにきちんとしておかなければいけないんじゃないかなと思っています。そのため、当然親の責任というのは逃れられないというふうに感じております。  ですから、本当にしてはいけないこと、殺しというのも当然そうですけれども、人の嫌がるようなことはしてはいけない、そういうことをきちんと教え込むということがあれば、最後の一線は超さないんじゃないかと思いました。
  57. 平沢勝栄

    ○平沢委員 時間が来ましたので、では、一言だけ発言して、久保参考人一言だけコメントをいただきたいと思います。  今回、このお二人の御著書を読ませていただきまして、お二人は大変な少年による被害に遭われたのですけれども、それと同じようにマスコミの暴力に遭われたということが書いてあるのです。要するに、加害者の方は少年法で守られている、片や被害者の方は、いろいろとマスコミにどんどん執拗な形で報道され、そして家族のプライバシーまでどんどん出ていく。これはまさにマスコミの、報道の自由に名をかりた暴力じゃないかということがいろいろと書いてありまして、そして、土師参考人の場合は、かわいいお子さんの御遺体を一たん自宅に戻したいけれども、マスコミがうろちょろしているから戻せないということも書いてあるのです。これは本当に、まさにマスコミの暴力じゃないですか。  この点について、外国ではマスコミの、被害者の報道規制というのは一部の国であるのですけれども、こういったものについて今後どう考えていったらいいか、時間が来ましたので一言だけコメントをお願いします。
  58. 久保潔

    ○久保参考人 結論から申しまして、マスコミ、いろいろございましょうけれども、何らかの規制ということには、私は反対せざるを得ないと考えております。  私どもで申し上げますと、八〇年代の当初から、人権とかそういうプライバシーについて社内で随分勉強したり、また、やり方も変えてきております。
  59. 平沢勝栄

    ○平沢委員 時間が来ましたので、終わります。どうもありがとうございました。
  60. 杉浦正健

    ○杉浦委員長代理 次に、池坊保子君。
  61. 池坊保子

    池坊委員 公明党の池坊保子でございます。  四人の参考人の方々からは、大変意義深いお話を胸を熱くしてお伺いいたしました。  私は、少年審判のあり方並びに被害者の人権の主張から、数年前から少年法改正を強く望んでまいりました。  神戸少年事件のとき、私は、少年法六十一条で加害者の顔写真や実名は保護され報道されないのに対し、被害者の顔写真が繰り返しマスコミに載ることに対し、子供を持つ親の一人としていたたまれない気持ちになり、思わず神戸弁護士会、大阪弁護士会に何らかの対処ができないかのお手紙を出しました。また、土師さんは御記憶にないかもしれませんが、私、数回お手紙もいたしました。同じ時代を同じ日本に生きている者として、何か自分にできることがあればと切ないほど願ったからでございます。  私は、他人の痛みや苦しみを社会全体で分かち合えるような国でありたいと願っております。被害者の側に立って何か発言いたしますと、すぐに感情に流されない議論をと言われることが多うございます。しかしながら、被害者の心情というものが顧みられない社会はどこか間違っていると私は思っておりますし、人権という立場からも、現状は著しくバランスを欠いているとしか私には思えません。  大人たちが痛みを分かち合う気持ちを持つことができたら、大人をかがみとして育っていく子供たちも、河上先生が触れられているような学校崩壊は起こらないのではないかと思っております。教育問題は、ただ単に学校だけの問題でなく、このような問題を通した大人の心のあり方の反映ではないかと思うのです。  そういう意味から、今回、少年法改正の中に多少なりとも被害者の立場を考慮した法案を織り込めたことを、私は、少しは政治家としての務めを果たすことができたのではないかと多少安堵する気持ちでございます。  児玉参考人、それから土師参考人にお伺いしたいと存じます。  被害者もまだ幼いならば、当然、その子供たちの兄弟も小学校や中学校に通うような未成年者だと思います。多感な時期に兄弟が殺されるという大きな傷を受け、また、人生の不条理を身をもって体験しなくてはならない立場に立たされた子供たちの心のケアに対して、余りにも今までおざなりになっていたのではないかと思います。  また、今、久保参考人がちょっとお触れになりましたけれども、例えば少年法六十一条ではきちんと加害者の顔写真などは保護されております。私は、例えば被害者の兄弟たちが、愛するお兄ちゃんや弟の写真があらゆるところで載ることに対して苦しみなどを感じるのではないか、それを抑止する手だてはないかというふうに考えておりますので、このことに関して、お二方の御意見を伺いたいと存じます。
  62. 児玉昭平

    ○児玉参考人 私どもの家族が、事件の後の報道等に関しまして、大変傷ついたということはもちろん申すまでもないことなんですが、その中で、大きな事件が起こりますと必ずなされることに、事実に基づいた報道であれば、それはいたし方ないと私は思っております。ただ、事実に基づかない誹謗中傷といいますか、うわさ話がひとり歩きいたしまして、それが後になって、VTRで見せていただいた例もあるんですが、例えば街頭で道行く人にインタビューしまして、あいつは生意気だから殺されても当然だみたいなコメントがありまして、ああ、被害者はそういう人だったのかみたいなことで報道されたわけなんですが、実際それは、うちの近所で収録いたしました、後から逮捕される七人の少年のうちの一人であったとか。ですから、報道のあり方というのをもっともっと吟味すべきことが多々あるんじゃないかなと僕は思います。  また、私の家族は、一人、有平を失いましたけれども、有平を真ん中に兄と妹がおりますが、兄と妹、その子供たち二人は、うちの家庭の内部のことはもう包み隠さず新聞等、マスコミ等で報道されているのに、どうして相手の方のことは全然出てこないの、うちだけこう報道されるのということで、大変マスコミ不信とマスコミ嫌いになっておりまして、それは今も続いております。それで、どうしてそう私たちにはプライバシーがないんだということを、いまだもって申しておるような次第でございます。  以上です。
  63. 土師守

    ○土師参考人 私の場合、事件のときは、家族、妻、残された長男に新聞とかテレビとかを見せないようにはしておりました。私自身、非常にもう当然混乱状況に陥っておりましたので、やはりどうしましても残された子供への配慮が行き届かなかったことを一番後悔しております。  そういう状況のときに、本当に精神的なケアをしてもらえるような、本当の専門家ですね、おざなりにやることじゃなくて、そういう精神科であるとかカウンセラーであるとか、そういうきちんとした人がおられたら大分違っているんじゃないかなというふうに考えております。
  64. 池坊保子

    池坊委員 日常生活の中で多くの子供たちと接していらっしゃる河上先生にお伺いしたいと思います。  私は、今まで、余りにも基礎のできていない子供に対して、善悪の区別を初めとして、人間として守るべきことを教えてこなかったことのツケが現在の学級崩壊と言われるような現象を生んできたのではないかというふうに思っております。自分が犯した罪に対する罰が存在することを、本来なら幼いころから認識させるべきではないかというふうに考えております。可塑性に富む加害者の少年の真の更生を考えるならば、きちんとした事実認定がなされ、きちんと自分の犯した罪と向かい合うことが必要なのではないかと私には思えるのです。それを単に短絡的に厳罰化と一言で処理されることは、むしろ加害少年のこれからの長い人生を考えるとき、それはマイナスになるのではないかと考えることもございます。  今回、そうした観点から、改正案の中に、被害者が死亡した事件など一定の重大事件の場合には、検察官審判補助者という立場から関与し、証人尋問等の事実認定手続に関与し得ることは、被害者の立場もさることながら、加害者の少年の更生のためにも私はいいことではないかというふうに考えておりますが、河上先生はいかがお考えでございましょうか。
  65. 河上亮一

    ○河上参考人 私も中学生とつき合っている関係で、全く同じように考えます。最近の中学生は、これは非常に困るんですけれども、自分がやったことがそれほどきちんと残っていないという傾向があります。  先ほど、好きなことは何をやってもいいと言いました。これは、頭で考えてそういうふうな言い方はできるんですけれども、もうちょっと言うと、そのときのやりたいという欲望というのでしょうか、衝動で動いてしまうということが非常に多いですから、そうすると、これは学校内でという限定された場でしか言えませんけれども、学校内で何か事件を起こしたときに、その生徒が、自分がやったことをきちんと跡づけることが非常に難しくなっています。そういう点で言うと、今おっしゃられたように、その生徒あるいはその少年が、自分のやったことをきちんと跡づけるという作業が私は非常に重要になってくると思います。  そういう点で、検察官が関与して事実関係をきちんと確認するというような作業、これは私は非常に重要だと思っています。     〔杉浦委員長代理退席、委員長着席〕
  66. 池坊保子

    池坊委員 この少年法改正の論議の中で、私も与党プロジェクトの一員として参加いたしましたけれども、ほかの方面の方々から言われます厳罰化という意見に対して、きちんとした子供たちの更生を考えることが必要なんであって、それは何も子供たちに罰を重くするということではなくて、自分のしたことの重みを教えるのだ、そういうことなくして更生はないというふうに私は考えております。  そういう意味では、今回の少年法改正の大きな論点の一つに、年齢問題があったと思います。  言うまでもなく、これまでの少年法では、十六歳未満少年はどれほど重大な犯罪を犯しても検察官送致の対象とはならず、刑事処分を受けることはございませんでした。今回の改正では、十四歳、十五歳の少年でも検察官送致を可能といたしております。これだけをとって厳罰化と言われることは遺憾だな、むしろ私は、加害少年にも深い深い愛情を持っておりますし、可塑性に富む少年たちが一日も早く更生し、本当の意味社会のために役立つような大人になってほしいというふうに考えておりますけれども、この年齢問題について、当事者でいらっしゃる土師参考人と児玉参考人の御意見をお伺いいたしたいと存じます。
  67. 土師守

    ○土師参考人 年齢問題に関しましては、全くそのとおりだというふうに思っております。  実際に、どの程度の罪を犯したのかということを、どんなに若くても少年というだけで罪そのものが免責されるということはないと思いますので、やはりきちんと自覚させるということは、十四歳という子供であればもう十分理解できておかしくない年齢だと思いますので、私としては年齢的なことに関しましては全くそのとおりだと思います。
  68. 児玉昭平

    ○児玉参考人 私も年齢に関しましては、今回の改正案では十四歳ということですが、私なりの私案がありまして、こういう席があるとも知らずに、私なりの改正案というものをつくりまして、実は土師さんに、私は大体このような改正案を考えていますということを以前送ったことがあります。  その時点では十二歳というものを考えておりましたが、その後いろいろ、十二歳の少年が収監された場合の収監先ということになりますと、これは少年刑務所もしくは少年院ということになるんじゃないかと思うんです。そうなってきますと義務教育の問題が生じてまいりますので、教育の問題ということに関しますと、年齢で区切るよりも学年齢、中学一年以上とかというような学年齢で区切った方が、教育並びにその更生のプログラムということを考えるとやりやすいのではないかなというようなことを考えております。  それから、自分の起こしたことの重大さということは、周囲の反響の大きさとか少年審判におけるいろいろな供述調書とかということによって本人たちには知らしむるはずなんですが、それがなかなかまたうまいこと今のシステムではいっていないということが言えるのではないかなというふうなことを思っております。  例えば、付き添いの弁護人の言い方をおかりいたしますと、一審の少年審判では不処分、シロになったという少年もうちの事件ではいれば、クロで処分というふうなことになった少年もいるわけなんですが、その処分の取り消しを求めまして仙台高裁へ抗告して、却下されたわけなんです。七人の少年とも関与したと認められるというふうなコメントがついてきたわけなんですが、その時点でも、一審の家裁よりも高裁、高裁よりも最高裁にいってまた却下されたわけですから、高裁の重み、それから最高裁の判断の重みということを、もっともっと進行していく中でやはり周囲が教えていくべきじゃないかなということを考えております。それが、付き添いの弁護人の方の申し方では、あのときはだめだった、このときは変なことを言われたというふうな解釈の仕方、また少年たちへの伝え方では、司法のシステムの重みということからもちょっとおかしいのではないかなということを考えております。
  69. 池坊保子

    池坊委員 時間が参りました。  最後に、この少年法改正は、二十一世紀を支える少年たちのすべて、被害者も加害者も含めて、その子供たち健全育成の観点から私たちが一生懸命考えましたことを、決して加害者の厳罰化などというのとは私たちの精神がほど遠いことを理解していただきたいと願い、私の質問を終わらせていただきます。  ありがとうございました。
  70. 長勢甚遠

    長勢委員長 上川陽子君。
  71. 上川陽子

    ○上川委員 21世紀クラブの上川陽子でございます。  参考人の皆様には、それぞれのお立場から大変貴重な御意見を賜り、本当にありがとうございました。とりわけ、被害者の遺族の児玉参考人また土師参考人の、大変心の痛む事件の中での心の葛藤とか、またお子さんの死をむだにしたくないという思いを少年法改正というところにぶつけていただいているということで、法務委員の一人として本当に真剣に頑張らせていただきたいなというふうに思わせていただきました。  それで、幾つか御質問をさせていただきますけれども、今、児玉参考人、土師参考人のお答えの中に、今回の少年法改正は今までの少年法を一歩進めているものだということで、前向きに評価をされているということでございます。  その中で、とりわけ今回の改正で被害者の知る権利というところについて、権利救済ということについて柱が立てられたということで、その中にも、先回の政府案につけ加えて三点の項目が今回の改正案の中で議論されているわけでありますが、その文言どおりの項目が十分に現場の中でも発揮されれば、被害者のお立場からの知る権利あるいは救済という観点から十分であるというふうにお感じになっていらっしゃるのか。  さらに、先ほど傍聴という話があった中で、もしそれが実現した場合には、児玉参考人のお答えの中には自分としては傍聴しなかったであろうというようなお話もございましたけれども、土師参考人の場合には、傍聴という権利が出てきた場合にはどのようにお考えになられるのかということにつきまして、お願いを申し上げます。
  72. 土師守

    ○土師参考人 少年審判の傍聴という権利についてですけれども、やはりこれは、被害者側遺族にとっては当然認められるべき権利であろうというふうに私は思っております。  実際に自分審判を傍聴するかということに関しましては、児玉さんと一緒で、私自身、やはり自分子供が殺されている状況を生々と話される審判に多分出るような精神状態ではないんだろうと思います。恐らく出ないと思います。  ただ、それはあくまで私の問題であって、ほかの人は、やはり聞きたいという人はおられると思いますので、その権利はちゃんと保っておいていただけたらというふうに私は思います。
  73. 児玉昭平

    ○児玉参考人 希望すれば傍聴を認めるということなんですが、私は先ほど申し上げたとおりでございます。ただ、遺族本人が傍聴できなくともその代理人を認めるという条項であれば、救済事項になるんではないかなと思っております。  それから、審判の過程を知る権利の件でございますが、私、先ほどの意見陳述で申し上げましたとおり、審判の記録の閲覧、コピーを被害者や遺族に認めるというふうなことはぜひともしていただきたいものだというふうに考えております。  例えば、私が民事訴訟を起こしましたのは、実は、事件の内容を今まで全然知る由もなかったわけでございますので、それを知りたいという希望が一つありました。しかし、そのときに、訴訟手続を行う前に、証拠申請という形で家庭裁判所にその供述調書並びに取り調べ調書を証拠請求させていただいたわけなんですが、従来の少年法でありますと、そのときに家裁の裁判官の判断が働きます。ですから、出てくる場合もあれば出てこない場合もあるということに現行の少年法ではなっております。例えば証拠請求しても出てこない場合はどういう場合かと申しますと、家裁の裁判官が、更生に差しさわりが出ると悪いのでこの証拠書類は出さない、供述書類とか、あと審判の記録は出さないという場合が出てくるわけです。  ですから、出す、出さないという裁量権が認められることになりますので、今般の少年法改正案では、閲覧を認める、またコピーを被害者に認めるということでございますが、これは全部オープンで出てくるということになっていますので、この点に関しましては、私は大変完璧にカバーできているシステムになるんではないかなということを思っております。
  74. 上川陽子

    ○上川委員 知る権利ということにかかわりまして、少年審判の過程だけではなくて、更生段階の中の加害少年の動き、あるいはその少年が更生を終わった後に社会に復帰した後のところの状況について、被害者のお立場から、知る権利として認めてほしいというか、知りたいというようなお気持ちというのは強くおありなんでしょうか。その点につきましてお二人の御意見をお願いいたします。
  75. 土師守

    ○土師参考人 複雑なところなんですけれども、一つは、本当に更生したのかということも含めて、やはり知りたいという気持ちはあります。ですから、当然、そういうことになれば聞くということになるかと思うのですけれども、ただ、もう一つは、もう忘れたいと言うたらおかしいですが、逆に聞きたくないという気持ちと、本当に相反する気持ちがやはり交錯するという感じだと思います。  ただ、それ自身も、私はそういう状況ですけれども、ほかの人は希望する方がかなり多いのじゃないかなと思いますので、やはりきちんとした権利として認めていただけたらと思います。
  76. 児玉昭平

    ○児玉参考人 私も全くもって同じでございます。更生しまして、例えば収容先を出るというような通知は、僕は出した方がよろしいのじゃないかというふうに思います。なぜかと申しますと、例えば、それまでの経緯を逆恨みいたしまして、被害者の関係者にまた何かあるというふうな可能性がなきにしもあらずということであります。  そういうこともあわせて考えますと、やはり通知はすべきではないかなというふうなことは思いますが、ただ、その更生のぐあいを、どういうふうに更生したかということまでは被害者としては知り及ぶことはないのではないかなというふうなことを私は思っております。判断すべきことはその更生施設の直接更生に携わる方の判断にゆだねるべきではないかなと思っております。  ただ、長い目で、更生した少年社会生活を見守っていくことというのは、更生施設の方からも大変大事なことではないかなということを考えております。  以上です。
  77. 上川陽子

    ○上川委員 ありがとうございます。  今回の少年法改正の中に初めて保護者の責任を明確化するという項目が設けられまして、私も、親という立場から、年齢はともかくとして、子供がそういう罪を犯した場合には、ともにその罪と向き合って、そして、更生していく過程の中で責任を持ってかかわっていくということが本当に子供にとっての一番大事な力になるというふうに感じておりますので、そういう意味から、親の責任を明確化するということは本当に大事なことだなというふうに感じております。  それで、先ほどちょっと御質問にあったのですが、ただ文言が非常に法律的な用語を並べているというだけにとどまっておりまして、実際にそのことをどういう形で運用していくかということがむしろ問題ではないかというふうに考えるわけでありますけれども、その点、被害者というお立場の中で、保護者に対して、どういうことを実際やるべきというふうにお考えなのか、再度お聞かせいただきたいと思います。
  78. 土師守

    ○土師参考人 非常に難しい問題ですけれども、先ほども申し上げましたように、子供のしつけといいますか教育は親が一番担っているわけですので、当然親の責任というのは逃げることはできないと思っています。ただ、結果として、子供が重大な犯罪を犯した後に、その親にどうしろというふうになりますと、今さら直してもらっても戻ってきませんので、非常に困るなというのが本当のところなのですけれども。  一般的には、犯罪を犯した少年の親の教育をもう一回し直してもらって、子供の教育というのはどういうふうにせないかぬのかということをきちんと、カウンセリングといいますか、教育し直していただきたい、それは非常に切に思います。
  79. 児玉昭平

    ○児玉参考人 先ほどから少年の更生に関しましては可塑性があるという言及が再三出ているわけでございます。少年には可塑性があるのですが、大人にはなかなか可塑性がありませんので、これは大変難しいことだと思いますが、訓告とか文書で行いました後に、その後うまくいっているのかどうかのフォローアップのシステムみたいなものは何か見出せないものか。例えば、先ほど土師さんがおっしゃいましたようなカウンセリングの問題とかということは、更生が終わった後でも必要なことなのではないかなということを考えております。  なぜならば、もし再犯を起こした場合に、第二、第三の被害者がまた出るかもしれないということを考えますと、そういう長期的なカウンセリングの導入みたいなことは必要になってくるのではないかなと思います。ただ一片の勧告、忠告ではちょっと、簡単にはそう至らないのではないかなということを考えております。
  80. 上川陽子

    ○上川委員 ありがとうございます。  河上先生にお伺いいたしますけれども、先ほど、中学校の現場の子供たちの様子というものをこの十年間の大きな変化ということで聞かせていただきまして、本当にどこの中学校でも、あるいは小学校の高学年ですら起きているような状況が見えるわけであります。  それで、先ほどのお話の中に、今ある危機的な状況に対して緊急避難的というか緊急的な措置として、ちょっとお言葉にはなかったのですが、今回の少年法改正のことについて言及していらっしゃったと思うのですが、必要であるというふうに御発言なさったと理解してよろしいかと思うのですけれども、今、中学校の中で、いつ加害者になるかあるいは被害者になるかわからないというような状況が発生しているということを踏まえながら、中学校の現場の先生方、河上先生はまさにそのエキスパートでいらっしゃるわけですけれども、学校の現場でどういう形でそれを阻止というか未然に防ぐための予防的措置というかをおとりになっていらっしゃるのか、具体的な対応につきまして御意見をちょっとお聞かせいただければ幸いです。
  81. 河上亮一

    ○河上参考人 まことに情けない話なんですけれども、現状では、例えば教師の言うことを全く聞かない生徒はかなりふえてきていまして、教師の言うことを全く聞かないというふうに決めてしまった生徒については何らの教育的な作業もできないというのが現実です。  ですから、先ほど私、社会的な規制力の問題をお話ししましたけれども、多分三十年前かあるいは私が小さいころのことを思い出すと、地域の大人たちが学校を支えるとか家庭を支えるとかということがあって、例えば、教師が一人だけで生徒を教育するのではない、あるいは、親が夫婦二人だけで子供を育てるのではないという状況があったと思うのです。そういう支援の力があって初めて学校も成り立っていたし、あるいは家庭も成り立っていたということがあると思うのです。しかし、それが崩れてしまった状況ですから、そうすると、先ほど私がお話ししましたように、現在学校の教師がいかんともしがたい事態はもういっぱいあるわけですね。  それで、何かあるかというと、私は、率直にないと言うしかないです。そういう状況を現在までのところ、この十数年教師は隠してきましたから。これはいろいろな理由があったのですけれども、隠してきましたので、今学校の教師が一番しなければいけないことは、現在学校の状況はこんなふうである、子供はこんな状況になっている、私らはここまでやって、具体的にこういうことをやってきたのだけれども、現実的にはそれ以上もうできない状況であるというようなことを、やはり外に向かって発言するということが今一番重要だろうと思っています。それを聞いていただいた例えば国会議員の方も含めて、親御さんも含めて、では一体どうすればいいのかを皆さんに考えていただかないといかないだろう。  ただ、そういう状況を何とかするにはひどく時間がかかると思いますので、先ほど私がちょっと言いましたように、ある種の規制力というのでしょうか力というものを、学校に子供を教育する必要があるというふうに判断するのであれば、当面何とか今の混乱状況を抑えるための力を学校に発揮させるべきであろう。  あるいは、家庭の問題がさっき出ていましたけれども、率直に申し上げて、中学生になってからどうにかしろと言われても、親としても多分それは非常に難しい状況ではないだろうかと私は思うのですね。そうなると、そういう状況に至る前の段階で、社会の側がというか、あるいは国の側が家庭の子育てをバックアップするようなシステムが同時に考えられないと、やはりちょっと少年法だけでということはとても難しいだろう。  ですから、少年法改正について私は基本的に賛成しますけれども、しかし、それと当時に、小さい子供の段階から親が子供をどう育てていくのがいいのかという問題とか、小学校の段階から子供をどうしつけたり、どういうふうに教育することが大事なのかということをもう一度やはり同時に議論していただいて、そちらの方も何とかするということがないと、やはりとてもこれだけではいかんともしがたいというふうに思っています。
  82. 上川陽子

    ○上川委員 ありがとうございました。大変貴重な御意見をいただきまして、ありがとうございます。  これで終わります。
  83. 長勢甚遠

    長勢委員長 土屋品子君。
  84. 土屋品子

    ○土屋委員 無所属の土屋品子でございます。  参考人の皆様には、きょうはお忙しいところ貴重な御意見をいただきまして、ありがとうございます。特に児玉様、土師様におかれましては、事件のことで気持ちもいやされていないとは思いますが、そういう時期でありながら、このように参考人としてお越しいただきまして、本当にありがとうございました。  私は二期目の議員でございまして、今回の選挙で、少年法の見直しを一番の柱に選挙戦を戦わせていただきました。そして、特に女性の皆様から大変な支持をいただきまして、私が、少年法について、前回の国会では廃案になってしまったので、何とか次回の国会ではぜひ新しい少年法改正を通したいという思いを訴えましたところ、多くの女性の方から賛同をいただきまして、本当に頑張って改正してくださいというような状況で二期目を送り出されたわけでございます。  それで、私としては法務委員会に入りたいということで、自分の希望どおり法務委員会に入らせていただきまして、きょうこうして質問に立たせていただけることをありがたく思っております。  先ほどから諸先生たちがいろいろな角度から御質問されておりますので、私のこれから御質問させていただくものも多少重なると思いますけれども、お許しいただきまして、お答えいただければありがたいと思います。  被害者のプライバシーの保護についてお伺いしたいと思います。  神戸の事件で、マスコミのプライバシーに対する侵害というのは本当に大変な状況だったと思います。これはもう、多分私どもが想像をする以上、想像を絶するような状況であったのではないかと思います。私の聞いているところによりますと、その後、余りにひどい状況であったために、神戸司法記者クラブの要請によって、正確な報道をしようではないかということで、少年事件の非公開の原則に抵触しない範囲で、神戸家裁が提供した情報を一本化して公表することになったと聞いておりますが、これは実際にそうなったのでしょうか。土師参考人にお伺いしたいのですが。
  85. 土師守

    ○土師参考人 済みませんが、私、その事実はちょっと存じておりません。
  86. 土屋品子

    ○土屋委員 私、何か調べたところによるとそういう状況でございましたが、ということは、実際には事件が起きてから、今に至るまでとは言いませんけれども、かなり長い間、報道によるいろいろな尋問というか質問等にさらされていたということが事実なんでしょうか。土師参考人にお願いします。
  87. 土師守

    ○土師参考人 事件発生当初から犯人が逮捕されて、事件が五月の二十四日にありましたので、大体八月いっぱい、九月ごろまでやはり、特に七月ごろまでは、本当に取材攻勢といいますか、非常にひどいもので、もうまともにカーテンもあけられない状況で、本当に前のビルから望遠レンズで撮られているというのがわかる状況があったのです。  本当にそういう状況が続いたのですけれども、私の場合は、八月半ばになりまして代理人の井関弁護士にお願いしまして、それから代理人を通しての取材にしてくれということにしましたので、それからは、まだぽつぽつと直接私のところに来るところもありますけれども、基本的には皆さん約束を守って、代理人を通しての取材に変わっておりますので、そういう面では報道、マスコミの方もかなり、私のところに関しましては気を使ってくれ出したのかなというふうに思っております。
  88. 土屋品子

    ○土屋委員 言いにくいところをありがとうございます。  私としては、この質問をさせていただいたのは、報道の自由というのはありますが、やはりこういう事件の場合は、被害者に対して直ちに報道をシャットアウトできるような状況をつくるべきであろうということで御質問をさせていただいたわけでございます。そういう形が神戸のこの事件では多少できたと伺ったものですから、それであれば大変な評価ができるし、これから先そういう事件が起きた場合にも、これに倣って被害者に対する報道のある程度の規制というのを、報道関係者で自粛という形でやっていただければ一番いいのかなと思う気持ちで質問させていただきました。  この点について、報道関係でいらっしゃいます久保参考人、ちょっと御意見をいただきたいと思います。
  89. 久保潔

    ○久保参考人 被害者でありますお二人の参考人の方の報道被害につきまして、心の痛む思いで拝聴させていただきました。  私ども、日常の取材で、被害者が特定できるようなもの、あるいは事件に直接関係のない情報については心して、社内の勉強会とか自粛の内規とか、そういったようなもので大分改善はされてきていると思っております。  ただし、社会的に関心が極めて強いような重大事件、そういったような場合には、どうしても情報合戦といいますか、あらゆる情報源に取材をする。そういう中で、今御指摘のような、被害者の方に全く不必要な精神的苦痛を与えてしまう。そういう点をどういうふうに、まず読者にいろいろな情報をお知らせするという使命とその点をどう調和させるかというのは非常に難しい問題で、御批判には謙虚に耳を傾けますけれども、まだまだ勉強していかなければならない問題であろうと思います。  それはあくまでも、例えば私でありますと読売新聞という看板をしょっておりまして、いいかげんなことをやると、もう最近では読者にお許しいただけない。だから、自分の看板をかけまして、各社ともに自主的に取り組んでいくというテーマだろうと考えております。
  90. 土屋品子

    ○土屋委員 どうもありがとうございます。よろしくお願いしたいと思います。  河上参考人にお伺いしたいのですけれども、先ほどから、親の責任の明確化を明記したということなんですけれども、なかなか具体的にははっきりわからないという話が出ておりました。学校の中で子供が、最近の子供はちょっと十年前の子供と違うということを先ほどおっしゃいましたけれども、親がPTAとかに出ていらっしゃると思うのですけれども、その親も十年前とかなり違っているのだろうかということについて御質問したいと思います。
  91. 河上亮一

    ○河上参考人 当然、子供が変わっているわけですから、親が変わったというふうに考えざるを得ないですね。  ちょうど校内暴力が今から二十年ほど前ですから、私ら教師が生徒が変わってきたと感じ始めたのは十五年ぐらい前です。十五年前というと、そのころ中学三年生だった人は現在三十歳ですから、そうすると、私たちが変わり始めたと思った子供たちが親になって、その子供がもう小学校に入ってきているわけですね。そうすると、もう二世代、私なんかの実感ではそれ以前と大きく変わっている。簡単に言うと、自分第一ということなんでしょうか、我慢をしなくていい、そういう世代ですね。非常に豊かになりましたから、つらいこととか苦しいことはもういいんだ、自分の好きなようにやっていいんだというふうな雰囲気が親の世代にも広がっているというふうに考えていいと思うのですね。  そういう意味でいえば、子供の問題だけではなくて、親をどうするか、これは学校の教師がどうもできないことなんですけれども。ですから、非常に難しい事態だなと。さっきの危機的な状況になっているというのは、実は子供の状況だけではなくて、それを取り囲む親の世代の状況もやはりかなり深刻な状況になっていると考えざるを得ないというふうに私は考えています。
  92. 土屋品子

    ○土屋委員 河上参考人の本を読ませていただきましたが、その中に、この今の状況を変えるには五十年かかるだろうとたしか書かれていたと思います。そういう中で、本当に教育を基本から改革していかなければならないのかなということを痛切に感じているところでございます。  最後に、今回の法律をこのままで改正案としていいのであろうか、それとも、もっとこういう点を、特にこの点を改正してほしいという点がございましたら御意見を聞かせていただきたいのですけれども、これは児玉参考人、土師参考人、それぞれお伺いしたいと思います。
  93. 児玉昭平

    ○児玉参考人 まずその前に、今回改正成るであろうと私は考えているわけなんですが、これは大変な進歩であります。くしくも私と少年法は同じ年でありまして、昭和二十四年一月一日施行で、私はそれからおくれること二十日後に生まれてまいりまして、ちょうど同じ年なんですが、五十年の沈黙を破って改正になったということだけでも著しい進歩だと僕は思っております。本当に山が動いたというふうに考えております。  その中で、もっともっと改正すべき点はあるのではないかなというふうに考えております。なぜならば、少年法というのは、憲法のように国家のあるべき姿を規定したような法律ではありませんので、私、端的に、大ざっぱな言い方をすれば、生活に密着した法律ではないかなと思っております。  ですから、社会が変わった、少年が変わった、中学校も変わった。そういう意味で、少年自体変わっているのであれば、これは時代の変遷に倣ってもっともっと変わっていく可能性があるのではないかなと思います。変えるために変えるのではなくて、何ゆえに変えなくてはいけないのかということをもっと考えるべきだと僕は思います。  私の仕事は幼稚園ですから、少子化という大変深刻な波をこうむっております。その中で、少年というのは、もう圧倒的にパーセンテージが少なくなってきております。私たちの国家の将来というものは、その人たちにいやが応でもゆだねざるを得ないわけですね。その人たちがいかに更生していくかということを考えて、私たちの日本の将来を背負っていただかなくてはいけないわけです。これはいやが応でもそうならざるを得ないわけですので、その少年たちを、ちょっと道を誤った場合に、どのように更生させていくのかということは、これは本当に国家の大命題だと僕は思っておりますので、時代の変遷につれてそれは変わるべきであるし、常時その件に関しては検討をし続けるべきではないかと思っております。  冒頭の意見陳述で申し上げましたように、例えば六十一条に関しましても、今後の継続的な課題としてやっていただければ大変ありがたいと僕は思っておりますし、それから、保護者に対する訓告のようなことも、今後、どういうふうにそれを生かしていくのかということも恐らく長期的な課題になってくるのではないかと思いますので、その辺も検討していただければ大変幸いに存じます。
  94. 土師守

    ○土師参考人 私も児玉さんと一緒で、この今回の改正案をまず成立させていただきたいというふうに思っているんですけれども、この改正案は本当に大きな、大きな一歩じゃないかなと非常に思っております。  さっきも児玉さんがおっしゃられていましたけれども、細かいことで言いますと、被害者の立場のこととか六十一条のこと、それも含めて見直していただきたいということはありますけれども、やはり一番大事なのは、子供少年というのは社会状況が変わることによって変わってくるわけですので、当然それに合わせて、その都度いい方向に改正するということは非常に重要なんじゃないかなというふうに思っております。ですから、今回だけでなく、いろいろと変化に応じて考えていただけたらというふうに思っております。
  95. 土屋品子

    ○土屋委員 時間になりましたので、質問を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。
  96. 長勢甚遠

    長勢委員長 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。  この際、参考人各位一言御礼を申し上げます。  参考人各位には、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。厚く御礼を申し上げます。  次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。     午後四時三十六分散会