○
村上参考人 こういう機会に
科学技術のことに関して
お話をさせていただくチャンスを与えられたことを、
調査会としての御見識に私は感謝の
言葉を
最初に申し上げたいと思います。
会長の
中山先生からは、二十一
世紀のあるべき姿についての
展望を述べてほしいという御依頼でございました。おわかりいただいているかどうかわかりませんが、私自身は、どちらかといえば過去の
歴史を勉強してきた者でございますので、果たしてどこまで将来の
展望が申し上げられるかわかりませんが、しかし、将来というのは必ず過去からつながっているものでございますので、その
意味では、半ば以上過去のことを申し上げることになると思いますけれども、それを御
参考になさっていただければと思います。
多少簡単な
レジュメを用意いたしましたので、大体それに沿って
お話をさせていただきます。
私は、
科学と
技術を比較的明確に分ける
立場におります。後に申し上げますように、現在の
科学の一部は非常に
技術に近づいておりまして、
技術と
区別のつかない
場面、あるいは
工学と
区別のつかない
場面も多々ございますけれども、それでも
歴史的伝統の中では
科学と
技術は明確に
区別をしておくべきだという
立場に立っております。その点で、とりあえず
区別を前提にした上での
お話になります。
科学というのが
ヨーロッパをいわば故郷にしていることは御
案内のとおりでございますけれども、非常に長い
学問の
歴史の中で、今私
たちが
科学と呼んでいるような知的な
営みが
ヨーロッパ、まあ
アメリカはその少し後と言ってもいいと思いますが、
ヨーロッパに誕生したのはそれほど古い話ではないというのが私の基本的な
認識です。
例えば、簡単なことですけれども、
科学者という
言葉に相当する
ヨーロッパ語はすべて十九
世紀に初めて生まれておりまして、それ以前には
科学者に相当する
言葉はありませんでした。したがって、
科学者という
名前で呼ばれるような
社会的存在も
存在しなかったということになります。つまり、
科学者がいなかったということであります。
一言だけ余計なことをつけ加えますが、今私
たちが
科学者ではないかと思っているような例えばニュートンのような
人たちは、
哲学者と呼ばれておりまして、
科学者とは決して呼ばれませんでした。つまりそのことは、十九
世紀に
ヨーロッパでも、現在私
たちが考えているような
意味での
科学が本格的に姿をあらわしたということの間接的な
証拠とも言えると思います。
そこにも書きましたけれども、
大学の中に
理学部に相当する
学部が生まれ始めるのも十九
世紀もむしろ半ば過ぎのことでありまして、
大学というのはそもそも十二
世紀末に
ヨーロッパに誕生しますが、それ以降、
理学部に相当する
学部を持った
大学は十九
世紀まで
存在しておりません。
学部としては、これも御
承知のとおり、
哲学部があって、
あと神学校と
医学校と
法律学校があるというのが
大学の基本的な構造でございました。十九
世紀になってかなりたってから、それだけでは足りないというので、
理学部が少しずつつくられていく。
ちなみに申し上げますが、
工学部は決して
大学の中には十九
世紀中は
存在しませんでした。
工学ないし
技術というのは
学問、つまり
大学で行うような
学問として認められたことは少なくても十九
世紀にはなかったわけです。
例外は
日本であります。
その
例外でございますけれども、一八七七年、御
承知のとおり、
日本で
最初の
近代的な
大学として
東京大学が発足いたします。
明治十年のことでございますが、そのときは
学部としては、そこに書きました法
学部、
医学部、文
学部、
理学部の四
学部でございましたので、この時期、一八七七年という時期に、
欧米の
大学で
理学部を備えていた
大学が極めて数少ないという事実から判断いたしますと、これは
先進国で行われている最も先進的な部分を比較的問題なく取り込むという
後進国の特権と言われることかもしれませんけれども、とにかく、時間的には
理学部を取り込んだのはむしろ早いと申し上げていいと思います。
もう
一つの
東京大学の特徴は、当時
存在していた
欧米の
大学と呼ばれるところでは決定的に常に必要であった
神学校ないしは
神学部を持たなかったということでございまして、これは、そこにありますように、
欠格条件ではなかったかと思います。それだけの大胆なことを
日本の
明治政府はやったということになります。
ちなみに、
工学系でございますけれども、これも御
承知だと思いますけれども、
明治政府初期に、
ヨーロッパの十八
世紀の終わりから十九
世紀にかけて生まれ始めた
技術学校をまねた
工部大学校という
東京大学とは別の
組織を、同じように
東京大学が生まれた
明治十年、一八七七年につくります。
なぜ
ヨーロッパや
アメリカでこの時期に
技術学校が生まれたかということも
お話ししなければならないかもしれませんけれども、要するに、
大学ではない全く別の
組織として、
ヨーロッパないし
アメリカに、それまで職人のギルドと
親方徒弟制度の中に閉じ込められていた
技術というものが
社会的に開放されていくことによって、どうしても
学校の中で学びたい
人たちにその
技術を伝播する
制度が必要になってきたという
認識のもとにつくられていくのが十九
世紀の
欧米の
技術学校でございますが、それをまねた
工部大学校というものが同じ年に設立されます。
ところが、いろいろ事情はあったのでしょうけれども、約十年たった
明治十九年、一八八六年にこの
工部大学校は、当時
工部省という省がございましてその
工部省の
管轄でございましたけれども、
工部省の廃止に伴う
措置でもあったと思いますが、いずれにしても、
文部省管轄の
東京大学、十九年には
帝国大学令というのが出て実は
東京大学は
帝国大学になりますが、その年に
工部大学校は
東京帝国大学に併設される
学部の
一つとなります。この時期に、全
世界を見渡して、
ユニバーシティー、総合
大学と名乗っているところで、
工学部を持った
大学としては恐らく
世界で
最初であると申し上げてよろしいかと思います。
それから約十年、
東京大学ができてちょうど二十年ですが、一八九七年にできた
京都帝国大学では、
最初から
工学部を持つことになります。しかも、そのときの総
学生数に対する
工学部の
比率は四〇%という
比率で、非常に大きな
学部として発足しております。
しかも、その
工部大学校や
初期帝国大学工学部に、当時、
最初はまだ
工学部という
名前ではございませんでしたけれども、とにかく
工学部に進学していく
学生たちの多くが知的な
エリートないしは
エリートの
養成集団であったということも注目に値いたします。
もちろん、
明治政府で最もつらい思いをしたのは
幕府関係の
下級士族であったと思われますし、そういう
人たちの
子弟がこぞって
工部大学校ないしは
工学部へ進学していくというのは、恐らく彼らの
働き場所、
国家を建設していくための
働き場所として、例えば
電信、それから鉄道、あるいは当時の
造家、現在の建築ないし
都市計画、
土木工事、それから鉱山といったようなところに進んでいくことによって、
国家に対して寄与ができるというふうに考えた
人たちが非常に多かったということを
意味しているように思います。
つまり、十九
世紀の終わりには、
日本の
社会、産官学いずれを取り上げてみましても、
大学の
工学部での学士様
たちがその
社会的な機能をきちんと果たすということが起こってきたわけで、現在でも
欧米の
大学の中に、特に例えば
イギリスなんかの伝統的な古いオックスブリッジのカレッジの中には
工学部を持たないところもたくさんございますし、そういう点では、
知的エリートが
工学系に進むということの少ないことをむしろ嘆いている現状の
欧米の姿からすれば、これは極めて異質な
文化的背景であったように思われます。
現在でも、
大学における
理学系と
工学系の
学生数を比較してみますと大体一対八くらいになるというこの
数字、
理学系が一で
工学系が八というような
数字は、これもまた極めて異例の
数字でございます。
要するに、極めて簡潔に言ってしまえば、
近代日本社会は、
工学というものに対して
欧米の
社会が持っていたような偏見はほとんど全く持たないばかりか、むしろそのことによって、いわば
国家建設の重要な柱とするというふうに考えてきたことは、一貫してこの百年間ないしは百五十年間の
日本の姿勢であったように思います。それは戦後においても変わらなかったというふうに考えることができます。そのことは、特に戦後
社会の中での
日本の
産業の発展や経済的な繁栄の
背景であったということは、きちんと
評価しておいていいことではないかというふうに思います。
ただ、これも誤解のないように
一言つけ加えさせていただきますが、
近代産業が出発したのは言うまでもなく
欧米でございますけれども、
産業技術が、十九
世紀になって次第にきちんとした形で
社会の中で認められていったこうした
科学の
営みとはほとんど無縁のところで誕生し、展開していったということもぜひおわかりになっておいていただきたいポイントの
一つでございます。
現在でこそ、さまざまな
企業は、
片仮名語になって申しわけございませんが、いわゆる
インハウスラボ、
企業内研究所というのを持っておりまして、そこに多くの
理学博士などを雇って
研究を行わせ、そしてその
研究成果をそのままみずからの製品やノウハウに転化していくということをやっておりますけれども、十九
世紀の後半、
産業革命が進展する中で
近代の
基幹産業というのが生まれてまいります。
精密機械、あるいは自動車、鉄鋼、化学、あるいは
電気、
電力、
電信その他が十九
世紀の後半から二十
世紀の初頭にかけて次々に
基幹産業としての
企業形態を整えてまいります。
USスチールだとか、
フォードだとか、GEだとか、
シーメンスだとかいったような会社が生まれてくるわけでありますけれども、そういう
基幹産業を立ち上げた、これも
片仮名語でしか普通申しませんが、いわゆる
アントルプルヌールと呼ばれる
人たち、どういうわけか
英語圏でもこのフランス語が使われますけれども、この
アントルプルヌールと呼ばれる
人たちは、
エジソンにしても、カーネギーにしても、
フォードにしても、
シーメンス兄弟にしても、ダイムラーにしても、だれ一人として
大学出はおりません。
自然科学の
研究成果などに触れた人も一人もおりません。
要するに、そういう
人たちは、
文字どおり自分の才覚と
努力と、有名な
エジソンの
言葉がございますけれども、一%の才能と九九%の汗を流すこと、パースピレーションという有名な
言葉がございますけれども、しかも運に恵まれてのし上がっていった
人たちであります。
当時、例えば
電信とか
電気、
電力という
産業が立ち上がってまいりますけれども、例えばマクスウェルの
電磁方程式が十九
世紀の後半に発見されますけれども、
電磁方程式という
科学の
成果がそういう
技術開発に何らかの影響を与えたという
証拠は全くございません。
したがって、この当時は、
科学は
科学で
大学の中で、私
たちは時々それを
好奇心駆動型というような
言葉で呼びますけれども、
英語のキュリオシティードリブンという
言葉を翻訳したものでございますが、それぞれの
科学者たちが、同じ
好奇心を共有する
人たちが集まっていわば
一つの
共同体をつくりますと、その
共同体の内部で
知識が生産され、蓄積され、流通し、そして
評価されていく、そういう
一つの
組織をつくりまして、極端な
言い方、少し卑俗な
言い方をしますと、
自分たちでおもしろがっている。
そういうふうにして、普通の人はそんなことに
余り関心もおもしろがりもしないけれども、しかし、ある
人たちはある問題についてどうしてもわかりたいと思い、わかったことを
喜び、そしてその
喜びを、いわば同じ
喜びを共有できる
仲間たちと共有する。そういう
内向きの
営みとして
自然科学というものが基本的には
存在していたということを、私はプロト
タイプの
科学と呼んでおりますが、そういう
科学の原型として
存在していた。したがって、そこで行われているさまざまな
知的活動の
成果としての新しい
知識は決して外に漏れ出ることがない、つまり
自分たちの
仲間だけ。
これも、
評価で、最近あちこちで使われる
言葉ですけれども、
ピアレビューという
英語がございます。ピアというのは、本来は
イギリスの
世襲貴族の長男が上院のメンバーシップに入るときのことを言うんだそうでございますが、それから派生して
仲間という
意味だそうでございます。この
ピアレビュー、つまり
仲間によって
評価される、
仲間が
評価してくれればうれしいという、それだけの
営みとして
自然科学は十九
世紀に
組織化されていく、そういう状況があったわけでありまして、そこで得られた
知識を何らかの形で
社会的な効用に転化するということはほとんどまだ考えられたことがなかったわけであります。
ただ、
レジュメの5になりますけれども、
欧米でもそういう
科学の姿に非常に大きな変化が起こったのが、大まかに言いまして、第二次
世界大戦の最中からその直後にかけてだったというふうに考えられます。
その最も典型的なものは、御
承知のとおり、
アメリカ政府の
核兵器開発計画、つまり
マンハッタン計画でございますけれども、
マンハッタン計画はその中では一部でございまして、多くの
軍事的目的のために
アメリカ政府は、
科学者と
科学者の
共同体、
専門家の集まりの中だけに閉じ込められていた
知識をいわば
国家的な
軍事目標のために利用し活用するという
一つの
社会的な
制度をつくり上げていった。それが第二次
世界大戦の最中でありました。
このキーパーソンは、よく言われますけれども、
バネバー・
ブッシュという人物です。今の
ブッシュさんやそのお父さんの
ブッシュさんとはまるで関係ありませんが、
MITの
初代の
工学部長を務めた男であります。
たしか一九三七年ぐらい、私は三六年生まれですから、ちょうど今から六十三、四年前ですが、その三六、七年に
MITが
大学に昇格します。あれは今でもマサチューセッツ・インスティテュート・オブ・テクノロジーといいまして、
ユニバーシティーと名乗っておりません。もちろん今は
アメリカでも十指に入る
大学ですけれども、その出自、
出発点は一八六二年ぐらいに
アメリカのマサチューセッツ州に生まれた
工学校であります。工員さんの
子弟たちを
教育するための
夜間学校でありました。完全ないわば
技術学校であって、
大学ではなかったわけですね。
それがちょうど今から六十数年前に
大学としての体裁を整え始めまして、そして
初代の
工学部長になったのがその
バネバー・
ブッシュという人ですが、その
ブッシュが、当時、
ローズベルト大統領の任命によって
アメリカ国防総省の中の
研究開発部局の
局長という地位に取り立てられまして、アポイントされまして、そして、そこで始めた仕事がまさしく、
先ほどから申し上げているような、
内向きであった
科学の
成果を
国家が、特に
軍事が、ここで、非常に国際的にきつい
言葉を使う習慣がございますので、お耳ざわりだったらお許しをいただきたいんですが、
搾取をする。
英語ではエクスプロイテーションという
言葉を使いますけれども、
国家や
軍事が
研究者の中での
研究成果をエクスプロイトする、
搾取をするというような
言い方をいたしますが、そういう
一つの
社会的な
チャンネルができ上がっていく。
これをつくり上げた最も典型的なのは
アメリカ政府だった。もちろん、多かれ少なかれ、
日本でも
戦時中に
総動員体制がありましたし、例えば
理工系の
学生の
優遇措置あるいは
予算面での
優遇措置というのもございましたけれども、最も
社会制度的に入念なやり方でその
制度を立ち上げたのは
アメリカ政府だったと思います。
御存じの、
アメリカの
中央政府、フェデラルガバメントの現在では重要な
部局の
一つである
NSF、ナショナル・サイエンス・ファウンデーションというのがございますが、この
NSFもこのときの
バネバー・
ブッシュの
努力によって最終的に日の目を見たものでございます。制定の年代は少しおくれまして一九五〇年、ちょうど今から五十年前だったと思いますけれども、そのときに、いわば
戦時中の
ローズベルトと
ブッシュの
体制によって生まれた最終的な結果の
一つが
NSFの設立ということにもなりました。
こうした段階で、
科学というのは新しい形、性格を持ったと私は思っています。
現在では、
先ほどから申し上げてきたような、ある
意味で
内向きで
自分たちだけが真理を探求している、その楽しさを共有している、そういう
営みとしての
科学と、それから、いわば
社会、
国家の
使命を達成するために協力するという形で行われる
科学、これはほとんど
技術に近いものであります。私は、前の方の
科学の
タイプのことを
先ほどは
好奇心駆動型という
言葉で呼びましたが、それに対応させて言えば、後から出てきたような
科学の
タイプは
使命達成型とでも呼ぶべきものであります。これもミッションオリエンテッドという
英語の翻訳になっておりますけれども、
使命達成型。
そして、別の
言い方をすれば、前の方の
科学は、外部に
クライアントつまり発注主がいない。ところが、後の方の
科学は、
科学者の外に
発注主、
クライアントが
存在する。その
クライアントは、多くの場合、
国家であったり、
国家の中のいろいろなセクターであったり、場合によってはそれは
企業でもあります。
産業でもあります。そういう
タイプの
科学が誕生してきたのがここ五十年ほどのことであると思います。
それに伴って、言うまでもないことですけれども、
社会の
仕組みも変わってまいります。例えば、
先ほども申しましたように、
科学の
研究の
成果の
評価は、古い
タイプの
科学ですと、いわば
仲間評価、
ピアレビューで済んでしまいます。しかし、
使命達成型の新しい
科学研究ですと、この場合は、その
評価は決して
仲間内だけでは済みませんで、もともとその
使命を発注した
発注主の
評価も入りますし、その他もろもろの
評価が外から入ってくることになります。
そういうわけで、さまざまな
研究の
仕組みや、
研究を
評価する
仕組みや、
研究に対してお金を投下する支援の
仕組みも変わってまいります。
それこそが、
現代日本でも一九九五年に
科学技術基本法が制定され、それに基づいて
基本計画が、第一次がちょうど済みかけているところは御
案内のとおりでございますし、新しい五カ年の
基本計画が今まさに成立しようとしておりますけれども、そういうふうに、外交や
産業育成やその他医療や
教育やといったようなことと並んで、
科学技術が
国家政策の
一つとしての重要な柱になってきた
理由でもございます。
ここまでが過去の分析でございまして、そこから将来の
日本の
社会がどうあるべきかということに私なりの多少の見解を述べさせていただくことになるわけですけれども、まず
一つの問題は、
現代の
教育の中でいわば
文系と
理系という
二つの非常に明確な分離が
高校のレベルから既に起こっていることに対して、私はやはりこれを将来は改めなければならないのではないかというふうに考えている次第です。
なぜそうなのか。
二つの
理由があります。
一つは、
文系という
考え方、
理系という
考え方の中には、特に、またこれは一九九一年のいわゆる
大学の
教養課程の
大綱化と呼ばれている現象とも絡みますけれども、
大学においても
自然科学や
工学について全く目を開かれることもなく、
知識を提供されることもなく、
高校から
大学を卒業して
社会に巣立っていくことができるような
文系という
チャンネルができてしまっております。
一方、
理系の
人たちは、やはり
高校から
大学を通じて、
人間がどういう
存在であるか、
社会はどういう
仕組みになっているか、
社会において
人間が生きるということはどういうことなのか、死ぬということはどういうことなのかというようなことについて目を開かれることもなく、場合によっては、
差しさわりがあったらごめんなさいですが、
医学部へ行く
学生たちでも全くそういうことに目を開かれることなく、ひたすら数学や
物理学の点数が常に高いという、いわゆる
偏差値によって輪切りにされていて、その高い
偏差値を持った
生徒たちが
大学の
医学部へ送り込まれてくるというわけです。
しかし、既に申し上げたことの中でおわかりのように、
理学系、
工学系の
学問というものが、かつてのように
自分たちの、
工学系は
内向きではありませんでしたけれども、少なくとも
理学系に関して言えば、
理学系という
学問が
内向きであった時代は、いわば
社会は、あたかもオペラや芝居やバレエをやっている
人たちを、あそこにはそれを
自分たちでおもしろがっている
人たちがいる、しかしそれも
人間活動の
一つであり、
人間活動の幅を広げ、深さを増していくための
活動の
一つだ、では
社会はそれをそれなりに支援してあげようではないかという態度で支援をしていたのと、あるいは支援をしているのとほとんど同じ姿勢で
科学研究に対して支援をしていれば、それである
意味では済んでいたわけですね。
ところが、
現代社会はもはや、
先ほどから申し上げているように、
国家ないしは
社会のさまざまな
使命にこたえる形で
科学研究が
組織化されている部分も非常に多くなっているという現状の中では、
理工系の
学生といえども、
自分たちの
研究の内容が
社会に対してどういうふうに影響を与え、
人間の生きること、死ぬことの中にどんなふうに
自分たちの
研究成果が影響を与えるかということについてもきちんとした把握ができるだけの基礎的な見識を持っていなければならない。
一方、人
文系の、非
理工系と言われる形で
社会に
存在している
人たちも、
自分たちの生きていること、そして
社会活動をしていくこと、そして場合によっては死ぬこと、その
一つ一つの側面に
科学や
技術の
研究の
成果がそのままあらわれてきていて、
自分たちがまさに例えば子供を授かったというときに、この子供をどういうふうに産むかというようなことについても、現在では御
承知のとおり出生前診断とか、あるいは場合によってはもっと前に、授かる前に既に、IVF、体外受精によって得られた場合には着床前診断までできるという可能性が生まれてまいります。そうすると、生まれることから始まって、臓器移植なら臓器移植で死ぬ後まで、自分の生きていくということがそのまま現在のさまざまな
研究の
成果によって左右され、あるいはみずから自分がそれに向かって判断しなければならないということもしばしば起こってくる。
そういう中で、
理学系についての大まかな把握のできるような基礎的な力というものをどうしても非
理工系のキャリアを歩む
人たちにも持ってもらわなければならない。そうでないとこれからの
社会に生きていくことができないという状況がまさしく生まれているということを、ぜひ、これからの
教育改革などの
場面でも実現していくために私
たちは
努力をしなければならないのではないかということを、ポイントとしては申し上げたいと思います。
それから、もう
一つは、そういう
科学技術の
成果が、御
承知のとおり、情報
社会というものを
現代社会の中につくり出しておりますけれども、その情報
社会ということについても時々誤解があるように思います。情報
社会における情報
技術の
社会化というのは何のためかということをぜひお考えいただきたいというのが、私の将来の
社会に対する念願の
一つでございます。それは、
社会の構成員のメンバーの一人一人がみずからの意思と判断によって行動することができる、そして、そのみずからの意思と判断に基づいて行動することが
社会をつくり上げていくことにそのまま参画できるような、そういう
社会を私は将来の
社会として描きたいというふうに、これは個人的な思いでございますが持っております。
そして、そこで情報が大事なのは、そういうことを目指す個人にとって、みずからの意思と判断をつくり上げるために必要な情報をいつでもどこでも手に入れることのできるような状況を
社会がきちんと、もちろん
自分たちでもつくり上げるわけですが、用意されている、あるいはそういう用意に対して周到であるような
社会、それが本当の
意味での情報
社会だというふうに考えます。
その点で、私
たちにはまださまざまな障害が残っております。これもいろいろな
場面で、法律的な
場面も含めまして、現在いろいろ御検討中と承ってはおりますし、緩和の方向で施策が進められているとこれは確かに聞いておりますけれども、例えば医療機関の内部の情報、例えばそのメンバーの治療実績だとかさまざまなことに関しては、現在では広告規制や医師会の自主規制などによってなかなかそれが実現しない。
しかし、医療消費者の
立場からすれば、そういった情報に関して、きちんと情報
技術を駆使すれば常に手に入るというような状況。あるいは、例えば、安全を目指してさまざまな
研究活動が行われていますが、交通事故に関する細かい情報というのは、警察がプライバシーをポイントにしてなかなか公開されないという状況。こうした状況に関しては、少しずつ開いていくことが必要であるように思います。そして、それこそが、私
たちが現在の
科学技術の
成果として享受している情報
技術の
社会の中での役割を果たすために、それが活用できるという状況ではないかということが
一つ申し上げておきたいポイントです。
それから、もう
一つのポイントとしては、現在のライフサイエンスの進展ということに伴って起こっておりますことが、これも未来の
日本の
社会をつくり上げていくために非常に重要なことではないかというふうに思います。
そこに、最も生命の問題について厳しいと言われている現在のドイツの基本法を引いておきましたけれども、
人間の尊厳というのは手を触れることができないものであるという文言の重さというのが、現在のドイツ
社会にとってある
意味では非常に難しい問題をいろいろと提起していることは、これも御
案内のとおりでございます。しかし、こうした
人間の尊厳というものの持つ
意味合いをいわば
一つの
国家の理念として掲げるということは、私は、何らかの形で、これは基本的人権よりも前にあってしかるべきものではなかろうかというふうに考えております。
実は、
レジュメに戻りますけれども、最後にもう
一言だけ申し上げておきたいことがございます。
それは、既に申し上げましたとおり、現在の
科学研究というのが二通りの
タイプが混在しております。
一つは、
先ほどから申し上げておりますような
意味で古い
タイプの、十九
世紀に
ヨーロッパに
科学が誕生したとき以来の、あるいはそのプレヒストリー、前史としての
ヨーロッパの伝統の中に培われてきた知に対する
喜びというもの、これを中心に置いた
科学研究の姿と、それからもう
一つは、
先ほど申し上げました
バネバー・
ブッシュ以来の、つまり今
世紀後半の五十年に非常に顕著に見られるような、
社会、
国家が
使命をいわば
科学研究に請け負わせるというような
タイプの
研究。これはやはり
二つきちんと
区別すべきではなかろうかというのが、私の最後に申し上げたいポイントです。
これからの二十一
世紀の
日本の中で、そこをきちんと
区別して、しかも両方に対して十分な配慮をするということを我々は目指していかなければならないのではないか。
最初に申し上げましたような
日本の
近代の伝統の中で、
工学ないし
技術に対する配慮というのは極めて厚かったし、その点では、
欧米先進国と言われている諸国もまた、むしろ
日本をうらやんでいる状況でございます。
しかし一方で、第一の
タイプの
科学に対して、しかも、現在では
科学技術基本法に始まり、
国家が
使命を負託して
研究者が請け負っていくという
タイプの
研究については大変にぎわっておりまして、これはこれでまことに結構なことであります。それは、
国家としての存亡をかけて、国際競争的な
場面の中で
国家を繁栄に導くための
一つの施策として、それはそれなりにもちろん必要なことでありまして、私はそれを非難するつもりは全くありません。むしろ、それに賛同し、その状況を好ましいものと考えている
人間であります。
しかし、そのことに紛れて、いわば第一の
タイプの
研究がさらに
日本ではどちらかといえば陰になっていく。なかなかひなたには出られない。
私が親しくしていただいております、現在滋賀県立
大学の学長をしていらっしゃいます日高敏隆さんという方がいらっしゃいます。日高さんがいつもおっしゃることは、自分は若いころに、チョウチョウはどういうふうに飛ぶのかという
研究をしていた。あるときそのことを話したらば、聴衆の中からある方が立って、たしか日高さんはそのころ農工大に勤めておられたと思いますが、あなたは国立
大学の先生でしょう、国立
大学の先生がチョウチョウが飛ぶなんていう愚にもつかないことをやっていてよく恥ずかしくないですねと言われたとおっしゃいます。その風土ですね。
日高さんのその
お話には、実は後半がございまして、最近になっていろいろな地方自治体が、
自分たちの町はチョウチョウの飛ぶ町であるというようなことを惹句にして人々を引きつけようとする。そうすると、都市設計者は町の真ん中に十二カ月花を絶やさないような花壇をつくって、さあこれでチョウチョウが飛んできますよとおっしゃる。だけれども、かつて三十年前の私の
研究、日高さんの
研究ですが、私の
研究によれば、それだけではチョウチョウは飛んできませんよと。幼虫の育つ里山からちゃんとグリーンベルトを花壇まで引っ張って、日高さんの
研究によると、百メートルのオープンスペースを飛び越すことが通常のチョウチョウはできないんだそうですね。ですから、そのために、チョウチョウが生まれた里山から花壇まで飛んでくることができるような道をちゃんと何本か用意してあげないとだめなんですよ。ほら、やっぱり役に立つこともあるでしょう。こうおっしゃるわけです。
役に立つことがあったことは、これは皮肉ではなくて、本当におめでたいことだと思いますけれども、それが三十年後であろうが百年後であろうが、あるいはもしかして
社会的にそういう
意味では直接的な役に立たなかったとしても、なお私
たちには、知る
喜びというものが実は
人間には備わっているんだということをどこかで基本的にしっかりと認めておくこと。
最後に、ゲーテの
言葉を引かせていただきますが、ゲーテにこういう
言葉がございます。考えようとする
人間にとっての至福の
喜び、最高の
喜びは、理解できるものを理解できたときの
喜びであり、かつ、どうしても理解できないものの前にこうべを垂れて静かにひざまずくことの
喜びであるという有名なゲーテの
言葉があります。
私
たちは、
科学研究というものは二通りあるということをぜひ理解し、そしてその両方、もう一方がいかに直接的には
社会の役に立たないように見えても、
人間が知ろうとする
喜び、知ろうとすること、自然の前に神秘の扉を敬けんに開いていくときの
喜びというものをたっとびたい。そういう
社会、そのこと自体を極めて大事な価値として大切にしていく
社会をぜひ二十一
世紀につくり上げていきたい。そのことは決して
科学技術基本法の理念にもとることではないと確信しております。
ちょうど五十分になりましたので、私の話を終わらせていただきます。ありがとうございました。(拍手)