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2000-11-09 第150回国会 衆議院 憲法調査会 第4号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成十二年十一月九日(木曜日)     午前九時二分開議  出席委員    会長 中山 太郎君    幹事 石川 要三君 幹事 高市 早苗君    幹事 中川 昭一君 幹事 葉梨 信行君    幹事 鹿野 道彦君 幹事 島   聡君    幹事 仙谷 由人君 幹事 赤松 正雄君    幹事 塩田  晋君       岩崎 忠夫君    奥野 誠亮君       木村 太郎君    久間 章生君       新藤 義孝君    田中眞紀子君       中曽根康弘君    中山 正暉君       額賀福志郎君    根本  匠君       鳩山 邦夫君    平沢 勝栄君       保利 耕輔君    三塚  博君       水野 賢一君    村井  仁君       森山 眞弓君    柳澤 伯夫君       山崎  拓君    吉野 正芳君       五十嵐文彦君    石毛えい子君       枝野 幸男君    大出  彰君       今野  東君    中野 寛成君       藤村  修君    細野 豪志君       前原 誠司君    牧野 聖修君       山花 郁夫君    横路 孝弘君       太田 昭宏君    斉藤 鉄夫君       武山百合子君    藤島 正之君       塩川 鉄也君    春名 直章君       山口 富男君    金子 哲夫君       辻元 清美君    土井たか子君       日森 文尋君    横光 克彦君       近藤 基彦君    井上 喜一君       松浪健四郎君     …………………………………    参考人    (東京大学教授)     佐々木 毅君    参考人    (南山大学教授法学博士    )            小林  武君    衆議院憲法調査会事務局長 坂本 一洋君     ————————————— 委員の異動 十一月八日  辞任   藤島 正之君 同日             補欠選任              村井  仁君 同月九日  辞任         補欠選任   杉浦 正健君     吉野 正芳君   宮下 創平君     岩崎 忠夫君   山花 郁夫君     今野  東君   武山百合子君     藤島 正之君   山口 富男君     塩川 鉄也君   辻元 清美君     金子 哲夫君   土井たか子君     日森 文尋君   野田  毅君     井上 喜一君 同日  辞任         補欠選任   岩崎 忠夫君     宮下 創平君   吉野 正芳君     木村 太郎君   今野  東君     山花 郁夫君   藤島 正之君     武山百合子君   塩川 鉄也君     山口 富男君   金子 哲夫君     辻元 清美君   日森 文尋君     横光 克彦君   井上 喜一君     松浪健四郎君 同日  辞任         補欠選任   木村 太郎君     杉浦 正健君   横光 克彦君     土井たか子君   松浪健四郎君     野田  毅君     ————————————— 本日の会議に付した案件  日本国憲法に関する件(二十一世紀日本のあるべき姿)     午前九時二分開議      ————◇—————
  2. 中山太郎

    中山会長 これより会議を開きます。  この際、御報告いたします。  お手元に配付したとおり、去る九月二十八日に御報告いたしました欧州各国憲法調査議員団報告書が完成いたしました。調査活動参考となれば幸いでございます。  また、憲法調査会では、国民各層に対する広報活動の一環として、今国会から、本調査会活動状況をお知らせするため、「衆議院憲法調査会ニュース」を発行いたしております。念のため、御報告申し上げます。  なお、国立国会図書館調査をさせておりました世界各国における憲法裁判所の所在がいかなるものか、その状況についての報告書が参りましたので、午後の会議の際に配付させていただくことをけさ幹事会で決定させていただきましたので、御了承願いたいと思います。  日本国憲法に関する件、特に二十一世紀日本のあるべき姿について調査を進めます。  本日、午前の参考人として東京大学教授佐々木毅君に御出席をいただいております。  この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多用中にもかかわらず御出席を賜りまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見を賜り、調査参考にさせていただきたいと思います。  次に、議事の順序について申し上げます。  最初に参考人の方から御意見を一時間以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと思います。  なお、御発言の場合はその都度会長の許可を得ることになっております。また、参考人委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御了承を願います。  御発言は着席のままでお願いいたします。  それでは、佐々木参考人、お願いいたします。
  3. 佐々木毅

    佐々木参考人 佐々木でございます。よろしくお願いいたします。  本日は、本調査会におきまして発言の機会を与えられましたことを、まことに光栄であると存じているところでございます。本日、私は、二十一世紀日本政治展望に即して憲法をめぐる諸課題についてお話をすることにいたしたいと思いますが、何分にも先生方政治専門家でいらっしゃいますので、私の申し上げるべきことがそんなにたくさんあるのかどうか、非常にじくじたる思いできょうは参りました。  本日の私の発題中心は、政治をめぐる仕組みの問題とさせていただきたいと思いまして、いわゆる政策にかかわるような事柄について言及するつもりはございません。二十世紀の終わりに当たりまして、これまでやり残したことといったことを確認した上で、来るべき世紀における日本政治仕組みをめぐる論点としてどのようなものが登場し得るのか、それらが憲法とどのように関連し得るのかについて、大変微力ではございますけれども、所見を述べさせていただきたいと思うわけでございます。  大変簡単なレジュメしかお手元にお渡しすることができず、恐縮でございますが、この順番に従ってお話をさせていただきたいと思います。  まず「一、「政治主導」の始動〜官主導世紀との決別〜」ということでございます。  くしくも二十一世紀の劈頭に当たりまして、日本政治政治主導体制というものを文字どおり本格的に始動させることになりました。これは、十年余り前に始まりました政治改革のいわば最終的目的地とでもいうべきものであると私は考えております。  この間のさまざまな諸改革の中で、政治改革が先行したということは、これまでの仕組み有効性が大なり小なり失われたという認識に基づき、政治が変わらない限りほかのものを変えることには限界があるという判断に基づくものであったと存じます。  これらの諸改革が戦後かつてなかったほどの制度法律の大幅な見直しを求める以上、政治の責任はこの間ますます大きくなったことは言うまでもございません。政治は、眼前の利害調整だけに専念しているわけにはいかなくなりまして、広い意味での構造的な諸問題にもかかわらざるを得なくなったわけであります。これを表現するのが、一般に言われるところの官主導から政治主導へというキャッチフレーズだと思っております。  ある意味で、官主導体制と言われるものが構造的な諸問題のいわば根幹であるという認識ができるわけでありまして、したがいまして、それに依存するのではなくて、国民の負託を受けてそのあり方改革するということが政治課題になってきたわけであります。その意味で、今日本政治は、これまでのいろいろな政治改革努力を踏まえて、新しいステップを踏み出そうとしているというふうに私は認識しております。  通常、政治改革といえば政治と金の問題だという認識がまだ世間には広くございます。これはいわば政治をめぐる永遠のテーマだろうと私は思っておりますが、しかし、歴史的な展望を踏まえてこの官主導から政治主導へというテーマを考えてみますと、政治に問われておりますのは、端的に申しまして、政策中心とした統治能力であろうというふうに考えます。そして、政治主導がこれを提供できるかどうか、これが焦眉の急であるというわけでございます。  そうした政策面中心とした統治能力現実化すべく、いろいろな制度改正がこの間行われてまいりました。国会における政府委員の廃止や副大臣政務官制度官邸機能の強化などがあるわけでございますが、同時に、いよいよ現在の段階になりますと、政治主導の内実というものが一体いかなるものであるかということがむしろ問題になる段階に入ったかと思っております。したがって、制度の枠をつくるという仕事を終えて、そこにどのような中身を盛るのかということが国民の主たる関心事になってきておるわけであります。  問題は、この政治主導内容について国会議員方々がどのようなイメージをお持ちになっているのかということが、その意味で次の関心事になるわけでございます。  この点はなお、必ずしもはっきりいたしません。あるいはいろいろな意見があってもよろしいかとは思うんですけれども、しかし、事柄自体極めて重要でありますので、こうしたことについて政党政治の側で意見の集約をお進めいただくことはどうしても必要なことではないかと思います。  私の意見を申し上げますと、例えば政治主導というものを、官僚にかわって政治家が答弁したり、官僚にかわって政策のイニシアチブをとることだといった形で理解するのは、一見もっともではございますけれども、不十分であるという認識を持っております。  官主導体制の一番の問題点は、官僚制というものが、仕切られた権限を前提にして活動せざるを得ない点にあると思います。そして、このことを是正する手段を官僚制は持っていないことが一番の究極的な問題だと思います。これは個々のお役人の善意や悪意とは必ずしも関係のない事態でございまして、そういう制度的な制約のもとで官僚制というものは動いているということでございます。したがいまして、こうした仕組みから必然的に割拠性とか縦割りといった弊害が出てくるのは必至のことでございまして、まさにこのことにどう向かい合うかということが、政治主導をぎりぎり詰めていったときに出てくる非常に重要なポイントになるかと思います。  仮に、政治の側がお役所と同じように縦割り化し、それをいわば同じような形で縦割り的に応援するというようなことになりますと、これは官主導を再生産していることとどこが違うのかという話に少なくとも効果の面ではなってしまうわけであります。その意味で、政治主導は、この点をぎりぎり詰めていきますと、政策面での体系性、つまり縦割り性に対して体系性と、それからばらばらなものを計画づけるあるいは優先順位をつけるという意味での計画性を可能な限り実現し、それを通して政治戦略性とでもいうべきものを高めることに帰着するのではないかというふうに私は考えるわけでございます。  もちろん、この体系性とか計画性というのは決してイデオロギー的なものを必ずしも意味するわけではございません。それぞれの具体的な状況の中で何をどのような手順でやっていくのかということについて整理をする作業というのは、統治においては基本的に重要な役割でございまして、残念ながら行政官庁は、自分たちの所管について意見を申し述べることは一生懸命でありますけれども、それを彼らがお互いに調整するということになりますと、結局割拠的な形でしか調整することができないという当たり前のこと、これをどう政治の力で、政治能力でもって乗り越えていくかということが一つの究極的なポイントになるかと思います。  そして、今回の政治主導制度的プランを拝見いたしますと、これは内閣という公式制度中心にこうした政治戦略性あるいは政治主導戦略性を実現することを目的にするものであるというふうに理解されるところでございます。  こうした構想の実現に向かって新世紀政治が敢然と挑戦することは、私にとりましてまことに喜びにたえないところでございますが、そのために克服すべき課題もたくさんあると思います。しかし、これらのほとんどの課題憲法問題でもなければ法律問題でも必ずしもなく、ほとんどが政治的な慣習慣行の問題であると考えられるわけです。つまり、その意味で、政治家方々自身の問題、処理できる問題であるというふうに言っていいと思います。  例えば、政策面での内閣と与党の二元的な運営方式をどのように一元化するのか、大臣任期に代表されるような人事の頻繁な交代で政治戦略性は実現できるであろうかといった素朴な疑問は、国民が広く抱いているところでございます。多くの政治学者が言っておりますように、大臣の数を多く生産することと内閣統治能力とはトレードオフの関係にあるというようなことがあるわけでございますが、そういったような事柄があることは否定できないわけであります。  また、このトップリーダー任期政策あり方とは決して無関係ではないのでありまして、人事慣行政策内容に非常に悪い影響を及ぼすというようなことが起こるならば、これは改めていく必要があると思われます。  また、政治主導行政中立性とのバランスを現実にどのように担保していくのかについても、新たなルールづくりが求められていると思われます。今国会で御議論になっていると聞いておりますいわゆるあっせん利得をめぐる新しい法制度の整備はそういう役割を果たし得るかと思いますけれども、実はもっと問題は大きいのではないかと私は考えております。  また、政策面における政治統治能力を高めることを目標とする以上、その担い手となる人材資源を常にキープし、あるいはそのために必要な努力を日常的に積み重ねていく必要があることは言うまでもございません。  これらいろいろ課題をあえて述べさせていただきましたが、それはどういう趣旨を持つかといいますと、政治主導に取り組む際に非常に大きな緊張感を持って取り組んでいただきたいと考えるわけでございます。そして、先ほど申しました政治的慣行慣習を変えるというのは、ある意味では法律を変えるよりも難しいという面があるわけでございますが、一歩ずつでも見直し努力を着実に進めるということ、あるいは諸政党の間で、政治主導あり方についてこれ自身を競争のいわばテーマにしていくということなど、いろいろ工夫のしようがあるのかなというふうに愚考しているところでございます。  そして、今回始まります政治主導の結果は、基本的に日本議会制の将来にとって重大な意味を持つと考えられます。もしそれが、いろいろな政治主導についての国民の期待があるわけでございますが、それにかなり合致しないというようなことが起こる、あるいは当初期待したのと、むしろもっと悪い事態が起こるというようなことが判明いたしますと、日本議会制そのもの統治能力に陰りが生ずるということにもなり得るからでございます。  実際、昨今のいろいろな情勢を勘案いたしますと、二十世紀の後半につくられたいろいろな政治やり方というものはだんだん有効性を失い始めているやに見えるわけでございまして、現に政党からの有権者の離脱状況、あるいはそういう意味政党不信の広がりは、議会制の将来にとって極めて憂慮すべき事態であろうと思います。  その意味で、この政治主導体制の構築は新しく議会制を創造するというような意気込みを前提としたものであるべきでありまして、これまでの議会制実態議会制そのものを、言葉はちょっと適切じゃないかもしれませんけれども、いわば心中させるようなことがあってはならないと私自身は考えております。  以下の私の議論は、こういう意味での政治主導が近い将来に迫りくる財政問題や高齢社会問題に取り組んでしかるべき形で成果を上げ、政党政治に対する国民の信頼が定着するということを前提とした話でございます。もしこの前提が崩れますと、残念ながらいろいろなシナリオの書きかえを求められることになるおそれがあるわけでございます。  そこで、二番目として、「「政治主導」と憲法政治」ということについてお話しさせていただきます。  政治主導というものの一つ成熟形態は、憲法問題を国民意向を踏まえながら冷静に取り扱うことができる段階に到達したときに、成熟したというふうな言い方ができるかとも思います。そして、これまでの二十世紀日本政治はこうした形で憲法問題を取り扱うことが必ずしもできなかったというのが、一つの歴史的な総括であろうかと思います。  個別の条項についていろいろ議論するに先立ちまして政党政治が主体的に判断しなければならないのは、政党政治がこうした大問題を扱うのに十分な強さと自信を備えているかどうかという点について判断することであると思います。それゆえ、私は、政治主導による実績が一定程度上げられた段階前提にして、この重大な憲法にかかわる問題に踏み出すのが上策、それができればの話でございますが、特にこれはタイミングの問題でありますが、上策であるというふうに考えるわけでございます。  もちろん、同時に力説しなければいけないのは、憲法にかかわる問題がすべて国民生活にとって直接重大な影響を及ぼすものでないことも事実でございます。例えば国会にかかわるいろいろな条項について改正発議するということは、必ずしもこれは国民にとって直接的に重大な影響を及ぼすとは限らない問題でございます。ですから、このような問題から順次憲法問題に取り組むというやり方も考えられると思います。  ですから、端的に申し上げれば、国会仕組みというあたりをまず一つ目標にしてお考えになるということは、取り組み方の手順としてはそれなりの合理性を備えているのではないだろうかというわけでございます。この点については、また後で少し述べさせていただきたいと思います。  ただし、この改正手続をめぐる問題ということに即して申しますと、特に国会発議がほとんどないということ、あるいは発議があることが考えられないということ、これは実態の問題と同時に心理的な問題がそこにあるかと思いますが、結果として、日本国憲法は一種の不磨の大典のようになってしまう。このことをどう考えたらいいだろうかということでございまして、九十六条、特に国会発議条件についてどのように政治的な判断を下すかということが非常に重要でございます。九十六条問題、特に国会発議の要件をどうするか、これ自身憲法問題でありますけれども、これはもう高度に政治問題だろうというふうに思われます。  したがって、発議が事実上できないようにしていく、あるいはできないと当事者が観念するようにしておくということは、政党政治にとって、さらには国民政治関係においてどのような意味を持つのか、これをぜひ御議論をお願いしたいと思いますし、以下、私なりの所感を申し上げるつもりでございます。  最近の世論調査の動向を見る限り、国民は、もし国会改正発議をするならばそれを受けとめる用意があるという傾向を強めつつあるようでございます。その意味で、絶対的な改正反対論はだんだん少なくなってきております。世論は、二十一世紀の社会的必要に応じて憲法見直し、それを一定程度つくりかえていく、あるいは少なくともつくりかえていくことを考える意向を示し始めているように察せられるわけであります。特に、若い世代にはそうした傾向はかなり顕著でありますが、同時に、若い世代はほとんど関心がないのにそういう傾向だけは顕著であるということは、なかなか難しい問題でございます。  同時に、先生方お気づきのように、見直しを求める論点なるものは非常に多岐にわたるようになってまいりました。私の世代などに特徴的な第九条一辺倒の憲法改正の時代と大分様子が変わってきているようでございます。特に注目されるのは、政治仕組み改革を求める主張が非常に顕在化しているということでございます。こうした動きをどう受けとめたらいいのか。問題が政治そのもの仕組みだということになりますと、この受けとめ方がまた一段と難しいものがあるというふうに考えます。  こうした政治仕組みを変えたいというような議論が出てきたときに、とにかく発議はできないんだという手続論実質論を抑え込み続けるということが果たしてどこまでできるのか。これは問題が問題であるだけに、従来とは違った観点から考える必要があろうかと思います。  逆に申しますと、国民憲法国民憲法をめぐるいろいろな意見政治動きとの間のギャップが余りにも甚だしくなりますと、憲法改正という問題が現実化したときには憲法そのものが限りなく空洞化しているということも起こり得るわけでございまして、この点、私は政治学者の一人としても非常に注目している点でございます。国民との関係一つございます。  もう一つは、政治あり方として、憲法改正発議の問題は政治の場で事実上処理できない問題であるという状況をつくることが、政治にとっていいかどうかという問題があろうかと思います。  もちろん、いろいろなケースが考えられるわけでありますが、仮に、国会国民生活にいろいろな意味影響を及ぼす問題で憲法改正発議することがそれほど難しくないという状況を仮定したとします。どういうことが起こるかといいますと、その場合、変えるということについて、いろいろな意味で、できるということがあるために、むしろ慎重かつ十分な決意を固めなければこうした問題に踏み込むことは逆に難しくなるということが考えられるわけであります。つまり、政治的なリスクや覚悟というものがその分求められるという、一見逆説的ではありますけれども、そういう面を、私は日本のこれまでの政治を見ていまして逆に感ずるところでございます。  ですから、憲法の問題について、各政党は、実際に動かし得る、発議し得るんだという条件が出てくれば出てくるほどある意味では慎重にならざるを得ない、あるいは真剣、あるいは緊張感を持ってこれに対応せざるを得なくなると思われますし、政党の間のみならず、政党内におきましても、この問題をめぐって緊張感は非常に高まることが予想されるわけでございます。つまり、変えるとか変えないとかについて、どういう態度を本当にとっているのか、あいまいな態度をとる余地がかえって少なくなるということが考えられるわけであります。  その意味で、これまでの政治史を振り返ってみますと、戦後の一時期を除きますと、政党政治憲法に対する態度賛否両論、いろいろ改正問題について態度の違いはございましたけれども、こういった今すぐ動くかもしれないといったような緊張感とはかなり違ったものではなかったかなというふうに思うわけであります。  改正発議現実的可能性がほとんどないところで、あるいはないという前提のもとで憲法論議を繰り返しているという事態は一体いかなる意味を持つのか。あるいは、ひょっとするとマイナス効果も出てこないとも限らない、そういう問題を含んでいるように思いますし、私自身認識で言いますと、政治全体のよどみというものがその分長続きするということにもなるという言い方もできるかもしれません。いずれにせよ、問題がなかなか整理できない、やるならやる、やらないならやらない、この整理ができないという事態をつくってきた可能性もあるわけであります。  したがって、政治憲法との間によい意味での緊張感を回復するためには、改正発議条件を今よりも緩和するという問題が一つ考えられるんだ、これは一考に値するテーマだろうというふうに考えております。ただし、もしそういうことを考えれば、直ちに続々と改憲の提案がなされるのではないかという危惧が述べられることは私も容易に想像するところでございますが、逆に、できるようになるということは、それだけの決意と覚悟なしにはできないということでございましょうから、そう事態は単純ではないように思われるわけであります。  また、誤解のないように申し述べますと、国民投票というものがその後に控えておりまして、そこでどのような要件を課するかということについては、これは発議条件と別にまた議論をする余地があるのかなというふうに思います。  結論的に申しますと、二十一世紀日本政治憲法改正発議に一切かかわりなしにその役割を十分に果たし得るかどうか、これについては、決定的なことは申し上げられませんけれども、私はかなり疑問ではないかというふうに思っております。これはいろいろなケースについて考えられます。もし現行の発議条件でも十分にそういうことができるんだということであれば、国民の間で比較的論争性が少ない条項についてそれを実行して、今の手続でもできるということを示す努力が真摯に続けられる必要があるわけでございまして、そういうことがないと、発議条件の問題を今のまま維持していくということについてはなかなか難しい問題が出てくるのではないかというふうに愚考しているところでございます。  それから、次に三番のところでございます。これはいろいろ細かい問題がございますが、「政治及び政治制度をめぐる諸問題」ということで、やや個別的な論点について、必ずしも包括的ではございませんけれども、幾つかの点について申し上げたいと思います。  一が、政党の位置づけでございます。  これは、政党憲法に位置づけ、その役割と責任を明確にするという提案でございます。政党が、憲法に具体的な定めがないにもかかわらず、公的な政策及び人事面で実に巨大な影響力を行使しております。この点で政党は、官僚制と並んで、憲法に明確な規定のない最大の権力集団であるというふうに考えられるわけであります。もちろん、近年は政党交付金を支給されるというようなことを通して公的な存在として法律的に位置づけられるようになりましたが、いずれにせよ、この政党という存在をプライベートな結社として法的に放置しておくことは非常に大きな問題をはらむ、あるいは少なくともわかりにくいことになるのではないかというふうに思います。  ここでの私の意図は、憲法政党について細かな規定を置くことが趣旨ではございません。その眼目は、政党が民主政治国民主権の実現のための一種の公器としての性格を有する、したがってそれにふさわしい開放性と公開性を持たなければならないことを記せば足りるというふうに考えます。それを受けまして、細目は例えば政党法というような形でいろいろなことを規定する余地も出てくるかと思いますが、いずれにいたしましても、日本政治における非常に大事な役割を果たす主体について何も規定を置かないでいいというのは、国民的に見て理解しがたいことになっているのではないだろうかというふうに思います。  それはまた、政党というものに対する不信感を払拭する上でも、基本的に、それに正面から応答する上でも大事な対応措置ではないのか。そして、国政や権力の担い手として政党がいかに実質を十分備えているかということを国民判断する材料を政党側で提供していく、こういう関係をきっちりつくることが政党の安定性を、国民の間に政党に対する信頼感を醸成するという意味で大事でありますし、なかんずく、議会制政党なしには動かないのでありまして、議会制を維持し守っていくということであるならば、それだけ政党については国民の信頼を得るような措置を憲法も含めてお考えになるのが一つあり方ではないだろうかというふうに私は考えております。  以上が、細かく言うといろいろありますけれども、aの問題でございます。  bの問題に移らせていただきます。  これもいろいろ議論はあろうかと思いますけれども、私は憲法学者ではございませんので、必ずしも網羅的なことを申し上げる用意はございませんが、例えば国会について憲法にかかわる問題がいろいろあり得るということは、例えば参議院の将来を考える懇談会といったものが意見書を出しておりますが、その中でもそういう論点が多数触れられているわけでございます。その中でも言われておるわけですが、国会の運営にかかわる会期不継続の原則といったようなものは廃止ないしは大幅に見直すべきでないかという提案がなされております。  もちろんこれは、これだけを取り上げるというわけにはいかないものだと私は思っておりますし、例えば法案の逐条審議や読会制を入れるというようなこととセットでこの問題を考える、これはある種やはり憲法問題だろうと思っております。いずれにしても、国会の運営について、二十世紀にいろいろな工夫をしてきたわけでございますけれども、やはり大枠で見直さなければならない問題が残ったのではないだろうかということの一つの例でございます。  私は、国民国会審議の実質的な充実を切望しているわけでありまして、与野党間の審議なき取引といったものに関心を持つ国民はほとんどいなくなっているのではないだろうかというふうに思います。なかんずく、国会は立法権を持っているというふうに言われておりますが、本当の意味法律の条文について審議しているのかどうかということに国民は疑いの目を持っている。あるいは、端的に申しますと、本当に予算案について審議しているのかということがわからない予算委員会がある。この辺の従来の慣行というものをやはりきっちり、余りにも乱れたものについては原則を再確認するということが新世紀に向かってなされるべきことである。  一定の範囲で憲法にかかわる見直しが必要であれば、この点について見直すことは国民はほとんど反対しないだろう。国会が年じゅう開催され、国会議員先生方が今よりもたくさん働くようになるということに反対する国民はだれもいないだろうというふうに私も思っているところでございまして、会期の問題というあたりについて、いろいろな意見を申し述べることができるのではないかというふうに思います。  二番目の問題は、国会は二院、両院から成るということになっていますが、この国会の性格そのものが非常にわかりにくいという問題があります。  国会というのは、一つのまとまった一体として扱われるというように見えて、その中に実は非常に複雑なものが入り込んでいるのではないか。議会制の基本問題が二院制の問題であることは先生方既に御存じのところでございまして、いわゆる日本の二院制とは何であるのかということについて、私自身、考えれば考えるほどわからなくなってきているというのが現状でございます。  特に、参議院をめぐってはこれまでもいろいろな議論がございました。一院制でいくべきだという声は国民の中で決して小さくないやに見えるわけでございますが、しかし、そう簡単に一足飛びにいくというのは、かなり乱暴な議論だろうと思います。幾つかの段階を経て議論すべき論点がそれぞれあるのではないかというのが私の認識でございます。  例えば、衆議院と内閣との関係は、これは議会制の原則に従ってつくられていることは間違いございません。ところが、参議院と内閣関係というのは非常に奇妙でございます。御案内のように、内閣不信任案というものはない、そういう決議権はない。そして同時に、参議院を解散することはもちろんできない。  これは、イメージとして言うと、大統領制下における議会と政府との関係にかなり近い面があるように見えるわけでございますが、それにもかかわらず、参議院は総理大臣の指名に加わるということをやっているわけです。アメリカの議会が大統領の指名に加わることはないように、そういうことはまず基本的にどういうことなのかなという疑問が出てまいります。しかも、参議院議員は、衆議院議員と同様に政府の大臣、首相にもなり得るわけでございますが、そのまま就任できるというような仕組みになっております。  つまり、参議院の問題というのは、この場で議論するのは適切かどうかわかりませんけれども、大統領制的な骨格の上に議会制的な論理が上乗せされているように私には見えるわけでございます。そうして、衆議院と参議院であわせて国会であると言われたときに、一体それは何なのかなということはなかなか整理が難しい。恐らくそういうところで先生方も御苦労されているのではないかなというわけでございます。参議院は、大統領制下の議会が持っております独立性を持っている。のみならず、議会制下の議会の持っている政権構築、政権参加の権限も持っているということでございます。これを一体どう整理したらいいんだろうか。  参議院の独自性をめぐる議論はいろいろございますが、既に独自性はその中にたっぷり入っているのではないかというのが私の意見でございまして、問題は、そこに切り込んできっちり整理するかどうかということに焦点があるわけでございます。その意味でいえば、参議院は良識の府、衆議院は何の府なのか、これはなかなか難しいところでありますけれども、権力をつくり、権力を運用する府ということになるかと思いますけれども、そういう議論のレベルではないんじゃないかなというふうに私自身は考えているところでございます。  その意味で、まず国会整理、特に憲法を見ますと、国会議員はという書き方になっているんですけれども、どうもこの制度のつくり方からすると、やはり衆議院議員と参議院議員は相当違うという形で考えることもできるんではないか。そうしますと、膨大な条項をそれに絡んで整理しなければいけないという話になるのかもしれません。そのことは、逆を申しますと、内閣との関係がまたそれに従って整理が必要になってくるという可能性をも含んでいると思います。内閣条項等につきましても、議論はいろいろできるかと思いますけれども、時間の関係もございますので、この辺でこのbの項目については話を閉じさせていただきたいと思います。  cですが、恐らく二十一世紀、中央、地方の関係をやはりもう一段整理することが必須になるのではないかなというふうに私は考えております。  これにつきましては、既に地方分権についてのいろいろな法案が通っておるわけでありますが、なお極めて不十分ではないだろうかというふうに私は思っております。むしろ憲法において、いずれ将来、いつぞやの段階において、中央政府、地方政府の役割分担を明確にせざるを得ない時期が来る、あるいはそうした方がいい時期が来るのではないかというのが私の主張でございます。  これは、いわゆる地方分権の徹底が必要であるという側面だけで議論するのは、私は間違いだと思っておりまして、中央政治の地方政治からの独立、解放という問題も、中央政治にとっては非常に重要なことではないか。これは両面あるわけでございまして、いわゆる中央による地方の支配なるものが地方の中央への浸透と表裏一体のシステムになっているということが、果たして十分透明性の高い、実効性のある政治というものにつながっているかどうか、この点について私は疑問を持っております。  国政と地方政治とは無関係では存在し得ないのでありますけれども、いわば雑然と重なり合っているという状態があるように見受けられるわけでありまして、特に、私は、そのことによって、いわば国政自体がいろいろな問題を抱えるようになってきているのではないのか。ですから、責任が重なっている状態、あるいは、俗な言葉で言えばもたれ合っている関係、これを一度整理をし、財源を含め、責任とコストの関係を可能な限り一元的に対応させるような仕組みに移すということは、恐らく財政問題等の過程で出てこざるを得ないのではないかと思っているわけであります。  いわば、中央政治は中央政治役割をより明確にし、そこで自己責任、地方政治は地方政治なりの任務の中でその自己責任を果たすという、もう一段の中央、地方関係整理というものが、二十一世紀政治にとって、いずれにせよ避けられないのではないかというふうに私は思います。国政はより国政らしく、地方政治はより地方政治らしくしていくということ。その意味で、国政そのもののあり方を見直すことが実は中央、地方関係見直しという問題にもつながる、そういう側面をあえて強調させていただきたいわけでございます。  あえて言えば、国政は与えられた任務を国際水準で達成するだけの機能アップが求められるわけでありまして、地方のいろいろな面倒を見るのが国政だというようなことでは国政が立ち行かないことになると思いますし、地方政治はやはり自分たちのコスト感覚を政治的にきっちりこなしていくという能力が求められるだろうと思いますし、そういう過程で、例えば地方自治体の数やサイズという問題がこれから大きな問題になってくる。  私の友人などでは、道州制というようなことを言う人間もふえてきておりますけれども、そういったような形で、今の都道府県の問題まで含めていろいろなアイデアが出てくる可能性があると思います。ですから、今の第八章を違った角度から書き直すといったような論点にこれはつながるかと思います。  時間が少なくなりましたので、dに移らせていただきます。国民の直接参加というテーマでございます。  これは九月二十九日の、具体的な新聞の名前を引用させていただいて恐縮でございますが、毎日新聞に掲載されました憲法世論調査によりますと、改憲論の具体的な内容は、第一に、首相を国民の直接投票で選べるようにする、第二に、重要な政策課題国民投票で決める仕組みをつくるとのことでございます。これは、間接民主制や議会制にとってなかなか耳の痛い、あるいは深刻な傾向ないしは意見の表出でありまして、こうした雰囲気が広がりつつあることは、先生方のよく御存じのところでございます。これは、恐らく二十一世紀、なかなかなくならない一つの雰囲気ではないかなというふうに思うわけでございます。  同時に、その場合注意すべきは、この二つの要求は、地方政治においては事実上実現しているか、実現可能性のあるような要求でございまして、いわば中央政治と地方政治との間の制度間競争みたいなイメージで国民は中央と地方の政治を見ているという可能性が出てくる。ですから、決して実体的根拠のない話だとばかりは言えないというところが問題のスポットでございます。  私は、時間の関係もありまして、こういう主張あるいは要望に対して具体的に立ち入るつもりはございませんし、いろいろな反論が可能であると思いますが、最も説得的な反論は何であるかというと、これは大変単純なことになるかもしれませんけれども、現在の議会制が、その政治主導を内実のあるものにして、成果を現実に示していくということが一番いいいわば応答であることは言うまでもございません。  そして、いろいろな歴史を見ていきますと、この政治制度というものは、やはり成果を上げられなければだめになっていくということは歴然たる事実でございまして、その意味で最初に申し上げた問題に再び返っていくという形で、私の話を結ばせていただきたいと思います。  どうも失礼いたしました。(拍手)
  4. 中山太郎

    中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。  速記をとめてください。     〔速記中止〕
  5. 中山太郎

    中山会長 それでは、速記を起こしてください。     —————————————
  6. 中山太郎

    中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。  質疑の申し出がございますので、順次これを許します。新藤義孝君。
  7. 新藤義孝

    ○新藤委員 自由民主党の新藤義孝でございます。  佐々木参考人には、大変意義ある、そしてまた興味深いお話を賜りまして、心から感謝を申し上げたいと存じます。そして、きょうお話しいただいた、佐々木先生の今のお話をもとに、また私なりに、高名な政治学者でいらっしゃいます先生に御質問をさせていただきたい、このように思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。  私は、最初にお断り申し上げておきますが、ごらんのように三十三年生まれで、世代的にはこの中で最も若い方の部類です。先ほど先生がお話しされました、憲法に対する考え方、また国家に対する考え方が国民の中でいろいろ変わっているようだというお話がございました。ですから、多分その変わっている方の部類に入ると思いますので、少しぶしつけになるかもしれませんが、お答えをいただければありがたいな、このように思います。  まず私は、今回まさに先生がおっしゃいました政治主導、これは、政策の体系を整える、それからそれを実際にできるように計画する、それがまさに政治だと思っております。ですから、政を治める、物事を決めていくのが政治、そして政を行うのが行政だ。ですから、官僚をうまく活用しながらリーダーシップをとって物を決めていくのが政治なんだと。だから、ある一面で、もう役所は要らぬ、政策法律は全部自分たちでつくるというような声もあるけれども、私はそこはちょっといろいろ考えた方がいいな、こういうふうに思っているのです。  きょうの憲法の話なんですけれども、五十三年たちました。世界で十五番目に古い。しかも一度も改正されていない。私どもはそれが当たり前のように大切に、先生も何回もお話しいただきました、不磨の大典という形になっておるわけなんでございますが、ドイツは四十六回、先生に釈迦に説法でございますけれども、一週間前に四十七回目の改正があったそうでございます。そしてフランスも九月に十四回目の改正ということなんですね。  御案内のように、我々はこれをどうしてこんなに大切にするのかな、もちろん国家の基本法ですから大切にするのは当たり前なんですが、なぜさわってはいけないんだ、ここが私は不思議で仕方がないのです。無理に直す必要もないけれども、さわることを許さぬというのは私には全く理解ができないということでございます。  そして、実は、そういう意味政治主導のもとで憲法調査会がこの衆議院に設置された。その前に、二年間でしたか、中山先生また先輩方が御努力をされて憲法制度調査会設置推進議員連盟というのができておりまして、私もそこに入っておりました。  今でも忘れられないのですが、二年前でございましたか、憲法五十年を記念して、GHQのまだお元気な方に三人おいでいただきましたけれども、憲法調査会のシンポジウムをやったのです。よく覚えておりますけれども、そのときに、憲法草案にかかわったとされる方のお話は、この憲法は確かにマッカーサーから指示を受けて民政局で六日間でやりました、そしてそれは日本の占領下における私たちがつくった憲法だと思っておりました、独立後は自主憲法を制定しているものだと思っておりましたが、まさか五十年間、一字一句変えずに使っていただけるとは思いませんでした、ありがとうございましたと。そういうことを向こうから来た人がおっしゃったときに、何と皮肉なことかな、こういうふうに思ったわけでございます。  そこで、私は、だから直せばいいんだとは思っておりません。ただ一方で、時代にそぐわないところが出てきている。それから、先ほどから先生がおっしゃっていらっしゃる、政治が主導して国の形、そして国の方向の基本を整えるものとして、これは今まさに時代が変わろうとしている中、大いに議論していかなくてはならないのではないか、このように思うのでございます。  そこで、これは本当に基本的なことなんでございますが、先生は、憲法改正手続の問題、そして発議国民投票、こういうことにお触れになりましたが、私はもう一つその前に、一体全体この憲法は、原案をつくるのはだれがどういう形で作業をすべきなのか、このことも考えるべきだと思っているのです。  我々は、政を治め、そしてルールを決めていく仕事です。でも、決める前に、原案となるもの、立法作業といいますか、これは一体どういう形で行われていくべきなのか。これは、通常の法律と同じように、我々が議員立法でやっていくやり方もあると思います。しかし、国の基本となる憲法が果たしてそういう形でいいのかどうかというところに私はちょっと疑問を持っておりますし、法律学者として先生の御見解をいただければありがたいと思います。  例えば、大日本帝国憲法はだれがつくったのか、実際に書いた人はどなたなんでしょうか。そして、アメリカの憲法もそうです。ジョージ・ワシントンが出したといっても、一体だれがそのとき書いたのか。私は、審議のたたき台になる、また我々がこれから議論していくことはその原案の中に盛り込んでいくかもしれないことなんでございますが、これを一体全体どこがどういう機関でやるのかということは、実は非常に政治役割として大きなことになるのではないかというふうに思うのです。  今の日本国憲法は、大日本帝国憲法改正案という形で出た。これも、今いろいろ資料がございまして、読むと極めて興味深いのですが、ホイットニー民政局長のもとでメンバーがやった。そして、マッカーサー三原則とアメリカ憲法及び州憲法、ワイマール憲法、フランス憲法、ソ連憲法、それから前文はアメリカ憲法とリンカーンのゲティスバーグ演説、テヘラン会議宣言等々が参照された。そして、その当時出していた日本案はほとんど重要視されなかった。ただ、一方で、唯一重要視された、GHQが参照したのが、学者さんの私的グループによる憲法研究会、これが発表されたものについては重要視されたというようなことが過去の歴史を振り返ってみると出てくるわけなんです。  今私たちは、九条をどうしましょうとか、前文をどうしましょうとか、そういう議論に入っている場合もあります。ただ、政治主導として行って憲法をつくっていく過程、これはもう少し考えを深めるべきことがあるのではないかなというふうに思っているのでございますが、先生の御意見をいただければ大変ありがたいと思います。
  8. 佐々木毅

    佐々木参考人 今、いろいろな形での憲法のつくり方についてお話があったかと思います。つまり、ゼロから全面的に変えるというような場合ももちろんあるわけでございまして、ですから、それぞれ、どういう範囲のものを変えるのかというようなものによって、つくられる仕組みというものに多様なものが出てくる。だから、憲法をつくるための特別の国会みたいなものをつくってやるというケースも、もちろん昔はあったわけでございます。  ただ、今先生言われたようなお話のうち、例えばこの中のある部分について変えるというようなことを考えるとしますと、その手続というのは、もちろん各党で事実上いろいろなアドバイスを受けるなりなんなりというのは幾らでもおやりになって結構だと思いますけれども、第三者の審議会みたいなものに投げるというのは、先ほど来議員が言われた趣旨とも非常に違うのではないだろうか。  私自身、確たる提案があるというほどのものではございませんけれども、例えば国会にこういった、調査会なのか何なのかわかりませんけれども、憲法を議するコミッティーみたいなものがアドホックであれ何であれつくられるということがやはり一つのベースになるのではないだろうか。いつもつくっておく必要はないかもしれませんけれども、そのことを考え続けるための場があるということはそんなに不自然なことではないだろうというふうに私自身は考えております。  ですから、どういう委員会かわかりませんけれども、何か憲法を扱うコミッティーといったようなものを舞台にして、そこで、果たしてどういう手続でもってどれだけの賛成があればどうだこうだという話は、これは最後は非常に政治の問題になろうかと思うのですけれども、ある程度議論を煮詰めないと、国民に対して提案をすることはできないのは言うまでもございません。  ですから、どこまでが煮詰まり、どこまでは対立点は残るんだけれどもあえて提案するという形にするのかどうかというようなことについて、そういう場で審議をされるというのが一番オーソドックスなやり方ではないだろうか。ですから、事実上のアドバイスその他の問題は全部切り離して申し上げたつもりでございます。
  9. 新藤義孝

    ○新藤委員 なかなかどっちと決められるものではないと思うのです。ただ、私は、当然自分たちだけでやればいいんだ、国会で決めればいいんだ、例えば公職選挙法を直すのに国会議員だけで直していいのか、こういうのと同じ部分があるんではないかなというふうに思っておりまして、これは先生からもまさに参考になる御意見をいただければいいなというふうに思っておるのです。  そして、実は今のお話にもありましたし、先ほどもお触れになりましたが、先生としては結論を出されていないなというふうに思っていることがございます。憲法改正のことなんですけれども、結局、今論議をしていく中で、先ほどからまさに先生がおっしゃっているように、全面改正すべきなのか、それとも、部分的に国民的合意ができた上、そこからまず改正するのか、こういう二つがあるとおっしゃいました。  そこで、これは一体どっちがいいんですかということを我々もやっていかなきゃならないわけです。どっちがいいんだとだれも決められないと思うのです、みんな意見はそれぞれですから。  ただ、政治主導として、今のこの国のこういう状況を見て選択するならば、より望ましいのはどちらなんだ。できるかできないかということではなくて、より望ましいのはどちらなんだという観点からすると、これは、現実的な方をとるか、それとも、対立は厳しいけれども、いろいろともめるかもしれないけれども、全面改正か。これは先生の個人的な感覚で結構でございますので、もし支持をされるとすれば、二つしかなければ、先生はどちらをお選びになるか。  それからもう一つ、その場合に、改正手続の問題も出てくるんですね。今、不磨の大典化しているのは、まさに厳格な手続の中で非常に動きづらくなっているという部分があると思います。  もし作業が進んでいったとして、改正をするということになったとして、果たして、今度改正をする憲法ではその改正手続は柔軟にするのか。そして、諸外国のようにそれこそ何十回も場合によっては時代によって変わっていくこともある、そういう状況のものにしていった方がいいのか。それとも、やはり日本日本独自の、一度つくったら五十年、百年、もちろん手続を厳格にすればそういうことがあり得ることになるのではないかと思うのですが、これも、先生のお考えでは、望ましいとすればどちらなのか。ちょっとお答えをいただくのは難しいかもしれませんけれども、参考までに教えていただきたいと思います。
  10. 佐々木毅

    佐々木参考人 私は、先ほども申し上げたかと思いますけれども、国民生活に非常に重大な影響を及ぼすとおぼしき条項、こういったものは改正ということになりましてもなかなか難しいだろうというふうに思います。これは、必要万やむを得ざる状況に陥って、とにかく何はともあれやらざるを得ないという場合ももちろんあるかもしれないけれども、そういうことでないとすれば、大事なのは、今の御質問と若干ニュアンスは違うかもしれませんけれども、そんなに対立がないようなことでもやってこなかったのかもしれない。発議条件が厳しいからということでそこも全部説明してきたところはなかったろうかというのを、まさに一つは考えていただきたいというふうに思う。  ただ、全体的な方向として言うと、私は、発議条件を緩和することは十分考えるに値するというふうに思っております。その具体案はいろいろあると思うんですけれども、三分の二という問題もございますし、両院という問題もございますし、それから国民は過半数ですから、これをどう考えるか、それぞれについていろいろな提案があり得るかなと思っております。ですから、改正手続について、今の制度をとにかく何はともあれこれだけは守るべきだという議論に私はくみするつもりはございません。その点だけは申し上げておきます。
  11. 新藤義孝

    ○新藤委員 ありがとうございます。  今の時点ではまだどちらと決めるべき段階にまで来ていないことでもあるんですね。ただ、これから作業していく上で、議論をしていく前提として、やはり先生に今そういうふうにお話をいただいたのは非常に大きな意義があると思っておりますので、御理解いただきたいと思います。  それから、要は、今までの議論も、結局、本来ならば初めに憲法ありき、初めに法律ありきで、その法律のもとで何ができるのかということを考えるのか、それとも、自分たちのやりたいことや望むことがあって、そして何をやるべきなのか、法律の中でやるのか、それとも法律を決めていけばいいじゃないか、こういう行って来いの議論があると思うんですね。  要は、それが堂々と憲法を論じられるようになったということは、私は、それだけこの国が成熟してきた、そしてまた、いろいろと御批判いただいておりますが、政治もそういう意味での成熟度を増したんではないかな、このように思っているんです。  その大前提として、憲法は国の基本となるものですから、その意味で、国民意識とかそれから国に対する国家観、こういうものをこれからどういうふうに我々日本人は持っていくべきかということが大切な要素になってくるんではないかなというふうに思っているのでございまして、きょう先生お触れになっておりませんけれども、恐縮ですが、また参考になる御意見をいただければありがたい、このように思うんです。  それは、今私たちの国、非常に連帯感が薄れているような、個人個人がばらばらになっている、こういうことをよく言われます。そして、そういう意味での国としての統一性というんでしょうか、国民としての、私たちは日本に住んでいるんだ、こういう一体感が弱いというよりも表に出ていない時代だなというふうに思っているんです。  これは一方で、不思議なことに、友達同士とか自分にかかわりのあることについては物すごく強烈に結びつくんですね。そのかわり、ちょっと離れて、自分に直接関係ない、所属しているけれども自分には直接関係ない、そういうものについては今度は極めて冷淡になる、こういう不思議なというかおもしろい現象があるんではないかというふうに思っています。  ふだんは全然知らぬ顔している人たちが、例えばオリンピックだとかワールドカップのときによくわかるんですけれども、もともとはまとまりがいい民族なんだなとそのとき改めてわかります。これ一回でワールドカップに出られるんだ、もう一回勝てばメダルとれるんだ、そのときの日本人の熱狂ぶり、特にふだん白けている若い連中が、おれは君が代なんか知らない、日の丸なんか嫌いだ、こんなことを言っている人たちが外国へ出かけていって、もう一回ここで勝てば日本がワールドカップに出られるとなるとみんなで立って国歌を歌う。  何か私は、日本人のアイデンティティーというのは、昔の一億総火の玉、これに尽きるなというのが個人的な感覚なんですけれども、そういう底に流れているものと、それから表面上の表現の仕方が今全然違ってきている、このように感じております。  それに、うがった見方かもしれませんが、これに対して、戦後の日本社会をつくってきたこの憲法日本の国の進め方、これは影響が出ていないのかどうなのかというようなことを私は感じているんです。  今の憲法は戦前の軍国主義、全体主義を否定して、基本的人権を尊重しましょう、こういうもとで封建制を壊しましょう、こういう憲法だと思っているんです。個人の権利を尊重しなさい、それから農地解放だとか財閥解体だとか、要するに富や権力の集中を排除した、教育改革や、労働者や女性の解放を行った、これは非常にいい効果をもたらしてきましたけれども、その一方で、無理やり、国家国民だとかそういうことを考えるのはおかしいよ、自分のことを主張しなさい、こういうような風潮を生んできてしまったんではないかなというふうに思うのでございます。  特に、この憲法の中には基本的人権の尊重規定というのがございますけれども、国だとか公共への義務とか奉仕、こういうものについての規定がないに等しいというか、極めて少ない。教育の義務と勤労の義務と納税の義務しかありません。こういうことがありますし、今話題になっている教育の改革についても、基本法についても、まさに個人を追求しなさい。これは憲法から導き出されてきている道だなと私は思っているんです。  そこで、長々になって恐縮なんですが、先生、これからの私たちの国のあるべき姿として、一体日本の国、個人の権利と公共や国に対するこういう意識、これはどこまでどういうバランスをとるべきなのか。先生、今現状をごらんになって、私は今のがだめだと思っていませんよ、結局、最終的には日本人はみんなまとまります。でも、今百花繚乱で、議論は自由なんだ。権利を主張することをどんどんやって、そのおかげでいろいろな仕事が進まなかったり、この政治の場もそうなんですけれども、ある意味での混乱も巻き起こっているような気がするんです。個人と国や公共との集団、公のバランス、これはどういうふうにとるべきなのか、お考えをお聞かせいただければありがたいのでございます。
  12. 佐々木毅

    佐々木参考人 大変難しい問題で、いろいろな観点から議論できる問題を提起されたというふうに思っております。  ただ、私自身認識を申しますと、自分の非常にプライベートな利益に関心があるというのは、これは万国共通で、どこもそうです。それから、だんだん豊かになりました結果、日本人は自分の趣味に興味を持つようになった、海外旅行も含めてなんですが、これも議員御案内のような形で、それは確かにふえてきていますね。  問題は、それだけでいいんだろうかということを、私の世代も含めて国民はやはり考え始めているんだと思うんですよ。それで、そういういわば非常に自分、個人に近いところで満足するというのを超えて、何かしなきゃいかぬじゃないかという気持ちをかなり潜在的には持っているのかな。ですから、これは必ずしも議員のおっしゃる意味と同じかどうかわかりませんけれども、例えば外国の貧しい人々のために自分は何かをしたいんだという言い方もこれはある。  ですから、それは国とか日本というのに必ずしも一元化されるとは限らないんだけれども、非常に個人ないし自分の周辺のことだけで全部がんじがらめになっているという状態は、ちょっと人間としてのバランス上必ずしも好ましくないなという意識は今の日本に結構存在し始めているのではないだろうか。ですから、そこからどこへどういう形でそれがあらわれていくのかなということについては、いろいろなあらわれ方があるのかなというふうに私は思っております。  ですから、議員があるいは意図されたことのように必ずしもならないかもしれませんけれども、非常に身近なところだけで何かやっているというので十分だという時代は終わって、それは高齢社会の問題もあるかもしれないし、地域の問題もあるかもしれないし、何か自分たちで、生きがいの問題も含めて、ちょっとパブリック的なことをやってみたいな、あるいはやるべきではないかなという状況に今日本人はいるのではないかなというふうに私自身は思っております。そういうエネルギーをどういうふうにうまく活用していくかというのが、これが政治の側の知恵にかかわることではないかなというふうに思っておりまして、一部お答えになったかどうかわかりませんが、そんな感じを持っております。
  13. 新藤義孝

    ○新藤委員 ありがとうございました。もう十分なお答えをいただいております。  すべてそれが憲法なり法律なりに原因があるわけではない、これは先生おっしゃるとおりです。でもしかし、大きな流れの中で、やはり国が戦前から戦後の大きく方向転換をした大きな目的といいますか、一つになっていると私は思うんですね。ですから、結局、国の基本法たる憲法を論じるときには、一体、日本人と国というものをどういう方向でどの程度でバランスさせておくかというのは非常に重要な問題だ。もちろん、このことは違う考えの方もたくさんいらっしゃいますので、大いにこれから憲法調査会議論すべきことではないかというふうに思うのでございます。  最後に、残り時間も少なくなってまいりましたが、これまた先生、非常に総花的とか大枠の話で大変恐縮なんですが、私はそういう自分の物の考え方を長い目で見るようにしたらというふうに思っておりまして、今日本人は、国内においては自分たちはすごいと思っているわけですよ。ですから、国の中では日本人一人一人はみんなそれぞれ自分でプライドを持って物すごく自己主張をします。でも一方で、外国へ出ると、自分は東洋の小さな島国だ、こういうふうに思っている人がすごく多いのですね。外国に出ると、我々日本人はまだ小さな東洋の国だから、こういうふうに言っている。内にあっては、経済にしても何にしても、国内では一流だ、自分たちはすごくレベルが高くなっている、こういうふうに思っている人たちが多いというふうに思うんですね。  そこで、例えば、アメリカは確かに日本の人口の二倍、国土は二十五倍です。でも、イギリスは日本の人口の半分しかありません。それから、国の大きさは実は日本の六割なんですね。それで、GDPは八掛けです。ドイツにしても中国にしてもしかり。ドイツは大きな国かと思ったら、やや日本の方が大きいのですね。  国の大きさとか人口で別に競争するわけじゃないのですけれども、これから私たちは、戦争に負けて、そしてその後、奇跡的な復興を遂げて、今こういう価値観が多様化している中で、次の時代の私たちの国の位置、これは国際社会できちんとした尊敬と、それから自分たちの義務を果たせるような、そういう位置を占めるために一体何が大事なんだろう。  結局、考えてみると、歴史上、今まで日本の国は、あるときまで、ある線まではいいところまでいったと思うんです。明治時代も列強列国に伍して戦うほどにいって、そしてめちゃくちゃになった。まただめになったかと思ったら、もう一回立ち直ってきた。でも、いつでも共通しているのは、やはり東洋の特殊な国で、世界の中で、私もちょっとそれはコンプレックスになっているのかもしれませんが、どう見ても、やはり日本の国力やこれだけの勤勉性を持った国の評価というものはまだ正当なものになっていないのではないかな。だとすると、それは私たちの国の今のあり方に問題があるのではないかなというふうに思うんです。  非常に総花的とまさに申し上げましたけれども、恐縮なんですが、これからの日本のあるべき姿を考えるときに、一体どんなポイントが重要になってくるのか。国際社会の中の日本ということで、先生のお感じになっていることがあったら、最後に教えていただきたいというふうに思います。
  14. 佐々木毅

    佐々木参考人 時間もあれですから、簡単に私の考えを述べさせていただきます。  それはもちろん政府なりなんなりの役割は非常に大きいということはそうなんですけれども、やはり我々が持っている国民能力を生かす仕組みというものをもっと工夫する必要があるのではないだろうか。まさに政治主導というのも、国民能力を今までとは違った形で動かしていこうということなのではないでしょうか。だから、そういう点で、まず何か今までなかったようなことをぜひやっていただきたいのですよ。  これは時間がかかることですから簡単にはいきません。だから、あそこのかなりの数の人々をいろいろな形で政治的なアポインティーとして使えるというふうになったことをどう活用されるのかという、具体的なことで私としてはぜひ成果を見たいなというふうに思っている、例えば外国に派遣する人をどういう形で決めるのかというようなこと一つをとりましても。ですから、いろいろな段階議論があって、まず隗より始めよというタイプの話もございますので、例えばそういうことも考えられると思うんです。  ただし、何か非常にまどろっこしい気持ちは私もよくわかります。だけれども、何か特効薬と言われても、これだけやれば十分だというふうなものがあるかと言われると、私は、やはり御時世も変わってきていますから、必ずしもこれだというふうにもなかなか言えないところがある。だけれども、まず足元の問題として言えば、例えばそういうことで随分日本の政府のイメージというものも変えることができるのじゃないか。そういう試みもぜひやっていただきたい。  これもちょっとまたお答えになっていませんけれども、私の手短な感想だけを申し上げました。
  15. 新藤義孝

    ○新藤委員 ありがとうございました。
  16. 中山太郎

    中山会長 鹿野道彦君。
  17. 鹿野道彦

    ○鹿野委員 佐々木先生、今最も重要なポイントお話をいただきまして、まことにありがとうございました。  そこで、先生は官主導から政治主導へということをまず強調されたわけでございますけれども、このことは基本的に、国民の依存型社会、国民の依存体質からの脱却というふうなことを意味しておるのではないか、こういうふうに私は認識をいたすわけであります。すなわち、今の日本の国が、いよいよ新世紀を前にして、来世紀は自立の時代だ、こういうふうな言葉がよく使われます。しかし、仕組みそのものが自立の時代を迎える仕組みになっていない。すなわち、だれかが何か困ったときにはやってくれるんだろう、お上がやってくれるんだろうといいますか、そういう依存の体質を醸成せざるを得ないような仕組みになっているのではないか、こういうふうに考えているのであります。  そこで、一つ具体的に先生のお考えをお聞きしたいのですけれども、先ほど先生が首相公選論のお話をなされました。国民は、この閉塞状況から抜け切るには、自分で総理大臣を選びたい、新しい政治をぜひやってほしい、強力な政治のリーダーシップを発揮してもらいたい、こういうふうなことだと思うんです。  先生は、その前に、議会制というものが本当にしっかりしているのかどうかというものを、まずここでもう一度見直してみたらどうかというお話でございますけれども、私は、日本の総理大臣の権限が非常に不明確だというところに今日の総理大臣のリーダーシップを発揮できにくい状況になっているのではないか。憲法においては、六十六条において明確に、総理大臣というのは首長だ、それから六十八条においては、総理大臣大臣の任免権というものがきちっとそこに言われているわけです。  しかし、現実的に、では内閣法にいくと、総理大臣の権限については何も書いていない。そして、内閣法六条においては、合議体、合議制というふうなものだけが規定されておる。そうすると、各大臣は同列なのか、こういうふうな考え方。そうなってくると、そこから、やはり先ほど先生のお触れになった縦割り行政の弊害というふうなものが出てくる。総理大臣という立場におけるその強力なるリーダーシップをなかなか発揮できないようになってきてしまった。  ゆえに、私は、総理大臣の権限というもの、統括する権限というものをもっと明確にしたらどうか、こういうふうな考え方に立つわけでありますけれども、先生のお考えをお聞かせいただきたいと思います。
  18. 佐々木毅

    佐々木参考人 私、今の議員の御意見をお聞きいたしまして、今のような御意見というものは反対すべき根拠がないんじゃないか。つまり、そういう方向を、どこでどうするのかという手続その他の問題はございますけれども、総理大臣の権限は、少なくとも憲法のレベルではかなり明確に読める側面はあると思うんですけれども、法体系全体の問題と果たして接合性があるのかということについて、おっしゃられた点は私も基本的に同意いたします。  例えば、こういう内閣法みたいなものを、そもそも法律そのものが、端的に申すと必要なものなのかどうかということも本当は議論していただくべきことなのかなというふうに私は思います。内閣法というような形で、いわば政権の構成と運用についてどの程度法律的な制限の問題になじむのか、それともその内閣の自由な裁量にゆだねていいものか、この辺はやはり線引きを一度し直す必要が私はあるのではないか。その意味でいうと、余りにも法律で決め過ぎて、内閣法で決め過ぎているということは、やはり大きな問題点ではないだろうかというふうに思います。  法律に従って権限が行使されること自体は、そうでなければならないとは思うんですけれども、しかし、それによって肝心の目的が十分達せられないということになれば、これはやはり目的と手段が転倒している、逆さになっているということではないかなというふうに思いますので、議員の御意見に対しては、私は基本的に同意いたす次第でございます。
  19. 鹿野道彦

    ○鹿野委員 もう一点、先生のお考えをお聞かせいただきたいと思います。  先ほどからの、官主導から政治主導へという切りかえをしていかなきゃならない。そこで問題になるのは現行憲法の六十五条ではないか、こういうふうに思うんです。「行政権は、内閣に属する。」こういうふうなことがうたわれておるわけでありますけれども、この六十五条によって、戦前の、天皇なり内閣なり、あるいは基本的に行政そのものが一体なんだ、そういうふうなことで国の運営をしてきた、その解釈がそのまま戦後においても残ってきてしまっておる。  本来、内閣は執政機関であって、あくまでも官僚機構と別に考えなきゃならない。ところが、今申し上げたような戦前の考え方がそのまま移行しているものですから、内閣行政も一緒なんだ、こういうふうな、先ほど先生の触れられた慣例、慣習になってしまっておる。ですから、行政権というものが実にあいまいになってしまっている。  そして、内閣行政が一体であるという考え方が、一方において議会とそこは別なんだという、いつの間にか分離する考え方が、そこで線引きされてしまっておる。それが官僚行政中立性なんだ、こんなふうにとられてしまっておる。そこに日本の国の基本的な、議院内閣制の根本的問題があるんではないか。こんな認識を持っておりまして、この行政権というものの六十五条の条項について、内閣行政機構との関係、そして国会内閣との関係、こういうものを明確にしていく必要がある。  すなわち、あくまでも国の運営というものは、議院内閣制であるわけですから、政治いわゆる内閣のもとに官僚機構というものがあるんだ、こういうふうな位置づけをしっかりと踏まえて国を運営していかなければならないんではないか、こんなふうに考えるわけです。  今申し上げたような日本の国の実質的な政府運営なものですから、例えば、現実の社会においても行政指導、通達行政がまかり通っておったわけですね。だから、よく外国人が、日本政治はだれがどこで意思決定するのかわからない国だと。これはわからないわけですよ。各省庁の大臣すらどうなっているのかわからない。もう局長あたりもわからない形で、課長くらいのところが通達を出してやっておる。MOF担の問題が大蔵省の改革のときに大変問題になりましたけれども、日本の国はまともな民主主義の国なのか、こういうふうなことにもなるわけです。  そういうことからしますと、まさに来世紀、先生の言われる官主導から政治主導へというふうなことは、私は、基本的に、日本の国を真の民主主義の国の体制、社会にしていかなきゃならない、こういうふうな認識を持っておりまして、先生のお考えをお聞かせいただきたいと思います。
  20. 佐々木毅

    佐々木参考人 行政という概念をどう理解するかということにまさにかかわるわけで、行政政治というのは、背反、違う概念ではあるんですけれども、しかし、いかなる意味で違う概念なのか、それとも無関係な概念なのか、ある意味では機能分担の概念なのか、この辺の整理がなかなか難しいところがあります。中学校の教科書にまでこの議論はずっと及んでおりまして、非常に厳格な意味での行政権と立法権の仕分けという議論が、日本のこの種の議論をするときに非常にドグマとして広く流通しているという歴史的な背景も、明治時代云々の話はおきまして、これは戦後の問題としてまさに流通をしているわけでございます。  したがって、議員が今おっしゃられました国会内閣、端的に言えば与党と内閣の一体的な政権運営というものが、日本政治の一番の基本がそこにあって、そこが自治というもののいわば担い手、民主主義の担い手になる、こういう構図がそこでぷつんと、確かに、何か別の世界に内閣は行ってしまう。そっちの世界と国会との関係というのはどうなっているのかな。  端的に申しますと、もし与党と内閣が一体であるとすると、与党議員が内閣に質問するというのも、これは何だろうかなという話があるんですけれども、新聞を含めて皆さん、別にそのことは何も疑問も抱かないで書いているというわけでございますし、それから、大臣方々も、それは国会の問題ですから私は存じませんという話をすることができる。これなども、やはり切れているという観念があるものですから、そういうことが余り疑問なしに行われてきたのではないだろうかというふうに思います。  今、政治主導という形で、そこをいわば一体として運営するんだという態度を非常に明らかにされた結果として、わからない問題が逆に出てきたというのが、私は今の状況ではないだろうかというふうに思います。  恐らく内閣は、政策の決定を含めて、いわゆる行政機構が末端でやっているような仕事をはるかに超えるジャッジメントを日常的にやるという、その意味で非常に広いまさに政治を行う権限を持っているわけで、いわゆる国会政治じゃないかもしれませんけれども、国会政治も含めて政治を行う、そういう責務を持っているというふうに私は思います。  その意味で三権分立、ちょっと司法権は別にして、立法権と行政権という、しかも行政権という言葉は日本では独特のニュアンスを持っているために、議員もおっしゃるように、またいろいろな問題が起こる。しかし、仮にエグゼクティブパワーというふうにそれをアメリカ風に呼びかえたとしても、この二つを切り離して考えるという議論は非常に混乱を招くだけのことではないか。  政治主導をするということは、まさにそこの誤解を国会方々が、実は今までのようなそういう誤解されたのとは違う形で動かしますよということを世の中に向かって宣言されたことではないか。それを一月からおやりになるということではないだろうかというふうに私は思っているわけでございます。ですから、国会の答弁者の問題も、まさに変わったというのも、ある意味では当然のことであった。  ただ、憲法教育を含めて、議員が心配なさっているような事実はなお牢固として存在している、あるいはそういう観念が存在しているということは事実でございます。  ですから、国会の運営の問題なども含めて、ただ人事の問題だけではなくて、やはり国会あり方もそれに沿っていろいろ議論していくということを同時におやりになるともうちょっといろいろなことが見えやすくなってくるのではないか。今は何か、点がぽつぽつできているという段階で、クエスチョンタイムみたいなのがぽつんとできる。ぽつんぽつん点はできているんですけれども、線としてあるいは面として、構造がこうなんですよ、新しい理解はこうなんですよという形のところまではまだ行っていない嫌いがあるのではないだろうか。  だから、これは憲法の条文の問題でもありますけれども、やはりプラクティスというか実際の問題として、そのことについて工夫を重ねていく必要がある問題ではないかというふうに私は思っております。
  21. 鹿野道彦

    ○鹿野委員 基本的にこれは、極端な言い方ですけれども、官僚機構の方にいわば政治が丸投げをしてきたところにやはり問題があるんではないか。ですから、私は、このような日本仕組みが、実際はこのような仕組みじゃないんですけれども、今申し上げたような仕組みになってしまったということは、やはり政治の責任ではないか。だから、明確に内閣イコール行政ではないんだというふうな考え方、同時に、今先生のお話の議院内閣制の健全なあり方というものを来世紀は確立をしていかなきゃならないのじゃないか。  今の議院内閣制というのは、二元構造になって、いわゆる内閣と与党の二つの柱になっている。ですから、何か都合悪いことが起きますと、単なる内閣の改造によって責任逃れというような形になっておる。そこに常に責任のあいまいさというものが出てくる。この無責任さというふうな政治の姿から、社会においてしっかりとした規律なんて生まれてこない、倫理の社会なんというものもつくられにくい。いわば、来世紀は議院内閣制が本当に機能した議院内閣制を確立する、そういうふうな意味で、この六十五条におけるところの問題はさらに明確にしていく必要があるんではないか、こんなふうに考えておりますので、もう一度先生から、この点についてもし所感ということでありますならば、お述べいただければと思っております。
  22. 佐々木毅

    佐々木参考人 いろいろな権限を前提にして、それでいろいろな組織をこれに割り当てるというような書き方になっているわけですね。「行政権は、内閣に属する。」内閣は何するところかという書き方になっていないですね。  ですから、この辺の、何から出発しているかということを見ただけでも、私は、この憲法にはいろいろなふぐあいがあるのではないか、議員が御指摘になった六十五条についてもそうしたふぐあいが散見される一例ではないかというふうに考えます。  以上です。
  23. 鹿野道彦

    ○鹿野委員 終わります。ありがとうございました。
  24. 中山太郎

    中山会長 赤松正雄君。
  25. 赤松正雄

    ○赤松(正)委員 公明党の赤松正雄でございます。  きょうは、佐々木先生から、二十一世紀日本のあるべき姿ということについて非常に示唆に富んだお話をしていただきました。大変にありがとうございました。  先ほどのお話を聞いておりまして、まず、今鹿野委員からもございましたけれども、憲法第六十五条をめぐっての議院内閣制のいわば二元構造というふうな問題、いみじくも大臣を経験された委員から、従来の日本政治は官に丸投げをしてきたのではないかという反省があるというお話もありました。  そういうことを踏まえて、もう少し具体的というか、私は、長く野党にいた政党から今与党の側に来ていろいろ感ずるところはあるわけですけれども、この官主導ということについてしみじみと感じることがありました。  そこで、佐々木先生がお書きになられた「論争東洋経済」のことしの十一月号、「議会制の浮沈がかかる政治主導体制の構築」というテーマの論文を読ませていただいて、きょうお話に出なかったことをまず最初にもう少し突っ込んでお聞きしたいなというところがございます。  それはどういうことかといいますと、要するに、政官はもたれ合いで、私など野党の側にいた人間から見ますと、与党の側に一方的な官僚の情報の集中というものがあって、野党の側には、今は知りませんけれども、かつてそうした政治をとり行う上における情報が極めて少なかった。そういう背景を踏まえて、佐々木先生がお書きになっていることに、一カ所すごくおもしろいなというか、さらに聞いてみたいなというところがございます。  それはどういうところかといいますと、「官の奮起なしには政治主導の「質」はむしろ危ういことになりかねない。」ということを言われた上で、「官主導の伝統を放棄し、もっぱら「行政中立性」の観点から政治との接点を大臣その他公的地位にある者に限定し、もっぱら政策面において協力するにとどめたいということを官が全体として言い出せば、それは一つの重要な問題解決の糸口になる。」こういうふうな指摘をされております。「こうした観点からすれば、現在までのところ、政官双方が自らの持ち分について率直に議論を交わすことがほとんど見られず、個別散発的に問題の処理が試みられているのは、きわめて憂慮すべき事態である。」こういうふうにおっしゃっているわけですけれども、政官の線引きという問題について、こういうふうな率直な議論をして、今のこの日本政治状況に対して、問題を官が全体として言い出すなんということがあり得るというか、そういうことについて、見通しとしてどういうことを感じておられるでしょうか。     〔会長退席、鹿野会長代理着席〕
  26. 佐々木毅

    佐々木参考人 官というものもないんだと思います。何とか省というのとか何とか局というものはあると思うんですけれども、官というものは全体概念としてはやはりないのではないか。したがって、今議員御指摘のようなことは、私としては、そこに書いた趣旨からすれば残念ではございますけれども、なかなか、もっと言えば、あなたが言うのだったらいいというタイプの話になりやすいのではないだろうか。  ただ、この点につきましては、私は、人事院のいろいろな研修等で、繰り返し繰り返し、いわゆる官の方々に、これではどうだろうかというような物言いを個人的には努力をいたしておりますけれども、官主導体制とはいいますけれども、官という一つのものがないということがやはり基本的なジレンマ、先ほど申したようなジレンマでございますので、なかなかその実現を期待するということは、リアルに考えれば難しいかもしれない。  しかし、仮に、内閣に属している官のトップの方でもそういう問題を提起されれば、これは一つ議論として政治の側でも受けとめる可能性が出てくるのであって、諸省庁から自由にいろいろな意見が出てくるということでは、やはりそういうことはないだろうなというふうに思っています。
  27. 赤松正雄

    ○赤松(正)委員 今、実は、佐々木教授がかかわっておられる二十一世紀臨調ですか、先般、政治家に対するアンケート、政治主導に関するアンケートをいただきました。さまざまな政治主導に対する、あるいは官のありようというものに対する考え方を問いかけるアンケートをいただいたわけですけれども、私は、あのアンケートに書いていて、政治家がこういうことを言うのもおかしな話なんですが、すごく物足りなさを感じたわけです。  二つありまして、一つは、現実日本政治を、今先生がいみじくも、官主導と言っておられた、そういう官というものはないんだというお話でございますけれども、いわゆる政治が主導してこないで、全体としての官僚群というものが政治を仕切ってきたという側面がある。そういうことに対する明確な、それを構成している一人一人に対する考え方というものに対する問いかけというか、きちっとした調査というか、そういうものが欲しいなというのが一つ。それからもう一つは、政治家に対するこういうアンケートがいろいろな機会に寄せられるわけですけれども、正直言って、事の本質をついていないということを感じざるを得ない質問が多いということ、鋭い大事な質問も幾つもあるのですけれども。  それともう一つは、そういったことをより多くの国民に提示する、このことが非常に大事だ。そのことが国民全体の上に余り反映されていないのじゃないのか。そういう点では、私は、いわゆるインフォメーションテクノロジー、IT革命の流れの中で、これは政治家の側がこういうことを言うのもおかしい話かもしれませんが、どの政治家がどういう物の考え方をしているのか、今の例えば政治仕組みなら仕組みという問題に対してどういう考え方を持っているのかということについて、もっとより的確にオープンに国民の皆さんに知らせるための作業を、ぜひ先生のようなお立場の方はそういうIT革命の流れの中で活用されたらいいのじゃないかというふうに思うのですけれども、この二点についてお話を聞かせていただきたいと思います。
  28. 佐々木毅

    佐々木参考人 前者、特に官の担い手たちの意識の調査ということにつきましては、可能であれば我々もぜひやらせていただきたいというふうに思っております、それをどう評価するかとかいろいろなことはさておきまして。  その意味で言いますと、私らのような第三者と言ったら大変失礼ですけれども、そういった人間の集団の役割もこれまで必ずしも十分でなかったところがあるのかなという点は、議員御指摘の第二点とも絡むわけでございまして、恐らくそういう点が、やはり全体として日本仕組みの中で、反省も込めて申しますけれども、十分でなかったことも、全体のいろいろな状況の推移というものに対して少なからぬ影響を及ぼしたということはあるのかな。  つまり、ある意味で余りにも国会内的、あるいは余りにも政党内的というところでしか政治情報というものが出てこなかったという仕組みがあった。国民もそこばかり見させられるというような状態が続いてきたために、政治全体、ある意味では行政も含めてなんですけれども、全体についてのバランスのある見方なり議論なりがなかなかしにくい情報構造とでもいうべきものがあったのかなという点は、私自身もそれなりの反省を込めて自覚しているところでございますので、今後、どの程度のことができるかわかりませんけれども、議員の御指摘については真摯に受けとめたいと思っております。
  29. 赤松正雄

    ○赤松(正)委員 それから、先ほど先生からお話しいただいた「「政治主導」と憲法政治」という中の「改正手続をめぐる問題」のお話とも関連するんですが、私ども公明党としましては、この憲法調査会の五年の議論を踏まえてその方向性が出た、それを踏まえて、次の五年の期間の中で憲法改正という問題について、まず第一段階、合意のしやすいものからしていこう、そういうふうな方針を先ほど党大会で出したばかりなんですけれども、そういった意味で、先ほど先生がおっしゃった、まず国会仕組みあたりを目標にというお話は非常に参考になりました。  そこで、そういうことを踏まえた上で、先ほど自由民主党の委員の方から、なぜ憲法についてはさわってはいけないのか全く理解できないというお話がございました、過去の経緯の中で。私は全く理解できるわけでございまして、つまり、それはなぜかというと、長く日本の国の与党を形成してきた自由民主党という政党を構成しておられる皆さん全体の国家観、歴史観初め、極めて不透明な部分があったということがやはり一つの原因だろう。裏返せば、野党の側のそうした歴史観、国家観についても、国民の側から見ればかなり不透明な部分があった。両方相まって、憲法について直接それをどう変えていくかという議論がなかったというものが形成されてきたのだろうと思うんです。  先ほど佐々木先生が非常におもしろい言い方をされておりましたが、この改正手続を、今の発議をもう少ししやすくすることによってむしろ逆に緊張感が高まるんだというお話をされておりましたが、私は、今申し上げたように、いわば与野党ともに、国民の目から見て極めて不透明な部分がある歴史観、国家観があって、こういう政党たちによって憲法を変えられたらたまらないという部分があったのではないかという感じがいたしました。  そういう流れの中で、一方でイデオロギーの終えんというようなことがあり、あるいはまた、日本の国内政治的にいえば、自民党の一党集中的な行き方が少し弱まってきた。そういう流れの中で、むしろ憲法について率直な意見が出てくる背景になっていった。つまり、この国が成熟した云々の話がありましたが、決してそうじゃなくて、むしろ政治への不信感が高まってきているがゆえに、こういう仕組みではだめだ、そういう部分で国民の皆さんの間の憲法に対する姿勢も変わってきたのではないのかな、そういうふうに思っております。  とにもかくにも、今の日本政治が、私どもも与党を形成し、そして先ほど申し上げたように、論憲の流れの中から、憲法については合意を得やすいところから変えていこうというふうな姿勢に立っている。また、野党第一党のリーダーの中にも、憲法改正について積極的な意見が出ている。こういう背景は、先ほど先生がおっしゃったような形に持っていく流れが非常に大きく出てきたというふうに受けとめているのですけれども、重なるかもしれませんが、今申し上げたような受けとめ方について、佐々木先生のお話を聞かせていただきたいと思います。
  30. 佐々木毅

    佐々木参考人 私は、戦後の憲法をめぐるいろいろな議論が違うフェーズに入ったというところまでは必ずしも確信を持てないのですけれども、しかし、先ほど申し上げましたように、できることをとにかくやってみられるということがやはり大事な点であるということをきょうは申し上げたつもりでございます。  したがいまして、どこから始めるかというのは、決して適当に選べるというものではないだろうということ。そして、その意味で、憲法を扱う政治の側がある意味では憲法を大事に扱いつつ、しかし改めるところは改めていくといいますか、この辺のことについて議員の方々の間で、最後の個別の案件について意見が違うことがあったとしても、何か基本的な態度においてある種の共通の雰囲気が醸成されていくということが、あえて言えば成熟ということになるのかな。ですから、最後ぎりぎりのところで意見が全部一緒になるという必要は必ずしもないと僕は思う。ただ、憲法政治が扱うというのはどういうことなのかなということについての共通の理解なり雰囲気を醸成されていくということが、あえて言えば成熟という言い方もできるかな、そういうふうに考えております。
  31. 赤松正雄

    ○赤松(正)委員 ありがとうございました。終わります。
  32. 鹿野道彦

    ○鹿野会長代理 武山百合子君。
  33. 武山百合子

    ○武山委員 自由党の武山百合子でございます。  佐々木先生、きょうは御苦労さまでございます。早速、先生がお話しくださった内容についてお聞きしたいと思います。  まず、先生は先ほど、政治主導ということで、「官主導世紀との決別」という話の中で、政治主導の中身をどう盛るかというお話をされたわけですけれども、その先、今いろいろ国会は二十一世紀のいわゆる根幹をつくる、政府委員制度廃止、クエスチョンタイム等をやってまいりましたけれども、先生として、今後、中身をどう盛ったらいいか、と同時にどんな中身にしたらいいか、御見解をお聞きしたいと思います。
  34. 佐々木毅

    佐々木参考人 先ほどもちょっと申し上げたことの延長線になるのですけれども、やはりポリティカルアポインティーに入っていらっしゃる方々と、これは政治家とは限らないわけでしょうけれども、それとお役所との接点をどういうふうにつくるのか、あるいはどこまでどういう形で協力することにするのかについて、私は法律は要らないと思うのですけれども、やはりある種のルールを示しながら運営していく。例えば、ある内閣政治主導のスタイルはこうで、ある内閣はこうでというその間に、いろいろな違いなりノウハウの蓄積があっていいのじゃないかなというふうに私は思っております。ですから、方針というものをやはり明らかにされた上でこれを動かすということが、まさに政治がイニシアチブをとっていると言えるゆえんだろうと思っております。  なお、その先に参りますと、多分、公務員制度との関係が出てくるのではないだろうかというふうに思っております。それは、あるいは場合によっては高級公務員の人事権の問題にも関係するかもしれません。ただ、その問題はいろいろ条件がございまして、例えば政権がかなり長く続くという前提政治主導をやるということがなければ、公務員としては一々受けとめるわけにはいかないということがやはりあるわけでございましょう。  行革の過程で言われました政策立案と執行との線引きというようなことは、公務員制度議論の中では大変重要な論点でございます。そういった形で、私は、政治主導を具体的に動かしていく過程で、公務員制度そのものについて、どういう形にしたら公務員の中立性も維持できるし、それから政治主導もよりスムーズにいくのかということについて、もう一段踏み込んだ話が始まるのではないのかなと思います。  ただ、今のところは、最初に申し上げましたように、どういう方針で、例えば行政官との関係で、どういうルールでもって内閣政治主導をやるのかということを何よりもまず明確にしていただきたいということを、私としては第一歩として申し上げたいと思います。
  35. 武山百合子

    ○武山委員 ありがとうございました。  国民の目から見ますと、やはり青写真がきちっと国民に示されていない、そこに一番いらいらしているわけです。と同時に、心配、そして安心できない状態なわけですね。そうしますと、政策がどうなるかということが次に出てくると思うのです。ところが、政策をつくる場合に、日本の場合、政党がシンクタンクを持っているとかスタッフが充実しているとかという環境にあるとはとても思えないですよ。  そういう意味で、政策面で、先ほど体系的に計画性を持ったものに整理する、そして、課題はいっぱいあるわけですけれども、そういうものがスタートと同時に行われて、そして今までの政治的慣行を減らしていって、すなわち打破していかなきゃいけないわけです。そのときに、今のままではとてもそういう方向に行っていないと思うのです。それで、何をしたらいいか、ぜひ御見解を聞きたいと思います。
  36. 佐々木毅

    佐々木参考人 私の申し上げた趣旨をせんじ詰めて言えば、トップリーダー、リーダーシップということに一つは行き着くと思う。つまり、戦略性計画性、そういったことを実現するためには、究極的にだれが判断するかという原点が決まっていないと困るわけです。それがあちこちにいろいろ散在しているという状態ですと、初めから政治主導というのは複数形で言わなければいけない状態になるだろうというふうに思います。  ただ、そういうことについて、非常に権力が集中し過ぎるからいけないのだという議論もなかなか根強いものがありまして、私が今申し上げたような議論が果たして現実に通るのかどうかわかりません。  しかし、私は、政治主導というのはシステムの問題だと思うのです。個人の能力の問題はもちろんあるのですけれども、個人の能力というのはトップに立つ人の能力であって、これは基本的にどういうシステムでいくかというシステムづくりのものだというふうに割り切って考えて、結果についてはいい悪いを判断すれば、これはこれでよろしいと僕は思うわけでございます。その意味で、ややかたい組織化といいましょうか、かたい体制づくりというものをする必要がある。  だから、逆に言いますと、それをつくれるのはだれかという問題にどうしてもなってくるわけでございます。これはいろいろそれこそ政治的慣行これありで、なかなかすぐには実現できないかもしれませんけれども、少なくともその内閣はどのような方針で何をやるのかということについてのガイドラインを含めてイニシアチブをとるということが、私は組閣の場合非常に大事だ。あるいは、どこに重点を入れて、どういう人を採るのだということについての原則を明確にしながら体制づくりをやっていく。最初は文字どおりはできないかもしれないけれども、だんだんそれができるようになっていく、そういう方向性が見えるということを私としては大いに期待しているということでございます。
  37. 武山百合子

    ○武山委員 ありがとうございます。  システムをどうつくるかというお話ですけれども、それと同時に、ちょうどリーダーシップの話が出たものですから、ぜひ佐々木先生からお聞きしたいと思います。  まず、先生の今までの本の中で、政治家としての資質について非常に厳しい御意見をお持ちかなと思うのですけれども、先生がお考えになる理想的な政治家の資質とは一体何なのか、ぜひお聞きしたいと思います。
  38. 佐々木毅

    佐々木参考人 私は、時代によって非常に違うのかな、違いが出てくるのかなということを思いますが、今の日本で大事なのは、ある種の歴史的な方向感覚といったものが非常に大事ではないか。数え上げれば切りがございませんけれども、歴史的な方向感覚をどうとるのかということにつきまして、私が見ている限りにおいて、例えば冷戦時代であれば、黙っていても外から方向感覚みたいなものが横並びで押し寄せてきたという時代がありましたが、そういう時代では少なくともなくなったということを考えますと、歴史的な方向感覚を御自身として鍛え直して、それを活性化していくということが求められるのではないだろうか。  勇気だとかいろいろな資質はもちろんのことでございますけれども、日本政治はどこに行くのかなということについてやや国民が不安感を持ち始めているというのは、やはり事実として否定できない面があるのではないだろうか。そういう意味での歴史的な方向感というものを、私としては、せんじ詰めた言い方でございますけれども、今非常に必要な資質ではないかなというふうに思います。
  39. 武山百合子

    ○武山委員 それでは、もう一つ先生に。  先生は今まで、現職の国会議員の中でといいますと答えにくいと思いますけれども、先生がこの政治家はすばらしかったと思う人がいらっしゃったら、一人名前を挙げていただきたいと思います。
  40. 佐々木毅

    佐々木参考人 これも答えなければいけないということですか。——ある意味で、私が先ほど申しましたように、日本の戦後をずっと振り返ってみますと、それぞれの段階でそれぞれにやはりしかるべき政治家がいたのではないかなというふうに私は思っております。ですから、例えば田中角栄さんはやはり高度成長時代においてそれなりに出てくるべき政治家であったと思うし、それから中曽根先生もそういう役割を果たされたのではないか。それから吉田さんもそういう役割、ましてや池田さんもそういう役割を果たした。その意味でいうと、私は、戦後のいろいろな政治家につきましてそれぞれ評価すべきところはあるのではないだろうか。  ただ、残念なことは、では今は昔と同じかというと、やはりそれは違うんじゃないかということも事実でございますので、昔の政治家を持ってくればすぐ問題が片づくのかなという点については、私は留保をさせていただきたいと思います。  ですから、そこで私があえて申し上げたいのは、日本政治はそれなりのリーダーがあることによってやはり蓄えを戦後つくってきたんだろうと思うんですが、これは僕の個人的な意見ですけれども、そろそろ蓄えが尽きつつあるのではないだろうかというところが、国民も含めて方向感が見えないので不安になっているというところが今の状況かなという、大変あいまいな話をして恐縮でございますが、そんなふうに思っております。
  41. 武山百合子

    ○武山委員 何か個人的なお話になっちゃいましたけれども、どうもありがとうございます。  がらりと話は変わりますけれども、今あっせん利得罪について国会の中で審議をしております。私もきのう質問をしまして、きょうもこれからするわけですけれども、先生は官主導から政治主導へと転換を叫ばれておられると理解しておりますけれども、官といわゆる政の癒着の構造的な問題を解決しなきゃいけないわけですけれども、このあっせん利得法について、先生の持っている御見解をお聞きしたいと思います。
  42. 佐々木毅

    佐々木参考人 私は細かいことを十分承知しておりませんので、ちょっとお答えする能力に欠けております。  ただ、先ほどもちょっと申しましたように、政と官の接点のつくり方は、あっせん利得罪の枠に入るものは非常に狭い範囲ではないか、もっといろいろルールづくりをすべきではないだろうかというふうに思っております。ですから、あっせん利得罪ですべて片づくという問題では恐らくないのであって、それはほんの一部の問題、非常に特殊なケースの問題だろう。  ですから、先生が言われる政と官の癒着という問題について、まずルールが何なのかがわからない。癒着はいかぬといいますけれども、ではどこまで本当にいかぬのかということがわからない。それから、例えばポリティカルアポインティーで入っていらっしゃった方と官との関係もあるし、そうでない政治家と官との関係というものもあるのではないか。  その意味で、あのあっせん利得罪の問題というのは、入り口ではあるかもしれませんけれども、先生方におかれましては、できればもう少し広い観点からそのルールの問題について御議論をいただく必要があるのではないかということで、ちょっとあっせん利得罪について私は知識が乏しいものですから、大変恐縮でございますが、勘弁していただきたいと思います。
  43. 武山百合子

    ○武山委員 どうもありがとうございます。  もう一つ、最後になるかもしれませんけれども、今後の日本政治を変える大きな原動力になるのが無党派層の国民であると思っておるわけです。この無党派層の有権者が、今回、特異な例としまして、長野県知事選と東京二十一区の衆議院の補選がよい例だったわけですけれども、この現象について先生の御意見をお聞きしたいと思います。
  44. 佐々木毅

    佐々木参考人 先ほどもちょっと最初のお話でも申し上げさせていただいたところでございますけれども、恐らくこれにもいろいろな面がありまして、一つの面は、やはり古い今までのやり方で有権者の支持を集めることが非常に難しい世の中になってきた。その意味で、政党の今までの、こういう言葉が適切かどうかわかりませんが、ビジネスモデルがなかなか機能しなくなっているということが一つあるかと思います。  しかし、他方におきまして、私は、選挙のときに無党派が大きな影響力を持つということはそのとおりとしまして、政治はそれから始まるわけでございまして、その後一体その無党派というものはどういう意味政治を実際に行っていくときの支えになるのかということの問題は、ちょっと違う問題として考えなければいけない。それを何か選挙の話ばかりしているとすべてそれで片づいてしまうというのは、政治を選挙に余りにも限定し過ぎた考えではないかと私は思っております。  ですから、選挙を動かす力はあるだろう。だけれども、では政策をどういうふうに方向づけるというようなこと、あるいはそういう形で選ばれた方が政策を具体的に打ち出したときに、それがどういう形で助けになるのか。無党派というのは一種の消去法的な規定でございまして、それ自体が一つ政党なわけではございません。その意味で、選挙という問題と、政治を実際に行っていくという問題は、少し区別してこの問題を議論しなければいけない。選挙が終わったときから無党派の試練が始まるといえば試練が始まるという面があるという意味で、私は先ほど来申し上げましたように、やはり政党というものがその意味では非常に重要な役割を果たし得るものであるし、果たさなければならないといった趣旨を申し述べた。  ですから、問題は、今度は選挙のときに政党がきっちりしたビジネスモデルで選挙をおやりになれるようにむしろなってもらう必要がある、そんなふうに理解をしておりまして、一応そんなふうな感じだけ申し上げさせていただきます。
  45. 武山百合子

    ○武山委員 どうもありがとうございました。     〔鹿野会長代理退席、会長着席〕
  46. 中山太郎

    中山会長 春名直章君。
  47. 春名直章

    ○春名委員 日本共産党の春名直章です。佐々木先生、きょうは本当にありがとうございました。  官主導から政治主導へという政治改革の重要性をうたわれているわけですが、その背景には、現行の政治あり方国民主権を十分体現していない、そういう問題意識がおありなのではないかと察しております。憲法調査会ですから、私は、憲法の大原則の国民主権との関係で今の政治の現状をどうごらんになっておられるのか、大きな話ですけれども、まず最初にお聞きしてみたいなと思います。
  48. 佐々木毅

    佐々木参考人 これは日本政治一つの大きなテーマだと思うんですけれども、国民との接点が、選挙のときは接点があるんですけれども、その後、これは政党仕組みの問題もあろうかと思うんですけれども、例えば政策面等においてどれだけ継続的な世論づくりというようなものをおやりになっているのか。後援会単位では毎週やっているという方もたくさんいらっしゃると思うんですけれども、それでも、政治家の方はお忙しいのですけれども、日本政党はやはり活動量がまだ非常に少ないんじゃないか、私はそう思っております。  その意味で、昔の何百万人という組織政党をこれからつくるというようなことは私は全く予想はしていませんけれども、活動量というものをもっとつくっていく必要がある。  と同時に、実は、基本は、国会とそれがつくった内閣というものの、先ほど来御質問がございますような、内閣のリーダーシップというのがいつの間にか途中で見えなくなるというようなこと。鹿野先生からも御指摘があった点ともかかわると思うのですが、見えなくなってしまって、どこかに吸い取られていってしまうような感じがあって、内閣の存在感をどんどん高めていくことがやはり国民主権の存在感を高めるということと私はつながると思っておりまして、その意味で、政治主導という問題は議員が御質問になった点と非常に密接に関係しているというふうに私は理解をいたしているところでございます。  だから、これをぜひ立派にやっていただく必要がある。そうしないと、国民主権というものも目に見えた形で生きてこないのではないかということ。そうすると、やれ仕組みを変えるとかなんとかいう話にまたなっていくのではないだろうか、そんな連関で考えておりますので、その意味で私は案外単純に考えているというふうに申し上げるべきかとは思いますが、一応そんなふうに考えております。
  49. 春名直章

    ○春名委員 一人の政治家として、やはり活動の努力をもっとしなきゃいけないということは非常に肝に銘じて頑張りたいと思うのですが、私がそれをお聞きしたのは、官をたたけばという表現は変ですけれども、今の政治の持っている問題を解決できるというふうには単純にはならないと思っていまして、それは先生もそうおっしゃっているわけですが、やはり根本原理の国民主権ということを名実ともに政治の舞台で実行していくということが原則だなと改めて実感しているものですから、最初に御質問をさせていただきました。  そこで、政治家官僚、政と官の実質的分離ということについてですけれども、官に対する政の主導性が発揮される上で、政と官の実質的分離が前提として必要だと思うのですね。政治改革を実行してきたと今されているわけですけれども、残念なことですが、中尾前建設大臣のあの問題だとかKSDの疑惑の問題だとか、今でも相変わらずそういう問題が噴き出してくる。それを見ると、やはり政官業の癒着を断ち切ることが引き続き最も急がれる改革の中身じゃないかなというふうに私は思っています。根底にある企業献金の全面禁止、それから天下りの禁止、政策や人的資源を過度に官僚に依存する体制をやめることなどがどうしても必要になっているのじゃないでしょうか。その点での参考人の御意見をお聞きしたいと思います。
  50. 佐々木毅

    佐々木参考人 おっしゃられるような点については、なおいろいろ改革を進めていく必要があるということは、私もそう思っております。  個別にはいろいろまた議論をする必要があろうかと思うのでありますが、政と官の問題について申しますと、結局、今何かルールがそもそもあるのかということがよくわからない。だから、何を変えるのかもわからないという非常に困惑した状態にあるので、恐らくこれからルールをつくるというお気持ちでおやりいただく必要がある。  ですから、はっきり申し上げると、ルールがないというルールがあるようにさえ見えるわけでありまして、これは結果として双方にとって好ましい結果を生むとは限らない。むしろきっちり自分たちの職務を明確にすることが、個々人にとってもいろいろなものに思わぬミスをしないということでもあるし、国民によってもその方が尊敬される可能性がある。  ここはいわば権力を行使する人々の間の関係をつくりかえるという仕事でありますので、私は、やってはいただきたいのですが、そう簡単に実現するかどうかはわかりません。ただ、もし議員のようなお考えですと、一体今どういうことがルールというふうに見えてくるのか。だからこれはこう変えようという話になると思うのです。どうも私の認識では、ルールがないことがルールになっているという表現はおかしいですけれども、それにいささか近いのではないか。だから、これはその意味では大仕事ではないだろうかというふうに考えているところでございます。
  51. 春名直章

    ○春名委員 そのルールが、企業献金の禁止の問題だとか天下りの禁止だとか、そういうところからやはり取っかかりを進めていくことが大事かなと私は思っていまして、そういう質問をさせていただきました。  それから、日本国憲法は前文で、日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動するということで、つまり国民主権を体現化していく上で議会制民主主義に基づいて政治を行うということが明記をされているわけです。その具体化として、四十一条で国会を国権の最高機関として位置づけて、唯一の立法機関と位置づける等々の内容が明記をされているわけです。こういう議会制民主主義の発揚というのは社会の民主的な発展方向だと思いますので、将来にわたってその基本はもっと守るべきだし、発展させなきゃいけないというふうに認識をしています。  ところが、質問はここからなのですが、現実政治の方がこの原則を発揮することを妨げているという傾向が強いように思うのですね。つまり、議会制民主主義を保障するかなめというのは、国民意思が国会に正確に反映していくということがあって初めてそれが実現していくわけであって、例えば選挙でいえば、一票の格差が二倍を超える事態がずっと長期にわたって放置されていたり、参議院の選挙では五倍になっていたりとか、そういう問題。あるいは、九割以上の国で実施をしている十八歳選挙権がいまだに残念ながら実現していない、実施されていない、こういう問題。あるいは、欧米では戸別訪問などを含めて原則自由となっている選挙活動が、日本の場合は原則禁止といいますか、こういうふうになっていることなど。  つまり、国民の意思が国会にきちっと反映をしていくということのルールが、余りにも禁欲的というか破壊されているといいますか、そこが私は二十一世紀に解決すべき大きな問題じゃないかと思っているのです。こういう改革議会制民主主義をうたう憲法の要請ではないかと思うのですけれども、この点については、参考人佐々木さんはどういうふうにお考えでしょうか。
  52. 佐々木毅

    佐々木参考人 それをめぐっては、議論すべき問題はたくさんあるというふうに私も認識しております。ただ、意見はいろいろ出てくるのかな、個別的には。  ただ、今議員が最後の方でちょっとおっしゃられました選挙活動をめぐるいろいろな規制、こういったものについては、私は、いわゆる規制緩和の流れの中でぜひ再検討をお願いしたいものの一つでございます。いろいろな意味で過剰に規制、何か国民に警戒を呼びかけるような感じで仕組みがつくられているような感じさえするわけで、これこそある種の政治に対するバイアスを何か選挙のときに植えつけているという表現はちょっと強過ぎるかもしれませんけれども、ぜひ見直しをお願いしたい。  そして、大事なことは、やはり国民が選ぶための材料をできるだけたくさん提供するということが、議員が言われる趣旨のいわばスタートでございます。そこが、できるだけ伝わらないようにするというわけでもないのでしょうけれども、見えにくいような形になりますと、やはり非常に初めから出発点がずれてしまう。ほかにもいろいろございますけれども、例えば、その意味では公職選挙法という法律につきましては、ぜひ一度抜本的に御検討をいただきたいというふうに私自身は考えております。
  53. 春名直章

    ○春名委員 ありがとうございました。  四点目に、九十六条の改正手続問題についてお聞きしておきたいと思います。  陳述の中で、発議できない状況をつくることが政治にとって余りよいことではない、そしてよどみを生んできた一つの理由になっていないかという問題提起をされました。  私はちょっと意見を異にしているので、意見を伺いたいのですけれども、発議しにくい、できない事態が結果としてあったのかもしれません。しかし、それは日本国憲法自身がそれだけ国民の間に定着し、愛着を持って受けとめられてきたということの証明にほかならないのではないかというふうに私は思います。  三分の二、過半数という、ある意味ではハードルが高いというふうに言われる人もいますけれども、それを越えるだけの論拠がないといいますか、それだけやはり三原則あるいは五原則と言われている憲法が定着しているということの反映ではないかと私は思うのですが、その点についてはどうお考えでしょう。
  54. 佐々木毅

    佐々木参考人 議員がおっしゃられる側面があったことは、私も否定するものではございません。  基本原則をそんなに簡単に変えるということは、これはやはりできない、難しい問題だろうと思うのです。しかし、憲法についてのあらゆる話が全部基本的にそういう感じで受けとめられるようになってしまった。つまり、変えられない、動かせないということになったという、いろいろなものを少し区別して考えてみる必要があるのではないかということをむしろ私は申し上げたいわけでございます。  ですから、あらゆることを同列に扱えという趣旨できょう申し上げたのではございません。いろいろな問題について、難しい問題、意見の違いがある問題——ですから、例えば論争度の少ない問題からでもいいから扱っていくというようなことがやはりあってしかるべきではないかということが、私の申し上げたいことの趣旨でございますので、若干御質問と私の考えとは、矛盾しないというわけでもないのですけれども、少なくとも、私の趣旨を申し上げればそういうことでございます。
  55. 春名直章

    ○春名委員 憲法議論するということは、各常任委員会とか、国会ではやってきたと思うのですね。ただ、憲法議論することと改正手続をどうするかということは区別しなければいけないことだと思っていまして、私はそういう趣旨で質問させていただいたつもりでして、やはり憲法改正の法的限界といいますか、そういうことは学界でも議論されていますし、特に国民投票制なんというのは、国民主権という原則を改正手続に原則化したというか体現化したというか、そういう性格のものですから、そういうものを変えやすく手続を変えてしまうということは、この憲法の原則を踏みにじることになりかねないという気がして、その点は、私自身の思いですので、発言させていただきたいと思います。  それから、政治改革に長年携わってこられたので、いろいろな意見が聞きたかったのですけれども、時間が来ましたのでやめておきます。非常に貴重な意見をいただきまして、参考になりました。ありがとうございました。
  56. 中山太郎

  57. 日森文尋

    日森委員 佐々木先生、大変お疲れのところ恐縮でございますが、社民党の日森でございます。質問を幾つか用意したのですが、それぞれ質問された方もいらっしゃいますので……。  政治改革について研究されていまして、全部は読めなかったのですが、膨大なドキュメンタリーを国会図書館からお借りいたしまして、目を通させていただいたのですが、私は議員になってまだ四カ月でございますけれども、今の国会あり方に大変びっくりしているわけです。先ほど共産党さんの方もお触れになりましたけれども、議会制民主主義というのが一体どうなっているのかという疑問を大変持ちました。  先ほど先生がずっと主張されていました政治主導の問題なのですが、内閣の主導権ということがもちろん発揮をされなければいけない、と同時に、チェックだけではなくて、政策なんかについて国民にわかりやすくきちんと解明をしていく、そういう意味での議会制民主主義というのは大変重視されなければいけないというふうに思っているのですけれども、先生の官主導から政治主導へという政治改革の流れの中で、議会制民主主義というのはどう位置づけられていらっしゃるのか、最初にお聞きをしたいと思います。
  58. 佐々木毅

    佐々木参考人 官主導から政治主導へというのは、いわば国会の問題というよりも内閣の問題という形で、ある意味国会の問題を読みかえたというところが確かにございまして、国会のことについて直接お話ししていくような構成には確かになっておりません。ただ、国会における与党・野党関係というのが国会の基本であるということは、内閣というものを中心に考えれば当然そういう帰結になるわけでございます。  ただ、国会というものの役割は、もちろん内閣をつくるだけではございませんで、たくさんあるわけでございます。特に、四十一条に見られますように法律をつくるということのみならず、財政その他にわたりましてたくさんの仕事を持っていらっしゃるというふうに私は思います。  ただ、これは私の率直な印象ですけれども、日本の議会は、何といいますか、統計を厳密にとったことはありませんけれども、世界的に見て、余りたくさん開かれている議会ではないと思います。どちらかというと非常に休みの多い議会で、しかも、先ほど申したように会期ごとにぷつぷつ切れるものですから、大変その意味で、狭いところに一挙にいろいろなことがあって、だから、恐らく議員さんとしては、いろいろなものがわあっと押し寄せてくるという中でお暮らしになっているのではないかという想像をいたしております。  ですから、例えば通年でいろいろな問題を考えるというような形で、休会はありますけれども、ずっと審議を続けていくというようなこと、さらに申し上げますと、そもそもこれだけ窮屈なところで憲法改正発議などということができるのだろうかというのが非常に素朴な疑問でございます。  そういう意味で、国会運営方式につきましては、私も大変つたない意見を申しましたけれども、ぜひ実を充実させるような形で、国会をすべてこういう形のものだというふうにお考えになる必要はないだろう。あるいは、衆参で違う考え方もあるかもしれないというあたりにつきましては、実は、幾ら議論が出されても国民は基本的に喜んで受け入れるのではないかというふうに私は期待をいたしておるわけでございます。  特に、この間、国会が動かなかったというようなことが起こったということについて、やはり三十年、四十年前とは国民の感覚は大分違ってきている可能性があると思いますので、そういった点について、与党、野党それぞれ位置を変え得る可能性が将来的にあるということであれば、何らかの形で共通の新しいルールをつくっていただきたい。  ですから、私は国会については、ゆっくり審議する時間を持つような場にしていただかないことには、何をどうしようといったって、時間的な余裕が非常に少ない組織になっているのではないだろうかということを何よりも申し上げたいと思います。以上です。
  59. 日森文尋

    日森委員 ありがとうございました。与党の方にぜひ聞いていただきたいような話でございました。  ともかくアメリカ型のような格好でゆっくり議論ができる、それぞれ納得のいく議論の結果法律が成立をしていく、そういうシステムというものをこれから真剣に考えていきたい、こんなふうに思っています。  それから、先生は、政治改革の御研究の中で小選挙区制の問題についてお触れになっています。これはもう先生の持論であると思うのですが、政権交代可能な制度一つ、そう明言されたかどうかちょっと記憶にないのですが、そういう御主張がございました。現実、確かにまだ始まって時間が余りたっていないわけですから、評価というのは難しいかもしれませんが、現状までの小選挙区制度についての先生御自身の評価がございましたら、一言お願いしたいと思います。
  60. 佐々木毅

    佐々木参考人 議員がまさに御指摘になりましたように、一つ仕組みというのはいろいろな姿をとってあらわれるものですから、私自身は余り早く結論を出すことには賛成いたしかねるという面がございます。  二回やったわけでございますけれども、私の率直な個人的な感想を言いますと、それぞれ違った面が見えたのではないかなというふうに私自身思っているところでございます。それから、もちろん地域によって、候補者個人によりましても随分バラエティーがあるわけでございまして、これを一刀両断的に議論するということは、十分な資料もないし、私はすべきではないんじゃないかというふうに思っております。  ただ、一言申し上げさせていただければ、先生は今度新しく来られたかもしれませんけれども、候補者も昔の人で、運動する人も昔の人でという中で、選挙制度を変えればすべて変わるということは、まず普通考えて余りあり得ないところもございます。それから、一体国民は何を基準にして選んでいるんだろうかというようなことについても、私は実にバラエティーがあるのではないかと思いますが、私は、動きとしては、それなりに一定のプラスの効果は持ち始めているのではないか、そのように一応総括をしているところでございます。
  61. 日森文尋

    日森委員 ありがとうございました。  時間がもうほとんどなくなって、憲法の問題については触れられないんですが、一点だけ、憲法についてはさわってはいけないという風潮があるという御指摘もありましたし、先生の方からは、国民的合意ができる、直接国民生活に重大な影響を及ぼさない、そういう項目について発議をして、論議をしていったらどうかというお話がありました。確かにそうかなという気もするんですが、一方では、憲法全体について、定着はしているということを前提にしつつも、まだまだ国民の中に本当に浸透しているのかという不安を持っているんです。  先ほど、憲法を変えた方がいいよ、無関心の若者層もそう言い始めているという御指摘がございましたけれども、実は浸透していないがゆえにそういう議論が出ているんじゃないかという気がするんです。  ですから、それは歴史的な経過もあると思うんですが、一つは、憲法裁判所というのがないんですね。我々の身近に実は憲法というのは生きているはずなんですが、それを司法の場で、国民の側で本当に争っていくようなそういう場が保障されていないために、しかも一般の裁判所でやる憲法裁判ですと、結局民事訴訟みたいな、お金がどうこうということがないとできないということがあって、なかなか憲法について身近に理解をしていくということが不十分だったんじゃないかという気がしているんです。  その辺について、何かお考えがありましたらお聞かせください。
  62. 佐々木毅

    佐々木参考人 憲法裁判所という制度につきましては、私も一つの選択肢として考えられるかもしれないというふうに思いますが、ただ、これは実際に詰めて考えていきますと、なお十分心証を得るに至っていないというのが現在のところの感想でございます。  それは、今議員がおっしゃられたように、もう一つは司法制度の問題がやはりあるんだと思うんですね、実際問題として。今の仕組みでも、もう少しいろいろな意味で裁判所の判断が下るというような仕組みに変わりますれば、あるいは若干違ってくるかもしれない。ですから、今司法制度改革問題をやっていますけれども、例えばそういうものとの連関で、今議員がおっしゃられたような憲法問題が、今の枠の中でもそれなりに従来以上に身近な形で取り上げられ、判断が下されるというふうな道が開かれることも、それはあり得るのかもしれない、私もよくわかりませんけれども。  ですから、憲法裁判所を別につくるという考えもありますけれども、今の制度でキャパシティーを上げていくというような形で問題に対応するということもあり得るのかもしれない。憲法裁判所の場合の一番の問題は、一体だれを任命するかという問題なんですね。また話がぐるぐる回ってしまうということがないかどうかということについて、一つには、私個人、なかなか心証を得られないということがあるものですから、そういう点で、ちょっと、なかなか歯切れのいい話にはまだ私の頭の中では整理ができていないというのが今の状況でございます。
  63. 日森文尋

    日森委員 ありがとうございました。  それからもう一つ、首相公選制について若干お触れになりました。それは確かに、内閣の主導権、指導力という意味から考えて、ある意味ではそうかなという気もするんですけれども、閉塞感の中で、首相ぐらいは自分の手で出そうというふうにどなたかおっしゃったのですけれども、実際にはもう一つ側面があって、その閉塞感というのは今の政治不信と直結していると思うのです。だから、強力な、ともかく腕ずくでも強引にどこかに引っ張っていっていただいて、国民生活をよくしてくれる、そういう期待感も半面あるんじゃないか、大変危険な兆候だというふうに私個人は思っているんです、どなたとは言いませんけれども。  実際に、そういう風潮の中で直接選挙で首相が選ばれるということになると、逆に言えば、それは我々の仕事がまだ不十分だからという側面もあるのかもしれませんけれども、大変危険な結果にもなりかねないという気がするのです。ですから、先生の場合、システムということをおっしゃいましたから、そこがしっかりしていないと、大変危険な方向に国民全体が引きずられていくということにもなりかねない公選制という制度の側面があると思うのですが、それについて先生の率直な御意見なり感想なり、ございましたらお聞きしたいと思います。
  64. 佐々木毅

    佐々木参考人 一つは、世に言う公選制なるものが、例えば議会との関係がどうなるのかというような制度仕組みとしても、さっぱり私には具体的な姿がよくわからない。いろいろな意見は恐らくある。つまり、議会の首相を選んでいるという意見であるように見えて、実は大統領を選んでいる心境の意見もその中に入っているんだと思うのです。ですから、制度的なイメージがわからないのでその議論が非常にしにくい、期待感は上がる、ここが一つ非常に大きな論点でございますので、ぜひこの調査会でも御検討いただきたいというふうに思っているところが一点でございます。  もう一点は、議員が御指摘になられましたような、いろいろな政治的な危険性の問題というのはございます。俗に言うところのデマゴーグといったようなものが出てこないかどうか。何か非常によさそうな話をして国民の支持を得るような政治家がぞろぞろ出てきて、さっぱり実際とは間尺が合わないというようなことになりはしないか。  その点でいいますと、私は、あえて言うとこういうことだと思うんです。どの政策がいいかということを国民が選ぶ政治は、やはりそれなりの政治としてある種の安定性を持っている。ところが、何でもいいからやってくれというような話の選び方は、これはちょっとレベルが違うわけでありまして、必ずしも愉快な話ではないというふうに思うのですね。ところが、この二つがごちゃごちゃに混同されているということもないわけではないということなんですね、今の私たちの問題は。  ですから、Aという政策とBという政策でどっちを選ぶかという話の段階で動いているうちは私は余り心配はしないのでありますが、とにかくやってくれ、何でもいいからやってくれという、そのやってもらうこと自体に何か非常に快感を覚えるような話になってきますと、ちょっと話は違ってくる。そこの点をやはり区別して整理をすべきだろうというふうに私自身は考えております。  以上です。
  65. 日森文尋

    日森委員 終わります。ありがとうございました。
  66. 中山太郎

    中山会長 近藤基彦君
  67. 近藤基彦

    ○近藤(基)委員 佐々木先生、大変お疲れさまでございます。私で最後でございますので、もう少しおつき合いをしていただきたいと思いますが、21世紀クラブの近藤基彦でございます。  私も、今の日森先生と同じように四カ月前に当選させていただいたんです。私ども21世紀クラブは、無所属で当選をしてきて、会派を衆議院の中で組ませていただいておるのです。私自身は、平成八年の小選挙区の導入のときに立候補をして、そのときも無所属だったんですが、残念ながら当選できなくて、今回当選させていただいたんです。その間に、私ども無所属で戦っていましたので、私どものような保守的な田舎の選挙区でも、無党派層というのがかなりふえている。  私ども、都市型の選挙はちょっとよくわからないのですが、一つの要因として、この小選挙区制が導入をされ、私どもの田舎のような選挙区ですと、何となく自民党の公認をとっておけば当選ができる。前のように中選挙区で、このときにも、同党内で候補がつばぜり合いをしてサービス合戦で金がかかるとか、いろいろな問題が出てきて小選挙区制が導入をされたのですが、一つの弊害として、党勢の拡大あるいは政党政策の広報という面では、党勢拡大しなくても、一人の絶対権力者という形になりますので、多少自分の政党の人間にサービスをしておけば何となく次の選挙も大丈夫だというような雰囲気の風潮が出てきております。どうもその辺が弊害になって、いわゆる若い人たちの関心政策の面で誘ってこなかったという部分があるのではないかと思うのですが、地方と都市型とは若干違うのかもしれませんけれども、その辺の弊害。  そして、田舎では、地方では特にそうでありますが、小選挙区制を導入されたときに、日森先生も今おっしゃいましたけれども、政権交代が容易になる、いわゆる二大政党、今アメリカで大統領選をやって、結果はまだ私聞いていませんが、二大政党制を目指してというようなニュアンスの小選挙区制の導入もあったかに覚えておるのです。その辺、今後、小選挙区制あるいはこの選挙制度で、先ほども日森先生がお聞きになっておりましたけれども改めて、重複するかもしれませんが、御所見をお願いしたいと思います。
  68. 佐々木毅

    佐々木参考人 私も将来のことについては必ずしも十分自信があるわけではございませんが、ただ、次のような面があったと思います。  つまり、小選挙区制というのは、強弱が非常にはっきり露骨に出ちゃうわけでございますね。中選挙区制五議席のところで二議席とれたところが、全部一つずつ小選挙区にするとゼロになっちゃうというような、いわば強制的なある種の民意の明確化といいましょうか、あるいはそれをはっきりさせるといいましょうか、そういうようなことが、政権がどうなるかという問題とは別に、国民レベルではあるのではないかなというふうに私は思っております。  実は、ずっと日本の有権者というものを考えていきますと、いろいろな有権者が実際はおるわけですが、その有権者の間で意見の違いや政策についての期待の違いというものが浮き上がってくるといいましょうか、そういうプロセスは非常に見えてきたなというふうに私は思っております。ただ、それが、議員がおっしゃられるように、政権がどうなるかとか政党システムが二つになるかとかという話と必ずしも直結するかどうか、これは皆様方の御活動次第というところもあるのです。  ただ、私は、先ほど来の御質問ともかかわるのですけれども、特に衆議院の選挙制度に即して言えば、これを余りいろいろな形で変えますと、議員は無所属ということであれなんですけれども、政党そのものが非常に大きな影響を受けることになるのではないのか。つまり、片方で無党派の動きがどんどん広がる、それから議会制とは違ったものを願望するような流れもある。  実は、政党議会制というのはセットのものでございますから、政党がいろいろな意味で流動化を始めるような方策をとると、政党自体が、辛うじてまとまってやっていたもの自体がまたどんどん流動化していく。そのことが果たして議会制のある種のガバナビリティーというようなものにとってどういう意味を持つのかという部分で、私個人はかなり神経質になっているところでございます。ですから、大変保守的な言い方なんですけれども、まさに余り揺さぶらないでこれでやっていくということがやはりベターではないかな。  それがどういう政党制になるかは私にもよくわかりませんが、帰するところ、与党ブロック、野党ブロックみたいな形には、何かそういうイメージというものには恐らくなるであろう。それも、ただいろいろな野党があってとかいろいろな与党があってということではないような形の政治のイメージに恐らくなっていく。その意味で、国民は、どちらかを選ぶという選択肢はそれなりに単純化された形である面与えられる。ただし、野党の中でどこへ入れるかという問題は、これはいろいろあるのですが。それで大枠の政治的な選択肢を提起することはできるのではないだろうかというふうに思っているというのが今のところでございまして、それ以上具体的な展望を言えと言われましても、ちょっと私申しかねるという状況にございます。
  69. 近藤基彦

    ○近藤(基)委員 私もいつまでも無所属にいるつもりはありません。やはり当然、議会制ですから、政党政治という、政党内での政策の立案という形になり、それを国民に理解していただくのが我々の使命だろうと思っております。ただ、このまま小選挙区を私どものような地方の選挙区で続けていくと、何となく、片方に偏るのか、無党派層がもっとふえていくのかという危惧を抱いている一人であるということであります。  もう一つ、選挙制度とはちょっと別に、先ほど日森先生がお聞きになりましたが、首相公選論であります。  現在の制度でいけば、恐らく首相公選というのは不可能だと思いますし、議会制民主主義で、憲法云々とは別な形にして今すぐに首相公選をしたとしても、システム的になかなか難しい問題だ。  その首相公選論も、先ほど先生が言われたように、内閣と別に大統領制をしくかあるいは内閣の長を選ぶかというようないろいろな議論があるのですが、先生が今までおっしゃったように、政治主導という、政治トップリーダーが必要だという形において、やはり政治家の中での力関係というよりも、それ以上に、国民的な人気というよりも、国民に理解をされて引っ張っていけるような人物ということになれば、帰結するところは、最終的にはやはり国民投票かな。例えば、議会内である程度候補者を決めて、それで国民判断をしてもらうという方法もあるでしょうけれども、私自身としては、最終的にはやはり国民的な判断が必要になってくるのではないのかなという気がするのですけれども、その辺の御所見を。
  70. 佐々木毅

    佐々木参考人 私は、今の選挙でも実際は首相を選んでいるのだろうと思うのですよ。具体的に言えば、例えば森さんと鳩山さんでしょうか。そう言うと、いや違うというふうにおっしゃるかもしれない。選んでいるような仕組みは事実上もうでき上がっている。  ただ、それをどういうふうに意識しているのか、あるいは意図的にそういうふうに行動するのかという点で、今議員がおっしゃられたような仕組みにしますと、これはかなり違ったものに恐らくなる可能性はあるでしょうということはそのとおりだろうと思います。  ただ、実は一番難しい問題は、イスラエルで首相公選をやっているわけです。私も及ばずながら少し勉強させていただいているのですけれども、結局、一つは、議会を解散できるのか、それから、議会が首相を辞職させることができるのかという、まさにその議会制制度的なロジックのところが非常に難しいということがございます。つまり、議会制の中に公選した首相を入れ込むというやり方であります。極端に言えば比例のトップみたいな人を入れ込む、こういう仕掛けなのですが、評価を聞いてみますと、やはり余り成功ではなかったということ。  というのは、国民が、首相を選ぶ票と議会を選ぶ票と二票持ったために、こっちはこっち、あっちはこっちというやり方をとったために、かえって大政党が弱くなってきてしまって、小政党がたくさん出てくるようになってしまって、しかも議会が首相に対していろいろな影響力を持つものですから、何かリーダーシップのはずだったものが、実は全然リーダーシップにならないというような解説もあるようでございます。  それからまた、大統領制的なものにしてしまうということは、これはいろいろな問題がございましょうけれども、世界の中で大統領制がよく動いているという評価をされている国は、ただ一国、アメリカ合衆国だけでありまして、ほかについては、我々の専門家の評価は押しなべて低うございます。つまり、政治的な危機が民主制の危機によくつながるという問題が大統領制にはございます。  ですから、トップリーダーを強化するという意味では確かにそういう筋は考えられるのでございますけれども、そういう形の大統領のトップリーダーもしばしば、ちょっと南の方にも大統領制の国がございますけれども、最初のうちは続いても、二年、三年とたつうち、その後はだんだん影響力が少なくなってくる。あるいは再選問題をどうするかとかいう問題、お隣の国でも非常に重要な問題で、こういった問題は実はかなり難しい問題としてやはりそれなりに出てくるのだろう。  ですから、私は、制度論的に言えば、どっちもそれなりのリスクを持っておるわけでございまして、議会制にしろ大統領制にしろ、いずれにしても、それを動かすためには相当な努力をしないと動かない点では変わらないんじゃないだろうか。その意味で、霧が晴れるように局面が一気に変わるというのはちょっと余り現実的な議論ではないという意見を私個人は持っておりまして、機会があれば、もう少し細かく文章に書いて展開したいというふうに思っております。
  71. 近藤基彦

    ○近藤(基)委員 そういう文章ができ上がりましたらぜひ参考にさせていただければと思いますので、よろしくお願いします。  もう時間が来ましたので、これで終わらせていただきます。本当にありがとうございました。
  72. 中山太郎

    中山会長 これにて参考人に対する質疑は終わりました。  この際、一言ごあいさつを申し上げます。  佐々木参考人には、大変貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。調査会を代表して、厚く御礼を申し上げます。 (拍手)  この際、休憩いたします。     午後零時三分休憩      ————◇—————     午後三時十四分開議
  73. 中山太郎

    中山会長 休憩前に引き続き会議を開きます。  日本国憲法に関する件、特に二十一世紀日本のあるべき姿について調査を続行いたします。  午後の参考人として南山大学教授法学博士小林武君に御出席をいただいております。  この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多用中にもかかわらず当調査会に御出席いただき、まことにありがとうございました。参考人のお立場から忌憚のない御意見をちょうだいし、調査参考にさせていただきたいと存じます。  次に、議事の順序について申し上げます。  最初に参考人の方から御意見を一時間以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答えを願いたいと存じます。  なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることになっておりますので、あらかじめ御了承を願いたいと思います。また、参考人委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、よろしく御承知のほどを願います。  御発言は着席のままでお願いいたします。  それでは、小林参考人、お願いいたします。
  74. 小林武

    ○小林参考人 御紹介を受けました南山大学の小林武でございます。憲法学の研究に従事をしております。本日、発言の機会を与えられましたことにつきまして、会長を初めとして委員の皆様に感謝いたします。  憲法は、主権者である国民の作品でございます。九十六条が、憲法改正発議権を内閣には付与せず、国民代表議会に限定いたしまして、その採択は国民みずからが行うことを定めているのも、単なる手続ではなくて、国民憲法をつくるというその原理を表明したものにほかなりません。  私は、そのような地位にある主権者国民の一人として発言をしたいと思います。  公述を求められましたテーマは、二十一世紀日本のあるべき姿というものでありますが、これにつき私は憲法研究者の立場から考えをめぐらしました。九月以降のこのテーマ参考人法律家がほとんど含まれていないことにやや不思議の感を抱きつつ、私は法律論、憲法論にほぼ終始するお話をいたします。  以下、お配りいたしました簡単なレジュメの項目に沿って進めたいと思います。  まず一では、二十一世紀日本像に関する憲法調査会としての検討はいかにあるべきかを述べまして、次いで二で、この半世紀余りの我が国憲法をめぐる状況、特に憲法の実現にさまざまな影響を及ぼしてきた要因について検討いたしまして、その上で三で、二十一世紀日本において憲法を生かす条件は何かということについて述べたいと思います。  一に入りますが、さて、二十一世紀日本のあるべき姿というテーマは、推測いたしますと、いわば二十世紀のたそがれにたたずんで新世紀のあけぼのをこの目にとらえようという趣旨から設定されたものであるのかもしれません。また、日本の姿なる言い回しは、今は人口に膾炙しております司馬遼太郎氏のこの国のかたちという表現になぞらえたものとも思われます。  それは、この作家が日本について四季折々感じたことを盛り込む器を意味するものとして使い始めたものでございまして、いわば融通無碍の用語であります。それだけに、いかようにも用いることができるものです。つまり、統治仕組みを指すものとして使用されたり、また、それに飽き足らず、いわゆる国家の基本問題を含むものとして、この国の形と心として使う、そういう例も見受けられます。  私は、差し当たりここでは、姿あるいは国の形というこの言葉を、憲法の諸原則の示す社会と国のありよう、その意味憲法構造を示す言葉として用いたいというふうに考えております。  この国のありようが、世紀転換点の現在、さまざまな立場からではあれ、広く論じられております。もとより、時の流れは自然の経過でありまして、新世紀を迎えると必然的に日本の姿に新時代が到来するというものではありませんが、今二十一世紀憲法構造を展望しておくことは、憲法調査会にとっても必要な課題であると言えましょう。  ただ、日本のあるべき姿をほかならぬ憲法調査会調査をするというとき、それは当然ながら憲法に照らして調査するのでなければなりません。逆に、もし日本国憲法の五十年余りの歩みと切り離して国の未来像を描き、その描いた姿から憲法を点検して、そこからの乖離を指摘して改正の必要を説くなどといった方法をとるのであれば、それはまさに本末転倒であります。  国会法百二条の六に基づきまして、日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行うことが本調査会の任務である以上、なされるべきは、憲法の半世紀を客観的に検証して、それが実現され、また、実現を阻まれた要因を明らかにし、その上で二十一世紀においてこの憲法を生かしていく可能性を追求することでありましょう。  また、憲法に対する評価を行うとき、憲法現象は自然現象ではありませんから、各人がそれとどのようにかかわってきたかが問われます。とりわけ国会議員は、主権者国民の代表者としての権限を授けられた地位にいて憲法の実践に当たっておられるわけでありますから、憲法に対して日々、国民一般とは比較にならない強い影響を及ぼし続けてきたのでありますから、みずからが、またその属する各政党が、この半世紀の間、日本国憲法に対していかなる態度をとってきたのかということが格別に重要な問題となると思います。したがって、そのことと切り離して、あたかも憲法に対する審判者のごとき高みに立ってそのあるべき姿を論じることはできないと思います。  憲法制度疲労を来しているという言い方もよくなされるわけでありますけれども、その場合、憲法が疲労を来すほどそれを使ってきたのかどうかということを振り返る必要があると思います。また、本調査会会議録を見ますと、いわゆる新しい人権を憲法典に挿入すべきであるとの主張が少なからずなされておりますが、その場合も、これを主張する委員方が、またその所属する政党が、これまで、例えば環境権の実現に汗を流したことがあるのか、逆に、それに非好意的、さらには阻止的な態度をとってこなかったかどうかを顧みないまま主張されているのは、いささか奇妙な感がいたします。すなわち、議会において国民の代表者がする憲法論議は、各自がこれまでどのように憲法を解釈し、政策化してきたのか、その実践について国民に対する責任を自覚した上でなされなければならないと私は考えるものであります。  なお、付言いたしますが、先日、少年法改正が、必ずしも十分な審議を尽くさないまま衆議院において可決となったようであります。思えば、少年法は、次の世代とこの国の未来にかかわる代表的な立法であります。本調査会で未来を論じている以上、せめてこうした立法は、国民がさまざまな意見を反映できる時間をとり、それを踏まえて各会派、各議員のできるだけ広い合意を追求すべきであろうと思います。国会で行われていることは少々不整合、ばらばらではないかという印象を受けている次第であります。  (2)に入ります。  憲法調査会は、国会法上、さきに触れましたとおり、日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行う調査機関として位置づけられておりまして、加えて、その趣旨を運営の場で具体化するものとして、議案提出権がないことを確認し、調査期間はおおむね五年程度をめどとするとした申し合わせがなされているわけでありますが、これは、本調査会が作業をする際に絶えず立ち返るべき基本ルールであります。このことは、政治的動機は別にいたしまして、改憲の発議はもちろん、それを目的にした調査もできない旨の法的束縛をみずからに課したことを意味すると思います。  一九五〇年代に内閣に設けられました旧憲法調査会の場合は、当時の憲法調査会法第二条で「日本国憲法に検討を加え、関係諸問題を調査審議し、その結果を内閣及び内閣を通じて国会に報告する。」と定められておりました。これは、そもそも内閣憲法改正について原案といえども提案権を持ち得るのかという憲法九十六条にかかわる問題を引き起こしたのでありますけれども、ともあれ、そこに言う審議は、議決を含むものと解されておりました。  このたびの本憲法調査会は、国会に設置されたもので、法制度上は発議権を持つ機関とすることも可能でありました。そのことを承知の上でみずからの権限を制約されたわけでありますから、本調査会はそこからくる窮屈さに耐えなければならず、そしてそうすることこそが法治主義に忠実な態度であるというべきであると私は思います。  それにもかかわらず、本調査会のこれまでの会議録には、拝見いたしますと、三年目には調査会として新しい憲法の概要を示す、五年目には新しい憲法の制定を図るという趣旨の発言が一再ならず記されております。そこでは、法の定めとみずからの申し合わせが顧みられておりません。法治主義への誠実さが求められるのではないでしょうか。  本調査会役割は、あくまで日本国憲法について調査する、つまりその誕生と半世紀の運用実態及び新世紀における運用の可能性を、ほぼ五年をかけて客観的に調査すること以外の、またそれ以上のものではありません。現行憲法を改定するとの結論を積極的に出すことを本調査会は禁じられているわけであります。もし改定が必要だというのであれば、おおむね五年をかけてするこの調査の後に、新たに別個の場と手続を設けるべきであって、それが法治主義の最低限のルールであると考えます。  活動開始後、これまで十カ月近くをけみした本調査会は、会議録を拝見いたしますと、その実態において、あたかも憲法改正調査会の様相を呈しております。例えば、本調査会のする調査は改憲目的のものであり、護憲の立場を貫くことは憲法調査会の本旨にもとるという趣旨の発言まで出されております。護憲、改憲、いずれの立場を選択するかは各委員の自由に属する事柄でありますけれども、さきに申しましたとおり、憲法調査会のありようは法に基づいて定められているのであって、その本旨を言うのなら、それは日本国憲法についての客観的調査にほかならないのであります。この点を強調しておきたいと思います。  なお、私は、本調査会の活動計画、特に調査テーマの設定をより体系的なものとされますよう望んでおります。これまで、憲法の制定経緯から入りまして、戦後の主な違憲判決を一べつし、ヨーロッパ四カ国の調査を経て今般の二十一世紀論へ進んでいるわけであります。参議院の調査にも同様の印象を抱くわけでありますが、それはさておきまして、本院の調査にも必ずしも十分な体系性が見出せないように思われます。  特に、違憲判決のテーマにつきましては、内容上、学説や下級審で違憲とされた法令を合憲と判断した多数の最高裁判決を対象としなかったということに加えまして、最高裁の当局から説明を聴取するものでありましたから、三権分立や司法権独立の原則からしても、国会調査権が限定されざるを得ないこととなりまして、しかも一度限りの調査でございました。果たせるかな、この調査について会議録を拝見いたしますと、中身はほとんどなく、結局、憲法裁判所制度の導入のためには改憲が必要であるとの主張を最高裁に認めさせたということだけが浮かび上がってまいります。  違憲審査のあり方は、本来憲法調査会が取り上げるべき最重要のテーマ一つでありまして、特に、憲法価値の実現を阻む大きな要因となってきた最高裁判決を広く俎上にのせて調査すべきであると考えます。この点は、後に私なりの角度から少し検討いたします。  二に移ります。  日本国憲法現実政治と乖離したものになっているとの議論は、本調査会でもしばしば出されております。この見解は、多く九条を取り上げまして、しかも自衛隊を合憲とする立場のものであります。自衛隊が合憲なら憲法との乖離はないはずでありますが、論理の整合性にはとんちゃくせず、乖離を埋めるために改憲が必要だと説かれるわけであります。  確かに、国民の実生活は日々進展し、変容を遂げますから、その意味では、憲法のみならず法規範はすべて、その制定の直後から古くなっていく宿命を持っていると言えます。そうであるからこそ、日本国憲法も、変えてはならない幾つかの原則、つまり改正の限界を示しつつ、九十六条の改正条項をみずからの中に置いているわけであります。しかしながら、我が国の場合、そのような通有の事柄に解消することのできない事情があることを見過ごすわけにはいかないと思います。つまり、単に古くなったのではなく、政治の側が憲法からの乖離をつくり出してきたのではないかと言わざるを得ない点であります。  すなわち、政治の舞台における改憲の動きは、周知のとおりでありますけれども、日本国憲法制定から間もない一九五〇年代前半に早くも登場しております。当時の第三次鳩山内閣は、改憲に必要な議席を獲得すべく小選挙区制の導入を図りましたが実現せず、改憲は一とんざを見ました。五六年に内閣に設けられた憲法調査会が第一次岸内閣のもとで動き出した五七年から最終報告書を提出した六四年までの間も、改憲の動きは活発でありました。しかし、この旧憲法調査会は改憲の可否に関する統一見解を示すに至らず、そのため、憲法典そのものの改正、つまり明文改憲の主張は後景に退き、その後七〇年代末まで、憲法政治方針に合わせて解釈する、いわゆる解釈改憲が主流になりました。明文改憲論は、八〇年代、特に第三次中曽根内閣の時期に再び高まり、そして九〇年代に入っての高揚が今日の状況へと続いていると言えます。  このような極めて大まかなデッサンからでも、少なくとも次の二つのことが指摘できると思います。  一つは、政府及び政権政党が一貫して、みずからがそのもとにおいてのみ成立しているはずの日本国憲法に好意的でなかったことであります。国民の多数が戦後一貫してこの憲法を支持してきたことと対照的であります。改憲は歴代政府のまさに宿願でありまして、そのため、改憲論議は戦後憲法史を彩るものであり続けてまいりました。  これにつきまして、それにもかかわらず、改憲論議はタブーで、日本国憲法は不磨の大典とされているなどと説かれることがよくありますが、それは、事実を正しく認識していないか、あるいはこれらの言葉を誤用したものであるというほかありません。また、もしそれが、これまで少なからぬ大臣が改憲発言で辞職をしたことをとらえての指摘であるとするならば、九十九条の定める国務大臣等の憲法尊重擁護の義務についての無理解を物語るものというべきでありましょう。  もう一つは、歴代政府のとった解釈改憲の手法が法治主義を逸脱している点であります。  法は、解釈により意味充てんされるものでありますから、それは許される枠の中でなされるということになります。しかし、政府の憲法解釈の幾つかは、明文改憲が実現できないがために、それにもかかわらず政治目的を実現させようとしてとられたものでありますから、その解釈は憲法規範の許容する範囲にとどまるものでなく、それを歪曲する結果をもたらしました。そのため、法を守らない政府への国民の不信頼と憲法軽視の風潮が助長されたと言わざるを得ないのであります。とりわけ、第九条に関する政府解釈は正当性を持たないものでありまして、九条をめぐって圧倒的多数の憲法学説が、個々の学者の政治的立場と全く無関係に、現在に至るもなお政府解釈と対立しているのはそのゆえなのであります。  今日の我が国の改憲論の大きな問題は、憲法の遵守に努めてきたというその実践の積み重ねの上で改正に進むというわきまえを持つものではなくて、政治課題の実現を優先させて憲法を歪曲してきた経緯に立って、その現実政治に合わせて憲法を変えようとするところにあります。それゆえ、少なくとも現在では、改憲は純粋に理性的なテーマとはなりがたいと思われます。また、したがいまして、解釈で憲法を裏から潜るより表からその改正を唱えた方がよいという、それ自体はまことに異論のない言説も、それが今述べたわきまえなしに説かれるときには、受け入れることをためらわざるを得ないのであります。  結局、憲法現実の乖離は、我が国では、このような歴代政府の憲法に対する姿勢によって増幅されてきた事態なのであるということを否定することができないのではないでしょうか。私は、違憲の現実憲法を合わせようとするのではなくて、今こそすべての政党、議会における国民代表のすべてが、憲法を実現しようという法治国家、法治主義から当然に帰結される原点に立ち返ることが求められていると思います。  本調査会の担う任務は、そのような姿勢を持って、この半世紀余り、各内閣、各政党日本国憲法に対していかなる態度をとってきたか、その具体化にどのように努めてきたか、また国民憲法についてどのような要求を出し、それは実現されたのかどうかなどにつきまして、条文ごとないし問題ごとに客観的かつ詳細に調査し、それを国民に、中間的なものをも含めて逐次報告することにあると考えます。そのための期間として、五年は長過ぎるものではありません。五年をかけてでき上がった浩瀚にして水準の高い報告が、国民が将来の憲法のありようを決定するときに資するものとなるならば、本調査会はその歴史的使命を立派に果たしたことになると私は信じます。  なお、あわせて、憲法改正について最近説かれていることで、気がかりに思うところを二点申し上げます。  一つは、九十六条の定める憲法改正手続の軟性化を説く議論であります。その一例は、国民投票を削除し、国会の発案要件も三分の二を単純多数決にすべしとする、近くは本調査会の欧州調査の際に塩野七生氏が述べられたもので、かなり多くの委員もそれに同調されたやの新聞報道がありましたが、これはそれほど単純なものではありません。とりわけ国民投票を除くことは、国民主権の原則と抵触いたしますから、憲法改正の限界に当たるものとして、改正対象になり得ないとするのが憲法学の通説であります。  もう一つは、外国憲法改正の回数に注目して、改憲は常識である旨説く論法であります。これは、他国の憲法との比較において我が国を論じる場合の比較憲法のルールにかかわる問題でありますが、言うまでもなく、その国の歴史や制度を十分に踏まえていることが大原則であります。  スイスを例にとりますが、なお、本調査会では私のつたない論文を参照してくださった由で、研究がこのような形でお役に立ち、大変うれしく思います。それで、このスイス連邦憲法の場合、百二十六年の歴史の中で毎年一回を上回る部分改正を経験しているわけですが、それを見ますとき、そのほとんどが連邦と州、私の訳では邦でありますけれども、この連邦と州の間の権限分配にかかわる条項である点が重要であります。つまり、スイスでは各州が今なお主権国家たる性格を持ちまして、したがって、本来州の権限事項であるもののうち、憲法によって委譲された権限のみが連邦のものとなるという仕組みをとっております。したがいまして、新しい行政課題が登場するたびに権限分配が憲法上のテーマとなるわけであります。このようなその国特有の連邦制のありようが、憲法改正がしばしば行われる主な要因であります。したがいまして、こうした事柄を考慮せずに彼我を結びつけて説くことは、率直に言ってほとんど意味がないのではないかと思われるわけであります。  (2)に入ります。  我が国の憲法体系において最高裁が憲法の番人と言われるのは、まさにそれが違憲審査権を持つ最終審であるがゆえです。最高裁がこの権限を望まれる姿で行使してこそ憲法の実現が可能となるわけですが、この半世紀余り、とりわけ立法府と最高裁の関係には大きな問題が見出されるように思われます。  本調査会でさきに最高裁当局から開陳された戦後の主な違憲判決についての説明からもその一端がうかがわれます。  すなわち、そこでは十一件の違憲判断が紹介されておりますが、法律を違憲としたものは、分類上問題のある関税法の第三者所有物没収事件、これを含めましても、刑法の尊属殺重罰規定、薬事法の距離制限規定、森林法の分割制限規定及び公選法の衆議院議員定数配分規定の五種類にすぎません。定数配分については、そこで挙げられた一九七六年の判決の後、八五年にも違憲判決が出ておりますから、それを数えれば、最高裁が法律を違憲としたのは今日までに六つの判決となります。  我が国違憲審査制の五十三年間に法令違憲の判決がこれだけしか出されていないという事実が、もし国会のする立法の憲法的水準がかくまでに高いものであることを物語るものであるのならまことに慶賀すべきことなのでありますけれども、遺憾ながらそれは、最高裁の立法府への、総じて政治部門への過度の寛容をあらわすものだと言わざるを得ないと思います。  すなわち、最高裁は、学説により、またしばしば下級審においても違憲の疑いが付されてきた法令につきまして、合憲の祝福を与え続けてまいりました。公務員の労働基本権及び政治活動の自由の制限、選挙における文書規制や戸別訪問禁止、集団示威運動の許可制、外国人登録の際の指紋押捺強制、社会保障給付における併給禁止、また、民法上のいわゆる非嫡出子への相続の不均等規定や女子のみの再婚待機期間制度などなどについて、それらをすべて合憲としてきたわけであります。  さきに違憲判決の例として最高裁当局が挙げた衆議院の議員定数不均衡にいたしましても、最高裁が違憲と見ましたのは格差が三倍を超えたケースのみでありまして、しかも、違憲としておきながらそれを無効とはしないいわゆる事情判決の手法を二度にわたって使っております。実は、格差が三倍までは許容されるとすることに憲法理論上の根拠はありません。学説の通説は、一人一票という近代選挙法の大原則に基づきまして、二倍を超えることは許されないと考えております。最高裁判決はまことに腰だめ的としか言いようのないような数字の出し方で、立法府のほとんどの実例を追認しているにすぎないのであります。  このような我が国最高裁の政治部門への過度の寛容姿勢は、今日に至るまで一貫して見られる極めて顕著な特徴でありますが、それはまた、当然、国会法律制定の姿勢とも響き合っているように思われます。  最新の実例を取り上げますならば、参議院比例代表選挙に非拘束名簿方式を導入した公選法改正がそれであります。この方式の実際上の主要点は、個人名の票をその所属する政党の票に加算することにありますから、大量得票者の票は、自己の得た票では当選することのできない候補者をも当選させる効果を持つことになります。この点でこの方式は、一人一票の大原則に抵触するものとして、憲法と相入れません。まともな顔の見える比例代表制をまじめに追求するのなら、各国の制度を参照して、個人名の投票はその政党内の当選順位を決める効果を持つにとどめて、票の移譲は行わない等々の方式が検討されるべきであったのであります。  しかし、今回の公選法改正は、遺憾ながら、特異かつ恣意的なものと言わざるを得ないのでありまして、それが実施されるや、違憲訴訟の提起を免れ得ないのではないでしょうか。それでもなお国会は、最高裁のこれまでの政治部門への寛容姿勢があればこそ、いわば後顧の憂いなく、かくまでに憲法への慎みを欠いた法律をつくることができるのであろうという感を私は禁じ得ないのであります。  本来、国会は、立法に当たりまして、違憲審査にたえ得るかという水準以上に、憲法の要求を可及的に十全に満たしたものをつくる責務を負っていると言わなくてはなりません。例えて言えば、六十点ぎりぎりの合格の答案ではよしとせずに、常に百点満点の立法を目指すことが求められているわけであります。しかしながら、その要請にそぐわない立法が実態として少なくなく、またそのことが、通常裁判所として違憲審査を行っている我が国裁判所にとって大きな負担となっているとも言えます。  このような、我が国における立法府と裁判所、特に最高裁判所との関係が、この半世紀に、現行憲法の規範内容の実現にとって大きな阻害要因となってきたことは明瞭であると思います。それゆえに、本調査会においてこそ、これまで合憲性に疑問が提示されてきた法令につきまして、立法者の立場でその立法事実と裁判所の判断、とりわけ最高裁判所の判断に関しまして悉皆的に調査されるべきことを期待したいと思います。  違憲審査の見方にかかわることでありますけれども、本調査会会議録を拝見しておりまして驚嘆を禁じ得なかったことがあります。それは、国の軍隊を違憲だとして訴訟する国はほかにはなく、その合憲、違憲を議論すること自体が道義上の退廃につながるという旨の発言であります。  改憲、護憲、その他いずれの立場をとるか、自衛隊をどう評価するかなどの問題以前に、議論前提として欠かせないのは、憲法というものについての共通理解であると私は思います。憲法をつくる趣旨は、国家権力に限界を設けるところにあります。違憲審査制が法治国家のかなめ石であるということは、この不可欠の共通理解の一つであります。国家は憲法の命ずるところに従って政治を行うことを義務づけられており、そして、日本憲法は九条において戦争と軍隊に関して国家のとるべき態度を命じているわけでありますから、国家がそれを守っているか否かについて違憲審査がなされるのは当然であります。国家権力行使の必要は憲法に優越するというのであれば、それは憲法に退去を求めるものにほかなりません。国家による憲法違反の事象が生じれば、国民は大いにこれを議論し、裁判所によってこれをただす、そこにこそ法治国家の道義があるのであります。  なお、近年、現行の司法審査制にかえて、あるいはそれに加えて、ドイツに見られる憲法裁判制度を導入すべしとする主張が、多く憲法改正を伴って提案されております。その提案の中には、現在の最高裁が憲法の番人たる機能を十分には果たしていない状況への対応策として傾聴すべきものも含まれております。  ただ、私は、司法の本質的役割が人権の保障にある以上、現行制度の長所が生かせるように制度の運用を改善することが肝要であると考えております。  その長所とは、まず、具体的事件に即して憲法問題が判断される、また、審査の開始に市民が主導的にかかわることができる、そして、下級審も違憲審査制を有するなどの点にあります。この積極性を生かすには、最高裁の独立とその市民的自由が十分に確保できるように、裁判官の任命の仕方を改めること、そして国民の裁判への参加の道をより広くすること、そうしたことが基本になると考えております。  三に移ります。  憲法調査会テーマとしての二十一世紀日本のあるべき姿論は、これまで述べましたように、この半世紀憲法政治の現象を検証した上で、憲法を次の世紀日本社会にいかに生かし得るかの調査に入ることになりましょう。  その場合、二十一世紀日本の姿については、実は、既に改憲を先取りしたようなもろもろの法制度がつくり上げられていることに留意したいと思います。それは、とりわけ、昨年、第百四十五国会において成立いたしましたところの周辺事態法などいわゆる新ガイドライン関連法を初め、国旗・国歌法、通信傍受法等々であります。  私の考えるところ、新ガイドライン関連法は、戦争をしない国是を転じて、平和主義のありようを根本的に変えたものであり、国旗・国歌法は、国民が主権者であることを軽んじ、また、国民の思想、良心の根底のところに影響を及ぼすものであります。また通信傍受法は、自由な精神の交流を公権力による盗聴行為を合法化することによって遮断し得る、そうした仕組みをつくったものにほかなりません。それらは、憲法典の規範内容憲法典を改定しないまま法律によって大きく変化させたことを意味します。これら諸立法を推進した政党政治家の二十一世紀日本像は、既にそこに代表的な形で示されているわけであります。  これに対して、憲法的価値をより一層生かすべきであるとの見地からすれば、これら百四十五国会の諸立法の示すものとは正反対の国の姿を描くことになりましょう。すなわち、戦争をしない国是を貫いて世界平和の建設に貢献し、国民主権を揺るぎないものにし、また人権をより花開かせる日本像であります。  二十一世紀のありようはこのように具体的に論じられるべきものでありまして、したがって、本調査会がその考察を進める場合、何より、現行の重要法律につきまして、それぞれが二十一世紀においてどのような意味問題点を持つか、当然見解は分かれるわけでありますけれども、そのことを具体的、個別的に調査することが不可欠ではないかと考える次第であります。  憲法の各項目の調査では、人権から統治機構にわたる憲法の全体が取り上げられるべきことは言うまでもないと思いますが、その際、天皇制のテーマ調査の対象から除くことがあってはならないと思います。現行の象徴天皇制は、近代憲法の普遍的原理としての国民主権と調和させる形で日本国憲法に残されたものですが、内閣による象徴天皇制の運用実態憲法からの逸脱がないのかどうか、つぶさに調査して、それを国民に明らかにしていただきたいと願います。その上で、二十一世紀論にふさわしく、天皇制について、存廃も含めそのあり方を将来への展望を持って論じてほしいと願う次第であります。  憲法九条のテーマは今日の最大の問題でありますが、これはすぐ後の項目で別に扱うといたしまして、ここではもう一つ、生存権について触れておきたいと思います。  すなわち、日本国憲法は、周知のとおり、二十五条で健康かつ文化的な最低限度の生活を営むことが国民の権利であるとしまして、その実現の課題は国家の責務であるという世界的にも先進的な生存権規定を設け、それを軸にして教育から労働に及ぶ社会権条項を備えております。  一方、現在、規制緩和、自由競争、また自立自助、自己責任を説くいわゆる新自由主義改革が進められておりまして、それにより生じた失業や不安定就労の増大、福祉水準の引き下げ、年金や医療制度の後退などは、むしろ必要なこととして語られております。しかしながら、憲法の生存権の理念は、人が人間らしく生きるには人々の社会的連帯が不可欠であるとするところにあります。この憲法の考え方は、弱者にも自己責任を要求して競争の場に置く市場原理万能論と正面から対峙するものであります。  それゆえ、改憲の主張の中には、二十五条を前文に移しまして、あるいはまた人権に対する一般的制限条項と位置づけられた公共の福祉を二十五条にかぶせるなどして、この二十五条の規範性を希薄にしようとするものもありますが、しかし、そうではなく、生存権をより強く確保し実現していくことこそ二十一世紀日本課題であると私は考えております。幾つかの地方自治体で見られる、憲法を暮らしの中に生かそうという標語こそ、次の世紀にまたがる地方と国双方の政策原理とされるべきものと言えます。その柱が二十五条の生存権保障規定であると思う次第であります。  なお、本調査会は、海外調査におきまして、スイスの新憲法については生命倫理規定に注目されたようでありますけれども、それは、いわゆるエコロジー憲法、つまり生態系の中に人間社会を位置づける憲法構造の一部をなしているものであります。スイスの憲法では、被造物に対する責任、将来世代への権利、持続的発展の保全などが強調されております。  日本国憲法につきましても、二十五条に基づいて環境権が保障され、また、何より生態系の持続的発展を支える不可欠の条件としての平和の確保を根本的課題とした憲法であることが改めて注目されてよいと思います。そして、その点でも我が国憲法は将来世代に贈ることのできる憲法だと、今の世代国民の一人として誇らしい気持ちを持って思うものであります。  (2)に入ります。  さて、日本国憲法の平和主義でありますが、戦後改憲論の中心の位置には必ず九条が据えられてまいりました。本調査会でも、憲法政治の乖離を言い、二十一世紀を論じる際に、いずれも焦点は九条であります。私は、この平和条項を遵守した我が国の二十一世紀をデッサンしようとする見地に立っております。  要点のみ述べます。  まず、九条を論じるに当たっては、当然の事柄として、その規範的意味を確認するところから出発すべきものと考えます。九条が全面的に戦争放棄、戦力不保持を公権力に命じたものであるところから、自衛隊を違憲と判断するのが通説的学説の今日まで一貫してとっている見地であります。条文の文言と憲法典の全体構造、そして侵略戦争を引き起こし、また核兵器の被爆を体験した歴史に照らして、それ以外の解釈は成り立ちません。そうであればこそ、政府も当初学界の通説と同じ解釈に立っていたのであります。  それが、憲法は近代戦争遂行能力を備えた戦力のみを禁止しているとか、また自衛のための必要最小限度の実力は戦力に当たらないなどの解釈へと変転したのは、専ら政治上の必要、つまり、警察予備隊を創設して保安隊、警備隊、そして自衛隊へと展開し、また日米安保条約の体制が進行した、そうした政治の必要に適合させるためでありました。また、最高裁がこれまで自衛隊を積極的に合憲とする判決を下していないのも、九条が戦力禁止規範として明確であることの証左であります。そして何より、政党また政治家の中で自衛隊を合憲と見ている者の多くが、そうであれば自衛隊の憲法上の扱いについては現状を変える必要はないはずであるのに改憲を主張されていることの中に、それはよく示されております。  本調査会が二十一世紀日本の姿と関連させて憲法を論じるときには、何よりもその前提として政府解釈の変転の経緯と理由を客観的に調査してくださることを望みたいと思います。  ところで、自衛隊を違憲と評価する立場に対しましては、近時の国民世論はそれを容認しているとの反論がなされます。しかし、憲法は、時々の国民の決定をも、それが憲法改正に至るのでない限り、それを制約する高次法でありまして、違憲の国家行為はどこまでも違憲であることに変わりはありません。  したがいまして、憲法のもとで成立している政府は、本来、それがいかなる政党に支えられた政府であるかを問わず、すべからく合憲の状態に戻し、憲法のよりよい現実化をもたらす責務があります。つまり、自衛隊についてはこれを憲法に適合的な非軍事的存在へと転換させる憲法政策が立てられなければなりません。それは、国民世論、自衛隊員の生活と人権、日米安保のありようを含む国際情勢等々についての科学的、総合的な判断に基づいて、実現までの道筋を立てた、考え抜かれた政策であることが当然に求められると思います。  特に考慮すべきは、この非軍事化に至る過程で、自衛隊を災害時や、とりわけ我が国有事の場合に、仮にそれが想定されるとしてでありますけれども、そうした場合にこれを運用することができるか、運用すべきであるか、するとして、いかに運用するかにかかわる問題であります。これは、自衛隊に対する違憲の評価を変えることなく、それを憲法に適合した状態へと改編、解消していくその過程で生ずる問題でありまして、学界においても護憲の研究者がつとに検討を重ねてきた難問であります。  もとより、制度を違憲と評価しながらこれを運用することは、法理上その運用も違憲の行為とならざるを得ません。それゆえ、これに一切かかわることなく、仮に侵略があっても非暴力、不服従で抵抗する方策を選択するという立場をとるなら、この法理上の矛盾に陥ることはありません。ただ、この場合には、有事はもちろん災害の場合の自衛隊の出動もまた、それに市民的コントロールを施し、それを徐々に改編していく法的措置をとることまで、すべて控えるべきことになります。  他方、法理上の葛藤は避けられないものではありますが、警察予備隊から数えて半世紀、違憲でありながら制度が存続し、最高裁によって無効とはされてこなかったことを直視して、合憲状態の回復を目指しつつ、そこに至る過程で運用の条件を追求することも、憲法政策上の検討課題となり得るものと考えます。この場合、自衛隊を違憲であるにもかかわらず合法的な存在であるとする論法はとることができないのではないかと思います。すなわちこれは、自衛隊は憲法に違反しているが、手続上有効に成立した自衛隊法や防衛庁設置法などの法律に基づいて設置されたものである点で合法と言えるとする論理でありますが、問題は、自衛隊法そのものの合憲性でありまして、それを違憲と評価する以上、違憲の法律に基づく制度である自衛隊が合法のものと評価されるわけではありません。  したがいまして、法理上の矛盾を承認した上で、この矛盾を自衛隊を将来解消することで除去するという展望を持ちつつ、その合憲の状態を実現させるための憲法政策を立てていこうとするのがここで述べている考え方であります。  これにつきまして何より重要だと思いますことは、この矛盾が、違憲の国家行為が歴代政府によって重ねられてきたところから生じていること、つまり、違憲の自衛隊を運用するという政策は、強いられた所与の条件のもとでの選択であるということであります。これは、政府がつくり出してきたところの、平和憲法が想定もしていなかった戦力の保持という違憲の事態を合憲の状態に復元させる道を模索する苦難に満ちた努力にほかならないわけであります。  これに対して、少なからぬ人々は、この事態の方に合わせて憲法を変えれば違憲問題は解決すると説くわけでありますが、こうした見解は法治主義を逆転させるものであると私は考えます。まずもって、違憲の事態をつくり出してきたことについてのそれぞれの責任を明らかにすべきであると考えております。  なお、これに関連して触れておきたいのは、憲法どおりの武力によらない安全保障を説く意見に対して必ずと言ってよいほど出されるのは、攻めてこられたらどうするのかという議論であります。本調査会会議録でもしばしば拝見するところであります。しかも、この議論は相手に対する冷笑を伴ってなされるのがしばしばであります。しかしながら、これがよって立つ、力の均衡あるいは抑止力による平和の維持という方策は、歴史上どれだけ確かなものであったのか。また、攻めてこられるという情勢が具体的、現実的にあり得るのかを主張者自身がまず論証すべきではないでしょうか。加えて、これまで憲法に則した平和的手段による安全保障のための努力をどのように行ってきたのかを自問すべきであります。  むしろ、近時の国際情勢は、分断された朝鮮半島の状況が急速に平和と和解の方向に動き出していることに代表されるような、日本国憲法が生きるもの、すなわち我が国が平和憲法を掲げて積極的な役割を一層よく果たし得るものへと大きく前進していると見るべきでありましょう。  それゆえ、二十一世紀の我が国は、平和憲法の規範を誠実に実践して、次のような積極的な憲法政策を展開することで、世界平和の建設に日本としての役割を果たすべきであると考えます。すなわち、今こそこの地球上から核兵器、通常兵器を削減し、さらにそれを経て廃絶に向かわせる課題とともに、南側諸国の慢性的な絶対的貧困、累積債務、地球規模の環境・自然破壊、そして各種の人権抑圧など、いわゆる構造的暴力の問題の解決に尽力することであります。  我が国憲法は、戦力を持たないという正しいことをほかの国より先に行った。この表現は、憲法施行直後の一九四七年八月に文部省が出した「あたらしい憲法のはなし」の一説でありますが、そこで言う「世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。」という信念に憲法は立っているわけであります。この信念に基づいて、前文で、全世界の国民が恐怖と欠乏から免れて生きるための土台として、平和のうちに生存する権利を保障し、そして、それが可能となる世界の建設に尽力することによって国際社会において名誉ある地位を占めたいという誇り高い誓いを発しているわけであります。  こうして日本国憲法は、世界平和の実現のために日本国民が積極的に汗を流すことを求めております。しかし、決して血を流させてはならないというのが憲法のまなざしであります。平和的方法による国際貢献を、それはさぞかし、軍事的関与よりも実際にはより苦労の多いものでありましょうけれども、その平和貢献の方法を追求していく、それが平和憲法を持つ国家にふさわしい国際的役割の果たし方であると言わなくてはなりません。  そして、二十一世紀の幕あけに臨もうとしている今、その実現可能性が一段と高まっており、そのことに確信を持って日本国憲法の大道を歩むことが日本国家の選択であるべきだと私は考える次第であります。  最後に、結びを申し上げます。  戦後半世紀余り、もし歴代政府が日本国憲法の定めるとおりの平和政策を進めてきたとすれば、今我が国はどれほどか世界において道義的権威を持った国になり得ていたかと、私は歯ぎしりをするような思いで考えている一人でございます。今からでも遅くはありません。もし逆に、今後憲法から一層逸脱するような方向をとるのであれば、日本は普通の国になるどころか、各国から何ら道義上の尊敬を受けることのできない普通以下の国家に堕してしまうに違いありません。  二十一世紀には、この日本国憲法の原点に立ち返って、それを人類の幸福と世界平和のために生かすこと、立法府を初め三権は、憲法の規範内容の実現にそれぞれ力を尽くすこと、それが課題とされるべきであります。その先にこそ、平和、自由、民主主義の憲法原理、すなわち憲法の心をより発展させた、文字どおりの改正を実現するための改憲論議がなされ得ると信じます。それに役立つ調査を行うことで、本調査会が主権者国民から委託された歴史的使命をよく果たされますよう、心から期待いたしまして、公述を終わります。  御清聴に感謝いたします。(拍手)
  75. 中山太郎

    中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。     —————————————
  76. 中山太郎

    中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。水野賢一君。
  77. 水野賢一

    ○水野委員 自由民主党の水野賢一でございます。きょうは、参考人の小林先生には、お忙しい中来ていただき、そして御意見を披瀝していただいたこと、まずもって感謝、御礼を申し上げたいと思います。  憲法に対してはいろいろな意見、いろいろな立場というものがあるわけですから、多種多様な意見があってしかるべきだと思います。この調査会の中にも、参考人の御意見に対して賛成の方、反対の方もいらっしゃるわけでしょうし、私自身も、今のお話の中でうなずける部分、実を言うとそれは比較的少ないのですけれども、また、失礼ながら意見を異にする部分もあるわけですけれども、しかし、そういう多種多様の意見の中で多角的に憲法を見ていくことで、憲法に対する理解も深まっていくでしょう。また、多面的な角度から考えていくということは、二十一世紀のあるべき日本の姿を考える上でも非常に重要なことだと思いますので、質疑を通じてより御意見を拝聴させていただければな、そういうふうに希望するわけでございます。  質疑の前に、私自身の立場といいましょうか、考えといいましょうか、スタンスを概略的に、簡単にお話しさせていただければと思うわけですけれども、私自身も、憲法の基本的な理念、よく言われる国民主権であるとか平和主義、また基本的人権の尊重というような基本理念、これはよい部分であると思いますし、よい部分に関しては、それを守り、伸ばし、さらに発展させていく、そういうことは非常に必要だと思うわけであります。  一方、悪い部分と言うとちょっと言い過ぎかもしれませんけれども、少なくとも時代に合わなくなってきたような部分は改正していくというような気概を持ち、もしくは改定していく、そういう勇気を持つことは、政治の場にある者、また国会の場に国民から送られた者としては、そういう気概、勇気というのを持つのも、これまた必要ではないかと思うわけでございます。  もちろん、変えるという場合には、変えるということそのものが目的なわけではないわけですから、どういう変え方であってもいいということでないのは言うまでもないと思います。もちろん、内容が重要なわけでございまして、ただ単に復古的な改憲、もしくは、さらに強いて言えば軍国的な、そういうような改憲というものが望ましくないというのは、多くの国民も思うかもしれませんし、参考人もそういうふうにお考えでしょうし、私もそういうものであれば反対でございます。  しかし、逆に、憲法を変えようとする者をすべて復古、軍国調の者だというふうに考えられるのもこれまた困るわけでございまして、もしくは、憲法改正論議そのものが問題であるというような御意見であるとすれば、いささか疑念があるのかなと思うわけであります。最近は、改憲論議そのものを問題視する風潮はなくなってきたと思いますし、だからこそこういう調査会も設置されたと思うわけであります。  私自身としては、憲法の基本的な原則というものをより充実させていくため、もしくはより時代に適合させるため、もしくは解釈の分かれているような条文をより明確にするための改憲というのはあり得るべきだし、今後ともそういうことに取り組んでいかなきゃいけないと考えるものでございます。  さて、ここから質問になるわけですけれども、先生のお話の中で、憲法現実政治ないし社会が乖離しておるというお話がございました。そして、その乖離しているものに関しては、現実政治や社会の方を憲法の理想の方に近づけていく必要があるというのがお説だったかと思うわけでございます。  それは確かに、おっしゃることはわかります。しかしながら、ある面においては、乖離があるならば、憲法の方こそ改めて現実に近づけていく必要があるという意見も、これまたあって当然だと思うわけでございます。例えば、参考人もおっしゃっていらっしゃいましたけれども、自衛隊の存在を認める人間の割合というのは、世論調査にもよりますけれども、大体普通、世論調査を見れば、八割ないしそれ以上の方は自衛隊の存在というものは必要だというふうに認めているわけでございます。  そういう中で、憲法が神聖不可侵で、全く侵すべからざるものであるというならば、何でもかんでも現実の方を憲法に合わせていくということになるのかもしれませんけれども、私は、こうしたものに対しては、憲法こそ現実の方に合わせていくという面があっていいのじゃないかと思うわけであります。  これは、ありとあらゆる場合に、あしき現実を容認して、そしてそのあしき現実に迎合する必要があるというふうに、常にそうだとは言いませんけれども、少なくとも、自衛権の保持とか自衛戦力の保持ということに関して、これを明確に認めるということに関しては至極自然なことだと思うわけですけれども、いかがでしょうか。
  78. 小林武

    ○小林参考人 幾つかの御質問点があったと思いますけれども、最初の方におっしゃっていたことで、先ほど委員の御発言の中では、改憲というのがすべて軍国主義あるいは復古主義的なものだ、そういうふうに見るべきではない、そういう御趣旨でございましたが、それは全く当然で、私もそんなふうには全く思っておりません。  私は、きょうの公述の中でとりわけて強調しようと考えました一つは、この憲法調査会でどのような憲法調査をするのかという点なのです。したがいまして、改憲イコール軍国、復古だ、したがって悪だ、こういうふうな前提を置いて、それはいけないなどという議論をしたのではないです。  そうではなくて、法に基づいて、国会法に基づいて、そしてメンバーみずからの法的自己拘束に基づいてこの調査会の性格づけがなされている、位置づけが行われているわけでありますから、それにふさわしい憲法調査をすべきだ。その憲法調査の中には改憲というテーマは入っていない、むしろそれをみずから除いておられる、まずそこのところの強調を私はしたつもりであります。  憲法のその調査をするときに、何よりも五十三年間の歴史があるわけでありますから、その半世紀余りの間に、今日の憲法が、乖離を来していると言われるその憲法が果たして十分に生かされてきたのか。国民はこれをどう扱ってきたのかということも大切でありますけれども、とりわけ、ここは国会であります。国権の最高機関として、また立法機関としての国会が、この憲法に対して、それぞれ各内閣、各政党、各議員において、どのような対応の仕方、どのような政策実践をなさってこられたのか、このことを点検するのでなくして憲法調査はあり得ないだろう。  そしてまた、今般の日本の二十一世紀のあるべき姿というこのテーマを考えるについても、二十一世紀において憲法が生かされる可能性はどうであるのか、もちろんいろいろな意見がございますけれども、憲法を生かした政治を行っていく、その可能性について具体的に調査をする、このことがこの調査会のお仕事なのではないか、こう私は公述したわけであります。  したがいまして、そのことを飛び越えて改憲の是非を論ずるというこの論じ方は、その内容のいかんには入らずに、その以前に、論ずる根拠が法的にはないのではなかろうかということを申し上げているわけです。  この調査会で、おおむね五年をめどとしてというふうに申し合わせられているわけでありますから、おおむね五年その調査をした上で、先ほどの私の言葉をもう一度使わせていただくならば、国民に向かって、大変内容のある、つまり浩瀚にして具体的詳細な報告書をつくってくださり、そして、それを受けて、将来の憲法をどのようにつくっていくのかということの国民議論が始まるだろう。改憲論議というのは、そのステージの課題ではなかろうかというふうに私は申し上げているわけです。  もう一点、憲法現実との関係で、現実の方については、ほとんど専ら自衛隊あるいは自衛の戦力のことを委員がおっしゃいました。確かにそれが中心問題であります。委員は、自衛の戦力と言う前に、自衛権についてもというふうにおっしゃいました。  私は、憲法学の通説の立場で、その意味で非常に平凡な憲法学説を申し上げるわけでありますけれども、日本国憲法は自衛権は否定をしていないわけです、御承知のとおりですけれども。この自衛権の具体化、自衛権の具体的な行使の仕方に関して、これを戦力によって、あるいは戦争を行うという手段を用いることで具体化してはいけない。戦争、武力による威嚇及び武力の行使まで含めて禁止をし、戦力を持ってはいけないという戦力の不保持を定めている。そのこと以外の方法で自衛権の保持というものを行うべきだというのが憲法態度であって、ですから、この部分は議論のないところではないかというふうに思います。  自衛の戦力を持つということについては本当に大きな議論があるわけでありまして、私の場合、それは憲法の命じているところから遺憾ながら逸脱をした政府の行為であるというふうに考えておりますので、憲法調査会としては、まずもって、そのような政府の実例がどのように積み上げられてきたのか、あるいはそれの基礎になっている政府の行う解釈がどうであるのか、そういう調査から始められるべきであって、そして、私自身の見解としては、そのような存在をよりよく憲法に適合する状態へと近づけていく、そのためには、文字どおり衆知を集めてその道筋というものを立てていくことが国会、政府通しての課題ではなかろうか、そのように申し上げた次第です。
  79. 水野賢一

    ○水野委員 今、先生のお話ですと、法学博士でいらっしゃいますからいろいろと憲法の解釈もしていただきましたけれども、日本国憲法は自衛権は認めているということでいらっしゃいます。では、お伺いしたいのは、どのように自衛権を発動することが憲法上許されているわけでしょうか。
  80. 小林武

    ○小林参考人 憲法は、戦力を持つ形ではない自衛権行使の考え方を持っているわけです。したがいまして、先ほど私触れましたけれども、お聞きくださった、仮に侵略があっても非暴力、不服従で抵抗するというこの方策は、これは実は幣原喜重郎氏の一九五〇年六月の発言なのですね。私は、それをきょう引いてまいりました。このことが憲法の考える最も純粋な形であろうと思います。  私は話をここでとどめなかったわけで、幾つかの点を申し上げましたのでお聞き取りくださったかと思いますけれども、一九五〇年から、そこから数えましても半世紀たっております。ちょうど五〇年というのは警察予備隊創設の年であって、それ以降、御承知のとおりの経過があって、自衛隊から数えても今年で四十六年という、そういう経過をけみしております。  その間、ファクターとして申し上げましたのは、最高裁は少なくとも積極的にこれを無効とするという判決を出していないわけであります。このことは、法の問題を考えるときには大変重要なことだと私は思っております。ただ、もちろん、誤解を避けるために、最高裁は自衛隊に関して合憲判決を出しておりません。幾度か自衛隊の合憲性について判断をする機会を得たにもかかわらず、最高裁は別の法的論点でもって事案の処理をいたしまして、自衛隊の合憲判決に踏み込んでおりません。けれども、逆に言えば、私はかなり丁寧に言ったつもりですけれども、積極的にはこれを無効とする判決はしていないわけです。  そういう状態を踏まえまして、違憲のものを合憲状態に近づけていくという、つまり、憲法を実現していくそういう将来の展望を持ちつつ、その合憲状態の回復に近づいていく、それに進んでいく、その過程においてさまざまな憲法政策がとられる余地はあるであろう。私はそこで憲法政策というふうに、これもかなり注意をして言葉を使っているわけであります。  したがいまして、先ほどのお答えについては、憲法制定当時、あるいは先ほど言いました幣原喜重郎氏のこのような言説がなされた、そのことと今日の議論の仕方は、歴史を反映して少し違ったものにならざるを得ないであろうと思います。  その際、私が強調いたしましたのは、ここでも念のためにつけ加えておきますけれども、このような非常に葛藤に満ちた選択を迫られるのは、これは憲法が予想だにしなかった事柄を残念ながら歴代政府がやってきた、つまり違憲の事実が積み上げられてきたのだ。そういう事実、これを所与の事実として我々がとらえた上で、この事態憲法適合的な状況に近づけるための賢い政策を、知恵をあわせてとらなければならないのだ、こういうふうに申し上げたわけであります。そう考えております。
  81. 水野賢一

    ○水野委員 今の自衛権の発動の仕方に関しては、参考人のおっしゃっていることは、おっしゃっている意味はわかりますけれども、賛成するという意味じゃありませんけれども、それに対してはやはり、甚だ失礼な言い方をすれば、観念的もしくは幻想的というような声があるんじゃないのかな、そういう批判を受けざるを得ないんじゃないかなという印象は持たせていただきました。また、どちらかというと憲法を金科玉条としていらっしゃる形なのかなという印象を受けたわけでございますけれども、それはいろいろな意見があると思います。  私自身としては、むしろ憲法における、九条関係のことで言えば、私自身の考えで言えば、侵略戦争はしないということを明記して、なおかつ文民統制は貫徹していくんだということが明記されれば、それでこのこと自体は、世界平和を念願するということや日本が平和愛好国家で生きていくということと何ら矛盾はしないんじゃないかなと、これは私の考えであります。  ところで、九条をめぐって、きょうの話とはちょっと、先生のお話の中にはありませんでしたけれども、よく、九条解釈をめぐっては、芦田修正ということが言われているかと思うわけであります。憲法第九条の第二項の冒頭に「前項の目的を達成するため、」という一文を芦田元総理が入れることにより、この第二項の規定というものは絶対非武装を言うわけではなくて、一定の条件のもとの非武装を言っているわけであって、裏を返して言えば、自衛のための戦力というものの保持は認められるんだ、そういうような解釈はよくありますけれども、この芦田修正については、参考人はいかにお考えでいらっしゃいますでしょうか。
  82. 小林武

    ○小林参考人 芦田修正の前に、さきの御質問の内容を含んだ御発言についても私の見解を述べさせていただきますが、金科玉条と思っているのではないか、そういうお話でありました。さきには神聖不可侵という言葉もお使いになりました。  私は、きょうの公述では、護憲を主張する人々は日本国憲法を不磨の大典と思っているのではないか、あるいは改憲論議をタブー視しているのではないか、こういう議論がよくあるというふうに紹介いたしました。大体それらは同じところをついていることだと思いますが、私は、それらすべてについてそのように考えておりません。  申し上げましたとおり、憲法は人のつくった作品でありまして、そして規範である以上、規範が制定されたいわばその直後から現実は次々と変わっていく、私は現実生活というふうに申しましたが、日本国民現実の生活、現実の意識というものは、もちろん規範をいわば超えて次々と進んでいく、変わっていく、これは当然であります。  したがいまして、憲法もそのような歴史的な所産でありますから、当時の歴史的制約を免れていないわけです。そうであるとするならば、歴史の進展に即して憲法が変えられていくのは当然であります。日本国憲法自身、そのことを既にみずからの中に含んで九十六条というものを置いているわけであって、これはいわば当然のことではないのかというふうに思うのですね。  こういうことをとらえて、神聖不可侵だとか金科玉条だとか、あるいは不磨の大典だとかタブー視しているとかと言うのは、私先ほど発言しましたけれども、これらはほとんど言葉の誤用のようなものにほかならないのではないかと私は思っております。  私は、今強調したいのは、憲法改正というのは、そのようにして歴史に合わせて国民のする歴史的な事業でありますけれども、これがやはりきちんとした合理的な、理性的な根拠に基づいてなされなければならない、あるいは合理的な、理性的な議論をするための条件がなければならないというふうに考えるわけです。  私の考え方によれば、残念ながら、日本憲法については、それをいわば好意的には扱ってこなかった。そういう歴史がずっと積み重ねられていって、その上に立って改憲論というのがさまざまなところでこれまでも出てきた、また今日でも出ている、そういう経過があります。そうではなくて、憲法というものを誠実に政策の中に具体化し具体化しといいますか、それを積み重ね積み重ねして、その上でより発展した、よりよい憲法というものをつくっていく、これが憲法改正の姿なのだろうというふうに思っております。  芦田修正の問題でありますけれども、これは会議録を拝見しておりますと、憲法制定の経緯がテーマになったときの何人かの参考人が御発言になり、そしてそれについての議論をなさっているということを拝見いたしました。  私は、結論的に申しますと、芦田均氏がいわば内心において、つまり「前項の目的を達するため、」という文字を第二項冒頭に込めたその芦田均氏の内心においてどう考えられようと、憲法解釈のファクターにはなってこないのではないか。  憲法解釈で立法過程が非常に重要になりますが、そのうちでとりわけて重視すべきは、やはり公的にあらわれた議論であります。委員会でどのような議論がされたか、本会議でどのような議論がされたかということであります。それを超えてまで、時の当事者の内心がこのようなところにあったからだということで、今日、戦争の放棄を限定してしまう、つまり侵略の戦争だけの放棄なのだというふうに限定してしまうような解釈論は、やはり憲法学的にいって成立し得ないのではないか、そういうふうに考えております。
  83. 水野賢一

    ○水野委員 参考人が最後の方で平和憲法を持つ国にふさわしい平和的国際貢献というお話をされましたけれども、具体的にどういうことになるわけでしょうか。それが一点。  私も平和的国際貢献ということは大いに賛成なわけですけれども、むしろ今の憲法は、国際貢献について積極的な条項がないのじゃないかというふうに私個人は思います。無理に解釈すればそういうことが解釈できなくはないかもしれないけれども、憲法を見直すことによって、国際貢献について日本の責務なり役割なりということをより明確化した形で憲法の中に盛り込むというのは一つの考えじゃないかと思いますけれども、参考人の御意見はいかがでしょうか。
  84. 小林武

    ○小林参考人 私、公述で申し上げたとおりですけれども、かなり羅列的に申しましたので再びの御質問なのかもわかりませんが、ここでは構造的暴力という言葉を使いまして、この構造的暴力の解決に当たること、これが今日のかなり重要な課題として出ているのではないか。戦争をなくす、あるいは軍備を撤廃する、これはいわば本来的な平和の追求でありますけれども、その場合、核兵器と通常兵器についてしっかりとそれぞれの特性を見ていき、その削減と廃絶への道を考えなければなりませんが、そのことにあわせて、構造的暴力の解決ということを申し上げました。内容は、貧困の問題、債務の問題、また地球規模の環境・自然破壊の問題、人権抑圧の問題、これらについて我が国国民が尽力をする、そういう筋道を申し上げたわけです。  その場合、私はこれらを汗を流す貢献だというふうに申しているわけで、しかし、汗とともに血をというふうに考えておられる、そういう見解もあるようでありますけれども、汗を流す、そのことが、日本国憲法が、国際貢献を日本がどのようにするかということについて求めている態度だと思います。汗を流すということは実は大変な労苦が必要であるわけであって、血を流すということよりもむしろ努力が要求されることかもしれない。血を流すということについては絶対にしてはいけない。その場合に、さまざまな御意見もまたここでもあるわけでありますけれども、しかし、血を流す貢献というものはしてはいけないというのが日本国憲法の考え方だろうというふうに思うのです。  国際貢献の憲法上の根拠がないではないかというふうにおっしゃいましたが、憲法前文をどのように理解あるいは解釈なさっているのかという点ですけれども、特に私たちが世界平和の建設に尽力すること、これが憲法の言葉では、そのことが国際社会において名誉ある地位を占めるということになるのだ。大変明確な文言ですし、また高い志を示している、そういう文言だというふうに理解しております。
  85. 水野賢一

    ○水野委員 時間が来ましたので、終わります。
  86. 中山太郎

    中山会長 前原誠司君。
  87. 前原誠司

    ○前原委員 きょうは先生、お忙しい中来ていただきお考えを聞かせていただきまして、ありがとうございました。時間も限られておりますので、簡単に質問項目を述べさせていただきたいと思います。  九条を規範的意味として考えた場合、自衛隊は違憲である。単純にあの文章を読めば多くの人たちがそう思うのではないかと思いますし、解釈改憲によって、また世界の流れが、特に日本を取り巻く状況の変化によってそのように変わってきたということは、私は立場がどうあるかという問題は別として、先生の意見には賛成であります。  ただ、一つお伺いしたいのは、少しびっくりしましたのは、先生も自衛権は認めておられるということなんですね。これは自然権的なものとして、主権国家としては当たり前のものであるというところから議論をされているのか、あるいは九条からそれを持ってこられているのか、どちらでございますか。     〔会長退席、鹿野会長代理着席〕
  88. 小林武

    ○小林参考人 非常に単純なお答えの仕方を御質問の形に合うように申しますと、それは自然権的なものとして認めており、かつ九条を含めて、規範がそれを受け入れたことを確認している、表明している、そんなふうに読んでおります。例えば、国権という言葉を日本国憲法は使いますけれども、国家主権、そうしたことの中にそれが入っていると思います。  ただ、委員は御承知かもわかりませんけれども、私は、憲法学の通説はというふうに絶えず言っておりまして、きょうの公述は全部そうですけれども。最近の比較的有力な説、少数ではありますが有力な説の中には、自衛権というものを、伝統的に自衛の戦力というものと結びついたものだという理解をした上で、その自衛の戦力を日本国憲法が放棄した以上、伝統的な自衛権も放棄したのではないか、そういう解釈、考え方もあります。ただ、私は通説に従って申しましたし、今のところ私も通説に立つ一人であります。
  89. 前原誠司

    ○前原委員 今質問をさせていただこうということに関連して先生がお答えをいただきました。さらにそれについてはお話を伺いたいんですが、通説としてという前提つきでございますけれども、先生は自衛権はお認めになっている。ということは、国として自衛権は持っているけれども、自衛権の行使はしてはいけない、そういう意味ですか。
  90. 小林武

    ○小林参考人 そうではなく、先ほどの水野委員からの御質問に答えたところでも既に私は発言しておりますけれども、自衛権の行使の仕方について、憲法がその行使の仕方を定めている。この場合には禁止規範でありますから、戦争をしてはいけない、また丁寧に言えば、武力による威嚇、武力の行使をしてはいけない、また軍隊を持ってはいけない、この禁止規範を設けている。その範囲、その制限のもとで、我が国公権力は、政府は自衛権の行使をすべきだ、こういうふうな態度憲法態度だ、こういう理解でございます。
  91. 前原誠司

    ○前原委員 武力を伴わない自衛権の行使というのはどういうものでしょうか。先生のイメージされるものを教えていただけますか。
  92. 小林武

    ○小林参考人 先ほどの御質問にもあったことですけれども、最も純粋型と申しますか、それは非暴力に基づく抵抗です。これが最も典型的な、そしてきっとそのことが憲法の念頭に置かれていたのだろうと思います。  先ほどの幣原喜重郎氏の言でありますけれども、この非暴力、不服従という抵抗の仕方は、きっと侵略者が侵略することをやめるであろう、こういう確信のもとに語られています。これは、いわば憲法の制定されたときの九条の情熱をそのまま具体化された、政策化された、そういうものだと思います。私も、やはり九条の出発点はそこにあると思います。したがって、御質問に答えるならば、どういう方法で自衛権を実現するのかといえば、まずはこのようであります。  ただ、繰り返しを避けますけれども、五十年たち、そしてさまざまなファクターを考慮に入れた憲法政策を我々は考えた上で憲法実現を図っていくべきだというのが、私のきょうの公述の趣旨なのです。
  93. 前原誠司

    ○前原委員 さらにその上で御質問をいたしますけれども、先ほど、具体的に、攻めてくるとしたらどういうケースがあり得るのかということを、もし攻めてこられたらどうするのかという話をする人はやらなければいけないということを先生はおっしゃいました。  後で先ほどの朝鮮半島の御認識も含めてお伺いをしたいと思うわけでございますけれども、では、先生のおっしゃるようなそういう自衛権の行使、つまりは非暴力、不服従という形で自衛権の行使をしたとしても、それで例えば国民の生命財産が結果的に守れなかった場合、確かに武力の行使によって守れるかどうかということも、それももちろん結果的にはわからないわけでありまして、それは同じジャンル、同じ範疇に私は入るんだろうと思いますけれども、そういう結果責任でどういう選択をするのかということについて、政治が最終的に責任をとらなくてはいけませんね。そこに私は、先生がおっしゃった、憲法を使いこなした上で、最終的に憲法について改憲か護憲かという判断を下すというところが出てくると思うんです。  そういう意味において御質問をしますけれども、非暴力、不服従という形での先生がおっしゃるいわゆる自衛権の行使というものにおいて、結果的に例えば主権国家というものがなくなってしまう可能性もあるわけですね。その場合は、我々はどういう判断をしたらよろしいんでしょうか。
  94. 小林武

    ○小林参考人 まず、私は、非暴力、不服従というのは、憲法制定から間のない一九五〇年のときの、有力で真摯な政治家の考え方というものをかりて申しているわけで、今日、この二〇〇〇年、二十一世紀を間近に控えている今の日本における憲法政策あり方は、私は違うものを先ほど公述しているわけであります。  憲法が一切の戦争を禁止し、軍隊を持つことを禁止している。そうであるにもかかわらず、軍が、そして相当に実力を備えた軍事力が我が国にあるということ、これは大きな矛盾です。この上に立って考えざるを得ない。先ほど所与の条件でというふうに申しましたけれども、半世紀近くにわたって積み重ねられてきた、それは文字どおり、私たちにとっては、それを前提にして考えざるを得ない、そういう事態であると言わなければならない。  その場合に、憲法の実現というものを、つまり憲法をよりよい状態で実現していく、そういう展望をしっかり持ちながら、つまり、名前はともかく、一切の戦力が憲法によって否定されているのだというこの原則、これを維持しながら、その状態を実現する道筋の中で、私の言い方では憲法政策上の運用が、しかし簡単に安易にやるのではなくて、衆知を集めて、そういうやり方あり方を追求していくべきなのだ、そういうふうに考えているわけです。  なお一点、私は先ほどの発言の中で申し上げたんですけれども、今の御質問の中身と私はかなり同感できるところがあるんですけれども、そういうことを前提にして考えるならば、我が国が、歴代政府が憲法どおりの政策、軍を持たない、そして国際的な貢献はすべて平和の手段で行っていく、あらゆる国と中立対等の関係を結んでいく、ましてや軍事同盟的なものは結ばない、こういう方針をずっととってきておりましたら、我が国は、世界において平和建設国家として非常に高い道義的な権威を得た国になるであろう。こういう国に対して侵略などという、そうした可能性はないというふうに言わなくてはならない、そういう状態になっていたのではないかと思うんです。私は、そうでないことを、そういう道筋を歴代政府がとってこなかったことをとても残念に思っております。そうした考え方でございます。
  95. 前原誠司

    ○前原委員 先生のおっしゃることで一つ矛盾があると私は思うんです。  その矛盾は何かというと、さっき構造的暴力の解決に尽力をすべきということをおっしゃいました。つまりは、理想は争い事や暴力はすべてなくなったらいいということですけれども、先生は、構造的暴力というものは地球上に存在するということをお認めになった上で、そういう武力によらない自衛権の行使というもので日本はいくべきだ、そうすると、道義的という前提条件でありますけれども、日本は尊敬を得られるというお話でございました。  では、構造的暴力があって、また実態的に見れば、有史以来、ずっと人間は殺し合いをしているわけです。戦争をしているわけです。それは先生のおっしゃった貧困や債務や環境だけではない、もっと言えば民族とか宗教とか、そういったことで争い事もずっと有史以来し続けてきているわけです。  私は、政治の責任は国民の生命財産を守ることであるという前提に立ったときに、今先生のおっしゃった、道義的ということだけで尊敬を得られる、尊敬を得られても、日本という国がなくなってしまった、多くの国民がそれによって傷つき、死んでしまうということになれば、本当に政治としての責任が果たせるのか。私は、それは全く、憲法の解釈という学問的な、言葉は悪いですけれども、お遊びになってしまうんじゃないかと思うんですが、いかがですか。
  96. 小林武

    ○小林参考人 今おっしゃった中で、二つのことの混同があるのではないかと思うんです。  構造的暴力という文脈で私が語り、また、さぞかし御質問なさっているのは国際貢献の問題ですね。きっと、その最たるものは戦争ではないかというふうにおっしゃろうとしていたと思うんです。でも、それと同時に、日本の国がなくなってしまうとどうなるのか、こういうふうにおっしゃる。これは別の問題です。  私は、日本の国がなくなる、こういう事柄について、それこそ先ほど申しましたように、それは一体どういうことなのか、その実際の可能性があるのか、あるいはどのようにして起こるのか、今の国際情勢を、それこそ政治や軍事や科学のすべてを動員して、これについて総合的、科学的に明らかにすべきだというふうに思っております。簡単に、国がなくなってしまったら憲法どころじゃないじゃないか、理論などというのはそのことの前には空論ではないかというふうにおっしゃるのは、やや論理の積み重ねを欠いた事柄であると思います。  したがって、私がお答えできるのは、前の方に戻しまして、構造的暴力の問題ですけれども、私が申していますのは、やはりこれは貧困の問題であり、環境の問題であり、あるいは傷ついた人々の問題であり、おくれた教育の状態の問題であり、そういうことを取り上げているわけです。戦争と結びつけましても、戦争が貧困、環境破壊をもたらす最大の原因だと思います。しかし、私のこの議論からすれば、確かに戦争そのものには関与すべきではない、血を流すべきではないと考えておりますから、それはやはり日本国憲法の設定した限界なんだろうと思います。  もし正面から、いや血を流すべきだというふうにおっしゃるのであれば、それこそ、これまでの歴史と将来への展望と社会諸科学の理論的論拠を持ち出して、血を流すべきことの正当化を議論されるべきでありまして、私は、日本国憲法の立場は、それは避ける、しかしそれよりもより苦労の多いであろう汗を流すことを積極的に行うという、この立場が日本国憲法の立場だ、こういう解釈です。
  97. 前原誠司

    ○前原委員 先生が今おっしゃった一言で私は議論をしたかいがあったなと思うのは、そういう状況になれば憲法の限界ですということを先生みずからお認めになったということは、私は今の議論一つの大きなポイントだと思うのですね。  あと五分しかありませんので、議論をしても結構ですけれども、つまり、私が申し上げたいのは、暴力がなければいい、血が流されなければいい、私はそれは全く大賛成、一〇〇%大賛成。それにまた努力をしなくてはいけないということであります。ここら辺は性悪説に立つか性善説に立つかという違いになってまいりますけれども、自衛権は持っている、そして武力によらない自衛権の行使もあり得る、そこまでは認めたとしても、その先に国の存続というものが成り立つかどうかというところを、私はみずからの責任として議論をさせていただいているわけであります。  先ほど先生がおっしゃった、限界があるということは、それは万能ではないというふうなことをおっしゃったことだと私は思っておりますので、そのお言葉が出たことについては、私は非常に胸のつかえが取れるような気がいたしました。後で時間があれば、今の反論をしていただいて結構です。  それで、もう一つ聞きたいものがあります。  集団的自衛権というのは、先生は憲法上お認めになりますか。それから、日米安保というのは合憲ですか、違憲ですか。
  98. 小林武

    ○小林参考人 一点目でありますが、残念ながら、委員の胸のつかえは取れないわけであります。  私は、日本国憲法の限界を申し上げたのではなくて、日本国憲法日本国家、つまり日本の公権力に対してそのような限界を設けているというふうに申し上げているのです。ここは非常に大事な点です。  つまり、憲法というのは、もう御承知のとおりに、すべからく国家権力行使に限界を設けるものなのです。それでこそ憲法の存立意義がある。これは、明治憲法のときの伊藤博文が森有礼と論争している、そのとき既に伊藤博文の方が述べている、いわば憲法というもののスタートラインにある大前提なのですね。日本憲法は、日本の国家、日本の公権力に対して、戦争はしてはいけない、軍隊を持ってはいけない、そういう限界を設けているわけです。ですから、日本政府はその限界の中でしか動くことができない、こういうことであって、もう一点ありましたね。(前原委員「いや、いいです。ちょっと時間がないので、今の議論をしておかないと、私が意見を言えないままに終わってしまいますから」と呼ぶ)
  99. 鹿野道彦

    ○鹿野会長代理 前原君、会長の指示に従って発言をしてください。
  100. 前原誠司

    ○前原委員 根本的に私は先生と立場が違います。今おっしゃった憲法解釈という意味においては、それは一つのお説であろうと思いますし、先生が憲法解釈には限りなく忠実でなければいけないという御趣旨は、一時間のお話を伺っていてよくわかりました。その中で、自衛隊も違憲である、組織自体が違憲である、自衛権は持っているけれども武力の行使を伴う自衛権というものはやってはいけない、そして、武力の行使を伴わない自衛権というもので日本は突き進まなければいけないし、それが日本の進むべき道なんだ、こういうことですね。  しかし、私はなおかつ先生がおっしゃるのに腑に落ちない部分は、構造的暴力というものを認めているということは、人間が争いを起こす動物である、そして有史以来人間が争って土地を奪い、人を殺し合い、そういうことをやってきたわけです。それをなくしていかなくてはいけないという努力はしていかなくてはいけない。その中で、先生のようなお説を突き詰めていった場合、日本国憲法というのは本当に国民の生命、財産、安寧な生活というものを守れるものなのか、そういう思いがいたすわけです。  例えば、憲法十二条、十三条、公共の福祉の問題、あるいは先ほど先生おっしゃった憲法二十五条、これは国民の生命とか財産とか生活を守るべきものじゃないですか。先生がおっしゃる九条の厳格な運用の中で結果的に十二条、十三条、二十五条が守れなくなったときに、これは九条を守って憲法全体が崩壊するということになりませんか。
  101. 小林武

    ○小林参考人 憲法が人の生命そして生活を守る、財産を守る、これは当然だろうと思います。国家の安全を守る、当然であろうと思います。  その中で、つまり、それをするために、当然なそのような目的を達するために、憲法はさまざまな選択をしている。日本憲法日本憲法としての選択をしているわけです。九条を守って十二条、十三条、二十五条滅ぶでなくて、十二条、十三条、二十五条に定めている人々の幸せ、生命、安全というもの、これを九条によって守ろう、九条によってこそ守れるのだというのが憲法の考え方なのです。  だから、基本的に違うというふうにおっしゃられれば、確かにそれはそのように違うかもわかりません。
  102. 前原誠司

    ○前原委員 時間が参りましたので、残念ですが終わらせていただきます。ありがとうございました。
  103. 鹿野道彦

    ○鹿野会長代理 太田昭宏君。
  104. 太田昭宏

    ○太田(昭)委員 憲法裁判制とか憲法裁判所について聞きたいと思います。  先ほど、憲法実現の課題に最高裁はどのようにこたえてきたかと、違憲法令への対応、立法府と最高裁の関係ということについてお話がありまして、それらについては大変研究もされて御見識もあるという感じがいたしまして、これをひとつお聞きしたいと思います。  先生は著書の中でも違憲審査における司法の消極主義ということを指摘されて、伊藤先生の発言等も引かれて、制度の閉塞状況を打破して活性化をしていかなくてはいけない、こういうことを指摘されていますね。  日本のこれまでの伝統として、具体的事件に対する事実の認定ということに即してそうしたことが行われてきたというふうに思います。それに対して、法律の適用について解釈をしてきた。行政も立法もこれが拘束するというか、そうしたことで、終局的、有権的にそれらのことを示してきたというふうに言われるわけですが、事実と事件なしにそうしたことを論じていくということについては、なかなか経験もないし、ともすると観念的な論争で終わるというようなことで二十一世紀型の憲法というものは果たしていいのかなと一方では経験的に感ずるわけなのです。  読売の試案等でも、この憲法裁判制度ということを八十五条から八十九条までうたったりしておりまして、これらについて先生は、近時の憲法裁判所型への傾斜には現在の時点では賛同することができないけれどもと断りながらも、これらについてはかなり大事であるという認識をしている感じがいたすのですが、それらの憲法裁判制度あるいは憲法裁判所について、御見解をお伺いしたいと思います。
  105. 小林武

    ○小林参考人 私のつたない論文を読んでくださって、ありがとうございます。  今おっしゃった中で、私はこれこれこう考えているんだ、そういうつかまえ方をされた、それは本当に私はそのように考えているわけでありまして、これは公述の中でも申し上げたことですけれども、今日の違憲審査制のいわば閉塞状況あるいは活性的でない状況、これを解決する方法として、現在私は、憲法裁判所制度の導入ではなくて、現在の具体的審査制あるいはアメリカ型の司法審査制、その今日の制度を運用、改善することによって活性化していくべきだという考え方を持っているわけです。  それはなぜか。今おっしゃったこととつなげて申しますと、委員も、今日ドイツ型の憲法裁判制度を導入することは日本の裁判所ではややつながらないのではないのか、そういうお考えをお持ちのようですけれども、職業裁判官を中心にしていて、しかも、その歴史が戦前戦後を通して長い日本の裁判所の中で問題をどう考えるかということは、やはり一つポイントになるだろうというふうに思っております。  私、現在の制度をやや積極的に評価しますと、先ほど三点申し上げたわけですけれども、一つは、具体的な事件の発生を待って、具体的な事件に適用されるその法令の合憲性を審査していくというこのあり方、これがなぜいいのか。私の視点は、裁判とはすべからく基本的人権の保障にある、違憲審査制の理念もまたそこにあると考えておりますので、人権保障のためになぜそれがいいのか。それは、当該法令、つまり違憲が疑われているその法令が国民にどのような影響を及ぼしているのか、あるいは国民にそこでどのようないわば迷惑と苦労をかけているのかという具体的な事実を通して裁判所が法令の審査に当たっていく、こういう点は私は大変大事な点だと思っております。  憲法裁判制度の場合には、これも御承知だと思いますけれども、抽象的規範統制というふうに言われるとおりに、そこでは具体的事件とは切り離して、つまり、具体的事件発生の前に、その法令だけが憲法に適合するかどうかということの審査の俎上にのせられます。それよりも、個人の人権がそれにどうかかわったかということを裁判官が判断するというあり方は人権保障のためには大切であろう、これが第一点です。  二つ目は、市民が提訴する。民事事件や行政事件がそれでありますけれども、刑事事件は少し違いますけれども、そういう形で市民、国民憲法裁判の開始についてイニシアチブを持ち得るという、これは非常に大事だと思います。憲法裁判所制度はそうではなくて、国家機関が法律の合憲性審査の口火、イニシアチブを持つことになります。この点も、人権保障のために、日本型の今日の制度のいいところだと思っております。  もう一つ、三点目ですけれども、それは下級裁判所が違憲審査をすることができる。七十六条からそう言えるわけです。八十一条の解釈に基づいてもそうであります。つまり、下級裁判所では事実審理を主にやってまいりますから、その中で事実に基づいた法適用のあり方ということが詳細に審理できる、こういう点を生かしていくべきではないか。ただ、こういういい点があるのに今日の制度はさまざまなふぐあいを起こしているわけでありますから、その改善が必要だというふうに思うわけです。  逆に、憲法裁判制度の場合は、ドイツを念頭に置きますと、日本やアメリカの憲法あり方とかなり違ったものが、時間が長くなりますから一点だけにとどめますけれども、ドイツの場合には、何よりも憲法裁判所という、最高裁判所ではない、最高裁判所の上に立つ第四権としての機関、これは単なる裁判機関ではない第四権を設けまして、そのもとで憲法的価値を決定し、その憲法裁判所が決定した憲法価値を政治と市民の社会の中に及ぼしていく、そういう構造をとってまいりますから、かなり日本あり方とは違った枠組みが前提とされております。
  106. 太田昭宏

    ○太田(昭)委員 もう一点だけ、お伺いします。  時代が変わったから、服装が合わないから憲法を検討しよう、そういうことではなくて、むしろ、現憲法は、プラス面として評価をしてスタートを切ったが、しかし、プラスとして作用をしていたものが五十年を経過してほころびを見せ、マイナスとして作用してくるという要素がある。ましてや、今憲法を考えるということは、戦後五十年間の違いというものを想定する以上に、二十一世紀の未来志向の中で、例えば三十年後、五十年後の日本の姿ということの中から現時点の憲法論争はしなければいけない。  だから、例えば二十一世紀一つのキーワードというかマグマは一体何であろうかというときに、私は、ITであり、そしてゲノムであり、あるいは住民参加ということであり、環境である、こういうようなとらえ方をして、そこがかなり日本の社会の大きな変貌をもたらすという、未来志向型という憲法論争が大事であろう、こういうふうに思っています。  そこで、もう時間がありませんから、一つだけ聞きますが、環境権と言うけれども、どのように努力してきたかということを先ほど厳しい御批判をされてきたわけですが、私は、この環境権というものを憲法十三条あるいは憲法二十五条の中に読み込むということは無理であろう、そういうふうに思うのです。  例えば、環境権というのは、個人の尊厳とか人権概念では把握できないと私は思う。むしろ、生命とか生態系への広がりという哲学性が憲法の十三条とか二十五条の中に内包されているのであろうかというと、そこのところに広がりというのが少しなかったのではないか。  ドイツ基本法の二十条に環境保護という国家規定がある。人間中心の環境保護を目指す環境国家か、ラジカルな生態学的な国家かという大論争の中でこの論議が行われてきた。私はラジカルな方ではありませんけれども、少なくとも、人間中心の環境国家というものを想定しない、むしろエコロジカルな人間主義に立った国家というものを想定していかなくてはいけない、こういうふうに思っておりますが、十三条とか二十五条ではそれを読み込むのは無理があるということと未来志向ということについて、先生のお考えをちょうだいしたいと思います。     〔鹿野会長代理退席、会長着席〕
  107. 小林武

    ○小林参考人 二つお答えしなければならないと思うんですけれども、憲法制定から五十年たった、これまでの五十年よりもこれから先の時代の進展はもっとテンポが速くなる、それは全くお説のとおりだろうと思います。  ただ、五十年たったからという議論は、私先ほども少し触れましたけれども、必ずしもそのままではうべなえない。例えば、さっきも触れましたが、スイスはしばしば改正をしている、百二十六年間で百四十回を超える改正をしている。しかし、これはすべて部分改正でありまして、憲法典の全面改正は百二十六年ぶりの改正なんですね。日本で言えば、明治憲法日本国憲法も合わせた以上の時間、一つ憲法をスイスは持ってきている。  つまり、時間もないということですのでもう詳しく触れられませんけれども、五十年たったからということ、それはそのままにはならない、きっと委員もそうはお考えではなかったかと思います。その場合に、確かに未来を志向する、未来を展望する憲法論議が必要だ、これはだれしもがそのように考える共通の認識だろうと思います。  ただ、私きょうも強調いたしましたのは、その未来を展望する憲法あり方議論するときに、我が国の場合には、それに先立つさまざまな課題があるのではないか。憲法がこれまでどう扱われてきたか、その実現が妨げられてこなかったかというさまざまな事柄を、しかも政治の責任において、直接かかわっている立場においてこれを検討していく、調査していくという、この大前提を抜きに未来の志向というものを語ることはできないのではないか。日本の場合にはそういう事情があるのではないかというふうに思います。  もう一つは、環境権を取り上げられて、エコロジー憲法の構想の一端に触れられました。私も、先ほどちょっとスイスの例に触れたときに、スイスがエコロジー憲法への志向をしているという点、大変注目しております。そして、それらはドイツ語圏に共通した動きだというふうに言うことができます。  そうした憲法あり方それ自体からすれば、環境権を十三条、二十五条で説明するのは、確かに説明の仕方かもわかりません。したがいまして、もし私たちが、この憲法調査会のおおむね五年の調査の後に、さらに新しいステージに立ってそのような、現在の憲法の基本原理を全うした、その上のさらによりよい憲法をつくっていくというときには、そうした生態系、エコロジーという問題を大きく踏まえた憲法に乗り出すということも、当然一つの方向であろうというふうに思っております。
  108. 太田昭宏

    ○太田(昭)委員 終わります。
  109. 中山太郎

  110. 藤島正之

    藤島委員 自由党の藤島正之でございます。お疲れのところ、二、三御質問をさせていただきたいと思います。  今までお伺いしていますと、余り意見の一致を見るのはないのかなという感じはいたしますけれども、最初に、九十六条の改正手続の点でございます。  御承知のように、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、かつ国民投票に付して過半数を得る必要がある、こういうことなんですが、先ほど参考人は、スイスの憲法の例を挙げまして、いろいろ改正はされているけれどもそれと同一視するべきではない。私は、憲法のこの規定については、スイスは必ずしもいわゆる普通の国の範疇じゃないというふうに考えておるのです。そのほか外国の例として、参考人は、選挙法の違憲の例とか、あるいはほかの例を挙げられておったようですけれども、この改正手続の方だけは、何か外国の例に従うべきじゃない、こんなふうな御意見だったと思うんですけれども、その辺、何か均衡していないんじゃないか。普通の国は改正しやすい形の憲法がほとんどじゃないかという認識をしておるんですけれども、お答えいただきたいと思います。
  111. 小林武

    ○小林参考人 改正手続のこと、そして憲法を比較する場合の仕方のこと、そういう御趣旨の御質問ですね。  私が考えておりますのは、憲法九十六条というのはとても重要な条文だ。国会各院の総議員の三分の二以上の賛成で発議、これは発議にとどまるわけです。しかも、その発議内閣には任せない、国会のみが発議をする。国会国民代表者ですから、国民代表機関の発議、そして直接主権者国民の投票、こういう二段階です。これは国民主権という原則を非常によくあらわしている改正手続の条文です。  スイスの場合も、委員御承知のとおりに、向こうでは半直接民主制というふうに言っておりますけれども、直接民主制の国でありますから、憲法改正には当然国民投票が必要であります。  私、先ほど、スイスの例を日本憲法についての特定の主張と結びつけるべきではないと申しましたのは、それは改正の回数の問題なんです。もう時間も少ないでしょうから要点だけですけれども、要するに、スイスが連邦制の国家であることを見落としてはいけないということを言ったわけです。連邦制の国家ゆえに、連邦と州の間の権限分配の問題が、国家の役割の拡大に伴って、絶えずその都度出てくる。日本ではそういうことはありません、地方自治はありますけれども連邦制ではありませんから。そこを踏まえないで、彼我を一緒にしてしまってはいけない。比較憲法の方法にもとることだということを私は申し上げたわけです。  つまり、比較憲法をしてはいけないということを言ったのではなくて、選挙制度の場合に、十分その国の制度や歴史を日本と比較をして、そしてそれを参考にすることができる、そういう条件をつかむことができれば、大いに外国の選挙制度参考にすべきです。今度の非拘束名簿式の場合でも、参考にすべき例がたくさんあります。特にヨーロッパ諸国には多くありまして、そういうものを参考にしてくださらなかったことを、参議院が主であるかもわかりませんけれども、私は国民として残念に思っている、そういうことであります。
  112. 藤島正之

    藤島委員 次に、内容の点でございますけれども、現実憲法との間に乖離がある、それはこれまでの政治がみずからの必要のためにつくり出したものが多い、それを埋めるための努力をすべきであるんだ。例えば、その実態に近づけるために、いろいろなケースのうち、議員定数なんかもそういう方向で、一部そういうことをおっしゃっていたわけです。  確かにそういう面はあると思うのですけれども、九条について見ますと、先ほど参考人は、明文改憲と解釈改憲がある、今回の九条について言うと、政権政党が許される範囲を逸脱している、あるいは歪曲しているということをおっしゃっているわけです。しかも、憲法学者はほとんどが違憲だと言っていたということなんですけれども、確かに憲法学者はかつてはそういう意見が多かったと思うんですけれども、現在は必ずしも違憲だと言う憲法学者は、私は多くはないというふうに認識しておるわけであります。そのほか、参考人は、違反はしているが有効だ、こういろいろ御意見があったわけです。  それと、解釈でやっているんだったら、それはそれで、もう明文改憲しないでもいいんじゃないか、こういうふうなおっしゃり方もされていました。私は、だれが見ても、だれが判断しても問題ないというようなものであればもちろん解釈のままでいいわけですけれども、この九条のように、私は解釈で自衛隊は合憲だと思っておりますけれども、そういういろいろな解釈があり得るからこそ、それを一致したものにするために明文改憲をすべきである、こう思うわけですけれども、いかがでしょうか。
  113. 小林武

    ○小林参考人 御質問の中心は、現実政治憲法の乖離の問題でございます。  議員定数の例を引かれたのは、まことに私は同感です。これは本当に、ここは立法府で、その立法府のことを申し上げるのは心理的には恐縮な気持ちがいたしますけれども、立法府がつくり出した乖離の事例だと思います。  憲法は一人一票の原則ですから、さまざまな技術的な事情があれ、せいぜい二倍未満に抑えなければならない。そういう大原則に精いっぱい努力をするということをせずに、随分格差を大きくしたまま法律を放置されている。参議院の場合にはもっとですね。その乖離を憲法の側から是正するのが本来最高裁判所の役割ですけれども、最高裁はそういう立法府の現実を考慮して、私の言い方では過度に考慮をして、三倍までだったらいいよ、そういうふうな判断をしてきている。これはやはり憲法からの乖離、しかも非常に説明のつかない乖離の現象だろうと思います。ですから、それを言っておられるのは、それはそのとおりだと思います。  中心は九条をめぐることだったと思いますが、解釈改憲という言葉を、私、発言ですからかぎ括弧をつけるということはできませんが、論文では、私のみならず、憲法の研究者は、その場合、かぎ括弧をつけて用います。つまり、解釈による改憲というのは本来ないからです。けれども、本来あってはならないそれを、要するに憲法をゆがめて、憲法の規範内容を別のものに変えてしまうような改憲の仕方、これをかぎ括弧をつけて解釈改憲というふうに呼んでいるわけです。  私ども憲法学者は、どういう資料に基づいて御発言をなさったのか、ちょっと私にはわかりませんが、今日でも、九条の解釈に関しては、自衛隊という名前を持つかどうかは別にして、戦力に当たるものは一切違憲だというのが通説であります。この状態は変わっておりません。  違憲だけれども有効だということも取り上げられましたが、それは私が言ったのではなくて、そうではなくて、違憲の状態である、そのように評価せざるを得ないその自衛隊について、最高裁判所は積極的には無効の判決をこれまでしていないという状況を申し上げたわけです。それに基づいて今日の憲法政策を立てていこうではないか、私はそのように考えております。  とりあえず、以上でございます。
  114. 藤島正之

    藤島委員 私も、戦力は明確に九条で禁止されていますから、戦力というものを今の条文のまま持つことはもちろん違憲だということはわかるんですけれども、要するに、自衛権を持つということについて、それは先ほど参考人もおっしゃっていたように、私はそちらの方を言っているわけであります。  というのは、やはりどの国であろうとも、自分を守る権利である自衛権というのは、憲法にどういうふうに表現をしようとも、これは放棄することができないわけであります。ある時代の国民が勝手にそういうことをやって、その国が滅んでいいということはないわけでありまして、自衛権は、必ずこれは否定されない。  そうしますと、先ほど来の議論になっちゃいますけれども、自衛権を行使するために、やはりその社会の状況に応じて、それ相応のものを持っていないといかぬということだと思うんですけれども、せんだって、佐賀の吉野ケ里の遺跡に行ったときも、よその部族から守るためなんでしょうけれども、先のとがった木をいっぱい連ねてありまして、あるいはやりだとか何かいろいろな、その時代その時代に応じて、自分を最小限守るものを用意しているわけですね。  したがって、現代は現代で、今の兵器の趨勢に応じたものを最小限持っておくというのは、これは自衛権を肯定する以上、最小限当然のことだと私は思うわけです、先ほど来の御意見の感じからすると合わないかなという感じはしますけれども。  それと、時間がないのでまとめてあれしますけれども、先ほど前原委員から質問があったんですが、時間がなくなったんですけれども、日米安保を、今の絡みからしまして、これはみずから何か力といいますか、そういうものを持つわけじゃなくて、アメリカに頼るというやり方によって日本を守るということなので、これであれば、参考人の言うようなことであっても、これは憲法に違反しないのかどうか。  この二点を最後にお伺いしたいと思います。
  115. 小林武

    ○小林参考人 一点目でありますけれども、自衛権という概念と、それから自衛の戦力、この概念の憲法における区別の問題は先ほどもかなりお答えしたと思いますので繰り返しませんが、それに関連して、私、大変気がかりに思った点が一つございます。それは、委員は、憲法がどう表現しようと否定できないことだというふうにおっしゃった、その点です。  これは大変重要な点でありまして、憲法は自衛権というものを、私の理解では、自然権的な権利としてこれを前提としつつ、この自衛権の行使の方法について厳格な制限と禁止を公権力、つまり国家権力、政府に命じているわけなんです。それが憲法なんですね。  要するに、憲法がその国家権力のありようを、このことはしてはいけないという禁止や、あるいはこのことだけは許されるという制限や、あるいはこのことはしなければならないという命令、そういう禁止、制限、命令の規定を憲法が置くわけです。そのことを前提にして、近代国家というのは初めて国家権力の行使ができる、こういう仕組みでありますから、この点を安易に、憲法がどう表現しようとという、憲法よりも上に何か国家的必要があるんだという議論憲法論にはなかなかなりにくいのだというふうに思っている。これが一つであります。  それからもう一つですけれども、吉野ケ里遺跡のことをおっしゃいまして、二十一世紀のありようを議論するときに、やはりそこまでさかのぼって、雄大に歴史を論じるべきかなというふうに思いました。  その場合、日米安保でありますけれども、かなりの程度に、私は、歴史の検証にたえられないものではないのか。つまり、国家の独立ということを強調すればするほど、先ほどの自衛権というものを大切に考えれば考えるほど、そうした外国との間の、そして必ずしも対等ではないような軍事的関係を持つということは、本当に基本的なところで憲法上の根拠を持たないものであって、違憲かどうかという点では、これは違憲であります。憲法学の通説に基づいて言っておりますが、当然、憲法違反であります。そしてまた、かなりの程度に、現在の世界の歴史の中で、早晩それらが根拠を持たなくなるものではないか、軍事同盟についてはそのように思っております。  先ほど民主党の委員でしたかがおっしゃった集団的自衛権というのは、これもまた当然、日本国憲法は我が国国家権力に許していない、当然そのようなものだというふうに考えております。
  116. 藤島正之

    藤島委員 済みません、時間が過ぎちゃったんですけれども、集団的自衛権じゃなくて、日米安保条約の方なんですけれども。
  117. 小林武

    ○小林参考人 申し上げたつもりなんですけれども、日米安保の仕組みが、言われている集団的自衛権の行使の枠組みであるかどうかということは別にしても、それに当たればより当然ですけれども、それに当たらないとしても、我が国が憲法上、政府の行為によって軍隊を持ってはいけない、そういう規範的命令の中で、政府が外国と条約を結んで軍隊の駐留を認めるというこのあり方憲法九条から見て許されない、そのような解釈であります。
  118. 藤島正之

    藤島委員 終わります。
  119. 中山太郎

  120. 山口富男

    山口(富)委員 日本共産党の山口富男でございます。  きょうは、憲法研究者の立場から日本憲法学界の通説的な見解をきちんと示されて、九条を初めとしてお話しいただきまして、どうもありがとうございました。  とりわけ私は、国民主権の問題、それから平和主義、生存権の規定、こういう憲法の規範内容の実現に力を尽くすことが二十一世紀課題だ、こうされた小林参考人の提起を共感を持って受けとめました。その提起を今後の調査会の仕事に生かすことでおこたえしていきたいと思うんですが、その立場から幾つか質問したいんです。  第一は、参考人おっしゃいましたように、憲法現実の乖離の問題でとりわけ大きなものに、九条と自衛隊の問題があるわけです。この問題、この矛盾を、改正の方向でなくて、衆知を集めて二十一世紀に解決したいんだというふうに強調されましたけれども、参考人はそういう解決の展望条件が二十一世紀に向けてあるんだというお考えなわけですね。
  121. 小林武

    ○小林参考人 私、今考えているその限りでは、そのようにしなければならない。そのようにというのは、憲法が定めているような状態、つまり軍事力は持ってはならないというその状態。したがって、今日の制度を非軍事化しなければならない、そのようないわば課題をしっかり認識しております。そして、その課題の実現に向かって、さっきの私の言葉をもう一度使いますと、衆知を集めたいわば賢い道筋を私たちが立てることができれば、これは本当に政治の舞台だけではなくて、さまざまな国民の知恵、討論、こうしたものを経てそれをつくることができるならば、きっとそれは実現するであろうというふうに思っております。  ただ、私、今の段階で、二十一世紀中にというふうにおっしゃる、それが御質問であるとするならば、その見通しを科学的に持つことはできない。つまり、そのためには政治学あるいは国際関係学、また軍事学に至るまでのさまざまな社会諸科学、その知識や勉強が必要だろうと思いますので、二十一世紀中にということについては申し上げることができない、そういうところであります。
  122. 山口富男

    山口(富)委員 どうもありがとうございました。  私も、二十一世紀中といいますか、二十一世紀の中で憲法九条の完全実施の条件を広げたいと思っているんですが、今世界の中では、特にアジアなどでは、憲法九条について大きく見てどういう評価がなされているんでしょうか。
  123. 小林武

    ○小林参考人 これにつきましては、憲法九条の持つ、先ほどの言葉をかりて少し恐縮ですけれども、未来志向的な力と申しますか、そういう未来を展望していける憲法の性格というものが随分、そして時を追って評価されてきているんではないかというふうに思います。  今アジアというふうにおっしゃいました。日本の場合、そのアジア諸国に対して侵略戦争を行った、そういう特別な関係を持っている国である、このことは否定できないと思いますし、絶えずそれを念頭に置いて今後の外交方針を考えなければならないと思います。そういう場合に、日本が戦争をしない国である、軍隊を持たない国である、現在の軍隊についても、そうしたものを憲法に適合する状態に向かっていこうとする国である、そういうことについて憲法が道筋を示しているわけでありますから、これは日本の国家というものを信頼できる国家だというふうに受けとめることができる。  さらに、全地球的な視点に立ちましても、この憲法というものがむしろ二十一世紀を見通したものであるという評価がなされていると思います。アジアという御質問でしたのでちょっと外れるかもわかりませんけれども、御承知のとおりに、昨年五月のハーグにおける世界市民平和会議、そこではたしか十項目の決議がなされたと思いますが、そのまことに第一項目に、各国は、日本国憲法九条を取り入れたそういう憲法をつくることに議会が力を尽くそう、そういう趣旨の決議がなされていることにも示されていると思います。
  124. 山口富男

    山口(富)委員 今ハーグの市民会議お話が出ましたけれども、憲法九条がそれだけ世界の人々から高く評価される、その理由を先生はどのようにお考えですか。どこに魅力を感じているんでしょうか。
  125. 小林武

    ○小林参考人 とてもスケールの大きな御質問なんだろうと思います。  私は、日本国憲法が、五十三年たった今日、世界の人々がそれを今後の指針となり得るものと考えている、しかも考えている人々が多くなってきている、それほど未来に生きる、二十一世紀に生き得るそういう憲法になったについては、四六年の憲法制定過程をとてもつぶさに調べる必要があるだろうというふうに思いますけれども、その中で理想的な、しかもそれは現実と遊離したというものではなくて、現実を導く理念となり得るさまざまな理念が日本国憲法の中に取り入れられているということが言えるだろうと思います。九条が最たるものでありますけれども、九条と必ず結びつけて言うべきは、前文の平和的生存権、平和のうちに生存する権利です。これは私、公述でもきょうは余り強調しなかったのでむしろ少し残念に思っておりますけれども、それの持っている意義というのは非常に大きいと思います。  全世界の国民が恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利を有するというこの確認を日本国憲法が行ったということは、一つには、全世界規模で、つまり全世界の国民の権利としてこれを考えている。しかも、二つ目に、平和に生きるということは権利と考えている。つまり、それぞれの政府がたまたま平和政策をとったその反射として受けるのではなくて、各国の国民の側がそれぞれの政府に対して平和を求めていく、平和の政府であることを要求していく、そのような権利として定めているということはとても大きいことだろうというふうに思うのです。  ややこのことの周辺になりますけれども、憲法二十五条を制定するについて参議院の方で調査をなさった、そのときに招聘をなさったGHQ関係の人の一人としてベアテ・シロタ・ゴードンさんがおられますけれども、こういう人々の活動を見ますと、本当に広く、例えばワイマール憲法まで調べて日本国憲法の制定のための努力をしている。あるいは、明治期に日本国民がたくさん出しておりましたいわゆる私擬憲法、この私擬憲法の中の民主的な性格のもの、自由主義的な要素を取り入れようとしている。それらを総合する形で、日本国憲法の未来に生きる力というものを評価していくべきじゃないかというふうに思っております。
  126. 山口富男

    山口(富)委員 この調査会は二十一世紀展望しているものですから、どうしてもスケールが大きくなりまして申しわけございません。同時に、今の小林参考人お話で、憲法の抱える歴史の厚みというものを痛感いたしました。  今、平和的生存権の問題の話が出たのですけれども、憲法二十五条の問題なんですが、先ほどお話の中で、世界的に見ても先進的な生存権規定を設けているという紹介だったんですが、ここで言われている世界的に見て先進的と言える中身は何なんでしょうか。
  127. 小林武

    ○小林参考人 一つは、二十五条の規範構造に注目していただきたいと思っておりますけれども、二十五条一項は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」というふうに、人間らしく生存することを権利として保障しているわけです。そして、第二項は、まさにそれに向かい合う形で、国が社会福祉や社会保障や公衆衛生の増進と向上に努めなければならないという、国家の責務を対応させているわけです。つまり、人々の生存ということに関して、国民については権利を、国家については責務を、義務とは書いておりませんが、責務を、こういう形で対応させている。  この規範構造というのは、これは世界の憲法の中でも先進的なものだと思います。この先鞭を切りましたのは御承知のとおりワイマール憲法でありますけれども、一九一九年ですね、このワイマール憲法とて、社会保障を国家の政策上の目標として掲げた。個々の国民の権利というところにまでは進んでいないわけです。そこまで進めたのが日本国憲法だというふうに言えると思います。  それに加えて二十六条以下、二十六条は教育の条項ですし、二十七条、二十八条は労働権及び労働基本権の条項ですけれども、そのように、人間らしく生きるということの欠かせない事柄としての教育及び労働について、繰り返しませんけれども、これもまた国民の権利としてそれらの事柄を定めているという、これが私は先進性の中心点だというふうに思っております。
  128. 山口富男

    山口(富)委員 先ほど環境権の問題が出ましたけれども、いろいろ言われる新しい人権の問題も、私は、今参考人がおっしゃいました先進的と言われる生存権の規定を軸にして考えますと、憲法上の裏づけを十分持てるものだというふうに思うんですが、もしこの点での参考人の御意見があれば聞かせていただきたいんです。
  129. 小林武

    ○小林参考人 憲法上の裏づけ、それは十分に持ち得ると思います。  憲法の通説、こういう言葉をしばしば使っておりますけれども、それによるならば、二十五条、これも環境権について持ち出しますが、同時に十三条も参照いたしまして、十三条は「すべて国民は、個人として尊重される。」そこに、生命、自由、幸福追求の権利という、生命の権利がそこでうたわれておりますから、まさに環境権の核心としての生命の権利、これが十三条とぴったりするわけですね。そして、人間らしく生きるという二十五条。この十三条と二十五条が環境権というものを二重に包み込んでいる、二重の包装論、そういうふうな考え方、これは解釈論としてはかなりすぐれた論理だろうと思いますし、多くの研究者がとっているところです。したがって、環境権は現行憲法の中で十分根拠づけることができます。  加えて、私それを強調したいんですが、公述の中でもその点は一言申し上げましたけれども、そのような環境を守るあるいは環境を確保するということの何よりの根拠は、やはり平和であります。この平和の確保ということについて九条は、これは繰り返しになりますけれども、国家に対する客観的な規範として置いておりますと同時に、平和に生きるということを、先ほど申したように、前文で個々の国民の権利として述べておりますから、それらを一体として、私たちが環境権を現行憲法に基づいて主張するに十分であります。  ただ、私、先ほどの委員の質問に答えて申しましたのは、例えばスイスまたドイツなどの憲法の進め方というのはもっと進んでいるわけですね。時間がきっとないと思いますから簡単に言いますけれども、エコロジーというものの中身をもっと進めております。  したがいまして、私がきょう申したように、さまざまなきちんとした議論を踏まえて、理性的な文字どおりの憲法改正憲法をよりよくしていく、そういう環境ができましたときに、条件ができましたときに、それは一つテーマとなり得るというふうに思っている次第です。
  130. 山口富男

    山口(富)委員 最後に、時間がありませんので、参考人、簡単にお願いしたいのですが、九十六条の問題で、憲法改正手続の軟性化を説く議論とのかかわりで、国民投票を除くことは国民主権の原則と抵触し、憲法改正の限界に当たるという御指摘がありました。この憲法改正の限界という考え方はどういうものなのか、また、調査会調査を進める場合にそのことを踏まえる意味はどこにあるのか、この点だけごく簡単にお願いいたします。
  131. 小林武

    ○小林参考人 ごく簡単に言えないようなことです。時間は短いのですね。
  132. 中山太郎

    中山会長 時間はもうございません。
  133. 小林武

    ○小林参考人 そうなんですか。それでは、ごく短く申します。  憲法改正条項は九十六条です。それは、憲法の中で設けられている条項です。それですから、この憲法のよって立つ土台、これを崩すことはできないわけです。  憲法のよって立つ土台、これのさらに土台といいますか、最も基軸になるのは主権の原理、国民主権です。したがいまして、国民主権原理を表現しているような国民投票規定、国会の三分の二というのはやや論争的でありますけれども、少なくとも国民投票を削るなどということは憲法改正の限界になる、そして国民主権原理と一体不可分の関係にあるところの基本的人権の保障及び平和主義というものも憲法改正の限界をなすというのが憲法学の通説なんです、非常に簡単に言ってしまいましたが。
  134. 山口富男

    山口(富)委員 ありがとうございました。
  135. 中山太郎

  136. 横光克彦

    横光委員 社会民主党の横光克彦でございます。  小林先生には、きょうは長時間にわたりお話しいただき、また各党の質問にも誠実にお答えをいただいております。本当にありがとうございます。  先生のお話を聞いておりまして、一、二、私、意見を異にする部分もあるわけですが、かなりの部分で同じ思いを持っております。私も、国民主権、平和主義、そして基本的人権が柱となっております現行憲法を誇りに思っている一人でございます。  私ごとでちょっと恐縮ですが、私、昭和十八年生まれでございます。終戦のときには二歳でした。ですから、当然のごとく、戦争経験もございませんし、戦争の記憶も全くございません。物心ついたときに、ただただひもじかったなというような思いが今でも残っておるんですが、そういった生活の中で父母が、朝晩、食事のたびに麦御飯を少しだけ仏壇に供えてお参りをしておりました。もうちょっと大きくなってから教えてくれたんですが、兄二人が戦争で死んだんです。そして、父母からよく、戦争がなければ、あるいはあの二人のお兄ちゃんが生きていれば、戦争は嫌だ、こういった言葉を小さいときから自然とといいますか、耳にたこができるほど聞いて育ったんですね。母と父のその悲痛な思いというものが子供心に自分の中にしみついているというのが、大きくなってからの一つの考えに至る起因ではなかろうかと自分では思っております。  戦争は、ただただ破壊だけをもたらし、その悲惨さ、無意味さ、愚かさ、これはもう万人が共通する思いであろうと思います。それだけに、戦争放棄、そして恒久平和をうたった現行憲法を私は今こそ大切にしていかなければならない、そういった気がしているんです。  ただ、戦後五十数年たった今日、逆に、いろいろな理由からして、この憲法九条を含めて改正すべきであるという声もこれまた大きくなっているわけでございます。私は、戦後五十年以上が経過した今だからこそ、二十一世紀を目前にしている今だからこそ、そしてまた戦争体験、戦争経験がない、戦争が風化されようとしている今だからこそ、現行憲法がいかに国民の中で重要であるかということを改めてみんな認識していただかなければならないときではなかろうかと思うんです。  もうすぐ二十一世紀です。戦争世代、戦争体験のない世代がほとんど中心になってまいります、私を含めて。そういった経験のない人たちが中心世紀が始まる。そうしますと、戦争の愚かさというものを教えるのが現行憲法であり、また、人類の理想でもあります戦争放棄をうたったこの憲法こそが私は戦争体験にかわる存在にならなきゃならないと思うんですね。ですから、この憲法を守って、そして世界に広めていくことこそが日本の二十一世紀のあるべき姿であり、日本の使命でさえある、私はこのようにまず思っておるわけでございます。そういった考えの中から先生に質問をさせていただきます。  まず、先生のお話の中で非常に重要なお言葉がありました。この憲法調査会あり方ですね。この憲法調査会憲法改正調査会にしてはならないというお言葉がございました。非常に私は重い言葉だ、この会の委員は皆さんこれを肝に銘じていかなきゃならないなという思いがしております。この憲法調査会がなすべきことは、これはあくまでも客観的かつ公正な調査であり、そのことによって、憲法の理念を具現化するための法体系の整備にあると私は思っているんです。  平和主義あるいは基本的人権の尊重をうたっている憲法を持っていながら、現実には、実在する法律憲法の理念にかなり反する、そういった疑念を抱かざるを得ないものが多いわけですね。本来、政策憲法に合わせる努力をすべきであるにもかかわらず、現実にはむしろ逆の方向に向かおうとしている。  憲法現実政策に大きな乖離がある、先ほど先生もお話しされました。大きな乖離がある。この乖離をこれからは埋めていかなければならない、埋めていく努力をしなければならない。しかし、その乖離を埋めるために憲法改正であってはならないというのが先生のお話でございました。私もそういった思いを持っておるんです。  では、どうして憲法現実政策の乖離を埋めていくのか、埋めていく努力をするのか。私は、一つの案として、この溝にいわゆる平和基本法のようなものを作成すべきではないか。つまり、憲法の平和主義の再確認、あるいは個別的自衛権の範囲の定義、PKOへの協力の範囲などを骨子とした平和基本法を作成して、憲法現実の間の溝を埋めていく努力をすべきではないかという考えを持っているんですが、こういった案にどのようなお考えをお持ちでしょうか。
  137. 小林武

    ○小林参考人 私は、今御発言を伺っていて、本当に同感するところが多くございます。平和と平和憲法への思いということを語られた部分について、まことにそうであります。私は一九四一年生まれですので、ほぼ同じような年代だろうと思います。我々の年代は、まさに平和憲法のもと、この日本国憲法のもとで小学校教育が始まった、この憲法の教育を受けてきた世代でありますので、そういうところの共通性があるのではないかなというふうに感じました。  それを踏まえての平和基本法の制定の御提案ないしはアイデアの御提示でありますけれども、私は、平和基本法という場合に、それがどのようなものかということをしっかりと見きわめた上でその適否を考えるべきだろうというふうに考えております。  私、公述のところで申しましたのは、自衛隊につきまして、違憲しかしながら合法という論理がかつてあったわけでありますけれども、そのことについて批判的に申し上げました。また、平和基本法という今お出しになった同じ名前の法律の提起も既に過去の政治史の中でなされております。  それらを踏まえた上で、そしてより重要なことは、私がきょう繰り返して申し上げたことでありますけれども、この憲法をどのようにして実現していくのか、つまりはこの憲法に違反している現実をどのように解消していき、憲法実現に近づけていくのかという、この道筋を科学的に打ち立てなければならないということでありました。その科学的な基礎の上に立つ憲法政策というものの樹立が必要であろう。そのことであるならば、何法と言うか、そのいかんを問わず、それが受け入れられるべきものであったり、あるいはより改善をしたり、ないしは受け入れられなかったりするというふうに思っております。
  138. 横光克彦

    横光委員 憲法前文に、「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」という文言がございます。国際社会との共存共栄、これは二十一世紀日本課題でもあろうと思うんです。この国際社会で「名誉ある地位を占めたいと思ふ。」この名誉ある地位というものを、先生は具体的にはどのような形でお考えなのか。そして、その名誉ある地位は現在占めることができておると思っているのか、それとも、まだまだそうではないが、これからそれは努力しなければ、それはこういうことであるというようなことがございましたらお聞かせいただきたいんです、先ほどちょっとお話がございましたが。
  139. 小林武

    ○小林参考人 前文に言う「名誉ある地位を占めたいと思ふ。」というこの言葉は本当に重い言葉であって、誇り高い誓いであろうと思います。私はその内容を、きょうのお話の中では道義上の権威という言い方で言い直しております。我が国がこの地球上において道義的な尊敬を受ける国家になること、これが何よりも名誉ある地位ということであろうと思います。  それに関連して申し上げたのは、繰り返しますけれども、この憲法どおりに、つまり我が国が世界に先駆けて戦争をしない国家として踏み出したこと、軍隊を持たない国家として歩み方を決めたこと、その決めたとおりに戦争をしない、軍隊を持たない、そういう国家として歩んでいましたら、さぞかし、半世紀たった今日、我が国はこの道義的な権威、つまり名誉ある地位を確固不動なものにしていたのではなかろうかというふうに思っております。  したがいまして、今日の我が国の状況については、率直に申しまして、幾つか遺憾に思うところがあるわけでありまして、それとは違う事柄をしばしば歴代の政府は行ってまいりました。もちろん、その中でも、例えば、少々揺らいでおりますけれども、武器禁輸についての原則でありますとか、あるいは、今日ではそれは取り払われておりますけれども、防衛費をGNPの一%以内にとどめるという三木内閣当時の方針でありますとかということが、いわば第九条がすれすれのところで歴代政府に課してきた歯どめとして働いてきたのだろうと思います。  したがって、これから先、私の考え方からすれば、原点に立ち返るべきでありまして、これ以上に憲法からの逸脱を進めていくならば、名誉ある地位どころか、先ほど申しましたむしろ逆の状況、普通の国以下の国家として遇される、そういう状況になっていくのではないかというのが私の考え方であります。
  140. 横光克彦

    横光委員 原点に返るというお話ですが、ちょっと個別的に小さく言えば、軍事的な国際貢献でなくても、平和的な国際貢献で十分国際社会の中で名誉ある地位を占めることができるとお考えですか。
  141. 小林武

    ○小林参考人 そのように考えておるわけでありまして、もっと私は積極的に考えているわけですね。そうであることこそが、つまり、平和的国際貢献に徹することが、我が国が平和憲法を持つ国家として世界において名誉ある地位を占めることだ、道義的権威を確立することだというふうに考えているものです。
  142. 横光克彦

    横光委員 今、実はちょうどインドネシアから超党派の国会議員団が訪日されております。これはインドネシア友好議連の招待で、より友好親善を深めるためにおいでになっておるのですが、私は、あるインドネシアの国会議員に、日本憲法にどのような感想をお持ちですかということを聞いたんですね。そうしますと、東ティモールの件があったにもかかわらず、日本という国は、やはり武力で国際貢献をしてほしくない、それ以外の医療とかいろいろなところでむしろ十分貢献してほしいというようなお話がございました。それはあなただけの意見ですか、それともインドネシアの国民多くの方がそういう意見を持っているんでしょうかとお聞きしましたら、その方は、インドネシアの国民の多くは日本に対してはそういったイメージを持っているというお話でございました。このことをちょっと御報告させていただいて、質問を終わります。  ありがとうございました。
  143. 中山太郎

    中山会長 近藤基彦君
  144. 近藤基彦

    ○近藤(基)委員 21世紀クラブの近藤でございます。もうしばらくおつき合いをしていただければと思います。  今横光委員の方から、十八年生まれだということでありますが、私はもう一回り若いものですから、戦争をもちろん知りませんし、まして、戦後生まれでありますので、小さいころにひもじい思いというよりは、もう既にかなりの平和な安定した環境を享受してきたということで、もちろん既に現行憲法が生きてきているわけでありますし、私自身が当選させていただいて四カ月でありますので、前国会で制定過程、もちろん勉強はさせていただきましたが、生の声を聞くことができなかった人間であります。  そういったことを踏まえて、憲法ができて五十三年間、今の現実社会とかなり乖離してきている部分がある。これは、その原因が、先生のお言葉では、歴代政府があるいは政治が違憲の積み重ねをしてきた、その部分で乖離が非常に大きくなっているのではないか、そのことも踏まえて、この調査会でいろいろと精査をし、そしてそれを踏まえた上で、改正云々はその次のステージで話をすべきだということであります。  確かに、違憲の積み重ねで乖離をしてきた部分はもしかするとあるのかもしれませんが、現実社会は動いていますので、社会的な構造も既に戦後の五十三年前とはかなり変わっているだろう。  先生がお考えになって、例えば二十五条の問題でも、先ほどちょっとだけ環境という言葉は出てきたみたいでありますが、もう少し強く環境という問題をとらえてもいいのではないか。あるいは男女平等の問題で、両性平等という部分が出てきますが、どうも婚姻あるいは離婚、家族という中での男女平等ということで、男女平等の社会参画の中での、観念的にあるのかもしれませんが、文言的にないという意味で、そういった現実社会とかけ離れている、乖離をしている部分から、例えば、別に私は改憲論者ではないんですが、そういった理念的なものをもう少し含んだような文章を憲法に入れていくべきではないのか。ますます現実社会と憲法が乖離をする。  今問題になっている九条は九条で、違憲であればそれを違憲じゃないように近づけていく努力をすべきだというのが先生の意見だと考えておりますが、それ以外にも現実社会と現実に離れている問題が多々あるんだろうと思うので、それから手をつけていく、それから話し合っていくということでは理解はできないでしょうか。
  145. 小林武

    ○小林参考人 今挙げられました事例と申しますか項目の中で、九条論というのは随分もう出ておりますから、それ以外のこと、むしろ委員もそれを中心におっしゃったと思うのですが、環境そして平等。平等の場合は、いわゆる男女共同社会参画というふうなことを念頭に置いての御発言であったわけですね。それらが実現されるということは当然なこと、もっともなことだと思うのです。実現されるというのは、それは憲法規範の改正ということではなくて、政治の舞台、社会の場面で実現されていくということは当然だと思うのです。  さて、この憲法調査会で考えるべき中心は、憲法規範はそれについてどのように向き合うか、あるいはどのようにこれが扱われるべきかということです。  環境の点で言いますと、先ほどの委員の方に私がお答えしたように、十三条と二十五条及び平和的生存権、これが環境権の十分な根拠になっております。環境について、もっともっと具体的で豊かな法律以下の法を具体化していく、このことで環境の保全、確保ということは我が社会の中で実現していく、そういうテーマだと思います。  それから、平等につきましても、日本憲法が男女共同参画ということを言っていないことが問題なのではなくて、男女の平等、両性の平等ということについて、例えば立法府でどう考えているのか、政府はどう考えているのか、社会でどう考えられているのか、そのことが大事でありまして、憲法はそのことを受け取ることのできる十分な装置を、例えば十四条、二十四条というところで備えているわけです。  つまり、憲法というのは、何もかも詰め込むのではなくて、基本的な枠組みを定めている、重要な枠組みを定めている。そして、そのもとで、基本的な理念を守りながら、解釈によって条項、規範を豊かにしていく。  その解釈によってという場合、それが国家権力に対して向けられている禁止規範でありますと、それは厳格に解釈して、してはいけないということは厳しく解釈をしていく。逆に、国民の権利を守る条項でありますと、これは豊かに解釈していく。これが憲法解釈のむしろ一貫した態度であるべきです。  ですから、おっしゃることを何もかも憲法の解釈ということにつないでいく必要はないのではないのかというのが私の考え方であります。
  146. 近藤基彦

    ○近藤(基)委員 日本国憲法制定論議も前国会であったわけですが、そのときにかなり話題になったのが、押しつけの憲法ではないかとか、いや、そうではないんだ、現行憲法は立派なものだというような議論がありましたけれども、参考人のお立場としてはこのことに関してはどうお考えですか。
  147. 小林武

    ○小林参考人 これも本当に多くをお答えしなければならないのですが、時間の関係もきっとあるでしょうから結論から申しますと、押しつけ憲法論というのは根拠がないものだというふうに私は思っております。  一、二点、要点だけ申し上げます。  憲法制定の過程を見ましても、一九四五年の十月から憲法改正の作業が始まっておりますが、その十月から翌年四六年の二月の冒頭あたりまでは、日本政府に憲法改正のイニシアチブがゆだねられておりました。GHQは政府にゆだねておりました。しかしながら、日本政府、特に松本委員会が中心の作業をやっておりましたけれども、いわば世界の民主主義、平和への大きな流れの中で憲法をつくるという意思も能力もなかったわけですね。そこで、GHQがその制定のイニシアチブを取り上げた、その限りでは押しつけた。  だから、かつての明治憲法あり方、とりわけ国体の護持につながるような憲法あり方を考えていた人にとっては確かに押しつけであったのではないかという、これが、この憲法調査会でも、私、会議録を読ませていただく限り、ほぼ一致しつつある認識なのではなかろうかというふうに思っております。
  148. 近藤基彦

    ○近藤(基)委員 私自身、その制定の年代を目にしているわけではありませんので、逆に言うと教えていただきたい部分になるのかもしれません。  日本国憲法を制定するとき、当然GHQの傘下にあった時代でありますけれども、例えば憲法二十一条、制定された当時は、かなりGHQによる厳しい検閲が行われていたような時代にこれができてきた。そういった意味では、その当時から空文化しているのではないかという部分もあるんではないか。その辺が押しつけだという——私自身は、押しつけなのかどうかは、現行憲法で育ってきていますので、押しつけだろうが何だろうがこの憲法が現在あるということでありますから、そういった論議をするつもりはないんですけれども、その当時の制定過程の中で、現行憲法に合わないようなことが行われながらこの憲法が制定されてきたことはないのか、逆に教えていただければと思うんです。
  149. 小林武

    ○小林参考人 今の御質問は、占領史の理解、つまり、歴史学を踏まえた占領史研究の問題にとって大変大きな問題だろうと思います。  確かに、今おっしゃった事柄の一端は、それは否定できないことだと思います。つまり、占領中に占領権力が日本においてどのような政治を行ってきたか、そういうさまざまな事象があるだろうと思います。ただ、私は、それを今総体的にお話しすることはできないわけで、その点は差し控えたいというふうに思います。  ただ、押しつけ憲法論ということで言えますのは、私が思っていますのは、GHQが憲法改正のイニシアチブを最後までゆだねなかった、それは日本国民なのですね。  GHQは、さっきもちょっと申しましたけれども、日本国民の明治憲法制定時の憲法制定の努力、あるいはその当時のさまざまな、それこそ各国の憲法の参照、これらをいたしまして、そして、とりわけて、先ほど申したベアテ・シロタ・ゴードンさんなどは、女性の地位の向上への情熱を非常に強く持ちまして立派な憲法をつくっていったわけです。ただし、憲法制定の主体、これが日本国民であるべきだというこの方針は、GHQはとらなかったんですね。したがって、私は、そのことは日本の大きな歴史的な課題として残っていると思います。  したがいまして、この調査会がほぼ五年間の調査を終えられ、そして、その後、さまざまな考え抜いた政治過程を経た上で、その将来の問題として憲法改正の論議を行うとき、その主体は国民であるべきだ、そのような歴史的将来においてこそ、国民が直接、憲法制定の主体、主人公としてその舞台に出るべきであろうというふうに思っております。
  150. 近藤基彦

    ○近藤(基)委員 以上で終わります。
  151. 中山太郎

  152. 松浪健四郎

    ○松浪委員 保守党の松浪健四郎でございます。  参考人におかれましては、長時間真摯な御議論を交わしていただきまして、心から感謝を申し上げたい、こういうふうに思います。  ただ、ずっと拝聴させていただいて、私の考えと全く異なる、そして、学者はいいな、国民の生命と財産、暮らしに責任を持たなくていいからこういうふうに言えるんだな、こういう印象を持って聞かせていただいたことを冒頭に吐露させていただきたい、こういうふうに思います。  そこで、お尋ねをしたいんですが、イラクとクウェート、つまりイラクの侵略、こういうふうに考えていいと思うわけでありますけれども、そして、その後に国連軍と言われる多国籍軍が出てまいりました。このことについて、先生の感想を聞かせていただければと思います。
  153. 小林武

    ○小林参考人 私は、憲法学者、憲法研究者の一人として、この憲法を研究するときに、これは法の研究、法の解釈でありますから、したがいまして、それに伴う社会的責任ということを常に自覚しております。その社会的責任の根底にあるのは、それこそ、この憲法国民の生命、財産、生活、そして国の安全にどのように寄与し得るのかという、そのことについての主体的な実践的な責任の感情であります。  大変気楽に考えているというふうにおっしゃるのは、政治家というのはいいなというふうに思わざるを得ないわけでありまして、そのように受けとめていただきたくはないということです。真摯にというふうにおっしゃったわけでありますから、やはり、私の申していることをそのように受けとめていただきたいと思います。  それを前提にいたしまして、御質問がございましたけれども、イラクの行為は、これはだれも許されない行為、侵略の行為であろうというふうに思います。もちろん、御質問のポイントは、日本がそれにどうかかわるのか、あるいはそのかかわり方が軍事的であることも当然ではないか、そういう御趣旨なんですね。
  154. 松浪健四郎

    ○松浪委員 全く違います。私の趣旨はそうではなくて、このイラクという国がお隣の小さな産油国を侵略した、そして多国籍軍が出ていった、そのことについて、憲法学者としての参考人の感想を聞かせていただきたいということでございます。
  155. 小林武

    ○小林参考人 日本のとるべき態度、そうしたことが中心であろうと思いますけれども、私は先般来るる申し上げてきたとおりの憲法についての理解を持っておりますし、それを踏まえて、日本の場合はそれに参加することはできない。さまざまな形で、平和的手段でもって、その人々、つまりその侵略によってこうむった災害、苦労というものを、平和的手段によって我々はそれに対する支えをしていく、そういうことに徹するべきだというふうに思っております。
  156. 松浪健四郎

    ○松浪委員 私が聞きたかったことは、今の時代にあっても侵略をしようとする国が存在するということを我々は忘れてはならないということを、私は知っておく必要があるというふうに思うのであります。  続いて、アフガニスタンという、世界で最貧国と言われた国にソ連が一九七九年に侵略いたしました。このことについてどういう感想をお持ちか、お尋ねしたいと思います。
  157. 小林武

    ○小林参考人 こうした侵略行為というのは、先ほどの事例と同じように、全く許されない事柄だというふうに考えております。  私、きょうの私の発言と、それを土台にして申し上げたいのは、イラクのクウェートに対する侵略、旧ソ連のアフガンに対する侵略、こういう事例を立てられますときに、世界には侵略する国があるのだ、確かにそこまでは言えます。  そのことから、日本も攻めてこられる、侵略をされる、そのような可能性ないし危険性があるのだということにもし結びつけられるとすれば、そのことについてはもっともっときちんとした……
  158. 松浪健四郎

    ○松浪委員 会長、そんなこと聞いていませんので、私は感想だけを聞いているので、感想だけを答えていただけるようにお願いします。
  159. 中山太郎

    中山会長 小林参考人に申し上げます。質疑者の趣旨にのっとったお話を願いたいと思います。  小林参考人
  160. 小林武

    ○小林参考人 はい、承知しました。  感想というのは、先ほど申し上げたように、そのような侵略行為は許されないものだということであります。
  161. 松浪健四郎

    ○松浪委員 許されない国があるということ、また、あったということを大変残念に思い、悲しむものであります。  続きまして参考人にお尋ねしたいのは、インドとパキスタンの核開発についてどういう感想をお持ちか、お尋ねしたいと思います。
  162. 小林武

    ○小林参考人 私、ここに招請されておりますのは、一つの分野の専門家として、私の場合には憲法学ということでありますけれども、そういうことでしたら、これまでさまざまに考えていることをせいぜいお話しするということができますが、インドとパキスタンの核開発についてということでしたら、本当に専門家としての発言をする用意をしておりません。
  163. 松浪健四郎

    ○松浪委員 この議論は横に置いて、とにかく憲法に忠実にやるべきだという参考人の考え方は、私はよくわかりました。  そこでお尋ねをいたします。  参考人は私立大学に入職をされておるわけでございますけれども、憲法第二十一条で、言論の自由、表現の自由、そして二十三条では学問の自由、これが保障されておるわけでございますけれども、参考人は本当に保障されているなという実感をお持ちですか。
  164. 小林武

    ○小林参考人 大変大切な御質問だろうと思いますけれども、実感しているかという御質問に忠実に答えるならば、私はそのように思っております。そのことを大事にしたい、つまり、この自由社会のあり方をこれからますます大事にしなければならない、そのあり方が壊れるようなことがあってはならないというふうに考えております。
  165. 松浪健四郎

    ○松浪委員 参考人は私立大学にいらっしゃる、しかし、給料の三分の一から四分の一は国の税金ですね。そのことについてどういうふうにお考えでいらっしゃいますか。
  166. 小林武

    ○小林参考人 もう少し質問を具体化してくださるように、会長の方からお取り計らい願いたいと思います。
  167. 中山太郎

    中山会長 松浪健四郎君に申し上げます。具体的にお話しを願います。
  168. 松浪健四郎

    ○松浪委員 もちろん具体的に言わさせていただきます。  私立学校に対する国の助成措置は、昭和四十五年から創設された私立大学等経常費補助制度に始まりまして、昭和五十年に制定された私立学校振興助成法によりまして国の財政援助に対する法的保障が明確にされました。これにより、例えば平成十二年度予算では、私立大学等に対して総額三千七十億円が支給されることになっております。これは憲法第八十九条、「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」こういうふうに書かれてあります。となれば、これは憲法第八十九条に違反するのではないのかという議論がございました。  そこで、私立大学の教授である参考人に、この私学助成制度の意義についてどのような御見解をお持ちなのか、お尋ねしたいと思います。
  169. 小林武

    ○小林参考人 私学助成、つまり国庫助成の制度の意義についての御質問でございました。  この意義は本当に大きいものでありまして、現在大学に学ぼうとする多くの若い人々、もちろん若い人々だけではありませんが、大学に学ぼうとする人々が大学で学ぶことを可能とする制度として必要不可欠なものだというふうに思っております。  この合憲性についても御質問がありましたので、発言いたしますけれども、八十九条は、先ほど委員お読みになったとおりの条文でありますが、公の支配という言葉をかつてはかなり広く解釈をして、大学だけではございませんけれども、私学がさまざまな形で文部行政上のコントロールを受けているということをもって公の支配というふうに理解していいのではないか、したがって、私学助成制度は違憲ではない、こういう理解が多くございました。実は、この私学助成法をつくった立法者の側も、これは少しも違憲でないというふうに理解をしているわけであります。  今日では、私もそうなのですけれども、この私学助成制度の本質的な意味というのは、大学を含めて学ぶ人のための制度であって、学ぶ人の角度からすれば、憲法は、八十九条とともに二十六条で、国民の教育を受ける権利、若い人々の教育を受ける権利、しかも、経済的条件においても均等に教育を受ける権利ということを憲法はうたっているわけでありまして、そういう理念にこたえる制度だというふうに理解をしております。
  170. 松浪健四郎

    ○松浪委員 それは、参考人がおっしゃるように、教育基本法の三条にもつながってくる、こういうふうに思いますけれども、憲法に忠実に国を運営していくべきだ、こういうふうに参考人が言われるのであるならば、私は、この八十九条もきちんと理解をするとしたならば、私学の助成は憲法違反である、こういうふうに思うわけです。学問をする、私立学校に籍を置く、だからこれは合憲だというような理解は矛盾に富んでいるのではないのか、こういうふうに思いますが、いかがでしょうか。
  171. 小林武

    ○小林参考人 私学に籍を置くから合憲だなどということは一言も申しておりませんし、先ほどの私の発言も、二点申し上げたのは、八十九条の公の支配という言葉についての解釈と、そして、より原理的には、憲法二十六条の国民の教育を受ける権利の実現の角度からこの制度は理解されるべきだということを申しているわけであり、私学に籍を置くなどということは、全くそのような理解と無関係であります。  憲法に忠実な解釈をという場合、先ほど私はさきの委員にお答えしたときに申し上げたわけですけれども、憲法が、政府、公権力に対して、あることを禁止している、あることを制限し、また命令している、こうした客観的規範について、これは非常に厳格に理解をしなければならない。典型は九条であります。厳格に理解することが求められております。それは、憲法が何よりも国家権力の制限を趣旨とする法だからであります。  同時に、憲法は、人権の保障に関しては、文字どおり人権保障のための法でありますから、これについては弾力的に、人権を豊かにしていく、そういう方向での解釈が必要であります。  この二つは、そのようなことが両々相まって統一した憲法の解釈の仕方なのであります。
  172. 松浪健四郎

    ○松浪委員 公の支配に属しないことが私立学校の生命であります。その私立学校に公のお金を支出するということ、これは明らかに憲法違反であります。しかし、これを憲法違反でないとおっしゃる。私は、その一言で、参考人がるる述べられてまいりましたことは矛盾に富んでいるということを指摘させていただいて、私の質問を終わらせていただきます。  どうもありがとうございました。
  173. 中山太郎

    中山会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。  この際、一言ごあいさつを申し上げます。  小林参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。調査会を代表して、厚く御礼を申し上げます。(拍手)  次回は、来る十一月三十日木曜日幹事会午前九時五十分、調査会午前十時から開会することとし、本日は、これにて散会いたします。     午後六時三十一分散会