○島袋
宗康君 本法案とは直接関係ありませんけれ
ども、せっかくの機会でございますので、沖縄の五十八号線沿いにあります那覇市内のつぶれ地補償についてちょっと問題を提起しながら、ぜひ補償問題についての明確な御答弁をいただいた上で、そしてこれがどういう経過になっているかということを、おわかりとは思いますけれ
ども、
建設大臣に初めてこういった話をするわけでありますから、ぜひひとつこのつぶれ地補償の問題について何とか解決できるように努力していただきたいということを要望しながら、この問題について提起していきたいというふうに思っております。
まず、この那覇市内の
状況というものは、御承知のように米軍が占領して旧市内には全く一般住民が立ち入りできないというふうな
状況でありまして、復帰前はいわゆる米軍の軍道一号線というふうな形で
線引きされておりましたけれ
ども、その一号線の
向こう側、いわゆる西側、旧
市街地には全く住民が入れないというような
状況がございました。それで、今、那覇市内至るところに
スプロール現象が起きているのもそのせいであります。
そこで、一般住民がそこに入るためにはどうしても
区画整理が必要であるというふうなことで、この
区画整理をするためにいろいろと米軍と折衝をし、それで米軍の許可を得てこのすばらしい
区画整理事業というものを当時の高等弁務官は高く評価して進めた実態がございます。
ところが、
区画整理事業を始める段階で、例えば五十八号線沿いの仮換地が決定いたしまして、そこで主としてこの国道五十八号線、当時一号線ですけれ
ども、一号線沿いのところを一般の
住宅地として地主に提供しようというふうなことで計画されたのが、私がこれから申し上げるつぶれ地なんです。
それがなぜ一般に提供できなかったかといいますと、当時の軍政府がこの五十八号線沿いの七
メーター五十、そこは軍道の補完
道路として使用するのであけなさいというふうな布令でもって、布令百十七号ですけれ
ども、それによって
規制してしまったんです。そうすると、そこで仮換地をして一般住民が入る予定がその布令によって
規制されたために、何回も交渉するけれ
どもらちが明かなくて、結果的にはそこは軍道の補完
道路として使用する、そのために市としてはやむなく市道認定したわけです。その市道認定というものが、これは市としては非常に苦渋の選択というふうなことでやったわけでありますけれ
ども、問題は布令百十七号というものが優先して軍道がつくられた。これは軍事優先政策ですから当然民意の反映というものはあり得ませんから、そういうような形でこれが事実上つぶれ地になったわけです。
復帰直前に、これが政令の百十六号で国道五十八号線として認定されるわけです。復帰以後、私有地、市道、県道、国有地というふうに分かれていきますけれ
ども、随分長い間かかって市道認定された部分、いわゆる個人用地で提供した部分を何分の何か補償していく、あるいは県道に収用されたものは一〇〇%とかいうふうな段階で補償をされたわけであります。これがつぶれ地補償と言いますけれ
ども、そういうふうな経過をたどってつぶれ地補償がされたわけであります。
実は、ちょうど那覇空港から明治橋というところがありますけれ
ども、明治橋から泊大橋まで約千八百
メーターあるんですね。その両側七・五メートルを補完
道路として提供したためにこれを市道認定したわけです。それが事実上のつぶれ地になっているんですけれ
ども、それがたまたま布令百十七号によって、ちょうど
区画整理が完了した時点で布令を
改正して補完
道路だというふうにして指定してしまったと、これは軍のですね。そういったいきさつがありまして、全くこれの補償がなされていないというふうな
状況であるわけであります。
それで、私は当時那覇市役所におりましたから大概のいきさつは知っておるんですけれ
ども、やはり一九五〇年代ですから、当時は広島、長崎、原爆を受けたところはもう大変な国の手厚い援助で戦災復興というものがなされてきたわけでありますけれ
ども、残念ながら米軍の支配下にありますから、そういった壊滅的な戦災というものを受けていながらそれが該当されなくて、自分の手で、いわゆる
減歩率二九・〇五というような形で減歩をしてつくったのがこの
道路なんです。
ですから、それは地主の負担によって提供された五十八号線沿いの
道路ですから、当然どこでもそういった形で補償の対象になっているんですけれ
ども、たまたまそれがやむなく市道認定されたために、国としては本土の他の
地域においてもそういった事例があるので、市道に認定されたところは無償で国道に編入しなければならないという
法律があるようで、そこで那覇市としてはどうしてもこれは補償してほしいというようなことをもうあれ以来ずっと、復帰以来今日まで何とかそれを補償してもらいたいというのが那覇市の今日までのいきさつなんです。
ですから、そういうふうなことでありますので、せっかく
大臣もかわられたので、何とかそういったものを改めてお勉強していただきまして、それでこれは何らかの形で政治的な配慮、
法律的にはそれはやむを得ないと思いますけれ
ども、これはあくまでも政治的な話し合いで何とか補償の対象にできないかどうかということが、私のきょうの質問の
趣旨であるわけであります。
それは、当時の米軍の工兵隊にも強く要請をしてやったんですけれ
ども、工兵隊の方では、これはもう布令百十七号によって
規制がされているのでどうにもならないというようなことで、一般的な回答でどうにもならないと。
五八年ころでありますけれ
ども、当然復帰前ですから、あれは一九五八年だから
昭和三十三年、当時その戦災復興事業として那覇市も思い余って、五十億円ぐらいあれば何とかいろんな
意味で
区画整理事業というものを成功させることができるということで、本土に渡って当時の建設部長さんたちがやってきていろいろ要請をした経緯があります。それもいろんな形でやっておりますけれ
ども、いまだに何の音さたもないというふうな
状況が続いているわけです。
当時の五十億円ですから今に換算すると相当なものだと思いますけれ
ども、実はこの面積はどれぐらいあるかといいますと、先ほど私は延長にして千八百メートル、それで七筆ありますけれ
ども二万七千八十平米あるわけです。それで、不動産鑑定士による鑑定評価が大体六百二十億円という評価が出ております。ですから、那覇市にとっては大変大きな負担なんです。
ですから、これからもしそういったふうなことが仮につぶれ地補償という対象に政治的配慮をいただければ、これは那覇市にとっては大変な財源になります。今までの借金も、すべてとは言いませんが返せる
状況になります。
今、天久の新都心というのが
区画整理をして大変すばらしい
都市計画がなされようとしておりますけれ
ども、そういった財政負担というものは非常に那覇市にとってこれからも、これは軍用地であったのを返還されて、約六十万坪がありますけれ
ども、そこが今いろんな形で、この間沖縄振興
開発金融公庫の建物がそこに新たに建設されて、私は呼ばれましたけれ
ども、そういうふうに今どんどん建築が進んでいる
状況です。
だから、そういうふうにして
区画整理事業も、軍用地が返還されて非常に自己負担が多いわけですから、市もそれなりの負担もしているわけですから、この
区画整理事業というものは、当時政府に対して五十億円の何とか補助をしてくれ、援助をしてくれというふうな要請もいまだにナシのつぶてになっております。
どうぞ、これはぜひ
大臣の方で何らかの形で、政治的な配慮で那覇市の要請を、後でまた私はいろんな形で
開発庁にもお願いをする
立場でありますから、そういった面で
建設省と沖縄
開発庁とで何らかの対応をしていただければありがたいなというふうに思っております。
開発庁、どういう経過になっているかを御
説明いただいて、後で
建設大臣から御所見を賜りたいと思います。