○
長谷川参考人 初めに、
自己紹介から始めます。
私は、一九四〇年に
東京商科大学の予科に入学しました。四二年に学部に進学して、
田上穣治という
憲法を担当していた
教授のゼミナールで
憲法学の勉強を始めました。
学徒出陣で二年間学業は中断しましたけれども、復学して、一九四六年に卒業して、一橋
大学の
特別研究生として三年間
憲法の勉強をしました。その後は、一九四九年から定年になるまで
名古屋大学の
法学部で
憲法の
講義をしていましたし、定年になってからは、大阪の
私立大学で同じ
憲法を十数年教えておりました。
したがって、
憲法の
講義を五十年以上やっていたので、あるいはきょうの話も、議員の諸君に対してではなくて、何か学生に対して話をするような調子になるかもわかりませんけれども、その失礼はお許しください。
この五十年の間に、
憲法に関するさまざまな著書、論文を発表してきましたけれども、きょうは
憲法の
歴史をお話しするというつもりで、その
歴史に直接関係がありますのは、
皆さんにお配りしたレジュメには書いてありますけれども、「
昭和憲法史」、これは一九六一年です。それから「
憲法現代史」とか「
世界史のなかの
憲法」、そういう本を書いております。また、今、
岩波新書で「
日本の
憲法」という題の本が出ていますが、これは、
憲法施行十周年記念ということで一九五七年に初版を書きましたが、それから二十年たって、三十周年のときに全面的に書き改めて、またそれから二十年近くたって、九〇年代になって全部書き改めるという、版が違うというだけではなくて、そのときそのときの
日本の
憲法の
現状分析を三回やっておりますので、これを自分なりに比較してみると、戦後の
日本の
憲法史の特徴が出ているのではないかというような気がいたしております。
私は、
日本の
憲法を
大学で教えていただけではなくて、外国の
憲法史についても、「
フランス革命と
憲法」という一冊を書いておりますし、また「
イングランド革命と
憲法」という、
イギリスの
憲法史についても勉強したことがあります。
そして、きょうこういう
テーマでお話ししたいと思ったのは、現在、十七
世紀から十八
世紀、十九
世紀にかけての
ヨーロッパの
近代憲法の
成立史といいますか、これを
イギリス、
フランスを中心にして
研究中なものですから、どうしても
歴史のことを話したいと思って東上いたしました。
日本の
憲法学では、戦前から
憲法典の条文を解釈するのが中心で、これは戦後も同じですが、
憲法の
歴史を専攻する人というのは
憲法の
研究者にはほとんどおりません。
憲法学以外の人、
歴史学者で
憲法をやっているという人はおりますけれども、
憲法研究者として
憲法史をやっているという人はほとんど見当たりません。
私
自身も
憲法の
歴史を専攻しているわけではありませんけれども、
日本の
憲法の学界では一番いろいろなものを書いている、そういう一人でありますから、そういう資格で、学問的な
立場から、本日問題になっている問題を
歴史的に見てみたいというのが私の真意でございます。
ここに来るときに公文書をいただきましたが、それには、
日本国憲法に関する件(
日本国憲法の
制定経緯)の
調査というふうに書いてございました。昨年改正された
国会法によりますと、
衆議院の
憲法調査会は、
日本国憲法について広範かつ総合的に
調査を行うため設置されたというふうに規定されております。
そこで、私は、御依頼の「
日本国憲法の
制定経緯」という
テーマを、
日本の
憲法の
歴史の
一つの過程として、さらに言えば、
世界の
憲法史の流れに沿った出来事として、これまで私
自身が
研究してきたことを、限られた時間ですけれども、お話ししたいと思っているわけです。
そこで、第一の問題は、
憲法の
歴史を見る場合に、どういう
基準で
憲法の
歴史を見なきゃいけないのかという非常に大まかな問題です。
これはすべての論争がそうですけれども、
憲法論争をしていても、互いに違うことを
憲法という同じ名前で考えて議論していたのでは、その議論はかみ合いません。そこで、一応手がかりですけれども、
憲法の
定義といいますか、
憲法について、その国の権威ある
辞典にどう書いてあるかを見たのです。
例えば
日本の
広辞苑、これが権威があるのかどうか、ちょっと語弊がありますけれども、
皆さんよくお使いになっている岩波の
広辞苑を見ますと、こう書いてあります。
(1)として、「おきて。
基本となるきまり。国法。」というふうに書いてあります。これは
憲法という
日本語が昔から持っていた
意味だと思うのですが、聖徳太子の
憲法なんというのはこの
憲法の
意味です。
しかし、今私
たちが使っている
憲法の
意味はそうではありません。
広辞苑では(2)のところに、最初に「
constitution」という
英語が、あるいは
フランス語ですかが書いてあって、それの
説明として、「
国家存立の
基本的条件を定めた
根本法。国の
統治権、根本的な機関、作用の大原則を定めた
基礎法で、
通常他の
法律・命令を以て変更することを許さない国の
最高法規とされる。」こういうふうに書いてあります。そして、矢印で「→
日本国憲法・
大日本帝国憲法。」というふうに書いてあります。余り上手な
定義だとは思えませんけれども、きっと
法律家でない人がこれをつくったんだろうと思いますが、そういう
定義になっている。
矢印で示したように、この
憲法と
憲法典、
日本国憲法とか
大日本帝国憲法、この
憲法と
憲法典をほとんど同じに見ている
説明では、
イギリス人は、ごく一時の例外を除いて
憲法典というものを持っていませんから、この
広辞苑の
定義ではほとんど納得できないだろうと思います。せっかく
説明の頭に「
constitution」と書いてあるのですけれども、
コンスティチューションという
言葉を使っている
イギリス人はきっと納得しないだろうと思います。
イギリスには
憲法典はありませんけれども
憲法があることは、
皆さん御
承知のとおりです。あるだけじゃなくて、
イギリスは
近代憲法の成立にとって最
先進国であるということを認めない
憲法研究者はおりません。
その
イギリスで一番権威のある
字引、私
どもOEDと言っていますが、
オックスフォードの
英語辞典を見ますと、
コンスティチューションという
言葉はいろいろな
説明がしてありますけれども、その第七番目にこういう
定義がございます。ある
国民、
国家あるいは
政治体が、それに従って
組織され、
統治される
基本原理の体系、あるいは
基本原理の集合、この
意味は一六八九年から一七八九年の間に次第にでき上がったというふうに書いてあります。
では、
イギリスで
憲法とされているのは何かといえば、
憲法典はございませんけれども、まず
国会でできた
法律があります。例えば一六八九年の
権利章典という
人権を定めた
法律とか、それから、
日本の
皇室典範に当たるんでしょうか、
王位継承法という
法律、あるいは、一八二三年以来何回も改正されていますが、
人民代表法という
議会の選挙を決める
法律とか、
衆議院の優越を決めた
議会法とか、あるいは大
英帝国の統合を決めた
ウエストミンスター法というのがありますが、こういう
国会でつくった
法律の中から、国の
統治原理あるいは
組織原理に当たるものを
憲法と呼んでいます。
それから、
イギリスは、御
承知のように、もともと
判例法の国ですから、判例の国ですから、政治的な
慣行、慣習が
憲法とみなされる場合が大変たくさんあります。例えば、
衆議院議員の総選挙で第一党になった政党の総裁が必ず首相に任命されるとか、あるいは、
国王は君臨すれども
統治せずというような有名な
言葉がありますけれども、こういう
立憲君主制の
慣行も
憲法とみなされています。
イギリスの
憲法のことが書いてあって、私
たちがそれで勉強した、また、その本を読んだというふうに
イギリスへ行ったときに言ったら、では、もうほかの本は読まなくてもいいと言われた本があります。
ダイシーという人の書いた「
憲法研究序説」、これは幸い
日本語の非常にいい翻訳が出ておりますので読んでいただきたいと思います。
この「
憲法研究序説」を読みますと、そこでは今の
法律、
憲法の
法律、
憲法とみなされている
法律と
憲法とみなされている慣習、ローとコンベンション、
憲法の
法律と
憲法の
慣行がどういう関係に
イギリスではなっているかという、少なくとも
イギリスで行われている
現実を、
ダイシーは、これは十九
世紀の終わりに書いた本なんですけれども、何回も版を改めて出版しているわけです。
ですから、
オックスフォードの
英語辞典の
説明では、
憲法というのは
憲法典じゃなくて
国家の
統治・
組織の
基本原理の体系だというふうになっていますが、その後についている
説明が大切で、一六八九年、これは先ほどの、
権利章典ができた
名誉革命のときですが、そのときから、一七八九年、
フランス大
革命のとき、この百年の間にこの
意味はできたんだというふうに言っています。
そこで、これは疑って引いたわけじゃないんですけれども、念のために
フランスの、
フランス文学をやっている人なら必ず引用する大きな
字引がありまして、
リトレの
フランス語辞典というのがあるんです。それでラ・コンスティテュシオンという
フランスの
憲法のことを引いてみますと、これもいっぱい
意味が挙がっているんですが、その五番目に挙げられているたくさんの例の中に、一カ所だけ、
一つの例としてこういうことが言われています。
国民の政治的諸
権利、
統治形態及び公
権力の
組織を規制する
制定法だと書いてあるんです。この
制定法というのは、
アクトと書いてありますが、
英語でも
アクトといえば同じ
意味ですけれども、
法律のことです。
国会で、
議会でつくった
法律のことです。そして、その最後のところに、
憲法の
時代は一七八九年に始まるというふうに
リトレでは
説明しているんですね。
だから、同じ
言葉でも、
憲法あるいは
コンスティチューション、
フランスならコンスティテュシオンと発音は違いますけれども、
憲法という同じ
言葉でも、
日本と
イギリスと
フランスでは、その
字引ができたときの国情に応じて、
字引ができたときの
憲法の状態に応じて
説明が違うわけですね。ですから、我々は、その
言葉の違い、国によって
言葉の使い方が違うということを注意すると同時に、もちろん、それに共通した
意味がなければ問題をとらえることはできません。
例えば
フランス。今読んだ
リトレで
憲法の
説明をするのに、
アクト、
法律だというふうに出てくるんですけれども、
リトレの
字引というのがいつできたのか私は正確にわからない。というのは、その
字引のどこを見ても
製作年が書いてないんですね、それでよくわからないんです。少なくとももう百年以上前にできていることは確かなんですが、この
リトレを利用していた
フランスでは、第三
共和制、すなわち一八七〇年から一九四〇年まで七十年間、実は
憲法典がなかったんですね。
フランスで
憲法典がないというのは妙ですけれども、この
時代には
憲法典がなくて、あるのは、
組織に関する
法律とか、あるいは
憲法律という、
憲法という形容詞をつけた
法律があるだけだったんです。そこで、
学者は余りそういうことを気にしないんですけれども、
字引をつくる人は大変それを気にしたんじゃないかと思います。
したがって、
近代憲法のとる
法形式というものは、
法律であったり
慣行であったり、あるいは国によって、
時代によっていろいろですけれども、十九
世紀の後半から二十
世紀になりますと、
憲法典、例えば
日本国憲法とか、あるいは
フランス共和国憲法とか
アメリカ合衆国憲法とか、
憲法典が原則となって、
イギリスや第三
共和制の
フランスは全くの例外になってきます。
しかし、
法形式のいかんにかかわりなく、
憲法の
意味内容には、
国家の
統治・
組織原理として共通のものがあるというふうに私
たちは考えています。その
原理的な
意味の
憲法が、ある
時代のある
国家に
現実にあったかどうかということが、
世界の、あるいは
日本の
憲法の
歴史を見る決定的な
基準になるんじゃないかと思います。
問題は、実質的な
意味の
憲法ですね。
形式じゃなくて
憲法の中身が問題になる。
この点でよく引用されますのは、
フランスの一七八九年の有名な
人権宣言の第十六条です。この条文には、「
権利の
保障が確保されず、
権力の
分立が規定されないすべての社会は、
憲法をもつものでない。」こういうふうに書いてあります。あるいは、
皆さんも
大学で
憲法の
講義を聞いたときに、きっと先生がこういうことを教えたんじゃないかというふうに私は思います。しかし、この規定は、
人権の
保障と
権力の
分立が
憲法に不可欠の
要素だというのは、この当時の
フランス人が考えたことで、現在の目から見れば、かなり修正して見ないと正確な
憲法の
考え方だとは言えません。
国民個人の自由と
権利が
現実に
保障されていない
国家は、たとえ
憲法典があっても
憲法がないということは、今日でも
憲法研究者なら多くの人が認めるでしょう。
しかし、
権力の
分立が不可欠というふうに書いてあるのは、
フランス革命の当時に、
革命に参加した
政治家の中で
モンテスキューの「法の精神」を読んだ人がたくさんいて、その影響があったからこういう表現になった話です。ところが、これはもう
学者、
研究者には有名な話ですけれども、この
モンテスキューの
モデルになった十八
世紀の
イングランドには、「法の精神」で描いたような
権力の
分立なんてものはなかったのです。これは
モンテスキューが意図的につくった
考え方。そこには
イングランドを
モデルにしていると書いてあるのですけれども、事実はそうでないのですね。
名誉革命以降の
イングランドで確立した
憲法というのは、まず
議会主義です。
君主の専制的な
権力じゃなくて、
議会がこれをコントロールする
議会主義。あるいは行政も、
君主が行うのじゃなくて、
議院内閣制、
議会がコントロールした内閣が政治を行う。ですから、そこでは
立法権と
行政権というのは、これは
日本の現状もそうですけれども、結びついていますね。特に、
イギリスでは
貴族院が
最高裁判所なんですから、制度上、
権力の
分立なんてものは
イギリスにはあるとは思えません。
モンテスキューは自分が裁判官ですから
司法権を
分立させたのかもわかりませんけれども、それはともかくとして、
イングランドにはそういうものはない。しかし、
イギリスの
議会主義と
フランス革命のときに言った
権力の
分立には、
憲法の
原理としては共通のものがあります。それは何かといえば、両方とも
国家権力の発動をチェックする
組織原理だ、こういうことです。
議会主義とか
権力分立に、もう
一つ、法の支配という
言葉をつけ加えてもいいと思うのですけれども、ここで問題なのは、それが、
最高の
国家権力の発動を
現実にコントロールしている、そういう
原理であるかどうかということが問題です。
ですから、私は、
近代憲法に不可欠の
要素として、まず
人権の
保障、それから次には
国家権力をチェックする
原理を持っているかどうか、もちろん
現実に機能している
原理を持っているかどうか、これが二つで、第三番目に
主権の問題、
国家主権の問題あるいは
国民主権の問題、
主権の問題というのがあると思います。この三つの問題が私は
憲法の実質的な
意味を決定している問題じゃないかというふうに考えております。
これはちょっとだんだん
学生相手の
講義みたいになってきますけれども、
主権の概念が確立したのは、不思議なことなんですけれども、ジャン・
ボーダンという人で、その著書「
国家論」があるのですが、その「
国家論」の冒頭にこういうふうに書いてあるのですね。
国家とは、多くの家及びそこに共通している事柄を
主権的な
権力でもって正しく
統治することである、こういうふうに、こんな厚い本ですけれども、その厚い本の一番上のところに、
ボーダンというのは
フランス人ですから、
フランス語でもちろん書いてあります。ただ、その本はほとんど
日本にはないので、余りその本を見たことのある人はないかもわかりません。むしろ
日本の
法律家は、それをラテン語に訳した本がありまして、その訳で読んでいる人が多いのです。
それはともかくとしまして、
ボーダンによれば、この
主権の所在、どこにあるかによって
国家は
君主制とか
貴族制とか
民主制に分類される、こう書いてあるのですね。そうして、どの制度がいいか悪いかということも詳しく述べてあるのですが、
ボーダン自身はもちろん
君主制の
立場に立って書いています。
この当時は、十六
世紀から十七
世紀に来るもう四百年も前の話ですけれども、
ボーダンは
君主主権の絶対性というものを強調するわけですが、それに対して、その当時は
フランスでは
宗教戦争が行われていた最中ですから、
フランスの新教徒である、
ユグノーと言いますが、
ユグノーの
理論家は、
人民主権の主張をして、悪いことをした
君主は殺してもいいんだ、こういういわゆる
君主放伐論というのも展開します。そして、その当時は、実際の
歴史の上では、
フランスでは、新教の
ユグノーの出身でありながらカトリックに変わって
宗教戦争を勝ち抜いた
アンリIV、ヘンリ四世というのがいるのですが、その王様からあの有名な朕は
国家だと言ったルイ十四世まで、要するに絶対王政の
時代ですね。それから、ちょうど同じ時期は、
イングランドではエリザベスの
時代ですし、その次に
ジェームズ一世というやはり絶対
君主がいた
時代なんですね。
ですから、
西ヨーロッパでは、
近代憲法が成立する以前に、
君主主権と
人民主権の
理論的対立というものが、
宗教戦争とかその他内乱とか
革命とか、そういう
要素を含んで闘われながら
近代国家というものが成立した。
憲法ができる以前にそういう闘争があったわけです。
そこで、一体
主権というのは何なんだということが問題になります。
主権というのは、
近代国家が成立したことを証明する概念なんですね。
近代の
国民国家が成立するということは、対外的には、例えば
フランスにしろ
イギリスにしても、
ローマ法王の支配、今、
ローマ法王は
世界を漫遊していますけれども、四百年前の法王から、いろいろな理由でもって金を取られないように、いろいろなことで影響を受けないように
ローマ法王から独立する。要するに、その当時の
国家としての独立というのは、
ローマ法王と離れる。
と同時に、国の中では、これはちょうど明治維新のときの各藩の殿様みたいなものがたくさん
ヨーロッパにいるわけです。
ヨーロッパには四百年前にはドイツだけで三百人ぐらい王様がいたのですから、
日本と同じようなものですが、そういう藩の領主から独立する。
要するに、
近代国家というものは、対外的には
ローマ法王から、対内的にはそういう封建的な領主から独立して確立するんだ、それが
国家主権あるいは
主権と言われているものだ。
ですから、
憲法の
歴史を見る
基準というのは、
憲法の
形式として
憲法典の
重要性を認めるのはいいのですけれども、それだけにはとどまらない。
憲法の内容としては、今言った
主権があるかどうか、あるいはまた別に言えば、
最高の
国家権力というものを規制する
組織原理があるかどうか、そしてさらには
国民個人の自由と
権利が
保障されているかどうか、この三つが私は
憲法の
歴史を見る
基準になると思うのですね。
そこで、次に「
世界の
憲法史にまなぶ」ということになります。
簡単にお話ししますが、まず十七
世紀です。今から三百年以上前の話ですが、
オックスフォードの
辞典では、
近代憲法の
考え方は一六八九年の
名誉革命と
権利章典の年から始まるというふうに言っていますが、
イギリスの
憲法史研究者はこの
字引のような簡単な
考え方はしていません。
憲法史の
研究者として有名なタンナーという人がいるのですが、その人の「十七
世紀イングランドの
憲法闘争 一六〇三—一六八九年」という表題の本がありますが、ここでは
名誉革命というものを
出発点とはとらえない。そうではなくて、先ほど言った
ジェームズ一世とか、そういう絶対
君主とそれに対抗する
議会が、百年にわたって、一
世紀にわたって、コンスティチューショナルコンフリクトと書いてありますが、まさに
憲法闘争を繰り返して、その
到達点が
名誉革命なのだ、こういうふうに言っています。
その一
世紀の途中で、
議会の
軍隊と
国王の
軍隊が戦って、
国王の
軍隊が負けて、
君主チャールズ一世は捕虜になって、裁判にかけられて、
ロンドン塔で首を切られた。
ロンドンで
ロンドン塔を見学に行かれれば、あそこに
チャールズ一世の首を切ったおのと台が置いてあります。これは一六四九年ですが、そういう事件があった。
そのことはともかくとして、
議会軍の
指導者であったクロムウェル、これを
護民官、プロテクターだというふうに決めた、これは
イギリスの
歴史上空前絶後なのですが、一度だけ
憲法典ができているのですね。インストルメント・オブ・ガバメント、直訳すれば
統治の手段というふうに訳せる、インストルメント・オブ・ガバメントという
憲法典が一六五三年にできています。これはもう数年しかもたなかったわけですが。
その
革命は、ピューリタン・レボリューションとか、あるいは、今
歴史家の中では
イングランド・レボリューションとか、そういうふうに呼ばれている動乱があるわけですけれども、それが終わって、
名誉革命というのはその紛争の到着点としてついてくる。
名誉革命というのは、変なと言っては失礼ですけれども、非常に異常な出来事で、
名誉革命によって成立した
イングランドの
君主制というのは、メアリーという女王、それと夫婦になったオランダの領主、その二人の共同
統治ということになったのが
名誉革命です。要するに、その当時、トーリーとかホイッグとか、
日本語で言えば保守と自由、そういう
議会の二つの勢力があったわけですが、その二つの勢力が完全に一緒になって、もう
イングランドの
ジェームズ二世というのはだめだから、オランダから王様を連れてこようということで、オランダから領主の一人のウィリアム三世というのを連れてきて、それを王様にして
イギリスの
君主制というのは始まった。
議会がつくった
君主制なのですね。それが何で
名誉革命、名誉なのか、
日本人にはちょっとわかりかねますけれども、ともかくそういう異常な出来事があったのですね。これが十七
世紀の終わりです。
十八
世紀になりますと、
イングランドでは
議会主義が進行して
議院内閣制が成立します。
しかし、皮肉なことに、
イギリスの
君主制のもとで、植民地だったアメリカが、全く
イギリス人の
憲法論を利用して、要するに、自分
たちは代表を送っていないのだから
イギリスの
議会の
法律なんかに従う必要はないという理屈を考え出すと同時に、独立戦争をして独立して、
アメリカ合衆国憲法というのが一七八七年にできたわけですね。
そして、それにほとんどきびすを接するように、
フランスで大
革命が起こって、
フランスでは、一七八九年の
人権宣言以来、九一年、九三年、九五年、九九年というふうに
憲法がいろいろと変わって、最後にナポレオンが登場して帝政
時代になるわけですね。
ですから、戦争とか内乱とか
革命と関連のない新しい
憲法の制定なんというのは、全くこのときまではありません。
十九
世紀になると、
憲法典の制定は
ヨーロッパ全体に広がっていくわけです。そして、
世紀の後半には、開国した
日本が、アジアの唯一の国として
憲法にかかわるようになってくるわけです。
私の持っている、明治十年に元老院で編さんした「欧州各国
憲法」という、いわゆる
憲法集があるのですね。この元老院の明治十年の
憲法集を見ますと、そこに載っているのはスペイン、スイス、ポルトガル、オランダ、デンマーク、サルディニア、後のイタリアですが、ドイツ、オーストリアと、十九
世紀に
憲法典をつくった国々の
憲法が、ちょっと生硬な翻訳ですけれども、元老院で編集したものとして明治十年に出ております。
ちなみに、これらの
国家というのは、スイスの連邦
共和制を除いて全部
君主制の
国家ですし、また、
イギリスと
フランスが載っていないというのは、先ほど言いましたように、
イギリスには
憲法典がありませんし、
フランスはその当時は
憲法典がなかった、第三
共和制であったということも反映しているでしょう。ですから、それが大体、明治
憲法制定前、明治十年代の
日本の
政治家の
考え方だったのですね。
十九
世紀に
ヨーロッパの
憲法状況で
日本の
憲法制定に直接影響を与えているというのを見ますと、当時
ヨーロッパ随一と思われていた
フランス第二帝政の陸軍が、普仏戦争でビスマルクのプロシア軍に大敗して、ナポレオン三世は捕虜になってしまったのですね。そして帝政が崩壊して、
フランスは第三
共和制になりました。
ですから、ちょうど普仏戦争で
フランスが負けて、
フランスには
憲法典というものがなくなってしまって、なくなったどころか、ベルサイユの宮殿に乗り込んできたプロシアの
軍隊がドイツ帝国
憲法というものを制定してそれを
世界に宣言する、そういう状況でしたから、その後、
日本から
憲法取り調べに伊藤博文ほか数名の者が
ヨーロッパへ行くわけですけれども、
憲法典のない
イギリスとか負けた
フランスというのはもう素通りで、ドイツに直行したわけですね。
だから、明治
憲法が、戦勝国ドイツと、プロシア以外のいろいろなラントといいますか、諸邦の
憲法を
モデルにしたということは、その当時の
一つの事情になる。これはいい悪いの問題ではないと思うのですね。
問題なのは、二十
世紀になって、その前半に起きた二度の
世界戦争が
憲法に与えた影響というものは、それまで人類が経験した戦争とか内乱とか
革命以上に大きなものがあったわけです。
第一次大戦がきっかけになってロシア
革命が起こりました。そして、これは
歴史的な事実ですが、
世界で最初の社会主義
憲法と言えるロシア社会主義連邦ソビエト共和国
憲法というのが一九一八年にできております。その
憲法が、第一次大戦の敗戦国であったドイツが新しい
憲法をつくるときに、いわゆるワイマール
憲法をつくるときに、このロシアの社会主義型の
憲法が大変強い影響を与えているのですね。例えば労働者の
権利を
保障するとか生存権の
保障、そういう
考え方をワイマール
憲法が持っていて、
日本国憲法に戦後影響を与えたと言われているこの中身というのは、実は、第一次大戦が終わったときのロシア
革命の影響を受けたドイツの社会民主党の政権がつくった
憲法だったということです。
そして、第二次大戦の結果、例えば、戦勝国である
フランスでも、あるいは敗戦国であるイタリアでも、それぞれ新しい
憲法ができています。ソ連の影響下にある東
ヨーロッパの諸国もいわゆる社会主義型の新
憲法をつくりましたし、それから、植民地であったアジア、アフリカの諸地域も一斉に独立して新しい
憲法をつくるようになった。ですから、第二次大戦の後に、
世界の
憲法の状況は一変してしまったわけです。
十七
世紀、十八
世紀、十九
世紀の中ごろまでは、進んだ資本主義国、あるいは進んだ文明国が持っているものというふうに考えられていた
憲法の
原理というものが、
憲法典という形をとって、もう第二次大戦後は全
世界のもの。今、国連に加盟している百八十八カ国ですか、お調べになれば、どの国もきっと
憲法典というものを持っているだろうと思うんです。
そこで、問題なのは、それから半
世紀たったわけですけれども、今、このような変化が、果たして
憲法にとっていい変化と言えるのかどうか、そういう問題も考えてみる必要があると思うんです。
ということは、要するに、
憲法典を持っている国では、今、
日本でやっているように、
憲法典自体の内容がいいか悪いかということを問題にしていますが、それだけじゃなくて、さらに大きな問題は、
憲法典に規定されている条文が、一体
現実に行われているのかどうかということを検討せざるを得なかった。
イギリスは
憲法典というのがありませんから、
イギリスでは行われていることが
憲法なんです。だから、
憲法が行われているかどうかという問題は、
イギリス人には、よほど
日本の事情を知っていなければ理解できないでしょう。第三
共和制の
フランスでも、
法律しかありませんから、
憲法といえば中身のことを考えなきゃならなかった。ところが、現状は、すべての国が
憲法典を持つようになって、規定されていることが実際に行われているかどうかということが問題になった。もちろん、その規定の仕方がいいか悪いかということも問題です。
そこで、
憲法の
歴史を見る三つの
基準が達成されているかどうかということを、五十年前の第二次大戦後の変化が一体どれだけよかったのか悪かったのか、結果があったのかということを、今改めて考えなきゃならない時点に来ていると思います。
この私の述べた三つの
基準による
憲法の見直し、あるいは
憲法の検討ということは、社会主義型であろうと資本主義国の
憲法であろうと、変わることがありません。
そして、この三つの
基準に対してもう少しつけ加えるとすれば、例えば平和主義とか民主主義という二つの
原理が、第二次大戦後の新しい
憲法には共通の原則として取り入れられているものが多くなりました。これは、東
ヨーロッパのソ連の影響下にあった国でも、あるいは、勝った
フランスの第四
共和制の
憲法でも、負けたイタリアの
憲法でも、同じように平和主義と民主主義の原則が入っていますから、あるいは三つの
基準に対してもう二つ加えて、五つの
基準ということになるかもわかりません。
そこで、最後に、
日本の
憲法史になるわけですが、一時間というと、あと十五分ぐらいになりましたね。少しはしょって言います。
私は、
日本の
憲法史を第一期から第四期に分けているんですが、第一期は、徳川の幕藩体制が崩壊してから
大日本帝国憲法の発布される、大体二十年間ですね。この二十年間というのは、
憲法というものはありませんでした。今まで問題にしてきた
憲法というものは全くなかった。
その当時の
政治家や知識人が、
ヨーロッパやアメリカの
憲法のことを知らなかったわけではありません。知ってはいたんだけれども、そのときの明治新政権は、
憲法をつくらずに二十年間過ごしたんですね。
なぜ私はそれを強調するかというと、例えば、第二次大戦後独立したアジア、アフリカ諸国というのは数十ありまして、私は、独立した年と
憲法をつくった年を比べてみたんですけれども、ほとんど一、二年、あるいは同じ年の間に
憲法をつくっているのが普通です。例外は、独立してから
憲法をつくるまで九年かかった国があります。これは何かクイズみたいですけれども、パキスタン共和国がそうです。同じときに独立した隣のインドでは三年目に、これはもう
世界一長い
憲法典をつくっています。
ですから、九年もかかったというのは全く例外的で、大体アジアでもアフリカでも、国が独立すれば
憲法というものをつくって、その独立、国の形を明確にするというのが普通ですけれども、私はこれがいいとか悪いとか言っているわけじゃないんですが、
日本では、明治政府は明治
憲法をつくるまでに二十年かかっているということ。これは、無知のせいではない、一定の政治的な理由があってやっていることですけれども、それが問題です。
明治新政権は、
憲法のない二十年の間に、何の法的拘束も受けずに天皇制というものをつくり上げたわけですね。明治の初めに、津田真一郎というオランダのライデン
大学へ留学した人がいまして、「泰西国法論」というものをもう明治元年に出していますけれども、この人の本なんか非常によく読まれています。今でもこの本を読めば、ほとんど
ヨーロッパの十九
世紀の
憲法事情というものはわかるようになっていますし、自由民権運動を通じて、
ヨーロッパのいろいろな古典的な自由主義思想、
憲法の
考え方が翻訳されて入ってきたということも、
皆さん御
承知のとおりです。要するに、二十年の無
憲法状態から
日本の
憲法史は始まっているということですね。
それから、第二期になります。二期は、当然ですけれども、
大日本帝国憲法が発布されてから、太平洋戦争に負けてポツダム宣言を受諾した、それによって明治
憲法の効力が停止された、その時期ですが、私は、明治
憲法そのものに大変大きな問題があると。
もちろん、その
歴史過程を
一つ一つ述べることはできませんけれども、かいつまんで言いますと、例えば私
自身は、戦前の
大学で、田上さんから明治
憲法の解釈論というものを習ったわけです。
国家総動員法が違憲かどうか、そういう解釈論を詳しく聞きました。非常によく読んだものに、例えば、美濃部達吉「逐条
憲法精義」という、こんな厚い本があります。当時は実はこれは発禁になっていたんですが、発禁になっているのに古本屋では売っていたんです。これもちょっと不思議な話ですが、この美濃部さんの「逐条
憲法精義」というものを私は読んだ記憶があります。
ここで私が問題にするのは、そういう
憲法の解釈論ではなくて、明治
憲法というものが果たして
日本の国政全体を規制していたか、コントロールしていたかどうかという問題です。明治
憲法というのはどういう法であったか。
そうすると、まず、明治
憲法をつくったと言われている伊藤博文の名前で「
憲法義解」という本があります。今、岩波文庫にもなっていますが、これを見ると、その中身は、「
大日本帝国憲法義解」というのと並んで、「
皇室典範義解」という二つの内容から成っているんですね。二部構成になっている。そして、つくった人は、
憲法は国政をコントロールする、
皇室典範は皇室のことを扱う
根本法だと。あるいは、
憲法は府中、府中と言うと競馬場みたいですけれども、府中を扱う、
皇室典範は宮中のことを扱うというふうに書いてある本もありますが、ともかく、明治
憲法は皇室のことは扱わない。要するに、明治
憲法は、
日本の国の政治の中で、全部をコントロールするんじゃなくて、皇室のことはすべて自律的に
皇室典範にゆだねますというふうに書いてあるんですね。
ところが、この報告をするので、先日もう一度美濃部さんの「逐条
憲法精義」を読み直してみましたら、そこでは美濃部さんは、伊藤は間違いだ、
皇室典範は
憲法に従属するのだと、その結論を出すのに三ページぐらい、物すごく難解な解釈論を、いわば無理な解釈論を展開しています。
しかし、つくった伊藤も、あるいは多数説であった穂積八束という人の本にも、
皇室典範と
憲法は対等のものだ、対等の
根本法だというふうに書いてあるのですね。ですから、明治
憲法というのはそもそも国政の全体をコントロールするものではなかった。
ヨーロッパの人には理解できない。外国の殿様を呼んできて自分の国の
君主にするような
イギリス人にはとても想像がつきません、
憲法が皇室を除外しているというようなことは。
それから、もう
一つの点は、これはもう
皆さんも御
承知と思いますけれども、統帥権の独立という問題がありますね。これは
憲法の十一条です。
これはもう、私
自身兵隊のときに、兵舎の中であの軍人勅諭というのを暗記させられて、覚えられないでどのぐらい殴られたか。そういう経験のある方はほかにもあると思うのですけれども、その軍人勅諭にちゃんと書いてあるのです、統帥権の独立。要するに、
日本の
軍隊というものは天皇に直属する、政治にはかかわらない。
そういう大原則が実は明治
憲法でも前提になっていて、それどころか、明治
憲法では、内閣を構成しているはずの陸軍大臣、海軍大臣だけは、首相に関係なしに、自分の所管事項、軍機軍令に関することは天皇に直接上奏できるというふうになっていた。だから、どの内閣でも、陸軍大臣、海軍大臣が何を言うかということでそれが決まってしまうというような状況ですし、しかも、統帥権の独立で
軍隊の
組織のことは
憲法には何も書いてありませんから、統帥権の独立というのは大変重大な
意味を持っていました。
と同時に、もっと不思議なことには、明治
憲法を
大学で習った戦前の方は、きっと試験を受けていますから
皆さん覚えていると思うのですけれども、戦後の学生に聞いてみると、そういうことはよくわからない人が多いのですが、明治
憲法の条文のどこを見ても「内閣」という
言葉は一言も出てこないのですね。これは非常に不思議なことなのですね。
明治
憲法に出てくるのは、天皇を輔弼する、補佐する一人一人の大臣、「国務各大臣」というのは出てきますけれども、「内閣」という
言葉が一言も出てこない。内閣はなかったのかというと、そうじゃありません。明治十八年に、明治
憲法ができる四年も前に、伊藤博文が最初の首相になって内閣はできているのに、
憲法をつくったときに、どうしてか
憲法には出てこないのですね。
だから、私がきょうここで述べますのは、別に明治
憲法を批判するということに
意味があるのではなくて、
大日本帝国憲法という
憲法典は、せっかくつくった
憲法典なのだけれども、明治の国政全体を規制する、そういうものではなかったということなのですね。
ですから、みんな
憲法を敬って、
憲法は不磨の大典である、
憲法を尊重しようと言っていたけれども、非常にその尊重の仕方は限られていて、一九三五年、昭和十年ですが、いわゆる天皇機関説事件というのが起こってから後の十年間なんというものは、ほとんど
憲法に書かれていること自体が問題にならない。
例えば、一九三八年に
国家総動員法というのができました。これはもう臣民の
権利義務というものを行政に白紙委任する、そういう
法律です。それから、一九四〇年には政党が全部解散されて大政翼賛会というのができた。四二年には翼賛選挙という、大政翼賛会が推薦している候補者だけが優遇されるような選挙が行われた。もちろん、推薦されていないで当選した方もおりますけれども、そういう選挙が行われて、いわゆる天皇制のファッショ化が行われた。
したがって、この第二期が終わる、すなわち戦争に負ける直前の
日本の状況というものは、私は二年間
軍隊に行っていてうちには帰れませんでしたけれども、その十年というのはほとんど無
憲法状態、明治
憲法さえ棚上げされているような状況だった。
だから、そういう
意味で、第三期の占領期を考える場合には、
憲法制定の経緯が始まる直前は
日本は全く無
憲法状態であった。よく明治
憲法から昭和
憲法へとか、明治
憲法から新
憲法へということを書いてある本はありますけれども、よく見てみると、明治
憲法そのものがもう棚上げされて、軍部の中ではまさに改憲論が出ていたのですね。明治
憲法を変えろという
意見が出ていたぐらい、一般ではほとんど
憲法なんというものはだれも考えない状況で、実は第三期、一九四五年から五二年までの占領期が始まったわけです。
ですから、
日本国憲法制定の経緯というのはここから始まるわけですけれども、この経緯については、既に前の
憲法調査会でも随分詳しく
調査していますし、私
自身も何冊も本を書いていますし、また、これまでの報告者が随分詳しく報告していると思いますので、私のきょうの話では、これから全く私
たちの知らなかった新しい事実が出てくるとか、非常にすぐれた分析の
歴史理論が出てくるのじゃない限り、余りこの経緯については私は現在関心がないわけです。
ただ、こういうことだけははっきりさせておきたいと思います。
一九四五年に占領が始まるわけですけれども、その占領期間、占領軍も含めて
日本の
統治機構はどういうふうになっていたか、それから
日本の
法律、法というものはどういうふうになっていたか。このことだけは、占領期間の評価をするために、我々
法律家としてははっきりさせておかなければならないと思っています。
それで、
統治機構の方は、
日本を占領したのは連合国軍でありますし、その
最高司令官というのはアメリカ合衆国政府が任命したマッカーサーでしたね。そして、アメリカからの指令で、他の諸国の
軍隊の占領への参加は歓迎され期待されるが、その占領軍は合衆国の任命する
最高司令官の指揮下にあるだけでなく、万一主要連合諸国に
意見の不一致が起きた場合は合衆国の政策に従う、そういう対日方針が出されておりましたから、
日本には
イギリス軍もちょっと来ていたし、中国の
軍隊もいましたし、私も何回か見たことがありますけれども、事実上のアメリカの単独占領だと言っていいでしょう。そして、そのマッカーサーに、天皇及び
日本国政府は、いわゆる間接
統治という形をとりながら従属した、こういう形になるわけですね。
それに、
憲法制定の経緯でしばしば問題になってくる極東
委員会、一九四五年の十二月にソ連の提唱でモスクワで
会議が開かれて、そこで、ワシントンに十一カ国から成る極東
委員会というものが
最高の政策決定機関としてつくられ、諮問機関として東京に対日理事会がつくられたわけですね。
ただ、問題は、この極東
委員会が四六年の二月二十六日にしか発足しないということで、それ以前のマッカーサーあるいは司令部がどうであったかということが問題になっているわけですけれども、そういう付随的な機関があった。だから、
権力構造というものは、
形式的に言えば、極東
委員会、対日理事会があり、連合国
軍隊最高司令官というのがおり、その下に天皇及び
日本政府というのがあって、占領中はそういう
統治構造になっていたわけです。
それでは、
法律はどうなっていたかといいますと、この当時の
法律は私の「
日本の
憲法」の初版に書いてあって、今の版にはもう書いてありませんけれども、これは二本立てになっているのですね。
どういうことかというと、まず、ポツダム宣言が
最高法規であることは、これは言うまでもない。
憲法に当たるのはポツダム宣言ですね。ただ、その下に、
最高司令官をスキャップとその当時言いましたが、そのスキャップの指令があると、その指令を受けて、
日本の勅令五百四十二号というのがありまして、占領軍の司令官の指令があったらそれをすぐ
日本で引き受けて
日本の政令に直す、そういういわゆるポツダム勅令と言われたのがあって、その下にポツダム政令。だから、スキャップの指令、ポツダム勅令、ポツダム政令というのが、これがいわゆる管理法規、占領法規であったのです。
ところが、それだけじゃなくて、間接
統治ですから
日本の自主性をある程度認められたものがあった。
憲法ができてからは、それと並んで
日本国憲法、その下に例えば教育
基本法、
法律、その下にまた命令。ですから、占領中の
法律を見る難しさ、占領中の判例なんかを見るときの難しさというものは、占領軍が直接自分で何かをやるときには別ですけれども、そうでないときには、占領法規と
憲法法規が二本立てになって存在していたということですね。
こういう状況が七年間続いているわけですが——約一時間になりましたが、あと十分ぐらい続けてよろしいですか。——それでは、
皆さんあれですが、しゃべっている私の方が大変だと思うのですけれども、あと十分ぐらい延長させてください。
この占領中のことについてですけれども、実は、きょうここに持ってきた汚い本なんですけれども、一九五四年、ですから朝鮮戦争の直後ですが、占領が終わって二年目ぐらいのときですが、一九五四年六月五日の日付で、
皆さんも御
承知の金森徳次郎さんが「和して争う」、和して争うというのは何かよくわからないのですが、一緒になって争うというのですか、「和して争う」座談会記録として推薦されている「
日本憲法の分析」という本があるのですね。
この座談会は、私が司会をして中日新聞でやった座談会なんですけれども、そのとき来られたのは、金森徳次郎さん、それから改憲論者の大石義雄さん、それから、これは何と
説明していいかわからない戒能通孝さん、それから国際基督教
大学の学長を後にやった鵜飼信成さん、そしてあと東北
大学の
教授になった、これは私と同じように、その当時は本当に若い助
教授か助手クラスだった小島和司というこの五人、私を入れて六人でやった座談会がありまして、その座談会の記録がこれなんですね。中日新聞に五十日ぐらい連載された、田舎の、田舎のというと名古屋へ帰ると怒られますけれども、新聞ですし、また名古屋で出した本ですからほとんど売れなかったと思うのですが、しかし、この中身は今でも大変有意義だと思っているのです。
ちょっと紹介しますと、この本の第一章、座談会の第一章は「
日本国憲法制定過程論」となっているのですね。それで、どんなことが書いてあるかというと、私が最初に
憲法制定をめぐる五つの説というものを挙げて、どういう説があるかというと、こういうことを言っているのですね。
まず最初に、
憲法制定をめぐる説は三つあると。
一つは、要するに、
日本国憲法はスキャップ、マッカーサーが代表するアメリカの占領政策の産物だ、そういう指摘、これが第一の
考え方。それからもう
一つの
考え方は、それは非常に現象的な見方で、実はその背後にある国際的な民主主義勢力、反ファシズム統一戦線をつくったソ連とか中国とか
イギリスとか
フランスとかオーストラリア等の影響力を重視すべきだというのが、第二の説です。それから第三の説としては、いや、そんな対外的な要因ばかり考えるべきではなくて、この
憲法をつくったのは国内の政治勢力だと。
そういう三つの説があるということを紹介した上に、その第一の見方も二通りあって、アメリカの占領政策というものは、占領の初期は対日政策が大変民主的で、封建的な
日本社会を改良する大変進歩的な役割を果たした、こういうふうに評価するものと、いや、どうもアメリカは朝鮮戦争を境にしておかしくなっているのじゃなくて、初めから自分の国益優先で
日本の民主化を考えていたのじゃないか、そういう批判的な見方。第一の、アメリカ産であっても民主的だという
考え方と、帝国主義的だという
考え方、二つに分かれます。
それから、第三の国内の政治勢力の評価にしても、一方では、一九四五年の十月にいわゆる自由の指令が司令部からあって、治安維持法が廃止されたことによって共産主義者や社会主義者や自由主義者が一斉に大衆運動に参加できるようになって、労働組合がどんどんできる。デモが行われて、五月にメーデー、続いて食糧メーデーなんというのが行われたような、そういう革新勢力を重視する
考え方と、もう
一つは、これは幣原首相が亡くなる前にしょっちゅう言っていたことなんですけれども、
日本国憲法の主要な内容は
日本の為政者、当時の保守
政治家がつくったものだ、特に
憲法の第九条を考えていたと思うのですけれども、そういう主張がございました。ですから、第三の
考え方は二つに分かれて、結局、合計五つの
考え方があると。
そういう問題提起を受けて、私は一人一人に、金森さんどうだとか、戒能さん、大石さん、鵜飼さん、小島さんにそれぞれ
意見を聞いたら、五人ともみんな違う答えなんですね。ただ、この五つの
考え方を挙げますと、これは矛盾している点もあれば相互に補い合う点もございまして、この五人の
意見を全体として読めば、読んだ人なりに
憲法制定の経緯、特に
日本国憲法というのはだれがつくったのかということがほぼわかるようになっているような気がします。
これを私、もう一度読んでみて、やはり
憲法調査会で行われる
憲法調査というのはこういうものであってほしい。参加した人みんなが率直に自分の意見を述べる。その
意見は、非常に対立している点もあるかもわからないけれども、共通している点もあるかもわからない。ただ、私がこの五人を呼んだときには、改憲論者も改憲論者でない人も、年寄りも若い者も、それから
憲法のことを直接知っている人も頭でしか知らない人も、と思って公平に集めました。
憲法調査会の
委員の方がそういうふうに選ばれているのかどうかということは私にはわかりませんが、しかし、趣旨としてはそういう公正な
調査であってほしいということが私の
考え方です。
そして、もうこれで終わりますけれども、最後に第四期の、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約が発効した一九五二年の四月二十八日から今日まで、約五十年が
日本の
憲法の現代史になるわけですね。
問題なのは、五十年たって今、我々が当面している
日本の
憲法の実情というのはどうかということです。
ですから、私は、ずっと一貫して言っているように、
憲法典にどう書かれているかという問題よりも先に、
憲法典に書かれていることが守られているのかどうか、実現しているのかどうかということをまず
調査すべきであって、その上で、
現実を直すべきなのか、あるいは条文の方を直すべきなのかを考える。
そうでなくて、初めから
憲法典がいいか悪いかなどという、だれがつくったにせよ、文章を文章としていいか悪いかという議論をしていても、これは論者によってみんな
意見が違うのは当たり前で、さっき私が言ったように、
憲法というたった
一つの
言葉が、
広辞苑とOEDと
リトレではあれだけ違う。
イギリス人は百年かかってつくったと思うし、
フランス人は
フランス革命からだと思うし、
日本人は聖徳太子の
憲法まで頭に浮かぶ。それだけ違うのですから、まして、現代の
憲法の分析というものは慎重にやる必要がある。
そういう点でいいますと、私は、現代の
憲法状況というのは、先ほど言った、
世界の
憲法史から学ぶ三つの
基準に照らし合わせてみると、まず第一に、一体、
日本の現状というのは
主権が存在しているのかどうか、これが第一の問題です。
明治
憲法のときに、
日本に
主権があるかどうかなどということを疑う人は一人もいませんでした。明治
憲法の
時代、第一期には、
憲法はなかったけれども
主権はありました。第二期、明治
憲法ができたときにも
主権はあった。戦争中もあった。しかし、占領中は
主権はありません。
日本の
主権はない。もちろん、占領軍が
権力を握っていたわけですから、その上に極東
委員会があっても、天皇及び
日本政府はそれに従属していたわけですから、
日本には
主権はありません。
しかし問題なのは、占領が終わった今日、例えば講和条約を結んで
日本は独立した、占領は終わったというけれども、一例を挙げればあの講和条約、当時のソ連は排除されていたわけですね。だから、いまだに北方領土の問題などというのは解決のしようがない。要するに、もし
日本が完全に独立するのであったら、これは理想論に過ぎるかもわからないけれども、少し占領が長く続いても、やはり独立する以上は
主権を回復しなければならない。
また、もっと重大なのは、占領中に全く
国民には秘密に結ばれた日米安保条約というものがあって、日米安保条約に基づけば一体
日本に
主権があるかどうか、これが第一の問題です。
私の本に、例えば今の
日本の法体系が占領中とよく似ている、あるいは明治
時代とよく似ているというのは、今の
日本には
憲法、
法律、命令といういわゆる
憲法の体系があることは
皆さん御
承知のとおりですが、それと全く矛盾する安保条約、地位協定、特別法、特別法というのは民事特別法とか刑事特別法とかたくさんありますが、そういう体系が全く矛盾するものの二本立てなんですね。
だから、
日本では明治以来、
日本の
憲法というのは二本立てだから、そのうちに学校の生徒は
日本のことを書かせると二本と、一本、二本の二本を書くのじゃないかと私は冗談を言ったことがあるんです、漢字を知らない人間はですね。
それこそ
法律が二本立てになっているんですね。だから……