○山崎力君
参議院の会の山崎であります。
ただいま
議題となりましたいわゆる
国旗・
国歌法に関し、
参議院の会同僚議員のお許しを得て、
原案賛成の立場から
討論をいたします。
民主党修正案は、
原案と二者択一をとらざるを得ぬ現状では、残念ながら
賛成はできかねます。
当初、私は、この法案につきどちらかというと消極的な気持ちを持っておりました。まあ
反対はできないが、何を今さら法定化するのかといった気持ちが強かったからであります。
むしろ、法案の中に
日の丸の色を赤色ではなく紅色とあるのを見て、違和感すら覚えました。確かに、一般的に流布されている
日章旗の色自体は紅かもしれません。しかし、紅色は広く赤色の系統に含まれるものですが、逆に、紅色は赤色系全体を示すことはできません。何より広く
国民に浸透している赤のイメージを覆すものであり、同僚議員が異例にも
特別委員会で独唱した「白地に赤く」との
歌詞は、正確には間違いということになってしまいます。
そして何より、敗戦後、
憲法を押しつけたアメリカですら、いわば手が出なかった
日の丸と
君が代を実定法化する意味がいま一つ判然としなかったからであります。
政府の説明のごとく、いわゆる
慣習法化されていればその方が自然と思えたからであります。実定法化により
政治的状況の変化でいつでも変更できる形にする方がむしろ問題とも考えました。
しかしながら、
審議を通じ、
反対の立場をとる議員、公述人等の考えを聞くうち、本法案に積極的
賛成の立場となり、ここに
賛成の
討論に立つに至りました。
以下、その
理由を述べさせていただきます。
賛成する
理由は、第一に、明治
憲法下の
戦前はもちろん、現
憲法の今に至るまで、
国旗は
日の丸、
国歌は
君が代以外になかったという事実があります。新
憲法施行後も、それを認めるか否かを問わず、
日本の
国旗・
国歌という場合、念頭にあるのは
日章旗日の丸と
君が代以外にはないということはほとんどの方が同意していただけることと思います。そして、それ自体のよしあしはともかく、ある人間集団、
国家を示す人工的
象徴として、目で見る視覚的には
国旗、耳で聞く聴覚的には
国歌があるということは
国際的にもほぼ例外なく認められているところであります。
すなわち、国に
国旗・
国歌があるのは当然、そしてさらに、現在新たに
国旗・
国歌を制定し直す、こういう状況下にあるかどうかを考えるとき、
国歌は
君が代、
国旗は
日章旗とするのが至当とするのは自然と思えるからであります。
そこで、現時点での
法制化についてはどうするか、そこだけが問題ですが、そこでの
政府の
提案理由は、同僚議員周知のことと思い、ここであえて論じたいとは思いません。むしろ、この件に関し私が感じたのは、
審議を通じての
反対論への違和感でありました。
反対論の考えでまず感じたことは、
国旗・
国歌という
制度自体を認めないのか、
国旗・
国歌の
制度は認めるが、
日の丸と
君が代はそれと認めないし、それを実定法化するのはとんでもないというのか、あるいは
慣習法的に現状は認めるが、それは改めて新しい
国旗ないし
国歌を制定すべきというのか、
日の丸・
君が代でよいが、今この時点で実定法化するのは問題だというのか、そういった議論が混在した形であって論点が定まらないという印象でありました。そしていま少し論議が必要だ、今決めるべきではないとの結論ばかりが強く印象に残っておるのであります。
もう一点つけ加えれば、
慣習法的に
日の丸・
君が代を認めた上で新
国旗・新
国歌をという論は
反対論の中にほとんど感じられなかったのでありました。
しかし、そうした
日の丸・
君が代を
国旗・
国歌として認めないのであれば、
国旗・
国歌なしのユニークな
国家観、
世界観を現在の
国際社会の中でどう主張していくのか、あるいは新たな
日本にふさわしい
国旗・
国歌を制定すべしという
国民の運動はどこにあったのか、また、してきたのか、まず
国民の前に明らかにすべきということであります。
そして、何より戦後あるいはサンフランシスコ講和条約締結後五十年前後にわたり
国旗・
国歌なしの
日本国を続けてきたことへの釈明をまず
国民の前に明らかにすべきだと思いました。
反対論に感じたのは、
国旗・
国歌の持つ魔性を説き、特に
我が国における理性を失った
歴史への、不幸な時代への
反省不足に対する危機感、あるいは
教育現場における扱いの不安の主張の強さでありました。その中には確かに情を同じくしたい主張もありました。
しかし、その考えをこの立法府の場で見るとき、
教育現場の問題は
法律の問題というより文部省管轄の
教育行政の問題であり、政権の中に入り、ましてや閣議を主宰したことのある政党に所属した人々の主張としてあることは奇異にすら感じました。
また、
歴史認識と言うならば、中等
教育、少なくても義務
教育の現場においては将来の個々の判断のもととなる基礎知識を修めるべきところのはずであります。そうした視点が
反対論に欠けているのでは、少なくても私にはそう感じられたのであります。
戦前の
歴史あるいは
戦争への
反省不足を説くときに、その
象徴として
国旗や
国歌を対象とするなら、何ゆえ新
憲法が
日本の国名を残し、
天皇制を維持したのかをまず問題にしなければならないと思います。
特に、現
憲法を守れと言いながら、現行の
国旗を、
国歌を認めないという声高な主張に、私は何がしかの違和感、下品な言葉遣いをお許しいただけるならば、うさん臭さを感じてしまいました。
戦後ほぼ一貫して、みずから思い描く
政治が行われてこなかった、そうした
政治を
国民が選んでこなかったと感じている人々が、その不満のツケをそれ自体罪なき
日の丸・
君が代に押しつけてきていると言えば言い過ぎになるでしょうか。
私にとって、その感覚が現時点における
日の丸・
君が代の
法制化に
賛成する大きな動機づけになりました。
言葉をかえれば、そして何より申し上げたいことは、もし仮に本法案が否決された場合、それは単に
慣習法としての
日の丸・
君が代を葬り去るだけではなく、
我が国が新
憲法制定後半
世紀以上にわたり、視覚的、聴覚的に
国民統合の
象徴である
国旗・
国歌なき国であり続けたということを
内外に宣明することにほかなりません。
先年物故された作家、司馬遼太郎氏は、「この国のか
たち」ということを重視し、著述されてまいりました。その国の形という言葉をかりれば、私は、こうした
国旗・
国歌なき国の形を、我々
国民が何の積極的対応もせず、平然と半
世紀以上にわたり続けているという考え方に、
国民の代表として、立法府に立つ者として、到底くみすることができません。
改めて、結論として、少なくとも現行
憲法を含め
天皇制を認めた
憲法下にある限り、栄光と汚辱の
歴史をともに踏まえて、我が
日本国の
国旗は
日章旗日の丸、
国歌は
君が代であるべきと今回の
審議を通じ確信するに至ったのであります。
以上、私の信ずるところを申し上げ、最後に、一人でも多くの方々が本法案に
賛成していただけるよう、改めてお願いして、私の
賛成討論を終わります。(
拍手)