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柳田稔君
関谷先生にそう言われるともう一回やってほしいなという気になるんですが、私は総理ではありませんので、指名権がございませんから残念でありますけれ
ども、できるだけ早くやっていただきたいという気持ちなんです。
去年は鹿児島県の出水でしたか、多くの人が亡くなられたり、毎年水害、天災というのが起きています。となると、今、大臣にお答えいただいたので安心したんですけれ
ども、その方針にのっとって役所の方も動いていただきたいなと、そう思います。
次に、呉市について特にちょっと質問させてもらいたいのでありますけれ
ども、
先ほど長谷川先生の
報告でありましたように、呉市は海軍工廠ができるまでは一漁村だったんです。それが、明治時代の話になってしまいますけれ
ども、あそこに海軍工廠をつくるということでどんどんよそから人がたくさん入ってきまして、戦時中に最大で人口四十万人になった。
範囲は今の呉市じゃないんですよ。呉市の
中心街に立ちまして、ぱあっと見ると山が全部見えるんです。その見える
範囲内に四十万の人が住んでいたということなんです。それ以降合併が進みまして、相当呉市も
範囲が広くなったのでありますけれ
ども、相当狭い
範囲の中に四十万の人が住んでいた。そして、平地、海岸線はすべて軍が占有していた。となると、その四十万人のほとんどは生活するためにどんどん山の上の方に住居を求めていった。
さらに複雑なのが、数が多いですから一軒一軒のうちの面積が小さいんです。だから、
現状のような、ああいう車も行けないような、歩いてしか上れないような急勾配のところに、坂の町尾道というのがありますけれ
ども、あれ以上に急勾配で、あれ以上に狭い道で皆さん居住されている。
これは私の聞きかじりではありますけれ
ども、海軍工廠をつくる、そのときに爆撃を受けないためには急な山が近くにあるところ、そうすると飛行機が急降下して爆撃できないですから。だから、そういう
意味合いを持ってああいう
地域を
指定したんだそうですが、となると、なおさら急傾斜地に行くしかない、住むしかないという
状況でああいう呉市ができ上がったという歴史があるんです。
そういう面から言うと、国の責任という面もなきにしもあらずかなと。そういう戦争時代の、戦前からの、明治時代からの国の方針に従って人は働きに来る、住むところは急傾斜地という面もあったのかなと。僕はあるとは言っていませんよ、ないとは言えないなと。
地元にはそういう声が少しありますから。
とすると、今回の水害もそうでしたけれ
ども、あと二十年前でしたか、四十年前、呉の水害というのがあったかと思うんです。伊勢湾台風のときだったか、ちょっと忘れましたけれ
ども、戦後二回ほどあったので、そのたびに呉の事情を考慮されまして、国は相当
予算をつけて急傾斜地の
対応をやっていただいたというふうには思っているんです。
ただ、それにつけてもまだまだたくさんあるなと。呉に聞きましたら、呉市だけで
災害危険区域が千三百五十ぐらいある。あと内訳は、がけ地危険区域とか
河川危険区域とか、いろんなものがありますね。トータルして呉市だけで約千三百五十ぐらいあります。うち急
傾斜地崩壊危険箇所が七百二十二カ所あって、うち五百カ所は
指定をして、四百二十五カ所は施行が済んだ、一部着工が七十二カ所、残ったのがあと二百カ所ぐらいあるということなんだそうです。また再度今回のような
大雨が起きると同じような
災害が起きるだろうとあの地形を見たらみんな想像するんです。
だから、特にをつけて御
要望申し上げたいんですが、この呉市の公共
事業の
予算をどうにかして大幅にふやしていただきたいなという思いが強いんです。
もう一つ、別な角度での
要望を申し上げますと、瀬戸内海は案外のんびりした
地域なんです。天変がない、天災がない、水害もないし地震もない、どちらかというと住みやすい
地域だと言われていたんです。そうすると、余り水害に対する備えも九州みたいに十分ではないんです。住民の意識がのんびりしている。そうすると、ぱっと降ったら、日ごろ訓練されていないものですから逃げ切れない。そして亡くなる人が出てくるということもあったりしまして、できれば呉に対する
予算をつけてほしいなと。
もう一つ理由を言いますと、そういう住民の気持ちがありますから、今やってほしいんです。ことしこういう水害でたくさん亡くなった、
被害も出た、そうすると、今やってほしいという住民の感情というか気持ちが膨らんでいますから、できればすぐやるといろんなことに住民が
協力してくれるのではないかなという思いがありますので、この呉市に対する
予算の
増額を図ってもらえないかなと、どうでしょうか。