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1999-03-03 第145回国会 参議院 国民生活・経済に関する調査会 第4号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成十一年三月三日(水曜日)    午後一時八分開会     ─────────────    委員異動  二月二十五日     辞任         補欠選任      竹村 泰子君     円 より子君  三月二日     辞任         補欠選任      円 より子君     齋藤  勁君      山下 栄一君     但馬 久美君     ─────────────   出席者は左のとおり。     会 長         久保  亘君     理 事                 長峯  基君                 成瀬 守重君                 前川 忠夫君                 山本  保君                 畑野 君枝君                 阿曽田 清君                 松岡滿壽男君     委 員                 国井 正幸君                 斉藤 滋宣君                 田中 直紀君                 中原  爽君                 松村 龍二君                 齋藤  勁君                 堀  利和君                 沢 たまき君                 但馬 久美君                 西山登紀子君    事務局側        第二特別調査室        長        村岡 輝三君    参考人        国立精神神経        センター精神保        健研究所所長   吉川 武彦君        全国養護教諭連        絡協議会会長        東京都立小平高        等学校養護教諭  佐藤紀久榮君        ジャーナリスト  西山  明君     ─────────────   本日の会議に付した案件 ○国民生活経済に関する調査  (「次世代育成と生涯能力発揮社会形成に  関する件」のうち、子ども心身健全育成に  ついて)  (派遣委員の報告)     ─────────────
  2. 久保亘

    会長久保亘君) ただいまから国民生活経済に関する調査会を開会いたします。  まず、委員異動について御報告いたします。  去る二月二十五日、竹村泰子君が委員辞任され、その補欠として円より子君が選任されました。  また、昨二日、山下栄一君及び円より子君が委員辞任され、その補欠として但馬久美君及び齋藤勁君が選任されました。     ─────────────
  3. 久保亘

    会長久保亘君) 国民生活経済に関する調査を議題とし、次世代育成と生涯能力発揮社会形成に関する件のうち、子ども心身健全育成について参考人から意見を聴取いたします。  まず初めに、子どもを取り巻く現状及び心の健全育成上の課題等について、お手元に配付の参考人の名簿のとおり、国立精神神経センター精神保健研究所所長吉川武彦君及び全国養護教諭連絡協議会会長東京都立小平高等学校養護教諭佐藤紀久榮さんに御出席いただき、御意見を承ることといたします。  この際、吉川参考人及び佐藤参考人一言ごあいさつを申し上げます。  両参考人におかれましては、御多忙のところ本調査会に御出席いただきまして、まことにありがとうございます。  本日は、本調査会が現在調査を進めております次世代育成と生涯能力発揮社会形成に関する件のうち、子ども心身健全育成について忌憚のない御意見をお聞かせいただき、調査参考にさせていただきたいと存じます。どうぞよろしくお願いいたします。  議事の進め方でございますが、まず吉川参考人佐藤参考人の順にお一人二十分程度で御意見をお述べいただきました後、一時間二十分程度委員からの質疑にお答えいただく方法で進めてまいりたいと存じます。  質疑につきましては、あらかじめ質疑者を定めず、自由に質疑を行っていただきたいと存じます。質疑を希望される方は、挙手の上、会長の指名を待って質疑を行うようお願いいたします。  また、時間が限られておりますので、質疑答弁とも簡潔に行っていただくようよろしくお願いいたします。  なお、参考人からの意見陳述、各委員からの質疑及びこれに対する答弁とも着席のままで結構でございます。  それでは、吉川参考人からお願いいたします。
  4. 吉川武彦

    参考人吉川武彦君) 御紹介いただきました吉川でございます。国立精神神経センター精神保健研究所で仕事をしています。  きょう、こういう機会を与えられましたことを私は大変喜んでおります。この会議重要性というのを十分に認識した上で、皆様方に今どういう問題が起こっているのかということについて情報をお伝えしたいと思っております。  私が皆様方のところにお配りいたしましたレジュメをお出しいただければと思います。できるだけこのレジュメに沿ってお話を申し上げますが、その話の内容は決して決まり切ったものということではなくて、できるだけ現実に即した形でお話を進めていきます。  私は、「子どもを取り巻く現状及び心の健全育成上の課題等」というテーマをいただいたものですから、その上で「なぜこころ育ちが危うくなったのか、どうすればいいか」という副題をつけてきょうお話をすることにいたしました。  まず、現状をいろんな形で切ってみたいと思います。  最近の子供たちのように、ルーズソックスをはき出したら全国子供たちがほとんど同時的にこれを受け入れていく。広がりが非常に早くなりましたし、それから同じようなスタイルをすることが子供たちにとってはどうも安心感があるような、そんなスタイルになってきました。  このルーズソックスの問題から始まりまして、例えば口が臭いという口臭恐怖の問題も、それから体臭恐怖の問題も、それから最近のはやりの抗菌グッズの問題も、それぞれ自分というものがやはり十分にできているかどうかというところに問題がありそうだ、こんなふうに私は見ています。  その上で、後でもお話し申し上げますけれども、刃物の問題もまたこの延長上にあるのではないか。すなわち、刃物というのは、犯罪という形で、犯罪という視点でこの刃物の問題を考えるのではなくて、むしろ子供の心がどんなふうに変わってきているのかという、その延長上で見てみたいと思っています。  まず、レジュメの1)のところに書きましたように、現在ひとりになれない子供たちがたくさんいます。群れたがるという習性みたいなものが出てきているわけです。だが、残念ながら、群れているだけで個々人はなかなか深いつき合いがありません。深いつき合いがあって群れているのではなくて、むしろ浅いつき合いの中で群れていないと安心できない、こんな感じであります。これはルーズソックスと同じでして、みんなと同じことをやっていないと安心できない、こんなことが今の子供たち特徴だろうと思います。  それでいて実際にはひとりになりたがります。なぜひとりになりたがるか。ここに問題がありますが、ひとりになることによって他人とのかかわりを余り深くしないようにする。そして、他人とのかかわりを深くするということは、お互いお互い責任を持つことになりますから、当然のことながら深いつき合いを求めてしまうわけです。ですから、他人との間でひとりになりたがるということは、これは他人との関係を薄くして、そして責任を余り負わないようにしよう、こういうような生活態度だと考えていいと思います。  そして、次にお話し申し上げますように、実は子供たちの心理的なエネルギーというものがかなり低くなっているような気がいたします。この心理的なエネルギーはどういうふうにして育つかなどということはまた後ほど申し上げますけれども、どうもこの心理的エネルギーが少ない子供たちがふえているようだと。  さて、こうしたときに一体何が起こるかといいますと、自分自分を守れませんので、ということは自分の心を自分の心で守れませんから、ですから自分の心を守るためには何か身につけていないといけない、こんなふうになっていきます。  例えば、口臭がある子供たち口臭除臭剤を持つとか、あるいは不潔というふうに言われないために抗菌グッズ自分の身に持つとか、こういう形で外側から自分を守らなくちゃいけなくなる。本来は自分自分の心の中を守っていかなくちゃいけないのに、自分の心が弱いものですから、したがって外から自分を守るという形になりがちです。この辺のところが実はきょうのお話のまず導入であると同時に、お話の筋を御説明したようなわけです。  次に、私は、レジュメの2のところに書きましたように、では八〇年代と九〇年代とこの近い十年間でも子供たちがどんなふうに変わったのかということをお伝えしておこうと思います。これは、もう少しさかのぼりまして、六〇年代からざっと流して見ていった方がいいのかもしれません。そこで、私は、少しこの六〇年代以降の青年たち行動というものをここで挙げてみました。  六〇年代は御存じのように六〇年安保騒動というものがあったわけでございますし、安保騒動を取り仕切ったのは若者たちでありました。当時で言えば大学生であったのかもしれません。しかし、その大学生たちが目指した、あるいはこの国会の周辺へ集いました者たちが目指したのは、日本のこれからがこれでいいのかというかなり大きな視点でいたような気がします。  それから見ますと、一九七〇年の七〇年安保世代と言われている人たちは、これは大学闘争を組んだわけで、目の前にある権威構造に対して物申すという、そうした運動でした。すなわち、六〇年代に比べれば少しその対象が狭くなっていますし、持っているエネルギーがしたがって少なくなってきたというふうに予想されます。  そして、八〇年代に入りますと、校内暴力というのが盛んになりましたし、一部は家庭内暴力というものに走りました。しかし、暴走行為というのもこの八〇年代の特徴でもあります。すなわち、対象とするものがかなり小さくなった。高等学校学生たち自分たちの高校の権威構造に対して物申すという程度、当時の大学生はもう全くおとなしくなってしまって何にもしないという、そんな世代が八〇年代世代若者たちの姿だと言えます。一部が暴走行為や何かをやって少し社会的問題を引き起こすとはいえ、実際に子供たちエネルギーとしてはかなりエネルギーが低くなったことがこれで明らかになります。  そして九〇年代、今その最後の年を迎えるとしても、この九〇年代はまさにいじめ自殺の話が始まったところであります。あの中野富士見中学の鹿川君という少年が亡くなったのもこの一番最初のころでございまして、したがって、いじめ自殺というのが表に出始めた。  すなわち、子供たち関係を見ても、自分よりも弱い者に対していじめるんです。しかし、それじゃいじめられた者はほかのグループにつき合えるかというとそうではなくて、自分とつき合ってくれるのはいじめグループしかない、こういう悲惨な状況なんですね。  ですから、いじめられていながらいじめグループの中にいるしかなかったわけです。逃げられないんです。逃げるだけの力もない。また、家族の方も、いじめられたぐらいでめそめそするな、いじめ返してこい、こう言って自分子供に対しておしりをひっぱたいたような状態です。  こういう状況があったのが九〇年代。それがずっと今まで続いていると考えます。  そして、恐らく二〇〇〇年の時代は、今もう既に始まっています、外へ出ていかないという引きこもりの状態が全体を覆っていくと思います。すなわち、エネルギーのない子供たち家庭の中に受け入れられたらば、家庭の中にずっといるしかないですよね。社会へ出ていくというのはエネルギーをかなり使うわけですし、そのエネルギー自分でためておかなければいけないわけですから、当然のことながら、恐らく二〇〇〇年の世代ではそれだけエネルギーを持った子供たちは育っていかないだろう、こんなふうに考えます。  先ほど私は八〇年代と九〇年代を比較すると言いました。例えば、登校拒否というのがありましたけれども、この八〇年代までは登校拒否という言葉を自由に使えた。その時代が、今や登校拒否という拒否的な行動としてはとらえられなくて、単に不登校という言葉しか使えなくなってしまう。本人たち学校へ行きたくないと言って、そして自分学校を拒否しているのではなくて、行ったってしようがない、行ってもおもしろくない、だからうちにいるというだけで、不登校という表現しか使えないほどエネルギーがなくなってきた。同じような言い方でも、突っ張りというのが八〇年代にはありましたけれども、今や突っ張りはほとんど姿を消してしまって、そしてただ群れているだけ、こんな群れている子供たちだけが目につくようになっています。  社会的に見れば、一見するといい子がたくさんふえているように見えますけれども、このいい子というのはエネルギーが少ない子だというわけで、こういう子供をこのまま大人にしていっていいのかどうかということが問題であります。実際に、いい子をめぐる社会的な事件がたくさん起こっています。育児教育に求められるものは何かと掲げましたけれども、ここをしっかりとつかまないといけないのだろうと思います。  なぜいじめ自殺が広がってしまったのか。そこから私たちは一体何を学んだらいいのか。そして、神戸A少年事件みたいな社会を騒がせるような事件は一体なぜ起こるのか。あれは凶悪犯罪として行われたことなのか。結果としては凶悪犯罪であることは私ももちろん認めますけれども、そうではなくて、あそこまであの子を追い詰めてしまった社会、それは何だったのだろうか、こういうふうに考えます。  あのB中学の校長がいみじくも言っていましたけれども、うちの中学にはそういう者はいない、こういうふうにはっきり言う。既にもう彼はそのB中学から外へおっぽり出されていたわけです。おっぽり出されていた彼は、家庭の中にも自分を受け入れてくれる場所がなかったので、結局地域社会の中でぶらぶらするしかない。そして、自分よりも年下の子供つき合い、そしてその子供だけがある意味で心のよりどころだった。それがなぜその子を殺すかというところまでは私も事情がよくわかりませんので解明できませんけれども、このA少年の心情を考えると、極めて私は悲惨に思うんです。こういうふうに考えていかないと、実は子供の問題というのはよくわからないのじゃないかと思います。  バタフライナイフ事件と言われた栃木県の女教師を殺した事件でございますけれども、これも同じであります。私はある新聞社コメントにも応じましたし、そのときにも伝えたことですけれども、先ほど申しましたように、私たちは本来は自分自分の心を守る。だけれども、自分の心を守り切れないときには、もう自分を攻め立ててくるものに対して防御をするためには、ゴシンナイフを持つしかない。ただ、そのときのゴシンナイフというのは、護る身と書くのではなくて、心を護る、護る心と書いた護心ナイフを持つしかなかったと考えると、あのバタフライナイフ事件というのは非常によくわかる。こういうようなコメントを出したことがあります。今でも私はそれは間違っていないと思っています。  さて、こうした私たち子供たちが実際に自立する心を獲得していくためには、どのような順序があるのだろうか、あるいはどのようなことが行われなければいけないのだろうか、教育としてもあるいは育児としてもどの点に注意すべきなのかということを、私はこの十何年間夢中になって物を書きそして人に伝えてきました。  きょう、お手元の方にお配りいただいています私の文章、四つほどあると思いますけれども、それをお読みいただければよろしいわけで、私が今さらここであれこれ言うことではありません。ただ、この四つのものをお読みいただくと、本当に同じようなことを私は言っていると思います。少し角度を変えたりしてはいますけれども、同じようなことを言っています。そのエキスだけ私はこのレジュメの中に書いておきました。  すなわち、人間の心というのは知と情と意、これによってでき上がっている。しかし、それだけじゃない。私は自分というものを持っているかどうかを大切にしたい、こういうふうに申しまして、これを三角錐という図で書いてみることにしました。  その詳細については省きますけれども、とにかく人間の心の一番底面にあるのは、これは自分らしさだ。その自分らしさを支えているのが知と情と意だ。知と情と意のバランスが崩れていれば、当然のことながら人間の心としては斜めに立っているわけで、すなわち倒れやすい心の持ち主だ。こういうふうに説明はしています。自分らしさを持っているというのはどういうことなのだろうか。このことについても卵の形で説明しています。  そしてもう一つ人間の心が育っていくためには人間関係が大事なんだ。親との関係はどうあるべきか。小さな子供との関係をどういうふうにしていったらいいのか。そして、お互い同士、同じ年齢の子供としてどう切磋琢磨していかなければいけないのか。  このように考えてみますと、人間の心を発達させるためには人間関係、第一の親やそれから社会大人たちとの関係があるだろうし、第二に自分よりも下の者に対しての関係をどうつくるかということがあるし、第三はそれだけの力を持った子供たち同士お互いに切磋琢磨するという三つ目段階がある、こんなふうに考えています。  こうした三つ段階を経ながら人間の心は育ってくるのですが、残念ながら、一の段階、すなわち親との関係がきっちりできる、これも今怪しくなっています。ましてや二の段階、すなわち自分よりも小さな子供とつき合うという機会をこれだけなくしてしまったらば、小さな子供とつき合うことによって本来は学んでいくセルフコントロール自制心というものは育たないということになります。  親との関係の中では、あるいは大人との関係の中では相手信頼することができる。すなわち、十分に自分期待を満たしてくれる親、それを体験したときに人間信頼という気持ちを持つわけですが、その信頼を持ちながら今度は小さな子供つき合い、そこで自分はやり過ぎてはいけないという自制心を学んでいくということになります。この自制心を学ぶという機会を実は私たち子育ての中でたくさん奪ってきてしまったのではないか、こんなふうに思います。  そして三番目の段階、すなわち同年の子供たち同士ですぐ競わせてしまう、そのくせ仲よくしなさいというメッセージを伝えます。友達同士は仲よくしなさいと言いながら、その後ろ側には友達に勝て、競争して勝てというメッセージ、全く裏返しのメッセージを私たち子供たちに伝えてしまっている。だから、いじめのときに相手を殺すまでやっちゃうのです。すなわち、自制心がない。自制心が育っていない子供同士が競争すれば、これはとことんやるしかないだけなのです。これが今の子供たちの心の育ち問題点だと思っています。  「危機を感じとるこころを育てる」と書きましたけれども、私たち子供たちの心の中に、責任とか役割とか期待とかという、そうしたことが本当に育っているのかどうか、これを私は考え直さなければいけないことだと思っています。社会を支える自覚というものが本当にあるのだろうか、社会というのはどういうふうに組み立てられているのか、それを支える自分という自覚はどれだけ持っているのか。  例えば、結婚しない症候群と言われましたけれども、結婚したくなるような社会ではないという理屈はそれなりに受け入れるとしても、社会そのもの自分が支えているという自覚はどうしたんだろうか、こういうふうに思ってしまいます。結果としての少子化の問題というのは、私は子供をたくさん産める環境をつくればいいということではなくて、社会に対する責任ということを子供たち教育する段階できちっと伝えていくということが重要ではないかなと思っています。  お互いに愛し、いやし合えない家族というのも今問題です。それぞれがばらばらで、夫婦の間ですらその精神的なつながりよりも役割でつながっているような、役割固定的な考え方が大きいように思います。夫婦が幼児化したということも随分言われ続けました。  いずれにいたしましても、人間関係がボタンのかけ違いになってしまえば、そこには期待の過剰とそれから期待過小過小期待が起こるだけで、そのはざまに起きた事件を、神戸事件やあるいは四街道の事件、そうしたものに結びつけて考えることができると思っています。  健康な心って一体何だろうか。私は、ずっとそのことを考えてきました。心の危機自分の心が危機に陥っているということの危機自覚、そして危機の管理ができなければ健康な心とは言えないのではないだろうか、こんなふうに思っています。  では、パーフェクトな、完全な心というのはあるんだろうか。そんなものはあるはずがありません。とすれば、あるときに自分の心の問題に気づき、その気づきから自分の心のつくり直し、やり直しをすることができるようになることが、これがやっぱり子供の心を円満にあるいは豊かに育てていくことではないかと思います。  切れない子供を育てるということで一番重要なのは、自分というものを自覚する子供を育てていくということだと思っています。そして、相談相手を持ってほしいと思うし、自分づくりというのは、先ほども申しました小さな子供とつき合うことによって、自分はどんなに力を持っていて、その力をどう発揮したらばいいのか、相手との調和を考えていく自分の力の発揮の仕方というのは、まさに小さな子とつき合うことによってはぐくまれていくものだと思います。  こうした人間関係キーワードにして考えてきますと、私は、最近の子育てビー玉人間を育てているというふうに説明をしています。  一つ一つはきれいです。つるつるしています。だけれども、ビー玉はある枠の中に入れておけばその枠の中に入っていますけれども、もしその枠を外してしまったらこのビー玉ばらばらになってしまう。私たち社会で育てた子供たちは、立派な子供のように見えるけれども、実際には、つるつるできれいだけれども、枠を外してみたらばらばらになってしまう子供たちだったんではないだろうか。  枠の中に仮に石ころが詰まっているとして、その枠を外しても石ころ同士は面と面ですれ合って、そしてお互いに離れるということはしない。私たちが本当に子育てをしていかなくちゃいけないこれからの子供たちは、こうした石ころのような子供たち、でこぼこがあり、お互いに摩擦はする、時にはそれで血を流すこともあるかもしれないけれども、しかしそのかわりばらばらにならない子供たちを育てていくことではないかな、こんなふうに思っています。  終わりにします、もう具体的にお話ししたこともお聞きいただきましたので。  さらに、これらをまとめて一言で言いますと、私たち社会の中で、特に子育ての中で私たちが使いやすい言葉をここで挙げてみました。早くしなさい、頑張ってね、しっかりしなさい、みんなと一緒にやるのよ、こういう言葉を使って私たち子育てをしてきました。その子育てが間違っていたんではないかというキーワードの提供です。そして、他人に迷惑をかけないような子供に育てようとする、そのことがどうも違っていたんではないだろうか。他人に迷惑をかけながら、お互いに迷惑をかけ合いながらお互いで支え合っていく社会、こういうものを忘れてしまったらば、恐らく私たち子供たちは、ますますビー玉人間にはなるかもしれませんけれども、支え合うことができない人間になってしまう。そういう社会を私は見たいと思いません。  以上、こんなことをお話をして、私のまずは責務を終わらせていただきます。  御清聴どうもありがとうございました。
  5. 久保亘

    会長久保亘君) どうもありがとうございました。  次に、佐藤参考人にお願いいたします。
  6. 佐藤紀久榮

    参考人佐藤紀久榮君) 佐藤でございます。  本日は、全国養護教諭連絡協議会会長として、また東京都立小平高学校に勤めます養護教諭として発言させていただきます。  本日、養護教諭として「子ども心身健全育成」について意見を述べる機会をいただきまして、ありがとうございます。意見は、先生方のお手元にございますレジュメに従って述べさせていただきます。  まず、一ページをごらんください。養護教諭について、少し説明をさせていただきます。  学校教育法により、養護教諭は学校に置かなければならない教職員となっています。職務の概要について九項目の内容例を挙げました。近年は、2の保健指導の心身の健康に問題のある児童生徒への指導及び健康相談活動の重要性が増しています。また、注にありますように、昨年七月一日施行された教育職員免許法の改正により、養護教諭が保健の教科の授業を担任する教諭または講師になることができるようになりました。  二ページ目に参ります。  初めに、学齢期は人の生涯のうちで最も変化に富み、大きく成長する大事な時期であり、子供たちは愛情に包まれて養育され、教育を受ける環境が必要です。しかし、近年の社会家庭の環境の変化は、子供たちにとって万全とは言いがたい状況にあると思います。  「1子供をとりまく心と体の現状」について。  「(1)保健室利用状況」です。「H2」は平成二年度、「H8」は平成八年度をあらわします。①は男女別、学校種別の一日の保健室利用者数の比較です。小中高を合わせた平均利用者数は、平成二年度の三十・六人に比べ、平成八年度は三十六・三人となり、約六人の増加となっています。  続いて「②保健室来室理由」について学校種別に挙げてあります。全体として見ると、出血、鼻血、けがのため、体調が悪い、痛い、苦しいなどの来室理由に続いて、小学校の場合、六番目、八番目に「おはなし・おしゃべり」、「せんせい あのね きいて」、中学校の五、六、十二番目には「なんとなく」、「仲間や先生とのおしゃべり」、「困ったことがあるので聞いてほしい」、高校の五番目、六番目、十一番目には「仲間や先生とのおしゃべり」、「なんとなく」、「困ったことがあるので聞いてほしい」のように、相談や何となくなどが上位に見られます。  体調が悪い、痛い、苦しい、休養したいなど体の訴えで来室しても、少し時間をかけて訴えの内容を聞くと、実は原因や誘因が友人やクラブ活動、家族や進路などの心の健康問題がかかわっていることも多く、養護教諭としては、子供の訴えや話、様子などに気をつけるようにしなければなりません。養護教諭が、本人の訴えとは異なる、いつもとは違う不自然なけがの様子や態度から、いじめを早期に発見して指導したり、自殺を未然に防止した例などが養護教諭仲間では報告されております。  ここで、最近の保健室や養護教諭について子供たちの声を紹介いたします。保健室はほっとする空間、緊張しないでいられる部屋、いつでもだれでもどうぞっていいな、本音で語り合える保健室の先生、お父さんとお母さんの両面を備えている保健の先生、体のことから悩み、心まで何でも相談に乗ってくれる。  中央教育審議会では、「「心の居場所」としての保健室」と答申されていました。さらに、養護教諭は教職員の健康管理や保護者の相談に応じるなどの役割もしています。  「保健室登校の実態」について、三ページをごらんください。同じように、「H2」は平成二年度、「H8」は平成八年度をあらわしています。  中学校の三七・一%に保健室登校の生徒がいるという報告がされています。現時点ではこの数字よりかなりふえているものと思われます。保健室登校は養護教諭一人で対応するのではなく、担任や学年あるいは校内での共通理解が大切です。保健室登校は、家から学校へ、学校の中の保健室から教室へと子供たちが自立していくための一つのステップとなっていると思います。  続いて、「子どもたちの生活実態」について。  (2)のグラフをごらんください。この調査は、平成五年に私どもの全国養護教諭連絡協議会が児童生徒四万人余りを対象にした心身の健康に関する調査結果でございます。中学、高校で眠いが七〇%以上、小学校でも五〇%近くが眠いと答えています。また、体がだるい、肩凝り、頭痛、目が疲れるなどの身体症状とともに、やる気がしない、いらいらする、大声・暴れたいなどの回答をしています。当時、この調査結果を見てやっぱりと思い、疲れて無気力な子供が思い浮かびました。  五年たった現在、生活様式は夜型化し、生活習慣の乱れなどからこの状況はさらに進んでいるものと思われます。  続いて、四ページに「保健室における相談活動の状況」が載っております。  表―2は、保健室に来室した子供の来室理由、訴えを聞いた養護教諭がある程度時間をかけてその子供の話を聞くなどの相談が必要と判断した具体的な内容です。  平成八年度を見ますと、発育・健康など体に関することに続いて、友人、漠然とした悩み、学校生活がどの校種でも上位を占めています。平成二年度の調査結果と比較しますと、友人、漠然とした悩みが増加しており、特に小学校において漠然とした悩みの増加が顕著です。これは自分状況をうまく説明、表現できない子供が多くなっており、時間をかけて養護教諭が耳を傾ける必要があるからです。  中学三年生、高校三年生では進路の相談が多く、養護教諭には幅広い柔軟で多様な対応が必要なことをあらわしています。  (4)は、「その他各学校における心身の健康問題」について述べてあります。次のようなものがあります。  「①喫煙、飲酒、薬物乱用」、「②性に関する問題行動」、「③摂食障害(拒食、過食など)」です。「④精神保健に関することなど」。「⑤その他」として、生活指導上の問題あるいは家庭における諸問題、フクロウ型といいますか、夜型生活による睡眠不足、疲労感の残存、食生活の偏食、孤食、孤食というのはひとりで食べることです、不規則な食事などによる健康阻害などです。  現在の子供たち心身の健康につきましてはさまざまな状況が見られます。体の問題では、体力の低下、アレルギー疾患の増加や生活習慣病の兆候、頭痛や腹痛、気持ちが悪いなどの不定愁訴など、心の問題では、前に述べましたように、漠然とした悩み、家族や友人に関する不安、悩みなどがあります。特に、思春期の中学生や高校生は、子供から大人へと心身両面にわたり急速な発達、成熟をしていきますが、同時に、精神面では動揺しやすく不安定な時期でもあります。  思春期の心の健康問題の一つは、特有の心理性に基づく逸脱行動や問題行動の出現、例えば家庭内暴力登校拒否、摂食障害、いじめ、性の逸脱行動、援助交際などを含みます、喫煙、飲酒、薬物乱用などであり、これらは同時に出現したり複数にまたがっていることが多いのですが、一連の問題として理解する必要があります。もう一つは、成人の精神障害の発生年齢に達していることです。  このような心身両面の健康問題あるいは課題について、私たち養護教諭は次のような対応をしています。  「2子どもたち心身の健康問題への対応」。  五ページをごらんください。「(1)養護教諭による子どもの心と体に関する健康相談活動」。  「①SOSのサインに気付く」。心と体は密接につながっているので、子供の身体的不調や訴え、症状を通して心の問題を把握し、家族や教職員と連携して迅速で的確な対応をしています。ただ何となく保健室へたびたび来室する子供たちのSOSのサインを見逃さないで対応するよう努めています。  「②ありのまま受入れる」。子供が持っている悩みや苦痛などをありのまま受け入れてあげることにより、子供たちが自立できるよう側面からサポートします。待つ、少し時間をかけて様子を見ることが必要な場合もあり、担任や保護者の理解と協力を得るために説得が必要な場合もあります。  「③子どもの心と体の両面からのケア」。養護教諭は子供たちに直接手を差し伸べ、体の痛みの部分に手を当てるなどのスキンシップにより心を休ませる状況があります。  このように、養護教諭の専門性と保健室の機能を生かすことが求められており、私たちもそのように努めております。例えば、保健室登校や病気治療中あるいは治療後のリハビリなどにも保健室を活用しています。いずれの場合も、千人の子供がいれば千の人格、事情、家庭や背景などですが、そういうものがありますから、千の対応が必要であり、大切であると思います。  私の学校では嘱託員で元養護教諭との二人勤務をしております。一人が救急処置を、一人は相談対応をするなど非常に効果が上がっております。どんな学校にも養護教諭が二人いるとよいなというふうに思っております。  「(2)心と体を育てる健康教育の推進」。  前に述べましたことは起きてしまったこと、つまり現状にどう対応するかということでございますが、子供たちの生涯にわたる健康づくりを支援するためには、問題が起きる前の予防的な健康教育を推進することが必要です。  例えば、「①基本的な生活習慣の育成」、「②命を育む性教育」、生きる力、命の尊厳、生きることと死ぬこと、このようなことを中心にした性教育のことです。「③不安や悩み、ストレスへの対処など心の健康に関する指導」、「④喫煙、飲酒、薬物乱用防止等のための指導」。このような健康教育に養護教諭は専門性を生かし指導や授業に当たっておりますが、今後ますますその活用が求められると思います。  「(3)教職員や保護者、関係機関等との連携協力による支援」。  保健室から子供が見える、学級が見える、家庭が見えると言われていますが、担任・教室の見えない部分は養護教諭・保健室の見える部分でもあります。担任と養護教諭が協力して見えない部分を的確にキャッチし、補い合って子供の理解、指導に当たることが大切です。子供への対応は、命、人権の保護を最優先に考え、養護教諭は誠意を持って対応し、初期の的確な判断と対応を心がけています。  連携協力には次のような事項があります。  「①子どもの健康状態の把握」、「②教職員や保護者との様々な連携協力」。例えば、各担任と子供の個々について共通理解を持つこと、子供の事情等について知らなかったために子供を傷つけることのないよう担任と守秘義務を確認の上で情報交換し共通理解を図ることが大切です。保健室の来室状況について連絡すること。担任と連携して子供たち心身の両面から相談に応じ、子供の問題や悩みの解決のため支援するよう努めています。さらに、教職員の悩みやストレスに対しても養護教諭は相談に応じ、支援しています。「③保護者との連携」。担任と相談の上で保護者に連絡をとることも必要ですが、子供の意思の確認や親子関係等について十分配慮することが必要です。「④校内、校外、地域の健康に関する専門家等との連携協力」も大切です。学校医や精神科医、関係機関、学校種間、小中高ですね、そういう学校種間等との連携が大切です。特に、私の学校は高校でございますが、精神科の先生方との連携により、生徒の治療あるいは学業復帰といいますか、そういうことに非常に効果を上げております。研修会やネットワークなどによる共通理解や相互協力・連携も大切です。  最後になりましたが、課題であります「子どもたち心身健全育成のための今後の取り組みと課題」について述べさせていただきます。  「(1)校内体制の見直しと整備」、「(2)養護教諭及び教職員の資質を高めるための研修」、「(3)養護教諭の専門性を生かした地域活動への支援」、外へ出ていくことですね、校内ではなく外へも支援が必要ということです。例えば、子供会やボランティア活動の支援、あるいは子育てネットワーク等により若い親の子育てを支援しております。  次に、これは財政的な措置も大変必要になってくるものでありますが、私たちの望みとしては、子供たち一人一人にきめ細かく対応するためには、現行の三十学級以上に養護教諭を複数配置するという基準を下げて、養護教諭を複数配置していただきたい。特に、教育困難校や生活指導困難校に養護教諭を複数配置することにより、今まで述べてきたような課題が解決すると思います。  五番目に、保健室の施設設備の充実についてです。  相談室はプライバシーを守ることのできる、相談できる場所であります。相談室の設置、それからそのほかにコンピューターあるいはビデオ、テレビなどの施設設備の充実が望まれます。  最後に、学校においては、全教職員が保護者や地域と連携をとりながら子供たち健全育成を図ることが大切であると思います。教職員間の和やかなよい人間関係が明るい学校をつくると思います。子供たちが、学校が好き、先生が好き、友達が大好きと言うような学校にするために、他の教職員とともに私たち養護教諭も努力いたします。  以上でございます。
  7. 久保亘

    会長久保亘君) ありがとうございました。  以上で両参考人意見陳述は終わりました。  これより参考人に対する質疑を行います。  質疑は午後三時ごろまでをめどとさせていただきます。質疑を希望される方は、挙手の上、会長の指名を待って質疑を行うようお願いいたします。  それでは、質疑のある方は挙手をお願いいたします。
  8. 中原爽

    ○中原爽君 吉川先生に伺おうと思います。  御説明では、主に学校という場所において群れたがる、しかし深いつき合いは、個々のつき合いはないようだというような御説明でございました。現在、合計特殊出生率一・五人を割るという状況ですから、恐らく大多数の子供たち家庭では一人っ子であろうというふうに思います。この一人っ子の家庭状況と、学校などの集団の社会の中で群れたがる、しかし深いつき合いはないということのようでございますので、この深いつき合いということをこれから考えていかなければいけないのか。あるいは、一人っ子という立場の中で一応群れたがるというような形のものを育てていって、集団になじまないような、孤立をするというような子供たちを少なくしていくという方向も考えていくのか。  要するに、おつき合いを深めさせるのか、あるいはグループから離れないようなことも考えていくのか、この二つのところのお考えはいかがでございましょうか。
  9. 吉川武彦

    参考人吉川武彦君) おっしゃるとおりで、二つの方法があると思います。  私自身は両方ともかかわっています。それは、一つの方法である、関係を深めて、そして自分自身をしっかり持った子供たちを育てていきたいという自分の願いと、それから、これがやはり日本の社会を本当によくするだろうと思っているからです。しかし、現実的にはこれはなかなか大変なんです。ですから、とりあえずつき合いがある分だけいいとしよう、全く個々がばらばらではなくて、とにかく群れるということをもっと利用してみよう、その利用の中から自分のことを考えられるような、あるいは他人のことが本当に考えられるような子供たちを育てたいという、この両方は私は正しいんじゃないかと思っているんです。  ただ、私自身は根本的には、子供の数が各御家庭少なくなったとしても、子供を昔流の言葉で言えば供出して、そして地域の中で子供を育てるという、そうした育て方を考えていくことで私は小さな子供と出会う機会をつくることはできると思うんです。その方を私としてはやりたいといいますか、考えてはいます。  以上です。
  10. 中原爽

    ○中原爽君 ありがとうございました。
  11. 松岡滿壽男

    松岡滿壽男君 大変御苦労さまでございます。  吉川先生の方にまずちょっとお伺いしたいんですが、結局、今の子供たちのさまざまな問題をお話しいただいたわけですけれども、基本的には戦後の子育てといいましょうか、教育というものがある面ではうまくいかなかったという部分が出てきているんだろうという感じがするんです。  それで、戦前が、どちらかというと教育というのは人のために役に立つ教育をしろと、自分というものはほっておいたって大事にするんですから。だけれども戦後は、特に一人一人を大切にするとか自分を大切にするという部分が行き過ぎちゃったという結果が一つあらわれてきているんじゃないかなと。それに少子化ですね、追い打ちをかけるように。それから、社会自体が目標を失ってきているという部分があると思います。  今、政治も経済も多少さまよっているし、閉塞状況の中におるというのが微妙に子供にも反映しているんだろうというように思うんですが、人のために役に立つ教育という部分をこれからどういう形でやっていけば具体的に対応できるのか、また、そういう考え方というのは間違っておるのかどうかということを一つお伺いしたいということです。  それと、明治の終わりから大正の初めにかけて夏目漱石の「こころ」ですか「それから」ですか、いわゆる高等遊民というのが出てきますね。だから、明治維新をやり遂げて新しい近代社会をつくる中で、高等教育も受けて、だけれども学校を出たって働くのはばかくさいというのでぶらぶらしている、目標もないという感じの者が今の若い人たちの中に再び出てきているような感じがするんですね、うちの一族を見ていましても。  どうもそういう青年に何をやろうかという目的意識が非常に希薄になってきている。新しい高等遊民が出てきているのではないか。このまま行くと、今おっしゃったように、いい子というのは心的エネルギーの少ない子だと。この心的エネルギーというのは中身がちょっとよくわからないんですけれども、それもちょっと御説明いただければいいんですが、そういう子がずっと育っていくとまた高等遊民ばかり出てくるのか。今働く場所もないですから、それはぶらぶらしている方がいいよと、尺八でも吹きながら。それはそれでいいわけなんですが、何かやっぱり社会的な病理があるのかなという感じがいたすんですが、それについてのお考えがあれば伺いたいということです。  それから三点目が、夫婦役割が固定化してきている、お互い役割分担している。最近はやりの熟年夫婦の離婚ですね。これも何十年も一緒におって別れるということについて、我々もよくわからないし非常に不安な感じがするんですが、こういうところはどういうふうに分析をなさっておられるのか。これは余計な話かもわかりませんが、御意見があれば承りたいと思います。  それから、佐藤先生の方、現場で本当に御苦労が多いと思うんですが、実際に四割も中学生の段階で保健室登校しているというような、私も実はびっくりしたんですが、体がだるいとか眠いとかやる気がしないというのは、ちょっと気力が足りないなという感じがするんですが、この眠いというのはどこに原因があるんですか。テレビの見過ぎとか勉強のやり過ぎとかいろいろあるんでしょうが、どうもよくわからないですね。  それで、こういう保健室登校している子供たちの悩みというものについて、担任の先生がまたおられるはずなんですが、それとの関係は一体どのようになっているんでしょうか。  いろいろな難しい問題はあると思いますけれども、お知らせをいただきたいというふうに思います。
  12. 吉川武彦

    参考人吉川武彦君) 先生の方からお話をいただきました三点についてお答えいたします。  一つ前に御質問いただいたこととも関連いたしますけれども、ともあれ、今の子供たち心理的エネルギー、すなわち何か自分の中に燃えるような気持ちを持ってそれで何かにぶつかっていくというような、そうした心理的なエネルギーがなかなか育っていない、あるいは蓄積されていないということを前提にしてきょうはずっとお話をしましたけれども、では、役に立つ人間あるいは責任を持って生きられるような人間をどういうふうにして育てたらいいのかということであります。  そのことは、まず私は、先ほどお話ししました小さな子供とどれだけつき合ったかということによって違ってくると思っています。すなわち、親からあるいは大人社会から自分は受け入れてもらった、大人社会信頼できたという子供にとっては、今度自分が持っている力をどこかへ発揮してみないといけないわけですね。自分の持っている力を発揮するときに自分よりも強い者に発揮することはまずない。まず、小さな子供たちに対して自分がこんなこともできるんだぞと見せびらかすわけですよね。見せびらかしますけれども、見せびらかし過ぎたら、例えば暴力的な意味で手を出したらばそれはもう小さな子が離れていってしまいます。  ですから、自分が持っている力をどの程度相手に向けたらば相手自分を尊敬してくれるのか、自分の方を大切にしてくれるのかということが実は自分自身が相手側に出す力のコントロールなわけです。それで先ほどセルフコントロールという言い方をしたんです。自分自身をどこまでコントロールできるか。これを学ぶには、小さな子供とつき合うことが大事だということなんです。この小さな子供とつき合うような機会地域社会の中で、学校の中でどういうふうにつくっていくかということだと思うんです。  きょう私は最後のところで、開かれた学校云々というようなこと、あるいは地域の問題もお話ししようと思って、時間が来ましたのでカットしましたけれども、結局大切なのは、そうした地域の中で小さな子供と大きな子供が出会う、そうしたグループ化みたいなものができないだろうかということです。これについてはもちろん幾つもの実験的な試みはやってきました。そして、やっぱりそこを経過して、小さな子供をまとめ切れるような子供が育っていけばそれでいいわけで、こうした試みというのは今でももう各地で行われていますけれども、日本総体としては、個々の子供を何とかよくしようという、それしか考えていないところに問題があると、こんなふうに思っています。  それから、高等遊民という話が出ましたけれども、確かにエネルギーのない子供たち社会の中に出て、そして何にも目的なしにぶらぶらということになれば、本当に高等遊民が、高等かどうかわからないような遊民がたくさん出てくるような気がします。私はもう待ったなしにこれを防がなくちゃいけないと考えているわけです。そのためにこうした機会をいただくとお話ししに来るわけですけれども、今私たち自身がやらなくちゃいけないことは、彼らに目的を持ってもらうしかないです。ただ、目的を持ってもらうなんて言葉は簡単に言いますけれども、しかしその目的が持てない彼らですから、一体どういうふうにして目的を持ってもらうかということだと思います。それには基本的には小さいときからの積み重ねと言えばそれまでですけれども、今もう高等学校を卒業してしまったような子供たちに対して、じゃ目的意識を持て、こう言っても、それそのものはなかなか動きません。  ですから、私はそこではやむを得ず何かえさと言うと言葉は悪いですけれども、何かを出さないといけないと思うんです。それは、そんなものでもって本当の心が育っていくとは思えませんけれども、やっぱり今は何かを提出していかないといけない。それが今の世の中で言うと高等遊民の形の変わったボランティア活動だと思うんです。ですから、ボランティア活動というものを例えば文部省でも厚生省でもそれぞれ奨励しているのは、まさにこのところだと思うんです。文部省式に言えば、それをやれば何か点数が上がるみたいなことにもなるだろうし、生きがいみたいなものということになると今度は厚生省側の考え方かもしれませんが、こうしたボランティア活動みたいなものがある目的意識をつくっていく前段階としてあるような気がします。  青年のボランティア研修を私も担当していますけれども、そんなところで面接をしても、ボランティアとして希望してくる方々を面接しますと、ほとんどの者たち自分がどう生きていったらいいかわからない、このボランティア活動を通じて自分の生き方を探したいという、こういう自分探しのためにボランティア活動に来られる。もう五年や十年前から見たら断然違って、こういう自分探しのためにボランティア活動に来られる。こういうのを見ていますと、やはりもうどこかで質を変えて、ボランティア活動というのをこんなふうに位置づけた方がいいんではないかなと、こう思っています。  夫婦の問題は、きょう円先生がおいでになりませんのでちょっと私がここで申し上げるのはおかしいかもしれませんけれども、円先生と私はずっと御一緒に離婚問題をやってきています。私の方は男の離婚の方から入っています。円先生は女性の離婚と権利の問題から入っていますので、見方は少し違いますけれども、明らかに中年離婚というのはもう間違いなくふえてきています。というのは、十年ぐらい前であれば男の離婚に関して、男側から言えば、男が離婚を提示するということの方が多かったですから、男の離婚の問題は大体財産分与はどうしたらいいかとかという、こういう相談が多かったんですけれども、もう最近は全然違います。男性の方から、二十何年、三十年も一緒にやってきたのに何でおれが女房から離婚されなければいけないのか、離婚を申し立てられるんであろうか、こういうような離婚相談が結構ふえてきています。  これらについて考えると、十年前の六十とそれから十年後の今の六十とはそれなりにまた精神発達の段階も違うのかもしれませんけれども、私は、このままで行くとますます離婚の年齢も下がりますし、下がるということは、早くあきらめて早く離れるというそうしたことが始まりますから、離婚年齢もずっと下がっていってしまうと思っています。今の中年離婚もしたがってもっともっと年齢が低まっていくのかなと、こんな考えです。  ただ、これが今まではなぜ余り目立たなくて今目立ってきているのかというのは、やっぱり子供の問題じゃないかと思います。従来の日本の考え方でいえば、子はかすがいということですから、子はかすがいということで何とか一緒にやってきたけれども、子がかすがいにならなくなったという、それが現実じゃないでしょうか。それともう一つは、女性側の経済力がついてきたということもあるので、この辺は円先生がおいでになったときにでもまた分析していただければと思います。  以上です。
  13. 松岡滿壽男

    松岡滿壽男君 夫婦役割の固定化ということとは関係ないんでしょうか。
  14. 吉川武彦

    参考人吉川武彦君) 役割の固定化というのは、結局私がきょうお話し申し上げてきた言い方というのは、要するにお互いの心をつなげていくということが難しくなってきたから役割でつながっているという意味なんです。だから、役割でつながっていますから、心のつながりがすごく薄いわけなんです。だけれども、夫婦という形をとるには、今言った役割でつながっているわけですね。その役割がある年齢になれば離れていきますので、実際の人間関係としての夫婦関係、心のつながりが弱まってしまうと役割だけの関係になると離れることができちゃうわけです。その辺のところを先ほど申しました。
  15. 佐藤紀久榮

    参考人佐藤紀久榮君) 二点あったと思います。  一つは、眠いという原因は何なんだろうとおっしゃったんですね。これは夜型化、フクロウ型といいますか、夜が遅いということは朝がなかなか起きにくい、学校へ来ると眠い。その夜型化になる原因は、多分、私どもが日常生徒に接していてわかっていることは、一つはアルバイトをしていて帰宅が遅い、それからふろへ入ったり勉強も若干する、それから好きなことも、音楽も聞いたりするということになると、当然一時二時になってしまう。それから、バンドをやっている子も結構高校の場合はいるんですね。それから、小中学校の場合でいきますと、塾へ通っていて帰りが遅いという子がかなりいると思います。  しかし、全体的に子供が夜遅くなるのではなくて、家族全体の生活パターンがずっと夜遅くに動いているように思います。結局、眠いというだけではなくて、やる気がしないとかぼんやりする、いらいらするとか考えがまとまらない、すべてここの調査の一連のことは睡眠不足等によって引き起こされているのではないかというふうに思います。  それからもう一つ、保健室登校の件ですが、保健室登校というのは、今私が申しましたいろいろな資料は、財団法人日本学校保健会が平成八年に調査されました保健室利用状況に関する調査というものから申し上げたんですが、ここには、保健室登校とは、常時保健室にいるか、特定の授業には出席できても学校にいる間は主として保健室にいる状態をいうというふうにして調査されたものです。  先生おっしゃいましたように、中学では三七・一%というのが「平成八年の保健室登校をしている児童生徒がいる学校の割合」のところに出ております。その保健室登校の生徒についての対応については、先ほども述べましたが、担任との連携はもちろんとっております。それから、保護者との連携もとります。そして、基本的には家庭から学校へ来れる、学校へ来れるけれども教室へ行けないんだという子については、保健室で自立といいますか、教室へ行くための一つのステップとして私たちは受け入れています。  ですから、保健室登校の中の特定の授業に出席できる生徒はいいんですけれども、できない生徒については、担任や教科の担当の先生と連携をとりながら保健室でプログラムに従って学習させたり、それから、そういう学習はとても嫌だ、したくないという子については、例えば好きなこと、とても絵が好きだという子には絵をかかせたりとか、あるいは読み物を読んだりとか、そういうふうないろいろな方法でもって教室へ行ける準備をするため支援しているという状況が多く見られます。  よろしいでしょうか。
  16. 松岡滿壽男

    松岡滿壽男君 ありがとうございました。
  17. 成瀬守重

    ○成瀬守重君 きょうは本当にありがとうございます。自民党の成瀬守重でございます。  教育改革の問題だとかあるいは学校における指導要領、小学校から中学校、幼稚園なんかも私いろいろとここのところずっと勉強しているんです。そういった子供たちをこういう方向にというビジョンに当てはめて教育しようとする以前に、きょう吉川先生やまた佐藤先生からお話がございましたような、いろんな悩みとか子供自体が精神的なストレスやらそういうものを持っており、それがまた不登校とかいろいろな問題が出てくるわけですが、そういった問題をある程度解決しなければそういった意味での教育効果というものも出てこないんじゃないかという気がするわけです。  今お話を聞いたような、先生方からの、言うならば現場といいますかフィールドからのそういった実態やそれの対応策というものが中教審の報告だとかそういうものを見てもその中に生きていないなという感じがするんですけれども、そういったものをどういった形で、現場の実態や現場の提言というものをどうこれから教育改革の中に生かしていったらいいのか。あるいは指導要領とかそういうものを見ましても、子供たち一つの定型的な型を与えるけれども、今言ったような悩みに答えて、それでそれ以前の問題を解決するような道というものは見えてこないわけですね。どうしたらいいかということについて先生方のお考えをまた聞かせていただきたい。  また、もう一つ伺いたいんですが、アメリカの教育改革の一環としてチャータースクールという問題が今非常に取り上げられているようでございます。このチャータースクールというのは、御存じと思いますが、いわゆる国の財政で賄って、先生方の中でいろんな契約を結んだりして新しい従来型の学校教育とは違った教育をやろうという試みだと聞いております。そういったものについて先生方、御関心がおありでしたらどうお考えになるか、ちょっと聞かせていただきたい。  以上、二点です。
  18. 吉川武彦

    参考人吉川武彦君) 今お話が出ましたように、本当に教育以前の問題がかなり大きいと思いますし、その教育以前を一体どうするのかということだと思うんです。  例えば、私がやってきたことでもありますけれども、私は保健所などにも勤務しましたので、地域の中で子供をどう育てていくかという視点で母子保健というのを見てきました。すなわち、従来からの母子保健といいますのは、まず何か疾患があるかないかということをチェックするために健診をやって、そこから出発していたんですけれども、そうではなくて、健診をやる母子保健ではなくて、子供を育てていく、子供がかわいいと思う親をまず育てなければいけないし、そして生まれてきた子供たちの心をゆがませない親になってもらわなくちゃいけない、そんなことから始めていきました。  それはもちろん一つずつ挙げれば、働きかけとして、地域の住民の人たちに、親たち言葉をいろいろかけていくということでもありますけれども、先ほど申しましたような小さなグループをつくって、大きな子と小さな子が出会う場所をつくっていくというのも一つの試みでありました。こうしたものをやりながら、やはり基本的には子供たち自分とはどんな人間なんだろうかということを考える、あるいは疑問に思うチャンスをつくらなければいけないと思うんです。  その先には、先ほど佐藤さんの方からお話がありましたように、例えば学校の中でも死をどう教育するのか、生きるということはどういうことなのかということを学校教育するというお話をされましたけれども、それはそれで当然必要なことですが、小さなときから例えば人の死に出会うチャンスをどうつくるか。今のようにおじいちゃんおばあちゃんと一緒に生活をしているわけじゃないとか、長生きをするようになったとかということで、子供として死に出会うことがほとんどなくなってしまう。そうすると、子供大人あるいは老人の死に出会うようなチャンスをつくる、あるいは老人とつき合うチャンスをつくる、こういうものも地域の中で組み立てていかなくちゃいけない。  すなわち、従来は家庭というところでみんな自然に行われてきたことですけれども、今は言葉をかえて言えば、作為的にもこれを地域の中につくらなければ実際に子供たちの体験として積み上がっていかない、ここだと思うんですね。こんなことは幾つも考えることができると思いますけれども、今私に与えられたのは、その辺のところでちょっとお答えをとめておきます。  もう一つのチャータースクールのことは私はちょっと存じませんので、申しわけありません。
  19. 佐藤紀久榮

    参考人佐藤紀久榮君) 中教審の方には私の方の団体でも子供の心の方については文書で、それから地方教育行政の方には直接意見発表させていただきました。答申に書かれていることが実現できたら本当に日本はいい国になるに違いないというふうに思っております。  しかし、現実には非常に難しい状況にあります。先ほどいろいろ述べましたけれども、子供たちの健康についても心配な状況があります。しかし、やはり幼児からの、吉川先生もおっしゃいましたけれども、生きる力の育成とか命の大切さとか、そういうことがわかるようにもっと体験をたくさんできるような、ただ、こういう場所で教えるというだけではなくて本当に体験できるような、そういうことが望まれるのではないかというふうに思っております。  それから、私ども養護教諭ですから、先ほど述べました保健学習等への教諭あるいは講師としてかかわれるようになりましたので、そういうところで養護教諭の専門性を生かした授業ができれば、そこでも命の大切さというところを中心にしながら、薬物乱用防止や性教育なんかにもかかわっていけるなというふうに、手前みそですが、思っております。  それから、総合学習の方では環境、福祉・健康というようなことも国際あるいは情報等と一緒に入っておりますので、こういうところを先生方がうまく活用して、子供たちに、本当にわかった、身についたと思えるようなそういう教育が必要だと思うんです。そのためにはやはりゆとりが大事だと思うんです。  今度学習指導要領の改訂によって時間数も随分減りましたけれども、実際現場ではなかなかそこのところが決まったからそのとおりというわけにはいかないような状況もあるようです。それから、本当にこれは私的なことですが、私がたまたま出張で、帰り十時過ぎに武蔵小金井というところから家に帰るのにバスに乗ったりしますと、小学生が塾帰りなんですね。買った肉まんか何かを食べながらバスを待っているという、それを見るとちょっとこれは厳しい状況だなというふうにも思います。  それから、開かれた学校というふうに言われておりますが、やはり学校には施設設備とともに人的な資源、英語の先生であったりコンピューターもできるとか、それから私どものようにある程度健康相談もできるという、そういうような人的資源がたくさんありますので、これを地域に活用して、先ほど述べましたような子育てネットワーク、これは実際にやっている養護教諭もおりますし、あるいは家庭学級でいろいろ地域のお母さんたちとやっているというような養護教諭もおりますので、そういう学校の施設設備とともに人的な資源も活用しながら、吉川先生もおっしゃいましたけれども、地域ぐるみで子供を育てていくんだという、そういう視点が、向こう三軒両隣って随分いい言葉だなと思いますが、そういうふうに思っております。
  20. 成瀬守重

    ○成瀬守重君 ありがとうございました。
  21. 畑野君枝

    ○畑野君枝君 ありがとうございました。  日本共産党の畑野君枝でございます。  今、子供の心と体の危機ということが言われておりますけれども、まず吉川先生にお伺いしたいんですが、今の子供たちの心と体の関係ですね。特に今のこの競争社会、勉強も含めてですけれども、そうしたものとストレスとの関係を含めて伺いたいと思うんです。  と申しますのは、神奈川県内で青少年調査を一九九五年と一九九六年に二回行っているんですけれども、一九九六年の方で慢性疲労を訴える子供たちが急速にふえているという調査がありました。小学校の低学年から、寝ているときに目が覚めるとか、日中から疲れがとれずに横になりたいとか、気持ちが悪くて立っていられないとか、そして中学一年で男子では三八%、女子では五〇%という状況が出ているということで、受験勉強や習い事などの過密スケジュールですとかストレスの増大ですとか、パソコンなどを含めた夜型、そういう問題などを指摘して、今の子供たちは脳を休める暇がないんじゃないかと、研究をされた先生からそういう報告もあるんです。  そうしてみますと、体がそういうふうに変わってきている。それが心にもどんなふうに影響しているのかということで、私、先生が、やめよう、早くして、頑張れと、私も子の親でして、この言葉は本当に最近はぐっとのみ込むようにしているんですが、やはり大人が変わっていかないといけないのではないかというふうに思いまして、そうした競争社会とストレス、体の問題を含めて伺いたいというふうに思います。  それからもう一つは、佐藤先生に伺いたいんですが、先生の調査にもございました。私も、横浜市の養護教諭研究会の資料を伺ったんですが、最も多い体の不調ということで、小学校、中学校とも一番多いのが、すっきり起きられない、それから疲れやすい、いらいらするというんですね。それで、今保健室に来る子供たちの人数というのはふえているんではないかと思うんですが、そんなふえ方の状況と、担任の先生ではなくて保健室の養護教諭の先生のところに子供たちが来るというのはなぜなのかというのを伺いたいと思います。  それで、先生は二人勤務のことを大変よかったというふうにおっしゃっていたので、具体的にどんなふうによかったのか、それから、基準が三十学級以上が二人ということですけれども、大体どれぐらいの基準であれば何クラスとか何人とか、そんな先生の体験から考えられる点があれば伺いたいと思います。
  22. 吉川武彦

    参考人吉川武彦君) 心と体の関係といいますのは従来からもいろいろ言われていまして、いずれにしてもこれは両方とも脳で行われることでございますので、脳の一点のところでは一致しているわけでございます。そこの興奮が激しくなると心にも変化が来るし体にも変化が来る。  ただ、その脳の一点のところにどういう刺激が来るかということで、今ストレスというお話が出ましたけれども、ストレスというのは精神的な負担がその脳の一点を攻撃するわけです。攻撃した結果、体の方の変化が引き起こされるか心の方の変化が引き起こされるかどちらかになるわけです。人間は基本的には自分の心が壊れていくことは怖いわけで、したがって、心よりも体を壊した方が割に生きやすいんです。例えば、それは子供だけじゃなくて大人も含めてですけれども、体の調子が悪いと言うのは許されても心の調子が悪いとはなかなか言えません。ですから、心の調子の方を崩すよりは体の調子を崩した方がいいわけです。それで今の心身症というのが出てくるわけです。  子供についてもその考え方をそのまま敷衍しますと、子供心身症はこれからもこのストレス状況が続く限りは恐らくふえていくだろう。そのときに、単にアレルギー疾患みたいな形で皮膚がかゆいとかなんとかというふうに身体的なものだけではなくて、今度は精神的なものにまで及んでくると、食べたくないとか食べられないとかという拒食の問題も出てきます。それはある意味では、裏返して言えば、生きていく力がないとか、あるいは生きていってもしようがないとか、こういう気持ちが出てくれば拒食の問題が出てくるわけです。  すなわち、精神的な問題で、うつ病みたいなものが出る前に、こうしたまだ心身症の中の精神的なことを主にして出てくる症状も出てくるわけです。そして、その上に、いわゆる精神科が問題にしなければいけない精神症状というのが出てくる。こんなふうに考えていきますが、今のところは子供の世界の中で子供の精神病がふえている様子はもちろんありませんので、大体ストレスの状況の中で心身症がふえ、心身症の中でも拒食を初めとして問題行動が出てきている。  ただ、先ほどから佐藤さんのお話じゃありませんけれども、たくさんの子供たちが不安を訴えている。この不安というのは、精神症状そのものではありませんけれども、やはりストレートに体にあらわさないで自分の精神的な悩みを言っているわけですから、この段階で受けとめないと体の方へ出てきてしまうわけで、そして体の方からいよいよ本当に精神病という症状まで出てきてしまうという危険があるわけです。ですから、ずっと手前のところでせっかく訴えているものをどう受けとめるかという、その辺のところのシステムをつくらないといけないんじゃないかなと、こう思っています。
  23. 佐藤紀久榮

    参考人佐藤紀久榮君) 一つは保健室への増加傾向についてです。これは、数は少しふえるかという程度で、例えば平成八年に小学校で三十四人ですが、それが急激に倍増するとか、そういうことではないんです。それよりも問題なのは、前に申し述べましたように、来室する子供の内容が変わってきているということなんです。それは、救急処置をするのであれば短い時間で終わるものです。傷の手当てをして、必要ならお医者さんに連れていく。しかし、お話を聞くというのは、それは時間がかかるものなんです。ですから、そういう時間のかかる相談を持っている子供の数がふえているということで御理解いただきたいと思います。  それで、次が私の学校の場合です。複数というのは、正規の養護教諭が二人というわけではないんです。東京都の職員の場合、退職しますと嘱託員ということで、それぞれいろいろ希望を聞いたりして職場に配置するわけですが、私の学校の場合は、幸いなことに一人は元都立高等学校の養護教諭が嘱託員として保健室に配属されています。二人で生徒の対応をしたり、いろいろ役割分担しながらやるわけです。  先ほど述べましたように、休憩時間に生徒がどっと来るわけです。高校ですから授業はもう絶対生徒は受けるつもりでいますので、どっと来ます。そのときに、救急処置が必要な子、熱をはからなきゃいけない、あるいは話を聞いてあげなきゃいけない、いろいろいるときに、一人で対応するよりはもちろん二人で対応する方がいいわけですよ。救急手当てをしている、こっちでは熱をはかりなさい、じゃ話は何という。そのことも大変有効なんですけれども、それよりももっと有効なことは、何か事故が起こったとき相談して決められるということなんです。決断をするのが二人で相談した結果ということは、子供にとってよりよい決断ができるということです。  さらによいことは、保健室に来る生徒にはやはりいろいろな生徒がおります。養護教諭も同じようにしたいと思いつつ、性格の違う養護教諭が二人いるとしますと、生徒が選べるわけなんです。あの先生に話そうかな、あの先生はやめようかなというふうに生徒も選べる。そして、私どももゆとりを持って聞いてあげられるというその気持ちが生徒の心を和ませて、そして解決へ、自立へといいますか、そういうふうに導いていけるということが複数配置のよい点だと思います。  ということで、私は現行の三十学級の基準を下げてどの学校にもというのは、児童生徒の数にかかわらず二人いてくれたら、あるいは養護教諭が二人いたら、それは子供にとってよりよいことであると思います。  それから、先ほど述べましたが、役割も随分変わってきておりまして、保護者からのお話とか電話相談というのがとても多いんです。そしてそれは結局、いろいろ出ていましたけれども、隣近所とお話ができない親も結構おります。あるいは働いている人は隣近所の方とお話しできないし、うっかりしゃべると何を言われるかわからないというのはありますね。そういうときに相談役に養護教諭がなっているという例は結構多いんです。  というようなことも含めまして、やっぱり学校に二人の先生がいると、子供にとってもよいことであるし、それから保護者にとってもよいことだし、それがもし地域でいろいろな人材を開かれた学校として活用するというときにもよいことではないかというふうに思って、複数配置をぜひというふうに申し上げました。
  24. 畑野君枝

    ○畑野君枝君 ありがとうございました。
  25. 松村龍二

    ○松村龍二君 最近の子供を見る機会自分子供も大きくなりましたので、地元へ毎週往復するときに、羽田空港のロビーで女子高校生がミニスカートでルーズソックス、この非常に寒い日本の冬の中をそういう姿でいる高校生をよく見かけるわけなんです。羽田だけでなくて、私は中部地方ですけれども、そういうところでもそういう高校生をよく見かけるわけです。  健康的に言って、この寒空の中でミニスカートでルーズソックスだけというのは明らかに健康に悪いだろうなというふうに想像するわけです。また、自分自身、快感か不快感かといえば、不快であるということはもう明白だと思うんです。しかし、それが一つの流行としてあるということを見かけまして、これは何かの機会に一度お伺いしたいなと思っていたんですが、都立の小平高校ではそのような姿がないのかどうか存じませんけれども、昔ですと、ちょっと言葉は悪いんですが、私立の三流高校でそういう子供たちがいるということで割り切れたかと思うんです。  そこで、私はこれを一つの大変な病理現象だなと思いますのは、高等学校当局が、そういうことは健康によくないからこういうふうにしなさい、体を冷やさぬようにしなさいというようなことを指導し切れないのかどうかということと、また大体そういうミニスカートとルーズソックスというのが現在のマスコミの風潮、芸能人優先という中で、また男性の精子も少なくなっているそうですので、挑発的に挑発的にという女性がそういう格好を大人から子供までやるのかなといったようなことを感じるわけなんですけれども、この辺の、学校当局も含めて本人たちの病理現象を何とかしないと日本の将来も危ないんじゃないかなというふうに思いまして、両先生から御高見を伺いたいと思います。
  26. 佐藤紀久榮

    参考人佐藤紀久榮君) 厳しいお言葉です。学校当局と言われると、私は校長でもないし代表者でもないのですが、養護教諭といたしましては、それは健康に悪いということはもう口を酸っぱくしてというか、いろいろな機会に言いますけれども、流行には勝てません。本当に実感です。十年前には長いスカートが流行しておりました。ですから、長いスカートの方が健康にはいいなというふうに思っております。本当に流行には勝てないんです。幾ら指導してもこれは難しいです。健康には悪いとは思っております。
  27. 松村龍二

    ○松村龍二君 ただ、世界のどこの国を見ても、ヨーロッパを初め寒い国で、幾ら流行といってもちょっと常軌を逸した流行じゃないかなというようにも感じるんですけれども。
  28. 吉川武彦

    参考人吉川武彦君) 私は養護教諭の方と大変おつき合いが深くて、いろんな勉強会でも一緒でございますので、今のことに少し関連しながらお話をしていきますけれども、確かに養護教諭は一生懸命やっておられるんですね。ですけれども、今、佐藤さんが言われたように、もうとにかく流行には勝てないというこの実感は確かだと思います。  流行には勝てないから、それじゃ流行しないような、あるいは流行にならないようにどこかで歯どめをかけなくちゃいけないわけです。ですから、これをやることは本当に自分にとってどういう意味があるかということを考えられる子供を私は育てておかなくちゃいけないんだと思うんです。  それがきょうの私の最初の方の話で、要は、ルーズソックスといえばみんなルーズソックスをはかないと仲間になれないんです。だから、ルーズソックスがいいからとかあるいは短いスカートがいいからというんじゃなくて、これをやらないと仲間外れになってしまうというおそれまで持って子供たちはあれをはいているわけですから、自分ルーズソックスをはかないという子供とか、自分はそんなに短い丈のスカートははかないでもいいというそうした子供たちを私たちは育てるしかないんじゃないかと思うんです。  彼らは、私たちが言ってきた言葉をそのまま逆手にとって、人に迷惑をかけない子を育てるという私たちの考え方が、だから人に迷惑をかけていないじゃないかと、こういう言い方で、今のルーズソックスだってそうですしショートのスカートについてだって恐らくそういうふうに言うだろうと思うんです。人に迷惑をかけているわけじゃないという言い方をするわけです。大人たちは人に迷惑をかけるなと言っているんだから、私は人に迷惑をかけているつもりはない、こう言われたときに、例えば携帯電話みたいなものだってかなり、これだけいろいろ言われていてもやっぱり電車の中でもかける人は幾らもいるし、そうした今の社会の中で人に迷惑をかけるということの意味がもう一つずれてしまっているんじゃないかと思うんです。  だから、その辺のところからきちっと考え直さないと、ただ現象として出てきているそのことをたたいてもうまくいかないんじゃないかなと。流行には勝てないという佐藤さんの悲痛な声がよくわかるような気がするんです。もう本当に根本的に私たち社会の組み立てを変えていかないといけないんじゃないかなと、こんなふうに思っています。
  29. 松村龍二

    ○松村龍二君 ありがとうございました。
  30. 堀利和

    ○堀利和君 きょうは本当にありがとうございます。  まず、佐藤先生にお伺いしたいんですけれども、今や学校において子供たちには保健室というのは大変緊急であり重要なところだと思います。  そこで、子供たちが保健室に来る前に、教科を教えている先生あるいは親あるいは友達になぜ行けないのか。あるいは、相談なり悩みを打ち明けても結局聞いてもらえない、思うような対応が返ってこない、そういうことなのか、そこのところをお聞きしたいと思います。  それで、吉川先生には二つお伺いしたいんですけれども、一つは、先に結論的なことを私なりに申し上げれば、学校なり地域に、もはや子供たちが隠れる場といいますか逃げる場といいますか、ある意味では安堵感といいますか、それは精神的、心理的なものもそうですし、実際に場所という空間的なものもそうだと思うんですが、どうもそういうものがなくなってきているんじゃないか。  ある評論家もその辺のことを指摘されていますけれども、結局、集団が少子化ということで小さくなるし、大人の目というか社会の目もある意味で非常に子供たちを大切に育てるということで目配りが進む、そういうことの中で子供たちがだんだん息苦しくなってきて、学校なり地域にはいられない、自分なりに開放感といいますか逃げ場として町を求めていく。だから、渋谷へ行っても中高生が結構いますし、地方の都市でも、学校自分が住んでいる場所ではなくて交通機関で隣町に行ったりする。  そういうやはり一つの逃げ場といいますか隠れ場というんでしょうか、そういう安堵感というものを学校なり地域に取り戻す、つくっていくにはどうしたらいいんだろうかなということについて御意見を伺いたいと思います。  もう一つは、異年齢集団で遊ぶというのは大変すばらしいことで、かつてはそういうものが餓鬼大将を中心にあったと思うんです。先生が言われましたように、親なりに対しての信頼、年下に対しては自制心というものを学んでいく。  私なりにもう一つ申し上げますと、頼りにされるという感覚といいますか、子供たちがどうもそこが今やかなり薄らいでいるんじゃないかと思うんです。大人の手伝い、親の手伝いも含めたり、あるいは異年齢の中で餓鬼大将を頼ったり、あるいは今度自分より下の者が自分を頼ってくるという。もう少しかたい言葉で言えば、少子化現象のところでお話しになったように、社会を支える責任感あるいは役割ということになると思います。  やはり子供たちが育つ中で、自分が頼りにされるということで自分を取り戻していく、そういうところというのは非常に重要だと思うんですけれども、そういう意味での御意見を伺えればというふうに思います。
  31. 佐藤紀久榮

    参考人佐藤紀久榮君) 保健室へ行く前になぜほかの人に相談しないのかということでしょうか。
  32. 堀利和

    ○堀利和君 保健室が否定的に頼りないと言っている意味じゃなくて、もうちょっと親なり教科の先生なり友達なりに子供たちが相談や悩みを打ち明けているのか、打ち明けても気に入った対応なり返事が返ってこない、そこで保健室にいわゆる駆け込むのか、その辺の子供を取り巻く環境をどんなふうに見ていらっしゃいますか。
  33. 佐藤紀久榮

    参考人佐藤紀久榮君) 二つあると思います。  一つは、友達にも話したり相談したりするし、担任の先生にも話すけれども、解決しないからじゃなくて保健室にも行って聞いてもらう、あちこちで話をする。  それから、担任の先生には言えないけれども保健室で養護教諭になら言えるということもあるんです、クラスの問題の場合には担任の先生に直接言うとまずいかもしれないというときには。ですから、子供も選んでいるわけです、だれに相談したらよいかということを。  でも、私どもの調査によると、困ったときだれに相談しますかという設問に対しては、大体八〇%近くが友達と書いています。ですから、やっぱりみんな友達は大切なんです。相談相手でもあるんです。  保健室がいろいろな名前で、駆け込みとかオアシスとかいろいろ言われていますけれども、なぜかというと、最初に述べましたように、ほっとする空間だとか、緊張しないでいられるとか、いつでもだれでもどうぞお入りなさいといって戸があいているとか、あるいは本音で話し合える、だからクラスの問題を担任の先生に話すより保健の先生の方がいいとか、あるいは時にはしかってくれるとか、そんなのだめよと言ってもらったりするとか、そういういろいろなことで保健室に相談することももちろんあるし、来るんです。だから、どこにも行かないということではないと私は思っておりますが。
  34. 吉川武彦

    参考人吉川武彦君) 二つの点についてお問い合わせというよりも御意見をいただいたような感じがします。  両方とも私、大賛成です。したがって、本当に隠れる場がない今の子供たち状況というのは、いつでも人の目にさらされているものですから、その人の目にさらされているところから逃げようとするともう自分の家で引きこもっているしかない、こんな状態まで来たのかなと、こういう感じはしています。それは、常に批判にさらされる形で人に見られているというその実感がつらいんだろうと思います。  ですから、自分が何かやりたくて、そして行動して、それによって世間からしかられるのなら別に構わないけれども、もう何かやる前に既にじっと見られていて、何をやるのかを説明させられるような状況というのは、やっぱりちょっと子供たちにとっては大変だろうと思います。  そういうことがない無人称的な場、すなわち、先ほど渋谷の話が出ましたけれども、自分自分でいられるというよりも無人称でいられるような場、そのところが一番安心できるということになると、人間人間とともに生きていかなくちゃいけないのに無人称で生きていくということになりますから、これは決して本来人間のあるべき姿ではないような気がいたします。  それからもう一つは、異年齢集団のことも先ほど言いましたように賛成です。  特に、頼りにされているという感覚というものが大切だというのはまさにそのとおりでございまして、私も先ほどちょっとお話し申しましたように、小さな子供に対して本当に自制心というものが生まれてくるのは、結局小さな子供からあこがれを向けられたり、頼りにされたり、こういう経験を通じて小さな子供とのつき合い方を覚えていくわけです。  これは、小さな子供とのつき合いを覚えるというだけじゃなくて、そこでセルフコントロール、どの程度自分の力を発揮したらば相手自分のことをあこがれてくれるのか、こういうふうにわかっていくわけで、そのセルフコントロールを覚えて初めて同じ年齢の子供同士で競争する。その競争の中で自分特徴をつかみ、相手特徴が理解でき、そして援助したりあるいは自分が援助されるという関係が成り立っていく。すなわち、支えられたり支えたりという関係が成り立つ。したがって、支えたり支えられたりという関係が成り立つためには、どんなことをしても小さな子供とのつき合いの中でセルフコントロール自分自身が獲得していかなければいけないんじゃないか。その意味では、おっしゃっていただきましたように頼りにされるということ、これはすごく重要なことだと思っています。
  35. 田中直紀

    ○田中直紀君 田中でございます。もう余り時間がないようなので、簡単にお伺いします。  保健室への登校の実態からいって平成八年は平成二年に比べて割合が相当大きくなっているということでありますので、引き続き最新の傾向がどういう状況になっているかということ。  それから保健室、養護教諭の関係で、最後に佐藤先生から御要請があったと思うんですが、この中で特に二、三挙げて複数の養護教諭というものの体制が必要であるということについての重要性、あるいは校内体制の見直しと整備、保健室のさらなる整備が必要である、あるいはスキンシップができるような、ヘルスケアができるような体制とか、いろいろ要請があると思いますが、緊急性のあるものが何であるかということをちょっとお伺いしたいと思います。  それから最後に、制度上いろいろ学校法に基づいて小中高養護教諭が配置されているわけでありますけれども、制度上いろいろこれは教育がどこまでできるのか、できないのかというようなこともちょっと触れられておりますが、今後の保健学習、授業として織り込んでいくためにはどこを努力すればいいかといいますか、その辺もちょっとお伺いをしたいと思います。
  36. 佐藤紀久榮

    参考人佐藤紀久榮君) 最新の保健室での利用状況等についてということですが、大体平成八年に出ておりますような傾向で、来室者数は若干ふえているけれども、先ほど述べましたように来る子供たちの相談に一人一人時間がかかるという、そういう相談対応に時間がかかっております。  それから、一時骨折とかいろいろ言われましたけれども、特に骨折が急にふえているとかそういうことはないと思っております。しかし、私の学校も近隣の学校もですけれども、最近クラブ活動を余りしなくなってきまして、特にスポーツ関係も、文化系も運動系も両方なんですけれども、クラブ活動の参加者数が非常に減っておりますので、けがの数ということからいうと減っております。授業中はそんなに数が変わりませんので、結局クラブでのけがというのが減ってきているので、全体としては日本体育・学校健康センターに私の学校の場合ですが申請する数は減っております。そういう状況です。  逆にふえているのが相談と養護教諭が判断したものがふえているという状況です。それから非常に時間がかかる。生徒だけの相談ではなく、担任との連携とか保護者から話を聞くとか、関係機関の方と連絡をとって、あるいはその生徒がかかっているお医者さんとお話をしなきゃいけないとか、そういうことに非常に時間がかかってきている傾向にあります。  次に、養護教諭の複数配置と要望というふうにおとりしてよろしいでしょうか。複数配置はやはり先ほど述べましたように、現行の三十学級以上の学校に複数配置というのではなく、基準を下げていただきたいということが一つ。それから、緊急的には教育困難あるいは生活指導困難な学校に急いで複数入れていただきたいということです。  それで、私どもの全国養護教諭連絡協議会で最新の調査がございます。これは平成十年にやったものですけれども、ここに複数配置の基準をどのように考えているかということで聞いているわけです。みんな二人いたら本当にいいんだけれどもと言いつつ書いた回答が、複数配置が必要だと考える平均の学級数は十四学級以上、子供の数で言うと四百七十人以上というふうに養護教諭は希望しております。  それから、保健室の施設設備の充実、拡充ということですね。相談室が現在保健室にあるという学校は七・七%です。これも私どもの調査なんですけれども、平成八年度にいたしました。外線電話があるという学校が四八%、テレビがある、一三%、ビデオがある、七%、コンピューター、一三%という状況ですので、やはり健康教育というようなことも考えれば、このビデオ、テレビ、あるいは最新の保健情報等が欲しいというようなことからすれば、あるいは近隣の学校とのいろいろな情報交換ということからいっても、コンピューターの設置、それから電話はもう今や必需品になっております。先ほど申し述べましたように、保護者からの相談というのが本当にふえてきているんです。そういうことから考えれば、外線電話も欲しい、それから相談室はやはりコーナーというのではなくて、保健室に隣接した独立した相談室が欲しいというのが養護教諭の要望でございます。  それから三つ目に、制度上のことをお聞きになりました。  保健学習を担当する教諭または講師となり得るという今回の教育職員免許法の改正によりまして、今まではチームティーチングとか、それから特活の指導というような形で養護教諭がいろいろな健康教育にかかわっておりましたが、今後は養護教諭の専門性を生かした分野において、保健学習の中の領域ですけれども、そういうところに活用されたい、参画していきたいというふうに思います。そのためには、やはり研修が必須でございますので、資質向上ということを念頭に置いたそういう研修が必要だと思っております。  それから、つけ加えますれば、ただ専門の研修だけではなくて、教師という立場からいいますと、文化とか芸術とか、あるいは国際社会の理解とか情報とか、そういうことに関する幅広い研修も養護教諭には必要であるというふうに思っております。
  37. 久保亘

    会長久保亘君) 以上で両参考人に対する質疑は終了いたしました。  吉川参考人及び佐藤参考人には、お忙しい中、本調査会に御出席いただきまして、まことにありがとうございました。  本日お述べいただきました貴重な御意見は今後の調査参考にさせていただきます。本調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。  ありがとうございました。(拍手)  速記をとめてください。    〔速記中止〕
  38. 久保亘

    会長久保亘君) 速記を起こしてください。     ─────────────
  39. 久保亘

    会長久保亘君) 引き続きまして、現代の子どもが置かれた社会状況子ども健全育成を図るための課題等について、ジャーナリスト西山明君に御出席いただき、御意見を承ることといたします。  この際、西山参考人一言ごあいさつを申し上げます。  西山参考人におかれましては、御多忙のところ本調査会に御出席いただきまして、まことにありがとうございます。  本日は、本調査会が現在調査を進めております次世代育成と生涯能力発揮社会形成に関する件のうち、子ども心身健全育成について忌憚のない御意見をお聞かせいただき、調査参考にさせていただきたいと存じます。どうぞよろしくお願いいたします。  議事の進め方でございますが、まず参考人から三十分程度意見をお述べいただきました後、一時間半程度委員からの質疑にお答えいただく方法で進めてまいりたいと存じます。  質疑につきましては、あらかじめ質疑者を定めず、自由に質疑を行っていただきたいと存じます。質疑を希望される方は、挙手の上、会長の指名を待って質疑を行うようお願いいたします。  また、時間が限られておりますので、質疑答弁とも簡潔に行っていただくようよろしくお願いいたします。  なお、参考人からの意見陳述、各委員からの質疑及びこれに対する答弁とも着席のままで結構でございます。  それでは、西山参考人にお願いいたします。
  40. 西山明

    参考人西山明君) 共同通信で現在社会部のデスクをやっております西山といいます。社会部のデスクをやって四年になります。その前は大阪社会部のデスクを二年半やって、東京に戻ってまいりました。  取材の範囲は、主に教育という分野で取材を続けてまいりました。それから、八八年にはソウルで語学の研修をして、日本とアジアの問題についても関心を持って取材をしております。  きょうお招きにあずかった趣旨ということに沿って、私が取材をした結果、現在子供がどのような状況にあるかということを話させていただきます。  実は、僕がもともと子供の取材を始めるというきっかけは一九八〇年代の初めであります。一九八〇年代の最初は中学校校内暴力が大変吹き荒れていました。校内暴力が吹き荒れて、先生がある意味で亡くなられたり、それから、子供が体罰で先生に殴られて死亡するという事故がずっと相次いでおりました。この校内暴力がいわゆる警察の導入によって一定程度抑えられて、その後学校では何が起きていたかといいますと、いじめ問題がひそかに進行していまして、一九八四年からいじめ問題が大きく学校の現場で課題になってまいりました。そのいじめ問題を取材する中で僕の子供への取材というのが始まったわけです。  取材といっても、当時、子供に関する考え方、見方について語れるということは大変少なかったというか、新聞でいうとリアリティーがないと、こう言いますけれども、子供の姿が浮かび上がってこないという事態がありました。それはなぜかといいますと、学校というフレームというか、大人、教師あるいは評論家も含めて、子供というのはかくあるべしという形から子供を断罪したり子供を描こうとしていたということがあります。その時点で私たちは、そうではないのじゃないかということで、もう一度子供に直接取材をするということから取材の基本というふうに定めてスタートしました。  ちょうど当時、中野区で鹿川裕史君という子が「生きジゴク」という遺書を残して自殺する事件がありました。盛岡駅のステーションビルのトイレの中で、トイレのふたは閉まっているのですけれども、そのトイレのふたをけ飛ばして首にタオルをひっかけて首つり自殺をするということがありました。彼のポケットの中にはちびた鉛筆が大変ありまして、そのちびた鉛筆を削り取って、当時盛岡はまだ二月で大変寒い時期だったと思います。その少年は鉛筆の先を削り取って、広告用紙の裏側にこの世は生き地獄というふうに書いて、もういじめをやめてくれというふうに言ってこの世を去っていったわけです。  この事件を取材していきますと、いろんなことが見えてくるということがあります。  一点は、子供のポケットのもう一つの中にはウォークマンが入っていました。ウォークマンの中には、当時テレビでは大変人気があった「夕やけニャンニャン」というテレビ番組があるのですけれども、そこの「真っ赤な自転車」という、二人でどっかに行こうねという少女の歌声が聞こえてくるのですけれども、それをヘッドホンに当てまして、その歌のところで切れていました。  トイレにはもう一つ、「週刊明星」という当時子供たちに人気がある雑誌がありまして、そこにいじめの問題をたくさん子供たちは投書していました。いかに自分がこの世の中に生きていくのがつらいことであるかということがたくさん書かれていました。そのときに初めて子供の肉声というものがなかなか外に出ていないということを僕は痛感したわけです。  鹿川君のいじめ事件を取材して間もなく、何が起きたかというと、当時、岡田有希子さんという、松田聖子さんと同期なんですけれども、その岡田有希子さんが四谷四丁目にありますサンミュージックの屋上から飛びおり自殺をしました。その後、子供たちは約百人にわたって各地で高いところから飛びおりたり、あるいはいろんな形で自殺をするという痛ましい事件が相次ぎました。  そういう事件が続いていく中で、子供たちの取材をずっと続けていくとどういうことが見えてくるかといいますと、子供たちはこの世にいてもいいのかどうかということを大変疑問に思っている。つまり、この世に生まれたことを肯定的にとらえている子供が大変少ないということです。それでいて、学校あるいは家族の中ではきちんとした、外から見ると何の変化も見えない。見えないですけれども、心の内側では生きていてもいいのかというつらさを大変抱えているということが見えてきました。そういうつらさを抱えた子供を実は十何年間にわたって僕はフォローするという作業を結果としてやったわけです。当時出会った子は今は三十歳ぐらいになっています。  我々のジャーナリズムの仕事というのは、輪切りといいますか、今起きていることを伝えていくという作業のために、時間を川のようにして考えるという考え方がなかなかとりにくい。部署が、セクションが変わっていくと、もうその取材は途中で終わってしまうということがあります。そういう取材の手法を僕はやめまして、そこで出会った子供たちをロングタームで考えていこうという取材の手法もとりました。それで、子供たちが三十歳ぐらいになっていくまでずっとインタビューを続けていきます。それは毎日というわけではなくて、あいたときに少しずつ重ねていくというふうなことなんです。  そういう子供たちが今お母さんになったりあるいはお父さんになったり、それから社会の中に入ってきているんです。そういう人たち自分の生きがたさといいますか、生きがたさというのはなかなか説明しにくいんですけれども、僕が言うときの生きがたさ、こういうのはかくあるべしというものを自分の中に持っているんだけれども、そこになかなか到達し得ないとか、あるものに到達し得ないで自分を何て情けない存在であるかと、こういうふうにして痛めつけるというときに感じる生きがたさということです。  ある子供は摂食障害といいますか、拒食症や過食症になっていったり、それからある時期には自分の手首を切っていくということがあったり、ある子供はアルコールや薬物におぼれていったりということもあります。一方で、ある人はきちんと家庭生活を営むということがありますけれども、お母さんになって子供ができたというときに、子供を殴ってしまう、どうしても子供を愛せないという形でいたぶってしまうということも出るようになってきました。そういう人たちの話を聞いていて、これは一体どういうことなんだろう、どこに問題があるんだろう、一体これは何なんだろうという、わからないまま取材を続けていました。  一方で、実は東京都の精神医学総合研究所というところでも同じような問題を抱える大人たちの問題をずっと臨床研究を続けているスタッフたちがいました。斎藤学さんという、いわゆる酒癖といいますか、アルコール依存症の家族の問題を研究しているスタッフたちがいました。  それで、アルコール依存症の家族からはどんな子供が生まれてくるのか。これまで言われていた言われ方は、非行とかという形で激しい暴力を表に出す子供が生まれてくるように言われていたんですけれども、実はアルコール依存症の家族というのはとても静かな子供たちを産むということが言われています。静かな子供たちを産むというのはどういうことかといいますと、周りの人の顔色に極度に適応しようとして生きていく、つまり周りの人から外れないように生きていこうとしているということがあります。  アルコール依存症のうちは、アルコール依存症の患者さんが例えばお父さんだといたしますと、お父さんは大変飲むわけです。それで、飲んでくるお父さんを実はもう一人支える人が、イネーブラーと言うんですけれども、お母さんがいます。お母さんというのは妻です。妻が夫を支える。その支え方はどういうのかといいますと、実はアルコール依存症という方は飲んで家の中を混乱させていくわけですけれども、その混乱を回避するようにお母さんは絶えずお父さんの動きを注目していく、関心を奪われるということがあります。そうすると、お母さんは絶えずお父さんをコントロールしないといけない、こういうことになります。お父さんが一体どうしているのか、今帰ってこないけれども、どこで何をしているのかということが大変気になります。そうすると、お父さんのことばかり気になって、自分のことではなくてお父さんのことが主語になって生きていくということがあり得ます。  そういう家庭子供が育ってくると、幾つかのことがわかってきました。子供は実はオギャーと生まれてくるときには無力の存在なわけです。無力の存在の子供がどういうふうにして生き延びていくのか。こういうふうに考えますと、子供は生まれたときは全く性別も選ばれていません。それから名前もないわけで、もちろん親も選べないということがあります。その意味でいくと、生きる力というもの以外は一切受け身の存在であります。そういう無力の存在が混乱した中で生きていこうとするときにどうするかというと、自分の足場は家族しかないわけですから、家族を支えようとして生きていこうとするわけです。ところが、家族にこの世にあなたは生まれてきて本当にいいんだよ、こういうふうにウエルカムをされないということになってくると、大変いつも排除されているという形になります。そういう子供が出てきているということがわかりました。  それで、そういう子供たちが例えば家の混乱をコントロールして静めようというときには、責任をとる役といいますか、家族の混乱を絶えずおさめて、子供のときにまるで父や母の役割をとって生きているわけです。それから、家の中が冷たい雰囲気が流れていたり、ある会話が途絶えたりするという緊張した状況になると、まずいということで子供はピエロの役をとってお笑いをやります。そういうことが少しわかってきました。  それで、そういう子供たち大人になって先ほど言いましたように家族を持ったりあるいは社会に出ていったときに人との関係がうまくとれない、こういったときに、どうしてなんだろうというふうに自分を振り返ってみたときに、初めて親の影響下で自分が育ったんだ、それがどうも自分が原因であるということがわかると、自分はこの世にいてはいけない、こういうふうに思っていた人が、自分はこの世にいてもいいのだ、こういうふうに肯定されるということがあります。そういう肯定する言語をアダルトチルドレンと、こういうふうに言います。  これまで日本では余り人を肯定することというのはありませんでした。つまり、日本の戦後を含めて経済成長をもたらしてきたエネルギーは、あなたはだめだという、つまり欠如感を指摘することによって人のエネルギーを喚起してきました。いつもラインを引いて、ここに到達しないあなたはだめというふうにしてバーを設けて押し上げてくるという生き方が私たちの主流な生き方でした。実はそういう欠如感というものが必要ではないんではないか、もうこれからはそういうことで人は励まされたりして生きていくという時代ではなく、まずは人を肯定していかなければいけないんではないかというのがこの子供たちの、つまり大人がアダルトチルドレンというふうに認識して提起した問題になるわけです。  もう一つは、家族は親が支えるというふうに言われていたんですけれども、実は子供が支えているということがわかってきたわけです。子供が先ほど言いましたようにお父さんとお母さんの関係を絶えず見ながら自分の位置を決めていく、こういうふうになってくるわけです。  親は、子供を育てるのは大変よ、うちの子は何て大変なんだろうと、こういう言い方をしますけれども、無力の存在として、受け身の存在としてこの世の中に誕生した子供にとってみれば、この世界は大変つらいことになってきているということです。  それで、なぜそういうふうにつらいという力が働くようになったのか、こういうふうに言いますと、実は多くの子供たちには生まれてから、いわゆる分割線と、こういう言い方をしますけれども、大変厳しい視線が与えられます。これを査定とも言います。生産的な視線とも言います。つまり、子供は何かの役に立つ、こういう発想が大変強化されてきたということがあります。その強化される視点というのは、もう一つ考え方を含めると、教育家族というものが大変誕生するようになってきたということがあります。  学歴社会というふうに言われていますけれども、僕は団塊の世代で、昭和二十四年生まれです。僕の父や母は中学や高校しか出ていません。だけれども、いわゆる団塊の世代が大学に行くころ、進学率は一七%ぐらいにアップしていきます。六〇年のときに七%ですから、かなりハイピッチで進学率はアップしていくわけです。それから、さらに三五、今は四〇%ぐらいになっています。いわゆるバブルの時代にも、経済状態が少なくともよくなったせいもありますけれども、四〇%を超えるようになってきます。  つまり、どういうことが言えるかといいますと、僕たちと同世代か少なくとも下の世代のお父さんやお母さんが今の子供たちを抱えているわけです。そうすると、高学歴の父や母を今度は子供が超えていく、こういうふうになりますと大変負荷がかかっていくということになります。  それともう一つ大事な視点は、先ほどアルコール依存症のところで妻の役割というふうに言いましたけれども、実は七〇年代、大学を卒業してから女性の人が就職できたかというと、大変就職が厳しい状態にあって、四年制の大学を出ても就職するということが大変難しかったです。それで、男たち社会に出ていって自己実現という力を発揮してやっていくところで、一方でお母さんになっていくということがあります。その中には、多分大学を出て自分の仕事というものを持って働きたいというお母さんがいたかと思うんですけれども、そういう人たち家族の中に封じ込められていくということがありました。  それで、封じ込められていくとどういうことが起こるかというと、人は封じ込められると恨みを持つわけですけれども、この恨みというのは子供に注がれてしまうという一つの結果が子供の中に出てくるわけです。つまり、男たち社会に出てほぼ家に帰らないという事態の中で、お母さんと子供関係、親子の関係、縦の関係が軸になってきます。そうすると、お母さんは自分が果たせなかった夢を子供に乗せていくということがあります。頑張れということになりますけれども、そのバーのラインが大変高いラインに設定されていく。お母さんも、四年制の大学あるいは短大を卒業されていたりすると、大変子供に厳しいバーがはめられてくる。  それと同時に、企業と学校の価値観は今ほぼ同じになりつつあります。それは選別の視線と言ってもいいかと思います。選別の視線というのは、あいつは役に立つか立たないかということです。つまり、生産力として役に立つか立たないかというのは、企業がそういう視線を持ってもそれは仕方ないということがありますけれども、学校も同じようにそういう選別の視線になってきて、なおかつ一方で家族もそういうふうに社会の影響を受けて選別の視線を子供に注がれたときに、末端にいる子供はどういうふうにして生き延びていったらいいのか。生きる逃げ場が大変なくなっていくというふうなことがあります。  それで、振り返ってみれば、どの大人たち子供時代というのはどこかに逃げる場をきちっと持っていたということがあります。どこかやみがあったり暗やみがあったりして、そこに入り込むことによって嫌なことをちょっと逃げることができます。つまり、そういうやみというものが今の社会は大変なくなってしまって、全部同じ視線で子供に注がれていくということがあります。  それと神戸事件とかナイフの殺傷事件、金属バット事件と、こういうふうに見ていきますと、多くの子供たち行動の引き金になっているのは祖父や祖母というものがあります。  先ほど言いましたように、父や母の視線というのは社会の視線をもろに受けて、子供を役に立つ視線というふうな形で生産的な視線を浴びせますけれども、祖母や祖父は多分そのままでいいんだという受け入れ方をするんではないでしょうか。中には孫がもっとしっかりという家庭もあるかと思いますけれども、少なくとも価値は二つ家の中にありました。つまり、祖父母の視線と生産的な視線と二つあって、子供はつらいときはおばあちゃんの布団の中に入ることによって救済されるということもありました。そういう救済される場を家族の中で持たなくなってきてしまったというふうなこともあるかと思います。そういう状態を僕は余白がない子供社会、こういうふうに言っています。学校にも余白がなくなってしまいました。その中で子供は大変生きづらい状態で生きているということが見えてくるということがありました。  そういう見え方をなぜするのかといいますと、先ほど言ったように、大人になったアダルトチルドレン、自分の生い立ちをもう一度振り返ったときに、生きづらかったことは、子供のときにこんなことがあったというそういう視点というのは、今を見る子供視点として導入されてきたときに、子供というのはオギャーとこの世に生まれてきたときに大変つらいところに今あるんだなということが見えるということでもあります。  では、家族はこれからどうなるのか、こういうふうなことでもあります。それで、子供少年事件を含めて大変クローズアップされてまいりました。  子供はなぜ問題行動を起こすのか、こういうふうなことがあります。子供は苦しいと大まかに言って三つ行動を起こす、こういうふうに言われています。一つは病気になります。それからもう一つは、薬とか薬物ですけれども、アルコールの中に逃げていきます。もう一つはフィクションの中に逃げる、こういうふうに言われています。架空の世界にどんどん入っていくわけです。つまり、現実からどんどん浮遊していくという言い方ができるかと思います。子供はそうやってつらい現実を生き延びていくんですけれども、犯罪も、そのフィクションを突き詰めていくと、その中の一つとして現実とフィクションの区別がつかなくなってくるという世界に生きているときに暴力という形も出てきてしまうということがあるわけです。  そういう犯罪とか病気とかあるいは不登校という形で出てきたものをどういうふうにして私たちは読むのかというと、子供そのものが悪いという考え方は取材の結果あるいは多くのスタッフとの研究の結果余りしません。子供そのものが病気であるというのは、近代の考え方なんですけれども、子供関係を持つ方に問題があるという言い方をします。つまり、子供が問題を起こしたときには子供関係を持った大人たちがどこか病んでいるというふうに考えた方がいいのではないか、こういうふうな考え方です。その考え方を突き詰めると、実は家族の中で夫婦の問題というのが今後大きな課題になってくるんではないかというふうに思います。夫婦関係の問題というのが子供にとても大きな影響を及ぼしていくということが言えるかと思います。  それで、夫婦関係をシステムとして変えていくというか、つらいお母さんがいるからつらい子供が出てくるし、つらいお父さんがいるからつらい子供が出てくるというふうに考えた場合、問題が子供の中に出てきたときには、そういうつらいお母さんやお父さんが気軽に相談できる場があると一番いいんです。  ところが現代社会は、企業の中でもあるいは学校でも大変そういう場が少なくなってしまいました。そういうつらいお父さんやお母さんが子供の問題を抱えたときに相談できる、そういう場が今カウンセリングの場としてありますけれども、実際上はカウンセリングは普通のサラリーマンの給料で行くのには大変高いです。初回一時間で八千五百円ぐらいいたします。普通三十分で六千円ぐらいですか。これに保険がきかないわけです。資格、カウンセラーの国家資格という問題もありますけれども、そういうところでお母さんやお父さんがつらいときにどこかに相談に行けるという場所があれば、それも気軽に安いお金で行けるという場があれば、大変救われるのではないかというふうに思います。  医療費が大変高騰しているというふうに言われていまして、日本の医療の根本は本人が悪いという言い方で大変問題なんで、この間も伝言ダイヤル事件等で大変話題になりましたけれども、若い人の間には向精神薬というのが大変出回っています。そういう薬、一部は病院に行ってもらってくるという薬も出回っているわけです。その意味で考えていくと、本人を悪いというふうにしてそこから薬をとっても繰り返していくだけなわけです。むしろ周りの関係性を変えていくということによって、医療費も少なくできるし、今後高齢化社会に入っていったときに、多分、介護の問題というふうになっていったときには夫婦で見合うという形しか出てこないんではないでしょうか、日本で。  そういうことを考えても、これからの子供が提起している問題というのは、家族の中で夫婦のあり方をもう一度生きやすくする、もう一度見直すというふうな形になるのではないかというふうに考えています。  長くなって申しわけございません。僕の話はこれで終わります。
  41. 久保亘

    会長久保亘君) 以上で西山参考人意見陳述は終わりました。  これより参考人に対する質疑を行います。  質疑は午後五時ごろまでをめどとさせていただきます。質疑を希望される方は、挙手の上、会長の指名を待って質疑を行うようお願いいたします。  それでは、質疑のある方は挙手をお願いいたします。
  42. 田中直紀

    ○田中直紀君 田中でございます。  新聞記者として第一線でいろいろな事件に遭遇され、また取材をされてきたということで、興味深く伺いましたけれども、いろいろな事件の中からその報道のみならず、長いタームで一つの流れとして取材をされてきたと、こういう前段のお話がございました。  そういういわゆる今の子供を中心とした虐待、校内暴力時代から現代の社会的な中での虐待あるいは犯罪というような一つの大きな時代の流れが現象としては出てきているわけですが、諸外国と比べて我が国で特殊な流れがあるのかどうか。どちらかというとアメリカ文化のような流れの中で、虐待の問題も数年前に相当アメリカでは問題になり、それが今日、日本もそういう時代に突入をしてきたということであります。離婚の問題についても、所得が大変上がってきた中で離婚率がふえてきたり、いろいろそういう高度社会の中で生まれてきた流れと、それから我が国のいろいろな制度の中から生まれてきた問題というのと大きく二つ分けて、事件とのつながりでその辺がかいま見られるような印象があればちょっとお伺いしたいと思います。
  43. 西山明

    参考人西山明君) いろんな形があって、一概にこれとこれはヨーロッパ型、これは日本型とはなかなか言えない部分があるのではないかと思います。幾つかの共通した土壌というのがあるかと思います。  最近、フランスでは子供自殺が大変大きな話題になっています。この自殺する子供というのは、実は生活レベルが一定程度上といいますか、生活がそう苦しいという家庭ではなくて、中産階級の上を目指しているそういう家族の中で起きている自殺も見受けられています。  それから、アメリカやイギリスではいじめというものがずっと起きていたんです、日本も起きているんですけれども。先ほど言いましたように、アメリカの中でいじめというのは、正義と不正義の関係というよりも構う構われる関係子供がとても孤独状態にいるわけですけれども、そういう子供が出会ったときに起きる一つ関係性の病、こういうふうに言われています。アメリカとかイギリスでもそういう子供たちがいるということです。  それから、神戸事件一つのティピカルな例として報道されていますけれども、同じような凶悪事件というのはアメリカでもありますし、それから欧米でもあります。一つのこういう事件なり子供たちいじめなりというものが日本だけの土壌で起きたかというと、多分そうではないだろうということも考えられます。それは、いわゆる高度消費社会と言われる社会の中で、私たちは大変他人の視線といいますか、他人からどう見えるかということで消費活動をしているわけです。その消費活動をする中で絶えず自分というものの存在というのに気づかされていくということがあります。この自分を何とかということを考えたときに、私というものの居場所なり私をどういうふうにして人と関係を結ばせていくのか、こういうことが大変困難な時代に入っているということが言えるかと思います。  そういうところで、子供たちが小さいころからこの世に生まれていいというふうに育たないで、ある意味で、とても社会の視線なりそれから社会の要求に極度に適応させられるように育っていったというところでは起きてくるというふうなことも言われています。  もう一方、日本の社会の中が、一つのかじ取りの中でいえば、家族がどっちの方向に行くのかということが大変難しいかと思います。社会全体も難しい。つまり、日本という社会のティピカルな共同体という部分が崩れていって、新しい欧米型にモデルとして動いていくのか、それとも私たち社会が第三の道を歩くのかというところでいえば、どういう方向に歩いていくのかという大枠のかじ取りのところを考えていきますと、家族もどういう関係性が生きやすい関係性をつくっていけるのかというところで悩んでいるということが言えます。  その意味でいくと、女性の問題というか、お母さんがどういうふうにして自分の生きる場を確保していくかという部分についていえば、かなり日本の場合は確保されていないというところで、どうしても密着型のお母さんと子供関係が出てこざるを得ないということがあるかと思います。そういう部分で起きてくることというのもあり得るのではないかと思います。  神戸事件では、少年はお母さんの期待を極度に背負っていたということがわかっています。その中で、例えばお母さんが自分の生きる意味を、子供ばかりではなくて、違う自分の場をもう一つ持ったときに、逆にいくと子供の方が楽になる。人は幾つかの道を持つ、選択の幅を持ってくると楽になるということがあります。一つしかないときにはその関係の中にしがみつくということになりますので、そういう意味では日本の家族の中にはしがみつく関係性というものが依然強いということもあるのではないかと思います。大枠に言うと、そんな形になると思います。だから、これはこっちで、これはこっちじゃないと言うのが大変難しいかなというふうに思います。  だから、今大変混乱している、混乱といいますか見えにくいというのも、多分日本の社会なり家族がどういう家族をつくっていこうかという過渡期であるというふうに考えているようなところです。
  44. 松岡滿壽男

    松岡滿壽男君 松岡でございます。現場で実際に取材しておられる参考人ですから、非常に臨場感のあるお話をいただいて、ありがたいことだと思っております。  一つは、アダルトチルドレンの話ですけれども、アダルトチルドレンは、要するに成長していったときにどういう社会人に変化していくのか、それがちょっとよくわからないんですが、最近特に就職もなくなってきているけれども、親やじいさんたちの財産があるので成年になっても働かない。いわゆるかつての明治、大正時代の高等遊民的な無気力な人たちがふえてきている。文化人と言ったら言い方はいいですけれども、定職につかずに生活しているという人たちが多いんですが、ACが成長したときにそういうふうになっていくのか。それを防ぐためにはどういう手だてが実際に期待できるのかというのが一点。  もう一つは、先ほど吉川先生のときに熟年離婚の問題でちょっと質問させていただいたんですが、そのときに、夫婦関係というものの役割が固定化してきているということなんですね。だから、役割分担で来ていて心のつながりはないんだと、その辺が一つ大きな問題として浮かび上がってきておると思うんです。  それで、実際に今の状況を見ると、家族の中でも、それでは心のつながり、夫婦以外、子供たちとはあるのか、あるいは育ての親たちとの間にはあるのかというところを考えてみると、現在の日本の病巣というものがそういう心の問題という部分に一つありはせぬかという感じが非常にするんです。そうすると、最終的にはやっぱり宗教心とか、そういう部分まで延ばしていかないと解決できない問題がありはしないか、生きることは何か、死とは何かということになってくると。その辺についての先生のお考えをちょっとお伺いしたいということです。  それから第三点は、初めて伺った話ですが、確かに全体的に高学歴化で学卒がふえてきていると。それで、御主人の方は社会的に就職とかそういう場があったけれども、奥さんが大学は出たけれども就職できない。それが家庭に閉じ込められたときに、子供に対する教育とかいろんな面で恨みといいましょうか、いろんな不満というものがうっせきして子供にかかってきているというようなお話がございました。家庭の中に封じ込められてしまう。  これを解決するためには、これからもいや応なしに高学歴は進んでいくと思います。子供の数が減っておるわけですから、これから大学の方も大変ですから。そうすると、そういう形で高学歴で行ったときに、この問題を解決するためには、そういう女性の就業の場というものをきちっと受け皿として用意すればある程度そういうものが解決できるのかどうなのか、あるいはもっとほかの解決の手段があるのかどうか、そういうことをちょっとお伺いしてみたいと思います。
  45. 西山明

    参考人西山明君) まず一点目について、アダルトチルドレンがふえていくとどうなるか、こういうことなんですけれども、一つは、アダルトチルドレンというのは、気づかない人は気づかない人でオーケーで、多分、自分が生きづらいというか、自己認知の言葉であって、例えば医者があなたは胃潰瘍ですよとか肺炎ですよと、こういうふうに他者が診断する言葉ではなくて、自分が気づくんですね。自分が気づけば、それで自分もこの世にいてもいいというふうにできてくるとそこから活動が始まってくるという考え方なんです。  それはなぜかと言いますと、子供はオギャーと生まれたときに、先ほど言ったように受け身の存在なんです。受け身の存在でありますから、一回、親がこの世に生まれてきてもいいという受けとめ方をするというところがみそなんです。それで、おまえはこの世に生まれてきていいんだよという受けとめ方を一回されていくと、そこから他者というものが生まれて、責任が発生してくるという考え方でもあります。  それで、先ほど言われましたように、確かに今、就職しない、いわゆる通称プータローと、こういうふうに呼んでいたり、フリーアルバイターというふうに呼んでいたり、そういう若者が大変ふえてきていることも事実です。それで、実際上そういう形で生活していけるわけです。  では、アダルトチルドレンというふうに自分が気づいた人というのはどういう人かと、こういうふうにいいますと、実は、今四十代、五十代のサラリーマン、それからお年寄りの人も結構ふえてきました。例えば、六十歳代の主婦が老人介護という形で母とかかわるというふうなことの中で、自分はなぜまたこの母とかかわらなければいけないのか、つらいな、こういうふうに思ったときに、自分はこういうふうにして小さいころ母にウエルカムをされなかったのにもかかわらず、私が母をまた面倒見ていかなければいけないのか、そういうふうな気づき方をする人もいます。  それから、若い人たちでいえば、家庭生活を含めてきちんと営んでいるサラリーマンの方もいます。実は自分が何でこうやって企業の中で夜っぴいて仕事をオールナイトでできちゃうのかということです。ワーカホリックというのも、これは回転しているときはいいんですけれども、ワーカホリックがストップしますと、ある意味でオーバーヒート状態になりますから、とってもつらいことになります。そのときに初めて、おれは何でこんなに体をぶち壊すために働いてきたんだろうと、こういうふうなことを顧みたときに、自分は、つまり自分のむなしさといいますか、自分が生きてきたつらさみたいなものを見ないようにするためにほかに目を転じて走り回ってきたんだなという気づき方をする人もいます。  それで、先ほど言いましたように、高等遊民的な若者たちもふえていますけれども、一方、既成の家族なり社会、あるいは学生をやりながらアダルトチルドレンと気づいて、それで家族を維持し、そして企業の中で何とか持ちこたえているという方もいるわけです。  御存じかと思いますけれども、米国のクリントン大統領自身も自分の生い立ちについてかなりカムアウトしています。自分がなぜこういうふうにつらい部分を背負っているのかということを、あの大統領選の中で自分の小さいころのアルコール依存症のお父さんに育てられた生い立ちを言うことによって、それは一つのプロパガンダという部分もあったのかもしれませんけれども、つまり自分の生きづらさというのを外に出していくということがあります。欧米なんかでは自分がつらいときはつらいと言ってもいいんじゃないか、こういうふうなことで、そういうことをカウンセラーの人に相談をしたりするということも日常的に行われてきています。  だから、社会の変化に伴ってということも事実でありまして、これまで余り生き方というのが主題になることはなかったわけです。これまでは戦争があり、病気があり、そして貧困がありました。幸いなことに日本はこの三つを克服して現状に到達しているということがあります。こういう現状について言えば、かなり世界の中では恵まれたところにあるというふうに感じています。  その恵まれた中で、次にどういう問題が出てくるかというと、こういう生き方みたいな、人間の質の問題が出てくる。つまり、より一層人といい関係を持ちたいというときに浮上してくるというふうな問題でもあります。  その意味で、アダルトチルドレンと認知する人がいなくなれば、そういう社会ができることは好ましいけれども、逆にいくと一〇〇%完全な家族というのはあり得ないわけで、近代の家族というのは何らかの矛盾をたくさん背負っているわけですから、そこの部分でアダルトチルドレンというふうに認知する人たちは多分ふえてくるのではないかと思います。これを防ぐ手だてということはちょっと考えられないのではないだろうか。むしろ、逆に高等遊民みたいにして暮らせるという今の社会、またアルバイトをしても暮らせる、こういう部分とアダルトチルドレンと人間の質としてちょっと違うかなというふうに考えています。  それから、熟年離婚の問題についても言えるかと思います。  これまで、子供のことをやってきますと、いつも親と子という縦の関係にずっと注目していたんですけれども、実は横の関係夫婦関係が非常に子供たちの発達に影響を及ぼすということがわかってきて、一種の宗教みたいな形であるのか、こういうふうなことを先ほど言いました。先ほど、僕は、子供はどうやって生き延びていくかというときに、一つの生き延び方としてフィクションがある、こういうふうに言いました。子供たちはどういうときにフィクションに潜っているかというと、父と母がシビアな状況にあるときに布団の中に潜って架空の世界にいるんです。それから、少女漫画の世界にいたり映像の世界にいることによってこの現実、父と母の緊張を回避するということがあります。それはフィクションとしてはとても魅力のあるものです。  ところが、フィクションというのも一方で怖い部分がありまして、ある意味では、昨今問題になりましたオウム真理教みたいなフィクションといいますか、そこに集まってくる子供たちに幾つかインタビューしてみると、そういうフィクションを大変抱えている、フィクションからおりられない子供たちもたくさんいて、そういうフィクションといわゆる宗教が結びつくことの一方の問題点もあるのではないかというふうに思います。  と同時に、考えてみますと、宗教というのは僕らも含めて戦後教育の中では取り入れることがありませんでした。宗教について考えるという時間も余りなかったです。高校になると倫理社会ということで欧米の考え方なりアジアの哲学を勉強しますけれども、小さいころから宗教ということについて考えてこなかった。  それは、私たちはどういうふうにして生きていったらいいのかということ、極端に言うと、あるカウンセラーの人は、小学校のときにもう少し子供を肯定する授業があってもいいのではないかと。つまり、生きていくのがつらい子供たちがいたときに、肯定してあげることがあれば子供はもっと楽になるのではないだろうかと。それは、宗教という形をとるのか、道徳という形をとるのか、あるいは別な形をとるのかわかりませんけれども、何らかのそういう場を私たちは持たないと、子供は大変つらいところにいるのではないだろうかというふうに考えています。僕の知識ではそれを宗教と呼んでいいのか、宗教じゃないのか、そこのところはよくわかりません。  それから、高学歴について先ほど指摘がありました。もう一つは、高学歴と同時に、今経済成長が御存じのようにそう上がっていくわけではないですね。僕らの団塊の世代というのは、ある意味ではとても恵まれていまして、行け行けどんどんの右肩上がりの経済成長の中で生きてこれたということが、社会の後押しによって生きていくみたいなところがありまして、結構つらい部分もあったんですけれども、むしろ社会のシステムがそういうふうに動いていたおかげでどんどん活動ができた、それから学歴も高いというところに到達し得たということがあるのかと思います。  ところが、女性が封じ込められたことによって家族というか女性の見る目が子供に一極集中していくということがあるという言い方を先ほどしましたけれども、では就業の場が確保されればその一極集中はなくなるのかどうか、こういうことについていえば、なくなる方が強いのではないだろうかという気はいたしております。  つまり、ここではかなり男性の方が多いかと思いますけれども、奥さんと会話をなさったときにうまくコミュニケートできないという問題が幾つか出てくるかと思います。それは、金を稼ぐというか、つまり男は金を稼いできたものだという形の中で、女性が大変申しわけないという形、負荷を背負わされているということがありまして、そういう部分が母親をもっと苦しめているということがあり得るかと思います。
  46. 松岡滿壽男

    松岡滿壽男君 ありがとうございました。
  47. 中原爽

    ○中原爽君 いただきましたレジュメの中で、アダルトチルドレンについて定義をされておられます。みずからの生きづらさの理由を探し求めるときに、親の支配の影響も認めて、私はこの世にいてもいいと自分を免責する言葉である、こういうふうにおっしゃっておられます。こういう状況が起こるというのは、一人っ子がふえたということに原因があるのかどうか、これをお聞きしたいと思います。  というのは、兄弟姉妹が多ければ一人一人の子供に対する負荷といいますか、そういったものは分散するわけでありますので、一人っ子であるということは、その子供にとっても一人でありますけれども、親から見ても一人なんです。親と子の関係が一対一の関係で成り立っているという中でこういうような現象が起こるのかどうか、そこをお聞きしたいと思います。  それと、この状態から生き延びるというお話でございますけれども、生き延びるときに、別のレジュメのところで子供の新たな居場所の御説明がございました。この新たな居場所ということを今後どういうふうに考えたらいいのか。こういうアダルトチルドレンの状態の者がふえていくというときに、新たな居場所を与えるということが必要だと思いますけれども、この新たな居場所というのは何を考えたらいいのか。  結論的に申し上げると、要するに、子供たちが巣立ちができていない、動物や鳥でいえば、そういう状況に今あるのかというふうに思います。  したがって、くどいようですけれども、一対一という、一人っ子という状況の中でこういう現象が起こるのかどうか、それと、この現象を直すための新たな居場所をどう考えるべきか、この二点を伺いたいと思います。
  48. 西山明

    参考人西山明君) いわゆる一対一という関係の中で起こりやすいと思います。家族の中に親と子のかなり緊張関係があれば当然出てくる。ただ、その場合も難しくて、先ほど言いましたように、それは妻と夫との関係も影響してくるわけですから、一人っ子でも夫婦関係が少なくとも楽しく過ごされていればそういうことは起こり得ないということもあるわけです。条件として、一対一の条件というのは起こりやすい条件があるというふうに言えるかと思います。  参考までに、戦後間もなく生まれた方で、五人生まれた方の中でも自分がアダルトチルドレンというふうに認知をされた方もいます。それぞれの状況というのは、それぞれがうまく機能していない家族の中で起こり得るということだけは言えるかと思います。  それから、子供は生き延びるというふうな言い方をずっと僕はしています。子供というのは結構大変だなと思っているんですけれども、新たな居場所というふうに言ったときに、僕たちあるいは私が考えている居場所というのは、学校家族という一つの枠組み以外のところでそういう関係が結べる場があればいいということなんです。それは、これまではお年寄りがいたり、地域社会の中にそういう受け皿があったんですけれども、受け皿がない状態であります。できれば、新たに地域社会の中でそれぞれのお父さんやお母さんが生きていく場というのをつくることによって生まれてくるということもあるかと思います。  それから、閉じこもっている子供たちも大変いるので、先ほど言いましたように、訪問介護という形が今高齢化社会の中で生まれてきました。訪問介護の人たちが回ることによって、そういう子供たちに外にこういう場があるんだよという情報提供をすることによって出ていくということもあり得るかと思います。  今、不登校子供たちも、そういう場をつくったり、それから映画をつくろうという子供たちの場も生まれています。大人がこういうふうにつくって子供がすぐ出てくるかというと、子供の心もまた大変難しいところで、大人のものにすぐ乗るかというところもあります。ただ、条件として、そういう子供たちのところに届かせる人間の手渡しの情報システムみたいなものがあればそういう場ができていくのではないかというふうに考えています。
  49. 中原爽

    ○中原爽君 ありがとうございました。
  50. 齋藤勁

    齋藤勁君 きょうはどうもありがとうございます。民主党の齋藤でございます。  西山さんが最初にお述べいただいた、きょうの骨子の最後の御提言の中の「まずは子どもではなく「大人へのカウンセリング」が検討されるべき」ということで、安い料金でそういう場所をと、こういうお話で結ばれたと思うんですが、「保険が適用できないカウンセリングに公的な援助を」ということでございますので、ここをもう少し具体的にお話をしていただきたいというのが一つ。  あと、これは御感想でよろしいんですけれども、日にちは覚えていないんですが、ことし一月の日経新聞の一面の「春秋」という欄だったと思うんです。ちょうど二十世紀から二十一世紀に変わろうとしていますけれども、大学の名前が出ていますから言ってもいいと思うんですけれども、東京経済大学の学生さんに、二十世紀から二十一世紀に今変わろうとしているときに、あなたは二十世紀の何年代に戻りたいですかというアンケートをとったわけです。あと理由も書きなさいと。もう一つ、現役の学生さんだけではなくて、大学は市民大学講座というのを併設しているらしいんですが、そこの六十歳代、七十歳代、中高年齢の方にも同じようなアンケートをしているわけです。  この問いかけに対する中高年の人の答えというのは、一九五〇年代とか六〇年代、日本がまだまだ活気があった、そういう目標があったところに自分が戻りたい、こういう率が非常に高かった。  問題は、現役の学生さんの方なんですけれども、十九歳とか二十とか、二十一ぐらいになるんでしょうか、二十前後。その人たちが戻りたい年代というのは、五〇年代、六〇年代はないわけですけれども、七〇年代、八〇年代。理由が、もう一度人生をリセットしたい、やり直しをしたい、こういう率が非常に高かったというので、そのことが日経の一面の「春秋」の欄にあったわけです。  きょういろいろお話を聞かせていただきまして、この子たち、今の二十歳の子が生まれてきた、世代もあるでしょうし、いろんなことも分析をしなきゃならないと思うんですけれども、受験競争をある程度勝ってきたわけですね。今私ども大人にとって、それより年長の者にとって、これからむしろ未来が洋々としているわけですから、何でこの二十の子たちがやり直しをしたいなんということが結構高率で出てくるということについて非常にショックを感じたわけです。  脈絡がなかなかお尋ねすることにつながっていかないのですが、きょうお聞きしながら、今たまたま日経新聞のその欄を思い出したわけですけれども、何かそこら辺、お読みになったかどうか、初めて私の話で聞いたことかもわかりませんが、御感想をいただければありがたいなというふうに思います。  後の方がいらっしゃるのでまとめたいと思いますけれども、最近、私もこういった子供たちとか学校の先生とかといろいろ話し合う機会が多くて、さかのぼるところ、やっぱり原体験、乳幼児、そういうときの家庭生活、地域生活の体験というのが大きなポイントになっていくのではないかというようなことをいつも話します。  町の中から子供の声がなくなったというのは最近の話じゃないんですけれども、そんなことも含めて、家族あるいは地域社会、先ほど中原先生の御指摘にもお答えになっていますが、ここら辺は私は、従来ともすると追いつき追い越せ型の日本のシステムの中で本当に忘れられたところではないかということをつくづく痛感していますので、それは私の意見として申し添えさせていただきます。  御質問に関しましては、最初の提言につきましての大人へのカウンセリングの公的援助、後段の方は御感想で結構でございます。
  51. 西山明

    参考人西山明君) まず、カウンセリングについて申し上げます。  カウンセリングというのは、今カウンセラーの方は国家資格がありません。お医者さんだと国家資格があって、当然それは保険適用との絡みで資格があるわけです。カウンセラーの方は国家資格がありませんから、援助というのは大変難しいというふうに思います。  ただ、現在、親へのカウンセリングがなぜ必要かというと、子供そのものは問題を起こしていません。例えば不登校という問題を起こしたときに、子供そのものを変えるというのではなくて、お母さんの考え方を変えることによって家族関係が変わってきて、家族の中に外から空気が入ってくることによって変わるということがあります。家庭内暴力も同じです。  そういうときに、これまで医療というのは、本人をどこか例えば精神科医のところへ連れていくとか病院に連れていくという形を一生懸命やろうとしていたんです。そうではなくて、先ほど言いましたように、関係性のところで言えば、一番お母さんなりお父さんがつらいんだよと、こうまず言って、そこで楽になっていく方がまず大事ではないか、その意味でカウンセリングが必要ではないか、こういうことなわけです。  その場合、お母さんが行くときに、先ほど言ったように初回が八千五百円なんですね、一時間。それで、五十分一万円、これからずっと続けると一万二千円ぐらいですか、三十分間六千円。グループカウンセリングというグループでやるカウンセリングがありまして、これが大体三千円ぐらいです。  それで、カウンセラーの方に聞くと、例えばお母さんが変わる、それからお父さんが変わるということによって、家族の空気が変わることによって結果として子供が回復していくということが幾つかのケースで報告をされています。その意味でいくと、カウンセラーという公的な資格がないんですけれども、そこに補助ができるという形が望ましいんじゃないか。  それはどういう補助の仕方があるかというと、例えば学校の先生が子供がこういう問題を抱えているようだよと言ったときに、そういう先生の、あるいは教育委員会の指示があれば、指示を受けたお母さんやお父さんについては例えば半分ぐらいは補助をしましょうとか、例えば精神科医の人が学校に行って、そしてあのお母さんが行ったらいいのになというときには、お母さんにこういうお金で安くて行けますよという形でやれれば、より行きやすいものになるんではないかというふうに思います。とりあえず、国家資格がないので、例えば資格があるといいますか、現在、先生とか精神科医とか保健婦さんとか、そういう方たちの指導によって行った部分については公的援助をするということも考えられるんではないかというふうに思います。  それから、先ほどの日経新聞の一月の企画を僕も目を通したことがあります。人生をやり直したいという人は大変多くて、僕は大変いいことだなというふうに考えているわけです。つまり、高齢化社会になっていけばいくほど自分の選択というものがたくさんできるようになってくるということにおいては、そういう場を、選択の幅をどんどんつくっていくような形があればというふうに考えています。それはどんな形になるかわかりませんけれども、過去にさかのぼる形のあるスタイルであるかもしれませんし、新しいスタイルであるかもしれない、こういうことでもあるかと思います。  それから、先ほどの乳幼児のところの問題があります。保母さんに話を聞くと、今保育所が大変な状態になっているんですね。例えば、朝お母さんが保育所に送っていくときには、これまでは泣く泣く別れた子供が、今はほぼ泣いて別れるという姿はありません。子供は後ろを振り向かず保育所の中に入っていってしまう。それで、迎えに行くときは、子供は逆に家に帰りたがらないで保育所の柱にしがみついて泣くという旧来見られないパターンがあります。つまり、家族に帰っていくことが小さい幼児ですらつらいということが現実として生まれている。  保母さんたちのそういうつぶやきというのはなかなか外に出てこないんですけれども、先日、ある市民グループが、保育所も学級崩壊という報道がなされました。つまり、小学校に入る前から子供は愛に飢えている状態というか飢餓状態にあるということも一方で事実ではないでしょうか。そういうときに、先ほど言われたように追いつけ追い越せ型の私たち社会がもう一度見直されるという形があればすばらしいことだなというふうに考えております。
  52. 齋藤勁

    齋藤勁君 ありがとうございました。
  53. 西山登紀子

    西山登紀子君 日本共産党の西山登紀子でございます。  先生と同じ名前なんですけれども、実は私も児童相談所でカウンセラーといいますか心理判定員の仕事を八年間ほどやっておりましたので、一つ一つのケースというんですけれども、そういう子供をずっと追いかけるということについては、先生がおやりになっているのと、場は違いますけれどもよく似たような仕事をしておりました。  その当時とは大分子供たちの様子も深刻さも違ってきているというふうに思いながら今お聞きをいたしておりましたけれども、例えばこのアダルトチルドレンの問題を通じて先生がお感じになっていらっしゃるカウンセリングのシステムの問題です。  先ほどから、非常に相談にお金がかかると。非常に高いですね。私たちは公立の児童相談所ですから、週一回とか週二回だとか、あるいは午後からのプレーセラピーだとかグループセラピーだとかということをやるんですが、それは全部無料でやっています。だけれども、先生の目から見て公設の児童相談所というのはなかなか行きにくい存在なのか。  私がおりましたときには、あらゆる子供の問題の駆け込み寺のように私たちは受けとめておりまして、いろんな問題がもう相談所に持ちかけられてきますし、地域からも学校からも家庭からも持ち込まれてくるんですけれども、先生のイメージしていらっしゃるカウンセリング、いわゆる問題のある家庭に新しい空気を入れたり、第三者として介入してそして子育てについてもう少しお互いに息苦しさを解いていくという、そういうカウンセリングの機関というのは、公設の児童相談所というのはなかなか使い勝手が悪いのか。それとも、もっと児童相談所がそういう子供たちの問題にも取り組むように活動の内容を変えていく、そういう方向も必要だというふうに思われるかどうか、それをお伺いしたいということが一つ。  それから、このアダルトチルドレンの先生の規定、自分の息苦しさの理由は親の支配とか拘束の影響があったというふうに気づくということなんですけれども、子供が成長していく上では必ずや親を乗り越えていきますよね。それで、自我の形成というのが小学校の後半からずっと中学校にかけて、本当にまるでさなぎからチョウがかえっていくように子供たちが大きく自我を形成していく。その過程では、やはりある程度の親の支配と拘束というものについて反発しながら乗り越えて成長していきます。学校のいろんな規制にしても抑制にしても、それを乗り越えながらいくわけです。  このアダルトチルドレンという場合にはそれが非常に異常な形で、あるいは子供がもう生きていられないぐらい深刻な形で影響を与えていたからこそ、こういうふうに後から振り返ってみれば、もうあのときは本当に死んでしまった方がよかったような実感を子供が持って息苦しく生きていたというようなことになっているのだと思うんですけれども、このアダルトチルドレンの現象というのは今の社会で非常にごく少数の子供たちの現象なのか、あるいは非常に広範にアダルトチルドレンの現象というのが広がっているのかどうか、その辺は先生の今までの調査とかお取り組みの中でどんなふうに思っていらっしゃるかというのが一つです。  それから三つ目は、こういう息苦しさについて、子供たちも息苦しいし、家庭もそれから社会も非常に息苦しい中で生きているわけで、私は、子供の心と体の健全な発達という場合には、学校家庭社会、この三つの改善といいますかゆがみを正すということがどうしても必要だというふうに思っているわけです。  例えば学校、本来ならばわかることが楽しくて、子供たちの知的な欲求が大いに呼び覚まされて、そして友達関係もあって、また体も伸びていくという、知育、体育、徳育というんでしょうか、そういうのが非常にある。  ところが、今の学校というのはどちらかというと競争させて、受験競争のために知識を詰め込むというふうになっていて、わかる子供の率というのが本当に少なくなっているわけです。この調査会でも文部省の方から報告がありましたけれども、授業がよくわかるというのが小学校全体で一九・九%しかないし、中学になると四・七%しかない、よくわかるという子供たちがです。あとの子供たちは、大体わかるから、もう半分以下の子供たちはわからないというようなことで取り残されていっちゃって、学校がそもそもわかることの喜びというものから阻害されている。これはちょっと、ここのところのゆがみは大いに正さなきゃいけないと思うんです。  それから、家庭の場合も、先ほどは夫婦関係でいろいろありましたけれども、やはり家庭の中でゆとりがなくなってきているということがあると思います。夕食の団らんの時間というのが、これはある労働組合の調査ですけれども、国民の世帯の中で一割ぐらいしか子供たちと一緒に夕食の団らんをとらない。夕食の団らんというのは、その中でいろんな話ができますし、その中で子供たち人間関係もいろいろ伝えることもできるし文化も伝えることができると私は思っているんですけれども、そういう夕食の団らんがうんと奪われていって家族の会話が少なくなってきていると思います。  それから、社会というところもうんと競争社会になっておりまして、生産活動そのものが例えば競争で過労死になっちゃうようなそういうゆがみを持っていますが、これまた正していかなきゃいけないと思っているわけです。  ただ、正す場合には、では個々の家庭とか個々の学校とか個々人が努力してゆがみが正せるかというとそうではなくて、一つ私が考えておりますのは、やっぱり政治の力によって民主的に、例えば経済活動など一つのルールをつくっていく。  今フランスでは週三十五時間の労働制というのが一つのルールとして始まろうとしているわけですけれども、社会全体のルール、仕組みを政治がリードしながら変えないと、とにかく自由競争で走ったらいいんだというふうになっていきますと、なかなか個々の努力では今のゆがみは変えられないということになって、子供たちをその息苦しさから救い出すということが個々人の努力じゃそれはもうとても無理じゃないかというふうに思っているわけですが、もし政治に何を期待するかというようなことでお考えがありましたら、その点もお聞かせいただきたいなと思います。
  54. 西山明

    参考人西山明君) まず一点目。カウンセリングのシステムについては、現在も僕は「家族漂流記」という形で長編ルポルタージュを始めていますけれども、多くのお母さんが児童相談所に行かれるということもあります。ただ、児童相談所の設置場所がいわゆる県庁所在地しかない、各地にないものですからなかなか行きにくいということもあるかと思います。  それと、児童相談所の方の一つの問題意識の設定の仕方として、家族関係性というところに着目を置いたところがないと、本人が悪いという形になって、本人の病気にしてしまうケースも幾つかあるわけです。確かに、本人の病気という子たちもなきにしもあらずで、そういう場合はちゃんとした処置をしないといけないんですけれども、かなり子供の場合は関係性みたいなところのこじれみたいなことで病んでいる子供たちが多いので、そういう目を持ったところがないといけないかなという意味合いで、児童相談所の取り組む内容ももっと幅広くいけたらなということです。  それと、児童相談所なり保健婦さんなり、それから現在あるカウンセリング、カウンセラーの民間のシステムとどういうふうにして連携していくかという目を持たないと、現代の子供たち家族の介入の仕方というのは大変難しいというふうに思います。ようやっと虐待についてはそういうネットができていますけれども、まだ不足しているかと思います。その意味で、もっと気楽に、気楽にというか普通のお母さんが悩んだときにすっと行ける場所にそういうカウンセリングの部署があるならば、そういうところにどんどん行けるシステムをつくってほしいなということが願いですし、現在の児童相談所のあり方そのものも変えていく必要があるなというふうに感じています。  それから、アダルトチルドレンというのは、先ほど言いましたように大人の問題でありまして、大人が生きがたいときに自分をどう認識するか、こういう一つの非常に形而上学といいますか哲学的なワードなんですね。それで、このワードについて、例えば九五年、僕が初めて本を出したときには、これは難しいから広まらないなというふうに思っていましたら、かなりの勢いで広まりました。びっくりするほどでありました。  手紙も段ボールに何箱分も僕はもらいましたけれども、その多くの手紙の中で言えば、自分が例えば手首を切ったり摂食障害や不登校になったりした。そういう子供たち大人になってもいるわけですね、二十代、三十代に。それから三十代のお母さんたちも含めて、それは全部、私がだめだ、私のせいだと、こういうふうに感じていた人たちが、実はそうではなかったということによってもう一度生き直そうということが生まれてきているということです。  それで、これは自分が認知するので、人数がどの程度かということはほぼ把握し切れませんけれども、そういうこれまで私たちが生きていたことに対して肯定する言語がなかったという意味合いにおいては、大変多くの人が肯定、この世にいてもいいんだいう肯定を手に入れたということは、生きる力を励ましていくというふうな働きをしているんではないかというふうに考えています。  それで、その中で、先ほど言いましたように、成長する段階においてはどんな人も障害があるわけで、それぞれの人は大人になるために多くのバリアを越えていかないといけないわけですけれども、その越えていくときのバリアがとても高いというか過酷なバリアがたくさん家族の中にある。そういう人が気づくという形で、そういうバリアがいつか取れてしまえば、普通の大人になっていってしまうわけです。  それから三番目。学校教育のところの問題が大変大きい問題として依然日本の場合は尾を引かざるを得ないということがあります。今、高校進学率が九七%、大学の進学率が四〇%を四年制で超えています。多くの人たちが高学歴を目指して動いているということですね。その一方で、授業がほぼ理解できていないという形が大変問題になっています。現在、私どものところで高校生で中学校をどの程度理解されているか、今各高校の先生にアンケート調査をして集計中ですけれども、ほぼ三割から四割いけたらいいかなというところです。  それで、今度、先日学習指導要領が改訂されて、かなり教える内容が縮小されてきたということもありまして、少しは子供に負荷が少なくなってくるという形があります。  ただ、もう一つ大きなところは、社会のルール、システムの部分があるんですけれども、子供からいうと勉強する目標が見えてこない社会、こういうふうに言えるんですね。つまり、それはとても難しいんですけれども、個々の子供にとって、これまで社会がダイナミックに動いているときには、こういうふうにしていきたいというやっぱり社会の大きな流れがある。その流れの中で子供自分を選択していくんですけれども、安定してくると、どこも欧米の社会も同じですけれども、つまり勉強する目標が喪失していくということがあります。そのときに、学校教育そのものの問題というのもありますし、私たちが勉強するスタイルというスタイルの仕方も大きく変わってくるような気もします。  それで、子供の場合どういうところがモチベーションで学校に行くのかと、こういうふうに言いましたら、不登校子供たちはほぼ怠けたいからだという言い方をはっきりします。これはとても複雑な言い方なんですけれども、つまり怠けたいからおれは学校に行かないと。一つの反抗というふうにもとることもとれますけれども、つまり学校へ行く目標が見えてこないというところがとてもつらいところではあるなということです。  それは個々人が勝手に決めなさいということもありますけれども、一つ社会の流れの中で言えば、これだけ子供たち学校学校というふうに言われていれば、多分学校に合わない、それから目標に合わない違うことをしようという子供が出てくるのも一つのシステムとしては生まれてくるのかなというふうに思っています。  ただ、本来、勉強したい、こういうことをしたいという子供がいるのにそれを阻害する現実というのが一方にあることも否定できませんし、すべての人がわかるということについてもこれもまた今のシステムでは難しいというふうに考えています。その意味で、学校のあり方のところも、ここをいじればこう行くということが大変難しいかなというふうに考えています。
  55. 沢たまき

    ○沢たまき君 公明党の沢たまきでございます。  いろいろお話を伺って、今諸先生の質問も伺いながら、大事な子供のことでございますけれども、この調査会に来させていただいて、今ずっとこの胸の中にあることは、いろんな先生方にお話を伺いますけれども、それは私が伺っていると、それも大きい小さいは別として枝だなという気がしております。  こういう余白がない子供たち学校へ行っても何のために学校へ行くのかわからないというような子供たちがふえているときに、一体どうしたら学校が楽しいところだと、友達がいっぱいいて、先生もいて楽しいところなんだと思わせるためには、一番の根本は何だとお考えでしょうか。  それから、私が思っているのは、さっき先生が第三の社会ができてくるのかとかいろんなことをおっしゃいましたけれども、新しい文化あるいは新しい文明ができつつある過程でこういうことがあるのかなと思ったりもしております。それをどうお考えか。  それから、生き方とか生きにくいとかとありますけれども、では枝を言わせていただいて、暮らし方をちょっと変えてみたらと。実は私は神奈川県の出身でございまして、川で泳いだり海で泳いだり、別に先生に教わったわけではなくそこで魚をとったりしていた人間なものですから、東京へ出てきてマンションに入ったときには独房かと思いました。これが精神に影響はないのかなという思いがしております。お台場なんかにフジテレビの関係で行きますけれども、夜帰ってくるときにはもうゴーストタウンで、ここに人が、団地があるんだという思いがなかなかいたしません。  こういう中で育った人間は一体どういうヒト科の人間になるのだろうかと、すごく恐ろしい気がいたしますので、こういう現象を文明という視点でどうおとらえになるかということをちょっと伺ってみたい。その中で、では政治はどうやってどういう方向にかじを取ればいいのかなと思っておりますので、ちょっとそこら辺を、お感じになっているところをお聞かせいただきたいと思います。
  56. 西山明

    参考人西山明君) 僕はジャーナリストなので、政策能力とか文明論についてまではなかなか展開できないかもしれません。  ただ、学校が楽しいところであるためには何が必要か、こういうふうに言ったときに、今学校の価値観が一つしかないというか、学校が硬直しているという言い方がよくされます。それは、多くの人たちが学力信仰というふうに言われていますけれども、そういうとらえ方があるんですが、多様な価値が認められる場であればどこかに合う人が必ずいるんです。  大体、単一の生産型社会の場合は、勤勉、努力、まじめということが学校の目標でありまして、これまでは私たちもその目標に沿って一生懸命行くことに何ら違和感がなくて、勤勉、努力、まじめでやれば社会に出ていっていつか社会の中で受け入れられるという一定程度の流れがあったんですけれども、勤勉、努力、まじめが報われないという一つのシステムが一方ででき上がっています。  もう一つ、多様な価値が子供たちの中に高度消費社会の中で生まれてきた。そういう子供たちを受け入れるというのは大変学校の中では難しいんですけれども、学校の中でいろんな先生が存在することが許されるというか、またあらゆる空間がつくられていくということができるならば、そういう居場所としての学校の機能というのは幾らでも再生する方法があるのではないかということがあります。  学校の建物そのものを変えていくという試みも行われていますし、それから授業そのものも、これまで横の壁をぶち壊して楽しい授業をやっていこうという先生たちの試みもあります。それから、多様な子供たちを受け入れるためにいろんな先生が、きょうはこんなことをやりますよというふうな形でちゃんと子供たち説明して、こういう授業をやろうという形で子供たちがついてきたりということもありまして、学校の中でも試行錯誤していますけれども、僕は居場所としての学校の機能を取り戻そうという先生たちの試みも一方で地道に続けられているというふうに感じています。取材の中でもそういう先生たちと出会うことはたくさんありますので、確かにこういう病を背負っていますけれども、そういう人たちの努力がいつか多様な価値を認める学校という形で少しずつ実現していくのではないかというふうに考えています。  それから、暮らしを変えてみたらという言い方は大変よくわかります。少年犯罪の現場を十何年間ずっと歩いて見てくると、やっぱりこれは息詰まるなという団地とか、それから空間の余白がない地域というのがたくさんあります。新しい首都圏、つまり中心部から周辺の部分、そこに新しい住宅地ができるわけですけれども、周辺部分でとても均質な構造なり均質な価値観を持った人たちが住んでいるところでは、とても子供は生きづらいというふうなことを印象として持っております。  これを社会科学的に言うとどういう説明ができるかわかりませんけれども、先ほどマンションを独房というふうにおっしゃられましたけれども、確かにそういう部分があるなというふうに思っていまして、学校を建物から変えていくという試みもありますから、地域そのもののつくり方についても、都市をどうやってつくっていくのかということをもっと考える考え方があれば少しは生きやすい社会に近づいていくのではないかという印象を持っています。ただ、これは印象論なので、社会科学的に説明できるものではないかと思います。
  57. 畑野君枝

    ○畑野君枝君 ありがとうございました。  日本共産党の畑野君枝でございます。  幾つか伺いたいんですが、一つ目に、大人へのカウンセリングの話が先ほども何人かの先生から質問がありましたけれども、例えば行政としてできること、あるいは行政と民間との連携というお話がありましたので、そのあたりでもう少し具体的なお話があれば伺いたいというふうに思います。  私、住んでいるのが横浜市なんですけれども、今幼児虐待の問題など深刻な状況が生まれておりますので、各区ごとの保育所あるいは保健所で子育て支援の集まりですとか保健所での子育ての悩みのカウンセリングなどが始まっております。体制的にはこれからだというふうに思うんですが、そういうのが有効なのかどうかということです。  子育て支援の集まりということで、例えばクラブなども各保健所が組織をして若いお母さんたち子育て中のお母さん方に来ていただいてやっているということなんですけれども、そういうところでは、あるところでは三十五人ぐらいの会員さんがいて、その日は二十三人ぐらい集まると。初めから小さいグループだと、少子化なのでクラブそのものがなくなってしまうということで割と大き目にやっているそうですが、そういう中でお母さん同士がお互い子供も育て合うというような関係がある。  ただ、集会所がないというのが悩みだという声も出ているんです。例えば地区センターとか町内会館だと子供を連れていくとなかなか伸び伸びとさせられないということがあって、そういう子供たちを一緒に育てられるような場所が欲しいというのが異口同音に出ているということなんですが、カウンセリング以外のこういう子育ての悩みに乗れるような公的援助の仕方なども含めて伺いたいと思うのが一点です。  それから二つ目に、家族の問題、特に夫婦のあり方の問題をお話しされましたけれども、解決の糸口というか、その点で先生がお考えになっている点を伺いたいと思います。  最後に、三つ目なんですが、企業への何か提言がございますでしょうか。  というのは、特に父親の働き方の問題というのがありますよね。今、保育園での調査の中でも、最近の若いお父さんたちが二分化しているというか、一つ育児に参加してきているお父さんが大変ふえてきているということと、一方では引き続きかかわらないというお父さんがいらっしゃるということで、私はこういうふうに父親が育児に参加してくるというのは若いお父さんの中では大変いいことではないかというふうに思うんですが、そういう点で伺いたいと思います。
  58. 西山明

    参考人西山明君) 二点目の夫婦のところは聞きそびれました。済みません、もう一度お願いします。
  59. 畑野君枝

    ○畑野君枝君 解決の糸口という点でお考えになっている点があれば伺いたいと思います。
  60. 西山明

    参考人西山明君) 行政にできること、家族の問題と行政のかかわり合いというのを取材していても、大変難しい、こういう部分があります。一方的に行政がかかわるという部分と、それから自主的に民間の人たちがやっていく部分というのがあって、僕は、幼児虐待のネットワークは、ようやく民間の人たちと行政とが手を組んで、かなりネットワークができてきているというふうに思います。  それで、実際上、一月も虐待の取材をしましたけれども、保健婦さんや児童相談所の部分が少なくとも役に立っている。それで、役に立っている人に聞いてみますと、そういう情報を手に入れるということがあるマスコミの情報を通じてという形になっています。できるならば、例えば母親になる人たちの母子手帳と一緒に、子供にどうしても虐待をしてしまうというお母さんたちのための情報、つまり冊子みたいなものがもっと手渡されたらば、それに気がついたときに素早く自分で助けてとSOSを出せるんじゃないかなというふうに思っています。それがないためにひとりで悶々と苦しんでいるお母さんも中にはたくさんいらっしゃいます。  それから、子育てのところで、民間の幼稚園なんかでは、お母さんも一緒に集めてお母さん同士のグループをつくらせて、子育てひとりぼっちでさせないというか、悩みを抱え込ませないという形の手だてを幼稚園ぐらいからやるところも生まれているかと思います。文部省の方でも幼稚園を一つ子育て支援の場にしようというふうな計画もあるようですけれども、と同時に、民間の人たちとしてはなかなか難しいでしょうが、情報のネットワークにもう少し子育てを終えたお母さんたちもつながって、その子育てを先輩として支援していくというシステムがこれまた地域でできていくことによってより地域が活性化していくということもあるわけで、そういう地域もあるわけです。  そういうことはなかなか行政だけでは難しいということがあるので、私たちの仕事でもありますけれども、そういう民間の努力というのをうまく伝えていって多くの人を励ましていくという形も必要ではないかと私は考えています。  それから、夫婦の解決の糸口というか、私も夫婦をやっているわけですけれども、大変難しくて、先ほど三番目のお父さんの働き方の問題になってくることがあります。  一方で、労働時間が短縮になって家にお父さんが帰ってきて家の中がうまくいかなくなっちゃうというケースも結構ありまして、これまたとても一概に言えないというのが人間のおもしろいところかなというふうにしちゃうとだめなんですけれども、つまり、これまで関係を築けない人が急にというふうにいってもうまくいかなくなるということもあるんです。  多分、ここのところはこれから言わなきゃいけないこと、今、既存の夫婦の問題と同時に、これから新しく夫婦になられる人たち、新しく家族形成する人たちは、子供を産むということについてもう少し大変なことなんだぞという認識、産む産まないということじゃなくて責任という問題、どういうふうにして私たちは子への責任を考えていくかということを夫婦の共通の課題として持たないといけないんではないかというふうに考えています。  家族というのは何のためにあるのか、こういうふうに考えてみますと、子供が育っていく場であるというふうに考えるならば、子供育ちやすいような場をつくっていくということは、双方の責任のエリアで、そこを担えるか担えないかということはかなり厳しく問われてくるというふうに思います。と同時に、例えば夫婦が出発していくときに、出発しやすいような社会環境なりができてくればというふうに思います。  それから、最近、若いお父さんの中で地域に戻ってくるという形が幾つかの試みとしてあります。ある意味で、長時間労働が減ってきたことによって地域の中にお父さんが戻ってきたり保育園の中で一緒に活動したりという形で、夫婦に共通の話題ができたりするということもあり得るかと思います。  最終的には僕は父の問題というのが、父は家族の中で一体どういう役割があるのかというところがだんだん見えなくなってきています。その意味で、父とは何かという問題、そういう考えを深めながら、企業の側なり行政の側に過剰な労働については一定程度の歯どめをかけていくという思考がない限り子供の苦悩がふえて拡大再生産されていくということであれば、最終的には企業や国にとってもマイナスになっていくというふうな認識をされて、五十年後、百年後の未来を見渡す見方をしてほしいというふうに思っています。
  61. 畑野君枝

    ○畑野君枝君 ありがとうございました。
  62. 山本保

    ○山本保君 公明党の山本保です。  私は八六年から九四年まで厚生省の児童福祉専門官をやっておりまして、まさに情緒障害、登校拒否、非行関係をずっとやっておりましたから、考えてみますと多分どこかですれ違っておったんだなという気がしております。そこで、西山さんのお話を伺っていまして、非常にそういう点でおもしろかったですね。  最初に、感想といいますか、ほかの先生方にもということでちょっとお話ししますと、先週、愛知学院の二宮教授に来ていただいて、向社会的な行動をどうやってつくるか、プロソーシャル・ビヘービアという言葉が出てきましたけれども、ああいう考え方というのは心理学の中でも新しい考え方です。きょう西山さんが言われた、子供たちが、周りの人間はすばらしいが自分はそれに値しない人間だという、そういう今までの伝統的な指導体系といいますか、非行少年などを主にしたそういうものを、いや、そうじゃない、私は非常にすばらしい人間なんだ、こういうものをいかに生かすかという、これも新しい手法ですね。それから、子供自身に問題があるんだ、または子供の過去に問題があるんだ、こう言ってその子供を一生懸命分析したり治そうとしてきた臨床心理に対して、家庭全体、子供の生き方全体、関係を変えていくんだと。これは一般に家族療法と言われるわけですけれども、私もそれを盛り込んだ施策を一つつくったりしたんですが、そういう点できょうのお話は、ジャーナリストだからと、こうおっしゃいましたけれども、非常に具体的で大変現場の苦しいところをよくつかんでおられるなというふうに思いました。  そこで、私は、質問というか、特に質問でもないんですが、二点お聞きします。  先ほどの児童相談所についての注文は全く私も同感でございまして、実は厚生省の中で一生懸命それと同じことを言って、だめだだめだ、変えろ変えろと言っておったものでございます。  一つは、学校教育の中で最近スクールカウンセラーという形で非常に安易に置かれているなという気がするんです。多分感じられていると思うんです。つまり、本来カウンセラーというのは本当に全存在をかけて対応するわけですから、一人だけが特別非常勤講師扱いでぽんと置かれてなるものでもありませんし、こういう専門職というものが学校という中でどうやって育っていただけるのか、また、スーパーバイザーというその専門職をまた助ける方をどうやって置くのか、こういう議論を全く文部省は考えておりませんでしょう。  そういうこととか、また、あり方全体を変えるんだというカウンセリングの基本を考えたときに、学校全体をどう変えるんだと、こういう力と権限と能力というものを当然スクールカウンセラーというのは本当は要求されるはずであるのに、全然そういうふうには考えられていないんじゃないか。これは私の感覚なんですけれども、先生はまた現場の側から見られていろいろあると思うんです。  きょうの質問で私がお聞きしたいのは一つだけ、学校の中のカウンセラーみたいなものはどのように考えたらいいのかということをちょっとお聞きしたい。  それからもう一つは、これはちょっと大ざっぱなことで、できればそんな実証的なことでなくてお気持ちだけお聞きしたいなと思いますのは、先ほどから学校のいわゆる価値観を変えなくてはならないというお話、またその建物なんかもというような話もあったようです。私自身は、この少子社会子供の数が減ってきた社会の中、そして親子関係のいろんな緊密もしくは子供の多様な心が何らかの意味でうっせきするか爆発するかまたはという、こういう時代において、学校という社会的な機能自体が変わらなくてはならないんじゃないかというふうに思っているんですけれども、この辺はきょうのお話のもう一つ先のことなんですが、もし可能ならばちょっとはみ出ていただいて、学校全体の社会的な機能はこのように変わるべきではないかということについてお話をいただければと思うんです。
  63. 西山明

    参考人西山明君) まず一点目。スクールカウンセラーというのに文部省の予算が大変つきまして、各学校に入るようになりました。  その前に、保健室にいる養護の先生、先ほど養護の先生がいらっしゃっていましたので多分説明があったかと思います。養護の先生プラススクールカウンセラーという形で入っていっているんです。それで、先ほど言ったように、今スクールカウンセラーの先生は先生をカウンセリングしているというのがかなり実態に近い形です。  それで、子供というのはカウンセリングにはみずから行きません。子供は、自分は悪くないというふうに思っています。先ほど言ったように、中学ぐらいになるとまた少し問題が発達段階で変わりますけれども、小学校ぐらいにカウンセラーが入っても子供がみずからカウンセラーのところに行くということはあり得ません。それから、中学校、高校でも、それはよっぽどすてきな方がいらして、それでそこに引き寄せられて行くということはあるけれども、カウンセラーがさあいらっしゃいと言ったら、さあ行きましょうというふうにはなかなかならないんです。それはなぜかというと、自分の中に問題の所在が明らかになって初めて人は相談に行けるということなんです。だから学校の先生が行くという形に今なっているわけです。  それで、スクールカウンセラーが入ったときには、多分学校の中に新しい空気を入れるという意味合いがあったかと思うんです。カウンセラーの意味合いというのは、多分家庭内暴力の場合でも、外から新しい空気を入れる、窓をあけさせるというか、窓をあけてガス欠状態の空気に新しい空気を入れるという意味合いがあるかと思うんです。そこのところで人間関係がばらけていくということのおもしろみがあるかと思うんですけれども、なかなかそういうふうに今ならないです。  それで、実はスクールカウンセラーというのが大変難しい位置にいて、例えば子供をカウンセリングした内容を校長先生、少なくとも教頭先生に報告するというふうに言ったら、守秘義務、プライバシーが守れないし、子供も信用しないという形ですね。これは極端に言うと、企業の中で僕が苦しいと言ってカウンセリングを受けた内容を課長がもろに知ってしまうということになって、あいつはこうだからこうだと、こういうふうな形になってくるのと同じだと思います。そこの守秘義務の部分でいえば、大変難しい立場に置かれているということは現実としてはあるかと思います。では、スクールカウンセラーの人たち意見が職員会議の中で多く通るかというと、それもなかなか通らないという部分もあります。うまくいっている部分もきっとどこかにあるかと思いますけれども、多くはそういう障害を抱えているのではないかというふうに考えています。  だから、スクールカウンセラーというものが親まで含めて包括的に見ていけるということであれば変わるのではないでしょうか。つまり、子供だけを変えようと思っても多分うまく機能しないというふうなことが言えるかと思います。もう少し幅広く変えていかないと予算が生きないのではないかなという印象を持っています。  それから、先ほど言ったように学校社会的機能というふうに言われた場合、もともと学校というのは、戦後間もないころを思い浮かべてみると、地域の中にあるというふうなことがあったかと思います。そういう意味合いでいくと、日本で今後地域というのはどういう地域があり得るかということは、都会の中では大変難しいという気がいたします。今は学校が多くの人に門戸を開放するという形になっていますけれども、例えばお年寄りと一緒に子供が碁を打っていたりするという学校もあるわけで、つまりその意味でいくともっと開かれていく、最終的にはだれもが行ける地域の居場所の一つになっていければいいなというふうに思っています。多分そこまで行くためには日本人の偏差値、学力観みたいなものを変えていかないと学校というのはなかなか変わらないというふうには考えています。  その辺のところは僕は余り深く考えませんでしたので、これから自分で考えていきたいというふうに考えています。
  64. 山本保

    ○山本保君 ありがとうございます。
  65. 久保亘

    会長久保亘君) 以上で西山参考人に対する質疑は終了いたしました。  西山参考人には、お忙しい中、本調査会に御出席いただきまして、まことにありがとうございました。  本日お述べいただきました貴重な御意見は今後の調査参考にさせていただきます。本調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。  ありがとうございました。(拍手)  速記をとめてください。    〔速記中止〕
  66. 久保亘

    会長久保亘君) 速記を起こしてください。     ─────────────
  67. 久保亘

    会長久保亘君) 次に、先般本調査会が行いました委員派遣につき、派遣委員の報告を聴取いたします。成瀬守重君。
  68. 成瀬守重

    ○成瀬守重君 委員派遣の報告を申し上げます。  去る二月十七日から十九日までの三日間にわたって、久保会長、長峯理事、前川理事、山本理事、畑野理事、日下部理事、阿曽田理事、松岡理事、松村委員、円委員と私、成瀬の十一名は、鹿児島県及び宮崎県において、教育、雇用及び福祉等国民生活経済の諸問題に関する実情について調査してまいりました。  以下、調査の概要を申し上げます。  まず、鹿児島県について報告いたします。  本県は、県民一人一人が能力や経験を生かしながら、生涯にわたって安心して生き生きと個性豊かな生活を送ることができる、「うるおいと活力に満ちた鹿児島の創造」を基本理念とする鹿児島県総合基本計画第三期実施計画を強力に推進しているところであります。  まず、教育や学習については、心が豊かで生きる力を備えた青少年育成子供の多様な個性や能力を生かし、地域に開かれた魅力ある学校づくり等を推進しております。特色のある施策としては、年齢の異なる青少年グループとなってボランティア活動等を行うひっとべ若者郷土(ふるさと)生き生き事業、地域の小中学生が一週間程度公民館等で共同生活を行うふるさと学寮事業、国際感覚を身につけさせるための英会話早期教育や海外派遣、生涯学習を推進するための県民大学中央センターの設置等を行っております。  産業・雇用対策については、新しい企業や事業の育成、産業の高付加価値化等に積極的に取り組んでおります。このため、新しい企業や事業を育成するため、資金、ノウハウ等の面から総合的に支援する起業化支援センターを本年四月に設置する予定であるとのことであります。また、本県では、電子産業、農業、観光業が発展しており、これらを三本柱として産業の振興、雇用の拡大を図っております。  福祉や医療については、少子・高齢化等に対応して各種施策の充実に取り組んでおり、特色ある施策として、「おとうさんの子育て読本」の配布による父親の子育て参加意識の啓発、ふれあいプラザなのはな館での高齢者の学習や健康づくり、地域間・世代間交流等を行っております。  次に、視察先について申し上げます。  まず、株式会社鹿児島頭脳センターを視察いたしました。本センターは、地元二市十二町における「高度で個性豊かな地域産業の創造」を目指す国分隼人テクノポリスの中核施設の一つであり、研究開発、人材育成等を通じて地元企業の技術高度化を支援しております。新製品の開発のほか、利用者によるSOHOづくりの動きもあるなど成果を上げているが、経営状況は厳しいとのことでありました。  次に、鹿児島県工業技術センターは、エレクトロニクス等工業技術に関する相談に対応し、県内中小企業の技術的よりどころとして機能しております。サツマイモを原料とするワイン風のお酒の開発、竹や杉を活用した集成材の製造等地域資源の高度利用、斬新なデザインの仏壇の開発等地域産業の活性化支援、異業種企業間の交流に力を入れております。  さらに、鹿児島大学地域共同研究センターは、地元企業、国公立試験研究機関との共同研究等を通じて、シラスバルーンを活用した新素材の開発等に取り組み、地域産業の活性化に寄与しております。  次に、鹿児島県女性就業援助センターは、就職を希望する女性の就業を支援するため、講習会の開催等を行っております。定員増など受け入れ体制の整備が課題であるとのことでありました。  本県での最後の視察先である鹿児島県立霧島自然ふれあいセンターは、豊かな自然の中で、登山、キャンプ、陶芸等を通じて、青少年健全育成と生涯学習の推進を図るための拠点施設であります。厳冬期の霧島山中でひとり寝に挑戦して、生命のとうとさを学び、自立心を養う事業を実施するなど、魅力ある事業づくりに努めている様子がうかがわれたところであります。  引き続きまして、宮崎県について報告いたします。  本県は、たくましい地域産業づくり、魅力あるふるさと圏づくり、生きがいのある長寿社会づくりを三本柱とする第四次宮崎県総合長期計画を精力的に実施しているところであります。  まず、教育については、学校家庭、地域の連携、一貫した道徳教育や多様な体験活動の実施等によって心の教育を推進しております。また、現時点では公立として全国唯一の中高一貫校である宮崎県立五ケ瀬中学校高等学校を設置しており、心豊かでたくましい人材が育っており、大きな成果が上がっているとのことでありました。  産業・雇用対策については、宮崎テクノリサーチパークの整備に続き、本年三月に宮崎フリーウェイ工業団地が完成する予定であるとのことでありました。経済活動の国際化に対応して、シンガポール、台湾等の駐在員の配置、台湾での企業誘致セミナーの開催など先進的な取り組みを行ってきたが、その成果の一つとして、台湾企業の本県への進出が実現する可能性が高くなったとのことでありました。  福祉や医療については、新しい総合保健センターが本年末にオープンする予定であるなど、保健・福祉関係の中核施設の整備を推進しております。  次に、視察先について申し上げます。  最初に、橘保育園及び橘デイサービスセンターを視察いたしました。  本施設は、乳児や障害児の保育、午後八時までの延長保育、休日保育など利用者のニーズに対応した多様な保育に取り組むとともに、高齢者に対する入浴、給食、健康チェック等を行っております。本施設では、保育園と高齢者デイサービスセンターが一つの建物に併設されており、子供と高齢者が運動会等の各種行事を通じて交流するという先駆的な取り組みを行っております。私どもが伺いました際にも、子供と高齢者が一緒にゲームを楽しんでおりました。子供と高齢者の交流によって、施設内に家庭のように穏やかな雰囲気が満ちて、子供と高齢者の双方によい効果があるものと推察されました。  さらに、清武町立大久保学校についてであります。  本校は、校舎に杉材をふんだんに使い、多目的ホール、ワークスペースも有しているほか、学校家庭、地域が一体となって子供健全育成を目指す学社融合を積極的に推進しております。また、地元住民による生涯学習、レクリエーション等のために各種施設を開放するなど、意欲的で先駆的な取り組みを行っております。私どもが伺いました際にも、地元のボランティアの方々が講師となった中国語、手話等の授業や幼稚園の子供との交流を行っておりました。本校では、教員が子供を愛することに徹し、地元住民も子供健全育成に熱心であるため、子供が生き生きとしており、不登校子供もいないとのことでありました。  次に、宮崎大学地域共同研究センター及び生涯学習教育研究センターについてであります。  地域共同研究センターは、地元銀行を仲介役として活用し、地元企業との共同研究を行っております。  生涯学習教育研究センターは、県、市町村等と連携して公開講座の開催等を行い、生涯学習の推進に貢献しております。県内の公民館、島根大学、島根県内の公民館等と連携して衛星を利用した公開講座を実施するなど、先端技術を活用した事業も展開しております。  派遣の最後の視察先である宮崎職業能力開発促進センターは、求職者や離転職者に対する職業訓練等を行うものであります。訓練の科目や内容を絶えず見直すとともに、在職者に対する訓練を勤務への支障が少ない平日夜間や土・日曜日にも行うなど、利用者や企業のニーズに的確に対応するよう努めております。  最後に、今回の派遣に当たりまして、鹿児島県、宮崎県並びに関係各方面の皆様から多大な御協力をいただきましたことに対し、厚くお礼申し上げて、報告を終わります。
  69. 久保亘

    会長久保亘君) 以上で派遣委員の報告は終了いたしました。  本日はこれにて散会いたします。    午後五時十分散会