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1999-02-24 第145回国会 参議院 国民生活・経済に関する調査会 第3号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成十一年二月二十四日(水曜日)    午後一時開会     ─────────────    委員異動  二月二十三日     辞任         補欠選任      円 より子君     小川 敏夫君  二月二十四日     辞任         補欠選任      小川 敏夫君     竹村 泰子君     ─────────────   出席者は左のとおり。     会 長         久保  亘君     理 事                 長峯  基君                 成瀬 守重君                 前川 忠夫君                 山本  保君                 畑野 君枝君                 阿曽田 清君                 松岡滿壽男君     委 員                 国井 正幸君                 斉藤 滋宣君                 田中 直紀君                 日出 英輔君                 松村 龍二君                 小川 敏夫君                 竹村 泰子君                 堀  利和君                 藁科 滿治君                 沢 たまき君                 西山登紀子君                 清水 澄子君    事務局側        第二特別調査室        長        村岡 輝三君    参考人        千葉大学教育学        部教授      明石 要一君        愛知学院大学情        報社会政策学部        教授       二宮 克美君     ─────────────   本日の会議に付した案件 ○国民生活経済に関する調査  (「次世代育成と生涯能力発揮社会形成に  関する件」のうち子ども心身健全育成に  ついて)     ─────────────
  2. 久保亘

    会長久保亘君) ただいまから国民生活経済に関する調査会を開会いたします。  まず、委員異動について御報告いたします。  昨二十三日、円より子君が委員辞任され、その補欠として小川敏夫君が選任されました。     ─────────────
  3. 久保亘

    会長久保亘君) 国民生活経済に関する調査を議題とし、次世代育成と生涯能力発揮社会形成に関する件のうち子ども心身健全育成について参考人から意見を聴取いたします。  まず初めに、家庭社会環境の変化と学校中心とした教育の現状と課題等について、お手元に配付の参考人の名簿のとおり、千葉大学教育学部教授明石要一君に御出席をいただき、御意見を承ることといたします。  この際、明石参考人に一言ごあいさつを申し上げます。  明石参考人におかれましては、御多忙のところ本調査会に御出席いただきまして、まことにありがとうございます。  本日は、本調査会が現在調査を進めております次世代育成と生涯能力発揮社会形成に関する件のうち子ども心身健全育成について忌憚のない御意見をお聞かせいただき、調査参考にさせていただきたいと存じます。どうぞよろしくお願いいたします。  議事の進め方でございますが、まず参考人から三十分程度意見をお述べいただきました後、一時間半程度委員からの質疑にお答えいただく方法で進めてまいりたいと存じます。  質疑につきましては、あらかじめ質疑者を定めず、自由に質疑を行っていただきたいと存じます。質疑を希望される方は、挙手の上、会長の指名を待って質疑を行われるようお願いいたします。  また、時間が限られておりますので、質疑答弁とも簡潔に行っていただくようよろしくお願いいたします。  なお、参考人からの意見陳述、各委員からの質疑及びこれに対する答弁とも着席のままで結構でございます。  それでは、明石参考人にお願いいたします。
  4. 明石要一

    参考人明石要一君) こんにちは。千葉大の明石と申します。生まれは九州の大分県でございまして、昭和二十三年のねずみで、戦後っ子でございます。  きょうは時間が三十分程度と限定されておりますもので、勘どころだけを申し上げたいと思います。  今日、子供がいろんな問題を起こしておりますけれども、その問題の背景を考えていきたい。そこで、戦後の社会史といいましょうか、その五十年間を少し振り返ってみたい。  私は、戦後五十年間を十五年サイクルで考えていきたい。  昭和二十年から昭和三十四年までを第一期と申します。この第一期の生活リズムというのは、年中行事中心生活が来た。お盆、お正月、夏祭り秋祭りという形で生活リズムがありました。非常に緩やかなテンポです。学校で申しますと、第一期の場合は農繁期休みといいましょうか、田植え休みとか稲刈り休みとかがあったのでございます。非常に地域社会が健全で、非常に社会は貧乏だったけれども、やる気満々で、何とか復興しましょうというのが第一期でございます。  第二期になりますと、昭和三十五年から大体昭和四十九年ぐらい。この生活リズムというのは、月単位生活が動いてまいります。産業構造で申しますと、第一期は農林水産業が大体六割、七割ありまして、昭和三十四年あたりからいわゆる第二次産業が五割を超えてきます。言うならば給与生活者が半数を超えてきますから、子供たち小遣いのもらい方も月決めがだんだん出てまいります。第一期は年中行事夏祭り小遣いをもらうとか秋祭り小遣いをもらったのが、第二期から月決めになってきます。  そうしますと、今非常に少年漫画が盛んですけれども、昭和三十四年に「少年サンデー」、「少年マガジン」が発売されます。御承知のように、「少年ジャンプ」は昭和四十三年、「マーガレット」とか「りぼん」というのが昭和三十八年。第二期になってきますと漫画というのがかなり復興してくる。  もう一つお願いしたいのは、昭和三十九年に東京オリンピックがございまして、新幹線が開通します。当時のコピーで「東京オリンピックをカラーで見ましょう」というキャッチコピーがありまして、テレビが各世帯に普及してまいります。白黒テレビを含めまして、第二期になってきますとほぼ八五%の家庭テレビが普及してまいります。いわゆるテレビっ子という言葉が第二期の昭和四十年以降には出てまいります。  ですから、言いたいのは、第二期というのは月決めテンポで始まって、テレビ漫画が普及するのが第二期だと押さえてほしいんです。  第三期になってまいりますと、昭和五十一年から平成三年までで、これはもっとテンポが速くなりまして、週単位生活リズムがふえてまいります。当然企業人たち手帳を持ちますけれども、残念ながら子供たち手帳を持ち始めます。遊ぶ場合に、ちょっと待ってくれと、こう手帳を出して遊びを決めちゃう。きょう月曜日は何とか塾、水曜日はスイミング、土曜日は少年サッカーとか、要するに手帳を持ち始めて遊びを相談するような子供たち、いわゆるスケジュールに追われる子供たちが出てまいります。  それで、いろいろ文部省も考えたんでしょうけれども、平成四年に学校週五日制、これでは困るんだ、不完全ながら学校週五日制を提案してきて、小学校において低学年、一年生、二年生で理科社会科を壊して生活科という教科を設けます。要するに、子供たちが生きる力が乏しいんだ、何とかこのままでは困るんだという形で流れてくるという、これをまず押さえてほしいのでございます。  四番目に「教師生きがい」とございます。今子供たち生活の変わりようを見ましたけれども、教師生きがいも変わってきてまいります。  第一期の教師たちというのは、「社会改革」とあります。要するに農村型教師地域に根づいて、学校自分のおうちがあって職住が一致と申しましょうか、非常に日々の授業も熱心でありましたけれども、授業以外に農村社会青年学級とか子供たちにそろばんを教えるとか、農村の古い体質を改善していくとかいう社会改革というテーマがございました。非常に教師生きがいを持っていた。まだまだ日教組もしっかりしていまして、テーマがあったんです。ですから、思想は違っても、何か村づくりとか町づくりに貢献したという教師がございました。  それが第二期になりますと、六〇年安保がおさまり、社会が安定してまいります。教師たち社会改革というテーマを失ってきます。そこで、教師生きがいとしては教室の中で勝負する。よく四間・五間と申します。坪数二十坪が教室なんですね。四間・五間の教室で勝負しましょうという。だから授業の腕を上げるという。だから第二期は、いろんな意味教育方法、例えば今のTTとかバズセッションとかメディアを使ったいろんな教育方法が第二期に出てまいります。  要するに、言いたいのは、第一期、第二期はテーマは違っても教師生きがいがあったのでございます。それが第三期から、これは教師受難時代と申します、生きがいが拡散してまいりまして、何をやっていいかわからない。それで、保護者が物すごく意識が高くなってまいりまして、保護者教師学校を選べないから、自分としては塾、おけいこを選べる、要するに保護者ダブルスクール観と申します。だから、学校では遊びとか集団生活の、またしつけをやってほしい、読み書き算数地域都市部におきましては塾とか予備校に行かせますよという非常に保護者の目がきつくなってきたのが第三期で、教師生きがいを失ってくる。  それでは困るので、私の提案としては、第四期から授業の腕を上げたり、それからボランティア活動というのもやってはいかがかという提案をしております。  私は野球が好きなのでございまして、この教師三つのタイプを、一期は先発完投型と申します。昭和三十三年、四年に西鉄ライオンズがありまして、稲尾投手という方がおられました、神様、仏様、稲尾様という。彼は九回全部完投したんです。当時の一期の教師たちは、教育すべてを任せなさい、学校教育家庭教育社会教育全部を引き受けた。だから教師様々であったし、先発完投型が第一期の教師たち。  第二期になってまいりますと、教師分業が始まります。ジャイアンツのV9がありまして、当時八時半の男という、大時計がありまして、八時半になってきますと宮田という投手が出てきまして八回、九回を抑えたんです。要するに、野球界でも投手分業が始まりますけれども、学校社会でも、昭和四十六年に学校社会教育は連携しましょう、学社連携と申します、これが出てくるのが昭和四十六年です。教師は、例えば八〇%を学校が責任を持つ、あとの二割ぐらいは社会教育に任せましょうというのがいわゆる分業体制。  第三期になりますと、ますます分業が進んでまいりまして、先発、中継ぎ、抑え。横浜ベイスターズはダブルストッパーを用意しますからね。そうしますと、やっぱり教師学校だけは押さえる。家庭教育社会教育学社融合という言葉が出てまいります。こういう形で非常にテンポが変わってまいります。  そこで、五番目の学校病理という視点をちょっと申し上げたいんです。  第一期は幸いにも学校病理はないんです。社会病理はありました。非常に貧しかったから非行少年とかかっぱらいとかありましたけれども、学校病理は第一期はなかったんです。極めて健全でありました。  それが第二期になってまいりますと、昭和三十二年にソビエトが人工衛星を打ち上げます。これまでの教育を少し反省しながら、経験主義と申しまして、はい回って経験ばかりしているから勉強の力がつかないんだと。それでアメリカと日本が反省しまして、理数科に力を入れてまいりまして、専門言葉で言うならば系統学習、要するに順番算数を教えていかなきゃだめだ、理科もそうなんだという系統学習というのが第二期になって出てまいりまして、有名な学力論争、このままでは学力はつかないんだという有名な論争があって、若干学校教育病理が出てまいりますけれども、まだまだ一期、二期は学校は健全だったと思います。  それが、不幸にも第三期から学校病理がざあっと出てまいります。例えば昭和五十一年ごろ、落ちこぼれ七五三という嫌な言葉がありました。ほぼ二十五年ほど前から、当時小学校で三割、中学校で五割、高校で七割の方が勉強についていけないんだというキャッチコピー落ちこぼれ七五三というのが出てまいります。  それから、昭和五十七、八年ごろ、校内暴力と申しまして、今からほぼ十七、八年前、金八先生の第一期ですよね、たのきんトリオが出てまいりました、あの辺がこの校内暴力なんですけれども、教師に対して抵抗してくる。  昭和六十年ごろに今度はいじめが出ます。これは、御承知のように中野区の葬式ごっこというのがありまして、先生が色紙にサインしますよね、不幸にも。いわゆる六十年にいじめが始まります。そして昭和六十三、四年ごろに、今度は不登校という問題が出てまいります。平成六年の名古屋の大河内君の自殺から、八年、九年、福岡千葉とかで自殺が出てまいります。  言うならば、第三期になりますと一気呵成に学校病理が出てまいります。ということは、第三期というのは、子供たちにとっては家庭地域社会が消えてなくなりまして、学校だけに閉じ込められてくる。学校人間と申します。だから、第三期において一番学校の問題が出てくるということをまず押さえてほしいんです。  次に、いじめの問題がございますから、いじめをどう考えればいいのか。  よく言われますように、いじめというのはいつの時代にもあったんです、私に言わせれば。だけれども、一期、二期、三期でいじめの中身が変わってきたんだということを申し上げたいんです。  第一期のいじめというのは、集落ごといじめがあったんです。例えば夏祭りで闘って、おまえのところ負けたからとか、放課後帰るときお互いの集落いじめて、みそっかすをいじめて、だけれども、いじめられても自分集落の先輩に訴えれば次の日かたきを討ってくれた。要するに、第一期は逃げ場があったんです。だから、まだまだ自殺に行かない。  第二期になってまいりますと、地域社会が消えてしまいますから、学校がだんだん大きく肥大化してきます。そこで、第二期のいじめというのは、放課後いじめなんです。いわゆる中学校部活動があります。例えば野球部に入った場合に、二年生が一年生を集めてけつバットとかいって、おまえの球の磨き方はおかしいとかグラウンドの整備がまずいとか言ってねっちりねっちりいじめたんです。だけれども、一年生は教室に帰れば同級生がいてほっとできた。教室が救いの場であったんです。ですから、いじめられても逃げ場があった。  それが第三期になってまいりますと、一番不幸なのは教室の中のいじめなんです。もちろん教室というのは同学年です。一番居心地のいいところのクラスメートからたたかれていく。要するにモグラたたきなんですね、順番がかわりまして。一番訴えるところの仲間からいじめられますから、逃げ場がない。思春期の場合は教師と親には訴えませんから、まず一番いいのは親友に訴えたいんだけれども、その親友からいじめられてくる。それで、逃げ場がないからこういう不幸な自殺という行為に行ったというのが私の解釈でございます。  それで、具体的にもう少し何が不足しているかということを考えますと、七番目に体験活動。  今、中教審でもいろいろな体験活動を奨励していますけれども、大きく自然体験生活体験、よく中黒のポツが多いんですけれども、私は二つを分けていただきたい。自然体験というのは、例えば少年自然の家へ行って二泊三日のキャンプをするとか山登りするとか川遊びするとかという、これは非日常的なことですよね。生活体験というのは、日常に体験する衣食住とか、まず勉強があります、それから遊びがあります、次に勤労体験があります、生活体験というのが。  第一期は、幸いにも地域社会の中に自然があったから自然体験生活体験ができたんです。それが第二期になりますと、みんな都市に集まってきますから、いわゆる自然体験が消えます。まだまだ生活体験はありました。それが第三期になってまいりますと、第四期も含めて、自然体験生活体験が消えてくる。だから、俗に言う生きる力がないというのは、この自然体験生活体験の欠如で生きる力がなくなってきたというように言えると思います。  そこで、わかったと、そういうふうに子供が変わってきた場合に具体的にどういう対応策をとればいいのかということを私なりに考えまして、きょうレジュメの中の六ページから私の提案を七つほど挙げております。  生きる力というのは、いろんな定義がありますけれども、私は、子供の食べっぷりと遊びっぷりとつき合いっぷり、この三つぷりがそろうと子供たちは生きる力がある。不幸にも学校教育ではこの三つのぷりを教わっていないんです。これまで家庭地域社会では、食べっぷり、遊びっぷり、つき合いっぷり──多分、議員の先生方はみんなこの三つが上手だと思うんですけれども、選挙はこの三つがなければ戦ってこれませんからね。多分、健啖家の方が多いし、遊びっぷりも多いし、つき合いっぷりもあると思います。だから、この三つが今のお子さんたちは非常に乏しいのでございます。  そこで、一番目として、どうしたらいいか。生活体験学校をつくってはどうかと。  福岡県の庄内町という人口が一万弱の町がありまして、町の土地を確保して宿泊場所をつくったんです。子供たちが、小学校四年生、五年生、六年生が一週間その場所に行きまして泊まって衣食住するんです。お米を一升五合持っていきまして、おかず代三千五百円を持っていくんです。そうすると、そこで農園があってホウレンソウとかキャベツをつくる。鶏を飼育して卵をとる。ポニーがいますからポニーを飼育している。朝学校に行って放課後その宿舎に帰ってきます。自分たち掃除をして、洗濯をし、御飯を炊き、そういう生活をやっている。  これは、一週間ですけれども、異年齢で、四年生と六年生の交流もできるし、指導員はいますけれども、ボランティアお母さんもいまして手伝いをするという、まさに生活を丸ごと体験する生活体験学校づくりというのをやっていかないと、もう第一期みたいな生活環境はございませんもので、やっぱり意図的にそういう空間をつくってはいかがかなという感じがしております。  二番目です。二番目は地域内交換留学勧め提案したい。  山村留学というのがございます。都市部の方が、例えば新潟の佐渡とか北海道とか鹿児島に行きまして農村とか漁村に一年間留学します。非常に子供たちがたくましくなってまいります。これはいいんです。だけれども、ちょっと残念なことにお金がかかります。大体平均しますと一月に六万ほどかかります。だから、全部の家庭では山村留学は無理だろうなと。  それで、だれでもできる、山村留学準備段階としては、まず地域内、自分が住んでいる地域交換留学。例えば、小学校五年生の一組があります、三十五人いて、田中君と佐藤君の家が手を挙げて、一週間だけ交換をする。これはお金がかかりません、布団もあり、部屋もありますから。そうすると子供たちは、勉強はするわ、手伝いはするわ、掃除はします。新しい田中君のお父さんお母さんをそばで見て、ああ何ていいんだろうとか、逆にうちに帰ったら、ああうちお父さんお母さんもいいなとか。要するに、ほかの家庭を知ることによって自分たちの立場を理解するという、これはほとんどお金がかかりません。非常に今の家族というのはクローズしています。昔の家庭というのはオープンでしたけれども、今は非常に少子化でクローズしています。こういう形でオープンしていく。  もう一つの利点は、これから少子化になってまいります。今のお子さんはいとこ、はとこを余り持っていないんです、子供が少ないから。非常にもう身内が狭い。こういう一週間だけか知りませんけれども交換留学すると、新しいファミリーをつくれる面がある。そういう意味で、これからの社会においては、多くの方にこういう交換のホームステイですか、それをやっていただきたい。  特に幼児期児童期にお願いしたいんです。幼児期児童期にそういう経験をしますと、その子供中学校へ行って突っ張っていますね、たばこ吸っていますよね、昔宿泊したおじさんから、おい、明石君何やっているんだ、やめたまえと言うと、ああ済みませんとか、たばこを消すんです。昔の自分を知られているとたばこを消すんですけれども、今の社会の場合は、変なおじさんに注意されても頭に来て向かっていく。言いたいことは、幼児期児童期地域社会の中で親戚を含めて知人をたくさん設けてほしいという、それが地域内交換留学勧めとして私は提案していきたい。  三番目でございます。これは商店街アルバイト体験勧め。  今御承知のように、大体人口二万、三万の町では商店街が寂れていまして、シャッター商店街というのが出てまいりました。今の予算が通りましたら、文部省通産省が連携して、あの仲の悪い通産省文部省が連携しまして、通産省中小企業補助金を出す、ソフトは文部省が当たる。二〇〇二年から学校週五日制になりまして、土日休みがある、その土日のときに商店街ボランティアでお手伝いに行きませんかと。子供が働きに行きますと、お父さんお母さんがその姿を見に商店街へ行きますよね。そうすると、やっぱり売り上げに貢献して、お豆腐屋さんとかたばこ屋さんで物を買ってくれますよね。それでその地域社会が繁栄するという利点があります。  私は、それをもう一歩進めたいんです。ボランティアもいいんだけれども、できたらアルバイト体験したらどうか。子供会がございます。また学校でもいいです、生徒会児童会でやってほしいんですけれども。例えば、小学校五年生の子供が八百屋さんに手伝いに行きます。おじさん、私の時間給は三十円ですよと、まず交渉してほしい。それで三十円働いて、一年間に十日間働く。現金授受をやりますと児童福祉法に違反しますから、シールだけを張ってもらう。それを十回分で三百円ですよと。  その三百円を育成会が集計しまして、単位子供会では子供たちアルバイト体験で二万五千円ありましたよ。それを商店街会長さんから為替か何かでもらって、育成者が貯金しておく。その二万五千円を、子供会が集まってきて、これがうち子供会活動資金だよ、年間の活動プランを練ってごらんなさいと。各担当からいろいろなプランを出してもらって、その予算をつけてあげる。それでまた一年間活動する、そういうこともあってもいいし、ある子供会ではその働いたお金子供エイズ基金に寄附してもいい。  要するに言いたいことは、現金授受はだめだけれども、働いた対価を自分で稼ぐんだ。一年間頑張って売り上げが上がれば、また経営者と交渉して、去年まで三十円だったけれどももう十円上げてほしいとか、そういうネゴシエーションと申しましょうか、自分と他人との交渉能力というのが非常に今のお子さんは乏しいのでございまして、そういう意味でいい意味でのアルバイト体験はできないものかと考えております。  四番目でございます。四番目は子供遊び学び情報誌を発刊する。お手元に「ティアオ」というのが行っていると思います。結局、先ほど申し上げましたように、二〇〇二年になりますと土曜日、日曜日がお休みになります。休みになってもいいんですけれども、お父さんお母さん子供たち土日何をして過ごしていいかわからないんです。そこで、実は土曜日、日曜日、地域の中でこんな遊び情報学び情報がありますよということを出していきたい。  今これは文部省から科学研究費をいただきまして試験的にやっておりまして、千葉市と福岡市と札幌市でこういう地域子供情報と申しまして発刊しております。それが結構脚光を浴びまして、千葉市ではセブン・イレブンが九十六店舗ありまして、そこに置いておきまして、福岡はローソンが多いのでローソンでお願いしました。これは有料です。千葉は百円で売りまして、福岡は実験ですから二百円で売っています。札幌は郵便局に置いてもらいました。これは無料です。  要するに言いたいのは、お父さんお母さんたちがだれでも行ける場所に情報誌を置いてみましょうと。千葉で申しますと、二千部置きまして、創刊号は千二百部売れました。当初、私たちは二百部売れりゃいいと思ったのですけれども、結構お父さんお母さん方はこういう情報を欲している。コンビニというのは、やってみてわかったんですけれども、男文化なんです。千二百部売れまして、六割はお父さんが買ってくれました。四割は女性なんです。やっぱり、スーパーというのは女性の方が行かれる。一円でも安い方へ行っちゃう。コンビニというのはちょっと割高だけれども、お父さんたちがこの情報誌を買ってくれたということがわかりました。  文部省が各市町村に補助金を三年間出します。四年目から補助金を打ち切りますから、言うならば各自治体で補助金をもらいながら、あとは自分たちで有料化していい情報を出していく、それで子供たちにまた親御さんたちにいい情報を提供するという活動も要るだろうなと思います。  そこで、今四点ほど述べてまいりまして、次に五番、六番、七番、やはりおうちの問題が大事だろう。  今、全国でほぼ三千八百万世帯ございますけれども、その中でやっぱり家の家風をつくってほしい。今、残念ながら、小さなお盆と小さなお正月がたくさんありまして、日常生活に変化がございません。だから子供たちから、ごちそうさまという言葉が死語に近いんです。そうすると、各家庭で月に一回とかまた年中行事を復活させて、いわゆるリズムのある家庭生活が必要かなと。  そういう意味で家風づくり、古い家風じゃなくて新しい家風でもいいんです、どこにも負けない自分の家の家風があるんですよという、こういう家風づくりというのが一つ大事かなと。とにかく年中行事を興して、そうすると、お父さんは毎週は帰れませんけれども、年中行事の節分とかひな祭りならば帰れるんです。そこでお父さんが登場して豆まきをすれば子供から尊敬される。そういう形の家風づくりが一点考えられます。  六番目、中教審とか教課審を初め、新しい学校づくり、特色ある学校づくりをしましょうというのは、やっぱり校風なんです。多分、先生方が行かれた旧制中学校とか旧制高校、新制高校というのはそれぞれの校風があったんです。校訓とかがありました。今、非常にそういう校風、校訓が消えまして、みんな金太郎あめの学校が多いのでございまして、やっぱり一つは校風づくりをやってほしいなと。言うならば子供たちが自慢できる学校づくり、これが六番目であります。  七番目、地域カラー、地域色を出していただきたい。例えば、地域の憲章づくりとかをやってもいい。  例えば、長野県の県民は県の歌をほぼ全員歌えるんです、「信濃の国」を。松本と長野は仲が悪いんですよ。仲が悪いんですけれども、オール信州では仲がいいんです。「信濃の国」が一番から十三番までありまして、一番二番は全員歌えるんです。これは、子供会でも教えるし小学校で教えます。だから、東京で長野県人会をやったら、一杯飲んだ後に必ず全員で「信濃の国」を歌って帰るんです。だから、冬季オリンピックでもあれだけボランティア活動が熱心で、地域が一体となって頑張っていただける。  だから、ぜひ各県の歌とか県の花とか県の木とか県の鳥とか、まずそういう地域のことを知ってほしい。次に、地域を好きになってほしい。三番目に、地域をよくしてほしい。こういう形で家庭学校地域、これはトライアングルと申しますけれども、それがまとまって町づくりに貢献できると青少年の健全育成が可能かなと思います。  以上、私の持ち時間が参りましたので、この辺で提案を終わりたいと思います。
  5. 久保亘

    会長久保亘君) 以上で明石参考人意見陳述は終わりました。  これより参考人に対する質疑を行います。  質疑は午後三時ごろまでをめどとさせていただきます。質疑を希望される方は、挙手の上、会長の指名を待って質疑を行うようお願いいたします。  それでは、質疑のある方は挙手をお願いいたします。
  6. 松村龍二

    ○松村龍二君 会長の御指名をいただきましたので、質問をさせていただきます。  明石先生のお話、私ども、日ごろちょっと違う分野といいましょうか、こちらの分野のことはやっておりませんので大変新鮮なお話として聞いたわけです。戦後の子供社会史の分析も、戦後を顧みまして非常に鮮やかないろんな分析、分類ができるなと思って感心して聞いていたわけですが、これに対してどういうふうな手当てをするか、こういうお話だったかと思います。  世界の各国が戦後やはり同じような経過をたどって子供の世界が変わってきているのか、その辺についてちょっと先生の御高見を伺いたいと思うわけです。アメリカとヨーロッパ、アジアとその他、アジアでも都会と田舎、それぞれ違うだろうとは想像できるわけですが、これだけ緻密な分析をされるわけですから、世界と比べて日本がどうであったのか、また世界の現状はどうなのかということについて教えていただきたいと思います。
  7. 明石要一

    参考人明石要一君) 基本的に、日本が抱える問題は世界に共通だと思っております。  アメリカの教育学とか教育心理学の学会がございます。学会のいろいろな発表題目がございまして、共通点は二つのテーマがございます。一つは、やっぱり勉強ができない、学力が非常に低下している。それで何とか学力の保証をしなきゃいけないという論文が多いんです。もう一つは人間関係の低下。非常にアメリカというのはつき合いが上手ですね。自己表現がうまいアメリカにおいてさえも他人とかかわっていく力が非常に弱くなってきた。だから、人間関係の低下と申しましょうか、この二つの論文が物すごく今ふえております。これはもう日本も当然ですね。学力の問題もありますし、特に人間関係能力は非常に低下しております。  そういう意味で、いわゆる先発国と申しましょうか、ある程度豊かな社会を体験した国々が抱える共通の問題、言うならば次の世代を育てる。私たちが小さいころ、第一期ですけれども、必ず、例えば野球のバットを構えた場合に、そういう構えは三年早いとか。家庭でもありました。地域社会でも学校でもそういうルール、三年早い、我慢しなさい、そういうしつけを受けてだんだん達成目標で頑張ってきて、結果としては次の世代が育ってきました。それが今の場合に、日本も欧米も含めて、自分たちの世代は非常にハッピーなんだけれども次の世代をどうするかという問題が乏しい。そういう形が欧米に出ました。  もう一つは、家庭崩壊と申しましょうか、いわゆる離婚率が高くなってきている。非常に離婚率が少ないフランスにおいてさえも都市部では二割弱ぐらいまで行っているというデータもございます。日本はそこまで行っていませんけれども、だんだんそういうふうな形になってまいりますもので、私としては、日本だけが特別ではなくて、いわゆる先発国が共通に抱える問題かなというふうに考えております。  以上であります。
  8. 山本保

    ○山本保君 明石先生、本当に以前から子どもギネスですか、いろんな子供遊びということを一生懸命やられて、私も厚生省におりましたときに一緒に仕事をさせていただいたりしました。  普通、学者の場合は子供の問題点ばかり言われて非常に暗い感覚が多いんですけれども、その中で先生は非常に子供の力を信じてそれを遊びという形で伸ばそうという積極的な方法論をお持ちだと思ったものですから当時から注目しておったわけでございまして、私も児童館だとか各施設のプログラムなどにいろいろ活用させていただいたものでございます。ありがとうございます。  きょうは二点ほどお聞きしたいと思っておりまして、両方ともこれから出てくる先生のお話にあったものの少し先の話でございますので、後でまたお答えいただいても構いません。  一つは、地域でのこういうさまざまな活動ということをおっしゃられまして、そのとおりなんですが、私もやっておりまして非常に困りますのは、これを組織したり、組織といっても言うなら黒子に徹して子供たちのこういうものを伸ばしていけるようなそういう専門職といいますか、いわゆる専門性という意味の専門職じゃなくて専門家でいいんですが、こういうものが日本の場合にございません。一方、学校教育には教師という免許状を持った専門家がおり、各教科の専門家であるということがある。  この落差というのは非常に私も感じておったわけでございまして、こういう地域でのさまざまな子供の才賢を伸ばすためにそれなりの一生懸命応援する体制というのをつくらなくちゃならないんじゃないかと思っておるわけなんですが、先生、その辺について何かアドバイスをいただきたいという気がいたします。  もう一点は、先生は御遠慮されて御自分の専門分野だけをお話しされたわけですが、当然学校教育のあり方について厳しい批判を感じていると思います。  私どもが先週、宮崎の小学校を視察に行きましたときに、子供たちがまさに遊び型のいろんな体験学習をやっておりました。しかし、それをやればやるだけ今の例えば教科書などはとてもやる時間がないし、またそれには役立たない内容になっているという気もいたします。  例えば学校ということで、これはたくさんありますから、具体的に三点ほどもし答えていただければと思うんです。  一つは、いわゆる教科というものはどうあるべきかということ。それから次に、先ほど松村委員のところでもお答えになりましたが、日本の今の道徳教育などで、まさに徳目主義になっていまして、先生がおっしゃったようなアメリカで言うソーシャルスキル、人間づき合い、こういうものがアメリカでは相当プログラムとして発達しておりますけれども、日本では全く使われておりません。この辺の道徳教育のあり方といいますか、いわゆる道徳ではなく社会的な道徳のあり方というものについてはどうだろうか。三番目には、これは学校の運営全体について地域との、この中にも少し出ているわけですけれども、いかに学校地域と連携していくのかという課題といいますか、何かこの辺について、いろいろ申し上げましたので、今全部お答えいただかなくても結構でございますが、幾つかで結構でございます、教えていただければと思います。
  9. 明石要一

    参考人明石要一君) 非常に大事な御質問をいただきましてありがとうございました。  第一点、要するに地域のプレーリーダーが非常に今欠如しておりまして、先ほど申しましたように子供会というのがあります。これはほぼ三十年ほど前に連合会ができまして、昭和四十年代は物すごく子供会は活発であったのでございます。残念ながら、当時三十歳代の方が頑張ってきたんですけれども、今大体六十を超えておりまして、昔はよかったんだ、これだけ子供会はよかったんだけれども、若いお父さんお母さんはなかなか参加しないんです。子供育成者の落差が非常に大きくありまして、いわゆる子供とともに汗を流す若いプレーリーダーが非常に欠如しております。ですから、山本先生がおっしゃるように非常に困っております。  実は、少し自慢させていただきますと、千葉大学の教育学部、この四月から生涯教育課程を三十名の定員をつけまして青少年教育コースといいましょうか、言うならばまさに地域のプレーリーダーとか地域教育のコーディネーターと申しましょうか、そういう方を養成する新課程を発足させます。そういう形で若い方を提供していかないと、気持ちはあるんだけれども子供との落差がありまして、子供はもう本当につまらないからほかのゲームで遊んじゃうという面がありまして、非常に考えておりまして、何とかしていきたいと思っております。  二点目、学校教育。私は学校教育はもう沈没寸前だと思っています。それを思っていないのは学校教師だけなんです。もういつつぶれてもいいんですよ。  いろいろありますけれども、一つの大きな問題は、小学校中学校先生の平均年齢が四十三・五歳。これはもう本当に危機的場面です。ベテラン先生もいいんだけれども、若い人が入ってこない。よく言われますね、若い人に育てられるといいましょうか、それを教えるから自分も技量を磨くということがあります。今、みんなもう四十歳ですからみんなベテラン教師です。お互いに教え合うという場面がありませんもので、腕を磨かないんです。だれでも刀がさびちゃっている。という面がありまして、やっぱり若い教師が欲しいなと。だからなかなか活動しない。  そこで、例えば教育実習というのがありまして、うちの場合は附属だけには行きませんから、市内の協力校に行きます。十年前までは実習生を受け入れるのに物すごく抵抗があったんです。学級が壊れるとか、しっちゃかめっちゃかとか。今は逆なんです。実習生が四週間来る、子供と遊んでくれというんです。そうすると、子供が生き返ってくるというわけです。だから、最近千葉市の協力校ではもう本当に歓迎して、ぜひ実習生を送ってくださいと言う。そういう形で子供たちが物すごく変わってくるという面があります。一つは人員の問題。迎えてほしい。  次に、学校は何をすればいいか。  当然ながらあと三年後になりますと、学校週五日制で教育内容は三割減になっていきます。だからこそ私は、教師たちは基礎、基本をやってほしい。これで基礎、基本をやらないと、みんなまた塾やおけいこへ行っちゃうんですよ。やっぱり学校の使命は教科指導、読み書き算数。よく言うんですよ。ちょっと名前を挙げてあれなんですけれども、公文というのがあります、ベネッセというのがありますね。これからの学校教育というのは公文とベネッセに負けない学校教育の再生、これをやっていかないともう結局、お父さんお母さんは内心は、さっき申しましたように学校教師は選べませんから、やっぱり自分都市部の方は行かせるんですよ。日本の教師は優秀ですから、私としては、もう少しチームをつくってやっていただけば民間には負けないんです。そういう意味ではもう一度基礎、基本の教科指導というのを頑張っていただきたい。  と同時に、それだけでは生きる力は育ちませんもので、いわゆる道徳教育とか次の総合的学習時間が出てまいります。例えば小学校でいいますと、週三時間、例えば情報教育、国際理解、それから環境、福祉と健康とありますけれども、こういう領域は、先生方はそれでは免許をもらっていませんから、いわゆる教師としては体育の先生、数学の先生で免許をもらって専門職で行っております。  総合的学習時間というのは従来の教科ではありませんから、新しい分野があります。そこで、ぜひやってほしいのは地域の人材活用。例えば小学校で四十五分間、中学校で五十分間あります。最初の三分間だけ先生が説明をしておいて、あとは四十分間地域の方にお願いして活動していただけばいいんです。  だから、これから教師としては教科指導の面で頑張ってほしいし、もう一つはプロデューサーと申しましょうか、こういうイメージづくりがあって、こういうのが弱いから地域の方に来ていただいて、人集めといいましょうか、お願いするという、そういう意味では開かれた学校というのをやっていかない限り学校はなかなか再生は難しいかなと思います。  第三番目の道徳に関しては、本当に山本先生と私は同じ意見を持っています。変な徳目をやっても子供はちんぷんかんぷんなんです。それは、徳目をやるのは私は幼児教育だと思っています。幼児教育の中の善悪は家庭でやっていただきたい。これはぜひ必要です。もう小学校三年以上は徳目をやっても子供はついていきませんから。すぐ先を読んじゃう。先生の答えはもう全部わかって手を挙げたりしています。これではだめなんで、やっぱりソーシャルスキルと申しましょうか、集団活動をしながらやっていきたいという、そういう道徳をこれからやらなきゃいけない。また、教師も道徳の免許を持っていないんです。だから、教師がやってはだめなんです。教師がやっちゃうと何かお説教になる。やっぱり、地域の有名人とかおじいちゃんおばあちゃんに何かしゃべっていただくという、それの方が子供は聞いてくれて、納得するんです。  以上です。
  10. 畑野君枝

    ○畑野君枝君 日本共産党の畑野君枝でございます。  明石先生、本当にありがとうございました。三点ほどお伺いをしたいんです。  まず一つ目に、先生が戦後の子供社会も含めた変化ということで、大変私も興味深く伺わせていただいたんですけれども、今学級崩壊ということが小学校の一年生の段階から生まれているということで、特に一九九七年から全国でそうした状況が報告されるということがありました。  私は神奈川県に住んでいるんですが、川崎市の学童保育の指導員の方百八十八人に聞いた調査というのが、それは学童保育の先生方とそれからあと保育園では東京を初め四百五十六人の保母さんに聞いたアンケートというのが、最近新聞でも報道されているんですけれども、その中で親の問題、先生は先ほど校内暴力が吹き荒れた金八先生のあのテレビ時代というのを話されていたんですが、その時代に育った子供たちが今親の代になっていて、学級崩壊が小学校の一年から出るというのが、先ほど先生がおっしゃったように人間関係が結べないとか、そういうような、ちょうど金八先生時代なんか含めて生まれてきていることではないかなというふうに思いまして、今の幼児や小学校の低学年と親御さんの育った時代との関係など、お感じになる点があれば伺いたいと思います。  それから二つ目なんですけれども、そうした中で、どういうふうな社会の子育て支援というんですか、今よく委員の中でも、最近の子供たちはとか最近の若い親はという話があるんですが、よくわからないという声も出ているんですけれども、どういうふうな対応や支援をしていったらいいのかという点でお伺いしたいと思います。  私の住んでいる神奈川県の川崎市でかつて校内暴力が吹き荒れた時代に、当時の伊藤市長さんが、体育館に行って、学校先生やPTAの皆さんとも校内暴力をどうしたらいいかということで、行政としてできること、PTAとしてできること、学校としてできること、生徒としてできることということで、二万人が参加するような運動が、その後九〇年に入りまして地域教育会議というものに結びついているということなんですが、そういう点で、社会全体で何を支援していったらいいかということです。  それから最後に三つ目なんですが、学校教育の問題が話されました。先生がおっしゃっている子供社会の変化に対応してどういう学校教育が必要なのかということです。  今開かれた学校づくりというのが言われておりますけれども、調査会で先週視察に行ったんですけれども、小学校の話がありましたが、その女の校長先生が、私が三年前に赴任したときに一番最初に校長室に来られたのは地域のお年寄りの方で、何が好きかねというんで、そんな話をされたということで、大変地域との連携をボランティアなどを含めて努力をされていらっしゃるんです。先生の御本の中でも、そうはいっても、親は子供を預けていて学校には物が言いづらいとか、学校先生からしてみると最近の親御さんと話すのが怖いという思いがあるとか伺いますので、その辺をどういうふうに連携をつくっていったらいいのかというのがあるんです。  あわせて、今の学校を改善する問題で、いろんな変化に対応して、学級の規模の変化、例えば三十人とか二十五人とかという声が出ておりますけれども、例えばそんなふうにして若い先生もふえるような状況に先生をふやしていくとか、それから授業の内容でももっと参加できるような内容にしていくとか、そういう点などで今先生から、こういう情報誌の話も伺いましたが、考えられる点など加えてございましたら伺いたいと思います。
  11. 明石要一

    参考人明石要一君) 第一点、学級崩壊。  小学校学年の学級崩壊と小学校学年中学校の学級崩壊はちょっと質が違うと思っております。  一番難しいのは小学校学年の学級崩壊と申しましょうか、いろんな原因がありますけれども、一つは、小学校学年の場合は子供たちの変化に教師がついていけていない。小学校学年中学校の場合は基本的に授業がまずいんです。下手な授業をやっちゃうからわからない。要するに、勉強がわからないから騒ぐしね。高学年とか中学校の場合は教科指導をみっちりやれば、荒れても、一部の子供は熱心ですから。  例えば高学年で申しますと、先生が入ってきますよね。大体、やんちゃ坊主はベルが鳴っても入りません。だけれども、三分の一の子供はまじめなんです。席に着いて待っています。まずい先生はすぐほかの連中を集めて説教するんですよ。ところが、またその説教が長いんだ、下手くそだから。そうすると、こっちのまじめ人間がいらいらしてくるんですよ。もう疲れたとか言う。その場合、先生は黒板に問題を三問書きます、算数の場合は。そうしたら、まじめな人間が、え、何だ、問題をやっていますよね。それで、遅刻してきた連中が、え、何かもう授業始まっている、だんだん集まってくるんですよ。そういう形でおもしろい、わかる授業をやっていただくと、全部じゃありませんよ、学級崩壊の一部は私は救えると思っています。ただし、難しいのは低学年です。  例えば、もし近所の家に中学校先生がいらしたらお聞きしてほしいんですけれども、ことしの中学校一年生と去年の中学校一年生はどうもタイプが違うという断片的な意見が多いんです。いろんな違いがあるけれども、共通点は、ことしの中学校一年生は個人遊びが得意だし、好き嫌いははっきり言うんです、これやりたいとかあれやりたくないとか。自分の意思表示は上手なんだけれども、学年単位の活動が物すごく弱いと言うんですよ。中学校の場合は学年単位の活動が物すごく多いんです。朝礼で並ぶのもことしは物すごく遅いとか、去年の方がもっと早く並んだとかというのがあります。非常に自己主張は上手だ、だけれども集団活動が弱いんだという、これはぜひまたこの調査会あたりで検討してほしいんですけれども。  私の断片的な感じでは、ことしの中学校一年生は生活科元年と申します。平成四年に生活科ができました。先ほど申し上げましたように、一年生、二年生で理科社会をつぶして、春を探そうとか夏を探そうとか秋を探そうとか、子供の興味、関心に従って活動しましょうという数を物すごくふやすんですよ。非常に興味、関心でばらばら活動が物すごくうまいんです。学校探検でも一人でやっていますから、みんな、子供たちは。だから、その辺のことはうまい。そういう連中が今中学校一年生になったんですよ。  よく考えると、その今の中学校一年生が仮に幼稚園と保育所に行きますよね。これは三年保育を経験します。昭和六十三年に教育要領と申しまして幼稚園の大綱が変わるんです。それまでの集団保育を反省して、個性尊重の保育。今は何か自由保育といいますけれども、そういう言葉は使っていません、文部省は。個性尊重の保育をしましょうということで、非常に奨励してきます。  だから、今の中一は年少さんから個性尊重の保育で来まして、小学校二年間で生活科をやってきた。そうすると、非常に遊びは没頭できる。だから、一人遊びは本当に上手です。だけれども、みんなの様子を見ながら、さっき言ったソーシャルスキルといいましょうか、集団活動が不得手だ。  そういう視点で、たまたまうちの附属幼稚園がありまして、去年公開を見に行きました。そうしたら、年中さん、年長さんも、ブロック遊びとか、段ボールを壊してはさみで切ってガムテープを張るという、これは非常にうまいです。一人か二人遊びはうまいんですけれども、いかんせん集団活動ができない。  たまたま二時間目に体操の時間がありまして、チームを五チームつくりまして、バトンリレーというのがありますね、旗を回ってきなさいと。最初はみんな列をつくっています。一人がずっと回ってきます。次の二人目が行かなくて、みんながわっと行っちゃうんですよ、私、私、私と。要するに、バトンリレーというのは順番に行って、もらって競走するという、いわゆる集団遊びが非常に苦手であります。  ということは、ごっこ遊びは消えてまいりましたし、昔ありましたね、「はないちもんめ」の「あの子が欲しい」とか、「相談しよう」とかという、ああいうごっこ遊びがまず消えてきている。  と同時に、御承知のように家庭の中で少子化順番を待つということを学習していないんです。第一期の場合、おじいちゃんおばあちゃんがいて、おじいちゃんおばあちゃんに御飯をよそって、次がお父さんお母さんで、順番を待っていましたよね。だから、家庭の中でも順番を待つとかという順序制を学習できたし、地域社会でもみそっかすがいて順番を待った。だから、家庭地域でも学校でもあったんですけれども、それが今の場合は、もう家庭順番がありませんし、みんな子供中心ですから、地域で遊ばない。  それで、仮に保育所とか幼稚園で、一人遊びはうまいんだけれども、そういうごっこ遊びが消えたという、そういうお子さんが一年生に入ってくるんです。教師が四十代でしょう。かつてはこのままでも学級経営はうまくいったんですよ、二十年前は。今は子供が変わっていますから戸惑うんです。みんな個別対応ですよね。非常に今は教師が苦労しております。それが一点です。  二番目、子育て支援はどうすればいいか。これは非常にまた難しくて、また大事なテーマだと思います。  大分県の先ほども申しました国東半島というのがありまして、その外れに姫島という小さな島があります。関東では七五三のお祝いというのがあります。私の田舎は七五三のお祝いはなくて、一歳の誕生日のお祝いがありまして、親戚とか地域の方をみんなお呼びしてごちそうを振る舞って、その後セレモニーがあるんです。赤ちゃんに座ってもらって前にお盆を置きまして、ペンとお金とおもちを置くんです。その坊やかお嬢さんが何をつかむかみんなも見ているわけです。つかんだもので将来の職業を占うというのがあるんです。ペンをつかむとデスクワークに向く、お金をつかむと流通関係、商売に向く、おもちをつかむと漁業、農業に向いていると。ということは親戚を含めて知人がみんな知っているわけです。そして、その子供中学校へ行って、また突っ張っていますよね。そしたら、ある地域おじさんが、おい、要ちゃん、あんた昔ペンを握ったんだよと。そうすると、え、そうですかとか、自分の昔を知られていると悪さはできないんですよ。  要するに言いたいことは、幼児期児童期のころ、地域の方がその子供を知っていただくと、悪さはできない。私は、ちょっとレジュメでありましたけれども、子供が安定するのは、身内の世界と世間の世界と赤の他人というのがあると思うんです。身内というのは親戚のことで、身内です。今の子供は不幸にも身内が小さくて世間が小さいんです。みんな赤の他人。赤の他人というのはルールが適用できませんから。世間があるということは、中学生がたばこを吸って歩いていますよね、村人に会うとたばこを隠すというのは、これは世間があるからいいんです。赤の他人というのは、たばこを吸ってもだれも注意しないからそのまま吸っている。非常に赤の他人の世界が多くて、言うならば子育て支援というのは身内を大きくしてもっと世間も広くする、それで赤の他人を小さくする。  そうしてくれるとお母さん方も安心して、家庭も頑張るけれども、世間教育、よくありましたね、世間から教育を受けるんだという、何かそういうシステムが地域社会でつくれないかなというふうに思っております。  三番目ですね。学校がどうやって開くか。  よく私は言うんです。先生方にお願いしているのは、日本の学校教師学校へ行ったら上履きに履きかえます。それを上履きと申します。外の場合、外履きと申しますよね。なぜか日本の教師と看護婦さんは上履きが物すごく減るんです。一年間に二足、三足履くんです。ということは、病院とか学校は忙しくて物すごく動くんです。だから、小さな学校とか病院の情報は通だけれども、外履きが減りません、車で通いますから。そうすると世間の雰囲気がわからない。外履きは減らないんですよ。だから、学校の常識は世間の非常識とよく言われますよね。一番外履きが減るのは刑事さんと社会部の記者。彼らは外履きで一生懸命地域社会に行ってネタを集めますから。言うならば……(「政治家も」と呼ぶ者あり)議員の先生方も外履き減ります。失礼しました。要するに、これからの教師はもっともっと外履きを減らすと結果として開かれた学校になってくるかなというのが一点あります。  もう一点は、教員と社会教育主事と申します公民館とか施設の先生になる方。社会教育主事をやった先生が校長になると物すごくPTAとのつき合いはうまいんですってね、まず校長室のドアを閉めませんから。いらっしゃい、いらっしゃい、何でも言ってください、言ってくださいと。そう言われると、PTAのお父さんお母さんも言いやすいんです。ずっと最初から学校だけの先生は構えちゃうんですよ、PTAに対して。構えると、お父さんお母さんも何かあらを探しますよね。言うならば、教師たちが二年でも三年でもいいから一度世間の施設に行ってもう一度学校に帰っていただくという、そういうことをやらないと、もう口ではみんな言いますよ、開かれた学校と言うけれども、中身は開かれていないんです。そんなことを今考えております。
  12. 畑野君枝

    ○畑野君枝君 ありがとうございました。
  13. 阿曽田清

    阿曽田清君 自由党の阿曽田でございます。  今、先生からそれぞれ四期にわたるお話があって、我々は一期から二期の前半ということになると思いますが、一期が中心になりますが、ついせんだって、私は地元の高校の母校に帰りました折に、校長先生からちょっと悩みを打ち明けられました。それは、中学校から高校に入った子供たちはこれから三年間高校生活をするわけなんですけれどもということで、まず今の子供たちが高等学校時代をどう生きるかというようなこと等の意識が全然ない、同時に、将来自分はどういうような人になりたいとかという目標も全く持っていない、そこで何か生徒たちにアドバイスといいますか、何かそういう子供たちに方向性を見出せるようなお話がいただけぬだろうかと、こういう話だったんです。  そんな答えを我々はとてもできるわけじゃないので、たまたま我々が小学校のころは、特に学校先生に、おまえたちは末は博士か大臣か、そんな思いで頑張れとよくハッパをかけられました。中学校から高校に入るころは、少年よ大志を抱けと、こういうようなことで何となくやらなきゃという気になっていたわけです。そういうのが今の四期の人たちに通用しない感じを自分はそのとき受けたんです。それで、まさに提案といいますかアドバイスができなかったんですけれども、そういうような今の高校生の前半、これから三年間生きようとするそういう方々に対して、全く我々の感覚と違いますから、おくれているとか何を言っているんだというような印象しか与えないような気がしてアドバイスできなかった。  今度改めてお話しいただきたいと言われたときにどういう点に特に意を用いたらいいのか、先生に私が問われたことをまた問うような形になりますけれども、教えていただければと思います。
  14. 明石要一

    参考人明石要一君) 今の小中高校、大学でいろんな問題を抱えていますけれども、一番つらいのはやっぱり高校だと思っています。要するに、いわゆるテーマがないんです。中学校というのは、いい悪いは別にして高校受験というテーマがありまして、教師も頑張る、親御さんも頑張る、結果として子供も頑張っています。高校受験というテーマがあって、だから中学生はストレスがたまりますよ。問題は、高校に行った後、夢を失っていくんです。  よく燃え尽き現象と申しますけれども、実は去年、高校一年生を対象にして、中学校生活を振り返ってもらって今の高校の一学期の生活でどういうテーマを持っていますかと聞いたら、中学校時代部活動を頑張った、受験を頑張った、学級会も頑張ったとか言っているわけですよ。高校になりますと、部活動はちょぼちょぼ、アルバイトもちょぼちょぼ、勉強もちょぼちょぼというか、まさに先生がおっしゃるようにテーマがないんです。これがまずあります。  もう一つは、高校の教師が夢を語らない。私も第一期でしたけれども、大学受験がありまして、今から三十年ほど前まで、変な言葉ですけれども、四当五落、四時間寝たら合格して五時間寝ると落ちるとか、単語の豆単を四千個覚えないと国立大学は無理だとか、何か変な縛りがあったんです。教師たちは、いい悪いは別として、何とか大学に何名入れたというのがある意味では勲章といいましょうか、生きがいがあったんですけれども、今はそれも全部ございませんもので、だから子供たちテーマを失って、それを支える教師たちが夢を語っていかないんだと。要するに、考えたら高校三年間に思い出づくりがないんですね、これをやったという思い出づくりが。  例えば、私は千葉大に二十三年間いまして、ここ十年の傾向ですけれども、四月に新入生歓迎といういろいろなセレモニーがありますね。十年前までは新入生歓迎コンパという立て看がありまして、鹿児島県人会集まれとか、大分県人会集まれとか、鶴丸高校来いとか、何とか高校同窓会とかという立て看があったんです。この十年間、全部消えました。だから、いわゆる自分の後輩の面倒を見ない。自分を育ててくれた地域の県人会の新入生歓迎コンパをやってあげないんです。ということで、この十年間きれいに立て看が消えました。  よく考えてみると、地域では子供会も元気がない、それでお祭りも余り元気がなくて、自分を育ててくれた地域の連帯的なきずなが消えてしまった。高校に三年間行きますよね。三年間行っているんだけれども、彼らの半分は予備校に行っているんです。だから、三年間行くんだけれども半分しか高校へ行っていなくて、あとは何でしょう、卒業証書だけが欲しいんですよ。だから、甲子園の地区予選の応援に行かない、合唱コンクールもない、体育祭の応援団で燃えないとか、何か汗をかいた思い出がない。言うならば、教科の中で英語と数学で自信を持つというのは全体の大体二〇%なんですよ。これは無理だろうと。  だから、せめて違う特別活動の領域においてもっと子供たちが集まってディスカッションして、応援合戦で燃えるとか、体育祭で燃える、合唱祭で燃えるとか、そういう思い出づくりが余りにも教師が忙しくてできないとか、高校生の場合はもっと子供に任せる、自分たちでやってきたんだという思い出づくりを高校でやっていただく、そうしたら自分の将来の職業も薄々見えてくるという感じがしております。  以上です。
  15. 田中直紀

    田中直紀君 田中でございます。  先生のお話は大変有意義なお話が多いと思っておりますが、先ほども、常に教師が忙しいというお話と、それから読み書きそろばんの原点に返ってやるべきであるというお話も伺いました。  学校教育の中で、これはテレビと自動車の時代に突入したとき、マクルーハン理論というものがありまして、十年、二十年たてばテレビの影響が出て、いわゆるホットな人間が少なくなると。テレビで体験したということで、何でも知っているような顔でコールドというんでしょうか、無感動の人間が育つんだというマクルーハン現象が当然現在進行しておることは間違いないと思います。教育現場は余り接触がないですが、会社等で関係のある新入社員を見ますと、皆さんいわゆる無感動な社員が多くなってきておるというような傾向があるわけです。  ですから、教育の中でテレビにかなうものはないわけでありますから、何もそんなものを意識して教師が迎合して教育に取り入れる、話題がなければ友達づくりはできないんだ、こういうことを言われるわけでありますが、余りにも意識をし過ぎる。やはり、私は、原点に返って、怖い先生でもいいからきっちり教育をしてもらうということで、むだなことはやめて教育に集中してもらうということの方がいいのではなかろうか、テレビにはかなわないのではなかろうか。  それからもう一つは、学校教育の中で、やはり塾には今の公教育はかなわないわけです。ですから、先ほどちょっと話がありましたように、原点に返って、塾よりも興味を持つような教育をというようなことはありますけれども、余り塾を意識し過ぎての教育もいけないし、将来どうするかという問題があろうかと思います。  それから、遊びの方も、どこへ行ってもお金をかければ幾らでもおもしろそうな遊びがある。これも教育に対する一つの脅威なわけです。確かに、どの程度小遣い子供に与えるかというのは家庭の方針だと思いますけれども。  体験学習等、これは非常に御苦労されておりますけれども、一人の先生がやるよりは、諸外国で最近、雇用創出ということで実習生のような形でなお一層、勉強勉強だ、しかしサマースクールだとかそういう体験の方はまた新たな先生で雇用を創出しながら人格形成のために手伝っていく、教師教師としてやっていく、こういう制度がフランスとイギリスで一万人ほどの雇用創出の中で生まれてきておる、この評価はどうなのか。  こういう三点、ちょっとお伺いをいたしたいと思います。
  16. 明石要一

    参考人明石要一君) 確かにテレビは強いです。テレビに負けちゃう。  例えば、今の一期とか二期の世代は、夜眠ってドリームというか夢を見ますよね。大体白黒が多いんです、私たちは、カラーは見ません。カラーテレビっ子昭和四十年以降に生まれた方は夢をカラーで見るそうです。それだけ印象が強い。ですから、本当にテレビというのは強い。ここの先生方でカラーで見る方は非常に気持ちが若いという感じがいたしますけれども、大体白黒だと思います。だから、下手な抵抗はしない方がいい。田中先生と同じように思います。非常に影響力が強い。  だけれども、やっぱり教室とか学校という空間はかなり人間形成に強いんだ。人間形成という言葉はいいですけれども、私は、もっと平たく言うと仕切り屋を育てる。今、子供社会とか大人社会、企業でも非常に仕切り屋が消えておりまして、仕切っていく、段取りをつける、簡単に言ったら言い出しっぺなんです。おい、遊ぼうぜという言い出しっぺが減ってまいりました。  例えば、小学校学年で誕生日パーティーをいたします。七、八人が遊びに来ます。もしチャンスがあったら見てほしいんですけれども、おやつを食べた後にはみんな同じ部屋にいます。七、八人が同じ部屋にいるんだけれども、みんなばらばら遊びです。二、三人がファミコンをやって、こちら二、三人が「少年ジャンプ」、「少年マガジン」を読んでいて、こちらはオセロゲーム。せっかく八人集まって何で一緒に遊ばないかというと、おい、遊ぼうぜと言う言い出しっぺがいないんでございます。  そういう連中が今度は小学校の高学年になってきまして、六年生で自然教室があります。飯ごう炊飯の班をつくります。先生方が、おい、班長を決めてこいと言っても、決まってこないんです。おまえがやれ、おまえがやれと、全然決まってきません。それで、教師が決めてあげると活動できるんです。  そういう連中が今度は千葉大に入ってきます。学生はコンパが好きなんです。コンパをするためには幹事が要ります。今、幹事のなり手がいないんですよ。だれも手を挙げない。あみだくじでくじを引いて、それでやるんです。そうすると、昔、パック旅行というのがございましたけれども、今はパックコンパがはやっているんです。コンパのパックなんです。幹事は電話して行けば、ビール何本、ジュース何本、つまみセットがあるんですよ、冷めたやつが。それで、それを食べて、時間をはかって終わり。  昔の名幹事というのは、二十人集まれば、二千五百円とか三千円集めますよね。それで、この顔ぶれならばかんがいいか冷やがいいかと決めておいて、そろそろジュースだとかそろそろカラオケタイムとか注文するとか、全体を仕切っていきました。二時間半楽しくやって、幹事ありがとうと言われて、幹事三人が残った一万円でもう一遍二次会に行くと、これが名幹事ですよ。  こういう仕切り屋が、要するに段取りをつけるという方が非常に消えていきました。だから、常にテレビで影響を受けて、自分たちはどうするかという応用場所がないんです。  もっと困ったことには、大学生が六名ぐらいで居酒屋に行きますよね。注文できないんです。みんなこうやってメニューを見ています。ウエーターが来て、何にしましょうかと。すぐ相談するんです。また時間がかかるんです。だから、注文ができない。普通、六人集まれば小さな仕切り屋がいるんです。とりあえずビール三本、やっこを六個とか、それで、さあきょうは何をするかという小さな仕切り屋が消えていきましたから、非常に段取りがいかないし、それも一つは学級崩壊の原因もあるんです。学級である固まりがあれば非常に先生は学級経営しやすいんだけれども、個々ばらばらなんです。そういう形のテレビっ子の強さと弱さがあるなと。その仕切り屋養成ができていない。  それからもう一点は、サマースクール、教師たちがフランスでやっております。あれはぜひ日本もできないかなと思っております。教育学部に来る学生たちというのは、小学校中学校は優等生なんです。高校でちょっとつまづくんです。それで、大学受験のときつまづきますから、中途半端に優等生なんです。残念ながら、幼児期児童期にいい体験、生体験をしておりませんもので、多少ペーパーテストができていきますよね。そのまま先生で、ずっと人から頭を下げてもらうという、そういう体系にありますから、生体験がないんだ。  彼らが一番悩むのが教育実習なんです。四週間とか行きます。だから、今、教育学部では、教育実習登校拒否と申しましょうか、足が震える学生がふえているんです。保護者会も苦手だけれども、まず子供と会うのが苦手で困る。田中先生がおっしゃるように、教育実習へ行く前に、例えば四週間なり半年なりサマーキャンプとかをやって、企業に行っておじぎをするとか声を出すとか、そういう体験が必要かと思っております。  あと、先生、塾の問題でしたか。
  17. 田中直紀

    田中直紀君 はい、塾との関係です。  なかなか難しいでしょうけれども、やはり学校の方がおもしろくないと、こういうふうに言われるわけですけれども、それは基本に覚えなきゃいけないことは覚えなきゃいかぬということで徹底して、いわゆる読み書きそろばんを中心とした学校教育で、あとはプラスアルファというようなことに、原点に戻った方がいいんじゃないですかという感じなんです。
  18. 明石要一

    参考人明石要一君) 私も、先ほど申し上げましたように、教師は教科指導で読み書き算数を教えてほしい。そこで免状をもらっているんです。  それで、塾の勉強のあり方と学校勉強のありようというのは、塾というのは週二回しか行けませんもので、多くて四時間です。だから、すぐ答えを覚えるという、ここが勘どころなんですよ、覚えなさいねと。刺激と反応、SRで覚えていきますし、そういう意味では非常に特効薬である。学校というのは、要するに私に言わせれば漢方薬なんです。じわじわ効いてくるのが学校授業なんです。ですから、基礎、基本だけをじっくり考えて教えて、あとは自分で自学する。  だから、学校で全部教え込んだらだめだ。そろそろ学校教師も反省しなきゃいけないのは、あれもこれもずっと教え込もうとしますよね。もう無理です、スリム化ですから。そうすると、勘どころだけ教えておいて、どうすれば自学できるか。要するに、学級経営をする場合に、先生方が出張されます。そのときでも、学習課題を置いておくと子供たちが自学自習できるような学級経営をしましょうと。そうしないと、すべて教師におんぶに抱っこになってくるという感じがいたします。  もう少し言いますと、手を抜いてもいい。手を抜いてもいいけれども、気を抜くな。よく言います。子育てする場合に、手を抜かないと子供が窒息します。だから、家庭教育学校教育も私は手を抜いていいと思います。ただし、気を抜いたら困ります。手を抜くということは、何が大事か、ここは流してもいいということを、勘どころを押さえる教師は手抜きができるんです。  昔、ジャイアンツの江川が手抜きをしましたよね。あれは、九回を自分で受け持つから、八番、九番は手を抜くわけです。三番、四番、五番にはもうびゅんびゅん投げます。だから、学校教育も、どこだけは全力投球だ、ここは子供に任せるという、それがないと子供家庭でも学級でも窒息するかなという感じがいたしております。  以上です。
  19. 松岡滿壽男

    松岡滿壽男君 先生、きょうはありがとうございます。松岡でございます。  私も白黒で音声抜きの夢しか見ない世代でありまして、先生は姫島とおっしゃいましたけれども、私も瀬戸内海で山口県の、姫島と兄弟島の祝島という島があるんですけれども、そのすぐ近くで、晴れたらよく姫島が見えます。終戦後にこちらに帰ってきまして、女子師範の附属小中学校で学ばせていただきました。あのころはかなり復員帰りの先生がおられて、ぶん殴られたりした一期でありますけれども、ちょうど子供社会史のですね、それなりにいい教育をしていただいたというふうに思っておるんです。  それで、ちょっとお伺いしたいのは、私どもがちょうど就職するころ、昭和三十年の前半ですけれども、高度経済成長で人材を皆民間が必要としまして、ほとんどそちらに行った。教師の待遇も悪い時代ですから、かなりそういう人たちが先生をやられた。要するに問題にしたいのは、教師子供の数です。  ちょうど私が昭和四十六年に地元の光というところの市長をやりましたころ、いわゆる幼保問題、幼稚園、保育園に子供があふれてくる。ちょうど第二次ベビーブームで、蛇が卵をのみ込んだような形で、幼稚園、保育園、それから小中学校の老朽校舎を建て直さなければいけない、それから新設高校をつくらなきゃいかぬという時代を私は十二年ほど経験したわけです。それから見ると本当に今の子供の数の減少というのは寂しい思いがするのですが、問題は、要するに先生のそういう質的な部分と子供たちの数がわっとあふれたという部分のミスマッチがこの二期、三期にわたってあったのじゃないか。  それで、教師の待遇が改善されて、しかも今、官僚のいろんなああいう腐敗問題とか民間がリストラだという状況になってくると、いい人材が教育を志していくという一つの時代になっていると思うんです。それを上手にうまくキャッチしていかなきゃいかぬと思うんですが、戦後ずっと一、二、三、四期と見てきて、現在の教師を希望している人たちのレベルといいましょうか、そういうものがどういうふうになってきているのか。非常に答えにくい部分があるんだろうと思うんですけれども。  それと、せっかく子供は減ってきている、人材は集められる状況になってきているけれども、お金がない。そうすればどうするかという問題から先ほどの先生の御提案を伺ってみると、できたら全部子供家庭外のところに持っていけというような御提案のように受けとめるのです。  それで、この前我々が視察で宮崎に行きましたら、宮崎の中高一貫教育が全寮制で非常にうまくいっておると。この全寮制という問題について教育面ではどういうふうに受け取ったらいいのか。私は、今、むしろ子供の数が少ないし、社会の子という形でどこかに集めて、きちっとした教育をし直さなきゃいかぬところに来ているだろうと思うんです。そういうタイミングだと思うんです。その中で、今の中高一貫教育がとっている全寮制、あるいはそれをさらに敷衍できるのか。そうすれば、そういう一つの目標のもとに教師の数もふやせられるわけです。そういう点についてちょっとお伺いしてみたいというふうに思うんです。ちょっと行き過ぎた表現があったかもわかりませんけれども。  それともう一つは、私も非常に不思議に感じているのですけれども、昭和四十六、七年ですか、当時、総理府がもう既にあったと思うんですけれども、青少年の健全育成ということで私の方に来られました。そのときに私は、子供のときの体験から見て、家族挙げて御飯を食べるときにテレビを見ながら食べているというのはちょっと異常だと。  我々の戦前の教育では、食事の時間というのは、一日の学校でのいろんな問題について、あるいは近隣の子供たちとのつき合いの中でどういうことがあったのかということを親に報告する時間だったんです。それはもう非常に嫌でたまらなかったですね。だけれども、私は、その総理府のお役人が来られてお話しのときに、せめて食事の時間ぐらいテレビを消したらどうだという話をしましたら、老人会の会長さんや役員の方々からえらい怒られまして、そんなことをしたらあした孫が学校に行って話し合う話題がなくなると。要するに、六時半から八時ごろにかけて大体子供のゴールデン番組をやっているわけですから、親はニュースを見られないですね。そういうことを言われまして、それはそうかなと思ったんですが、外国の例をいろいろ見ると、例えばテレビにふたをしますよね。だから、食事の時間はふたをして見ないということをやっているところがあるようにいろいろ聞きました。  こういうテレビを見るなという提案はいいことなんでしょうか、悪いことなんでしょうか。それについての御感想をお伺いしたいと思います。
  20. 明石要一

    参考人明石要一君) お答えしたいと思います。  戦後五十年間、でもしか教師という言葉がありました。これは昭和三十三年に、前の永井道雄文部大臣が京都大学にいたときに、どうも戦後すぐの教師と違うんだと。教師にでもなろうか、教師しかなれないという、でもしか教師。言うならば、京都大学とか東京大学の教育学部というのはいろんな公務員もあるし新聞記者もある。それで、教師にでもなろうかと、それで、でも。旧師範系、今の教育学部というのは、教師しかなれないという、でもしか教師というのを昭和三十三年ごろネーミングしました。それでその後、昭和四十年代になったら、上ばかり向いている先生のことをヒラメ教師といいまして、ヒラメ教師という言葉が出てまいりました。昭和四十九年に人確法という、教員の待遇改善が出ます、教頭先生の法制化と抱き合わせで。  この昭和四十九年というのはおもしろくて、それまでずっと戦後、教育学部の学生の中で女子学生がふえてくるんです。昭和四十八年までは六〇%が女子学生で、四割が男子学生だった。昭和四十九年からは男がぐっとふえてきまして、男性というのは本当に単純なんですよ。お金がふえるとすぐわっと教育学部に来る。だから、景気に左右されやすいんです。これは戦後ずっと、景気がよいと民間に行って、悪くなると教育学部にいい人材が集まってきたというのが戦後五十年あります。  だから、昭和四十九年と五十一年、五十二年でしょうか、三回給与を上げてくれますね。そうすると、余り大きい声で言えませんけれども、いわゆるセンター試験の成績が上がってくるんです。だから、やっぱりいい教師を集めたければ待遇改善が一番いいですね。ぜひお願いいたします。それが一点であります。  次に全寮制。  私はもうこれは好きなんです。中高一貫教育を進めたいと思っているんです。ということは、先ほども申しましたように、公立高校の卒業生はさっき言った新入生歓迎の同窓会はやりませんけれども、いわゆる私立の一貫高校がありますね、ラサールとか灘とか。聞きましたら、東大に行きましても、灘高校、ラサール、六甲高校集まれという看板が今でもあるそうです。ということは、六年間同じかまの飯を食ったという、いい意味での縦のつながりがあるから後輩の面倒を見ると。公立の三年間ではやはりちょっと短いという感じがします。かつてほどゆっくり生活していればいいけれども、塾に行かなきゃいけないとかありますもので、ちょっと短いかなと。  それで、一つは、全寮制と申しましょうか、衣食住を一緒にするとやはり我慢したり、怒ったり、けんかするんです。トラブルを体験する。今一番大学生が困っているのは、幼児期児童期思春期にトラブルに遭った経験がないんです。だから、遭うと困っちゃう。先生がおっしゃるように、自由参加でもいいから意図的に全寮制みたいな施設をつくっていきたいなと、そう思います。  二番目の、食事中にテレビを消す、もう大賛成です。総理府の、今総務庁の青対本部で国民会議というのがあります。ことしは「大人が変われば子供も変わる」というキャンペーンを張っておりますけれども、せめて夕飯どきにテレビを消そうという、本当はそういう国民運動を、キャンペーンを張ってもいいんです。なぜかと申しますと、一番しつけができるのは食事中なんです。食事をしながらしつけをする。  江戸時代の武士の世界は、三番膳というのがありました。大体一割いましたけれども、一番膳は、お父さんと長男が着物を着て御飯を食べる。それで食べる作法を教える。藩校で学んだ四経とか論語を暗唱してごらんとか、いろいろの長男教育をした。次の膳が、おじいちゃんおばあちゃんとか次男坊、娘さんとかいう二番膳があって、三番膳が使用人のお膳があった。こういう士族というかエリート教育家庭が息子、娘をしつけるんだというのがありました。  アメリカの場合でも、西部劇がありますよね。あの一こまで、必ず夕飯のときにお祈りをして御飯を食べて、それで食べる前にお父さんが、おまえ、きょう学校で何をしたかと。お母さんからいろいろな事情を聞いておいてしかってあげる。要するに、お父さんが食事をしながら子供の過ちをしかってあげる。  そういう形で日本も欧米も食事の場面を通してしつけをした。それで、一家団らんという、いい意味の家族の凝集性というか、まとまりができましたよね。そうすると、もう意図的にそういう形をやらないといけないなと。テレビを消そうという運動はぜひやっていきたいですね。
  21. 清水澄子

    ○清水澄子君 社民党の清水澄子です。  とてもいい問題提起をしていただいておるんですが、私は、教師だけでなくて子供の変化について、今少子化社会なんといって物すごくみんな危機感を募らせているんですが、その場合に、大人の方が、社会の我々の方が子供の変化とか社会がどういう変化をしているかということを十分に実態をつかんでいないということを非常に痛感します。  しかし、今その問題はちょっとおきたいんですが、子供がなぜ少ないかとかそういう問題で、どうやったら産めるようになるかとかいう話ばかりになるんですが、私は、今お話を伺いながら、親と、それから教師もそうですが、社会子供に対してとても画一的なモデルというようなものを非常に何か強く押しつけてきたという私たちの経過があるんだと思います。  ですから、今いろいろ戦後の子供社会史としてお話しくださったんですが、だからこれは子供の問題というよりも、むしろ親や大人や我々政治をやっている者の価値観の変化というものが子供にそれを、もっと成績のよい子になりなさいとか詰め込み主義で、もう何かみんな同じような子供の成長をモデルにしてきた。やっぱり子供というのはみんな一人一人違いますから、それから一人一人の家庭子供の育て方も違いますから、それらを一つの画一的な規格品にしようとしてもそこからはみ出してしまうという、私はその側面は一度考えてみなきゃいけない問題だと思っているんです。  そういうときに、先生は今どういう施策が考えられるかということで、食べっぷりとか遊びっぷりとかつき合いっぷりとか。子供が育つ環境としてはこれらをどうやってつくっていくかということが一番本当は大事なところだと私も思うわけです。ところが、どうしても日本の場合は、さっきの子供の基準も、文部省の、偏差値とか学歴中心主義とか、何か絶えず基準がつくられていく、マニュアルが出される。そうすると、だんだんマニュアルで人を育てる。  今度、文部省が、心の教育ということとか家庭が崩壊しているんだという形で、家庭教育ノートとか家庭教育手帳なんというのを出されたんです。私は、別にこれを悪いとは言いませんが、このとおり、何か今の社会はみんなマニュアルがないと生活ができないみたいな、そういう発想にむしろ問題があるんじゃないか。この中にもいいことは書いてあるんです、家事を手伝わせたら子供がしっかりしてきたと。しかし、今家事をきちんとやろうと思っても、働いている女性にそれはちょっとできない場合がある。しかしその中でも、さっきおっしゃったような、我が家の中で何をするかとか工夫をしたらいいと思います。  だけれども、こういうものをいっぱいつくってこれでやりなさいと言うと、最近、そういうマニュアルがないと子育てもできないという人たちがふえてきました、この一人っ子の中で。そうすると、どうやって子供を育てていいのか、全部こういうものを読みながら、そんなこと、人間が育ち合う関係で、何か基準で、本を読んで育てたり人との関係はつくれませんよね。ですから、そういう意味で、今さっきおっしゃった、体験の中から学ぶ幾つかの案を示してくださいました。私は、これが一番お金がかからなくて、一番子供が物すごく喜ぶだろう、そして、子供が体験の中で人との関係性、つき合い方、自分意見の出し方、それから社会の体験をするだろう。だから、私はこれはすごくおもしろい提案だなと思うんです。  しかし、こういう発想になかなかならないで、マニュアルづくりばかりがお金をかけて進むんですけれども、そういう状況の中で私は、体験の中で、遊びながらまた楽しみながら学んでいく、これを本当は親の方もやらないといけないんじゃないかなと思うんです。  そのときに、例えば、私は先日カナダへ行ってきましたけれども、学校に親がだれでも来ているんです。私はPTAか何かの役員ですかと聞いちゃったんですが、そんな、役員が行くというのではなくて、だれでも、きょうはちょっと子供たち勉強しているところへ一緒に行って、そこで先生手伝いをしてあげようとか、それから給食のところを手伝ってあげようとか、親たちが自分休みのときに来ると言うんです。そういう意味では、学校というのはまさに地域と親が教育という問題を一緒にやっているなと感じたんです。  日本だと物すごく規則があって、何かそういうところに行くというと、普通の人は役員会か学校行事でない限りなかなか学校にそういう形では入りませんよね。ですから、そういう意味でも、親と学校の関係というのがもっと開かれていくには、やっぱり規則とかマニュアルとかがあり過ぎるんではないかなと思うんです。  それから、特に過疎地の子供たちは、子供同士で遊ぼうにも過疎で子供がいない。そうしたら、学校も何時になったら帰りなさいじゃなくて、そういう学校子供たち子供同士で遊べるようにもっと長い間置いてあげてもいいと思うんですけれども、そういうのも非常に規則というものががんじがらめにあるような気がします。ですから、そういう点をどういうふうに変えていくのかということ。  それからもう一つだけ。
  22. 久保亘

    会長久保亘君) できるだけ簡潔にお願いします。
  23. 清水澄子

    ○清水澄子君 はい。  私はいつも気になるんですが、最近青少年に関する特別委員会をつくるべきだということが出てきて、青少年の問題行動というのがずらっと並べて書いてあるんです。これを見たときに、不登校とか登校拒否をしている子供を強姦、殺人犯と同じような問題行動としてとらえていいのかと思うんですが、こういうことが文部省の問題行動として出されているんです。だから、そういう点もすべて子供の行動を非行とか問題行動と見てしまう、決めつけてしまう。そういう問題についてどのようにお考えになるかということをお願いいたします。
  24. 明石要一

    参考人明石要一君) お答えしたいと思います。  子供を変えるためにはやっぱり親が変わってほしいなという意見に賛成で、明治からずっと、今日百三十年たちますけれども、日本の教育というのは自分のための教育というのが強かったですね。立身出世じゃありませんけれども、勉強してないと損するんですよ、だから頑張りなさいというのがずっとじわじわじわと、家庭とか地域で。教育というのは、自分のための教育が多かったんです。  私はそれは否定しませんが、もう一つ、教育を受けると社会に貢献できるんですよというそういう側面が残念ながら特に学校教育ではなかったと思うんです。社会教育では、世間とか、教育がありましたものでいいんですけれども、学校教育のメーンは自分のためなんだというのがもう骨の髄までしみわたっている。だから、なかなかボランティア活動がうまくいかないというのは、それもありますよね。  そろそろ社会の風潮を変えて、自分のためが半分あっても、残りの半分は人のため、社会のための教育をしているんだと、そういう発想の大転換をしていきたいなというので、賛成でございます。  二点目。子供人口密度と申します。昔よく人口密度というのがありましたね。日本は人口密度が高いとか言っていたけれども、私は子供人口密度のことを考えているんです。子供人口密度が高いほど子供は遊ぶんです。先生がおっしゃるように、田舎の過疎地というのは子供がぽつりぽつりです。遊ぼうと思ってもいないんです。要するに人口密度が低いから。団地とか住宅地の場合は一キロ平方にたくさん子供がいますからすぐ友だち探せるんですよ。  残念ながら地域社会で難しければ、学校の校庭開放と申しましょうか、要するに子供が遊ぶためには三つの間が要ります。仲間の間と遊び空間、遊び時間、俗に三間が要ると言うんです。三つの間が要る。学校というのは休み時間があり、放課後があり、グラウンドがやっぱりいいんです、広いグラウンドがあり、仲間がいるんですよ。そういう意味では、休み時間とか放課後を活用しましょうと。  例えば、名古屋市とか世田谷区、世田谷の場合はBOPと言っていまして、ベース・オブ・プレーイング、遊びの基地をつくろうということで、補助金を出して指導員を三人雇用して遊んでもらっています。私は、そのときにできたら遊びリーダーとして、山本先生がおっしゃるように、若い学生ボランティアとかが放課後一緒に遊んでくれるといいと思います。そういう意味で、先生おっしゃるように、人口密度を厚くして子供たちに体験をさせるというのが必要かなという感じはしております。  もう一つのマニュアルの件ですけれども、私個人は否定しません。だけれども、問題は、よく分担にたえ分担を超えると言いますよね。だから、マニュアルをまず覚えてほしいんです、それはいろいろなエッセンスがありますから。それに依存したらだめなんです。マニュアルをいかに超えるかという教育をしないと、おっしゃるように本当に指示待ち人間になってしまう。個人的にはマニュアルは否定しません。だけれども、いかにマニュアルを脱皮するかがこれからの教育だというふうに思っております。  それから最後、問題行動の件ですけれども、これは非常に難しい問題でありまして、うまく答えられません、正直申しまして。ということは、問題行動というのはやっぱり一つの見方だと思うんです。それでラベルを張ったらいけないだろうなというのがあります。  だから、私は、問題行動と仮に押さえても、大人とか教師仲間が常に次のバイパスを用意してほしい。どうも日本の教育というのはバイパスをつくりませんよね。もう単線でわあっと行って、それを外れたら問題なんです。だから、問題行動、道路があっても、数バイパスで復帰するんだという、そういう余地をつくっておかないとだめかなと思います。
  25. 沢たまき

    ○沢たまき君 本当に先生のお話、大賛成で共感を覚えることばかりでございます。  ちょっと聞きそびれてメモし損なったことを一点。小学校の低学年の学級崩壊は何とおっしゃいましたかというのが一つ。  それからもう一つは、いろいろな先生方が質問なすってしまったので、私は、私のせがれは一人っ子でございましたので全寮に入れました。結果、今社会人でございますけれども、全く旧制高校と同じようなスタイルでございましたので、おかげさまで同級、先輩、後輩とずっとつながっております。私は私立でございましたから、それが公立の学校、こういうのも御提案いただいたので、それは殊に男子生徒においてはすこぶる有効ではないかというのを質問したかったのが一つで、もうこれは回答が出ました。  もう一つは、今私の後輩が世田谷に住んでおりまして、小学校学年で、共働きでございます。私の後輩ですから、一人はパントマイマー、一人はジャズシンガーです。それで、預けておりますけれども、ベース・オブ・プレーイングが廃止になって児童館だけ、こういうのがありましたので、私のところに電話をかけてきた地域があります。  それは区議の先生と御相談を申し上げたんですが、とてもありがたいことなんですが、これから先生になろうという若い学生さんがやってくださるのではなくて教師がやっているので、だからすごく負担になるということで廃止にしたいというような意見が出ている。ここを今先生がおっしゃったように、もう少し何か手当てをしていただきたいということです。  それからもう一つは、私の孫は新宿に住んでおりますが、歩いて五分のところに小学校がございまして、保育園もありました。でも、統廃合でそこはなくなりました。そういうのをかんがみて、今は児童館なんかに遊びに行ってお友達をつくらせてはおりますけれども、廃校になった跡をこのベース・オブ・プレーイングみたいに伸び伸びと使わせてもらいたいなというのです。  こういう場合に、このあいたところを、いわゆる高齢者の施設と子供さんの施設といろんな案がございますけれども、都心部に住んでいて共働きの子供を持っている親は、そこを若いこれから先生になろうと思うような方々とともに遊べるところ、できたら昔のような原っぱにしてもらいたい、土があるところにしてもらいたいと思っているんです。それについては、土のある原っぱ、何にもないところ、草が生えているところをもっと欲しいと思っているんですけれども、このコンクリートの上に土をまいて何かできないかと思っているんです。  そういう原っぱという自然ともっといっぱい遊べる場所をつくりたいと思っている一人なんですが、教育面ではどうお考えか、これを伺いたいと思います。
  26. 明石要一

    参考人明石要一君) 学級崩壊の件ですけれども、よく子供教師の距離を車間距離と申します。高速道路で余りひっつくとぶつかってしまってトラブルを起こす。大体、昔若い先生は友達先生でトラブルを起こしたんです。四十を過ぎてしまうと車間距離は開くんです。それで変な車がずる込みで、テレビとかマスコミが入ってきます。言うならば、車間距離を二百メートルに保ちましょうというのが大事なんです。  それが教職の宿命で、エージングと申します。入ってくる一年生はみんな六歳なんです。こっちは最初は二十二歳で、いい車間距離がだんだん、子供はいつも六歳だけれども、こっちはずっと年をとっていくんですね。だから、さっき言った、教科指導はうまいんだけれども子供の気持ちを理解するのが難しい。子供は物すごく変わっていきます。だから低学年の学級崩壊というのは、新しい子供のさま変わりに気づいていない。自分はいつもずっと車間距離はいいと思っているんですよ。だけれども、かつてはよかったんだけれども、子供が全然変わってきておりますから、子供の変貌に先生がついていけないというのが低学年の学級崩壊、全部じゃありませんよ、それがメーンだろうなと。  高学年の場合は、要するに授業が下手くそだと。それで子供がいらいらして、勉強したいのに何でもっと、塾の方がいいとか言われかねないという、大ざっぱですけれどもその違いがあるかなと思います。  それから、ベース・オブ・プレーイング。世田谷区もいろんな区域があるそうです。うまくいっている区域と嫌々やっていてつまらないところがあるそうです。やっぱりうまくいっている区域は事務局長さんが非常に幅広い人で、二人の指導員がつくらしいですね。その指導員が非常に遊びがうまい、それで若い。それだと子供が遊んでくれる。結局、システムをつくっても運用する人材が大事かなというように感じます。  三番目、原っぱをつくる。もう大賛成で、変な遊具を置いてほしくない。ゴールドプランでありましたね、変な遊具じゃだめです。要するに、つくってない、材料だけを置いていただければいいんです、子供自分で使えばいいんですから。全部でき上がったもので遊べというのはいけないんです。  今、特に小学校とか幼稚園でジャングルジムと松とかカキの木があるとします。子供たちは木に登っていかないんです。必ずジャングルジムとか、非常にいい利便的な遊具なら遊べるんです。松に登ると手が痛くて足をけがしてすりむきます。そういうちょっとけがをするとか痛いとかいう体験をしなくて、さわってもやわらかいというか、居心地のいい遊具を使って遊ぶ子供がふえてまいりました。先生がおっしゃるように、まさに土と緑で遊んですりむいた経験、痛いとかいう体験をしないと、頭でわかっても気持ちがわかっていないかなという感じはいたします。
  27. 西山登紀子

    西山登紀子君 いろいろ貴重な御意見をいただきまして、本当にいろんなことを考えさせられるわけです。  先生のこの「戦後の子ども社会史」、一期から四期なんですけれども、今私たちが考えていかなければならないのはこれからの五期に当たる将来の問題なんですね。私は、今の子供の現状、いじめだとか自殺だとか校内暴力だとか登校拒否だとか、いろんな現象としてあらわれているわけですが、この学校病理社会病理、今子供が発信をしている、サインを送っているこの状況というのは、日本のこれからの第五期を見通した場合に、その深刻さというのは、日本の民族といいますと大げさですけれども、その将来にかかわるぐらい非常に大きな深刻な状況じゃないかというように思っているわけです。  その点で、先生がこの五期を見通された場合に、どんな見通しを子供たちにお持ちになるか。それから、今の学校病理社会病理についての深刻さという点でどのように思われるか。日本の戦後史の中での深刻さもありましょうし、国際的に見た深刻さもあると思いますが、この五期を展望してどのようにお考えになるかというのを一つお聞きしたいということ。  それから、私の宿舎に自治体の方からこういうチラシが入っていました。(資料を示す)「自然 遊んで 学ぼう 子ども体験教室 参加者募集」と入っていたのでちょっと見たら、一万五千円ほどお金がかかって、小学校新四年から中学新三年まで年間を通じて九十名募集というチラシが入っていたんです。  それで、私は考えてしまいました。自然、学ぶ、遊ぼう、子供の体験というのが何かやっぱりお金がかかって、こういうふうに募集がされて遊ばせる、体験をさせるというふうな、つまり今の子供の日常の生活家庭とか地域とか学校とかというところにまさに自然とか生活の体験というのが不足しているから何か募集してお金を払ってもらって遊ばせてあげましょうみたいなことが、これが解決策として一番ベストだとは言っていません。私はやるなとは言っていないんですが、そこに解決の方向を向けていって、本来、そういう自然の体験だとか生活の体験だとか日常的に子供の感性、五感を大いに使って人間性あるいは人間関係というふうなものを育てる、そういう時間や空間が欠けていると言われている今の学校教育の中にどうやってつくるんだろう、あるいは地域の中へどうやってつくるか、家庭の中にどうやってつくるかというところの議論を大いにやっていかなきゃいけない。  そういう点で、先生は、体験学校を大いにやりながら、それと日常の学校生活家庭生活地域生活の中の自然や生活体験が消えていっているという問題とをどうやってつなげていこうとされているのか、ちょっと教えていただきたいと思います。
  28. 明石要一

    参考人明石要一君) 第五期の子供像というのは、やっぱり私はさっき言った仕切り屋を教育目標にしてほしいんです、仕切っていく。  仕切り屋をつくる場合、一番大事なのはやっぱり食べっぷりなんです。今の学生は食べっぷりが悪いから飲みっぷりも悪いんです。本当にこの二十三年間を見ていまして、コンパをやりますよね。二十年前まではビールが足らなかったんです。すぐ注文した。今はもうビールが余っちゃうんです。この胃袋の小さい学生が世界に行って日本の国を背負って戦うんですよ。これは負けちゃうね。だから、やっぱり基本的に胃袋を強くする。  胃袋が強いということは、声がでかいのですよ。今の子供は本当に声が小さいです。ぼそぼそぼそぼそしゃべっています。声が小さいし、自分の声の大きさをわかっていないんです。だから、朝礼があって体育館に集まりますと、わあんと反響する。ひそひそ話とか大声という体験がなくて、要するに屋内でひとり遊びをしていますよね。私が小さいころは外で遊びましたから、どういう声を出せば通じるかとか、ひそひそ話とかというのも遊びながら身についた。今は本当に声が小さいです。  言いたいことは、今の子供たちは朝起きてから寝るまでに声を出さなくても生活できる利便社会に住んでいるんです。  例えば、小学校二年生の一人っ子を考えましょうか。  朝起きて眠たい眼をしています。お母さんがパンにしますか御飯にしますかと、黙っていますから、すぐお母さんがパンねと言ったら、おかわりはと。ほとんど子供は声を出しません。それで、行ってきますも言いません。そのまま学校に行って、子供が遊んでいます。中には入っていけないんです。グラウンドの隅で腕を組んで、これを傍観遊びと申します。ぼうっと見ているんです、先生が来て遊ぼうと言ったら遊べるんですけれども。授業を五時間受けて、手を挙げませんから、発表しない。  おうちへ帰った場合には、お母さんの置き手紙と小遣いがあって、使ってくださいと。それを持ってコンビニに行きます。かつては駄菓子屋文化がありまして、駄菓子屋にはおばさんがいて、しゃべったんですよ。お母さん元気、元気よとか、あめ玉が入ったよとか、駄菓子屋文化には会話があったんだけれども、コンビニ文化は会話がないんです。あの若いお兄ちゃんは全然しゃべりませんから、物を入れてバーコードでがあっとやって、それで物が手に入る。  バスに乗りますよね。以前は、済みません、運転手さん、とめてくださいとしゃべったのだけれども、今はボタンを押せばとめてくれる。駅に行けば自動販売機がある。  言うならば、朝起きてから寝るまでに一言もしゃべらなくてもいい社会。高齢者には非常にいい社会だけれども、これから育つ子供には非常に不幸なんです。問題にぶつからない。そうでしょう。だから、もう困る。  そういう意味では、私は五期の世界というのは、食べっぷりと声を大きくする。議員の先生方は声がでかいと思いますから、声が小さいと選挙にも受かりませんからね。だから、そういう意味で声を大きくするということが大事かなと。  当然、ある意味では自然体験というのも、やっぱり自然体験をするとおなかがすくんですよ。だから、地域が元気というのは、夕飯どき、お母さんお父さん、おなかすいた、御飯まだという声が地域で上がってくれれば地域社会は元気なんです。だから、放課後、公園とか空き地で子供の声がする、夕飯どき隣近所からおなかすいたという声が上がってくれれば日本は健全だと思いますね。  だから、第五期はそういう子供像を描いております。
  29. 久保亘

    会長久保亘君) 以上で明石参考人に対する質疑は終了いたしました。  明石参考人には、大変お忙しい中、本調査会に長時間御出席いただきまして、まことにありがとうございました。  本日お述べいただきました貴重な御意見は今後の調査参考にさせていただきます。本調査会を代表して厚く御礼を申し上げます。  ありがとうございました。(拍手)  速記をとめてください。    〔速記中止〕
  30. 久保亘

    会長久保亘君) 速記を起こしてください。     ─────────────
  31. 久保亘

    会長久保亘君) 引き続きまして、現代の子どもの心の変化と健全育成上の課題等について、愛知学院大学情報社会政策学部教授二宮克美君に御出席いただき、御意見を承ることといたします。  この際、二宮参考人に一言ごあいさつを申し上げます。  二宮参考人におかれましては、御多忙のところ本調査会に御出席いただきまして、まことにありがとうございます。  本日は、本調査会が現在調査を進めております次世代育成と生涯能力発揮社会形成に関する件のうち子ども心身健全育成について忌憚のない御意見をお聞かせいただき、調査参考にさせていただきたいと存じます。どうぞよろしくお願いを申し上げます。  議事の進め方でございますが、まず参考人から三十分程度意見をお述べいただきました後、一時間半程度委員からの質疑にお答えいただく方法で進めてまいりたいと存じます。  質疑につきましては、あらかじめ質疑者を定めず、自由に質疑を行っていただきたいと存じます。質疑を希望される方は、挙手の上、会長の指名を待って質疑を行われるようお願いいたします。  また、時間が限られておりますので、質疑答弁とも簡潔に行っていただくようよろしくお願いいたします。  なお、参考人からの意見陳述、各委員からの質疑及びこれに対する答弁とも着席のままで結構でございます。  それでは、二宮参考人にお願いいたします。
  32. 二宮克美

    参考人(二宮克美君) 初めまして。愛知学院大学の情報社会政策学部に勤めております二宮と申します。どうぞよろしくお願いいたします。  私に与えられたテーマは、「現代の子どもの心の変化と健全育成上の課題等について」というテーマであります。  まず、その前に、最近思っていることをちょっとお話しさせていただきたいんですけれども、生きることの意味というのは何なのかなと思いまして、それはやはり幸福を求めるというか、幸せな人生を送るということだと思うんです。ところが、私たちは最後は必ず死ぬわけでありまして、死ぬというのが不幸なのかどうなのか、最近ちょっとハッピネスといいますか、ウエルビーイングというのを考えながら、我々のターミナルというのは死ぬということが必ずある。  ある意味で幸福を求めながら我々は死ぬという、不幸に陥るという逆説を学生と一緒に考えておりまして、人生の最後は必ず不幸なのだろうか、幸福な人生の終わり方というのはないのだろうかなんというようなことをちょっと考えておりました。我々は何か生きがいというのを求めるわけですけれども、確かに生きがいを求めるんですけれども、このことなら死ねるという死にがいなんというのが考えられないのか、生きがいと死にがいは両立しないのかなというのを最近学生とゼミでちょっと話をしておりまして、最近私自身が現代の子供たちあるいは高齢化の問題を考えるときに、幸福を求めつつ我々の最期を迎えるときのありようというのを発達心理学の中で考えているということであります。  申しおくれましたけれども、自己紹介ということで簡単にお話ししますと、私自身は幼児、児童の道徳性の発達について大学院に入って以来ずっと仕事をしてまいりました。そして、幼稚園児あるいは小学生の子供たちの道徳性の研究をやっておりまして、三歳、四歳の子供とひざを突き合わせながら、ピアジェというスイスの研究者の研究をしておりまして、もう三歳、四歳の子供でも本当にびっくりするぐらい素直にいろんなことを語ってくれているということが研究者としての出発点であったわけであります。その後、徐々に児童期から初期青年期、十歳ごろに興味、関心を持っておりまして、道徳性に限らず、思いやりだとかそういったものも含めて、社会性の発達に非常に興味、関心があるというところであります。  私自身がやっている心理学というのはとてもおもしろい学問でありまして、まだまだやらなきゃいけないことがたくさんあるわけでありますが、お話の中で幾つか専門用語が出てくるかもしれません。なるべく基礎的な用語の解説を入れながらお話をさせていただきたいと思います。心理学あるいは発達心理学を学んだことがある方々はどのぐらいいらっしゃいますでしょうか。話の中に因子分析だとか因子得点とかいう言葉が出てきますので、なるべくそのときにはちょっと首をかしげていただければ、私、皆さんの雰囲気を見ながら専門用語を解説させていただきたいと思います。ふだん大学では授業というと一時間半でありますので、一時間半幾らでもしゃべれるのですが、三十分ということで手短に話をしますので、ひょっとして難しい言葉が出たりして、おまえの言っていることはわけがわからぬということになるといけませんので、お互い有意義な二時間を過ごしたいと思っております。  さて、最初に現代の子供の心の変化ということで、結論として二つ先に述べさせていただきます。レジュメにも書いてありますように、まず一つは、今の子供たちの対人関係能力が少し低くなっているのではないか、二点目が、自尊感情といいますか、自分をとうとぶ感情が低くなっているのではないかという、この二点を先に結論としてお出ししたいと思います。なぜそう考えるようになったかは、私自身の研究から読み取れることをお話ししたいと思います。  まず、たくましい社会性に関する研究というのを、実は一九九〇年の五月ごろから研究に着手いたしました。その後、どういった項目で子供たち社会性をとらえたらいいかということで、いろんな方々に御意見をいただきながら、実際に調査を実施したのが一九九四年でございます。そのときには小学校五年生と中学校二年生の子供たち調査をいたしました。お手元の資料の幾つかの中に、小学校五年生と中学校二年生のものがございます。たくましい社会性を育てるというので、「日本の教育力」という本の中で少し書かせていただきました。  この本の中の第二章に小学校五年生と中学校二年生の研究結果を報告いたしました。そこでわかったことは何かということも含めていろいろお話ししたいんですが、実はそこでわかったことは、小学校五年生と中学校二年生を比べますと、小学校五年生の方が元気がよくて、中学校二年生の方が社会性とかいろんな面で下がってくるということ。これはどうしてなんだろうと。普通、心理学的な発達で言うと、小学校五年生よりも中学校二年生の方がよりたくましくなってくるのではないかということで気になりまして、当時小学校五年生だった子供たちを追跡調査いたしました。  一九九六年にその子供たち中学校一年生のちょうど一月、二月、ほぼ十カ月、十一カ月を過ぎたころに学校へ参りまして、その子供たちに同じような調査をさせていただきました。さらにその二年後、一九九八年の三月ごろに、その子供たち中学校三年生になっておりましたので、その子供たちのやはり同じような調査をいたしました。縦断的研究というんですけれども、そういう子供たちをずっと追っかけて調査していったわけであります。  その研究結果の詳細はまだ分析中でございますけれども、たまたま昨年の八月にアメリカで国際応用心理学会というのがありまして、そこで発表したものが私の手元にある一番新しい論文なものですから、それをきょうの資料の英文のところでお出ししたわけです。  まず、研究の枠組みというのは、調和、つまりたくましい社会性を、円滑な対人関係がとれ、他者との関係を築き、維持発展させ、その中で自分の欲求を実現できる能力、これを我々はたくましい社会性というふうにとらえまして、調和、つまり他人との共感性というのと向社会的コンピテンス、思いやりを示す力、そういったもの、調和の側面、それから独自性といいまして、自分はやればできるだとか自分がいろんなことに自信があるといったような側面、これを自立感ということで独自性を見ました。その結果、調和の側面、人と仲よくやっていく側面は女子の方が男子より高い、それから独自性、自分らしさを出していける側面というのは男子の方が女子より高い、そういうことがわかってきたわけであります。  さらに、調和と独自性のバランスを考えて、そのバランスの、両方高い、つまり人と調和しながら自分らしさを出していくタイプの子供たち、これはやや女子が多くて、小学校五年の方が多いというようなタイプ分けでいろいろ見ていったわけであります。  ところが、縦断データを見ましたところ、調和と独自性で高い高いとか調和が高くて独自性が高いとかそういったもの以外に、ほかの群が出てまいりました。  恐れ入りますが、英文ペーパーのページ五に書いてあります真ん中の「Fig.」一の「Cluster Pattern on Longitudinal Data」というのをもしよろしければごらんいただきたいと思います。  そこで見えてきましたのは、小五、中一、中三になるにつれてたくましさがどんどん低下していく群がわかったわけです。これは男子に多いわけでありますけれども、これはそこでいいますと「CLUSTER1」と書いてあるものでありますが、三百数名の子供たち、三百二十四名の子供たちの六十四名がそういったように小学校五年から中学校一年、そして中学校三年にかけて徐々にたくましさが減少していく子供たちが見える。「Fig.」一のところで申し上げますと、白抜きの四角のところでありますけれども、小五がありまして中一、中三というふうにありますが、それが徐々に下がっている、そういう子供たちが六十四名おりました。  逆の子供たちもおりまして、それは「CLUSTER6」であります。四十八名の子供たちでありますが、丸がこうなったりこうなったりしながらも、小五、中一、中三に向けて上昇していくタイプ、みんながこういうふうになってくれればいいんですけれども、こういう子供たちもおりましたが、それは四十八名でありました。  というように、縦断データをじっと眺めておりますと、一貫してHH、調和も独自性も高いという子供たちは「CLUSTER5」であります。そこでは男子二十二名、女子三十二名という、「Proportion of Clusters」のところに書いてありますけれども、男子がやや少ないですね。調和が高くて独自性も高いという子供たちは女の子に多い。女の子が一番多いのは何かというと「CLUSTER4」でありまして、「CLUSTER4」は、調和、他人とうまくやっていくけれども自分らしさをちょっと出しにくいタイプの子供たちが四十六名、女の子では一番多かったわけであります。ちなみに、男子で一番多いのは四十一名の「CLUSTER2」であります。四十一名おりまして、LL、つまり独自性も調和もうまく出し切れないタイプの子供たちがいた。  こういうことから、低下していく群が多くて、なおかつ自分らしさも、人ともうまくやっていかれない子供たち、ここから私は、対人関係能力が低下しているんではないか、少なくとも自分の研究結果からはそういうことが言えるんではないかということを申し上げたわけであります。  それからもう一つは、今細かい分析はお話ししませんが、三ページの真ん中あたりに「Fig. Self-efficacy」と書いてありますが、そこを見ますと、これは自己効力感ですけれども、小五と中一、中三を見ますと、まあ男子と女子の差がありますが、学年進行によって見事に下がっている。つまり、自分はやればできるという意識が、感覚が小学校五年生の方が一番高くて、中一、中三になるにつれてだんだんとそういう気持ちが低下していくということ、これは自尊感情の低下と私が呼んだことであります。  それから、日米比較も実はやっておりまして、日本とアメリカの子供の共感性なんかを見ますと、日本の子供の方が共感性が高いわけでありますが、アメリカの子供の方は先ほど申し上げましたように自己効力感が高い。つまり、自分はやればできるんだという意識はアメリカの子供の方が高いということがわかっております。  そういうことからいろんな教育的な提言ができると思いますけれども、子供たちのたくましさを育てるためには、日本特有の共感性が高いという側面を利用いたしまして、そういう人との調和をきちっと図りながら、なおかつそこで自分らしさを出していかれるような教育的なストラテジーといいますか手段を考えた方がいいんじゃないかということを「日本の教育力」という本の中でもちょっとお話をさせていただきました。  それから、きょう用意いたしました二つ目の中学生、高校生の学校生活に対する意識の研究というのを「変貌する社会と青年の心理」という本の中で出したわけでありますが、実はこの調査はもう既に一九八五年、八六年に私自身が調査をしておりまして、今から考えてみますと十何年前のデータでありますが、その当時中学校一年生それから高校一、二年生に実施した調査で、もう既に十四、五年前に我が国の中学生、高校生にこういう特徴が読み取れていた。つまり、学校に適応していくというのは、中学生の方が高校生よりも適応している。高校生との比較の問題でありますが、中学生の方が学校に適応しているんだとか、男女を比べますと男子の方が学校適応をしているらしいということがわかっております。  それから、仲間志向ということでありまして、仲間とわいわいやれる。これは男女差がありまして、女の子の方が仲間志向であります。ところが、仲間志向も、中学生の方は仲間志向で高校生はだんだんと仲間との関係というのは疎遠になってきまして、学年進行によって対人関係能力が低下するということが十四、五年前の私のデータを見ますと読み取れてくるわけであります。  と同時に、先ほど自尊感情ということを申し上げました。自分をとうとく思う感じでありますが、これも学校に適応している者の方が高いわけであります。得点としては、五点尺度、非常に感じる、たまに感じる、どちらとも言えないという五点尺度で決めて、三点がどちらでもないですけれども、それよりも点数が低い。つまり、我が国の高校生なんかは自分を余りとうとく思っていないというんですか、自分はだめなんじゃないかというふうに思い始めている。それは特に女子に多い。つまり、自尊感情が非常に低いということ。これも、細かい分析をしますと成績学歴尊重主義の弊害ではないかということを少しこの本に書いております。  十年前の研究でもそういうことが少し言われている。つまり、対人関係能力の低下とそれから自尊感情の低下というのが読み取れるんではないか。  最後にお話しします教師権威の研究を最近、一九九七年、九八年とここのところやっておりますけれども、研究のねらいは、我々が対人関係を円滑に進めていくためには幾つか守らなけりゃならないルールというのがあるわけです。そういう社会的なルールというのはどういうふうに習得していくんだろうかというのが研究の出発点でありました。  そもそも我々の例えば廊下を走っちゃいけないだとか御飯を食べる前には手を洗いなさいだとかというようなことのルールは、お母さんお父さんあるいは学校先生方から二つのチャンネルを通して子供たちに伝えられているだろう。一つはしなさいのルール、つまりリクエストです。こうしなさいああしなさいというような形で子供にルールが伝えられていく。もう一つは、しちゃいけませんよ、禁止のルールです。そういう二つのチャンネルで我々が子供たちにいろんなルールを伝えていくんだということから、お母さん方にも調査したデータもあるわけですが、今ここではそれは触れないことにします。  じゃ、我々が子供たちに伝えていくルールというのはどんなものがあるのか。その一番は道徳のルールです。つまり、人を殺してはいけない、うそをついてはいけない、これは道徳のルールです。それから慣習のルール。つまり、あいさつをしようだとか、まあ、あいさつをしなくたっていいわけですけれども、でも、ちょっとあいつおかしいなというように思われるぐらいで。あいさつだとか人を呼び捨てにするだとか、こういったのは本人がどう思うか、もちろん道徳と思うのか慣習と思うのか、これは専門語でいくと領域調整のところであります。そのほかに、手を洗いなさい、熱いものをさわっちゃだめよ、危ないものをさわっちゃだめよというような、健康だとかそういう自己管理に関連するようなルール。  そういうルールについていいか悪いか、そして規則をつくることがいいか悪いか、先生がそういうことを決めていいかどうか、自分たちで決められるかどうかというようなことを教師権威との絡みで研究したのがお手元の資料の一番最後のところ、実はこの論文は書きたてのほやほやでありまして、まだ学会発表が済んでおりません。この九月に日本心理学会で私が発表する資料でありまして、ちょうどこういうお話があったときに論文を書いておりましたので、ちょうどいい機会だと思ってこの資料を持ってまいりました。  そこで、図1と図2をごらんいただくとわかりますように、白抜き丸は道徳でありますが、道徳について先生がそういうことを決めていいかというと、小学校五年生ですといいよというのが九〇%を超えるわけですけれども、それが高校二年生だと五〇%まで落ち込むわけです。道徳についても先生は口を出すなというようなことがここから読み取れるんです。そうすると、我々が子供たち社会的ルールを伝えていく、子供たち先生がそういうことを言っていいかどうかというと、見事に低下してきている。これは少し問題ではないかというのが私自身のこのデータから読み取れるところであります。  当然ながら、個人領域というのは、例えばそれは自分で決めていいよ、具体的に個人領域というのは髪型ですね、茶髪だとか長髪に変えるというのはいいか悪いかと子供たちに聞いているわけです。それは黒四角でありますが、これは個人的権限の方を見ていただければわかりますように、小学校五年生でも五〇%ぐらいの子供たち自分の髪の毛は自分で決めていいよと思っている。それが徐々に、大学二年生ぐらいになりますとほとんどもう全員が髪のことなんかは自分で決められるというふうに、我々大人が考えているルールを守れということと、子供たち自分たちで決められるとか自分たちで何かやれるという意識にこういうような変化がある。  つまり、最後の方に書きましたけれども、個人的権限が非常に上昇する。そういう意味では非常に青年期としては望ましいことだとは思いますけれども、道徳に関してもそういうことが言われるようになるとちょっとどうかなという感じがしております。  以上、私の幾つかやっている研究の中から三つの研究を取り上げて、最初の対人関係能力の低下あるいは自尊感情の低下についてお話をいたしました。  当然ながら、健全育成上の課題等について、そこにも書きましたように、対人関係を築き維持する力の養成をしていかなきゃいけないんじゃないか。そのためには、当然ながら、社会的なスキルといいますけれども、あいさつをする、お話を聞く、お礼を言う、もう本当に基本的なスキルから、いらいらとした感情の処理の仕方を学んでいくだとかストレスを処理するスキルとか、そういったものを学ばなきゃいけないんじゃないかということをそこに書きました。それが、多分さっき文部省の方でも言われているような豊かな心の教育につながっていくんではないか。  それから、自尊感情を育てるということでいいますと、やはり子供たちというのは非常に今つらいマイナスイメージの中で育っているといいますか、だめだ、だめだ、だめだと人間五回おまえはだめだよと言われると、だんだんがくっとなってやる気をなくしてどうせなんていうふうに横を向いてしまうようになるわけですが、子供にとって、やっぱり自分の持っている力を信じて、自分はこういうことができるんだというような達成感といいますか、そういったものを高めるようなことがどうしても必要なんじゃないか、それこそがそれぞれの子供の持つ生きる力というのを育てていくのではないかと思います。  最後にちょっと大胆な提言をしております。これは半分冗談で半分本気なんでありますけれども、幾つかの提言が考えられると思いますが、まず短期的な施策は幾つかの文部省等の答申等で、現職教員の再教育をどんどんしなきゃいけないということはもう手が打たれております。もちろん、教員養成審議会の答申に基づいて平成十年六月に教員免許法が改正されまして、そうした教育を受けて実際に学校先生になっていく学生は三年先であります。ですから、すぐにでも教育相談、生徒指導などの強化を学校教育の現場にいる現職の先生方に非常に理解してもらって事に当たってもらう、これはある意味で短期的なものだと思うんです。  中長期的な施策でいいますと、情報という科目が高等学校の必修科目になりましたけれども、心理学という科目を選択科目でもいいから入れたらどうかというのが提言であります。  一番最初にも申し上げましたように非常に心理学はおもしろいわけでありますが、御存じのように大学になって初めて心理学という科目が正式に講ぜられるわけですけれども、育児だとかあるいは夫婦関係の問題、人間関係の問題というのは、発達心理学や性格心理学や社会心理学あるいは臨床心理学などの知識というのが非常に役に立つわけでありまして、高校生は十年先にはもうお父さんお母さんになっているわけです。だから、高校生にそういう科目をわかりやすくかみ砕いてやることによって結構役に立つんじゃないか。情報という科目ももちろん必要でありますし、それから養護とかそういう科目も必要でありますけれども、そういう心理学なんかをやるといいなというのが私の願望であります。  まさに大学にまで来てしか聞けない科目を、九十何%が行く高等学校で教えることこそ意義があるんではないか。ですから、すぐとは申しませんけれども、中長期的に心理学という科目を高等学校授業科目の選択科目としてやっていただきたいというのが一つの提案であります。  たまたま日本心理学会では高校の選択科目にしたいという動きがあるようでありまして、それは学会長みずからもおっしゃっています。お隣の中国では中学生に対する心理学のテキストが出始めているという状況でありまして、二十年ぐらい前ですと中国はそんな状況ではなかったんですが、最近、日本心理学会の会長が行かれましたら向こうはもう中学生にもそういうテーマで教科が設定されているということで、日本でもやったらどうかなという願望があるようであります。  私に与えられた時間、三十分に間もなくなろうと思いますが、一応ここで私が用意してきたお話、現代の子供の心の変化ということで二点ほど、対人関係能力の低下と自尊感情の低下が指摘できる、それからそれに対する育成の問題として社会的スキルといったものを育成したらどうか、あるいは自己効力感といったものを持たせたらどうかということをお話しさせていただきました。  以上で私の話をおしまいにいたします。
  33. 久保亘

    会長久保亘君) 以上で二宮参考人意見陳述は終わりました。     ─────────────
  34. 久保亘

    会長久保亘君) この際、委員異動について御報告いたします。  本日、小川敏夫君が委員辞任され、その補欠として竹村泰子君が選任されました。     ─────────────
  35. 久保亘

    会長久保亘君) これより参考人に対する質疑を行います。  質疑は午後五時ごろまでをめどとさせていただきます。質疑を希望される方は、挙手の上、会長の指名を待って質疑を行われるようお願いいたします。  それでは、質疑のある方は挙手をお願いいたします。
  36. 松村龍二

    ○松村龍二君 学級崩壊ということと関連して、先ほどの先生のお話はいろいろあったわけですけれども、小学校学年における学級崩壊がテレビ等でも報道になるんですが、保育園というのは現在非常に重宝されて、ゼロ歳児保育とか一歳児保育とか、保育園に入れないと親としてぐあいが悪いというぐらい保育園がもてはやされるわけですけれども、保育園というのは教育という観点がなく、ないと言っては語弊がありますが、何とかみんな和やかに生活してもらうということが中心にあるんじゃないか。  先般、当調査会で鹿児島、宮崎の方へ出張に行ってまいりまして、それである小学校へ行きましたら、近くの保育園の来年小学校へ入る子供学校へ来てもらって音楽訓練の授業を見せて、それで学校に入る心構えをしてもらう、そしてそのときにその保育園の先生小学校に期待される教育というのはこういうものかということを認識して帰るというふうなお話を聞いたんです。  現在の保育園の教育が何か先生が御指摘のような問題にも関係しているんじゃないかというような気がするんですけれども、その辺について御意見をお聞かせいただければありがたいと思います。
  37. 二宮克美

    参考人(二宮克美君) 私自身、きょうお話しさせていただいた幾つかのデータの中で、実は保育園の子供たちには調査が、子供たち調査を受けられないというか、こちらで面接しなきゃいけないのであれですが、それで自分自身その子供たちのデータを持っておりませんのできちんとしたお答えになるかどうかわかりませんけれども、確かに保育園の子供たちが一日の多くの時間を保育園で和やかに過ごすということは非常に大事なことでありますし、そういう保育園の子供たち小学校のお兄ちゃんお姉ちゃんの授業、音楽にしろ図工にしろ、どんな科目でも結構でありますけれども、見ていくということは非常に大事なことだと思います。  それで、学級崩壊についてちょっとお触れになられました。これはいろいろな観点から実は、多分教育学、社会学あるいは心理学の観点からお話しできるかと思います。私自身は学級崩壊について直接扱っているわけではございませんのであれですが、非常に直感的に申し上げますならば、ある意味子供たちが今異議申し立てをしているんじゃないかというふうに僕はとらえている。ですから、教育を今から変えていく絶好の転機であるんじゃないかなということであります。それでお答えになりますでしょうか。
  38. 松村龍二

    ○松村龍二君 先生、学問的にすべて統計その他実証的に研究されてお話しされるということかと思いますが、そうなると私どもちょっと非常にわかりにくくて、先生は昔から幼児の心理学からされてここに至っておられるわけですから、そういう御経験から直感的にもそういうようなことを日ごろお考えかと思うんですけれども、ざっくばらんなお話を聞かせていただければありがたいと思うんです。
  39. 二宮克美

    参考人(二宮克美君) 私自身、今の保育園あるいは小学校の低学年子供というのは、十年前、二十年前、私が保育園やなんかに行って子供たちと接したのとそう変わっていない、子供らしさというのは変わっていないんじゃないか。むしろそういう子供たちが育っている、あるいは住んでいる環境、我々は文脈と言いますけれども、それがやっぱり変化してきているんじゃないか。  つまり、青年を理解するときに、我々だって青年期はあったわけでありまして、その青年らしさというのは今の青年にもやっぱり青年らしさはある。ところが、我々が青年期だったころと今の青年たちが過ごしている青年期というのに違いがあるのは、それは世代性だと思うんです、あるいは時代性と言ってもいいと思います。だから、子供もやっぱり子供らしさは僕はあると思うんです。時代性あるいは世代性に彩られてその子供らしさの輝き方、出方が違っているんじゃないかということであります。
  40. 松村龍二

    ○松村龍二君 私は直感的なことでお話をお伺いしているんですが、私が聞きたいのは、現在学級崩壊というような現象がどんどん進んできておる、そういう背景に幼稚園よりも保育園の方に比重がだんだん社会の中で大きくなっているということを現場でも聞くわけですけれども、保育園というのは教育的秩序とか訓練とかそういうことよりも和やかに時を過ごさせるということにどっちかというと重さがあるんではないか。そのまま小学校へ入ってきますと、学校の方は今度は秩序とか一つの教育という観点からやったときに、子供の方からしますと何でそういうことを厳しく言われたりするのかが低学年、一歳児、ゼロ歳児から保育で育った子供にはわからないといった混乱があるのではないかというふうにちょっと大胆な仮説を考えてみるわけなんですが、そのことについてどういうふうにお考えでしょうか。
  41. 二宮克美

    参考人(二宮克美君) 僕は必ずしもそうは思いません。  私が住んでいる地域では幼稚園よりも保育園がたくさんあるというか、むしろほとんどの子供たちが保育園という場で小学校前の時期を過ごしていきます。保育園を出た子と幼稚園を出た子でそういう学級崩壊につながる社会的なルールが守られないというようなことは僕はないと思いますし、ないと願いたいです。むしろ保育園の保母さんたちも十分、例えば食事の前に手を洗おうだとかあるいは集団で何かやろうというようなことは腐心されているんじゃないか。だから、保育園出身者と幼稚園出身者で小学校へ行って学級崩壊をうわっとやっているのは必ずしも保育園出身者が多いんだというふうにはちょっと、済みません、直感的で、私データを持っておりませんのであれですが、とは思わないというのが私の意見でございます。
  42. 松村龍二

    ○松村龍二君 どうもありがとうございました。
  43. 国井正幸

    ○国井正幸君 先生から今、現代の子供の心の変化ということで、一つは対人関係能力が極めて低下しているということ、もう一つは自尊感情が低くなっている、こういうふうなことで問題提起があったわけでありますが、私も特に自尊感情の低下ということを聞いて、子供自殺ということをちょっと思い出すんです。  私は先生より何ぼか先に生まれたぐらいでそう違いもないんですが、我々の子供のころは少なくとも中学生や高校生ぐらいで自殺ということはまず考えられなかったことなんですね。ところが、今マスコミ等でしきりにそれが報道されているんです。もちろん自殺するまでにはいろんな心の葛藤というか、そういう部分というのは相当なものがあるんだというふうに思うんです。そのためには人間関係を、対人関係をきちっとつくれないという欠陥もあるかもしれないんですが、この自尊感情の低下ということと今起きている子供たち自殺子供たちの心の中は一体どんなふうな精神構造になっちゃっているんだろう。  生きるという力が、あるいは生命に対する執着というものがそんなになくなっちゃったのか。極めてゆゆしきことだと思うんですが、特に自信を持ってこれからたくましく生きていく、次の世代を担っていく子供たちにそういう状況の中で我々が今できることというのは何なのだろう。その辺を、子供たちの精神分析、心理学を含めての精神分析を含めて対応策等について先生のお考えをちょっとお聞かせいただきたいと思うんです。
  44. 二宮克美

    参考人(二宮克美君) 今、先生御指摘の子供自殺という問題でありますが、先生方御存じのように、我が国の自殺の件数は子供たち、高齢者も含めて年間二万件を超えている。これは既遂でありまして、うまくと言うと言葉に語弊がありますが、自殺が成功したのが二万。ということは、未遂に終わっているのはもう少しもちろんあるわけであります。  非常に自殺というのは難しいテーマでありまして、それだけの国民が命をみずから絶っているということは、交通死亡事故統計よりも多いわけであります。ましてや、これから未来が洋々たる者たちがみずからの命を絶っていくことというのは本当に残念でならないわけであります。  そこで、どうやってとめたらいいか。これは、私は臨床心理学だとか精神医学の領域ではございませんので細かいメカニズムというのはわかりませんし、わかっておればそんな毎年二万人を超えるような自殺者が出るわけはないわけでして、なかなかわからない。もし知りたくても、もう彼らは亡くなっておりますので、どういう気持ちで死んだのかというのは聞けないわけであります。  一つは、やっぱり孤独感、孤立無援感というものが、最後だれも自分は助けられない、助けてもらえない、自分の話も聞いてくれないというようなこと。先ほど申し上げました、自分をとうとぶ感情というのがぐっと減っていくわけです。自分なんかいなくたっていいんじゃないか、どうせ自分なんかというような気持ちが出てきて、自分を矮小化して命を絶つというようなメカニズムが働いているんじゃないかと思うんです。  そのときに、一人でもいいからその子供の声を聞いてくれる、あるいはその子供を支えてくれる人がいる。たくさんいなくていいんです。私は、対人関係能力の低下というのは、八方美人にいろいろ人と何かやりなさいということを言っているわけじゃなくて、自分のことを本当に伝え、それでわかってもらえる親友が一人おれば防げる問題だと思うんです。  ところが、今の若い者たちというのは、人のプライバシーにも踏み込みたくないし、自分のプライバシーにも踏み込まれたくないんです。だから、表面的には非常につき合っていますけれども、対人関係の深まりがあればあるほどお互いがお利口さん的に生きられないですね。やっぱり、対人関係の密度が濃くなればけんかもあり、口論もあり、意見の食い違いもある。そういうところまでいく前に彼らはぽっと人間関係を引いちゃう。夫婦関係でも何でもそうですけれども、夫婦げんかがあれば案外夫婦はうまくいくんですが、夫婦げんかにいく前に会話がないものですから夫婦げんかにいかない。  人間関係というのは、いいときもありますけれども悪いときもあるんです。そういうものの経験が彼らはないものですから、やっぱり子供たち同士の人間関係の深まりというのも不足している。だから、自殺という問題も、そういう自尊感情あるいは対人関係能力という面から少しずつ支えてやることによって減っていくんではないか。単純にはいかないと思います。  だから、僕は社会的スキルという言葉をちょっとどこかで申し上げたと思います。おはよう、おはようと言い合える仲間。きょう、どう、元気、うん、元気だよ、これは対人関係を円滑にするんです。おはようと言っても知らん顔して向こうへ行っちゃったとか、元気と言ってもそんなことおまえに関係あるかと、こう言われたら話の接ぎ穂がつないでいけないです。これが実は今の若者たちというのは案外下手くそでありまして、朝も昼も夜もおはようです。普通、我々は夜だとこんばんはとか言いますけれども、そういう基本的な、あいさつというよりも社会的スキルといいますけれども、そういうことから教えていかなきゃいけない。これは学習できるものだと僕は思っています。  ですから、子供自殺というのは非常に残念なことであります。それを何とかなくしたいと思う。それは僕も全く同感であります。それから、臨床心理学や精神医学がそういったことに関していろいろ発言しておりますけれども、年間二万人を下らないという現状を見ますと、やっぱり最後は教育の力をまつべきだと。  要するに、一人一人が、自分がこの世で一回限りの、たった一回の人生を、ほかの人ととってかわることのない独自的な存在であるということをまず知る。それが一人一人を大切にする教育ということになるかもしれません。それは自尊感情につながっていくだろうし、対人関係を少しずつ、たった一人でいいと思うんです、そんな十人も二十人も死ぬぞ死ぬぞなんて言わなくても、おれ、ちょっと疲れちゃってあれだよ、ちょっと待ってくれ、おまえの話を聞くからと言って夜中でも駆けつけてくれる子供がだれかおればいい。それはお父さんでもお母さんでも構いません。  というふうに僕は思いますが、いかがでしょうか。
  45. 山本保

    ○山本保君 公明党の山本保です。  私は名古屋大学の農学部を出ていまして、先生とは同じころにいたんですが、その後で厚生省の専門官をやっておりました。  御質問の前に、今のお話にちょっとだけ、これは記録に残りますので。  まず、幼稚園教育要領というものと保育指針というのがございまして、一度見ていただければいいですが、ほとんど今差はありませんで、幼稚園と保育園の中での内容、特に教育的な内容については基本としては差はないというふうになっております。  それから、自殺については、これは私、きょう資料がないんであれですが、子供自殺は日本はたしか世界で一番低い部類に入っておるはずでございまして、お年寄りの自殺が非常に多い国だと思いました。これは記録、また後のことがございますので、ちょっとそれについて今私なりの意見を補足させていただきたいと思っております。  二宮先生、どうもありがとうございました。  実は、私もちょうど同じころに、特に私は非行少年のことが好きで、非行少年たちにどうやって自尊感情を、また思いやりの心をつけたらいいかということで大分苦労しておりまして、御存じだと思いますが、当時東工大におられたんですが、菊池章夫先生と一緒に勉強などしまして、こういう思いやりの心から、菊池先生自体がそうだったんですが、いかにそれを身につけさせるかということで今のソーシャルスキルというふうなところへ私も入っていきました。  日本の学校教育の中では、特に道徳教育というものの中でさっきおっしゃったような人間関係をつくっていくとか、また具体的な問題の中でそれをどうやって解決していくのか。よく御存じのように、コールバーグなどがアメリカで道徳教育論を改革するわけですけれども、日本の場合は、いつまでたっても人に悪いことをしちゃいかぬとか、何かありきたりの徳目を頭から覚えて、それを覚えておればいい子供になる、いい人間になると。こうじゃなくて、実際にはさまざまな葛藤場面の中で、そして多様な面を子供たちが理解しながら、その中でよりよい判断をしていくという、そういう指導が日本にないわけです。  ですから、その辺は、私の方からお話しするよりも、先生は専門家でございますので、先ほどのスキルのことと、できれば日本の道徳教育の問題点というふうなものを少しお話ししていただこうかなというふうに一点思います。  それからもう一つは、これは先生は専門家でございますからそれ以上はもう踏み出さないということであるかもしれませんが、もし可能であるならば、先ほど心理学を高校の科目にという具体的な提言がございましたけれども、それに加えて何か、例えば学校教師の教職課程の中で、私も経験があるんですが、どうも心理学が非常に弱いような気がしまして、発達心理なども通り一遍で過ぎているんじゃないか、本当に問題を持っている子供の状況を見るために役に立っていないんじゃないかななんということも思うんです。  これとか、またはもう少し教育制度論的なというんですか、学校運営論的に今の学校教育が、これは先ほど明石先生が大分言われたところなのでありますけれども、今の学校教育自体がどういう問題を持っているのかということを心理学の専門家としてお話ししていただけたらなと思いますけれども、いかがでございましょうか。
  46. 二宮克美

    参考人(二宮克美君) 自殺のことからまずお答えしますが、平成九年に警察が把握した少年の自殺は四百六十九名でございます。私、二万人と申し上げました。これは日本人全体でありまして、今御指摘のように青少年の自殺は他の国に比べて非常に少ないといいますが、でも高校生は百六十六名でありまして、やはりそういう百六十六名といえども非常に貴重な命を失っている。  ちなみに申しますと、男子と女子と比べますと、これは男子の方が圧倒的に多いわけでありまして、自殺は昔から男の人が多いということで、男は生きにくい世の中、済みません、いや、統計上からいきますと間違いなく男子の方が女子に比べると多いんです。これはどうしてか。逆転する年が起きてもいいかなと思うんですけれども、残念ながら男子の方が自殺が多いということは事実としてあります。  それから、青少年の自殺の話でいいますと、非常に少ない。少ないといっても貴重な命ですからないがしろにできませんけれども、たまたま青少年白書のつい最近出たのにたしか載っていたなと思って今出しました。  さて、日本の道徳教育の問題点についてということで、まさかここで菊池章夫先生のお名前が出るとは思いませんでした。実は私は菊池章夫先生と「思いやり行動の発達心理」という本を翻訳しておりまして、その原著者のナンシー・アイゼンバーグというのは、この三月に来まして、また三月に大阪で一緒に、私が司会をして、思いやりとかアメリカの問題点等も聞きながら少し考えていかなきゃいけないと思っております。  日本の道徳教育の問題点ということでいろいろ常日ごろ考えていることを率直に申し上げますと、小中高等学校先生が道徳教育を行うための教員養成の段階で何を学んだかというと、たかだか二単位の半期物のものを学んでいただけでありまして、いろんなところを見させていただきますと、道徳教育に熱心な先生方は道徳の授業が非常にうまいわけでありますけれども、ほとんどの先生は道徳というのを教えるのを苦手としていらっしゃる。それは、今御指摘のように徳目を教えるとか、そういうことで本当に道徳というのをきちんと考えさせていないんじゃないかという指摘はあると思います。  実は一番最後に私が持ってきたお話は、エリオット・テューリエルという、ちょうど十年前に私はアメリカにいまして、向こうの研究者と一年間ずっと仕事をしていたわけですが、彼がいろいろ僕に質問をするわけです。教室でだれかがけがをした、そのとき子供は廊下を走っちゃいけないというのでゆっくり歩いていった、これは道徳的だろうかと。あるいは、けがをしたからといって、これは大変だというので慌てて保健室とか職員室に廊下を走るなというルールを無視してたあっと走って先生大変だよと呼んでくる子供が道徳的なんだろうか。  つまり、我々の慣習では、廊下を走っちゃいけないとか、便所のげたはそろえなきゃいけないとかというふうな慣習的な行いで道徳をしていたんですけれども、道徳というのは、慣習的な行いから、いや、これが本当の道徳だろうかという頭で反省的あるいは内省的なふうにルールを疑うところで初めて道徳が身につくんだということです。そういうことを子供たちに投げかけ、子供たちとディスカッションできるような教育が本当に行われているかというと、残念ながら行われていない。  コールバーグの話が出てきましたので、私も生前、コールバーグと何度もお話をいたしましたが、彼はやはりそうやって子供に揺さぶりをかけながら、本当に人の命を大事にするとか人の権利を大事にするのはどういうことかということをやっていたわけです。アメリカ、ハーバード近辺でやっていた。  そういうことで、日本の道徳教育の問題点といいますと、道徳を教える先生が苦手としていらっしゃる。だから、しかも大学でせいぜい二単位の科目でありますので、そういう道徳の教育をもっと先生方が素直に自分の教科、社会とか理科とか国語を教えるような形でやっていけるように力をつけなきゃいけないなと思うんです。  それから二点目であります。教職課程に絡んでということで、学校運営との問題も御指摘いただきました。  これも私、自分の専門外でありますが、たまたま身近に小学校中学校先生が身内も含めておりますので、実はきょうここへお招きいただくまでに二週間ほどありましたので、いろんな人にいろんな意見を聞いてまいりました。  それで、ふと思ったこと、これは確かにそうかなと思うのは、小学校中学校では大きく先生方のありようが違いまして、御存じのように中学校というのは教科担任制であります。小学校は学級担任制であります。もちろん音楽の授業だとか体育の専科の先生はいらっしゃいますけれども、一年間小学校先生というのは子供たちと過ごすわけでありますが、お互いが非常に窮屈になり始めると先生の言うことを聞かないとかいうことになる。だから、小学校もチームティーチングということをやられていますが、それはまだちょっと甘くて、例えば理科理科で専門の先生が教える、あるいは社会社会で専門の先生が教えるというように、緩やかな教科担任制をとりつつ、いわゆる担任の先生というふうにしておかないと、子供が担任の先生と反りが合わなくなるともうその先生に対してばっと異議申し立て、あの先生の言うこと聞くかということになっていく。お互い苦しいわけです。  ところが、理科先生はおもしろい、理科先生にいろいろ相談しようかな、音楽の先生に相談しようかなというふうにして、小学校のころから多様な先生、多様な教え方、一人の先生とうまくやっていけというよりも、何人かの先生とはうまくやれないけれどもこの先生には大丈夫だよというふうになれば、案外先生の方も気が楽ですし、子供の方も気が楽である。  そういう意味で、私はちょっと専門外でありますが、たまたま兄が小学校の校長やっていたり、義理の弟が小学校先生やったり、中学校先生を何人かやっているものですから、何か問題点あるかなと言ったら、小学校先生はある意味子供たちの前でスーパーマンを演じているわけでありまして、大学の国語科出ても小学校先生になったら理科社会も体育も教えなきゃいかぬ。  それは、国語を教えるように大学では学んできたのに、小学校へ行ったら理科をやらなきゃ、ビーカーの洗い方からガスバーナーのつけ方から、ほとんど自分中学校でしか習っていないことをもう一遍教師になったからといってやり直すようなことになっているわけでありまして、やはりもう少し緩やかな教科担任制というものを小学校にも入れたらいいんじゃないか。それは予算的な措置はほとんど要らなくて、その学校の中に多様な教科を専門とする先生がいらっしゃるわけですから、お互いが得意なところで得意な授業をやられた方が教師もメンタルヘルス、精神的にも健康になるだろうし、子供たちも一人の先生とはうまくいかないけれどもこの先生とはうまくいくというふうに、子供もリラックスできるんじゃないか。そういうふうに、ちょっと申しわけないです、自分の心理学から離れて常日ごろちょっと思っていることであります。
  47. 山本保

    ○山本保君 ありがとうございました。
  48. 清水澄子

    ○清水澄子君 社会民主党の清水です。  まず、先生のレジュメで御質問させてください。  一つ目の「たくましい社会性に関する研究」というところで、女子は調和の側面は強いが独自性の側面が弱い者が多いとか、それから自尊感情は女子の方が全体的に低いという二つの例をお出しになっております。その理由というのは一体何なのでしょうか。ジェンダーといいますか、性別役割意識の問題との関係があるかどうかということ、これが一点です。  それから、人との関係とか自尊感情を育てていくときに、日本では一人一人違うという、この違いというものを余り認めたがらないですね。ですから、もっと一人一人の違い、あなたにはあなたのよさがあるという、そういう違いを認め合うような多様性というのですか、それを認め合うような関係性をつくり出さないと、自分がいつもマイナス思考で他人と比べてばかり、親も比べますし、そういうことが影響しているのじゃないかなと思うのですが、その点が一つ。  それをどうお考えになるかということと、心理学を今現実に私立かどこかの高校で実践しているところはありますか、教えている。それがあったら、教え方というのはどういうふうに教えておられるかという具体的な事例をちょっと聞かせてください。
  49. 二宮克美

    参考人(二宮克美君) まず、女子が非常に調和の側面が強くて独自性の側面が弱いというものです。  これは、事実としてデータがそうなっておりまして、今御指摘のように我々も性役割期待といいますか、そういうもの、つまり男らしさ女らしさで、女の子は周りの人と調和して余り自分を出さない方がいいんだよという性役割みたいなものが絡んでいる可能性はあります。ただし、これは実際に性役割に関連する項目を聞いておりませんのではっきりは実証できないのですけれども、恐らくそれはあると思います。  それが悪いわけではありませんでして、両方とも高いHH群も女の子に多いわけでありまして、人と調和しながらなおかつ自分を出しているのも男の子より女の子の方が多いのですね。そういう意味では、全体的に見ると女の子の方がたくましいのかなと。男の子は調和は下手くそですけれども自分をがっと出すというタイプがおって、つまりぽこんとかやったりしちゃうタイプの人がいる。そういう意味で、確かに性役割はあり得るだろうけれどもというレベルでお話をとめさせていただきたいと思います。  それから、違いを認めたがらない、多様性を認め合うということで自尊心との問題、それは御指摘のとおりだと思います。  日米の比較をしたときも、アメリカの子供たちの自尊感というのは非常に高い。自己効力感、自分もやればできるのだというか、それは多様性を認めて、人と自分との個性の違いというのを認め合っていっているわけですから、それは当然あると思うのですね。私自身もそうですし、私もアメリカに行ったときに一年間子供たちを現地の学校にぽんと入れたわけであります。小学校のころでありましたけれども、髪の毛が茶色だろうが目の色が何色だろうが、もうみんな本当に多様なのです。だから、子供たちは何も思わないのですね。ところが、日本に帰ってきたときにみんなはこうでなきゃいけないというような発想があって、やっぱりちょっと戸惑ったようであります。多様性を認めるということが大事であるということは御指摘のとおりであります。  それから、心理学の問題です。  心理学という科目をダイレクトに心理学という看板で教えているところは残念ながら知りませんけれども、実は心理学の知識を倫理社会ではやっているのです。あるいは家庭科の中でも少しいわゆる発達心理学的なことではやっているのです。ですから、やっているのですけれども、高校生たちにしてみればそれが心理学と思わないものですから、本当は少しずつそういう教科の中でエリクソンの話だとかあるのですけれども、心理学という学問体系をそういういろんなところで切り売りしない、切り売りというか、言葉がうまく出てきませんが、ばらばらにしないで心理学という学問体系の中で論じてほしいなと思います。  ちょうどここに「心理学ワールド」、日本心理学会が、日本の心理学者が入っている学会でありますが、この「心理学ワールド」という中に、先ほどちょっと引用させてもらいましたけれども、読ませていただいてよろしいでしょうか。  東先生が、今、日本心理学会の会長でいらっしゃいますが、   去る九月に北京を訪れる機会があった。その折のこと、「中学生のための心理学の教科書もつくっています」、北京師範大学の林崇徳教授が児童心理研究所の諸活動を紹介しながら付け加えた。まだ心理学という教科があるわけではないが、「心理健康教育」を多くの学校で実験的に導入しているらしい。教科書三巻のうちの第一巻(中学一年生用)はまず「新しい友を知ろう」という章で自分と友人の性格嗜好などを比べ、次に「小学生と中学生」で学習の自律性を考え、以下「昨日までの私」「人はそれぞれ」「私の気質」「内向と外向」「大脳を知ろう」「真の賢さ」というふうに十八章まで、自己認知、対人認知、学習法などが中学生向きに漫画入りでまとめられている。  以下省略いたしますけれども、昭和三十年ごろにある先生は、心理学に対する一般的な理解を深めるばかりでなく、若い人たちが自分の心のケアを考えることができるようにするということで、高校の選択科目に心理学を入れたいとおっしゃっていた。これは結局実現はいまだにしておりませんけれども、心の教育とか何か考えるときに、心理学の基盤というものを高校生に十分僕は教えられるのではないか。ということで、ちょっと半分冗談でありながら、半分本気で申し上げたわけでございます。
  50. 清水澄子

    ○清水澄子君 ありがとうございました。
  51. 畑野君枝

    ○畑野君枝君 日本共産党の畑野君枝でございます。ありがとうございます。  大変貴重な御意見を二宮先生には伺いました。伺いたいのですけれども、一つは成績学歴尊重主義の問題点について先生が触れておられました。高校入試の問題なのですが、私は神奈川県に住んでいるのですけれども、公立高校は複数志願ということで、第一志望がだめですと第二志望というふうになっていくのですが、高校一年生で中途退学者が大変多い状況になっていまして、不本意な入学ということなんです。こういうのが、十五歳などの年齢のときのダメージという点がどうなのかというのを、外国との比較なども含めてあれば教えていただきたいというふうに思います。  それから二つ目に、たくましい社会性という問題をお話しされましたが、今学校づくりに生徒も参加をしていくというところが出てきておりまして、生徒と父母と教職員の三者協議会など、高校生が今まで学校がつまらないと思っていたし、中学校で何を言っても通らなかったし、親とも話したことがなかったけれども、本当にいろんなことが実現されていくということで好評だという話も出てきております。その中で責任感や自尊心が育ってきているという話もあるのですが、そういう生徒の参加というのは学校の中でどんなふうにしていけるものなのかというのを伺いたいと思います。  最後に、三つ目ですが、今、心理学を高校の授業科目としたらということでお話がありました。もう少し、例えばどんなイメージに高校ではなるのでしょうかということです。倫理社会のお話がありましたが、これは授業としてなくなってきているという、そんな状況もあります。こういう思春期の難しい年代の中で、社会を構成するのにふさわしい市民道徳を身につけていくという点からも伺いたいと思います。
  52. 二宮克美

    参考人(二宮克美君) まず第一点の成績学歴尊重主義というのはお手元にある私の資料の中で、実はこれはもう十四、五年前に調査して、こういう問題点があるのだなということで書かせていただいたものであります。  ただ、高校の種別によって普通科高校、伝統的な進学校と言われている、ある意味先生方子供たちも進学ということに一生懸命取り組んでいて非常に円滑に授業が行われている高校と、それからいわゆる新設の高校、十何年前ですか、ちょうど高校がいろいろがふえてきたときに、これから追いつき追い越せと一生懸命先生方が馬車馬のように子供たちを駆り立てたそういう高校と、それから商業科ですね。いわゆる進学というのを、もう大学受験というのから、ある意味でそういう方向とは違う方向に進んだ子供たち、それから園芸科だとか工業科だとかそういったほかの高校に通った子供たちとで見たところ、我々心理学者なものですから、子供たち学校に充実感をどんなように感じているかとか、毎日毎日が張りがあるんだろうかとか、そういった側面で見たところ、成績学歴尊重主義というのは、非常に進学率の高い伝統的な高校はそういう意識が高くて、なおかつ充実感もあり精神的にも健康だった。  それから、商業科とかそういう学校に通っている子供たちは成績学歴尊重主義はもう全然ないんですね、逆に。なくて、だけれども充実感は、毎日畑に出て何かやったりつくったりとかいう園芸の授業があったりといって、非常に学校に充実感を感じていた。十四、五年前の話ですから、今はまたちょっと違うのかもしれません。ところが、新設の高校が一番、成績学歴尊重主義を持ちながら学校に充実感も自尊感情も持てなかったということでちょっと書いたわけであります。  それが今の時代にどうなっているのかというのは、自分自身データを持っておりませんのではっきりは言いませんけれども、確かに高等学校において年間十一万から十二万人の子供たちが中途退学をしている。これはゆゆしき問題であることはもう間違いないです。その数たるや、例えば千人の高校があったとしたら何校つぶれているんでしょうかねというぐらい高等学校へ入っても中退しているんですね。これをほかっておくという手はないんですが、やっぱり十一万人を下らない。  これは、第一は不本意入学といいますか、自分が行きたかった学校とは違う学校へ来てしまったそのダメージですね。ダメージといいますか、本当はこうでありたかったのにそうでない自分ということとのギャップ、それから高校で聞いている授業に対して自分がかかわりにくいこと。それで、また自分に合った学校へ行けるというふうであればまだいいのかもしれませんが、高校一年生の段階ですと、やはり転校だとかまた再入学というのがまだ、大分風通しはよくなってきたとは思いますけれども、しにくいという現状があるということであります。これは何とかしなきゃいけないとは思いますが、ただ海外との比較となりますと、比較教育学者か教育社会学者かにお尋ねになられればいいと思いますが、多分日本よりも少ないのではないかと思います。  いずれにしても、話はもとへ戻りますけれども、高校へ入って、さあ高等学校の中等教育を受けようと思ったんだけれども、どうもうまくなじめなくてやめていってしまう子供が十一万人いるということに関しては何とか手を打たなきゃいけない。これは文部省を初めやっていることだと思いますけれども、やっぱり一工夫も二工夫も必要ではないか。そのためには、中高一貫教育というような方針も出ましたし、いろいろ出ていると思いますけれども、子供たちが本当の意味で何がやりたいか。要するに、進路指導ではなくて進学指導が中核になっていることが僕自身気になっていることであります。  やはり、我々がいろんな職についていかないとこの世の中成り立たないわけでありまして、お魚をとる人がいなきゃ我々はお魚を食べられない、お野菜をつくってくれる人がいなきゃお野菜も食べられない、あるいは床屋さんがいなければ困りますし、いろんな職種があるからこそこの国というのは成り立っているんだ。先ほどのお話じゃありませんが、そういう多様性を認めるといいますか、もういろんな人が、みんなが学校先生になっちゃったりみんなが議員さんになっちゃったりということは、これはあり得ないわけであります。みんながこの社会をうまく分業化している、そういう意味で職業に貴賤がないわけでありますので、子供たちに将来何になりたいか、そういうものを上手に育てていってあげる。  ちょっと饒舌でしゃべり過ぎて申しわけありませんが、先ほど保育園や幼稚園のお話が出ましたのでちょっとお話ししますが、保育園や幼稚園の子供たちに何になりたいかと言いますと、ケーキ屋さんだとかそれから花屋さんだとか、ある意味で現実とはちょっとずれながらも非常に夢を語ってくれます。  ところが、小学校五年から中学生ぐらいになりますと物すごく現実味を帯びてきちゃいまして、例えば自分はパイロットになりたいなんて小学校の最初に言っていた子供がもうそんなことは言わなくなっちゃいますね。スチュワーデスになりたいと言っていた子供がだんだんとそういうのを、自分の本来の夢といいますか、夢を持てないというか夢が消えちゃうといいますか。そういう意味でもっと、それは職業発達と我々は言い、キャリアディベロプメントの中でも子供たちがどういう職業に明るくなっていくかということを、ほかの領域ではもちろん研究は続いているわけですけれども、やっぱり十代は役割実験といいますか、アルバイトをしたり職場体験をしながら、あるいはもう最近ではそういうのも施策で出ていると思いますけれども、高校生でありながら一日どこどこへ行って働いてくるとか、そういう職場体験をしながら、自分は何で飯を食っていくのか。  つまり、何を職業としていくかということを、それは商業科とか工業科とか総合学科とかいうだけじゃなく、普通科の子供たちでも少なくとも高校一年生に一回か二回、あるいは高校二年生のときに一回か二回ということをやって、いわゆるきちんとした進路指導、あるいは職業指導と言っていい例かもしれませんが、そういったものが多分やられていると思いますけれども、必要なんじゃないか。  そういう意味で、不本意入学ということとどういうふうにつながっていくのか、ちょっと今私はお話ししながらうまく見つかりませんけれども、少なくとも自分が何をやりたいかということと自分が入った高校というもののイメージをつなぐものではないか。要するに、ついつい一年二年と短期的に子供たちは物を見ます。この高校へ入るまで頑張りなさい、この大学に入るまで、三年ごとで標準が決まっていますけれども、十年あるいは二十年先の自分を思い描いてごらん。大学で授業をやっておりますと、法学部という学部もうちの大学にありますけれども、五月ぐらいになると、先生、何もやることないと言うんですね。法学をやりたかったから法学部へ入ったんじゃないのか、どんどん勉強したらどうだと言うんですけれども、教えてもらわないと自分が何かやる気がしない。でも、自分の五年先十年先を見て考えてごらん、今自分が何をやるか逆算してごらんということをいつも言う。  そういう意味で、私は一番最初に我々は死ぬということを言いました。我々の人生は二万七千日です。おはようと二万七千回言ったら大体死んでいるわけでありまして、私なんかはもうあと二十年あればいいかなとは思っております。五十年後にまたここへ来ようなんていうことは思いもしませんけれども、だから自暴自棄になれというんじゃなくて、自分の人生は限られているわけですから、そこの中で自分が何ができるかということを考えながら進めていかなきゃいけない。そういう意味で、子供たち自分の人生をずっと先まで見通しつつ、今高校生としてどうあるべきかというようなことを考えさせるような教育、それは例えば心理学で言うと時間的展望のテーマになるわけです。タイムパースペクティブと言いますけれども、自分の時間、人生をどう生きていくかというのですね。そういうのも役に立つんじゃないか。  たくましい社会性ということで学校づくり、生徒が参加をすることによって責任感、自尊心が出るんじゃないか、これも御指摘のとおりであります。心理学の概念で言いますと、かかわることによって充実感が得られるんです。かかわらないと白けちゃうんですね。ですから、たとえつまらないことでも、やることになったら嫌々やるんじゃなくて、学生に僕は言っています、やることになったならその一時間なり二時間は楽しんでしまいなさい、かかわってしまいなさいということを言っております。だから、そういう意味子供たち、生徒が参加することによって子供たち学校なりなんなりに、生徒同士の関係というのに関して責任感なり自尊心なりが高まってくると思うんです。  ただ、学校というのは一つの組織でありますので、子供たちがかかわれるところはどこまでかということまである程度教員の側でしっかりしておかないと、それはやっぱり教育をしていく組織体でありますから、何でもかんでも生徒がすべての面にかかわるということはちょっと行き過ぎではないか。具体的に言うと、成績評価だとかそういうような問題まで子供たちがかかわっちゃうということはちょっとまずいのではないかと思いますけれども、多くの事柄に子供たちが参加する。そして、参加した以上は嫌々やるのじゃなくて、かかわってごらんというようなことで充実感が得られるのじゃないか。そういう意味では、生徒の参加というのは非常にいいことではないかと思います。  それから、三点目でございます。  心理学のイメージですが、そこに幾つか書いておきました。  大学で心理学を勉強したい学生は非常に今多くなっておりまして、心理学に対する社会的なニーズもおかげさまで、おかげさまでと私が言うわけではありませんけれども高くて、心理学科というのは非常に入るのが難しい学科の一つになっております。それはなぜかといいますと、やっぱり心理学というのは、心理学を知ることによって対人関係なりあるいはメンタルケアで心の健康みたいなものに役に立つだろうということで、高校生なんかが大学受験のときに心理学科を多く希望しているのだろうと思います。  そういう意味では、心理学という学問は、今ここで心理学の学問をしゃべり出すとまた私も長くなっちゃいますからあれですが、先ほど言ったように発達心理学だとかパーソナリティー、人格心理学だとか対人関係を論ずるような社会心理学だとか、あるいは臨床心理学的なことを十分子供たちにお話しできるのじゃないかと思います。高校をおりてすぐの学生に、つまり大学一年生に心理学の本当の基本を教えておりますけれども、それは別に十八歳でなければ教えられない科目ではないと僕自身は思います。  例えば、まず赤ちゃんの話から大体発達心理学ではお話しするわけですけれども、赤ちゃんは生まれたときから目が見えているんだよということを言うと、学生はへえと思うんです。そういうことすら知らない。例えば、赤ちゃんというのはおなかの中で何週間過ごしてくるのかなと。四十週なんです。それをぱっと答えられない。男子も余り答えられない。女の子もすごくとんちんかんな答えをしたりするんです。これはどういうことなのかなと。確かに高校の科目でありながら、人間がおなかの中で人間を宿って、人間の形として出てくるまで育ててくる、それまでにというような話をずっと聞かせると、学生は一生懸命聞いてくれるんです。それは心理学の非常に大事な、人生の出発点の話をするわけですけれども、それは高校生でも十分話ができます。  それから、パーソナリティーの話でも、世の中、血液型で人を判断するというえせ学問がはやりました。日本人を四つのタイプに分けるということはそもそも乱暴でありまして、きのうまで酒飲みだったけれども、きょうから酒を飲むのをやめようとパーソナリティーがちょっと変わった。血液型が変わるかといったら、変わらないわけです。血液型で人間を理解しようというようなことはしょせんは無理な話です。そういうパーソナリティーは実はみんな一人一人違うんだ、先ほども言いました、かけがえのない人生を一回限りその子なりに一生懸命生きていくんだと。パーソナリティーを習う、心理学の一番最初はそういうことを話していきます。  そういう意味で、十分科目としても、実際に今大学でやっている科目をそのまま持ってきても、例えば心理学科を出身して教員免許を取っていく学生は公民だとか地理歴史で高校の先生になっていきますけれども、心理学科を出た者がやればお金も何も要らなくて、心理学科を出た人は心理学の認定心理士の資格ぐらい持っているわけですので、彼らにやっていただければ何のお金もかからない。だから、選択科目の一つに加えると案外早い。中長期的に言うと心の教育というのがうまくいくのじゃないかなということで申し上げました。  以上三つの点、ちょっと長くなりましたけれども、お答え申し上げました。
  53. 畑野君枝

    ○畑野君枝君 ありがとうございました。
  54. 田中直紀

    田中直紀君 せっかくの機会なので、一部御質問させていただきます。  教育現場の問題についてはそんなに精通しているわけではありませんが、御存じのとおり偏差値教育については非常に弊害がある、こういうことで推移してきたわけであります。最近聞くところによりますと、中学等は内申書重視ということで父兄においてもあるいは子供においても教師に対する対応が、子供においても親を見て教師の前では非常にいい子ぶって振る舞う。しかし、内心はそういうことではなくて、成績といいますか、いい内申書をもらうためにやっているんだということを逆に言えば認識してやっておるということによって双方の、子供たちの見方というものも非常に厳しい、お互いの見方にも影響しておる、こういう弊害を逆に言う方も出てきているわけであります。  中学で調査を続けられてきたわけでありますが、制度を変えれば当然いいところも出てきますがデメリットも出てくる、修正していかなきゃいかぬということはあるわけでありますので、その辺の最近の中学の教育の実態がかいま見られるようなお話があればというのが一つでございます。  それから、私は私立中学で学んだのですけれども、最近と昔のどちらがいいかという問題がありますが、社会科等では、社会というのは自分があって他人があるんだということで自分がまず確立をしていかなきゃいけない、あるいは生と死の問題も含めて自分があることによって社会がつくり上げられているんだというようなことを中学一年の社会科の中で教育されたことを思い出しながら聞いているわけであります。  最近は、心の葛藤がある場合には、医務員というんでしょうか、学校におられる健康診断をする担当の先生のところへ生徒は駆け込んで行って、きょうはどうも気分が乗らない、こういう悩みがあるというようなことを言う傾向がふえているんだということも聞くわけであります。そういう実態の中で、やはり心理学という問題は心の問題を認識していくことでありましょうから、中学、高校でどういうふうな形でやっていくのがいいと思われるかということでございます。  それから、最後になりますけれども、大体趨勢は男女共学ということで最近は学校が取り組んでいくという傾向にあるわけですが、国立は、私の近くに学校がありますが、男女共学は中学までだ、大学が女子だからもう高校は女子のみだ、こういうような従来どおりの国立の体制ということがあるわけです。  国立の存在価値というものが、低学年から高学年まで、大学は当然受験をせざるを得ない、するんだということで高校まででありますから、何かひとつその辺の分析も、女子と男子が非常に違うということは当然でありますし、アメリカあたりは高校も女子だけがいいんだと、男子がいるとどうもいろんなことを言ったりやったりするから混乱されて勉強に集中できない、こういうような話も聞くわけです。その辺が、我が国の教育の中でどういうスタンスで感性という形の中で考えたらいいか、この点を教えていただくとありがたいと思います。
  55. 二宮克美

    参考人(二宮克美君) 偏差値教育の問題、それから内申書重視の問題を今御指摘いただきました。これに関しては、私もちょっとどのようにお答えしていいのか迷っているわけでありますが、そもそも偏差値教育が問題ということは必ずしも言えないのではないか。偏差値教育というお言葉の使い方に私と先生との間のギャップがちょっとあるのかもしれません。  偏差値というのは、例えば社会を八十点とったのと国語で七十点とったのでは社会が八十点がいいかというと、そうではなくて、平均点がどこにあるかによって偏差値を出してくるものですから、偏差値教育というものには先生がおっしゃられましたようにデメリットとメリットがございまして、今の我が国の教育の状況は、やはり能力があって努力した者はそれなりに報われるべきだ、能力があっても努力しない者はだめなんだ、そういうことで社会的な階層が流動化していったわけです。  昔は、武士の子供に生まれれば武士だったとか、農民の子供に生まれれば農民だったという時代から、我々の戦後も含めて、やはり努力もし能力もある者はどんどん登用していこうという発想で今の教育は進められてきたわけです。そういう意味で、生まれだけでその子の人生が決まるんじゃなくて、その子の人生の中でどれだけ努力したかによって将来のポジションというものが決められていく。  そういう意味では、偏差値教育とおっしゃられましたか、ある程度学歴というものが重んじられることは、決して僕は今までの教育のあり方では間違っていなかった。ただし、それがいい大学を出て、いい会社に入ってということで、人生がそれで本当にいいのかという問い直し、そこが今の時代の状況になってきているということで、言うならば当然ながらそのデメリットももちろんある。だから、メリットもありデメリットもあるから、いろいろ簡単には、今の難しい大学に入るために入学試験というのはやらざるを得ないというのはある。全入制にしなさいという乱暴な意見にはちょっとやっぱり行かない。それは今申し上げたとおり、デメリット、メリットがあります。  それから、内申書重視の件でございます。  これは、実は大学の教師でありまして、入学試験のときに内申書を見させていただきます。内申書をごらんになられた方も何人かはいらっしゃるでしょうか、大きな変化がことしありました。私は何百人の受験生の内申書を見させていただきます。去年までなかったのは、判こ一発、特記事項なし、高校一年、高校二年、高校三年、ぱんぱんぱん。それまではすべて先生方の直筆で内申のいろんなことを、クラブを一生懸命やりましたとか書いてくれました。それがことし、情報公開何とか令で、僕も全然わかりませんけれども、あっと思ったのはまずそれです。それで内申書が送られてきた。  我々は、内申書というのがああいうことによって、高校の先生方のお立場もわかるわけですけれども、ワープロで特記事項なし、あるいは判こ一発でという内申書が出てきたことが、これがすべてとは言いません。私が経験したものですから、日本全国の大学の先生方が内申書を見てお感じになられたことと私の田舎の大学で見たのとではちょっと違うかもしれませんが、内申書の中身がすかすかになってしまった。  それから、自分があって他人がある、自分の確立というものを社会科で習ったような気がするんだけれども、心理学を中学校、高校でどういうふうにやっていくかということですが、これは先ほどからも申し上げております。選択科目で全員にとらせようというのではなくて、やっぱりそういうものに興味、関心がある者が受けられるようにさせてほしい、決して入試の受験科目にはしないでほしい、そういう意味で申し上げたわけであります。  中学校まではなかなかすぐには行かないかもしれません。まず高等学校の、いわゆる大学へ進学する者は別にしても社会へ出ていく者はやはり四割、五割おりますので、そういう子供たちが十年先には親になっているわけです。そこで、心理学というのはこんなものだ、心理学に対する誤解を解くことも含めて、人間関係やあるいは社会的賢さというのはどういうようなことなのか、知能指数というのはどういうことなのかというのをきちっと教えていきたいなと思っています。  それから、男女共学の問題、これはきょうの私の発表と随分、これは難しい。男子と女子で違いがあったというのは何なのか。生物学的な男女の問題なのか、あるいは先ほど御指摘のあったようなジェネティックスだとか性役割とか、そういうものを含めたものかということもあります。とても難しい議論になります。  唯一だけお話しします。共学と別学の問題。  私のデータはすべて共学のところでのものでありまして、一度機会があれば先生御指摘のように別学のところの学生の意識というものをとらえてみたいなと思います。ただ、それが本当に有効な変数として子供の意識にどういうところに影響を与え、どういうところには影響を与えていないかというのは、ちょっと調べないとわからないので、うまく答えられません。
  56. 竹村泰子

    竹村泰子君 先生、きょうは貴重なお時間、ありがとうございました。  うまく先生に質問という形になるかどうかわからないんですが、さっき自殺の問題が出されておりまして、私は実は自殺防止のいのちの電話というのを三、四年受けて、カウンセリングをやっていたんですけれども、その全体の中の三割、四割ぐらいが青少年なんです。  でも、自殺する子は、今死のうと思うとか、今飛びおりようと思うんだけれどもと電話してはこないんです、ほとんどは性の悩みだとか進学の問題だとか家庭の問題とか、そういうことで相談があって。大人の場合は、今ガス栓をひねろうと思うとか薬を飲んだとかいう電話は結構あるんだけれども、子供の場合は、今死ぬ間際という電話は余りかからない。  ということは、さっき先生もちょっとお触れになりましたけれども、私たちが電話を受けていて、そうなの、だれかに話したのと言っても、だれにも話せない、親に、お父さんにはだめ、お母さんにもだめ、先生にはとんでもないというふうなことで、だれも聞いてくれない、聞く耳を持ってくれないということがすごく子供たちを孤独にし、悩ませているんだということがよく体験的にわかるんです。  ですから、私たち大人の責任として、やっぱり聴くという、耳へんの聴くですね、それはもうお料理していても洗い物をしていても車を運転していてもいいと思うんですが、耳だけはしっかりと子供の声を聴いてほしい、先生も同じく聴いてほしい。そのためにどうすればいいのかというのはそんなに難しいことじゃないと思うんです。そうすると、ほとんどの子供は救われるんじゃないかというような気もしてならないんです。そのことが一つ。  それから、子どもの権利条約に照らして、例えばさっきもちょっとお話が出ていましたけれども、人権の教育ですとか、あるいはジェンダーの教育ですとか、差別の教育ですとか、そういったこと。それから、先生文部省の人たちとお話しなさる機会も多いと思いますので、私たちの責任でもあるんですけれども、フリースクールをどう考えるか。  非登校の子供たちを今受け入れているフリースクールなんですけれども、それがもう全く認められていないというか特殊学校にすらなっていないわけでして、やっぱり検定を受けて大学に進まないといけない子供たちになっているわけで、そこのところの緩衝地帯のような存在をどう社会は認めればいいのだろうかということを、もし先生のお考え、お持ちでしたらお伺いしたいと思います。
  57. 二宮克美

    参考人(二宮克美君) 自殺の問題で、非常に子供たちが孤独に悩んでいる、だれも聞いてくれないということから、先ほども私はだれか一人でもいいと申し上げました。それはお友達でもいいし、そういう心の電話相談、命の電話相談にかけてきてくれる、そしてそういうことをやってくださっている方は、聞くということをもう本当にわかっていらっしゃるのでいいんです。  本当に我々、だれか愚痴を聞いてくれる、唯一一人だれかがいてくれることによって随分楽になります。ですから、そういうことをまず子供たちに教えなきゃいけないと思うんですね。要するに、そういうところへかけてくれる子供は救えるんですけれども、そういうところへ全然かけてくれない子供たちは結局は救えないわけです。  むしろ、我々、いらいらとかむかむかとする感情というのは当然持っていいわけです。それを持っちゃいけないというわけじゃなくて、むしろ家庭の中で悪態をついてほしいんです、子供たちに。この場で言っていいのか、このくそばばあと母親に向かって子供が言ったら、しめたと思わなきゃいけないんです。ああ、子供がそういうことを言えるようになった、だからいいんです。それを、親の前でもお利口さんを演じなきゃいけないということは、子供にとっては窒息状況になります。そういう意味で、何かあったらおかあさんでも先生でもだれか友達でも言っちゃってごらんということを小さいころから繰り返し社会的スキルとして教えていくことが大事なんじゃないかと思うんです。  それから、人権教育の問題、ジェンダーの教育、これは本当に我々心理学の中でも大事な問題として取り組んでおります。  フリースクールの件でありますが、これは私自身の考えでよろしいですね。
  58. 竹村泰子

    竹村泰子君 はい、もちろん結構です。
  59. 二宮克美

    参考人(二宮克美君) 必要だと思うんです。  直線型の教育ばかりを考えるのではなくて、少し傷ついたり、なかなか通えない子供たちが安心してそういうところへ行けることはやっぱり保障していくべきであろうし、そういう場所があってもいいと思うんです。ただ、それと制度上どうのこうのというと、僕自身余りそういうことに興味、関心が低いし、どうしたらいいかという案も持っておりませんが、むしろそういうことで子供たちの心がいやされて、子供たちがまた人生をうまく生きていけるのならそれはやっぱりやるべきですし、やった方がいいと思うんです。  ということで、検定を受けて大学に入るとか制度上というと、細かいことは何もわかりません。ただ、大事なことであるということは申し上げておきます。
  60. 斉藤滋宣

    ○斉藤滋宣君 先生、きょうはどうもありがとうございました。  先ほど来、先生のお話を伺っておって大変気になっているといいますか、まだ自分なりに理解し切れていないのでありますけれども、きょう冒頭に先生がおっしゃった中で、生きることの意味というところから入られてきて、生きがい、死にがいというところでお話がありまして、その言葉を気にとめておりますと、一番感じるのが、では本当に死だとか生きることの意味ということを一番考えていないのが今の子供たちなのではないのかなという気がしないでもないんです。  一つは何かというと、よく言われることでありますけれども、死というものが自分の身近にない。例えばテレビだとかゲームの中で死を見ていく。いろんな原因があると思うんですけれども、一つの大きな原因の中に、家族構成といいますか、昔はおじいちゃんおばあちゃんがあって死があった、そのうちに核家族時代になってきて、そのうちお父さんが働いておってお母さんしかいなくなる、そのうちお母さんも働きにいく、家庭の中に自分一人になっていく。  そういう中で、子供たちの心の変化の中で、そういう家族構成が及ぼす子供に対する影響というものを先生がどのようにお考えになっておられるのか、そこのところを一つお聞きしたい。  それからもう一つは、先ほど来自殺の話がたくさん出ておりました。子供たち自殺もそうなんですけれども、私は秋田県なんですが、秋田県というのは成人全部含めまして自殺率の一番高いところなものですから、非常に関心を持って聞いておったんです。  その中で、自尊感情が今の成績学歴尊重主義の中で学校生活の適応性が奪われてくる、そして学校に適応しない者ほど自尊感情が低くなってくる、こういうお話でありますが、今の教育制度の中で一概に成績学歴尊重主義というものがなかなか解消しづらい中にある。では、自尊感情を高めていくということが健全育成上の一つの課題になっているわけでありますけれども、学校教育の中でそれをやっていくというのはなかなか難しい問題もあるのかな、そのように考えるわけです。  そういう中で、もう一つは、家庭だとか社会の中で自尊感情を高めていく役割を担っていくとすると、どういうことが先生の中で考えられるのか。その辺もし御意見があれば、お聞かせいただきたいと思います。
  61. 二宮克美

    参考人(二宮克美君) まず死の問題で、冒頭で申し上げたことでありますが、結局家族構成だけではなくて、むしろ子供たちが死というものを身近に感じていない。そういう教育をアメリカでもしなきゃいけないということが言われて、日本ではだれもそういうテーマに取り組んでいる研究者はいないわけですが、私自身が一番最初に申し上げたように、こういうこともやっていかなきゃいけないなと思って、ついつい思ったことをしたんです。  身近な例で、子供たち、我が家はもう今は勤めているんですが、子供たちが青年期になったときに犬とか猫とか家庭の中でいわゆるペットというものを飼う。子供たちがいらいらしたときにペットに語りかけたり遊んだりして非常に気楽になっているわけです。これは、最近痴呆とか、いろいろそういう施設の中でペット療法と言われているような、猫とか何かがいることによって我々の気が安らぐことがあります。  犬とか猫というのは我々よりも寿命が短いものですから、亡くなっていくわけでして、そのときに猫が亡くなりまして、子供たちはぽろぽろ泣きました。私も十年飼った猫で、物すごく泣けちゃうんですね。家族構成というよりも、むしろそういうものを身近に、今まで息をしていたものが息をしなくなったことの経験をさせてやってほしい。  我々の中学校理科のときに、フナだとかカエルの解剖をやりました。今は残酷だというのでやらないんですが、僕たちはやって、後でみんなでお線香を上げたんですね。そういうことが残酷だということで教材から外されていくということは、死というものに関しては確かに身近に感じていない。  例えば鳥肉、あれはどこかで首をきゅっと絞めてはいでくるわけですけれども、本当に目の前で鶏がこうなってこうなった肉というのは、いただきますと、あなたの命をいただいて自分は生きていきますという意味でのいただきますであります。それを子供たちは、鳥肉というのは唐揚げとか何かで食べた。だから、食べるということも含めて死というものを、ただ逆戻りさせてもう一遍理科授業でそれをやれとは言いませんけれども、どこかでそういうことを考えさせるようなことが必要なんじゃないかなと思います。うまいお答えになっているかどうかわかりません。  それから自尊感情の問題、学校の中でなかなか難しい問題だとおっしゃられているんですが、例えば成績という事柄に関しては確かに難しい面もあるかもしれません。いい成績がついた方は自尊感情は高まりますし、余りいい成績じゃない子は自尊感情は下がるかもしれませんけれども、自尊感情というのはそれだけじゃなくて、例えば自分はスポーツが得意だというのも自尊感情、みんなよりも足が速いんだという自尊感情もあります。自分は草木や花をやるのが好きだというのでそれを一生懸命やる。先生に上手に育ててきれいに花が咲いたねと言われれば、それは自尊感情が出てきます。  だから、何か一つでもいいんです。たくさんなくていいんです。その子が一生懸命取り組んでうまくやれたことに関して周りが称賛をしたり、マイナスイメージじゃないプラスイメージ、グッドミー体験をすることによって自尊感情は育っていくのじゃないか。それは学校でも家庭でも出てくるのじゃないか。余りにもバッドミー、悪い自分という体験をさせるのじゃなくて、グッドミー体験をしなさいと。これは私の言葉じゃなくて、サリバンという精神科医が今の青年期の人たちのことを言っているときに、だめだ、だめだというような体験をさせて青年期を過ごすのはよくないと。  何か一つでもよかったな、グッドだなということ、おもちゃをつくってうまくできたとか、何かやったことによって一つでもいいものがあれば、それは自尊感情が育っていくというふうに思っております。
  62. 西山登紀子

    西山登紀子君 日本共産党の西山登紀子でございます。  私も大学で心理学を専攻しておりましたので、かなり忘れている部分が多かったようですけれども、懐かしく聞かせていただきました。私がなぜ心理学を選んだかといいますと、おじの影響がありまして、児童の臨床心理がやりたいなというふうに思ったわけです。  確かに、先生が御提案のように高校のカリキュラムの中にそういうものがあれば、いろんな進路を決める上でも一つの示唆を子供たちに与えられるかなというふうに私も思いますし、それから若い夫婦が子供を産むということがありますが、そういう面で子供の発達ということについて科学的な知識を持っているということは非常に大事なことであろうと思います。また、社会の荒波に出ていく際に、青年期を乗り切っていく上で、先ほど来出ております自己効力感あるいは自己肯定感、セルフエスティームというようなことが最近はやっているわけです。はやっているというか、自分にもっと自信を持とうよということです。  そういうようなことで、いろんな知識を高校時代から学べるという環境というのは非常に大事なことだと思いまして、私も先生のそういう御発案で、機会があればいろんなところで働きかけもしていきたいというふうに思っているわけです。  それに関連して一つ心配なことがありますのは、私も児童相談所に勤めていたことがありますけれども、今子供の虐待が本当にふえています。そのふえている虐待の中で、だれがやっているかというと、平成九年の統計では五五%実母がやっている。しかも四四・九%、半分近くは就学前の子供が対象だ。もちろん、小さい子供を対象にしているということから、暴行それから保護をしない、怠慢、拒否、こういうことについて、なぜこうなっているのかということについて先生のお考えをお伺いしたいということが一つ。  それから、先ほど来学校のいろんな問題が出ているんですけれども、この点も私も大変気になっているところでありまして、日本は児童の権利条約を批准しているんですが、国連の児童の権利委員会から実は最終報告が参りまして、日本の子供は非常に識字力なんかは高いんだけれども、高度に競争的な教育制度のストレス及びその結果として、余暇や運動、休息の時間が欠如していることによって発達障害にさらされているというようなかなりショッキングな報告が参りました。ということで、発達障害というのは大変なことでありまして、これは正常な発達ができていないということですから、これをどうするかということなんです。  実は、私自身の経験で恐縮なんですけれども、三人の子供を連れてスイスのチューリヒというところで、子供地域の公立小学校で一年間教育をしてもらったことがありますが、そのとき非常に私自身がカルチャーショックに陥りました。  というのは、二十五人学級で、先生は大きな犬を連れてゆったりと授業をしていらっしゃる。なるほど、こういうふうにゆったりと授業がされるならば、子供は安心して授業を受けられるだろうなという印象を持ったこと。それから、進度が一年遅かったんです。日本で私の子供は五年生でしたけれども、四年生のクラスに入れました。非常にゆったりと進度が進んでおりまして、うち子供は数学だけですけれども優等生になっちゃったりいたしまして、進度が非常にゆったりだなと思ったこと。それから土日、もちろん塾通いなんかしている子供はありませんし、社会全体が休息をとっているという状態です。  その辺のこともありまして、ゆったりさという点につきましては、日本の子供たちは非常にストレスの環境に、これは大人も含めてですけれども、非常に異常な状態にあるんじゃないかという印象を持ったわけです。  時間がなくなりましたので、その点で学級の人数、例えば四十人はもうまさに教育環境じゃなくて動物の群れじゃないかというふうなきついことを言われる方もあるわけですが、子供たちの集団によって教育効果がどのように違うかとか、そういうような研究のデータ、成果というようなものが何かあれば、私たちは最低三十人に低める方がいいというふうに思っているわけですけれども、その辺の先生のお考えはいかがでしょうか。
  63. 二宮克美

    参考人(二宮克美君) まず第一点目の児童虐待の問題で、実母が四四・九%ということであります。  実は、我々はそういうことは知っておりまして、日本には余り研究がないのでありますが、望んでもうけた子か望まなくてできちゃった子かということの最初の出発点を母親が引きずりまして、この人の子を身ごもって、それで生まれてきた子供に関しては夜泣きをしても母親は我慢する時間が長かったり、夜中に起きて授乳するのも面倒くさがらずにやるんですが、アンウォンテッドチャイルドと言いまして、望まなかった子供に関しては子供が夜泣きすると母親がいらいらしたり、授乳に対してもうっとうしいと思う率というのが上がるんです。これは日本の研究じゃありません。日本でこういう研究をやるといいんですが、残念ながらそんなことは聞けないものですから、おたくのお子さん、望んで産みましたか、望まなかったですかなんて。  だから、ちょうど十八歳、十九歳、二十歳ぐらいの女子学生を相手にするときには、たとえどんなことがあろうと子供には罪がないから、生まれてくるまでに意識を変えなさいということを僕は言います。自分のおなかを痛めた子供であるという発想で、ウォンテッドかアンウォンテッドかなんていう意識を忘れろと言いますけれども、海外のデータを見ますとそういうのがありまして、ひょっとするとお母さん方が育児に対しての一番の出発点のところで何か嫌悪感を感じたり、望まなかったからということを引きずっていると案外こういうことが起こりやすいのではないかという海外のデータがあります。  ただ、日本で今こういう研究がありませんし、しにくいものですからわかりませんが、やはりそういう児童虐待に行ってしまうお母さん方のメンタルケアが今後必要なんじゃないか。お母さん方も、我が子ですから手を出すということは非常につらいと思います。だからそこを、何かお母さん方を責めるんじゃなくて支えるということをぜひ発想を変えてやりたいなと僕は思います。  それから、教育のストレスの問題で、余暇の問題あるいは発達障害も含めていただきました。  余暇の問題で一つ言いますと、本当に今子供たち、大学生も含めてですけれども、大学でクラブ活動とか部活動をやっている学生は少なくなりました。もう本当に子供たちは、勉強以外に何か自分たちで余暇を持つということが非常に少なくなりました。  これは三十代、四十代のお父さん方にも言えることでありまして、五十、六十になってぬれ落ち葉的な現象にならないように、やっぱり三十代、四十代に生きがいといいますか、僕は一番最初に死にがいと言いました、これをやっていたら死ねる、例えば囲碁をやっていて親の死に目に会えぬとか、これだったらとか、そういうものを考えていく。余暇というのは非常に大事だと思います。ということで、それは大事だということだけ申し上げておきます。  それで、一番最後の問題、集団サイズによって教育効果はどうか。これは実はまだ研究はありませんので、少しいろんなところで聞いてみます。  これは、社会心理学のグループダイナミックスの問題になりますが、集団サイズによって教育効果はどうなのか。それは少ないにこしたことはないんですが、小中高等学校はいいんですけれども、大学教育というのは四十人では授業をやらせていただけない。国立大学でも大体今五十人から六十人学級でやっておりまして、小中高に関しては一生懸命やっていただきますけれども、大学は百八十人。教育効率を考えると百八十人でもいいですし、二十人でもいいですしなんていうふうに思ってしまいます。  だから、少し研究的に詰めないとはっきりしたお答えはできません、それは人数が少ないにこしたことはありませんけれども、というお答えであります。
  64. 久保亘

    会長久保亘君) まだ御発言もおありかと思いますが、予定の時間が参っておりますので、以上で二宮参考人に対する質疑は終了いたしました。  二宮参考人には、お忙しい中、本調査会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございました。  本日お述べいただきました貴重な御意見は今後の調査参考にさせていただきます。本調査会を代表して厚く御礼を申し上げます。  ありがとうございました。(拍手)  本日はこれにて散会いたします。    午後四時五十九分散会