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公述人(中山清治君) 電波学園・
名古屋工学院専門学校の中山清治でございます。どうぞよろしく
お願いいたします。
私は、結論から申し上げまして、本件、すなわち
国旗日の丸、
国歌君が代の
法制化には
賛成であります。
その
理由につきまして、若干述べさせていただきたいと思います。
歴史的に見ましても、古今東西を問わず、
自分の国を愛し、いとおしむ心の醸成は極めて大切なこととしてだれもが認識いたしております。そのための最も効果的な手段としての
象徴的
存在として
国旗・
国歌が位置づけられてきたと思います。
ちなみに、近代、現代を通して
国旗・
国歌を持たない国はありません。言いかえてみれば、
国旗・
国歌を愛せない
国民は
国際社会においても軽べつされてしまうというのが実態であろうと思います。
したがいまして、その総論部分につきましては、私の判断錯誤があるかもしれませんが、余り問題はないのではないかと思います。問題は各論、すなわち
日の丸・
君が代を
日本国の
国旗・
国歌として
法制化するというところが論争の焦点になっているのだと私は認識しております。
その観点に立ちまして、私の思うところを述べてみたいと思います。
現在、
法制化に対する
賛成、
反対の論争点が、毎日、新聞、テレビをにぎわしているわけでありますが、その主な論点をまとめてみますと次の三点になるのではないかと思います。
まず、第一点目の
日の丸・
君が代は
軍国主義の
象徴なのかどうかの問題であります。第二点目は、
君が代の歌詞が
国民主権と矛盾するのかどうかの問題であります。そして第三点目は、今、
日の丸・
君が代の
法制化を急ぐ必要があるのかどうかの問題であろうかと思います。
まず第一点目の、
日の丸・
君が代は
軍国主義の
象徴なのかどうかの問題でありますが、確かに
日本には富国強兵の政治的あらしの中で忌まわしい過去の
歴史を経験した時代がありました。そのときの
国旗日の丸、
国歌君が代の
国家的な扱いに大きな誤りのあったこともまた事実であります。
日の丸・
君が代のもとで多くの若者が祖国
日本の輝かしい
未来を信じながら散っていった事実も、私は決して否定はいたしません。しかし、私はその責任がすべて
日の丸・
君が代にあったとは思えないのであります。要は、その時代の為政者の姿勢に問題があったと言ったら言い過ぎになるのでしょうか。
例えがやや不謹慎になるかもしれませんが、本田技研工業の創始者であられる本田宗一郎氏が言われた言葉を思い出します。出刃包丁を私の女房に持たせたらすばらしい料理をつくってくれて私は幸せだ、しかし強盗に持たせたら私の命が危ないとおっしゃるのであります。また、
日本初のノーベル賞をお受けになった湯川秀樹先生も、科学技術そのものに善悪はない、問題はそれを扱う
人間によって善にも悪にもなるとおっしゃっています。
戦後半
世紀も過ぎ、時代は大きく移り変わりました。
日の丸・
君が代を
軍国主義の
象徴としてとらえる風潮は、実感としてはもちろんでありますが、
国民的世論としても私はだんだんなくなってきていると思います。
七月二十三日の中日新聞に、
国旗・
国歌法案が衆議院を通過したことに関連して、中部地区の若い世代にアンケートを実施した結果が出ていました。それによると、多くの者が
日の丸・
君が代の
イメージとしてオリンピックやスポーツを挙げているのであります。続いて入学式、卒業式です。
天皇や
戦争という
イメージでとらえている若者もおりますが、恐らく本人に聞くことができるとしたなら、それは何らかの学習による結果の
イメージであろうと思います。それに対して、オリンピックやスポーツと答えた若者は、実感としての
イメージで
日の丸・
君が代を
敬意と愛と和の
象徴としてとらえているのであろうと思うのであります。
そういう
意味で、私は、
日の丸・
君が代があの忌まわしい
軍国主義の
象徴であるといった
国民的感情からは既に建設的な変化をして、異なったものになってきていると判断いたしております。
次に、第二点目の
君が代の歌詞が
国民主権と矛盾するのかどうかの問題であります。
君が代は
天皇の統治をたたえる歌で、
憲法の
国民主権と両立しないという御
意見のあることも十分承知いたしておりますが、私はそのようには思っておりません。
さて、この点についての
政府の判断でありますが、私の理解に誤りがないとすれば、
君が代の「君」は、
天皇を含めた個人ではなく、国や
国民全体の繁栄を願って用いたものであると説明されていたように思います。ところが、さきに
小渕首相が
君が代の「君」は
象徴天皇を指すといった解釈をお述べになって、新たにまたそれは
国民主権の理念に反するではないかという声が高まってきているように思います。しかし、私は別に矛盾はしていないのではないかと思っているんです。現在の
天皇は
国民主権に基づく
日本国及び
日本国民統合の
象徴なのでありますから、
象徴天皇を指すということは、とりもなおさず
日本国民全体を指すと判断していいのではないでしょうか。それは詭弁だと言われるかもしれませんが、私はそのように思っております。
さて、
君が代の歌詞でありますが、もともとは
君が代ではなくてわが君だったということはだれもが知っていることであります。念のためにその
意味を申し上げてみますと、あなたは千年も万年も健やかに長生きしてくださいね、小さな石がいわおとなってこけが生えてくるまでもということであります。
鎌倉時代以降の文学作品にもたびたびこの歌が登場するようでありますが、わが君が
君が代に置きかえられた後も、
天皇だけでなく、すべての人を含めた長寿を祝うめでたい歌として愛されていたようであります。それが近代
国家創設の
明治に入って、
憲法条文の「万世一系ノ
天皇之ヲ統治ス」という文言と結びついて
歴史的悪夢へとつながっていったように思います。
しかし、
日本は、ポツダム宣言受諾を境にして、忌まわしい過去を清算し、平和を愛する
国家として大きく生まれ変わりました。
君が代の歌詞解釈についても、もう原点に戻って解釈し直してもよいのではないかと私は思っております。
最後に、第三点目の
日の丸・
君が代の
法制化を急ぐ必要があるのかどうかの問題であります。
私は、でき得れば早く
法制化していただけるとありがたいと思っております。一部には
日の丸も
君が代も
国民の間で定着してきているのだから改めて
法制化する必要はないではないかという御
意見もありますが、私は、定着化しているからこそ、また
国民から認知されてきたと思うからこそ
法制化したらいいと思っているわけです。
一つの組織の中で明文化されてはいないが必要なものとして行われ、また将来も行われることが期待される事柄を慣行、慣習と言っていると思います。まさに
日の丸・
君が代は
日本国の
国民的慣行であります。言いかえてみれば、
国民的常識と言ってもいいと思います。その
国民的常識を明文化したものが法であると私は思っておりますので、その
意味で
法制化に対して抵抗感はありません。
特に、私は教職に身を置いておる者でありますので、先ほど申し上げました本田宗一郎氏や湯川秀樹先生のお言葉が非常に気になります。
日の丸・
君が代云々の問題よりも、それを扱う
人間性をもっと問題にしたいのであります。そういう
意味で、
教育の場で
日の丸・
君が代が問題になることには危惧の念を抱かざるを得ません。
現在の私の学校では何ら問題はありませんが、過去、高等学校に勤務していた当時を思い出しますと、この問題についてはどこの学校も必ずしも一枚板ではありませんでした。そういたしますと、
生徒が迷い、動揺します。
生徒に考えさせることは
教育上大切なことでありますが、動揺させたり迷わせたりすることはよくありません。なぜなら、考えさせることは思考活動を助長する能動的範疇に属する事柄でありますが、迷わせ、動揺させることは時として思考活動を消極的にしてしまうおそれがあります。
日の丸・
君が代をめぐる学校内の対立で
教育の
現場が混乱するようなことは絶対にあってはならないと思っております。
既に、一九八九年の
学習指導要領で入学式や卒業式などでの
国旗掲揚と
国歌斉唱が義務づけられています。そして、一九九四年には、村山富市首相が
日の丸が
国旗、
君が代が
国歌と
国会で答弁なさったという記憶があります。
もちろん、どこの学校でも
校長は他力本願のみで
日の丸・
君が代の問題を
指導しようとは思っておりませんが、
国民的常識として認知されている
日の丸・
君が代を今ここで明文化して
法制化していただければ、
校長の
教育的信念として職務命令を出すにも元気が出るのではないかと思う次第であります。よろしく
お願いいたします。
以上が私の
日の丸・
君が代法制化に関する考え方でございます。