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1999-08-05 第145回国会 参議院 国旗及び国歌に関する特別委員会 第6号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成十一年八月五日(木曜日)    午後一時開会     ─────────────    委員異動  八月四日     辞任         補欠選任      本岡 昭次君     佐藤 雄平君      畑野 君枝君     林  紀子君      山本 正和君     清水 澄子君  八月五日     辞任         補欠選任      佐藤 雄平君     本岡 昭次君      山本  保君     山下 栄一君     ─────────────   出席者は左のとおり。     委員長         岩崎 純三君     理 事                 鴻池 祥肇君                 溝手 顕正君                 江田 五月君                 森本 晃司君                 笠井  亮君     委 員                 市川 一朗君                 景山俊太郎君                 亀井 郁夫君                 中川 義雄君                 南野知惠子君                 橋本 聖子君                 馳   浩君                 森田 次夫君                 足立 良平君                 石田 美栄君                 江本 孟紀君                 竹村 泰子君                 本岡 昭次君                 松 あきら君                 山下 栄一君                 林  紀子君                 清水 澄子君                 扇  千景君                 山崎  力君    事務局側        常任委員会専門        員        志村 昌俊君        常任委員会専門        員        巻端 俊兒君     ─────────────   本日の会議に付した案件 ○派遣委員報告公聴会開会承認要求に関する件     ─────────────
  2. 岩崎純三

    委員長岩崎純三君) ただいまから国旗及び国歌に関する特別委員会開会いたします。  委員異動について御報告いたします。  昨日、畑野君枝君及び山本正和君が委員辞任され、その補欠として林紀子君及び清水澄子君が選任されました。  また、本日、山本保君が委員辞任され、その補欠として山下栄一君が選任されました。     ─────────────
  3. 岩崎純三

    委員長岩崎純三君) 国旗及び国歌に関する法律案を議題といたします。  昨日、当委員会が行いました委員派遣につきまして、派遣委員から報告を聴取いたします。  第一班の報告お願いいたします。溝手顕正君。
  4. 溝手顕正

    溝手顕正君 第一班につきまして御報告いたします。  派遣委員は、岩崎純三委員長団長として、森本晃司理事笠井亮理事中川義雄委員森田次夫委員佐藤雄平委員竹村泰子委員山崎力委員及び私、溝手顕正の九名で、昨四日、仙台市において地方公聴会を開催し、国旗及び国歌に関する法律案につきまして、社団法人仙台青年会議所理事長成田治君、日本キリスト教協議会幹事大津健一君、郡山地区連合町内会長千葉胞義君宮城教職員組合委員長富樫昌良君の四名の公述人から意見を聴取いたしました。  以下、意見要旨を簡単に御報告申し上げますと、まず、成田公述人から、青年会議所という団体地球一つ世界と考えてその未来を考えていこうとしているが、各国との交流の中で最低限ルール相手国を敬うとともに自分の国を愛することであり、国旗国歌は国のベースである。  次に、大津公述人から、アジア侵略植民地化シンボルである日の丸、及び天皇を賛美し、国民主権の今日にふさわしくない内容を持つ君が代法制化は、強制化につながる。  次に、千葉公述人から、日の丸君が代とも国旗国歌として国民の間に定着しているが、君が代の歌詞については、可能な限り議論が必要である。  最後に、富樫公述人から、いかなる強制もなじまない学校教育において、大綱的基準である学習指導要領によって日の丸君が代指導だけが義務化され、処分されることは理不尽であるなど、それぞれの立場から意見が述べられました。  公述人意見に対し、各委員より、教育現場の問題を解決する上で法制化がもたらす効果、国旗国歌を成文化すること、あるいは慣習のままとすることの是非、日の丸君が代についての正しい歴史教育必要性法制化教育現場にもたらす影響、公教育における合理的な強制必要性などの質疑が行われました。  なお、会議内容速記により記録いたしましたので、詳細はこれにより御承知願いたいと存じます。  以上、第一班の報告を終わります。
  5. 岩崎純三

    委員長岩崎純三君) 次に、第二班の報告お願いいたします。江田五月君。
  6. 江田五月

    江田五月君 第二班につきまして御報告いたします。  派遣委員は、鴻池祥肇理事団長として、亀井郁夫委員南野知惠子委員馳浩委員石田美栄委員山本保委員林紀子委員山本正和委員及び私、江田五月の九名で、昨四日、名古屋市において地方公聴会を開催し、国旗及び国歌に関する法律案につきまして、学校法人山本学園理事長山本春樹君、日本基督教団牧師島しづ子君、名古屋工学院専門学校校長中山清治君、南山大学教授小林武君、日本戦没学生記念会事務局長名古屋大学名誉教授安川寿之輔君京都産業大学教授法学博士所功君の六名の公述人から意見を聴取いたしました。  以下、意見要旨を簡単に御報告申し上げますと、まず、山本公述人から、教育現場混乱回避のためにも国旗国歌法制化は必要である。国旗国歌についての教育は海外に出ていく生徒たちのためにも有用である。  次に、島公述人から、日の丸君が代戦前天皇制と切り離せず、また、君が代は、国民主権とは相入れない。国を愛するということは、内面にゆだねられることで、強制することは許されない。  次に、中山公述人から、日の丸君が代について戦後はイメージが変わり、軍国主義象徴ではなくなっている。国旗国歌は慣行として定着しており、法制化を急ぐべきである。  次に、小林公述人から、国民的議論が十分ではなく、また、法制化思想良心の自由の侵害を拡大するおそれがある。国旗国歌制定については、民主主義、人権の尊重平和主義に基づくものであることが求められる。  次に、安川公述人から、教育現場での強制は、教育の悪しき政治利用であり、大学生の大多数が法制化反対とのアンケートもある。君が代の「君」が象徴天皇であるというのは差別につながる。  最後に、所公述人から、日本独特の伝統文化である日の丸君が代について、一段と理解を深めつつ二十一世紀に進んでまいりたい。法制化をチャンスとして、真の日本再建国際化を実現したいなど、それぞれの立場から意見が述べられました。  公述人意見に対し、各委員より、日本国憲法制定当時から象徴天皇イコール国家と考えられていたか、国旗国歌法制化に向けてはどのような条件がそろえばよいのか、キリスト者として違和感を持つのは国旗国歌に対してか、日の丸君が代に対してか、教育現場での教師に対する国旗国歌強制思想良心の自由に反しないか、日の丸君が代とでは学生たちの受けとめ方に違いがあるか、などの質疑が行われました。  なお、会議内容速記により記録いたしましたので、詳細はこれにより御承知願いたいと存じます。  以上、第二班の報告を終わります。
  7. 岩崎純三

    委員長岩崎純三君) 以上で委員派遣報告は終了いたしました。     ─────────────
  8. 岩崎純三

    委員長岩崎純三君) 公聴会開会承認要求に関する件についてお諮りいたします。  国旗及び国歌に関する法律案審査のため、八月九日午前九時に公聴会開会することとし、公述人の数及び選定等につきましては委員長に御一任願いたいと存じますが、これに賛成の方の挙手を願います。    〔賛成者挙手
  9. 岩崎純三

    委員長岩崎純三君) 多数と認めます。よって、さよう決定いたしました。  本日はこれにて散会いたします。    午後一時八分散会      ─────・─────    〔参照〕    仙台地方公聴会速記録  期日 平成十一年八月四日(水曜日)  場所 仙台市 江陽グランドホテル    派遣委員     団長 委員長      岩崎 純三君        理 事      溝手 顕正君        理 事      森本 晃司君        理 事      笠井  亮君                 中川 義雄君                 森田 次夫君                 佐藤 雄平君                 竹村 泰子君                 山崎  力君    公述人        社団法人仙台青        年会議所理事長  成田  治君        日本キリスト教        協議会幹事   大津 健一君        郡山地区連合町        内会長      千葉 胞義君        宮城教職員組        合委員長     富樫 昌良君     ─────────────    〔午後一時開会
  10. 岩崎純三

    団長岩崎純三君) ただいまから参議院国旗及び国歌に関する特別委員会仙台地方公聴会開会いたします。  私は、本日の会議を主宰いたします参議院国旗及び国歌に関する特別委員長岩崎純三でございます。よろしくお願いいたします。  まずもって、私どもの委員を御紹介いたします。  自由民主党所属溝手顕正理事でございます。  公明党所属森本晃司理事でございます。  日本共産党所属笠井亮理事でございます。  自由民主党所属中川義雄委員でございます。  同じく森田次夫委員でございます。  民主党・新緑風会所属竹村泰子委員でございます。  同じく佐藤雄平委員でございます。  参議院会所属山崎力委員でございます。  以上の九名でございます。どうぞよろしくお願い申し上げます。  国旗及び国歌に関する特別委員会におきましては、目下、国旗及び国歌に関する法律案について審査を行っておりますが、本日は、本法律案につきまして関心をお持ちの関係者皆様方から貴重な御意見を承るため、当仙台市において地方公聴会開会することにいたしました。どうぞよろしくお願い申し上げます。  次に、公述人方々を御紹介申し上げます。  社団法人仙台青年会議所理事長成田治公述人でございます。  日本キリスト教協議会幹事大津健一公述人でございます。  郡山地区連合町内会長千葉胞義公述人でございます。  宮城教職員組合委員長富樫昌良公述人でございます。  以上の四名の方々でございます。  この際、公述人方々に一言ごあいさつを申し上げます。  皆様方におかれましては、御多忙のところ、また連日の暑い中、御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。本日は、皆様方から忌憚のない御意見を拝聴し、今後の法案審査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願い申し上げます。  次に、議事の進め方について申し上げます。  まず、成田公述人大津公述人千葉公述人富樫公述人の順序で、それぞれ十分程度御意見をお述べいただいた後に各委員質疑にお答えいただきたいと存じます。  なお、御発言は着席のままで結構でございます。  それでは、まず成田公述人から御意見をお述べいただきたいと存じます。成田公述人
  11. 成田治

    公述人成田治君) 私は、社団法人仙台青年会議所理事長を務めさせていただいております成田と申します。  本日は、本法案に関しまして、青年会議所の運動に携わっている立場から御意見を申し述べさせていただきたいというふうに考えております。  まず、本法案成立に関して、私といたしましては賛意を表したいものというふうに考えております。  理由はさまざまございますが、まず、これだけ国民の心に定着しているものを今さら違うものと言うことに何の意味があるのかなということでございます。そして、なぜ今まで法制化をしていなかったかということに関して甚だ疑問を感じているというところがまずその趣旨でございます。  我々の団体は、日本では約七百五十の青年会議所がございまして、会員数約六万人、そして世界百カ国にわたる団体でございます。  第二次大戦後、日本がまだバッシングされていたいわゆるサンフランシスコ講和条約前に既に、日本世界に対してこの団体に所属することを表明したときに受け入れをしていただいたという経緯がございまして、現在でもその百カ国の仲間と地球未来について議論を重ねているところであります。  そして、その大きなテーマの一つ地球市民という考え方がございまして、これは、それぞれが国を超えて地球一つ国家と考えてその未来を考えていきましょうということでございます。  その中で、各国代表者皆さんと率直な議論を交わしているところでありますが、そんな私たちの中で最低限ルールというのは、お互いの国にまず敬意を払って、そして我々としては、まず自分の町を愛すること、そして国を愛すること、そしてそれから、それを最低条件にして地球を愛することというのが我々の必須項目なのであります。したがって、どんな国のメンバーでも、その国を愛さない者、そして自分の国の国旗国歌敬意を払わない者はいないのです。  今回の法案に関して、実はそのJCの活動を通じた友人の各国皆さんにいろいろとお尋ねをしてみました。非常に反応は冷ややかでございました。むしろ、嘲笑に近い部分があったんじゃないかなというふうに思うんです。  それは、彼らとしては、では、我々がさまざまなスポーツの大会でありますとか場面を通して敬意を払っていたあなたの国の国旗国歌は一体今まで何だったんですかと。例えば、この法案に関しまして、戦争イメージでありますとか、その当時行われたとされている略奪や残虐行為イメージイコールとする方、それとすりかえる方がおられますが、そういう安易な発想で国際を考えるのが日本人の悪い癖であるというのが彼らの率直な感想でありますし、私もそのように考えます。  例えば、国旗国歌を否定したり変えるということで我々が犯してしまった愚かな行為をすりかえることは決してできないわけでありますし、残念ながら、戦争という愚かな行為人間がしているときにはどんな国でも同じようなことを考えておったわけでございます。  そして、法制化に関しては、各国それぞれ、している国、していない国がございますが、国旗成り立ちでありますとか、国歌成り立ちに関して情報が入っているということでその認識をしていても、それに今さら疑問を感じるというナショナリズムの欠如というのはほかの国では考えられないことなのであります。あるいは、その国旗国歌成り立ちに我々が疑問を感ずるのであっても、政府、そして日本の国としてシステムで今の正しい姿をあらわしていれば何ら問題はないんではないかというのが私の意見でございます。  むしろ、彼らから聞かれた大きな声の一つ広島の悲しい事件がございました。教育現場でのいさかいから非常に不幸な結果を招いたということに関して、彼らも私も同じような意見でございましたが、彼らが非常に憤りを感じたのは、そこに教育を実際に受ける子供存在というのが不在であったということ。そして、自分主義や主張を通すために人間の命が犠牲になってもいいのでしょうか。それは、だれも大きな声で申し上げられませんが、犯罪に近いものであるというふうに考えております。  まず国旗国歌というのはこの国のベースでありまして、国会議員皆様が論ぜられる政策外交というものはその後に来るものではないでしょうか。  最後に申し上げたいのは、日本人として国のありようを議論するのが国会であるというふうに我々は習っております。そのとおり日本のかじ取りが国会なのであれば、皆さんも御承知のとおり、国籍のない船は出帆はできないわけですから、この国としてのベース、本法案は一日も早く成立に結びつけていただきまして、こんなに多くの先生方が御足労いただく前に、ほかに、今日本は大変厳しい立場におるわけでございますから、一日も早く外交に経済に、さらには地球意識的な政策を打ち出すことが二十一世紀日本に求められる姿と信じておりますので、本法案の一日も早い成立とともに、新しい日本の姿を世界に発信していただきたいと考えるところであります。  ありがとうございました。
  12. 岩崎純三

    団長岩崎純三君) ありがとうございました。  次に、大津公述人お願いをいたします。大津公述人
  13. 大津健一

    公述人大津健一君) 私は、既に先生方のお手元に資料を渡してありますので、それに基づいて発言をさせていただきます。  私は、日の丸君が代国旗国歌制定するための国旗及び国歌に関する法律案反対します。これから述べることは、その反対理由です。  日の丸は、戦前、戦中、日本侵略し、日本植民地となったアジアの国々に対する日本支配シンボルとして掲げられていました。私は、一九八六年から九四年までの八年間、アジアキリスト教関係国際団体アジアキリスト教協議会で働いた経験を持っております。アジアの多くのキリスト者やそうでない人々との出会いを通して、多くのアジア人々が、五十数年たった今日も、日本侵略植民地支配に対して深い心の傷を持ち、日本人を許していないことを知らされました。また、政府は、今日までアジア戦争被害者に対して、その補償と正式な謝罪を怠ってきました。このような中で、日本侵略戦争シンボルであった日の丸国旗として認めることはできません。  君が代は、天皇を賛美する歌です。  一九三一年発行のキリスト教賛美歌には、本書の歌にあらずとして、君が代が収録されていました。また、キリスト教礼拝式の中で宮城遥拝が行われ、国歌奉唱が義務づけられていました。キリスト教会は、国家によって強制されたにせよ、神ならざるもの天皇を神として礼拝し賛美した誤りを犯したことに深い悔い改めの思いを持ってここにおります。  一九三七年の小学校の教科書は、君が代について、我が天皇陛下のお治めになるこの御代は、千年も万年も、いや、いつまでもいつまでも続いてお栄えになるようにという意味だと教えました。この同じ君が代政府は、君が代の「君」は、今の憲法では国と国民統合象徴である天皇と語り、小渕首相は、その地位が主権の存する国民の総意に基づく天皇のことを指すと説明しております。  しかし、一九八九年の新天皇の即位の礼や大嘗祭は、天皇が特別な神的権威を持つ宗教的存在であることを示しました。  このような宗教的存在である天皇を賛美する歌、君が代法制化して強制することは、私たちの魂の問題に介入することであり、憲法に保障された私たち信教の自由を侵害するものであります。  日の丸君が代法制化は、強制化になると申し上げたいと思います。  広島世羅高校校長の自死は、教育委員会学校指導要綱による日の丸君が代強制によるものと言われております。秋田市中学校総合体育大会開会式で来賓のお一人が、日の丸掲揚君が代斉唱時に座っていた人に、起立しなかった人はこの会場から出ていっていただきたいと言ったと伝えられていますが、法制化によってこういう発言はもっと露骨になされる可能性があります。  東京都教育委員会は、君が代伴奏を拒否した小学校ピアノ教師地方公務員法に反したということで戒告処分を与えましたが、法制化後、こういうケースが起これば、もっと厳しい処分が行われるものと予想されます。  今月二日の皆さん方国旗国歌特別委員会文部省矢野重典教育助成局長は、教職員国旗国歌指導に矛盾を感じ、思想良心の自由を理由指導を拒否することまでは保障されていないと述べ、処分の対象になると言ったことは、法制化現場教師にはっきりと強制力を持つものであることを物語っております。  日の丸掲揚し、君が代を斉唱する自由があるとともに、自己の良心に従って日の丸君が代を拒否する自由もあると考えるのが妥当であります。  昨今のマスコミによる世論調査では、国民の間に法制化反対意見賛成意見よりも大きくなっている現実の中で、国民の間に定着しているという理由だけで法制化をすることは、多くの国民の意思を無視することであり、それこそ憲法で保障された良心思想信教の自由を侵害することになります。  日本の過去の侵略歴史に誠実に向き合おうとしている多くの教師たちが、文部省による日の丸君が代の押しつけという現実の前で苦しんでいることを、特別委員会皆さんはどれほど知っておられるでしょうか。法制化することは、苦しんでいる教師たち日の丸君が代の踏み絵を踏ませることになり、教師の心に深い傷を残すことになります。  日の丸君が代強制することは、教育基本法に定められた教育自主性自発性尊重と矛盾することではないでしょうか。教師たち良心の自由はどうなりますか。良心を持つ教師は要らないということでしょうか。教育の中心は、あくまでも一人一人の人格を持つ子供たちでありまして、国家のしるしとされる日の丸君が代強制することではありません。  日の丸君が代法制化は、国家権力教師生徒や私たちの魂の内面まで入り込んで、私たちの魂を支配することになります。私は、私の神への信仰にかけてそれを認めることはできません。  今日、日の丸君が代法制化反対する人々の声が日々大きくなり、国民の考えが二分されているというふうに私は考えております。そして、この問題に対する十分な議論がなされないまま、皆さん方特別委員会はもうすぐ採決をするのではないか、あるいは本会議採決される日が近いというふうにマスコミなどで報じられております。  私は、参議院は衆議院と違って良識の府であるというふうに思っておりまして、参議院が、国民法制化についていろいろな疑義を表明しているこの現実の中で、ほんのわずかな審議の時間しかとらず、採決を拙速に行おうとすることは、私は参議院の本来のあり方からいっておかしいというふうに思っております。そして、このままで採決するならば、私は議会政治が本当に信頼をなくしていくことになるのではないか、そのように考えております。  このような意味で、この問題について、ここで採決をして決着するのではありませんで、慎重に審議する時間を設けていただいて、次の国会国民の幅広い論議する場所を設けていただいて、そして継続審議としていただくこと、そのことを心から願っております。
  14. 岩崎純三

    団長岩崎純三君) ありがとうございました。  次に、千葉公述人お願いをいたします。千葉公述人
  15. 千葉胞義

    公述人千葉胞義君) 千葉でございます。  私は、以前教職に携わったことがあるものですから、そのこともこの中で述べさせていただきたいなというふうに思っております。  まず最初に、国旗国歌のことでございますが、国旗については、明治三年に船舶に掲揚すべき国旗の制式というのが決まった。それから、昭和二十六年に天野文部大臣国旗掲揚国歌斉唱が望ましいという談話を発表しておる。昭和五十年には、総理府の世論調査によりますと、日の丸国旗としてふさわしいというのが八四%あったというような記録がございます。  一方、君が代については、明治十三年、現行の曲を持つ君が代が完成したと言われておる。そして、明治二十年代あたりからこの君が代国民に定着しつつあった。昭和三十三年には、国民の祝日に君が代斉唱が望ましいということで文部省指導要領にちゃんと載っている。昭和五十年にこの君が代世論調査をやりました。そうしたら、国歌としてふさわしいものと思うというのが七七%あったというデータがございます。  その間のことは随分抜きましたけれども、こういうことを一方で考えると、日の丸君が代というのは、そういう歴史的なことを考えてくるとやっぱり慣行によってそれなりにやられておったということが言えるだろうと思います。したがいまして、それがずっと続いておったということは、広く国民に定着しておったのではないか、あるいは現在は定着しておるというふうに私は考えております。  それから、国際間でも日本日の丸と。それから、外国に行って、あるいは日本でも同じですが、いろいろスポーツなどで日の丸が上がる場合にはやっぱり君が代だろうと、これも定着している。それから、外国を訪問したときなどは、やっぱり日の丸であり、君が代であると。先ほど申し上げたスポーツにおいてもしかり、それから船舶も同じ、航空機などにも明示され、マークがついている、いわば運輸関係等にはそういうことが非常に多い。いわゆる、国際間でお互いに尊重されているということが言えるだろうというふうに思います。  日本民族は、大変私はすばらしい民族だな、非常に伝統のある民族だなというふうに思っております。かつて私が外国旅行したときに、非常に安堵の胸をなでおろしたことがございます。それは、大変疲れておった体ではございましたが、日章旗が掲げられてあった。ああ私もやっぱり日本人だ、やっぱり日本という国は、こういうふうにここまで来ても日章旗を掲げられているんだ、そういう日本の国のありがたさといいましょうか、そういう安堵感を旅行をしたときにつくづく感じ、大変に熱い思いをし、また涙も出るぐらいの感動の仕方であったというふうに私は心に今秘めておるわけでございます。  そういうことを考えると、やっぱり国歌国旗は定着している。したがいまして、これを法制化して、そして日本国民として、あるいは外国の方々にも、これが日本国旗国歌であると正々堂々と胸を張って言える日本の国でありたいというふうに思うわけでございます。  ただ、君が代の歌詞については、いろいろありますけれども、これはやっぱり可能な限り時間をかけて、そして広く声を聞ける、あるいは聞く、そういう手だてが、やっぱり残された時間でやれるだけのことは必要ではなかろうかというふうに思っております。  なお、町内会などでも、このことについて特に検討会を設けるとか談話会を設けるとかということは議題としては上げませんでしたけれども、お互いの情報としてこういうことにたびたび触れております。そうすると、やっぱりこれはちゃんと定着しております、むしろ遅過ぎた、なぜこういうことについていま少し早く取り上げなかったのかという意見もございます。したがいまして、先ほど申し上げましたが、これを早くきちんとおさめていただきたいなというふうに思います。  次に、ちょっと今のことに関連しますが、小中学校の実施状況、平成十年度の入学式の場合ですが、国旗掲揚が小中学校で九八%ありました。同じく国歌斉唱は八七%実施しております。ということは、やっぱりそれだけ定着しつつあるんだと。ところが、府県によっては一〇〇%実施した県もございますという記録がございます。ということをまず最初に申し上げ、その次に、学校の教職に携わった関係があるものですから、学習指導要領とそれの取り扱いといいましょうか、指導ということについてちょっと触れさせていただきます。  これは、社会の中で小学校三、四年、それから同じく社会で小学校の六年、我が国の国旗国歌の意義を理解させ、尊重する態度を育てる、諸外国の国旗国歌尊重する態度を育てるよう配慮するというふうに学習指導要領に明記してある。  それから、小学校の特別活動というのがございますが、中学校にもございますけれども、その特別活動では、入学式、卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗掲揚国歌斉唱するよう指導するというふうにうたってあります。  それから、中学校の社会の公民という時間ですが、その中にもこういう一文がございます。国家間の相互の主権尊重と協力の中で、国旗国歌の意義を相互に尊重することが国際的な儀礼であることを理解させ、それらを尊重する態度を育てるよう配慮すると、こういうふうに指導要領に載っている。  ところが、現場においては、必ずしもこの取り扱いが同じような取り扱いにはなっていない。私が勤めておったときも、声を高らかにして反対と言うことはなかったけれども、取り扱いの態度はやはりその度合いがそれぞれに違っておった。これを取り扱うという方向の方もおれば、いや、これはそのままにしておいた方がいいのではないかとか、あるいは中間的な立場に立っている教職員というのもあります。  そういうふうに、学校現場では、やはりそういうような姿勢が一貫していなければ、方針が一貫していなければ被害をこうむるのは子供たちだというふうに思います。非常に子供たちは迷惑する。やっぱりお互いに話をして、理解すべきは理解し、そして法に制定されたのであれば、それは日本国民、公務員として守るべきは守るという態度が、これからの日本なり国際社会にとっては非常に大事ではなかろうかというふうに思うわけでございます。  したがいまして、国旗制定国歌制定、これはその方向で進んでいただければというふうに思います。  以上でございます。終わります。
  16. 岩崎純三

    団長岩崎純三君) ありがとうございました。  次に、富樫公述人お願いいたします。富樫公述人
  17. 富樫昌良

    公述人富樫昌良君) 宮城教職員組合の富樫でございます。  全国の子供たちとともに日夜奮闘している教職員良心を踏まえながら、以下に述べる理由で、私は、日の丸国旗君が代国歌とする法案に対して反対立場から意見を述べさせていただきたいと思います。  子供たちの個性と人権を最大限に尊重すべき学校教育には、いかなる強制もなじまないということであります。  今、子供たちがさまざまな矛盾を抱え、過度の受験競争の中で人間関係さえも希薄になり、いじめ、暴力、その他の問題行動が増大し、小学校低学年でも学級が成り立たない状態が生まれていることは御存じのとおりだと思います。  一九九二年九月から学校五日制が導入されるとき、文部省の調査研究協力者会議報告は、子供たちの健全な発達を保障するためには硬直して画一化した学校教育を改革しなければならない、子供と学校にゆとりを取り戻さなければならないと指摘をしております。  そのような状況にあるだけに、現場教職員は、子供たちに少しでもわかる喜びを味わわせたい、学校の楽しさを経験させたい、さまざまな場面での感動を体験させたいと日夜努力をしております。  初めて学校に入る小学校一年生に対しては、ステージいっぱいに飾りつけをしたり、二、三年生の心を込めた歌や合奏で迎えようと、春休みを返上して教職員は取り組みます。あるいは、六年生や中学校三年の卒業に当たっては、どんなに荒れた子供であっても、その子もみんなで包み込み、感動的な卒業式を経験する中で、自分もかけがえのない人間として認められているんだということ、卒業を教職員も地域の方々もたくさんの方々が祝い、励ましてくれているんだということを感じさせたい。心からそう思って、在校生や教職員は一体となって準備をします。  それぞれの地域性や学校の実態、子供たちの成長の様子を考えながら、入学してくるすべての子供たちが、あるいは卒業生の一人一人が主人公になれるような入学式や卒業式のあり方を考えます。  ところが、この十年は特に、子供たちの思いも教職員の願いも関係なく、日の丸の旗はステージ正面に張ること、修礼で始まり、開式の言葉、君が代斉唱の順で行うことと画一的に強制されることによって、感動的な式になるはずのものが無味乾燥なものになってしまう。そればかりでなく、強制しようとする管理職と学校行事の感動を大事にしようとする教職員の間に無用の対立を生み出すことさえあります。  学校を学校らしくするためにも、学校五日制の調査研究協力者会議報告のように、これまでの形式化、画一化した物の考え方は乗り越えなければならないと思います。そのためにも、学校教育への強制を前提とした日の丸君が代法制化は何としてもやめていただきたいと、心から訴えるものであります。  次に、日の丸侵略戦争の旗印に使われた歴史があり、君が代天皇陛下のお治めになる御代が千年も万年も栄えるようにと歌われたまさに天皇賛美の歌であったことは、この間の国会でのやりとりを聞けば、政府方々も一致して認めている歴史的な事実であります。このような歴史的な事実と照らしても、国民主権平和主義を原則とする日本憲法の精神と相入れるものではないし、国旗国歌として国民の親愛や国際的な理解を得るにはふさわしくないと考えるのが自然ではないでしょうか。  もちろん、全く逆の考え方があることも承知しております。要するに、日の丸君が代問題は歴史観、戦争観によって評価が完全に相反するものですし、極めて政治的な性格を持つものとなっております。それをいっときの多数派が政治的思惑のもとに教育現場国民に押しつけるとすれば、それは憲法に保障された基本的人権、思想、信条の自由を侵すことにしかなりません。  特定の政治的立場によってその評価が大きく異なる問題について、議会の多数によってあるいは法律によってもう一方に押しつけることは、個々の人間思想、信条を規制するものであり、国会が基本的人権そのものを否定し、憲法違反の法律をつくるということになりはしないでしょうか。  国会議員皆様方に対してこのような発言をすることは極めて礼を失していることかもしれませんが、日本憲法第九十八条では、わざわざ憲法が最高法規であること、そして第九十九条では、行政、立法に携わる方々や公務員の憲法擁護義務をうたっている意味をぜひとも真剣にお考えいただきたいと思います。  三つ目、文部省は、学習指導要領は大綱的なものであり弾力性を持つものであるという見解を出しています。にもかかわらず、日の丸君が代指導だけが義務化され、その取り扱い次第では処分の対象になるということは余りにも理不尽なことであります。  参議院特別委員会での論議や政府答弁を聞いていると、どうやって国民的な議論を広げるか、どうやれば国民大多数の合意をつくれるかという論議ではなく、とにかく法制化が先にありきで、指導しない教員、職務命令に従わない教員は処分できるのかどうか、そういうやりとりになっています。まさに、恫喝をしてでも強制する、そのための根拠づくりが法制化だという感じさえ受けます。  二〇〇二年実施の学習指導要領が来年度から移行措置に入ります。今回の学習指導要領の柱は、豊かな人間性や社会性を育てる、みずから学びみずから考える力を育てる、個性を生かす教育を充実する、特色ある教育、特色ある学校づくりを進めるということにあります。このような教育を実現するためにも、魅力的な教師人間性豊かな教師を育成するとも言っております。  しかし、歴史の事実や創意的な教育活動を否定して豊かな人間性が育つでしょうか。処分強制によって魅力的な教師が育つでしょうか。教師や学校に自由な発想を認めずに、どうしてみずから考える人間を育てたり特色ある学校づくりができるでしょうか。  日の丸君が代法制化強制は、学習指導要領をも真っ向から踏みにじることになるばかりではなく、それこそ戦前の誤りを再び繰り返すことになると思うのですが、いかがでしょうか。国会歴史の歯車を逆回転させることだけはしていただきたくありません。  最後に、何よりもやっと国民的な関心が高まり論議が始まったばかりであり、今拙速に法制化することは、国民の論議を封じ、国旗国歌に対する国民的合意づくりの機会を奪うものだと思います。  私は、この春の広島における痛ましい事件をむだにしないためにも、政府法制化を提起したことも、各党の皆様方がそれぞれの立場発言していることも、マスコミが世論の喚起に役割を果たしていることも、そして多くの国民がそれぞれの考え方を投書したり紙上討論を開始したことも、極めて大事な意味を持っていると考えております。  問題は、国民意見を聞き、理解を広げたり合意を広げたり、あるいは新たな合意をつくるために努力するのか、それとも民意も手続も無視をして強行し押しつけるのかということであります。  国会では憲法調査会をつくりましたが、この際、国旗国歌調査委員会もおつくりになってはいかがでしょうか。国民立場から考えるなら、それだけの重要性があると思います。マスコミだけに任せず、国会の責任で国民の意識調査をされるよう提案いたします。日の丸君が代がどの程度定着しているのか、国旗国歌としてふさわしいのかどうか、日の丸にあるいは君が代にかわるものをつくるとすればどういうものがよいのか、公募も含めて国民の率直な意見を集約していただきたいと思います。  必要であれば国旗国歌選定委員会をつくり、政府が定着しているとお考えであれば日の丸君が代も選択肢に加えて、幾つかに候補を絞った上で国民投票にかけるという方法もあると思います。  このような努力をした上で日の丸君が代が多数の支持を得たとなれば、その手続を含めて国民の理解を得ることができると思います。もちろん、その場合でも歴史的事実を否定することは許されませんし、個々の人々思想、信条や内心の自由を侵してはならないことも憲法上の当然の原則であることは言うまでもありません。  国会がそのような対応をなされば、日本民主主義は大きく成長するし、国民の信頼を厚くすることができると思います。そのことを心から願って、私の陳述を終わらせていただきます。  ありがとうございました。
  18. 岩崎純三

    団長岩崎純三君) ありがとうございました。  以上で公述人各位の御意見の陳述は終わりました。  これより公述人に対する質疑に入ります。  なお、公述人方々お願いを申し上げます。  時間が限られておりますので、御答弁はできるだけ簡潔にお述べいただきますようお願いを申し上げます。  また、発言は私の指名を待ってからお願いをいたしたいと思います。  それでは、質疑のある方は順次御発言を願います。
  19. 溝手顕正

    溝手顕正君 自由民主党の溝手顕正でございます。  きょうは公述人皆さん、大変お世話になりましてありがとうございました。若干の質問をお願いいたしたいと思います。  まず第一は、今回の国旗国歌法の提案の理由等で明らかになっていることでございますが、政府は、公述人皆さんからも話がございましたように、広島県の世羅高校の校長の自殺ということが今回の提案の理由の大きな一つになっているということを答弁でも申し上げているところですが、実はこの世羅高校という学校は私の出身地のすぐ隣の町でございまして、私が広島県の三原市長をやっていたときの同じ広域市町村圏の仲間の町の一つでございますので、それなりに私は十分バックグラウンドは承知しているつもりでございます。  そうした中で、一つ非常に感じることがありました。これは東北地方に余りない問題、大きく取り上げられていない問題ですが、部落解放運動の問題があるわけでございます。国旗国歌反対ということ、賛成ということに加えて、国旗国歌反対すればいわゆる解放運動に賛成である、国旗国歌賛成すれば部落差別につながる、こういう非常に複雑な構造がバックグラウンドにございます。したがいまして、一律に君が代の問題と校長の死亡というのを直結するのは非常に難しい面があるというように私は考えております。  その中で、特に私が感じておりますことは、いわゆる国旗国歌の問題と教育の問題とが正常な対峙をしていないんじゃないかという懸念を持っておるわけでございます。  ですから、今回の提案の理由一つになっております死亡事件というのは、国旗国歌が明らかでない、国旗国歌ではないんだ、こういう主張によって教育現場あるいは社会に無用な混乱を与えている、少なくともこれだけははっきりしようではないかというのが一つの大きな動機である、我々はこう考えております。  これについてきょうは余り議論をされていなかったんですが、どうお考えになっているのだろうかということを聞かせていただきたい。日の丸がいいとか悪いとかということ以外に、法制化をすることによって今までの問題が少しでも解放されるのではないかという意見があるわけですが、これについてどうお考えになっているか、成田さんと千葉さんにちょっと意見を伺いたいと思います。
  20. 成田治

    公述人成田治君) ただいまいただいた御質問でございますけれども、私も部落解放問題と深く結びついているというバックグラウンドの方は存じ上げておりました。ただし、それも非常に難しいすりかえ議論的な話があるので、かの事件のことを一概に判断することは非常に難しいかなというふうには考えておるんです。  教育現場の方で、法制化をすれば強制権というかやらなければいけないことと理解するのだという理屈があるのであれば、私はやっぱり法制化することにそういう意味を持つというストレートな理解になるのではないかなというふうに思います。  今さまざまな教育現場で起きている問題と、この日の丸君が代の問題とを対峙させたり、あるいは比例をさせたりしていくということは、非常に子供たちにとっては危険な行為であるというふうに思います。  ですから、決められてやるんだということであれば、それはすっきりと法に定めた方がいいという考え方でございます。
  21. 千葉胞義

    公述人千葉胞義君) 先ほども述べたのはそのことの一端になるかと思うんですが、やっぱりこれは、亡くなった校長先生の学校の様子は私はわかりませんが、ただ、こういうことは言えるのではないかなと思います。  国旗国歌の取り上げ方が校内でどういうような取り上げ方をしておったか、そのために校長さんは追いやられてついに打開の道が一人でできなくなったのかという、そういうことがあったのかどうかは詳しいことはよくわかりませんけれども、その学校でのそれに対する取り組み方、取り上げ方が、同じような考え方あるいは同じような持ち方でやっておったのかどうか、その辺が私は大変心配なところだと思います。  以上でございます。
  22. 溝手顕正

    溝手顕正君 ありがとうございました。  実はその問題、議論すれば随分いろいろ申し上げたいことがあるんですけれども、とりあえず終わらせていただきたいと思います。  私は、国旗国歌の問題あるいは教育の問題に対して第三機関の、いわゆる部落解放組織の介入が強過ぎるというか、第三者の介入によってそういう悲劇が起こったんだと思っております。これはつけ加えたいと思います。  その次の問題は、実は先ほど国旗国歌の問題と学習指導要領の問題が指摘されたわけですが、私は、本質的には国旗の問題と指導要領というのは少し違うんだろうと思っております。たまたま、たまたまと言うと問題がありますが、文部省がそういう指導をしておるということで、教育に対して非常に影響を与えていることは事実ですが、何も国旗の問題がすべて教育にいっているわけではないわけです。あらゆる分野に国旗の問題はあるんだろうと。ですから、非常にドライな言い方をしますと、学習指導要領の問題として議論をされたらいかがだろうかという見解がないことはないわけでございます。  一律に卒業式を押しつけるという考え方、これも何度も伺ったことがございます。しかし、私は行政に携わったときに、いわゆる対話式というか呼びかけ式の卒業式、それに何十回、何百回と出たことがございます。とても小学校子供が考えたようなせりふではございません。学校の教師が教え込んだようなせりふが我々の右と左を飛び交うということも経験いたしておりまして、非常に極めて形式的な対話式卒業式だなと感じたことがございます。  したがいまして、いわゆる相対する二つのイデオロギーがあって、そのイデオロギーが相対立していることに子供をお互いに巻き込んでいるのではないかと。先ほども子供が気の毒だという御発言がございましたが、私は、それはそういう意味でいうと同罪だ、どっちもどっちだという感じを持っておるわけでございます。きのうの委員会の参考人質疑の中でも、イデオロギー的な対決を一方だけ助けるようなやり方はおかしいじゃないかと、こういう主張があったんですが、それはそういうところから来たんだろうと思います。  したがいまして、私は、国旗の問題を考えるとき、教育現場ということだけよりもう少し広く心を開いて、反戦とかそういったことにだけとらわれずに議論ができないかなという気持ちを持っております。  その点に関して、いろいろ御意見をお持ちだと思いますが、大津さんと富樫さんに感想を聞かせていただきたいと思います。
  23. 岩崎純三

    団長岩崎純三君) 時間もございませんので、端的にお願いします。
  24. 大津健一

    公述人大津健一君) 今の御質問に対しては、私はイデオロギーの対立というふうには受け取っておりません。何か政治的な立場が違うからとか、私はもちろん教師ではありませんので学校の教育現場のことをよく知りませんが、それよりも、やはり私たちが本当に過去の歴史をどういうふうにきちっと子どもたちに教えているのか、それは子どもたちに対してもそうですし、教師自身も学んでいかなければいけないことではないかと思います。  過去の歴史を学べば学ぶほど、やっぱり学習指導要領によって日の丸君が代をどうしても掲揚しなければならない、それを歌わなければならないという現実の矛盾というものが、私は、子どもたちにもしわ寄せになっておりますし、教師に対してもやはり良心の痛みという形で起こっているのではないか、そこにやっぱり大きなこの日の丸君が代の問題があるのではないかというふうに思っております。  以上です。
  25. 富樫昌良

    公述人富樫昌良君) 私は、この日の丸君が代の問題を考えるときに、一つは、今、溝手理事が言われたような歴史的な問題をどういうふうにとらえるのかということ、それからもう一つは、これは極めて学校教育とは別の次元にある政治的な相反する立場によってこれが使われているという部分があるということも事実だと思います。  そしてまた、もう一方では、学校教育の基本的なあり方というのはどうあったらいいのかということを考えたときに、一つは、この国旗国歌問題というのは学校教育の問題とは別に議論をしなければならない部分が一方にあるだろうと。それからもう一方では、学校教育のあり方を議論するときにこの日の丸君が代問題を持ち込まない、そういう立場学校教育のあり方をまず議論していく。  ですから、学習指導要領にこの日の丸君が代が義務化されて入っている、そのことが既に学校教育に政治的な課題が強引に持ち込まれているという考え方を私は持っております。混乱の原因はそこにあるのではないかというふうに考えております。  以上です。
  26. 佐藤雄平

    佐藤雄平君 民主党・新緑風会の佐藤雄平でございます。  私は賛成でございます。  きょう、一緒に竹村委員もお見えになっておりまして、党内でもいろいろ議論があり、会派の中ではそれぞれの意見がある。ある意味で私は、この問題がそれぐらい広範囲にわたって、またいろんな基本的な考え方がそれほど広いものであろう、そんなふうに思うところでもあります。  また、マスコミの論調もそれぞれありますが、たまたまきょうある新聞の記事をずっと読んできましたら、この問題というのは本当に、今、富樫さんおられますけれども、一番大変なのはやっぱり現場を持っておるところかなと。それに対して記事の中で、「強制せず、無視もせず」というこの二言が書いてあったんです。まさにこれが国旗国歌の今後の取り扱い方に対する最も大事なところかなと。「強制せず、無視もせず」。  私は、やっぱり戦後五十四年間のいろんな現象を見てきていますと、五十四年の中で、いわゆる大量生産、大量消費、大量廃棄、もう立派な日本の国になってきたと。今日振り返ると、やっぱりその一つの大きな反省の中で、物質文明の成長とともに何か精神文明がどこかに置いてきぼりにされてきちゃったのかなと。  その中で今いろんな社会問題を考えると、その中で最も大事なのが地域社会じゃないかなと。私自身も子供が今三人おります、高校、中学、小学六年と。そうすると、やっぱりその子供たちがその地域社会、東京ですから余りなじめない。その地域社会こそがその一つの律をつくるものであろうと。  今日のいろんな問題を考えてみますと、やっぱりその大きなバックボーンというのが欠如しているような感じがして、これは何も学校の現場だけでもないし、家庭だけでもないし、また社会だけでもない。やっぱりひとつの三位一体の形がうんと大事であろうと。そういうふうな中で、私は、ある意味では今度の国旗国歌というのはそんな位置づけをしてもいいんではないだろうかと。何か戦後のいわゆる個人を中心とした世の中ができ上がってしまって、しかしながら日本人というのは、かつてからずっと見てきますと、やっぱり集団行動の好きなというか、それで余り争いを起こさない、そういうのが日本民族の特徴であって、神社とか仏閣にいろいろ地域社会の中で集まって、それが一つの律というバックボーンにもなっていたのかなと。  そういうふうな意味から、私はそれぞれの公述人にお伺いしたい。  私、こういうことを言えば本当に、いわゆる成文するか慣習法という国会でもいろいろ議論あったんですが、私は、やっぱり一番いいのは本当は慣習法であろうかなというふうなことであったんです。しかしながら、現実問題として、成文というふうなことであればそれに賛成だということなんですけれども、その慣習法ということについてひとつ成田さんと千葉さんにお伺いしたい。
  27. 成田治

    公述人成田治君) 今の御質問でございますけれども、逆に言うと、私の賛成するという大きな趣旨の中に、もう国民に定着をしているというところがございます。  何度も申し上げたいのは、本来、教育現場にこういった問題とかイデオロギーというものは私は不要であるという持論でございます。地域の中でどうのこうのというようなことも、もっと今、日本は二十一世紀に進むべき道を探る議論をどんどんしていかなきゃいけない時期でありますから、この議論がそんなにこれだけいろいろ社会に喚起を促しているのかどうか、ちょっと私は疑問に思っておるところもあります。  これは既にもう心の中にしみついてしまっているものなので、それをあえて今成文化してあらわすのがいい方法なんだというふうな考え方が私は正しいというふうに思います、逆に言うと。いつまでも慣習法的な考え方、中途半端なことをあらわしていくことは、今後の日本のあり方としてはよくないのではないかなというふうに考えております。
  28. 千葉胞義

    公述人千葉胞義君) 慣習法ということでうまく、うまくと言うと随分失礼ですけれども、うまくやっていけるのならそれはそれで私もいいと思いますが、しかし、これは慣習法でやっているのだからということで、教育現場はそれでおさまらないときがあると思います。  したがいまして、やっぱりそれはきちっとしたものがないと困難を生ずる、まとまるべきもまとまらない。したがって、それは先ほども申し上げましたように、学校の現場、職場というのはいつでもごたごたしていなくちゃいけない。何かそこに柱となるものが必要ではないかという考えを持っております。  以上です。
  29. 佐藤雄平

    佐藤雄平君 たまたまこの間、この委員会の中で、いわゆる慣習と成文の話になって、慣習ならそれはもうおのずと身につくところであるから、日本の政治がどうなろうとそれは変わっていかないものであろう、しかしながら、成文というふうなことになると、時として、場合によっては政治の中で変えられることもあるかもわからぬ、そんな話があったものですから御披露申し上げたのであります。  これは教育現場で、本当に富樫さん、いろいろ現場での御苦労を十分承知しておりますけれども、今の教育の中で、文部省教育委員会現場というそれぞれの立場もあろう。しかしながら、私はその中で最大大事なのは連携であると思うし、いろんな今日の問題を考えると、どうも現場教育委員会というのが、本来ならば一体であるべきところが一体でない。お互いに何か、教育委員会が、現場がというような話になっている。これではなかなか教育の方も整合していかないのかなというような危惧をするんです。  しかしながら、そういうふうな中で、子供たちの今まさに教育より学ぶとかいうその文言自体がいろいろ変わりながら、マイルドな言葉も使われつつあるんですけれども、しかし今の子供たち一つの律するものというのがなければどういうふうなことで、やっぱり一つの道徳と規範というようなものを子供たちに、これはもう世の中では必要なことでありますから、そういうようなことを例えば教えるというか育てるという前提とした場合、どんなことをもって規範とか道徳とか教えられると思いますか。  済みません、富樫さん。
  30. 富樫昌良

    公述人富樫昌良君) 今の問題にお答えする前に一言だけ。  教育委員会現場の関係についてなんですが、今、地方分権が言われている状況の中で、文部省が言うように、学習指導要領の弾力的な運用あるいは大綱的な運用が保障されていれば私は随分違うんだと思うんですが、現場におりてくるに従って非常にこれが硬直的になっている。そしてもう一方で、教育基本法にうたわれている教育行政への基本的な責任、条件整備の問題が置き去りにされている。その矛盾が現場と行政との間のさまざまな意見の違い等になっているのではないかということが一つ言えると思います。  それから、そういう状況の中で、学校現場でどうやって子供たちの規範あるいは道徳的な態度を育てるかということなんでありますが、私は、よく親の後ろ姿を見て育つとか、あるいは人のふりを見て直せとか、昔から格言が言われてきましたが、子供たち教職員との間にそのようなゆとりのある人間関係がつくられるということがまず一つ必要なことだと思います。  子供たち自分人間として育つ育ち方というのは、親を見て育つか教師を見て育つか、それが最も生活の分野で抱えている比率が多いわけですから、そういう意味で、一番長い時間つき合っている教師子供の間に人間的なかかわり合いを持つことのできるようなそういう学校のあり方、それがつくられていくことが必要だろう。その上でやっぱり子供たち同士が、友達と群れて遊ぶことがどれだけ楽しいものであるか、自分たちでさまざまなルールをつくりながら遊ぶことがどれだけ社会的に成長するものであるか、教室の中で、学校の中で、十分私は育てることが可能だと、自分が学校現場にいた経験から申し上げるわけであります。  ただ、今学校現場にはそれだけの、教師子供たちが腹を割って裸になってつき合う時間的な余裕が全くないというところに今困難が起きている一つの背景があるのではないでしょうか。
  31. 佐藤雄平

    佐藤雄平君 大津さんにこれを読ませていただいて、きょうまでアジア戦争被害者に対してという一項がありますけれども、この謝罪を怠ってきたと。この辺がどうも私、具体的にやっぱり戦争責任というのはどこまで日本というのは続いていくのかなと、こういう記述があると。現実問題として謝罪というのは何をすればいいのか。やっぱり日本国民もそれぞれそういうふうな気持ちというのはお持ちになっているし、また経済的なファクターの中でも、アジア、いわゆる迷惑をかけたところにその気持ちを入れながらいろんな援助をしていると思うんです。  こういうふうなことになると、現実問題として、大津さん、ここにお書きになっていることは何をすればいいのか。この辺、何かお考えがあればお聞かせ願いたいんですが。
  32. 大津健一

    公述人大津健一君) 私は、これはいつもよく比較されることですけれども、同じ敗戦国のドイツと日本の違いがあると思います。  ドイツは、敗戦後、自国の戦争被害者に対してもいろいろ補償をしてきましたが、しかしながら同時に、ナチスドイツが侵略した国々の人たちに対しても、被害者に対しても保護をしてきました。最近でも、例えばフォルクスワーゲンの会社がそこで働いた人に対する補償をする、これはもう五十数年たっておりますけれどもそういうことをいたしました。また、アメリカ政府でも、日系人の収容所に収容された人に対する補償をするというふうなこともしてきたわけです。  それに対して、私たちが聞いていることは、確かに、日本戦争被害者、遺族の方々に対する補償をする、そのことはとても大切なことだし、でも、それと同じように、日本侵略植民地支配した中で、そこで殺されたり、また戦争の傷を今も抱いていらっしゃる方、例えば軍隊慰安婦の人たちやら、あるいはフィリピンにおける戦争被害者、それから強制的に徴用された人たち、さまざまな人たちが五十数年たった今でも、やはり日本に来てそのことを何とか補償してほしいということを言っていらっしゃるわけです。  私は、日本が本当に立派な国だ、日の丸君が代が立派だというふうに考えるためには、その補償をぜひしていただきたいということを思っています。そのことをしたら、五十数年のこのときだけれども、そのことが本当にアジアの人たちに対して日本の信用を高めることだというふうに私は思っています。  そのことをすることなしに、二十世紀にやらなければいけないことを私たちは二十一世紀に残していく、そして今、日の丸君が代という、そういうことが言われたとしたら、僕は、それを言う前にやはりそういうことをちゃんとしていただいて、そしてアジアの人たちに私たちの本当にこういう姿勢だということをあらわして、そして心からおわびをし、その中で私は、五十年後のこの今日でもそのことは遅くないというふうに思います。  そうすることによって私たち、きっと国民はもっと誇りを持って、それは日の丸君が代国旗国歌であるということがいいかどうかわかりませんが、もっとこの国に対しての誇りを私たちは持つことができます。その点において、本当にアジアの被害者の苦しみを、日本人の被害者の苦しみはよく私たちはわかっているわけですけれども、アジアの被害者の苦しみを、今も持っていらっしゃる苦しみを私はぜひ国会議員先生方が心にとめていただきたい、そのことが最も大切なことではないか。そしてその中で、そのことを土台としながらこの日の丸君が代の問題を論じていただきたい、私はそういうふうに思っております。  以上です。
  33. 佐藤雄平

    佐藤雄平君 ありがとうございました。
  34. 森本晃司

    森本晃司君 きょうは公述人先生方、急なこの公聴会にもかかわりませず足をお運びいただきまして、大変ありがとうございます。  公明党の森本でございます。公述人皆さんに数点にわたってお尋ねをさせていただきたいと思います。  まず最初に、これは大変失礼な御質問になるかもわかりませんがお許しいただきたいんですが、ちょうど四人の公述人先生方、それぞれ世代が少しずつ違うのではないかな、こう思っております。成田先生から富樫先生まで順番に、何年生まれかちょっと教えていただきたいんですが。
  35. 成田治

    公述人成田治君) 見かけと違って、どう判断されるかわかりませんけれども、昭和三十六年生まれでございます。
  36. 大津健一

    公述人大津健一君) 私は一九四三年生まれです。昭和十八年です。
  37. 千葉胞義

    公述人千葉胞義君) 大正十五年四月二十四日生まれでございます。
  38. 富樫昌良

    公述人富樫昌良君) 一九四一年、昭和十六年生まれです。
  39. 森本晃司

    森本晃司君 どうもありがとうございました。  私は十七年生まれでございまして、大津公述人富樫公述人と同世代に育っているわけでございます。同じ世代に育ちながら私と随分、日の丸国旗国歌に対する考え方が違うなと思って聞かせていただいたんです。  お二方は、日の丸君が代、あるいはまたこういったことに反対をされる皆さんはすぐにさきの戦争と結びつけられる。あたかも日の丸君が代戦争を起こしたかのようにおっしゃる方が非常に多いんですね。確かにシンボルであった。  私の考え方はそうではなしに、日の丸君が代を時の指導者が戦争に駆り立てるために利用した一時期の、日の丸君が代にとって不幸な歴史があるなというふうに思っております。  私は、二歳のときにおやじが戦争で亡くなって、三歳のときに家を空襲で焼かれて、火の中を母親が僕を背負って逃げてくれて命を長らえてきた。そして母の手で育てられた。小学校のとき、君が代日の丸国旗掲揚もありましたし歌をも歌いました。そんなとき、ああこれが戦争の旗だというふうに私は思わなかったんです。むしろ、そういう敗戦の中から私を一生懸命育ててくれた郷土といい、日本の国に誇りを持って生き、将来は私は社会に恩返しをしなきゃならないと思って、今政治家をやらせていただいているんです。  私は、日の丸君が代がすぐに軍国主義と結びつく考え方ではなしに、日出る国の象徴としての千年以上の歴史を持った日の丸、それから庶民の歌として古今和歌集に出てくる詠み人知らず、まさに庶民が歌った歌です。それが祝い事として続いてきたこの君が代。私はその五十年の歴史戦争歴史は必ず総括しなきゃならないと思っています。  そう思いつつも、そこにいつまでもこだわっているんじゃなしに、先生方ももっと長い歴史から見て、日の丸君が代歴史戦争戦争と言わないできちんと教えていって、その中で、日の丸がこういう時期に使われた、これをもう一度繰り返してはなりませんよと、子供たちにそうきちんと教えられることこそ私は大事なことではないかと思うんですが、これは私の主張でございます。  一番お若い、全く戦争経験のない成田さん、私は、平和へのシンボルとして日の丸君が代をこれからの次の世代の皆さんでやっていっていただきたいと。私も、戦争の時期に使われたことは使われたこととしてきちんと認めた上で、平和へのシンボルとしてやっていくべきではないかと。これはむしろこれから成田さんの世代にかかってくるんですが、御意見を伺います。
  40. 成田治

    公述人成田治君) ありがとうございます。  今、先生がおっしゃったように、私どもも小学校のときに習った覚えがございます。君が代日の丸に関しては本当に長い歴史がある中で日本の国の中に定着をしてきたものであります。  確かに、さきの大戦において、愚かな行為を行う上でシンボリックに使われたという悲しい事実がございますが、それも我々日本がやってしまったことでありますから、これを正確に次世代の子供たちに教えていくことで、日の丸君が代日本国旗国歌とすることに何ら問題はないというふうに考えております。
  41. 森本晃司

    森本晃司君 富樫先生、戦争のときだけではなしに、学校できちんともう一度日の丸君が代を千年の歴史から教えていただき、戦争の時代にそういうことがあったということもきちんと教えていくという考え方ではどうでしょうか。
  42. 富樫昌良

    公述人富樫昌良君) 私は宮城教職員組合の責任者をしておりますが、うちの組合で日の丸君が代について子供たちに教えるための指導案・資料も平和教育資料として作成しております。  日常的に日の丸君が代について扱うときには、今、森本先生が言われたような歴史的な事実も踏まえながら教えていこうと。これは、国会の中でも歴史的な事実については議論がなされているようですが、そういう立場指導する資料もつくっております。ですから、指導することを全く否定しているわけではありません。強制することに対して私たち反対をしているのであります。
  43. 森本晃司

    森本晃司君 先ほど、富樫公述人からもお話が出てまいりました親を見て子育つ、教師を見て子供育つ、全くそのとおりだと思います。  ところが、私の子供が二人おります。この二人の子供が中学生のとき、兄の方は直接そのときはそうでなかったんですが、その学校で、入学式、卒業式になると先生がその場で日の丸を引きちぎったりするんですね。そんな事件がございました。その姿を見て、やっぱり子供たちはいまだにあれは一体何だったんだろうと。いまだ、それをされた先生には申しわけないけれども、子供は尊敬する心を持っていませんね、その先生に対して今は。むしろ、そういう嫌な思い出が子供たちに残っているというのは、これもまた事実なんです、先生と一部の父兄の方がされた行動で。  そこで、きょうは千葉先生、元教員でございまして、いろいろ現場でこういう御苦労があったのではないかと思うんですが、千葉先生が教職をとっていただいておりましたとき、いかがな御苦労がございましたんでしょうか。
  44. 千葉胞義

    公述人千葉胞義君) 今、森本先生からお話があったようなそういう、激しいと言った方がいいでしょうかね、そういうことは私のやっている期間にはなかったわけでございます。私は幸いだったなと、こう思っていますが、ただ、先ほども申し上げましたが、考え方の違うという、そういう人もあったのは事実でございます。今お話しいただいたそういう行為はなかった。  それからもう一つでございますが、日本憲法以前の暗い出来事は、私はやっぱり歴史認識としてそれはそれで整理して、それでいいのではないかというふうに考えております。  以上でございます。
  45. 森本晃司

    森本晃司君 千葉先生、長い教職の御経験を持っておられて、今いろいろと地域のことで御尽力をいただいておる日々でございますが、子供たち国旗国歌に対してどんな思いを持ってもらうことができたらいいかなと考えておられるのか。  それからもう一つ、学校で先生のいろいろと国旗国歌を入学式等々にお使いに、掲げられたこともあったかと思いますが、それは強制だと思われましたですか。先生のお考えをお伺いいたします。
  46. 千葉胞義

    公述人千葉胞義君) 後の方から申し上げたいと思いますが、強制という感じは全くございませんで、先生方がそれを自然と、きょうはこういう式があるよ、卒業式があるということで自然と掲揚したということで、きょうは国旗は必ず掲揚しなさいよという、そういうかけ声はしなかったと。先生方がこういう式典のときにはこれこれこういうものをやっぱりやりましょうというようなことでやってくれたということで、そのことについてのいろいろな面倒な問題はなかったということでございます。
  47. 森本晃司

    森本晃司君 大津公述人にお伺いしたいんですが、キリスト教世界の宗教でございますね。  私はヨーロッパを旅しましたとき、スイスとか、ああいうすばらしい山のところにスイスの平和のシンボルの旗としてすばらしい旗が至るところに翻っているんです。日本の国にも、日本の自然の中にこういう旗が翻るときも来ればいいなと思っていたんです。  ヨーロッパは多くの人たちが、私は勉強不足ですが、キリスト教信者の方も随分いらっしゃいますね。ヨーロッパのキリスト教方々は、国旗国歌は歌われるんでしょうか、それとも歌われないんでしょうか。ちょっとその辺、私、不勉強でございますので、教えていただければと思います。
  48. 大津健一

    公述人大津健一君) 私も、それを歌っているのを実際に見たり、国旗掲揚しているところを見たことがないのではっきり申し上げませんが、アメリカの教会にしばらくおりましたので、アメリカの教会では、独立記念日に国旗を掲げて教会でも歌を歌う、そういうことがありました。ヨーロッパのことは、残念ながらよく存じ上げておりません。
  49. 森本晃司

    森本晃司君 時間が参りました。ありがとうございました。
  50. 笠井亮

    笠井亮君 日本共産党の笠井亮でございます。  きょうは四人の公述人方々、どうも貴重な御意見をありがとうございました。  衆議院の段階でわずかな審議で強行されたというときに、各新聞も大分書きまして、法制化で国論が二分している中で、ある新聞では、社会的強制の空気を生んで学校ばかりか社会全体に息苦しさが広がっていく危惧はぬぐえないという社説も出たりしておりました。この問題、本当にそれぞれ思いがあるだけに非常に重大な問題だと思っております。  そこで、まず富樫公述人に伺いたいんですけれども、特に、学校現場ということでは大分議論もございます。それで一体、この日の丸君が代ということで、特に強制、押しつけという話がありましたが、何をもたらしているかと。  冒頭に入学式、卒業式の話がありました。私も、やはり入学式が最初の授業で卒業式が最後の授業ということで、教職員皆さんと在校生が本当に温かく心のこもったものとして迎え送ってあげると。大事な機会だというふうに思っているんですけれども、有馬文部大臣も答弁で、入学式、卒業式は厳粛、清新であるとともに楽しく愉快でということを言われたんで、これは非常に私も印象に残ったんですが、君が代あるいは日の丸というのが、そういう中では今のような位置づけをさせられるということになりますと、実際に具体的にもう少し、学校現場でどういう影響がもたらされるのか。荒廃の問題もありましたけれども、それに対してどういう方向の役割を果たしていくことになっているのか。  それから、文部大臣は、入学式、卒業式だけでなくて今度は学芸会だとかあるいは運動会なんかでも日の丸君が代をやってほしいんだと、指導するというような方向の話も答弁をしているんですけれども、そういう方向に法制化を機になっていくことになりますと、一体どういうことになっていくか。今の学校の問題あるいは日の丸君が代をめぐる問題の解決にとってどんな意味を持ってくるか、御意見を伺いたいと思います。
  51. 富樫昌良

    公述人富樫昌良君) 政府が定着をしているという言い方の背景には、いや応なしに、例えば学校では掲揚させられる斉唱させられるという、その結果を見ての言い分も多分に入っているだろうと思いますし、それから、戦後の一時期を除いて、ずっと学校教育の中では、歌うことが望ましい掲揚することが望ましいから始まって、今は指導するものとするという義務づけまで、この三十年、四十年の間に進んできております。  その間、学校で学んだ子供たちが社会に出ていくわけですから、それほど積極的な意識なしに、当然日の丸国旗君が代国歌のように思い込んでいくという歴史はあったと思います。  そういう中で、今学校現場に出ているのは、先ほど千葉公述人が言われたように、何もなくても教職員が自然に歌いあるいは掲揚するという状況であれば、これは問題はないのかもしれませんが、基本的に県の教育委員会から、文部省の指示のもとに掲揚したか斉唱したかの調査が来ております。各学校長は、毎年必ずその報告をしなければなりません。ということは、文部省から調査が来て県教委がその指示を出すことについて、校長という立場にあれば、当然それは上司の命令として、上部機関の命令としてとらえるのが自然であります。  ですから、そういう調査が来る以上、自分の学校だけが歌わない、自分の学校だけが掲揚しないという形にはしたくない。これは管理職としての当然の姿になってきますね。ですから、ほとんどの学校が、今は掲揚する斉唱するという形になっております。  ただし、それぞれの学校で、例えば親の方々にも、立たない歌わないという方がいます。子供たちの中にも、立たない歌わないということが出てきます。そういう状況を目前にしたときの担任や学校の関係者の心の痛み、今後どういうふうに指導していったらいいのかという悩み、これは大変なものであります。  あるいは、行事の直前に地域の有力者の方から、今度は掲揚するのか歌うのか、当然歌うんでしょうね、掲揚するんでしょうねと、そういう申し入れをいただくこともあります。全くその逆に、強制はしないでいただきたい、そういう申し入れをいただくこともあります。学校として、地域の中に二分した意見があるということにどう対応したらいいのか。これは、できるだけすべての子供たちの人権を尊重するという立場に立つならば、本来、学校教育に対する強制さえなければと考えるのがこれまた自然な姿ではないでしょうか。  私は、たくさんの校長、教頭ともつき合っております。その方々の率直な言葉を一言御紹介して終わらせていただきます。  みずから校長として、立場掲揚せざるを得なかった、斉唱を先生方に求めざるを得なかった。だけれども、この問題が議論される二月、三月になると本当に心が痛むし、頭が痛むし、重くなる。この問題さえなければ、教職員も管理職も含めて、子供たちのためにむだな労力を使わないで教育そのものに真剣に対応することができるのになと。これは多くの管理職の偽らざる思いではないでしょうか。  以上です。
  52. 笠井亮

    笠井亮君 もう一つ伺っていきたいんですけれども、今度法制化したらということで、官房長官も最近の答弁では、間違って日の丸君が代が使われた時期があったということを事実も含めて教えるんだと、そしてその上でこれを本当にやってもらうんだという話をしているんです。  先ほど、実際にどういう役割を果たしたかということで、教職員組合としても既に資料もつくってやられているとおっしゃいましたけれども、結局、今そういう間違って使われたことを事実も含めて教えていくとなれば、児童生徒の中に、今までは何となく歌っていたけれども、こういう中身でこういう意味だったらば、歴史的にもあるいは憲法との関係でも、これは自分としてはどうかなと思う児童生徒がふえてくると思うんです。  ところがその一方で、法制化したから今度は一律に斉唱してもらいますよということになりますと、それをやらないと職務命令、処分という話になりますと、これは内心の自由とか良心の自由という話があったと思うんですけれども、非常におかしな話になってくるんではないかというふうに思うんです。  実際に子供たち歴史、その事実も含めて教えていらっしゃることから考えて、今こういう状況というのはどういうふうにお考えでしょうか。
  53. 富樫昌良

    公述人富樫昌良君) 日の丸君が代歴史だけではなくて、社会科の中で近現代史を取り扱います。当然、戦争に至った経過から戦後処理を含めて、教科書に描かれている範囲内でありますけれども、さまざまな資料を駆使して私たち現場子供たちにできるだけ事実をありのままに教える努力をいたします。その中で、日の丸君が代を資料に基づいて、今、笠井先生が言われたような過った歴史も含めて教えるということになれば、子供たちの中から、どうしてそれを歌うの、どうしてそれを掲げるのという疑問が出てくるのも当然であります。  ですから、特に高学年になる六年生の卒業式、中学校、高校、学年が進むに従って、日の丸君が代を教えれば教えるほど反発もまた一方で出てくるという事実も、これは避けるわけにはいかないと思います。それを強制するということは学校の中に新たな混乱をもたらすし、混乱を承知で、矛盾を承知でいるから処分を前提とした法制化を強行しようとしておられるんではないでしょうか。もし矛盾がなければ、私は法制化強制も、なおさら処分などということは必要ないことだと思います。  以上です。
  54. 笠井亮

    笠井亮君 大津公述人に伺いたいんですけれども、アジア人々が深い傷を持って、そして日本人を許していないというお話がございましたが、実際に公述人御自身がアジアに行かれたときにどのような出会い、今おっしゃったように深い傷、許していないという具体的な出会いでも、どのような出会いをお持ちになっているのか。特に、日の丸君が代との関係で直接あればなんですが、それも含めてどういう傷、そして許していないという出会いをなさったのか。  それから、実際に先ほどアジアとの信頼という話も質疑の中でありましたけれども、この今の状況の中で法制化ということだけが先へ行くとすれば、アジアの人たちから見れば実際にどういう意味を今持ってくるだろうかというふうにお考えか、御意見をお聞かせいただきたいと思います。
  55. 大津健一

    公述人大津健一君) 私、先ほど言いましたように八年間アジアで働きました。キリスト教の関係ですけれども、キリスト教関係以外の人たちにもいろいろ出会いましたし、またいろんなアジア方々、教会の指導者、政治的な指導者、経済の指導者、いろんな方に出会いました。  私、一度だけじゃなくてこういう経験をマレーシアで持っております。  マレーシアのクアラルンプールに行きまして、僕は障害者の問題も担当しておりましたので、マレーシアの障害者の方の家に招かれてお茶を飲ませていただきました。マレーシアのところも広い庭先がありまして、その庭先のところでお茶をいただいたんですけれども、ちょうどそのときにその人のおばさんに当たる方が車で帰ってこられまして、私の友達が私を紹介いたしましたから私のところに来られて、それでおばさんもとても丁寧に、息子がお世話になりますということで言われました。  それはそのときはよかったんですけれども、もう本当にそれから突然、僕は、何か悪いことをしたとか、そのおばさんに何か悪いことを言ったとか、そういうことは全然記憶にないんですが、突然おばさんが私に、ところであなたは日本人ですかとおっしゃいました。私は、はい日本人ですと言いました。そうしたら突然おばさんが、日本人が私の庭に立っていることを許さないということをおっしゃいました。本当に僕はそのときにびっくりしましたが、この場所からすぐに出ていってほしいと。それはもう本当にそれまでの丁寧な、ありがとうございます、息子がお世話になりますという言葉とは全く裏腹の経験でして、私はもうびっくりいたしました、もうたじろぎながら、英語でそうじゃないということを弁明したわけですけれども。  そのときにおばさんが私に一言おっしゃったのは、自分子供のときに日本の兵隊が村に来て、そして村の人たちを集めて刀で首をはねて、竹ざおにその首を並べて道路の両側に並べているのを私は覚えている、その日本人が今私の前に立っていることは許さないということをおっしゃいました。  私の経験はもう全く偶然なんですけれども、それはクアラルンプールの経験で、その前日にペナンというところにやはり私の友人がおりましたので、ペナンでお話ししたときにも、たまたまそこでお会いした中国系のマレーシア人の老夫婦から同じお話を、ペナンとクアラルンプールは御存じのように東京と大阪ぐらいの距離が離れているんですけれども、同じことを僕に言われました。私は、たまたまマレーシアでペナンとクアラルンプール、一日置いて次の日に同じ経験をしたものですから、とてもショックでした。  私は、これがアジアの人たちの心だということをやはり日本方々に、特に政治の中心におられる方々にぜひわかっていただきたいというふうに思います。政治のトップの人たちやら経済界のトップの人にお会いしたら、それは儀礼的ですから、とても日本はいいとかすばらしいとかおっしゃいますけれども、でも本当に被害を受けた民衆の人たち、本当にその中で被害を受けて苦しんでいる人たち、その人たちの生の声をぜひ聞いていただきたいと思います。そのことがやはりこの日の丸君が代という問題に対して私自身が反対している大きな理由ですけれども、アジアの人たちが許していないその思いを、国内の中で、私たちの中でこれはもう既に一般化されているんだと、我々の中でこれはもう広がっているんだという議論だけで、それは一国中心主義の考え方だと思います。  私たちは今国際社会の中におり、これから二十一世紀子供たちやら、我々は国際社会の中でもっと広い役割を担っていかなければならないんですけれども、そうじゃなくて、国際社会の中でどう日本が生きるかという方向性、そういう関係しかまたつくってこなかったという日本のあり方をやはり深く反省して考える、そういうときではないかなというふうに僕は思っています。  そういう思いがやっぱり日の丸の中にまだあるという、そういう経験がアジアの人たちの中にはあるということを私たちはもっと知るべきであって、国内だけの議論でこのことをもしやられるとしたら、日本子供たちだけの議論でやられるとしたら、これは物すごく問題が落ちていると僕は思います。  やはり、アジアとの関係の中でぜひそれがどうであるかということをこの議論の中に考えていただきたい、そのことを私は心から願っております。  以上です。
  56. 笠井亮

    笠井亮君 最後に一言だけ、成田公述人千葉公述人、どちらでも結構なんですが、先ほどおっしゃって、私も国を愛するということでは人後に落ちないつもりですし、国旗国歌そのものは要るものだと思っております。  ただ、日の丸君が代となりますと、ここでもございましたが、賛否両論いろんな思いがあるという中で、お互いに賛成賛成の気持ちを尊重する、反対反対の気持ちを尊重するということでやっぱり議論をしていくという必要があると思っているんですけれども、先ほど千葉公述人が、法制化賛成だけれども、歌詞については可能な限り時間をかけて広く声を聞く努力が必要だと、私もそれはごもっともだと思うんです。だからこそ、私は、国旗国歌については討論と合意が要るし、せっかく始まったばかりの国民的な討論をここで断ち切ることがいかがなものか、それはまずいじゃないかと思っているわけなんです。  先ほど、拙速に決めていいのかというお二人の公述人からの御意見があったんですが、やはり私は、国民がみんな喜んで受け入れられるもの、嫌な気持ちを持つ人がいないような、そういう国歌国旗をつくるという必要があると思うのですけれども、その辺について、拙速にやっていいのかどうかということについて一言だけ、どちらかの公述人の方、端的なお答えをいただければと思うのですけれども。
  57. 岩崎純三

    団長岩崎純三君) 端的にお願いします。
  58. 成田治

    公述人成田治君) 拙速にというか、これにそんなに時間をかけることに意味があるのかというふうに率直に考えております。
  59. 笠井亮

    笠井亮君 ありがとうございました。
  60. 山崎力

    山崎力君 山崎でございます。参議院の会でやっております。  まず、大津公述人にお伺いしたいのですが、おっしゃっている思いはよくわかるんですが、それが今の国旗国歌法制化の問題とどう結びつくのかというところがいま一つ見えてこない。もし本当にそのことをやるのであれば、戦争に負けたときといいますか、今、日本という国の名前も変えた方がいいのではないかと私は思うんです。それを今なぜ国旗国歌ということでやっているのか。  既に御承知のとおり、今この問題が出てきたのは、国内においてその国旗国歌というもの、特に高校の先生が自殺された。これは、もう何年も前にもこの問題で自殺されている人はいるわけですよ、中学校の校長先生でも。一人二人じゃないというふうに聞いておりますが、それはともかくといたしまして、そういうところの一つ一つのいろいろな流れの中でこの問題が出てきている。関係者では、もう戦後一貫してこの問題というのは大きな問題であった。それが今ようやく政治の場においてこういうふうな形で、あることをきっかけに出てきた。  そこのところと、先生の、そういうふうな対外的な問題を考えてこの問題をというところの結びつきがいま一つ私にはわからないんですが、その点、端的にお答え願えればと思うんです。
  61. 大津健一

    公述人大津健一君) 私は、ここへ来るときに汽車の中で新聞を読んでいまして、これはきょうの朝日新聞の「声」欄の投書欄に載っているある五十一歳の横浜市の主婦の方の投書です。その中に、「人間として、教育者として歌いたくない歌が「君が代」である。」ということをおっしゃっています。それは、過去の歴史を考えながらそういうふうにおっしゃっております。キリスト教がつくりました資料の中にも、「日章旗は進む・万歳 今ぞ武漢陥落」という、そういうことがありまて、過去の歴史の、特にアジア侵略、韓国への植民地支配、台湾への植民地支配の一番中心にいつも日の丸が掲げられておりました。そして、韓国の人たちやら台湾の人たち君が代を斉唱させておりました。  過去の歴史をきちっと私たちが清算していない、そのことに対してきちっと責任をとっていないこと、ただそのことを切り離して、それはもう過去のことだからということではありませんで、やはりその関係の中でもこのことを考えていかない限り、私はこの日の丸君が代国旗国歌とするという、単に国内の中でそういう意見が広くあるからという議論だけで押しとどめてしまえる問題ではない、そういうかかわりがあるということを申し上げたいというふうに思いました。
  62. 山崎力

    山崎力君 そうしますと、大津さんの考え方からいくと、今、日本には国旗国歌もない状態であるというふうにお考えなんでしょうか。
  63. 大津健一

    公述人大津健一君) 私はそういうふうに考えております。
  64. 山崎力

    山崎力君 確かにそういう考え方もあるなというふうに思いますが、国際制度の中で、それが国際的に考えて、そういうふうな状態を放置してきた、あるいはそういうような考え方の方が少ないからあれだったのかもしれないですけれども、そことどうも国際社会というのが私は結びつかない。  それで、もう一つ文章で気になったのは、香港におられて随分日本植民地その他のことをやっていらしたということなんですが、それと同時に、あの当時は、香港はユニオンジャックがはためいていたわけでイギリスの植民地だったわけです。それで、信仰のことは申し上げられませんが、イギリスが世界植民地をしてどれだけの人を殺し、土地を奪い、利益を上げてきたか。そして、ついこの間、中国本土にイギリスの香港が返還されたわけですが、そのときに謝罪があったのか、補償があったのか。それがなかったというのは報道で聞いております。そういったことに対してのお考えというのはどうなんでしょうか。  もう一つありていに言えば、キリスト教が今まで人を救ってきたのと同様に、十字架を掲げて何人の人たちを殺し、土地を奪い、財宝を奪ってきたのか。それで、その辺の総括を全部なさってあの十字架を拝んでいられるんだろうかというふうな気もするわけです。  その辺について、端的にお答え願えるならばお答えいただきたいと思います。
  65. 大津健一

    公述人大津健一君) キリスト教がやってきたことに対しては深い反省を持っております。深い罪の悔い改めを持って今ここに立っております。  それは、日本キリスト者として、世界キリスト教が犯した罪については、私たち日本におる者として、やはり単に海外のキリスト教が犯した罪という形だけではありませんで、私たち日本キリスト者が同じように犯した罪であるというように考えております。  それから、今言われました、私、香港に長くいたよりも、シンガポールとかタイとか、アジア各国を回るのが仕事でしたから、香港について僕ははっきり言えませんが、ビルマでの経験で、ビルマも同じようにイギリスの植民地でした。でも、日本の軍事政権がある一時期ありました。ビルマの人にお聞きになったらよくわかると思うんですけれども、ビルマの人はこういうふうに言いました。  戦争中にイギリスは何をしたか、日本の軍隊は何をしたか、そのことをビルマの人は言われます。イギリスは、植民地支配をいたしましたが、学校をつくり病院をつくり道路をつくった。日本の軍隊はビルマに対して何をしたか、何もしなかったじゃないか、いや、むしろビルマの人たちに対してもっと残虐な行為をしたではないか、そういうふうに言われます。これは、アウン・サン・スー・チーさんの言葉を皆さんお聞きになってもそうですけれども、何かしてくれるよりも何もしてくれない方がいいというふうにおっしゃる。その日本のあり方をやはり考えてみる必要があると思います。  以上です。
  66. 山崎力

    山崎力君 ビルマのことは私もいろいろ話を聞いているんで議論はしたくないんですが、私は、植民地にしたということと戦地でそこで何をしたというのは、これは全然話が違うことで、そういうことを言えば、我々が戦争を現地では現実にやっていない朝鮮半島の人たちが我々に対してどういう気持ちを持っているかということを考えれば、おのずと今の議論というのはないと思うんですが、それはそれとして、ずっと日本国というのは国旗国歌もなかった国だということの御主張だということはわかりました。  ただ、私は、一時キリスト教教育を幼少時に受けた者として、キリスト教の十字架にはこういう血塗られた歴史があるんだ、それをわかった上でキリスト教シンボルとして教会の十字架を拝めというか、そこのところに祈りをささげなさいという教育をどこのミッションスクールでもしているとは思えないということだけ指摘させていただきたいと思います。  それでもう一つ、今度は富樫公述人にお伺いしたいんですが、教育の問題はしたくないんですけれども、日の丸のところからいけばやっぱり一つの問題点として出てくるんですが、やはり一番違うのかなと思うのは、考え方です。  学校教育にはいかなる強制もなじまないと平気でおっしゃるわけです。僕は、学校教育、特に公教育というのは強制以外の何物でもないと。ただ、それがいかに合理性を持つか否か。その合理性というのは、長い間の、西欧も含め、ほぼ確立されてきた。もちろん、それが因習的な強制力になっている部分もあろうかと思うんですが、例えば朝、定時に授業を始める、それまでに登校しなさい、これは子供にとっては強制以外の何物でもないです。一緒の時間で今度は算数をやりましょう、国語をやりましょう、強制以外の何物でもないです。  僕は、そういったことをわかった上で、過度の拘束とか何かというものをやるということが果たして合理的なものなんだろうかどうなんだろうかと。それは、専門家の方あるいは父兄の方々、そういったことがいろいろあると思うんですが、先ほどもおっしゃられたように、日の丸をそれぞれの人たちが、地域の人たち賛成反対で来て先生方は悩まれると言ったんですが、それはもう当然のことでして、親のいろいろな要望がある、それをどうやって受け入れるか、それをどうやって子供たちによかれと思って学校運営をしていくかということを恐れる教師は、私は失格だと思うんです。という感覚から見て、この問題というものの考え方の前提がどうも違っているんじゃないかなと。  と申しますのは、今度の国旗国歌というのは、私は、社会が、国家と言っていいかもしれません、「この国のかたち」、すなわち日本国というものをどういうふうに子供たちに、次の世代に教えていくか、その基礎知識を与えるのがスタートの教育だと私は思うわけです。その教育の結果悪いと思えば、今の制度でいえば選挙で政権がかわり、そういった中での変化が出てくるでしょうし、あるいはもっと過激なことを考える人たちも我々の世代にはいたわけです。  そういった点から考えてみまして、そこのところを、要するに学校教育において、国家であるとか、あるいはそのシンボルである国旗であるとか、あるいは歌である国歌というものをどのように位置づけて、どのように歌うか、掲揚するか。そういったものは入学式とか卒業式の式典のところにふさわしいものであるのか、ふさわしいものでないのか。この辺を、現場サイドでそれぞれがそこの力関係でやるよりは、ある程度国の制度としてやった方がいいのではないか。  そこのところの校長が太っ腹な人なのか小心な人なのか、あるいは突き上げる教職員の人が先鋭なのかそれともまろやかな人なのかで、その学校、学校でその問題に対する対応策が違ってくるという現状を、やっぱりそこを改めようというのが今回の国旗国歌法の成立させようという提案者の意思だと私は受けとめているわけです。  だから、逆に言えば、非常に私個人の感覚からすると違うんだけれども、政権がかわって法律を変えれば、あるいは学習指導要領を変えることによって、これは一遍に変化するわけです、全国一律で。そういう制度というのが近代の法制度のもとのこういったものではないかなと、好き嫌いは別として、そういうふうに受けとめているんですが、富樫公述人、こういった考え方というのはいかがお考えでしょうか。
  67. 富樫昌良

    公述人富樫昌良君) 非常に大きな御質問なんですが、非常に失礼な言い方をさせていただきますと、学校教育に対する皆さん方の、皆さん方というのは、政府だとか、あるいは行政の中には、その時と場合によって極めて私は無責任な相反することを求めるということが往々にしてあるんですね。  例えば、今、日本子供たち自分意見を主張しない、だからディベートが必要だということが一方で出てきます。これは若い教師方に対してもそういう意見がよく出てくることがあります。もう一方では、勝手気ままで一貫したものがないと。今言われたように、それぞれのところでばらばらに考えるよりは国が決めた方がいいだろうというような物の考え方ですね。  それぞれが率直に議論をし合って時間をかけて結論を導き出していく方法を今大事にしようとするときに、ある部分については、それでは大変だから国が決めようということは、私は極めて矛盾のある考え方なんだろうと一つ思います。  それから、政権交代によって法律を変えればいいと。確かに、現在の国会ルールあるいは国政上のルールはそういうことができます。だけれども、もう一方で、政府あるいは文部省、中教審は不易なものをどれだけ大事に受け継いでいくのかということも強調されます。  そうすると、私たちが学校現場子供たち指導するのは、はるか昔から先人の皆さん方がつくり出してきた科学であり文化であり芸術であり、そういうものを子供たちにどれだけ日常の生活に生かせるように伝え、人間としての基礎、基本的な学力として身につけさせるかということで努力をするわけですね。これは、学問の中身というのは、どういう政権がつこうとも基本的に変わるものではないはずだと思います。  あるいは、国旗国歌というものについても、私は、現在の日の丸君が代をどういうふうに評価するか、支持する自由もあるし、それに従わない自由も私はあると、それが憲法上の原則だというふうに思っております。  しかし、日の丸君が代国旗あるいは国歌として法制化する場合には、少なくとも政権がかわるたびにその理解が変わる、解釈が変わる、その都度子供たちが混乱に陥るというような対応では、これは正しくないだろうというふうに思います。  ですから、今必要なことは、十分に時間をかけ、本当に国民大多数が納得できる手順と幅広い意見の集約によって、たえ得る国旗あるいは国歌をつくるための取り組みをしていくということではないでしょうか。  冒頭私申し上げましたように、その結果、手続上もだれもが納得できるような方向で決まるのであれば、それはそれでやむを得ないだろうというふうに思いますが、政権交代で幾らでも変えられるという物の考え方には、それは安易な現在の法制化をするための口実にしか私は感じないんですが、そういう言い方では失礼でしょうか。
  68. 岩崎純三

    団長岩崎純三君) 以上をもちまして公述人に対する質疑は終了いたしました。  この際、公述人方々に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、長時間御出席をいただき、また貴重な御意見を賜りました。拝聴いたしました御意見を十分本委員会の参考にさせていただきたいと考えております。本当にきょうは御多用の中、御苦労さまでございました。ありがとうございました。  これにて参議院国旗及び国歌に関する特別委員会仙台地方公聴会を閉会といたします。    〔午後二時五十九分閉会〕      ────・────    名古屋地方公聴会速記録  期日 平成十一年八月四日(水曜日)  場所 名古屋市 名古屋都ホテル    派遣委員     団長 理 事      鴻池 祥肇君        理 事      江田 五月君                 亀井 郁夫君                 南野知惠子君                 馳   浩君                 石田 美栄君                 山本  保君                 林  紀子君                 山本 正和君    公述人        学校法人山本学        園理事長     山本 春樹君        日本基督教団牧        師        島 しづ子君        名古屋工学院専        門学校校長    中山 清治君        南山大学教授   小林  武君        日本戦没学生記        念会事務局長・        名古屋大学名誉        教授       安川寿之輔君        京都産業大学教        授・法学博士   所   功君     ─────────────    〔午後一時開会
  69. 鴻池祥肇

    団長鴻池祥肇君) ただいまから参議院国旗及び国歌に関する特別委員会名古屋地方公聴会開会いたします。  私は、本日の会議を主宰いたします参議院国旗及び国歌に関する特別委員会理事の鴻池でございます。よろしくお願い申し上げます。  まず、私どもの委員を御紹介申し上げます。  民主党・新緑風会所属江田五月理事でございます。  自由民主党所属亀井郁夫委員でございます。  同じく南野知惠子委員でございます。  同じく馳浩委員でございます。  民主党・新緑風会所属石田美栄委員でございます。  公明党所属山本保委員でございます。  日本共産党所属林紀子委員でございます。  社会民主党・護憲連合所属の山本正和委員でございます。  以上の九名でございます。どうぞよろしくお願い申し上げます。  国旗及び国歌に関する特別委員会におきましては、目下、国旗及び国歌に関する法律案について審査を行っておりますが、本日は、本法律案について関心をお持ちの関係者皆様方から貴重な御意見を承るため、当名古屋市において地方公聴会開会することにいたした次第でございます。  次に、公述人方々を御紹介申し上げます。  学校法人山本学園理事長山本春樹公述人でございます。  日本基督教団牧師島しづ子公述人でございます。  名古屋工学院専門学校校長中山清治公述人でございます。  南山大学教授小林武公述人でございます。  日本戦没学生記念会事務局長名古屋大学名誉教授安川寿之輔公述人でございます。  京都産業大学教授法学博士所功公述人でございます。  以上の六名の方々でございます。  この際、公述人方々に一言ごあいさつを申し上げます。  皆様方におかれましては、御多忙中のところ御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。本日は、皆様方から忌憚のない御意見を拝聴いたしまして、今後の法案審査の参考にいたしたいと存じておりますので、よろしくお願いを申し上げます。  次に、議事の進め方について申し上げます。  まず、山本公述人島公述人中山公述人小林公述人安川公述人所公述人の順序でそれぞれ十分程度御意見をお述べいただいた後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。  なお、御発言は着席のままで結構でございます。  それでは、まず、山本公述人から御意見をお述べいただきたいと存じます。山本公述人
  70. 山本春樹

    公述人山本春樹君) 学校法人山本学園の山本でございます。どうぞよろしくお願い申し上げます。  初めに、学園の説明をさせていただきます。  山本学園は、学校教育法第八十二条の二に規定されます、主に職業教育、技術教育、実践教育を行う教育機関でありまして、中部ファッション専門学校と山本学園情報文化専門学校の二つの専修学校を有しております。  中部ファッション専門学校は、主に高校、短大を卒業した学生を受け入れます専門課程を設置しております。山本学園情報文化専門学校は、中学からの生徒を受け入れる高等課程と、中部ファッション専門学校と同様の専門課程も設置しております。中学からの生徒を受け入れます高等課程で学ぶ生徒は、技能連携制度により、男女とも三年間で専修学校の専門教育と高等学校の通信制教育を併修しておりまして、毎年三百五十名を超える卒業生を実社会に、また短大や大学、専修学校の専門課程に送り出しております。  今回、私は、公聴会公述人のお話をいただきましたときに、専修学校のこと、山本学園のこと、私学経営以外のことには素人でございますので大変困惑をいたしました。どうか本日私なりの言葉と私なりの表現で意見を述べさせていただきますことをお許し願いたいと思います。  私が山本学園に一教員としまして勤務しました昭和五十年四月の高等課程入学式、また翌年三月の卒業式の式次第に国歌斉唱が掲載されておりました。君が代が歌われ、壇上中央に日の丸が掲げてありました。私自身は戦後生まれであり、東京の区立中学、都立高校を卒業しました。当時は、特に国旗国歌について、儀式においては通常どおり歌われ、掲げられておりましたので、このことにつきましては何の疑問も持ってはおりませんでした。また、昭和五十年に山本学園に勤務しました折に、今お話し申し上げました式典におきましての国旗国歌についても特に何の疑問も持たなかったことを覚えております。  以来、このことはこの学園の慣習となっております。当時から今日に至るまで式は厳正粛々に行われ、よい伝統となっております。高等学校の生徒と同年齢の生徒が学ぶ専修学校高等課程は学習指導要領の適用を受けませんが、このことは今後も継続していきたいと思います。  私学なるがゆえかもしれませんが、教員や生徒から国歌斉唱国旗掲揚に対する疑問の声は一度も聞かれません。ですから、広島県立高校の校長先生の死が報道されましたときには、驚きと同時に、なぜという疑問が心に生まれました。生徒はもとより、保護者、学校関係者教育関係者の動揺は相当なものであったと推測いたします。国旗国歌が今同様、学習指導要領の中の一つ指導事項として扱われるだけでは、今後も教育現場での混乱が引き続き起こり得る可能性があると考えます。  国旗日の丸法案では日章旗ですが、国歌君が代国民の大多数が認めるところと聞いております。多くの人は、生まれた土地の習慣、中には宗教に由来することが多いと思いますけれども、とか家風を歴史的な意味も知らずに受け入れています。一例としまして、家に伝わる家紋などは、なぜこの紋がつけられたのか私の家族はだれもが知りません。そして、子供たちは、学校に入学した日から慣習としての国旗国歌を受け入れています。  今これだけ国旗国歌に対する国民の関心が高まったときに、政府法制化する考え方に私は賛成いたします。と同時に、法制化されなかった場合、その続く混乱の中で理由もよくわからず犠牲となるのは子供たち生徒たちであるということを懸念いたします。  四、五年前から、本学園の高等課程の生徒が海外でホームステイを体験したり、専門課程の多くの学生が毎年ニューヨーク州立ファッション工科大学、FITと呼ばれておりますが、で授業を受けることや、イタリア、フランスを中心としたファッションの研修旅行に参加しております。また、ロンドンに現在留学中の学生もおります。ことしの六月にニューヨークの研修先であるFITで作品づくりに励んだ学生が帰国後の報告で、作品のできばえは私たち日本人学生の方がよかったよと話してくれたことがとても印象的でした。彼ら、彼女たちは、手先が器用であるという日本人としてのアイデンティティーに目覚めたのだなと思いました。  若い世代の人たちは、これから世界で仕事をする機会がますますふえることでしょう。ですから、自国の文化、伝統、国旗国歌を大切にする教育はとても大事になることと思います。このことは、他国の文化や伝統、他国の国旗国歌尊重することのできる、国際的に通用する人を育てることに通ずると信じます。  法制化された場合には、引き続き国民主権者であるという前提のもとに、君が代の解釈を国民の多くが理解し支持できるように、そしてまた国旗国歌がなぜ必要かという理由を明らかにし、生徒に、国民に説明していくことは政府として今後もなすべきことと考えております。  以上で終わります。
  71. 鴻池祥肇

    団長鴻池祥肇君) ありがとうございました。  次に、島公述人お願いいたします。島公述人
  72. 島しづ子

    公述人(島しづ子君) 私は、日の丸君が代国旗国歌とすることに反対する立場から意見を述べさせていただきます。  理由は三点あります。  一つは、日の丸君が代戦前天皇を君主とした国家体制と切り離すことができないということです。  日の丸国旗に、君が代国歌法制化することは、戦前日本国家体制とそのあり方をよしとすることであり、アジアの国々に対して日本はさきの戦争による加害者行為を反省していないということを示すと思います。  戦後生まれの私にも、この旗は大日本帝国が日本の内外の人々に行った多大な人権侵害と償うことのできない罪跡とを思い起こさせます。ましてこの旗のもとで国土を踏みにじられた諸国と愛する方々を奪われた人々、みずからの人生を踏みにじられた方々には、この旗は侵略象徴そのものであると言えます。日の丸を見るごとに怒りと悲しみに身を震わす方々が今も大勢おられることを私たちは決して忘れてはならないと思います。  日本がこの旗を平和のしるしと言い、日本の旗として法制化すると言うならば、私はそれには反対ですけれども、もしできるとしたら、それはこの旗のもとに犠牲を強いられた方々への十分な謝罪と償いが終わってからであると思います。その意味でも、日本は、軍隊慰安婦とされた方々強制労働に徴用された方々に心から謝罪して、その償いを国として行っていただきたいと強く願います。  二番目、君が代天皇賛美の歌であります。国民主権とは全く相入れないと思います。  君が代の「君」が天皇であることを政府も明確に言い切っています。そして、君が代の「代」は天皇の代であって、それ以外を考えることは日本語としても不自然です。天皇の代が千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで永遠に続きますようにという内容である歌は、天皇賛美そのものであります。  戦前、戦中、国家神道の現人神として君臨した天皇をたたえる歌は、国民主権を定めた憲法にも違反し、信教の自由を侵すものです。戦中、私たちキリスト者の先輩や他の宗教者は、天皇自分の信じる神とどちらが偉いかという踏み絵を踏ませられました。みずから信じるところを明確にして殉教した先輩もおります。  このようなことからも、この歌を国歌とし、公式の場で歌うことを要求されるなら、多くの信仰者は耐えがたい心の痛みを覚えるものであります。また、憲法二十条で保障された「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」との条文に抵触するのではないかと思います。日本にはいろいろな立場の方が住んでおられます。住むすべての人にとってこれが国歌としてふさわしいものであるとは決して言えないと思います。  三番目、国を愛するということはその人の内面にゆだねられることであって、何人も強制することは許されません。  政府は、教育現場の混乱を避けるためにということで法制化を急いでいます。しかし、事実は反対です。各県教育委員会日の丸君が代の徹底を職務命令として強制し、そのために校長たち、管理職と教師たちが引き裂かれているのであります。広島県の世羅高校長の自死を契機に今回の法制化が推進されましたが、これは全く逆のやり方であります。  憲法十九条、思想及び良心の自由では、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」と記しています。これは、第二次世界大戦の思想統制に対する深い反省から明文化され、基本的人権として憲法が保障したものであります。世羅高校長を初めとする多くの教育たちは、職務命令と良心の自由との板挟みになって苦しんでいるのであります。そのようなことに対して、法制化によって強制の根拠を持たせ、一層強制を強化するということは、教師良心の自由をじゅうりんすることであると思います。  以上の主な理由によって、私は国旗国歌法案反対いたします。  日本がさきの戦争の傷跡を風化させないで、あの戦争によって人命や人権を踏みにじられた人々に心から謝罪し、二度と同じ過ちを繰り返さないという立場をとり続けることを強く願っております。  教育の場で教師たち日本戦争歴史を語り、その反省のもとに日本はこのように歩んでいるのだということを語ることが次世代を担う人々への責任であると思います。過ちの歴史を語ることは決して恥ずかしいことではありません。そこから新しい出発ができるからであります。恥ずかしいのは、事実を隠し、偽りの上に歩み続けることであります。日の丸君が代によって行われた戦争歴史を風化させず、過ちを過ちとして認め、語り、そこから出発することが緊急に求められていると思います。  政府は、新ガイドライン関連法案を皮切りに、戦争ができる体制づくりを急いでいます。日の丸君が代もその道筋に欠かせない装いと思われます。このような流れは、戦後辛うじて守り続けた憲法平和主義国民主権民主主義への挑戦であります。  平和のために今最もかち取らなくてはならないのは近隣諸国の信頼であります。平和とは、自国の繁栄だけではなく、近隣諸国とともに生きていくことであります。それなのに日の丸国旗とし、君が代国歌としてアジアに位置するということは、戦前の装いでアジア人々の前に立つということであります。このような姿勢では諸国から信頼をかち取ることはできません。私は自他ともに誠実な人を尊敬します。国家もまた国の内外に対して誠実であっていただきたいと思います。  新ガイドライン関連法案採決を初めとして、今、国会法案を通すためにのみ熱心で、そこに見え隠れしている偽りは政治家や政治に対する信頼を失わせています。政治家として、目の前の利益に動かされるのではなく、日本歴史を過去から将来に向かって展望し、責任を持つ政治を行っていただきたいと思います。  戦後五十五年、これからの五十年はいかなる年になるのでしょうか。安保条約によって日本に米軍基地が集中し、そのために基地周辺には人権侵害が多発いたしました。これをそのままにして政府戦争ができる体制を準備しつつあります。これは後世の日本国民への重大な禍根となると思います。五十五年前の決意、二度と戦争はしない、武力は行使しない、あの誓いを不変のものとして後世に渡していただきたいと心から念願いたします。  憲法平和主義を守り、諸国から信頼され、尊敬される国として歩むために、血にまみれた日の丸君が代国旗国歌として法制化することには賛成できません。  この公聴会で終わりとしないで、反対意見にもっと耳を傾け、国会においてもこのことを慎重に審議してくださるように心からお願いいたします。  以上です。
  73. 鴻池祥肇

    団長鴻池祥肇君) ありがとうございました。  次に、中山公述人お願いいたします。中山公述人
  74. 中山清治

    公述人(中山清治君) 電波学園・名古屋工学院専門学校の中山清治でございます。どうぞよろしくお願いいたします。  私は、結論から申し上げまして、本件、すなわち国旗日の丸国歌君が代法制化には賛成であります。  その理由につきまして、若干述べさせていただきたいと思います。  歴史的に見ましても、古今東西を問わず、自分の国を愛し、いとおしむ心の醸成は極めて大切なこととしてだれもが認識いたしております。そのための最も効果的な手段としての象徴存在として国旗国歌が位置づけられてきたと思います。  ちなみに、近代、現代を通して国旗国歌を持たない国はありません。言いかえてみれば、国旗国歌を愛せない国民国際社会においても軽べつされてしまうというのが実態であろうと思います。  したがいまして、その総論部分につきましては、私の判断錯誤があるかもしれませんが、余り問題はないのではないかと思います。問題は各論、すなわち日の丸君が代日本国の国旗国歌として法制化するというところが論争の焦点になっているのだと私は認識しております。  その観点に立ちまして、私の思うところを述べてみたいと思います。  現在、法制化に対する賛成反対の論争点が、毎日、新聞、テレビをにぎわしているわけでありますが、その主な論点をまとめてみますと次の三点になるのではないかと思います。  まず、第一点目の日の丸君が代軍国主義象徴なのかどうかの問題であります。第二点目は、君が代の歌詞が国民主権と矛盾するのかどうかの問題であります。そして第三点目は、今、日の丸君が代法制化を急ぐ必要があるのかどうかの問題であろうかと思います。  まず第一点目の、日の丸君が代軍国主義象徴なのかどうかの問題でありますが、確かに日本には富国強兵の政治的あらしの中で忌まわしい過去の歴史を経験した時代がありました。そのときの国旗日の丸国歌君が代国家的な扱いに大きな誤りのあったこともまた事実であります。日の丸君が代のもとで多くの若者が祖国日本の輝かしい未来を信じながら散っていった事実も、私は決して否定はいたしません。しかし、私はその責任がすべて日の丸君が代にあったとは思えないのであります。要は、その時代の為政者の姿勢に問題があったと言ったら言い過ぎになるのでしょうか。  例えがやや不謹慎になるかもしれませんが、本田技研工業の創始者であられる本田宗一郎氏が言われた言葉を思い出します。出刃包丁を私の女房に持たせたらすばらしい料理をつくってくれて私は幸せだ、しかし強盗に持たせたら私の命が危ないとおっしゃるのであります。また、日本初のノーベル賞をお受けになった湯川秀樹先生も、科学技術そのものに善悪はない、問題はそれを扱う人間によって善にも悪にもなるとおっしゃっています。  戦後半世紀も過ぎ、時代は大きく移り変わりました。日の丸君が代軍国主義象徴としてとらえる風潮は、実感としてはもちろんでありますが、国民的世論としても私はだんだんなくなってきていると思います。  七月二十三日の中日新聞に、国旗国歌法案が衆議院を通過したことに関連して、中部地区の若い世代にアンケートを実施した結果が出ていました。それによると、多くの者が日の丸君が代イメージとしてオリンピックやスポーツを挙げているのであります。続いて入学式、卒業式です。天皇戦争というイメージでとらえている若者もおりますが、恐らく本人に聞くことができるとしたなら、それは何らかの学習による結果のイメージであろうと思います。それに対して、オリンピックやスポーツと答えた若者は、実感としてのイメージ日の丸君が代敬意と愛と和の象徴としてとらえているのであろうと思うのであります。  そういう意味で、私は、日の丸君が代があの忌まわしい軍国主義象徴であるといった国民的感情からは既に建設的な変化をして、異なったものになってきていると判断いたしております。  次に、第二点目の君が代の歌詞が国民主権と矛盾するのかどうかの問題であります。  君が代天皇の統治をたたえる歌で、憲法国民主権と両立しないという御意見のあることも十分承知いたしておりますが、私はそのようには思っておりません。  さて、この点についての政府の判断でありますが、私の理解に誤りがないとすれば、君が代の「君」は、天皇を含めた個人ではなく、国や国民全体の繁栄を願って用いたものであると説明されていたように思います。ところが、さきに小渕首相君が代の「君」は象徴天皇を指すといった解釈をお述べになって、新たにまたそれは国民主権の理念に反するではないかという声が高まってきているように思います。しかし、私は別に矛盾はしていないのではないかと思っているんです。現在の天皇国民主権に基づく日本国及び日本国民統合象徴なのでありますから、象徴天皇を指すということは、とりもなおさず日本国民全体を指すと判断していいのではないでしょうか。それは詭弁だと言われるかもしれませんが、私はそのように思っております。  さて、君が代の歌詞でありますが、もともとは君が代ではなくてわが君だったということはだれもが知っていることであります。念のためにその意味を申し上げてみますと、あなたは千年も万年も健やかに長生きしてくださいね、小さな石がいわおとなってこけが生えてくるまでもということであります。  鎌倉時代以降の文学作品にもたびたびこの歌が登場するようでありますが、わが君が君が代に置きかえられた後も、天皇だけでなく、すべての人を含めた長寿を祝うめでたい歌として愛されていたようであります。それが近代国家創設の明治に入って、憲法条文の「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という文言と結びついて歴史的悪夢へとつながっていったように思います。  しかし、日本は、ポツダム宣言受諾を境にして、忌まわしい過去を清算し、平和を愛する国家として大きく生まれ変わりました。君が代の歌詞解釈についても、もう原点に戻って解釈し直してもよいのではないかと私は思っております。  最後に、第三点目の日の丸君が代法制化を急ぐ必要があるのかどうかの問題であります。  私は、でき得れば早く法制化していただけるとありがたいと思っております。一部には日の丸君が代国民の間で定着してきているのだから改めて法制化する必要はないではないかという御意見もありますが、私は、定着化しているからこそ、また国民から認知されてきたと思うからこそ法制化したらいいと思っているわけです。  一つの組織の中で明文化されてはいないが必要なものとして行われ、また将来も行われることが期待される事柄を慣行、慣習と言っていると思います。まさに日の丸君が代日本国の国民的慣行であります。言いかえてみれば、国民的常識と言ってもいいと思います。その国民的常識を明文化したものが法であると私は思っておりますので、その意味法制化に対して抵抗感はありません。  特に、私は教職に身を置いておる者でありますので、先ほど申し上げました本田宗一郎氏や湯川秀樹先生のお言葉が非常に気になります。日の丸君が代云々の問題よりも、それを扱う人間性をもっと問題にしたいのであります。そういう意味で、教育の場で日の丸君が代が問題になることには危惧の念を抱かざるを得ません。  現在の私の学校では何ら問題はありませんが、過去、高等学校に勤務していた当時を思い出しますと、この問題についてはどこの学校も必ずしも一枚板ではありませんでした。そういたしますと、生徒が迷い、動揺します。生徒に考えさせることは教育上大切なことでありますが、動揺させたり迷わせたりすることはよくありません。なぜなら、考えさせることは思考活動を助長する能動的範疇に属する事柄でありますが、迷わせ、動揺させることは時として思考活動を消極的にしてしまうおそれがあります。  日の丸君が代をめぐる学校内の対立で教育現場が混乱するようなことは絶対にあってはならないと思っております。  既に、一九八九年の学習指導要領で入学式や卒業式などでの国旗掲揚国歌斉唱が義務づけられています。そして、一九九四年には、村山富市首相が日の丸国旗君が代国歌国会で答弁なさったという記憶があります。  もちろん、どこの学校でも校長は他力本願のみで日の丸君が代の問題を指導しようとは思っておりませんが、国民的常識として認知されている日の丸君が代を今ここで明文化して法制化していただければ、校長教育的信念として職務命令を出すにも元気が出るのではないかと思う次第であります。よろしくお願いいたします。  以上が私の日の丸君が代法制化に関する考え方でございます。
  75. 鴻池祥肇

    団長鴻池祥肇君) ありがとうございました。  次に、小林公述人お願いいたします。小林公述人
  76. 小林武

    公述人(小林武君) 私は、この特別委員会において審議中のいわゆる国旗国歌法案について、主権者である国民の一人としまして、日本憲法の角度から意見を述べます。  与えられた時間が限られておりますので、以下三点に絞ります。  第一は、今国会日の丸君が代法制化する資格があるかどうかという問題であります。  国旗国歌は、どの国にとってもその社会と国民のありようを示すテーマであって、国家の基本問題であるとともに、個人の思想良心、さらに信仰などの精神的自由と深くかかわるものです。したがいまして、これをどうするかは、法制化するかしないかを含めて、国民的合意が必要不可欠とされます。  特に、我が国の場合、日の丸君が代は、ともに十五年戦争の際に侵略戦争を鼓舞し、また天皇の絶対的権威のシンボルとして用いられた歴史を持つものであるだけに、これに多くの国民反対していることに加えて、我が国の侵略を受けた諸国の人々も厳しい反応を示しておりまして、このことは他の国の国歌国旗問題には見られない特殊な要素であります。したがいまして、政府法制化をもし提案するのであれば、何より日の丸君が代歴史を誠実に振り返ることから出発しなければならなかったはずであります。  このように、重要きわまるテーマであるにもかかわらず、政府・与党は、選挙公約や施政方針演説でも国民に何ら明らかにしないまま、あまつさえ二月の広島における校長先生の自殺事件の時点でも法制化は不必要という見解を示しておきながら、突如提案をいたしまして、衆議院では実質十三時間と言われるわずかな審議で可決されたわけであります。二月の事件以降、国旗国歌問題についての国民の関心は高まりまして、議論は急速に広まっておりましたから、政府・与党はこの流れにさおを差したと言わなければなりません。  世論調査で、法制化反対または議論を尽くすべしとする意見法案提出以降急速にふえているのも当然であります。全国調査は御承知のところですから時間の関係もあり省きますけれども、地元の最近の調査でも、例えば名古屋テレビの調査では、日の丸君が代あわせましての法制化について、法制化をすべきかどうか、賛成四〇・九%、反対二四・一%、もっと時間をかけて論議すべきだが三〇・七%、つまり慎重論が過半数を占めております。地元の高校生も同じ傾向を一層明瞭にアンケート調査で示しております。  国旗国歌法制化はこうした国民世論を押し切ってまで進めるテーマでは全くありません。政治的思惑や利害から事を運んでいるとしか思えない態度は、実のところ、日の丸君が代を重んじているように見えて、国旗国歌という大切な問題を最も軽んじるものではないかと私は思う次第であります。  第二、日の丸君が代法制化国民思想良心の自由との関係であります。  国旗国歌に法的根拠を与えることそれ自体は良心の自由の侵害と直結するものではありません。しかし、我が国における現在の法制化の流れは良心の自由の侵害を拡大させずにはおかないものと思われます。  憲法第十九条は、国民がいかなる思想を抱いているかについて国家権力によりその告白を強制されないこと、つまり、いわゆる沈黙の自由を絶対的自由として保障しておりまして、例えば学校教育の場で日の丸君が代の拝礼、斉唱を事実上であれ強制することは生徒良心の自由の侵害に当たります。教師もまた同じ自由を享有しております。もっとも、教師については、自己の良心に反することを理由に法義務を拒否することが一般的に許されるかどうかという事柄がひとまず問題となり得ます。  しかし、日の丸君が代のような国民良心と深くかかわるものにつきましては、その斉唱などをみずからも強制されず、またそれを生徒強制することも義務づけられるものではないと言うべきだと思います。つまり、これを法義務とは構成し得ないものであります。法案が義務条項を設けることができないでいるのもそのゆえでありまして、したがいまして仮に法の制定がなされたその後でも今述べましたことわりはそのまま変わらず妥当するものであると言えます。  それにもかかわらず、これまでも学習指導要領を根拠にいたしまして教師に対する強制がなされてきました。しかし、最高裁判所の判決、これは特に一九七六年のいわゆる学力テスト判決でありますけれども、この最高裁判決も学習指導要領を法規あるいは法的拘束力のあるものとは認めておりませず、むしろ学習指導要領には法的拘束力をもって教師強制することが適当でない部分があり、また教師による創造的、弾力的な教育の余地や地方ごとの個別化の余地が十分残されていると述べておりまして、国の教育内容決定権に一定の限界を設けているわけです。学習指導要領日の丸君が代強制する根拠としてきたことは間違いです。  また、今回の法案によっても、法案にはさきに述べたように義務条項がないわけでありますから、拝礼や斉唱などが法的義務に転ずるわけではありません。もっとも、実態においてはその強制が拡大することは明らかでありましょうし、現に法制化への流れの中で、例えば君が代の伴奏を拒否した教師や斉唱に起立しなかった教師への処分などの事例が出ております。しかし、それらは法的根拠を欠くものと言わざるを得ないと思います。  なお、政府広島の事件について法的根拠が不明確であるがゆえに生じたものであると見ているようでありますが、これは教育というものを上意下達の関係でとらえる見解です。教育の営みは、教育基本法が言うように、個人の尊厳を重んじることを土台にして人格の完成を目指し、個人の価値をたっとぶ国民の育成を目指すものでありますから、そのためには教育自主性が何より重んじられなければなりません。法制化は、個人の良心の自由を大切にしようとする学校長を含む教師の苦悩をむしろ深めるものにほかならないと考えます。  第三、政府君が代解釈を取り上げます。  今回の法制化法案で世論の反対が特に強いのは君が代であります。民主主義国家である日本天皇の国だとして、それをことほぐ歌が国歌足り得ないことは明らかであります。ある方の川柳が新聞に載っておりましたが、それは「民の世と習い 君が代で卒業し」という川柳であります。このようにして、君が代教育の場でも生徒歴史認識を混乱させる要因となっているであろうということは容易に想像できます。抵抗が強いのは当然と言えます。  それにもかかわらず、政府は、君が代の「君」は天皇を指すものであるという見解を基本に据えた上で憲法解釈上のつじつま合わせをしようとしております。六月十一日の答弁書と同月二十九日の衆議院本会議での首相答弁とは少し異なりますけれども、要するにその趣旨は、我が国は象徴たる天皇の国だというところにあります。  しかしながら、我が国はだれの国かと問うならば、民の国、主権国民の国でありまして、天皇はその主権国民によって象徴の地位に置かれたものであるというのが憲法第一条の異論の余地のない解釈でありまして、この国を天皇の国であるなどと言うことは憲法上は絶対にできないことであります。これはこじつけ解釈と言うほかないものでありまして、思うに、政府・与党は今、国旗国歌問題を粗末に扱っているだけでなくて、日本憲法をもないがしろにしているわけであります。  以上に述べてきたところを踏まえて、私は、国旗国歌法制化がもし許されるとすれば、少なくとも次の四条件が備わっていなければならないと考えます。第一、いかなる国旗国歌にせよ、国民に対して国家による強制が一切なされないことであります。第二、法制化することについて、十分に熟した国民的合意があることであります。第三、国民の手で国旗国歌の案が出され、選択されることであります。そして第四に、その内容が人類普遍の原理である民主主義、人権、平和主義に即したものであること。この四つだと考えます。  しかし、今はこれらの条件は一切整っていないと考えます。今、私たち国会に対して、この法案を決定することではなくて、それに関して調査検討を行い、国民に十分かつ正確な情報提供をすることを望みたいと思います。国民はそれを受けて世論を成熟させる、国会はそれに基づいてさらに水準の高い検討を行う、こうした循環こそ議会制民主主義の過程でありまして、そしてそれはほかならぬ国旗国歌問題についてとりわけ強く求められていると考えます。  この法案につきまして、参議院は、理性の府の名に背くことなく、あとわずか十日となったこの会期においてこれを廃案といたしまして、主権者である国民の論議にゆだねられるように心から要望して、私の公述を終わります。
  77. 鴻池祥肇

    団長鴻池祥肇君) ありがとうございました。  次に、安川公述人お願いいたします。安川公述人
  78. 安川寿之輔

    公述人(安川寿之輔君) 私は、日の丸君が代問題の本質は、日本がかつての侵略戦争戦争責任、戦後補償と誠実に取り組んでこなかった事実の象徴であり、そのマイナスの成果だととらえています。  以下、法制化反対の根拠を四点、第一に教育の悪しき政治的利用という観点から、第二に名古屋大学新入生アンケート結果から、第三に所属している日本戦没学生記念会の立場から、第四に差別論の研究者としての立場から述べたいと思います。  第一の教育の悪しき政治的利用というのは、明治以来の日本は、政治の力で自由にならないものとか何かを徹底しようとする際に、伝統的に教育を利用、悪用してきました。教育学の世界では、これを教育で始末をつける手法とか伝統と呼んでいます。  田中角栄元首相はこう言いました。もし明治以来の教育がなかったならば、日本が過去に見られるような大規模な戦争はやり抜くことはできなかっただろうと。  政府は、長年の慣行により、両者が国民の間に広く定着していると主張していますが、これが誤りであることは、最近の世論調査の数字に示されているだけでなく、教育の政治的利用によって半強制的につくり出された事象であるという明白な事実の問題としてとらえるべきだと思います。  敗戦後は、戦前への反省から、文部省自身が学習指導要領はあくまで試案、参考案と主張していました。それが五八年の改訂で君が代日の丸の斉唱、掲揚が望ましいとされ、とりわけ八五年九月の文部省による斉唱、掲揚の徹底通知と各府県の実施状況の調査結果の公表以来、指導要領が法的拘束力を持つとされたこととあわせて、職務命令と千人近い処分者を出すことによって、さらに一九八九年の指導要領の改訂が加わり、君が代日の丸強制によって無理やり定着させられてきたというのが明らかな事実であります。仮に法制化されると、この教育による日の丸君が代強制がさらにエスカレートすることは明らかであります。  第二に、定着論の誤りをことし四月の名古屋大学新入生のアンケート調査のデータで説明します。  ことしは名古屋大学以外に名古屋市立大学と日本福祉大学でも非常勤講義を担当して、国公私立三大学で同じ調査をしていますが、十年来調査を続けている名古屋大学のデータで報告します。  日の丸の旗の縦と横の長さの比率は、二対三か、三対五か、決まっていないかという三つの選択肢から正解を選ばせる問題ですが、ことしの場合は、三月以来法制化が論議されて、日の丸はまだ法制化されていないことが広く知られてきましたので、私は正解である決まっていないが例年より多くなると予想していました。ところが、残念ながら正解できた学生はわずか六・一%で、九三・九%の学生が二対三か三対五を選びました。これが定着の数字と言えるでしょうか。  しかし、このデータは、学生たち日の丸は仮に国旗でないとしても縦横の比率ぐらいは決まっているものと誤解をしたと解釈して、正解率六・一%は御愛きょうであると笑って済ませることもできます。もっとも、学生たちは、現行の日の丸の縦横の比率は四種類もあるんだ、ばらばらなんだということを講義で紹介すると、目を丸くして、え、初めて知ったというような顔をします。  教員の私にとって衝撃的な数字は、第二次世界大戦で日本と一緒に侵略戦争を行った旧枢軸国のドイツとイタリアでは、戦後、国旗国歌を見直している事実を高校までで教えられたことがありますかという私の設問の回答です。この問題は、戦後の日本戦争責任の問題と真剣に取り組んでこなかったことにかかわる象徴的な事実であり、広島校長の自殺事件を含めて、いまだに日の丸君が代問題が続いている事実を理解する上で大事な知識であるのに、教えられたことがあるという学生はわずか三・一%でした。これは私にとってはもう驚くべき結果。  ただし、念のために、同じアンケート調査で、日本と三国同盟を結んだ枢軸国はという、あえて言うと受験のがらくた知識を問う記述式設問に、ドイツ、イタリアと、八九・三%、九割近い学生がちゃんと正解はできるわけです。ところが、そのドイツとイタリアが戦後ということになると三・一%。  名大生の名誉のために、十五年戦争の敗戦の日の正解はことし七七・一%、中国の青年ならだれでも知っている日本の開戦の日はことし正解〇・八%という数字に象徴される、戦争を知らない子供たちにつくられた名大生でも、日の丸君が代法制化については、法制化反対という意見法制化された後も強制しないという意見が合わせて九三・九%。指導要領による君が代斉唱の義務化に対しては、反対それから五八年当時の斉唱が望ましいという程度の指導でよいというのが合わせて八一・七%であったことを紹介しておきます。  名大生の大半が日の丸君が代国旗国歌と誤解する青年に見事につくられているように、国民への定着も問題です。十代、二十代の若者が、「いわおとなりて」というのを岩の音がしてと誤解しているというのが三〇%という数字、あるいは法制化の論議が始まってから世論調査の数字が反対や慎重審議にシフトしている事実も注目すべきことです。  第三に、学徒出陣によって学業半ばで戦場に出ることを余儀なくされ非業の死を遂げた日本戦没学生を記念するわだつみ会の立場から、会は今この悲劇の戦没学生たちアジアへの侵略を担った加害の立場も認めるようになっていますが、六月に他の五団体、不戦兵士の会、平和遺族会などと共同で日の丸君が代法制化反対の声明を出していますが、一昨日、戦中派の会員から私のところに電話がありまして、八・一五の集会の際には、共同声明とは別に、やはり会単独でこの法制化反対の声明をぜひ出してほしいという要望が寄せられて、目下文案を作成中です。  私たちは、ガイドライン法案成立によって日本は再び戦争国家への道に踏み出そうとしているという認識を持っています。ガイドライン法案日の丸君が代法制化には直接のつながりはありません。そのことは当初政府自身が法制化を考えていなかったことでも明らかです。しかし、三党連立の数を頼んでのごり押しで仮に法制化が実現しますと、君が代日の丸国民統合の基軸にとどまらず、戦争動員の思想的手段として使われることになることを懸念しています。  東大の学生時代に、ヒトラーこそ人類の救済者であると日記に書く青年につくられていた色川大吉さんが、「きけわだつみのこえ」について、天皇とか天皇制に対する批判や疑問、天皇を中心としている国家そのものに対する言及がまずほとんどないと、自己批判を含めて、天皇制問題が学生が社会を科学的に見る目をゆがめ、曇らされた根源であると指摘しています。  第四に、差別論の研究者としての発言ですが、政府君が代の解釈として、象徴天皇制の国が千代に八千代に栄え続きますようにという新解釈を出しましたが、とんでもないことです。象徴天皇制は、皇室典範で規定されているように、第一に士農工商えた非人の封建身分制度と同じ身分差別の制度であり、第二に女性が天皇になれない、小渕内閣の男女共同参画基本法の理念にさえ反する制度であり、第三に障害者が天皇になれない、つまり象徴天皇制は、身分差別、性差別、障害者差別という日本社会の差別の総元締めであり、二十一世紀にはとても通用しない差別で成り立っている象徴天皇制が千代に八千代に続いては困るのであります。  私は、憲法九条の改憲には断固反対論者ですが、象徴天皇制を手直ししたり廃止するためにということであれば積極的な憲法改正論者で、千代に八千代になんていうことはとんでもないことです。  時間が来ましたので、以上で終わります。
  79. 鴻池祥肇

    団長鴻池祥肇君) ありがとうございました。  次に、所公述人お願いいたします。所公述人
  80. 所功

    公述人(所功君) 私は岐阜県の出身で、名古屋大学を卒業し、現在こちらから京都へ通っております。専門は日本法制史でございますが、去る七月十六日、衆議院内閣委員会に参考人として招かれ、日の丸君が代法制化賛成する旨の意見陳述をさせていただきました。本日は、この参議院特別委員会による名古屋地方公聴会公述人として再び意見陳述の機会を与えられましたので、前回と同様の結論を少し別の観点から申し上げたいと存じます。  まず、日の丸君が代の来歴につきましては、先生方既によく御承知だと思いますし、またきょうお配りしました私の講演冊子「日本国旗国歌」に概述してありますから、ここでは省略させていただきます。ただ、日の丸、つまり日章旗が日出るところの日本国をあらわすのに最もふさわしい国旗であることは世論調査を見ましても大多数の国民に支持されていますが、君が代日本国歌とすることには異論を唱える人が少なくありませんので、こちらに力点を置いて私見を申し述べることにいたします。  すなわち、我が国で外交儀礼上日本国歌が必要になりましたのは、明治天皇を中心にして近代的な統一国家を築き始めた明治初年のことであります。その歌詞を選んだのは薩摩藩の大山巌あたりであり、琵琶歌「蓬莱山」に詠み込まれている賀歌、つまりお祝いの歌でありますが、その君が代を提示したものと伝えられております。この歌詞に初めて曲をつけたのはイギリス人のフェントンですが、それから約十年後に改めて雅楽調の曲をつけたのは宮内省の林広守らであり、それを洋楽風に編曲したのがドイツ人のエッケルトであることは既に広く知られております。  したがって、その当時の国歌君が代に言う「君」は、もちろん天皇にほかなりません。また、明治二十二年に欽定された大日本帝国憲法のもとでは、この国歌日本国の元首であり統治権の総攬者と定められた天皇陛下の御代長久をことほぐ歌と解されてきたのも当然でありましょう。  一方、戦後その旧憲法の改正手続を踏んで全面的に一新された日本憲法については、さまざまな議論がございます。けれども、現行憲法に従っている私どもは、その立法趣旨と条文自体に即して解釈するほかありません。されば、この憲法は、前文で国民主権を宣言しながら、第一章という憲法の最も重要なところに天皇の章を設けております。しかも、その第一条で「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と規定し、さらに第二条で「皇位は、世襲」と明示しております。  つまり、日本憲法の定める天皇は、その原案起草を命じたマッカーサー・ノートに記すような国家の元首、ザ・ヘッド・オブ・ザ・ステーツが象徴シンボルというソフトな用語に改められておりますが、この象徴天皇は、日本国を代表され、また日本国民統合の中心に立たれる純然たる公人にほかなりません。しかも、「皇位は、世襲」というのですから、大和朝廷以来千数百年以上も続く比類のない家柄の皇族が国会の定める皇室典範にのっとって皇位を世襲されることになります。このような象徴世襲天皇の地位を主権の存する日本国民の総意に基づいて確定しているところが第一条の本質的な特徴でありましょう。  したがって、この現行憲法下における国歌君が代の「君」は、かような意味における象徴世襲天皇を指します。そして、それがイコール日本国をあらわし、また日本国民統合シンボルだということにほかなりません。ちなみに、「君主制の比較憲法学的研究」という大著をまとめられた榎原猛博士は、憲法国民主権を明記しながら君主を国家国民の代表、中心と仰いでいる立憲君主国としてベルギー王国やタイ王国など数カ国を挙げ、我が国もその典型的な一例とみなしておられます。  さて、このような君が代の解釈は、今回国旗国歌法案の提出に当たって示された政府の統一見解と基本的に符合するものであります。そして、ほぼ同じ趣旨の見解は、既に平成元年に告示された学習指導要領文部省による解説指導書にも認められます。けれども、それが小中高校の教科書にきちんと書かれておらず、また教育現場ではほとんどまともに教えられていないように見受けられます。  例えば、私の講演冊子の四十二ページにも引いておきましたが、十年前に日本青少年研究所から発表された日本と米国の高校生を対象とした国旗国歌に対する意識と態度の調査、その結果を見ますと、日米の差が余りにも大きい、そのコメントを見ても、日本の高校生は外国の国旗国歌敬意をあらわさないばかりか、自国の国旗掲揚国歌吹奏に際してもふざけた態度をとっていると諸外国から非難されているとの指摘があります。しかも、このような状態は一向に改善されず、むしろますます悪くなっていると言わざるを得ません。  それはなぜかといえば、日の丸にも君が代にも明文上の法的根拠がないことを盾にとって、入学式や卒業式などの国旗掲揚国歌斉唱反対する理不尽な運動が各地で根強く行われてきたからだと思われます。  しかし、日の丸にも君が代にも日本国旗国歌として百年以上の伝統があります。その上、今回この国旗国歌法案が七〇%を超す多数世論に従って参議院でも可決されますならば、教育基本法が明示している国民の育成という公教育の目的に背くような反対運動は恐らく不可能になるはずであります。むしろ、これを転機として、広く国際理解の観点から、小学校、中学校のみならず高校や大学においても日本と諸外国の国旗国歌を教材として積極的に取り上げ、それぞれの国家国民が大切にしているものを互いに尊重し合えるような教育を推進してほしいと念じております。  最後に、このような国際的視野を持って世界的に活躍しておられるオペラ歌手の林康子さんが最近ある新聞に寄せられました君が代に関するコメントを引用させていただきます。「すばらしい歌だ。」「これだけ独特の伝統文化国歌に生かされているのは、世界にも類がない。」「これを、今日の視点で批判するのはおかしい。かつてこういう歌が詠まれ、お祭りの場で庶民から大切にされてきたということが貴重なのであって、歴史的遺産に対して現在の理屈でケチを付けるのは島国根性というものだ。」とあります。  これには全く同感であります。まさに私どもは、先人から受け継いだ日本独特の伝統文化であり歴史的遺産とも言うべき日の丸君が代について一段と理解を深め、日本国民としてのナショナルアイデンティティーを共有しながら二十一世紀へと進んでまいりたいと思います。このたびの法制化をチャンスとして、かような真の日本再建国際化を実現したいものであります。  以上で私の意見陳述を終わらせていただきます。
  81. 鴻池祥肇

    団長鴻池祥肇君) ありがとうございました。  以上で公述人各位の御意見の陳述は終わりました。  これより公述人に対する質疑に入ります。  なお、公述人方々お願い申し上げます。  時間が限られておりますので、恐縮でございますが、御答弁はできるだけ簡潔にお述べいただきますようにお願いいたします。  また、御発言は私の指名を待ってからお願い申し上げたいと思います。  それでは、質疑のある方は順次御発言願います。
  82. 南野知惠子

    南野知惠子君 本日は、公述人方々、本当にいろいろとそれぞれのお立場からお述べいただきまして、大変感銘深く拝聴させていただきました。  時間も限られておりますので、単刀直入に御質問の方に入らせていただきたいと思っております。  まず、山本公述人にお尋ね申し上げたいんですが、公述人のお勤めであられる今の学校は各種学校、専修学校ということでございますが、海外の方によく研修にお出かけになられるということを先ほどのお話の中でいただきました。  他国との交流ということに対しましてお尋ねするんですが、我が国の国旗国歌を愛するという言葉、気持ちは、また他国に行きましてもその気持ちというものにつながるものだろうというふうに思っております。そういう意味で、国旗国歌への正しい理解を持たせる、そして海外でのマナーというものを正しくとっていくということも大切な態度であろうと思いますが、公述人のそのようなことについての御意見があればお伺いいたします。
  83. 山本春樹

    公述人山本春樹君) 海外経験をしております学生は余りおりません。本校が四、五年前からこういう計画を立て始め、海外に通用する生徒、学生の育成を願って始めたところ、まず自分でパスポートの申請をする、そのことすら初めての学生が多かったわけであります。自分でパスポートを申請するときに、自分日本人であるということの自覚と同時に、日本人であるという看板をしょって海外に出かけるということに対しての責任を当然学校としては出発前に話をします。  先ほども申し上げましたとおり、本人たちが海外での経験をしておりましたときに、その結果、日本人と相手の国の人との力の差あるいは学力レベルの差というものを初めて渡航して経験をしてきます。そうしたときに、日本人としての自覚、我々は本当に日本に生まれてよかったという自覚と同時に、今学んでいることは決して間違いでない、そういう自覚を持って帰ってくる学生がほとんどであります。  日の丸君が代につきましては、中学、高校を通じ、また私どもの学校を通じて自然と本人たちは認識をし、慣習化の中で認めているところであります。パスポートを持って日本人として海外へ渡航し、相手方の国の学生とともに交流をし、そういう経験の中で恐らく日の丸あるいは日本人であるという自覚を強くして帰ってきているものと、そのような経験の中から私は大変うれしい報告をいつも聞かせていただいております。  以上です。
  84. 南野知惠子

    南野知惠子君 次に、中山公述人にお伺い申し上げたいと思っております。  普通でありますと、小学校、中学校、高校の先生がおられると大変いい御意見をいただけると思ったのでございますが、本日、先生お一人が高校での教育の御体験者かなというふうに思いました。  そういう中から、学習指導要領ということに基づいての君が代または国旗というものの取り扱いというものがあろうかと思いますが、一部の学校といいますか、そこでは入学式または卒業式が円滑に進んでいないというようなこともたびたびお聞きすることがございます。それに関連いたしまして、御当地ではいかがなものなのか、公述人のお知りになっている範囲で教えていただきたいというふうに思っております。
  85. 中山清治

    公述人(中山清治君) 私個人の場合には、学校運営上深刻な事態にまでは至らないという状況で推移してまいりました。今の学校では全く問題はないわけでございますけれども、高等学校時代の思い出でございますが、入学式、卒業式のたびに質問だとか意見が一部の方から出るというのはどこの学校もあったんじゃないか。私の学校でもありました。  そのときに、もちろん学習指導要領の遵守ということは校長として当然のことでありますから、それは踏まえます。しかし、私に勇気を持たせたのは、むしろ日の丸君が代が既に国民的な認知を得ておるというふうに判断をし理解しておったということでございます。そして、それは国民的常識になっていて、国民の間にもう慣習として定着している、それが非常な強みであったというふうに思います。  先ほども申し上げさせていただきましたように、国民的常識を明文化したものが法だというふうに私は思っておりますので、そういう意味日の丸君が代法制化されるということになれば、強制力の問題は別としても、現場校長たちは非常に勇気づく、非常に職務命令も出しやすい雰囲気ができてくるのではないか。間違っても世羅高校の校長先生のようなああいう悲劇は繰り返してはならない。もちろん、そういうことがあったから消極的に私は賛成だという意味じゃなくて、あくまでも国民的常識を明文化するということの意味でぜひお願いしたいと思っていることでございます。
  86. 南野知惠子

    南野知惠子君 ありがとうございました。  次は、この資料をいただきました所公述人にお伺いしたいと思っております。  この二ページ目のところにあります君が代の「代」という意味、または君が代の「君」という意味、または象徴天皇をあらわしている、イコール日本国をあらわしているという文言がここで見られるわけでございますけれども、所公述人憲法その他につきましてもお詳しいというふうにお伺いいたしておりますが、憲法成立当初から象徴天皇イコール日本国というようなことがあったのかどうか。そこら辺、さかのぼりますけれども、何かございましたらお聞かせいただきたいと思います。
  87. 所功

    公述人(所功君) 実は、私は日本法制史の専門でございまして、憲法学の専門ではございません。  一昨年、国会図書館で行われました「新憲法の生い立ち」という特別展示がございまして、そのときに拝見したんですが、昭和二十二年五月の新憲法施行に当たりまして、占領下でありますけれども、憲法の趣旨の普及にいろんな努力が払われた。その一つにポスターがございます。これは日本大学の政治経済学会がつくったものだそうでございますが、それが出ておりました。  これは非常におもしろいものでございまして、先生方のお手元の資料にも挙げてございますけれども、これを見ますと、どういうことが出ているかといいますと、日本列島の上に日本国民がおりまして、国民の総意によって日の丸を奉じておるように見えますが、実はその日の丸の玉の部分が菊の紋章になっております。  そして、それをそのまま右下へ移しまして、憲法の第七条が絵で説明してございます。それを見ますと、この旗が意味するものは、つまりこの日本国をあらわしておる旗が何を意味しているか、これはイコール天皇であります。「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。」という憲法の第七条を図解するために掲げたこの絵は、まさに日本イコール象徴天皇だ、象徴天皇イコール日本国民統合象徴だということを見事にあらわしておると思います。  つまり、昭和二十二年当時、占領軍がいろいろチェックをしておった時期でありますけれども、まさにそういう中にあっても、憲法の趣旨は、象徴天皇イコール日本国だ、日本国民統合象徴ということはそういうことなんだということが示されておりまして、それがある意味で立法趣旨でもあり、当時の一般的な解釈であったというふうに私は思っております。
  88. 南野知惠子

    南野知惠子君 ありがとうございました。  続けてお伺いしたいと思っております。  我々の委員会でもいろいろと論がございました。君が代の「君」、または君が代の「代」ということについてでございますが、その中でも、さらに追求しますと、「さざれ石のいわおとなりて」という文言がございます。本当にさざれ石というものがどのような形でつくられているのかどうかというようなこともいろいろ話題になったところでございますが、先生の御出身県が岐阜県だとお伺いいたしております。ある本の中には、さざれ石は岐阜県にあるというようなこともお伺いしたことがあったというふうに記憶いたしておりますので、何かそこら辺での課題がございましたら教えていただきたいと思います。
  89. 所功

    公述人(所功君) 君が代につきまして、先生が今おっしゃいますように、問題にする人は、君が代の「君」も問題なんだけれども、さざれ石がいわおとなるというようなことがあるのかということを疑問視する向きがあります。これは古今和歌集などの注釈書を見ましてもいろいろな伝説に基づくものだと言われております。  一つは、中国の古い時代の説話集に、小さな石を拾ってきて、それで仏壇に置いておいたら長い間にそれが大きな岩になったという話がありまして、そういうものが日本に伝わって、これが君が代の歌に取り入れられたんだという説がございます。  それからもう一つは、先生今御指摘のように、私は岐阜県の出身でございますけれども、岐阜県の春日村というところがございます。これは伊吹山のふもとでございますけれども、そこにさざれ石と称する大きな岩がございます。それは岐阜県の天然記念物になっておりますが、私はひょっとしてそんな話があるのではないかと思って持ってきたんですが、これはそのごく一部分であります。これがさざれ石の一部なんです。つまり、さざれ石というのは小石ということでありますけれども、その小石が積もり積もって大きな岩になるということが現にあるんです。これは伊吹山から流れ出る石灰質の水がいわばコンクリート状に固まりまして、実に今畳三畳敷きくらいの大きな岩になっているんですが、そういうことがある。  つまり物は、大きなものはだんだん壊れて小さくなるということもありますけれども、同時に、小さなものが寄り集まって固まって大きなものになるということもある。これは何百年、何千年の歴史の中でできたことでありましょうけれども、あるいはそういうことが知られておって、それが歌に詠み込まれたのではないかというふうに思われます。  事実、そういうことを既に古くから書かれたものもあり、特に地元では、さざれ石は地元のものだと言われて、だからこれを大いにPRしておられますが、率直に申せば、これは決して岐阜県の春日村だけでなくて、恐らく全国各地にある石灰質、角れき岩と申しますけれども、そういうものがあり、そういうものを目にした人が、あるいはそういうことを通じて長い年月の一つ象徴として歌に使われたのであるというふうに私は思っております。
  90. 南野知惠子

    南野知惠子君 時間があとわずかになりましたが、もう一つだけお尋ねしたいと思います。  君が代の歌、これは楽曲は大変なじみにくいというような声も聞いたりいたしております。それについて、公述人の方で何か御意見がございますでしょうか。
  91. 所功

    公述人(所功君) 実は、もともと君が代曲は儀式に使う、つまり外交儀礼あるいは公式儀礼に使う歌としてつくられましたし、とりわけそのもとをつくりましたのは宮内省の一等伶人の林広守、あるいはその御令息等々でありますから、荘重なゆったりした調べになっております。けれども、それでは余りにも今の時代に合わないのではないかと言う人がありますが、これはいろんなバリエーションがあってもいいと思うわけであります。  例えば、私は小学校時代からなじみがあるんですけれども、「君が代行進曲」というのがあります。あるいは先生方御存じだと思いますけれども、念のため私はきょう持ってまいりましたから、ちょっと聞いてください。これはある有名なオーケストラが演奏したものです。(録音再生)これは君が代が入っております。こういうふうな編曲は既に明治三十年代に、これは吉本光蔵という海軍の軍楽隊長が編曲されたものでありますけれども、そういうものもできております。  今回、国旗国歌法案成立しまして、そして法案にも示されておるような楽譜が明示される、それが基準になることは当然でありますけれども、それだけがすべてではなくて、その場所なり必要に応じていろんな編曲が行われ、それにふさわしい使われ方をしていくことが望ましいと思います。そういう意味で、この「君が代行進曲」などはまさに非常に感じのいいマーチとして活用されてしかるべきかというふうに思っております。
  92. 南野知惠子

    南野知惠子君 ありがとうございました。  時間が参りましたので、恐れ入りました。
  93. 石田美栄

    石田美栄君 一般の方々から公述人として来ていただいていますから、それぞれ賛否意見がありまして、つい議論になってしまうということが多いんですけれども、できるだけそういうことにならないようにお尋ねしたいと思います。  まず、山本公述人中山公述人に。それぞれの方には幾つかの点をもう少しはっきりお聞きしたいなと思う点を確かめたいと思います。  そういう意味で、山本公述人中山公述人、お二人ともある年代の人たち教育にいろんな形で携わってこられ、今も携わっておられる、そういうお立場はわかりましたが、日の丸君が代に対して教育されている中で、生徒さんたちというか学生さんたち、そういう子供たちの反応、姿勢、そういうのは全く同じに感じておられますか。それは違いがあるというふうにお考えでしょうか。
  94. 中山清治

    公述人(中山清治君) 私は、子供たち、実感として日の丸君が代を感じている者と学習によって感じ取っている者とあると思うんです。戦争というものは知らないわけです、子供たちは。ですから、実際体験としては持っていないわけです。聞いてはいる、学習としては知っているけれども、体験としては知っていない。そういう学習として知っている形において反対というのは出てきていると思います。賛成の者の中には、もちろん学習によって賛成しておる者も……
  95. 石田美栄

    石田美栄君 ちょっと済みません。日の丸に対する反応と君が代に対する反応の違いがありますかという、簡潔に。
  96. 中山清治

    公述人(中山清治君) そういう意味ですか。日の丸君が代ね。  余り大きな違いは私はないと思います。私の見た目では余り大きな違いはないと思っております。
  97. 山本春樹

    公述人山本春樹君) 通常、学校教育におきましては、君が代日の丸というのは大体いつも同時に使われるケースが多いわけですが、日の丸につきましては、去年行われましたワールドカップですとかオリンピック等にも使われておりますので、そういう意味では、本校並びに高校生あたりの年代の子たちにとっては、恐らく日の丸の方が自然に受け入れているといいましょうか、そういう親しみはあろうかとは思います。
  98. 石田美栄

    石田美栄君 ありがとうございます。  次に、島公述人にお伺いしたいんですが、本日お一人宗教的なお立場で出ておられていて、お尋ねするのに私も非常に気をつけなければいけないと思っております。公述人個人の内心に立ち入らないように気をつけたいと思うのですが、とは申しましても、本日、島公述人日本人キリスト者で、それも指導的なお立場で出ておられますので、私も理解したいと思いますので、幾つかお尋ねいたしたいと思います。  まず、日の丸に対してですが、お聞きしましたところでは、戦後の幾つかの点についてまず日本が、政府がきちっとすることが先決だというふうにおっしゃって、そうすれば日の丸も全く否定するわけではないというふうに受けとめたのですけれども、お話を伺っていますと、そういう点について、戦後五十四年間の日本のやってきたことをかなりというか、ほとんど否定しておられるようにお聞きしたのですが、それでよろしいでしょうか。  それから、国歌についてでございますが、国歌は要らないというふうにお考えなのでしょうか。  それと、天皇制象徴天皇制、憲法に書かれておりますが、これは否定されるのでしょうか。  この点についてお伺いしたいと思います。
  99. 島しづ子

    公述人(島しづ子君) 大変重い課題で、答えるのに困りますが、私は戦後の平和憲法下の日本の歩みというものについて全面的に否定するものではありません。むしろ、平和憲法平和主義にのっとって行われてきた大部分については評価しております。しかし、隣国の侵略していって被害を受けた方々に対しての戦後補償の問題、謝罪については不十分である、本当に謝罪したことはないのではないかというふうに理解しています。  それから、歌がなくてもいいかということですけれども、君が代国歌としてふさわしくないという意味であります。  そして、象徴天皇制については、私は今の憲法を私どもに与えられた大変いいものであるというふうに思っておりますけれども、国民主権であるということと、それから憲法の一条に象徴天皇が置かれているということが矛盾しているのではないかというふうに理解しております。  私どもキリスト者としては、戦争中、自分たちの信仰と国家神道とが両立するのだというふうに教え込まれて、そのように行動し、歩んだということがあります。しかし、それは全く間違いであったという反省を、私も持っておりますし、多くの友人たちも持っております。その意味で、君が代というものを国歌として定めるということは、私ども信仰者あるいは個人の良心の自由を侵すものであるというふうに私は理解しております。
  100. 石田美栄

    石田美栄君 もう一つお伺いしてもよろしいでしょうか。  そうすると、島公述人としては、国の歌を持つ、どこの国も持っていますし、国際的に出ても国歌のない国というわけにはいきません。どういう国歌がいいと思っておられるか、もし御意見をお持ちでございましたらお伺いできたらと思います。
  101. 島しづ子

    公述人(島しづ子君) 正直に申しまして、私は国歌ということについてあるべきだということを考えたことがありません。ただ、君が代については国歌としてふさわしくないということを思っております。もし国歌として定めるならば、小林公述人がおっしゃいましたように、さまざまな立場の人たち意見を考慮して、そして広く議論された上で決められるべきだというふうに思っております。
  102. 石田美栄

    石田美栄君 ありがとうございました。  続いて、小林公述人にお伺いいたします。小林公述人安川公述人所公述人は、三人とも学者でいらっしゃいますし、それぞれ研究者でいらっしゃいますので少し突き詰めてお尋ねしたい部分がございますが、安川公述人所公述人はもうかなりはっきりとおっしゃいましたので、それ以上この点を確かめたいというところがございませんので、小林公述人に幾つかお尋ねしたいと思います。  まず、国歌日の丸、両方ですか、四つの条件が整ってとおっしゃいました。それ全部私もきちっと入らなかったんですけれども、ずっと伺っていて、非常にこれは難しい、四つがそろうというのは一体いつなんだろう、永遠にないのかな、その辺はどういうふうにお考えになっているのでしょうか。  そして、その内容につきまして、国民的合意というのを、先生とつい言いたくなるんですが、小林公述人は例えば一〇〇%とお考えなのか過半数なのか。まさか国歌国旗は要らないとおっしゃっているわけではないわけですから、国民的合意をどういうふうにお考えになっているのか。  そして、主権国民議論にゆだねるという、そのゆだねるということは、日の丸君が代もゆだねてどういうふうになっていくとお考えなのでしょうか。  そして、私たちが、私などが生きている間は無理なのかなと思いますけれども、ずっとその合意にいかなかった場合は、この法制化というのはすぐ目の前に私たちは決めなきゃいけないところにあるわけですけれども、それまではとりあえず国歌国旗、今の君が代日の丸現実続けていかざるを得ないとお考えなのでしょうか。  それからもう一つ、多分時間がなくなると思いますけれども、教育自主性ということについて、国のある程度の水準、基準というふうなもの、国家強制するという意味じゃなくて、国のある意味の方向性、そういうものは要らない、全く自主性国民に任せてしまう、そういうお考えなのでしょうか。
  103. 小林武

    公述人(小林武君) 三点の御質問というふうに承ってよかったと思いますけれども、最初の四条件と言いましたのは、一つは、国家強制しない、つまり個人の国旗国歌に対する自由を保障する、これが第一です。それから二つ目は、法制化することについての国民的合意が十分に成熟しているということ、これが二つ目でした。三つ目は、国旗国歌をどのようなものにするのかということについては国民自身が提案をし選択をしていくべきだということでした。四つ目は、つくるとすれば、その内容は、人類普遍の原理という形では憲法に定着している三つの原理と申しますか、民主主義平和主義そして人権の保障という原理を内容としたものにすべきだということを申しました。  私は、この四つの条件というのは夢物語のような架空の条件ではないと思います。このことが国旗国歌問題を議論する本筋でありましょうし、この本筋に即してこれから国旗国歌の問題を議論していくとすれば、やはりこういう形で議論は進んでいくのであろうというふうに私は思っています。  一点目を入れていますのは、これは石田議員御理解されているとおりに、つまりは国旗国歌法制化というのが将来においてはあり得る課題だというふうに私も考えていまして、ただその場合も、明らかにそれぞれの国民がその国旗国歌強制されないという自由を基本的に保障しておかなければならないというふうな趣旨と考えているわけです。  二番目の御質問、国民的合意の内容でありますけれども、これは今即座に何%なのか、過半数なのか、三分の二というふうな特別多数なのか、あるいは一〇〇%なのかというふうな議論を私はしようとはしておりません。むしろ、今の問題、先ほどの御発言の中にありましたけれども、ともあれ今こうした合意ができていないということはかなり共通した認識ではないかというふうに思うんです。  定着しているかどうかという角度から見るならば、定着というのはややとらまえにくい概念であって、この基準というのはなかなか難しい。けれども、法制化国民合意がどれだけ成熟しているかという点でいえば、これは成熟していないというふうに言わざるを得ないと思います。これをもっともっと進めていって、そしてほぼこうしたそれぞれの国民の自由ということを保障した上での法制化ということが将来合意をもとにしてあり得るだろう。  御質問の三点目、それは教育自主性の問題でありましたけれども、先ほど学力テスト判決を例にとりましたように、この判決に私はいわば学問的には全面賛成ではないのですけれども、そこでも言っておりますとおりに、やはり教育の問題を考えるとき、つまり教育国家あるいは教育と法を考えるときに、教育の隅々にまで権力的な統制を及ぼしていくこと、つまり教育の中身あるいは教育の方法について国家が決めていくこと、このことについては絶対にしてはいけないことだ。最高裁判所自身そういう判断に既に七〇年代から立っているわけです。こういう理解が今ないのではないか、例えばこの法案の提案を見ていましてもないのではないかというふうに私は考えています。  ですから、どの子供たちも成長していくのにとって必要であるというふうなミニマムなものを共通して身につける、こういう事柄は示してよかろうけれども、しかしながらそれ以上の非常に詳細なあるいは子供良心に直接かかわるようなこと、こういうことはこの法的規制の問題ではない。国旗国歌の問題というのは、そういう意味で、いかに学習指導要領という、文部大臣告示という形で出されようとも、それは内容上法規とはなり得ないという理解なのです。  大体そのようなことでよろしいでしょうか。
  104. 山本保

    山本保君 公明党の山本保です。  本来ですと全員の公述人皆様にお聞きしなくてはならないと思いますけれども、時間の都合もございますのでそうもなりません。お許しいただきたいと思います。  中山公述人にちょっとお伺いしたいんです。中山先生は県内の高等学校の校長先生をやられたんでしょうか、先ほどそんなお話を伺いましたので、実際に高等学校の現場におられたのは先生だけだというふうに思いますので、少しその辺でお聞きしたいんです。  高等学校で教えておられて、小中学校でこういう道徳といいますか、または国民的価値観の教育というようなものをきちんと受けてこられれば、高等学校では特にそういうことについて一々言う必要はないんじゃないかと私などは思うわけなんです。今、愛知県内で、今といいますか、先生のお知りになられた限りでもちろん結構でございますけれども、こういう教育、小中学校において、日本国もしくは外国も含めまして、国の価値観とかまたは国民的なアイデンティティーに対する教育というものはどのようなぐあいで行われているというふうに先生は感じられましたか。
  105. 中山清治

    公述人(中山清治君) 小中学校におきましては道徳という時間がございます。あの中で恐らく扱われているんだろうと思うのであります、私もちょっと小中学校の方のことはよく存じ上げていないわけでございますけれども。高等学校の方では倫理といったような学問の中で扱うことになるのであろうかということでありますが、いずれにいたしましても、学校教育の場では、これがいいんですという一つの固定観念で教えるということではなくて、思考活動を助長するためにいろいろなケースでお話をしていっているんだろうというふうに思うのであります。高等学校ではそうであります。  しかし、そうはいっても、教育基本法に基づいて学習指導要領ができ上がってきており、そしてその学習指導要領の中では国旗国歌尊重ということは義務づけられておるわけでありますから、やっぱりそれは尊重しなければならないというふうに思うんです。  ですから、それは当然理屈としてはわかっていると思うんですけれども、校長先生がそのように勇気を持ってやってきておられるかというと、必ずしもそうでもないというような気がするんです。そこでは、非常に不用意な言葉になるかもしれませんが、声の大きい人が得をする民主主義というものはいかがなものかということを感じたりすることもあるわけです。いわゆるサイレントマジョリティー、声なき大多数の意見、考えというものも大切にしていく社会でなくてはいかぬのではないかというふうなことはそういう現場の中で感じることはあります。
  106. 山本保

    山本保君 ありがとうございます。  なかなか示唆に富む、私ども非常に注意しなければならないことかと思います。  それで、もう一つ、これは先ほどもお話に出ましたけれども、広島県で今回大変不幸な出来事があったわけでございます。これは余りにも生々しいですからこれについてはお伺いをいたしませんけれども、先生御自身で、例えば子供さん、もしくはその御父兄、もしくは先生で、校長先生として例えばこういうことをしようと言われたときに大変反対されて困ったというようなことがあったのか。もしあったとしたとき、私は、教育者としては指導要領に書いてあるからだとか職務命令だからだというふうには余り言われないんじゃないかと思うわけでございますけれども、この辺はどのように対応すべきだというふうにお考えでございますか。
  107. 中山清治

    公述人(中山清治君) そういう方も中にはお見えになるかもしれませんけれども、多くの校長校長としての教育信念でもって物を言っているというふうに思うんです。私もそのようにしてまいりました。そういう場合に一番の味方になるのは国民の世論だというふうに思います。  学校内における賛否の数の問題と、それから国民的規模における民意の賛否の数の問題という二つの見方があると思うんです。その場合に、校長として、これは学校の中でのことだという場合には学校の職員の多数決というものは尊重していく必要があるだろう、最終的には校長の権限ですけれども。だけれども、日の丸君が代といったようなことにかかわりますと、これは公的な問題でございますので、ですからどちらかというと国民の民意の数の問題ということを、賛否の数の問題というのを非常に尊重しなきゃいかぬのではないか、私はそういう姿勢で当たってきたつもりでございます。
  108. 山本保

    山本保君 どうもありがとうございます。  それでは、ちょっと観点を変えまして、キリスト教一般といいますか、また各考え方というのは私は全然知りませんので、島公述人に少し教えていただきたいんです。  戦前に内村鑑三事件等もあり、また矢内原忠雄さんの本なども私は読んだことがございます。今こういう国旗国歌に対して義務づけているような国がたくさんございます、民主主義の国でもあるわけですけれども。こういうとき宗教者としてどういう態度をとるべきだと。  例えば日本の場合、先生がおっしゃったように反対されていると。それは日本の特殊的な事情なのか、それとも宗教というものを根本にしたときにはこういう態度をとるべきではないというのか、またはもっと瑣末なといいますか、もう少し具体的に、儀礼の仕方であるとか、そういうものがよろしくない、こういうふうにおっしゃるのか、いかがでございましょうか。
  109. 島しづ子

    公述人(島しづ子君) 私は、第二次世界大戦のときにナチスもイタリアも国旗を変えたということに敬意を表しております。それは、日本もあの戦争のときに自分たちの歩みに対してピリオドを打って、日の丸君が代についても一応の距離を置いたのではないかというふうに理解しています。  諸外国において国旗国歌があって、それについてそこの国の人たち敬意をあらわすということについては私も敬意をあらわしたいと思いますし、そのようにいたします。しかし、日本において君が代日の丸の果たしてきた役割について私は敬意をあらわすことができないということです。  私だけではなくて、沖縄の人々、また在日する外国人の方々が、もしこれが法制化されたときに、その国旗国歌の前でどのような態度を強制されるのかということを考えたときに、やはり私はこの点について疑問を持っているということです。
  110. 山本保

    山本保君 ちょっと確認させていただきますが、つまりそのお答えは、宗教者一般としてという意味ではなくして、今の日本の状況において賛成できない、こうおっしゃったということでございますか。
  111. 島しづ子

    公述人(島しづ子君) もう一つ君が代の歌詞について、天皇を賛美する歌は、私のキリスト教信仰に照らして、神を第一とする信仰と相反するということです。
  112. 山本保

    山本保君 ありがとうございました。  それでは、小林先生、安川先生、所先生、三人とも研究者でございますので、ちょっとおっしゃったこととは違うことについて私の考えを申し上げますので、少し御意見をいただければと思うんです。  といいますのは、一昨日、委員会でずっと私は言っておるんですが、児童の権利条約というのがございます。これは日本ももちろん批准しているわけでありまして、この内容については国内法と同等という意味があると私は思っております。この中に「締約国は、児童の教育が次のことを指向すべきことに同意する。」という、いわゆる教育内容とか教育目標について書かれておりまして、その三番目に「児童の父母、児童の文化的同一性、言語及び価値観、児童の居住国及び出身国の国民的価値観並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成すること。」、こういう項目がございます。  特にこの中に、二番目に申し上げました住んでいる国の国民的価値観に対する尊重を育成することがこの国の教育の目標でなければならない、また、最後に第二項がございまして、そこにはいわゆる私立学校においてもこの基準に適合することを条件とする、こういう条文があるのです。  突然お聞きして申しわけないかと思いますけれども、所先生、今申し上げましたいわゆる国民的な価値観に対する教育というものが国際的にも必要であると私は思いますけれども、先生はいかがお考えでございますか。
  113. 所功

    公述人(所功君) 先生御指摘のとおりでございまして、実は私も外国にそれほどたくさん行ったわけではありませんけれども、それぞれの国にはそれぞれのいわば歴史があり、文化があり、特徴がある。それをそれぞれの国の方々は非常に大事にしておられる。そういうふうな実情を踏まえて今度の児童の権利条約もできておると思います。  実は、物事には普遍的な、ある意味で非常にどこにも同じように適用されるべきものと、その国あるいはその地域にこそ尊重されるものの両方があると思います。私は、その両方を培うことが教育というものであって、我々はもちろん世界に通用するようないろんな考え方、価値観を養うと同時に、他方、日本人がちょうど日本語を使うように、またこの日本の風土で培われてきたものをきちんと受け取ってこそ初めて日本人としてのいわば共通の理解も信念もできる。そういう特徴があるからこそ世界の諸外国の人々に交わったときでも、それぞれの国の人の特徴があるように我々の特徴があるということが相互理解を生むことになるだろうと思います。  そういう意味で、先生の御指摘のとおり、この条約もそういうことをいわば当然の世界の常識としてうたっており、それが我々の日本においても教育目標とされ、それに基づいて教育が行われるということは極めて重要なことだというふうに思っております。
  114. 山本保

    山本保君 ありがとうございます。  では、安川先生、お願いいたします。
  115. 安川寿之輔

    公述人(安川寿之輔君) 大変興味ある問題提起だと思うんです。つまり、日本学校教育において日本国民的価値観を教育するということ、それはごく自然なことだと思います。ところが、日の丸君が代問題ということがこの問題に絡んでくると、きょうは時間の関係で省略をしましたが、広く知られていることですが、日本軍に軍隊慰安婦にされた過去を名乗り出て、九一年十二月に東京地裁に提訴した金学順さんが、あの記者会見のときに、私は今でも日の丸を見ると頭が腐ったように痛くなります、この日の丸が私の人生をめちゃくちゃにしたんですというふうに述べて、広く報道されたわけです。  アジアでかつて日本によって侵略されて、そして日の丸がその侵略戦争シンボルとして使われて云々という、そういう過去の歴史的な事実があるから、例えば在日コリアンの子供にとって日の丸君が代日本の学校が国民的価値観として教育することは十分あっていいと思います。しかし、それをコリアンの子供がどういうふうに受けとめるかということになると、これは必ず出てくる思想信条の自由にもかかわる。  私は、やはりドイツ、イタリアが侵略戦争を恥じて戦後見直している、その見直しを日本がやってこなかったということがまさに君が代日の丸問題の本質だと、冒頭に申し上げたように。ですから、事日の丸君が代問題になると、日本日本教育だから国民的価値観を児童の権利条約に基づいてやっていいんだ、だからその学校で学ぶ在日コリアンであれその他の外国人もそれをそのまま受け入れなければいけないなんということは全く通用しない。まさに児童の権利条約、一方で御存じのとおり児童の思想、信条の自由、意見表明権等も積極的に児童の権利条約は認めているということで、そういうふうに考えます。
  116. 山本保

    山本保君 時間がほとんどありませんけれども、私が先ほど読み上げました中の三番目に「自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成する」、こういうことも読み上げたわけでございまして、今の安川先生のお話についてはそこにかかわることではないかなという気がいたします。  時間がございませんので、最後に簡単にお願いいたしますけれども、小林公述人、いかがでございましょうか。
  117. 小林武

    公述人(小林武君) 私、二点申しますけれども、児童の権利条約、つまり子どもの権利条約ですけれども、これを読みます場合に、今御指摘されているいわば公民としての育成の普遍性、これはほぼだれもが承認する、国際的にも承認されていることだ。同時に、子どもの権利条約は、十四条の一項を後で御参照いただければありがたいと思いますけれども、大変明確に「締約国は、思想良心及び宗教の自由についての児童の権利を尊重する。」という条項がありまして、これを前提にした上での公民あるいは国家的価値、国民的価値ということなんです。  もう一つは、同時にそれは日本の場合には教育基本法に照らして見ていくべきでありまして、教育基本法も公民としての育成ということをないがしろにしているどころか、例えば第一条には平和的な国家及び社会の形成者としての育成を述べておりますし、第八条にはそのために良識ある国民たるに必要な政治的教養の教育ということの必要を申しているわけで、これらのことを総合的に理解していくべきではないかというふうに思っております。
  118. 山本保

    山本保君 ありがとうございます。  ただ、私は、十四条と二十九条が並立している、このことから素直に考えれば、宗教的な教育とか良心教育ということと国民的価値観の教育というのはまさに別のものであるというふうに読むのが素直ではないかなという気がいたしますけれども、きょうは議論の場ではございませんので、以上で終わります。  ありがとうございました。
  119. 林紀子

    林紀子君 きょうは公述人皆様、ありがとうございます。日本共産党の林紀子でございます。  時間の関係がありますので全部の先生にお聞きすることができないかもしれませんが、お許しいただきたいと思います。  まず、私は、小林公述人にお話を聞きたいと思います。  今、国会の論議が行われている中で、教育の場での強制というのが大変大きな問題になっております。私もおととい質問の機会がありまして質問いたしました。そのときに政府の方から返事がありましたのは、先生というのは自分の意思で先生になっている、だから国旗国歌指導のような法令に従って適正に課された職務については思想、信条を理由として拒否することまでは保障されていないというふうな答えがありました。  しかし、日本の国の憲法は、先ほど来お話がありますように、第十九条で思想良心の自由というのがうたわれておりまして、この十九条というのはまさに国民全体に対して保障されている権利じゃないかと思うんです。  先生になった途端に国旗国歌指導をしなければいけない、思想、信条を理由として拒否することはできないんだということはどうも腑に落ちないなとずっと思っているんですけれども、憲法学者として小林先生はその辺をどういうふうにお考えになりますでしょうか。
  120. 小林武

    公述人(小林武君) まず、思想良心の自由ですけれども、これは日本国民すべてに対してのみならず、国籍を問わず、人全体に対して保障される自由である。そしてその中で、特に自己の信条、良心思想というものを強制的に告白させられない自由、沈黙の自由、これが絶対的保障を受けるというのは、憲法学説、判例を通して固まっているところです。  国会議論を読んでいますと、外部的な行為としてこれが出てくるときには公共の福祉による制約を受ける、そういうふうなことがしばしば出てくるようですけれども、これはどうも憲法解釈あるいは憲法の理解を間違っておられる答弁じゃないかという気がいたします。  それは、良心を根拠にして何かの外部的行為を行い、それが他人の人権にかかわる、他人の人権を侵害するという、こういう場面では、これは例えば表現の自由の問題として、あるいは信仰の場合でしたら信仰に基づく行為の問題として、あるいは学問の場合でしたら学問に基づく行為の問題としてそれぞれ内在的制約が一応問題になってきます。けれども、その根拠にある良心それ自体は侵害されるものではない、絶対的に保障されるものだというのが良心の自由の理解でして、ここを消してしまうと十九条の存在意義というのはなくなると思います。まず、それを押さえておきたいと思うんです。  それを根拠にいたしまして、特に教師に対する処分の問題ですけれども、ここではその先生方は何かの行為をしようとしているのでは実はないわけです。そのとおり拒否なんです、拒否をしようとしている。職務命令に基づいて出てくる命令を拒否しようとしているということですから、これは外部的行為の問題ではなくて、先ほどの制約と言われるその論理には入らないことだと思います。  さて、その命令の根拠ですけれども、それは職務命令という形で出てくる。けれども、法治国家日本においてはそれは法的な根拠が必要であるわけで、管理の立場にある人が任意に出すものではないわけです。法の根拠が必要だ。  国旗国歌の問題でいきますと、これはかなり深いところで教師も含めた国民思想良心の自由にかかわっている問題でありますから、それを考えなければならない。もちろん、思想良心にかかわるからといって一切の法義務を一般的に拒否するということについては先ほども申しましたように問題があり得ますけれども、国旗国歌の問題というのはかなり深いところで思想良心にかかわってくる。  私の見るところ、つくる側に立って、だからこそ今度法案をつくるとされるのにその法案の中に尊重義務とか強制とかあるいはそれを義務づけるための根拠規定とか、そういうふうな義務条項というのはないわけです。この義務条項がないというのは、思想良心の自由へのかかわり方が深いからがゆえにそういう条項は設けることができない。とすれば、この法制化をする法案成立いたしましても、そのことが個々の教員に具体的に義務づける職務命令の根拠にはなり得ないというふうに私は考えております。  もちろん、なり得なくても職務命令を出してきて処分はされるでありましょうけれども、これが明白に瑕疵のあるときでしたらそれに従わなくてもよいということになりましょうし、明白な瑕疵ということでなければ裁判で争うということになりましょうが、でも、この裁判の場面で法治国家日本では決着をつける、そのときには今のような論理が出てきて、その職務命令には結局は法的根拠はないのではないか、こういう論理になってくるであろうと私は考えております。
  121. 林紀子

    林紀子君 ありがとうございました。  そして、その問題に関しましてもう一つなんですけれども、これは参議院の本会議の場で答弁があったことなんです。今その法的根拠というのはつくろうとしているわけですが、これには先生が今おっしゃったように尊重の義務というのは課していない。しかし、学習指導要領の根拠ということで、憲法二十六条の精神に沿ってということが言われたわけなんです。  二十六条というのは確かに教育の機会均等ということをうたっているわけですが、これが学習指導要領によって全国一律に卒業式、入学式で国旗国歌掲揚したり歌ったりしなくちゃいけないという、教育の機会均等というこの二十六条をそういうことで当てはめるのもやっぱり不思議じゃないかなというふうに思っているんですが、その辺はいかがでしょうか。
  122. 小林武

    公述人(小林武君) 教育の機会均等、二十六条の文言に即して言えば、「能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」、こういう文言です。  このことの意味する日本憲法歴史の上で第一の事柄は、教育を受ける権利が経済的に保障されること。つまり、貧しい家庭の子供たちでも、そうであるがゆえに学習機会を奪われないという、教育機会の、とりわけて経済的保障というところから出発した条文であるわけです。  しかし、それにとどまっておらずに、さらに能力に応じてひとしく受けるということは、それぞれが持っている能力、特性に応じて十分な教育が保障された上でそれぞれの人たち、特に子供たちが個々の持っている能力を全面的に花開かせること、このことの条件を保障するという教育条件の保障、特に障害を持った子供たちの場合にはこの教育条件の保障ということが二十六条から出てくる非常に大事な課題となってまいります。こういう二つは今しっかりと確認されているところであるわけです。  さらにそこから出てまいりますのは、どの子供も、つまり日本列島、日本社会のどの学校に通っている子供も基本的な一定の基準の教育を保障されなければならない、これも確かに出てまいりましょう。したがいまして、学習指導要領の中で例えば小学校一年生であればこのような教科についての学習を受けるとか、それらの事柄というのはやはり教育の機会均等から出てくる平等な条件の保障ということの中に入れていいだろうと思うんです。  しかし、これは先ほど発言しましたように、そのことから本当に思想良心ということに深くかかわるような、つまりここでは個々の子供あるいは個々の教師のそうした精神的自由ということが問題になるようなテーマに関して、ここでの機会均等から一律の教育というふうなことを導き出してはならない。例えば、そうなりますと、卒業式には津々浦々どこの学校でも同じ歌が同じような方法で歌われなければならないというふうな結論になってまいりますし、そのようなことを憲法教育基本法の上でどこで説明することができるのであろうか、私は甚だ疑問であります。  したがいまして、学習指導要領一般を論じるのではなくて、学習指導要領の中の今の日の丸君が代の条項、ここのところを二十六条に結びつけて解釈するというのは法律論としてはかなりの程度に牽強付会であるというふうに考えております。
  123. 林紀子

    林紀子君 ありがとうございました。  続きまして、島公述人にお聞きしたいと思います。  先ほど、宗教を信じる方として、戦時中の話として、天皇自分の信じる神とどちらが偉いのかという踏み絵を踏まされて殉教した先輩たちもいたというお話がありました。それでは、現在の問題として、今いろいろお聞きしましたように、学校の場面で、卒業式、入学式に一斉に起立をしなさい、一斉に礼をしなさい、君が代を歌いなさいということがだんだん全国一〇〇%に近く行われるようになっているわけです。  先ほど島公述人がおっしゃったような日の丸君が代の持っている今までの歴史条件で、それはやっぱりおかしいと思う生徒も、それから宗教的立場で頭が下げられないと思う生徒もいると思うんですけれども、現状ではそういうことはどうなっているか。  そして、まさに踏み絵をさせない沈黙の自由はあるんだということは政府も認めているわけですので、信仰を持っている生徒たちがそのときどういう対処をしているか、その困った例、実例がありましたらお聞かせいただきたいと思うんです。
  124. 島しづ子

    公述人(島しづ子君) 特に信仰を持たない人が日の丸君が代に対して礼とか立位をとることができない場合でも、大勢の人たちがそれをしている中で自分だけそれをしないということはできなくて、自分良心を曲げて立ったり歌ったりしているということがあると思います。  これからそれが法制化されていったときに、本当はしたくないけれども、周りの人たちを考えたときにそうせざるを得ないという形でしていくだろうというふうに思いますし、今もそのようにしている人たちがいます。そして、教師たちが、自分はしたくないんだけれどもという矛盾を抱えながら子供たちにも相対している。それは本当にいい環境ではないというふうに思います。形の上では整って、日本の人たちがすべて日の丸君が代敬意をあらわして愛しているかのように見えるけれども、しかし内面的なところでは非常に矛盾を抱え、本当は従いたくないけれどもそうしているんだと、それは本当に不幸な事態であるというふうに思います。  今でも、もし私の子供教師としてそのような場でそのような仕事をさせられるとしたならば心が張り裂ける思いでありますし、実際そのようにして無気力にならなくては職務を遂行できないでいる教師もいると思います。そして、明らかに自分の意思を通したならば処分されている方々もいらっしゃいます。そのことを考えたときに、私はこれを法制化することはもちろん反対ですし、今のような強制するという流れに対しても反対せざるを得ないというふうに思っております。
  125. 林紀子

    林紀子君 ありがとうございました。  それでは、最後中山公述人にお伺いしたいと思うんです。  今の島公述人のお話もありましたけれども、先ほどの公述の中で、思考することは、子供たちが、生徒たちが考えることは必要だ、しかし卒業式、入学式で迷わせ動揺させることはよくないことだというお話があったと思うんですが、迷わせ動揺させないために一律に形としてぱっと押しつけてしまえば、それが本当に子供たちが考える糧になるのか。教育の中できちんと教えはする、日の丸君が代歴史や実態を教えはするけれども、そのときそれじゃどう考えたかというのはやっぱり子供たちに任せる、そこが大事じゃないかなと思ったんですが、その辺はいかがでしょうか。
  126. 中山清治

    公述人(中山清治君) 任せればいいんですけれども、思考と迷いの違いはどこにあるかというと、冷静にいわゆる論理をたどって考えていくというのが思考だと私は思うんです。迷い動揺するというのは、あちらこちらと心が移り動いてどうしていいかわからない状態が迷いであり動揺だと思うんです。  一つの例を挙げてみますけれども、私の子供が行っておった学校の話でちょっと恐縮ですけれども、卒業式のときに、うちに帰ってまいりまして、お父さん、きょう式が始まったら後ろからこういう小さな紙が回されてきた、その紙をちらっと見たら君が代を歌うなと書いてある、後ろから回ってきたから私も前へ回したと言うんです。それでおまえはどうしたんだと言ったら、迷った、動揺したと。厳粛な式典の中で動揺した、だけれども私も歌ったよと言うんです。ああそうかということで、私は余り深まった話はいたしませんでしたけれども。  やっぱりそういうふうに、一部の先生のと言っては失礼ですけれども、非常に強力にやられますと、ゆっくり考えて行動に移せる状況であればいいんですけれども、そうでない状況が間々見られたわけです。また、今でもなしとは言えないというふうに思うんです。先ほど、非常に失礼な言葉だとは思いながら、声の大きい人が、得をすると言っては変ですけれども、まかり通っていってしまいそうな民主主義というのはどうなんだろうかということを気にしたのもそういうところにもあるわけでございます。  先ほどから思想良心の自由と国旗国歌の問題が問われておりますけれども、私の考えが専門家じゃありませんので間違っておるかもしれませんが、思想良心の自由というのは不当に不利益をこうむることへのセキュリティーの規定のような気がするんです。それに対して、国旗国歌というのは、国を愛し、いとおしみ、協力して幸せな国家を建設していこうじゃないかという方向性の象徴としてとらえている、これは私のドグマチックな考えかもしれませんが、そういうふうに考えております。いわゆる、思想良心の自由の問題と国旗国歌の問題というのは別問題じゃないんだろうかというふうな気がしておるわけです。  ですから、思想良心の自由というのは個人としての問題で、国旗国歌の問題というのは、個人としての問題というよりも、国民としての問題のような気がします。そういうことになりますと、教育の場面ではどういうふうな姿勢をとるかというと、やっぱり公的な見方をしていかにゃいかぬのじゃないかなと いう私は考えなんですけれども。
  127. 林紀子

    林紀子君 ありがとうございました。  時間が大分過ぎてしまいまして申しわけありません。
  128. 山本正和

    山本正和君 社会民主党の山本でございます。  安川公述人にお伺いしたいと思うんですが、七十代の日本の男性は大体かなり厳しい戦争経験を受けているんです。その中で安川公述人にはわだつみの会の戦没学生のことで大変な御苦労をいただいている。  私は、今の学生諸君が恋を語り、あるいはこの世の中にある楽しいことを本当に一生懸命謳歌しながら、また大変苦しんでいる、いろんな価値観で。わかるんですけれども、あの時代の学生というのは、恋人と別れ、父親、母親と別れ、友達と別れて、まだ十八歳、十九歳で全部銃を持って戦争へ行って、天皇陛下万歳と言って死んだんです。その我々にとっては、天皇は神様だった。現人神、こう言われたんです。ですから、神様ですから、すべてに超越した存在ですから宗教もへったくれもない。日本の国の神様は天皇陛下ということで来ておった。そのときの歌が君が代だと私は思ったんです。ですから、天皇に対する忠誠というのは、神様に対する自分たちの神の子としての働きということで歌ったのが君が代なんだ。このことは戦没学生の皆さんは一番よく知っていると思う。  そういう思いから、もしもそういう中で、戦没学生の皆さんが戦後の日本を見て、今の君が代論争を見たらどんなことを思われるだろうか。これも安川さんの今までのいろいろ研究された立場から含めて御意見をいただきたい、こう思います。
  129. 安川寿之輔

    公述人(安川寿之輔君) 七十代の直接戦争体験を持った人たちにとって、ガイドライン法案成立するということを含めて、今の日本のありように対しては大変危機的な意識を持っています。昨年とことしと報告で少し触れたように五団体で共同行動をとったんですが、これは皆共通に戦争体験を直接、間接に持っている人たちが中心なわけです。やはり、その人たちが死ぬに死ねないという言葉を盛んに言うんです。安川さん、こんな形の国に日本がなっていったんじゃ、自分の親友たちがあの戦争で死んでいったということは一体どういう意味を持つんだ、自分たちは死ぬに死ねないと。  これは、私たちが共同行動をとったときに、平均年齢八十歳の老兵士たちが死ぬに死ねないという形で集会をやったということがマスコミでも取り上げられたんですが、やはり山本議員が今おっしゃったように、天皇絶対の時代状況の中で、文字どおり学徒出陣で戦場に出ることを余儀なくされ、非業の死を、しかも戦後しばらくの間は意に反して戦場に出ることを余儀なくされて死んでいった悲劇の若者たちということであったわけです。  ようやく九〇年代になって、わだつみ会の中でも、そういう我々わだつみ学徒兵の悲劇の側面だけ見ていていいのか、にもかかわらず、総体としてのわだつみ学徒兵はアジアに対する侵略を担っていたんじゃないかという反省が出てくる。もちろん、会としては、総体としてアジア太平洋戦争における加害を自分たちが担ったということは認めるところに来ているわけなんですが、そういうふうに自分たちがかつてつくられてしまった。  そして、きょうの報告では落としたんですが、やはり日本の青年が今また同じような状況につくられているという問題、簡単に数字を紹介したいんですが、私は今回のアンケート調査で、朝日新聞のガイドライン法案についての質問と同じ問題を聞いてみたんです。そうすると、ガイドライン法案に答えられない、返事なしというのが一般国民では二〇%だったんですが、名古屋大学の学生は四五%なんです。自分たち戦争というようなことになれば自分たちの将来にもろにかかわってくる、そういう大事な法案が論議されていることに対して日本の青年たちは今それを的確に判断する情報や能力というものを持っていない。  もう一つ端的な数字として、十八歳選挙権の問題について、御存じのとおり、世界的にいわゆる先進国では十八歳からの選挙権になっているんだけれどもという前提で聞くわけですが、今の二十歳からでいい、関心がない、その二つ合わせて六割という形で、要するに自分たちの国のありようについて主権者として参加するという意識そのものも、戦後教育の空洞化、形骸化の中で、やはり七十代の老人たちは、その若者の状況、私などのデータなんかも見て、これでは一九三〇年代の自分たちと同じじゃないか、自分たちは、昭和の初期には学生運動があったけれども、それが弾圧で消滅して、自治会なんというものがないのは当たり前だという形で大学や旧制高校で学んだ、そのために物事を正しく見ることができなかったと。  ちょっと話が長くなってきたので、そういうことで、一言で言えば、とにかくこんなことでは死ぬに死ねないんだ、安川さん、とにかく一緒に頑張ろうよというのが彼らの切実な声です。
  130. 山本正和

    山本正和君 ありがとうございました。  今度は所先生にお伺いしたいんですけれども、先ほどアメリカの青年は「星条旗よ永遠なれ」を誇りを持って歌う、日本子供はだめだ、こういうお話があったんですが、アメリカは、フランスやイギリスから、ヨーロッパから移民でやってきて、ヨーロッパの植民地であった。それが独立するために団結して戦った。大変な戦いをやって、そしてその戦いの中で歌った歌が「星条旗よ永遠なれ」なんです。ですから、自由や民主主義、人権というものがアメリカ合衆国をつくるときできた。その喜びと先祖の歴史を喜び合って合衆国の歌を歌ったと私は思うんです。ですから、国歌とか国旗が本当に国民に歌われるためにはそういうものがなくちゃいけない、喜びが。  しかし、君が代を、今国民を調査したら、国旗国歌というその大部分は、私は正直に言いますけれども、東京オリンピック以来、我が国の選手が勝って、日の丸を掲げて、ああ、うれしいなと思ったと。あるいは子供たちが、大相撲で最後君が代が鳴ると、ああ大相撲の歌かというようなことで、これは日本国歌だなということでずっと浸透してきた中での君が代が現在国歌と、こういうふうに多くの国民が思っているといういわれじゃないか。  要するにアメリカのように、アメリカ合衆国はこうなんですよということをちゃんと教えて、そこから生まれて歌おうということに今なっていない、実際の話が。その辺の違いを一緒くたにしてやったらいけないんじゃないかと私は思うものですから、所先生が国歌ということを必要として言われる場合には、そういう意味でこれからの国歌の扱いはどういうふうにお考えになっているか、ちょっとその辺をお伺いしたいんです。
  131. 所功

    公述人(所功君) お答えします。  おっしゃることは大体趣旨としてよくわかるんですが、私はアメリカあるいは幾つかの国へ参りまして、それぞれの国が国旗国歌についてどんなふうな教育をしておられるのか見てまいりました。  例えば、先生方のお手元にも届けてございますけれども、この間、五月の初めにアメリカに行きましたときに、アメリカの国立公文書館で「オール・アバウト・アメリカ」というのを手に入れました。これはまさに国の機関が出しているものなんですが、こういうものに、今おっしゃいますように、まさにアメリカの独立のいわばシンボルとしての国旗及び国歌というものを非常に、これ小学校に入る前に子供たちに教えるような教材がちゃんと用意されているわけです。  それで、アメリカは、いわばまさに多民族、多人種の集まった国、そういうものが非常に強烈に必要な国だ。そういう意味では、いわば世界的に言えば特殊かもしれません。けれども、また別な意味で、例えばフランスであれ、あるいは幾つかのそういう革命とか独立を経たところでは、まさにそれを出発点としてそういう国旗国歌がある、これが一つのあり方であります。  しかし、さっきどなたか先生がおっしゃいましたように、世界は決して一つではありません。ほかのあり方もある。例えば、イギリスであれオランダであれ、君主国としてあるいは立憲君主国としてそれぞれの特徴を歌の中に詠み込み、あるいは旗にあらわしておるケースもあるわけでありまして、そういう意味で私はアメリカのありよう、あるいはまた日本のありよう、それぞれ共通する点があってもいいけれども、日本はまた日本らしいあり方があってもいいと思います。  ちなみに、もう一枚挙げておきましたのは、これは韓国の教科書であります。資料の終わりから二枚目に挙げております。韓国は御承知のように教科書は国定でありますけれども、小学校一年生が使う「生活と礼儀」という教科書でありますが、それを見ますと、御承知のように韓国の国旗は非常にいい国旗ですし、それからまた国歌も自然をたたえそして歴史をたたえ非常にいい歌なんですが、それをどのようにきちんと掲げ、また歌うかということが非常に……
  132. 山本正和

    山本正和君 済みません。お話し中でございますが、ちょっと時間が余りありませんのでもう少し短く。
  133. 所功

    公述人(所功君) 明確にしてありまして、そういう意味で私は、やはりそれぞれの国がそれぞれの歴史なり文化を担って、それで旗や歌を掲げておるわけですから、それを私どもは十分考えながら、日本日本らしくやっていったらいいというふうに考えております。  もちろん、それには、最初にちょっと話したと思いますが、学校教育の中では非常に根気強い、ある意味教育合意というものが必要でありますから、そういう意味では一律の強制とかというようなことがなされない形でもっともっといろんな努力がなされ、その上で心から掲げ歌うような、そういう教育環境をみんなでつくっていく必要があろうかというふうに思っております。
  134. 山本正和

    山本正和君 団長、もう時間が余りございませんので、大変申しわけないんですが、小林先生、大変きちっとした形でいろいろとお教えいただきまして感謝いたしますが、最後に、小林先生がこれからの日本国旗国歌のあり方について四つの提言をされましたけれども、具体的には今正直言いまして国会の圧倒的多数は法制化で進んでおります。しかし、もしそれが通った後、では小林先生はそういう御自身の心情からいって、これから国民の中でどういうことがあったらいいというふうにお考えなのか、その辺をちょっとお伺いしたいと思うんです。
  135. 小林武

    公述人(小林武君) まずは、本当に法制化に関して、定着の度合いとかというのを別にしまして、法制化という非常にわかりやすい指標を立てました場合に、国民世論と国会の中の意見部分とが全く乖離しているわけです。これは非常に残念だし、私は今の山本議員のようなおっしゃり方ではなくて、そういう乖離を参議院でこそ直していただきたい、まだ時間はあるわけで直していただきたい、これがきょうの私の話の前提でございます。  その上に立って、これができます場合は、私は、この社会というのは自由社会でありまして、自由の根拠というのはやはり精神的自由であって、そのまた精神的諸自由の基本自由が良心の自由だというのが、これが憲法の理解なんです。ですから、これを徹底的に大事にしなければならない。  ですから、国旗国歌法案国旗国歌法に仮になりましても、それが国民をいかなる意味でも事実上の強制も含めて強制してはいけないというふうにまず私は思います。そうであればこそ国旗国歌法というのは第二条で終わりでありまして、義務条項は持っていないわけです。この義務条項を持っていないというところに法の執行者、法の担当者というのは十分に心して、強制的な運用というのは全く国においても地方においてもしないように望みたいというふうに思います。  そういうことでよろしいでしょうか。
  136. 山本正和

    山本正和君 もう時間が来ましたので、ありがとうございました。
  137. 鴻池祥肇

    団長鴻池祥肇君) 以上をもちまして公述人に対する質疑は終了いたしました。  この際、公述人方々に一言御礼のごあいさつを申し上げます。  本日は、長時間御出席をいただきまして、貴重な御意見を賜りました。十分本委員会の参考にさせていただきたいと思います。本日は、まことにありがとうございました。  以上をもちまして参議院国旗及び国歌に関する特別委員会名古屋地方公聴会を閉会いたします。    〔午後三時二十六分閉会〕