運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login

1999-08-02 第145回国会 参議院 国旗及び国歌に関する特別委員会 第4号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成十一年八月二日(月曜日)    午前十時開会     ─────────────    委員異動  七月三十日     辞任         補欠選任      本岡 昭次君     直嶋 正行君      松 あきら君     山本  保君      笠井  亮君     林  紀子君      山下 芳生君     畑野 君枝君  八月二日     辞任         補欠選任      直嶋 正行君     佐藤 雄平君      畑野 君枝君     笠井  亮君     ─────────────   出席者は左のとおり。     委員長         岩崎 純三君     理 事                 鴻池 祥肇君                 溝手 顕正君                 江田 五月君                 森本 晃司君                 笠井  亮君                 林  紀子君     委 員                 市川 一朗君                 景山俊太郎君                 亀井 郁夫君                 中川 義雄君                 南野知惠子君                 橋本 聖子君                 馳   浩君                 森田 次夫君                 足立 良平君                 石田 美栄君                 江本 孟紀君                 佐藤 雄平君                 竹村 泰子君                 直嶋 正行君                 山下 栄一君                 山本  保君                 畑野 君枝君                 山本 正和君                 扇  千景君                 山崎  力君    国務大臣        文部大臣     有馬 朗人君        国務大臣        (内閣官房長官) 野中 広務君    政府委員        内閣官房内閣内        政審議室長        兼内閣総理大臣        官房内政審議室        長        竹島 一彦君        内閣法制局長官  大森 政輔君        内閣法制局第二        部長       宮崎 礼壹君        内閣総理大臣官        房審議官     佐藤 正紀君        総務庁長官官房        審議官      久山 慎一君        外務省アジア局        長        阿南 惟茂君        文部大臣官房長  小野 元之君        文部省初等中等        教育局長     御手洗 康君        文部省教育助成        局長       矢野 重典君        文部省高等教育        局長       佐々木正峰君        文部省体育局長  遠藤 昭雄君        厚生省社会・援        護局長      炭谷  茂君    事務局側        常任委員会専門        員        志村 昌俊君        常任委員会専門        員        巻端 俊兒君     ─────────────   本日の会議に付した案件 ○理事辞任及び補欠選任の件 ○国旗及び国歌に関する法律案内閣提出、衆議  院送付)     ─────────────
  2. 岩崎純三

    委員長岩崎純三君) ただいまから国旗及び国歌に関する特別委員会を開会いたします。  委員異動について御報告いたします。  去る七月三十日、本岡昭次君、松あきら君、笠井亮君及び山下芳生君が委員辞任され、その補欠として直嶋正行君、山本保君、林紀子君及び畑野君枝君が選任されました。     ─────────────
  3. 岩崎純三

    委員長岩崎純三君) 理事補欠選任についてお諮りいたします。  委員異動に伴い現在理事が一名欠員となっておりますので、その補欠選任を行いたいと存じます。  理事選任につきましては、先例により、委員長の指名に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  4. 岩崎純三

    委員長岩崎純三君) 御異議ないと認めます。  それでは、理事林紀子君を指名いたします。     ─────────────
  5. 岩崎純三

    委員長岩崎純三君) 国旗及び国歌に関する法律案を議題とし、前回に引き続き質疑を行います。  質疑のある方は順次御発言願います。
  6. 馳浩

    馳浩君 おはようございます。自由民主党の馳です。  まず冒頭に、ちょっと質問通告はしていないんですが、ただ、衆議院の方でも議論があったと思いますので教えていただきたいんですが、この法案は、第一条「国旗は、日章旗とする。」、第二条として「国歌は、君が代とする。」とありますが、「とする」というふうな書き方をした場合に、これは法律的ないろいろ技術論があるのかもしれませんが、私は一応もともと国語教員なんですけれども、「する」という場合には主語が必要なわけでありまして、その主語政府となると思うんですけれども国旗国歌政府が決定するというふうな姿勢は、国民主権我が国体制からすればどうもちょっと違和感を私は感じてしまいます。  慣習法として定着しているというのであるならば、国旗日章旗である、国歌君が代であるというふうな文章の方が明確ではないかなと私は思うのでありますが、いかがでしょうか。
  7. 竹島一彦

    政府委員竹島一彦君) 今回の法律案の策定に当たりまして、今、先生指摘のようなことも考えたわけでございますけれども、実態は、政府としては、国旗日の丸の旗であり国歌君が代であるということが国民の間に広く親しみを持って受けとめられているという意味で、定着しているという事実、言いかえれば慣習法として定着しているという事実に立脚いたしまして今回の法制化を図ったわけでございますが、法制化を図るのは今回が初めてでございますので、AはBであるという、言ってみると定義のようなことではなくて、まさに国会の御意思として「国旗は、日章旗とする。」といういわば創設的な規定にするというのが、今回初めて立法化するということにかんがみましてふさわしい、適当であるというふうに考えたわけでございます。  ですから、その「する」と考えるのはだれかということになりますと、それはまさに国会ということになろうかと思います。
  8. 馳浩

    馳浩君 わかりました。ありがとうございます。  今、竹島さんもおっしゃいましたが、慣習法として定着しているという事実についての質問をさせていただきます。  いわゆる日の丸君が代慣習法として成立していると述べておられますが、昭和五十四年四月十日、衆議院内閣委員会会議録によれば、真田内閣法制局長官は、日の丸君が代国民的習律答弁しております。そして、昭和六十三年三月十五日の参議院予算委員会会議録によれば、味村内閣法制局長官は、日の丸慣習法となっているが、君が代は事実たる慣習になっていると答弁しておられまして、微妙に言葉遣いが違うわけですが、そもそも法律用語としての慣習法国民的習律、事実たる慣習の違いをどう政府解釈しているのか、どう使い分けているのかを教えてください。
  9. 大森政輔

    政府委員大森政輔君) 言葉意味についてのお尋ねでございます。  まず、国民社会生活を行う上におけるしきたりというものを慣習と呼んでいるわけでございます。そして、そのうち法的確信を伴うものを慣習法と言うわけでございます。  そして、ただいま御指摘になりました国民的習律という言葉でございますが、これは余り法律学の上では使わない用語ではあるんですが、要するに、国民的習律とは、一般国民の間で行われている慣習を、それの持つ規範的意味合いを含めて表現したものというふうに私ども後輩としては解しているわけでございます。  したがいまして、国民的習律の中には、先ほど申し上げましたような慣習法意味合いを持つものと、それに至らない慣習にとどまるものと両方意味を含んでいる概念ではなかろうかというふうに解しているわけでございます。
  10. 馳浩

    馳浩君 もう一点、事実たる慣習という部分
  11. 大森政輔

    政府委員大森政輔君) 先ほど、法的確信を伴うものは慣習法、そしてまだ法的確信を伴うに至っていないものを慣習と申し上げましたが、これはまた事実たる慣習という呼び名もあるわけでございます。慣習と事実たる慣習は同じ意味で申し上げております。
  12. 馳浩

    馳浩君 君が代はいつから慣習法となったのでしょうか。
  13. 大森政輔

    政府委員大森政輔君) なかなか答えにくいお尋ねでございます。  慣習法というのは不文法であると。したがって、明確な法律制定行為によらないという事柄の性質から考えまして、特にある時点において慣習法として成立しているかどうかということの判断は、これはできるわけでございますけれども国歌君が代とするということがいつからというお尋ねでありますと、それは明確に特定の時点からということをお答えするのは甚だ困難であると答えざるを得ないと思います。
  14. 馳浩

    馳浩君 日の丸君が代慣習法と肯定するにはきちんとした裏づけ調査は欠かせないと思います。政府は、昭和四十九年十二月の年号制度国旗国歌調査以来、公式の調査はしておりません。その後、何年も経過した後に君が代は事実たる慣習から慣習法になっているわけですが、どんな裏づけ調査から君が代慣習法になったと考えたのでしょうか。そして、どういう政府部内での議論に基づき慣習法になったのでしょうか。  憲法第四十一条、言うまでもありませんが、「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。」ということで、国会立法権と深くかかわる重要問題であると思いますが、いかがでしょうか。
  15. 大森政輔

    政府委員大森政輔君) まず、国歌君が代とするということがいつから事実たる慣習から慣習法に転化したのかということに関連したお尋ねでございますけれども、私ども、過去の答弁を分析してみまして、昭和五十四年四月十日の真田内閣法制局長官答弁、そして六十三年三月十五日の当時の味村長官答弁は、必ずしも君が代に関していまだ事実たる慣習段階にとどまっているということを述べたものではないんじゃなかろうかと解しているわけでございます。  真田長官答弁に関しますと、国民的習律という言葉を使っておるわけでございますが、この中には慣習法的な性格を有するものと有しないものと両方意味合いが含まれていると。したがって、当時、真田長官としては、規範的意味合いを否定した意味答弁したわけじゃないんじゃないか。  また、味村元長官答弁中には、確かに「事実たる慣習が存在する」と、このように「事実たる慣習」という言葉を使っているわけでございますけれども、その際も、その後に引き続いて「君が代国歌であるということは国民的確信になっている」という言葉をも述べておりまして、この味村答弁も、必ずしも規範的意味を有することを否定しているものではないんじゃなかろうかというふうに現在私どもは考えているわけでございます。  したがって、四十九年の調査、そして今の答弁、そのあたりで慣習慣習法に昇格したというような経過と理解することは正確じゃないんじゃなかろうかなと現在は考えているわけでございます。  これは前置きでございますが、そして、いかなる調査によって慣習法認定したのかということに関しましては、お尋ね昭和四十九年十二月当時には、既に商標法第四条第一項第一号あるいは自衛隊法百二条第一項等では「国旗」という語が用いられております。また、学習指導要領中にも「国旗」という言葉が含まれております。  そして、このような法律中あるいは法的性格を有する大臣告示に関するもののほか、昭和五十年三月の三木総理答弁がございまして、政府は以来一貫して、これらの法令中における国旗とは日章旗とされ、国歌君が代とされるという規範が成立している旨の答弁をしているところでございまして、先ほど申しましたように、この前後で事実たる慣習慣習法に昇格したというようなことはないんではなかろうかと。この前後、相前後、慣習法として一貫して成立していたのではなかろうかというふうに考えている次第でございます。
  16. 馳浩

    馳浩君 一般論として、だれがどんな手続のもとで慣習法の存在を認めるのでしょうか。国会はその認定に関与するのでしょうか。
  17. 大森政輔

    政府委員大森政輔君) 冒頭で申し上げましたように、慣習法が成立するというためには、ある事実が長い間国民生活の中で、あるいは行政において繰り返し行われるということが必要であります。  これは、るる答弁中で、長年の慣行により国民に定着しているという言葉で説明してきているわけでございますが、それが法的確信を伴って慣習法になっているかどうかということについての判断権者の問題につきましては、その事柄が問題となる局面における判断権を有する者がまず判断をするわけでございます。その事柄が具体的な争訟事件になりまして、裁判所に係属するということになりますと裁判所判断すると。そして、我が憲法上は、最終的には最高裁判所判断に服するということになるわけでございます。  また、したがいまして、具体の法令等制定あるいは適用の場面におきまして、それを所管する行政機関においても、当該法令有権解釈を通じて判断することがあり得るということになるわけでございます。国旗国歌についても、この理の一般適用の問題でございます。  国会の場で政府についての見解はどうかということを尋ねられますと、やはり国旗国歌は国としての基本的な制度であるということを踏まえまして、尋ねられる限り、政府としてもみずからの見解を申し述べることになるということでございます。
  18. 馳浩

    馳浩君 いや、国会はその認定に関与するのかしないのかという質問だったんですが、ちょっとわかったようなわからないような答弁なので、余り深く突っ込みません。次に行きます。  君が代慣習法と考えて、関連質問をいたします。  すなわち、慣習法としての法ならば、一般論からいえば、論理必然的に慣習法の条文の解釈法律と同様に解釈が確立していなければならないと思います。  問題は、君が代歌詞であります。  君が代は、それ自体慣習法であることに意味があり、歌詞意味解釈が確立していなくても国民権利義務には無関係であり、したがって確立する論理必然性はないと思いますが、いかがでしょうか。
  19. 大森政輔

    政府委員大森政輔君) 君が代歌詞意味につきましては、確かに委員指摘のとおり、それ自体国民権利義務に直接の関連を有しないということはそのとおりでございます。しかしながら、今回御審議いただいております法律案の中におきまして、君が代歌詞についても法文中に書き込んでおりますので、その歌詞意味についてその基本的な解釈を示すということは、提案者たる政府のみならず、国会としてもやはり一つの当然の責務でなかろうかと思います。
  20. 馳浩

    馳浩君 しつこい質問になりますが、法的には公権的に解釈する必要もないと私は思っておりますが、これを公権解釈する法的以外の理由は何でしょうか。その意図するところは何でしょうか。
  21. 竹島一彦

    政府委員竹島一彦君) 私ども君が代慣習法として定着しているというふうに考えておりますが、そのときの君が代というのはまさに君が代国旗日の丸であると同様に、国歌君が代であるということでありまして、君が代歌詞全部につきまして慣習法として解釈ができ上がっているというふうには受けとめておりません。  しかしながら、今回法制化をお願いしておりまして、それで、今法制局長官お答えになられましたように、歌詞についても法律に書かせていただいているということでございます。それにつきましては、前にも申し上げましたけれども衆議院段階で、政府法律国会に提出申し上げる前に石垣一夫衆議院議員から質問主意書が出されておりまして、その中で、君が代の「君」とは何か、君が代歌詞意味は何か、政府見解を問うというのがございました。それに対するお答え政府として申し上げたということが経緯として一つございます。  それから、第二点目は、今法制局長官お答えになられましたように、法律を提出申し上げる以上、その歌詞は何かということを政府として見解を用意しておくというのは当然の責務かということで、政府見解を申し上げているということでございます。
  22. 馳浩

    馳浩君 君が代解釈政府見解拘束性について質問いたします。  国民には、政府解釈解釈として、別に自分なりの解釈をする自由はあるのでしょうか。  関連して、例えば君が代の「君」や「代」の解釈について学校先生政府見解と異なることを教える裁量権はあるのでしょうか。特に、「代」を時間をあらわす語として使えるのか、さらに「君」を天皇を含めた二人称のあなたと解釈できるのか。  もう一つは、私は、先ほど申し上げたように、国語教員としてこの和漢朗詠集にとられている君が代歌詞文学作品として生徒授業で教える場合に、君が代の「が」を明確に古典文法として教えなければならないんです。  古典文法の成立というのは、大体、中・後平安時代に確立したものでありますが、その「が」というのは、まさしく君が代というのは、「君が」で連体修飾語となって「代」に係るものでありまして、この場合の格助詞の「が」の使い方というのは、もう一つ同じような使い方として使える格助詞に「の」があるんです。「が」と「の」の違いというものをやっぱり授業で教えざるを得ないんです。  残念ながら、残念ながらというか、「が」というのは自分と同等に近い人に対して使うときであり、自分より上位、位が上の人に対して使う場合には「の」を使っているんです。ですから、広く天皇というふうに解釈するときには君の代としなければならないというふうに、私は授業でやる場合にはそう教えざるを得ないんです、国語の問題として。  私が何を言いたいかといいますれば、文学作品として国民の間に広く定着しているこの和歌を、時代によって、政府体制によって違う解釈国民に示すということに私は違和感を感じるんです。無理を感じる。  ですから、ここでも解釈拘束性ということについて質問させていただいておりますが、こういうふうに我々教員が現場で教えるときに、その自由な裁量権はあるのですかという確認の意味質問を申し上げているわけでありまして、いかがでしょうか。
  23. 大森政輔

    政府委員大森政輔君) 国語問題につきましては後ほど文部省文部大臣から御答弁があると思いますが、私は法的拘束力に限定いたしましてお答えいたします。  一般論で申しますと、法律規定意味解釈につきましては、これは国民一般としては、政府がこういう意味である、あるいは国会審議においてこういう意味であるということが明らかにされましたところと異なる解釈をするということにつきましては、何らその自由を制約するものはございません。  そうは申しましても、やはり法律解釈といいますのは、法律の正しい意味内容を探求、確定するということでございますから、国会において、この表現は、この部分はこういう意味であるということをるる議論されて、それならばよしということで採決され成立したと。それでまた、政府提案としてこれはこういう意味で書いたのでありますと、それを国会の方で肯定されて成立するということになりますと、法律の正しい意味内容はそういうことであるというのは、客観的にはおのずから確定するのではなかろうかと思います。  しかしながら、そうは言いましても、おれはそうは思わない、こう解するということも、それ自体としては自由でございます。
  24. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 学校におきまして国歌君が代歌詞意義を正しく理解させるということは極めて重要でございまして、学習指導要領もそれを各学校に求めているところでございます。  文部省といたしましては、これまで国歌君が代指導に当たりましては、小学校におきます社会科と音楽、この指導が相まって、少なくとも小学校卒業までに、国歌君が代日本国憲法のもとにおいて天皇日本国並び日本国民統合の象徴とする我が国がいつまでも繁栄するようにとの願いを込めた歌である、こういった趣旨をしっかりと理解できるようにということでお願いしてきたところでございます。  このこれまでの文部省考え方は、今回の法案審議等に際して示されました政府見解と異なるものではないと私ども考えているところでございますが、今回、法案審議に際しまして政府としての見解が示されたわけでございますので、今後は各学校におきまして、御指摘点等も含まれまして、政府見解にのっとった適切な指導が行えるよう私どもとしても配慮していく必要があると考えているところであります。  なお、御指摘の、国語においてどう教えるかと。  国語において国歌君が代を教材として取り上げなさいということは、学習指導要領においては何らどの学年についても触れていないわけでございますけれども国歌の歴史的な由来なり、あるいはその歴史的に使われてきた過程なり、こういったものを理解させていくということは、国歌君が代歌詞の正しい理解を行っていくということで極めて重要でございます。  そういった学習過程、あるいは国語におきます文学作品としての取り扱い、これはまた別途文学作品としての取り扱いがあろうかと思いますけれども学習過程におきまして、そういった文学的な意味も含め、あるいは歴史的に使われてきた経緯等も含めて教えていって、最終的に政府見解にのっとった適切な理解が導かれればよい、そういった指導が適切ではないかと思っているところでございます。  なお、学校におきますこういった指導につきましては、教師学校に対して義務づけを行っているものでございまして、教師学校はこういった考え方にのっとって指導を行っていただきたいと思っているところでございますけれども、最終的に個々の児童生徒君が代歌詞意味などについてどのように受けとめるかということにつきましては、個々人の内心にかかわる事項であろうかと考えているところでございます。
  25. 馳浩

    馳浩君 もう時間がありませんので、最後に私の意見を申し上げて終わります。  非常に私が思うのは、君が代、あるいは古今和歌集におきましては我が君というふうにうたわれておりますが、こういう日本の文化、伝統として、すばらしい和歌として、長らく日本伝統として定着してきたこの和歌国歌として法的に制定するという意義は、私は非常にあるというふうに申し上げているだけであって、時代を振り返って、平安時代におきましても、特に北家藤原氏などは天皇家外戚関係を結ぶことによって政治的な権力をほしいがままにするという、当時においてさえ天皇家を政治的に利用するというふうな時代背景があったわけです。ただし、そういう政治的な背景と、この君が代の歌という文学的作品としてのすばらしさ、国民への定着度というのは意味が違うということを私は申し上げたいのでありまして、こういう時代を経ても古典作品として広く国民に親しまれ得る歌を今国歌として制定しようとしている非常に大切な意味があるということを私は申し上げたいということを申し述べまして、私の質問を終わらせていただきます。
  26. 亀井郁夫

    亀井郁夫君 自由民主党亀井でございます。  国旗国歌法制化する、それについて審議するこの特別委員会質問の機会をいただきましたことを心から感謝申し上げ、いささか緊張ぎみでございますけれども、いろいろとお尋ねしたいと思うわけであります。  私の地元であります広島の世羅高校の石川校長先生がみずから命を絶つという痛ましい事件があり、それを契機にして国旗国歌法制化に小渕総理は踏み切られたわけでございまして、そういう意味では、その法案が今や成立間近ということでございますので、本当にうれしく存ずるわけでもございます。  御案内のように、石川校長先生は、この春の卒業式に国旗の掲揚、国歌の斉唱をぜひやりたいということで努力されたわけでありますけれども先生方の同意を得ることができなくて、とうとう最後に、卒業式の前日でございますが、二月二十八日の日に、何が正しいかわからない、管理能力はないことかもしれないが、自分の選ぶべき道はどこにもない、こういった遺書を残してみずからの命を絶たれたわけであります。  この言葉は、解放同盟広島県連が事実上支配してしまっております広島県の教育の状況と、逼塞状況にある広島県の教育の状況を本当に率直に、また如実に物語っている言葉ではないかと私は思うわけでもございます。  広島県の場合は、宮澤大蔵大臣が予算委員会で、四十年前から大変だったということを率直に申し上げられましたけれども、そのとおりでございまして、三十年前の四十三年に解放同盟と教職員組合とそしてまた同和教育研究協議会の三つが一緒になりましていろいろ動き始めました。それから解放同盟の糾弾活動が大変厳しくなったわけでございまして、多くの先生方がみずから命を絶つということでございまして、昭和六十年ごろまでに十数名の方々が命を絶たれたわけであります。これはわかっている方だけでありまして、言われない方が多いものですからもっともっとおられるんだと思いますけれども、そういう状況が続いたわけでございます。  それではいけないということで、昭和六十年に広島県議会が立ち上がりまして、こんなことを続けるんだったら同和対策事業についても考えるよということを言ったわけでございます。そうすると、これが大変解放同盟を刺激いたしまして、猛反撃を受けることになりまして、非常に混乱が続いたわけであります。  そういう状況の中で、当時の竹下県知事が間に立ちまして、解放同盟と教職員組合、さらには同和教育研究協議会に加えまして県知事と県会議長と教育長の三者が加わりました形で確認書がつくられたわけでございます。今、八者懇の確認書と言われておりますけれども、これでございますが、問題はその中に同和教育や差別問題については解放同盟と連携を密にしてやるという内容の文書があったわけでございます。これをもとにいたしまして、解放同盟は大手を振って広島県の教育現場に入ることができるようになったわけでございまして、一段と厳しくなったわけであります。  そういう流れの中で、平成四年でございますけれども、これも二・二八文書とよく言われておりますけれども、当時の教育長であった菅川先生が出された文書がございまして、これが解放同盟と教職員組合に出された確認書でございますが、その文書の中は、文言的にも非常に問題があるし、国民的に国旗国歌は、日の丸君が代国民的なコンセンサスをまだ得ていないというふうな表現になり、いろいろと問題があるので、その意味ではこういうことを教育的内容として盛り込む必要があるんだということを書かれた文書を出されたわけであります。  それ以降、平成四年の春から国旗は一〇〇%上がるようになりましたけれども、しかしその前提としては、校長先生が必ず卒業式や入学式の日か前の日に生徒を集めて国旗意味をちゃんと説明するように、ということはどういうことかというと、日本が侵略戦争において使ってきた日の丸の旗なんだと、そういったことで非常に厳しい面での歴史的意味をちゃんと説明するようにということが条件になって、広島県の公立学校ではこれがずっと繰り返されてきたわけであります。  そういうふうな状況の中で、昨年の参議院の予算委員会で小山先生の紹介によりまして福山の中学校佐藤先生という先生が参考人として立たれて、広島県の教育現場の荒れようを率直に話されました。それで、文部省もこれは大変だということで四月に調査に入られまして、そして十数項目にわたって是正勧告を出されたわけでございますけれども、その中にこの国旗の掲揚、国歌の斉唱ということが入っておったわけでございます。  そういうことから、県の教育委員会は教育長を中心にしまして是正勧告を実施して、そして改善を図っていきたいという努力を続けておられますけれども、そうした中で世羅高校の校長先生の自殺という事件が起こったわけでございますので、その背景を御理解いただきたいと思うわけであります。  私もあれ以来、三度ばかり仏壇参りをしてまいりました。五月の連休明けに参ったとき、ちょうど四十九日の後でございましたけれども、そのときに参り、またさらに七月に参りましたけれども、ここで驚いた事実を皆さん方にお話し申し上げたいと思います。  もうかれこれ四カ月も五カ月もたつんですけれども、しかしいまだに、かつて石川校長先生と職場をともにしておられた世羅高校の先生方がだれ一人として線香を一本も上げに来ていないという事実であります。私は驚きました。人間としてこういうことが許されるのかということでございます。石川先生も非常にまじめな方で、気もそんなに強くなかったんだと思うんですけれども、そういうことでみずから命を絶たれたわけであります。先生方とそんな大きなトラブルがなかったように聞いておりますから、恨まれてあの世に行かれたわけではないんですから、一人ぐらいは線香を上げに来ましたという先生がおってもいいんじゃないかと思うんですが、ゼロということに驚いたわけであります。  そうすると、数十名の世羅高の先生方が完全にマインドコントロールされているのか、あるいは何かが怖くて参ることができないのか、私は二つに一つだろうと思うわけでありますけれども、そういう意味では、全員がマインドコントロールされて人の心を失ってしまったとは私は思いたくありません。ですから、私はやはり怖いんだろうと思うんです。何が怖いのかというと、これは推測でございますけれども、解放同盟であり教職員組合だろうと私は思うわけでございます。  このように大変大きな問題になっておりまして、そうした状況につきまして私は本当にこれじゃいけないなという思いを強くしたわけでございますが、こうした広島県の教育現場のありようにつきまして、官房長官並びに文部大臣に御感想をお聞きしたいと思います。
  27. 野中広務

    国務大臣(野中広務君) 広島県立世羅高校の石川校長がみずからの命を絶たれましたことは、今、亀井委員から御指摘がございましたように、県下それぞれの学校における国旗の掲揚、国歌の斉唱に端を発して、そして教職員組合や解放同盟等の激しい糾弾の中でついにみずからの命を絶たれたということを私どもも承知をしたわけでございまして、まことに痛ましい事件でございました。心から改めて深い哀悼の意を表したいと思うわけでございます。  今、それから数カ月を経た経過を亀井委員からお伺いをしながら、私は、一人の校長先生を死に追いやるに至って、その後一人も線香を上げることがないということは、その先生を死に追いやるところまで追い込んだ先生方がどうして一人も石川校長の心情をわかってやろうとしなかったんだろうと思うと、まことに教育の現場を思う者として非常に悲しく思うものでございます。その背景となるものにまた問題を感じるわけでございます。  その後、先日も触れましたけれども、民放の報道を通じまして小森委員長が言っておる宮澤大蔵大臣に対する言葉を聞きながら、私はこういう先生方が石川校長の霊前に行きたくとも行けない背景を知らざるを得ない。そう考えるときに、やはり国旗国歌を法文化して明確にして、そしてこれが強制じゃなく、強圧じゃなく、学校の場で自然に、そして過去の歴史のゆがめられたところは率直にゆがめられたところとして教育の中にこれが生かされて、そしてそれがこれから我が国国旗国歌として定着をしていくように、そして学校現場では、先ほど申し上げましたように、強制的にこれが行われるんじゃなく、それが自然に哲学的にはぐくまれていく、そういう努力が私は必要ではなかろうかと思うわけでございます。  再びこういうことによって先生が死を選ばれたり、あるいはそのことが新たなる差別につながるようなことのないように、我々は文部省を含め万般の努力を重ねてまいらなくてはならないと思うわけでございます。
  28. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) ただいま御答弁になられました官房長官と私は考え方を全く同じくしている人間でございますが、ともかく石川校長先生が、今春の卒業式における国旗国歌の実施をめぐりまして、学校内外の厳しい状況の中で深く悩まれ、孤立感を抱かれて、結果としてみずから命を絶たれたということは大変痛ましいことで、私といたしましても心から哀悼の意を表したいと思います。  広島県教育委員会の報告によりますと、世羅高等学校におきましては、実質的に職員会議が最高議決機関として機能しております。そして、校長の自主的な権限の発揮が阻害されていたほか、校長を中心にすべての教職員が協力して学校運営を行っていくという体制が十分には確立しておりません。そういうことから、国旗国歌の実施に関しましては、最終的に校長一人が全く孤立する状況に陥っていたということでございます。  世羅高校の先生方がどなたも線香を上げに来なかったという御指摘でございますが、さまざまな来られない事情があるのであるかと思っております。  私といたしましては、このような痛ましい事件を二度と起こさないためにも、このたびの法制化によりまして、学校現場において国旗国歌に対する正しい理解がさらに促進されることを期待いたしている次第でございます。
  29. 亀井郁夫

    亀井郁夫君 どうもありがとうございました。  国旗国歌法制化によりまして、これまで広島県の教育の現場で繰り返されておった日の丸国旗国旗でないか、また君が代国歌であるかないかという不毛の議論は繰り返さなくてよくなるわけでございますので、一歩前進ということになるわけであります。そういう意味では、石川校長先生の死を契機にしてこの問題が解決の道へ進むということは、先生もまた喜んでおられることだと思うわけでございますが、これから広島県の公教育は第二段階に入るわけでございます。そういう意味では、これまで反国旗・反国歌、そしてまた反学習指導要領の一連の運動を激しく続けてきた組合であり、あるいは解放同盟でございますので、相当組織的な抵抗がこれからもあるものだと思うわけでございます。  そういう意味では、特に国旗国歌法制化について官房長官の方から、国旗国歌法制化が行われても国民の内心に入ってまで強制するものではないというお話、それと同時に、片方では文部省学習指導要領の問題がございますので、これまでもこの点については何度も確認され、御答弁いただいたのでございますけれども、特にこれから大きな問題になる可能性がございますので、改めてこの問題についてお話を承りたいと思うわけでございます。
  30. 野中広務

    国務大臣(野中広務君) 繰り返し御答弁申し上げておりますが、国旗国歌法制化憲法十九条の思想及び良心の自由との関係につきましては、政府といたしましては、法制化に当たりまして、国旗の掲揚及び国歌の斉唱に関しまして義務づけを行うようなことは一切考えていないところでございまして、各人の内心にまで立ち入って国旗国歌に対する思いを強制するものではないという亀井委員の御指摘はまさにそのとおりでございます。
  31. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) 内心の自由については今まで御答弁申し上げたとおりでございますが、学習指導要領に基づくことについて一つ確認をさせていただきたいと思います。  教員は、関係の法令や上司の職務上の命令に従いまして教育指導を行わなければならないものでございまして、各学校においては、法規としての性質を有する学習指導要領を基準といたしまして、校長が教育課程を編成し、これに基づいて教員国旗国歌に関する指導を含め教育指導を実施するという職務上の責務を負うものでございます。  本法案は、国歌国旗の根拠について、慣習であるものを成文法として明確に位置づけるものでございます。これによって国旗国歌指導にかかわる教員の職務上の責務について変更を加えるものではございません。
  32. 亀井郁夫

    亀井郁夫君 ありがとうございました。  次に、今、文部大臣のお話にもございましたことに絡みまして質問でございますが、学習指導要領は守らなければならないことだということでございますけれども、これまでも、先ほど話しましたように、教職員組合は教育の現場で国旗国歌をすべて否定するという教育を一生懸命やってきたわけでございますが、今回は法制化されます。そして、法制化された後も引き続いて同じように国旗を否定し国歌を否定するような教育を続けていった場合には、明らかに学習指導要領違反でございますから、その場合には、そういった教師やあるいはその教師の教育を、教えていることを認めた校長先生も処分の対象になっていいんではないかと思うんですけれども、そういう意味では、処分の対象になると考えてよろしいでしょうか。
  33. 矢野重典

    政府委員(矢野重典君) 校長から入学式等において本来行うべき国旗国歌指導を命ぜられた教員は、これに従って指導を行う職務上の責務を有しておるわけでございまして、これに従わなかった場合につきましては、地方公務員法に基づきまして懲戒処分を行うことができることとされているところでございます。
  34. 亀井郁夫

    亀井郁夫君 よくわかりました。今のお話を聞いて、また県の教育委員会もしっかり頑張るだろうと思います。  それでは次に、同和教育研究協議会と校長との関係についてお尋ねしたいと思うんですけれども、広島県の場合には、校長以下全員が加入しております同和教育研究協議会と推進協議会というのがあります。これは小中校用と高校と二つあるのでございますが、これが国歌国旗を否定する運動を続けておるわけでございますが、こうした団体に校長が今後も引き続いて加入しているということは大きな矛盾であり、違反することではないかと私は思うわけでありますけれども、こういった運動団体に入っていいのかどうかということが第一点。  それから第二点は、こうした同和教育研究協議会に対して、これは明らかに運動団体だと思いますけれども文部省はいまだに研究団体だという解釈を持っておられるようでございますけれども、実際、運動団体であり、これには地方公共団体から年間三千万ぐらいの補助金も出ておりますし、そしてまた、年間、数にして二千回ぐらいの勉強会が各地で行われておるわけであります。  そして多数の教員が、平均一回三十人行ったとしましても、六万人の先生がサボってと言ってはおかしいですが、授業をやめてそこに参加しておるわけでありますし、同時にまた出張旅費があるわけでありますが、出張旅費も全部学校の一般の出張旅費の中から払っておるわけでありますから、これも大変な金額になって、そのために一般の目的のために出張する費用が少なくなってしまうということを校長先生が嘆いておるのでありますけれども、これが放置されてきたのが現実であります。  こうした状況でございますので、私は、ぜひとも文部省としてこうした実態をもう一度調査してもらって、是正指導をしていただきたいと思うわけでありますけれども、いかがでしょうか。
  35. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 広島県内におきます同和教育研究団体についてのお尋ねでございますけれども、同和教育研究協議会にかかわりませず、各都道府県段階あるいは全国段階で各教員個人を加入者としたり、あるいはこういった形で学校を単位として加入する教育研究団体、全国数多くあるわけでございまして、それぞれその目的に沿いまして自主的な活動をやっている、これは当然に保障されなければならないものでございます。  しかしながら、御指摘のように少なくとも学校を単位として加入する、こういった研究団体につきましては、その性格にかんがみまして、法令を遵守し、学習指導要領の趣旨に沿った適切な教育活動が自主的に行われるということは当然のことであろうと思っているわけでございます。  私ども直接これらの自主的教育研究団体に対しまして指導を行っていくという立場にはございませんけれども、旅費の使い方、あるいは県内におきます研究関係の予算の使い方、こういったものにつきましては、それぞれ各都道府県あるいは学校内におきまして学校教育を円滑に推進していくという観点から、それぞれ適切に対処していただくようお願いをしてまいりたいと考えておるところでございます。
  36. 亀井郁夫

    亀井郁夫君 今の局長のお話の中でもう一つ、校長先生がこうした団体に継続して入っていて、そして学習指導要領に反対する文書も実際出しておるわけですから、そういうことをやるようなところに入ることを認めていいのかどうなのか。
  37. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 御指摘のございましたように、広島県の同和教育研究協議会あるいは高等学校の同和教育推進協議会の活動内容等を方針等で見てとる限り、学習指導要領なりに反対するというような観点からの記述があるわけでございまして、学校長が入る教育研究団体の活動としてはいささか問題があろうかと存じているところでございます。  広島県教育委員会におきましても、そういった点につきまして昨年来指導を行うという観点から研究団体とも話をしてきていると聞いているところでございまして、平成十年度以降少なくとも運動方針レベルではそれなりの改善が図られているということでございますので、広島県教育委員会におかれまして、今後、学校長が加入し学校教育を円滑に推進していくべき団体であるかどうかということにつきましては、十分継続的な指導あるいは校長等との話し合いを繰り返して適切な活動を行えるよう支援あるいは援助していただければありがたいと思っているところでございます。
  38. 亀井郁夫

    亀井郁夫君 この問題については、文言上直したからといって直っているんじゃありませんで、現実は従来と同じような活動を続けているということを局長に申し上げたいし、そういう意味では教育の現場についてもっともっと目を向けて具体的な指導をしていただくようにお願いしたいと思います。  次の問題でございますけれども、先ほど来話しております解放同盟の教育への介入の問題でございます。  先ほど県知事などを含めた八者懇の確認書によって解放同盟が実際に教育現場に入っているということをお話ししましたが、ここに、これはことしの六月四日の事件が書いてある。福山の加茂中学校の同和担当の方がまとめたレポートの一部なんですが、これを見ますと、六月四日に、ある授業で、国語授業のようですが、子供たちが君が代日の丸の問題をいろいろ話したようであります。最近こういうことになりましたので、国旗国歌の問題が家でも話されているんだろうと思うんですね。それで、子供がこれが君が代だと言って歌詞を書いて友達に教えたり、日の丸の絵をかいたりなんかしておったようでございますが、そのとき、先生らが日の丸はいけんばっかり言うからいけんのじゃ、広島弁でございますが、そういうことも書いてありまして、そうすると女の子も、そうじゃそうじゃ、日の丸はいけん言うけぇいけんのよ、先生がいけん言うからいけんのよ。じゃ、オリンピックのときはどうすりゃいいんじゃとか、これは広島弁で書いてありますが、そういう形でクラスで問題になったようであります。  そのとき先生が、これはいけないということで、自分の話を聞いてくれということで話された内容は、やはり自分は、日の丸は他国でひどいことをした日本の旗なんだということを話しておられるんです。念のためにちょっと読んでみますと、「先生になっていろいろなビデオを見ていくと、戦争中に日の丸君が代・御真影に対する先生指導に腹が立った。思想を統一して戦争に突入させられたように思う。私は、日の丸が他の国でひどいことをした時に使われてきたと聞いているし、思っている。アジア大会でも日の丸を見て嫌な気持ちになる人が世界中にいると思ったら、やっぱり日の丸には賛成できない。」。それから最後の方には「戦争中みたいにこわいし、嫌だ。電話を盗聴してもいいという法律までできようとしている日本はこわいと思う。」と、傍受法のことまで書いていろいろ教育しておられるわけであります。  このことだけじゃなしに、私が問題にしたいのは、この文章の後に必ず「連携」という項目があって、この「連携」というのは解放同盟の方に報告に行っているわけであります。そして、ここでどういう指導を得たかというと、「クラスや学年にそういう意識を持った生徒がいるということを、事実としてとらえておいてほしい。保護者の意識を探ったうえで、授業や個人に取り組んでほしい。 サークル生に関わってのことがあれば、支部として動こうと思う。」、サークル生というのは解放同盟の部落の子供たちのことです。  こういうことが随分たくさん書いてあるんですが、私が問題にしたいのは、必ず「連携」という言葉が全部ついてある、項目があるわけですね。ということは、必ず何かあったら解放同盟に行って指導を受けているというのが実態でありまして、教育に対する介入はこれからもはっきりしておるわけであります。  このように外部の団体が教育の現場に介入しているということについて、ぜひとも私は、教育を守る立場から、中立性を守るためにも文部省ぜひ調査してほしい、そして正しい指導をしてほしいと思うんですが、いかがでしょうか。
  39. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) 同和の問題もさることでございますが、差別ということは絶対あってはならないということを最初に申し上げておきたいと思います。  しかしながら、同和教育を進めるに当たりましては、同和教育と政治運動や社会運動との関係を明確に区別していかなければならないと思います。そして、教育の中立性が十分守られるよう、今後さらに注意をしてまいりたいと思っております。
  40. 野中広務

    国務大臣(野中広務君) 亀井委員から広島県の異常な状態についてお話があったわけでございますが、関東方面の皆さんには聞いておって実態のわかりにくい話だし、また広島は、関西あるいは中国、九州等を含めましてもやや今日異常な状態がなお強烈に残っておるところでございますけれども、総じて関西方面はそう大小異ならない状態でごく最近まで歩んでまいりました。  そういう中で、学校長がそれぞれの組織に入っておる、あるいは行政機関の者がそれぞれの組織に入っておる。それは、入ってそして会費を納めたり出席をすることが差別をしておらないというあかしになるんだと。そういういわゆる教育者が教育者として逃げた姿勢の中から培われてまいりましたし、逆にそういうものを強要してきた責任や政治のありようも私は問われるべきであろうと思うわけでございまして、そういうものがまたその他税制面を含めた多くの問題に端を発して、そしてここ数年前まで多くの新たな差別を呼んできたわけでございます。  それだけに、地対財特法の取り扱い等を通じて何とかしてこれを是正して、そしてなお人権問題としての教育・啓発や、あるいは侵害に対する救済というものは今後も積極的にやっていかなくてはならないと政治が決断をしたわけでございまして、今回まさにその決断をなお深刻なものとして取り上げたのが石川校長の自殺の問題でございました。私どもは、この石川校長の自殺を無にしないために、今後なお勇気を持ってこの問題に対処をして、組織のために同和問題があるのでなく、人権を守るために同和問題があるんだということ、このことを基本に考えて、そして広島を初めとするような異常な事態の解消に努力しなければならないと思うわけでございます。
  41. 亀井郁夫

    亀井郁夫君 ありがとうございました。  今、官房長官がおっしゃったように、差別は絶対あってはならないし許してはならないと私も思います。そのためにもやはり同和教育も大事にしなければならない、同感でございます。ただ、何が正しい同和教育なのかということについては十分考えていかなきゃならないし、差別も同和問題だけじゃなしにたくさんの差別問題がございますから、そういう問題についても差別をなくすように頑張っていかなきゃいけないと私も思うわけであります。特に、差別ということになりますと心の問題でございますから、その点やはり時間もかかりましょうけれども頑張っていかなきゃならないと思うわけでございますので、どうぞよろしく御指導のほどをお願い申し上げたいと思います。特に、そういった過度にわたる行動については、やはり行政の立場側からも勇気を持ってこれをとがめていくということが私は大事ではないかと思うわけでもございます。  時間がございませんので、あと二、三お願いしたいのは、一つ国旗の掲揚の方法と国歌の斉唱の仕方でございます。  広島県の場合、一応三脚で上げるということになっておりますけれども、カーテンの裏に隠したりということで、できるだけ生徒に見えないように上手に上げるのが国旗の掲揚の勧めのようでございましたけれども、こういうふうな形で上げておっても、上げたのは上げたということで実質は一なんですね。ですから、広島県の場合、一〇〇%国旗が上がっていることになります。また、国歌もおかげでこの春は一〇〇%実施されたことになっておりますけれども、しかし実際の現場を見ますと、校長先生とPTAの役員の一部が大きな声で歌っておられるだけであって、子供たちは座る、そうしてまた先生方も君が代になると座ってしまうというような状況で、態度でもって否定するということもされておるわけでございますが、これもやはり実質はちゃんとやったということで報告されておるわけでありますが、こういうことではどうもおかしいんじゃないかと私は思うのでございますけれども、これについて局長はどのようにお考えでしょうか。
  42. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 学習指導要領におきましては、国旗を掲揚し、国歌を入学式、卒業式等において斉唱するということを規定しているわけでございまして、掲揚の具体的方法は明示をしておりません。したがいまして、具体的な掲揚方法は、地域の実情等にも照らしながら、一般的、社会的通念に従った適切な方法であれば、設置される教育委員会や各学校長の判断にゆだねられているということでございますけれども、一般には掲揚するというのは、式場等においてだれもが目につくところに掲揚されるというのが通常の形であろうと思います。  文部省調査におきましては、個々の掲揚の方法あるいは個々の教師やあるいは参加者の斉唱の具体的な活動にまでわたって調査するものではございませんけれども、各設置者におかれまして適切な入学式、卒業式等が行われますよう、今後とも文部省としても引き続き指導をしてまいりたいと考えております。
  43. 亀井郁夫

    亀井郁夫君 時間がなくなりましたので、今お話を聞きましたけれども、広島の場合は国旗掲揚一つをとりましても一般的通念がちょっと違うのかもしれませんけれども、しかし、教育の現場というものをもっともっと直接見てもらってそして指導していかないと、文部省指導も形だけの指導に終わってしまうのではないかと思います。しかし、去年からの文部省のいろいろ強い是正指導によりまして広島県も大分変わりつつあるわけでありますので、これから大事なところでございますので、どうぞよろしくお願い申し上げたいと思います。  ありがとうございました。これでもって終わります。
  44. 石田美栄

    ○石田美栄君 民主党・新緑風会の石田美栄でございます。  このたびの国旗及び国歌に関する法律案が提出されて以来、日の丸国旗君が代国歌法律で定めるということで、その是非をめぐってのいろいろな論争がされてまいりましたけれども、それ以上にこのたびのことというのは、日の丸君が代の由来とか成立とか歴史、またその意味とか意義というふうなことについて、私自身もそうですし、国会議員も皆さん初めてというか、いろいろなことを読んでああそうだったのかといろいろなことを知ったと思いますし、国民の皆さんも、いろいろな由来、先ほどからいろいろと論じられていますように、君が代意味等々歴史的なことなどを知る、考える、ある意味では非常にいい機会になってきたなというふうに感じています。  そんな中で、私自身はもとは英語の教師もやっていましたので、私自身、日の丸とか君が代について、そんなことを論じるのは何となく後ろめたいみたいないろいろな気持ちがあって真っ正面から見てこなかったのに、アメリカの旗については、英語の時間とかもう何回もストーリーで教えて、繰り返し繰り返しやってきたなと。周りでもちょっと聞いてみると、星条旗というのは星が五十あって、スターズ・アンド・ストライプズが十三本あって、だれでもちょっと聞いてみても知っているんですね。独立戦争のときに参画した十三の州、そしてその後ハワイ州が加わって五十になって星が五十ある、そういうことはほとんど常識のようにみんな知っているんです。それで、自分の国のことはとなると知らなかったなということに私自身気づかされました。フランスの国旗にいたしましても、だれでも簡単に、あれはフランス革命のときの自由、平等、博愛で三色なんだと。  こんなことを思うときに、日の丸とか君が代について、入学式での掲揚とか国歌の斉唱にまつわるいろいろなトラブルというか問題、出来事については随分とみんな接してきたり、それからさきの戦争での日の丸君が代がどういう役割を果たしたといった、そういう問題に特化されて、国歌国旗君が代日の丸についてそういうことばかりを意識の中で育てられてきたような思いがいたします。  さて、学校の現場ですが、先週の金曜日、山下先生もそういうことに触れられていたと思います。私はほかの会がありまして中断して全部を聞いておりませんが、昭和三十三年の学習指導要領で、国民の祝日などにおいて儀式を行う場合に国旗を掲揚し、国歌を斉唱させることが望ましいというふうにされて以来、子供たちは本当に国歌国旗意義理解して、自分の国の国歌国旗の由来、意味、またそれにまつわる歴史を学ぶ機会を本当に与えられてきていたのだろうかというふうに思います。  学習指導要領では、小学校の音楽の時間に国歌君が代指導することとなっておりますが、実際にこれに関して、教科書に君が代の楽譜は出ているんでしょうが、指導書なんかも含めて教科書での扱い、現実にどのような指導が行われているのでしょうか。
  45. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 学習指導要領におきましては、小学校社会科の時間、それから小学校の音楽の時間、これを通じまして国歌君が代並びに国旗の正しい理解を進めるということになっているわけでございます。  特に、教科書におきましては、例えば小学校四年生の社会科におきましては、日本の周辺諸国の地図あるいはそれらの国々の国旗を図で示し、また小学校六年生なんかになりますと、オリンピックの表彰式における国旗掲揚の様子を取り上げる。こういうことによりまして、あわせまして、我が国や諸外国の国旗があるということとその国旗をお互いに尊重することが必要である、こういった記述が行われております。  また、六年生になりますと、国旗国歌はそれぞれの国の成り立ちと深い関係があること、こういったことを学習する。具体的には、日の丸の場合ですと、幕末から日本の船の総船印として定められた、その後、明治政府によりまして日本の商船旗として定められたことなどの経緯をたどって国旗として定着するようになってきたというようなことも記述がふえまして、世界各国の国旗国歌の成り立ちについても調べてみましょうというような学習の方法も提示いたしまして、各学校におきまして、教師の適切な指導のもとに国旗国歌の由来等もあわせて学習することによりまして、最終的には国旗国歌の正しい理解を得るということになっているわけでございます。  特に、国歌歌詞意味につきましては、先ほど来お答えしておりますように、少なくとも小学校卒業までには音楽と社会科授業が相まって、今回、政府見解で示されておりますようなそういった君が代歌詞意味を正しく理解させる、そういう活動を継続的に行うようにいたしているところでございます。
  46. 石田美栄

    ○石田美栄君 私は、今、君が代のことをお聞きして、次に小学校四年生、六年生の社会科と中学校の公民の授業日本と外国の国旗国歌意義理解し尊重する態度を育てるというふうになっていますから、そこでも指導書を含めてどういう扱いをしているのかお聞きしようと思ったんです。含めてお答えいただいたのですが、ということになっております、そうしているはずですというお答えだったんですけれども、現実には、私はもう相当前時代ですから、学校でそういう日の丸の由来だとか君が代歌詞の説明とか、そういうのを授業で受けた記憶、戦後間もなくのころですから記憶がないんですけれども、周りの若い人たちに聞いてみても、自分の子供たちが育った段階でもそういうことを学校で習ったのかな、聞いたことがないという人がほとんどなんですが、教えているとおっしゃっているけれども、実際にはどうもやられていないんじゃないかというふうに思います。  そのことは、先ほどから申し上げていますように、私はアメリカにはかなり留学経験もあって、家庭に住んだり、その後も何回かホームステイをしたりして得たわずかの体験の中でも、あるときに友達のうちに行ったときにそこの子供さんが、日本でいえば幼稚園でしょうね、プリースクールという、夏休みに事前指導みたいので通っているところへちょうどホームステイをしたことがあるんです。きょうはどこの国だったかしら、メキシコならメキシコの勉強というか楽しく遊ぶ日だという日でした。私たまたま行ったら、日本から来た人だということで旗をいろいろ見たりして、小さい子供たちでももう既に、その中できっと自分の国の旗の勉強をするんだろうと思います。  これもホームステイをした体験の中で実際に接したのですが、自分は今アメリカで市民権を取ろうとしているんだと。そうすると、アメリカの歴史をちゃんと授業というか、ある規定をとらないと取れないので夜の学校に行っていますと。そうすれば、多分、独立戦争のことから今のように州が十三から五十になった、そういうことを習うんだろうと思います。  国旗を掲揚したとか、君が代をしっかり歌ったとか歌わないとかということ以上に、やっぱり自分の国の文化として歴史として、日の丸などについては特に戦時中の侵略戦争で利用された、そういうことも含めて、学習の場でできるだけ正確な知識を得ることができるような教育というのは基本として非常に重要だなというふうに思います。こういう機会に私たち自身も考えていかなきゃいけないなというふうに思っています。  ですから、こういう教育の場での重要さを思うのですが、学習指導要領を見ますと、昭和三十三年の「望ましい。」ということから、学習指導要領をずっとたどって見てみますと、平成になってからは「指導するものとする。」というふうに強化されてきております。  そうしますと、法制化されればさらに指導の徹底が図られるようにしたいというふうに繰り返しおっしゃっておりますが、このような儀式的なことだけでなくて、先ほどから申し上げておりますように、由来だとか歴史とか国際比較等々、そうした学習が充実してこそ本当に国歌国旗への本当の誇り、言葉だけじゃなくて本当に誇りとか敬愛とか正しい理解を持って、二十一世紀を迎えることを一つの契機として法制化を行うものであるというふうにもおっしゃるのであれば、新しい世紀に向けて新しい時代国民に真に敬愛される、そして誇りの持てる国旗国歌にするためにも、教育の果たす役割というのは非常に重大だと思います。  ですから、今後、学校教育の中でさらに、さらにというか、今まで実際に行われていないのが事実みたいですから、それをもっといい形でしていけるような、学習指導要領は形のものですけれども、教科書の組み立てあるいは指導書の組み立て、そういったことについて、何も現状は変わらないと言われているんですけれども、私は実際は変わらなきゃいけないんだろうと思うんですが、どのようにお考えになりますでしょうか。
  47. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 御指摘がございましたように、今回の法制化に伴いまして、学習指導要領規定自体、あるいはそれに基づきます指導のあり方が変わるものではないと私どもは考えているわけでございますけれども、今回の法制化によって、当然明確にされ、そのことが学校におきます理解をより促進する、こういういい意味での教育現場におきます教育的な効果、影響を及ぼすということは事実だろうと思いますし、私どもそれを踏まえてさらに指導を続けてまいりたいと考えておるところでございます。  学習指導要領につきましては、御案内のとおり、特別活動の規定昭和五十二年から平成元年の学習指導要領に至りますまでは「望ましい。」と、こういう規定でございましたけれども、平成元年からは「国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。」、こういうぐあいな規定になっております。また、君が代につきましては、昭和三十三年の学習指導要領から、これは一貫して、するものとする、こういうことで指導してきたわけでございます。  卒業式、入学式におきます実施状況につきましても、なお現場の理解が得られない、あるいは地域の理解が得られないことによりまして、一部の都道府県と学校におきまして、完全に国旗が掲揚され、国歌が斉唱されないという実態がございますけれども、多くの都道府県、多くの学校におきましては、この問題は既に形としては決着をしている、こう私ども理解しているわけでございまして、学校現場におきますそういった問題が決着をした時期というのは、都道府県によって差があろうかと思います。  なお、先ほど教科書について申し上げましたけれども、教科書はこの学習指導要領規定に基づいて文部省が検定をしております。したがいまして、先ほど申し上げたような教科書の記述は、いずれの音楽の教科書、いずれの社会科の教科書をとりましても、表現や取り上げる教材の内容は多少違っておるといたしましても、すべての教科書においてそういった取り扱いがされております。  また、文部省といたしましては、学習指導要領の解説書や指導書におきまして、基本的な国旗国歌指導につきましての留意点というものを学習指導要領規定をさらに敷衍する形で示しており、そういったものに基づいて教科書を踏まえて指導が行われるということでございまして、私どもといたしましては、これは音楽や社会科におきます国旗国歌指導のみならず、各学校、多くの学校でそれなりにきちっとした指導が行われるもの、こう考えているわけでございます。また、個々の教師の教育上の良心、信念、そういったものに照らしても、これは遵守してきちっとした形で教えてもらうべきものだと思っているところでございます。  具体的には、各学校の校長がきちっと責任を持って教育課程を編成する、あるいは指導計画を立てる、あるいは設置者である各教育委員会が責任を持ってその円滑な遂行についてさまざまな形で支援、指導をしていく、こういった形で多くの学校におきましては適切な取り扱いが行われているものと私どもとしては考えているところでございますけれども、なお徹底をしていないという学校があり、教師によってはその取り組みに差異があるということも事実でございますので、そういう点も踏まえまして今後とも指導を継続してまいりたいと考えております。
  48. 野中広務

    国務大臣(野中広務君) 石田委員の御指摘を聞きながら、現場を知る一人として、今文部省からお話がありましたけれども、少なくとも教育の現場におきましては、私どもの知る範囲では、教科書に載っておるけれども、教えてもらうまでに卒業してしまうんです。だから、いわゆる明治以来の我が国の異常な歩みは知らないまま、教えられないまま卒業してしまうんです。そして、日の丸君が代は、少なくとも入学式と卒業式というその場所において、ある意味においては無味乾燥な対立が行われるわけでございまして、このことが私は二十世紀末の非常に不幸な状態を生み出してき、そして先ほど亀井委員の御指摘のように石川校長のような悲劇を生んできたと思うわけでございます。  そういう意味におきまして、これからもこの法律を盾にして強制的に無味乾燥な議論に入っていくのじゃなく、教育の中で正確に、日の丸の歴史とそして君が代が生み出されてきた歴史、また一時期これがゆがめられて使われた事実、そういうものをきちっと教えることによって学校現場の教育が生かされ、それが民族のアイデンティティーとなって国際的な人間として我が国国民が育っていくように私どもは努力をしていかなくてはならないし、またこの席で私は文部大臣にも要請をしておきたいと思うわけでございます。
  49. 石田美栄

    ○石田美栄君 私自身が、国会議員よりも三十年以上先生をしていた、そういう立場ですから、こういうところですと、行事のときに掲揚するか斉唱するか、そういうことの指導を強化する、そういう方向にどうしてもお答えがなるんですけれども、それはそれとして、文部大臣も、日の丸君が代を初め諸外国の国旗国歌に対するマナーをきちんと教えていくことが大切で、今後総合的な学習の時間も加わるので教育を深めていく必要があるというふうに述べていらっしゃいます。  そうだとすると、総合学習の時間に、それはマナーもそうですけれども、例えば自主学習で、小学校の高学年あるいは中学生あたりですと、批評してみてもいいですね、どの旗が好きかとか、そういうことを自由にやらせてもいいですし、自分が関心のある国を選んで図書館とかで調べてきてそれを発表し合う、そんなようなことをしていくといいなというふうに私は感じるわけです。でも、お答えは形の上のことが多くなってちょっと物足りないんですけれども、現実にはそういう指導というか勉強ができる、学習ができるということを本当に望みます。  それで、三十日の午後の質疑なんですが、ちょうど国際問題調査会がございまして、フォーリー大使をお招きしての東アジアにおけるアメリカの安全保障政策という会、私は理事でもございましたし質問者でもありましたので退席しましたのでここにおりませんで、それを直接に聞いていないので、きのうの新聞を見たんですけれども文部大臣が、入学式や卒業式ばかりでなく、運動会や学芸会などの学校行事でも積極的に日の丸の掲揚、君が代の斉唱を指導することが望ましいとおっしゃったというふうに出ているのですが、そのとおりでしょうか。
  50. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) まず最初に、総合的な学習の時間についてちょっと申し上げたいと思います。  私が、総合的な学習の時間で国際理解教育を行うときに国旗国歌を扱うこともあるというふうなことを申し上げました。そこをきちっと意味をもう一度申し上げますと、こういう機会に国際理解をやろうというふうなことも考えられておりますので、そういう国際理解をやりながら自分自身の国旗あるいは国歌、外国の国旗国歌ということについて学ぶことがいいと私は考えた次第でございます。  また、学習指導要領で定められております小中学校社会科小学校の音楽科、入学式や卒業式における指導だけではなく、各学科の判断によりまして、各学校判断によりまして創意をして、地理や歴史を勉強する地理・歴史科、公民科、外国語科などや総合的な学習の時間などにおきまして、国際理解教育を推進するという観点から国旗国歌を尊重する教育を行っていくことが大切であるということを申し上げた次第でございます。  また、運動会等々のことにつきましては、これはもちろん各学校の御判断でやっていただいていいと思いますが、いろいろなところで日の丸とか君が代とか、そういうふうなものについて御理解を深めていただきたいと思います。  例えば、きのう実はインターハイに私は出席してまいりましたけれども、そういうところでは国旗掲揚並びに国歌斉唱が行われていたということを御報告申し上げておきたいと思います。
  51. 石田美栄

    ○石田美栄君 運動会や学芸会などのというふうにおっしゃったのかどうか、私はこれを見てぱっとそこの記事を切り取ってきたんですが、なるほど、入学式や卒業式というのはある程度厳粛な儀式になってもいいのかなと、君が代は祝賀の歌ですから、それはそれで理解するのですが、インターハイなんかとはちょっと違って、学内の運動会だとか学芸会というのは子供たちにとって、運動会は元気のいいものがいいのでしょう、学芸会はもっと心弾む楽しい方がいいんだと思います。入学式や卒業式とはちょっと違う子供たち本位のものであるべきですから、もしそういうことをおっしゃったのだったら、そこでまた最初にぴっと気をつけをして君が代を歌わせて始めるとか、運動会もぴっとして君が代を。本当に文部省がそうお考えになると、これは先ほどからの職務命令だとかそういうことにまでいくと、これは私は賛成できません。それでこれにこだわったわけでございます。  入学式、卒業式は雅楽の雰囲気を知るということもあってもいいでしょう、厳粛に。ですけれども、運動会だとか学芸会などということは、校長先生もそういうことをされることのないようにと私は望みます。何かおっしゃっていただけるのでしたら。
  52. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 学習指導要領におきましては、特別活動の内容といたしまして、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。」と書いてございまして、学習指導要領上、全国のすべての学校で入学式、卒業式、これはやっていただきたい。「など」というところでどういう内容を踏まえるかということにつきましては、文部省は従来から、始業式や終業式、運動会、開校記念日、いろんな学校における行事、儀式がある、そういったことを前提にして各学校や地域の判断において行う、これはゆだねられているところでございますので、入学式、卒業式以外にすべてやらなければならない、あるいはやらなければ学習指導要領に違反するというようなものではございませんで、各学校長の判断によりまして、やっていただくかやっていただかないかは任されているということでございます。  ただ、学校において、始業式や終業式や運動会等においても国旗を掲揚し国歌を斉唱するというような教育活動を一たん決めましたら、その後の教員の職務の手続というのは、これは入学式や卒業式と何ら変わるところはないわけでございますので、活動自体をやるやらないということは学校判断でございますけれども、決められた教育課程の実施という点におきましては、すべての教育活動に共通に、校長や教育委員会の責任のもとにおいて行っていただくということになろうかと存じます。
  53. 石田美栄

    ○石田美栄君 法制化を機会にそういう学校行事で徹底するという意味の中に、入学式、卒業式など、学習指導要領の範囲からいえばすべてが入るんでしょうけれども、現実にはそういう方向にはならないことを私は望みます。  次に移らせていただきますが、このたびの国歌国旗の問題で、私は本当に似たようなことだなということを感じたのは、教科書での従軍慰安婦に関する記述でございます。  これは、いろんなイデオロギーの対立、大人たちの思い、子供たちは恐らく最初から君が代が嫌いだとか日の丸がどうこうと、そんなのはないはずです。しかしそこにいろんな、指導する者の立場からいけば、何かが育っていったり、あるいはそういうことと同じように、従軍慰安婦の記事がいろんなところで議論を呼んだときも、学ぶ子供たち、特に女の子、そういう子供の情緒、感情、そういうものは無視されたところでこの教科書の記事も私は問題が出てきているというふうに感じました。  それは、日本の女性の歴史の記述といったようなものは本当にもう何行かくらいなんですね。いきなり、中学校の教科書がそうです、女性を慰安婦として従軍させといったような記事が出てくる。学習する生徒の立場からすると、本当に大人たちの信条や主義、主張の違いで対立して事実を客観的に教えていくということが全くない。その上に、ちょっとあえて申し上げれば、男性社会のバイアスまでかけられた論争だったというふうに思います。  私は、こういう女性学を専門としてきておりましたから、日本の女性の歴史、女性の権利の解放の歴史といったようなもの、日本の女性には、世界から見れば、平安朝の女流文学、源氏物語だとか枕草子、こういった女流文学は世界で類のない歴史です。ですけれども、そういうのが生まれたのも、室町時代まで日本は原始社会の母系制がずれ込んでいた歴史がある。そして、そういう中に生まれたものでもあるし、徳川時代に入りますと、これは御存じのように三従七去といったような、貝原益軒の女大学に出てくる女性への道徳を説いたこれに象徴されるように、封建制の女性の立場も変わります。そういうものが明治時代までずっとずれ込んでいって、女性史から見ると、日本の男女関係は終戦のときまで一夫多妻制だったという分類に入るんです、実は。キリスト教のヨーロッパでは、これは西暦が始まってもう一婦制ですし、母系制も終わっています。  例えばそういう歴史がございまして、そして、御存じのように日本は公に認められた公娼制があり、あるいはまた日本の軍隊というのは近代化されていなかったという面もあって、そういうふうな歴史があってこういうことも起きているんですけれども。ですから私は、中学校でこういう女性を慰安婦として従軍させたというような一行だけが出てくるような教科書というのは、そういった意味で不適切だというふうにはっきり思います。  ですから、高等学校くらいで、こういった一連の女性の歴史というのはかなり違います、権利の歴史。こういうことをやっぱり教科書の中で。これまたアメリカの例を申し上げて恐縮なんでございますけれども、アメリカのハイスクールでは女性史というか女性学は、州によって多少違うかもしれませんが、必須になっているということを聞きまして、アメリカのハイスクールに行っていて、たまたま日本の男の子ですけれどもハイスクールに行っている高校生に出会ったときにちょっと聞いてみたら、ああそんなの向こうで習うの当たり前だよと言って、必須で女性史を習っているんですね。  私自身も、「われらアメリカの女たち—ドキュメント・アメリカ女性史」というあちらの、このお話をしていると、宇宙飛行士のマッコーリフさんの学校なんですけれども、高等学校で使われている女性学の教科書、私自身日本語に訳しまして大学で教えていましたときそれを教科書に使っておりました。ですから、これは男の子も習うという。そういうふうに、大学、高等学校でそういうことを習った上でこういう記事も入るべきだというふうに私は思います。  さらに恐縮なんですが、私も現在もちょっと大学の方に女性学の講義に出ております。今回は実は今週集中講義で出るはずだったんですが、国会がこういう状況なので出られません。ちょっとここでは中止にして、九月の末にというふうに思っているんです。  今は、共学ですけれども、とっているのは女性ばかりですけれども、地元の岡山大学で、男女の両方が、男性が六割、女性が四割くらいのところでこの女性学の講義をしたこともございます。そうしましたら、男子学生まで寄ってきて、ああ、僕は知らなかった、今女の子が物すごく強くなっていて、いろいろ思っていたけれども、そういう人間の本当の意味の人権、そういう歴史があって今があるんだなと初めて知ったよというふうなことを言います。  そういう意味で、ちょっと長く申し上げましたけれども、形はいろいろと整えていくんだけれども、実際教育の中で、国旗国歌についてもそうだったと思いますし、権利の歴史、日本の人口の半分強を占める女性の歴史というのはまた独特あって、そういう中での従軍慰安婦の記述であってほしいし、それがまた戦争の中で利用されていった、そういうことを学ぶことというのは本当に興味あることですし、人権人権という中、あるいは今度男女共同参画社会基本法も形としてできましたけれども、やっぱり二十一世紀を担う子供たち、男の子も女の子も、男性も女性も、できるだけ中立というか正確なことを学ぶ機会があることを私はすごく望みますので、今回、さらに従軍慰安婦の教科書の記述について似たような感想を持ちました。  最後に、私の今申し上げましたことについて文部大臣と官房長官の御所見をお伺いして、終わりたいと思います。
  54. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) 女性史に関しまして現在十分教えていないという御指摘に対しましては、私もかなり同感申し上げるところがございます。  日本で女性が活躍しているということを外国に行って申しますときに必ず、先ほど先生指摘日本の文学における女性の活躍がすばらしいものであって、これは何も平安だけではなくそれ以後もそうであったということを、現代でもそうだということをよく言うところでございます。  ただ、歴史に関しましては、何といっても教科書は限られた紙幅の中でございますので、歴史的事象をどのように教科書に取り上げるかは一義的には執筆者、発行者の判断にゆだねられているところでございまして、教科書検定におきましては、客観的な学問的成果や適切な資料等に照らして記述が適切かどうかを審査しているところでございます。  御指摘のいわゆる従軍慰安婦につきましては、高等学校の地歴科及び中学校社会科、特に歴史的分野の教科書におきまして、さきの大戦において朝鮮や台湾の人々が受けたさまざまな犠牲や苦痛について学ぶ際の歴史的事象の一つといたしまして、また、高等学校の公民科及び中学校社会科の教科書におきましては、戦後補償問題の一つとして記述がなされているところでございます。  今後とも、こういうことが教科書で十分考慮されて、しっかりした客観的な記述が行われることを望んでいる次第でございます。この教科書を主たる教材として使用しつつ、学校教師の配慮のもとに適切な指導を行っていただきたいと思っております。
  55. 野中広務

    国務大臣(野中広務君) ただいま文部大臣からお話がございましたように、教育が国家の基本をなすものでございますだけに、史実に基づいて的確に子供たちに教育され、そして、それが単に過去を徹底して糾弾して負の遺産だけを言うのではなく、我が国が長く培ってきたかけがえのない文化や歴史を継承し、そういう中から、これから二十一世紀に向けて我が国が国際国家として伸びていけるような、そういう歩みの端緒に今回の法案がなってほしいと願っておる次第であります。
  56. 石田美栄

    ○石田美栄君 終わります。
  57. 岩崎純三

    委員長岩崎純三君) 午前の質疑はこの程度にとどめ、午後二時まで休憩いたします。    午前十一時四十分休憩      ─────・─────    午後二時十分開会
  58. 岩崎純三

    委員長岩崎純三君) ただいまから国旗及び国歌に関する特別委員会を再開いたします。  委員異動について御報告いたします。  本日、直嶋正行君が委員辞任され、その補欠として佐藤雄平君が選任されました。     ─────────────
  59. 岩崎純三

    委員長岩崎純三君) 休憩前に引き続き、国旗及び国歌に関する法律案を議題とし、質疑を行います。  質疑のある方は順次御発言願います。
  60. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 先日来、参議院でも国旗国歌審議が始まりまして、それぞれの立場でいろいろ御議論がございました。  ただ、私は、この衆議院審議が始まりましてから世論は微妙に動いているのではないかというふうに思うんです。アンケート調査などでも、慎重にするべきだという人と反対と答えた人を合わせると六割を超えるという、そういう動き、微妙に世論は動いてきているというふうな気がいたします。  なぜこのように急いで法制化をされるのか、どうもよくわからない。一般の国民の皆様も、今までしないでおいて、なぜ今また急に法制化なのかということで大変戸惑っておられる。国会の中でようやく審議が始まったという感じであろうと思うんです。  新ガイドライン、周辺事態関連法とセットなのではないかと言う方々もいらっしゃいます。国民の間には、アメリカのドル、軍事力による支配の中で、このままで行くと日本はアメリカの属国となってしまうのではないか、いやもうなりつつあるのではないかという不安があります。それに対する一つのあらわれとして日の丸君が代を復活させる動きが出てきたと。突如として余りにも唐突に出してこられた。不幸な校長先生の自殺の事件があったからといっても、余りにも唐突過ぎるのではないか。  先ほどもちょっと触れましたけれども君が代法制化をめぐる意見は二分しておりまして、今の国会での成立にこだわらず議論を尽くすべきだという人は三人に二人に上り、今国会での成立を求める二三%を上回っています。法案に賛成と答えた人でも、五六%が議論を尽くすべきだとしている。朝日新聞の世論調査であります。  そういった中で、国民考え方と永田町の乖離がどんどん広がっているのではないでしょうか。急ぎ過ぎは危険だと思う人が過半数。衆議院審議段階では地方、中央の公聴会を五カ所で開いておられますけれども、官房長官は、こういった世論の微妙な動き方について、そしてまた、議論を尽くすべきだ、今の国会での成立にこだわらずにもっと議論を積み重ねるべきだという意見に対してどのようにお考えですか。
  61. 野中広務

    国務大臣(野中広務君) 御審議をお願いいたしております日の丸君が代につきましては、御答弁申し上げておりますように、長年の慣行によりまして国民の間に広く定着をしているところでございますが、成文法に根拠がないということをもって日の丸君が代我が国国旗国歌として認めないという意見が国民の一部にあることも事実でございます。また、そのことによりまして、大変不幸な事件を惹起したこともあるわけでございますので、国旗国歌慣習法として定着をしているだけでは不十分と考えまして、新しい世紀を迎える前に法制化を行うこととしたわけでございます。  また、議論を尽くすべきという御意見が過半数を占めるという御指摘でございますけれども、今回の法制化をめぐりまして、改めて我が国国旗国歌、さらには戦後の我が国の歩みが国民各層の中で議論をされてきたということは、私は非常に好ましいことであったと思うわけでございます。  最近の報道各社の世論調査では、質問項目が必ずしも同一ではないために、これらの結果から単純に委員が今おっしゃったような結論を導くことは、むしろ私は問題があると考えるわけでございます。  例えば、七月に行われました最も直近の調査でございます共同通信社とその加盟社から構成される日本世論調査会が実施をいたしました世論調査のように、日の丸君が代国旗国歌として法律に定めることに賛成とどちらかといえば賛成の者の比率が七一・三%という結果があらわれておる例を示すものでございます。  政府といたしましては、さきにも述べましたとおり、日の丸君が代国民の間に広く定着しているものと考えておりまして、今回の法制化の趣旨は国民の皆様にも御理解をいただけるものと考えておるところでございます。  いずれにいたしましても、国旗国歌法制化につきましては、最終的には国権の最高機関たるこの国会における御論議によって決していただくべき事柄であると考えております。私といたしましては、慎重御審議の上、今国会で成立をぜひお願いいたしたい次第でございます。
  62. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 新ガイドライン、通信傍受法、住民基本台帳法、国旗国歌法と続いているこの国会審議でありますけれども国民主権、民主主義を掲げて出発した戦後のいわゆるデモクラシーといいますか民主主義、私たちはこの五十四年の間一体何を勉強し、そして何を苦労してきたのだろうかと言っている人たちがたくさんおられます。このことについて官房長官の御見解をお伺いしたいと思います。
  63. 野中広務

    国務大臣(野中広務君) 私どもは一九四五年にあの戦争に敗れまして、過去の戦争の歴史を反省し、そして償い、その中から新しい国づくりを始めようとしたと思うわけでございます。けれども、一方において、過去の我が国のかけがえのない、もっともっと長い長い歴史や文化を否定し、そしてそういう中から、すべてを悪として否定するところから新しい我が国民主主義のスタートを求めようとした面がなかったかと今振り返って思うわけでございます。  そういう意味におきまして、謙虚なあの敗戦後の我が国の国家のありようを考える大切なときに、私は、むしろ朝鮮戦争が起こってしまいまして、経済的にも他国の不幸で我が国は経済復興をなすことになり、そして戦争に対する反省や点検も十分しないまま別な面で復権をしていった嫌いがあるのではなかろうか、そういうときに大切なものを取り残してきたのではなかろうかなと今思うことが多うございます。  ただ、竹村委員は今、今国会におきまして、それぞれガイドラインやあるいは組織犯罪防止法、住民基本台帳法等をお挙げになりましたけれども、そのほか行政改革、政治改革、特に国会の改革などは明治の帝国議会以来の改革でございまして、まさに大きな歴史的改革をやり遂げたわけでございまして、橋本内閣以来の懸案事項であります、むしろまたそれ以前の村山内閣に端を発する改革でございましたけれども、ようやくここに来て、おかげさまで各党各会派の御理解を得て、そしてここに懸案となった法案が成立をいたし、あるいは成立をいたそうとしておりますことは、まことに意義深いことであろうと思うわけでございます。  国旗国歌法案がそれに関連して出たように御指摘がございましたし、また今や、かく法案ができることがアメリカの属国であるかのごとき表現の中からこの法案が出たというのは、ある意味において全く荒唐無稽なことでございまして、我が国がみずからの国歌を、そしてみずからの国旗国民が持つことを法定化するということは、世紀末における我が国の非常に新しいスタートになるのではないかとみずから私は考えておる次第でございます。
  64. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 全部国民が同じことを考えているわけではないのでありまして、そういうふうに思って非常に危険視をしている人々もおりますよということを申し上げているんですが、荒唐無稽というのは大変失礼な言い方だと思います。私も含めてそういう危惧を持っている人たちがたくさんおりますよということを言っているのでありまして、荒唐無稽という言葉は撤回していただきたいと思います。
  65. 野中広務

    国務大臣(野中広務君) 私の表現が悪ければお取り消しをさせていただきます。  ただ、私は、アメリカの属国に日本がなったんじゃないか、そういう中から国旗国歌が出たんじゃないか、こうおっしゃるわけでございますので、そのことについては整合性がないということを申し上げた次第でございます。  荒唐無稽が適切でないということであれば取り消させていただきます。
  66. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 私は、そういう短絡的な言い方をした覚えはありません。もしそう聞こえたらいけないので、私も気をつけて発言しようと思いますけれども、そういう一連の動きについて、一体戦後私たちは何をしてきたのだろうかと言っている大勢の学者たちもおりますし、そして今の動きを非常に危険視している人々もおりますということを申し上げているのでございます。  それでは、少し変えまして、こういうことがありました。このことについてどのように私どもは考えるか。日の丸君が代を推進していかれる方たちは、自国の国旗国歌をきちんと尊重して、そして他国の、外国の国旗国歌もちゃんと尊敬しよう、それが国際化であるというふうによくおっしゃる、この委員会の中でもかなりそういうふうに聞こえておりますけれども。  これは九二年の福岡のことですが、一つの例として申し上げたいと思います。「在日韓国人少年の卒業・入学 親の願い学校を動かす」という記事であります。私は、これがすばらしいとか、こうあるべきだとか、こうするべきだとか言っているのではなくて、一つの例として申し上げております。  少年は、六年間、本名の韓国名で通学。学校は、卒業式で韓国の国旗、太極旗、テグッキと言うんですね、その太極旗を日の丸とともに掲げて祝福をした。これはなかなか大変なことだったと思います。担任の先生の熱意、それから校長先生の決断、そして学校の中のみんなの理解、学びが随分あったんだろうと思います。そして、この少年が卒業して中学に行くというときに、中学へは日本の名前で行きたいと両親に言ったそうです。そして、五年生の担任であった先生がこの言葉にショックを受けられました。私たちは差別して教育をした覚えはないし、これはやっぱりきちんとこの少年を受け入れるやり方が足りなかったのではないかと思われたのかどうかわかりませんが、卒業の日には体育館の壇上正面に日の丸とともに韓国旗が飾られ、玄関にはハングルと日本語でおめでとうと書いてあったということで、式後、来賓からは日本学校でそこまでする必要があるのかという声が出たり、いろいろな御意見があったようです。  私は、国際化国際化とよく言われる中で、国際化というのはどういうことなんだろうかと。飛行機に自由に乗れて外国へもどんどん行けるようになった、英語をしゃべれる人が随分多くなってきたとか外国の友人がたくさんいるとか、国際化というのはどういうことなんだろうかというふうに時々考えます。私も大分前にこの記事を見て、よくここまでできたなという思いと同時に、この学校にはほかの国の人はいなかったのかなと思ったんですね。この新聞の記事の中にも、手放しで喜べぬ、複雑な思いだ、最低限のこれは国際感覚であると。  今、いろんな国の人たちが日本に来て働いていたり、子供ができたり子供を連れてこられたりしておられます。行政筋がこうやって日の丸君が代を、昨日から文部大臣もそれから御手洗さんもお答えになっておりますけれども、この法案が通りますとというふうに言っておられますが、何カ国かの人がその学校にいれば何カ国かの国旗が出せるのだろうか、それとも、日本に住んでいるんだから、何よりも日本国旗が尊敬されねばならない、お前たちのところの国旗は物の数ではないというふうな感じになるのだろうか。こういうことについて文部大臣、どのようにお考えになりますか。
  67. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) 私たち、国際会議をやるときにはその参加者の旗を全部出すことがよく行われます。同じようなことが当然あってしかるべきでしょう。そこの校長先生たちが、例えば韓国の人、アメリカの人、ドイツ人あるいはタイ、そういう人々がそこにいて卒業するようなことがあれば、それをお祝いすることは私は全くおかしいことではない、むしろ勧めていいことだと思っております。
  68. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 これは悲しむべきことではないに違いないんですね。とっても喜ばしいことなんですけれども、そういうことが果たして現場でこの法律制定された後にできるようになるのかどうか。(「関係ないよ」と呼ぶ者あり)ごめんなさい、まだ発言中でございます。それとも、そういった必要はないと。あくまでも学校長の判断なのでしょうけれども、こういうことで私が何を言いたいかといいますと、この委員会でもたびたび出ておりますけれども、なぜ卒業式、入学式に日の丸、つまり国家というものが意識されなければならないのでしょうか。それもあわせてお答えください。
  69. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 卒業式、入学式に国旗を掲揚し、国歌を斉唱すると学習指導要領に書いてあるわけでございまして、国旗日の丸国歌君が代を掲揚し斉唱する以外に各学校においてどのような形で子供たちの卒業、入学を祝うかというのは、各学校において十分御議論をいただき、地域の方々や父母の方々に御了解をいただいた上でそれが祝われる形になっていく、これは各学校あるいは設置者である教育委員会の判断にゆだねられているところでございます。  特に、入学式、卒業式におきましてこのように国旗を掲揚し、国歌を斉唱すると学習指導要領規定をしておりますのは、社会科や音楽の授業を通じまして国旗国歌に対します正しい理解我が国国旗国歌のみならず、諸外国の国旗国歌に対しての正しい理解と、国歌君が代をきちっと正しく歌えるように、こういう指導と相まちまして、学校におきます一年に一度あるいは二度、そういった節目におきまして、子供たちが実際の行動場面におきまして国旗に対しあるいは国歌に対しきちっとした態度がとれる、あるいはきちっと国歌が歌える、そういった実際に教育活動として試される非常に有意義な場でございますので、一年間の中で最低限入学式と卒業式におきましてこのような義務づけを行って、各学校における教育課程の実施をすべての学校にお願いしているということでございます。
  70. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 今いみじくもおっしゃいましたけれども、この法制化によって国旗国歌の扱いといいますか、国旗観、国歌観というものが明らかに違ってくるということですね。
  71. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 文部大臣からも再三お答えをしておりますように、今回の法制化によりまして、学習指導要領におきます国旗国歌取り扱いというものを変えるものではないと私ども理解をしているところでございますので、今申し上げましたような指導のあり方、それは今までも文部省としては指導を行ってきたところでございますし、法制化後におきましてもその趣旨で指導を行うということにつきまして今後とも変わりはないということで御理解いただきたいと思います。
  72. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 教育現場でどういうふうになっていくのかということはもう少し後で議論をしたいというふうに思います。  国際化という問題で、例えばこれもよくこの委員会でも聞かれましたし、それからよく一般的に言われることですけれども、アメリカでは学校に星条旗をいつも掲揚していて、生徒たちは星条旗に対する誓いの言葉を暗唱して毎日唱えさせられているということで、一人の日本に在住のアメリカの学者がこんなことを言っていらっしゃいます。  確かに、アメリカではほとんどすべての教室に星条旗が飾ってあって、私も少なくとも一日一回星条旗に対する誓いを唱えた。部活があれば部活のときにも、スポーツの試合があればその前にも、それから学校の集会とかには必ず星条旗に誓いを立てさせられたということを言っておられるんです。  けれども、だからといって、アメリカの若者たちが平和を愛し、星条旗に誓いを立てたごとく、本当の世界の平和のために戦争を望まず平和を望んでいるのかというと、決してそうではない。アメリカは戦争に行く若者たちをちゃんと育ててきたわけです。朝鮮戦争に行く、ベトナム戦争に行く、パナマ侵攻に向かう、グレナダ侵攻に向かう、そして湾岸戦争にも出かけていく。星条旗に何を誓うかということは別といたしまして、やはり国旗国歌というものに対する思い、これは、無理やり強制的に何かをやらされても、それがその力になっていくということではないのかもしれないというふうに思うのです。国旗とか国歌とかを学校教育の中に中心的に置かないということ、これが国家の原理を教育の中心にしないということなのではないか、私はそういうふうに思うんです。  アメリカの話でちょっとややこしくなりましたけれども、そういう形で私どもは、何か昔の体制を引きずっているかのような日の丸君が代に対しては、戦中、日の丸君が代を立てて日本が何をしたのかというようなことを、ワイツゼッカー大統領の演説ではありませんが、過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となるということのとおり、やはりきちんと子供たちにも知ってもらわなければいけない。そこのところをいいかげんにして、すとんと都合よく飛び越えてしまって、日の丸は美しいから、君が代は荘厳だから、そういうことを言って真の国際人と言えるのだろうか、どうなのだろうか。官房長官、どうお思いになられますか。
  73. 野中広務

    国務大臣(野中広務君) 私も、過去の歴史を直視しなければならないし、またそういう中から、新しい憲法のもと、この五十四年間平和で、今日の近代国家を構築することのできたことを厳粛に考えていかなくてはならないと存じておるところでございます。
  74. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 国内に七十万人住んでおられる在日韓国・朝鮮の方々、この方たちがなぜ今現在日本に住んでいなければならないのかということは、もう十分おわかりのとおりだと思います。日本が侵略をしていったアジアの国の人々、こういった方々が日の丸君が代に侵略戦争の足音を聞かれるというのは、これは当然のことであろうと思います。また、沖縄の人々は、日の丸の旗のもとに戦った日本兵士、つまり皇軍によって殺された歴史を持っておられるわけです。これも私たちはよく知っていることであります。  これらの方たちは数で言うとどれぐらいになりますでしょうか。数千万人を下らないのではないかと思います。これらの人々の気持ちを、もちろん野中官房長官はそういったことがよくおわかりの方でいらっしゃると私は見ておりますし、この後また質問させていただきますことも野中さんが発言をされていることに非常に関係をしてまいりますので、ここでちょっと御感想を聞かせていただきたいと思います。
  75. 野中広務

    国務大臣(野中広務君) 過去の戦争の歴史にはいろんな背景があったと思います。私どもが今それを一つずつ検証して、そしてそれに評価を加えるべき私は知識も、また材料も持ち合わせないわけでございます。  ただ、そういう中において、現に中国に渡り、あるいはその他アジア各国に我が国から軍隊が出ていって、そしてその地域において戦争が行われ、それぞれ両方の人たちが犠牲になり、またその中において中国を初めとする東南アジアの国々の人たちが大きな犠牲を強いられたという現実は覆い隠すことのできない事実であろうと思うわけでございます。  また、三十六年間にわたる植民地支配によりまして、朝鮮半島から連行された多くの方々が、当時、石炭やマンガン鋼の厳しい労働条件のところで働かされ、あるいは劣悪な条件での土木工事に従事されておられた状況は私も目の当たりに見て知っております。そういう方々が今日なお二世、三世となって、一世の方もいらっしゃいますけれども、在日でいらっしゃる現実は我々も厳しくこれをとらまえていかなくてはならないと思っておるわけでございますし、また、この方々の中にまだ傷のいえておらない問題が残されておることも十分承知をしておるわけであります。  また、お触れになりましたように、沖縄は我が国唯一の地上戦が行われまして、軍隊だけでなく沖縄県民も十数万人大きな犠牲になられ、また戦後二十七年間米国の支配下に、占領下に置かれました。その後我が国に復帰いたしましたけれども、なお産業はまだまだ内地と肩を並べる状況にも至っておりませんし、雇用の状況もまことに厳しいわけでございます。  しかし、政府といたしましては、復帰以来熱心に沖縄振興のために努力をいたしてまいりまして、徐々に沖縄の自立への道はできつつあるわけでございます。  一方しかし、日本の米軍基地の七五%を沖縄県に担っておっていただくという現実があるわけでございまして、これまた橋本前総理のときにクリントン大統領にお願いをし、そして普天間の飛行場の返還を求め、またこれがクリントン大統領の理解されるところとなって、代替ヘリポートをもって、今沖縄県の稲嶺知事を中心といたしまして、SACOの合意に基づく米軍の基地の整理縮小のために、何とかして沖縄県民の重圧を少しでも和らげたいと努力をしておるところでございます。  また、非常に困難な条件が随分重なっておりますけれども、明年七月開催されますサミットにつきましては、日本で初めて地方で開催をするわけでございますけれども、このサミットを、沖縄県で首脳会議を開催すると小渕総理が決断をされまして、それぞれ多くの条件を克服しながらサミットが円滑にできるように、それがまた沖縄県の振興に結びつくように、そして過去の傷を少しでもいやすことができればと、今政府を挙げて取り組んでおるところでございまして、私どもはその一つ一つを振り返りながら過去を検証し、そういう厳粛な反省の上に立ち、なおそれを補い償う、そういう努力を怠ってはならないと存じておるところでございます。
  76. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 今、数千万人を下らない方たちがいらっしゃるのではないかと申し上げたんですが、日の丸から受けるショックのなかなか消し去れない方たちですね。そこで私は、アジアへの情報発信が必要なのではないか、もしこれを法制化されるのであればやはり何らかの情報発信が必要ではないかというふうに思うんです。  そこで、野中官房長官がずっと積極的な姿勢を見せておられます。平成十一年三月九日の衆議院の内閣委員会において、サンフランシスコ条約によって、みずからの意思に基づかずに日本国民たる権利を剥奪されたこの旧軍人軍属の在日の方たち、帝国臣民として日本軍に徴用された在日の韓国・朝鮮の方たち、そして手や足を負傷され、あるいは片目をとられ、そういう形で帰ってこられて、しかし日本人に非常に手厚く支給される、これはもうごく当たり前のことですけれども、戦傷病者戦没者遺族等援護法、この障害年金が支給されないという不公平をどう考えればいいのでしょうか。これは国連の人権委員会でも当然何回も指摘をされております。一九九九年という一九〇〇年代の最後の年に当たって、果たしてこういう問題を積み残しでいいのかどうかということを私ども委員会でも何回も、あるいは予算委員会などでも野中官房長官が発言していらっしゃることをお聞きいたしました。  三月十六日の参議院の予算委員会においては、「現在、官房副長官のもとに外政審議室等におきまして、それぞれ韓国の対応の問題及び国内においてこれを措置する場合のさまざまな波及的な問題等を含めて検討をさせておるところでございます。」と述べていらっしゃいます。そして、これは援護法ですから当然厚生省が管轄なんですが、厚生省も、宮下厚生大臣が国民福祉委員会において、「外政審議室の検討にも参加をさせていただいて、どういう結論が出るかはともかくとして、この問題に取り組みはさせていただくつもりです。」というふうに述べておられます。  ところが、ことしの六月二十一日、初の和解協議が決裂をしたんですね。これは、姜富中さん、七十九歳。滋賀県に住んでおられる在日の韓国人の方が、日本国籍がないのを理由にこの戦傷病者戦没者遺族等援護法に基づく障害年金を支給しないのは違憲として、三回ですか、年金請求を却下している国の処分取り消しなどを求めた訴訟の控訴審で、この野中さんの発言もあって、そして予算委員会での発言もあり、和解協議が今度は成立をするのではないかと非常に期待をしておりましたが、大阪高裁で国側が和解を拒否、協議は即日打ち切られた。  これはもちろん司法の問題でありますから、三権分立の中で非常にお答えしにくいのはわかっておりますけれども、厚生省もおいでいただいていると思いますが、ここまで来ていて、そして野中発言があって、何回もマスコミにも取り上げられ、私たちも随分期待をしていた。今生き残っておられて、サンフランシスコ平和条約によって除外された方たちというのは本当に限られている。御家族、御遺族みんな入れても百二十五人ですか、御当人というか本人ということになりますと、私どもが把握しておりますだけで、もう先日もお一人亡くなられましたので五人か六人しかいらっしゃらない。こういう中で、なぜ和解を拒否したのでしょうか。官房長官にももしお答えいただければ幸いです。
  77. 炭谷茂

    政府委員(炭谷茂君) 在日韓国人の元軍人軍属の方々の問題につきましては、援護法など現行制度の枠組みを超える問題でございます。昭和四十年の日韓請求権・経済協力協定により、法的には完全かつ最終的に解決済みとなっているところでございます。  また、先生ただいま御指摘の訴訟につきましては、在日韓国人の元軍人軍属の方が原告でございますが、援護法に基づく障害年金の支給を求めていらっしゃる行政事件訴訟でございます。国側としては、原告の請求を却下した処分について適法であるという立場をとっている以上、和解にはなじまないものであると考えております。  このような理由から本件の和解には応じないこととしたわけでございまして、既に判決期日も十月十五日に定められておりますので、その判決を待ちたいと考えているわけでございます。
  78. 野中広務

    国務大臣(野中広務君) 今、政府委員からも答弁いたしましたように、さきの戦争によります賠償及び財産、さらにその請求権の問題につきましては、答弁申し上げておりますように、サンフランシスコ平和条約あるいは二国間の平和条約及びその他関連する条約などに従いまして、一応誠実に対応をしてきたところでございます。これらの条約等の当事者国との間では既に法的に解決済みであることは委員もおっしゃっておるとおりでございます。  ただ、委員から御指摘がございますように、在日韓国人の元軍人軍属等の問題は、現在残された問題で、この人たちが置かれておられる立場を考えますときに、現在何とかしてこの二十世紀末に解決すべき重大な課題の一つである、また司法になじまない、人道的な、我々政治が決断をするべき問題だと考えまして、ただいま内閣外政審議室におきまして、先ほど御指摘がございましたように、従来の援護法を初めとする法制・制度の問題点、あるいは戦後処理の枠組みの関係、韓国における処理の状況等、それぞれ関係部門にわたりまして調査、検討を急いでやらせておるところでございます。
  79. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 いつごろその結果は国会に御報告がございますでしょうか。
  80. 野中広務

    国務大臣(野中広務君) 可能な限り早く調査結果を得て、そして総理を初め関係政府内の意思を統一したいと考えておるところでございます。
  81. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 可能な限りということで、いつごろになるのか大変含みのあるお言葉なのですけれども、そういった経過があり、そしてそういう歴史認識を持たれている野中官房長官のお言葉に私は敬意を払いますとともに、非常に期待をしているところでございます。  ところで、これは七月九日の朝日新聞ですが、細川元首相が「論壇」に投稿をしておられました。皆様もごらんになったと思いますけれども、このような言葉がございます。  今回の法制化背景には、二十世紀のことは二十世紀中に片をつけておきたいとする政府首脳の強い意欲があったと伝えられる。しかし片をつけるとすれば、それは戦争の反省とアジア諸国民との和解であり、何事もなかったかのように日の丸君が代を二十一世紀に伝えることではない。 中略ですが、君が代も、   文言には手を触れず、変幻自在の解釈で事態を糊塗しようとする政府のやり方は、憲法九条でもおなじみだ。憲法にしても国歌にしても、つぎはぎの解釈で言い逃れようとする態度は、諸外国の不信を買うだろう。根本の問題は、政府が過去と対決しようとしていないことである。 と、かなりずばりと言っておられます。  私が先ほどちょっと触れました、真の国際化とは何なのだろうか。私どもがずっと言い続けてまいりましたとおり、あったことはあったこととしてきちんとそれを踏まえ、そしてしかるべき後に新しい友情をつくり上げていくということでないと真の国際化ということはあり得ないだろう、特にアジアの国々に対しては。そう思うわけですけれども、この細川元首相の言葉についてどのように思われますでしょうか。
  82. 野中広務

    国務大臣(野中広務君) 私も、あれを見せていただきまして、細川元総理がおっしゃっておるすべてではありませんが、大筋の流れについて同様の認識を持ちました。ならば、なぜ細川さんはみずから総理のときにこの問題に手をつけてくださらなかったんだろうと思う残念さを私は感じた次第であります。
  83. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 それはみんな同感するところでございます。ただ、そう感じるからといって、それはそんなに簡単にすぐ手をつけてぱっとできるということではありません。ですから、やはり国旗国歌特別委員会で今議論がされておりますけれども、性急にこういう形で、細川さんも言っているとおり、延長が決まってからまことに唐突に出されてきて、そして急にぱっと法制化しようという形でのやり方というのは、国民の信頼は得られないのではないでしょうかと申し上げているわけでございます。  そこで、教育分野への影響について少しお尋ねをしたいというふうに思います。  先日の参議院本会議で私どもの広中和歌子議員が、「国旗国歌法制化による立法効果、強制力についてお伺いいたします。」と、その代表質問の終わりの方で触れておられます。  教育現場では長い間日の丸君が代をめぐり多くの混乱があった。ことし二月の広島で起きた不幸な事件が契機となって、政府は自自公路線で強硬に日の丸君が代法制化しようとしていると。官房長官は、少なくとも教育公務員として公務員法に基づいて職責を得る人は、我が国法律に忠実であるべきだと考えておりますと述べておられます。「本法案が根拠となって、学習指導要領国旗掲揚と国歌斉唱の指導に一層の強制力を持たせることのないよう、」という質問がありまして、そしてそれに対する答弁を求めたわけでございます。結局は強制になるのではないかというのがマスコミの論説あるいは社説等でございます。  例えば、秋田市では先月、中学生たちの体育大会の開会式で市体育協会の会長が、国旗掲揚、国歌斉唱のとき座っていた人は出ていただきたいと発言をしたり、君が代の伴奏ができなかった先生は処分を受けたり、広島市では秋葉忠利市長が就任式で登降壇の際、日の丸に一礼をしなかったことが三月の市議会で非礼だと問題になったり、さまざまなことが、日の丸君が代法制化が社会的強制の空気を生んでいく。学校ばかりか、社会全体に対してこういった影響が出ていくのではないかというふうに思います。  私どもが一番やっぱり心配しますのは入学式、卒業式での問題点でありますけれども、現在ほとんどの学校現場で日の丸を掲揚し、君が代を斉唱することが浸透しているわけでありますが、このことについて二つ問題点があると思います。  第一に、日本国憲法第十九条に定められている思想及び良心の自由に抵触することがどうしても否定し切れないということ。第二に、児童生徒には学校から強制されているという感情を植えつける傾向が大きいということであります。  今、アンケート調査などで法制化に反対と回答を寄せている人の割合は二十歳代で最大となっていますけれども、この年代は、この国のほとんどの学校現場の入学式、卒業式において日の丸を掲揚し、君が代を斉唱することが浸透した時期に義務教育を受けた人たちであります。  入学式、卒業式における国旗掲揚、国歌斉唱が、逆に国旗国歌に対する反発を招いているのではないでしょうか。このような国旗国歌意義についての指導を阻害してしまう傾向にならないでしょうか。文部大臣、どうお考えになりますか。
  84. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) 私はたびたび同じことを申し上げておりますけれども学習指導要領は変えない、そういうふうに申し上げているわけでありまして、しかし予言と実際はどうなるか、これは私も自然科学者といたしましてさまざま予言をしたことがありますけれども、それはわからない。  しかしながら、我々は努力するということを申し上げているわけでありまして、指導要領を変えずに現在のままで、ただ説得するというようなことは、これはもちろん今までと同じようにさせていただくことがありますが、内心の自由まで立ち入らずにちゃんとやっていきたいと申し上げている次第であります。
  85. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 何度も私もお聞きいたしました。しかし、大事なことですから。  今も、この法案が成立しても学習指導要領による学校での日の丸君が代指導を強めることはないとおっしゃっていらっしゃいますが、各都道府県の教育委員会とか各市町村の教育委員会とかがこれを後ろ盾に、法制化されたんだからということで、独自の判断学校現場に対して非常に強い強制力、圧力を強めるというおそれもございますね。これまでの現状を見ていると否定はできませんね、いかがですか。
  86. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 小中高等学校におきます学校教育は、基本的にはそれぞれの地方自治体の自治事務ということで、学校の管理運営、教育が行われる。  ただし、その際に、文部大臣の定める全国的な基準としての学習指導要領に従ってやっていただくということでございますので、当然、法制化前でありましょうと法制化後でありましょうと、各都道府県の教育委員会あるいは市町村の教育委員会は、学校を管理する学校設置者である地方教育行政機関といたしまして、学習指導要領に従って適切な国旗国歌取り扱いが各学校でなされるということに対する責務を有するものでございますので、法制化の前後を問わず、きちっとした指導が行われていない学校があり、市町村があり、都道府県があるとすれば、それは従前どおり、あるいは従前にも増してきちっとした指導をしていただくということになろうかと存じます。(発言する者あり)
  87. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 発言中ですから静かにしてください。  今、御手洗さんがお答えになられましたけれども、七月三十日のこの委員会で御手洗さんは、法制化されればさらに指導の徹底が図られるようにしたいと答弁をされました。これは明らかに、石垣一夫衆議院議員質問主意書に対する答弁書、国旗の掲揚、国歌の斉唱に関し義務づけるようなことは考えていない、現行の運用に変更が生じることはないという旨に真っ向から対立していませんでしょうか。どうでしょうか。
  88. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 学習指導要領に基づいて、各学校におきまして、音楽の授業あるいは社会科授業あるいは特別活動におきまして国旗国歌の適切な取り扱いがなされるということは、現行の学習指導要領におきまして当然のことでございます。ただ、国会で成文法として国旗国歌に関する法律が成立しました暁には、やはりそれはそれなりに学校現場におきまして国旗国歌の正しい理解を促進するという教育的意義は私はあろうかと存じます。  そういったものを踏まえまして、各都道府県教育委員会あるいは市町村教育委員会におかれましても、より正しい理解を進めるための努力をしていく、文部省としてもそれを支援していくということについては、私どもとしては従来どおり進めさせていただきたいと思っているところでございます。
  89. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 私が言っているのは、答弁にずれがありますねと言っているんです。  確かに、石垣一夫さんの質問主意書答弁をお書きになったときには審議が始まっていたのかな、まだでしたか、(「まだだ」と呼ぶ者あり)まだですね。始まっていなかったときかもしれませんけれども、これは政府見解が明らかに食い違っていませんかと言っているんです。違いますか。
  90. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 基本的に異なっていないと思っております。
  91. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 何ですか。聞こえませんでした。
  92. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 文部省指導、あるいは私が三十日に答弁いたしました答弁の趣旨は、政府見解に異なっているものとは考えておりません。
  93. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 入学式、卒業式における国旗掲揚、国歌斉唱に関する都道府県教育委員会への対応について、法制化されればさらに指導の徹底が図られるようにしたいという答弁は、六月十一日における政府答弁書、現行の運用に変更が生じることはないという旨に矛盾しておりませんか。
  94. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 学習指導要領に基づきまして各学校で、例えば卒業式、入学式におきます国旗掲揚、国歌斉唱が行われるということが建前で、私どもはそれについて今までも随分努力をしてまいりました。  したがいまして、行われていない学校がある、あるいはなかなか行いづらい都道府県が一部に存在する、そういうことについてこれまで、そういう現状を認めるという趣旨では今回の政府答弁書もないと思っているわけでございまして、政府答弁書は、そういったことが実際に行われていない学校を現状のまま追認している、そういったところまで従前と変わらないというのか、あるいはそういった学校や都道府県に対しましては、文部省としても教育委員会としてもそういうふうな指導をしてきたわけでございますので、それは法律が成立した後も変わらないという趣旨でございます。(発言する者あり)
  95. 岩崎純三

    委員長岩崎純三君) 御静粛に願います。
  96. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 私が聞いているんですから、黙っていてください。  あなたの答えはわかりません。私が聞いているのは、これまでと変わるんですねと聞いているんです。法制化されればさらに指導の徹底が図られるようにしたい、文部大臣は何回も変わらないと答えていらっしゃる。でも、変わるのですねと聞いているんですよ。変わるんですね。
  97. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 「さらに」という言葉をどのように受けとめていただくかという国語の問題もあろうかと思いますけれども、引き続きという趣旨でございます。
  98. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 「さらに」ということは新たにということでしょう。なおその上に積んで徹底が図られるようにしたいということでしょう。いいかげんな答えをしちゃだめですよ。
  99. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) 私は変わっていないと思います。  ただ、一つはっきりすることは、今まで君が代というものが国歌であるか、国旗日の丸であるかというふうなことに疑問を持っておられる方がおられた、その点に関してははっきりするということは申し上げられると思います。こういう点で、今まではっきりしないと言っていた人に対して、これははっきりするよ、はっきりこういうふうなことですよというふうなお話をすることがしやすくなると思います。
  100. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 何回も何が変わるのだと言われ、この審議の中で文部大臣お答えになりました。何が変わっていくんですか、法制化したらどうなるのですかと衆議院でもずっと聞かれていらっしゃいます。私も議事録を読みました。でも、有馬文部大臣は何も変わりませんとおっしゃっていますね、何回も。でも、さらにこれを強化したい、徹底が図られるようにしたいというのは、変わるのですねと私は聞いているんです。(発言する者あり)
  101. 岩崎純三

    委員長岩崎純三君) 御静粛に願います。
  102. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) もう一度私から明確に申し上げますと、文部省としては、学習指導要領に基づく学校におけるこれまでの国旗国歌指導に関する取り扱いを変えるものではないと考えております。今後とも学校における指導の充実に努めてまいりたい、こういうことは繰り返しお返事申し上げているし、ただ、そのときにもう一つ申し上げていることは、今回の法案国旗国歌の根拠について慣習であるものを成文法としてより明確に位置づけるものである、こういうことも繰り返し申し上げております。  したがいまして、学校教育において国旗国歌に対する正しい理解をさらに促進するものと考えているわけでありまして、そういう意味意義のあることと受けとめている次第でございます。
  103. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 何回も同じことを言っても同じ答えが返ってくるだけであれば仕方がありませんが、私は野中さんに一つ確認的に質問をさせていただきたいと思います。  将来にわたってこの法律に尊重規定や義務規定を加える意図がない旨、確認をさせてください。そのようなことはありませんですね。
  104. 野中広務

    国務大臣(野中広務君) この法律案が今国会におきまして可決、決定をさせていただいて成立をいたしましたならば、現内閣において、この国旗国歌について尊重義務を与えたり、あるいはそういう処置を織り込むようなことはございません。
  105. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 少なくとも教育公務員として公務員法に基づいて職責を得る人は我が国法律に忠実であるべきだという御答弁、これは教職員指導の強化を意味するものではない、そして、とりわけ子供たちに対して思想、信教の自由や内心の自由を強制するものではないと私は確認させていただきたいと思いますが、それでよろしゅうございますでしょうか。  もう一度御答弁をお願いいたします。
  106. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) おっしゃるとおりであります。それで結構です。  それからもう一つ、ちょっとつけ加えさせていただきたいんですが、私も先生と同じ考えでありまして、戦前戦後の客観的な事実については子供たちにしっかり教えなきゃいけないと思っております。  こういう意味で、歴史教育というもの、特に近現代史の教育が極めて大切だということは認識しております。そういうことを正しく日本児童生徒に教えること、こういうこともやはり国際理解を深める上で重要なことだと思っておりますので、このことをつけ加えさせていただきます。
  107. 竹村泰子

    ○竹村泰子君 これはことし八月号の「世界」にも載っておりますけれども、この法案国会に提出されましてから本当に一週間ぐらいの間に、東大の学者たちが中心になられまして、インターネットを利用してわっと学者たちの、決して政治学とかそういう関係の学者ではない、哲学とかあるいは数学とか、これまで余りそういったことに発言をしてこなかった学者たちあるいは大学院生、学生たち、そういった人たちが「「日の丸君が代法制化」に反対する共同声明」というのを一週間のうちにわっと署名を集められまして共同声明が出ております。  その内容を御紹介するには時間が足りませんので、きょうはそれはやめますけれども、「一度も法制化されたことのなかった国旗国歌を、法制化によって正当化しようとするこの動きが、主として学校教育の場を念頭において進められていること」を非常に懸念しているということが書かれております。  それから、「「日の丸」・「君が代」とは何であったのかという過去を直視する討議さえ行われず、日本の近代国会の成立が引き起こしてきた国の内外の出来事についての十分な歴史認識と反省を行わず、まさにそうした議論を終息させるために、無言のままに国家のシンボルを法制化するこのようなやり方は、この国の未来にとって重大な禍根を残すのではないかと私たちは危惧します。」と言っておられます。私もまさにそのとおりだと思うんです。  ですから、先ほども申し上げましたけれども、今国会で何を急いでそんなに法制化を拙速にするのか、もっと国民の皆さんと一緒にいろんな意見を闘わせながら議論して、次の通常国会とかあるいは臨時国会とか、そういう形で議論を続けていくことができないものなのでしょうか。  時間の関係がございますので、野中官房長官お答えをいただきまして、私の質問を終わります。
  108. 野中広務

    国務大臣(野中広務君) 政府といたしましては、法案国会に提出いたしておりますので、どうぞ国会におかれまして慎重御審議の上、可決いただくことを期待いたしております。
  109. 山本保

    山本保君 公明党の山本保です。    〔委員長退席、理事鴻池祥肇君着席〕  最初に、通告では官房長官に何回も同じようなことをまとめてまた書いておきましたけれども、時間のこともありますので、時間があればということにしまして一つだけ。きょうは最初に私の尊敬します馳委員の方から非常にきちんとした御質問があり、私もそれに関連してお聞きしたかったことがありますので、まず君が代のことについて少しお聞きしたいんです。  それで、やはり私も文学作品である君が代というものが、法律に書いてあるとはいえその解釈をする、その場合の解釈というのはどうなんでしょうか。一般の法律政府解釈というものと全く同じものなんでしょうか。それとも、そうではないというものなんでしょうか。ちょっとここをお聞きしたいのでございます。
  110. 竹島一彦

    政府委員竹島一彦君) 君が代歌詞解釈につきましては通常の法律についての政府有権解釈というものとは違う異質なものではないか、そういう面もあると思っております。  今回、このようなことで君が代の「君」はだれを指すのか、君が代歌詞意味は何かということについて政府見解を申し上げておりますのは、石垣一夫議員からの政府に対する質問主意書というものがございまして、それに対して閣議を経てお返事を申し上げたということで、まず政府見解がそういう形で示されました。  それから法制化に当たりまして、政府提案をさせていただいておりますので、その中に君が代歌詞法律としてうたわせていただいておりますので、その歌詞意味について、当然のことながら政府としては提案者の立場からその意味について御説明申し上げるべきであるということで、これも政府見解、いずれも石垣一夫議員に対する答弁書と同じでございますけれども用意させていただいたということでございます。  政府としては、現行の憲法国旗及び国歌というのは、るる申し上げていますとおり国のシンボルであり、国を代表する歌でございますので、その国の基本的なありようと当然かかわるわけでございます。そういう意味からすると、憲法第一条というものと離れて考えるわけにはいかないわけでございまして、日本国憲法との整合性について政府はるる申し上げていますような見解を持っておるということでございます。  これにつきましてこのように御議論いただいておりまして、そういう政府見解がよろしいということになりますと、先ほど文部大臣の御答弁にもございましたように、教育の現場におきましても、またその他の面におきましても、特に日本国憲法との関係では主権在民との関係も含めて君が代日本国歌としてふさわしいという、考え方としては整理がされるんではないか、そのように御理解をいただくことを期待しておる、こういうことでございます。  しかしながら、最終的にはそれ以上の解釈なり理解の仕方は国民それぞれの方々の内心にかかわる問題である、こういうふうに考えております。
  111. 山本保

    山本保君 そうしますと、今なるほどと思ったんですが、つまり問題になっている憲法第一条との関連を明確にするためにあの解釈をしたということであって、もちろん私もその限りにおいてそれで結構だと思っておるわけですが、きょう午前中にも問題になりましたように、例えば君が代といった場合には、その場合の「君」というのは特別な大君、天皇というよりは、一般的な自分たちの仲間、同族の方がいいのではないかというちゃんとした論証があったわけでございます。そうすると、そういうことについて別に否定もしないというふうに言っていいのかなということですね。そこはどうですか。
  112. 竹島一彦

    政府委員竹島一彦君) 政府といたしまして、まず君が代の「君」につきましては、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意に基づく天皇、要するに象徴天皇のことを指しておるというふうに申し上げておりまして、その「君」に関して国民が同時に入るという見解政府としてはお示しをしておりません。  しかしながら、君が代とはという段になりますと、これは日本国民の総意に基づき天皇日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国のことであると。「代」というのは本来、時代、時間概念でございますけれども、広辞苑にもございますように、これは転じて国をあらわすというふうにも使われておる言葉でございまして、君が代というのは象徴天皇の代ということではなくて、象徴天皇、まさにこれは日本国及び日本国民を象徴されておる、その日本国民から成る日本国、それが君が代である、それで君が代歌詞全体もそのような日本国、我が国の末長い繁栄を祈念したものである、こういうことになっておりまして、そこまで御説明申し上げると国民主権との関係も何ら矛盾がないというふうに私どもは考えております。
  113. 山本保

    山本保君 こういう議論というのはこの委員会でのやりとりにはなかなか実際には適していないと思いますので、余りこれ以上は追及はしませんけれども。  しかし、今、転じてというようなことがありましたように、普通、古今集などを読みましても、君が代といえば、一番素直に言えばあなたの長寿、よわいというような意味の代というのが基本的な考え方だと。しかし、明治になってそうではないという解釈があり、そこの部分だけを政府は今、いや、そんな天皇制とか天皇絶対主義じゃないんだということで出された。これはいいことだけれども、本来、古今集の意味はそういうもっと広い意味があったのだとすれば、その辺についてももう少し幅広く見ていいのではないかなと思ったわけです。  ただ、先ほどの答弁で、これは特に憲法との関連を重視して解釈を出した、こういうことでありますので、私はもう少し幅広に見ていいのではないかなと。といいますのは、先ほど言われたように、基本的に有権解釈を確かにまず官庁が出すわけですけれども、一般的には、それに関して利害関係者からの裁判になって、そして最高裁でと、きょう午前中に法制局長官が言われたとおりです。  しかし、こういう歌詞意味を、これによって何か損害を受けたといって裁判を起こすなんということはあり得ませんので、ですからこういうことから考えましても、私は余り厳密に決めておくということはどうも実態に合わないなと思うんですが、文部大臣、どうでしょうか、ちょっと一言。
  114. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) やはり古歌として鑑賞する場合はあり得ると思うんです。ですから、君が代を教えていくというような場面においては、やはり君が代が持っていた歴史をきちっと理解する。すなわち、古今集及び和漢朗詠集、そういうものに取り上げられているものである、その作者は、詠み人知らずであったと思いますけれども、どういう意図を持っていたかというのはその当時の気持ちになって解釈していけばいいと思います。  ただ、現在、国歌として決まったときの公的な解釈はこうである、これまた教えていただければよろしいと思います。それ以上は、自分はこの君が代をどう解釈するかというのは、これは一人一人の自由だと私は思っております、最終的には。  そういう意味で、公的な場合と、それからもう少し歴史的な解釈まで考える場合とでかなり違ったことがあり得るであろうと考えております。
  115. 山本保

    山本保君 私も、国歌として、そしてこれからもお聞きしますが、教育の場面における、いわばいい言葉がないので愛国心とかそういう言葉で言われたときもありますけれども、ちょっといろんなニュアンスが違いますので、素直に例えば国民的価値観の教育というふうに私は考えますが、こういう場合に即して今言っている話なんだと、こうなったときにこういう意味があるということについては私もわかると思います。  時間がもったいないんですが、もう一つだけ。こういうふうに法制化しますと、次の内閣であるとか、もしくは次の政治状況の中で改正をする、もしくは改正までいかなくても解釈が総理大臣によって変わるということは当然あり得ると思うわけですけれども、野中官房長官、当然でございますね、この辺は。
  116. 野中広務

    国務大臣(野中広務君) 先ほど竹村委員にも答弁申し上げましたように、現内閣としてこれを義務づけたりあるいは尊重規定を加えることはございません。
  117. 山本保

    山本保君 意図は通じておると思いますので、この問題はこれくらいにしまして、次に、私は教育現場でどのような混乱というか、そういう混乱がないようにしなくちゃいかぬだろうというふうに思います。私も多少教育についてはやってきましたから、少し教育との関連でここで考えてみたいと思っております。    〔理事鴻池祥肇君退席、委員長着席〕  そこでまず第一に、私自身は、国民であるとか民族でありますとか文化に対する誇りであるとか、または帰属意識を育てていくという教育は重要であると思いますが、まず現行法、教育基本法では、例えば宗教教育、これは私は宗派的な教育だというふうに解釈しているのが当然だと、そういうふうに一般に思われていると思います。それから、政治教育、これも党派的な教育、こういうものは公立学校では制限をされたりまた禁止をされる、政治教育は禁止されておりますが、こういうものと先ほど申し上げた国民的価値観というような教育とは概念が違うものだというふうに思うわけですけれども、これでよろしいかどうか。
  118. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) 教育基本法は、第八条におきまして、先生指摘のように、特定の政党を支持、反対するための政治教育を、また第九条において国公立学校における特定の宗教のための宗教教育をそれぞれ禁じております。これらは特定の政治団体や特定の宗教団体を援助、助長する教育を禁ずるという趣旨のものでございまして、一方、教育基本法は、良識ある公民に必要な政治的教養を育てるための教育及び宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は教育上これを尊重しなければならないと定められております。したがいまして、先生のおっしゃる解釈になろうかと思います。  もう少し述べますと、我が国学校教育におきましては、憲法、教育基本法等に基づきまして、人格の完成を目指し、個人の価値を尊重し、平和的な国家及び社会の形成者としての国民を育成することを目的として行われております。  そこで、郷土や国を愛する心であるとか、我が国の文化、伝統、歴史に対する理解と愛情であるとか、日本人としての自覚、そういうものを育てていくことが極めて大切だと考えております。その中には、広い意味での宗教というふうなものを、特に日本の宗教はどういうものであるかというふうなことを教えるということも当然入ってくると思います。
  119. 山本保

    山本保君 大臣のおっしゃったことは全くそのとおりだと私も思います。しかし、どうもこれまで見ていまして、今、大臣は教育基本法の第一条をずっと読まれましたけれども、一般的にといいますか、戦後、特に自民党の方が、最近は自由党の方もずっと言っておられると思いますが、今読み上げられたところに、国への尊敬、尊重の意思であるとか、または民族的なアイデンティティーの尊重であるとか、こういうものが欠けているではないかと。これは昭和二十三年ですから、その当時の状況を見れば、ないとは思いませんけれども、文言から見てないじゃないか。それで、こういう今回問題になっている国旗国歌に象徴されるような教育の根拠が、教育法制の中の根拠規定がないんじゃないかと思うわけです。ないというか、私はあると思うんですが。  つまり、今までの文部省答弁などを見ていましても、例えばなぜ従わなくてはいけないのか、いや、それは学習指導要領法的性格を持っているからだとか、または文部大臣国民の受けるべき基本的な普通教育の基準に関する編成権限があるから、それに基づいてやっているんだから、言うならば文句を言うな、こういうような非常に形式論になっているような気がするんです。  そこで、私は、一九八九年に国連で採択され、九四年に我が国でも批准をしました児童の権利に関する条約、文部省は何か余り好きではないようでして、余り使わないようなんです。ところが、ここにはどう書いてあるか。二十九条というところに「締約国は、児童の教育が次のことを指向すべきことに同意する。」、こう書いてありまして、指向、ディレクションと書いていますから目標のことですね。  そうなりますと、この三番目に、児童の父母や児童の文化的同一性、言語及び価値観の尊重とある。三つのことが書いてあるんですよ。ちょっと日本文が余りよくないんですが、三つの尊重が書いてある。第一は、父母や児童自身の文化的同一性、言語であるとか、その子供の価値観に対する尊敬の心を育てるんだ。二番目には、児童の居住国、現在住んでいる国及びその出身の国の国民的価値観に対する尊敬の念を育てること。三番目に出てきますのが、自己の文明とは異なる文明に対する尊敬の心、これを育てる。こういうことが書いてあるんです。私は、どうしてこれをもっときちんと表に出してやられないかと思うんです。  それで、私は、実は私自身もこの条約ができるときに担当しておりましたので、そのときに一緒に研究をした、当時国連大学の学長補佐をやっていた相良先生、今、国立研究所の部長さんですが、この方と一緒に出した本の中にも相良先生はこういうふうに言っております。「いずれの国においても国旗国歌国民の統合あるいは共通の価値観の表象として理解されており、その意味国旗国歌にたいする児童・生徒への指導は、本条約第二十九条の趣旨にむしろ叶うものである」、こういうふうに言われております。  そうしまして、今回質問のために、まさか国会でそういうことをやっていたかなと思って調べてみましたら、実はちゃんと言われているんですね。平成五年、ですからこの条約が批准される一年前、これは条約がほとんど批准されそうなときに、最後の日に国会が解散になりまして批准できなかったということがあったんですけれども、そのときに自民党の矢野哲朗議員がこういう同じことをやっぱり聞かれておりまして、これは二十九条の趣旨と合うのではないかと。これに対して当時、文部省の説明員の方から、御指摘のとおりである、これは二十九条の趣旨に合致する、こういうふうに言われているわけです。  私は、この権利条約というのは日本も批准したわけですから、少なくともその法の解釈基準であるとかそういうものには最低限なると。これは一般的な、強制的なものではないとは言われておりますけれども、しかし非常に重要なものだと思いますので、ここでこの権利条約に示されている根拠と教育基本法と両方相まってこのことに関する教育の基本であるというふうに文部省はきちんと言うべきではないかと思うんですが、大臣、どうでしょうか。
  120. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) 初めに申し上げておきますが、文部省は決して児童の権利に関する条約が嫌いではないのでありまして、十分認識しております。さまざまな場面でこの問題が浮かんでまいります。  そこで、その二つを使ったらどうかという御指摘、非常にもっともであると私は考えております。  まず、教育基本法の第一条というところからまいりますと、教育は人格の完成を目指し、個人の価値を尊重し、平和的な国家及び社会の形成者としての国民の育成を期して行う旨と定められております。そこで、学校における国旗国歌指導も、このような国民として必要な基礎的、基本的な事項を身につけさせる観点から行われているものと考えております。また、この基本法の中には、自分たちの文化、それから自分たちの国を愛するというようなこともおのずから含まれていると思っております。  御指摘のとおり、児童の権利に関する条約におきましては、居住国及び出身国の国民的価値観や自己の文明と異なる文明に対して尊重する気持ちを育成することを掲げておりますが、このような自国はもとより他国の文化と伝統を尊重する態度を育てることは教育上極めて大切なことでございます。特にこの国際化の時代において極めて大切なことと考えている次第でございます。  今後も、条約の趣旨を踏まえまして、各学校における指導を充実させてまいりたいと思っております。
  121. 山本保

    山本保君 ありがとうございます。  私は、大臣は嫌いではないとおっしゃいましたけれども、しかし客観的にこれまで見ていますと、権利条約というのが例えば子供の意見表明権でありますとか、それから学校の規則に対しての意見表明というような形での反対する権限であるとかそういうことが、特に学者の方がそういうことを言う人が多いものですから、文部省は非常に消極的な態度をとっていたんじゃないかなというふうに思うんですよ。  しかし、よく見てみますと、これは国際的に言っても、自分の国やその価値観、そういうアイデンティティーに対して、それを教えるというのは国の責任なんだとはっきり書いてあるわけでございまして、ここでこのことについてはもう勝負はついているんじゃないかと思うわけです。  官房長官、こういう条約は御存じでしたか。
  122. 野中広務

    国務大臣(野中広務君) 御指摘のとおりでございまして、自国はもとより他国の文化と伝統を大切にする態度を育てる教育は重要であると考えております。今後も我が国教育の上に十分生かされることを期待しております。
  123. 山本保

    山本保君 それで、そこが明確になれば私はもういいんですけれども、もう少し細かく見ていきたいと思うんです。  ただ、ここで一つ問題といいますか、理論的に、今度学者の方も来られるのでそういう問題になりそうなので先に言うんですが、例えば先生が子供に対して教育をする、指導をする、こういうときに、子供がそんなの勉強したくないよと言ったからといって先生はそれに従うことはないわけです、もともと教育というのはそういうものではないわけですから。  しかしながら、ここに一つ問題がありまして、いわば一般的には教育法では親の教育権というのがあります。つまり、こういう私自身の子供に対してどういう育て方をするのかというのは、包括的に親の自然権的な親権の中に含まれている。民法八百二十条には、親権者はその子供の監護、教育に関して「権利を有し、義務を負う。」とあるわけでして、このことからいって、自分の子供は、学校できょうそういう式がある、私はこれに対して反対である、だから学校へ行かせない、または出ていたとしてもそこから退席させる。子供が言った場合はこれはもう全然はっきり言って問題にならないんですが、親が親の意思として、そしてそれは親に備わる教育権としてこういうふうに持ってきた、こういう場合どう考えたらいいのかということなんです。  文部省はまずこの辺についてどのように整理されておりますか。
  124. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) 憲法第二十六条というのがありまして、その趣旨からいたしますと、親の監護権も子供の教育を受ける権利を保障し実現するという観点からとらえられなければなりません。親の監護及び教育をする権利は主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由にあらわれるものであり、また当然義務を伴うものと考えております。  どのような親の行動が監護権の乱用に当たるかお答えするのはなかなか難しい。そういう立場にはございませんけれども、仮に合理的な理由なく長期間学校に出席させないといったことは通常認められないものと考えている次第でございます。  また、卒業式や入学式の場合のことでありますが、家庭内の児童生徒と親との関係にまで学校教師が立ち入ることは困難ということも考えられるかと思います。事情によって判断をしなければならないかと思っております。
  125. 山本保

    山本保君 事情によって判断するというのはまさにそのとおりだと思うんです。その論拠を少し整理してみたいと思うんです。  今の御返事ですと、民法で言う教育権というのは学校教育に対する権利はないんだというような、しかしこれはちょっとおかしいと思うんです。もしそんなことになりますと、学校でどんな教育をしようが、自分の子供に対してどんな教育がされているかについて親は何も権限がないということになってしまう。国民の一人として、政治的に、または教育委員会に対する参加という形での発言はできたとしても、一番肝心な、自分の子供に対してどんな教育がされているか、これがまさに民法の権利なんでして、これが大臣が今言われたように、大臣は書かれたのを読まれたと思うんですが、大臣、そこは非常に優秀な頭脳でお考えいただきたいんです。  この解釈はちょっとおかしい。決してそんな、学校のことは学校でやるから、それは民法のは違うんだと。そうじゃない。両方絡むんです。ただしということなんです。ただし、おっしゃったように、子供自身にとって乱用になっていないかとか、いいかと、ここで判断すべきなんであって、最後に言われたでしょう、個別だと。最初から法律解釈のようにもともとないんだと言ったら個別も何もないですよ。もうそこで決まっちゃっています。そうですね。学校教育はもう決まっているんだから文句ないじゃないかと。もう個別も何もありません。  そうじゃなくて、基本的にそこは、八百二十条の権限というのは広く見るんだと私は思うんですけれども、どうですか。
  126. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 民法の親の監護及び教育する権利、これは、先生が御主張されるように、さまざまな観点で学校教育についても関心を持つということはあろうかと思いますけれども、その権利が学校教育の場面でどういう形で法的にあらわれてくるかという問題になりますと、大臣が申し上げましたように、子の監護権そのものに基づきまして親が学校教育に対しまして何らかの、例えば教育内容を受けさせないとか、あるいは先ほどございましたように子供を出席させないとか、そういったところまで権利として守られているということには当たらないんじゃないでしょうか。  したがいまして、それは主として公教育という形で学校教育法制以下定められております。また、憲法におきましては、子供に義務教育を受けさせる義務がある、こう書いてあるわけでございますけれども、当然その面から制約されるということでございまして、法的な側面におきましては、大臣が申し上げましたように、その権利が余り制限されることなく働く場面というのはそういう場面ではないだろうかと。ほかの家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由というものにかなり十全に働くという趣旨でございまして、学校教育におきましては、憲法、教育基本法、学校教育法に基づくその法体系との調整が図られなければならないということは当然であろうかと存じます。
  127. 山本保

    山本保君 これは今まで余り議論されていませんので、またそういう実際的な判例等もたしか余りありませんのでそういうふうに解釈してきたんだと思うんですが、しかし現代的な課題からしますと、まさに学校教育に対して親もどんどん参加していく、そういう時代になってきたわけですから。今のをわかりやすく言い直せば、憲法二十六条には親は子供に普通教育を受けさせる義務があるじゃないか、この義務というのと民法で言う権利を有し義務を負うという義務は同じなんだというふうに言っているようなものなんですよ。しかし、これは違う。そんなものじゃない。では、どうやって考えたらいいのか。決して国が決めているからそれに従うというんじゃないんだと。  そこで、もう一度ここで考えていただきたいのは、やっぱりまた権利条約なんです。  権利条約という条約は、いろいろ言われますけれども、一番大事なことは親が第一義的に子供の養育に関する権利、責任を持つということを定めている条約です。権利条約に先立つ三十年前に権利宣言というのが国連で採択されましたけれども、子供に対する教育の権利の淵源は国なのか親なのか、この論争は決着がつかずに、いわば当時の共産主義国家の方から国にその権限があるんだという主張がされて、結局まとまらずに、この権利宣言にはその主体が書いてありません。権利条約にははっきりと第一義的責任は親である、こう書いてございます。  ただし、その次にまだあるんです。十八条がいいかと思うんですが、そこには、親の養育責任は第一義的だけれども、その場合も児童の最善の利益を基本的な関心としなければならないという条文があるわけなんです。つまり、子供自身が最善になっていくのかどうか。  つまり、私は、自分の政治的または宗教的信条で国旗やこれはやらないよと子供に対して教育をする、これはその限りにおいて親は自分の子供を思うように育ててよろしいんです。しかしながら、そのことがその子供にとって本当に最善の利益であるかどうか、これに関してはより教育の専門家であるとかいう方たちのアドバイスもあり、ここでいろいろ調整されなければなりませんよと。  ですから、親の教育権があるのでどんな場合でも全部出すということは決して正しいとは言えない場合もあり得る、逆にそうでない場合もあり得る、こういうふうに考えるべきだと私は思いますけれども、大臣、いかがでございますか。
  128. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 御指摘のとおり、親の監護権も子供の教育を受ける権利を保障し実現するという観点からとらえられるべきものと考えているところでございますし、また児童の権利条約十八条も基本的に同じように考えるべきであろうかと思います。  この点につきましては、我が国憲法二十六条の規定につきまして五十一年五月二十一日に最高裁判所の判例がございまして、憲法二十六条の規定は、福祉国家の理念に基づき国が積極的に教育に関する諸施策を設けて国民の利用に供する責務を負うことを明らかにするとともに、親に対しその子女に普通教育を受けさせる義務を課しと、こういった規定がございます。この規定の背後には、何よりも国民各自が一個の人間として、また一市民として成長、発達し、自己の人格を完成、実現する必要な学習をする固有の権利を有する、いわば子供の学習する権利というものの観念が存在していると考えられると。したがいまして、子供の教育は子供の学習する権利に対応しまして、親あるいは国あるいは教師、そういったものの充足を図り得る立場にある者の責務に属する、こういうぐあいに判例があるところでございまして、児童権利条約の規定あるいは親の監護権に対する規定、この文脈の中で矛盾なく読み取れるものと私どもは思っているところでございます。
  129. 山本保

    山本保君 結論的にそれで私もいいと思いますが、微妙なところでは、五十年当時に学習する権利というものは法律的にはありません。そんな権利はないのでして、何でも勉強すればいいというものじゃない。まさに私は、もっとそれを超えた形で、この権利条約に言う自分自身が最善に育っていく、第六条にはマキシマムの、最大限の発達保障という言葉が出てきますけれども、こういう新しい権利をもとにして考えていく。ただ単に学習する権利があるから何でもいいんだとなったら、これまた文部省は困りますよ。ですから、この辺はもう少しこれから議論したいなと思います。  では次に、今度はもう少し細かい、実際の運用の場面について伺います。  まず最初に、この国旗国歌指導というのも当然子供の、発達段階という心理学の言葉がありますけれども、個々の子供については当然ですが、子供全体を見たときにも、その子供の発達段階に応じた指導をしてよく理解されるようにしていかなければならないと思うわけですが、当然だと思うんです。  そうしますと、きょうも何回も出てきました学習指導要領を見ますと、特に特別活動というふうなところで、道徳教育というのはまさに形であらわしたりその心を持つということが大事なわけですが、小学校から高等学校まで書いてあるのは全部同じなんです、「国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。」と。これはどこに発達段階に応じて書き分けてある、指導が分けてあるのか。同じことが書いてあるじゃないですか。これで発達に応じた指導と言えるんですか。
  130. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 学習指導要領は、基本的には学校教育におきます基本的な事項を大綱的に示すということに徹底をしているわけでございまして、具体的な指導につきましては各学校におきまして適切な教材を用意する、そのためのいろんな手助けを文部省なり教育委員会が行うということになっておりますし、また教科書を文部大臣が検定していくということもその一環でございます。とりわけ、ほかの授業、教育内容につきましては、国語の漢字を一年生でどの字をどこまで教える、あるいは算数の足し算、引き算の何けたまでを一年生で教え二年生で教える、こういう子供の教育内容に即した規定になっているわけでございます。  特別活動におきます入学式、卒業式において国旗を掲揚し国歌を斉唱するように指導するものとする、こういう規定は、学校の行事としていずれの学校においてもこういった行事を行い、そして国旗を掲揚し国歌を斉唱するという活動を行うように学校がそういう教育活動をきちっと立てなさい、こういう意味での義務づけになっているわけでございます。  そういった意味では、それを用意するのは最終的には校長や教員が準備をする、その中で、個々の子供たちがその式典におきます意義内容あるいは国歌意味内容というものをその時点でどのように受けとめているかということにつきましては、当然それぞれの音楽や社会科におきます学習関連づけまして各学年に応じて異なっているということでございますので、御理解いただきたいと存じます。
  131. 山本保

    山本保君 いや、それはだめなんです。だめだということをちょっとお話しします。  大臣も科学者でありますからおわかりになると思うんですが、今出ましたように知識、認知というふうに心理学で言いますが、これに関してはピアジェというような学者が出まして、どういうふうに子供の発達段階に応じてやっていくかとありますから、一年生でこうだこうだとあるんです。  ところが、大事なことは、今問題にしているのはそういう認識とか理解力の問題じゃないんです。これは道徳観というものをどのように子供に育てていくかという教育論なんです、この問題は。これは日本の場合、非常に弱いんですよ、いかにも一律的。だから、道を走っていても、日の丸が目の前にあらわれて突然君が代が流れたら、よくありますね、そのときでも何かぴっと立てなんてということをやるような、これはまさに戦前型ですが、そんなような形にでも見えるようなことになってくる。  つまり、私の勉強した限りでいけば、いろんな説がありますが、これはもう結論は常識的です。だれでもわかります。つまり、こういう道徳的な教育というのは、子供の発達の状況に応じた方法というのはどういうのがあるのかというと、幼児期のときには多少権威的であっても、幼児期の道徳観といいますか、それに対する子供の性格といいますか、それは権威であるとかまたは罰を恐れるとか、こういうものに対して従うというのが基本なんですよ。だから、そういう形で行う。  だんだんとそれが変わってきまして、社会の決まりだからという抽象的なものになり、または今度はお互いにみんなで協力し合っているんだから、そして最後にはどうなるのか。道徳律というものを自分の心の中に内面化していく。これはもうカント以来みんなそうです。どんな学者も全部そこにあるわけなんです。ですから、そういう方法をとらなくちゃいけない。これが発達段階に応じた指導というわけですよ。  ところが、今文部省のやっているのは、みんな同じようにやれと。これはおかしいんじゃないかということで、具体的にお聞きします。  そうなりますと、高等学校、十六歳以上というよりも高等学校というのは、学校教育法のどこを読んでも中学からそのまま行くとは書いていない。大人が行ったっていいんです。というか、大人の人も当然行っています。どうして高等学校生徒にこういう形で、小学校と同じ言い方で国旗国歌に対する態度を指導基準をつくらなくちゃいけないんですか。これはおかしいんじゃないですか。文部省、どうですか。
  132. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 高等学校は義務教育ではございません。中学校卒業以上の国民が入るということではございますけれども、現実の高等学校に確かに御指摘のようにさまざまな社会人の方々あるいは外国の方々が入っておることも事実でございます。  基本的に高等学校学校教育制度としてどのようなものとして位置づけられているかということになりますと、我が国国民を育成するための初等中等教育の一環として、中学校教育の基礎の上に高等普通教育及び専門教育を施すという形で位置づけられているわけでございまして、私どもといたしましては、そういう観点から、国民として基本的に必要な基礎、基本という観点と、それから個性、能力に応じて学習させるという観点、こういった調和を保たせながら学習指導要領を工夫しているということでございます。
  133. 山本保

    山本保君 全然だめです、それは。だめだと言うと申しわけないけれども議論されていないんですよ、今まで。それは局長に言うわけじゃない。今まで道徳教育論というのが日本ではほとんど発達していませんので、そういうことがされていないんです。  だから、例えば国会国旗が立っている。これは教育的意義なんかないんです。国の統合のシンボルであり、国威発揚かもしれないし、そういう意味で立っている。しかし、今までの話にあるように、高等学校学校でやるときにはそんなために出すんじゃないんです。子供自身に、いかに国を愛するとか、そういう民族の価値観に対する尊敬の心を出すかということのためにやっているのであって、見えで張っているんじゃないんですよ。今の局長の話だったら、高等学校は見えで張っているみたいな、何だか公立の学校だから、または学校だからやるのが当たり前だというちょっと恐ろしい感覚に近くなっちゃう、そんなのでは。  だから、今おっしゃったように、基礎、基本を九年間もやってきて、高等学校段階でまたこれを教えないと、そんなことを学習指導要領に書かないとできないと思っているんですか、日本人に。冗談じゃない。確かに現実の高校生ができていないということはわかるから、その意味はわかります。だけれども、もしこれで小学校、中学校ときちんとされてこられれば、今それをしようと言っている、そうしたら高等学校段階でこんなことは学習指導要領に書くことじゃないでしょう、こう思うんですが、大臣、どうですか。
  134. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) 御指摘の点はよくわかりますけれども、ただ入学式とか卒業式というのは人生の折り目ですね。そういうところで、高等学校を卒業していくとか、あるいは新しく高等学校に入っていく。これは成人も入れてです。今度、大分いろんな人が入れるようにいたしておりますので、いろいろな年齢層の人が来る、いろいろな体験をした人が入ってくる、これは事実でございますが、やはり入ったという喜び、そういうものを、厳粛で清新な気持ちで入学を喜び卒業を喜ぶ、そういうふうな人生の折り目においてやはりきちっとした式をしなければならない。そういう点で、国旗を掲揚し国歌を斉唱することによって自分たちの帰属している国というものを強く感ずるということは重要じゃないかと思っております。
  135. 山本保

    山本保君 それを学習指導要領で、絶対やらなくちゃいけないと書かなくちゃいけないんじゃないでしょうということで申し上げたんです。  時間もないので先へ進みます。  文部省ばかりいじめているわけじゃないけれども、今度は、そうしますと幼稚園でどうなっているのかということが全然資料にもないんですが、幼稚園の学習指導要領というのは幼稚園教育要領というんです、先生方は多分余り御存じないと思うんですが。幼稚園教育要領というのがある。そこの最後にやはり同じことが書いてある。どう書いてあるか。おもしろいんですね。国旗に対して親しむ心をつくるというような文言がある。国歌はないんです。これはどうして国歌がないんですか。まさか難しいからなんという理由じゃないでしょうね。  というのは、幼稚園というのは難しいことを教えさせるとか、そんなことのためにやっているわけじゃないんです。さっきも言いましたように、まさに幼児期とかそういうときこそ、周りの人が、この歌は大事なんだよ、この旗が出たときは遊んでいたってちょっとまじめにしなくちゃいけないよと、こういうことを教えていくというのが一番効果的なんですね。  何で幼稚園教育要領には日の丸の方はあって君が代がないんですか。
  136. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 御指摘のとおりでございまして、幼稚園教育要領は基本的には小中高等学校学習指導要領と同じ性格のものでございますが、ここにおきましては「幼稚園内外の行事において国旗に親しむ。」という活動内容が例示をされておりまして、国歌については規定をいたしておりません。  何度も繰り返しになりますけれども学習指導要領、教育要領は、国として全国どの学校でも基本的に最低限行っていただく、そういう観点から基礎、基本、大綱的なことを書いているということでございまして、幼稚園におきましても、卒業式、入学式ということではなくて、幼稚園内外の行事において親しむということから、国あるいは国際理解といったようなものに気をつかせるということで規定をしているわけでございます。  国歌君が代につきましては、一斉指導をするということはなかなかこの四歳、五歳段階の子供には難しいという観点から規定をいたしていないわけでございます。  もとより、そういったことに、大人が歌うことになじませるというような教育活動があっても当然差し支えないところでございます。
  137. 山本保

    山本保君 うっかりしていたのかとも思うんですが、これは法制化とかそういう問題とは違いますから。政治的な問題じゃなくて、教育学的な意味からいってこれはきちんとされた方がいいんじゃないかなと。同じように、高等学校については便宜的にやって、現在のことはともかくとして、今度の十年後の改訂のときにはよく考えるべきだなと思いますよ、十年たてば当然変わっているはずなので。  そこで、もう一つお聞きしたいんです。今度、大事なことでして、こういうことを指導した結果について指導要録という公簿があります。ここにはその教育活動についての評価を書いて、それが専門家としての教師同士の指導の資料になるわけですし、また将来的にはその子供の学習についての公的な原簿になるわけですね。ここには、この国旗国歌に対する教育指導の評価というのは書くのか書かないのか、どうなんでしょうか。大臣、簡単にお願いします。
  138. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) これは書かないということをこの前申し上げてありますが、もう一度申します。  入学式、卒業式などの特別活動については指導要録や内申書におけるいわゆる五段階評価等による評定の対象にはならないと考えております。
  139. 山本保

    山本保君 今、五段階評価云々と言われましたね。五段階評価というのは、この前、南野委員もたしかそういうふうにお聞きになったんですが、大分注意深く聞かれたなと思っておったんですけれども、評価というのは五段階とは限らないんですね。いろんな形の評価があり得るんです。五段階評価にそぐわない、それは当然なんです。  しかし、どうなんでしょうか。時間がないのでちょっと言います。つまり、教育学というか、教育指導をしたときに、その結果について書かなくていいよということになれば、やらなくていいよということと同じなんですね、これ。やらなくていいから教育評価は書かなくていいんですよと。どうでしょうか、そうじゃないでしょうか。  それからもう一つ、もう時間がないので一緒に言いますが、例えば内申書なんかに書くということについてはどういうふうに指導されるのか、指導されないのか。今のように、それは好ましくないと、こういうふうに言われるのかなと思いますけれども、ちょっと確認のためにお聞きします。
  140. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 大臣からお答え申し上げましたように、入学式、卒業式などの特別活動については五段階評価を行わないということはそのとおりでございます。  そのほかに、内申書あるいは指導要録の中におきましても、いわゆる所見欄というところがございまして、児童生徒の行動について評価する、個性、能力を多面的に評価するという観点から用いられている欄がございます。これにつきましては、文部省といたしましては、児童生徒の長所を取り上げることが基本となるようという指導を行っているわけでございますので、卒業式や入学式におきまして児童生徒が歌わなかったとか起立しなかったと、こういうマイナスの評価を行うということはないよう考えているところでございます。
  141. 山本保

    山本保君 今のは重要なことですね。つまり、プラス面だけを評価するようにしているので、この書き方も、クラスのほとんどの人が全部プラス評価がついていて一人だけなければ、これは事実上マイナス評価したのと同じことになるわけでちょっと心配なんですが、しかしそういううがった見方はやめまして、特に目立つプラス面だけを評価するように指導すると、こういうことですね。  それで、私は、その結論についてはぜひそうしていただかないと、これはまさに社会的な差別を生んだりするわけですから、その教師の良心とか教育指導というものを超えた効果が出てきますので、ぜひ今おっしゃったとおりにしてほしいんです。  ただ、論理的に、今おっしゃったように、評価しないという説明がどうも弱いので、私は私なりに考えますと、これは私の尊敬するお茶大の森隆夫名誉教授の話でもあるんですが、こういう人格形成にかかわるような道徳観というようなものは長い目で見る必要があります。指導して、すぐ反発したから、反発したといって、外面的に反発しているけれども、心の中でわかっていないのかどうかなんてことはわからない。だから、非常にロングタームで見なくちゃいけない。ところが、生徒指導要録などは一年間、もっと言えば各学期ごとに評価していかなくちゃいけませんでしょう。だから、これは今の学校における評価システムの方法には合わない、こういう説明で評価しないというふうに私は考えるんですけれども、その辺についてどうでしょうね。自分のことだからあれですが、ちょっと考え方についてどう思われるか。
  142. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 教育に関する評価は、いずれにおいても長期的な評価と短期的な評価があるというか、どの教育内容についても私は同じではないかと思っているところでございます。  したがいまして、個々の教師が個別に児童生徒にどういうぐあいに理解を求めていくか、どういうぐあいに段階を追っていくか、そういう教師指導面にかかわる評価というものと、それからまたこの調査書や指導要録のように、一定の学年が終わった段階で、あるいは進学する段階で、その到達した時点を客観的にできるだけ評価する、そういう評価の教育活動場面における違いということであろうと思います。  もちろん教育全体の評価あるいは子供自身の全体的な成長の評価となりますと、これはやっぱり二十年、三十年たって見なければならないということも事実でございますので、それぞれの場面に応じて教育的な評価を適切に使って子供の発達に資していくということであろうかと考えております。
  143. 山本保

    山本保君 私もそのことについてそう思いますが、何かこの辺きちんとした、プラスだけを評価するというのは便法として楽なんですけれども、しかしマイナスとか、その子供にとって課題がまだ達成されていないなんということは本来評価しておかないと教育指導できないわけですから、もう少しここはきちんと現場の声も聞きながら説明していただくのがいいなと思っております。  それから、最後にもう一つだけ。  何回もここにも出てきましたが、村山内閣のときに児童生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではないということを言われて、きょうの大臣の答弁などはちょっと違っているのでいいんですが、伺っていますと、強制してはならないんだ、しかしおとなしい指導ならいいんだというようなニュアンスで答弁があったような気もするんですよ。  そうではなくて、おとなしい方法でやろうが強制の方法でやろうが、内心にかかわることはよくないんだということがこの統一見解の趣旨であると私は思うんですけれども、大臣、ここを確認させてください。
  144. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) 確認いたします。  国旗国歌につきましては、学習指導要領において「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」とされており、校長、教員はこれに基づいて児童生徒指導するものであります。このことは児童生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではなく、あくまでも教育指導上の課題として指導を進めていくことを意味するものであります。  今回の法制化国旗国歌の根拠について慣習であるものを成文法としてより明確に位置づけるものでございまして、国会において既にたびたび申し上げておりますように、学校におけるこれまでの国旗国歌指導に関する取り扱いを変えるものではない。したがいまして、平成六年の政府の統一見解、村山内閣における統一見解国旗国歌法制化された後も変わるところは全くございません。
  145. 山本保

    山本保君 終わりますが、一言だけ。  趣旨はわかりますけれども、口をあけさせないとか、無理やり、そんなことを意味しているわけじゃないということなんですよ。その辺はもう当然のことだと思いますので、もう一度よくその辺を考えていただくことをお願いしまして、質問を終わります。  ありがとうございました。
  146. 林紀子

    林紀子君 日本共産党の林紀子でございます。  私は教育現場への日の丸君が代の押しつけについて文部大臣質問したいと思います。  まず、政府日の丸君が代法制化の理由につきまして、教育現場における対立、混乱をなくすためと言っておりますけれども、大臣はこれで本当に混乱はなくなるとお考えになりますか。
  147. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) なくなることを希望いたしております。
  148. 林紀子

    林紀子君 確かに、教育現場では法的根拠がない、そういう議論が今までもいろいろありました。しかし、問題は、全国の先生たちがなぜ卒業式などで日の丸君が代国旗として掲揚し国歌として斉唱すること、これに反対してきたかということですが、日の丸が侵略戦争の旗印にされてきたこと、また君が代天皇主権、天皇統治の政治が永遠に続くことを願ったもので、主権在民と恒久平和の原則を持つ現在の憲法、そして現在の日本のありようとは絶対に相入れないからではないでしょうか。  法制化によって今の対立状況を解決するためには、こういう思いを持っている先生自分の内心を変える、抵抗をやめる、こういうことが大前提になるんじゃありませんか。そうしなければ問題は何一つ解決したことにはなりません。  今、異論があるというその思いが、法制化さえすれば自動的に変わる、抵抗がなくなる、大臣はこういうふうにお考えになっているのでしょうか。
  149. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) 今までの問題点のあり方の一つは、やはり定義がはっきりしていないというふうに考える方々がおられたからだと思います。そういう点では、法制化されれば今までの慣習法に基づいたものではなくはっきりとしたものになるという点で、私は今までよりははるかに議論が易しくなると思っております。  ただ、先ほども申し上げましたように、子供たち、児童たちに対して教育をする上で、やはり戦前及び戦後の歴史についてはきちっと教えていかなければならないと思いますし、そういう点で教員の方たちもその歴史性をしっかり理解した上で指導していただきたいと思っております。
  150. 林紀子

    林紀子君 私は、先生たちの内心が変えられるのか、変わることがあるのか、そのことを質問しているわけです。  内心というのはそんなに簡単に変えられるわけはないわけです。官房長官も金曜日に日の丸君が代が侵略戦争に利用されたということをお認めになりました。また、小渕総理大臣も君が代が大日本帝国憲法の精神でつくられたものということをお認めになりました。日の丸君が代の押しつけに反対する側には道理も根拠もあるわけです。  法制化によって解決するというのならば、日の丸君が代に対してどう思っていようと問答無用で押しつけなければこれは解決にはならない、そういうことになるんじゃないでしょうか。そこを大臣に今伺っているわけです。
  151. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 学校における教員は決して私的な塾の教員ではないわけでございまして、公の性質を持つ学校教員として、日本国憲法あるいはそのもとに定められた法令規定、さらには学習指導要領等に従ってその職務を遂行するという当然の職務を有するわけでございます。その職務を遂行するということと、内心を変えていく、あるいは内心の自由を侵害するという問題は別問題だろうかと存じております。
  152. 林紀子

    林紀子君 内心の自由というのを尊重するというのは、今までずっと文部大臣からも文部省からもお話がありました。しかし、法制化ということで先生の内心の自由というのが、内心の思いというのが本当に変えられるんでしょうか。  午前中、広島県のお話がいろいろありました。石川校長先生が自殺をなさったいきさつにつきまして、同僚議員の方から事細かなお話もありました。私も広島県に住んでおりますので、この間の事情というのは文教・科学委員会でも質問をさせていただきましたけれども、きょうの午前中、野中長官が引用をなさっておりましたけれども、民放の放送番組の中でこの広島県の校長の自殺の問題というのがずっと特集で組まれておりましたので、私もこれを見ました。そのときに、石川校長が自殺の寸前まで相談をしていた一番親しい校長先生、この方が登場なさいました。この方は、葬儀のときにも友人代表という形で大変感激的な弔辞を読まれた方なわけですが、この先生がこういうふうにおっしゃっているわけです。国民的合意がない限り、法制化しても今までの混乱がなくなってすんなりいくとは到底思えない、こういうふうに言っているわけなんです。  押しつけということでこの校長先生は自殺をなさったわけですが、その押しつけは、午前中お話がありましたように、一方には部落解放同盟の教育介入による強制があった、そしてもう一方には文部省の是正指導による広島県教育委員会による日の丸君が代、特に今回君が代を斉唱しろという押しつけがあった。両方の押しつけのはざまに入って自分はもう選ぶ道がないというメモを残して亡くなったわけです。  この両方の強制、私たちは部落解放同盟の教育介入につきましてもずっと批判をしてきて闘ってまいりました。地元の宮澤大蔵大臣も、日本共産党だけがこれに断固として闘ってきたという評価をしてくださったわけです。そういう状況で頑張ってきたわけですけれども、私は今回の自殺の問題というのは、両方の強制の激突だと思ったわけです。ですから、そういう意味では、部落解放同盟の強制もいけないけれども文部省の、県の教育委員会の強制というのがまさにこの石川先生を自殺に追い込んだその大きな原因だと思うわけです。  ですから、本当にこの校長先生の遺志を尊重して、もう二度とこういうことを引き起こさないということであれば、まさに文部省の押しつけ、それをやめるべきではないでしょうか。これが解決しなければ、本当に今回の自殺の教訓というのを酌み取ったとは言えないと思いますが、いかがですか。
  153. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 文部省といたしましては、法制化後におきましても、法制化前と同様に各学校におきまして適切な国旗国歌取り扱いを行うよう指導を続けてまいります。
  154. 林紀子

    林紀子君 ですから、それでは本当にこの自殺の教訓は酌み取っていないじゃないかということを私は申し上げているわけです。  そして、やっぱり日の丸君が代はおかしい、こういう声、強制に対する反対の声、もしこの先生たちの内心を踏みつけて強制をするということになったら、教育現場での対立状況というのが一層深刻なものになるんじゃないでしょうか。私はそのことを指摘して、次に移りたいと思います。  押しつけがもっと強化されると、一体全体どういうふうなことになるのか。その先取りともいうべき状況というのが今全国あちこちで起こっているわけです。  ある都立高校では、ことしの三月に「卒業証書授与式の実施に係わる担当業務を遂行すること。」という職務命令書が出されているわけです。これを見て私はびっくりしたんですけれども、この職務命令書というのは、教職員各位、全教職員に出されているわけで、左側に職務の名前、当日やるべき係の名前が書いてあって、担当者全員、五十人近くの高校の先生の名前がずらっと書いてあるわけです。全教職員に卒業式で職務命令を出さなくちゃいけない、そのことは非常に異常な事態だと思いますけれども、いかがですか。
  155. 矢野重典

    政府委員(矢野重典君) 学校におきましては、国旗国歌指導を行うに当たりまして、校長は日ごろから職員会議等の場を通じて、教員等の間で国旗国歌指導あるいはその意義等につきまして、意思疎通、共通理解を図るように努めて、全教員が一致協力して積極的に国旗国歌指導を行うような学校運営上の配慮を行うことは御指摘のように大変大事なことでございます。  しかしながら、このような取り組みをしたにもかかわらず国旗国歌指導教員に求めることが困難な場合、そういう場合につきましては、校長は、学校運営の責任者として学習指導要領の趣旨を実現するために、必要に応じ教員に対し職務命令を発することもあり得るものでございます。
  156. 林紀子

    林紀子君 そうすると、こういう事例というのは異常なことだとは思わないということなんですね。そのこと自身が本当に異常なことなんじゃないかというふうに思うわけです。  確かに、日の丸君が代をやるということで、今、学校の雰囲気というのがすっかり変わっているわけなんですね。今までは教職員の間で、校長と教職員の間では信頼関係があった。だけれども日の丸君が代の問題というのはそういう強制力が働いているから、校長の方が一方的にお願いします、こういうことで終わってしまう。既に現在は、この問題は議論の対象ではない、従うのが教員の義務だ、こんなふうになってしまって、教職員の間、校長との間では一切論議ができなくなっているということなんですね。  一九七二年、大阪の阿倍野高校日の丸公判判決で公務執行妨害に問われた府立高校の先生に対する無罪を言い渡した判決というのは、いずれの見解が是か非か容易に決めがたい教育内容に関する問題については校長が教職員とよく話し合って納得の上で実施することが望ましい、こういうふうにちゃんと言われているわけですね。これは確定判決になっているわけですね。これが普通の姿、当然の姿なんじゃないですか。
  157. 矢野重典

    政府委員(矢野重典君) 今申し上げましたように、学校運営を円滑に行うために校長と教員との間においてさまざまなそういう話し合いがなされ、意思疎通あるいは共通理解を図るような努力をすることは大変大事なことでございます。  しかし、そういう努力をしたにもかかわらず国旗国歌指導ができないという事態にありましては、校長は学校運営の責任者でございますので、そういう責任者としてその責任を果たすために、必要に応じて職務命令を発することもこれはやむを得ないことでございます。
  158. 林紀子

    林紀子君 これがもっとエスカレートしていったらどんな状況になるか、そういう例もあるわけですね。  滋賀県では、日の丸君が代を子供たちに指導することに疑問の声を上げた先生に対して、校長先生が、矛盾を感じているなら公務員をおやめになったらよろしい、ほかの職場で働かれるのがよい、私が採用の立場だったら採用しませんよ、こんな発言までしているということなんですね。  こうなると、もうこれは公然たる思想差別じゃありませんか。日の丸君が代の押しつけというのはこうした思想差別にまで行き着く、こういう証拠じゃないかと思いますけれども、どうですか。
  159. 矢野重典

    政府委員(矢野重典君) 先ほど委員指摘のような事実につきましては、具体的な状況やあるいは発言の真意など詳しい事実関係を私どもわかっていないものでございますから、文部省といたしましては軽々にコメントできないものでございますけれども、仮定の問題として申し上げますならば、仮に校長の発言の趣旨が国旗国歌についての思想や信条を理由として公立学校教員に採用しないということでございますれば、それは憲法十九条に抵触するものでございまして、不適切な発言と言わざるを得ないと思います。  そうではなくて、事実関係が、仮にその教員国旗国歌指導について矛盾を感じて、それを理由に指導を拒否するというのでございますれば問題は別でございまして、これまで申し上げておりますように、思想、信条の自由はそれが外部的行為となってあらわれます場合には一定の合理的範囲内の制約を受け得るものと解されているところでございまして、国旗国歌指導のような、法令に従って適正に課された職務につきましては、思想、信条を理由としてこれを拒否することまでは保障されていないというふうに私どもは考えているわけでございます。  したがいまして、教員法令学習指導要領に基づいて教育指導を行うという職務にみずからの意思によってついたものでございます。そして、現に公務員としての身分を有しております以上、その職務を適切に執行する責任があるものでございまして、この教諭においてはこのことを十分理解していただく必要があるものと考えるものでございます。
  160. 林紀子

    林紀子君 そのことにつきましては、また後ほど私は述べさせていただきたいと思います。  しかし、「註解日本国憲法」では、思想、良心の自由の保障は絶対的であって、法律によってもこれを制限することのできぬのはもちろん、公共の福祉の名をかりてこの自由を制限することは許さない、こういうふうに書いてあるわけです。公然たる思想差別を生み出して、それはまた思想や内心の調査にまで行き着く、まさに戦前と同じような状況に行き着いちゃうんじゃないか。これは大変大きな心配です。  これだけではなく、こういう例もあるわけです。あの戦争で悲惨な地上戦が行われた沖縄です。多数の市民が犠牲になりましたけれども、沖縄タイムスの世論調査によりますと、五三%の県民が両方法制化に反対しています。君が代だけだと六四%が反対、賛成はわずか三一%です。沖縄の衆議院の地方公聴会でも切々たる反対の意見が述べられ、賛成者からも慎重審議という声が上がりました。  ところが、学校における日の丸君が代の掲揚、斉唱の実施率を見ますと、八四年には小学校で六・九%、中学校で六・六%、君が代は小中とも〇%だったんです。ところが、今の掲揚、斉唱の実施率は一〇〇%です。  これを考えますと、県民の願いも教師の意思も生徒の思いも全く無視した卒業式、入学式が行われている、こういうことになるんじゃないですか。
  161. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 沖縄県教育委員会あるいは沖縄県の市町村教育委員会を含めまして、各学校長等が現場で相当の努力をされた結果だろうかと存じております。
  162. 林紀子

    林紀子君 これは地上戦を経験したお年寄りだけの声じゃないんです。若者もこういう投書を出しております。隠れていたがまで赤ちゃんが泣くと日本兵から追い出された。日の丸自分たちを守ってくれなかった。命が助かったのは白旗を掲げてがまを出た住民だった。こういう話を知り合いのおばあちゃんから小さいときからずっと聞いていた。それ以来、日の丸には頭は下げられない。こういう思いを持ち続けてきて実行してきた。これが少なくない沖縄県民の思いなんです。  ですから、結局、学校で一〇〇%日の丸君が代を実施した、それは文部省が言うからお上に従うしかない、長いものには巻かれるしかない。自分の本心は押し殺してそういうことをするということじゃないんですか。  これが教育なんですか。本当の教育というのは、一人一人の気持ちを大切にする、それが憲法の内心の自由を保障するという意味だと思うんです。沖縄の学習指導要領に基づく指導の実態、これはまさに憲法にも教育基本法にも最も反するやり方だと思います。大臣、どうですか。
  163. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) やはり校長先生が教職員の方たちとよくお話しになって、そういう状況が生まれてきたものと信じております。
  164. 林紀子

    林紀子君 お答えになりませんが、もう一つ例を出させていただきます。  これは広島の地方公聴会で公述人となりました全教広島の高橋先生が私に話してくれたことです。  広島では、戦時中、各中学校に割り当てて満蒙開拓団に生徒を送り出せ、こういうことを言われた。当時の先生は、これはもうお国のためだということで生徒を指名して日の丸君が代で満蒙開拓団に送り出したというんですね。ところが、敗戦になってどうだったか。そのうちの多くの生徒たちは帰ってこなかった。それを考えた先生は、自分のその責任の重さに発狂した人もいた、自殺した人までいた、こういうことなんですね。そして今、先生たちは、生徒を戦場に送らない、こういう言葉で頑張っていますけれども、この言葉には今みたいな経験が無数に積み上げられていると思うわけです。  そして、高橋先生は陳述の中で、教師がみずからの思想、良心の自由を偽って子供の前に立つほど惨めなことはありません、みずからの教育的良心を偽ることを強制されることは教師たる資格を剥奪されるに等しい、こういうふうに述べているわけです。  法制化というのはこうした先生の良心を押しつぶすことじゃないですか。どうですか、大臣。これは大臣に答えていただきます。
  165. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) たびたび申し上げますように、一般に思想、良心の自由というのは、それが内心にとどまる限りにおいて絶対的に保障されなければなりません。ただ、それが外部的行為となってあらわれる場合には一定の合理的範囲内の制約を受け得るものと解釈されているわけであります。したがいまして、校長先生学習指導要領に基づいて法令の定めるところに従い、所属教職員に対し本来行うべき業務を命ずることは当該教職員の思想、良心の自由を侵すことにはならないと私は思います。  それからまた、今、日の丸を上げたからといって戦争に行こうなんということはだれも言わないと思います。我々は今、特にこの戦後は最もすぐれた平和な国を築こうとしているわけです。その平和な国のシンボルとして今、日の丸を考えているわけでありまして、日の丸を持ったからといって、その人が戦地に赴くとか戦争を始めるとか、そういうことは全く考えられません。  確かに、戦前のこと、特に戦中のことは我々は大いに反省しなければならない。ですから、その反省の上に立って確固たる平和国家を築いていかなければならないと思っております。そういう点で、先生の御指摘の、旗を持ってそれによって満蒙開拓団に行った、あるいは旗で送った、その反省を先生方がお持ちになることが私は非常に重要だと思う。だから、そのことを、経験を持っておられる方は、今後その旗で戦地に送るとか、どこか危険なところへ若い人たちを送る、これは絶対してはいかぬと思う。  しかし、日本が平和である、かくのごとく平和であるこの日本を、むしろ世界に向けて日本はこういうふうに平和なんだよということを伝えていくことは我々の必要なことだと思っています。我々はその点、発言をしていかなければならない。その点において、日の丸は決して阻害をする要因にならないと考えております。
  166. 林紀子

    林紀子君 しかし、こういう日の丸君が代が侵略戦争に利用されたんだ、こういうことは官房長官もお認めになったわけですからね。  だから、そういう思いを引き継いでいる先生たちは、人たちは、この日の丸君が代というのを日本の国の国旗国歌にすることはふさわしくないと思っているわけですね。それが内心の自由じゃないですか。そして、人道にもとるようなことはどんな権力をもってしても従うわけにはいかない、先生たちはこう言っているわけなんですね。先生になったら憲法で保障された良心の自由、十九条が適用されない、そんなおかしな話はないと思うんです、憲法というのは日本国民全部に適用されるわけですから。  ですから、一九六六年のユネスコの教員の地位に関する勧告では、教員の自由、創意及び責任を減殺しないようなものとする、学問の自由を享受するものとする、こういうふうに言っているわけです。これが世界の流れなんです。これに真っ向から反するじゃないですか。  そして、誤りの原因というのは、学習指導要領の「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。」、こういうふうにうたって、一斉起立や一斉斉唱を押しつけてきたことじゃありませんか。  地方公務員法の解説書にも、「職務命令に明白な瑕疵がある場合にそれを無効として、受命公務員には服従義務はない」、これが通説になっているということがちゃんとうたわれております。誤った命令には従う必要はない。ましてや、思想、良心の自由にかかわる問題です。  教育現場の混乱をなくすためには、この学習指導要領から、今挙げたこの一文を、この項目を削除することこそ必要だと思いますが、いかがでしょうか。これは大臣、答えてください。
  167. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) たびたび同じことを申し上げて恐縮ですけれども、思想の自由、良心の自由というのは、それが内心にとどまる限りにおいて絶対に保障されなければならない、これはもう先生と私は一致した考えだと思います。しかし、それが外部的行為にあらわれるというふうなことになれば、やはり一定の合理的な判断をして、それが制約を受けるということはあり得ると思うんですね。その点について先生と私の意見が多少食い違っていると思いますけれども、思想の自由とか良心の自由を守ることは重要なことだと思います。  ただ、今我々が持っている学習指導要領というのは、決してそういうふうな、当該の教職員の方たちの思想や良心の自由を侵すことにはなっていないと判断いたしております。
  168. 林紀子

    林紀子君 ですから、今申し上げました地方公務員法の解説書にも、職務命令に明白な瑕疵のある場合には従う必要はないんだと。憲法の方が上位なわけでしょう。文部大臣の告示ということでこの学習指導要領、私は学習指導要領全部を否定しているわけじゃないんです。しかし、この押しつける部分日の丸君が代をどんな思いを持っていても教育の現場でやらなくちゃいけない、そこの部分を削除するべきだということを言っているわけです。  政府法制化によって学校現場での混乱をなくすと言いますけれども、今見てきたように、混乱がなくなるどころかますます強まる。学習指導要領日の丸君が代を卒業式、入学式に押しつけることは、子供や教師の内心の自由も保障されないということを強く指摘しまして、時間が来ましたので質問を終わります。
  169. 畑野君枝

    畑野君枝君 日本共産党の畑野君枝でございます。  先日、入学式、卒業式について、有馬文部大臣は、荘厳で清新、そして楽しく愉快にとおっしゃいました。私は大臣が楽しく愉快にとおっしゃったのを聞いて大変ほっとしたわけでございます。  皆様のお手元に資料を配らせていただいておりますけれども、パネルにいたしましたこの写真を見ていただきたいと思います。(資料掲示)  これは十三年前の京都市のある小学校の卒業式の写真です。卒業生たちの顔が見えるように工夫をされていて、手前に写っているのは在校生、お互いに顔を見合っております。卒業生がマイクに向かって思いを語っている。子供たちの手書きで「とびたて未来へ」という大きな飾りも掲げられて、子供たちの巣立ちを喜び、いかにも楽しそうな雰囲気があらわされて、なるほどこういう卒業式だったら、子供も先生も親もみんなが楽しいなと思えるのではないかというふうに思いますが、こういうのはいかがでしょうか。有馬文部大臣に率直な感想をお伺いしたいと思います。
  170. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 卒業式をどういう形でやるかというのは、学校長あるいは教育委員会に基本的には任されているわけでございますので、各学校において十分理解した上でやっていただく。ただし、文部省としては、一定の厳粛な雰囲気、あるいは卒業式、入学式における意義、そういったものが十分伝わるような形でやっていただくよう、これは一つ見解として示しているところでございます。
  171. 畑野君枝

    畑野君枝君 文部大臣、率直な感想はいかがですか。
  172. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) 学習指導要領にのっとって楽しい卒業式や入学式をやってくださることは結構でございます。ただ、今、御手洗局長が申し上げましたように、ある一定の条件はあると。その条件を満足していただければ、そして余りやかましくてもだめでしょうが、やっぱり静粛にやる。そうすれば、私はいろんな工夫があり得ると思っております。
  173. 畑野君枝

    畑野君枝君 では、今度はこの写真を見てください。  これはことしの京都のある小学校の卒業式の写真です。ステージの正面に日の丸が掲げられております。昔のではなく、ことしの写真でございます。  私は、大臣のおっしゃった楽しく愉快にという卒業式ではなくなっているというふうに思います。なぜこういうふうに京都でなっているか。教育委員会が五点セットなるものを押しつけているからです。  一つは、対面式はだめ。二つ目に、儀式にそぐわないから決意表明はだめ。三番目に、卒業証書授与の際に、さんづけ、君づけはやめて、呼び捨て方式にする。四、西暦の使用禁止、求めのあった場合のみもう一枚証書を出す。五、君が代歌詞意味、歴史的な意義に触れずに大きな声で歌う。こういう内容です。その結果、式は式でもお葬式、そのようになってしまっているんではないかという声もあります。  有馬大臣に伺いたいと思いますが、なぜ対面式ではだめなのか、なぜ決意表明はだめなのか、なぜ人の名前にさんをつけるのはだめなのか、なぜ君が代歌詞意味に触れずに大声で歌うというのか、理由は何でしょうか。
  174. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 具体的に京都市の教育委員会がどのような形で今のような指導をしているか、していないかということについて私ども承知をいたしておりません。したがいまして、お答えする立場にございません。
  175. 畑野君枝

    畑野君枝君 理由ははっきりしていると思うんですね。ひたすらに厳粛にということが理由でしょう。そこには子供たちの卒業式という観点がないんです。日の丸君が代にふさわしく厳粛にと、大人が、教育委員会が、文部省が言ってきてこんなことがやられている。入学式や卒業式に合わないといって、「入学おめでとう」という飾りつけだとか、子供たちの卒業制作、子供の似顔絵、プランターの花道が儀式にふさわしくない、厳粛に簡素にということで取り外されてしまった。  厳粛にというのはどういうことかと言えば、重々しくいかめしく近寄りにくくという意味になるわけですから、本当に卒業式はそういうものでいいのか。単なる形式ではなくて、先生方は、入学式は最初の授業、卒業式は最後の授業、こういう位置づけをやってこられた、そういうものを取り除いて厳粛にといって押しつけていった、これがまともな教育の場と言えるのかどうかということだと思います。  私は、今おっしゃったように、入学式、卒業式の進め方というのは、子供たちにとってどういうものがふさわしいかは学校がそれぞれ考えていくものだと思いますが、いかがでしょうか。
  176. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) たびたび同じような御答弁になって申しわけありませんけれども、入学式や卒業式は新しい生活への展開の動機づけ等を行う機会でございまして、その意味で厳粛かつ清新な、そして私は子供たちをお祝いするという意味で温かい雰囲気、楽しい雰囲気をつくり出すよう工夫することが大切だと思っておりますが、その具体的な実施方法につきましては、各学校、校長や設置者である教育委員会の判断にゆだねられているところでございます。  その際に、具体的な実施方法については地域や学校の実態に応じて創意工夫することが大切であると考えておりますが、最終的にはやはり責任者である校長の責任において徹底する必要があり、その際に学習指導要領に基づいて行うということがあろうかと思います。
  177. 畑野君枝

    畑野君枝君 おっしゃったように、最終的には学校ということですね。そういう点では、私は、日の丸君が代の扱いについても最終的には学校判断でやっていいのではないかというふうに思いますが、この点はいかがですか。
  178. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 卒業式、入学式におきまして国旗を掲揚し国歌を斉唱するように指導するものとする、このことは法規的な性格を持つ命令として具体的に学習指導要領に書いているわけでございますので、これはすべての学校において守っていただくと。ただ、その式典の内容まで文部省学習指導要領に書いているわけではございませんので、これは最終的には各設置者の判断、あるいはそれに基づく校長の責任においてさまざまな工夫があってしかるべきということでございますけれども、最初に申し上げました国旗を掲揚し国歌を斉唱する、この二点だけは守っていただくという必要があるわけでございます。
  179. 畑野君枝

    畑野君枝君 そこのところに本当にこだわる必要があるのかどうかということが私はあるというふうに思うんですね。  パネルをお見せいたしましたけれども、昔の卒業式がこちらで、今の卒業式が下です。何でこんなふうな違いが出てきているのかということなんですね。それはなぜかというと、一九八五年、昭和六十年以降に文部省調査が行われてくる。その中で、日の丸君が代の強制が強められてきたからなんです。これはあの汚職の有罪判決を受けた高石文部事務次官が初等中等教育局長のときに出した通知からなんです。その特別活動の実施状況に関する調査についての通知で、全国の日の丸掲揚、君が代斉唱の状況を一覧にして徹底することとしてからです。  ことしのも見せていただきましたけれども、入学式及び卒業式での国旗掲揚及び国歌斉唱に関する調査についての照会というのが文部省から各県、指定都市の教育長に出されております。そこでは「別紙」ということで、今後の対策まで求めているわけです。実施の状況に関する特記事項とかこれまで講じてきた方策とか実施されない主な理由とか今後の指導方針、こういうことについて事細かに具体的に書かせている。  こういうふうになりますと、文部省から県教育委員会、市町村教育委員会と来る段階で強制が現場で強められているわけです。そして処分が出る。先ほどもお話がありましたが、文部省に十年間の資料を調べていただきましたけれども、平成九年度で国歌斉唱時不起立、こんな理由で四人懲戒処分が出ている。大問題だと思います。  こういうもとで、校長先生を含めてどれぐらいプレッシャー、精神的な重圧がかけられているか。病気で亡くなったある校長先生は、日記の中で毎晩苦しんでいるとつづっておられました。強制をするために文部省調査をしているのですか。こういう調査はやめるべきではありませんか。
  180. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 文部省といたしましては、入学式、卒業式におきます国旗国歌の実施状況という点につきまして各都道府県の状況を調査いたしまして、これに基づきまして必要な指導等の基礎的な資料とする、こういう観点から全国的な状況を調査させていただいているところでございます。
  181. 畑野君枝

    畑野君枝君 基礎的な資料にとどまっていないところに問題があるわけですよ。子供の内心の自由を奪う、教職員の内心の自由を奪う、教育の現場を暗くしているのは文部省のこの調査じゃありませんか。そして、これが行われる中で、一九八九年に今論議にもなっている学習指導要領が変えられて、入学式、卒業式などで国旗掲揚、国歌斉唱を指導するものとすると変えられた。そのときの事務次官がまたあの高石文部事務次官です。写真のような重苦しさと教育の現場に混乱を生み出してきた、そういったことをこれからの二十一世紀に引き継ぐことはない、御手洗局長時代にこういうことも含めて私は見直すときだというふうに思います。  国旗国歌を強制しない、内心の自由を認める、沈黙の自由を認めるというのならば、指導要領の削除を含めて検討をすべきだと思いますし、学校に強制する必要はないし、最大の強制の問題となっている調査の必要もないと思いますが、重ねて伺いたいと思います。
  182. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 文部省国旗国歌に関します指導昭和三十三年の学習指導要領以降多少の変遷があるわけでございます。  特別活動の入学式、卒業式につきましては、従前は入学式、卒業式ということではなくて、当初は国民の祝日などにおいて学校で儀式を行う、そういう学校の実態に照らしてさまざまな儀式の場で行うことが望ましい、こうしておりましたけれども、その後、祝日は学校に登校させないというような社会的な状況が出てまいりましたので、それに伴いまして、「入学式や卒業式などにおいては、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。」、こういう形で、「望ましい。」から入学式や卒業式などにおいて「指導するものとする。」と、平成元年に変えてきたということは事実でございます。    〔委員長退席、理事鴻池祥肇君着席〕  したがいまして、「望ましい」という時代から、文部省といたしましては、各県教育委員会を通じまして、各学校においてこの趣旨を理解した上で適切な取り扱いを行えるよう指導してきたところでございますけれども、平成元年に、卒業式、入学式におきましては少なくとも必ず指導していただきたい、こういう学習指導要領に改めたということを踏まえまして、しからばなぜ今日まで実施状況が各学校によって違うのか、それは学校現場の教職員団体等の反対、こういった状況と、それに対します市町村教育委員会や都道府県教育委員会の対応の差異、こういうものによって各都道府県によって差が出てきたわけでございまして、そういったことを踏まえて調査を行い、それに基づいて指導を行っているということでございます。
  183. 畑野君枝

    畑野君枝君 ということで、やはり調査学習指導要領が一体となって強制を強めてきたということではありませんか。  私は話を変えて伺いたいんですが、国旗国歌を強制しない、そして内心の自由を認めるというふうに政府はこの国会の中で答弁をされてきました。そもそも国旗国歌というのはその国の象徴的なものとして扱われてきたものだと思います。しかし、その国の体制に対して、当然いろいろな考えや評価があります。したがって、国旗国歌に対して価値観の違いがあるのは当然です。先ほども、どう解釈するかというのはいろいろ違うんだというお話も出ておりました。  だから、内心の自由にかかわるからこそ国旗国歌は強制できない、こういうことでよろしいですね、理解としては。
  184. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 学校におきます国旗国歌指導児童生徒の内心の自由を制約するものではないと思っているところでございます。
  185. 畑野君枝

    畑野君枝君 憲法学者からも、国旗国歌についても個人の価値観、内心にかかわる重要な問題だから絶対に強制されるようなことがあってはならない、これが基本的な考え方だというふうに思うんです。  国旗国歌への尊重を表現する一つというのが例えば起立をしたり歌ったりすることです。これは個々人が自由意思でみずからの心の中からの思いで行うことは当然自由なわけでございますが、一斉の起立だとか一斉に歌うことを求めなくてはならない、私はこれはマナーとは違う性質のものだというふうに思います。  そこで、私、御手洗局長に確認をさせていただきたいんですが、七月三十日の我が党の山下芳生議員の質問に対して、子供が歌わなかった、あるいは起立しなかったことに伴って、続いて何らかの心理的な強制をこうむることがあれば、それは内心の自由を侵害するというようなケースと判断される場合もあろうと答弁されましたが、それでよろしいですね。
  186. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 個別の指導の場面に即して具体的には判断することでございますけれども、一般的に申し上げれば、そういった指導が行われることはあってはならないと思っております。
  187. 畑野君枝

    畑野君枝君 例えば、君が代を卒業式で歌う、みんな歌いなさい、みんな立ちなさい、そういうときに、自分は立ちたくない、歌いたくない、そういう子供がいたとして、そういう場で自分一人が歌わない、自分一人が立たないということは、これは物すごい周りからの重圧なわけです。中には、歌いたくないと思っていても、周りが立つその重圧に負けて立っちゃう子だっているわけです、歌っちゃう子だっているわけです。しかし、その中でもやらない子も当然いる。  その結果どうなるかといえば、自分の内心、歌いたくない、立ちたくないということを表明することになってしまう。まさに今、局長が言われたように、心理的な強制をその時点で立つか立たないかということで悩むことも含めてこうむっている。まさにこういうやり方は内心の自由を侵害しているというケースになるというふうに思うんです。  ですから、思想、信条の表明になる、これは立たない、歌わないという事態がなぜ生まれるかといえば、一斉の起立や一斉に歌うことが行われるからでしょう。だから、こういうことを強制することはできないということになるのではありませんか。
  188. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) およそ教育におきまして、さまざまな場面で子供の内面にかかわってくる指導があり得ると。そもそも教育自身が精神的な作用を伴うものでございますので、そういった場面は非常に多いわけでございます。  しかしながら、すべての子供に一定のことを教えることが直ちに強制であるということになりますと、これはおよそ公教育は成り立たないわけでございまして、内心にかかわるかどうか、あるいは内面的な作用にかかわってくるかどうかという問題と、それが内心にわたって憲法が保障するような内心の自由を侵害することに当たるかどうかと、この問題は教育上きちっと分けて論議をされるべきだと思っております。
  189. 畑野君枝

    畑野君枝君 そういう点では、やはり国旗国歌を強制しないということと内心の自由を守るというこのことをもっときちっとつかんでいく必要が私はあるというふうに思います。  最後に、スポーツの問題について一言だけ伺いたいというふうに思います。  日の丸君が代法制化について、スポーツの大会に押しつけられるのではないかという心配の声が上がっております。  一つの典型として、国民体育大会での問題でございますが、国体の開催基準要綱では、その性格として、大会は国民各層を対象にする体育・スポーツの祭典であるということでございます。こういうことに起立斉唱を押しつけるのはどうなのか、国民への強制になるのではないでしょうか。
  190. 遠藤昭雄

    政府委員(遠藤昭雄君) 国体でございますが、国民体育大会につきましては、文部省日本体育協会、開催地都道府県の三者が共同で開催をいたしております。  その運営につきましては、基準要綱というのがございまして、その細則に基づいて実施をされておりますが、その中で国旗についても取り扱いを定めております。
  191. 畑野君枝

    畑野君枝君 ところが、実際には、昨年の秋、神奈川県で開催された国体の開会式で日の丸君が代の強制によってゆゆしい事態が起こっているんです。ある夫妻が起立をしなかった。スタンドを出ようとしたら、突然、警察官に制止されて、三時間も拘束された。犯罪扱いは許せない、こういう訴えをされたわけでございます。  私は、こういう問題をぜひ調査して、本法案審議中に調査結果を出していただきたいというふうに思います。  そして、こうした強制尋問、犯罪者扱いをする、こういうことは絶対あってはならないことですから、こういうことが先に進むんじゃないかという心配があるわけです。  絶対にこういうことは起こさないと政府として約束をしていただきたい。国体でもその他のスポーツの大会でも日の丸君が代は押しつけない、こういう点でやっていただきたいと思いますが、この国体の問題、神奈川国体の問題について伺って終わります。
  192. 遠藤昭雄

    政府委員(遠藤昭雄君) お答えいたします。  私どもの承知しておる限りでは、主催者はこの問題についてはかかわっておりませんで、警察の方で事情を聞いたというふうに伺っております。
  193. 山本正和

    山本正和君 三十日の日から質問いたしまして、三十日の日は私なりに序論を申し上げたつもりで、きょうは少し本論の手前ぐらいまで参ろうと思っております。  政府君が代に対する見解をお示しになった。また、今若い日本国民の皆さんやあるいは一般の国民の皆さんの中にある君が代に対する印象と私が持っている印象とは違うということをこの間申し上げたんです。  私どもの世代が受けた君が代というのは、どなたが今どんなことを言われようと、私どもの心の中にしみついているのは天皇陛下万歳の歌なんです、私どもの心の中にあるのは。それはもうみんながそうだからそう解釈しなさいと言われれば、ああそうかなと言わざるを得ないんだけれども、心の中にあるのは、一たん緩急あれば義勇公に奉じ、本当に天壌無窮の皇恩に報いるんです。天皇陛下の恩に報いるために命を捨てて戦います、天皇の命令があればいかなるところにも行きますと、こういう中で歌った天皇陛下万歳の歌が君が代だった。これは私どもの世代の共通した教育を受けたその気持ちだろうと私は思うんです。  しかし、それを今さら変えよと言われても、なかなか変わらないんです、私どもは。政府見解を出して、いや、君が代というのは日本国憲法第一条に基づく象徴たる天皇国民主権の存在するその天皇並びに我が国の平和と安全を願う歌なんだと、こうおっしゃっても、ああそうですかとは言うけれども、心の底では、つい我々が子供のときに歌った歌、あるいは成年に達したときの歌、あるいは私は戦争が負けてからまだ二年間中国におったですから、そのときに思った自分の思いというのは、君が代というのはどんなことがあっても、当時の大日本帝国憲法下のあらゆる法規を超えた天皇、超越した存在として、神様なんですね、神様にささげる歌だった、私どもにとっては。そのことはどんなことを言われてもぬぐえないんです。    〔理事鴻池祥肇君退席、委員長着席〕  それがあって、そして私が申し上げたいのは、そういうことの中で、実は天皇陛下の御意思じゃないんです、天皇陛下の名前を使って日本国民を大変な戦争の惨禍の中にほうり込んだ、あるいは思想弾圧をした、さまざまなその当時の国民のいろんな要望というものを、要するに自分たちの考えている国家像を実現するためにすべて排除した、そういう時代我が国にはあったんです。そのことの思いが私どもには非常に強いわけです。しかし、今や日本はそんな国じゃありません。日本国憲法のもとで、平和と民主主義の国だと、こう言っているんです。しかし、私どもにはその思いがどうしてもぬぐえないんです。  しかも、その中で今私どもが戦後五十年たって日本の国はどうだったかと考えていきますと、いろんなことがあったけれども、あの江戸幕府が開港して、そして明治以来、日本の国が産業国家に、軍事国家になっていくために国民を団結させなきゃいけない、国民をきちっと統治しなきゃいけない、統治の手段として天皇制が使われた、これは紛れもない事実だと私は思うんですね。しかし、それでは現代史で、近代史でそのことを書いてあるかと高校の教科書も中学の教科書も見てみたんだけれども、何かさらさらさらと書いてあるんですよ。  そして、私は言いますけれども、例えば先ほど部落解放同盟の話が出ましたが、なぜ部落が生まれたんだ、なぜいわれなき差別が生まれたんだということについても教科書の記述は必ずしも正確だと私は思わないんですね。  ですから、私どもの世代からいえば、君が代というのは天皇の名をかりて自分たちの描いた国家像をどうしても実現するために国民に押しつけた中で歌われた歌だという思いがある。これはどうしても晴らせないんですね。そういう気持ちがあるんです。  しかし、この前、三十日からきょうにかけての官房長官答弁の中で私はあれっと思ったことがある。それは、もし官房長官がこの三十日からきょうにかけての答弁のようなことを提案の理由に真っ先に掲げて、国旗国歌をみんなでつくりましょう、考えましょうという格好で政府が本気になって訴えておったら、もしそれを十年前あるいは二十年前に訴えておったらもっと変わっただろうと私は思うんです。そこの問題なんです。  そして、特に官房長官が言われた中で、私はそのことが、この法案は正直言いまして国会議員のもう三分の二ぐらいが賛成なんだから、通りそうだからやむを得ぬと私は思います。しかし、仮に通ったとしても、そのときの官房長官答弁というものが、そして趣旨説明というものがきちっと生かされることを私は本当に心から思うんです。  それは何かというと、この君が代にはさまざまな思いがある、またさまざまな歴史がある。そのことをきちんと教えて、しかし今新しい日本国憲法下で国民みんなが歌える歌は何かといったら、当面、慣習法としてはあるけれども君が代しかないので、これを法律として明定するんだと。その部分、要するに君が代にはさまざまなことがあるということを抜きにして言ったら私は話にならないと思う。さまざまな歴史がある、さまざまな思いがある。しかし、それを超えて、日本国憲法下の新しい日本の国の歌として、今当面ない、しかも法律に明定されていないことから起こる混乱があった、それを混乱を避けるために現在歌われている歌、これをきちんと教えて、そして国歌として新しく政府提案いたします、こういう提案なら私はもっと違うと思うんです、最初の受けとめ方が。  しかし、今度の提案の経過を見ておって私が心配するのは、恐らく官房長官がここで答弁されたことと、そして政府提案されたあの経過というものから見ると、ちょっとがっちりかまないんですね。これは総理が来たときに総理に聞きたかったんですけれども、小渕総理は、日本の国は国旗国歌法律で明定しなきゃいけない、その信念に立ってこれを提案したんですかということを私は聞きたかったんです、本当は。総理が来られたら私は聞きますけれども、なぜ今我が国が二十一世紀を控えて国旗国歌法制化しなきゃいけないんだ、そのことを国民にわかりやすくきちっと説明する、そこがあったんだろうかというのを私は非常につらく思うんです。これは本論に入る手前の序文でちょっと申し上げておいて、そして今から文部省質問していきたいと思うんです。  まず冒頭、きょうの馳委員山本委員の御質問の中に、本当の意味でさまざまな真実の問題があったと思う。  それからもう一つ言いますと、自分がもしも小学校先生ならばどうするか。文部大臣は東大の総長であり東大の教授も長い間しておられた。外国の学生も教えられた。そしてまさに、国際的に言えば大変な学者です。研究者です。すばらしい論文もお書きになっている。しかし、小学校や幼稚園の子供に自分が教えるときにどう教えるかということを文部大臣は考えなきゃいけない。今は文部大臣ですから、東大の総長と違うんですから。  となると、小学校一年生の子供に、あるいは小学校四年生の子供にみんなで君が代を歌おうな、こう教える。そうすると、おじいちゃん、君が代って、こう聞かれますね。聞かれたら、おじいちゃんはこう思うと言わざるを得ない。おじいちゃんの思い出はこうなんだよ、ああなんだよと仮に言ったとします。そうすると、そんな大変な歌だったらおじいちゃん歌うのやめたらどうなのと子供に聞かれたら、どう返事していいか。この問題があるんです。  それから、もっと言えば、なぜこんなに君が代が定着したかというと、定着の最大の理由は私は東京オリンピックだと思う。それから大相撲です、君が代が定着したのは。それからもう一つ言うと、あの黒い服を着た右翼と称する若い諸君が走り回っている。君が代をばんばん鳴らしながら町を走り回っています、戦後ずっと。ですから、君が代というものに対する印象はいろいろあるけれども、子供に君が代をどう教えるか。ところが、これは有馬文部大臣になるまでの歴代文部大臣の方もずっと苦労されたと思うんだけれども学校で子供に何を教えていたかといったら、君が代国歌ですから歌いましょう、日の丸国旗ですから掲げましょう、それしか教えていないんです。  日の丸というのは、実は私も私なりに物すごく感激するんです。涙が出るぐらいうれしい、日の丸は。それでまた日本の国の、沖縄から黒潮列島、ずっと海岸部あるいは日本海へ行っても太陽信仰というのがたくさんあるんです。日の丸と同じような感じのあのすばらしい、そういう先祖から何千年も続いてきている、お参りする者がたくさんいる。だから、日の丸というのは本当に日本民族そのものをあらわしてすばらしいと私は思う。いやでも応でも日本人だなと何となくぴんと感じるものがある。そういう中で日の丸というものを教えるのは教えやすいと思う。  では、君が代はどう教えるかといったら難しいんですよ。しかし、先ほどの馳先生のお話を聞いておって思ったんです、ああ、今の時代はこうなのかなと。古今和歌集にこうなっている、この歌はこんなに平和な愛の歌だ、人が愛し合うすばらしい歌だ、こういうふうに受けとめている国民の人もたくさんおるよと。ああ、それは我々の時代とは違うなと。しかし、それが多数ならそれでいいんですよ。それならば、その古今和歌集の歌を、本当にすばらしい平和の歌ですから国歌としましょうという提案ならこれはこれでわかるんです。しかし、それをしゃにむに天皇と結びつけて解釈しようとする。しかも、それを憲法第一条を持ってきてしゃにむに理屈をつけようとするんです。  だけれども、それじゃと私は言うんです。先ほど山本先生からも御質問がありました。例えば高等学校国語授業古今和歌集君が代が出てきた。解釈をします。政府解釈をしたらマルで、国語解釈をしたらペケになったらこれは大変なことになる。そうでしょう。文部大臣は、両方あります、どちらも正解ですと言われた。そうすると、どちらも正解ならいいけれども、例えば東大の入学試験問題にこれを出した、両方マルにすると。大丈夫かな、しかしそれは。いずれにしろ、教える立場からいったら大変な苦労があるわけです。  そして、なぜ君が代が今まで来なかったかといったら、戦争に負けて我々はおんぼろの復員服で帰ってきた。私は二年後に帰ってきましたが、上野の池之端へ行ったら復員の学生学徒のたまり場がある。そこへ行った。もうみんなむちゃくちゃですよ。しかし、もう戦争は絶対嫌だなという気持ちだけはみんな共通していたんです。その中から戦後復興が始まった。そのときには君が代もへったくれもないです、食べ物がないんだから。しゃにむに働いた。  しかし、考えてみたら、そのときに国家とは何か、国とは何か、日本の国という場合にはどんな国なんだということを本当はあのときに我々が議論しなきゃいけなかった。それをせずに食べ物を追って、とにかく食えるようになろう、何とか電気をつけるようにしようとむちゃくちゃやったわけです。その我々がサボったことが今学校現場で苦しみを生んでおる。物すごく私はつらいんですよ。  そこで、今度は文部大臣にここから質問なんです。文部大臣は、本当の話、仮にこの法案が通った場合に、学校現場でどう君が代を教えるか。真実というものを無視した教育はないんです。歴史的経過を無視して部分だけ教えるというのは教育じゃないんです。ですから、君が代を教えるに当たって、文部省としては、仮に法律が通った場合、学校では君が代の扱いは国語でもきちんとやるのか、社会科でもきちんとやるのか、近現代史を含めて。そのことをまずお聞きしておきたい。
  194. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) 現在も音楽の教科書において、君が代につきましては、歌詞が古歌に基づいているということを記述しておりますし、教えていると思います。  そういう意味で、現在でも君が代意味はどういうものか、古歌から始まって、どういう解釈をしていたかとか、そういうふうなこともちゃんと入っております。  もちろん子供の発達段階君が代というのは教えなきゃいけないと思います。アメリカで私がびっくりしたのは、非常に若いというか、本当に小さな子供たちはすぐにアメリカの国歌を歌っていなかったと思います。ほかの歌を、イギリスの歌であったかとすら思うくらい違うのを歌いながら、だんだんとアメリカの国歌を教える。かなり難しいですから。  日本の場合、ほかの歌を歌うことはないかもしれませんが、やはり発達段階に応じて君が代というものを教えていく。その際に、発達段階に応じて君が代の持っている意味ということをきちっと教えていくことが必要だと思います。そして、まず自分たちが住んでいる、家族や友達などが住むこの日本の国というものの歌だということを教える。それから、この国が、日本がいつまでも栄えていくんだということを願った歌であるというふうなことを子供の発達段階に応じて教えていく必要があると思っています。  それからもう一つ、やはり先生の御指摘のように、たびたび申し上げて恐縮ですけれども、戦前の日本がどうであったか、その反省のもとに、日本は戦後どういうふうにして平和国家を築いてきたか、こういう努力についてきちっと教えていくべきだと思います。これも発達段階に応じて教えていき、高等学校ではかなり詳しく教えるというふうなことになろうかと思います。
  195. 山本正和

    山本正和君 ここに中学校社会科と高等学校社会科のものを文部省からもらって見たんだけれども、何か中学校の方は今から変えるとかいうことで資料を余りくれなかったんですが、いずれにしても、とにかくどう見ても国旗国歌というのは書いてあるんです、はっきりと。国旗を掲揚し国歌を斉唱する、それを教えると。そこばかり書いてある。国旗とは何か、国歌とは何かということを本当の意味できちっと教えるという部分が非常に少ないんですね。  私は率直に言いますが、これは日教組も悪いかもしれぬですが、しかし自民党も悪かったんですよ。昭和二十年代に選挙をやったら、日教組の出身の者がどおんと出たんです、むちゃくちゃに出た、京都もひどかったですけれども。そうすると、社会党よりも日教組が憎かったんです、選挙をやった以上勝たなきゃいかぬから。そうすると、お互いにそれでばんばんやってしまうものだから、結局そのときに、日教組は君が代日の丸と言ったら弱いと。これは実際の話、弱いです、国旗国歌の方でやられると。そこから始まった。  しかし、日教組の方は日教組の方で、これは先ほどどなただったかお話がありましたけれども、私どもと同じぐらいの世代の子供を教えた先生たち、ですから今の七十五、六から八十四、五歳ぐらいの人が日教組をつくったんです。その人たちの気持ちは、何もそのときはマルクスもレーニンも知らぬですよ、みんな、昔の日本先生は。  しかし、その先生たちの思ったことは、国の命令で、先ほどあった満州へ開拓団へ行けと命令しなきゃいけない。予科練へ行けと割り当てが来るんです、おまえの学校は予科練何名と、中学校へ。開拓団何名と来るんです。それをやらなきゃいかぬ。それをお国のためといってやった。お国のためということの意味先生たちは議論しなかったですよ。そういう中で、そういういろんな思いがあった。国家の名において戦争をして、国家の名において戦争をするために子供に戦争へ行けと。戦争へ行って天皇陛下万歳と死んでこいと。こういうことをおれたちは言ったんだ、もうあれだけは二度とやるまいという気持ちがあったんです、戦争に負けたときに、教師の中には。  本当の話は、日教組はその当時、大日本帝国の教育を受けた者がほとんどですから、天皇に尽忠を尽くす教育を受けた者がほとんど日教組の中の幹部ですよ、昔の師範学校を出た。その連中がなぜああいうふうに変わっていったかといったら、もうあの教え子を、自分たちの同僚も戦争へ行って死んだけれども、もう絶対二度とさせてはいけないという気持ちが日教組の絶対に戦わない、教え子を戦場に送らないという歌になった。  しかし、それはそれで、もうちょっときちっと歴史的にはいろいろ勉強しなきゃいけない事実はあったと思います。結果があった。しかし、そういう中であった日教組というものと、それから文部省という名前を使った実は自民党の文教部なんですが、まだ現存している方がちょっとおられる、私の方で見たら現存しておられる方もおられるけれども、今やっぱり寄ったら、あのときはお互いにむちゃだったなという話もするんです。しかし、そういう政治の中に教育が巻き込まれていくということは非常に不幸なんです。そのことをもう一遍繰り返したら私は大変なことになると思う。  それは何ぼ言っても、まだ古い私たち、それから今、日教組の中で一生懸命先生として頑張って組合もやっている人は、いや、先輩から聞いたらこうだと思っている、こんなあの戦争のときに一生懸命頑張った歌を何だと思うのは当たり前です。しかし、そこを、だから例えば官房長官提案されたような格好で、君が代を本当にみんなで考えましょう、子供たちに教えるに当たっても君が代の経過も含めてきちっとやりましょうということを前提にして、本当に教育の立場から、国家の立場から文部省は考えてこの問題を提起する。仮にこれが、法律が通った段階では、もう一遍きちっと整理して、文部省としては、君が代論、日の丸論、こういうことが逆に学校現場で自由に議論できるような条件づくりもしますよということぐらいないと、現場はこのまま終わったらもう一遍大混乱だと私は思うんです。  その辺で、文部省が、今度は学校現場における、法制化された後の日の丸君が代指導についてどういうふうに考えておられるのか。私は、馳先生からお話があったような古今和歌集にあった君が代のあの歌、あるいは日の丸の歴史、そういうようなものも大事にしながら、しかしなぜこれがこうなってきたかということについて文部省はこれから十分に現場の先生たちとどんどん議論してくださいよということを示してもらわぬことには、本当の話、納得せずに議論になると思うので、その辺の文部大臣のお考え方を聞いておきたいと思います。
  196. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) 今回、学習指導要領を改訂をいたしました。そこでは、国旗国歌取り扱いに対することを一層充実していくことになっております。これで、新しい指導要領に基づきましてきめ細かい国旗国歌の話を教育していくことになると思います。  私、一言申し上げたいのですけれども、内心の自由でございますが、私も戦争中に、中学校のときに校長先生と教頭先生にひざ詰め談判に遭いまして、幼年学校へ行けと言われました。それからその次に、陸軍は嫌だと言ったら、翌年になって予科士官学校ができたからそこへ行けと、海軍ならいいんだろうと言われました。拒否しました。そのことは決して楽なことではなかった。私は断固として拒否しましたので、本当に内心の自由をきちっと持っている子ならば周辺による迫害ぐらいは排除していかなきゃいかぬ、そのくらいの力は持っていなきゃいかぬと思います。私は自分が実行してきました。  そのときに、おまえは愛国者じゃないのかと言われたときに、私は愛国者であるということを言いました。自分は科学と技術が好きである、科学者となり技術者となってお国に尽くすんだということをはっきり言いました。不利をこうむったことは明らかでありましたけれども、私は自分がそういう行動をとったということを内心の自由の話をお聞きしながら感じていた次第でございます。
  197. 山本正和

    山本正和君 大臣のあれはよくわかるんですが、だからそういう意味で私が言うのは、学校現場で、日の丸君が代について法律が通ったから逆に今度はしっかりと議論してくださいよということを文部省としては指導していただけるかどうかということです。職員会議で本当に自由に、入学式をどうするかとか卒業式にどうさせるかというような話じゃないんですよ。日の丸君が代について学校が自由に議論して、子供に教えるときにどうやって教えたらいいだろうかというような問題を含めた議論文部省としては保障すべきだと私は思うんだけれども、そこのところを聞いておるわけです。
  198. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 文部省学習指導要領は、再三繰り返して恐縮でございますけれども、各教科の教育の目標と教えるべき教育内容と、それに伴う指導計画等の全国的な基準としてごく大綱的なことを決めております。  したがいまして、どの教育内容につきましても学問的にあるいは教育のプロセスの中で一応決まったものとしてこれを教えなさいと、そういうところを端的に書いているわけでございまして、それをどう教えていくかということは学問なりあるいは教科の積み重ねられた教育活動の実績、それに基づきまして、主として教科につきましては教科書に基づき、あるいは道徳等につきましては適切な教材を用意して、これを各現場の創意工夫で教えていく、あるいはそれに対しまして文部省が適切な資料を提供したり、あるいは各都道府県や市町村の教育委員会が適切な指導資料や教材等を提示してそれを助けていく、こういう形で行われているわけでございます。  今後、この法制化に伴いまして、そういった基本的な学習指導要領の仕組み、あるいは国旗国歌に対します学習指導要領規定そのものを変える必要はない、あるいは取り扱いは変わるものでないと思っておりますけれども、今後、各学校現場におきまして国旗国歌に対する理解が十分深まるような手だて、これは私ども文部省を含めまして各都道府県教育委員会、市町村教育委員会とも十分検討していかなきゃならないものと考えているところでございます。
  199. 山本正和

    山本正和君 局長はなかなか物を言いにくい立場だから、私はこれ以上言いませんけれども、本当の話、私は三重県で、日教組の三重県の委員長を長い間、十八年半やったんです。二十五年ほど前ですか、私は日の丸はいいとやったんですよ。そうしたら、日教組の連中、本部からも来ますからね、いろいろやる中で、おまえは何だと、おまえは日教組の県の委員長のくせに、なぜおまえは日の丸賛成だとやられたんだ。私は、そんなことないよと、日の丸は私は個人的に賛成だと思う、それをしかしみんなに強制するわけではないよと、ばんばん議論したんですよ、随分激しい議論。  しかし、どういうわけか知らぬけれども文部省が出した統計を見てみたら、三重県は日の丸は一〇〇%なんだ。君が代が五〇%台なんだ。私は、そういえば君が代論争しなかったなと今反省しておるんです。本当の話、それはみんながまともに議論したらいろんな問題が出ると思う、実際は。まともに議論せずに格好だけ押しつけるとおかしくなってくる。  それから、私よりも後輩がもう校長もうんとやめて、やめたから自由に物が言えるようになったら何を言うかといったら、一番つらかったのは卒業式、入学式で校長としてちゃんとしなきゃいかぬというのが一番つらかった、あんなに先生しておってつらいことないと、こう言うんですよね。校長が言うんですよ、やめていった校長がみんな。それはなぜか。文部省が卒業式、入学式においては日の丸を掲げ、歌を歌わせることと書いてあると。それに基づいて各県教委が全部それを指導しなきゃいけない。  しかし、二十年前まではそうでもなかった。割合に自由で、そして日の丸を掲げ君が代を歌った学校もあるし、そうしない学校もあった。それで、先ほど広島の話が出ましたけれども、私は広島の高等学校の組合の一番初代の委員長からみんな知っておるんですよ。昔の人はどっちかといったらファシズムみたいな人がおった。天皇陛下万歳という者だったんですよ、最初つくった人は。  そういう長い歴史の中で、いろいろなことがありますよ。あるけれども、私が校長ならば、部下職員を説得できなかったら日の丸は掲げません、君が代を歌わせません、校長の責任で。教育委員会が何か言ってきたら、何だと、逆に教育委員会へ行って教育長の首を切るまで闘いますよ、むちゃするなと言って。私はそう思う。  だから、そういう教育現場におけるさまざまな学校運営の苦しみがある。だって、学校は役所と違うんですよ。役場じゃないんですよ。校長が教員と一緒になって山登りする。山登りした子が帰ってこない、みんなが走っていって死に物狂いでやるんだ、何か事故が起こったりしたら。これも子供の関係でやっておったんだ、ずっと。それが何かばらばらになってきているんだけれども、私は学校というのは役場じゃないと思うんですよ。  本当に校長と教師が一緒になって議論しながら、子供たちと体をももぐり合わせてぶつかっていくのが学校だと思うんです。その学校を、文部省が通達したら全部さあっと命令していくというふうな国にしたらいかぬと私は思う。本当に話し合いの中で、なるほど国歌だな、国旗だなと、それじゃみんなで、少々不満はあるけれども君が代でいいじゃないか、これだけ大勢の人が言うならばと。しかし、その意味はこうだよというところまでいくのならいいんですよ。  今そこのところを一番新聞やテレビでいろいろ書いてありますよ。本当にどこの学校でも、どこの職場が一番議論しているかといったら、学校ですよ。しかも、その学校文部省調査で八五%、六%ですか、ほとんど日の丸君が代もみんなやっているんですよ。その掲揚している学校がまだ議論しているんです。なぜか。それは自分たちが子供に教えるということに対する責任感から議論するんだ。そこの辺の問題が本当にわかっているんだろうかと私は心配で仕方ないんです。  そして、特に私は、これからちょっとまた戻して官房長官の意見を聞きたいんだけれども日本の国はいい国ですよ、すばらしい国ですよということを子供にどう教えるかという問題があるんだ。文部省学習指導要領の中で、日本の国はそんなすばらしい国ですよ、世界の中でこんなにいい国ですよと書いてあるところはどこにあるかとずっと見てみた。ないんですよ。国家論が欠落している、国家論が。国家論が欠落した教育がありますか。国家論が欠落したような国家になぜ君が代日の丸が要るんですか。そうなってくるんですよ。  だから、一番大事なことは、日本の国の国民として日本の国に生まれた喜びや誇りが持てるような教育論にしてもらわぬといかぬ。みんな進学と、何かわけのわからぬ塾で子供らは追いまくられて何が楽しいんですか、子供が今。そういう中での今度の日の丸君が代論争であってほしいと思うんです。  そして、よくアメリカの話が出るんです。私は何遍も言います。私の同級生の七十二歳を超えた男がアイスホッケーでアメリカへ三回行っているんです、日本の年寄りの選手団で。アメリカの連中としょっちゅう話していることを私に聞かせてくれる。なぜアメリカは「星条旗よ永遠なれ」をやるか。物すごい弾圧を受けた中でヨーロッパからの独立をかち取った。その喜びをずっと子孫に伝えていこう、アメリカの自由と民主主義と喜びを伝えていこうという中で自然に歌ってきたと言うんです。本当に喜んで歌えるんだ。  今、日本国民みんなが、アメリカが「星条旗よ永遠なれ」を歌うような調子で君が代を歌いますか。どっちかは知らぬけれども、皆さんがそうならどうぞという、そういうような話なんだ、大部分が。本当にこの国を愛して国歌を歌おうということになっているかというんだ。  私は官房長官が一番敏感に感ずる人だと思うから、今の国会における国旗国歌の論争の中で、官房長官、ひとつどうでしょう、あなたは趣旨説明者なんだけれども、総理をしてもっと言わさなきゃいけないことが私はあると思うんです、今の日本の国の中で。国旗国歌というのはまさに国の問題です。国のありようの問題なんです。その国のありようの問題を、広島の高等学校先生が死んで大変だから明文化した方がいい、そんなことでやられたら国民は情けないです。  昔の明治政府以来、ずっと日本の国力をつくってきたのは文部省ですよ。戦争に負けたときにある男が、私よりちょっと年上ですけれども、東大の法学部で一番の男が役所を希望してどこへ入ったか。文部省ですよ。この貧しい国日本を直すのは教育だと言って文部省を選んだのです。そういういろいろなものがあるんです。その思いがちっともないんだ、この日の丸君が代論争を聞いておったら。だから、文部省も本気になって日本の教育の責任者として考えると。  官房長官提案者として、国旗国歌論が今のこのままでいいんですか、こんな格好での議論のままで。仮に法律が通ったとしても、今からしなきゃいけないことはたくさんあるでしょう。そのことについて、官房長官として、本当に昔の大日本帝国を反省できる我々の世代の者として官房長官考え方を聞いておきたいと思います。
  200. 野中広務

    国務大臣(野中広務君) 山本委員の、同じ世代を共有した中から、これからの二十一世紀をお考えになる真剣な御意見を承って感銘深く存じておるところでございます。私も同じ世代を共有してまいりましたけれども日の丸君が代について、山本委員に比べ私は軟弱だったのかなと先ほど来のお話を聞きながらみずから反省をしておるわけでございます。  いずれにいたしましても、あの戦争に敗れまして、そしてそういう中から謙虚に反省をし、償い、新しい国づくりに立ち上がったはずでありますけれども、残念ながら戦後民主主義というのは日本が長年にわたって培ってきた文化や伝統を否定するところからスタートをしたのではないかなという思いがしますし、それが正義であるかのような、ゆがめたという言い方が適切かどうかわかりませんが、そういうものが出発点となって、委員がおっしゃるように、国家としてのアイデンティティーを失ったというように思うわけでございます。  戦後五十年余りを経て、名詞としての日本は存在したけれども、国家観をはぐくまれた日本というのは薄れてきたというように私はみずからを省みておるわけでございまして、今後、単に法律制定されたからだけでなく、これから世界の中で生きていく日本の世界観や国家観というものがこれをきっかけとしてはぐくまれていくことを私は期待しておるわけでございます。  また、文部省におかれても、そういう過去のすぐれた我が国伝統や文化というものの中から生まれてきた国歌国旗、そしてそれが一時期またこれが多くの過ちを繰り返すに至った歴史をきちっと検証し、そういう中から子供たちに現代史、近代史を教えておかなければ、それぞれ韓国や北朝鮮あるいは中国、東南アジアの若い人たちには当時の歴史が正確に、むしろ日本人を必要以上に加害者として教え込まれている中で、日本の青少年には全然その時代のことが教えられていない。そういう人がやがて二十一世紀を担うことになったとき、一体どのようなアジアの中における日本の存在があるのかと考えたら、まことに不安でならないわけでございます。それだけに、今、山本委員がおっしゃったことを十分銘記して、我々は教育の中で、さらに政治の中で生かしていかなくてはならないと思っておる次第であります。
  201. 山本正和

    山本正和君 終わります。     ─────────────
  202. 岩崎純三

    委員長岩崎純三君) この際、委員異動について御報告いたします。  本日、畑野君枝君が委員辞任され、その補欠として笠井亮君が選任されました。     ─────────────
  203. 山崎力

    ○山崎力君 大分高い次元のお話があるようですが、私は今回の法律部分についてちょっと気になるところがありましたのでお伺いしたいと思います。  それは日の丸の色でありまして、これは衆議院でも議論になったようですが、我々はこの日の丸の色を赤というふうに、せんだって南野同僚議員が歌われたごとく「白地に赤く」と、赤というふうなイメージでやっているんですが、これはなぜか紅色と表現されております。その辺の事情について、衆議院での議論はある程度聞いておりますので、簡単にお答え願いたいと思います。
  204. 竹島一彦

    政府委員竹島一彦君) 日章旗の色でございますが、鮮やかな赤をあらわすということで紅色という表現にさせていただきました。赤といたしますと非常に幅が広いということでございまして、その中の鮮やかな赤という気持ちを特に表現したいということでこういう用語を使わせていただいた次第でございます。
  205. 山崎力

    ○山崎力君 そうすると、一番鮮やかな赤のことを紅色と言うんですか。
  206. 竹島一彦

    政府委員竹島一彦君) 一番というふうにおっしゃいましたけれども、赤の中でも鮮やかな赤をあらわすというのが紅色でございます。
  207. 山崎力

    ○山崎力君 これはちょっと文部省さんとも関係するんですが、私の記憶では、もう四十年近く前になることなので定かではないんですけれども、色について、主に中学だと思いますが、どのように教えておりますか。
  208. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 小学校図画工作、それから中学校の美術で色についての学習をするということでございますが、必ずしも学習指導要領では色の名称そのものを直接教えるということはいたしておりません。  しかしながら、中学校の教科書を見てみますと、色の三原色あるいはそのまざりぐあい、あるいは色の明るさ、光度、明るさの明度の高い低い、あるいは色の赤から青、黄色と、こういったような色彩についての一通りの学習をするようになっているところでございます。
  209. 山崎力

    ○山崎力君 私の記憶では、これは同年代以下の方は今でも教わっていると思うので、私より若い方は少なくとも中学校で教わっていると思うんですが、色というのは明度と色相と彩度と三要素があると。その中で、色相、彩度がない明度だけのものを無彩色と称して、黒から白、その間の灰色系統がそういう無彩色であると。そのほかの色のついた色はすべて色相によって区分けされて、これはいろいろな数え方があるんでしょうけれども、七色というような表現もされていますが、実際にはいろいろもっと多くの色相でやっている。補色関係とかそういったものを習った記憶もあるんですが、その中で彩度というのがあるわけです。同じ色相の中でも鮮やかなものがある。それは段階がいろいろあるけれども、その中で一番鮮やかな色、これは青でもなければ黄色でもない赤だと、その彩度が一番高い色は赤だというふうに教わった記憶があるわけです。最も鮮やかな色が赤だというふうに私は中学で教えているんじゃないかと思うんですが、いかがでしょうか。
  210. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 学習指導要領はそこまでは踏み込んでおりませんが、御指摘のとおり、中学校の美術の教科書におきましては、色の三属性ということで色相、明度、彩度と、こういうものにつきまして教科書において学習をする、それからまた無彩色、有彩色という形での学習をするというふうなことになっているところでございます。具体的に私自身も赤が一番鮮やかかどうかということにつきましては知識を持ち合わせておりません。
  211. 山崎力

    ○山崎力君 仮定の問題といいますか、私はそう確信しているんですが、少なくとも紅色を鮮やかな赤だからというふうな説明では、これは文部省の中学校で教えている先ほどの難しい話はともかくとして、先生、彩度が一番高いのは赤だと教わっているんだけれども日本国旗の赤というのは、鮮やかな赤と言っているのは紅色になっていますよ、この赤と紅色とはどう違うんですかと聞かれたときにどう答えるかという気が私はするわけです。  ですから、これは要するにそういったところまで限定した、はっきりしたようなことで検討した上でこの色にしたのかどうかというのは私は極めて疑問なのでお尋ねしているんですが、その辺、いかがでしょうか。
  212. 竹島一彦

    政府委員竹島一彦君) その辺は法制局を含めましてよく検討いたしました。  赤色という場合には、白に近い赤から黒に近い赤まであって広過ぎる、もう少し鮮やかな赤ということをあらわす用語はないかということで検討いたしました。  それで、紅色につきましては、日本工業規格においてもこれは鮮やかな赤のことであるというふうに規定されておりますし、やはり鮮やかな赤というときに紅色というものが使われているということがほかの法令におきましてもございますので、今回そういうことで紅色というふうにさせていただいたわけでございます。
  213. 山崎力

    ○山崎力君 そうすると、その辺のところを、別に言葉じりをとらえて意地悪で言っているわけじゃないんですが、一般の人たちが見たときに、いわゆる鮮紅色という意味での赤が日の丸であって、本来の赤ではないんだというふうな、本来の赤というのはいわゆる彩度が一番高い赤、どっちかというとその赤というのは一般的な人たちの印象よりは暗い感じが確かにします。鮮やかさが一番高い赤というのは意外と暗い感じが、明度的には下になっているという部分があるんですけれども、それを紅色にしたということになると、それこそせんだっての南野議員の歌の「白地に赤く」というこの歌は歌えなくなると。白地に赤ではないんだと、白地に紅かということになるわけです。  その辺のところでいくと、赤というものは非常に色の範囲は広いんだよというところで限定するということが本当に必要だったのかどうかなという私は疑問を持っている。  先ほど日本工業規格のことを、JISでもISOでもいいんですけれども、そうすると、その色というものといわゆる本式の赤というものとのいわゆる日本工業規格上のところまで指定した上での法制化と考えてよろしいんですか。
  214. 竹島一彦

    政府委員竹島一彦君) 実は日の丸の旗の素材は一般的には布なわけでございますが、それ以外にいろいろな態様があろうと思います。したがって、印刷するときのいろいろな技術的な問題、それから染色の場合の技術的な問題がございますので、日本工業規格で示されているものと、そこまで厳密には考えておりませんが、さりとて一般的に赤と言えば、白い赤から黒い赤まである中のどれでもいいよというわけではなくて、鮮やかな赤というふうにしていただきたいという意味で紅色というふうにさせていただいているということでございます。
  215. 山崎力

    ○山崎力君 ですから、その辺も、鮮やかというのがどういうふうな意味合いを持つかというのは、これはやっぱりいろいろな人の、厳密に言えば個々人の網膜のいわゆる光に対する色でも違ってくるわけですから。  ただ、厳密にそこまでいかなくてもというのであれば、赤と書いておいて、そこのところでそのうちの鮮やかな赤、こういうふうにしておけばいいのを、紅色という指定されたごく限られた部分にまで見ると、要するに工業規格の色に準拠したものにしてください、もちろんそれは写真であれ何であれ印刷上の問題で微妙に違ってくるわけですから、美術用のあの印刷にしたところで、一回のロットでやったのと次のロットで同じ印刷に出るか出ないかというのは物すごく苦労なさっているわけです。  ただし、そういった実際上の問題はともかくとして、我々日本国民国旗日の丸の赤というのはできるだけ日本工業規格のこの色に近いものを印象しているんだということをやった方が私はむしろよかったのではないかなと思うわけです。  逆に言うと、それを余り言いますと、それでは小学校の図画になるんでしょうか、そういった絵をかくときに、クレヨンあるいはクレパスとかいろいろあるかもしれない、それで赤をかいたら、これはちょっと違うんじゃないかという指摘をされる可能性はあるんですよ。簡単な問題じゃないんです。大体これで性格が決まって、まあそんなに厳密じゃないけれども、決まりはこうですよと、その決まりの中から許容範囲があって、ここまではいいでしょうというのが考え方なんです。  そうすると、本当に意地悪に言えば、これから文部省にお聞きしたいのは、国旗をかきました、白いクレヨンでかきました、真ん中にクレヨンの赤いのでかいたら、これは厳密に言うと違うよという教育をこれからするんですか。
  216. 御手洗康

    政府委員御手洗康君) 学習指導要領におきまして国旗を具体的につくるというような指導内容を示しているわけではございませんが、御指摘のように、各学校におきましては、諸外国の国旗も含めまして国旗をデザインするというような学習場面というのは当然あろうかと思います。  その際に、小学校段階では、その色の明度、彩度というようなところまで学習するというのは大変難しかろうと思いますので、そういった各発達段階に即した適切な指導が現場で行われるものと考えております。
  217. 山崎力

    ○山崎力君 だから、その適切な指導が想像すると難しいから言っているわけですよ。  要するに、それでは先生がこれは本当は紅色だと言うんだけれども、紅色というのはどういう色ですか、クレヨンの中にありませんと。あるいは多色のあれだったらあるかもしれないけれども、そのうちの赤じゃなくて紅色ですよ、これが正しいんですよというようなことを、本当にこれから細かい話になるんだけれども、やるとしたらそこのところを教えることをしなきゃいけないわけです。赤ですよ、その赤にはいろんな赤がありますよ、それで日本国旗の赤は鮮やかな赤ですよと教えるのと、一つのその中の限定された色をまず示すというのでは教え方が違ってくると私は思うわけです。  ですから、非常に細かいことを言いましたけれども、色一つとっても、そういった意味では問題にしようと思えば非常に問題になるんです、この問題というのは。その辺のところを僕は本当に吟味されたのかなという気がするわけでございます。  それでは、そういったところで、その辺のところを、今から紅を赤にするということ自体もいろいろ問題があるかと思うので、それについては私は申し上げませんけれども、本当のことを言えば、簡単に鮮やかな赤を紅色と言うとなってきた場合、一般的な用語使い方と、それから法律で定めてこういうものをつくるんだといったときの言葉使い方、要するに、これだったらば、本当に言うんだったら、丸括弧で日本工業規格の何とかの、数字かアルファベットか知りませんけれども、これに準拠するというような形の方が、私はどうせやるならばそこまでやる方がいいんだろうというふうに思う次第でございます。  それではもう一点。今いろいろな問題でこの問題が言われてまいりました。官房長官にお伺いしたいんですが、慣習法として定着している、こういうことでそれを実定法化したい、法制化したい、理由は広島県のあれをきっかけに云々と、こういうことを何回もお聞きしているわけですが、本当に慣習法として定着しているというのであれば私は法制化する必要はなかったと思うんです。法制化しなければならないということは、慣習としてはかなり定着して規範的な部分法制局長官が言われたように持っていた部分はあるけれども、地域差であるとか個人差が非常に激しい、よってもって法制化をしなければならないというのが私の意識なんですけれども、その辺はいかがでございましょうか。
  218. 野中広務

    国務大臣(野中広務君) 山崎委員のおっしゃったとおりでございまして、日の丸君が代につきましては慣習法として定着しておるという状態でございましたけれども、成文法に根拠がないことをもって日の丸君が代我が国国旗国歌と認めない意見が国民の一部にあることは事実でございますので、国旗国歌慣習法として定着しているだけでは不十分と考えまして、このようなことから、二十一世紀を迎えることを一つの契機といたしまして、成文法にその根拠を明確に規定することが必要であるとの認識のもとに、今回、法制化をお願いしたところでございます。
  219. 山崎力

    ○山崎力君 そういうふうにお答え願った後で恐縮なんですけれども、それにしては慣習法という言葉使い方政府答弁で余りに安易に用いられてきたのではないかなと私は思うわけでございます。  この慣習法というのは非常に私個人の感じるところでは難しい使い方でございまして、もともと日本人というのは近代法の受け取り方に問題があるというふうに言われている。そこにプラスアルファで慣習法をどうするんだということになると、非常に理解もしづらいし誤解しやすいし、それをもとにした誤用というんですか、誤った使い方もするのではないだろうかというふうに私は思いますので、できる限りこれからのこの問題の説明については、慣習法使い方については自重した使い方をしていただければというふうに思う次第でございます。  そういった意味で言えば、慣習法というのはもう一つ別の言い方をすれば判例法という言い方もあるわけでございまして、私はその考え方というのとは全然違った感じをしております。  もう一つそれに関連しまして、きょう長いこと、それからせんだっても聞いておりまして、個人的なことを申せば、私はまさに戦後生まれの最初の世代、ベビーブームの世代でございまして、ある時期、私のクラスで、これは小学校の四、五年のときだと思いますが、何かの拍子で、先生だったと思うんですけれども君が代が何だか知っているかいと聞かれて、私の仲のいい友達が、それは大相撲の歌だ、千秋楽に歌う歌だと言いました。その話が父兄その他に伝わりまして、これはいろんなところで言われたんでしょう、新聞にも出て、君が代は大相撲の歌だと今の子供たちには理解されていると、こういうふうな、まさにその世代でございました。  そして、一連のきょうの話を聞いていて、私のつたない記憶でもというか、私の個人的な感想で言えば、確かに世羅高校の先生が今回のあれになったんですけれども、以前にこんなことで自殺した人は何人もいるはずなんです。もっと今よりひどかったかもしれない。私の個人的な感想からいけば、今でもこの問題で自殺する人がいるのかねという方があの問題については大きな問題でした。ということは、こういったことで自殺にまで追い込まれるような際立った対立というものが地域によってはまだあるのかと。あの先生が非常に個人的に性格的に弱くて、ほかの人だったら何でもないことで死んだというのではどうもなさそうだと。そのときに、果たしてこれでいいのかなというのが私の基本的な考え方でございます。  ただ、最後に言わせていただければ、慣習であればこれは残ります。しかし、実定法化されればこれは法律で変えることができます。そういうことを私は一部恐れる部分がございます。しかし、これが実定法化すべきだということであれば、それに反対する理由はない。  それからもう一つ、この際言わせておいていただければ、一番私が違和感を感じるのは、戦争のことで日の丸君が代のことを言われる。それであるならば、なぜ一番迷惑をかけた名前であった日本という国号と最高の指導者であった天皇制を戦後やめなかったのか。そのことの議論をしないで、日の丸とかあるいは君が代とか、そういうふうなことで議論をすりかえていると私は思います。そのことが私のこの問題に対する一番の違和感でございます。  官房長官文部大臣、御感想を伺えたらと思います。
  220. 有馬朗人

    国務大臣(有馬朗人君) 確かに日本が戦に負けたときに、戦前のこと、戦争中のことをもっとはっきりと反省する必要があったと思います。ですが、私は、反省に基づいて新憲法がつくられ、それに基づいて平和を志向する日本人が生まれ、そして今日の繁栄に導いてきたと。こういう意味では明らかに、今御指摘のような問題はもちろんありますけれども、我々日本人は戦争ということに対して極めて真剣に反省をしている、そしてその上に新しい憲法をつくって、もうこれからは絶対戦争はしない、特に他国に兵を進めるなんてことは絶対しないということを考えて今日を築いてきていると思います。  ですから、そういう意味では、御指摘の点はわかりますけれども、やはり十分我々日本人は考えて今日まで来たと思います。そういう点で、今回はっきりと国旗及び国歌をこの際きちっと決めよう、法律化しようということに至ったのであると思っておりまして、そういう意味では、ちゃんとした反省がなかったわけではなく、極めて反省をしてきた上で今日に至ったと私は思っているということを申し上げたいと思います。
  221. 野中広務

    国務大臣(野中広務君) 今、文部大臣からもお話がございましたように、敗戦によりまして、その謙虚な反省の中にお互いに償い、かつこの国をどのようにして立ち上げていくか。山本委員がおっしゃいましたように、食べるものも着るものも働く場所もなかった中からこの国を立ち上げていく、そういう中において、文部大臣から今お話がありましたように、新しい憲法ができ、そしてすべての戦争を排除して平和国家を目指してきたわけであります。  ただ、今から考えてみますと、わずか五年にして朝鮮戦争が始まってしまいました。あのことが日本の経済復興に大きく寄与いたしましたけれども、この国のありようをまだまだ真剣に考えなければならなかった時期に日本はまた新たな転換の中に巻き込まれたのではなかろうかと私は思い、そういう負の遺産をそのまま背負って、そしてそれが教育の上における負の遺産ともなって学校現場の対立になってきたのではないかとみずから省みて思っておる次第であります。  それだけに、法制化によって再び日の丸、そして君が代が戦争という愚かな手段に使われたり、あるいはこの国の将来に誤りなき問題として再びこれが法律として変えられることのないように願ってやまない次第であります。
  222. 山崎力

    ○山崎力君 終わります。
  223. 岩崎純三

    委員長岩崎純三君) 本日の質疑はこの程度といたします。     ─────────────
  224. 岩崎純三

    委員長岩崎純三君) 理事辞任についてお諮りいたします。  林紀子君から、文書をもって、都合により理事辞任したい旨の申し出がございました。これを許可することに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  225. 岩崎純三

    委員長岩崎純三君) 御異議ないと認め、さよう決定いたします。  この際、理事補欠選任を行いたいと存じます。  理事選任につきましては、先例により、委員長の指名に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  226. 岩崎純三

    委員長岩崎純三君) 御異議ないと認めます。  それでは、理事笠井亮君を指名いたします。  次回は明三日午前十時から開会することとし、本日はこれにて散会いたします。    午後五時五十七分散会