○立木洋君 一九九四年に
北朝鮮の
核開発の
疑惑が大きな問題になってから六年近くがたってきたわけですけれども、こうした中で
KEDOの
枠組みが発足して、一応今後の方向についてもそれを確実に守るという実行をしながら問題を解決していく、そういう一定の見通しは一応できてきている。
しかし、この六年間を振り返ってみると、私は
外交上極めて重要な節々があったと。そのときにどういう態度をとるかということが極めて、こういう
表現が適切かどうかはわからないけれども、どういう態度をとることが本当によかったのかということをもう一度
考えてみる必要があるんではないかというふうに
考えられるほど重要な経過があったと思うんです。
一九九四年でしたか、の春に、いわゆる査察の
協定なんかにはもうこれ以上
実施できないというふうな問題になって、それからNPTからの脱退の問題が問題になり、制裁問題が問題になり、
外務省から柳井さんが
アメリカに飛んでいき、いろいろなことが起こりました。それで、大変な状態になったときに、六月十五日にカーター元大統領が
北朝鮮を
訪問したと。それで、
北朝鮮の首脳と話し合いをし、そしてそれが帰国してから発表されるかと思ったら、
北朝鮮で全世界にテレビ放送したと。
アメリカは制裁をやりませんというふうなことまで述べて、そしてそのかわりあなた方も核計画の解消について努めるべきであるというふうな話し合いが進められたと。
外交というものがどういう
意味を持つかということを深刻に
考えさせられる状況というのが起こってきた。
その後、この問題に関して
アメリカと
北朝鮮との間での話し合いが行われましたけれども、単純に進むという状況ではなかった。
KEDOの
枠組みができてからもいろいろな問題が起こりましたし、それで結局去年の十月になっていわゆる
KEDOの
理事会で決定されて、そして今度のことしの五月三日に
日本としては調印し、今回議会にかかっておるという状況だと思うんです。
この問題の中で私
たちが
考えれば、あのカーター元大統領が
アメリカに帰ってから、もしだれもこの時期に
北朝鮮と話そうとしなかったなら今ごろどんな事態になっていたかしれないと。その
外交に直接当たったカーターさん自身としては本当に深刻な思いだっただろうと私は思ってその
記者会見の
発言を聞きました。同時に、
北朝鮮への制裁の計画は戦争につながる極めて深刻な事態であったということをも私のいまだに記憶に残っている彼の言葉の一こまであります。
そういうことが単純に進んだわけではない。極めて真剣な
努力があり、粘り強いいわゆる交渉の結果ということが繰り返し繰り返し行われてきてこの六年間の経過を振り返ってきたときに、今、
外務大臣としてその任務を負われている
高村さんとしては、こういう長い経過の中で行われてきた
外交というものの中から一体どういうふうなことをお感じになっておられるのか。今後、
KEDOを忠実に守っていくということを進めていくためには一体何を大切だというふうにお
考えになっているのか。
六年前はまだ
外務大臣ではなかったですけれども、しかしその後の経過の中で一番いろいろと
考えられた
大臣ですから、その中での酌み取ってきた教訓等の問題についてまず最初にお尋ねしておきたいと思うんですが、いかがでしょうか。