○奥野
委員 私は、敗戦前には旧内務省にありまして、勝利を願いながら公務に従事しておりました。敗戦後は、日比谷にありました占領軍の総司令部をたびたび訪れまして、その承諾を得ながら国内法をたくさん書いてまいった人間でございます。
中村法相の発言を通じまして、予算
委員会や本
会議、先ほども御
質問がございました、問題にされておられるようでございますし、また、既に不適切な発言だとして取り消してもおられます。私は、これをとやかくここで取り上げる意思は全くありません。
同時にまた、あの日支事変の最中でございましたけれども、昭和十二年に斉藤隆夫さんが軍部の政治介入について批判的な発言をされた。それで、
国会が除名処分にした。何で
国会が軍部に加担をして政治介入をさらに許すような方向をとったのか、私は非常に残念に思っているわけでございまして、
国会のあり方というものが国権の動向を決めるところでございますだけに、憲法を通ずる議論はもっと遠慮なしにぽんぽん言えるような
国会にできぬものだろうかなというのが私の念願でございます。憲法というのは国の
基本法じゃないか、国の
基本法なら、擁護の義務に反するとか、何か口実をつくってとやかく言うのは避けた方がいいんじゃないだろうかなという気がするわけでございます。
同時に、憲法に関する情報を余りにも
国民に対して教えなさ過ぎているな、こう思っているわけでございまして、やはり私は、質疑の前提としてこういう事態を申し上げて、私の申し上げていることに過ちがあってはいけませんから、法制局の方に、事実の間違いであるかそのとおりであるかだけをおっしゃっていただきたいな、私はこう思っているわけでございます。
私自身も、二十年近く前になるんですけれども、
法務大臣をしておりましたときに、この
委員会で
社会党の稲葉さんから
質問を受けました。それは、自由民主党は自主憲法の制定を旗印にしているじゃないか、あなたはどう思うのかということでございました。私は、そのときに二つの考えがとっさに浮かびました。一つは、憲法発言を通じましてついに
辞任に追い込まれた閣僚もいる、本
会議で謝罪させられた閣僚もいる、あるいは何か意図があってこういう発言が出たのかなという疑問が一つございました。もう一つは、よい
機会を与えていただいた、
国民に率直に私は話しかけていきたいなということでございました。
したがって、そのときには、
国民の間で議論が行われて、同じものであってもよいから、もう一度つくり直してみたいと思うなら、私はそれは好ましいと思います、こう答えたのであります。それが、数時間後には、奥野
法務大臣罷免の発言を誘発してまいりました。いろいろな
委員会から私は呼び出しを受けまして、率直に答えてまいりました。幸いにして、憲法議論がむしろ活発になったように思うのです。マスコミも取り上げたわけでございます。
それが、また中村法相の発言を
機会にしていろいろな意見が出ているわけでございますから、そういう意見もあれば、私のような心配もあるんだ、
国会というものはそうなけりゃならないんじゃないかな、一つの発言だけが通っていってそれで終わっちゃうと国の将来が心配だな、こんなことから、私はあえてこの場をかりさせていただくことにしたわけでございました。
憲法には、もちろん憲法を尊重し擁護する義務も書かれておりますし、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」という言葉もございますし、あるいは「言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」という言葉もございますし、改正条文もあるわけでございますので、私は、もう少し濶達な議論が
国会で行われるようにした方がいい、こう思っているわけでございます。
ちょっと、私なりの記憶どおりに事実を申し上げさせていただきたいと思います。
ポツダム宣言を受諾して戦争終結に持ち込んだわけでございますけれども、その際に、
国家統治の権限は連合国
最高司令官に従属する、天皇や日本
政府の権限は総司令官に従属する、こういうことでございましたし、またアメリカの初期の日本管理の基本方針は、日本が再びアメリカの脅威となるような存在にしないことを確実にするんだということでございまして、これはやっとの思いで日本に勝ったんですから当たり前のことだと思いますけれども、それが前提で七年間の占領
行政が行われたことは、私は自覚しておかなきゃならないんじゃないかなと思うわけでございます。
そして、
国会というところでは、最初の選挙のときには、候補者になるのにも資格審査があったんです。資格審査をパスしなかったら立候補できなかったんです。しばしば、
国会議員なり公務員なりは、占領政策の意図に反するということで追放処分を受けているわけであります。
しかもまた、検閲方針が示されておるわけでございまして、こういうことを言っちゃいけないんだということがたくさんあったわけでございました。最初のころは、私のところへ来る手紙まで開封されておったわけでございました。そして、その中には、憲法と総司令部とのかかわり合いに触れてはならないという言葉もございました。したがって、七年間は総司令部とのかかわりは一切口にできないし、マスコミにも上がってきませんから、いまだに十分に情報が提供されていないことはやむを得なかったんじゃないかな、こう思うわけでございます。また、大東亜共栄圏という言葉を使ってはならないとか、いろいろな言葉がございました。
さらに、憲
法改正は、マッカーサー総司令官がスタッフを集めまして、スタッフに対しまして三つの原則を示して書かせているわけでございます。その三つの原則のうちの一つを、私はここで読ませていただこうと思います。
国家の主権的
権利としての戦争を放棄する。日本は、紛争解決の手段としての戦争、及び自己の安全を保持するための手段としてのそれをも、放棄する。日本はその防衛と
保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる。いかなる日本陸海軍も決して許されないし、いかなる交戦者の
権利も日本軍には与えられない。こう示されているわけでございます。
その中には、今申し上げましたように、自己の安全を保持するための手段としての戦争も放棄する、このとおりには幾ら何でも憲法には書けないじゃないか、しかし憲法には書かなきゃならない、だから苦心して私は書いたんだなと思うわけでございます。
例えば総則には、「諸
国民の公正と信義に
信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という表現がございます。私なりに、なるほどこれもその一つなんだなと思いました。それから、九条には、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、」「永久にこれを放棄する。」と書いてある。さらにまた「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」「交戦権は、これを認めない。」こういう表現があるわけでございまして、私はまた、そういうことを意識しながら中村さんの発言があったのかなと思ったりしているわけでございます。
それで、憲法が生まれましたときに、
内閣法制局の
職員は、
局長を除いて全部入れかえさせたんです。これは総司令部の命令です。そして、新しい法制局の
職員をして憲法とほかの
法律との整合性に当たらせたわけであります。民法もみんな改正になりましたよ。それは当然だと思うんですけれども、全部入れかえるということはなかなか厳しい姿勢をとるんだなと私はそのときは思ったものでございました。
そして、この憲法の制定に当たられました時の総理大臣が吉田茂さんでございます。吉田茂さんは、二十二年に選挙で第一党を
社会党にとられたわけでございますから、下野されたわけであります。そのころに書かれた色紙だと思うんです。この色紙は、総理大臣の秘書官をしておられた西村直己さんが持っておられまして、亡くなってから未亡人が憲法記念館に寄附されておりますから憲法記念館にはありますし、また写しもつくっておりまして、だれにでもくれるわけであります。その色紙に書かれておる一つには、真ん中にだるまの絵がかいてあるんです。右側に、「安定の為である 徳次郎」と書いてあるんです。金森徳次郎さんであります。左に、吉田さんは素淮と号しておられて、素淮と書いてありまして、「新憲法たなのだるまも赤面し」と書いてある。「新憲法たなのだるまも赤面し」、これが憲法制定に当たられた吉田さんの本当の心境だろうと思います。こんなもの、当時の占領軍に見つかったら大変なことになったんだろうと思うのでありますけれども、それが今は憲法記念館にちゃんとあるわけでございまして、だれでも見られるわけでございます。
吉田さんは、最初の憲法論議のときには、自衛のための戦争も許されないということはおかしいじゃないかという
質問に対しまして、これまでしばしば自衛の戦争と称して侵略戦争をやってきたんだからこれもできないことになっているんだ、こういうお答えをしておられるわけでございます。その後に吉田さんは自衛権を認められ、自衛のための戦いは肯定しておられるわけでございますから、解釈で憲法を改正したのは、解釈改憲はこれ一つだと言われているわけでありますけれども、明らかに解釈改憲が吉田さんの手によって行われたわけでございました。
昭和二十五年に朝鮮戦争が起こるわけであります。さすがに総司令部は、日本に軍隊をつくれと言えませんから、警察予備隊をつくれと言ってきたのです。警察予備隊をつくれと言うてきたのですが、与えました武器は、お古の
機関銃であったり野砲であったりしたわけであります。これは人を殺す道具なんです。人を殺す道具は軍隊が使うのです。警察は人の命を守ることが任務でございます。軍隊をつくれということが実質でございました。だから、三軍の総司令官に当たられました林敬三さんは、新しい国軍の精神をどう持っていくかということに大変苦慮をしておられました。私のところにも随分訪ねておいでになりまして、また議論もしたことを覚えているわけでございます。
同時に、極東
国際軍事裁判で一方的に日本が踏みつけられたわけでございましたが、それはそれとしまして、この警察予備隊がいかにもおかしいということで、独立を全うしましてからは、保安隊になり、そして今は自衛隊になっているわけでございます。
二十七年に日本は独立を全うしました。実力は全部総司令部が握っている。晴れて日本が自由になった。どこの国でも、自由になったら、そこで式典を行いますよ。私の記憶では、独立したときに何の式典もやっていないと思います。当時は憲法をたたえる式典も行いませんでした。やはりそれなりに、日本の名誉を重んずる
立場から考えれば、この苦痛は何とか晴らしたいという気持ちがかなりあったのじゃないかな、こう思うわけでございます。
幸いにして、各党の中でも、
国会の場で憲法を論議しようじゃないかという空気が生まれてきた。私は、大変ありがたいことだな、こう思うわけでございまして、ぜひこれがいい結果を見るように期待しておきたいと思っているわけでございます。
私は、二十五年の永年勤続表彰を受けましたときに、自分
たちの感想を書いて官報に載せてもらう。そのときには、日本の明るい将来を築くためには占領下の七年間のことをもう一遍
検討するような仕組みを考えることが大事である、そういうことを書いてあるわけでありまして、ずっと念願しているわけであります。
占領軍が大東亜戦争という言葉を禁止した。太平洋戦争というような言葉になっている。太平洋で戦ったのじゃないのです。アジア大陸で戦っているのですよ。今私が大東亜戦争と言ったら、多くの
国民はけげんな顔をしますよ。公的な文書を見ましても、支那事変がいつの間にやら日中戦争になっていますよ。不拡大方針をとっておったのです。あのときは、細かい話になりますからやめますけれども、不拡大方針をとっておった。それが日中戦争に変わっていますよ。アメリカは言いましたよ。日本は支那事変ですよ、あくまでも支那事変。不拡大でしたよ。
そういうことはたくさんあるわけでございまして、私は昨年の一月にインドへ参りまして、インドの国務大臣とのお話の過程で、パルさんが極東
国際軍事裁判で日本無罪論を堂々と述べてくれた、感謝しているということを言いましたら、向こうの方で、三百年と言いましたか、イギリスの植民地だった、そのときのつらい思いがあのパル博士の無罪論につながっていると思いますと言いました。
私は、大東亜戦争という言葉を使っていれば、その辺のこともわからぬわけじゃないのですけれども、太平洋戦争なんと言っていたら、日本はどんな戦争をしたのかわからなくなってしまっているのじゃないかな、こう思っているわけでございます。私は、アメリカとの
関係を大切にしなければならない、安全保障のためにも
経済協力のためにも大切にしなければならないけれども、だからといって、占領下のことを明らかにしていかないことは、遠慮することは間違いじゃないかな、こう思っているわけであります。両立できるものだ、こう思っているわけでございます。
私、もうおしゃべりをする時間がなくなってきたようでありますが、せっかく大臣に来てもらっていますから、七年間の起こったことを、大東亜戦争と呼んではいけないとか、いろいろなことがありました。そのとおり守っていますよ。今はもちろん、占領下の命令ですから、これはもう無効ですよ。日本がどういう言葉を使おうと、自由にできることだと思うのです。七年間の事例をもうちょっと
国民の間に明らかにするような仕組みをつくったらどうかと願っているわけですけれども、ちょっとその辺で感想がありましたら、言っていただいたらありがたいな、こう思います。