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1999-07-01 第145回国会 衆議院 文教委員会高等教育に関する小委員会 第1号 公式Web版

  1. 会議録情報

    本小委員会平成十一年一月二十七日(水曜日) 委員会において、設置することに決した。 一月二十七日  本小委員委員長指名で、次のとおり選任さ  れた。       大野 松茂君    奥山 茂彦君       倉成 正和君    栗原 裕康君       栗本慎一郎君    小杉  隆君       高橋 一郎君    増田 敏男君       渡辺 博道君    田中  甲君       藤村  修君    山元  勉君       池坊 保子君    富田 茂之君       松浪健四郎君    石井 郁子君       濱田 健一君 一月二十七日  増田敏男君が委員長指名で、小委員長選任  された。 —————————————————————— 平成十一年七月一日(木曜日)     午後二時開議  出席小委員    小委員長 増田 敏男君       大野 松茂君    奥山 茂彦君       倉成 正和君    栗原 裕康君       小杉  隆君    塩谷  立君       高橋 一郎君    渡辺 博道君       田中  甲君    藤村  修君       山元  勉君    池坊 保子君       富田 茂之君    松浪健四郎君       石井 郁子君    濱田 健一君  小委員外出席者         文教委員長   小川  元君         参  考  人         (評 論 家) 立花  隆君         文教委員会専門         員       岡村  豊君     ————————————— 七月一日  小委員大野松茂君二月九日委員辞任につき、そ  の補欠として大野松茂君が委員長指名小委  員に選任された。 同日  小委員濱田健一君二月十日委員辞任につき、そ  の補欠として濱田健一君が委員長指名小委  員に選任された。 同日  小委員田中甲君三月十一日委員辞任につき、そ  の補欠として田中甲君が委員長指名で小委員  に選任された。 同日  小委員栗本慎一郎君六月十四日委員辞任につき  、その補欠として塩谷立君が委員長指名で小  委員選任された。 同日  小委員石井郁子君六月二十五日委員辞任につき  、その補欠として石井郁子君が委員長指名で  小委員選任された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  高等教育に関する件      ————◇—————
  2. 増田敏男

    増田委員長 これより高等教育に関する小委員会を開会します。  高等教育に関する件について調査を進めます。  本日は、高等教育に関して、評論家立花隆君から御意見を聴取した後、参考人に対する質疑及び小委員間の自由討議を行いたいと存じます。  この際、立花参考人に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、大変お忙しい中、本小委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。立花隆先生にはどうか忌憚のない御意見をお述べいただき、調査参考にさせていただきたいと存じます。よろしくお願いいたします。  次に、議事の順序について申し上げます。  まず、参考人に四十分程度意見をお述べいただきたいと存じます。その後、小委員質疑に対してお答えをいただきたいと存じます。  なお、念のため申し上げますが、御発言の際は小委員長の許可を得ることになっております。  御発言は着席のままで結構でございます。  それでは、立花参考人にお願いいたします。
  3. 立花隆

    立花参考人 既にお配りしてあります資料に沿って、今の日本高等教育というのは、一種の学力崩壊状況といいますか、そういうことに立ち至っている、日本の将来を考える上で本当にゆゆしい事態に今来ているということをちょっと知っていただきたいと思いまして、資料もとにいろいろ話させていただきたいと思います。  高等教育小委員会ですからこの資料一は皆さん既に御存じのことで、これがベースにあるわけですね。ここの一番上の、合格率が七八・八%、ほとんど八割のところへ来ている。文部省の予測でも、あと数年以内にほぼだれでも、行きたい大学とは言わないけれども、どこかの大学には入れる大学全入時代が目の前に来ている、これがすべてのベースにあるということだと思います。  資料二は入試の問題ですけれども、これも皆さん御存じのことだと思うんですが、これでちょっと御注意いただきたいのは、これは国公立大学入試です。この表のポイントは、推薦入学あるいはセンター試験センター試験プラス教科大学へ入ってくる人が今や国公立大学でもほとんどである、そういうことになっている、これが学力崩壊一つ基礎になります。  実は、これは私立大学を入れますともっと大変なことになっておりまして、今、大学入学者のうち推薦入学者は大体四割です。十六万人います。国立の場合には九%、公立の場合には一四%、これでは一一%という数字になっていますけれども、私立の場合には三五%です。これはならした話でして、個別の大学になりますと、文部省は一応五割程度にとどめるようにという指導をしているようですけれども、それを超えている大学が結構ある。  実際に入学後の調査をやってみますと、本来、推薦基準というのはあるはずなのに、どうも高校の方でそれを恣意的にいろいろ操作しまして、相当レベルが低い人を入れてしまっている。ですから、入学後の学力検査をやりますと、学力テスト大学において実施すると、非常に明確に、普通の入学者推薦入学者と明らかに違うピークが出てくるということがあります。このことが一つ大きな問題になると思います。  資料三でございますけれども、これは新聞記事ですが、こういう記事が最近盛んに出ております。これはつい最近発行された「分数ができない大学生」という本でして、ここに「信じられないでしょうが、大学生の十人のうち二人は小学生算数ができません。」という帯がついています。これが実態なんですね。  数週間前にあるテレビ局が本当にこの実験をやったのですね。こちら側にできる小学生を置いて、こちら側にその辺でアトランダムに拾った大学生を置きまして、同じ小学校算数の問題です、これを用意ドンでやらせたのです。それで、小学校が圧勝なんです。大学生の中には零点というのがいたのです。本当に出たのです。それで、マイクを突きつけられて、あんた、恥ずかしくないのと言われて、恥ずかしくありませんなんて言っていましたけれども、本当に、そういう非常にびっくりするような実態が出ています。  資料四でございますが、これも新聞記事からですけれども、要するに、それほど学力がいろいろな意味で下がっている、これはこの後順次話しますけれども。そういう事態を踏まえて、大学ではもう補習をやらざるを得ないというところへ追い込まれているわけです。補習の話は後でまたまとめてしますし、この資料四の左の隅の「学力低下が取り上げられ始めた時期」というのがこの後の話に関係しますので、この資料四はちょっと取りのけておいていただきたいと思います。  資料三の、「分数ができない大学生」の話のオリジナル資料というのが、実はこの次の資料五、六、七、八はすべてこの関係といいますか、この本をお書きになった西村先生を初め、これは京都大学と慶応大学先生合同調査もとにしているわけですけれども、たしか五千人規模だったと思いますが、実際にいろいろな大学を取り上げまして、どういう大学かというのは、資料五にあるこのa、b1、b2、b3というようなアルファベットで記された大学調査現実に行ったわけです。  どういう調査をしたかというと、資料六、七の数学の問題をやらせたわけです。これは全部で二十五題あります。問いは21までですが、答えは二十五です。この右側のところに小学、中学とありますが、その問題がどういう問題であるかということが記されています。ごらんになればわかりますように、分数の問題とか小数点の問題とか、それが小学校ですね。中学校にしても相当、まあ普通の人だったらまずできるに違いない、そういう問題なんです。満点は二十五点です。  資料五を見ていただきたいのですが、大学入試数学で入った人たち、それとは別枠で、推薦人たちといろいろいるわけです。これを見ますと非常に明らかなのは、入試数学をとらなかった者の中に、二十五題のうちその半分もできない連中が物すごくいるということですね。推薦入学は明らかに、ちょっと数点下に下がっている、そういう感じになるということです。  先ほどの資料六、七の問題をごらんになっていただければ、小学校の問題が五問です。中学校の問題が十二問です。どう考えてもこの点数というのは、大学に入るレベルでは全くないということがこの問題を見ればわかると思います。特に、この問15のx2+2x−4=0、これは、いわゆる根の公式、今は解の公式といいますけれども、それを知っていれば、x2+2x+1−5にして、この5をこちら側に置いて、あとはルートで開けばできるという非常に簡単な問題なんですが、国立A大学ないし私立aという非常にランキングが高い、実名を言えばだれでも知っているような大学私立bもそうです、非常にランクが高い有名な大学なんですけれども、そういうところでも、受験を数学でとっていない連中というのは本当にひどい。私立kに至っては九・七%しかできない。  さらにこの資料から、ここには出ていませんけれども、非常にゆゆしい問題というのは、実は教員を育てる教育系大学の中で、分数ができない学生が、つまり将来の先生が出てきているわけですね。教育系大学は、カテゴリーとしては文系の入学ということになりまして、理科科目も少なくていいわけです。  ところが、小学校先生理科科目理科科目というか、教科科目を教えなきゃなりませんから、理科をオールアラウンドに教えなきゃならないわけです。ところが、自分で教える理科がよくわからない先生が今教育系大学でも出ているわけです。  これは教育系大学でも非常にゆゆしき問題だということで、その大学が独自に理科をとらせるようにしたところ、文部省が文句をつけて、そういうことはやめろと言って、延々文部省とその大学とで争った結果、ついにやめさせられた、そういう事態があります。  実際に、理科が教えられない先生はどうしているかというと、教科書を、小学校の国語の時間と同じように、はい、だれだれ君、読んでくださいとやって、読ませてそれで終わりにしちゃうみたいな、ほとんどそういう授業をやっているわけですね。つまり、理科教育が根底から崩壊している、そういう実態があるわけです。  時間がありませんのでどんどん話を進めますと、資料九は、そういう学力崩壊事態というのは、先ほどの調査をしたいわゆる私立大学の、相当レベルがもしかしたらそれは低くてもしようがないんじゃないかと思うような学校だけの問題ではなくて、東大なんかでも実は相当学力崩壊事態があるということを申し上げたいと思うんです。  これは、伊東先生という、東大と電通大と両方授業を持っていらっしゃる、東大教養ですけれども、そこで物理課程を持っている先生ですが、クラス理I学生です。東大でも水準が一応高い、ひときわ高いと言われている理I学生です。これは全部でたしか十何題か、非常に常識的な問題ですね。  一番は、地球一周の長さはどれだけか、それから二番は、東京—札幌間の直線距離はどれぐらいかという問題なんですね。その答えが、どういう答えが何%という数字が出ていますけれども、これは、正解のところは確かに膨らんでいますけれども、ちょっと注目していただきたいのは、上の方に外れているのと下の方に外れている、その外れの極端さです。こういう極端な間違い、つまり、地球一周が四千キロメートル以下とか十万キロ以上とか、地球一周はともかく、例えば東京—札幌が百キロ以下とか一万キロ以上とか、こんなのは、どう考えても頭が狂っているとしか思えないわけです。  これは何がいけないかというのは、要するに東大入試の仕方が間違いである。つまり、こういうふうな外れ方をする頭の構造を持った人間東大入試に受かっちゃうというところの方が問題があると僕は思っているわけです。  これは、実はほかにも驚くような答えがたくさんありまして、とにかく今の高等教育におけるこういう現状というものを非常にゆゆしいと思っている方々が、日本物理学会の中で「大学物理教育」という雑誌を随分前から出して、いろいろな問題点を取り上げています。この中に出てくるものですけれども、こういうことが本当に起きているわけです。  ですから、東大においても物理の、物理だけじゃなくて、補習教育というのをやっているんです。つまり、事実上の問題として、教養課程で、この学生を本郷に送るわけにはいかないというレベル学生相当出ているわけです。特に物理なんかは、高校で一たんやっていないと全然わからないわけですね。それで、しようがないから、数年前から、高校物理をとった人、とらない人というクラス分けをした上で物理教育というのはやっているわけですね。  同じことは、本当は数学でも必要になっていますし、それから、生物でもやっているんです、やはり既習と未習と分けまして。それで、実際に調べてみますと、高校でやったかやらないかでその後の学力の差というのが非常に明確に出るわけです。その点はまた別の資料で申し上げますけれども、そういうどうしようもない補習が今どの程度現状にあるかというのは、この資料四の中にいろいろな形で出ています。  それで、本当にちゃんとした教育をやろうと思ったらもう補習をせざるを得ない。しかし、大学には実はその余力は余りないんです。特に国の予算がつくような大学では、文部省がその点に十分な予算をつけませんから、そうすると、これは何とかいろいろやりくりするわけですね。私立大学に至っては、ここにありますように予備校先生ごと派遣する、そういう形で、要するに大学が実際のところは予備校派遣補習授業をやっている、そういう大学現実に出てきているということです。  この問題でいろいろゆゆしき問題が起きている一つは、そのバックグラウンドといいますか、それは、日本の小中高生の間で物すごい科学技術離れというものが出ているということです。しかも、教育がやはり根本的に間違っているというところにその背景があるということが、資料十で非常によくわかると思うんです。  つまり、理科はおもしろいと思う人が小学校の五年生では非常に高いわけですね。ところが、つるべ落としにどんどんおもしろいと思うのがおっこちてきているわけです。本来、僕は理科は非常におもしろいと思っているんですけれども、理科はおもしろいと思えるような教え方をしていないということが基本的にあるわけです。  その結果として、資料十一にありますように、日本世界で有数の、理科が好きな生徒科学を使う仕事をしたいと考えている生徒割合が国際的に最低レベルに落ち込んでいるわけです。実はほかにも、これは国連主催の共通の国際的な教育テストの分析なんですけれども、これと同じようなグラフがたくさん出ています。別の雑誌で私使ったこともあるんですけれども、これが一番典型的なんですが、これと似た結果が物すごく出ているんです。要するに、日本は本当に、理科を使う仕事、それから理科が大好き、こういう点において非常に欠けているわけですね。  その結果どういうことになっているかというと、これはまた別のOECDの調査に基づいたものですけれども、それが資料十二ですけれども、一般市民割合として、日本は、科学技術に対して関心知識を持っているというレベルが国際的に最低水準に来ています。そして、資料十二の一番下の「科学技術に対する一般市民の心象」だけは何か日本レベルがほかの国に並んでいるよというふうに見えるかもしれませんけれども、これは要するに、科学技術に対して不安があるという人が非常に多いということを示しているだけなんですね。  それで、資料十三の、これがもう一つゆゆしき問題の別の一面ですけれども、年齢でいうと二十代が本当に劇的にそういう科学技術から離れている。「関心がある」レベルも、「非常に関心がある」にしても一番下に来ていて、むしろ五十代とかそういう人たちが、はっきり科学技術に対して関心を持っているわけですね。  そういう事態がそもそも心配かどうかということを調べたのが資料十四なんですね。こういう科学技術離れというのは「問題である」は、絶対数としては「問題ではない」よりは多いんですけれども、二十代の人たち、この層だけが、問題でないと考える人たちが非常に多いということがこれからわかると思います。  それで、もう一つ非常に大きな問題は、資料十五なんですけれども、児童の間で、科学技術に対する功罪をどう見るかというところが非常にネガティブな方向に来ているということですね。  これは要するに、科学技術世の中を余りにも複雑にしたとか、科学のために世界が破壊されるとか、よいことより害をもたらすとか、世の中の困った問題の多くは科学技術原因となっているとか、こういった見方の方がそうでないとする見方よりも多くなっているわけです。こういうことから、先ほどの資料十一に見ますように、科学を使う仕事をしたいと思わない子供の増加になっているわけです。  実は、単純な知識テストをやりますと、日本世界最低ではありません。世界トップでもないのですけれども、上位のいいところにつけています。しかし、知識はある程度あるけれども、根本的に、科学技術を使う仕事をしたいと思わない、あるいはそれが好きと思わない人間が多くなると、いずれその国がどういう運命をたどるかというのは、もう本当に明らかだと思うのですね。  小中学生の単なる学力検査的な国際テストですとある程度高い点数をとるのですが、資料十六に示しますように、成人を対象にした科学知識テストを見ますと、日本は本当に低いのです。これは、先ほどの資料十二の図10とか図11とほとんどパラレルな数字が出ているわけです。つまり、根底的に日本社会というのは科学技術離れをしてしまっているということがあるわけです。  そういう事態をもたらしたものの非常に大きなものとして、高校におけるサイエンス履修課程の問題があるわけです。資料十七ですけれども、資料十七の図というのは、ずうっと歴史的に、物理化学生物、地学を高等学校でどのように履修してきたか、それが教育課程改定があるたびにどういうふうに変化してきたかを示すものです。  実は、一番最後にお配りしました、もう一つプラスアルファ資料として資料二十三というのがありますけれども、これを照らし合わせてごらんになっていただくと非常によくわかる。つまり、これは具体的にどういう教育課程の変化があったかということを示しているわけです。  この資料二十三と資料十七を照らし合わせながら言いますと、要するに、六〇年代までは日本高等学校サイエンス水準というのは非常に高かったわけです。実は、ある意味で、そういう高等学校におけるサイエンス水準の高さというものが日本高度成長期を引っ張ってきた、つまり、それを支える中堅労働者サイエンス水準というものを一定水準に保つことができた一番大きな原因だろうと思うのですが、その後、教育課程改定されるたびにがたがたになってきます。これはもうこの棒グラフを見ればわかるとおりでして、この後の数字もありますけれども、どんどん悪くなりまして、さらに、この後はもっとゆゆしくなるという時代に入ってきます。  つまり、歴史的に大きな改定としては一九七八年の改定とかそういうものがあるわけですけれども、今、一応高等学校を卒業させる要件として八十単位を要求されていて、うち四十単位必修という仕組みになっているわけですが、これが二〇〇三年からは、卒業に要求される単位が七十四単位で、必修は三十一単位ということになってきます。これは理科だけじゃなくて全部の科目です。  要するに、そういう感じ教育水準というのがどんどんレベルが低下されまして、理科だけをとったものが資料二十三の、これは小学校中学校ですけれども、そこの時間数の変遷というものを見ていただければ、今の若い世代に伝えられる理科知識がどんどんレベルが切り下げられているということが数字で明らかだと思います。一九五〇年代、六〇年代に比較すると、小学校で六百二十八時間が三百五十時間になって、中学校で四百二十時間が二百九十時間になるというように、劇的に下がっているわけです。これがさらに進行していくわけです。  この結果としてどういうことが起きているかといいますと、例えば東大の場合でも、理III、つまり医学部に行く学生の四割が実は高校生物をやっていないということがあります。これは、医学世界は、御存じの方が多いように、実はかなり前から医学分子生物学化ということが起きています。要するに、あらゆる意味分子生物学レベルで見ないと病気の原因というのは解明できないし、今や薬品がそういうレベルでつくられています。だから、本当の診断も何もかも分子生物学ベースになるわけですね。だから、アメリカ大学なんかでは、生物高校でやらない、大学入試生物が入っていない医学系大学というのは事実上存在しないのです。  それどころか、今の社会がどんどんバイオ知識というものが必要になっていますので、例えばハーバードとかMITとか、そういうアメリカの一流の大学では、要するに理科系、あるいはいかなる学部、そういうコースの別にかかわらず、すべての学生細胞生物学、これは事実上分子生物学による生物学と言っていいわけですけれども、これを必修にしています。だから非常にバイオ知識社会的な水準が高いのです。  それが、資料十九にありますように、将来の、これからの科学技術を考えるときに、ライフサイエンス分野というのはあらゆる意味で非常に大きな意味を持ってくる、これはもう産業的にもそうです。経済力も、ライフサイエンス分野科学技術がどれだけそのベースにあるかどうかによって一国の経済力相当部分が支配されるというような時期がもう既に来ているわけですけれども、日本は、そのライフサイエンス基礎研究水準でも開発応用研究水準でも、この上の欄と下の欄は基礎応用ですけれども、アメリカと比較したときに、もうとにかく完敗の状態になっている。  これは、私、結構両方の国のトップ人たちにいろいろ会って、大学なんかも見ていますのでよく知っていますけれども、このままいったら日本は本当にゆゆしきことになるということが、そういうサイエンスの先導的な部分でもあるし、それを支える下の部分、さらにそれを支える下の部分、全面的に日本で今それが進行しつつある。  もう一つ見ていただきたいのは、資料十八で、これは日本高等学校文部省検定済み教科書に記載されている記載事項がいつの年代に発見されたものか、そういう年代別にリストアップしたグラフなんですね。下の数字は何世紀というものです。我々は、もうまさに間もなく二十一世紀に入ろうとしているわけですけれども、ごらんになればわかりますように、物理においても化学においても、教えていることはほとんどが十九世紀のことです。生物だけは二十世紀相当トップになっていますけれども、これは生物学というのがもう事実上分子生物学が中心になっているから、分子生物学を無視しない限り二十世紀事項がこれだけふえるということなんですね。  では、現在の分子生物学先端分野と比較したときに、どの程度ちゃんとした水準のものを教えているかというと、これで想像するようなレベルでは全然ないわけです。それは例えば、物理化学というのが実は生物基礎部分に非常にかんでくるわけですね。今の分子生物学先端のところを教えようとすれば、どうしたって物理知識化学知識が必要なわけです。  ところが、これが資料十八で見ますように十九世紀中心で、二十世紀レベルのそういうベースになる知識というものを与えていないから、これはどうしても教えられないということになるわけです。さらに、その履修率がこういうふうにがたがたになっているから、とてもそれがうまくいかないということになります。  資料二十は、では、その学問の分野全体が国際的に、グローバルスタンダードで見てどうかということを見るのは、論文の被引用度、どういう科学技術論文というものがその国でどれだけ出て、それがどれぐらいほかの学者たちから引用されるレベルであるかという、これがこのグラフの持つ意味です。  この右肩のグラフを見ますと、アメリカが圧倒的ということがこれに実によくあらわれているわけです。論文数のシェアが高くて、かつ被引用度が高いわけですね。だから、もう世界じゅうの学者が引用するような論文のほとんどがアメリカで生産されている。アメリカ以外の国は、まとめて下でさらに拡大して示してあります。それからもう一つ、この右肩のさらにその上の方に、アメリカのそういうリードというのがどういうふうになっているかという、これを年代別に追ったものが左の上ですけれども、多少変化しているけれども、微々たる変化です。  日本はどうかといいますと、この斜めの線から下の方は、要するに、数は多いけれども引用は余りされない、つまり余り人が読まない、どうでもいい研究の論文ということになるわけです。だから、この斜めの線から上か下かで、そういう国際的に評価の高い論文かどうかという、そういうレベルの違いが出てくるわけですけれども、そういうレベルでいうと、イギリスが国際的に非常に水準が高い研究をやっている。そして、ドイツもそれを追いかけてどんどん行っている。しかし、日本の方は、この斜めの線のカーブとほとんど平行でして、むしろこの斜めの線から少しさらに下がるような傾向が出ている。だから、数は順調にふえているのだけれども、国際的な評価は低いものが出ている、そういうことになるわけです。  それで、先ほど言いましたように、大学にはみんな入るのですけれども、どんどん入れるようになってきたのですけれども、実際には、その大学レベルというものがどんどん下がっているために、入ってから不満を持つ人たちが多いわけですね。実際に、大学には入ったけれどもやめちゃって、また別の大学を目指すという人間が今どんどんふえているということが、この資料二十一の河合塾のあれから出ていますけれども、その河合塾のデータによると、今春特にそういう人たちがどんどんふえてきて、今や二〇%も、自分の入った大学に満足できなくなって、もう一回予備校に入り直して別の大学に行く、そういうところがふえている、そういうことを挙げています。  そして、資料二十二は、これは先ほど言いました「分数ができない大学生」の巻末の座談会なんですけれども、今、大学院化ということがどんどん推し進められて、日本大学院がどんどんふえているわけです。しかし、その大学院の実態というものが、実は、高校全入から高校水準が落ちたと同じように、大学全入に近い状態になってきたことで大学水準が落ちているわけです。その水準の低さがさらに今度は大学院に及ぼうとしていて、大学院がどうしようもない事態になっている、そういうことをこの座談会の中で述べています。資料二十二の二百八十九ページの下の段の左側にありますように、分数のできない大学生が、今度は分数のできない大学院生になるに決まっていますと。本当にこういう事態というものが今日本大学にあらわれようとしている。  日本が本当に頼りとなる資源というのは、人間の頭しか日本というのは基本的に頼りになる資源がない国で、そのマンパワーを、マンパワーといいますかブレーンパワーを活用することで、日本は今まで何とかこの国をここまで運営してきたわけですけれども、そういう根底的なところが本当に今崩れようとしている。  しかも、その崩れようとしている実態が実は社会ではまだ本当に気づかれていないというのは、先ほど資料十七で示しましたように、劇的に状況が悪くなるのは一九九四年の改定からなんですね。これは、資料四のところで、学力低下がどこからおかしくなったかというところで、三ないし五年前からというのが圧倒的になっています。これはどういうことかというと、一九九四年の改定からなんです。ここで劇的に、要求されるサイエンス知識が変更になっています。  先ほど物理バイオの問題、生物の問題が出ましたけれども、これの一つ原因をつくっているのは実はあの大学入試センター試験の日程で、物理生物が同じ日程になっているのです。だから、どちらかを選ばなければならない。つまり、そういうことがあるがために、自然と高校段階で学生がどちらかを選択せざるを得ないわけですね。  それで、先ほど言いましたように、理IIIは本来生物が好きな人たちが選択するであろうところであるし、生物というものが必要に迫られるのはわかっているのだけれども、実は東大理IIIというのは非常に、日本大学入試の中でも一番レベルが、競争が激しいところですけれども、頭がいい子が点数をとろうと思うと、物理の方が実は有利なんですね。生物だと小刻みに点数を上げるほかないけれども、物理の問題というのは数学の問題と非常に近いところがありますから、ぽんと高い点数がとれる。そうすると、理IIIに通るような子供たちはどうしても物理をとっちゃうわけです。そうすると、医学系に行く人たちが実は生物をやらないという事態を招いているのが、そういうところにもあるわけです。  実はこの問題、本当にいろいろな要素が絡み合っていまして、なかなかこれをどうするかという問題は簡単にいかないのですけれども、ただ、これまで文部省が、こういう教育水準の、学力水準の低下というゆゆしき問題が起きているということに恐らく気がついていないはずはないのですけれども、そこに目をつぶってきたというか、それは、目をつぶってきたことは、ほかにやらなければならないことがいろいろあったからかもしれませんけれども、日本の将来というものを考えたときに、この学力水準の低下、高等教育機関の、しかも東大にまで至るようなそういうレベルの低下というのは、これは非常に恐るべきことであるということを知っていただきたいと思います。  以上で私の話を終わります。(拍手)
  4. 増田敏男

    増田委員長 ありがとうございました。  これにて参考人からの御意見の開陳は終わりました。     —————————————
  5. 増田敏男

    増田委員長 これより参考人に対する質疑及び小委員間の自由討議を行いますが、各会派別の発言の順位はあらかじめ定めておりませんので、発言のございます方は、挙手の上、小委員長指名をもって御発言をお願い申し上げます。  なお、お一人一回の発言は三分以内でおまとめをいただきますように御協力をお願い申し上げます。また、御発言は着席のままで結構でございます。  それでは、これより質疑及び討議に入ります。
  6. 藤村修

    藤村委員 民主党の藤村修でございます。  立花先生には、本当にお忙しい時間を割いていただきまして、当高等教育小委員会に御参加いただきましたことを感謝申し上げます。  私自身も、四月一日に、有馬文部大臣あるいは総理に対して高等教育の問題を質問いたしました。  学力崩壊あるいは高等教育の危機などと今言われておりますし、お話の中にもございましたように、知的資源というか、日本はやはりそういうものが必要であることはまただれもが認めるところだし、あるいは、科学技術立国などという言葉も、いつも口にされる言葉ではありますが、しかし、実態を今お伺いするにつれ、本当に、特に理科系といいますか、どうも理科教育が根底的に崩壊しているんじゃないかな、そんな印象を受けました。  その原因が、お話の途中にあったのは、例えば高校における理科ということをおっしゃいましたが、それ以前の小中においても、さっきは時間も示して、これだけ減っているということはよくわかりました。それで、じゃ、これは時間をふやしたらいい問題なのかどうかということも一つあります。  それから、特に先生の「知的亡国論」など、幾つかの高等教育の危機に関する論文も読ませていただきました上で、私が一番お伺いしたいのは、戦後五十年、大学が大衆化したということは言えると思います。大衆化ということは、一面では知的レベルの低下が伴ったということも言えると思います。しかし一方で、大学というのはやはり高等教育であり最高学府なわけですから、そこから非常に優秀な人が出てきて、ある意味では、理科系であったら、科学技術分野でいろいろな貢献をしていただくとかいろいろな発明をするとか、そういう人が出てきたらいいわけですが、大衆化ということと、科学技術立国、人材を育成するということが相反することなのかどうか。  今の大学のあり方で、常に研究と教育は両輪だとおっしゃいますが、本当に両輪で今からもいった方がいいのかどうか、この辺、やや私も疑問がございます。ある意味ではエリートを育てる、というと若干世間的には批判があるけれども、しかしエリートは育てないといけないんじゃないか。一方で、大衆化した大学でそれなりの知的レベル水準を保つような教育が必要なのではないかな、そんな思いがいたしますので、そういう大学教育の今後のあり方についてもお教えいただければありがたいと思います。
  7. 立花隆

    立花参考人 問題点が幾つかにわたっていますのでいろいろ申し上げたいと思いますけれども、一つは、時間をふやすということ、つまり小学校中学校あるいは高校レベルでそれが一番大事な問題かというと、僕は必ずしもそうではないと思うんですね。  特に数年前から私は、こういう状況というものを憂える大学先生方と一緒に、高等教育フォーラムというところの主催で、「日本理科教育があぶない」というタイトルの本になっていますけれども、シンポジウムを何回か毎年のようにずっとやっていて、そこでいろいろなレベル先生たちからいろいろな報告を聞くんですけれども、これは大学だけじゃなくて高等学校先生方からなんかも話を聞いています。  そうやって聞いていまして、一番ゆゆしき問題というのは、そういう時間数の問題じゃなくて、先ほど示した資料の中で、小学校のときは理科関心を持っていたのが、つるべ落としにこの関心がなくなってくる。これはなぜかというと、やはり理科の教え方そのものが大問題である。どういうふうに教えているかというと、要するに、これは知識詰め込み型なんですね。  そうじゃなくて、理科でおもしろいのは、やはり実験をして、実際に自然に対していろいろな形で問いかけると自然が答えてくれる、それでどんどん人間知識がふえてきたという、そこのところを子供たちに味わわせることなんですね。  ところが、今の教育体系、今の入試制度だと、そうじゃなくて、実験を本来は重視しなきゃいけないのに、今の制度だと実験をそんな重視できない。時間がない、それから施設がない、いろいろな問題でそれができない。それでどういうことになるかというと、それでも試験に問題が出る。それで、どういう教え方をしているかというと、実験をやるとどうなるか、そのやり方、そのポイントを今すべて暗記させちゃうんですね。  そういう状態ですから、ある大学で、こういう問題では学生の採り方として間違っているというので、実際に実験をやらせるという入試をやったことがあるんです。実際に、こういう状況の中でこれをやってみなさいと、こうやるわけですね。  そうすると、結果というのは、教科書に書いてあるとおりのきれいな結果が必ずしも出るものじゃないんです。実験というのは、すべていろいろなばらつきがある結果が出るんですね。そうすると、子供たちは動転しちゃうわけです。  それで、それに対応するようなことをやろうとすると、子供たちはまず真っ先に、答えは何ですかと聞くというんですよね。要するに、実験で結果を出そうと思わないわけです。結果を聞いてから、それに合わせた実験をしようとするわけです。だから、そういう実験入試というのを取り入れようとしたけれども、実際には入試にならなかった。  それと同じようなことをいろいろな形で大学先生方は、要するに今の学生たちは、どこかに答えが既にある、自分が現実に問いかけて答えを得ようとする、それは理科でいえば実験ですけれども、そうじゃなくて、社会科学でも何でも、要するに現実に問いかけて、それを調べて、そこから自分で答えを見つける、それができない。どこかに答えがあるからそれを暗記するという型の頭になっている。  結局、東大法学部に代表される日本の官僚たちの頭も実はそれなんですね。それが日本の金融危機なんかを招いたあれだと思うんですけれども、あのとき、あれと同じシステムというか、どこかに答えがあって、その答えを教わって、その答えに合わせてやるという態度が要するに官庁の行政指導。経済面における行政指導なんかでも、あるいは何かをやるというときの行政指導は、結局それに近いような形になっているわけです。暗に、本当の答えはこうだよということを民間に示すわけですね。そうすると、こちら側が、官庁の思惑に合わせたこちら側の答えをつくってきて、予算を獲得して何をして、そういう形で日本の行政がずうっと進んできた、そういうのがそういうところにも一つはあらわれているという気がします。  それからもう一つ、先ほどの大学の大衆化、これはこれで意味がある、それは確かにそのとおりでして、確かに、現代社会というのは基本的に知識社会ですから、社会のあらゆる面が知識ベースの上に成り立っているという側面がありまして、やはり社会全体の知識レベルアップというのを常々図らない限りその社会がひっくり返るというのは、これはもう当然のことです。ですから、大学が大衆化せざるを得ないということがあります。  しかし、何よりも今の大学で問題になっているのは、そういう大衆化の問題よりは、大学のレジャーランド化といいますか、大学を学習する場と認識しないで学生たちが遊んでいる、そういう実態にあると思います。  これは、一つは、日本大学が、入学した者は基本的にほとんど卒業させる、落第させない、この伝統がずうっと来ているわけです。落第させたら本当にもう大変なことになっちゃうみたいなことが大学や何か、すべてのところで日本はありまして、大学は落第させないんですね。  ところが、ヨーロッパでもアメリカでも、これは国によって随分違いますけれども、アメリカだと、大体大学に入って四五%は落第させます。ヨーロッパですと、多いところですと、イタリアなんかですと六五%ぐらい落第です。少ないところでも四〇%ぐらい落第させます。本当に学習意欲がない人間は落第させる。この基本を守らない限り、大学のレジャーランド化というのは変わらないわけですね。  そうしますと、大衆化して、みんながただ遊んでいる。この間もある新聞で、大学にことし入った女の子が、大学に入ったら何か毎日コンパでみんな酒ばかり飲んでいるみたいな、これで本当にいいのだろうかと思ったというような、そういう感想が大学に入った女の子なんかにはあるわけですね。  本当に今、町へ出ますとやたら酒飲んでいる若い連中がたくさんいますけれども、昔はあれほどは、酒を飲まなかったとは言いませんけれども、あれほど遊び狂っている大学生たちが本当に日本をどうしようもないレベルにする。そういう連中に限って、今の大学水準が本来あるべき大学水準からもう随分下のレベルに来ているというのがわからないわけです。自分たちの水準ががたがたになっているというのが全然わからないわけですね。  実は、今のそういう教育全体の、学力面あるいはいろいろな面からの教育の崩壊現象というのが、いわゆる中学とか何かの学級崩壊の問題を初めいろいろなレベルで起きているわけですけれども、それが今本当にひどい状態になっているということを来月文芸春秋が特集しているんですけれども、その取材した人たちに実はきのうの晩いろいろ話を聞きまして、僕自身も愕然とするような話をたくさん聞かされました。これはあと十日もすれば市場に出るでしょうから、皆さんもお読みになればわかるでしょうけれども。  その中に、誌面に出たかどうかは知らないんですけれども、例えば今、高校全入になってからの高校レベルのがたがたが本当にひどいんです。これは、本当に下の方はもう、教えている先生が、どう考えたってこいつは大学に行けない、基本的に、完全に、そういうレベル人間というのはいるわけですね。ところが、そういうやつらが、君が入れるような大学はないよと言っても、いや、おれは大学へ行く、おれが入る大学はあるといって本当に入っちゃうといってびっくりしているわけですね。それはどういうレベルかというと、アルファベットも書けないんですよ、信じられますかと言うんですね。分数ができないどころじゃないんです。アルファベットも書けないんです。  実はこれは、僕は随分前にそれと同じような話を聞きまして、僕は数年前、東大先端研というところの先生をしていたのですが、先端研というところは社会人も入れるドクターコースが中心ですから、そこにはいろいろな学生が来ているわけです。  そのドクターコースの学生の一人が、こういう教育問題をいろいろ話したときに僕のところに来まして、実は私、ある女子大の講師をやっているんですけれども、あそこにはそういう学生がいるのです、そこの先生の間で、何組のだれだれはアルファベットができないといううわさがあったので、僕は信じられなかったけれどもちょっと試してみたと。つまり、アルファベットを書かざるを得ない状況というものを授業の中でつくって、ひそかにそばに行って観察したら、本当にできなかったと言うんですね。  要するに、アルファベットも書けない高校生が大学に入ってきてちゃんと学生として存在しているというような状況が既に生まれちゃっている、そういうところがあると思います。だから、そういう人間大学に入ってからもうちょっときちんとセレクトするというような、そういうことが全然できていない。つまり、落とすべき学生を落とすということをやらない限り、大学のそういうレジャーランド化の傾向というものを救えないと思います。
  8. 小川元

    ○小川委員長 委員長の小川でございます。きょうはありがとうございます。  先ほどから理科系のお話が出ておりまして、私も大変ショックを改めて受けたわけでありますが、先生御指摘のように、勉強のやり方というか、入試のやり方もまずいんじゃないかなと。例えば、東大のそういう人たちでその程度しかできないのが入っているというのは、恐らく入試で間違ってそのまま入っちゃったんだろうと思うんですね。  確かに授業数は減っているけれども、塾へ行く人は猛烈な勢いでふえておるわけで、私の田舎の小さな町でも今、塾へ行き出している。ということは、やはり勉強の仕方、ということは入試の仕方がおかしいんじゃないか。  例えば理科系の、特に特化したそういう理科系のエスタブリッシュメントを育てるとしたら、もう入試はそこへほとんど集中してもいいのではないか、基礎学力はどの程度かという問題は残るにしましても。それが、すべての科目ができるような子供たちを育てようとしてきているから、そこに大きな問題点があるのではないかな、こう私は思っているんです。  極端に言えば、センター試験が非常に大きなネックになるのではないか、そう思って、もっともっと個人の資質を伸ばせる入試、あるいは、大学に入ったら授業の仕組みというものを思い切って変えてしまうべきではないかと思うんですが、いかがでしょうか。
  9. 立花隆

    立花参考人 問題点がたくさんあるもので、なかなか簡単には言えないんですけれども、それもあると思います。だけれども、僕は、もっと非常に大きな問題というのは、基本的に、初等中等教育での教え方そのものがやはり根本的に間違っている面がある。  実は、去年の夏ですけれども、アメリカへいろいろ取材に行きましたときに、ボストンに行きましたので久しぶりに利根川先生に会って、いろいろな話をした中で、利根川先生が自分の子供、たしか小学高学年なんですね、特別の学校に入れているわけじゃないんです、地域の普通の公立の学校です。そこの教育がどれほど日本教育と違うかということをいろいろな例をとって話してくれたのですが、本当に、小学校中学校レベル授業がこれほど違うのかと思うことがいろいろあります。  いろいろありますけれども、一つは、日本型の教育日本型の教育というのは、教科書があって、学習指導要領というのを文部省が決めて、あれもこれも、どの段階では何を教えろみたいなことがきちんとプログラムされていて、そのとおり教えて、そのとおり覚えたやつが、それをチェックする試験を通って上級学校に進む、そういう制度をやっているのは、基本的に先進国では日本ぐらいなんです。そもそも、そういう教え方では本当の教育にはならないということが、もう随分前からわかっているわけですね。もっと本当の能力、つまり本当の問題解決能力というのは、教科書答えが書いてあるということではないんです。  だから、教科書そのものも、日本教育における教科書の使い方のような使い方というのは、アメリカなんかではしていません。教科書というのはほとんど副読本です。そのかわり、例えば理科教科書を見せてもらったんですが、理科教科書はこんなに厚いんですね。日本理科教科書よりずっと厚いんです。中を見ますと大変おもしろい。非常によくわかる、おもしろい書き方をしているんですね。  だけれども、先生は、では教科書の何ページを開いてみたいな授業というのは全くやらないのです。それはそれで参考に使いなさいという感じでそばへ置いておいて、そうじゃなくて、具体的にどういうふうに自分で問題を見つけて、その問題を解決するためにどうやればいいかということを自分で考えて、自分で調べて発表するという、それをいろいろな形でやらせる。つまり、実験だけじゃなくて、実際にいろいろ調べて発表する、そういう活動というものを日常的に学校の中でやっているわけですね。要するに、詰め込み型の知識の伝授というのをやらないわけです。  そうした場合に、では試験はどうするのかということになったら、今のお話につながるのですが、僕は、大学入試を劇的に変える一番いい方法は、辞書でも参考書でも持ち込み自由にすることだと思います。そうすると、詰め込み型はそれでは意味がないということになります。そうじゃなくて、持っていって、わからないことはその場でぱっと調べて、その上で自分が何かを表出する、この能力が大事になるわけですね。  わからないことは何か手近な資料で調べて、何か答えを出す。現代社会で今当面している問題というのは、社会に出たときには全員そういう能力が必要になるわけです。そうじゃなくて、とにかく何かで詰め込んで暗記させてというプロセスをやっている限り、日本教育というのは根本的にだめだと思います。
  10. 奥山茂彦

    奥山委員 今、先生の話を聞かせてもらいまして、我々も大変ショックを受けたのですけれども、ただ、問題は、教育というものは、極端に言いますと、学校へ行かなくても何人も受けられるわけですね。  ところが、今の親は、よい大学へ入れて、そして大きな会社へ入ることが何か人生の幸せだ、そういう感覚が非常に強いから、どうしても学校へ行かせたがるのですけれども、もう一遍その辺を洗い直す。それともう一つは、先生も先ほどおっしゃったように、やはり今の入試制度が子供の成長をゆがめてしまう一番大きな要因になっておると思うんですよ。  子供というのは、本来、社会人として生きていける力を持たせれば、それで私は教育は十分だというふうに思っているんですけれども、そういうトータルで考えて、今の教育はもう何もかもそろい過ぎてしまって、かえって子供をおかしくしてしまっているような思いがするんですけれども、いかがでしょうか。
  11. 立花隆

    立花参考人 そういう一面も確かにあると思います。  それで、先ほどの話と今の話と両方あれするところで、入学試験の問題というのはやはり依然として非常に大きな問題だと思いますけれども、これを劇的に変えるというか、実は、変わらざるを得ないという状況に今立ち至って、悪い意味でどんどん変わっているのですね。  それはどういうことかというと、全入に近い状況というのは、人気がない大学ほど全入に近い状態というか、今事実上そうなっているわけですね。つまり、募集定員まで学生が来てくれない、そういうところは、とにかく来てくださいなんですね。  そうすると、事実上ほとんど試験がないという状況になって、それ自体は僕はそんなに悪いことではないといいますか、つまり、大学が本当に学習する場として機能して、そういうチャンスをできるだけ広く人に与えるというのは悪くないことで、実際に、ヨーロッパ系の大学というのは、基本的に日本型の入学試験というのはやらないわけです。つまり、高校の卒業資格検定試験を通った者は、全部大学入学資格ありと。多少、人数の調整というのはありますが。  旧制高校と旧制帝大はほとんど卒業と入学のバランスをしておるわけですね。あと、どこに入るかで少し調整はあったけれども、大体うまく、何となくつじつまを合わせていたみたいな面があった。それは、今のヨーロッパの高等学校大学の間でも割と一般的にあるわけですね。多少、数の不適合のところを調整するということはいろいろ必要になっていますけれども。  だから、今大学入試はどういうことをやるべきなのかというときに、要するにそういう基本、つまり高校までの学力をきちんとクリアして、大学で新しい水準教育を受けるだけの能力的な資格があると認定された人間は、基本的に大学に入っていいという、これは、もちろんどういう考えを選択するかという問題ですけれども、一つの考えだと思います。  そのときに、先ほど言ったような、そもそも高校の卒業資格も与えるべきではないような水準人間まで卒業させて大学に行かせちゃう、そういう高校そのものがもちろん相当問題がある。しかし、そこの一線をきれいに守れば、そうやって大学にみんなもうちょっと楽をして、楽をしてというのは、必要以上に無理な競争をしないで、そこで知的エネルギーを浪費しないで大学の新しい高水準教育を受ける、そういう方向の高等教育のあり方の考えというのは当然あってしかるべきだし、これからますますそうなるとは思います。  ただ、個々の大学がどういうふうな入学をあれするかというのは、やはり個々の大学の決定権といいますか、自由というところがありますし、大学の基本的な自由というのは、だれを入れて、だれに何を教えるかという教育内容そのもの、そこが大学の自由の一番基本にあるわけですね。そこのところに今まで文部省というのは介入し過ぎた。それを全部同じような形でやろうとした。つまり、金融問題のときによく話題になった護送船団方式でやろうとしてきたその政策というものが、高等教育のところで今破綻を来しつつある。  それが数年前に起きた大学教育内容のカリキュラムの大綱化という問題で、文部省は一生懸命、大学教育内容をどんどん独自の形にしなさいみたいなことを指導はしているのですけれども、その実態はどうかというと、実は、暗に自分のやりたい方向に行かせるような形の改革を求めるというようなことが起きているというのが現状であるというような話を、先ほどの高等教育フォーラムなんかでいろいろ聞いています。
  12. 大野松茂

    大野(松)小委員 先生、どうもありがとうございます。  これは、鶏が先か卵が先かの議論になると思うのですけれども、最近の子供たちの関心を見ていましても思うのですけれども、どうも理科に対する関心が子供自身も薄い。先生も興味を持たせるような教育ができない。もともと理科というのは、実験だとかそういうことを伴いながら、実体験の中から、学ぶことの厳しさと楽しさを味わうはずなんです。ところが、教えている先生自身もその経験がないものですから、言うなれば教科書の朗読で終わってやしないか。先ほど先生からもちょっとありましたけれども。  どうも、今の教科書を見ると、非常にわかりやすい教科書なんです。私たちが使った時代よりもはるかにわかりやすい。しかもカラーで、写真、図解入りで、まことにわかりやすいものになっているものですから、今度は逆に、実験をしなくてもわかってしまうような書き方になっていると思うのですね。  と同時に、先生自身も今まで、高校から大学へ行く過程の中で、あるいは小学校時代にそういう経験をしていないものですから、その繰り返しが実際に行われて、そのことが私は理科に対して、私たちの子供のときの方がもっと理科に対する関心というか、地域に幾らでもいたずらの材料の中で、理科の実験もできるような、カエルがいたりドジョウがいたりなんかしたものですけれども、そういうことがないことも私は理由だとは思います。  しかし実際は、今先生がおっしゃるように、点数点数点数で、大学で勉強をする中で教育課程も当然そのような形でとった。そうすると、余りにも優等生が教員になってしまったために、そうした実験を伴うような体験も持たずに今実際に現場に立っているんじゃないか。先生自身もそのことに自信を持たずに、自信を持たずにというのは、実験をすること自体が非常に不安な形で教壇に立っている。それが子供たちに理科に対する興味を引き起こさなくなっている原因じゃないかなということを実はしばしば子供たちに接しながら感じるのですけれども、その点、いかがでしょうか。
  13. 立花隆

    立花参考人 おっしゃるとおりだと思います。  本当にそういう悪循環がいろいろなレベルでずうっと続いてきているというのが、高等教育だけじゃないのですけれども、日本をいろいろまずくしている原因だろうと思います。このままいってはその悪循環を断ち切る道が今ないという、これが一番の問題じゃないかと思います。
  14. 石井郁子

    石井(郁)小委員 先生、きょうはありがとうございます。  私は、日本共産党の石井郁子でございます。  大学生学力低下という問題は私どももいろいろ聞いておりまして、ますます深刻になっているなということで、きょう先生のお話を伺って、本当にここまで来ているのかということで、なおいろいろ教えられることが多いのですけれども、お話と関係して、私、二つほどお聞かせいただきたいのです。  先生が強調されました、学力低下が取り上げられ始めた時期が五年前、九四年ごろというのを一つ出されましたけれども、それはどういうことなのかな、どういう背景というか条件がそこにあったのかなということをもう少し伺いたいなと思うのです。  大学生学力低下は、大学生にあらわれるけれども、やはり高校、そして中、あるいはそこまでの育ちの経過があるだろうというふうに思うのです。それと、社会的な状況、事情とか、大学の事情とかいろいろあるのでしょうけれども、九四年からというのがどういうことなのかなということをもう少しお聞かせいただきたいことが一つ。  それから、先の方に行ってしまうかもしれませんけれども、こういう状況、本当にいろいろな問題があるということはだんだんわかってきているのですけれども、解決していくのに、どこから手をつけたらいいのかということでいうと、順序というふうにはならないかもしれませんけれども、何か解決の方向で、まずここから始めたら進むんじゃないかとかいうようなことがあったらお聞かせいただきたい。  きょうのお話では、入試科目の問題も問題だ。それから、教え方というのは根本的に大変問われる。それから、大学自身がもっと卒業要件というのを厳しくしなければいけないという大学の問題も出されたと思いますし、そのほかいろいろあるかと思うのですが。だから、教育問題では、いろいろ語られるけれども、やはりここからまず解決へ一歩踏み出したというようなことが今のところなかなか出てきていないように思いますので、その辺での何かお考えをお聞かせいただけたらというふうに思います。  それと、私は、このほかのことですけれども、やはり学力問題というのをそもそも根本にどう考えたらいいのかというのもあるのですね。こういう順序でこう教えていってわかるという問題と、ある年齢のときに、ある深い問題にがっと行き着いてわかること。先ほどアルファベットの話も出されましたけれども、順序を追ってわからなければいけないというわかり方と、集中して、子供の時期はそうですよね、もう一晩で勉強してわかったということもあるわけですから、そういうことと組み合わせていって、学力問題というのをどう考えたらいいのかなというのも一つあるかと思うのですけれども、お聞かせいただければと思います。
  15. 立花隆

    立花参考人 その九四年からというのは、資料十七と資料二十三を見ていただければわかりますように、九四年のところで教育課程の内容というのが劇的に変わっているわけです。特に理科に関しましては、資料二十三の下のところにありますように、二領域から二科目必修ということになったわけですね。  そうしますと、この上の方を見ればわかりますように、かつては四科目必修時代があったわけです。僕らのときは三科目必修でしたから、物理化学生物、地学のうちから三科目をとるというのが僕らの時代です。その後、多分今の五十代ぐらいの人たちまでが、要するに六〇年代の四科目必修時代の人だったと思います。この時代高等学校教育を受けた人たち、これは幸いなことに、今の日本の本当の意味でのリーダーシップを持っている年代は、実はこの層の人たちなんですね。  この間、科技庁の人が僕のところへ別な問題で来まして、君は高校のとき何をやったと聞いたら、僕はちゃんと四科目やりましたと、要するにこの時代の人なんですね。この時代人たち日本トップに近いところにいて引っ張っている限りにおいてはある程度大丈夫ということがあるのですけれども、どんどんどんどん下がってきまして、間もなく、この九四年以後の、えっと驚くような人たち社会の現場に出てくるわけです。  もう既にそういう人たちに接している人たちにいろいろな形で話を聞いていますけれども、数年前から大学先生たちが驚いたような学生たちが出現したのと同じように、驚いたような社会人たちが本当にこの世に出現してくるわけです。もう多分ことしの春、あるいはちょっと前からかな、そういう人たちが出てきているはずです。これがどんどんふえてきます。  どういうふうに変わるかというと、資料二十三の、九四年施行の二領域から二科目必修の裏返しを考えてみればわかるのです。つまり、かつて四科目と言われていたものの二科目しかやらないわけです、高校で。あとの二科目はどうかということになると、中学レベル知識のままです。つまり、中学生知識しかないのです。中学生高校生で同じ科目をとったとしても、内容的にこんな開きがあります。その知識程度人間が今度社会へ出てくるわけですね、サイエンスに関しては。これは、社会に関してもあるいは数学に関しても、同様の変化というのが起きているわけです、この時点で。  それで、これがさらに、たしか二〇〇三年か何かからの施行になるもう一つレベルを下げるあれになりますと、この九四年は、二科目は中学レベルという連中がどんどん社会へ出てきて、あっと驚く社会人が出てくるわけですけれども、二〇〇三年になるともう一段下がります。ある科目については小学レベル知識しかないとか、そういうことが起きてくるわけですね。  例えば、資料二十三の左側、「小・中学校理科の時間数の変遷」というところを見ればわかると思いますけれども、この下げた時間数を両方勘定しますと、ちょうど一年間分ぐらいの授業時間というのが減るわけです。実際にいろいろなところで必修レベルが下がると、大学入試レベルも下げなきゃいけない。いろいろな意味でどんどん下の方へ足を引っ張るということが繰り返されてきたということが続いてきたわけです。  ここは理科しか書いていませんけれども、実は数学の問題というのはもっと非常に深刻なことになっているのですね。ですから、例えば東大の工学部では、本郷に進学した人たちに対して毎年同じレベルの試験問題というのをもう十何年、数学レベルを検査するためにやっているのです。これが九四年組から明確に十点下がっているのです。十点下がるというのはもう物すごく大変な違いなんですね。ですから、本当に九四年からの変化というのは非常に大きなもので、間もなく皆さん社会のいろいろなところでそういう連中にぶつかるようになると思います。  これが今度、長い目で見ると、日本の国力全体に非常に深刻な影響を与えてくるわけですね。そのときに本当に、ああ、やはりあのときが問題だったんだと気がついても、一回こうなり始めた国というのは、またこう立ち上げるというのはこの期間以上の時間がかかるわけです。
  16. 増田敏男

    増田委員長 解決の第一歩は何でしょうかというお尋ねがありましたが、参考人、いかがでしょうか。
  17. 立花隆

    立花参考人 とりあえずは、大学ビッグバンといいますか、そういう状況が少し前から進行しているわけですけれども、やはり金融問題のように、結局、いろいろな規制を外して競争というものをきちんと導入することによって、いろいろな会社がつぶれたりというようなことも起きましたけれども、そういう割とラジカルな方策をとることによって体質が強化されたというのは、これは間違いないことだと思います。  それで、教育の面でも同じように、要するにやはりビッグバンせざるを得ない状況というものが、先ほどの入学定員の問題から既に起きているわけです。これを無理に抑えようとしてもどうしようもない。むしろ、今つぶれるべき大学はつぶれてもらうほかはない、そういうふうにとりあえずは行くほかないと思うのです。その中で、いろいろなところが、生き残りを一生懸命彼ら自身が模索し始めるわけですね。その中でいろいろな解決策というのが持ち上がってくると思います。
  18. 渡辺博道

    渡辺(博)小委員 それぞれの先生と重複することがあるかもしれません。  実は先週、私は、オーストラリア国立大学教育の内容について、行ってまいりましてお話を聞いてきました。そのときに、やはり先生がおっしゃったように、ヨーロッパの大学と同じように、入学に対しては極めてオープンな形でやっておりますが、一年たった段階では、極端なことを言うと半分の人が落第していくというふうなお話も聞かせていただいたわけです。  こういった中で、日本の今の入試制度のあり方としますと、大学入試が人生の一つの大きな達成感、大学に入ってしまえばこれで人生の一つの目標を達成した、そういった意識が大分強いのではないかというふうに思うのですね。したがって、先ほど先生がおっしゃったように、大学のレジャーランド化というか、まさに自分たちの目的意識を失った状態が今の大学生であるというふうに私も認識しております。  そこで、どういう形で学ぶ意識、学習の意欲を高めるかということであれば、やはりある程度プレッシャーをかけていくことが大事だと思うのですね。そうしますと、一年、二年目には、まず試験でしっかりと落とす、四年で卒業できない人間が必ずいるんだ、そういった制度が私は必要だと思うのですが、諸外国でそういうふうにできていながら、なぜ日本でそういうものがなかなかできないのか。これはひとつ実情について先生のお考えをお知らせいただきたいと思いますが。
  19. 立花隆

    立花参考人 もう本当におっしゃるとおりで、そうすべきなんです。  なぜできないのかですけれども、一つ大学が勇気がないということがあります。それから、いろいろ私学の場合には、日本の場合には八割が御存じのとおり私学ですけれども、要するに、あの大学は入ってもなかなか卒業できないよということになると、学生が来ない、経営に響く、大学がつぶれる、そういうことが物すごくあると思います。  つまり、学生の数がこうなる以前、学生の数がどんどんふえている時代、ある意味大学経営というのは、そう言ってはなんですけれども、非常にもうかった時代があったわけですね。そのときに、入試レベルをどんどん下げて、どんどん入れますよというような格好で、とにかくどんどんかき集めた。そうすると、入試のバリアを下げることで大学の劣化というものがもう随分長い間始まってきたわけです。  最初は私学から始まったのですけれども、途中から国立大学が、生徒がどんどん私学に流れちゃう。やはり国立大学としても水準を下げざるを得ないということで、地方大学から始まって、私学に対抗するためにどんどん入試を易しくしたんですね、科目を減らしたり試験のレベルを下げたりという形で。それがずうっと続いてきたのです。  僕は地方大学にいろいろしゃべりに行くこともありますので、それをそういうところで聞いてきまして、そういうところでは、本当にいけないのは私学だと言っているんですけれども、そういう形で、とにかく学生授業料を運んでくれる、入学試験料を運んでくれるお客さんだという感じで、どんどんバリアを下げてかき集める、そういう方式がずうっと続いてきたというのが一番いけないことだと思います。
  20. 池坊保子

    池坊委員 池坊保子でございます。  今立花参考人がおっしゃいましたように、昨今の大学での学力低下が問題になっておりますけれども、他方、高名な数学者が、中学の算数入試問題を僕はとても解けないということを書いていらっしゃいました。私は、教育現場では、教え方が大変アンバランスなのではないかというふうに思うんです。勉強に対する夢がなくて、勉強することが楽しみであったり喜びであったりするような、勉強することが一つの目的なんではなくて、勉強はなぜするかというと、一流企業に入る、一流大学に入る、そのための手段ではないかというふうになっておりますけれども、それは、どういうふうにしたら勉強することが目的であるような教育現場をつくっていくことができるのかということを伺いたいと思うんです。  先ほども、大学入試生物よりも物理がいいというお話がございました。私の娘も、高校生のとき、自分の好きな授業があるけれども、その科目はとれない、自分の好きな勉強に専念したら入試には合格できない、やはり自分の希望する大学にも入りたい、でも自分の好きな授業も受けたい、そういうジレンマに随分悩んでおりまして、最後はやはり入試に易しい科目高校のときに履修するということになってしまうわけです。ですから、結果的にやはり大学入試のあり方というのが私は大きなネックになるのではないかと思いますけれども、その辺のことをちょっと伺いたいと存じます。
  21. 立花隆

    立花参考人 おっしゃるとおり、本当にそういう問題というのがあります。  もう一つ、先ほどの九四年の問題に関して言えば、このときの教育課程改定によって、そこを縮めて、これをとればどの大学のどういう試験、この大学に行こうと思ったらこれをとらなきゃいけないみたいなところでみんなとる科目を選んだわけですね。  そのときに、この九四年の改定高校側の科目相当減らしたわけです。それで、先生がそんなに必要ないではないかということになりまして、このときに随分理科の教員を減らしたのです。それで、この資料十七で見ますと、例えば地学の履修率というのは劇的に下がっていますけれども、これはその後もっと減りまして、それで先生がどんどんいなくなりまして、今、例えば地学をとろうと思っても地学をとれないという学校が実は物すごくふえているわけですね。教員の予算をそのときにとにかく削減したおかげで、今から理科科目というものを、もう一度ちゃんと昔の四科目履修みたいなことをやろうと思ったって、今教える体制にない、各学校でその課程をとろうと思ってもその課程がないということがたくさん起きています。  この後、九四年以後、九四年のあたりからかな、要するに課程を細かく分けたのです。かつては理科というと四科目というような感じだったのですけれども、今たしか十三課程か何かにコースを細かく分けたのです。だから、ちゃんとその課程を全部そろえている学校というのは必ずしもないんです。十三課程のうちのこれとこれとこれしかこの学校はないみたいな、そういう感じになっているわけですね。  おっしゃいましたように、だから、自分は本当はこれをやりたいんだけれどもそれがないとか、大学を通るのにはこれが有利だからこれはやらないとか、そういう感じで今の子供たちはコースを選ばざるを得ないという状況が生まれている、これはやはり非常に大きな問題だと思います。
  22. 倉成正和

    倉成委員 倉成正和と申します。  きょうのお話、いろいろ参考になりましてありがとうございました。きょうのお話を聞いていて、いろいろなことが一遍に出てきて、一体どれを先にやったらいいかということなんですけれども、一つは、指導要領の改訂とかも、例えばゆとりの教育をして、そして創造性を豊かにしようということで、そういう目的自身はだれも非難できない目的だったと思うんですけれども、それをやって実際にどういう方向に行ったかということについて、つまり、結果について効果測定とか評価というのが欠けているんじゃないか、ずっといろいろなことでやられてきたときに、その辺が一番欠けているんじゃないかと私は思うんです。  それをきちっとやれば、仮にそういうことをやっていったら学力が落ちていったとか、何か問題が起きてきたということをきちっと評価して、一生懸命いいと思ってやったことだけれども、では、これはまたもとに戻そうということがあらわれると思うんですけれども、とにかく建前で、いい目的であって改革だと叫んでいれば、それでやったことはすべていいことになるはずだ、結果なんか見なくてもいい、効果なんか測定しなくてもいい、そういう考えがどうもあるんじゃないかな、そこがやはり非常に大きな問題じゃないかなという気が一つしております。  それからもう一つは、あと二つあるんですけれども、アメリカの中でも、実は全入の問題というのは、もう既にアメリカ大学なんかでは全入の問題があってやっているわけですけれども、その中で、例えば教養課程は、もともとアメリカでなぜ教養課程があるかというと、指導要領とかそれから文部省みたいなものがないわけですから、みんな勝手にそこの教育委員会でそれぞれやっているのでレベル相当違う。そのレベルを合わせるために、いわゆる補習のために教養課程みたいなものをやっているんだということで、それを前提にやっているんですけれども、日本の場合は、あくまでも教養だと言っていて、建前でやっているものだから、先ほど一番最初に御指摘をされた補習的なことはやっちゃだめだというふうに言われる、そこが大きな問題じゃないかなと思います。  最後に、その観点で、きょうはどちらかというと大学そのものの問題よりはそれまでの高校の指導、履修課程の問題とか何かを御指摘されて、まさにそのとおりだと思うんですけれども、今後、大学ということで考えた場合に、今いろいろな議論があって、今月号のいろいろな雑誌にも出ているんですけれども、国立大学を独立行政法人にしたらどうかという問題があります。  独立行政法人というのは、かなり急にいろいろな過程で座興でできてきたという面もありますけれども、これもうまく活用していけば、大学が独自にそれぞれの立場でやっていって、そして、先ほど言った効果測定というか評価とかをきちっと社会なりそれから大学なりがやっていけば、この大学はこんなやり方をして、実験的にやってみたけれども、こんないい結果が出たんだということで競い合えると思う。今のだと、みんな同じにやらなきゃいけない、みんな同じやり方でやらなきゃいけないということで問題があるんじゃないかと思うんですけれども、その点を、特に最後の点をお答えいただければと思います。
  23. 立花隆

    立花参考人 第一点に関しましては、もう全くおっしゃるとおりで、つまり、これまでいろいろなことをやってきたけれども、その効果がどうなったのかということをきちんと測定してこなかった、それが大問題であるということは、先ほど紹介しましたが、高等教育フォーラムなんかでも繰り返し話題になっていることです。だから、そこを本当は文部省はきちんと調査をしなければいけないんだろうけれども、やれば自分たちの失敗があからさまになるのが目に見えているからそれをやらないというところ、これが一番大きな問題としてあると思います。  それからアメリカで、御存じのように、そういう教養課程の問題というのはいろいろな面があります。いろいろな面がありまして、おっしゃる一面もあるんですけれども、何よりもアメリカは、基本的にそれぞれの大学が、いろいろな大学がいわば大学のヒエラルヒーをつくっている中で、自分の大学はこういう大学としていく、そういう大学の基本的なあり方を自分なりにきちんと見定めて、日本みたいに、どこの大学もほかの大学と同じようにある幅を持ってそのすべてを自分のファンクションの中に取り入れようとしない。そうすれば、それなりの行き方のあれというのがありまして、独自の道というのはたくさんあるわけですね。  特に、カレッジの問題では、例えばコミュニティーカレッジ的なカレッジもあるし、それからハーバードみたいな非常に高等な、ハイアーなカレッジもありますし、これは大学の歴史、伝統がいろいろ違うので一口には語りにくいんですけれども、教養というものにいろいろな意味で重要な要素を置いてきたのです。  日本ではこれが、新制大学をつくるときに無理やり、強制的にあらゆる大学教養課程を置けみたいなことで教養部というものをつくってやり始めたけれども、それがつけ焼き刃の教育内容であったために、そのうちだんだん、教養課程の評判がどんどん悪くなって解体してしまったというのが一つ原因としてあるんです。ただ、それはそれでよかったのかという反省が今非常に大きくなっている。  つまり大学が、小学校からずっと、だんだん高等教育を受けて社会に出る過程のどこに位置して、どこで何を教えるべきかということを全体として考えた場合に、今までの大学は、専門課程先生は専門課程に都合がいいことばかり言っていてという形で、教養課程を食いつぶすみたいな形で消しちゃったわけですね。それが消えてみると、今度は、大学の本来の教育の役目を十分に果たせないじゃないかということになってきて、つまり、高校から入ってきたそのフレッシュマンに高等教育をどういうふうに与えるかという一番最初のところを、教養課程を壊したら、専門課程の人が今度出張して何かやらなければならないわけですね。ところが、やりようがないわけです。  つまり、今いろいろな教育課程の崩壊の問題が起きていますけれども、一つは、そういう教養課程の崩壊というもの、つまり昔の旧制の高校が担ったような、要するに社会に出る若者の人間教育的な側面というのがほとんどなくなってしまっている、これが先ほどのレジャーランド化に拍車をかけた一つ原因だと思いますが、ここをやはりもう一度根本的に考えなければいけないということが、もう一つの問題としてあると思います。  それから、独立行政法人の話ですけれども、どのような独立行政法人化という、行政法人の具体的な中身を伴わないでただ独立行政法人という議論をし出すと、今の大学人の人たちは——実は僕は独立行政法人は賛成なんです。かねてから、独立行政法人化する方がむしろ大学のためになると言っているんです。  そのときに僕がイメージしているのは、本来の独立行政法人というのは、日本の行政機構の中では、例えばかつての公正取引委員会みたいなああいうファンクションですね。ところが今の大学人が、独立行政法人と文部省やなんかから出てきたときにすぐイメージしてしまうのは、何か今度は大学自体がお金もうけをして、そのもうかった金の中で経営的にやりくりしなければいけないんだみたいな、そういう感じの独立行政法人の受けとめ方をしているんですね。  そういうあれだったらもちろん問題ですけれども、そうじゃない、本来的な意味、つまり、これまでのような、文部省のコントロール下にみんな右へ倣えで一斉に同じ教育をやるみたいなそういうシステムから独立して、大学が、本来の自由、だれに何を教えるかという、その教える自由、教わる自由をちゃんと確立するためには、独立行政法人化というのはちゃんとした方法であれば、これは僕は一番いい方法だと思っています。
  24. 富田茂之

    富田委員 公明党・改革クラブの富田でございます。  高等教育に関する小委員会なんですが、先ほど来の先生のお話を聞いていますと、やはり初等中等教育における教え方が一番問題だと、そのとおりだと思うんですが、特に理科の問題で、教えるべき理科の中身がわからない教員養成課程にいる学生、その人たち先生になって、結局、教科書を読むだけと。ここを何とか変えないと、小学校高学年の子というのは結構理科が好きなんですね。私、中一の娘と小五の男の子がいるんですが、二人とも小学校の五年、六年ぐらいまでは理科が好きで、今は小五の子は理科が大好きなんですが、中一の子は大嫌いになりまして、中学校に入って別の先生に教わったら理科がおもしろくなった、今は理科が一番大好きだと。  そうすると、子供に理科が好きになるようなそういう教え方がきちんとできる先生をどう育てるか。教員養成課程における教え方も問題でしょうし、実際に小学校の現場に教員が行ったときに、できない先生にはどいてもらう、きちんと子供たちに興味を持たせることのできる先生を育てていく。  教員の研修も大事ですし、できない人を評価してどかせるとか、そういうことをまず考えていかないと、小さなころに理科がきちんと好きになれば、今先生が言われたように、高等学校科目が選べないにしても、もともとついた基礎的な理科に対する考え方というのは、大学でまた自分の力である程度はどうにかなるんじゃないかと思うんですね。そういうことを考えると、特に小学校高学年における子供たちに対する理科をきちんと教えられる先生をどう育てていくかというのが一番大事じゃないかなと思うんですね。  先ほど大野先生が、僕らのころには地域にそういうのがあった、ドジョウもいれば何かいると。私の子供は今「科学」という雑誌を毎月とっているんですが、その中の付録でメダカの卵を送ってきまして、それでメダカを育てたんです。今は近くにそういうのがないという、ちょっともう都会的になっちゃっているんですが、そういういろいろなまだファンクションがあると思うんですね。そういうのをいろいろ利用して、本当に実験に親しめるような教育をしていかなきゃいけないと思うんですが、先生をどう育てるかという点ではどういうふうにお考えになりますか。
  25. 立花隆

    立花参考人 本当におっしゃるとおりだと思うんですけれども、ここで見落としちゃいけないもう一つ問題点というのは、実は小学校中学校の教員の数というものが、これは各地方自治体の予算の関係がありまして、新しい教員をほとんど採らない事態というのがもうずうっと続いているわけです。そうするとどういうことになるかというと、教育系大学に本気で入ってくる学生がいなくなっている、教員になろうと思って入ってくる学生がいなくなっている。実は、入っても就職できないということが起きているわけですね。  もう一つの問題、初等中等教育で非常に重大な問題として今学級崩壊とかそういういろいろな面が起きていますけれども、あれの一番手っ取り早い解決策は、四十人学級をやめて二十人学級ないし三十人学級にすることなんです。そもそも四十人というのは、かつてのような権威主義的な社会が成立しているところでは一人の先生が四十人全部を管理するということが可能だったけれども、社会全体がそういう権威主義的な空気が薄れてくると、四十人全部を管理するというのは、もともと人間工学上、組織管理でスパン・オブ・コントロールと言いまして、管理できる人数の範囲というのは大体決まっているんです。適正は大体二十人と言われているんですね。だから、本当は教育でも、二十人で先生がいるというのが初等教育なんかでは一番いいわけです。実際、欧米なんかでは二十人ぐらいの教育をしているわけですね。  そうすると、そのレベル先生が倍必要になりますから、教員をどんどんふやせということになって、そうすると、学生がどんどん入ってきて教育系大学水準も上がるし、意欲も上がる、そういうことになると思うんです。今のように、教育予算がこうなって、四十人を一人でも超したら二クラスにしていいけれども、四十人までは厳密に一人を守れみたいな、そういう文部省の非常にかたい指導がある限り、この問題の解決は非常に難しいと思います。
  26. 松浪健四郎

    ○松浪小委員 自由党の松浪健四郎です。  きょうはお忙しいところをありがとうございます。  教員の養成についてのお答えは、私はそうは思わないんですけれども、その話は横に置きます。  火曜日に日の丸・君が代の代表質問がありました。国会議員が原稿を読むんですが、三人の先生方がまともに読めない。幸い我が党にはそういう先生はいらっしゃらなくてほっとしたんですが。とにかく、理科の問題、数学の問題を参考人が今お触れになられましたけれども、私が恐れていることは、日本人が日本語ができない、そしてしゃべることもできないし、書くこともできない。それは、センター試験がおおむねマーク解答用紙によって答案する、それは私学にも及んでいるわけですけれども、私は、まずこの画一的な試験でやる方法をやめるべきだ、そして個性的な人材を集めるべきだ、こういうふうに思っているんですが、このことについて、第一点お尋ねしたいと思います。  第二点は、理科数学が嫌いだ、できない、そんなことよりもっと驚かなきゃいけないのは、今の大学生の運動神経、運動能力は異常なほど劣化しているということなんですね。例えば、真っすぐ走ることができない、そして野球のボールを投げることもバットを振ることもできない、こういう学生が物すごく多いということを実は私は承知しております。  私は、運動神経であるとか体力があるということ、先生も哲学をやられておりますから古代ギリシャのことでおわかりのことだと思うのですが、これが学問をする上において原点だ、こういうふうにとらえています。したがいまして、そのことをどのようにお考えになられるか、これが第二点。  第三点は、我が国の研究者が論文を書き、発表しても、それが余り評価をされない。これは、私は各大学の、また研究所の講座制に問題があるんじゃないのか、こういうふうに考えております。そして、もう一つは、研究所や大学におけるプロモートの問題、これとも深いかかわりがある。つまり、自由な研究がなかなかやりづらくて、常に研究のテーマを選ぶときに上司の教授に配慮しなきゃいけないというような一面も悪癖としてあり、そういう現実になって表出しているのではないのかという思いをしておりますが、この三つについてお尋ねいたします。
  27. 立花隆

    立花参考人 三点ともおっしゃるとおりだと思います。  特に、国語力の低下という点に関しましては、この資料四の中に、実は大学で今いろいろ補習をしているけれども、国語の補習といいますか、要するに書く能力、日本語の能力、これを補習しなきゃいけないという事態が非常に出ている、これは本当にそのとおりだと思います。  それから、体のことについては、おっしゃるとおり、古代以来、健全な肉体がない人間には健全な精神が宿らないというその言葉どおりのことがあるのですけれども、今おっしゃられた、本当に真っすぐ走れないとか、そういう人間の基本的な運動能力に関してそれほどの低下があらわれているというのは僕は知りませんでしたけれども、これは非常にゆゆしい問題だと思うのですね。そういう問題は、むしろ教育の問題以上の問題ではないかという気がします。  それで、来月の中央公論にこれは書いている話なんですけれども、環境ホルモンの問題が実は人間の神経系に影響しているという科学的な知見というのがたくさん出ています。それは、アメリカでシーア・コルボーン博士という人と長い対談をしたものが今度出る中央公論に出ますけれども、いろいろな意味で神経系が、つまり、今おっしゃられたような、人間が真っすぐ歩くとか真っすぐ走るとか、要するに基本的な能力がそれほど狂い出しているということは、そういう可能性まで含めてこれは検討すべき、もう本当にこれは教育以上にゆゆしい問題だと思います。  それからもう一つは、大学の研究ですね。これは、本当に大学によって、ボス的な先生の支配力があれして自由な研究が阻害されて云々という話はたくさん聞きます。そういう意味での自由度の低さというものがやはりいろいろな意味大学教育高等教育のゆがみというのをつくっているのは、もうおっしゃるとおりだと思うのです。  では、どうすればいいんだということになりますと、これは、社会全体といいますか、我々の社会が歴史的に抱えている社会全体の、何といいますか、国民性とまでは言わないまでも、伝統的に保持している日本社会のいろいろな面の悪いゆがみが高等教育機関の内部にもあらわれている、そういう側面があると思うのですね。もう本当におっしゃるとおりだと思います。
  28. 塩谷立

    塩谷委員 自民党の塩谷立でございます。  きょうの先生のお話、大変ショックを受けると同時に、果たしてどうやったらいいかなというのは大変大きな問題で、なかなか難しいわけでございます。  多分、かつて受験戦争というものが大分問われていて、科目も何教科ということで画一的に全部やるということが問題であろう、それがまた個性を、個性的な人をまた排除しているというか、そういうことになっているということで、選択にした理由としてそういうこともあったと思うのですね。それが、十八歳人口の低下で大学受験の科目数の減少ということに相まって、多分そこら辺のいろいろな理由があって学力低下ということになったと思うのです。  いわゆる個性的な人を育てるということ、あるいはこれから、創造力があるとかそういうことが言われて、ゆとりある教育と言われているのですが、その考え方は私も大賛成なんですが、果たしてその方法として、多分結果として私は学力低下になっちゃったと思うのですが、それでは、また時間数をふやして全教科やればいいかということでもないと思うのですが、そこら辺のところは先生はどうお考えになるか、お聞きしたいと思います。
  29. 立花隆

    立花参考人 おっしゃるとおりだと思います。  科目減少には、そうしただけの背景というのは確かにあったわけですね。それは、おっしゃられましたようにそれまで、あるいはその後も引き続いた、つまり、大学に押し込むためにはこう教えなきゃいけないみたいな、その押し込み方みたいなところが問題があって、負荷が余計にかかるということになったんだと思うのですね。  ですから、その解決策としては、先ほど言いましたように大学入試を、人数の問題もこういうふうになってきたことですから、それほど厳しくしなくて、入る人はどんどん入れて、むしろ入れた後で、学習意欲がないとか、どう考えても学習レベルが低過ぎるというのはどんどん落とすというような方式にある程度転換せざるを得ない。  それで、ヨーロッパのように一〇〇%、では高校卒業資格を取ったらどこにでも入れますよというようなことには、歴史的ないろいろな事情もありますから直ちにはいかないだろうけれども、そういう要素というのを僕はやはり相当取り入れていくことが必要だろうと思います。  ただ、そこのところを、入れるときに、同時に、入れた後の、先ほどの、教育水準を下げないため非常に厳しい教育をする、学習意欲を上げる教育環境をつくる、そういうことが伴わないとこれはだめだろうと思います。
  30. 栗原裕康

    栗原(裕)小委員 自民党の栗原でございます。  先生のお話を拝聴しておりますと、一つは、一般的に大学レベルが非常に下がってしまったということと、もう一つは、理科教育理科離れが進んでいるということだと思うのです。  まず一つは、理科教育レベルが下がっているという中で、先ほどの御議論の中で、やはり教える側の質という問題がありました。  今、各中学校には、大体公立でもパソコン教室があって、インターネットもつなげるんですね。そうすると、例えば授業なんかにそういったものを活用するという手はあるのではないかと思いますので、それについてどうお考えなのかというのがまず第一点。  それから、大学全般のレベルの低下でございますけれども、私、たまたま静岡県で、この前静岡県の美容師さんたちの技術選手権というのがありまして、県下の美容院の若い従業員のお姉さんたちが三百人ぐらい集まったのかな、私も呼ばれて行って、びっくりしたのは、都内の短大の女子学生と全く同じ服装と全く同じ雰囲気を持っていらっしゃるのですね。これが大学の大衆化だと私は納得をしたわけでございますが。  それはさておきまして、今、塩谷立先生からお話がありましたように、かつては入試科目が非常に多かったわけですね。多くて、それをみんな、一応あるレベルまで達しないと、総合点で判断しましたですね。  ところが、私は、やはり得意科目、不得意科目があって、少なくとも、例えば中学卒業程度のことならばずっと勉強すればわかるけれども、いつまでに高校レベルをマスターしなきゃいかぬというのは、そこで差が出ると思うのですね。  だけれども、大学を出てからの方がむしろ人生は長いわけですから、例えば、大学入試に中卒レベルの試験だけでも、例えば物理物理は中学では教えませんか、数学なら中学レベル知識さえあればいい、それをテストするんだ。それから、英語はやはり高卒レベルじゃなきゃいかぬとか、あるいは物理もとか、そういう科目を多くしても、それは文部省の言うように全部高卒程度学力ではなくて、いや、場合によっては小学校でもいいんだ、そういうことをしていけば大分違うと思うのです。  もっと言うと、結局、戦後の日本というのは、平等というものがすべての価値基準でございましたけれども、実際、平等というのはかなりおかしな概念でございまして、平等を追求すればレベルが全部下がっちゃうわけですから。そういう意味では、受験戦争が過熱になり過ぎたので科目を減らした、しかしその科目を、オール・オア・ナッシングのナッシングにしちゃったというところが本来問題であって、小中高レベルというレベルでなくさないで、小学校レベルでもこの学部はいいですよ、大学受験の資格にはなりますよというようなことをやっていけば大分変わる。  しかも、もっと言うと、小学校中学校で、あるいは高校でどんどん能力別にクラス編制をして、この科目はということをやってもいいと思うのですね。つまり、今の日本の雰囲気というのは、先ほど松浪先生がおっしゃったように、運動能力は結構偏差値をつけるくせに、学校能力、学力に偏差値をつけると物すごく怒られるという変な風潮があるような気がしますので、そういうことについてどうお考えになるかお尋ねをいたしたいと思います。
  31. 立花隆

    立花参考人 おっしゃるとおり、余りにも平等主義に走り過ぎて能力別ということをやらなかったということは、今日の事態を招いた一つの大きな原因だろうと思います。  では、どうすればいいかの話になりますといろいろな方策があるんですが、一つ参考になるのは、アメリカで数年前から非常に積極的にいろいろな大学で試みられていますのは、能力別の話になると、すぐ飛び級とか何かそういう話に日本ではなっちゃうのですけれども、アメリカで割と広く最近行われるようになっているのは、できる子には、高校にいる間に、高校の人に指導させて大学レベルの内容の教育も一部与える。彼の全生活をぽんと飛び級的に移すのではなくて、高校の生活の中で、つまり高校という教育課程の中で部分的に突出した部分をつくって、できる子は、その時間はそこのところで過ごす、そのかわり、そこで取った単位、それを大学に入ったときにそのまま生かすことができるという制度をつくったのですね。当初は数大学だったのですけれども、これが今アメリカで非常にどんどんふえている。  つまり、高校教育の問題でそういう能力の話になりますと、できる子をどうするかという問題が、できない子をどうするかの問題と並んでやはりもう一つ非常に出てきまして、そうすると、飛び級的にやるというのも、アメリカや何かでやってみて必ずしもうまくいかない面があるわけですね、日本の飛び級でもそのことが随分話題になりましたけれども。  そうすると、それは、そうやって、例えば数学が非常にできる子には、数学の時間、大学の内容の数学高校先生が教えてしまって、その単位大学が認可する、これが実は高校先生に物すごくやる気を起こさせたのですね。つまり、大学にもいいし、高校にもいいということで、これが割と広く今アメリカで進み始めたということがあります。  それから、もう一つ参考になると思うのは、やる気がある人には教育内容を本当に広く与える、これは非常に重要なことで、大学の機能にとっても重要で、それが大学の門戸開放といいますか、生涯教育の一環としての大学の利用みたいな話につながると思うのです。  これがある形で非常にうまくいっているのは、フランスにコレージュ・ド・フランスという高等教育機関がありまして、これは、フランスでは大学よりもさらに高いレベル高等教育機関と言われていますけれども、実は入学資格も入学試験もなければ聴講の手続も何もない、常にオープンなんです。常にオープンで、フランスで一流の学者がそこの教授になって、自分のしている非常に水準が高い教育のことをしゃべる、それだけなんです。聞く人は、別にそれを聞いて何の資格も取れないし、何か試験をされるわけでも何でもない。  でも、これがたしか十六世紀か十七世紀か、要するにフランス革命以前からフランスで伝統的に、最高の教育機関はコレージュ・ド・フランスで、コレージュ・ド・フランスの教授になることはフランスで最高の知識人の名誉になっている、そういう教育機関があるんですね。これは要するに、やる気がある限り最高の教育というものを、だれでも常にただで、それは聴講料もありませんから常にただなんです。  歴史的には、例えば、いろいろな人が知っているフランスのベルグソンという有名な哲学者がいますけれども、彼などもそこで教授をやっているわけですね。最近の例では、ミシェル・フーコーとかレヴィ・ストロースとか、そういういろいろな人たちがやはりそこで教えていますけれども、そういう人たちが講座をきょう持つというときには、もう何時間も前から人々がずらっと行列をつくって教室が開くのを待っているとか、金持ちの人は自分の召使を使って席取りをさせるとか、そういうことが歴史的にずっと行われている、そういう高等教育機関があるわけですね。これはナショナル、国立です。  そういうものを例えば日本でもつくってみると、今、結構じいさん、ばあさんで学習意欲が物すごくある人がカルチャースクールとかオープンになった大学に来るということがありますけれども、そういう道をひとつ開いて、ああ人生には、要するに、人生と学問の間にはこういう関係もあるんだというような、いろいろなチャネルを開いてやるということも必要、また参考になる道じゃないかと思います。
  32. 山元勉

    山元委員 民主党の山元でございます。実はきょう、日の丸・君が代の委員会が開かれまして、ダブっておりまして大変失礼をしたのですが、速記録でまた勉強させていただきます。  せっかくの機会ですから、自分がいない間に出ているのかもしれませんけれども、最初、先生学力崩壊という言葉を使われました。学級崩壊という言葉も悲しい言葉なんですけれども、どきっとしたのですが、そういう今の学力崩壊の問題については、それぞれの先生から御質問があったのだろうというふうに思います。  そこで、少し違うんですけれども、家庭の問題ですね。  確かに、分数ができないとか、あるいは字が書けないとか、あるいは松浪先生がおっしゃるように、真っすぐ走れないとか、これは、親は自分の子供のことを知っているはずなんですね。その子らに高い学費を出して、高校へ、大学へというふうに送っているわけです。  家庭の教育力が落ちたということも言われて久しいわけですけれども、今度、文部省は子育て緊急三カ年プランというのをつくって、金を大分つぎ込んで、例えば育児手帳だとか、あるいは私の県でも、幼児の手帳、小学校の手帳、中学校の手帳と、各家庭にこうやって育てるんですよというパンフを配布しているんですね、御丁寧に。そうしなければならぬ子育ての状況があるんだろうというふうに思うのです。  そこで、今確かに、学力の問題ですから、学校だとかあるいは教育機関ということが見当たりますけれども、一つは、生まれて一番最初の、初めての教師というのはやはり親であるはずですから、先生の目からごらんになって、今家庭、いわゆる親たち、保護者たちに対してどういうふうに御意見をお持ちなのか。これは、しっかりしてもらいたいという、私らも、例えば教育の現場だとか政治の場でも、そのことについては努力をしなければならぬ実態に追い込まれていることは事実ですけれども、世の親たち、保護者たちも頑張ってほしいという気がするのですが、先生からごらんになってどうでしょうか。
  33. 立花隆

    立花参考人 高等教育機関、つまり大学における親の役割というのは、入学時とその後と両方あると思いますけれども、やはり入学時、つまり、どこの大学へ行くかということを選定する時期の、家庭によって違いますけれども、親の果たしている役割というのは物すごく大きなものがありまして、あそこじゃなくてこっちにしろとか、そういうあれが相当子供のプレッシャーになっているということは事実問題としてあるわけですけれども、僕は、基本的には、人間大学に入る時期になればもう一人前の人間なんだから、それは結婚相手と同じで、基本的に自分で決めろということだろうと思うのですね。  実は、この高等教育フォーラムの一回目のシンポジウムのときに、いろいろな議論が出まして、いろいろな人が来ていろいろなことをしゃべって、会場から質問をとりましたときに、ある女の人が、私の息子はただいま東北大学のドクターコースに行っているのですけれどもみたいな話をしまして、今理科教育が危ないと言いますけれども、うちの子供は勉強が忙しいといってうちに一度も帰ってこないのですけれども、理科というのはそんなに難しくなっているのでしょうかというようなことを言うのですね。だから、僕は、それは全然問題が違うし、大体そんなことをこんなところへ出てきて、あなたの子供はどう思うかというような、そっちの方がよっぽど問題で、そういう親がやはり日本教育相当だめにしたという面があると思います。  もう一つは、先ほどそちらのどなたかがおっしゃいましたけれども、やはりいい大学に行けばいい職業について云々みたいな、そういう親の思い込みがあって、一生懸命親は入れようとするわけですね。それは実際に社会に出てみればもう本当にわかるとおりに、いい大学を出たからといって決していい人生が必ずしも待っているわけではなくて、例えば東大を出たって落第の人生を送っている人間は山のようにいるわけですね。むしろ社会的にはそっちの方がはるかに多いわけです。  僕は、この前、実は東大教養学部で二年生から三年生に進学する学生たちにいろいろ話をしてくれと言われまして、話をしたときに真っ先に言ったことは、君らの三割は大体間違って入ったんだと。入学試験というのは本当は一点の差で落ちたり入ったりしますから、君ら三割と同じ程度間違って落ちたやつが社会には山のようにいる、大体同数いると思っていい。それで、その連中大学時代にリベンジのつもりで必死になって社会へ入ってくるから、社会に出た途端にそういう連中に出会う。自分たちが東大を出てパスポートをもらったと思ったら大間違いであるというのが社会に出た瞬間にわかるんだ。大体今の日本高等教育はがたがたになっているから、君らの受けている教育というのもほとんど使いものにならない。「二十一世紀を担う君たちへ」という、その日の演題のタイトルがそうなっていたのだけれども、二十一世紀を本当に担える人間は君らのうちで多分五%ぐらいで、あとは、後から一生懸命追いかける連中になるだろう、そういうふうに言ったのですけれども、やはりそういうものだろうと思うのですね。  だから、本当に、東大を出たというだけで何とかというのは、これは恐らく日本の官庁ぐらいしかないんじゃないでしょうか。官庁とか銀行とか、要するに今評判が悪いところは全部そういうところですけれども、そうじゃないところ、僕が知っているような、僕はジャーナリズムに入りましたので社会の各層を広く見ていますけれども、東大を出たというだけでそれがパスポートになっている社会というのは、事実上ほとんどゼロです。どこへ行っても、やはりあとはもうその人の実力なんですね。それを鍛えない限り君らは東大に入ったって何の意味もないということを強調しまして、相当学生はショックを受けたようですけれども、そういうショックを受けた方がいいと思うのです。  ですから、今の大学卒業者の就職難というのも僕は非常にいいことだと思うのです。あれこそまさに、何かもうどこかに入れば、社会に出てすぐこうなるみたいな、そういう幻想を打ち砕くのに今の状況というのは一番いいんじゃないでしょうか。だから、この時代に、まさにこの高等教育の問題をもうちょっとみんなでちゃんと考えるということがより一層いいあれになるんじゃないかという気がします。
  34. 小杉隆

    小杉委員 大分長いこと大変興味深いお話を聞かせていただいて、ありがとうございました。  私は、今後の高等教育で一番憂うべき問題はやはり学力の低下だと思うのですね。そこで、戦後の日本社会というのはどうも楽をすることばかりが奨励されて、厳しさとか試練を乗り越えるという教育が少し忘れられてきたのじゃないか。ゆとりある教育という名のもとに、どんどん学習指導要領も変えて、今度も大幅に授業時間も減らす、入学試験も科目をどんどん減らす。  だけれども、そういうネガティブな面ばかりを強調する余り、私は自分の体験から、まあ先生もそうだと思うのですけれども、やはり入学試験のときに猛烈に勉強したのが物すごくその後の人生に役立っていますよ。確かに私も、物理化学も西洋史も日本史も、物すごい科目をやりましたけれども、そのときのストックがその後の人生に物すごく役立っている、そういうプラス面も大いに評価すべきである。  しかし、科目がどんどん減らされ、入学試験もどんどん推薦入学がふえていく中で、やはりどうしても基礎的な学力とか基礎的な体力というものは育てていかなければいけない。あとは、今はもう補完的なメディアがいっぱいあるわけですよ、コンピューターにしろビデオにしろ、そういうもので補完していく。だから、そこら辺の仕分けを、これとこれだけはもう徹底して、明治時代の読み書きそろばん、あるいは走る、泳ぐ、こういう基礎的なものは徹底して仕込むということが私は必要だと思うのですね。  そのことが一つと、それから、今後の大学教育、これは先生がさっき言われた、本当にやる気のある人、やりたいという人が行く大学院というのがもっともっとふえていいと思うのです。  私もある大学院へ行きましたら社会人の大学院生がいっぱいいまして、そういう人はもう本当にせき払い一つなしに熱心に勉強しているのですよ。ほかの普通の大学へ行くと、もう私語があったり、物を食べたり、携帯電話で話ししながら授業を聞くなんということをよく聞くのですが、そこの大学院はもう本当に自分の必要性に迫られて勉強をやっている。  そういうことで、私は、これから生涯学習ということで、本当に学びたいという人が、自分がこのことをやりたいということを学ぶ人がどんどんふえてくると思うのですね。そうすると、これから少子化時代で、大学の経営も、むしろそういう社会人よ、どんどんいらっしゃい、こういう大学が生き延びていくんじゃないかなと思うのですが、今後の大学院のあり方というか将来性というか、その点についてもしお考えがあったら。  以上です。
  35. 立花隆

    立花参考人 私自身、大学を出て就職しましてからもう一度大学に入り直した人間ですので、小杉先生がおっしゃった、社会人で大学院に来ている連中が物すごく勉強するというのは本当によくわかります。  僕は、一回目の学生時代は、余り自慢じゃないのですが、そんなに勉強しなかったのですけれども、二回目、一度就職して会社をやめて、もう一回入り直したときには本当に勉強しました。そのときやはり同僚の学生たち、つまり、そういう経験がない普通の学生たちが勉強しないのを見て、本当に腹が立ちましたね。  だから、一回社会に出て、もう一回本気でやるやつだけを大学に集めるという、これはスウェーデンでは基本的にそういう仕組みになっているのですね。あそこが意外に高い水準、意外にと言ってはいけないのですけれども、高い技術水準を持ってずっとやってきた背景にはそういうこともあるわけです。  だから、日本みたいに本当に大学がレジャーランド化しちゃうと、そういう人間大学内に多くなると、本当にポテンシャルにできるいいやつもそういう者に引きずられてだめになっちゃうのです。これは非常に大きな問題ですから、そこは改善する必要が何よりもあると思うのです。  それで、大学院の問題も、今おっしゃられたように、そういう社会に一たん出た人間で、社会に出てやる気がある人間は本当にやる気が出てくるのです。そのときにどうやってそれをいろいろな高等教育機関がどういう形で拾い上げるかということで、社会人にオープンにされたコースみたいなのがいろいろなところに出てきているわけですけれども、これは大学院の非常に大きな役目だと思います。  もう一つは、今サイエンス系の大学の学部というのは基本的に授業時間が足りないのです。東大の場合ですと、教養課程二年、専門課程二年ということになりますけれども、もしそのままだと、専門課程二年、つまり四年生の春あたりからは就職や何かで、事実上いろいろな形でつぶれちゃうわけですね。そうしますと、実質的に教える時間が物すごく短くなって、その間に本来の専門課程を教える時間がとてもないということになります。これはサイエンス系の学部すべて共通の問題でして、東大の場合ですとほとんど、学科によって違うんですが、コースによって違うんですけれども、八割ないし九割は今大学院に行くようになっています。  そのほかの大学でも、要するに学校によっていろいろ制度が違いますので、教養課程東大みたいに二年間きちんととるみたいな大学が今むしろ少なくて、専門課程を一年のときから少しずつ入れるみたいな形にして専門課程の時間をふやしているんですけれども、それでもサイエンス系の場合には、サイエンス知識の量の膨れ上がり方というのが今物すごい勢いで膨れ上がっています。特にバイオ系では物すごく膨れ上がっていますので、とても普通の学部の教育時間だけでは足りない。それで大学院へほとんどの人が行くという状態が、今全国のサイエンス系の学部でどんどん進行しています。だから、大学院というのがサイエンス系に関してはごく普通の教育課程の一環になっている。  そうすると、今のような区切り方、つまり、ここまでは教養部が担当するどうのこうのというようなそういう区切り方じゃない、修士課程まで含めた全体の中でどういう教育をすべきかみたいな、ある程度タイムスパンを長くとった教育の内容割りというものが高等教育でも必要だろうという感じになっていると思うんですね。  それが中等教育に関しても、実は、中高一貫教育を合理的にやると、進学一貫校のところでよくやっているように、最後の一年の前までに高校教育を全部やって、あとの一年は一生懸命受験の教育をやるみたいな、そういうことが時間をうまく割り振るとできるわけですね。  今、僕は、日本教育全体として考えなければいけないのは、六・三制の初めから全体のこの区切り方がこれまでどおりでいいのかどうかという、つまり高校全入になったら、ほとんど全入という状況の中では中高一貫教育がむしろ普通という形をとって、そこで一年間ふやして、その浮いた一年を今度は大学に回して、大学の初期の二年と合わせるとちょうど旧制高校の三年になります。そこで本格的な教養教育をやる。つまり、人間づくりをやる。それが済んだ人間が今度専門教育に進む、そういう分け方もあると思うのですね。  だからいろいろな、これまでの、単に大学はこう、何とかはこうみたいな考え方じゃなくて、もうちょっと教育の体系全体を、違うやり方があるんじゃないかという形で考えることが必要だろうと思うのです。  最後の方はどうしても大学院になりますし、それから、こっちの方はどうしたって国際競争ですから、すべて専門課程の中での国際競争ですから、そこでやらなきゃいけない。こちら側では、何とかそこの水準を合わせるという作業は必ず必要になるわけですね。それは、それぞれのコースのそのセクションを持っている人たちが、これは世界じゅうを見ながら常に研究もやっているわけですから、そこはうまく自然にいくと思うのですけれども、そこの手前、ここのところはもうちょっとどうすればいいのかということをいろいろな形で考える必要があると思います。
  36. 増田敏男

    増田委員長 ありがとうございました。  予定された時間も少々過ぎました。これにて質疑及び討議は終わりました。  この際、立花参考人に一言お礼を申し上げます。  本日は、まことにお忙しい時間お差し繰りをいただきまして、しかもまた、忌憚のない貴重な御意見をいただきました。本小委員会を代表いたしまして心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。  本日は、これにて散会いたします。     午後四時十三分散会