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1999-07-21 第145回国会 衆議院 内閣委員会文教委員会連合審査会 第1号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成十一年七月二十一日(水曜日)     午前九時十四分開議  出席委員   内閣委員会    委員長 二田 孝治君    理事 植竹 繁雄君 理事 小此木八郎君    理事 小林 興起君 理事 萩野 浩基君    理事 北村 哲男君 理事 佐々木秀典君    理事 河合 正智君 理事 三沢  淳君       越智 伊平君    小島 敏男君       佐藤 信二君    谷川 和穗君       近岡理一郎君    虎島 和夫君       桧田  仁君    平沢 勝栄君       堀内 光雄君    矢上 雅義君       河村たかし君    藤村  修君       山元  勉君    倉田 栄喜君       石井 郁子君    児玉 健次君       中路 雅弘君    深田  肇君       笹木 竜三君   文教委員会    委員長 小川  元君    理事 栗原 裕康君 理事 小杉  隆君    理事 塩谷  立君 理事 増田 敏男君    理事 藤村  修君 理事 山元  勉君    理事 富田 茂之君 理事 松浪健四郎君       岩永 峯一君    大野 松茂君       奥山 茂彦君    倉成 正和君       佐田玄一郎君    下村 博文君       高鳥  修君    高橋 一郎君       中山 成彬君    渡辺 博道君       田中  甲君    中山 義活君       池坊 保子君    西  博義君       笹山 登生君    石井 郁子君       山原健二郎君    濱田 健一君       粟屋 敏信君  出席国務大臣         文 部 大 臣 有馬 朗人君         国 務 大 臣        (内閣官房長官) 野中 広務君  出席政府委員         内閣総理大臣官         房内政審議室長 竹島 一彦君         内閣法制局長官 大森 政輔君         内閣法制局第二         部長      宮崎 礼壹君         内閣総理大臣官         房審議官    佐藤 正紀君         文部大臣官房長 小野 元之君         文部省初等中等         教育局長    御手洗 康君         文部省教育助成         局長      矢野 重典君         文部省体育局長 遠藤 昭雄君  委員外出席者         内閣委員会専門         員       新倉 紀一君         文教委員会専門         員       岡村  豊君     ————————————— 本日の会議に付した案件  国旗及び国歌に関する法律案内閣提出第一一五号)      ————◇—————
  2. 二田孝治

    二田委員長 これより内閣委員会文教委員会連合審査会を開会いたします。  先例によりまして、私が委員長の職務を行います。  内閣提出国旗及び国歌に関する法律案を議題といたします。  本案の趣旨の説明につきましては、これを省略し、お手元に配付の資料をもって説明にかえさせていただきますので、御了承をお願い申し上げます。  これより質疑に入ります。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。山元勉君。
  3. 山元勉

    山元委員 民主党山元でございます。  私は、質疑に入ります前に申し上げたいことがございます。  大変失礼ですけれども、野中官房長官の御退席をお願い申し上げたいというふうに思います。  理由を申し上げます。  十四日に予算委員会が開かれまして、補正予算審議が行われました。その席で、我が党を代表する質問者が申し上げました。簡単に申し上げますと、これほど重要な国家基本にかかわる問題について、一体野中官房長官のもとで国旗国歌審議を続けていいのかという問題があります、私はだめだと思います、こういう発言がございました。  このことについて、一昨日、我が党の幹部会議がございました。この発言について了として、この法案についての審議を拒否するということではないけれども、野中官房長官質疑は行うべきではない、こういう指示が私にもございました。(発言する者あり)私も民主党の議員の一員として、これに従わなければならないというふうに思います。  もう一つ、私は、内閣委員とあわせて文教委員も務めさせていただいております。この内閣委員会での審議、七月一日から実は始まりましたけれども、審議公聴会地方公聴会、そして参考人招致、こういうふうに審議が進められてまいりました。  その中で、この法案が持っている教育への影響、教育現場への混乱の危惧というものがだんだん強くなってきていました。これは、文教委員会教育の問題について随分と論議をしてまいりました身として、この危惧は当然だというふうに思います。  ですから、私は、予定としては官房長官に若干の質問を通告しておりました。申しわけないですけれども取り消させていただいて、文部大臣質問をさせていただきたいというふうに思います。  超多忙の官房長官ですから、どうか、私、質問予定を取り消しますので、御退席をいただきたい、こういうふうに申し上げているわけでございます。(発言する者あり)
  4. 二田孝治

    二田委員長 不規則発言はお断りいたします。(発言する者あり)だめです。いやいや、それはできません。できませんから。それは、不規則発言規則にもとりますから。(発言する者あり)  山元勉君。決議どおり質問をお願いします。
  5. 山元勉

    山元委員 大分騒がしいですけれども、どうぞ理事間で話し合っていただきたい。私の質問時間も大事でございますから、速記をとめてお話し合いをいただきたいというふうに思います。(発言する者あり)
  6. 二田孝治

    二田委員長 山元勉君。質疑者質疑を継続願います。
  7. 山元勉

    山元委員 いえ、私がこう申し上げるのは、二つ理由で申し上げました。軽々しく申し上げているわけではないわけです。  どうぞ、理事皆さん、御協議をいただきたいというふうに思います。(発言する者あり)
  8. 二田孝治

    二田委員長 ただいまの理事会で……(発言する者あり)少々お待ちください。  着席願います。  ただいまの理事会で、連合審査会につき質疑を行うということで決定されておりますので、山元発言者は、お申し込みどおり質問の続行をお願い申し上げます。——山元発言者先ほど理事会質疑を行うことに決定されておりますので、では質問者に、他の御質問をお願い申し上げます。山元勉君。
  9. 山元勉

    山元委員 質問者として、軽い気持ちで申し上げているわけではないわけです。それは、この法案が本当に今、代表が質問しましたように、国にとって重要な法案です。そのスムーズな審議、私どもの党では修正案も用意をして、審議を進めていくことについては了解をしているわけです。けれども、先ほど申し上げましたような二つ理由で、私は、野中官房長官に御質問申し上げる、そういうことにならないということで申し上げているわけです。  それでは、文部大臣質問させていただきます。  内閣委員会で、先ほども申し上げましたように、たび重ねて公聴会もあるいは審議も進めてまいりました。しかし、国論がといいますか世論が大きく割れて揺れている、そういうふうに、新聞の調査あるいはさまざまな団体の調査でもそのことがますますはっきりとしてきているわけです。もっと時間をかけて審議をすべきだ、あるいは法制化反対だ。この間の十六日付の毎日新聞でも、六割が、慎重に審議をすべきだ、法制化すべきでない、こうなっているわけです。毎日新聞だけであればなんですけれども、先ほども言いましたように、朝日新聞もそうです。(発言する者あり)朝日新聞毎日新聞もおかしいというのがありますけれども、それは、私は天下の公器が偏って報道しているというふうには思えませんが、朝日新聞でも、議論を尽くせというのは六六%です。六六%の皆さん審議を尽くせ、こうおっしゃっている。そして、この間の投書の特集でも、ほとんどがやはり慎重審議を、あるいは具体的には、君が代の歌詞を変えてはどうだ、こういう意見があるわけです。  文部大臣は、定着をしているということを何回も今まで繰り返されました。私の前の文教委員会質問に対してもそうおっしゃいました。しかし、今六割以上、七割近い人たちが、この法制化については慎重であるべきだ、こういうことを言っているわけです。ですから、文部大臣として、このまま可決をされる、教育の中に持ち込まれる、あるいはさらに私が危惧するのは、さらに強制が強まるのではないか、こういうふうに思っているわけですけれども、文部大臣定着するというだけではなしに、このように揺れている国論あるいは二分している国論についてどう把握していらっしゃるのか。改めてそういう意見を聞いて、教育現場が受け取っても大丈夫だという形にしなければならぬと思うのですが、いかがですか。
  10. 有馬朗人

    有馬国務大臣 おはようございます。  国旗国歌法案に関しまして、内閣委員会において地方公聴会及び中央公聴会並び参考人質疑が開催され、いずれの会場でも公述人及び参考人よりそれぞれのお立場から御意見の陳述がなされ、委員による熱心な御質疑が行われたものと承知いたしております。  国民の一部には、日の丸君が代国旗国歌であることや法制化に対して反対する意見があることはもとより承知しておりますが、政府といたしましては、これまで長年の慣行により国民の大多数の間に日の丸君が代国旗国歌であるとの認識定着しているものと考えております。また、このことは、世論調査を初め、オリンピック各種国際大会において日の丸の旗が掲揚され、君が代が演奏されていることからも裏づけられていると考えております。  今回の法案は、日の丸君が代が、今申し上げましたように、長年の慣行によりそれぞれ国旗国歌として国民の間に広く定着していることを踏まえまして、二十一世紀を迎えることを一つ契機として、成文法にその根拠を明確に規定することが必要であるとの認識のもとに法制化を図ることといたしたものでございます。この法案は、学校教育において国旗国歌に対する正しい理解をさらに促進するものと考えており、意義あるものと受けとめている次第でございます。  文部省といたしましては、学習指導要領に基づく学校におけるこれまでの国旗国歌指導に関する取り扱いを変えるものではないと考えており、今後とも学校における指導の充実に努めてまいりたく考えております。
  11. 山元勉

    山元委員 大臣は、先ほど私が申し上げたことに答えていらっしゃらない。国論が六六%、慎重にさらに論議をすべきだ、あるいは七割近い人が法制化すべきでない、こう言っているわけですね。単に定着をしているということだけではなしに、そのことについてしっかりと受けとめる必要があるのだろう。これは後々、子々孫々までこの国旗国歌が続いていくわけですから、もし法制化されると。ですから、そこのところに文部大臣として思いをいたしてほしい。これはもう、これからも言い続けていきたいというふうに思いますが。  このような、法制化への国民コンセンサスができていない、これは先ほど朝日新聞毎日新聞、やじが飛びましたけれども、私は国民皆さん意見というのは反映しているアンケートだというふうに思っています。そういうコンセンサスが今得られていないというのはどこから来るのか。その国のありよう、自分たち国家について安定した思いというのがそれこそまだ定着をしていないのではないかというふうに思うのです。この原因は、法制化法案が会期末五日ぎりぎりになって突如出されてくる唐突さもあります。けれども、もう一つは、やはり歴史にあるのだろうというふうに思えてなりません。  そこで、少し文部大臣思いを聞きたいのですが、一九四五年、昭和二十年の八月、戦争が終わりました、そのときに文部大臣はお幾つで、この大きな転換をどのようにお考えになりましたか。
  12. 有馬朗人

    有馬国務大臣 そのとき私は十五歳であり、中学校の三年であったと思います。そして、二十四時間の勤労動員の中の八時間ずつ三回に分けて、昼夜勤労動員をしておりました。私は旋盤の名手になっておりました。もっとも、そのときどういうことを考えたかという、これは率直に言って、大きな変革が起こっていると漠然と思いましたけれども、中学校の三年でございましたので、どういうふうな世界情勢のもとでこういうことが起こっているかまでは十分な判断ができませんでした。  ただ、それまで非常に大変な戦争というものがここで終わったんだということは、しみじみと感じた次第であります。
  13. 山元勉

    山元委員 私は旧制中学校の一年生で終戦になりました。旧制工業航空科でした。大変な挫折感といいますか、工業航空科にいることについて随分と考えました、それから変わっていくわけですけれども。そして三十二年に教師になりました。  そこで、一つ詩を読んでみますから、文部大臣、感想を聞かせてください。「戦死せる教え児よ」という、中学校先生の詩なんです。   逝いて還らぬ教え児よ   私の手は血まみれだ   君を縊ったその綱の   端を私も持っていた   しかも人の子の師の名において   嗚呼!   「お互いにだまされていた」の言訳が   なんでできよう   慚愧 悔恨 懺悔を重ねても   それがなんの償いになろう   逝った君はもう還らない   今ぞ私は汚濁の手をすすぎ   涙をはらって君の墓標に誓う   「繰り返さぬぞ絶対に!」 この詩を、二十年の八月まで、予科練に、少年航空隊に、あるいはお父さんが出征する子供たちを励ましてきた、こういう教師が、「逝いて還らぬ教え児よ」という気持ちを吐露しているわけですね。文部大臣、どうですか、これは。
  14. 有馬朗人

    有馬国務大臣 私も戦争には大反対であります。私の友人も戦災に遭って死んだり、あるいは先輩は大勢死んでおります。そういう点では戦争ということは極めて反対だということは繰り返し申し上げておきます。  それから、私は、戦争中に、先ほど先生おっしゃられました旧制中学校の三年でありましたけれども、そのころまでに何回となく軍隊の学校に行くように勧められましたけれども、私は断固として拒否いたしました。
  15. 山元勉

    山元委員 先ほど言いましたように、私は三十二年に教師になりました。そこで先輩皆さんから、終戦からもう十年たっているんですけれども、何回も聞きました、死んだ子のことが忘れられぬのよと。それは、この君が代日の丸にもかかわるわけですけれども、イデオロギーの問題ではなしに人の心の問題なんですね。  私は古い本を持ってきたんですが、戦争中の教科書初等科の国語です。昭和二十年の八月に教師は何をしたか。たくさんのところに墨を入れました。例えば皇国という言葉が消され、あるいは幾つ単元が引きちぎられているんです。  例えば、引きちぎられている単元でいうと、一つは「支那の春」という教材なんです。これはシナといった今の中国へ侵略をしていた、侵攻していた日本兵隊さんが、シナ子供たちと仲よくある、キャンデーあるいは氷砂糖をやって仲よくする、こういう教材なんです。ですから、出征している日本兵隊さんは、中国でこうやってしていいことをしているんよ、子供たちと仲よくしているんよ、そういう教材教師用書では全部引きちぎって、あるいはページが重なるところは破って、のりづけをしたりして、今までの教材幾つか抹消しているわけです。  これは、その当時の教師にしてみれば大変な思いだったと思うんですね。そのことはしっかりと考えなきゃならぬ。そのことの思いというのは、やはりこの法案審議に対する国民皆さん一つ思いであろうというふうに思いますから、これはしっかりと受けとめる必要があるだろうというふうに思います。  こういう歴史を繰り返したくない、日の丸君が代がその先頭にあったという思いも含めて思っているわけですが、文部大臣、どうですか、そういうことについて理解をされる、あるいは新しい時代に向けてどう考えたらいいのか、文部大臣お尋ねをしたいと思います。
  16. 有馬朗人

    有馬国務大臣 戦前のことに関しては私は大変残念だと思うことがたくさんあります。しかし、戦後においてはそういうことは徹底的に変わったと思っております。  戦後教育というのは、戦前の反省に立って、日本国憲法及び教育基本法精神にのっとって、人格の完成を目指し、個人の価値を尊重し、平和的な国家及び社会形成者としての国民を育成するという基本的な目的のもとに行われているのでございまして、今後ともこのような精神に立って学校教育が行われていくことが何よりも大切であると私は考えております。戦争は絶対なすべきではないということは、先生も私も同じように戦争中を経験した者として同感をするところでございます。  国歌国旗指導におきましても、こういう考え方に立って、国際社会先ほど申しましたように、オリンピックというふうな、国際社会で生きていく日本人としての基礎的、基本的事項として指導を行っているというところでございます。
  17. 山元勉

    山元委員 戦前は大変残念なことがあった、戦後は変わったんだと。変わった、こういうふうに変わったんだ、ここで変わったんだということが、日の丸について、あるいは君が代についてありますか。
  18. 有馬朗人

    有馬国務大臣 やはり国民が、君が代とかあるいは日の丸に対してさまざまな思いを持ちながらも、現在は国際社会の中でそういう国旗国歌国民の間に浸透して、愛着の心が浸透していると思っております。
  19. 山元勉

    山元委員 いや、先ほども言いましたように、現場教師たちは涙を流しながら教科書を削ったり、あるいはああいう詩を詠んでいるわけですね。けれども、ここで日の丸についての考え方が変わった、例えば、言いますと、昭和二十二年にマッカーサー元帥がよろしいよと言った、そのときにどういうふうにけじめがついているのか。君が代についてはどういうふうに、さっき大臣がおっしゃったように、戦前、残念なことがあったけれどもこうなんだという、これでいいんだということについてのけじめはどこでついたんだということを具体的に聞いているわけです。
  20. 御手洗康

    御手洗政府委員 学校での取り扱いにつきましては、国旗につきましては、昭和二十二年の小学校学習指導要領社会の試案におきまして、国旗について学習することを戦後初めて記載いたしております。また、昭和二十一年、国民学校令施行規則の改正によりまして、紀元節等儀式君が代を合唱すべきこととする箇所を削除いたしておりますが、昭和二十五年には、国民祝日には学校家庭等国歌を斉唱することをぜひお願いしたいという天野文部大臣の談話が出されておりまして、昭和三十三年の学習指導要領音楽科におきましては、君が代について指導するとともに、国民祝日などにおける儀式などの際に君が代を斉唱することが望ましいものとする、こういう学校教育における取り扱いの変遷でございます。
  21. 山元勉

    山元委員 私は、しっかりと、残念なことがあった、あるいは果たしてきた役割というものをきちっと清算をして、こうやってして、日本の国の国民合意に基づく旗なんだ、歌なんだということについてのそういう節目はなかった、文部省やあるいは政府発言で、そういうふうに、悪い言い方をすると、なし崩しでこういうふうになってきたというふうに思うんです。だから、日の丸君が代扱いが違いましたから、ですから、こういう国民皆さんの賛意というのも差が出てくるんだろうというふうに思います。  そこで、少し変わって、今、小中学校のことをおっしゃいましたけれども、文部省では、日の丸君が代をどのように扱っていらっしゃいますか。  そしてもう一つだけ。これはなんですけれども、大臣が前におられた東大では、東大学校ですけれども、小中高だけではなしに東京大学で、君が代日の丸についてどういうふうに扱っていらっしゃったか、お尋ねをしたい。
  22. 小野元之

    小野(元)政府委員 国旗国歌についての文部省扱いでございますが、国旗につきましては、文部省本庁舎におきまして、平日、庁舎に掲げてございます。それから、祝日には正面玄関国旗掲揚等を行っております。それから、国歌斉唱等につきましても、文部省主催各種の行事や会議等におきまして掲揚したり、あるいは斉唱等を行っておるところでございます。  それから、お話ございました国立大学における祝日等国旗国歌の問題でございますけれども、例えば東京大学におきましても、祝日等には本部庁舎等国旗を掲揚しておるところでございまして、それぞれ大学も、本部庁舎等におきましては、大学におきましておおむね適切に対応しているというふうに考えているところでございます。
  23. 山元勉

    山元委員 これは私の地域でも聞くのですが、国会ではどういうふうに扱っていますかと。私はそれを、国会君が代をとは言っているわけではありませんけれども、そういうふうに、今、ずっと歴史があるものについて小中高校だけに押しつけるということについての違和感がどうしてもあるわけです。そこのところはしっかりと考えなければいけないというふうに思います。  それで、この国旗国歌を扱っているのは指導要領で、先ほど大臣からもありましたけれども、一九七七年から「指導するものとする。」というふうになったわけです。二十年余りですけれども、法的拘束力を持たせるなどして押しつけてきた。その上で今こういう状況に、国論二つに割れているわけですね。ですから、定着しているということではなしに、法制化するにしても、私は、我が党でも論議をしましたけれども、日の丸はまだシンボルとして、そういうことについては国民理解も得やすいけれども、君が代についてはやはり合意が得られていないというふうに判断をしなければならぬというふうに思うのです。  国会でそういう今の政治状況によって法制化をするということになれば、政治状況が変われば国歌国旗も変わることがあり得るということになります。ですから、そこのところをしっかりと考えて、本当に実質的に、まことに定着をしている、国民の心の中に定着をしているということであれば法制化する必要はないし、法制化をしても大丈夫だと思いますが、今のように分かれているときには、私は、少なくとも君が代を今法制化することについては大いに危惧を感じるのですが、いかがですか。
  24. 有馬朗人

    有馬国務大臣 まず、国旗国歌法制化によって、国旗国歌が将来変わり得るかというふうなこともお考えの中にあるかと思いますが、国旗国歌法制化は、日の丸君が代が長年の慣行によりましてそれぞれ国旗国歌として国民の間に広く定着していることを踏まえまして、先ほども申し上げましたけれども、二十一世紀を迎えることを一つ契機として、成文法にその根拠を明確に規定することが必要であるとの認識のもとに行うことといたしました。  したがいまして、我が国国旗国歌日の丸君が代以外には考えられず、この法案が、国会で慎重な御審議をいただいた上、御可決いただき、施行された場合には、現日本国憲法下においては、政府として国旗国歌を変更するような提案をすることはあり得ないと考えております。
  25. 山元勉

    山元委員 端的にお聞きします。  慣習ではなしに、成文化法制化することを行うということは、これからの国会でそういうことがなされる可能性は否定できないと思うのですが、いかがですか。
  26. 有馬朗人

    有馬国務大臣 これは官房長官がお返事くださった方がお答え申し上げやすいかと思いますけれども、今お答え申し上げましたように、国旗国歌が将来変わることもあり得るかとのお考えでありますが、それは、将来の世代が、その置かれた状況のもとで我が国国歌国旗のことについてどのように判断されるかということにかかっておりますし、政府といたしましては現在考えておりませんし、一般論といたしまして、その時代国民国会がどのように考えるかということの問題かと思っております。
  27. 山元勉

    山元委員 ですから、今の大臣のお答えですと、そのときそのときの政治考えることだと。可能性としてはあるということで、可能性としてはゼロではないということですね。  それでは、学習指導要領に関してお聞きをしたいのですが、私は、国がナショナルミニマムとして指導要領を定める、これを否定するものではありませんし、それぞれの学校で創意工夫が広がっていって、地域に根差した教育をしよう、こういう努力がそれぞれされているわけですね。そこで、指導要領は、小中高学校の各学校がそれぞれの地域で教育課程を編成していく際の大綱的な基準であるという考え方でよろしいですか。
  28. 有馬朗人

    有馬国務大臣 そのお考えでよろしいかと思っております。
  29. 山元勉

    山元委員 そうすると、大綱的な基準だと考えるということですが、そういうふうに認められるといいますか、そのためには幾つかの配慮が必要だろうというふうに思うのです。  例えば学テの判決でも、「教師の創意工夫の尊重」とか、あるいは「教育に関する地方自治の原則をも考慮」するとか、あるいは「機会均等の確保と全国的な一定の水準の維持という目的のために必要かつ合理的と認められる大綱的なそれにとどめられるべきものと解しなければならない」。これは最高裁の判決です。  指導要領が大綱的な基準だ、最高裁もそう言っていますけれども、そういうふうにするためには、今何を配慮しなければならぬか。大綱的な基準だから甘く考えてもよろしいよ。いや、これはしっかり守らぬと、法的拘束力があるのだ。どういうふうにこの配慮についてお考えになるか。配慮という言葉はわかりにくいかもわかりませんけれども、認められるということではどういうことを配慮しなければならぬというふうに思いますか。
  30. 御手洗康

    御手洗政府委員 学習指導要領先ほど申しました昭和二十二年の試案以来、三十年代、四十年代、五十年代、それから平成に入りまして、そしてまた平成十四年から実施されます新しい学習指導要領という形で、その時代時代の要請にこたえながら、逐次、指導事項というものにつきましては、基礎、基本的なものに徹底し、国の教育課程の基準としていずれの学校においても原則として指導していただくというようなものに、これまで、最高裁の五十一年の永山中学校判決事件等も踏まえながら、適切に大綱化を図ってきている。そういうことで私ども進めているところでございます。
  31. 山元勉

    山元委員 大綱化、法律の言葉でいいますと、私も余り法律は強くないわけですけれども、法的拘束力があるかないか。ありとする場合の強行規定、それは余りありませんという訓示規定、そうでないものですね、そういう二つの分け方があるとすれば、法的規範性を持ってどのところまでが強行規定でどこのところが訓示規定だという分け方、これはしっかりしておかないと、どこまで弾力化だ、どこまで大綱化だということについてなかなか現場でわかりにくいわけですが、文部省は明快な判断がありますか。
  32. 御手洗康

    御手洗政府委員 もちろん学習指導要領、非常にさまざまな事項が書かれております。内容並びに内容の取り扱いというようなことから教育課程編成に当たっての配慮事項、さまざまな事柄が分けてございます。したがいまして、総体としてお話しするということはできないわけでございますけれども、個々の規定の具体的な文言に照らしまして、おのずと、必ず指導しなければならない事項、あるいは場合によっては、それが望ましいけれども必ずしも、例えば教材等につきまして、その教材でなければならない、他の教材でもあり得るといったような規定の仕方、それぞれの規定の場所、場所に着目いたしまして判断していくということであろうかと考えております。
  33. 山元勉

    山元委員 おのずとという言葉をお使いになりましたけれども、そこのところ、おのずとということが基準になると非常に難しくなるわけです。ですから、そこのところはこれからもできるだけはっきりとするようにしていただきたいというふうに思う。  先ほど申し上げましたように、それぞれの地域に根差した教育をつくろうということで皆さん努力をしていらっしゃるわけです。ですから、そういうところにきっちりと指導ができるように、あるいは励ますことができるようにする必要があるんだろうと思います。前に出ました地方分権の推進委員会の勧告、あるいは中教審の地方教育行政のあり方についてという答申、そういう中でもしっかりと、地域に根差した教育、あるいは学校の自律性、自主性を高めていくんだ、こういうことが中教審からも分権委員会からも出ているわけですね。そういう立場に立っても、この大綱化、弾力化というものを進めるべきだというふうに思うんですが、いかがですか。
  34. 有馬朗人

    有馬国務大臣 その点は私も先生と同感でございます。先ほど御指摘の中央教育審議会の答申の議論の中で、私も参画いたしておりましたから、地方分権ということの重要性、よく存じ上げております。  しかし、学校教育におきましては、全国的に一定の教育水準を確保するということが非常に重要だと思います。また、教育の機会均等を実質的に保障することが要請されております。このため、教育課程について国として大綱的な基準を設けております。これに基づいて各学校において教育課程を編成し実施しているということは先生の御案内のとおりでございます。  御指摘の地方分権推進委員会の勧告でも、「地域の実態を踏まえ、特色ある学校づくりを推進する観点から、教育課程の基準の一層の大綱化や弾力化を図る。」と指摘されているところでございます。また、中央教育審議会答申でも、「教育課程の具体的な基準の設定に当たっては、地方や学校の裁量の幅を大きくして創意工夫を生かした教育課程の編成を推進する観点から、基準の大綱化・弾力化を進めること。」とされております。  このような指摘を受けまして、新しい学習指導要領におきましては、各学校が創意工夫を生かし、特色ある教育、特色ある学校づくりを進めることを重視いたしまして改訂を行ったところでございます。具体的には、総合的な学習の時間を創設すること、中高等学校における選択学習の幅を拡充すること、教科の内容を複数学年にまとめて示したり、一単位時間の運用の弾力化など時間割を一層工夫できるようにすることなど、各学校が地域や学校の特色を生かして教育を一層展開できるよう配慮しているところでございます。
  35. 山元勉

    山元委員 時間がなんですから少し質問を変えたいと思います。  国旗国歌で問題になるというのは、日の丸君が代国旗国歌にふさわしいかどうかというだけではなしに、それが日本の新しい憲法の保障する思想あるいは良心の自由という内面的なものにかかわる、内面的なものを拘束をする、こういうことで問題があるんだろうというふうに思うんですね。ふさわしいかどうかというよりも、一方で、良心の自由だとかあるいは思想の自由というものを縛るのではないか、そういう内面的な価値観に対する拘束が新たに強められるのではないかという危惧があるんですが、そのことについてどのようにお考えですか。
  36. 有馬朗人

    有馬国務大臣 まず、児童生徒に対してどうか、そういう問題があろうかと思います。それに関しましては、私はないと判断をいたしております。  学校における国旗国歌指導は、児童生徒に我が国国旗国歌の意義を理解させまして、そしてこれを尊重する態度を育てるとともに、諸外国の国旗国歌も同様に尊重する態度を育てるということが重要なことでございます。学習指導要領に基づきます国旗国歌指導は、憲法、教育基本法に基づきまして、人格の完成を目指し、平和的な国家及び社会形成者としての国民を育成することを目的として行っているものでございまして、憲法に定めております思想及び良心の自由を制約するものではないと考えております。
  37. 山元勉

    山元委員 この問題については、日本でも裁判になったことがあります。アメリカでも連邦高裁、最高裁で判決を出されている。時間がありませんから詳しく言いませんけれども、それぞれ良心なりあるいは思想にかかわってそういう争いが起こっていることは、今まで国の内外であるわけですね。  そのことは、例えば、これはがらっと違うんですけれども、オリンピックでそれぞれの国旗国歌を規定している、それは各国選手団の旗、選手団の歌というふうにたしかオリンピックでは規定をしていると思うんです。そのことについての根拠といいますか理由文部省
  38. 遠藤昭雄

    ○遠藤(昭)政府委員 お答えいたします。  オリンピック憲章におきましては、開会式では選手団の旗とともに行進する、閉会式では選手団の旗手の後について行進する、表彰式では優勝者の所属する派遣団の旗が掲揚され、派遣団の歌が演奏されるというふうに規定をされております。  この理由でございますが、オリンピックへ選手団を編成し派遣する国内オリンピック委員会でございますが、これが必ずしも国家一つとは限られておりません。例えば香港あるいはグアムなどのごく一部の地域等につきましてもNOCが認められておりますことなどから、このような場合に配慮して規定が定められているというふうに承知をしております。
  39. 山元勉

    山元委員 はい。確かに、思想あるいは良心についての争いといいますか、そのほかに今も少し出ましたけれども、民族の争いあるいは宗教上の争いというものがあって、オリンピックに参加する場合に国旗国歌というふうに言い切れない部分がある、そのことは大事にしましょう、それがオリンピック精神だというふうに思うんですね。  ですから、これを日本学校に当てはめて考えてみてもいろいろのことが考えられます。日本学校に他国の子供たちもいます、あるいは開校の精神が宗教上のものである学校もあります。そういうところの人たちはそれぞれ、これが国歌です、学校で歌いなさいよと言ったら、違和感を持つ、良心のあるいは思想、内心の自由が侵されるという痛みを感じることがあるわけです。そこのところはしっかりと配慮をしなきゃならぬというふうに思いますが、例えば、公立学校では法的拘束力がありますよ、こうおっしゃっている。私立学校についてはどのようにお考えになるんですか。同じ日本学校小中高学校で、日の丸君が代についてどう扱うべきだというふうにお考えになっていらっしゃいますか。
  40. 有馬朗人

    有馬国務大臣 学校教育において、国民としての基本的なマナーとして国旗国歌に対する正しい認識とそれらを尊重する態度を育てることは、私は極めて重要であると考えております。  学習指導要領は、学校教育法等の委任に基づきまして教育課程の基準として定められているものでございまして、法規としての性質を持ち、国立、公立、私立、すべての学校において適用されるものでございます。したがいまして、社会、音楽、特別活動における国旗国歌指導がすべての学校でなされることが必要であると考えております。  しかしながら、今御質問の私立学校におきましては、建学の精神に基づいて国旗国歌指導が適切になされるべきものと考えております。
  41. 山元勉

    山元委員 大臣がおっしゃるように、私立学校に公立学校と同じように拘束力を持っているということにはならないだろうというふうに私も思います。  そこで、この指導要領には、「指導するものとする」と書いてあるわけですね。「指導する」とは書いていない、「指導するものとする」、ここの違いですね。「望ましい」というのと「する」というのと「するものとする」。「するものとする」と書いてある意義ですね。そこのところはどう違うのですか。
  42. 御手洗康

    御手洗政府委員 入学式、卒業式におきます国旗国歌取り扱いにつきまして、昭和三十三年以来、「望ましい」という規定があったわけでございますけれども、「望ましい」という規定と、国旗を掲揚し、国歌を斉唱するものとするという規定は、おのずと文言の差があろうかと私ども思っているわけでございます。  現行の学習指導要領におきましては、必ず卒業式、入学式におきましては、国旗を掲揚し、国歌を斉唱する、すべての学校にそういうことを求めているものでございます。
  43. 山元勉

    山元委員 いや、今のは答えになっていないですよ。「指導する」という場合と「するものとする」という場合、何が考えられているのか。  「教育法規便覧」、学陽書房から出ているのですけれども、そこのところでは、この「するものとする」というのはこういうふうに解釈しているのです。  これは後の方ですが、「する」というような用語であらわすのを適切とするに近いが、これらの用語を使うと、感じあるいはニュアンスが少しどぎつく出過ぎる、もう少し緩和した表現を用いる方が適当であると考えられるような場合に、この「するものとする」という用語が使われる、こう書いてあるわけです。  そうすると、「指導するものとする」とあるけれども、これはこの書き方でいうと、どぎつく指導を求めるということでは行き過ぎだというふうに解釈する。だから、「指導する」というのと「指導するものとする」というのではニュアンスがはっきりと違うというふうに思うのですが、もう一回どうですか。
  44. 御手洗康

    御手洗政府委員 一般の法令の用語につきまして、私が十分お答えをする知識を持ち合わせてございませんけれども、学習指導要領国旗国歌の規定につきましては、指導するというような形で告示された事例はございません。私ども、「するものとする」という現行の規定と「望ましい」という規定、二つしか今までないわけでございまして、私ども文部省指導といたしましては、「するものとする」ということは、入学式、卒業式におきましては、必ずすべての学校において規定どおりに取り扱っていただく、そういう基準としての性格を明示したものということでございます。
  45. 山元勉

    山元委員 これはやはりどぎつい思いがあるわけですね、今の局長の言葉で言うと、すべての学校に必ずというような言葉ですから。私はやはり、先ほどから申し上げていますように、それぞれの内心や良心の自由、民族観あるいは宗教観にさまざまな思いもあるように、そのどぎつく考えるということについては、ぜひ文部省、改めてもらいたい。これから現場指導については、そういうニュアンスを大事にしていただきたいというふうに思います。  そこで、今もちょっとありましたけれども、「指導するものとする」、児童生徒の思想や良心を制約しようとするものではありませんと先ほど文部大臣もおっしゃいました。今まで繰り返していらっしゃる。そのとおりだというふうに思いますけれども、教職員についてはどうですか。教職員について、思想や良心の制約をしようとは思っていないのか、思っていらっしゃるのか。
  46. 有馬朗人

    有馬国務大臣 まず、一般に、思想、良心の自由というものは、それが内心にとどまる限りにおいては絶対的に保障されなければならないと考えております。しかし、それが外部的行為となってあらわれるような場合には、一定の合理的範囲内の制約を受け得るものと考えております。  学校において、校長の判断学習指導要領に基づき式典を厳粛に実施するとともに、児童生徒に国旗国歌を尊重する態度を指導する一環として児童生徒にみずから範を示すことによる教育上の効果を期待して、教員に対しても国旗に敬意を払い国歌を斉唱するよう命ずることは、学校という機関や教員の職務の特性にかんがえてみれば、社会通念上合理的な範囲内のものと考えられます。そういう点から、これを命ずることにより、教員の思想、良心の自由を制約するものではないと考えております。
  47. 山元勉

    山元委員 たくさんあるんですが、教師も憲法に保障されているものが侵されているということを考えた場合に、このことについてはしっかりと納得のいくような、そういう措置あるいは対応がされなきゃならぬというふうに思うのです。これからもやはり子供にそういうことを強制するものではない、教師にもそういう権利はあって、強制するものではないということが大事だということについて御理解をいただきたいと思います。  先ほどから、この間もありましたけれども、そういうことを嫌がる教師はやめたらいいんだ、私はそれは暴論であって、いろいろの考えを、それぞれの教育的良心を持って、良識を持って教師教育実践をしていくということを保障する中で、日本人の民族としての思いが統一されていく、そのことが自然の気持ち、自然の国に対する愛の気持ちだということを大事にするという基本はないといけないだろう、余り乱暴な意見でこのことを推し進めてもらっては困るというふうに思います。  もう時間がありませんから、最後一つだけですが、教育改革というのは、小渕内閣発足のときから、六大改革の一つとして教育が挙げられていました。有馬文部大臣の所信表明の中でも、現在の課題について、本当に学級崩壊も起こっているような状況の中で、ゆとりの中で豊かな心を育てるんだ、ゆとりの心を育てるんだ、こうおっしゃっている。そういう教育を変えていかなければならない、教育を改革しようということと今のこの問題とのかかわり、私は大変心配をするわけです。  例えば、学級崩壊という言葉を使いましたけれども、これは前の文教委員会でもお話をしました。例えばもう一つの例で言いますと、中学校を卒業して、そして進学もしない、就職もしない、中学ドロップアウトと言われている人たち、あるいは高校中退をした、あるいは就職したけれども続かない、こういう人たち、いわゆる無業者とひっくるめて言いましょう。百九十八万人、九〇年の卒業者で追跡調査の結果、五十四万人、実に四人に一人が無業者になっているという状況があるわけです。  ですから、こういう子供たちが意欲的に生活をする、あるいは二十一世紀に希望を持つ、こういうことが今失われているんだろうというふうに思うのです。そのことは今教育で一番大事な問題ではないか、子供たちが生き生きとあすに希望を持つ、二十一世紀に希望を持つということが大事なのではないかと思うけれども、学級崩壊だとか無業者がこのように四人に一人出ていることについて、課題意識は文部省はどのようにお持ちですか。
  48. 有馬朗人

    有馬国務大臣 まず、将来に対して希望を持たせなければならない、これは先生のおっしゃるとおりでございまして、私も心から同感をいたします。  その際に二つの問題がある。一つは、国民の平均の実力というものを上げていかなければならないという問題。それからもう一つは、二十一世紀を切り開いていくような人々をつくっていかなければならない、こういう大きな教育の問題、理想があるわけでありますが、現在は、今先生の御指摘のとおり、不登校をどうするかとか、それからいわゆる学級崩壊に対してどうするか、こういうことに対しまして、私も非常に憂慮しているところでございます。  そこで、まず、現実の問題として、教育における現在のさまざまな事態を今研究してもらっておりますし、具体的な方策を練っているところでございます。まずこういう身近な、不登校の人々をどうしていくか、それから、教育におけるいわゆる学級崩壊があればそれに対してどう対処していったらよろしいか、そしてまた、一クラスというのがどのくらいの人数が最も適切であるか、こういうことについて、なるべく早い時期に答えを出しまして、実行に移り、改善を図りたいと思います。  同時に、先生御指摘のように、やはり二十一世紀において日本人が喜んで生活をしていけるような国家をつくるための人々を教育していかなければならない、そういう理想、希望を持って教育に進んでいかなければならないと思っております。
  49. 山元勉

    山元委員 教育改革で大事なことは、一人の人が発想してやることではなしに、国民的な合意教師ももちろんそうですけれども、地域の人たちや関係の団体の皆さんみんなの国民的な合意があって教育改革というのが進んでいくのだろうと思うのですね。一人の人が大きく声を出してもこれはだめなんだろうというふうに思う。そういう国民的な合意をつくらなければ大変なことになるという危機感を持てば、そういう協力関係、国民的な合意形成にこの法制化の問題は役立つのかマイナスになるのかということを考えなきゃならぬというふうに思うのです。  私は、これから、子々孫々と私はよく言うのですけれども、子々孫々、ずっと子供たちに、これが国旗だよ、国歌だよ、習いなさいよ、歌いなさいよ、敬礼をしなさいと言っていく、そういうものを決めるときに、子供たち状況というのは、先ほども言いました学級崩壊だとか、あるいは学習、学びから逃避をするとか、あるいは就職、職業を忌避するとか、そういう状況になっているわけです。ですから、教育改革を進めていくために、今、協力を失うようなものを投げ込むのではなしに、もっと目をほかのことに転じる必要があるんだと私は思うのです。いかがですか。
  50. 有馬朗人

    有馬国務大臣 先ほど申し上げておりますように、二十一世紀において日本人がどう振る舞っていくことが最もよろしいか、この国際化、地球規模化した世界の中でどういうふうに国民が生きていくか、その際に、やはり国旗及び国歌に対する正しい尊敬の念、愛着の念を持つべきであると思っております。こういう点から、今回の法案というものが提案されたわけであります。  一方において、さらにまた現実的な問題として、さまざまな困難があることを私は了解しておりまして、それを解決すべく努力をさせていただいております。  それからまた、世論というものはさまざまあるということも認識していかなければならない。一方では、学力が下がってしまったという非常な強い批判が最近起こっております。これも私は心配しております。一方において、私は、信念として、やはり学校に対して五日制を導入し、先生、生徒の皆さんがゆっくりとした気持ちの中で自分の勉強をさらに進めていくということを、広い意味での勉強を進めていくことを望んでいる。このゆとりを持つということと、さらに国民の学力が落ちてしまうじゃないかという御批判、こういうものをどういうふうに調和させていくか、私は本当に心から悩んでいるところでございます。
  51. 山元勉

    山元委員 時間が来ましたから、最後に、やはり私は、そういう教育改革の動きというものをこの問題で停滞させてはならぬ、あるいは混乱をさせてはならぬというふうに思います。  先ほど例に言いましたけれども、私も教育の場にいました、そしてこの場にいるわけですけれども、そういう者として、何としてもやはり日本の子供がより希望を持てるような環境条件をつくっていくことが大事なんだろう、私も努力いたしますけれども、ぜひ文部省も、この問題とは違った次元で考えることが大事なんだということを御理解いただきたいと思います。  最後にもう一言。やはり、特に君が代については、歌詞の問題も歴史的経過も、この間音楽家の人に御意見を聞きましたけれども、だめだとおっしゃった、いろいろな意見がある。ですから、これも繰り返しになりますけれども、子供たちに、孫たちに、ずっと、これがシンボルなんだ、これが私たちの国のシンボルなんだ、国を愛する気持ちをあらわす道具なんだ、こういうことが誇りを持って言えるような決め方をする必要があるんだろうと思う。今その条件になっていない、その状況になっていない。審議を慎重にすべきだというのは六六%もある、七割もある。こういう世論にこたえて、今からでも私は遅うないから、遅うないから思いとどまってもらいたい、考え直してもらいたいということを意見として申し上げて、質問を終わります。  ありがとうございました。
  52. 二田孝治

    二田委員長 次に、池坊保子君。
  53. 池坊保子

    ○池坊委員 明改の池坊保子でございます。  私は、今回提出されました国旗国歌法案基本的に賛成でございます。     〔二田委員長退席、小川委員長着席〕  今までも言われておりますが、日の丸は、屋島の源平合戦の文献や、南北朝時代にも既に記述が見られております。君が代は、古今和歌集や和漢朗詠集にもその源泉を見ることができますし、静御前も義経への愛を込めて源頼朝の前でこの曲で舞ったと言われております。また、江戸時代には、江戸城で元旦にこの曲をめでて平安と繁栄を願ったということでございます。また、物を請うときにこの君が代のメロディーを流してこの歌を歌ったということです。  メロディーは少しまどろっこしいですけれども、これも、初めと終わりが日本的で真ん中は世界的なすばらしいハーモニーだとおっしゃる作曲家の方がいらっしゃいました。  私は、君が代のメロディーは、ちょっとまどろっこしいので日本人がつくったと信じておりましたけれども、外国人の曲と聞いて、これも日本文化らしいという思いを持ちました。なぜならば、日本文化は、外国のよいものを取り入れ、多様な価値を抱合して、エッセンスとしてもらい受けながら構築されてきたのが大変柔軟性のあるものが日本文化でございます。  すなわち、いずれも千年もの歴史と伝統の流れの上に存在するものです。これほどの歴史的、文化的背景を持つ国歌国旗は、世界でもまれだと思います。  国旗を例にとれば、ユニオンジャックはエリザベス一世以来四百年、また、フランスの三色旗とアメリカの星条旗はそれぞれ二百年の時間の流れを経て今日に至っております。いずれも、日の丸ほどの歴史はございませんけれども、それでも革命、戦争、植民地政策など幾つもの負の遺産を乗り越えて、国民のシンボルとして受け入れられているのです。  千年もの間、さまざまな時代をくぐり抜けながらも生き続けてきたということは、その時代に生きる人々の、大衆の人々の、静かな、しかし力強いエネルギーに支えられ、脈々と生き続けてきたのだと私は思います。だからこそ、敗戦後、私たちの両親は、価値観を大幅に変えながらも、国旗国歌を変えようとしなかったのではないかと思っております。  かつて、一部で新しい国歌をという声も上がったそうですけれども、それは最終的には根づきませんでした。そういう観点から見れば、これはまさしく慣習法であるとともに、大衆の英知の結晶の日本の文化そのものではないかと思っております。  文化は人類の知的資産です。本来は、文化というのは制度とはなじまないものです。しかし、私は、さまざまな文化を支えるには成熟した社会が必要だと思っております。イギリスが法制化しないのは、国旗国歌をよしとする大多数の国民合意があるからだと思うのです。  このたび、広島県世羅高校の校長が国旗国歌問題で自殺なさった、そういう教育現場の混乱がこの法制化一つの要因をつくったのではないかというふうに思っております。官房長官も京都でいらっしゃいますけれども、私は、かつての京都の荒廃した教育現場と、そこで育っていった子供たち思いをはせるときに胸が痛みます。政治家は、好き嫌いで物事を判断するのではなくて、次の世代に何を残せるか、何をなすべきかを考え判断すべきというふうに考えておりますから、これ以上混乱する教育現場をつくらないことと、子供たちをその現場に巻き込まないことのためには、この法制化は極めて自然の流れではないかというふうに思っております。  この法制化に際して、官房長官並びに文部大臣学校現場にどのような影響があるとお考えでしょうか、お伺いしたいと存じます。
  54. 野中広務

    野中国務大臣 御質問いただきまして、答弁の機会を与えていただいて、ありがとうございます。  今、委員から、国旗国歌法制化に伴いまして学校現場にどのような影響が出るかということを、幅広い歴史的検証と、また、その内容ある識見によりまして御披露がございました。  この法案は、先ほど文部大臣からも御答弁がございますように、国旗国歌根拠につきまして、慣習であるものを成文法としてより明確に位置づけることによりまして、学校教育においても、国旗国歌に対する正しい理解をさらに進めていくものと考える次第でございます。  また、法制化に伴いまして、学校教育における国旗国歌指導に関する取り扱いを変えるものではないと考えておりまして、今後とも、各学校における適切な指導を期待するものであります。  委員が、京都における、それぞれ過去の長い検証の中から御指摘がございました。私も、あの混乱の中から、特に戦後の京都の教育の荒廃や、その事象を眺めてき、また、みずから経験をしてきた一人でございます。  そういう中から、先ほど御指摘がございましたように、広島県の世羅高校の石川校長の死というのは、まことにこの問題について非常に深刻な影響を与え、また、この問題について、教員組合だけでなく解放同盟が交渉の場にあったということは、非常に今日この問題に深刻な影を落とし、第二、第三の石川校長をつくりかねない問題を残してきたことを私は深刻に考える次第でございます。  京都におきましても、歩んできた道を思い起こしますと、かつてレーニンが、その国の青少年をして険悪せしめ、祖国に絶望感を抱かしめることが革命への近道であるということを言っております。私どもの京都でも、それが教育現場で、あるいは政治の場で行われてきた、そのことがより教育を混乱せしめて、今日のこの事態に至らしめたと反省をしておる次第でございまして、こういうことを考えますときに、私は、今回の成文法として明確に位置づけることの意義を大きく考えておる次第であります。
  55. 有馬朗人

    有馬国務大臣 ただいま官房長官が御答弁申し上げたとおりでございまして、つけ足すことは非常に少ないのですが、私の考えを述べさせていただきます。繰り返しになることをお許しいただきたいと思います。  まず、学校における国旗国歌指導ということは、児童生徒が日本の、我が国国旗国歌の意義を理解し、これを尊重する態度を育てていくということとともに、諸外国の国旗国歌に対しても同様に尊重する態度を育てるということが非常に重要でございまして、そのために行っているものでございます。  今回の法案は、国旗国歌根拠につきまして、慣習であるものを成文法としてより明確に位置づけるものでございます。学校教育において国旗国歌に対する正しい理解をさらに促進するものと考えており、意義あるものと考えております。  文部省といたしましては、これもたびたび申し上げていることでございますが、学習指導要領に基づく、学校におけるこれまでの国旗国歌指導に関する取り扱いを変えるものではないと考えておりますし、今後とも、学校における指導の充実に努めてまいりたいと考えております。
  56. 池坊保子

    ○池坊委員 高校の学習指導要領についてちょっとお伺いしたいと思います。  高校の学習指導要領では、教科としては指導はございませんけれども、特別活動の中の学校行事として国歌国旗指導が載っております。言うまでもなく、現在、学習指導要領は、全国的基準として必修科目が減っております。学習指導要領に適用する部分が少なくなり、弾力化、応用化されております。私は、大変これはいいことではないかというふうに思っております。  これから、学校の意識も変わってまいりますし、少子化に伴って、中学を卒業したからすぐ高校に入るということではなくて、ちょっと不登校だった、でも高校は行きたくないと社会人になってみたけれどももう一度行きたいとか、あるいは、私もリタイアしたら孫が高校に行くときは一緒に算数や国語をもう一度学びたいわといって入るかもしれません。つまり、多様な生徒たちがいるようになっていくと思います。  そのような学校の事情が変わり、学習指導要領で生徒の指導の幅を狭くする傾向にあるときに、私は、教師には入学時、卒業時に国旗の掲揚、国歌斉唱を指導することは必要だと思いますけれども、わざわざ生徒に指導する必要があるのかどうかをちょっと疑問に思っているのでございます。  なぜというならば、学校行事で歌を歌うか、起立するかというのは、これは形です。形というのはマナーです、エチケットです。ですから、小中学校できちんとそういうことを教えていたならば、御飯を食べるときにいただきますと言うようなマナーやエチケット、私は、高邁な思想、信条、良心の自由というよりは、これはマナーではないかというふうに思っているんです。  例えば、外国人がいらっしゃる。その国と自分は思想信条が違うかもしれない、その人に余り好感を持っていないかもしれない。でも、その方を迎え入れるために国歌を奏でたら、起立するのは、それは私、マナーだと思うんですね。私は、もし思想が違って私が起立しても、私の精神の尊厳はちっとも損なわれないと思います。つまり、高邁な思想信条とマナーは別だというふうに考えているんです。  文部大臣と道ですれ違う。もしかしたら文部大臣と思想が違うかもしれない、文部大臣に好感を持っていないかもしれない、本当は大好きでございますが。でも、そのときに会釈をするのは、これは人間としての目上の方に対するマナーだと思います。  私は、こんなことを高校で一々教えなければいけないのかということと、もう一点は、社会科の時間にきちんと小中学校で、マナー、エチケットというのはどういうものなのか、憲法でうたわれている、大変大切である思想信条の自由、良心の自由というのはどういうものか、これを総合教育とか、ホームルームでみんなでディスカッションするなどして、ちゃんと教えるべきというふうに私は考えているので、この二点についてお答えいただきたいと思います。
  57. 有馬朗人

    有馬国務大臣 先生御指摘のように、マナーはきちんと教えなければならないと思っております。ただ、マナーというものは忘れてしまうこともある。繰り返し、時々反省をしていかなきゃならない、この点を申し上げて、高等学校についてのお返事を申し上げます。  入学式や卒業式におきましては、学校生活に有意義な変化や折り目をつけ、厳粛かつ清新な雰囲気の中で新しい生活の展開への動機づけを行い、学校社会国家など集団への所属感を深める上で、大変よい機会となるものと思っております。このことは、義務教育段階はもちろん、高等学校段階においても、大学においても、異なることではないと思っております。  したがいまして、入学式、卒業式における国旗国歌取り扱いにつきましては、このような意義を踏まえまして、小中高学校いずれの学校段階においても適切に指導する必要があると考えております。  なお、国旗国歌指導につきましては、児童生徒の発達段階に応じて、社会科では、小中学校国旗国歌の意義及びそれらを尊重する態度を育成し、音楽では、小学校の各学年において、国歌君が代の歌唱について指導することとしているところでございますが、御指摘の特別活動においては、小中高学校を通じて、入学式、卒業式において指導を行うことといたしております。  いずれの場合におきましても、たびたび申し上げますように、児童や生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではございません。
  58. 池坊保子

    ○池坊委員 高校生になって初歩的なマナーを忘れるから繰り返さなければいけないとしたら、本当に日本は情けないという気がいたします。繰り返しマナーを教えるということはいいことですけれども、それは少なくとも小学校で、地域とか家庭とか学校とかが力を合わせて次の世代に教えるべきことと私は思っております。  先ほどの良心の自由に立ち返りますけれども、学校現場におきます特別活動というのは、特別活動の成果がその目標から見て満足できると認められるものについて、高等学校の全課程の修了を認定するものとしております。そうすると、もし、起立しない子供、幾ら言っても、僕は嫌なんだ、起立はしたくないという子がおりましたときに、これは特別活動に影響が出るのでしょうか。
  59. 有馬朗人

    有馬国務大臣 その人の良心の自由で、ほかの人に迷惑をかけない格好で、自分の気持ちで歌わないということはあり得ると思います。それは別に良心の自由でございますので、そのことが最終的な評価につながるとは私は考えておりません。  しかしながら、他人に対して無理やりに歌わせないとか、他人に対して無理やりに座らせるとか、あるいは国旗に対して破ってしまうとか掲揚させないとか、こういうことに対しては、やはりぴしっとした指導を行うべきであると考えております。
  60. 池坊保子

    ○池坊委員 私は、生徒のことも問題ですが、指導する先生指導というか立場というのを明確にしなければならないんじゃないかと思います。  私は、ぜひ、国旗国歌は千年の歴史があるのですから、これをきちんと負の部分も含めて教えていただきたいというふうに思っております。それによって、文化を思いやる心とか、伝統とは何かとか、祖先に対する思いなどもはぐくんでいくのではないかと思います。これは払拭するのではなく、事実としてしっかり子供に教えるべきだと思うのです。  教えるに際しては、教師が何物にも侵されない公平さや公正さやバランス感覚、リベラルな心というのを有していなければならない、これが私は大切なことなんだと思います。個の確立した一個の人間として、リベラルに物事が見られる、そしてそれを子供たちに教えることができるということが私は大変大切だと思いますけれども、こういう養成はこれから先どのようにお考えなのか、官房長官にちょっとお伺いいたします。
  61. 有馬朗人

    有馬国務大臣 学校における教育内容につきましては、従来より、学校教育法及び同法施行規則の規定の委任に基づきまして、教育課程の基準として文部大臣が告示いたします学習指導要領によって定めていることでございます。各学校におきましては、これらに基づきまして校長が教育課程を編成し、これに基づいて教員は教育活動を実施するものでございます。  学習指導要領におきまして、国歌国旗指導につきましては、先ほど申し上げましたように、社会科においては国旗国歌の意義を理解させるとともに、音楽において国歌君が代の意味などを指導し、さらに歌い方を指導する。それから特別活動においては、入学式や卒業式などにおいて、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導することといたしております。  こういうふうに定めておりまして、校長及び各教員は、このような学習指導要領に基づきまして、国旗国歌について児童生徒を指導すべき責務を負っていると考えております。
  62. 池坊保子

    ○池坊委員 生徒に指導するのは、今おっしゃいましたように、私もわかっております。大切なことは、その生徒を指導する教師の責任は大なのです。そのことから考えないと、生徒への正しい指導というのはできないのではないかというふうに思っているわけです。  つまり、自由な心というのが大切だということを私は申し上げたいのです。教育現場で強制することはもちろんあってはなりません。ですけれども、無視もしない、拒否もしないという心も私は大切だと思うのです。よく、座る自由があるじゃないかとおっしゃる。そうしたら、立つ自由もまたあるわけです。  私の友人は、子供の小学校の入学式に行ったときに、国歌が流れてきた、立とうと思った。だけれども、周囲を見回したら、先生方は大多数座っていらっしゃる。周りも座っていらっしゃる。ああ、そうか、この学校は立っちゃいけないのかな、立ったら、あるいは先生に点数が悪くなるのかしらとかいろいろ思って、立ちたかったけれども立てなかった。帰る道すがら、このままでいいのだろうか、こんなふうに子供が育ったときに、国際社会の中で生きられるのだろうか。あるいは、国際社会だけではありません、これからの人間関係を本当に保つことができるのだろうかとじくじたる思いをしたということを語っていらっしゃいました。  ですから、私は、座る自由があれば立つ自由も毅然とできるような環境をつくるということがこれからの課題であるというふうに考えております。  次に、小学校指導についてちょっと伺いたいと思います。  この間新聞を拝見しておりましたら、文部大臣は、小学校はもとより幼稚園から教えないといけない、教育現場で徹底する必要性を説いていらっしゃいました。  私は、国を愛する気持ちを幼いときから養うことは大変大切なことだというふうに思っております。ただ、今の指導要領では、幼稚園というのは、国歌は教えなくていい、国旗だけになっておりますね。小学校の場合は、音楽は一年生から習う、それから社会科は三年生からというふうになっております。私は、国歌がきちんと歌えたからといって、愛国心が芽生えるものでもないと思います。愛国心とは、自国への責任や誇りや愛情、また家族への愛情、地域への愛情、あるいは文化や歴史思いやる、そういうものが抱合して、愛国心とかあるいは人間愛とかいろいろなものに発展していくんだろうと思います。だから、私は、むしろ醸成するまで待つということも教育ではないかというふうに思っております。  私は、ちょっと心配いたしますのは、この法制化によって、小さいときから、小学校三年から、まだ理解できないうちから、この難しい君が代の和歌を教えたり、そういうことはしないで、むしろ、そうじゃない、そこに含まれている精神を教えていただきたい。それじゃないと、仏をつくって魂を入れずということになると思いますので、その辺をちょっと申し上げたいと思います。文部大臣、いかがですか。
  63. 有馬朗人

    有馬国務大臣 幼稚園教育におきまして私の申し上げたことについてちょっと触れておきたいと思うのでございますが、幼児一人一人の心身の発達の程度に応じて大きな差がございます。それに配慮しながら、それぞれの興味や関心に応じて、日常生活における具体的な体験を通して行われるものと考えております。  このため、幼稚園教育要領におきましては、国旗については、幼稚園や地域の行事などに参加したりする中で自然に日本国旗に接し、自然に親しむことといたしております。  なお、国歌につきましては、その性格上、幼児期における一斉指導は困難と考えられますので、幼稚園教育要領では記述いたしておりません。しかしながら、実情に応じて、行事の際などに国歌に接し、自然に親しむことも大事なことと考えております。  今回の法制化におきまして、文部省といたしましては、幼稚園教育要領に基づく幼稚園におけるこれまでの取り扱いを変えるというふうなことは全く考えておりません。私が幼稚園と申し上げましたのは、そういうふうに、自然体でなれていく、親しんでいくということをさせるべきだと考えているわけであります。  なお、先ほど教育の上におけるしつけのことなど御指摘になられましたけれども、確かに、自然に皆が日本の文化に親しんでいくことも大切だと思いますが、同時に、先生のお花あるいはお茶などで、形というものも大切だということを、釈迦に説法でございますが申し上げておきたいと思います。
  64. 御手洗康

    御手洗政府委員 小学校におきます国歌君が代指導でございますけれども、いずれの学年におきましても指導する、ただしその際に、発達段階に即して教えるということでございまして、先生御指摘のとおりでございます。  具体的には、低学年では上級生が歌うのを聞いたり、あるいは楽器の演奏やテープ等による演奏を聞いたりしながら親しみを持つようにして、まず、みんなと一緒に歌えるようになる、こういうことが課題であろうかと思います。また中学年では、歌詞や楽譜を見て、そして覚えて自分で歌えるようにする。さらに高学年では、国歌の大切さを理解するとともに、歌詞や旋律を正しく歌えるようにするということが大切でございます。  いずれにいたしましても、社会科の指導と相まちまして、小学校卒業までには、国歌君が代日本国憲法において天皇を日本国並びに日本国民統合の象徴とする我が国がいつまでも繁栄するようにとの願いを込めた歌であることをしっかりと理解する必要があるということで、各学年段階に応じて指導をいたしているところでございます。
  65. 池坊保子

    ○池坊委員 今、歌詞を正しく歌う、あの歌詞はなかなか難しいので、小学生で歌うのは大変だと思いますから、余り無理強いはなさらないでいただきたいと思います。  私、外国で、オーケストラで君が代のメロディーを聞きましたときに、こんなに君が代というのはよかったのかしら、日本で聞くときは余り感動いたしませんでしたけれども、何か胸がじいんときました。娘たちは、春の甲子園の女性のコーラスが大変よかった。あの印象もよかったのか、娘たちの世代に法制化をどう思うかと言ったら、私たちが何となく春や夏の甲子園やオリンピックで歌ってきた君が代がもし国歌と決まっていないのだったら、それはきちんと決めた方がけじめがつくわよという声が返ってまいりました。  ただ、音楽で教えます場合にも、私は多少の編曲などがあってもいいのではないかというふうに思っております。江戸時代には自由自在に、長かったり短かったりしたそうでございます。精神さえしっかりしていれば、趣旨さえしっかりしていれば、それを編曲するとか、ジャズっぽくするとか、いろいろなバリエーションがあった方が国民に親しまれるのではないかと思います。宇多田ヒカルさんに歌ってもらったらどうだというのが新聞に載っておりまして、文部大臣、宇多田ヒカルさんを御存じでいらっしゃいますか、それも私、いいことかなというふうに思っておりました。  大切なことは、学校現場でも、しゃくし定規にこうなんだ、和歌が一文字これは違っていたとか、この旋律が違っていた、そういう細かいことを教えることだけはやめていただきたいというふうに思っておりますので、文部大臣のお考えを伺いたいと思います。
  66. 有馬朗人

    有馬国務大臣 ことしの春の甲子園で大変すばらしい独唱を聞いて、私も、君が代というのはこういうふうにきれいな旋律かということをしみじみ感じた次第でございます。  今回の法案におきましては、国歌君が代については歌詞並びに楽曲が定められました。国歌君が代指導に当たりましては、法案に定められた国歌君が代の主旋律を変えずに演奏することが大切であろうかと思います。  ただ、各学校指導に当たりましては、児童生徒の発達段階に即しまして、主旋律を覚えるために簡単な伴奏を工夫するというふうな教育上必要な編曲を施すことは考えられるかと思います。
  67. 池坊保子

    ○池坊委員 最後に、官房長官にお伺いしたいと思います。  この国旗国歌法制化によって、政府がよく言われております愛国心というものが養われていくとお考えでございましょうか。私は、せっかくつくられていくのですから、二十一世紀に向かって、多くの国民国旗国歌への親しみや正当な認識や評価が芽生えて、みんなの中に自然とそういう気持ちが芽生えていくことこそが好ましいというふうに考えております。  先ほどもちょっと山元委員からお話がございました。七十代の高年層の方々などは、国旗はいいけれども国歌には多少抵抗があるなという方もございました。これは、半世紀前の軍部や政権が過剰な強制によって与えたトラウマ、精神的外傷がまだいえていないからだというふうに思っております。  しかし、これは言うまでもなく国旗国歌が悪いのではございません。国旗国歌のせいにするというのは、むしろ私は責任転嫁なのではないか。長いスパンで見るときに、その時代はある時期でしかございません。ある時期を否定するわけではございませんが、それをしっかりと教訓として二十一世紀に向かうべきだというふうに考えておりますが、官房長官の御見解を最後に伺いたいと存じます。
  68. 野中広務

    野中国務大臣 このたびの国旗国歌法制化は愛国心の涵養などと直接私は関係するものではないと考えるわけでございますけれども、私といたしましては、愛国心というのは、私には私の命を与えてくれた両親がございます。その両親にはまた両親を生んでくれた両親があり、そこに家庭があり、地域があり、そして国家が存在をして今日の私自身をあらしめておるわけでございます。我が国の国土、歴史、文化や伝統などを理解し、またそれらを愛し、日本人としての自覚を持って国家社会やあるいは家庭の発展を願う心、これが私は愛国心でなかろうかと思うわけでございまして、このような愛国心をはぐくんでいきますことは、単に我が国だけでなく、他の国や他の国の人々を理解し愛する心につながるものであろうと思うわけでございます。  近年、残念ながら、我が国では愛国心が徐々に薄らいできたなどと言われるわけでございますが、愛国心は学校での教育を初め家庭や地域などにおいて培われていくものであり、大切な民族の歴史として、あるいは財産として次の世代に引き継いでいくものであると考えております。
  69. 池坊保子

    ○池坊委員 二十一世紀に向かって、そのような個々人のグループが一つの国を形成していく、そのような健全なる二十一世紀がつくられることを祈って、私の質問を終わらせていただきます。ありがとうございました。
  70. 小川元

    ○小川委員長 次に、富田茂之君。
  71. 富田茂之

    ○富田委員 公明党・改革クラブの富田茂之でございます。  我が党内でこの法案につきまして何度も議論をいたしました。最終的に、党の手続を経まして賛成するという立場を決定いたしましたが、その際にも、やはり教育現場で、法制化によってどんな影響が出てくるのか。これまでと扱いは変わらない、義務づけはしない、強制はしないと、いろいろ答弁されておりますが、本当に教育現場が混乱することはないのか、そういう意見が多数ありました。私も同じ意見であります。  そういう観点から、きょうはせっかく御質問の機会をいただきましたので、学校における国旗国歌指導について、この点に限定いたしまして御質問をさせていただきたいと思います。  平成六年十月十三日の衆議院予算委員会で示されました政府統一見解がございます。  政府統一見解によりますと、まず第一点として、   学習指導要領は、学校教育法の規定に基づいて、各学校における教育課程の基準として文部省告示で定められたものであり、各学校においては、この基準に基づいて教育課程を編成しなければならないものである。 第二点として、   学習指導要領においては、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」とされており、したがって、校長教員は、これに基づいて児童生徒を指導するものである。 第三点として、   このことは、児童生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではなく、あくまでも教育指導上の課題として指導を進めていくことが必要である。 こういうふうに三点、政府統一見解として平成六年段階で示されました。  この見解は現在も維持されていると理解してよろしいのか。また、今回この法案が成立することによってこの見解を変更することはないのか。その点についてまずお尋ねしたいと思います。
  72. 野中広務

    野中国務大臣 我が国国民といたしまして、学校教育において国旗国歌の意義を理解させます。これらを尊重する態度をはぐくんでいくことが極めて重要であることから、学習指導要領に基づいて、校長、教員は児童生徒に対して国旗国歌指導するものとしておるわけでございます。このことは、委員が今御指摘ございましたように、児童生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではなく、あくまでも教育指導上の課題として指導を進めていくことを意味するものでございます。  したがいまして、委員が御質問になりました平成六年十月十三日の衆議院予算委員会で示されました政府統一見解は、現在も変わっておらないわけでございます。
  73. 富田茂之

    ○富田委員 現在も変わらない、仮にこの国旗国歌法案が成立した後もこの見解に変更はないでしょうか。
  74. 野中広務

    野中国務大臣 変更ございません。
  75. 富田茂之

    ○富田委員 では、この政府統一見解に基づいて何点か御質問をさせていただきたいと思います。  学習指導要領は、各学校における教育課程の基準というふうに第一項で示されております。教育課程の基準というのは法的拘束力を有するのか。これまで何人もの委員先生からも質問ございました、この点をまず確認させていただきたいとともに、我が党の石垣議員からの質問主意書に対する政府答弁書の中でも、法規としての性質を有しているというような記述がございました。  この点、二つあわせて、どういう意味なのか、法規としての性質を有しているという意味、また法的拘束力があるのかどうか、この点についてお示し願いたいと思います。
  76. 御手洗康

    御手洗政府委員 学習指導要領は、具体的には、学校教育法二十条及び百六条等の法律の規定に基づきまして、また、この規定の委任を受けました学校教育施行規則二十条等に基づいて文部大臣の告示という形で公示をしているものでございます。  したがいまして、この性格は、いずれの学校においてもこれに基づいて教育課程を編成し実施しなければならないという意味で、法規としての性格を有していると文部省としては考えているところでございまして、このことは、昭和五十一年の五月二十一日の永山中学校事件の最高裁判決、さらには、近年におきまして、平成二年一月十六日の伝習館高校事件最高裁判決におきましても明確にされているものと考えているところでございます。
  77. 富田茂之

    ○富田委員 確かに判決等でそういう形に示されてはいるんですが、先ほど山元委員の方からお話がありましたように、強行法規なのか訓示規定なのかというような御質問もありました。ただ、法律、法規といっても、学習指導要領については随分性質が異なるものではないのかというふうに私には思えます。  例えば「法制執務提要」、佐藤達夫さんという方が編集している文章ですが、その中にこういう記述がございました。国旗国歌について、今回「指導するものとする。」というふうに学習指導要領の方で変わっておりますが、   この「するものとする」という表現は、以前の学習指導要領で用いられていた「望ましい」と比べて、かなり義務づけの意味合いが強く出されている表現となっています。   また、「するものとする」という表現には「しなければならない」という義務づけの意味がないわけでなく、場合によってはこれと同義語として使用されることもありますが、一般には、そこまでものごとをはっきりと割り切らずに、若干の含みを持たせつつ、一般の原則なり、方針なりを示すという気持ちが強い場合に多く用いられ、行政機関等にある種の拘束を与える場合によく用いられる言葉である、とされています。 こういうような説明もされています。  また、判決の中にこういうような表現もございました。  今局長が示されたいわゆる伝習館事件の控訴審判決、最高裁の前の福岡高裁の判決、その中では、「学習指導要領の効力について考えるに、その内容を通覧すると、高等学校教育における機会均等と一定水準の維持の目的のための教育の内容及び方法についての必要かつ合理的な大綱的基準を定めたもの」「その適用に当っては、それが「要領」という名称であること、「大綱的基準」であるとされること、その項目の目標、内容、留意事項等の記載の仕方等から明らかなように、その項目を文理解釈して適用すべきものではなく、」こういうふうに明確に言っております。学習指導要領は、二回も全面改正されていることから見て、相当柔軟な性格を持つものである、こういうふうな指摘がされております。  また、いわゆる大阪府立東淀川高校日の丸掲揚損害賠償請求事件の平成八年二月二十二日の大阪地裁の判決でも、こういうふうに判決理由の中で述べられております。「前記のとおり「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。」となっていて、「……指導しなければならない。」等、より強い拘束性や強制力を伴うような表現が使用されていない」「右指導の内容や程度は各地の実情等に合わせて実施することができる余地を残している」「このような右条項の文言自体からも、これが、高等学校教育における機会均等及び全国的な一定水準の維持を図るために設けられた大綱的な基準であることも明らかである。」というふうに判決文の中にもあります。  こういうふうに考えますと、一般的に全面的な法的拘束力があるんだとか法規なんだというふうに言い切るだけで、教育現場では何の解決もしないのではないか。これまで「望ましい。」とされていたものが「指導するものとする。」とされた。ただ、これは指導しなければならないとは規定されていないわけですよね。  そういうことを考えると、学習指導要領現場での運用について、文部省としては、これまでどういうふうにされてきたのか、また今後どういうふうにしようとしているのか。今の判決文の理由中の判断とか条文解釈についての提言を聞いてどう思われるか、それも踏まえて文部省として現場での運用についてどうしてきたのか、またどうされようとするのか、ぜひお聞かせ願いたいと思います。
  78. 御手洗康

    御手洗政府委員 御指摘のとおり、最高裁判決におきましては、学習指導要領それ自体の全体としての大綱的基準性というものを認めつつ法的拘束力を有するということでございまして、個々の、具体の学習指導要領の規定がどの程度の基準性を持って法的に適用されるかということは、個々の学習指導要領の規定に照らして、具体的な指導場面に即して判断されるべきことであろう、そのことは御指摘のとおりでございますが、卒業式、入学式におきます国旗国歌に関する指導につきましては、文部省といたしましては、やはり、「望ましい。」というときの基準性と、国旗を掲揚し、国歌を斉唱するものとすると変わりました学習指導要領の基準性というのは、おのずからここに基準性の程度の差があると思っているわけでございます。  とりわけ現行の学習指導要領、平成二年度から全面的に適用されているわけでございますけれども、この学習指導要領取り扱いに関しましては、その指導を徹底するという観点から、卒業式、入学式におきます各学校での取り扱い、実施状況につきまして各都道府県に具体的な調査をいたしますとともに、それに基づいて、指導を徹底していただくよう、各都道府県、指定都市に対してこれまでも繰り返し指導しているところでございまして、近年におきましては、平成十年十月十五日に都道府県、指定都市の教育委員教育長あてに指導通知を発出しているところでございます。
  79. 富田茂之

    ○富田委員 「望ましい。」から「指導するものとする。」というふうに変わった意味はわかるんですが、ただ、入学式、卒業式で国旗を掲揚させ、国歌を斉唱させる、そのことについて文部省の方で、実際にどう行われているか調査しているというだけではなく、学習指導要領では社会科とか音楽とかそういうところできちんと教えるようになっているわけですよね。その教育課程の中で、本当に国旗国歌が大事だ、また国旗国歌がどういう意味合いを持つのかということについて児童生徒がしっかり認識していくというのは大事だと思うんですが、儀式のときだけそのとおりやればいいんだというのでは、幾ら内心に立ち入らないといっても、形式だけが優先して、結局は強制につながるようになるんじゃないか、そういうふうに私には思えてなりません。  この政府統一見解の中でも、校長、教員は、教育指導上の課題として指導を進めていくというふうに書かれています。教育指導上の課題として指導を進めるというのは、具体的に教育現場でどういうふうに行われているんですか。ただ入学式、卒業式だけでやるのじゃなくて、教育指導上の課題として指導を進めていくというふうに政府統一見解でうたっているわけですから、これが現場で一体どういうふうに行われているのか、その点、ぜひ御説明願いたいと思います。
  80. 御手洗康

    御手洗政府委員 学習指導要領の規定はいずれも、各学校指導すべき教育上の課題として、各教科、道徳、特別活動につきましてその具体的な内容を規定しているわけでございますが、国旗国歌に関して申し上げますと、具体的には、特に小中学校社会科におきまして、国旗国歌の意義を理解させ、それを尊重する態度を育てるということを基本といたしまして、発達段階に即して教えること、それから音楽におきましては、国歌君が代を小学校のいずれの学年においても発達段階に応じて教えること、それから特別活動、入学式、卒業式におきます指導、大きく三つの場面があるわけでございます。  これらはいずれも、直接児童生徒の行為を規定するというものではございませんで、各学校教育上の課題として教育課程を編成し、具体的な指導計画あるいは指導案等、あるいは卒業式、入学式の実施式次第等を定めてこれを指導するという意味での各学校や校長に課せられた課題でございます。  したがいまして、これらの教科あるいは特別活動、入学式、卒業式等におきます学習指導要領に定められた事項をどのように児童に理解させ、あるいは具体的に身につけさせていくかということは、御指摘のとおり、それぞれの現場におきまして、あくまでも教育的な適切な指導方法を選択しながら、児童生徒が指導事項を主体的に理解し受けとめていくという指導が必要だろうと思っているわけでございます。  また、個々の授業の場面等におきまして教師がどのような教材でどのように教えていくかということは、学習指導要領の全体の趣旨、方向、それにのっとった形で、現場教師の具体的な指導にゆだねられるということも事実でございますが、これを全く指導事項として扱わない、あるいは趣旨に反するような指導を行う、これは許されるものではないと私ども思っているわけでございます。  また、具体的な指導に対しまして児童生徒がどのような反応をするか、それに対しましてどのような具体的な指導をさらに加えていくか、これは御指摘のとおり、各学校教育的な配慮のもとに十分行っていく、こういうことがあくまでも指導上の課題として指導を進めるという趣旨であろうかと存じているところでございます。
  81. 富田茂之

    ○富田委員 先ほど政府見解の三点目に、「児童生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではなく、」とあります。また、官房長官も今そのように御発言されました。  逆にお伺いしたいのですが、内心にまで立ち入って強制する指導、これは一体どういうものだと想定されますか。ぜひここをお聞かせ願いたいと思います。
  82. 有馬朗人

    有馬国務大臣 まず、一般に内心というのはどういうことかというと、物の見方であるとか考え方でございますが、これについては、国家はこれを制限したり禁止したりすることは許されないと考えられます。私もそう思っております。  今御質問の内心に立ち入るとはどういうことかということでございますけれども、まずその前に、国旗国歌指導は、国民として必要な基礎的、基本的な内容を身につけることを目的として行われているものでございまして、たびたび申し上げますように、児童生徒の内心にまで立ち入って強制するものではございません。あくまでも教育指導上の課題として行われるものでございます。  それでは、御質問のどのような行為が強制することになるかについては、当然、具体的な指導状況において判断をしなければならないことと考えておりますが、例えば長時間にわたって指導を繰り返すなど、児童生徒に精神的な苦痛を伴うような指導を行う、それからまた、たびたびよく新聞等々で言われますように、口をこじあけてまで歌わす、これは全く許されないことであると私は思っております。  児童生徒が例えば国歌を歌わないということのみを理由にいたしまして不利益な取り扱いをするなどということは、一般的に申しますが、大変不適切なことと考えておるところでございます。
  83. 富田茂之

    ○富田委員 今、大臣に、次に質問しようと思ったことまで答弁されてしまったんですが、今大臣が例として挙げられたのは、確かに内心にまで立ち入った強制に当たると思いますけれども、どちらかというと外形的な行為を伴うような具体例だったと思うのですね。  そうじゃなくても、例えば、今、入学式、卒業式等で一同起立、国歌斉唱というような形で普通に行事の流れとして行われていきますよね。そういう場合に、児童生徒の中に、自分はいろいろなことを勉強してきたけれども、やはり君が代を歌いたくないという子がいても、それは不思議ではないと思うのですね。児童生徒の成長過程というのはいろいろありますから、小さな段階から、自分はこの歌は国歌としてふさわしくないというような思いで歌わない子がいても、私はそれは別に構わないんじゃないかというふうに思います。  そういう場合に、学校管理者としては確かに、きちんと儀式の式次第を決めて、それに児童生徒が従わなかった場合、困った形になると思うのですね。一同起立、国歌斉唱といった場合に、起立しない生徒がいる、また、仮に起立したとしても歌わない生徒がいる、そういう場合に学校側としては一体どういう態度をとったらいいのか。そこが現場で困るんだと思うのですね。  今、大臣は、歌わなかったことによって不利益を受けるようなこと、それはだめだというふうにおっしゃいましたけれども、実際に、先ほど池坊議員の方はお母さんの話をされていました。行ったら、ほかが歌わなかったので自分が立てなかった。では、児童生徒が起立もしなかった、あるいは、起立したけれども国歌を歌わなかった、そういうことによって本当に不利益を受けないのか。それをお父さん、お母さんはすごい心配すると思うのですよ。また、起立しなかった児童生徒、歌わなかった児童生徒に対して、その後校長や教員は一体どういった指導をその児童生徒に対して行っていったらいいのか。そのあたりをどのように考えたらいいのか、ぜひ教えていただきたいと思うのです。
  84. 御手洗康

    御手洗政府委員 学習指導要領指導に従わなかったといった場合に子供たちにどういう法的効果が生じるかということについては、学習指導要領は一切触れていないわけでございます。したがいまして、あくまでも教育指導上の課題として指導していくということは、何も国旗国歌指導の場合にかかわらず、すべての教育内容の指導場面と同じではないかと私ども感じているわけでございます。  したがいまして、今御指摘のように、起立をしなかった、あるいは歌わなかったといったような児童生徒がいた場合に、これに対しまして事後にどのような指導を行っていくかということにつきましては、まさに教育指導上の課題として学校現場に任されているわけでございますけれども、その際に、御指摘のように、単に従わなかった、あるいは単に起立をしなかった、あるいは歌わなかったといったようなことのみをもって、何らかの不利益をこうむるようなことが学校内で行われたり、あるいは児童生徒に心理的な強制力が働くような方法でその後の指導等が行われるということはあってはならないことと私ども思っているわけでございます。  したがいまして、学校全体の教育活動を、また式の進行全体を著しく妨害するといったようなことは別にいたしまして、今御指摘のような点につきましては、各学校におきまして、あくまでも教育上の配慮のもとに、校長のもとに全教職員が一致した適切な指導をしていただくように私どもとしてもお願いをしてまいりたいと思っております。
  85. 富田茂之

    ○富田委員 なぜ私がそういう質問をしたかといいますと、ここに「学校経営」平成十一年五月号があります。学校管理者側の方は大分読まれている本だと思うのですが、調査室の方からちょっとこの資料をお借りしまして読みましたら、ここに「質疑応答」という欄がありまして「入学式・卒業式における国旗国歌の実施について(その二)」というのがあります。  「問2」として「入学式や卒業式で国旗国歌について学習指導要領に定められたような取扱いができなかった場合、校長が懲戒処分を受けることになるのでしょうか。また、校長が国旗を掲揚し国歌を斉唱することを決めたにもかかわらず、教員が反対した場合、教員について処分の問題が生じますか。」という問いがありまして、いろいろずっと回答があったのですが、最後に「入学式等において国旗掲揚、国歌斉唱を実施することが決定された場合において、児童生徒が定められた国旗国歌の取扱いに従わない場合、職務命令にもかかわらずそのような児童生徒に対する指導を放棄した場合には、職務命令違反として処分の対象となり得ます。」教員がそういうふうに処分の対象となるというふうに言っているわけですね。  そうしますと、処分対象にされてはたまらないから、校長、教員はまた何らかの指導にいくわけですよね、私が先ほど言ったような場合でも。今、教育的な配慮をというふうに御手洗局長おっしゃいましたけれども、本当にそこがきちんとされればいいのですけれども、指導を放棄した場合には処分するぞというようなこういう回答も出ているわけですから、そうなりますと、現場の校長先生や教員の皆さんは放置はできないわけですよね、何らかの強制を与えないと自分が処分されることになるわけですから。  そういうことを考えたときに、今のように文部省の方で配慮を望みますと言っても、現場は大変だと思うんですよね。こういう回答も出ている。これは文部省が出しているのじゃないですけれども、実際に教育現場にいらっしゃる管理職側の先生たちはこの本をよく読んでいらっしゃると思います。  そういう場合に、こういうふうな回答がきちんと出ているということを考えると、ではどういった場合に指導放棄とみなされるのだ。一生懸命その後もその子にいろいろなことを教える、それでもその子は、私は嫌だ、自分の信条に従って歌わないのだという場合が出てくると思うんですね。そういった場合に教育現場が混乱しないように、どうしたらいいのかというところも文部省側としてきちんと何らかの指針を示す必要があるのじゃないか、そういうことをやはりこの場できちんと言っていただきたい、それが教育現場の混乱を招かない一つになると思うんですけれども、どうですか。
  86. 御手洗康

    御手洗政府委員 先ほどから大臣も御答弁申し上げていますとおり、学習指導要領に決められた事項についてそれを指導しないということにつきましては、それは本来の職務上の義務に反したということで、学習指導要領違反あるいは職務命令違反ということで、教職員に対し、具体の状況によりましては各任命権者が地方公務員法等の規定に基づきまして懲戒処分を行うということもあろうかと存じます。  今先生御指摘のような、個々の児童生徒の具体的な、継続的な指導の場面において、どのような職務上の命令が適法な、あるいは命令としてなり得るかということにつきましては、具体的な状況に照らして判断するほかはないわけでございますけれども、一般的には、そういった子供に対する事後的な教育指導という点につきましては、職務命令というような形ではなくて、あくまでも、どういった形での指導方法がその子供にとって適切かということを担任の教員あるいは担当のその他の教員あるいは校長等が十分学校内で意思統一した上で、教育的な適切な配慮をしていくということは通常であろうかと思います。  今御指摘のような点につきまして、直ちに懲戒処分が行われるといったような受けとめ方をされるということのないよう、私どもとしても今後十分適切に指導をしてまいりたいと思います。
  87. 富田茂之

    ○富田委員 よくわかりませんけれども、もう少しはっきりした答弁をされた方が現場の方は安心するのじゃないかと思います。  先ほど大臣局長も不利益がないようにというふうにおっしゃいました。  実は私、三人子供がいるのですが、小学校五年生の子供がおりまして、十九日にいわゆる通知表を持ってまいりました。今は、通知表というふうに書いてなくて「育ちの記録」とか書いてあるのですが、この中に「学習の状況」というのと「行動の状況」という欄があります。「学習の状況」というのは、私たちが子供のころには一、二、三、四、五という数字でよくついていたのですが、今は到達段階を見るということで、ここまでできたら丸、あるいは二重丸というふうになっています。「行動の状況」についてというのも、「めあて」というのがありまして、こういうふうなことをちゃんとできるという子については丸がつくというふうになっています。  例えば、入学式とか卒業式で国旗国歌、起立しない、あるいは斉唱しないというときに、こういう評価で不利益がないようにぜひしていただきたい。私の小学校五年生の子供は、四年生として、六年生の卒業式で初めて君が代を歌ったようです。どんなふうに教えてもらったと聞きましたが、余りよく覚えていないというような返事で、我が子ながらだめだなと思ったのですが、ただ、本当に子供が自分の信念で国旗国歌に対する思いを持ったときに、それを不利益に評価するというのだけはぜひやめていただきたい。  文部省の方にお伺いしましたら、日本国憲法基本的人権が保障されている、思想、良心の自由がきちんと規定されている、そういうことを学校で学ぶのは、小六の社会科になって初めてだそうであります。それまで基本的人権ということを子供たちは知らないで、ほかの情報としてはいろいろわかりますけれども、学校現場できちんと教えてもらわないで来ているわけですね。そういったときに、子供たちがいろいろな自分たち判断で学んできたことを学校現場で表現することについて、決してそれが不利益にならないように、ぜひ大臣を初め御配慮をいただきたいと思います。  最後に、先ほども池坊委員の方からも御質問がありましたが、有馬文部大臣が自民党の全国研修会で国旗国歌についてちょっと言及されたというのが新聞報道にございました。しつけの点について触れられておりまして、それは本当に大事だと思うんですが、私は、この国旗国歌の問題が教育現場で問題になるというのは、大臣の言われるしつけと指導とそして内心に至る強制、ここの区別がなかなかつかない、ここが一番問題なんだと思うんですね。  大臣のお考えで結構ですから、しつけと教育現場で行うべき指導と、そして内心に立ち入ってはいけない、強制というのはだめなんだというそこの区別を現場でどういうふうにつけていったらいいか、ぜひ最後に大臣のお考えをお聞かせ願いたいと思います。
  88. 有馬朗人

    有馬国務大臣 子供たちが将来、特にこの時代のように、国際社会において、地球規模化した時代において、尊敬され、信頼される日本人となるためには、やはり国民としての基本的なしつけが要ると思うのです。これは普通マナーと呼んでおりますが、私はなるべく片仮名を日本語にしたいのでしつけと申しておきますけれども、基本的マナーとして、我が国国旗国歌はもとより、諸外国の国旗国歌の意義を理解させる、それらを尊重する態度を育てることが重要だと考えております。  しかし、それ以上に、本当に人に優しくするとか、人を愛するとか、正しく行動するとか、規律に従わなきゃならないときには規律に従うとか、こういう基本的なしつけというものがやはり非常に必要だと思っています。このことはやはり子供の、特に幼稚園ぐらいからきちっと身につけておくべきだと考えておりまして、そういう意味で私はしつけと申し上げた次第でございます。  しつけとは、一般的には礼儀作法を身につけさせること、あるいは身につけることという意味であろうかと思います。したがいまして、しつけるというふうに動詞にすれば、礼儀作法等を教えるということになると思っておりますが、私は、教育上の一般的に用いられている指導ということと変わるものではないと考えております。  学校における国旗国歌指導は内心にわたって強制しようとするものではないということは、たびたび申し上げております。あくまでも教育指導上の課題として行われることが重要であると考えております。先生が今御指摘のことについても、不利にならないよう、内心でいろいろなことをしたいと思ったときに、それが十分納得のできる内心であれば、これは当然きちっと評価をしていかなければならないことと思っています。
  89. 富田茂之

    ○富田委員 終わります。ありがとうございました。
  90. 小川元

    ○小川委員長 次に、石井郁子君。
  91. 石井郁子

    石井(郁)委員 日本共産党の石井郁子でございます。  国民の間で初めて、国旗国歌をどうするのか、議論が始まったところでありまして、その議論を通して日の丸君が代にさまざまな思いが語られていますし、これを法制化するのは拙速だ、とんでもないという声も今や多くなりつつあるわけでありまして、世論は動いているという状況だというふうに思うのです。こういうときに今国会でこの法案の成立を図るということは断じてやるべきではないということを私はまず最初に申し上げて、質問に入りたいというふうに思います。  きょうは主に教育現場の強制という問題について私は質問をさせていただくわけですけれども、この点は、今国民の間でも、また地方公聴会、中央公聴会等々ございましたが、その中でも、大変危惧の声が多く聞かれました。今国民の最も心配な点になっているかなというふうに思うわけであります。  さて、その第一問ですけれども、国旗国歌の問題が教育現場でどういう形で問題になるのかといえば、私は、端的に入学式、卒業式で式次第に掲げるかどうか、そして、一斉に起立をし斉唱をするかどうかということだろうというふうに思うのですね。  そこで、国旗の掲揚とか国歌の斉唱、一斉起立とか斉唱ということがやはり内心の自由にかかわる問題であるのかどうかということなのです。その御認識をまず最初に伺っておきたいと思います。大臣
  92. 有馬朗人

    有馬国務大臣 学校における国旗国歌指導は、児童生徒に我が国国旗国歌の意義を理解させ、これを尊重する態度を育てるとともに、諸外国の国旗国歌も同様に尊重する態度を育てるために行っているものであるということは、たびたび申し上げたとおりでございます。  学習指導要領に基づく国旗国歌指導は、憲法、教育基本法に基づき、人格の完成を目指し、平和的な国家及び社会形成者としての国民を育成することを目的として行っているものでございまして、憲法に定められている思想及び良心の自由を制約するものではございません。
  93. 石井郁子

    石井(郁)委員 もう少し絞って私はお願いをしたいと思っているわけですが、要するに、国旗国歌問題、一斉起立、斉唱ということは、これは内心の自由にかかわる問題なのだ、そういう性格の問題だというふうにとらえていいでしょうか。これははっきりイエスかノーかでお答えください。
  94. 有馬朗人

    有馬国務大臣 先ほどお答え申し上げたとおりでございまして、教えること、学習指導要領に基づいて教えるということは必要であると思っています。
  95. 石井郁子

    石井(郁)委員 私は、今は、教えるかどうかのことは聞いていないのですね。国旗国歌ですから、やはり拝礼とかあるいは敬意を表する、そういう部分があるわけでしょう。その問題として、これは内心の自由という問題にかかわる性格を持っていると思いますが、いかがですか。
  96. 御手洗康

    御手洗政府委員 学習指導要領は、あくまでも、各学校におきまして児童生徒に指導すべき事項を学校あるいは教員に対して指導上の基準という意味で示したものでございまして、その効果は直接児童生徒に及ぶものではございません。  したがいまして、児童生徒が具体の指導の場面においてどのような行為を行い、それに対する学校のあるいは教員の対応がどのようなものになるかということによって、先ほど幾つか御指摘ございましたように、外形的に精神的な苦痛を与えていくとか、長時間にわたって精神的な苦痛を与えるような指導が繰り返されるとか、そういったような行為が伴う場合は別にいたしまして、通常の教育課程の指導計画に従って児童生徒に指導していくこと、あるいは具体的には卒業式、入学式の場で起立あるいは国旗への敬礼を指示するような号令を加えていくこと、これ自体をもって内心の問題に立ち入る問題ではないものと考えているところでございます。
  97. 石井郁子

    石井(郁)委員 私は、やはりそういう理解は到底納得できないのですね。  つまり、指導課程だということですけれども、算数の掛け算を教えるということは、一回教えるか繰り返して教えるかで問題にはなりません。それこそ無理強いさせたらこれは問題ということはあるかもしれませんが、それにしても、掛け算を教えるということ自身は内心の自由に抵触するという問題ではないでしょう。  国旗国歌の問題、日の丸君が代問題というのは、やはり一斉起立、一斉掲揚、斉唱という形をとるわけですから、それは内心の自由にかかわる、そういう性格の問題でしょう。そこをはっきりさせてください。  それは、あなた方は既にこの議論でも、あなた方はというか、この委員会でもやはり内心に立ち入って強制するものではないということで議論されているじゃないですか。ということは、内心の問題にかかわる問題なんだということをお認めになっていることでもあると私は思うのですけれども、それは一応はっきりさせていただきたいという意味で質問しているわけであります。
  98. 御手洗康

    御手洗政府委員 具体の指導の場面におきまして、内心の自由の問題にかかわるような学校教育活動の具体的な場面が全くないということはあり得ないと思います。  そういうことのないように十分教育的な配慮をしなければならないと思っておりますが、例えば歴史の学習あるいは文化や伝統に対する学習、さまざまな個人の歴史観あるいは価値観というものにかかわる学習というのは、国旗国歌にかかわりませず、学校教育は小学校から高等学校までさまざまな面であるわけでございますので、いずれの場面におきましても、そういった指導すること自身が憲法に定められた内心の自由の問題に直ちになるということではなくて、具体的な指導のあり方、場面に即して、いずれの場合においても全くあり得ないかということにつきましては、それはあり得ないわけではないというぐあいに理解をしているところでございます。
  99. 石井郁子

    石井(郁)委員 どうもその辺があいまいにされるようですけれども、内心に立ち入ることはどうなのか。これは、立ち入ったことになるのか、立ち入らないことになるのかということで議論されているわけですから、この問題はそういう性格の問題だということをやはりはっきりさせるべきではないかというふうに私は思うわけです。  では、質問いたしますが、無理強いさせてはだめだ、先ほども長時間ではだめだとかいうことを言われましたが、では、一回ならよくて繰り返したらだめだ、こういう仕分けというのはなぜできるのでしょうか。
  100. 御手洗康

    御手洗政府委員 いずれも、学習指導の場面と申し上げましたように、再々繰り返しておりますように、個々具体の学校ないし教師指導場面にかかわるものでございまして、そのことが内心の自由にわたるか、あるいは教育上不適切な指導であるかということは、一概にはここでケースを特定して申し上げるわけにはいかないわけでございますけれども、一般的には、一回であるとか二回であるとかいう回数の問題ではなくて、あくまでも子供との関係におきます指導の内容によって、不適切な指導か、教育上合理的な指導として認められる指導であるかということは分かれてくるかと思います。  いずれにしても、具体的な場面場面で判断するほかないわけでございまして、私どもとしては、いずれの教育指導の場面におきましても、教育的に不適切な指導が行われてはならないということは大原則でございますし、さまざまな場面を通じまして、教師の研修等の場面あるいは学校に新規に採用されました後の校長等の指導等におきまして、十分そういった点は留意しながら、教師指導力の向上というものに努めてまいっているところでございます。
  101. 石井郁子

    石井(郁)委員 何が適切か適切でないかだとか、そういうことはいろいろとあるようですけれども、今、その問題ではなくて、やはり内心の自由というものをどう理解するかということを私は問題にしているわけであります。  それで、ではちょっと別な観点でお聞きをしますけれども、一般論として、憲法十九条、思想、良心の自由、これを侵してはならないという問題ですけれども、内心を表明しない自由、これはその解釈としてございますよね。この内心を表明しない自由は保障されていると思いますけれども、一応御見解をお聞かせください。
  102. 御手洗康

    御手洗政府委員 憲法の理解といたしまして、内心にとどまる限りは、それは絶対的に保障しなければならないもの、私はそう理解いたしております。
  103. 石井郁子

    石井(郁)委員 それだけではちょっと不十分じゃないでしょうか。私が今聞きましたのは、内心を表明しない自由は保障されているのかということなんです。もう少し突っ込んで言えば、沈黙の自由ということですけれども、そういう御理解はございますね。
  104. 御手洗康

    御手洗政府委員 そのとおりだと思います。
  105. 石井郁子

    石井(郁)委員 私は、入学式、卒業式という場面で問題にしているわけでございまして、局長の方も先ほど来、指導が適切かどうかということで出されておりますので、具体的にお聞きしたいというふうに思います。  学校行事の入学式、卒業式などでは一律の起立、斉唱ということが行われているわけですね。そうなりますと、一斉にということになりますと、やはり君が代に対してはいろいろな思い、価値観、良心等々がございます。それを、だから歌わないということを行為で表明しなければならないということになるわけですね。私は、これは一種の強制だというふうに思うのです。  日の丸君が代については言うまでもなくいろいろ戦前からの思いがありますし、とても歌えない、歌いたくないという子供たち、学ぶにつれてそういう子供たちも当然出てくるわけですし、父母の方だってそうだと思うのですね。また、宗教上の理由などであるとも思います。そういう価値観等もいろいろございます。  だから、思想や価値観にかかわる根拠のある問題として、やはり一律の起立、斉唱を義務づけるということは無理があるし、子供たちにも父母にも内心の表明を迫ることになるのじゃないか、君が代に対する考えを表明させることになるのではないかというふうに私は思うのですが、いかがですか。
  106. 御手洗康

    御手洗政府委員 あくまでも教育指導上の課題としてそういった儀式を行うということでございまして、単に、御指摘のように、児童生徒が自己の内心の信念あるいは良心というようなものに基づきまして、具体的に歌わないあるいは起立をしないということにつきまして、そのことが学習指導要領から直ちに何らかの法的効力を及ぼすということは一切ないわけでございまして、そういった子供に対して事後どういった指導をしていくかということにつきましては、あくまでも教育指導上の課題として現場にゆだねられるということでございます。
  107. 石井郁子

    石井(郁)委員 局長はどうも指導がお好きなようでして、すぐ指導の絡みにされるのですが、私が伺っていますのは憲法十九条のこの沈黙の自由という問題なんですね。これは基本的人権ですし、やはり民主主義の根本だというふうに思うのですよ。  これはもう言うまでもありませんけれども、それぞれがどんな思想を持っているか、それを口外または沈黙する自由は認められる、それから、権力を用いていかなる思想を抱くかを強制的に告発せしめ、または口を緘せしめることはできないというのは注解日本国憲法の話ですね。どの憲法の通説を見てもその点はあるわけです。だから、それぞれがどういう思想を持っているか。それは子供であれ親であれ、みんな、教師でもそうですけれども、国家権力がそれを露見させる、それを強制することはできないでしょう。それは先ほどお認めになったとおりですね。  では、君が代はやはり、決めて、歌いなさいということは、それぞれが判断を迫られる、自分の思いを表明しなければいけない、そういう場面に立たされるわけでしょう。これは、憲法のこの沈黙の自由に反するのじゃありませんか。そこを聞いているのですよ。指導の問題じゃありません。
  108. 御手洗康

    御手洗政府委員 そういった場面におきまして、当該児童生徒が憲法の思想、良心の自由ということを意識してそういった行為を行うということは当然あるかと思います。したがいまして、あくまでも強制にわたらないということが肝要でございまして、先ほど申し上げましたように、事後に精神的苦痛を伴うような指導を行うとか、あるいは他の児童生徒に対して個別具体の名前を挙げながら適切でないというような、そういう教育的に見ても適切でないような指導を行い、それが児童生徒に心理的な強制を与えるといったようなことであれば、これは許されないものと考えております。
  109. 石井郁子

    石井(郁)委員 私は、事後のことを言ってないんですよ。その場面で既に強制されることになりませんか、自己の内心を表明する、表明させられる、そういうことになりませんかと言っているわけでございます。  ちょっと局長、同じことですから、文部大臣はいかがでございますか。
  110. 有馬朗人

    有馬国務大臣 学習指導要領は、学校すなわち校長や教員に対しての指導の基準でございまして、直接、児童生徒に対して拘束力を持つものでありません。  学校における教育のあり方としては、国旗国歌指導に従わない児童生徒がいる場合、あくまでも穏やかに教育指導上の課題として受けとめて指導を進めるという態度が必要であると考えております。仮に、児童生徒がその信念に基づいて指導に従わなかった場合には、国旗国歌のみならずさまざまなことにおいて同じようなことが起こると思うのですが、しかし、児童生徒が国旗国歌について正しい認識を持って、それを尊重する態度を身につけるよう繰り返し指導を行うということが必要になるかと思っております。
  111. 石井郁子

    石井(郁)委員 やはり全然お答えになっていませんね、残念ですけれども。  私は、その子供たちに後でどう指導するかとかそういう話を聞いているのじゃないんですよ。内心を表明するという場をつくられる、一人一人がそこを問われる、これ自身がそれぞれの見解の表明ということになるんだ、しかし、これは沈黙の自由からして許せないのじゃないかと言っているわけです。  やはりそういう場面をつくるという、立たなかった人は君が代に対して一定の考えを持っているということの表明になるわけでしょう。これは、一斉起立、斉唱というのはある面で思想調査ではありませんか。思想調査なんですよ。あの人はあそこで立たなかった、親も立たなかった、こういうことをわざわざつくるわけですよ。そういうことになる。  思想調査ではありませんか。こういうことは許されますか。大臣、そこをお答えください。
  112. 有馬朗人

    有馬国務大臣 私は、国旗国歌のみならず、さまざまな場合にそういうことが起こると思います。将来、例えばあることを国として決めていく際に、その子供が、自分は国の考えに従わないというふうなこともあり得ると思う。さまざまな場合があります。しかし、これは、その子供なりその親なりがやはり責任を持って考えるべきでありまして、あくまでもその個人の問題だと思っております。
  113. 石井郁子

    石井(郁)委員 全然話は違うんですね。それはもちろんそうですけれども、わざわざ学校という場で、あるいは国の規定としてというか、今度は法的根拠を持たせるわけでしょう。そういう形で、その学校儀式がいわばそれぞれの思想の告発の場になる。そうでしょう。これは思想調査ですよ。だから、そういうことをしてはいけない。これは憲法の十九条からしてもやってはいけないことだ。  だって、私は先ほども申し上げましたけれども、権力を用いていかなる思想を抱いているかを強制的に告発せしめたりしてはならない。それは告発せしめているじゃないですか、一斉起立、一斉斉唱というのは。思想調査ですよ、間違いなく。そういう認識にやはり立つべきだというふうに私は思うのですね。  この点では、そうだと言ったらもう文部省はこの先ないでしょうから、おっしゃらないでしょうけれども、私は、憲法十九条の理解が非常に不十分だと思います。一面的だというふうに思います。これはまさに人権感覚が問われる問題でもあります。自由と民主主義にかかわる問題なんです。そういう意味で、私は、儀式としての一斉起立、斉唱ということを、これ自身が強制だと言わなければならないと思います。  では、時間もあれですから、残念ですけれども、大臣は海外の経験もいろいろおありですから、私は外国の例でお聞きしたいんです。  サミット参加国では、学校の入学式、卒業式に儀式として国旗掲揚、国歌斉唱をさせているところはないと思うんですけれども、それはどうでしょうか。国旗の分はちょっとあるかもしれないけれども、少なくとも国歌の斉唱などというのはないんじゃないでしょうか。それは、やはり価値観の違うものをそういう形で持ち込んじゃいけないという考えも背景にあるかというふうに思うんですが、こういうサミット諸国の対応についての御理解をお聞かせください。
  114. 有馬朗人

    有馬国務大臣 アメリカのニューヨーク州の学校に私の子供が参りました。卒業式のときにはちゃんと星条旗を掲げておりましたし、それから、胸に手を当てて国に対しての忠誠を誓わされたこともあります。それからまた、金曜日ごとであったと思いますけれども、国歌の斉唱というふうなことをやっていたと思います。  ただ、御指摘のとおり、すべての国がそれをやっているわけではございません。大体、国によっては、卒業式、入学式というのはないところもあるわけであります。ですから、サミット七カ国の国旗国歌取り扱いについては、政府が行った調査によりますと、入学式や卒業式自体を持たないなど、その取り扱いはさまざまでございます。いずれにしても、各国においては、独自の歴史状況等を踏まえて、国旗が校舎に常時掲げられたり、授業の中で国旗国歌指導を行うなど、それぞれ独自の取り扱いがなされていると了承しております。
  115. 石井郁子

    石井(郁)委員 よくアメリカの例が出されますけれども、アメリカは各州ごとにいろいろ規定がございましたりして、その一部だけではとても語れません。実際にしていないところもたくさんあるわけですね。だから、アメリカの例は本当にばらばらですよ。それでもってアメリカはしているなどということにならないというふうに私は思います。  この間、いろいろな方々が新聞にも外国の例を出されているでしょう。これは毎日新聞からとってきたんですけれども、本当にこういう学校で行事としてやっているということは見たことがないということが大体の意見ですね。私は、そこに本当に日本的な問題があるかなと思うんですが、やはり国旗国歌の問題というのは本当に公式行事に限るべきであって、学校の入学式、卒業式、こういうところで強制的に行うべきものではないということを強く申し上げておきたいというふうに思います。  次に、では学校はどうなっているのか、あるいは教職員はどういう状態に置かれているのかという問題でございますけれども、先ほど来出ておりますように、一九八九年の学習指導要領で「指導するものとする。」ということにされましてから、学校は大変重苦しいものになりました。そこで、教師は、教師になると内心の自由が認められないという異常な状態がつくられているわけであります。  この点につきましては、さきの広島での公聴会で、全日本教職員組合の広島支部の委員長高橋さんがこのような陳述をされました。  教師指導を強制することは、必然的に子供への強制につながらざるを得ません、それは教育の営みとして避けられない現実なのです。また、教師がみずからの思想、良心を偽って子供の前に立つことほど惨めなものはありません、みずからの教育的良心を偽ることを強要されることは教師たる資格を剥奪されるに等しいことですというふうに言われました。  私は本当に胸が熱くなる思いなんですけれども、それでは一体、教師の内心の自由というのは認められるのでしょうか、お答えください。
  116. 有馬朗人

    有馬国務大臣 繰り返しになるかもしれませんが、学校は児童生徒の発達段階に即して教育を施すことを目的とするものでございまして、校長や教員は、関係の法令や上司の職務上の命令に従って教育指導を行わなければならないという職務上の責務を負うものでございます。  学習指導要領におきましては、各学校教育課程の基準として、法規としての性質を有するものでございまして、各学校においては、学習指導要領を基準として校長が教育課程を編成し、これに基づいて教員は学習指導を実施するという職務上の責務を負うものでございます。  一般に、思想、良心の自由は、それが内心にとどまる限りにおいては絶対的に保障されなければならないということは繰り返し申し上げているとおりでございますが、それが外部的行為となってあらわれる場合には、一定の合理的範囲内の制約を受け得るものと解されております。校長が学習指導要領に基づき法令の定めるところに従い所属教職員に対して本来行うべき職務を命じることは、当該教職員の思想、良心の自由を侵すことにはならないと考えられます。
  117. 石井郁子

    石井(郁)委員 教師が職務上のいろいろな仕事を遂行しなければいけないというのはそうなんですが、しかし、私は、ずっと伺っていますのは、憲法上の基本的人権、思想、良心の自由は教師も当然認められるべきことでございますね。しかし、今問題になっているのは、指導要領によって、また今度の法制化もそういうことにつながるのではないかと言われているわけですが、現場先生方は、やはり、教師としての、あるいは人間としてのと言ってもいいと思うんですけれども、良心という問題が、本当に奪われているという実感を持っていらっしゃるわけですね。口に出して議論もできないとか、そして態度も表明できないだとか、いろいろあるわけです。  これは、ある先生が投書の中で書いておられましたけれども、納得のいかないことに意見一つ言えない、そういう現実は認められるだろうか、子供には一方で伸び伸びとか個性豊かにとか自分の意見を持ちなさいと言うけれども、教師は全く自分の意見が言えないんだということを言われていました。これはそういう投書として御紹介するんです。  そこで、教師の責務ということを言われましたので、私は、その点でぜひはっきりさせておきたいことがございます。それは、これもまた教育基本法十条の理解にかかわるわけですね。「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」教育基本法ですから、この精神日本教育も戦後やってまいりましたし、これからも進めていかなければなりません。では、この「不当な支配」というのはどういう支配のことを言っているんでしょうか、お聞かせください。
  118. 小野元之

    小野(元)政府委員 この学習指導要領は、先ほど来御答弁申し上げていますように、学校教育法、さらにはその委任を受けた施行規則等の委任を受けて、法規としての性格を持っているものでございます。したがって、学習指導要領に従って教職員がそれについて児童生徒に対して指導するということは、もちろん職務上の責務としても行わなければならないわけでございまして、こういったことが教育基本法第十条に違反するものではないというふうに考えております。
  119. 石井郁子

    石井(郁)委員 学習指導要領のことを、本当にそれだけをあなた方は根拠にして言われるわけですね、学校現場をそのように指導する、やってもらいたいと。私は、もう時間がありませんのであとは午後に回しますけれども、学習指導要領で一九七七年で初めて君が代国歌としたわけですね。それで八九年で「指導するものとする。」というふうにしました。  この七七年に国歌ということが入った経緯というのは、極めて不可解なものなんです。教育課程審議会で一度も議論されなかった。突如としてこれが入ってきた。文部省が入れたんじゃないかと言われているわけですね。だから、本当に国民的な議論とか合意もなくやってきた経緯がいろいろある。そういうものを盾にして、これがあるから従えということにならないでしょう。  それで、私は、先ほど質問したのは、不当な支配に屈してはだめだ、ここには実は深い意味があるんですよ。まさに戦前教育行政の反省に立った問題があるんですね。やはり権力が介入しちゃいけないということなんじゃないですか。行政が介入してはいけないということがこの意味じゃないんですか。午後にはそこから質問させていただきますので、以上で終わらせていただきます。
  120. 小川元

    ○小川委員長 石井委員、お答えは午後でよろしいですね。
  121. 石井郁子

    石井(郁)委員 午後にします。
  122. 小川元

    ○小川委員長 はい、わかりました。  午後一時から連合審査会を再開することとし、この際、休憩いたします。     午前十一時五十分休憩      ————◇—————     午後一時七分開議
  123. 小川元

    ○小川委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  質疑を続行いたします。石井郁子君。
  124. 石井郁子

    石井(郁)委員 では、引き続きまして、残りの部分で質問をさせていただきます。  ちょうど切れたところは、教師の責務をどう考えるかという問題だったかと思いますし、私は、国民全体に対して直接に責任を負って行われるという教育基本法の十条がその責務を示しているというふうに考えるものですけれども、文部省指導要領に従って指導を行うんだということを先ほど来強調されますので、私はあえて、この教育基本法の十条の、不当な支配に服してはいけない、ここが今大変大事になっているという問題でちょっと申し上げておきたいことがございます。  それは、教育基本法が立法、作成された当時の田中耕太郎文部大臣、後にこのように書いていらっしゃるわけです。  田中文部大臣は、教育権の独立という原則を出されたわけですけれども、それが不当な政治的及び行政的干渉の圏外に置かれるべきことを意味すると。従来の、というのは戦前ですけれども、我が国教育政治的にあるいは行政的に不当な干渉のもとに呻吟した、教育者はその結果卑屈になり、教育全体が萎縮し歪曲せられ、その結果、軍国主義及び極端な国家主義の跳梁を招来するに至ったというふうにありますように、やはり政治的、行政的に不当な干渉をしてはいけないのだということが、私は、この十条でしっかり押さえられなければいけないというふうに思うわけであります。  その上で、そういう立場で考えますと、この国旗国歌問題で言えば、私は、文部省教育委員会の学校現場への介入というものは非常に重大な問題となっているというふうに考えるものであります。  それで、私は一例を申し上げたいというふうに思います。  時間が短いためにパネルにしてきたのですけれども、こういう調査票というのがあるんです。  これは、大阪府の枚方市の教育委員会がつくったものですけれども、各学校に対して、一月十九日以降二月十九日までの間、国旗国歌に関する反対行動はどのように行われたか、いつ、どこで、どのように行われたか、発言者、発言内容をできるだけ詳細かつ具体的に書いてください、それでこういうふうに書くようになっているわけです。これを提出するわけです。  どうですか、こういうことがやはり行われているという実態、これはまさに教師への内心の自由を侵害した思想調査ではないかというふうに私は思うのです。こういうことが行われているという問題について、どうお考えになりますか。こういう調査を私はやめるべきだと思いますけれども、大臣、いかがお考えでしょうか。
  125. 矢野重典

    ○矢野(重)政府委員 お尋ね調査につきましては、私ども承知しておりませんので、具体的なコメントはできませんけれども、基本的な教員のあり方として申し上げたいわけでございますが、学校におきましては、教員は、関係の法令や上司の職務上の命令に従って教育指導を行わなければならないという職務上の責任を負っているものでございます。各学校におきましては、学習指導要領を基準として校長が教育課程を編成し、これに基づいて教員は教育指導を実施するという職務上の責任を負うものでございますので、そういった観点に立って、教育委員会が必要な指導を行うことはあり得るものでございます。
  126. 石井郁子

    石井(郁)委員 いや、はっきりしてくださいよ。こういうことがいいんですかと聞いているのですよ、建前の話じゃなくて。こういうことがある、やっているのですよ、これは実物ですから。これをお認めになるのですか、文部省は。
  127. 矢野重典

    ○矢野(重)政府委員 申しわけございませんが、私ども具体に、今先生の御指摘の調査につきましては全く承知していないものでございますから、それにつきましては御容赦いただきたいと思います。
  128. 石井郁子

    石井(郁)委員 きちんと調査してください。私はもう名前も挙げましたので、お願いします。  ここでは、この教育長は校長会で言っているのです。国旗国歌を一体のものとして今年度の卒業式から実施するようにと指示をしています。これは、校長の生命線にかかわる、校長のあかしとして国歌斉唱を行え、こういうことを言っているのですよ。こういうことは決して一つではありません。あちこちで行われていると見なければいけません。  それで、こういう調査を行うような根拠となっているのが、私は文部省がつくっていると思うのですよ。文部省は、この資料にもございますように、八九年、指導要領から調査をしていますよね。国旗国歌の斉唱がどうなっているか、実施率がどうかという、この実施率調査ですよ。この調査が、やはり各県に督励をし、そして学校へ指示を出すということになるのですね。  この調査というのは本当にひどいものだと私は思いますけれども、この実施率を上げるためには職務命令も出すという形でやっている。これはまさに日の丸君が代の押しつけそのものじゃありませんか。文部省調査はやはりこういうことをつくり出していると言わなければなりません。こういう文部省調査もこの際やめるべきだというふうに私は思いますけれども、そういうお考えはございませんか。
  129. 御手洗康

    御手洗政府委員 御指摘がございましたように、文部省としては、学習指導要領に定められている入学式におきます国旗国歌の実施状況が各学校においてどのように行われているかということにつきまして、各都道府県並びに指定都市教育委員会を通じまして全国の状況を把握しているということは御指摘のとおりでございます。  各学校におきましては、何よりも学習指導要領自体に基づきまして、この調査のあるなしにかかわらず、教育委員会並びに学校においては、入学式、卒業式が適切に行われ、また、国旗国歌の掲揚、斉唱がきちんとした形で行われるということは学習指導要領自体が求めているところでございますので、私どもは、その結果がどうなるかということを客観的に調査し、また、ひいてはそのことによって、なぜ各学校において、入学式、卒業式における国旗国歌指導が適切に行われていないか、そういった点についての客観的な事情も十分把握し、それをもとに各都道府県、指定都市教育委員会に対しまして指導をする、そういった指導等もするために調査をしているわけでございます。  何分にも、このような調査自体をしなければならないという現場状況をどう変えていくか、そういう問題自身もあるわけでございまして、こういう調査を行わなくても一〇〇%ということであれば行う必要もなかろうかと思いますけれども、いまだに一部の地域、学校において、国旗国歌指導が、とりわけ入学式、卒業式をめぐって困難な地域、学校が一部にあるということも事実でございますので、今後とも適宜適切な調査をさせていただきたいと思っております。
  130. 石井郁子

    石井(郁)委員 私は、やはりそういう御答弁を聞きますと、本当に文部省というのは画一化が好きなんだなと思いますよ。統制が好きですね、あなた方と思いますね。  こういうやり方というのは、本当は戦前に否定されたものじゃないのですか。その文部省調査では、君が代は斉唱したかどうか、斉唱しなかったか、メロディーだけ流したか、斉唱もせずメロディーも流さなかったか、やはり細かくあるわけでしょう。文部省がこういうことをやるために、教育委員会が競って、そして校長にさらに押しつけをしていく、学校を暗くしていく、こういうことになっているわけでしょう。この文部省の姿勢をやはり変えてもらわなくちゃだめなんですよ。そこは私、まず厳しく指摘をしたいというふうに思います。  きょうは、この押しつけ問題でいいますと、もう一点取り上げたいことがございます。それは、ことしの広島のまさにあの事件につながるものだからであります。  この広島での強制という中身で、自民党の実は統制というか、押しつけというか、これも異常にあったのですね。一部は新聞にももう報道されていますから御存じだと思いますけれども、私たちというか、議員の皆さん方は、卒業式、入学式に来賓としていらっしゃることが多いわけですね。  これは広島の県議の方が卒業式に出席したときに、その卒業式はどうだったか、報告をする用紙があるわけですね。それは、式次第の中に国歌斉唱が盛り込まれていたかとか、掲揚はあったかとか、その掲揚もどういうものだったかとか、君が代は斉唱されたかとか、これも文部省と同じですよ。斉唱か、メロディーのみか、なかったかとか、それからさらに、起立した、しないというのもあるし、その中には、起立した、しない者がいた、全く起立させなかった。だから、本当に、これでいうと思想調査そのものになるような中身でしょう。  それから、校長の式辞についてもあるのですね。「校長が式辞の中で、過去の戦争責任や戦争における日の丸の役割についての話しはなかったか」、この校長先生の話の中身に立ち入っての検閲あるいは調査じゃありませんか。  こういうことを、自民党の県議の皆さんが公立高校四十校を回って集約をしている、学校名を書いて調査を行っている。やはりこういう圧力のもとに学校が異常なことになっていくわけですよ。やはりこれも思想調査でしょう。  先ほど私は申し上げましたよ。学校への不当な支配、これに服してはならないというのが学校でしょう。それが教育じゃありませんか。全く二重、三重に不当な支配をこの日の丸君が代問題でしているんじゃないですか。文部大臣、どうお考えですか。
  131. 御手洗康

    御手洗政府委員 広島県議会の議員団の方々がどういう行動をされたかということにつきましては、私ども承知し得る立場にないわけでございます。  不当な支配というのは、何ら権限のない外部の方々が一定の強制力、圧力をもって学校教育や行政に介入するということであろうかと思いますけれども、一般に、地域の住民の方々あるいは県議会も含めまして、地域における学校あるいは県内における学校においてどのような教育が行われているかということについて、関心を持ち、それに対しさまざまな形で意見を表明するということは当然あろうかと思うわけでございます。  広島県におきましても、昭和六十年以来のさまざまな経緯を踏まえて、とりわけ昨年以降、県内におきますさまざまな学校におきます教育指導上の問題、あるいは教職員の管理の問題というようなものが取り上げられまして、国旗国歌の卒業式、入学式におきます扱いも含めまして、県議会でもさまざまな御議論が交わされ、教育委員会としてもそれに誠実に対応してきたという経緯があるわけでございますので、具体的な事情について承知いたしておりませんけれども、それぞれの立場で学校教育に対しましてさまざまな御意見を表明されるということはあろうかと思いますし、また、そのために、それぞれのお立場で、強制にわたることのないよう実態を調査するということも当然あろうかと存じております。
  132. 石井郁子

    石井(郁)委員 文部省、本当にそういう姿勢だったら、私はやはり日本教育というのは守られないなというふうに非常に思います。  きょうは、卒業式、入学式の問題でやってまいりましたけれども、やはり、入学式は最初の授業、卒業式は最後の授業、学校では子供たちの成長を祝うということでいろいろな取り組みをしているわけでしょう。ところが、最近は、儀式にふさわしくないという形でもって、やはり子供たちよりもこの日の丸君が代が真ん中に来るという形で、随分変わってきているのですね。それはもう随分学校から聞くわけであります。  私、官房長官がいらっしゃるということにもつながるわけではありませんけれども、京都の小学校の話を聞きました。これは、卒業式として式にふさわしくないということで、五つの項目でいろいろ教育委員会が指導をしているということで、まず、学校の卒業式というのは対面で式をするということがございますけれども、それは日の丸に背を向けるからやめるべきだということが一つ。それから、よく、子供たちが卒業生代表としていろいろ決意を述べたりすることがありますが、子供は何を言い出すかわからないので、卒業生が自分の将来の決意を述べるのもだめだ。それから三つ目は、卒業式ではなくて卒業証書授与式なのだから、名前にさんや君をつけちゃだめだ。それから四つ目には、元号を使用するという、西暦の使用はだめ。それから五つ目は、君が代は歌詞の意味や歴史的意義には触れないで大きな声で歌うこと。こういうことを、五点セットと言っているそうですけれども、教育委員会がこういう指導をするということまであるわけです。  私は、こういうものを見ますと、まさに学校の式を儀式とするという発想、これはもう戦前ですよね。戦前と同じですよ。ないのは御真影と教育勅語ですよ、本当に。明治、小学校はそこから始まったんですから、君が代もそうして学校で押しつけられてきたわけですから、これは歴史の事実でしょう。  私は、こういう画一性、学校の自主性も奪うような、教育活動の創造性も奪うような、こういうことをやるということがやはり問題だと思うんです。この点も、文部省は、京都の教育委員会のこういう五点セットというのを御存じですか。
  133. 御手洗康

    御手洗政府委員 入学式、卒業式におきます指導につきましては、文部省といたしましては、入学式、卒業式が学校生活に有意義な変化や折り目をつけ、厳粛かつ清新な雰囲気の中で、新しい生活の展開への動機づけにかなうという観点から、そういった意義を踏まえて指導を行うようにしているところでございまして、そういった意義を失わないという方法である限り、具体的な式のあり方というものについては、設置者である教育委員会あるいは学校にゆだねられているものでございまして、具体的にそのような教育委員会の指導内容について、一つ一つ承知いたしておりません。
  134. 石井郁子

    石井(郁)委員 文部省の方針のもとで、現場は、実態はこういうことになっているんだ、それをあなた方はもっと直視すべきですよ。そして、それを認めるのですか、認められないでしょう、こういうことが広がっていくというようなことは。教育の条理にも反するでしょう。  私は、やはり、午前中の議論にもいたしましたけれども、式に日の丸とか君が代、やはり敬意を表するかどうかという行為を伴うわけですから、内心の自由にかかわってくるのですよね。立ちたいという人もそれはいるでしょう。立ちたくないという人もいる。それがこの問題なんですよ。  だったら、この問題の解決というのは、強制ではなくて、これはもうやめる以外にないのですね。あるいは、本当に学校の、地域の自主的な判断に任せていく、これ以外にないわけですよ。子供も教師も、そして父母も含めて、やはり内心の自由を侵してはならない、こういう立場に文部省はきちっと立つべきだ、このことをはっきり答弁できますか。
  135. 御手洗康

    御手洗政府委員 あくまでも教育指導上の課題として指導するということでございまして、それが内心の自由に立ち入るというような教育のあり方は好ましくない、当然そのように思っております。
  136. 石井郁子

    石井(郁)委員 あと、きょうは官房長官にもおいでいただいているわけですが、最後に一問伺いたいと思います。  先ほど、私は、自民党の広島県議団の、これはもう事実ですから出しました。それで、これはぜひ、官房長官としてこういう動きをどのようにお考えになっていらっしゃるのか、これは本当にやめるべきだというふうに思いますが、そのことが一点。  それから、官房長官は、指導要領の法的根拠だけでは弱い、だからこういういろいろな教育現場の混乱が起こる、法制化したらその混乱はなくなるというようなお考えをお述べになっていらっしゃるわけですけれども、私は、どう考えても、この問題にはやはり内心の自由がかかわっているし、法的根拠があるなしで反対、賛成の問題が出ているんじゃないんですね。やはり内心の自由にかかわるからこういうことは強制できないという問題で私たちは言ってきているわけです。  それと、日の丸君が代というのは、もう何度も出ていますように、とりわけ教育の関係者にとっては、やはり戦前の、この戦争と結びつくわけですよ、学校が侵略戦争への天皇賛美の舞台になったわけですから。教育者としては、やはりそれはどうしても曲げることのできない一線だと思うのですね。  こういうことがある限り、絶対、現場では、教師たちはさらに法律と教育者の良心とのはざまで一層の苦悩が始まるんじゃないでしょうか。もし苦悩がないとしたら、それはもう問答無用に従えということしかないわけです。そういうことを押しつけるつもりですか。最後にお聞かせください。
  137. 野中広務

    野中国務大臣 広島県の実情について御指摘がございました。御承知のように、去る二月、広島県の世羅高校の石川校長がこの問題をめぐりましてみずからの命を絶たれたというまことに痛ましい事件が起こったわけでございまして、全国すべてがこのような状況であるわけではございませんけれども、広島県は少なくとも異質であります。  それは、国旗国歌のありようについて教育現場でそれぞれの問題があったということは、全国的に多くの問題が委員御指摘のとおりありました。現在もなお、その問題で悩んでおるところもありますけれども、総体的に落ちついてきたわけでございます。  広島県は、教員組合とそして校長との交渉の中に、全国的ではありませんけれども、広島の解放同盟はその交渉の中に入るわけであります。そして、国旗国歌がやられることそのものが人権差別に通ずるということを言われるわけでございます。  これをやれば差別だと言われたら、管理者である校長は職務命令との間のはざまに入って苦しまざるを得ないのでありまして、人間が、おまえがこれをやれば差別だと言われたら答えようのないそういう事実を、私は、広島の非常に異常な問題として考えていただき、広島の県議会が、また、そのことについて、県下の教育委員現場のありようについて関心を持つのも、当然のことであろうと思うわけでございます。  そういった幾つかの交渉の中で挙げられますことは、指導要領というのはあるけれども、国旗国歌についてはどこに法的根拠があるんだ、こういうことが尋ねられるわけであります。そのとき、その法的根拠について、それぞれ答えられないで、また、はざまに落ちて苦しむのが学校管理者の現状であることは、私も京都においてよく承知をしてまいりました。  それだけに、第二、第三の石川校長を出さないためにも、また、この国旗国歌について法制化をするという根拠を持たせてあげることが、これからの現場のありようとして求めるべき道であろうと考えたわけでございます。
  138. 石井郁子

    石井(郁)委員 私は、もう質問時間が参りましたけれども、しかし、広島の例だけをもって今回の法制化根拠とするというのだったら、余りにもちょっと特殊過ぎます。これは全然、今回の法制化を提出した根拠にはならない、理由にはならないということをちょっと申し上げて、もう時間が参りましたので終わりたいと思います。  ありがとうございました。
  139. 小川元

    ○小川委員長 次に、濱田健一君。
  140. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 社会民主党・市民連合の濱田健一でございます。  けさから、学校現場の諸問題、内心の自由、思想信条の問題、いろいろな角度で論議が高まってきているところでございますけれども、まず私は、初めに、教科書の記述の部分から官房長官文部大臣お尋ねをしてみたいと思います。  この論議をしている最中に、幾つか、今の小学校中学校で使われている教科書、そして来年から使われる教科書、この日の丸君が代の記述されている部分を読んでみました。その記述の中に、例えば、国旗国歌には、「その国の建国の理想や文化、民族のほこりがこめられている」という記述や、「その国を築いてきた人々の理想や文化、民族のほこりなどがこめられている」という部分があるわけでございますけれども、それでは、日本国旗国歌と言われる日の丸君が代に込められた建国の理想や文化及び民族の誇りというものは、官房長官文部大臣、どのようなものとして認識をしておられるのか、お聞かせいただきたいと思います。
  141. 有馬朗人

    有馬国務大臣 我が国教科書につきましては、検定制度がとられておりまして、民間の執筆者が著作、編集したものでございます。  御指摘の教科書記述につきましては、幾つかの国の国旗を取り上げた上、各国の国旗国歌には、先ほど先生御指摘のように「建国の理想や文化、民族の誇りが込められています。」などと述べられておりますが、この記述は国旗国歌一般について述べられたものでございまして、具体的に日の丸君が代に何が込められているかについて述べたものではございません。  なお、我が国日の丸は江戸時代に朱印船などにも日本国を指す旗として既に用いられていたこと、君が代は古今和歌集などの古歌に由来することなどを教えることを通じまして、我が国歴史や伝統と深く結びついていることを教えることになるとも考えているところでございます。
  142. 野中広務

    野中国務大臣 今文部大臣からお話がございましたように、我が国教科書は、教科書検定制度のもとで民間の執筆者が著作し、かつ編集をしたものでございます。また、その教科書の記述につきましても文部大臣からお述べになったとおりでございますし、また、日の丸は既に江戸時代の朱印船などに我が国の旗として用いられてまいりました点も、また、君が代の由来する古今和歌集などの古歌にその歴史をたどることができることも、文部大臣からお述べになったとおりでございます。
  143. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 文部大臣官房長官の御認識を伺いますと、教科書に載っている、執筆者の考え方で書かれている、各国という一般的な論議の中でこのように書かれているんだけれども、日の丸君が代に対しては、歴史で使われてきた、使用されてきた歴史というのはあるけれども、この幾つかの教科書で言っている建国の理想なり文化、民族の誇りという部分については、現実的には、歴史としては位置づけられているけれども、概して、この教科書の執筆者が言っているような中身というのは盛り込まれていないというふうに考えてよろしいんでしょうか。
  144. 御手洗康

    御手洗政府委員 当該教科書につきましては、先ほど文部大臣からお答えを申し上げましたように、およそ世界におきます国旗国歌の一般的、通常的なありようについて述べたわけでございまして、各学校におきましては、この記述をよりどころといたしまして、具体的な教材で、我が国のみならず、各国の国旗国歌の由来等についても指導するという場面があろうかと思います。  ちなみに、当該御指摘の教科書におきます教師用の指導書等におきましても、ただいま文部大臣から申し上げましたように、日の丸歴史君が代歴史我が国国旗国歌につきましては触れて教えるといったような学習の指導の方法が記述されているところでございます。
  145. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 では、新しい時代、二十一世紀をいよいよ迎えようとしているわけでございますけれども、新しい時代を迎えるに当たって、日本という国がこういう国として発展をするために日の丸国旗であり君が代国歌であるということを子供たちに教えるときに、歴史としてこういう使われ方をしてきたんだよということだけじゃなくて、そこに込められた思いというものを仮に教えるとしたときには、文部大臣、どういうふうに教えようと思われますか。
  146. 御手洗康

    御手洗政府委員 学習指導要領の規定につきましては、先ほど来繰り返しお話し申し上げておりますように、小学校社会科あるいは中学校社会科におきまして国旗国歌の意義を教えていく、それから音楽につきましては、小学校の一年生から六年生までの段階で国歌を歌えるようにすることから国歌の意義を理解していくというところまで教えているわけでございまして、具体的には、諸外国に、我が国も含めて、それぞれ自国の国旗国歌が存在すること、そして、それぞれの国の国旗国歌については、自国の国旗国歌のみならず、相互に尊重し合うことが必要であること、さらには、そういったものを通じまして国際理解と国際協調の精神をしっかりと身につけていくというようなことが、特に社会科におきます指導の具体的な要点であろうと思っているところでございます。
  147. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 一つ一つ国旗国歌を大事にしろ、尊重しなさいということは、おっしゃるとおりだと思います。ただ、それを教えるということについては、その持っている意味というものも全部教えて、子供たちと学習する時間というのはないんですけれども、幾つかを取り上げてやる時間というのは、やはり当然学習という意味では見つけるべきだと私は思います。  そういう中で、日本日の丸が、君が代が、こういう歴史があるんだと、今までの委員会の答弁でも、暗い歴史を背負っている部分も確かにあったということもございました。そういうこともきちんと教えなければならない。そして、これから先の二十一世紀日本というのがどういう国であるべきだということも教えなければならないわけでございますが、今答弁をいただく中身というのを総体して考えると、とにかく日の丸を入学式や卒業式には上げるんですよ、歌うんですよというような、そういう位置づけになりがちであるということを、やはりいろいろな委員がおっしゃる強制、内心の自由を侵すものにつながっていく可能性というものをやはりしっかり認識をしておかなければならないと私は申し上げておきたいと思います。  それともう一つ、これも先ほど御手洗局長が答弁をされたようですが、入学式、卒業式という特別活動の中に位置づけられた儀式というものは、児童生徒にとってどういう教育的な意義があるのかということをもう一度文部大臣からお答えをいただきたいと思います。
  148. 有馬朗人

    有馬国務大臣 お答えいたしますが、その前に、やはり先生の御指摘のとおり、日の丸であるとか君が代というものが持っている意味、これはいろいろな歴史的な背景を教えながら、やはり日本の国の理想というものを今後教えていかなければならないと思っています。非常に平和な国である、平和を志向している国である、人種差別のない国である、こういうふうなことをやはり将来目的としている国だということを子供たちに教えていく必要があると思っております。  さて、入学式、卒業式ということの意味でございますが、学校において行われるさまざまな行事の中でも、入学式や卒業式は学校生活に有意義な変化や折り目をつけるというところだと思うのです。そこでは、厳粛かつ清新な雰囲気の中で、そして愉快な、気持ちのよい雰囲気の中で、新しい生活の展開への動機づけを行っていく、そして学校社会国家などに対する集団への所属感を深める上でよい機会となるものと考えております。このような意義を踏まえまして、入学式や卒業式などにおいて国旗を掲揚するとともに国歌を斉唱するよう指導することにいたしている次第でございます。  入学式、卒業式は、新しい生活の展開への動機づけを行う機会でございますので、繰り返しになりますが、厳粛かつ清新な雰囲気をつくり出すよう工夫することが極めて大切であると考えております。  その具体的な実施方法につきましては、各学校や、特に校長や設置者である教育委員会の判断にゆだねられている次第でございます。
  149. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 私の今の質問に答えていただく前の質問に対する大臣の見解を述べていただきましたけれども、それについてもう一つ。  そういう国のシンボルというものの持っている歴史、それを尊重する、尊敬するということの前に歴史があるとおっしゃいました。その歴史を小学校一年生なら一年生なりに、中学生であれば中学生なりに、学校先生教育的な指導教育的な観点できちんと歴史に基づいて教えていくということについては、教育課程や学習指導要領の中では制限が設けられてはおりませんよね。
  150. 御手洗康

    御手洗政府委員 学習指導につきましては、我が国歴史につきましては、六年生から学ぶということになっております。したがいまして、その学ぶ事項、あるいはその趣旨、目標、あるいは内容、内容の取り扱い、それについてはそれぞれ規定されているところでございます。  なお、国旗国歌につきましては、先ほど申し上げましたように、その歴史を扱っていく際にも、日の丸君が代我が国国旗国歌であること、それが今日まで長年の慣行によって定着してきたこと、あるいは、それとあわせまして、それぞれの我が国国旗を尊重する態度を養うこと、こういったことにつきまして指導するという方向で学習指導要領を規定しているわけでございますので、そういった全体としての学習指導要領の規定の趣旨にのっとって、それにふさわしい教材を選択しその方向に児童生徒を導いていくというような指導が行われることを期待しているところでございます。
  151. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 局長の今の答弁は、教育という活動の柔軟性といいますか、子供と活動していく状況の中ではいろいろな広がりが出てくる、いろいろな授業の展開ができてくるということを全然おいておいて、書かれていた文章の中身、それだけが授業のあり方だというようなニュアンスでのお答えに私は聞こえてまいりました。そのことは教育活動の原点、本質的なものとは違うということを私は申し上げておきたいというふうに思います。  先ほど大臣から答弁いただいた教育的な意義、そしてそのことについて、文章として読まれれば、文部省的な文章としてはそうなんだろうと思うのですけれども、やはり先ほど共産党の委員からも話がありましたとおりに、現場にいた者とすると、私は小学校しかいませんでしたけれども、やはり学校に入ってきた喜び、友達と一緒にこれから勉強するんだ、運動に頑張っていくんだというような学校での活動にどう動機づけをしていくのか、インセンティブを与えるのかということが入学式の大きなねらいでありましょうし、卒業式というのは、小学校であろうと中学校であろうと、修学の間を振り返っていろいろな思い出もよみがえってくるし、これからのステップをどう踏むのか、そういう新しいステップへの飛躍の思いを内面から盛り上げていく活動だというふうに私は思っております。  ややもすると形式的に、かた苦しく、教育長さんや校長さんが書かれたものをずらずらと読んで告辞とする、こういうことが子供たちにとっては本当の意味での入学式、卒業式という思いから、また現場にいる教師から見ると、遠いところでそのことが、子供たちがいないというか、そこに児童生徒は存在するんだけれども、それが何かポーンと遊離した形で、儀式としての中身が行われている、そういうことを感じざるを得ない。  もちろん、私がおつき合いしたというか、御指導いただいた教育長さんの中にも、椋鳩十先生の鹿児島の図書館長時代奉仕課長をされた教育長さんがおられましたけれども、文学者ですが、この方は、自分の言葉で子供たちに語りかける入学式、卒業式の状況を見まして、私は、非常に教師そのものも感動したし、子供たちもわかりやすく、本当に励ましの言葉をいただいたという思い、そういう感想を持っているわけです。  それはそれとして、卒業式、入学式の形態や形式というのは、こういう形でやれという縛っていく根拠、ないし何らかの決まりというものがあるのかどうか。それとも、学校の中で教育的な論議をしてみんなでそれをつくっていくというのが教育現場のありようなのではないか、その辺の御見解はどうですか。
  152. 御手洗康

    御手洗政府委員 入学式、卒業式におきましては、先ほど文部大臣も申し上げましたし委員からも御指摘ございましたような教育的な意義というものを踏まえまして、それにふさわしい一般的なあり方というものは、各設置者である教育委員会並びに各学校において適切に判断されていく、それが地域、社会等から十分受け入れられるような形であるということが基本であろうかと思います。学習指導要領におきましては、国旗を掲揚し、国歌を斉唱するという以外の具体的な形態については規定をしていないところでございますので、設置者と各学校判断に具体的な式典の執行はゆだねられるということでございます。
  153. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 これだけに時間をとるわけにはいきませんので、次に参りたいというふうに思います。  午前中、民主党山元委員からもございましたけれども、日の丸君が代法制化に対して、マスコミの調査、この話題が、法制化の問題が出てまいりまして、いろいろな数字が出てまいりました。日の丸国旗としてふさわしいと思うか、君が代国歌としてふさわしいと思うか、ふさわしいと思っても、それを法制化することに賛成か反対かというような、いろいろなアンケート調査が出てきておりました。法制化に関しての国民世論というのは、まだまだ二分されている形での数字が出てきているようでございます。  そういう意味で、日の丸君が代定着しているということを政府は一貫して言っておられますけれども、そのことの根拠といいますか、世論調査はいつ行われたのでしょうか。
  154. 野中広務

    野中国務大臣 政府といたしましては、昭和四十九年十二月に実施をいたしました総理府広報室の年号制度・国旗国歌に関する世論調査によるわけでございまして、日の丸の旗は日本国旗としてふさわしいと思う者の比率は八四%、君が代日本国歌としてふさわしいと思う者の比率は七七%であり、大多数の国民日の丸国旗であり君が代国歌であると考えている結果が出ております。
  155. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 そのことに対して、法制化に関しての調査はしておられないのでしょうか。
  156. 野中広務

    野中国務大臣 法制化をするべきかどうかについての世論調査は、政府としてはいたしておりません。
  157. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 今官房長官が読み上げていただいた数字というのは、四半世紀前の数字でございます。それが、先ほど申し上げました、今回の、政府が責任を持った調査というのは四半世紀たってやっておられない。マスコミがそれぞれに調査をやっていく中で、信憑性はともかくとして、今お挙げになった数字よりも下がっている部分も幾つも出てきている。ましてや法制化については、賛成は四十数%ということで、日の丸君が代も拮抗しているという部分があるわけです。  私が申し上げたいのは、四半世紀たった時点でこういう問題を論議する場合に、もう一度政府としてきちんとした調査を、国民が納得する調査というものをやって、そして論議にきちんと付すべきであったのではないかと思うんですが、これから調査されることはございませんか。
  158. 野中広務

    野中国務大臣 今後法制化された後におきまして、国会の御審議が終わりましたら、一応、その定着度を見ながら、政府としても調査をいたしたいと考えております。
  159. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 六月十八日の毎日新聞に掲載された国会議員へのアンケートを官房長官はごらんいただいたでしょうか。
  160. 野中広務

    野中国務大臣 記事は見ております。
  161. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 その中で、日の丸君が代から連想するものという質問で全衆議院議員に質問をして、回収率が五〇・二%だったというふうに記載されております。君が代から連想するものは、平均で、第一位が天皇ないし天皇制で三一%。第二位が同率の一一%で、二つあります。日本国・国家、卒業式・式典などとなっております。政党別では、自民党の第一位が日本国・国家であり、民主、公明、自由、社民などの一位はすべて天皇制であったというふうに記載をされているわけでございます。  この中に、やはり天皇ないし天皇制のイメージというものが一番、特に君が代についてはあるというふうに書かれているわけでございます。いろいろなイメージがあるわけでございますけれども、中には、分裂国家一歩手前と思うということや、元気が出ないという自民党の議員の皆さんのイメージというものも描かれているようでございますけれども、先ほど学校子供たちの内心の自由、かれこれございましたけれども、やはりこういうイメージ、思いというものは国民のどなたもいろいろな形で持っているということを認識していいのでしょうか、それとも、ある一部といいますかの人たち思いだというふうにお考えでしょうか。
  162. 野中広務

    野中国務大臣 学校現場におきます内心の自由というものが言われましたように、人それぞれの考え方があるわけでございまして、また、この調査におきましても、それが出たことであろうと思うわけでございます。  それぞれ、人によって、式典等においてこれを、起立する自由もあれば、また起立しない自由もあろうと思うわけでございますし、また、斉唱する自由もあれば斉唱しない自由もあろうかと思うわけでございまして、この法制化はそれを画一的にしようというわけではございません。
  163. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 私は、今つくづく考えるわけですが、国がある一つのものを、特にこういう、文化や歴史の中で、国民が、一人一人といいますか、それぞれにある事象に対して思うイメージ、自分の人生の中で、または肉親の人生の中で抱くイメージというものを、それは思想や信条という部分に依拠するわけでございますが、これらを一定の方向に、これはこうだ、国旗日の丸である、国歌君が代であるというふうに一つの、ずっと出ております思想信条にかかわる部分というものをこれだというふうに表現をする、こういう言葉はまだ定着していないのかもしれませんが、表現権というものがあるのかないのか。  アメリカではこの問題がかなり重要な論争を繰り広げているともお聞きしておりまして、日本ないし日本政府の中には、国民の内面を規範する、こういうことですよというふうに形づくっていくような表現権というものがあるのかどうか、その辺の御見解をお聞きしたいと思います。     〔小川委員長退席二田委員長着席〕
  164. 野中広務

    野中国務大臣 私は、アメリカでの表現権をめぐる論争につきましては承知をいたしておりません。  ただ、今回の国旗国歌法制化につきましては、日の丸君が代が、累次申し上げておりますように、長年の慣行により、それぞれ国歌国旗といたしまして国民の間に広く定着をしておることを踏まえまして、二十一世紀を迎えることを一つ契機といたしまして、成文法によりその根拠を明確に規定することが必要であるとの認識のもとに、この法案を出させていただいた次第でございます。  したがって、政府といたしましては、法制化に伴いまして、国民に対し、国旗の掲揚、国歌斉唱等に関し、義務づけを行うことは考えてはおらないわけでございまして、現在の運用に変更が生ずることにはならないわけでございます。法制化によりまして、先ほど申し上げましたように、内心の自由との関係で問題が生ずるとは承知をいたしておりません。
  165. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 表現権の問題については、今後の課題としたいと思います。  次に、六月二十九日の本会議での総理の御答弁でございますが、「終戦後、日本国憲法が制定され、天皇の地位も戦前とは変わったことから、日本国憲法下においては、国歌君が代の「君」は、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意に基づく天皇のことを指しており、君が代とは、日本国民の総意に基づき、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国のことであり、君が代の歌詞も、そうした我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解することが適当である」というふうに述べておられますが、このことに今後とも変更はないのか。  そして、こういう、音楽とか文学の中に用いられている歌詞、これについて、政府がわざわざ見解を、これはこういうことだという見解を述べている、指し示しているものが、このほかにもあるのかないのか。  そして、今回のこの見解は、繰り返しになりますけれども、将来において変更されることはないのかどうか、この辺もちょっとお聞きしたいと思います。
  166. 野中広務

    野中国務大臣 君が代の解釈に関する政府の見解は、さきに総理が答弁をいたしたとおりでございます。  今、過去の歴史認識に対する政府考え方についてお話がございましたけれども、御承知のように、平成七年の戦後五十年の節目に当たりまして、当時の村山内閣総理大臣の談話を基本といたしまして、我が国が、過去の一時期に、植民地支配と侵略によりまして、多くの国々、とりわけアジア諸国の方々に対して多大の損害と苦痛を与えた事実を謙虚に受けとめ、これらに対する深い反省とおわびの気持ちに立って、世界の平和と繁栄に向かって力を尽くしていくというものでございまして、これまでもこのような考え方を表明してきたところであります。  そのような考え方の上で、日の丸君が代が長年の慣行により、それぞれ国旗国歌として国民の間に広く定着していることを踏まえまして、二十一世紀を迎えることを一つ契機といたしまして、成文法にその根拠を明確に規定することが必要であるとの認識のもとに法制化を図ることとしたものでございまして、小渕総理の認識と一にするものでございます。
  167. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 官房長官、将来にわたって、この見解については、答弁については変更されることがあるのかないのか、その辺はいかがですか。
  168. 野中広務

    野中国務大臣 政府といたしましては、この認識は変更されないことを期待しておるものでございます。ただ、一般論といたしまして、将来にわたって、そのときの国民国家において、どれがどのように論じられるかを私どもは予測することはできません。  ただ、長年培われてまいりました歴史、文化を踏まえた日の丸君が代法制化というものが、今後も長く我が国で続けられておることを政府としては期待をいたしております。
  169. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 官房長官としては、今回出されましたこの見解が変えられるような世の中が来ては困るというふうにお思いでしょうか。
  170. 野中広務

    野中国務大臣 私は、長くこれが定着し、かつ法制化根拠が続くことを、政府として期待をいたしております。
  171. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 時間がなくなりましたので、次に行きたいと思います。  学習指導要領との関係についてお伺いいたしたいと思うのですが、これは決まり切ったことですのでお聞きするのは恥ずかしいのですけれども、各学校教育課程を編成する基準として学習指導要領があるということは、ここに集っておられる各委員すべてが御存じだろうというふうに思います、現時点で、日本の国では。  この指導要領、これは教育課程審議会で審議をされて、研究協力者会議等々、専門家の審議を踏まえながら、要領として文部大臣が告示をされるという手続に関して、そのとおりであるかないか、お答えいただきたいと思います。
  172. 有馬朗人

    有馬国務大臣 学習指導要領の改訂につきましては、従来から文部省において、各界各層の有識者で構成されております教育課程審議会における大所高所からの専門的な審議の結果を踏まえまして行ってきたところでございます。これは、先生よく御案内のことでございます。  審議に当たっては、関係団体から意見を聴取いたしましたり、広く国民から意見を募集したりいたしまして、各方面からの意見を参考にしつつ、行ってきたところでございます。  文部省におきましては、この教育課程審議会の答申を受けまして、これからさらに多数の教育学者、教育行政関係者、教員などの協力を得まして学習指導要領を作成し、告示をしてまいっているところでございます。
  173. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 その学習指導要領ですけれども、当然、科学や文化、これらの研究の成果、子供たちのそれぞれの学習の適時性等々、教育の専門家としての見地からつくられていくということで私は認識をしておりまして、時の政府が、ある一つ思いの中で、一方的にこうだということを押しつけるものではないというふうに理解してよろしいかどうか、確認をさせていただきたいと思います。
  174. 有馬朗人

    有馬国務大臣 そのとおりでございます。  学習指導要領は、全国的に一定の教育水準を確保するとともに、教育の機会均等を実質的に保障するため、学校教育法及び同法施行規則の委任に基づき、教育課程の基準として文部大臣が告示しているものでございます。いずれの学校においても、これに基づき、教育課程を編成しなければならないものでございます。  文部大臣の諮問機関である教育課程審議会においては、学校教育関係者のほか、経済界、文化・スポーツ界、一般学識経験者などから成ります委員によって、教育課程の実施状況に関する調査結果や、経済団体、教育関係団体など各界各層から幅広い意見を聞きながら審議を行いまして、答申を取りまとめていただいているところでございます。  文部省におきましては、その答申を踏まえまして、幼稚園、小学校中学校、高等学校及び特殊教育学校、合わせて約六百四十名の教育学者や学校現場の教員などの協力者を各教科ごとに委嘱して学習指導要領の改訂を行い、告示しているところでございます。
  175. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 今回の日の丸君が代法制化に当たりまして、文部大臣は、学習指導要領に基づく、学校におけるこれまでの国歌国旗指導に関する取り扱いを変えるものではないというふうに答えておられますが、それに間違いはございませんね。
  176. 有馬朗人

    有馬国務大臣 そのとおりでございます。
  177. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 そして、その目的は、こう言っておられる部分があると思います。国民基本的なマナーとして、我が国国旗国歌はもとより、諸外国の国旗国歌に関する正しい知識と、それを尊重する態度を育てるためというふうに言っておられますが、それでよろしいでしょうか。
  178. 有馬朗人

    有馬国務大臣 そのとおりでございます。二言はございません。
  179. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 それぞれの国の国旗国歌、尊重するということに関して、私もそれは当然のことだというふうに思っております。ただ、本当にそうなっているかどうかということをちょっと教えていただきたいのです。  政治的にいって、例えば中国一つということが言われております。これは、日本国もそういうふうに考えておられますし、我が党もそういうふうに認識をしているところでございます。  ただ、日本の国に諸外国の国籍を持った方が、私の統計の数字が間違っていなければ、国公私立の学校に一万六千人ぐらいは学んでおられるということなんですね。  そういう中で、例えば今度の資料の中に、「世界の国旗」という形で「一九九九年版世界の国一覧表」というものから取り出された国旗が並べてあるわけでございますが、朝鮮民主主義人民共和国の旗には(北朝鮮)と書いて括弧がつけてあるのです。例えば韓国であれば、大韓民国というこの正式な国名を短くされた。中国であると、中国と書いてありますけれども、中華人民共和国という正式な国家の名前を短く書かれている。これはこれでいいと思うのですが、朝鮮民主主義人民共和国という正式な国名があるのにかかわらず、(北朝鮮)と括弧がつけてある。  これは質問にはないのですが、どういう意味なのか、どなたかおわかりだったら教えていただきたい。
  180. 御手洗康

    御手洗政府委員 御指摘の資料につきましては、直接、文部省所管あるいは出版物でもございませんので、お答えいたしかねますけれども、文部省におきます教科書検定の取り扱いにつきましては、国、地域というものはそれらにしっかり分け、国名につきましては、まず正式国名というものをきちっと書く。必要に応じまして略称を書くというような場合には、その略称等を、正式国名が身近なところできちっとわかるというような教育的配慮を行っているところでございます。
  181. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 これは私も細かく調べておりませんので、またそれは教えてもらう機会もあっていいと思いますし、私も調べてみたいと思うのですが、先ほど申し上げた、中国一つという状況の中で、一万六千名の子供たちが国公私立の学校で学んでいるというときに、これは非常にいろいろな問題をはらんでいるとは思うのです。  例えば、中華民国ということを主張される方々もおられます。あくまでも教育論議的な形でお話をしたいと思うのですが、略称台湾の方が日本のプロ野球の選手になったとか、いろいろなことがあると思うわけです。  例えば、これはある教科書会社、来年から使われる新しい教科書なんですけれども、これを小学四年生で、台湾からといいますか、ビザを日本が発行してやってきて、学んでいる子供たちがこの教科書を見て、政治上の問題は別ですよ、教育現場の中で、自分の国の旗がないと仮に言い出したときに、学校先生というのは、学習指導要領だとかなんとかじゃなくて、その子の内心に持っている思いというものを自由にというかしっかり酌み取ってやって、その子がそこの旗をかきたいとかいうときには、やはり学校現場というところの教育に対する自由度というものを尊重されなければならないのじゃないかというふうに私は思うのですが、文部大臣いかがでしょうか。
  182. 有馬朗人

    有馬国務大臣 先生のおっしゃるとおりだと思います。  ただ、日本としては中国と台湾の関係はこう考えているということは伝えなければいけないと思います。しかしながら、その子供が自分の母国と思っているものに対しては極めて敬意を表する必要があると思います。それはそれぞれの教育現場で十分慎重にお考えくださればよろしいことと思います。
  183. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 今大臣から答弁いただいたように、子供の内面というものについては、学校現場それぞれで、きょうも何回も教育的な見地に立った指導という言葉が出てまいりましたけれども、そういう余地をしっかり残しておかなければ、教育現場という創造的な仕事をする場面では非常に窮屈になるし、子供たちの関係もいびつになるということを申し上げておきたいと思うのでございます。  時間がなくなりました。  学習の適時性ということをよく言われます。その学年学年、年齢年齢に合った教え方をどうするのか、そのことはあるのですが、国旗国歌に関する正しい理解というのは実は相当に難しいのではないかというふうに思います。国の盛衰、国際社会の影響、その背景として政治が絡みついてまいります。教育というものの本質は本当は政治と直接かかわらない方がいいだろう、真実に基づいて、学問というかきちんとしたものを学び、正しいことを生み出していくということが必要だというふうに思うわけでございます。  本会議において、「我が国国旗日の丸だから、国歌君が代だから戦争になったわけではない」というふうに総理は答弁しておられますけれども、そのような国の象徴を政治や思想が利用することがあるということもまたこれまでの歴史の中ではっきりしているというふうに私は思うわけでございます。そのことは、決して私たちが忘れてはならない。反省すべきは反省を当然して、こういう歴史というものもあった、二度と繰り返すことのないということを後世に伝えていく必要があると思うのですが、文部大臣いかがでしょうか。
  184. 有馬朗人

    有馬国務大臣 歴史教育というのは、やはり客観性が大切だと思います。ただ、その客観性をどういうふうに評価するか、どういうふうに理解するか、そういうところにまたさまざまな考え方が出てくるかと思いますけれども、少なくとも、きちっとした客観的な評価に基づいた教科書がつくられ、その上で、それを正しく子供たちに教えていくことが必要であると思います。その際に、過去において日本がどういうことを行ったか、あるいは今どういうふうな理想を持っているか、こういうふうなことについて正しく教育をすべきだと思っております。
  185. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 あと二点ほど、時間がございませんので、早口で言います。  総理は答弁の中で、「昭和二十年八月十五日以前に生起した出来事に対する認識と評価につきましては、歴史認識歴史観の問題として整理すべきであり、日の丸君が代はこれと区別して考えていくべきである」との見解を表明しておられますが、官房長官も同様にお考えでしょうか。
  186. 野中広務

    野中国務大臣 そのとおりでございます。
  187. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 そういう状況の中で、日本歴史が古代から現代に脈々と続いてきているということ。そして、一九四五年八月十五日以前と以降で日本歴史が断絶しているわけではございません、敗戦というその区切りのときはあったと思うんですけれども。それと同様に、日の丸君が代も、歴史的存在だからこそ国旗国歌としての存立をめぐる論議が起こるわけでございますし、その意味では、歴史と切り離すことができないと私は思います。  この際、どうか、植民地支配、侵略、そういうアジアの国々に損害と苦痛を与えたことに対する政府の明確な態度をお聞きしておきたいというのが一つございますし、この間、しばしば閣僚の中からこのことを否定するような発言というものが何回も繰り返されて起きているわけでございますが、こういう方々は政府の中枢に入れることは相ならぬというふうに私は思うのですが、そのことは、官房長官、いかがでしょう。
  188. 野中広務

    野中国務大臣 先ほど委員にお答えをいたしましたけれども、小渕総理の答弁の中で、昭和二十年八月十五日以前に起こりました出来事に対する認識と評価につきましては、過去の歴史認識に対する政府考え方は、先ほど申し上げましたように、戦後五十年の節目に当たりました平成七年の八月に当時の村山内閣総理大臣談話といたしましてされましたこの談話に基づいて、政府といたしましては、これからもこの考え方に沿ってやってまいりたいと考えております。  閣僚の選任等につきましては、それぞれ過去に幾つかの問題もあったようでございますけれども、小渕総理もまたそのことを十分踏まえて今後の組閣に当たられるものと考えております。
  189. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 最後に一点だけ文部大臣にお聞きしたいと思います。  教科書検定の基準ですが、教科書を執筆する人にとって、例えば侵略を進出と書きかえよとか、従軍慰安婦という言葉などは存在したかしないかわからないから書くなというようないろいろな出来事がこの間ございました。そのことの整理として、近隣諸国条項というものの中でこの検定の基準というものをきちっと確立してきたというふうに思うんですが、これを外すことは絶対にあり得ないということの言明を大臣からいただいて、私、質問を終わりたいと思います。
  190. 有馬朗人

    有馬国務大臣 今の点につきまして、教科書検定においても従来から配慮されてきたところでございますが、昭和五十七年に、特に近隣アジア諸国との国際理解と国際協調の見地に配慮する旨の新たな検定基準を加えることによりまして、我が国と近隣アジア諸国の友好親善を一層進める上で教科書がより適切なものとなるようにしたところでございます。この基準は、今後もこの基準を踏まえて検定を行っていきたいと思っております、変えるつもりはありません。
  191. 濱田健一

    ○濱田(健)委員 ありがとうございました。
  192. 二田孝治

    二田委員長 以上で本連合審査会は終了いたしました。  これにて散会いたします。     午後二時二十三分散会      ————◇—————   〔参照〕  国旗及び国歌に関する法律案内閣委員会議録第十一号に掲載