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1998-08-04 第143回国会 衆議院 本会議 第2号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成十年八月四日(火曜日)     —————————————   平成十年八月四日     午後一時 本会議     ————————————— ○本日の会議に付した案件  内閣地方行政法務大蔵文教農林水産商工運輸逓信労働環境予算及び懲罰の各常任委員長辞任の件  内閣委員長外十三常任委員長選挙  災害対策を樹立するため委員四十人よりなる災害対策特別委員会公職選挙法改正に関する調査を行うため委員二十五人よりなる公職選挙法改正に関する調査特別委員会石炭に関する対策を樹立するため委員二十五人よりなる石炭対策特別委員会物価問題等国民消費生活に関する対策を樹立するため委員二十五人よりなる消費者問題等に関する特別委員会沖縄及び北方問題に関する対策樹立のため委員二十五人よりなる沖縄及び北方問題に関する特別委員会行政機構に関する諸問題を調査し、行政改革の総合的な対策を樹立するため委員四十人よりなる行政改革に関する特別委員会及び第百四十二回国会内閣提出日本国有鉄道清算事業団債務等処理に関する法律案国有林野事業改革のための特別措置法案国有林野事業改革のための関係法律整備に関する法律案森林法等の一部を改正する法律案地方自治法第百五十六条第六項の規定に基づき、東北森林管理局及び関東森林管理局設置に関し承認を求めるの件及び一般会計における債務承継等に伴い必要な財源確保に係る特別措置に関する法律案を審査するため委員四十人よりなる日本国有鉄道清算事業団債務処理及び国有林野事業改革等に関する特別委員会設置するの件(議長発議)  国会等移転に関する調査を行うため委員二十五人よりなる国会等移転に関する特別委員会設置するの件(議長発議)  田中眞紀子君の故議員住博司君に対する追悼演説  瓦力君の故議員奥田敬和君に対する追悼演説     午後一時四分開議
  2. 伊藤宗一郎

    議長伊藤宗一郎君) これより会議を開きます。      ————◇—————  常任委員長辞任の件
  3. 伊藤宗一郎

    議長伊藤宗一郎君) 常任委員長辞任の件につきお諮りいたします。  内閣委員長谷津義男君、地方行政委員長加藤卓二君、法務委員長笹川堯君、大蔵委員長村上誠一郎君、文教委員長高橋一郎君、農林水産委員長北村直人君、商工委員長斉藤斗志二君、運輸委員長大野功統君、逓信委員長坂上富男君、労働委員長田中慶秋君、環境委員長山元勉君、予算委員長越智通雄君及び懲罰委員長神田厚君から、それぞれ常任委員長を辞任いたしたいとの申し出があります。これを許可するに御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  4. 伊藤宗一郎

    議長伊藤宗一郎君) 御異議なしと認めます。よって、許可することに決まりました。      ————◇—————  常任委員長選挙
  5. 伊藤宗一郎

    議長伊藤宗一郎君) つきましては、内閣委員長外十二常任委員長選挙を行うのでありますが、既に厚生委員長が欠員となっておりますので、この際、内閣委員長外十三常任委員長選挙を行います。
  6. 岸田文雄

    岸田文雄君 各常任委員長選挙は、その手続を省略して、議長において指名されることを望みます。
  7. 伊藤宗一郎

    議長伊藤宗一郎君) 岸田文雄君の動議に御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  8. 伊藤宗一郎

    議長伊藤宗一郎君) 御異議なしと認めます。よって、動議のとおり決まりました。  議長は、各常任委員長を指名いたします。           内閣委員長 二田 孝治君            〔拍手〕         地方行政委員長 坂井 隆憲君            〔拍手〕           法務委員長 杉浦 正健君            〔拍手〕           大蔵委員長 村井  仁君            〔拍手〕           文教委員長 小川  元君            〔拍手〕           厚生委員長 木村 義雄君            〔拍手〕         農林水産委員長 穂積 良行君            〔拍手〕           商工委員長 古賀 正浩君            〔拍手〕           運輸委員長 石破  茂君            〔拍手〕           逓信委員長 中沢 健次君            〔拍手〕           労働委員長 岩田 順介君            〔拍手〕           環境委員長 北橋 健治君            〔拍手〕           予算委員長 中山 正暉君            〔拍手〕           懲罰委員長 山花 貞夫君            〔拍手〕      ————◇—————  特別委員会設置の件
  9. 伊藤宗一郎

    議長伊藤宗一郎君) 特別委員会設置につきお諮りいたします。  災害対策を樹立するため委員四十人よりなる災害対策特別委員会  公職選挙法改正に関する調査を行うため委員二十五人よりなる公職選挙法改正に関する調査特別委員会  石炭に関する対策を樹立するため委員二十五人よりなる石炭対策特別委員会  物価問題等国民消費生活に関する対策を樹立するため委員二十五人よりなる消費者問題等に関する特別委員会  沖縄及び北方問題に関する対策樹立のため委員二十五人よりなる沖縄及び北方問題に関する特別委員会  行政機構に関する諸問題を調査し、行政改革の総合的な対策を樹立するため委員四十人よりなる行政改革に関する特別委員会 及び  第百四十二回国会内閣提出日本国有鉄道清算事業団債務等処理に関する法律案国有林野事業改革のための特別措置法案国有林野事業改革のための関係法律整備に関する法律案森林法等の一部を改正する法律案地方自治法第百五十六条第六項の規定に基づき、東北森林管理局及び関東森林管理局設置に関し承認を求めるの件及び一般会計における債務承継等に伴い必要な財源確保に係る特別措置に関する法律案を審査するため委員四十人よりなる日本国有鉄道清算事業団債務処理及び国有林野事業改革等に関する特別委員会設置いたしたいと存じます。これに御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  10. 伊藤宗一郎

    議長伊藤宗一郎君) 御異議なしと認めます。よって、そのとおり決まりました。  次に、国会等移転に関する調査を行うため委員二十五人よりなる国会等移転に関する特別委員会設置いたしたいと存じます。これに賛成諸君起立を求めます。     〔賛成者起立
  11. 伊藤宗一郎

    議長伊藤宗一郎君) 起立多数。よって、そのとおり決まりました。  ただいま議決されました八特別委員会委員は追って指名いたします。      ————◇—————
  12. 伊藤宗一郎

    議長伊藤宗一郎君) 御報告することがあります。  議員住博司君は、去る七月十一日逝去されました。まことに哀悼痛惜至りにたえません。  住博司君に対する弔詞は、議長において去る七月十四日既に贈呈いたしております。これを朗読いたします。     〔総員起立衆議院は 議員従四位勲三等住博司君の長逝哀悼し つつしんで弔詞をささげます     —————————————  故議員住博司君に対する追悼演説
  13. 伊藤宗一郎

    議長伊藤宗一郎君) この際、弔意を表するため、田中眞紀子君から発言を求められております。これを許します。田中眞紀子君。     〔田中眞紀子登壇
  14. 田中眞紀子

    田中眞紀子君 ただいま議長より御報告がありましたとおり、本院議員住博司先生は、七月十一日、四十三歳の若さで急逝されました。まことに痛惜の念にたえません。  私は、若輩でございますが、皆様の御同意を得て、議員一同を代表して、謹んで哀悼言葉を述べさせていただきます。  住博司先生の突然の訃報がもたらされたのは、つい先日終了したばかりの第十八回参議院議員選挙投票日の前日のことでした。あの日はまことに蒸し暑い土曜日で、住先生病魔との闘いと、参議院選挙での苦しい戦いは同時進行していただけに、終生忘れ得ぬ出来事となりました。  昨年十月、住先生衆議院内でお体の不調を訴えられ、とりあえず近くの病院に入院されました。国会からの帰途、幾度かお見舞いに伺いましたが、私が部屋に入ると、「おっ、来たの」と言って身を起こされ、介護保険のこと、年金制度改正、医療改革問題など厚生行政について、ひとみを輝かせて熱弁を振るわれました。そのお姿からは、一日でも、一分でも早く現場復帰をしたいというお気持ちが伝わってきました。  お体にさわってはいけないと思い話題を変えて、過去五年間に住先生友人たちと過ごした楽しかった旅行等思い出話をすると、先生途端にほおを緩ませて、「おれたち仕事勉強もしているけど、結構よく遊んでもいるよなあ」と途端にやんちゃ坊主の顔になって破顔一笑されました。  住博司先生という、極めて頭脳明敏にしてクールでひょうきんな若い代議士の存在が私の脳裏にはっきりと刻み込まれることになったきっかけは、平成六年六月、中谷先生が主幹されていた安保防衛勉強会が、防衛庁市ケ谷駐屯地視察を計画したときのことでした。  事前の勉強会では視察希望者が十数名ほどいたのですが、当日、集合場所の第二議員会館前に行ってみると、陸上自衛隊送迎バスに乗ったのは三人だけでした。意外に思った私が、後ろの方の席でお行儀の悪い座り方をしている男性に、思わず「あら、三人きりなの、あなた、どなた」と伺うと、「おれ、住博司っていうんだ。二回生。秘書じゃねえぞ」というべらんめえ口調が返ってきました。「私は、田中眞紀子。一回生」と言うと、「そんなの知ってらあ。おい三人きりかよ。しようがねえなあ。じゃあ、ゲンちゃん出発しようぜ」、その言葉を合図に、帽子をかぶって緊張した面持ちの自衛官が、ゆるゆるとバスを発進させました。あの日が、住先生が死を迎えるまでの五年間に及ぶおつき合いの始まりでした。  市ケ谷駐屯地では、陸上自衛隊の幹部が、まるで学生気分の抜けない私たちを、威儀を正して迎えてくださり、東部方面総監室や地下ごう、東京裁判が行われた大講堂など、建物内をくまなく案内してくださり、私は居並ぶ制服組に圧倒されてぐずぐずしていたのですが、両先生はまことに落ちついて、堂々としていらっしゃいました。殊に住先生は、バスの中とは人が違ったような礼儀正しい言葉遣いで、核心を突いた質問を次々と発するので、感服してしまいました。  また、先生は、私が初当選以来手がけた二本の議員立法を成立させるために、大いに御尽力くださいました。中国残留邦人帰国促進に関する法案のときには、その力量を遺憾なく発揮してくださいました。また二本目の教員免許特例法のときには、総選挙を控えての混乱の真っ最中であったにもかかわらず、日教組の委員長に私が一人で面会に行くと言うと、女一人じゃ心細いだろうからといって、わざわざ富山県から上京して同行してくださいました。一見ぶっきらぼうのように見えても、実は繊細な心配りのできる方でもありました。  住先生と私には多くの共通点がありました。まず、お互い厚生関係仕事を目指していること。出身地富山新潟で隣接していること。ともに早稲田大学卒業生で、目白の住まいが極めて近い距離にあること。そして、お互いの父親の世代が同じために、昔の政治家のことなど実によく御存じで、話題に事欠くことはありませんでした。  先生の特徴は、マスコミ記者の経験からか、実に聞き上手で、クールな分析的思考回路が発達しているということでした。相当な鼻っ柱の強さと毒舌家でもあり、この点だけは、今の政界では多分私と彼とが横綱であろうと思っております。その一方で、保守本流政治家の家庭に育ったという自負と誇りが、無意識のうちに自己抑制力となり、危なげのない誠実な仕事ぶりにつながっていたと思います。  五月初旬、転院先の信濃町慶応病院から、先生は私に親展手紙を届けてくださいました。五月十五日付のその手紙をハンドバッグに入れて、私はすぐに病室へと飛んでいきました。先生は、「おお、もう来たの」とあきれたような顔をしながらも、主人の窮地をおもんぱかって、「おれが選挙中に応援に行けたらなあ」と何度も何度も繰り返しておっしゃってくださいました。御自分が肉体的に苦しいだけに、人の心の痛みが我がことのように感じ取れるのだと思いました。  いよいよ六月二十五日には選挙戦の火ぶたが切って落とされ、富山県境の町で集会があったときには、昨年の夏に、ラフなスタイルでみずから愛車を運転して、御母堂様と中谷先生と私を、地元の宇奈月温泉立山の室堂へ案内してくださったときのことが思い出されました。  あれからたった一年しかたっていないというのに、今は病床で深い悩みのふちに立ち尽くしておられる先生に、何の御恩返しも励ましもできないでいる自分を歯がゆく感じたものでした。病魔との闘いは、それほど急激で孤独なものとお見受けしておりました。  選挙戦スタート後一週間目の七月三日、私は猛暑の中、一時帰京して、ヒマワリの花束を抱えて、住先生病室に直行しました。先生は、「何だ、もう帰ってきちゃったの」と言って驚いた顔をなさいましたが、目はほほ笑んでおられました。「外はもう真夏だというのに、いい若いもんがいつまでも模範患者になっていてはだめじゃないの」と言うと、「おふくろみたいなことを言うなよ」と言いながらも、優しくうなずいてくださいました。  病室を辞去するとき、先生は珍しくみずから握手を求められて、「頑張って、必ず勝ってね」と言われましたが、余りに厳しい選挙戦であったために、私は、相手が病人であり、しかも、もしかするとこの言葉住先生との最後の会話になるかもしれないという予感があったにもかかわらず、「必ず勝ってくる」とは約束できずにお別れをいたしました。あのときのひとみを私は終生忘れることはないでしょう。  七月十一日午前、十八日間の選挙戦最終日先生訃報を受け取りました。せめてあすの夕刻まで待ってくださったらという思いが胸に込み上げてくると同時に、その前日のある出来事が鮮やかに思い出されました。  先生が亡くなる前日の十日午後三時近くに、街宣車は、新潟市から長岡に向けてハイスピードで北陸自動車道を移動していました。うっとうしい梅雨空を縫って明るい日差しが差し込んできたころ、街宣車の左側の合流地点から突然数人の男性が乗った富山ナンバー黒塗りの乗用車があらわれて、手を振りながら大声で「頑張れ、頑張れ」と声援を送って前方へ走り抜けていきました。私はとっさにウグイス嬢のマイクを奪い取って、「富山ナンバー自動車からの力強い御声援、ありがとうございます。頑張り抜きます」と大声で叫びました。  私は直観的に、あれは、慶応病院で「頑張って」と手を差し伸べられた住先生応援そのものに違いないと感じました。後になって、ちょうどその日に先生意識が混濁されたと御遺族から伺いました。  住博司先生は、昭和二十九年八月十九日、元法務大臣住栄作先生芳子夫人の次男として、富山県下新川郡宇奈月町にて出生。千代田区立麹町小学校、同中学校早稲田大学高等学院を経て、昭和五十二年早稲田大学政治経済学部卒業日本放送協会に入社し、東京報道局、熊本、京都放送局勤務昭和六十二年日本放送協会を退職し、宮澤喜一元首相の秘書を経て、御尊父栄作先生後継者として、平成二年二月十八日施行の第三十九回総選挙に旧富山一区より出馬し、弱冠三十五歳で初当選を果たされました。  小選挙制度での選挙においては、八四・八%という全国最高得票率当選を飾りました。この数字は、住先生が、基礎勉強のしっかりとできた政策と未来への明確な展望を持ち、その政策を簡潔にして明快な口調有権者に語ることのできる数少ない政治家であったということの証左であり、そのことが富山県民皆様の圧倒的な支持を得ていたと申せましょう。  平成二年二月の総選挙に初出馬された折の富山県の有権者に向けた選挙公報には次のように記されております。  「NHKでの放送記者十年の生活は、私に人の世の真実を見せてくれました。声なき人達の声を聞かせてくれました。真面目に働く人達は、正しく報われなければならない。恵まれない人達は、救われなければならない。その思いを実現するため、政治へ転進しました。平和で豊かなふるさと富山、そして日本政治は一部の特定の人のためにあるのではありません。みんなの夢や希望を叶えるために、そして子供達に確かな将来を約束するために、政治の営みはあるのです。住博司三十五歳。現実をしっかり見据え、変革を恐れず、若さと情熱の全てをぶつけて頑張ります。」  今の日本政治に対して求めている答えのすべてが、ここに要約されているのではないでしょうか。  党や内閣においては、厚生政務次官党遊説局長、国対副委員長などを歴任。殊に厚生政務次官としては、今、日本国民の間で最も関心の高い介護保険制度創設のために、獅子奮迅の活躍をされました。その一方で、超党派の議員活動にも励まれてきました。新しい時代に向けた厚生行政を形成するために奔走した疲労が、住先生自身の肉体をむしばんでいった原因の一つであることを思うとき、殉職という言葉先生の死には最もふさわしいと思えてなりません。  住先生には二つの口癖がありました。その一つが、「おれはいいかげんなやろうだからなあ」といかにも偽悪家ぶって言うこと。もう一つは、「政治家なんていう職業は長くやるもんじゃないよ。狭い社会でおだてられているうちに、だんだん感度が落ちてきて、周りが見えなくなってくる。自分のことを客観視できなくなってくる。危ないんだよなあ、これが」。前者は私人としてのぼやきであり、後者は公人として我々が自戒すべきことだと思い、私は先生のこの言葉を黙って聞きながら、ずっと胸に刻み込んできております。  どんな難解なことでも、彼の明晰な頭脳を通すと平明な事柄となり、説明される側がすんなりと納得するようになるのです。住先生は、理屈だけではなく、行動の人でもありました。  その具体例として、平成二年より、毎週月曜日の朝八時から富山駅頭国政報告をずっと続けてこられました。選挙がない平時にこうした行動をやり続けることが、富山県民皆様から絶大な信頼を得ていた源泉であると思います。  今春、入院先から最後の力を振り絞って、時折、本会議場に出席されておられましたが、「やせて靴が脱げそうなんだ」と弱々しくおっしゃった日から、平成十年七月十一日という最期の日に向けてのカウントダウンが始まったようでした。あの日が、三百九十七番の議席住先生のお姿を拝見した最後の日となりました。この本会議場で振り向きさえすれば、いつもあなたの笑顔があったのに、今はそれすらもかないません。  お母さまの話によりますと、七月十日午前五時ごろ、容体が急変し、意識が混濁する中で、突然ベッドの上で両手をパンパンと打ったので、「博司ちゃん、何をやっているの、それかしわ手」と尋ねたところ、「拍手、これでおしまい」と漏らし、それが最後言葉となったとのことでした。その拍手は、夢うつつの中で見ていたこの本会議場での演説に対するものなのか、あるいは自分自身に対するねぎらいの拍手であったのか、知る由もありません。  利発で純粋で優しくて、常に冷静であった住博司先生。あなたの存在は、大きな愛情をもって人々の心を温め、和ませ、そして安らぎを与えてくださいました。  立山旅行のときに、あなたは、魚津市にある御尊父栄作先生のお墓へと案内してくださいました。先生のごく自然な親孝行の姿に接して、あの旅はより一層印象深いものとなりました。  人々に愛を与え続けた人生。しかし、先生人々に与えた数十倍もの愛情と敬愛の念が、富山県民皆様はもとより、多くの友人たちからも先生の上に降り注がれていたことを決して忘れないでください。私たちは、この涙と惜別の情を糧として力強く前進いたします。  平成二年の先生選挙公報メッセージを実現するために、本院議員皆様方と手を相携えて、最善の努力をすることをお約束申し上げます。  あと十五日たつと、あなたの四十四回目の誕生日がめぐってまいります。在職八年六カ月。先生政治への夢と日本国民に対するメッセージは、私たちがしっかりと引き継いでまいります。  住博司先生、たくさんの思い出をありがとうございました。どうか、お父様のそばで安らかにお眠りください。御冥福を心からお祈りして、お別れ言葉とさせていただきます。(拍手)      ————◇—————
  15. 伊藤宗一郎

    議長伊藤宗一郎君) 御報告することがあります。  議員奥田敬和君は、去る七月十六日逝去されました。まことに哀悼痛惜至りにたえません。  奥田敬和君に対する弔詞は、議長において去る七月十九日既に贈呈いたしております。これを朗読いたします。     〔総員起立衆議院は 多年憲政のために尽力し 特に院議をもってその功労を表彰され さきに外務委員長予算委員長議院運営委員長等要職につき またしばしば国務大臣の重任にあたられた議員正三位勲一等奥田敬和君の長逝哀悼し つつしんで弔詞をささげます     —————————————  故議員奥田敬和君に対する追悼演説
  16. 伊藤宗一郎

    議長伊藤宗一郎君) この際、弔意を表するため、瓦力君から発言を求められております。これを許します。瓦力君。     〔瓦力登壇
  17. 瓦力

    瓦力君 ただいま議長から御報告がありましたとおり、本院議員奥田敬和君は、去る七月十六日、半蔵門病院において御逝去されました。  あたかも生涯戦場にあったかのごとく、常に憲政の正道を追い求め、きっすいの政党政治家として御活躍された君が、御家族皆様の手厚い御看護の中で静かにこの世を去られたのでありました。いかに天命とは申せ、まことに痛惜の念にたえません。  私は、ここに、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、謹んで哀悼言葉を申し述べたいと存じます。  奥田君は、昭和二年十一月、石川県美川町にお生まれになり、長じて、県立金沢第一中学校から旧制第四高等学校を経、早稲田大学政治経済学部政治学科に進まれました。  君は、卒業と同時に北国新聞社に入社され、東京支社政治部記者として、六年間、日夜取材に若さを燃焼させる中で、生きた政治の動きをつぶさに学ばれました。  その後、故郷で、昭和三十三年当時、厳しい状況にあった家業の治山社を継ぎ、十年足らずの間に会社を立て直すという偉業をなし遂げられたのであり、これも君の持って生まれた技量と才覚のなせるわざだったと申せましょう。  その当時から人間関係を非常に大切にし、その輪を広げ、昭和四十二年四月、石川県議会議員当選されました。以後三十年余に及ぶ政治活動スタートを切られたのであります。  県議会議員としての活動の中で北陸のハンディキャップを痛感された君は、年来の抱負と高邁な識見とを国政に具現すべく、第三十二回衆議院議員選挙に旧石川県第一区から勇躍立候補され、その厚き信望によって見事初陣を飾られました。  本院に議席を得られた君は、政治家としての研さんを大いに積まれ、各方面に幅広く活躍されたのであります。昭和五十五年七月外務委員長就任を初め、予算委員長議院運営委員長等要職を歴任され、公正な運営に努め、すぐれた調整力を発揮されたのであります。  特に外務委員会には長く籍を置かれ、世界の平和なくして日本の繁栄はないとし、アメリカを初めとする自由主義諸国アジア太平洋諸国開発途上国などの協調友好に努められました。中国に続き、ソ連、北朝鮮との国交を正常化するのが今日の外交課題であり、私たち日本海を平和と交流の海にすべきであるとの信念を抱き、外交問題に意欲的に取り組まれ、政界有数外交通との評価を得たのであります。  昭和六十三年二月、予算委員長に就任され、議会政治には妥協も必要である、野党とよく話し合うとの決意のもとに、国会空転後の委員会を円満に運営され、その重責を果たされました。  その後、平成五年八月、細川連立内閣国会運営の現場を一手に取り仕切る議院運営委員長に就任されました。連立政権にとって最重要課題であった政治改革を抱えた最初で最大の臨時国会となるだけに、その責任は重く、新しい国会のルール確立への期待も大きかったのであります。国会対策委員長などを歴任された国会対策のプロの実績が買われての登場であり、その存在感を遺憾なく発揮されたのは、今なお記憶に新しいところであります。  また、自由民主党にあっては、外交部会長、副幹事長、国会対策委員長等の要職につき、党の運営や重要政策の決定に極めて大きな役割を果たされました。  政界の再編が持論の君は、やがて、制度疲労を起こしている日本政治には改革が必要であると強く訴えながら、政界再編に情熱と努力を注がれ、自分の信ずるところを邁進されたのであります。  平成五年六月、新生党結成に参加され、細川連立政権樹立に力を尽くされました。以後、新進党、太陽党、民政党、民主党のそれぞれの結党に参加されたのであります。この間、新生党の常任幹事、新進党の常任顧問、太陽党の最高顧問、民主党にあっては、新しい民主党の生みの親として、両院議員総会長を務め、各党のまとめ役として重責を担い、その功績は衆目の一致するところであります。  一方、内閣にあっては、昭和五十八年十二月、第二次中曽根内閣の郵政大臣として初入閣を果たされ、電電公社の民営化に道筋をつけ、今日の高度情報社会の基盤づくりに貢献されました。  次いで、平成二年二月、第二次海部内閣の自治大臣、国家公安委員長に就任され、地域活性化のためのふるさと創生、地域の国際化、政治改革等を推進されました。  さらに、平成三年十一月、宮澤内閣運輸大臣に就任され、成田空港問題で、大臣として初めて反対派との話し合いのテーブルに着かれました。「農地というのは、やっぱり自分が荒れ地から耕した魂がこもっているんだ。我々が金で土地を売買するようなものではないんだ」と文字どおり精力的に取り組まれ、その後の対話路線を軌道に乗せたのであります。話し合いに接点があることを信じ、反対派との公開シンポジウムに出席され、強権より不断の話し合いが大切だというその信条は、君の長い政治経験から培われたものであり、大いに評価されなければなりません。  君はまた、調和のとれた豊かな郷土づくりのため、骨身を惜しまず尽瘁されました。裏日本という言葉を耳にすることは甚だ残念であるとし、「日本海側に政治の光を」の言葉選挙公約に掲げ、地域格差解消の決め手となる北陸新幹線の建設促進にも力を注いでおられました。君は、御自分の業績や尽力を決しておごらず、公にはしない方でしたが、今日の北陸の発展に残した足跡は多大なものがあります。  かくて、奥田敬和君は、昭和四十四年の衆議院選挙以来、本院議員として当選すること十回、在職二十八年九カ月の長きに及び、去る平成六年十月には永年在職議員として院議をもって栄誉ある表彰を受けられました。この間、国政に残された功績はまことに偉大なものがあります。  思うに、君は、純粋なまでの潔癖さとあふれるばかりの正義感を持って、みずからの政治信条を貫き通された信念の政治家でありました。時には、その妥協を許さない頑固なまでの一徹さと、歯にきぬ着せぬ言動から、ぶこつで近寄りがたい印象を与えておりましたが、一面、人一倍義侠心が強く、情にもろい熱血漢でもあり、接する人を深く魅了するところがあったのであります。一見ソフトな感じだが、言いにくいこともはっきりと言い、だれにでも苦言をはばからないという君の人間性にこそ、奥田敬和自身の本領があったと私は確信するものであります。  生前、君は好んで、「疾風に勁草を知る」と揮毫されました。困難に遭遇したとき、初めてその人の意志の強さや人間としての本当の値打ちがわかるという言葉そのままを、見事に、その波乱に富んだ政治活動の中で実証されたのであります。  君は、七十年の生涯をあたかも憂国の士として、古武士のごとき気風と余韻を残しながら去っていかれました。君の心中に最後まで去来していたのは、国家国民への深い愛情であり、我が国将来の展望であったに違いありません。志半ばにして倒れられた君の胸中をお察しすると、痛恨哀惜の情がひしひしと迫り、なお深いものを覚えるのであります。  また、君を内にあって支えてこられた奥様を初め御遺族の皆様の心情をお察しすると、お慰め申し上げる言葉もございません。  今や、我が国内外の情勢は激しい流動を続け、幾多の試練と難関に直面しております。このときに当たり、君のような信念の政治家を失いましたことは、ひとり民主党のみならず、本院にとりましても国家国民にとっても、はかり知れない大きな損失と申さなければなりません。  しかし、奥田君が残してこられた輝かしい数々の業績は、末永く内外の人々の胸中にとどめられ、いつまでも語り伝えられるであろうことを信じてやみません。  ここに、謹んで奥田敬和君の生前の功績をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りして、追悼の言葉といたします。(拍手)      ————◇—————
  18. 伊藤宗一郎

    議長伊藤宗一郎君) 本日は、これにて散会いたします。     午後一時四十六分散会