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田中眞紀子君 ただいま
議長より御
報告がありましたとおり、本
院議員住博司先生は、七月十一日、四十三歳の若さで急逝されました。まことに
痛惜の念にたえません。
私は、若輩でございますが、
皆様の御
同意を得て、
議員一同を代表して、謹んで
哀悼の
言葉を述べさせていただきます。
住博司先生の突然の
訃報がもたらされたのは、つい先日終了したばかりの第十八回
参議院議員選挙の
投票日の前日のことでした。あの日はまことに蒸し暑い土曜日で、
住先生の
病魔との
闘いと、
参議院選挙での苦しい戦いは同時進行していただけに、終生忘れ得ぬ
出来事となりました。
昨年十月、
住先生は
衆議院内でお体の不調を訴えられ、とりあえず近くの
病院に入院されました。
国会からの帰途、幾度かお見舞いに伺いましたが、私が部屋に入ると、「おっ、来たの」と言って身を起こされ、
介護保険のこと、
年金制度の
改正、医療
改革問題など
厚生行政について、
ひとみを輝かせて熱弁を振るわれました。そのお姿からは、一日でも、一分でも早く
現場復帰をしたいというお気持ちが伝わってきました。
お体にさわってはいけないと
思い、
話題を変えて、過去五年間に
住先生や
友人たちと過ごした楽しかった
旅行等の
思い出話をすると、
先生は
途端にほおを緩ませて、「おれ
たち、
仕事や
勉強もしているけど、結構よく遊んでもいるよなあ」と
途端にやんちゃ坊主の顔になって破顔一笑されました。
住博司先生という、極めて
頭脳明敏にしてクールでひょうきんな若い代議士の
存在が私の脳裏にはっきりと刻み込まれることになったきっかけは、
平成六年六月、
中谷元
先生が主幹されていた
安保防衛勉強会が、
防衛庁市ケ谷駐屯地の
視察を計画したときのことでした。
事前の
勉強会では
視察希望者が十数名ほどいたのですが、当日、
集合場所の第二
議員会館前に行ってみると、
陸上自衛隊の
送迎バスに乗ったのは三人だけでした。意外に思った私が、後ろの方の席でお行儀の悪い座り方をしている
男性に、思わず「あら、三人きりなの、あなた、どなた」と伺うと、「おれ、
住博司っていうんだ。二回生。
秘書じゃねえぞ」という
べらんめえ口調が返ってきました。「私は、
田中眞紀子。一回生」と言うと、「そんなの知ってらあ。おい三人きりかよ。しようがねえなあ。じゃあ、ゲンちゃん出発しようぜ」、その
言葉を合図に、帽子をかぶって緊張した面持ちの
自衛官が、ゆるゆると
バスを発進させました。あの日が、
住先生が死を迎えるまでの五年間に及ぶおつき合いの始まりでした。
市ケ谷駐屯地では、
陸上自衛隊の幹部が、まるで
学生気分の抜けない私
たちを、威儀を正して迎えてくださり、
東部方面総監室や地下ごう、
東京裁判が行われた大講堂など、建物内をくまなく案内してくださり、私は居並ぶ
制服組に圧倒されてぐずぐずしていたのですが、両
先生はまことに落ちついて、堂々としていらっしゃいました。殊に
住先生は、
バスの中とは人が違ったような礼儀正しい
言葉遣いで、核心を突いた質問を次々と発するので、感服してしまいました。
また、
先生は、私が初
当選以来手がけた二本の
議員立法を成立させるために、大いに御尽力くださいました。
中国残留邦人の
帰国促進に関する
法案のときには、その力量を遺憾なく発揮してくださいました。また二本目の
教員免許特例法のときには、総
選挙を控えての混乱の真っ最中であったにもかかわらず、日教組の
委員長に私が一人で面会に行くと言うと、女一人じゃ心細いだろうからといって、わざわざ
富山県から上京して同行してくださいました。
一見ぶっきらぼうのように見えても、実は繊細な心配りのできる方でもありました。
住先生と私には多くの
共通点がありました。まず、
お互いが
厚生関係の
仕事を目指していること。
出身地が
富山と
新潟で隣接していること。ともに
早稲田大学の
卒業生で、目白の住まいが極めて近い距離にあること。そして、
お互いの父親の世代が同じために、昔の
政治家のことなど実によく御存じで、
話題に事欠くことはありませんでした。
先生の特徴は、
マスコミ記者の経験からか、実に聞き上手で、クールな
分析的思考回路が発達しているということでした。相当な鼻っ柱の強さと
毒舌家でもあり、この点だけは、今の
政界では多分私と彼とが横綱であろうと思っております。その一方で、
保守本流の
政治家の家庭に育ったという自負と誇りが、無
意識のうちに
自己抑制力となり、危なげのない誠実な
仕事ぶりにつながっていたと
思います。
五月初旬、
転院先の信濃町
慶応病院から、
先生は私に
親展手紙を届けてくださいました。五月十五日付のその
手紙をハンドバッグに入れて、私はすぐに
病室へと飛んでいきました。
先生は、「おお、もう来たの」とあきれたような顔をしながらも、主人の窮地をおもんぱかって、「おれが
選挙中に
応援に行けたらなあ」と何度も何度も繰り返しておっしゃってくださいました。御
自分が肉体的に苦しいだけに、人の心の痛みが我がことのように感じ取れるのだと
思いました。
いよいよ六月二十五日には
選挙戦の火ぶたが切って落とされ、
富山県境の町で集会があったときには、昨年の夏に、ラフなスタイルでみずから愛車を運転して、御母堂様と
中谷先生と私を、地元の
宇奈月温泉や
立山の室堂へ案内してくださったときのことが
思い出されました。
あれからたった一年しかたっていないというのに、今は病床で深い悩みのふちに立ち尽くしておられる
先生に、何の御恩返しも励ましもできないでいる
自分を歯がゆく感じたものでした。
病魔との
闘いは、それほど急激で孤独なものとお見受けしておりました。
選挙戦スタート後一週間目の七月三日、私は猛暑の中、一時帰京して、ヒマワリの花束を抱えて、
住先生の
病室に直行しました。
先生は、「何だ、もう帰ってきちゃったの」と言って驚いた顔をなさいましたが、目はほほ笑んでおられました。「外はもう真夏だというのに、いい若いもんがいつまでも
模範患者になっていてはだめじゃないの」と言うと、「おふくろみたいなことを言うなよ」と言いながらも、優しくうなずいてくださいました。
病室を辞去するとき、
先生は珍しくみずから握手を求められて、「頑張って、必ず勝ってね」と言われましたが、余りに厳しい
選挙戦であったために、私は、相手が病人であり、しかも、もしかするとこの
言葉が
住先生との
最後の会話になるかもしれないという予感があったにもかかわらず、「必ず勝ってくる」とは約束できずにお
別れをいたしました。あのときの
ひとみを私は終生忘れることはないでしょう。
七月十一日午前、十八日間の
選挙戦の
最終日に
先生の
訃報を受け取りました。せめてあすの夕刻まで待ってくださったらという
思いが胸に込み上げてくると同時に、その前日のある
出来事が鮮やかに
思い出されました。
先生が亡くなる前日の十日午後三時近くに、
街宣車は、
新潟市から長岡に向けてハイスピードで
北陸自動車道を移動していました。うっとうしい
梅雨空を縫って明るい日差しが差し込んできたころ、
街宣車の左側の
合流地点から突然数人の
男性が乗った
富山ナンバーの
黒塗りの乗用車があらわれて、手を振りながら
大声で「頑張れ、頑張れ」と
声援を送って前方へ走り抜けていきました。私はとっさに
ウグイス嬢のマイクを奪い取って、「
富山ナンバーの
自動車からの力強い御
声援、ありがとうございます。頑張り抜きます」と
大声で叫びました。
私は直観的に、あれは、
慶応病院で「頑張って」と手を差し伸べられた
住先生の
応援そのものに違いないと感じました。後になって、ちょうどその日に
先生は
意識が混濁されたと御遺族から伺いました。
住博司先生は、
昭和二十九年八月十九日、元
法務大臣住栄作先生と
芳子夫人の次男として、
富山県下新川郡
宇奈月町にて出生。
千代田区立麹町小学校、同
中学校、
早稲田大学高等学院を経て、
昭和五十二年
早稲田大学政治経済学部卒業。
日本放送協会に入社し、
東京報道局、熊本、
京都放送局勤務。
昭和六十二年
日本放送協会を退職し、
宮澤喜一元首相の
秘書を経て、御
尊父栄作先生の
後継者として、
平成二年二月十八日施行の第三十九回総
選挙に旧
富山一区より出馬し、弱冠三十五歳で初
当選を果たされました。
小
選挙区
制度での
選挙においては、八四・八%という
全国最高の
得票率で
当選を飾りました。この数字は、
住先生が、
基礎勉強のしっかりとできた
政策と未来への明確な展望を持ち、その
政策を簡潔にして明快な
口調で
有権者に語ることのできる数少ない
政治家であったということの証左であり、そのことが
富山県民の
皆様の圧倒的な支持を得ていたと申せましょう。
平成二年二月の総
選挙に初出馬された折の
富山県の
有権者に向けた
選挙公報には次のように記されております。
「NHKでの
放送記者十年の
生活は、私に人の世の真実を見せてくれました。声なき
人達の声を聞かせてくれました。真面目に働く
人達は、正しく報われなければならない。恵まれない
人達は、救われなければならない。その
思いを実現するため、
政治へ転進しました。平和で豊かな
ふるさと富山、そして
日本。
政治は一部の特定の人のためにあるのではありません。みんなの夢や
希望を叶えるために、そして
子供達に確かな将来を約束するために、
政治の営みはあるのです。
住博司三十五歳。現実をしっかり見据え、変革を恐れず、若さと情熱の全てをぶつけて頑張ります。」
今の
日本が
政治に対して求めている答えのすべてが、ここに要約されているのではないでしょうか。
党や
内閣においては、
厚生政務次官、
党遊説局長、国対副
委員長などを歴任。殊に
厚生政務次官としては、今、
日本国民の間で最も関心の高い
介護保険制度創設のために、獅子奮迅の活躍をされました。その一方で、超党派の
議員活動にも励まれてきました。新しい時代に向けた
厚生行政を形成するために奔走した疲労が、
住先生御
自身の肉体をむしばんでいった原因の
一つであることを思うとき、殉職という
言葉が
先生の死には最もふさわしいと思えてなりません。
住先生には二つの口癖がありました。その
一つが、「おれはいいかげんなやろうだからなあ」といかにも偽悪家ぶって言うこと。もう
一つは、「
政治家なんていう職業は長くやるもんじゃないよ。狭い社会でおだてられているうちに、だんだん感度が落ちてきて、周りが見えなくなってくる。
自分のことを客観視できなくなってくる。危ないんだよなあ、これが」。前者は私人としてのぼやきであり、後者は公人として我々が自戒すべきことだと
思い、私は
先生のこの
言葉を黙って聞きながら、ずっと胸に刻み込んできております。
どんな難解なことでも、彼の明晰な
頭脳を通すと平明な事柄となり、説明される側がすんなりと納得するようになるのです。
住先生は、理屈だけではなく、
行動の人でもありました。
その
具体例として、
平成二年より、毎週月曜日の朝八時から
富山駅頭で
国政報告をずっと続けてこられました。
選挙がない平時にこうした
行動をやり続けることが、
富山県民の
皆様から絶大な信頼を得ていた源泉であると
思います。
今春、
入院先から
最後の力を振り絞って、時折、本
会議場に出席されておられましたが、「やせて靴が脱げそうなんだ」と弱々しくおっしゃった日から、
平成十年七月十一日という最期の日に向けてのカウントダウンが始まったようでした。あの日が、三百九十七番の
議席で
住先生のお姿を拝見した
最後の日となりました。この本
会議場で振り向きさえすれば、いつもあなたの笑顔があったのに、今はそれすらもかないません。
お母さまの話によりますと、七月十日午前五時ごろ、容体が急変し、
意識が混濁する中で、突然ベッドの上で両手をパンパンと打ったので、「
博司ちゃん、何をやっているの、それか
しわ手」と尋ねたところ、「
拍手、これでおしまい」と漏らし、それが
最後の
言葉となったとのことでした。その
拍手は、夢うつつの中で見ていたこの本
会議場での
演説に対するものなのか、あるいは
自分自身に対するねぎらいの
拍手であったのか、知る由もありません。
利発で純粋で優しくて、常に冷静であった
住博司先生。あなたの
存在は、大きな
愛情をもって
人々の心を温め、和ませ、そして安らぎを与えてくださいました。
立山旅行のときに、あなたは、魚津市にある御
尊父栄作先生のお墓へと案内してくださいました。
先生のごく自然な親孝行の姿に接して、あの旅はより一層印象深いものとなりました。
人々に愛を与え続けた人生。しかし、
先生が
人々に与えた数十倍もの
愛情と敬愛の念が、
富山県民の
皆様はもとより、多くの
友人たちからも
先生の上に降り注がれていたことを決して忘れないでください。私
たちは、この涙と惜別の情を糧として力強く前進いたします。
平成二年の
先生の
選挙公報の
メッセージを実現するために、本
院議員の
皆様方と手を相携えて、最善の努力をすることをお約束申し上げます。
あと十五日たつと、あなたの四十四回目の
誕生日がめぐってまいります。在職八年六カ月。
先生の
政治への夢と
日本国民に対する
メッセージは、私
たちがしっかりと引き継いでまいります。
住博司先生、たくさんの
思い出をありがとうございました。どうか、お父様のそばで安らかにお眠りください。御冥福を心からお祈りして、お
別れの
言葉とさせていただきます。(
拍手)
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