○玉木参考人 ただいま
紹介にあずかりました玉木と申します。よろしくお願いをします。
短い時間ですので、前置きを抜きにして、早速私の言いたい本題に入りたいと思うのです。
私は、五年前の
平成五年の十二月に、
スポーツ議員連盟さんの招きで懇談会に出席させていただきまして、そこで
サッカーくじの早期
導入、
実施というものを強く求める内容の話をさせていただきました。そのときの
意見は今も変わっておりませんで、私は
サッカーくじというものに関しては、今花原先生、長沼先生がおっしゃったように、健全な形で
導入されて
スポーツ振興に寄与すべきものであるというふうに思っているのですが、現行の、
参議院で
修正されて現在
衆議院の方に回ってきたこの
法案に関しては、私は反対の
立場から
意見を述べさせていただきたいと思います。
まず、
サッカーくじそのものに対する賛成の理由というのは、もちろん
スポーツ振興というのがあるのですが、それ以外に私は三つの理由をちょっとここで述べさせていただきたいと思います。
一つは、文化的な理由です。もう
一つは、
Jリーグの存在という理由です。三つ目は、
教育上の理由です。
一つ目の文化的な理由というのは、そもそも
サッカーくじというのは、一言で言いまして
ギャンブルですが、
ギャンブルというのはスポーツとともに表裏一体となって発達してきた人間の文化と言うべきものであるわけです。どちらも宗教上の理由から発生したというふうに考えられますけれ
ども、ちょっと乱暴に言ってしまいますならば、スポーツというのは神々の肉体に近づくための行為である。
ギャンブルというのは神々の意向を占う行為である。これはまさに表裏一体の文化として、人間の文化として誕生したわけです。
そのうちのスポーツが非常に健全で
教育的であると言われる一方で、
ギャンブルの方がなぜか悪の権化のようなとらえ方をされている。これも歴史的な理由はいろいろあるのですけれ
ども、各国の
法律とか、それから宗教上の戒律とかで
ギャンブルというのは禁止されている場合が多い。その理由は、射幸心をあおり、耽溺することによって勤労意欲を失うとか、それから暴力団等の資金源になるおそれがあるとか、健全な経済社会の
運営に害を及ぼすというような理由で、
賭博行為というものに対してはどうも嫌悪感の目で見られていることが多いわけです。
ところが、考えてみましたら、スポーツというのもそのような嫌悪の目で見られていた時代というのがあるわけなんですね。
産業革命のころのフットボールというのは、
イギリスの議会も、フランスの議会も、何度もフットボール禁止令というのを出しています。フットボールでうつつを抜かして労働者が働かない。これはどうしようもないというので、フットボール禁止令というのは山ほど出ております。
それから、今でこそウィンブルドンの
センターコートと言うと、なぜか世界一美しいコートのように思われていますが、あの観客席というのはギャンブラーのたまり場であった時代もあるわけですね。テニスというのはギャンブラーたちが育てたスポーツだ、そういう言い方もできるわけなんです。
ただ、その中で、なぜそんなふうに
ギャンブルが罪悪視されたのかというのは、当時の支配層たちが、自分たちは
ギャンブルをやっていて独占しているけれ
ども、労働者たちにはさせないというような空気をつくったわけです。これはスポーツにおいてアマチュアリズムというものが生まれたのと非常によく似ておりまして、アマチュアリズムというのは、なぜか
日本では美しいもののようにとらえられておりますけれ
ども、実は肉体労働者をスポーツの世界から排除するために考えられたような
制度であるという言い方もできるわけです。
日本においても、大正時代には、あれはアントワープのオリンピックの予選でしたか、マラソンの予選が行われたときに、一位から三位、四位ぐらいの選手までが全員失格になったなんという事件があった。なぜかと言ったら、一位の方は人力車夫だったのですね、これはプロであると。二位の方が新聞配達だか、三位が魚売りだか、四位が牛乳配達の
皆さんだか、何かそういう方々が全部プロだとして排斥されてしまった。それで、アマチュアの人はというと学生、明治時代の学生は超エリートです、貴族の息子です、はっきり言いまして。貴族階級の息子ですね、そういう
人たちがスポーツを独占していたわけです。
同様に、
ギャンブルというものも、支配層はみずから楽しみながら、一般の
人たちには楽しませないという、そういう罪悪感というのが、罪悪視するような空気というのがつくられて現在に至っている。
ところが、この
ギャンブルというものは本当に悪なのだろうかということが、最近は大分変わってきました、見方が。一九五一年に
イギリス政府の諮問機関の
ギャンブル調査委員会が、
ギャンブルとは、個人の自己責任において行うものであり、
法律によって規制すべきものではないという答申を出しております。それから、一九五四年のスウェーデンの世論
調査研究所も同様に、
ギャンブルが犯罪とつながるのは、
ギャンブルそれ自体に問題があるのではなくて、犯罪の側に問題があるのだということを出しております。
翻って、スポーツと
ギャンブルの発生というものが表裏一体であるということを言いましたけれ
ども、それを考えますと、何も
ギャンブルというものを罪悪視することはない、むしろそれは人間の文化と言えるのではないか。
そこで、
サッカーくじというもの、これは
イタリア語では
トトカルチョと言いまして、世界的にも
トトカルチョという名前の方が広がっています。この
トトカルチョというのは、
イギリスでは、今長沼会長がおっしゃったように、七十年以上の歴史もありますけれ
ども、
イタリアで生まれたときは、我が国と同じ敗戦国の
イタリアが、戦後、オリンピックに選手を派遣する費用がないときにアイデアとして出したもので、それが一気に人気が出て、
トトカルチョという名称で世界じゅうに広がったという
経緯もあります。
このときに広がった理由はいろいろ考えられるのですけれ
ども、この
トトカルチョという
サッカーくじですね、これは当せん金額が多額ではあるけれ
ども、当せんの確率が非常に低い。八百長行為の起こる確率もほとんどゼロに近い。それから、一般のスポーツファンが
トトカルチョをやることによって身を持ち崩したとか、それで一家が離散したとか、そういう例は世界的にも
報告されていない。少なくとも私は一度も聞いたことがない。そういう、いわば変な言い方ではないのですね、健全な
ギャンブルと言うのは。
ギャンブル自体を罪悪視するのがおかしいと先ほど言いましたから、健全な
ギャンブルという言い方はおかしいのですけれ
ども、あえて使いますなら、健全な
ギャンブルとして
トトカルチョが世界的に広まっている、それを
日本で罪悪視するのは世界の文化からおくれるのではないか、もう少し
ギャンブルあるいは
トトカルチョというものに対する
理解を深める方がいいのではないか、これが僕の言った文化的な理由の
一つです。
もう
一つ賛成した理由は、
Jリーグが生まれたということなんです。
Jリーグというのは実にすばらしい
団体でして、何が一番すばらしいかというと、サッカーをする
団体だからなんです。だったら、ラグビーだったら悪いのかといったら、そうではなくて、スポーツをする
団体なんです。これは、
日本で唯一、ほとんど初めてと言ってもいいスポーツをする
団体なんです。
だったら、ほかにもたくさんあるではないかとおっしゃるかもしれませんが、ほかの
団体は違う場合が多いのです。体育をする
団体が結構多い。要するに
教育をするわけですね。あるいは、親会社の宣伝をする
団体が多い。スポーツを第
一義に考えない。何かというと
教育をするということを一番に考えた上でスポーツを利用する。あるいは、親会社の宣伝、親会社の利益を考えた上でスポーツを利用する。
日本のスポーツというのは、明治時代に欧米から移入されて以来ずっと何かに利用される中でしか発展できなかった。学校体育であり、あるいは企業スポーツでありという形です。
今でも学校体育というのは体育とスポーツが混同されていまして、体育の日なんという言葉が今も残っています。
国民体育大会という言葉も残っています。体育の日というのは英語で言うとスポーツ・アンド・ヘルス・デー。フィジカルエデュケーションという、体育という言葉は英語ではないのに、
日本語では体育になっている。体育の日のたまの休みに国立競技場に行って反復横跳びをやってどこがおもしろいかと僕は思うのですが、体育で育った方々というのは反復横跳びを体育の日にやることによって、それをスポーツと勘違いするような錯覚も起こっている。
今の体育
教育の中で例えば逆上がりというのがありますね。それから懸垂というのがあります。それから跳び箱というのがあります。今海外に出張される商社マンの方、その他企業マンの方は多いと思いますが、その方たちが子供を連れていって、帰国子女になるときに、帰国する直前になったら小学生は一生懸命逆上がりをしなければいけない、
外国では逆上がりなんか習いませんから。跳び箱をやらなければいけない。何でそんなことをやらなければいけないのか。
懸垂とか逆上がりというのは、自分の肉体を持ち上げる腕力をつけようというので戦前盛んに喧伝されたものです。何で自分の体重を持ち上げなければいけないかというと、三八式歩兵銃を自由に操らなければいけないからなんですね。
一九六四年に、東京オリンピックを契機に体力測定というのも始まりましたけれ
ども、あの体力測定の中に何でソフトボール投げがあるのか。ソフトボールを投げることが、何で偏差値で上に行くのか。ソフトボールを投げるということのどこがいいのか。ソフトボール投げというのは何でできたのか僕も全然わからないのですが、あれは戦前の手りゅう弾投げが変わっただけなんですね。
そういう体育
教育というもの、体育の中でのスポーツのとらえ方、それが残っている、その
影響下にある
団体、またはお金もうけをするための興行として利用している
団体、はっきり言いますと、新聞を売りたいとかテレビの視聴率を上げたいとか、スポーツを広めるよりもそちらの方を優先している
団体、その中で、
日本のスポーツが発展しているような錯覚に陥った中で、
Jリーグというスポーツをやる
団体ができたのです。
何をするのかというと、サッカーをする。思い切りサッカーを楽しむ。サッカーを楽しんだ結果、ほかのスポーツも楽しもうではないか、ほかのスポーツも発展させようではないか、こんな
団体は、
日本では初めてできたのです。相撲協会のことについては今はちょっと除外しておきますけれ
ども、例外として。相撲協会は相撲協会でなかなか、
運営上若干の問題はあると思いますが、組織としては非常によくできていると僕は思うのです。
ただ、組織としても、スポーツをスポーツとして
運営するという
団体がなかった。その
Jリーグが発足した直後、やはりこれを利用しようとする勢力が、巨大な勢力があったわけです。企業名をいつまでたってもつけて企業の宣伝に利用するとか、そういう動きがあるわけですね。
スポーツというのは、そもそも
国民の共有の無形の文化財で、
一つの企業とか
一つの個人が利用してはいけないものなんです。スポーツで得た利益というのはスポーツに還元されないといけない。それを、自分だけとって親会社の赤字の補てんに使ったり税金対策に使ったりするなんというのはもってのほかです、これは共有の文化なんですから。
ところが、そういうことをしようとする
団体があった。その中で
サッカーくじというパブリックなものを
導入すれば、そういう曲がった、ゆがんだスポーツのあり方というのは是正されるであろう、
サッカーくじという文化とともに
Jリーグも健全な発展をするだろう、これが僕の二番目の理由だったのです。
三番目の理由は、
教育上の問題です。
サッカーくじというのは、
教育上非常にいいと僕は考えました。
教育上というのはもちろん
青少年の
教育上という
意味です。ただし、その
サッカーくじを例えば小学生までだったらやらせていいのかとかという問題は、経済上の問題で、いろいろ討論をする必要性はあると思いますけれ
ども、未来予測としてのスポーツの戦略を考えるという行為の
教育上のすばらしさというのは、やはり認めるべきではないかと思うのです。
昨今の金融ビッグバンの時代を迎えて、これからは、知識をたくさん持っているとか、事務処理能力が速いとか、上意下達の命令をよく聞くとか、ただただ体力だけにすぐれているとか、そういう
人たちというのは世の中で求められなくなるわけですね。世の中で要求されているのは、未来を予測する能力あるいは創造性、それから豊かな発想、斬新な発想、そういうことができる能力が要求されてくるわけです。
そういうものに対して、
トトカルチョあるいは
サッカーくじというもの、サッカーの展開を読む、あるいはサッカーでなくてもいいです、スポーツの展開を読む、これは本当にすばらしい行為で、僕は学校で、学校というのも小学校、中学校、高校、どれを指すのかはまだ私自身考えているところなんですけれ
ども、学校で
サッカーくじを奨励してもいいぐらいだというふうに思っています。
僕は、今言いました文化上の理由、
Jリーグの存在、それから
教育上の理由、この三つで
サッカーくじの早期
導入を求める話をしたわけです。
ところが、でき上がってきた
法案を見ましたら、これだったらもう一度考え直して、余り慌てて拙速の
法案をつくるのではなくて、本当にいいものにつくり直した方がいいのではないか、そう考えざるを得ないというふうに判断しました。
理由は幾つかあります。時間もありますことでさっさと言いますと、
一つは、
Jリーグの独立性が奪われるということです。
文部大臣の支配下に入ってしまう。
二番目は、
行政改革が求められている時代の中で、逆行する。
文部省の主導下の
特殊法人である
日本体育・
学校健康センターが行うのではなくて、
イタリアのように、
イタリア・オリンピック
委員会のようにスポーツの側の、あるいは
民間の独立した
団体がこれを行うべきである。
それから三つ目に、
文部省自身に自己矛盾がある。
文部省というのは、改めて言うまでもなく、
教育をつかさどる官庁であります。
教育をつかさどる官庁が、十九歳未満は禁止だというふうに言っているようなものをなぜ自分たちが
運営主管として行うのか、私はこれはわからない。私と
意見が同じで
教育上いいというなら別ですよ。でも、十九歳未満を禁止、
教育上よくないと判断しているのに
教育をつかさどる省庁がやる、これは僕はわからないのです。
それからもう
一つは、
収益金の使い道が判然としていないということです。総花的になって、こういうこともやりたい、ああいうこともやりたいというのは、それは
意味はわかるのですが、これによって何かできたというものをきちんと
法案の中に入れないと、結局は何かどこかのイベントに使われたりというおそれがある。私が考える今
日本で一番おくれているスポーツのジャンルは、指導者の育成です。だったら、指導者の育成ということにお金を使うのだ、それで余ったお金をほかに使うのだとか、何か
一つ具体的なことを書かないといけないのではないか。
それから五番目が、
サッカーくじそのものに対する
国民への
広報活動が余りにもなさ過ぎる。
サッカーくじを何かうやむやに通してしまって、お金だけ欲しい、だれが欲しいのか知りませんけれ
ども、そういうような動きを感じてしまう。これはやはり、
文部省がやるなら
文部省でもいいです、よくはないと思うのですけれ
ども。
サッカーくじをやろうとしている
人たちが、
サッカーくじというのはこれだけすばらしいのだよ、文化的にもすばらしいのだよ、世界でもこれだけすばらしいのだよと、これは、
法案が通る前からやはり広報はやってもらわなければいけないですね。
それと、先ほどから少し出ていますが、身障者スポーツ、
法案の中にそれに関して書かれていることがないのですね。これはなくてもいいのかなと僕も思うのです。スポーツと書けば身障者も含むのだというふうに考えればいいのですが、残念なことに我が国では、
文部省の管轄がスポーツで、身障者スポーツの管轄は厚生省になっています。こういうことを改める方が先ではないかなという気もするのですね。
以上のような理由から、私は時期尚早だと。もう一度深く考え直して、
サッカーくじというのは本来すばらしいものなんですから、いい
法律をつくるのにもつと時間をかけても遅くはないのではないかというのが私の
意見です。
長くなりましたが、もう
一つだけつけ加えさせていただきますと、スポーツというのは二十一世紀を担う物すごく大きなパワーになるはずなんです。それは、政治的な理由、経済的な理由、文化的な理由、すべての理由でスポーツというものは侮れない存在になるはずです。
例えば、香港が中国に返還されましたけれ
ども、香港のオリンピック
委員会は残っています。パレスチナのオリンピック
委員会というのは、国家が多くの国に認定される前にオリンピックの方に出てきました。こういう政治的な動き。それからあと、アメリカの中でもグアム・オリンピック
委員会というのができております。だったら、これからどういうオリンピック
委員会というのが、国を名乗って、あるいは国を名乗らずに、自分たちの社会というものを国際的に主張してくるのか、これは政治的に非常に大きな問題になると思います。
それからもう
一つは、経済的な理由です。スポーツイベントは莫大な金を動かすようになっています。その金の動かし方には問題がありますけれ
ども、今この不況下で、公共
事業だ何だと言われている中で、むしろスポーツにお金を投じた方が先行きも長い経済効果が期待できるのではないか。これは、スポーツだけではなく文化とかソフトウエアについて言えると思いますね。
もう
一つ、スポーツというものが人間の文化として、文明として最後に残された自然であるということの認識から、思想的な問題が二十一世紀には出てくると思います。
それはどういうことかといいますと、文明が発達すれば発達するほど人工化します。都市を初めとして世界じゅうが人工的になります。人工的な中で、環境を保護しよう、自然を守ろうという動きも確かにありますが、その自然がどんどん破壊される。破壊される中で、最後に残る自然というのが肉体です。内側だけは自然なわけです。一番身近なところに自然があるわけです。その自然が目の前で見える、これがスポーツです。またあるいは、やれる、これがスポーツです。このスポーツが二十一世紀においては非常に大きな
意味を持つと思うのです。
それから、省庁再編がいろいろ言われている中で、何で文化省が出てこない、スポーツ省が出てこないのか。あれは数さえ減らせばいいのだというようなことかもしれないのですけれ
ども、そういうことをぜひともこの
文教委員会で話し合っていただきたい。その中で
サッカーくじというものが自然に、だったらこういうことをするためにお金を使おうというので、お金を集めようというので、改めて考え直していただいてもいいのではないかと思います。
どうも済みません、時間をオーバーいたしましたが、これで終わりにさせていただきます。(拍手)