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萱野茂君 私が国会へ来るときに、かつての
社会党が弱い者の声を国会へということで私を連れてきてくれました。そして、名前が変わって社民党、そして今、私は民主党に所属しているわけでありますけれ
ども、まずそのことに、かつての
社会党の
先生方に心から感謝を申し上げたい、そんなふうに
考えているわけであります。
最初に、
アイヌ語で
アイヌという
言葉について皆さんに知っておいてほしいなと思います。
アイヌの
社会では、
アイヌという
言葉は本当に行いのいい
アイヌにだけ
アイヌと言います。丈夫な体を持ちながら働きもしないで生活に困るような
アイヌには、
アイヌと言わずにウェンペ、悪いやつというふうに言ったわけであります。それが、いつの間にやら
アイヌという
言葉が悪口にすりかえられました。そして、
アイヌ自身も自分を
アイヌと言うことを恥ずかしいと思いました。そして、あたりからも
アイヌという
言葉を使うことにためらいを感じる、そういうことがありました。が、私が国会へ出してもらっていろんなことで事あるごとに
アイヌという
言葉を皆さんに知ってもらうようになってから、
アイヌたちも元気が出てきて、このごろはおれは
アイヌだと言う
アイヌがふえてきたことをとてもうれしく思っているものであります。
次に、
北海道の昔の言い方はどういう言い方をしていたかというと、
アイヌモシリと言いました。
アイヌというのは人間、モというのは静か、シリというのは大地、つまり
アイヌの静かな大地というふうに誓えて、そこで平和に暮らしていたわけであります。山でも川でも岬でも、どんな小さいくぼ地や台地に至るまで、全部が
アイヌ語でつけられていたわけであります。
その
アイヌ語の地名の数でありますが、今から百四十年昔に三重県三雲町出身の松浦武四郎という方が
北海道へ行って
アイヌから聞き書きをした地名、それを北見地方の丸瀬布町の秋葉實さんという方が精査したところ、八千カ所ありました。それで、私は自分の生まれて育った二風谷へ持ってきてみると、武四郎が書き残した数は十四カ所しかありません。大正十五年生まれの私が二風谷の地名を調査してみると七十二カ所ありました。ということは、武四郎が書き残した地名の四倍から五倍くらいあったんではないでしょうか。となれば、
北海道で
アイヌ語の地名は四万カ所前後あったものと推定できるわけであります。
皆さん
北海道へ行くと、ペツとナイ、登別、幌別、芦別、然別、そして稚内、院内、何々内というふうに、ペツとナイが六百カ所あります。ペツとは川という
意味、ナイは沢という
意味であります。東北六県に二百八十カ所あります。そういうわけで、地名から見ると東北六県と
北海道には
アイヌ語を地名に刻印するぐらい長い間
アイヌがいたことのあかしであろうと思っております。
次に、私が生まれて育った沙流川のことを申し上げます。
沙流川という川は総延長百二キロあります。春四月から五月、アカハラという大型の魚が来ます。それをとって食べる。そして六月、七月、八月、
アイヌ語ではサキペ、夏の食べ物というマスをとって食べます。そして九月、十月、十一月、十二月までは
アイヌ語でシエペ、主食というサケをとって食べるわけであります。そういうことで、サケが遡上するとまりまでが
アイヌの村であったわけであります。それほどサケと
アイヌの
関係は大事なものであったわけであります。
平成七年十二月二十六日の
北海道新聞に、一秋にとれたサケの数五千二百四十五万六千二百三十六匹。そのうちに
アイヌがとれた数、これは本当に驚くほど少ないのであります。私がこれを言い続けたのでこのごろ少しふえたようであります。数年前までは登別
アイヌが五匹でした。左手の指の数だけであります。そして、札幌
アイヌが二十匹でした。それだけがようやくとらせてもらった数、驚くような少ない数であります。せめて
アイヌ民族にかつての主食ぐらい自由にとらせて、お祭りあるいは必要な分はとらせる
法律はできないものだろうか、私はそんなことを
考えているわけであります。
今までパスポートを必要とする旅を二十二回私はしました。行く先々で先住
民族と称せられる人に会いましたが、侵略した人とされた人との間にみんな条約があります。
アイヌ民族にはそれがありませんでした。そして、主食を奪われた
民族に会ったことはありません。シカを主食、あるいは鯨を主食、サケを主食、そういう人たちはみんなその主食だけは保障されていたのであります。
ところが、昭和五、六年のことです。私の父親がサケを密漁したといって、目の前で逮捕されて連れていかれました。父親が夜こっそりとってきて、
子供たちに食べさせるとき何と言うかというと、もし知らない人が来て、おまえ、ゆうべ魚食ったか、お父さん魚とってきたか、そういうことを聞いても絶対言ってはいけませんよと口どめされながら魚を食べさせられたわけであります。それを
考えると、本当に少年時代から、このサケと
アイヌとのかかわりというのは小さいものではなかったというふうに
考えております。
次に、明治
政府によって
アイヌ語が禁じられてしまいました。
アイヌ語をしゃべる子供は利口な子供ではない、日本語をしゃべる子供こそ利口だぞというふうに言われて、なるべく
アイヌ語をしゃべらないようにされてきたわけであります。私の場合、幸いおばあさんと育ったので
アイヌ語をすっかり知っているわけであります。
それで、昭和二十七、八年ごろにちょっと戻りますが、村内で神主もできる、坊さんもできる、そういう
アイヌが本当に少なくなったとき、こういうことがありました。私の父を含めて三人の仲よしの
アイヌがお酒を飲んで上機嫌になるとこう言うんです。おれたち三人のうち先に死ねた者が最も幸せだ、後に残った二人の者が
アイヌ風の墓標をつくり、
アイヌ風のお葬式の道具をつくってお葬式をしてもらえるんだと。先に死にたいというのは、単に自分たちの
言葉で自分たちのお葬式の仕方で引導渡しをしてもらいたいばかりに先に死にたいものだと思うわけであります。その
意味は、残った二人に
アイヌ風の引導渡しから葬式のすべてをしてもらいたいばかりに先に死ぬことを願い、先に死んでいく者をうらやみ、長生きをする自分をはかなむということを私は目の当たりに見てきたわけであります。
人類にとって、
民族にとって
言葉こそは
民族のあかし、そのように私は
考えて、何とか
アイヌ語を博物館入りさせるのではなくて、本当に生きた
言葉として次の世代へというふうに
考えているわけであります。
日本人が移住してからは、サケもとるな、木も切るな、シカもとるな、そんなことで生活する権利のすべてを私たちの先祖は私を含めて奪われたわけであります。
ここで、シカの話にちょっと触れておきますけれ
ども、千歳と苫小牧の間に美々というところがあります。そこに苫小牧市に指定された史跡があります。そこでは、明治十二年にこの場所に官営のシカ肉缶詰工場をつくって、一年に六万五千頭のシカをとって、皮は加工し、肉は肉で缶詰にして海外へ輸出したという記録があるわけであります。それほどいるシカにもかかわらず、またたくさんいるサケをも
アイヌはとってはならぬと言われてきたわけであります。
私が講演のたびごとにしゃべったことは、後から来た人でも頭数が多ければそれが民主主義かと。私は、先住
民族アイヌにとっては民主主義というものは数の暴力にしか見えない、そのように
考えてきました。しかし、きょうからその言い方を
考えたいと思います。
日本の国会、衆参合わせて七百五十人、その中でたった一人の
アイヌの議員。
北海道の五万人、多く数えても五万人の
アイヌの願いを聞いてくださって、きょう
アイヌ民族に関する新しい
法律が
制定されるということは、日本の民主主義は生きている、私は心からその点感謝したいと思っているものであります。私の話をお聞きくださっておられる
先生方、そして
国民の皆さん、皆さんが悪いのではなく、皆さんの先祖が犯した過ちを是正するもしないも皆さんの手にゆだねられているんだということをぜひ御
認識願いたい、そのように
考えているわけであります。
というわけで、数百年前、和人の人たちと蝦夷地で遭遇した私たち
アイヌ民族の祖先はそのころまだ
狩猟、
漁労をなりわいとして生活し、そしてまだ文字を持っておりませんでした。これまで申し上げたように、やがて和人は多数者となり、文字を持たない
アイヌに過酷な条件を押しつけてきました。支配とべつ視を持ち込まれ、
アイヌの生活は悲惨をきわめ、人間として耐えがたい屈辱に満ちたものでありました。それが、今こうして九十九年前に
制定された
北海道旧
土人保護法がようやく
廃止され、そして新たな立法措置がなされようとしているわけであります。
アイヌと和人の
歴史的和解として数百年の
歴史を超えた第一歩となるのかと
考えるとき、
言葉には言い尽くせぬ感慨深いものがあるわけであります。
とはいえ、今私の心のすべてが満たされているわけではありません。私の多くの同胞、ウタリにとっても同じ思いであると思います。もちろん、私も
歴史のすべてが一夜にして書きかえられるものではないということも十分
承知しておりますが、しかし例えば
先住性について、過日、
橋本総理も記者団に話されたように、
アイヌ民族の
先住性は
歴史の事実なのであり、仮に
法律上なじまないとしても
社会的にはこれを認め合う、また行政行為としてもこれを認め合うことが大切なのではないでしょうか。
そこで、この機会に
官房長官と
北海道開発庁長官に
アイヌ民族にまつわる
基本的な御
認識について伺っておきます。
まず、
北海道開発計画についてでありますが、私は
平成六年十一月のこの
内閣委員会で
開発庁に対して次の
質問をしたことがあります。すなわち、
北海道開発庁は昭和二十五年の
開発庁設置以来これまで五回の開発計画をつくってきました。その計画をここに私は持ってきておりますが、この計画には一度も
北海道の先住
民族である
アイヌ民族のことが触れられていないのであります。このことはまさに
政府の
アイヌの尊厳無視の象徴であると申しました。
今、
開発庁は本年の秋をめどに
平成十年度からスタートする第六期の計画を策定中と伺っております。
稲垣開発庁長官、ぜひこれを機会に、これまでの計画を書き改められるおつもりがおありかどうか。
アイヌと和人の
歴史と
アイヌ文化の存在を正しく示すことが
アイヌ新法を束ねる主務省庁としての姿勢と
考えますが、
長官の御
認識を伺っておきます。
続けて、
官房長官には、一昨年の
ウタリ対策の
あり方に関する
有識者懇談会の設置以来、
政府にとって初めてとも言える大変難しい課題について御
検討をいただきました。昨年四月の報告はその
歴史認識を含め画期的なものであり、
法案制定にこぎつけていただいたことに改めてお礼を申し上げておきますが、まず内なる国際問題とも言える
アイヌ民族の問題にここまで手をつけられ、
法案制定の運びに至ったきょうの感想につきまして
長官に率直に伺っておきたいと思います。
また、
先住性についてでありますが、過日、
総理が
アイヌの
先住性は
歴史の事実と述べられましたが、梶山
官房長官の御
認識もこのようなことと受けとめてよろしいのかどうか、そしてこの
総理の
認識は
内閣の
認識と
考えてよろしいのか、まず伺っておきたいと思います。