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1997-05-26 第140回国会 参議院 臓器の移植に関する特別委員会 第3号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成九年五月二十六日(月曜日)    午後二時四十四分開会     —————————————    委員異動  五月二十日     辞任        補欠選任      菅野 久光君     笹野 貞子君      山口 哲夫君     栗原 君子君  五月二十三日     辞任         補欠選任      菅野  壽君     谷本  巍君      三重野栄子君     照屋 寛徳君 五月二十六日     辞任         補欠選任      谷本  巍君     菅野  壽君   出席者は左のとおり。     —————————————     委員長         竹山  裕君     理 事                 加藤 紀文君                 関根 則之君                 成瀬 守重君                 木庭健太郎君                 和田 洋子君                 照屋 寛徳君                 川橋 幸子君                 西山登紀子君     委 員                 阿部 正俊君                 石渡 清元君                 尾辻 秀久君                 大島 慶久君                 小山 孝雄君                 塩崎 恭久君                 田浦  直君                 田沢 智治君                 中島 眞人君                 長峯  基君                 南野知惠子君                 宮崎 秀樹君                 大森 礼子君                 木暮 山人君                 水島  裕君                 山崎 順子君                 山本  保君                 渡辺 孝男君                 大脇 雅子君                 菅野  壽君                 笹野 貞子君                 中尾 則幸君                 橋本  敦君                 佐藤 道夫君                 栗原 君子君        発  議  者  大脇 雅子君     委員以外の議員        発  議  者  猪熊 重二君        発  議  者  竹村 泰子君        発  議  者  朝日 俊弘君        発  議  者  堂本 暁子君     衆議院議員        発  議  者  中山 太郎君        発  議  者  自見庄三郎君        発  議  者  能勢 和子君        発  議  者  山口 俊一君        発  議  者  矢上 雅義君     政府委員        厚生省保健医療        局長       小林 秀資君     事務局側        常任委員会専門        員        吉岡 恒男君        常任委員会専門        員        大貫 延朗君     説明員        法務省民事局参        事官       揖斐  潔君     —————————————   本日の会議に付した案件 ○理事補欠選任の件 ○臓器移植に関する法律案衆議院提出) ○臓器移植に関する法律案猪熊重二君外四名  発議)     —————————————
  2. 竹山裕

    委員長竹山裕君) ただいまから臓器移植に関する特別委員会を開会いたします。  まず、理事補欠選任についてお諮りいたします。  委員異動に伴い現在理事が一名欠員となっておりますので、その補欠選任を行いたいと存じます。  理事選任につきましては、先例により、委員長の指名に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 竹山裕

    委員長竹山裕君) 御異議ないと認めます。  それでは、理事照屋寛徳君を指名いたします。     —————————————
  4. 竹山裕

    委員長竹山裕君) 臓器移植に関する法律案(第百三十九回国会衆第一二号)及び臓器移植に関する法律案(参第三号)、以上両案を一括して議題といたします。  両案の趣旨説明の聴取は既に終了しておりますので、これより質疑に入ります。  質疑のある方は順次御発言願います。
  5. 関根則之

    関根則之君 まず、中山案と言われている案に対しまして、最初、提案者に御質問を申し上げます。  中山案の特質といいますか、その前提になるものとして、脳死は人の死である、脳死をもって人の死とするという考え方前提にあるんだと、こういうことが言われておりますけれども、それはそういうふうに理解してよろしいのかどうか、まずお答えください。
  6. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) 関根委員の御質問にお答えいたします。  脳死をもって人の死とすることでいいのかという御質問でございますが、本法案は、脳死臨調答申においても述べられておりますように、脳死をもって人の死とすることについてはおおむね社会的に合意はされているという、この社会的な合意前提にして臓器移植に関する事項を内容とする法案として提案されているものでございまして、この法律によって人の死を定義したり、その範囲を変更したりするような性格のものではございません。  なお、委員指摘のように、臓器移植関係なく、すべての人に脳死をもって人の死とするのか、あるいは臓器移植の場合に限って脳死を人の死とすべきかという点につきまして、脳死臨調におきましても検討の対象になっておりました。  そこで、結論は、臓器移植の場合に限って脳死を人の死とする考え方は、本来客観的であるべき人の死の概念にはなじみにくいものと考えております。社会規範としての死の概念としては不適当なものであると考えられて、大きな問題があるとされたところでございまして、提案者としましてもその意見と全く同様でございます。  現実に、先般の本会議でもございましたように、日本の全死亡者のうちで脳死の方はわずか一%未満という状況でございまして、ほとんどの死亡者の方は、従来の死の三徴候説で死の診断が行われるものと理解をいたしております。
  7. 関根則之

    関根則之君 御丁寧な御答弁をいただいたわけですけれども、ただいまの御説明の中で、脳死臨調では、脳死を人の死とすることについておおむね社会的な合意がなされている、こういうふうに述べているんだというんですが、逐一全部臨調答申をそういう観点から当たっておりませんが、いろいろな議論臨調ではなさった後で、最終的な結論のところでは、本調査会結論としては、人の死についてはいろいろな考えが存在していることに十分な配慮を示しつつ、良識に裏打ちされた臓器移植が推進されるようにしたらよかろうと。  これが結論じゃないかと思うので、そういう意味からいうと、要するに臨調は、途中の経過ではいろんなことを言っているけれども、人の死についてはいろんな考え方があるんだ、だからそれは一方的に決めつけないで、いろんな考え方があるということを前提にして、それに十分配慮しながらいろいろ考えなさいと、こういうことを言っているんじゃないんですか。  そうすると、今の御答弁で、社会的な合意がおおむねなされている、だからその合意に基づいてこの法律をつくりましたよということになると、臨調答申とは違った線で中山案というものがつくられているんだ、こういうふうに理解してよろしいですか。
  8. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) 人の死というものは、いわゆる生物体としての個体の死と社会的な死の概念というものが二つ存在していると思います。  そういう中で、医学的に見て、生物である人間個体の死という考え方は、社会通念上は、心臓がとまっている、呼吸が停止している、あるいはまた瞳孔の対光反応が消失しているといったような従来の死の三徴候説で、人は皆人が死んだという認識を持っておりました。しかし、医学進歩の中で、脳死というものが存在するというような学会報告をなされたのが今世紀の初頭でございまして、一九五〇年ごろになりますと人工呼吸器ができてきて、いわゆる人間呼吸をするということを機械的に行うような、科学技術進歩によって機械が開発される。それによって呼吸が行われ、血液が循環しておりますけれども、人間のいわゆる生命維持の基本は、脳の脳幹部にある呼吸中枢あるいは循環中枢の指令による心臓及び肺の呼吸機能というものの三つの総合的な機能というものがなければ人間個体として生存することはできないわけでございます。  そういう観点からいろいろな議論の末、先生指摘のようにいろんな考え方がある、社会的にも死の概念がある、あるいは医学的にも死の概念がある、その医学の死の概念の中でも医学進歩によってまた新しい死の診断法というものができ得る、こういうふうな考え方でございます。
  9. 関根則之

    関根則之君 御丁寧な御答弁を聞いていると、ますますどうもよくわからなくなっちゃって困っているんですよ、正直な話が。  要するに、臨調の最終的な答申は、人の死についてはいろいろな考え方がある、一方的に決めつけるのはどうも問題があるんじゃないか、その辺を十分配慮しなさいということになっているんですよ。  ところが、先生の御提案いただいている中山案では、いや、そうはいっても、医学的に脳死というものの考え方というのはコンセンサスが医学界では大体得られているんだということをさっきから御説明いただいているわけですね。そうすると、要するに一言で簡単に言って、脳死は人の死だということを前提にしてこの中山案はつくられているんだと、こういうふうに解釈してよろしいかどうか、そこのところだけもう一回ちょっと御答弁いただきたいんです。
  10. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) たびたびの御質問で恐縮に存じますが、脳死は人の死であるということはあくまでも死の診断法一つというふうに御理解をいただきたいと思います。
  11. 関根則之

    関根則之君 死の診断法一つであるということなんですが、今、法律案になっているわけですね。その法律では、脳死は人の死であるということを私は見たときに、法律上も脳死は人の死であるというふうに考えて、そういう形で整理して法律がつくってあるんだと、こういうふうに受けとめているんですが、それでよろしゅうございますか。
  12. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) そのとおりでございます。
  13. 関根則之

    関根則之君 そういう前提であれば、それは一つ考え方ですから、脳死というものは人の死なんだということを前提にしてやれば、これは臓器を提供しようとする意思を持っている人だけに限られたことじゃなくて、すべての、交通事故か何かで脳障害を受けた、そういう人たちは、本人がドナーカードを持っているとか持っていないとか、そんなこととは関係なしに、脳死になったときには人はもう死んだものなんだ、死んじゃったんだというふうに理解すべきであるという考え方に基づいてこの法律ができている、そういうことでよろしゅうございますか。くどいようですけれども。
  14. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) そうでございます。
  15. 関根則之

    関根則之君 ところが、本会議質問等で私がやりました、それから同僚も質問いたしましたが、その段階でいろいろな答弁がなされておりますけれども、簡単に申し上げまして、いやいや、そうはいっても、臓器提供をすると言っている人以外にもこの脳死判定をするということは余りやらないような感じの御答弁をいただいたわけでございます。  そこで、ちょっと確認だけしておきたいんです。  いわゆる脳死と言われるような状態に脳の状況がなったときに、その人は、生前というか事故なんかの前にちゃんと判断能力がある時点で、私はもう脳死判定は嫌ですよと言っておく、あるいは、遺族なり家族なりが脳死判定は受けたくない、脳死なんという取り扱いはおれは承服できないから嫌だと、こう言っているときに、いわゆる脳死判定拒否する権利というのはありますか。
  16. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) 当然ございます。
  17. 関根則之

    関根則之君 きょうは厚生省からお見えになっていると思いますが、厚生省はどんなふうに考えておりますか。
  18. 小林秀資

    政府委員小林秀資君) 脳死判定につきまして家族の方が拒否する権利があるのかというおただしでございますが、私は、衆議院厚生委員会におきましても、そういう拒否権という考え方を認めるというふうには申し上げておりません。  ただ、その前に、提案者の方からもお答えがありましたところを少し省いてしまったから誤解があろうかと思いますけれども、実際の医療として行われる場合、救急医療先生というのはずっと患者さんの病状を見ていらっしゃる。もちろん脳死に近いから本人はもう意識がございません、呼吸もとまります、それからいろんな脳の反射も見ていきますと、これももう死の兆候を示している、こういう状況下に置かれての判断です。  そういうときに当たって、やっぱり医者たる者患者のために最善を尽くすのであります。したがって、最善を尽くし、まさに亡くなられようとされている方についても、その人の尊厳性というものは保たなくてはいけない。したがって、医者としては死という客観的事実を見ていく。その一連の行為として、脳死判定といって一番問題になりますのは、脳死判定の中の無呼吸テストということが実は脳死者にとっては決定的に死に至らしめるのではないかということの御意見もありまして、こういう一部の意見が出るんだと思いますけれども、いずれにしても、脳死判定家族の方は嫌がられる。そのときにどうしても必要なことは、いわゆる家族の方に説明をきちっとして御理解いただくということが大変重要である。  これは提案の方々からも言われたし、そして実際に説明をし御理解を得る努力の過程で患者さんが亡くなられる、結果として実際には拒否したと同じ結果になる。結局、家族説明と御理解を求めようとしていても実際には行えない。そして、実際に医療現場では、医師というのは法律インフォームド・コンセントのことが義務づけてあるわけではないんですけれども、御理解をいただくということをしていく最中に、結果として実際には脳死判定が行われないということがあり得ますということを提案者の方がお答えされていらっしゃいますが、私もそのように考えております。
  19. 関根則之

    関根則之君 どうも答弁がはっきりしないんですよ。  要するに、脳死判定なんというものはおれは受けたくないよ、おれの死というのは心臓がとまったときが死なのよ、そういう伝統的な解釈に基づいて、自分でそういう意思を持っている人が脳死になっちゃったら、なった段階ではもう判断のしようがないと思うんです。そういう人に対して、脳死というのは客観的な事実なんだから、病状が進んでいったある時点を通り越したら客観的な事実なんだから、それはもう判定をしょうがしまいが、脳死状態になったらその人は死んじゃったのよと。手続としては判定手続というのはあるかもしれないけれども、客観的な事実として脳死というのがあるんだというお考え方ですか。もう一回ちょっと。
  20. 小林秀資

    政府委員小林秀資君) 先生が今客観的事実とおっしゃられた言葉でございますけれども……
  21. 関根則之

    関根則之君 さっき答弁をしたんですよ、客観的事実と。
  22. 小林秀資

    政府委員小林秀資君) ドクター、医師が診察をしていきまして、最後脳死判定の中にいわゆる無呼吸テストというテストが入っております。これは外部から見て、患者さんの家族の方がわかるわけではない。そういう意味では、心臓死というような全く客観的に見えるものではないという意味で、そこは一般の従来の死の客観的という意味とは少し違ってくると思っています。
  23. 関根則之

    関根則之君 これについては、中山先生の方も同じような考え方ですか。
  24. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) 私は臨床現場で経験してきた人間ではありませんけれども、臨床現場を見てきた人間としては、やはり医師というのは最後まで死に近づいている患者延命のために全力を挙げている。そういう中で絶えず血圧もはかっているし脈もはかっている、呼吸数がどうなっているか、血圧はどうなっているか、そういったようなことを見ながら最善延命努力をしているわけです。  そういう中で、症状がだんだんと悪化してくるといった場合に、医療行為の中の手段として脳波の診断を行うとかそういうことはあり得ると思うんですが、そこで御本人生存中の意思が明確であったり御家族の御意思が反対の方向で明確であったりした場合に、それはインフォームド・コンセントの中で御家族にお尋ねして、これで死の判断をすることはどうでしょうかと言えば、それは困るとおっしゃった場合には、やっぱりそういう脳死診断によって治療を打ち切るんじゃなしに治療を継続していくということは附則の中にも書いてございますので、そこははっきりと申し上げておかなければならないと思います。
  25. 関根則之

    関根則之君 脳死というのは、ある程度医学的には客観的な事実が進むことによって、目に見えるかどうかは別として、いろんなテストをやって、そういう病気の進行といいますか体の変化といいますか、そういうものが進むことによって、ある時点になったらそれはもう不可逆的な全脳の機能停止だ、それが脳死だ、こういう御定義でございますから、そういうものが進んでいくんだけれども家族に対するいろんな配慮や何かがあるから、脳死というのは、例えば無呼吸テストなんていうのはそう簡単にできるものじゃない、一方的にできるものじゃない。そういうお話で、家族意思を尊重する扱いがなされるんだ、こういう趣旨なんですけれども、それは実際の扱いがそうなるというだけであって、法律上はあくまでもこの六条の二項で言い切っちゃって、「「脳死体」とは、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された死体をいう。」と、すぱっと言い切っちゃっているんです。  だから、脳死判定が行われて、その結果、五項目か六項目かですが、そういう項目テストがそれは脳死なんだということになって、基準に照らして合ってくれば、それはもう家族拒否をしょうが拒否をしまいが、そんなこととは全く関係なく脳死体になっちゃう、死体になっちゃうのじゃないんですか。そういう理解なんじゃないですか、これは法律上。それはどうなんでしょうか。
  26. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) もちろん、臓器移植意思生存中に明確に文書で御本人が記録しておられる場合、それから家族の御同意がある場合に限ってのみ脳死診断ということはできるわけでございますので、そこのところは、脳死を人の死として定義するということじゃなしに、臓器移植という場合にのみ限ってこれを考えられる、こういうふうに御理解をいただきたいと思います。
  27. 関根則之

    関根則之君 そういうふうに理解すべきであるというお話ですから、理解することはやぶさかでないんです。だけれども、法律制度としては、家族が嫌だと言ったときには脳死判定は行われないということは法律上どこかで担保されておりますか。これは臓器移植の場合だけでありますよとか、そのことも書いてないんですよね。それから、家族が同意しないときには脳死判定はいたしませんということも書いてないんですよ。  お話はわかるんですけれども、法律制度というのは一たんでき上がっちゃいますとそれがひとり歩きをいたしますから、そのときに家族が反対したら脳死判定はやらないんだよということが法律上担保されているのかどうか。また、脳死判定というのは臓器移植のときだけだよ、一般医療行為ではやらないんだということがどこか法律に書いてあるのかどうか。そこのところはどうなんでしょうか。
  28. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) 法律上の法理論とそれから医療現場での問題と二つありますけれども、立法府においてはもちろん法理論が中心に議論されるべきものだと私も考えております。  そういった中で、現在の救急現場では、絶えず脳死判定というものは日常医療行為として行われているというふうに御理解をしていただきたい。それを法律的にどう担保するかということについては、厚生省令規定をするということが必要でもあろうかと考えております。
  29. 関根則之

    関根則之君 日常医療現場脳死判定が行われている、こういうお話です。それは私行われていることについて、別に脳死判定についての法律が今あるわけじゃありませんから、事実行為として診療行為としてそういうものが行われているということ、これは別に法律上の効果は、それが適法なのか違法な行為であるのかという判定は別途あるでしょうけれども、別に法律の直接の明文規定に基づいて行われているわけじゃないんですね。  ところが今度、六条二項というものを書きますと、新たに脳死判定というものが法律制度としてできるわけですよね。その分野は少なくも法律できちっと根拠が置かれるわけですから、法律の六条の二項に基づいて行われる脳死判定というのはこれこれこういう条件に従うのよということがきちっとそこでその法律の中に書いてないといけないんじゃないかという感じがするんですけれども、厚生省令に書いてありますから大丈夫だという、それはちょっと無理じゃないかと思うんですが、いかがでしょうか。
  30. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) 今、委員指摘の点は六条の二項の問題だと思います。  「前項に規定する「脳死体」とは、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された死体をいう。」、こういうふうに明文化しておりますから、ここのところは、それで判定されなければ脳死体にならないわけですから、そこのところは私どもはこの法のいわゆる二項で充足されているものだというふうに理解をいたしております。
  31. 関根則之

    関根則之君 判定しなければ脳死体にはならない、それはきちっと書いてあるんです。ところが、判定するかしないかというところが書いてないんです。嫌なやつでも判定できるのかもしれないように書いてあるんです。  明文で、拒否されても判定できますよとは書いていない。そこまでは書いていないけれども、判定されたらそれは脳死体ですよと。本人がそれを受けとめようが、それを承認しようが承認しまいが、それは健全な状態にいる時点でですよ、それから家族の方が受け入れようが受け入れまいが、承認しようが承認しまいが、そんなこととは関係なしに判定がなされたならば、家族が嫌だと言ったって判定というのはできるわけですから、やってできないことはない。やった場合には、それは脳死体になっちゃうんでしょう。判定されて、その条件を満たして脳死体だといって判定されたら、それは脳死体になる、死体になってしまうということは二項からは当然出てくると思うんですが、いかがでしょうか。
  32. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) 医学的には、竹内基準に定められた基準に従って診断が行われれば、それは脳死体ということに判定されると思います。
  33. 関根則之

    関根則之君 そうすると、厚生省の方が衆議院答弁した拒絶の権利は、拒否権利はないんだよという趣旨答弁がありますが、それと今の中山先生の御答弁とは大体軌を一にするというふうに理解できると思いますが、いかがでしょうか。結論だけ言ってください、時間がありませんから。
  34. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) あくまでもこれは医療上の診断行為でございますから、それは委員指摘のとおりだと私は思います
  35. 小林秀資

    政府委員小林秀資君) 今、関根先生がおっしゃられたとおりだと思っています。
  36. 関根則之

    関根則之君 そこで、まことに先生に対して余り法律論ばかりやるというのは私申しわけないような感じもするんですけれども、しかしこれは法律の問題でございますので、ややくどいようで申しわけございませんが、ちょっと続けて御質問申し上げたいんです。  臓器の摘出ができるというのは、いろんな条件がありますけれども、基本的には、本人が書面で臓器提供意思を表明している、別途判定があってこれはもう脳死だということが判定されている、それで家族が反対しない、拒まないとき、ほかにもあるのかもしれませんが、大体この三つぐらいが大きな要素で、そろっていれば臓器摘出ができるわけです、心臓の摘出もできるわけです。それで、その三つが自動的にそろったら臓器移植、切開もできるわけですね、どんどん動いていましても。  そういう状態になったときに、その臓器提供意思というのは一体何なんだろうかと。ある人が、私は臓器は提供いたします、世の中のためになるんならどんどん提供いたしますよ、しかし私の心臓がとまってから提供いたしますと、そういう臓器の提供の意思をきちっと書面で書いていて、それで判定の結果これは脳死だということがわかった、だけれどもまだ心臓は動いている、そういうときに、その臓器提供意思というのはこれは有効なんですかね。心臓がとまってからでなきゃ出しちゃいけませんよと、そういう提供意思があったときにはどうなんですかね。
  37. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) 御本人意思が明確に心臓死ということが指定されてある場合には、それを尊重すべきものと考えております。
  38. 関根則之

    関根則之君 本人意思は尊重される、あるいは家族意思は尊重されるということ、それはもう事実論としてはそのとおりだと思うんですが、法律の構成としてはちょっとここのところがそれだけでいいのかなと。臓器を提供します、いつの時点で提供しますということについては書いてないんですよ、これ。  だから、脳死段階で摘出できるためには、心臓が動いていても、まだ心臓死には至っていないけれども、脳死段階において提供いたしますよということがはっきり書いてないと、ただ臓器を提供しますよと言っていることだけが書いてあったのでは、私は脳死段階移植手術を始めるというわけにいかないんじゃないか、切開を始めるというわけにいかないんじゃないかという感じがするんですけれども、いかがでしょうか。
  39. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) その際、絶対必要条件というのは、生存中に書かれた御本人の明確な意思、これが御家族あるいは医師によって確認をされた場合に限られると思います。
  40. 関根則之

    関根則之君 だから、実際の取り扱いとして、確認行為などを丁寧に丁寧にやって、少しでも疑問があったらやらないよと、そういうことはよくわかるんです。実際上、多分そうだと思うんですよ。ただ、法律の構成としては、ただ漠然と臓器提供意思があって、脳死判定の結果、いろんなテストがあって判定として脳死だと決まったら、家族が拒まない限り、もう心臓が仮に動いていても出せるんですよ。そうでしょう。そういう構成というのはちょっと私は乱暴なんじゃないかという感じがするんです。  というのは、臓器提供意思そのものが、本人が明確に意識をして、まだ心臓は動いているかもしれないけれども、脳死判定されたらその脳死判定を受け入れて、その結果、死体となってから、その結果というのは、脳死判定の結果を本人が死と受け入れるわけですから、自分自身の意思として、脳死になったときには自分の死として受け入れますよという意思表示をきちんとさせておいて、その意思表示を前提として、脳死判定を受けたときにはその時点から、心臓が動いていても臓器を提供しますよ、切開して取っていっても、摘出してもいいですよと、そこまできちんとやっぱり法律制度としてこしらえていかないと、そこのところでいろんな問題が起こっちゃうんじゃないか。本人心臓がとまってから提供するつもりでドナーカードを書いておいた、しかし実際はまだ心臓が動いている段階脳死判定を受けて心臓を取られちゃったと、本人意思に反する事態が起こってくるんじゃないかというような気がするんですけれども、大丈夫でしょうか。
  41. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) 心停止があって後にのみ臓器を提供する、こう言われた御本人生存中の意思が明確である場合には、今度は心臓死になられた御本人から、御意思を尊重し、家族の反対ない場合は腎臓及び角膜の摘出ができる、そのように理解をしております。
  42. 関根則之

    関根則之君 ですから、ドナーカードの書き方だよという感じがちょっと伺えるんですけれども、それは、ドナーカードの書き方というのは厚生省令なんですよ。一番肝心の心臓がまだ動いている段階で、脳死段階心臓を摘出してもいいよという、この臓器移植法の一番肝心のことが法律上きちっとしてないということについてやっぱり問題があるんじゃないかということだけを私、指摘しておきます。  それから、私の持ち時間がもうなくなっちゃったものですから、猪熊案につきましてちょっと質問させていただきます。  やはり脳死判定を受けても、それは脳死状態であって死んだわけではありませんよ、生きているんですよと、こういうことになりますと、その生きている生者から心臓を摘出するというのは、これはもうどう考えても殺人罪という罪の適用を受けざるを得ないという感じがするんです。その辺のところは、法律構成としてはどんな構成をなさり、しかもそれが間違いないと法制関係の方々の一般的に認める法理論に従って、だれもがそれに納得するであろうそういう何か理由が、理由といいますか理屈づけがなされているのかどうか。もう時間もありませんので、簡単にお答えいただければありがたいと思います。
  43. 大脇雅子

    大脇雅子君 脳死状態にある者は、まさに死が不可避で、死期が迫っておりまして、このような状態においては、本人の人格的な生存を全うするための唯一の手段が本人意思に基づく他人の命を救うためにみずからの臓器を提供するという、言ってみれば究極的な個人の生命の尊厳の自己決定というものに根拠を置きます。  したがいまして、猪熊案におきましては、そのドナーの意思と厳格に認定される脳死状態と、それから厳格な要件によって行われるその医師行為というものが正当な行為として違法性阻却事由になる、こういう法理論でございます。
  44. 関根則之

    関根則之君 法律に書けばすべて正当行為になるという、それは私はちょっと無理なんじゃないかという感じがします。  時間になりましたので、石渡議員にあとお願いを申し上げて、私の質問を終わります。
  45. 石渡清元

    ○石渡清元君 今、関根理事質問のとおり、非常にこの問題は複雑、多面的な面を有しておりまして、人の死と脳死をめぐる社会的な合意、死がいかに多面的な側面を持つかという点でのいろいろな議論かと思うわけであります。私は、一般的に、法文というよりも、皆さんにわかりやすい形でこの問題を理解していただくような質問を、あえて初歩的な質問から申し上げたいと思います。  私の質問は、一つは命と死について、もう一つ脳死について、三番目は臓器移植についてお伺いをしたいと思いますけれども、一般的に人の死というのは医学的な側面ではどういうものを指すのか、厚生省からまずお答えを願いたい。
  46. 小林秀資

    政府委員小林秀資君) 医学的なことからお答えをいたします。  人の死につきましては、従来いわゆる三徴候死、すなわち心臓の拍動停止、心停止です、次に呼吸停止、それから瞳孔散大という三つの徴候により死の判定が行われてまいりました。  しかしながら、人工呼吸器の登場によって呼吸運動の維持が可能になってきたのに伴い、呼吸運動は人工的に保たれているものの、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に喪失したいわゆる脳死という概念が生じてきたところでございます。この脳死についても、医学的には従来の三徴候死とともに人の死とされているところと承知をいたしております。
  47. 石渡清元

    ○石渡清元君 脳死については、また具体的な形で後ほどお伺いをしたいと思っておりますけれども、それでは法律的な意味の死というのか、そういう側面での人の死についてどんなものがあるか、これは法務省からお答え願いたいと思います。
  48. 揖斐潔

    説明員(揖斐潔君) お答え申し上げます。  法律上、人の死を要件として一定の効果を生じさせるものとしてはいろいろなものがあるところでございます。民事法の観点から申し上げますと、人が死亡いたしますと、その者は権利義務の主体たる地位、すなわち権利能力というものを喪失するところとなるわけでございまして、契約の当事者等になることができなくなるわけでございます。また、人の死亡により相続が開始することとされているところでございます。
  49. 石渡清元

    ○石渡清元君 人の死によって人の地位が大分変わってくる、こういうことでございますけれども、脳死臨調の梅原猛氏の考え方がまた少し特異でございまして、脳は肉体と精神を統一する器官であるとは言えない等々、したがって脳死臨調ではやや少数意見での併記をされているところでございます。  私は、人の死というのは非常にいろいろな面がある。今、医学的な面あるいは法律的な面をお伺いいたしましたけれども、そのほかに宗教的な面もあれば哲学的な面もありますが、これをここで議論することができませんので、いかに死というのは複雑かということを強調したいわけでございます。  一方、死と反対側に命というのがあるわけでありますけれども、いかに延命するかという意味救急医療を初め蘇生医学、終末期医療等々ございます。そういったような今の我が国の延命医療の世界的な水準とか、あるいは一方では人工臓器がどんどん今開発をされておりまして、その開発状態、命をいかに延ばすかという、そういう現状というのを厚生省からお伺いいたします。
  50. 小林秀資

    政府委員小林秀資君) 救急医療、蘇生医療状況につきましては、まずその体系的整備については、特に重篤救急患者の受け入れを二十四時間体制で確保することを目的とした第三次救急医療体制の整備などが進められてきておりまして、また医療技術の面でも近年、脳低温療法という新しい蘇生技術も研究開発されるなど目覚ましい成果も生まれていると承知をいたしております。  また、人工臓器の開発につきましては、一部のものは短い期間使用されているものもございますが、人工心臓、人工腎臓などは長期に人間に使えるような状態になるまでには多くの課題が残っており、現在、研究開発の段階と承知をいたしております。
  51. 石渡清元

    ○石渡清元君 そうすると、延命医療の方でかなりいろいろな技術が、医学が日進月歩、発達をしている。特に、今例に挙げられました脳低温療法等々の医療がある。そうしますと、人の蘇生限界点は医学の発達に応じてどんどん移っていく、動いていくという考え方とすると、今議論になっております竹内基準脳死判定基準というのも当然動き得るという考え方ですか。
  52. 小林秀資

    政府委員小林秀資君) 救急医療、蘇生医療進歩によって蘇生限界点がだんだん後ろへ下がっていくのではないかというおただしでございます。おっしゃられるとおり、だんだん後ろへ下がってはまいりますが、ただ、今言いました蘇生限界点と脳死時点とは幅がありまして、脳死段階にだんだん近づいてはいきますけれども、いわゆるポイント・オブ・ノーリターンという、もうここまで行ったら下がりません、できませんという脳死判定のところまでは行かない。今、そこまでの間をだんだん詰めていくというふうに医療進歩しているものと了解をいたしております。
  53. 石渡清元

    ○石渡清元君 そのポイント・オブ・ノーリターンがなかなか一般の人はわからないわけなんです。医学が発達すれば一時間でも多く生きていられるという一般的な理解ですよね。  したがって、やがてはがんも克服されるだろう、こういうことになれば、当然蘇生限界点、これもなかなか一般的な言葉じゃないけれども、竹内基準も動くのかなと。では、竹内基準というのが見直されるということはないんですか。
  54. 小林秀資

    政府委員小林秀資君) まず、先ほどの答弁、誤解を招くといけませんのでもう少し補足させていただきますと、救急医療進歩、蘇生医療進歩があっても脳死のポイントのところまでは至らない、ですから脳死時間が後ろへずれるということはないということをまず申し上げたいと存じます。  次に、脳死基準の見直しということについては、今の段階では、日本の竹内基準といいますのは世界でも最高級に値するぐらい厳しい脳死判定基準になっております。外国によっては、大脳の死というのは、一番わかりやすく言うと、脳波がとまるだけでもって死とされている国もあるような状況でございますけれども、日本はそうではなくて、完全死、いわゆる全脳の不可逆的死ということで脳死判定をされているわけでございます。  ただ、脳死判定というのは、今の段階で私どもは今の科学で知り得る最高のことで申し上げておりますけれども、世の中というのは絶対というものはないのでございまして、そういう意味では、今後の科学進歩というものも絶えず見ていかなくてはいけないという意味で検討ということが入っていると思いますし、現時点ではまだ子供さんのこともよくわからないということで、六歳未満の子供については脳死判定の対象にしないと、このようなことを竹内基準で決めているわけでございまして、そういう点なども今後の検討課題だと私は思っております。
  55. 石渡清元

    ○石渡清元君 大脳が死んだと、そう言われますけれども、脳波を見るとフラットになっても拡大すると時々反応したり、そういうケースもあるわけなんです。ただ、この議論だと一般的にわからないんですね、どういう状態か。  それでは、脳死というのは一般的にどういったような状態、普通の素人とか、いわゆる遺族、家族というんですか、そういう方がわかるような説明の仕方をしてもらえますか。脳死基準じゃなくて、脳死状態というのはどうだと。
  56. 小林秀資

    政府委員小林秀資君) まず、深いコーマ、コーマというのは日本語で深昏睡と申します、という状況。それから自発呼吸、自分で呼吸するということがもうなくなってしまった、自発呼吸の停止。それから、よくわかるのは、瞳孔の散大といって、お医者さんが患者さんの目を開いて懐中電灯を当てられて、瞳孔が開いたり動いたりするかどうかということを見ているわけですけれども、そういう瞳孔の反射を見ております。それから、脳幹の反射ということで、対光反射とか角膜反射とかいろいろなものがございます。それから平たん脳波、平たん脳波はちょっと脳波計という器械を使わないとわからないんですけれども、そういうようなことで脳死ということがある程度は想定されるのではないかと思います。
  57. 石渡清元

    ○石渡清元君 私がお伺いしたのは、それは参議院の調査室の資料でかなり細かく書いてあってよく承知しています。ただ、一般的にわかるように、どういう状態になったときに脳死になる、例えばピストルで撃たれたとか交通事故に遭ったとか、そういう具体例をお伺いしているんです。
  58. 小林秀資

    政府委員小林秀資君) 一次的脳障害の事例として、脳挫傷だとか、それから脳の腫瘍、それから頭蓋内出血、髄膜炎、脳炎などでございます。そういう一次的な脳障害でもって脳死になるということが多い、このように言われております。
  59. 石渡清元

    ○石渡清元君 先ほど中山先生から、こういった脳死お話が約一%未満というお話がございました。  具体的に日本で何例ぐらいあって、そのうち、だれでも臓器提供できるわけじゃありませんから、いい状態臓器が具体的に提供できるような状態の症例というのは、経験がないから、何にもやっていないからわからないかもしれないけれども、大体何例ぐらいなのか、あるいはアメリカでの具体例がわかればちょっと比較をしたいんです。
  60. 小林秀資

    政府委員小林秀資君) 脳死の原因につきましてちょっと補足させていただきますと、最も多いものがクモ膜下出血や高血圧性の脳出血でございまして、脳死の約六五%を占めております。次に多いのが交通事故などによる頭部外傷で一八%を来しておる、こういうことでございます。それで合わせて全体の死亡の約一%ぐらいの方が脳死という段階を通って旧来の死に至っているわけでありまして、残りの九九%の方は心臓死という形で死に至っているわけでございます。  そして今度、一%の中で、先生が今おっしゃったように、臓器移植ということで本人意思はあっても実際に使えるのかどうか、その臓器自体に病気があるのではないかとかいうことについてのデータは持ち合わせておりません。
  61. 石渡清元

    ○石渡清元君 だんだん時間がなくなってきたんですけれども、結局、脳死状態というのは非常に限られた状態なんですね。アメリカみたいに銃社会とか車社会で年じゅう交通事故が起きたり、ばんばん毎晩撃ち合いがあるようなところでさえ臓器が不足しているんでしょう。日本でこれが始まったときにどのくらい対象ができると考えるのか。  そして、衆議院発議者、参議院発議者にお伺いしたいのは、脳死判定というのはどこでするのか。交通事故が起きたときに救急センターかどこかに連れていかれる。どこでだれがするのかというのを具体的に、それと時期ですね、それをお伺いをします。
  62. 自見庄三郎

    衆議院議員(自見庄三郎君) 石渡委員脳死判定はどこでいつだれがするのかという御質問でございますが、今厚生省の局長の答弁にもございましたように、脳血管障害、脳出血あるいは頭部の外傷を負っている場合が多いわけでございますから、ごく常識的に考えれば、そういった患者さんが大学病院あるいは救命救急センターなどに搬入されるわけでございますが、治療を行いましても回復の見込みがないと臨床的に判断された状態医療行為の一環として行われるというふうに承知をいたしております。  脳死とされる時点については、いついかなるときかの時間の問題もあったと思いますが、竹内基準というのがございます。これは何も日本だけの特別な基準ではございませんで、アメリカの大統領委員会あるいはイギリスの王立医学会等々の基準とほとんど横並びでございまして、なおかつその横並びの中でも日本の竹内基準脳死判定について大変厳しいというふうな国際的評価をいただいておるわけでございます。  その竹内基準において第一回目の検査、これは詳しくは申しませんが、非常に深い昏睡状態、例えば顔を針で突きましても全然反応がないとか、それから胸の大胸筋と申しまして、これを幾ら握りましても全然痛いような顔をしない、そういった非常に意識状態の悪い状態を深昏睡と申しますが、一番昏睡状態、意識状態の悪い状態でございます。そういった状態あるいは無呼吸、もう呼吸をしないというふうな患者さんが対象になるんだろうと思うわけでございます。少なくとも、第一回目の検査等々については申しませんが、脳幹反射の消失だとか、あるいはさっきございましたように、脳波をとりましてもこれは全然もう平たんである、これは患者さんの家族に見ていただいても理解しやすい部分でございます。そうして、最終的には無呼吸テストというのがございます。これは最終的なテストというふうに義務づけられております。  なおかつ竹内基準は、これはもう勝手にばらばらにやられては大変なことになる可能性がございますから、これはきちっと省令の中に書き込むということをやらせていただくわけでございますが、一回目の診断を行った後、少なくとも六時間を経過した後に再検査を行い、変化がないことを確認した場合に実は脳死診断される。  これも一人のお医者さんではだめです。二人の十分な経験を持ったお医者さんがやるということは省令上きちっと書き込みますから、脳死判断をするお医者さんと移植をするお医者さんは別々に分けましょう、こういう考えで、二人のお医者さんが脳死判断をする、こういったことになるのかなというふうに思うわけでございます。
  63. 竹村泰子

    委員以外の議員(竹村泰子君) 脳死判定の場所と時期という御質問でございますが、場所につきましては、脳死または脳死に近い状態になりますのはおおむね交通事故その他の事故による場合あるいは脳に何らかの障害が起きた場合ということから、救急医療のために運び込まれた病院または集中治療室というふうに考えられます。  それから、時期につきましては、主治医または当該の医師及び私どもの法案では移植関係のない医師二人が立ち会いまして、そして家族の同意を得て判断の一致があったときがその時期というべきではないかというふうに考えます。
  64. 石渡清元

    ○石渡清元君 法制的にはよく理解をできるんです。  なぜ、その場所あるいは判定時期をお伺いしたかというと、ドクターによって積極的に脳死ですよというような傾向の先生と、それから提供者側、いわゆる患者さん側からすれば生きてはいないけれどもまだ死んではいない状態ですから、それで、いやもうそろそろ脳死だと言われたら、これはなかなか、その辺に不安と不信というのがあるんじゃないか。あるいは、脳死に至るまでの治療行為がちょっと後退しちゃうんじゃないかとか、そういったような懸念、あるいはその辺のところをもう少し一般の方にわかるような何か一つ方策が必要ではないかなと私自身具体例として思うわけでございます。そうでなくとも提供を受けたい方はたくさんいるわけで、その辺のところは何かいいお考えはございますか。
  65. 自見庄三郎

    衆議院議員(自見庄三郎君) 石渡委員の御心配ももっともでございまして、まさにこの脳死判定はきちっと医学的、科学的根拠に立って、なおかつ透明性を持ってやるということが大変大事でございます。さっき私は詳しくは申しませんでしたけれども、判定者は脳死判定に十分な経験を持つ専門医あるいは学会認定医、学会認定医といいますと大変脳神経について専門家でございまして、二人でやりなさいと。一人でやりますと、それは今先生が言われたように、臓器をいただきたい人がたくさんいますから、移植医と別の人ときちっとやりなさいと。  なおかつ、もう先生御存じの、法律にございますように、この記録をきちっと全部とっておきなさいということでございまして、法律上、記録、保存しておきなさい、もし後から何かあったときに本当にその人が脳死だったのかどうかということを、これは多分日本の医学の今のシステムの中でこういった記録を残しなさい、あるいは場合によったら閲覧に供しなさい、こういったことを法律規定するのは実は初めてでございまして、それくらいやはりきちっとオープンでピュアでベストなことを法律上つくっていこう、こういった趣旨でございます。
  66. 小林秀資

    政府委員小林秀資君) 先ほど私の答弁一つ間違えまして、申しわけございません。大脳死脳幹死を逆に言ってしまいまして、まことに申しわけありません。脳幹死だけでもって脳死としているところがあります。大脳死ではございません。申しわけございません。  次に、今の臓器提供施設でございますが、臓器提供手続に関するワーキンググループというのがございまして、そこの出した指針、骨子案の中で、臓器提供施設につきましては、まず当初の段階では大学附属病院の本院、それから日本救急医学会の指導医指定施設二十九、合わせて八十八施設でもって当分の間脳死判定を行う。それから、その後ですが、その後拡大していきますと今の八十八に足すことの日本脳神経外科学会の専門医訓練施設二百七十、それから救命救急センターとして認定された施設百二十九、これ全部合わせて三百二十三施設でもって脳死判定を行おうと。  といいますのは、先生が今おっしゃられましたように、脳死判定ということで、自見先生も今おっしゃられましたように判定医のことももちろんあります。しかし、施設についても当面の間限っていこう、こういうような考え方がこのワーキンググループで示されているところでございます。
  67. 石渡清元

    ○石渡清元君 臓器移植自体がいかに大変な作業かということは、臓器摘出というのは大体普通は多臓器、心肺から始まって心臓、肝臓、腎臓、全部とるわけでしょう。一体そのコスト、臓器移植の時間的にあるいは人的にも、血管剥離のチームから始まって摘出するコスト、時間、人的労力、そして移植の同じような時間的なあるいは人的な、移植は物によって違うでしょうけれども、その辺を。簡単でいいですよ。
  68. 小林秀資

    政府委員小林秀資君) 先生おただしのように、臓器摘出について幾らかかるのかというデータは持ち合わせておりませんし、そういう報告は承知をいたしておりませんが、心臓移植について言いますと、心臓移植につきましては日本胸部外科学会臓器移植問題特別委員会の試算がございまして、それによりますと、移植手術並びにその後の治療、管理も含めて移植後一年間で約一千万円がかかる、このように学会が申されています。  また、肝臓移植については、肝移植研究会の試算によりますと、今の手術及びその後の管理も含めて一年間で約九百万円、このように言われております。  また、臓器移植にかかる人員、時間につきましては、移植医療臓器の提供から摘出、移植、術後管理までチーム医療で行うものであり、臓器移植する手術に限定すると、おおむね通常の心臓の開胸手術や肝臓の手術にかかる人員、時間と大きな差はないと承知をいたしております。アメリカでは、臓器移植医師移植医と麻酔医を含め約四人、これに看護婦スタッフが数人必要であり、通常数時間かかると聞いております。
  69. 石渡清元

    ○石渡清元君 その費用、ちょっと過少な、私はもっとかかるんじゃないかなと思いますけれども、もう時間がありませんので。  結局、要は移植希望者と臓器の絶対数のアンバランスからくるいろんな問題が実は心配をされるわけでございまして、アメリカのニック・ガイターノの「仮面のコレクター」という小説が、これは臓器移植を、提供を求めている患者の入院している病院の救急室の前に瀕死の被害者を置いていくというような意味の小説まで出ているぐらいですから、そういったようなこととか、あるいは臓器移植がゴーになった場合に疾病範囲がぐっと広がってしまわないか、じゃ私もその対象になるんじゃないかという患者さんが、もちろん良性疾患の人が対象でしょうから、そういうふうにはなりはしないか等々の問題が若干心配なのでございます。何かコメントがありましたら。
  70. 自見庄三郎

    衆議院議員(自見庄三郎君) 先生の御指摘は、移植を受ける機会が本当に公正に与えられるかということだろうと思います。  これは、この法案の中にも書いてありますように、まず臓器の提供に関する本人意思は尊重されるべきことであると。なおかつ、臓器は任意に提供されて、なおかつ人道的精神に基づいて提供されるものでございますから、今先生が御懸念の、本当にこの移植術を受ける人が公正に受けられるのかと、もし法律ができた後、これは最も大事な点だと、私はこういうふうに思っております。  もう詳しいことは申しませんけれども、どういった人が優先的に受けられる、同じ病気の重症度とか、あるいは臓器移植したときにつくかつかないかとか、組織適合性と申します、そういった問題。それから、一番長く待っている人が当然優先されると。そういったいろいろな基準厚生省でもつくっておりますが、これはもう本当に国民に関してもきちんと公正に臓器が配分されることが非常に大事だと思います。ましてや、臓器の売買なんというのは絶対あってはならない話でございますから、そのことは御存じのように、この法律の中で厳しく禁止をし、罰則規定をきちっとつけているところでございますから、御理解をしていただきたいというふうに思っております。
  71. 石渡清元

    ○石渡清元君 終わります。
  72. 水島裕

    ○水島裕君 平成会の水島でございます。  ともかく、今、日本で移植を受けたい患者さんがたくさん待っている、それから日本で移植をできる技術があるということから、私はいろんな条件をつけたりハードルは高くしても、何とか一日も早く移植ができるような法律ができることを願っているわけであります。  前回、本会議では中山案賛成の立場でいろいろ御質問いたしましたけれども、きょうはむしろその二つの法案が何とか調整できないだろうかというような点で、まずこれまでいろいろ議論があったことの認識点をまとめまして、それから私の意見も申し上げ、それから提案者の御意見もお伺いしたいというふうに思います。  わかりやすいように、お手元に——(「まだ配っていない」と呼ぶ者あり)資料を配っていただけますでしょうか。    〔資料配付〕
  73. 水島裕

    ○水島裕君 それでは、資料を配っておりますうちに、逆に先ほどから、脳死は人の死でいいか、あるいは心臓死との関係はどうかというお話が出ましたので、私が知っている限りのことを申し上げますと、普通の人は九九%以上、まず心臓がとまって、呼吸もとまって、それから脳死になるわけでございますけれども、その心臓は何も心臓死というんじゃなくて、心臓死からもうその時点では既に脳死になっているか、あるいは心臓死になったときに脳死判定をすれば脳死になっているということで、心臓死脳死は非常に近いというようなことを前置きいたしまして、もうお手元に行ったと思いますので、まずこれまでの認識を申し上げて、もしも何らかの修正とかあるいは決議をすれば一つ法案で非常に多くの議員に賛成していただけるというものができれば一番いいわけだと思いますので、そういう論点でいきたいと思います。  まず一は、脳死体もしくは脳死状態からの臓器移植は一定の条件下ではぜひ行われるべき、あるいは行うことを認める。  それから二番目が、一定の条件下、今申し上げた条件などは法律で定めるということがいいのではないかというおおむねの了解がある。  それから、医学的に言いますと、脳死は人の死ということに関しても、これも大体皆さん理解していただいていると思います。事実そうでございます。  それから四番目として、脳死が人の死であるという国民的合意については両論ありまして、私の意見もそうですが、少なくとも十分の合意は現時点では得られていないという意見の方が多いと思います。  それから、患者が書面で同意すれば脳死体あるいは脳死状態からの移植は認めてよいが、いろいろわからないところもございますので、将来は別としましても、現在は移植以外に脳死判定は余りすべきではない、またはしなくても差し支えないんじゃないか。ほかの死についてはいろいろ余り最後まで判定しなくてもいいんじゃないかということでございます。ただ、人の死に二通りあることは好ましくない。この人の場合は脳死にしよう、この人の場合は心臓死にしようということはぐあいが悪いのではないかということであります。  この最後の点につきまして、私は、将来的には脳死が人の死ということで一本化した方がやりやすいと思いますが、その将来というのが社会的なこと、いろいろなことがありますから、もう来年になるか、再来年になるか、あるいは五年先になるか、十年先になるか、これはわかりません。将来はもう少しすっきりした方がいいんで、その場合は、移植のことばかりではなくて不必要な治療はしないとかいろんなこともありますので、脳死を人の死というふうに定めて、ただ一般的には、我々医療のときでも普通は心臓死で死を判定しているので、それはもう間違いじゃなくて、心臓死であるということは脳死であるということを同時に証明しているようなものでございますので、そういうのは今の医療と全く矛盾がないわけでございます。こういうことが大体今までの認識ではないかと思いますけれども、意見を異にされる方もいらっしゃると思いますので、提案者からそれについてお伺いしたいんです。  それと同時に、私は、先ほど申しましたように、もし修正とかあるいは決議を加えるならばそのポイントはどういうところであろうかということで、それもその一枚の紙に書いてありますけれども、「臓器死体脳死体を含む)から摘出する」ということは生かす。これは何も現段階脳死は人の死と決めるとかそういうことではなくて、単純に脳死、「臓器死体脳死体を含む)から摘出することができる」は生かして、そのかわり「脳死判定家族の承諾がある場合に行う。」、あるいは、もう少し今の現状の医療に合わせて行いますと、「脳死判定はインフォームドコンセントをとる。」と、そういうふうにしたらよろしいんじゃないかと思います。  確かに、医療法でもあるいは今後改定される医療法でもインフォームド・コンセントというのは努力規定となっておりますが、その意味は、小林局長なんかにもよくわかっていただきたいのですけれども、何から何までインフォームド・コンセントをとるというのは実際の医療では難しいわけですね、ほとんどできないわけでございます。だけれども、なるたけ努力してそうしろというのが努力規定でありまして、極めて重要なものは、これはもう今の医療でも一〇〇%インフォームド・コンセントをとるべきであります。  例えば、手術していいかどうかというのを患者さんにも家族にも聞かないで今手術するということなんか絶対あり得ないわけでございますから、それと全く同じで、先ほどのいろいろお話しになりました無呼吸テスト、そういうものをただ黙ってやるというのは私は現在の医療でもおかしいと思いますし、厚生省が進められているインフォームド・コンセント努力目標にするということを法制化なさればますますそうなるというふうに思います。  本当のことを申しますと、もう一つ、先ほど関根委員の方からもお話がありました、たしかそうだったと思いますが、脳死は人の死と認めた上で自分の臓器を提供していいというふうにはっきり書けば、もう一番すっきりしているのであります。  ただ、これを余り強く言いますと猪熊案の方とちょっと違ってきてしまうので、遠慮して紙には書かなかったわけでございますけれども、猪熊案の方々がそれでいいと言えば、私はそれが一番すっきりしているんじゃないかというふうに思いました。私はその方が賛成なわけであります。  では、ここまでについて両方の提案者からあるいは厚生省の方から何か御意見がありましたらお伺いいたします。
  74. 矢上雅義

    衆議院議員(矢上雅義君) それでは、水島議員よりお尋ねの件、続けてまとめて御説明させていただきます。  まず、脳死体もしくは脳死状態からの臓器移植は一定の条件下ではぜひ行われるべき、あるいは認めるべきかという御質問でございますが、議員御存じのように、我が国では現在事実上脳死体からの臓器移植が行われておらないため、臓器移植以外では助からない多くの患者の方は、移植を受けることができる日を待ちわびながら無念の思いで……
  75. 水島裕

    ○水島裕君 わかり切ったことはそれはよろしいです。
  76. 矢上雅義

    衆議院議員(矢上雅義君) これはよろしいですか。わかりました。じゃ簡潔にやらせていただきます。  先生おっしゃるように、本法案の成立を急ぎまして、できれば慎重審議をさらにしていただきまして、脳死体からの心臓や肝臓などの臓器移植の道を開いていくことがぜひとも必要であると考えております。  続きまして、二番目の質問で、一定の条件などを法制化することをおおむね了解されているのかということでございますが、脳死体を含む死体からの移植術に使用されるための臓器の摘出の要件、臓器移植に関する記録の作成及び保存、また臓器売買の禁止、臓器あっせん機関に対する規制等、移植医療に必要な法的な枠組みを整備する必要があると考え、本法案を提出させていただきました。  三番目に、医学的には脳死は人の死であるということに関して理解がされておるのか、国民的合意があるのか、これは一番先生のお聞きされたいところだと思いますが、これにつきましては、我が国の医学界におきまして、特に日本医師会の生命倫理懇談会、日本救急医学会、日本法医学会などにおいても脳死を人の死と認める見解が……
  77. 水島裕

    ○水島裕君 委員長、よろしいですか。
  78. 竹山裕

    委員長竹山裕君) はい。
  79. 水島裕

    ○水島裕君 これは個々に説明していただく、御返答いただくわけじゃなくて、もうこちらと同意しているところは飛ばしていただいて、こちらと意見が合わないところだけおっしゃっていただく、あるいは特別なことがあればおっしゃっていただくというふうにしていただけませんでしょうか。
  80. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) 両案を一本化するというようなお考えの中で、私ども衆議院段階でも提案者でいろいろと協議いたしました。その中で一番の大きな問題は、脳死状態から家族の同意を得て心臓並びに肝臓を摘出することができるといった衆議院の金田案に対して、私どもはそれで修正をするということはできないという判断に達しました。  その背景にあるものは、刑法で人の嘱託を受けもしくはその承諾を得てその生命を絶った者を処罰している、その規定のもとにおいて、例えば人工呼吸器は外して自然死にゆだねるような消極的な行為状況により違法でないとされることもあるだろう、しかし生きている人の心臓を摘出してその人の生命を絶つような積極的な行為は到底違法でないとは言えない。このような行為を違法でないとする考え方には、二つの生命の間に価値の差を認め、一方でより高い質を有する生命を持つ患者を救済するために他方では質の低い生命を持つ患者を犠牲にするという考え方を示している。ここで、私どもは一緒にこの修正をすることはできないという結論に達したわけでございます。
  81. 水島裕

    ○水島裕君 それでは、猪熊案の方から御意見をいただきたいと思いますけれども、全体に関してではなく、一番問題は、今中山先生のおっしゃったことだと思います。  私の本会議質問答弁で朝日議員は、人の死というのは文化によっていろいろ違うのでへそれぞれの立場を認めたらどうかというような趣旨のことをおっしゃったと思います。それですから、例えば、先ほど申し上げましたように医学的にほぼ同意されていることに賛成する、つまり脳死は人の死であるということを認め、なおかつ自分の臓器を提供してよいということを書面で書いた方はやはり脳死は人の死と認めてあげてよろしいんじゃないかと思いますけれども、そうしますと何とかこの共通点もできてくるんじゃないかと思いますけれども、その点、まずいかがでございましょうか。
  82. 猪熊重二

    委員以外の議員猪熊重二君) 水島先生の御質問にお答えします。  まず、私たちは脳死状態からの臓器移植は認容されるべき現時の医療行為一つであるとは考えます。しかし、この医療行為はあくまでも善意の臓器提供者の自由な意思決定があることを前提に行われなければならない、このような観点から、国の立場としては、善意の臓器提供者の自由な意思決定に基づく臓器提供意思の適正な実現に協力すること、すなわちこの善意を実現するにふさわしいレシピエントを選定してこの両者を結合させることを目的として法律を制定するべきであって、それ以上に国がドナーの強制的登録や臓器移植の積極的推進政策を進めることは国民の権利保全の観点から不適当と考えています。  また、私たちは脳死状態は人の死ではないという立場に立ちます。また、医学的にも脳死状態は人の死であるという見解に対しても直ちに賛成するわけにはいきません。なぜなら、医学的に死であるということの中身がはっきりしない段階で、脳死状態医学的に死であるということを言うことの意味内容がはっきりしないからです。  それからへ私たちは、脳死イコール死ということについての国民的合意は全く存在していない、そのように考えています。脳死臨調を初めとする各種の見解において、脳死イコール死についての社会的合意があるというふうな見解がありますけれども、もし社会的合意の成否を検討する場合には、五割ないし六割未満の人々の賛成が多数意見とは言えないし、三割前後の反対の人がごく少数ということも言えないし、脳死状態イコール人の死を強制することは、これを容認していない人々の生命の尊厳という基本権を否定することにつながるから、社会的合意の存在を認めるわけにはいかない。  それから、脳死判定にはいかなる場合にも本人の同意及び本人意思を表明し得ない場合には診療依頼者である家族の同意がどうしても必要だと、このように考えます。脳死状態イコール死ではないという立場に立ちますけれども、その場合であっても、医師に診療を依頼した本人もしくはその家族が危険を伴う脳死判定を拒絶する権利を委任者の立場において当然に保有しているという立場に立ちます。  それから、人の死に二通りあるというふうなことは、社会的にもまた法律的にも社会秩序上大きな混乱の原因となり望ましいことではない、このように考えます。  以上です。
  83. 水島裕

    ○水島裕君 一つの大きな点を除けば、猪熊先生の言っていることと私の言っていることとほとんど同じでございますので、この辺はひとつ討論をこれからもいろいろ続けていただけると思います。  せっかくの機会でございますので、私は臨床医でございますので、先ほどから脳死とか死という話が出ましたので私なりに考えを述べさせていただきますと、人の体にはいろんな器官があるわけです。すごく命と関係のある器官がありまして、それがそれぞれ機能を停止すると、それが全部になると死に至るわけであります。ただ普通、死に至って、もうお墓の中に入っても細胞のうちの幾つかはまだ生きているわけでございますし、それだけとれば永久に生きているということもあるので、死の定義というのは非常に難しいわけであります。  ですから、今は重要な臓器が幾つか機能停止したということで死と言っているわけで、三徴候死というのは、一つ心臓一つが肺、呼吸、もう一つが瞳孔というのは大体脳死と同じでありまして、脳も死んでいる。その三つがそろっているのを今脳死と言っているわけであります。  そのほかにもいろんな重要な臓器があるので、この脳死の導入というのはどういうことかと申しますと、もちろん全部の臓器がみんな死ぬのをはっきり確かめて死とすれば、もちろん全然それで異論はないわけでございますけれども、一つ臓器をとってどの臓器機能がなくなったら最も死と言えるかというと、最近の医学進歩、これは多分理解していただけると思いますけれども、それは脳なのであります。心臓が死んでも心臓を取りかえたり人工心臓にすれば、その人はいつまでだって生きていられるわけであります。肺でもそうですし、ほかの臓器でもそうです。だけれども、脳だけは全部機能が停止したら、もうどんなことがあってもその人はよみがえってこないわけであります。  ですから、将来はやはり脳死をもって人の死とする方向が、今余り言いますとまたがたがた議論になってしまいますのでやめますけれども、将来はそういうふうになっていく。だから、将来そこまで行くまでは何とか我々の知恵を働かせて、臓器移植はできるけれども、そういう国民的合意が得られないような方法はなるだけしないようにということで今いろいろ考えているのであります。その三徴候死のうちの非常に大切なのも脳死である。ただ、そのときに、一緒に心臓も肺も機能を我々は調べて死としているという辺で、全体を少し御理解いただければ大変ありがたいわけであります。  ですから、何か極端な議論を我々は言っているわけじゃなくて、大体言っていることは同じであります。特に、何か心臓死脳死が別個のようなもので二つの死を認めているじゃないかということがありますけれども、心臓死の場合はもうその時点で、あるいは仮に脳死判定をするとすれば一〇〇%脳死になっているわけですので、九九・何%はそういう経過をたどるわけでございますので、九九・何%に関しては脳死イコール人の死で、死を二つに見ているとか、どっちを判定するということはもう絶対にないんです。  問題は、脳死が先に来て、これは数日だったんですけれども、だんだん医療進歩もあるせいか一週間ぐらい、長いのは二週間にもなりますけれども、脳死が来て一週間、二週間ほかの臓器機能が動いているときにどうするかということであります。この法案が仮に通れば、脳死判定したときが死亡の時刻というふうにはっきりすれば問題はないのでございますけれども、いろいろこれからもまだまだ討論は続くと思いますので、事実に一番近い、やはりこういうのは真実に一番近いことでなるたけまとまっていただきたいというのが私どもの望みでございますので、どうぞよろしくお願いいたします。  これで終わりにいたします。
  84. 山崎順子

    ○山崎順子君 平成会の円より子こと山崎順子です。私の質問時間は答弁時間を含めて二十分という限られたものでございますため、きょうは一つの問題に絞りたいと思います。  それは、中山案と呼ばれるこの臓器移植法案衆議院を通過したことによって、さらに大きな問題となってきた、脳死を人の死として法律で一律に定義していいのかという問題でございます。  今、同僚議員からもいろいろこの問題については質問がなされまして、答弁もございましたけれども、私は、五月十九日の本会議でもこのことについて質問いたしました。このとき、中山案の提出者から次のような答えしか返ってきませんでした。「この法律案は、臓器移植に関するものであり、人の死を統一的に定義する法律ではないことを御認識いただきたい」と、このようにおっしゃいました。  この中山案は、臓器移植を何とか我が国でもできないかということで出てきたわけですけれども、脳死状態の人を脳死体とみなして臓器移植ができるとしているわけで、脳死状態の人を脳死体としますと、私は死の定義を変えることになると思うんですね。そして、脳死状態の人の人権や治療権が阻害されることになると思います。もちろん、臓器移植で助かる命があることは大変重大なことだと思いますけれども、実利のために死の概念を変えてもいいのか、こういう問題が今さまざまなところから起きてきていると思います。  そこで、「死体脳死体を含む。)」と第六条に書いてあるんですけれども、まず猪熊案の提出者にお伺いしたいんです。  脳死体ではなく、脳死状態にある者の身体から臓器の提供というふうに猪熊案ではしていらっしゃると思いますが、我が国にはこれまで死を定義した法律、ましてや死体とは脳死体も含むと書かれたような法案があったでしょうか。そしてまた、中山案は我が国で初めて法律脳死を死と定義したことになると思うのですが、どのようにお思いになるのか。また、なぜ猪熊案では脳死体という形に定義なさらなかったのか。  その点についてお伺いしたいと思います。
  85. 堂本暁子

    委員以外の議員(堂本暁子君) ただいまの御質問にお答えいたします。  今までるる関根先生の御質問などで明確に中山案については発議者から御答弁がございまして、死について定義しているという御答弁だったと思いますので、そのようにお答えさせていただきます。  私どもの方の法案については、脳死を人の死と認めていない以上、脳死体という言葉を法律の中に書き込むことはいたしませんでした。したがって、定義する必要もないということでございます。  先進諸国の法律では、医学界に認められた判定基準で死は判定されるといったような表現が普通だというふうに聞いておりますし、脳死というものを法律に書き込むことはいささか乱暴だというふうに認識しております。
  86. 山崎順子

    ○山崎順子君 次に、では中山案の提出者にお伺いしたいのですが、死を一律に法律で定義したのではないというふうにたしか本会議でもほかでもお話しなさっております。ただ、脳死は人の死であるということ、つまり社会的合意があることを前提として脳死体死体であることを確認的に規定したのだと、そのようにおっしゃっております。  しかし、この法案は、脳死を人の死とするという規定こそもちろん置いていませんけれども、脳死判定されたものを脳死体とし、これを死体からの臓器移植として認めるというのですから、明らかに私は脳死を人の死とする前提に立っていると思います。そして、何度も御答弁の中で、九二年の一月に出された脳死臨調答申の「概ね社会的に受容され合意されている」ということをおっしゃっていますけれども、脳死を人の死とするのは社会的合意ができている、このようにおっしゃっているわけです。  しかし、この脳死臨調答申が出る直前の読売新聞の調査では、強いて言えば死と判定してもいいという消極的な賛成者を合わせても四六・七%なんですね。そして反対の方が二六・三%、どちらとも言えないという形で賛否をはっきりさせていない方が二三・七%いらっしゃいます。答えない方が三・四%。つまり、半数は脳死を人の死とは言っていないわけですから、私には「概ね社会的に受容され合意されている」とは言えないと思いますし、これを前提になさるのはどうもおかしいんじゃないかなというふうに思うわけです。この「概ね」というのがどういう基準なのかお伺いしたいくらいでございます。  さらに、直近の調査が衆議院の採決直前に行われました、ことしの四月でございますけれども。その前に、答申が出た後、九五年十二月調査は、脳死を人の死と認めていい人が最もふえておりまして五四・四%になり、反対派は一九・二%に減りました。ところが、今申しましたように、直近の調査では賛成派は逆に四六%に減って、どちらとも言えない人が二七・五%にふえ、また反対派も一九・二%から二四・二%にふえたわけです。このことはよく御存じだと思います。また、NHKの調査でも、九〇年の十月時点では、脳死を人の死とすることに賛成する人が四二・〇%いましたが、去年の三月、九六年では三四・六%に減っているわけです。  つまり、中山案脳死が人の死であることが社会的に受容され合意されていることを前提として、脳死体死体であることを確認的に規定しているわけですけれども、この前提が崩れれば六条は成り立たないということになるのではないでしょうか。確認規定というのは社会のルールとか大体の常識を明文化されるものだと思っておりますけれども、この前提が崩れれば成り立たないということについてお答えいただきたいと思います。
  87. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) 脳死臨調答申で、「脳死をもって「人の死」とすることについては概ね社会的に受容され合意されている」という答申が政府並びに国会に対して行われたわけであります。この臨時脳死及び臓器移植調査会というものは、各党の議員立法によって国会が責任を持って法律案を成立させ、そして政府にその作業を迫ったものでありまして、その二年間の審査の結果、政府並びに国会に対して報告がなされました。政府がこの件に関しまして立法化するということの作業をなかなか行わないものですから国民を代表する国会の立場で立法化した、このように御理解いただきたいと思います。
  88. 山崎順子

    ○山崎順子君 そのとき政府並びに国会がそのように決定したとしても前提はまた崩れたわけです。そうしますと、このような状態の中で脳死は既に社会的に受容され合意されたとして強行するのは余りにもおかしいのではないか。  ましてや、臓器移植そのものに私も反対しているわけではございませんが、死の定義の変更という重要な決断をしてもよいのかということなんです。臓器移植で助かる命を助けたいという思いから法案をつくられた行為には大変敬意を表しております。しかし、なぜ死の定義まで変える必要があるのかどうか、この点についてもう一度お答えいただきたいと思います。
  89. 矢上雅義

    衆議院議員(矢上雅義君) まず、国民の合意の点についてでございますが、確かに直近に行われている読売新聞の結果では、山崎議員がおっしゃったように、四六%ですか賛成が下がっておりますが、長期的に見ますとおおむね賛成が増加傾向にあったことと、その他の新聞におきまして、例えば東京新聞の三月三十日の調査におきましては脳死は人の死であることが六六%とされております。確かに、一つの社の世論調査だけ見ますと増減はありますが、ただ一社だけの世論調査だけを見て、それがもとで国民的合意が崩れたか否かを判断するのは早計ではないかと思っております。  また、人の死をあえて定義するということでおっしゃいますが、この臓器移植法案は人の死を定義するというよりも、先ほど中山先生がおっしゃいましたように、脳死臨調、各党協議会等の意見を踏まえまして、その結果、脳死は人の死としておおむね受容されているという立場に立って臓器移植に関する手続を定めた法律でございます。  以上でございます。
  90. 山崎順子

    ○山崎順子君 たとえ東京新聞の六六%の人が脳死を人の死と認めているとしても、あと三割強の人を切り捨てていいのかどうかという問題がございます。それからまた、この法律脳死を人の死と定義したものではないとおっしゃっておりますけれども、それならなぜ今有識者や宗教界から死の定義をすべきではないというさまざまな反対意見が来るのか。まして、心臓移植手術は単に心臓患者のためだけではなく医学の発展にも大いに貢献するものだとして臓器移植に大変賛成し、この法案ができることを望んでいらっしゃる医者の方からも脳死を人の死と定義すべきではない、別な形の法案をぜひつくってほしいというお手紙などもたくさん来ております。どうしてそういうふうになるのか、死を定義したものではないとお逃げになるのか、さっぱりわからないんです。  さて、医師の間でさえ脳死は人の死であるとの私はコンセンサスが得られていないということがあると思うんですが、厚生省の平成六年調査では、二十三万五百十九名の医師がいるそうですけれども、脳死は人の死と主張しているのは移植外科医、脳外科医、集中治療室勤務医などせいぜい数百人だとも言われております。こういった医師の間でもコンセンサスができていないというような意見がある中で、私は脳死が人の死か生かというような定義をするのは大変危険ではないかと思います。そういった定義をしないで臓器移植ができるように、また医師が免責されるような方法が私は十分可能ではないかと思うんですが、それが猪熊案、衆議院では金田案だったと思います。  もし仮にこの中山案が通った場合に死の定義が変更されるわけですけれども、そうしますとどのような波及効果が生じるのかということがあると思います。このことでもまた中山案提案者は、本法案臓器移植に関する法律であり一般的な人の死の判定に関する法律ではないので、本法の考え方が他の法令の解釈の分野に波及することにはならないが、人の死は事柄の性質上客観的に把握されるべき事実であるから、特段の事情のない限り本法と同様の解釈、運用がなされるだろうと言っておられるわけです。これは必然的に死の定義の変更をもたらさざるを得ないということではないんでしょうか。そして、人の死が客観的であるならば、一律平等に適用されなければならないのではないでしょうか。そうしますと、ちゅうちょしたり脳死を人の死と認めたくない、また反対している人々にも脳死を強制することになりかねないのではないでしょうか。個人の死の選択権というようなことは考えていらっしゃらないのか。また、遺族に脳死判定拒否権がないということなんでしょうか。  先ほど、そのあたりもお話を随分なさいましたけれども、この法案からはどうしても脳死判定拒否権がないというふうに、また個人の死の選択権がないというふうに読めるんですが、いかがでしょうか。
  91. 矢上雅義

    衆議院議員(矢上雅義君) 山崎議員が、国民的合意、また他の法律への影響、そして脳死は人の死であるとすることの反対者への配慮ということでお聞きされましたのでお答えしますが、お医者さんの中でも確かに脳死を人の死と認められない方がおります。  まず、そもそも人の死に直面する方が、個人的に直接自分の親の死とか子供の死に直面される方は非常に少なくなっております。昔は畳の上で死ねたものが、特別養護老人ホームとか病院で大抵亡くなられる。そこに駆けつけられたときはもう既に死んでおられたとか、四十年ほど前と違いまして、お通夜のときに駆けつけて初めて身内の死を確認するということが非常にふえてまいりました。どのような職業におってもなかなか死と直面することが少なくなってきた現在において、国民的合意があるか否かということでアンケートをとりました場合、九〇%、一〇〇%まで望めないのではないかと思っております。そこまでは行かないとしても、ある程度の合理的な範囲でおおむね受容できる社会的合意が成立したと判断せざるを得ないのではないかと思っております。  次に、他法への影響でございますが、私たちはあくまでも脳死は人の死であるという国民的合意前提法律をつくり、法案を提出したわけでございますので、私たちもあくまでも脳死は人の死とする前提に立つものでございますから、私たちの法律そのものがほかの法律に直接影響を及ぼすということはないと思っております。ただ、脳死は人の死であるという国民的合意があるとすれば、そのことがほかの法律に影響する、そう解釈しております。  また、反対者の方への配慮でございますが、インフォームド・コンセントの中で脳死判定を受けるか否か、その点は家族の決断によってくると思います。以上でございます。
  92. 山崎順子

    ○山崎順子君 今畳の上で死ぬ人が我が国は少なくなって、死に直面する人もいなくなったとおっしゃいましたけれども、確かにそのとおりで、どんどん人間というのがそういった形で、私たち国民は自分がいかに生きるべきかだけではなくて、いかに死ぬべきかということを考えてこなかったのではないかと思います。そうしますと、逆に、交通事故脳死になって最も臓器移植の提供者となり得るような人たちが、多分自分はもしかしたらあした事故死するかもしれないから脳死判定はされたくないなんて拒否もまずしないでしょうし、まず死について話し合うなんという土壌が日本ではないわけです。  そういう状況というのはとてもよくなくて、私はできるだけ死に直面する人が多くなるべきだと思いますし、私自身もできるだけ身近な人たちの死には立ち会いたいと思いますから、こういった病院での診療のあり方とか死のあり方をぜひ変えていくべきだし、教育の中で子供のときから死というものをどうとらえていくか、いかに生きるべきか、いかに死ぬべきかということをもっと勉強しなきゃいけないということを考えております。  だから、少なくなったから合意が望めないのじゃなくて、少なかったから私は今まで脳死についても余り議論されてこなかったんじゃないかという気がするんです。だから、脳死臨調というような本当に専門家の中でおおむね脳死は人の死と受容され合意されているというふうになれば、ああそうなのかという形で多分世論調査ではじわじわそれを認める人たちがふえてきたのではないかという気がするんです。そして、今度本当にかなりテレビや新聞等で人の死と認めていいのかというようなことがいろいろ言われて、ああこれはちょっと大丈夫かなということもあってためらう人たちがふえてきたというのが衆議院の採決直前の私はアンケート調査だったんだと思うんです。  その辺の人々の死に対する考え方、それから日本の国で死というものの話し合いが余りなされてこなかったということをもう一度よく考えて、この臓器移植法案を通すために私たちは審議しなければいけないんじゃないかという気がするんです。  例えば、アンデスで飛行機が墜落して、亡くなった人の肉を食べて生き残った生存者がおりました。それについてローマ法王は、それは罪ではなくてという形で祝福されましたよね。キリスト教の世界では霊と肉が、死体もボディーですし肉体もボディーですし、分離されているという霊肉二分論がある。ただ日本では、どこで肉親が死んでもその姿を、遺体を見るまで捜し求めるというような、ある意味では宗教というかアニミズムの世界のそういった考え方がとても根底にあると思うんですけれども、そういう世界ではなかなかこの問題は受け入れがたい。そういうことも含めますと、もう一度本当に脳死を人の死としていいのかということを十分考えていただきたいと思うんです。  それで、猪熊案の提出者に伺いたいんですが、死と決めずに考えるということは「脳死状態にある」という形でなさったのは私はとてもいいと思うんです。これは当然脳死判定拒否権があるということですし、死の選択権があるということだと思うんですが、いかがでしょうか。
  93. 堂本暁子

    委員以外の議員(堂本暁子君) 今、私も山崎委員質問を伺っていて、死を考えるということは生を考えることにほかならないというふうに思っております。  では、質問にお答えいたします。  私どもはもちろん脳死判定に関しての拒否権はあるというふうに考えております。同時に、死の選択の権利があるのではなくて、私どもは臓器提供をするか否かの選択権があるということからこの法案を提出いたしました。死の自己決定権ではなく、あくまでも臓器移植における自己決定権の問題だと認識しております。
  94. 山崎順子

    ○山崎順子君 時間がなくなりましたので、質問にかえて最後に一言意見だけ述べさせていただきます。  脳死を人の死とする人が半数を割ったというそのあたりのことを考えますと、社会的コンセンサスがまだ十分ないと思うんです。こういう中で臓器移植法案を出してしまうと、私は臓器の提供を待っていらっしゃる方々にとっても不幸ではないかと思います。もし中山案が通るとしたら、この六条をどのように修正したらいいかとすごく真剣に長い間考えてきた方々がいらっしゃいまして、「死体脳死体を含む。)」のところを、この法案の条項をすべて満たした場合の脳死体を含むというふうにしたらどうかというふうにおっしゃる方がいらっしゃいます。これは限りなく猪熊案に近いとは思うんですけれども、ぜひこういったこともお考えになって、中山案提出者の方も猪熊案提出者の方々も、もちろん私たちも、できるだけいい形でこの臓器移植法案を通せるように本当に慎重な審議をさせていただきたいと思っております。  どうもありがとうございました。終わります。
  95. 菅野壽

    菅野壽君 私はまず先に、この法案に対して中山先生また猪熊先生、そしてまたそれを囲む先生方が大変な御苦労をなさっていただいていることに深く感謝申し上げます。  今までずっと関根先生以来のお話を聞いてきますと、頭がこんがらがって何が何だかわからなくなってきまして困っているところでございますが、ひとつ簡単に御説明をしていただきたいと思います。  臓器移植に関する法律法案に対して御質問をいたします。  脳死臨調答申から既に五年半たっておりますけれども、この間、臓器移植でしか助からないと思われた患者さんが亡くなられたと思います。そして、今なお多くの患者さんたちが一日千秋の思いでこの法案が通ることを、臓器移植ができることを待っておると思います。  中山案の提出者にお伺いいたします。臓器移植によってしか助からない患者さんは現在どのぐらいおられるんでしょうか。先ほども御答弁ありましたが、もう一遍お聞かせ願いたいと思います。
  96. 山口俊一

    衆議院議員山口俊一君) それでは、菅野先生の御質問にお答えをさせていただきます。  心臓移植、肝臓移植によってそれぞれ違いますが、まず心臓移植につきましては日本胸部外科学会臓器移植問題特別委員会の試算が出ております。緊急性等々いろいろあるんでしょうけれども、少なくて年間約六十人、最大六百六十人程度。肝臓移植につきましては肝移植研究会の試算が出ておりますが、年間約三千人というふうに出ております。それぞれそのぐらいの数の適用患者がいると推計をされておりまして、これらの方々は臓器移植以外で助かる方法はないというふうなことと聞いております。
  97. 菅野壽

    菅野壽君 腎臓移植の動向について中山案の提出者にお伺いしたいと思います。  生体腎、死体腎の移植数は近年どのように推移しているのでしょうか。移植件数の減少の理由をどのようにお考えでしょうか。さらに、死体からの腎臓摘出さえ進まない現状で、脳死体からの臓器摘出を認めてもドナー数は余りふえないという見方もありますが、この点について御見解を伺いたいと思います。
  98. 山口俊一

    衆議院議員山口俊一君) お答えをさせていただきます。  死体移植の件数は、先生お話のとおり、平成元年が二百六十一件でありましたが、これをピークに減少傾向がずっと続いておりまして、平成八年度にはその前の年の百六十一件から十九件増加をして百八十件となりました。若干減少傾向に歯どめがかかったところではないかと考えております。また、生体腎移植の件数につきましては年間約四百件程度と承知をいたしておりますが、いずれにしましても腎臓移植の件数というのは欧米諸国と比べましても大変少ないというふうな状況にございます。  死体腎の移植件数が減少傾向にある、どのような理由によるものかというふうな御質問でございますが、これを特定するということは大変難しいことであろうと思います。ただ、この背景には、ただいま御審議をいただいております脳死臓器移植問題、この影響もあるんではないかと指摘をする方もおいでるわけでございまして、腎臓移植を含めた我が国の移植医療全体をさらに推進していくためにも、ただいま御審議をいただいております法案の成立を図る等々早期に脳死臓器移植問題の解決を図ると同時に、国、地方公共団体初め関係団体において移植医療に対する国民の皆様方の御理解が得られるよう普及啓発に一層努力をする必要があるんではないかと考えております。  また、もう一点お尋ねの、死体移植さえ進まない現状で脳死体からの移植を認めてもドナーはふえないんじゃないかというふうなお話でございます。確かに、法がまだ確定をしておらない、さまざまな議論を呼んでおるというふうな現状からは先生指摘のような側面もあるんではないかと思うわけであります。ただ、本法案では臓器摘出の承諾要件が本人の書面による意思表示がある場合にのみ限定をされておりますので、恐らく法案成立後も、少なくとも当初は余り多くの臓器提供者は見込めないんではないかと考えております。  そうしたことから、提出者といたしましては、ドナーカードの普及等できるだけ多くの国民の皆さん方に臓器提供意思表示をしていただくような努力を今後ともにやっていかなければいけないと考えておるところでございます。
  99. 菅野壽

    菅野壽君 次に、猪熊案の提出者にお伺いいたします。  猪熊案では、脳死状態にある人は生きている人とされております。私は医師になって五十年近くになりますが、死亡診断書を書く立場にもあります。脳死状態の人から臓器を摘出した場合の死亡の原因は何になるのでしょうか。脳死になるに至った原因疾患になるのでしょうか、それとも心停止になるのでしょうか。それを教えていただきたいと思います。
  100. 朝日俊弘

    委員以外の議員(朝日俊弘君) 先輩からのお尋ねで大変に緊張しておりますが、まず基本的な考え方としては、脳死あるいは脳死状態に至る主たる原因は、例えば交通事故の場合であれば脳挫傷である、あるいは先ほどのお話であれば、脳内の出血であれば例えばクモ膜下出血である、これが主たる原因であることは間違いないと思います。  ただ、先生よく御存じのとおり、死亡診断書には直接的な原因は何かという項目もございまして、そこについてどのように記載したらいいのかという問題だと思います。正直申し上げて、ここで先生にこのように書いたらよろしいというふうには私答えられません。  といいますのは、御存じのように死亡診断書は医師法施行規則第二十条に基づいて、例えば死亡の原因となった傷病名とか、あるいはその経過に影響を及ぼした傷病名とか、さらには手術の有無及びその主要所見等を記載することになっております。しかも、一九九五年以降は一つのルールが確立されておりまして、死因統計のための分類としてWHOの国際疾病分類、これの死因分類、これを用いて現実に死亡原因等についての記載がなされております。ただ、現在使っております疾病、傷害及び死因に関する分類表には、今私どもが考えているような事態が想定された項目はございませんので、そういう意味では新たなルールをつくらざるを得ないと思います。  私どもが提出をしております法案を成立させていただけるならば、死亡診断書の記載のあり方とかあるいは死因統計上の取り扱いなどについての新たなルールづくりについて、これは厚生省を中心としてさらに検討をお願いせざるを得ないし、関係医学会の御意見も伺わなければいけない、こんなふうに思っております。
  101. 菅野壽

    菅野壽君 また、例えば交通事故や他人の加害等によって脳死状態になった人から臓器摘出を行った場合、加害行為を加えた人はどういう罪に問われるのでしょうか。業務上過失致死罪かあるいは殺人罪に問われる可能性はあるでしょうか。それとも、業務上過失致死傷または傷害罪にすぎないのでしょうか。この点をお伺いしたいと思います。
  102. 猪熊重二

    委員以外の議員猪熊重二君) 菅野先生のただいまの御質問趣旨は、交通事故の加害者やその他の犯罪行為の加害者に対して、被害者が本人意思に基づく心臓等の摘出によって死亡したにもかかわらず、なお加害者に業務上過失致死罪や殺人罪の罪責を問うことが許されないのではないか、あるいは加害者にとっては予想し得ない結果責任を負わせられるんじゃないかということだろうと思います。  確かに、被害者の死という事実が心臓摘出という行為によって直接的に現実化したことは確かなんです。しかし、被害者は心臓摘出をした時点において全脳の機能が不可逆的に停止している状態にあるということ。この状態は、自発呼吸を喪失し、人工呼吸器によって呼吸を維持し、それによって心臓拍動を維持している状態でありまして、もし人工呼吸器を外せばもちろん直ちに、人工呼吸器を仮に維持していたとしても、時間の経過のもとにおいてやがて全脳の器質死に至り、呼吸、拍動を停止し、自然死に至る状態にあったということですから、三徴候死の立場に立っても心臓摘出の有無にかかわらず死は必然の結果という状況にあったと思います。  したがって、加害行為と三徴候死による死の結果との間の因果関係は社会的判断において相当性を有すると認められるのであり、加害者に死の結果につき刑事責任を問うことは相当なことだと考えます。言いかえれば、加害行為と死との結果の中間に第三者たる医師心臓摘出という行為が介在したからといって、いわゆる因果関係が中断されることはなく、加害者に死の結果責任を認めることはできる、これを否定する必要性は全くないと、このように考えます。  ただ、加害者の心情からすれば、もしかしたら生きていたんじゃないかとか心臓を取ったから死んだんだとかというふうな不満とか心配というか、そういうふうな気持ちをなくすためには、脳死状態判定が本当に疑義なくとり行われることが不可欠だと、このように考えます。  以上でございます。
  103. 菅野壽

    菅野壽君 最後に、衆議院において、みずからアメリカで心臓移植を受けた参考人から、私たちは既に亡くなっている人、そう思うからその人の臓器をいただけるのであって、死んでいない人からは臓器はいただけません、移植を受けた者の立場からすれば、脳死は人の死であって、いや、そうあってもらいたい、そうあるべきだと思います、との意見が述べられております。  私はこの言葉を重く受けとめたいと思いますが、猪熊案の提出者はこの言葉をどのように受けとめ、どのように認識しておられますか、その点を伺って質問を終わります。
  104. 大脇雅子

    大脇雅子君 参考人木内氏の感情はよく理解できるものであります。しかし、あくまでもドナーの自己決定による臓器提供ということを尊重し、ドナーの家族の感情も勘案して、臓器の摘出についての要件を厳しく定めているわけであります。  木内参考人は、また一方で、私は優しさと勇気をその提供者から受け取っているというふうに答えておられますので、この感情の中で、脳死を死としなくても、私は、死は必然の結果と受けとめていただきまして、臓器移植に関して障害はないというふうに考えます。
  105. 菅野壽

    菅野壽君 ありがとうございました。終わります。
  106. 中尾則幸

    ○中尾則幸君 民主党・新緑風会の中尾でございます。  先ほどから熱心な論議が交わされておりまして、私も拝聴いたしておりました。何点か質問通告した点で重複する部分がございますけれども、お許しいただいて、質問通告になるべく沿う形で御質問申し上げたいと思います。  先ほど山崎先生から、各新聞あるいは脳死臨調のアンケート等の実情が示されまして、脳死を人の死とする社会的合意についての妥当性があるかどうかについて御質問がございました。詳しいことは先ほどからも御説明がありましたので、詳しい数字はここで申し上げませんけれども、私もいささか、今回の例えば脳死臨調答申あるいは各種新聞のアンケート調査を見てみましても、これが社会的合意であるということにはどうも考えられない。国民の皆さんは、今回のこの脳死を人の死と法律規定することに大変戸惑いを感じられているのが私は実情だと思います。  時間も二十分と限られておりますので、ひとつ中山案の提出者にお伺いしたいと思いますけれども、私はこの脳死臨調答申を見させていただきましたけれども、どうも歯切れが悪いわけでございます。  医学的な死もある、それから社会的、法律的な死もあると、大変難しいというふうに規定しておきながら、途中で、国際的な環境これあり、あるいは例えば心身二元論を持ち出して論拠を絞ってみたり、そしてそのほかにアンケート、大多数の国民は脳死イコール人の死に合意に向かいつつあるということでありますけれども、結果として、例えば一般国民が九一年九月の調査であれば四四・六%であるというような、非常に歯切れが悪い表現になっております。  特に、ここの部分ですね、「問題の性格上、国民の中にある程度の反対意見があることはむしろ当然であり、こうした国民感情も今後かなりの程度解消していくことも予想されることから、」と、これは九二年の段階で解消していくということを前提に予想しているわけです。「脳死をもって「人の死」とすることについては概ね」、ここでは「概ね」と言っています、「社会的に受容され合意されているといってよいものと思われる。」。この非常に回りくどい表現の中で、このまとめられた方の大変苦慮している姿を私は読み取るわけでございます。  時間もございませんので、中山案の提出者に伺いたいんですが、こうした国民の迷い、国会でもいろいろなさまざまの議論が交わされております。こうした迷いの中で、例えば法律的だけじゃなくて医学的あるいは科学的見地から果たして脳死を人の死と認めて規定していいのかどうか、これだけ伺いたいと思います。
  107. 自見庄三郎

    衆議院議員(自見庄三郎君) 中尾委員から大変深遠な御質問をいただいたわけでございますが、何をもって人の死とするかということは、先生御存じのように、法律上、定義がございません。それは今、現実の法律では医師診断権の中に入っておりまして、それはいわば死の三徴候ということですね。これは医学的にも正しいと認められたことでございますし、世間的にも大体死の三徴候があれば死んだと、こういうふうに言われたわけでございます。  ところが、御存じのように、今さっき中山先生から御答弁がございましたように、一九五〇年代に人工呼吸器が出てきまして、結局脳死という新しい医学上の概念が出てきまして、要するに脳幹を含めて脳が不可逆的になった場合は死だろうということが医学的な真実として、生物学的、科学的には、今さっきの質問者も言っておりましたように、これは大方社会的に合意をされた、医学界あるいは生物界における共通認識だと私は思います。  しかしながら、死でございますから、それはいかように社会の方が受けとめるかというところは、これはもうまさに宗教の問題であり、人生観の問題であり、道徳観の問題であって、そこのところは今大きくいろいろの世論調査でも御意見が分かれているところだろうというふうに思っております。  ただし一点だけ、種々の新聞等々、世論調査でもじわじわと以前から比べれば基本的には上がってきているというふうに思っておるわけでございますから、おおむね合意をしていただけたのではないかというふうに我々提案者としては思っております。
  108. 中尾則幸

    ○中尾則幸君 自見先生の大変苦しい御答弁を伺っておりました。これは五〇%を超えればいいという問題ではないわけです。  これは先ほど、死は二つになっていいのかと。私はその考え方は違うと思うんです。死は今までも、太古の時代から一つでございました。それが科学的に、例えば医学的な発達により、人工呼吸器お話が今ありましたけれども、それで追いかけてきたわけです。だから混乱しているわけでございまして、私は死は二つあってもいいというふうに思います、この現状の中で。それだけ申し述べさせていただきます。  このアンケート調査だけとはいきませんけれども、本当はこの問題についても言いたいんですが、私もマスコミ出身でございますから、アンケートはもう二十数年間苦労してまいりました。アンケートの設問項目によって一〇%あるいは一五ポイントが動くという事実がございます。  ですから、私は、今回のさまざまな各種アンケートは、大体半分程度の方々がまあ仕方ないかと。これは臓器移植を、やっぱり困っている方に提供してあげたいという心が多いんです。できれば人の死というふうに法律で決めていただきたくない、善意だということを私は繰り返し申し上げたいと思います。  次に、猪熊案の提出者に伺いたいと思います。  中山案の立場から見れば、猪熊案は脳死を人の死としない、だからゆえに、そこから臓器を取り出すと生きている人から臓器を取り出すことになる、こういう今までの論戦がございました。しかし、翻ってみますと、その法的規定は別としまして、いわゆる竹内基準の六判断がございます。脳死認定基準についてはいささかも変わりないと思うんです。脳血流の停止なども、今回伺う時間がないと思いますから、例えば補助検査も含めるというもっと厳しいものを提案しているというふうに思うんですが、その点は臓器の摘出条件中山案と違うのか、全く違わないのか、お答え願います。
  109. 大脇雅子

    大脇雅子君 中山案と比較いたしまして、猪熊案の方は次の四つの要件により、より厳格な要件を課しております。  第一は、ドナーの意思を尊重するということから、死後において提供する意思脳死状態において提供する意思と第二条一項において書き分けておりまして、摘出の要件といたしましても、本人の書面による意思表示というものは瑕疵のない真正な意思表示でなければならず、かつ真実性を獲得するために本人の署名と作成年月日の記載を必要としております。さらに、第二項においては、十分な調査を行うということでありまして、これが全関係者に課せられます。第三には、家族の承諾を要件としておりまして、これはレシピエント側に対するインフォームド・コンセントのみならず、臓器提供に当たっての説明も必要ということにしております。第四に、脳死判定に関しては、二名以上の医師の一致した判定で、この場合移植医は含まれないということでありまして、竹内基準にプラス二条件を付加するというふうに考えております。
  110. 中尾則幸

    ○中尾則幸君 そうであれば、これは法律規定している一つの大事な論点でございますけれども、実態上Aという患者が、例えばポイント・オブ・ノーリターン、これについてはそこから死が始まると。私は素人でございますけれども、それは死の終末を意味するんじゃない、いわゆるゾーン・オブ・ノーリターンじゃないかなと、そういうふうに認識してございます。  今、猪熊案の御説明がございました。そうすれば、竹内基準で厳正に、同じかと言えば別ですけれども、いろいろ細かいところは違いますけれども、Aという患者から臓器を取り出す条件は私は変わらないと思うんです。猪熊案が生きている人から摘出するということであれば、中山案に伺いたいのは、同じ状態であれば、少なくとも法律でとりあえず死んでいただきましようということであるというふうに、それしか私は考えが及ばないのでございます。  生きている状態というふうに同じ状態のA患者を決めつけるのであれば、法律で、そこで死ということで認定する、脳死体ということで認定するということでよろしいですか。
  111. 自見庄三郎

    衆議院議員(自見庄三郎君) 委員にお答えいたします。  竹内基準診断をされまして脳死だという判定をされたら、これはもう生物としての死だというふうに思っておりますし、これは何も私だけが言うのでなくて、アメリカの大統領委員会あるいはイギリスの王立医学会にも脳死判定基準がございます。その一番厳しいのが実は竹内基準でございまして、現在の竹内基準できちっと脳死判定をした人はやはりもう生命の死であって、それから生き返った方はおられないということは竹内先生がこの前はっきり言明をしておられましたから、それは生物としての死である、人間としての死であると、こういうふうに思っております。  そのことを法律上ぜひ、死に対しては社会的合意の問題でいろいろ御意見があるけれども、そこを認めていただきたいというのがこの法律趣旨だというふうに私は思っております。
  112. 中尾則幸

    ○中尾則幸君 懇切丁寧な御説明なんですが、私が伺っているのは、猪熊案と同じ状態で摘出すると、中山案はそれを法律で死と区切ってしまうということかどうか。多分そうだと思いますけれども。
  113. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) 先生のお尋ねのポイントは、竹内基準脳死判定を行った、そこはまだ死のプロセスの始まりであると。そして、最低六時間たってから今度はもう一度判定をし、さらにそれを補充する意味で聴性脳幹反応を行って記録も保持するということで、そこで死の、死んだ判断というものができる、こういうふうに考えております。
  114. 中尾則幸

    ○中尾則幸君 時間がございませんので、機会を改めて伺います。  次に、子供の脳死判定臓器提供者の意思表示の有効性について伺います。  厚生省に伺います。  竹内基準から除外されている六歳未満の子供の脳死判定について、竹内基準では脳死判定しないということになっております。先ほどの説明でもありました。ところが、厚生省は新たに研究班を設置し、具体的検討を始めるというふうに聞いておりますが、これは事実でしょうか。
  115. 小林秀資

    政府委員小林秀資君) 六歳未満の子供の脳死判定につきまして、厚生省が具体的に検討を始めるといった事実はございません。
  116. 中尾則幸

    ○中尾則幸君 私は、これは五月二十三日の産経新聞で読ませていただきました。ただ、ないと言われればそうですがというふうに答えなきゃいけないんですが、これは竹内先生もインタビューに答えていらっしゃるんですよね。これは確実にない、検討している事実はないということを私はこの委員会で念を押したいんですが。
  117. 小林秀資

    政府委員小林秀資君) 現在、厚生省で具体的な検討はいたしておりません。ただ、竹内先生がある新聞社の記者さんとお会いになられたことは聞いております。
  118. 中尾則幸

    ○中尾則幸君 さて、お子さんのいわゆる脳死判定についてさまざまな問題があろうかと思っております。  中山案猪熊案、そして厚生省に同じ質問でお伺いしたいんですが、臓器提供意思表示をした本人にあって、その有効性が認められるのは一体何歳か。例えば十歳だとか、臓器提供をしますよというのは年齢によって随分違うと私は思っております。また、身寄りのないお子さんをどうするのか、例えば親権者の意思がどう入ってくるのかというようなさまざまな問題があろうと思いますけれども、簡単にひとつお答え願います。
  119. 自見庄三郎

    衆議院議員(自見庄三郎君) 簡単に申し上げますと、臓器提供本人意思表示については、臓器提供及び臓器移植に対する正しい知識と理解前提となります。これを理解した上で、主体的に判断する能力、すなわち意思能力を備えていれば有効に意思表示をすることができると考えます。  意思表示の具体的有効性が認められるかどうかについては、個々具体的に判断すべき事項ですが、年齢等により画一的に判断することは難しいと考えるが、関係制度を参考にしつつ、法律の適用に当たり、何らかの目安について検討が行われると考えております。  それで、大事な点ですが、実は今さっき提案者の中で話をしまして、大体民法で遺言が十五歳以上は有効ということですから、常識的には、婚姻年齢は女性が十六歳、男性が十八歳でございますが、民法で認められた遺言が十五歳以上は有効であるということでございますから、中山太郎先生を初め我々提案者で話をしまして、確かに読んだのは答弁でございますが、やはり十五歳は一つの目安になるのではないか、こういうことを申し上げたいと思っております。
  120. 竹村泰子

    委員以外の議員(竹村泰子君) 未成年者の臓器提供意思表示でございますが、臓器の提供は基本的に臓器提供者の自己決定権、人格的自立権に基づくものと私どもは考えておりまして、自己の命を絶つという究極的、根源的な自己決定であることからいって、一定の年齢に達することが必要と考えます。  では、一定の年齢とは一体何歳かということになれば、選挙権、結婚が許される年齢、両親が離婚するときの意見表明権とかいろいろ考えられますけれども、個人差もあり、何歳以上と今決めてしまうことはしておりませんが、今後十分に論議するべき問題と考えます。  また、身寄りのない子供の扱いについても同じことが言えると思いますが、特に肉親のいない子供につきましては、その境遇ゆえに本人意思が軽んじられることのないよう、できるだけ慎重に一層の配慮が必要だと考えております。
  121. 小林秀資

    政府委員小林秀資君) 本人臓器提供意思表示につきましては、自見先生がお答えされた答弁とほぼ同様に考えております。
  122. 中尾則幸

    ○中尾則幸君 この問題も大変重要な問題だろうと思うんです。特に、お子さんの臓器移植を待っている方がいらっしゃるだけに、これはドナー、それからレシピエント、いろんな立場に立ってこれも慎重に結論を出していかなきゃならない問題かなと思っております。  もう時間がございません。最後になります。  先ほど関根先生から大変重要な指摘をしていただきました。重複を避けますけれども、その確認の意味で、脳死判定に対する拒否権の問題でございますが、小林局長は衆議院答弁と若干様相が変わってきたな、ちょっと違うなと。その当時は脳死判定を否定できないというふうに答弁されたと思うんですが、中山先生のお答えを聞いたかどうか、聞きながらいろいろちょっと歯切れの悪い答弁をなさったと。  私はちょっとここで確認したいんですが、少なくとも脳死判定に対する拒否権については認められるべきだと私は思っております。つまり、全死亡者の中の一%のいわゆる脳死者と言われておる中で、九九%の意思を縛る必要は私は全くないと思っています。この点について厚生省令で落とすというのは私はまだ不明確だ、関根先生もおっしゃっておりますけれども、これはやはり本法で盛り込むべきだというふうに考えておりますが、中山先生から一言、それから厚生省、あいまいな答えじゃなくて、きちっと答えていただきたい。  これを要求しまして、私の質問を終わります。
  123. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) 先ほど申し上げましたとおりでございまして、当委員会のこれからの御審議を踏まえて、私どももこの法案の成立の一日も早いことを祈っております。
  124. 中尾則幸

    ○中尾則幸君 先生、済みません、拒否権の問題。
  125. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) ですから、先ほど申し上げたとおりです。先ほど申し上げました拒否権の問題については、今御答弁申し上げたことと同じでございます。
  126. 小林秀資

    政府委員小林秀資君) お答えいたします。  患者家族脳死心臓死かの選択権を認めることにつきましては、臨調答申にもありますように、本来客観的事実であるべき人の死の概念にはなじみにくく、法律関係を複雑かつ不安定にするものであり、社会規範としての死の概念としては不適当であるとの基本的考えになっております。さきの答弁では、このような基本的な考えを答弁したものでございます。  しかしながら、現実の脳死判定に当たりましては、家族に対して脳死についての理解が得られるよう説明を行うことが必要と考えておりまして、中には脳死判定についてあくまでも否定されるケースは出てくるものと考えております。このような場合においては、現実の問題としては結果として脳死判定が行われないことになるのではないかと考えております。
  127. 中尾則幸

    ○中尾則幸君 ありがとうございました。
  128. 橋本敦

    ○橋本敦君 中山先生、多年にわたって大変な御尽力をいただきました。  残念ながら、私は中山案に対して、脳死を人の死とするということについていまだ社会的な合意、国民的な合意がないという立場でございますので、まずこの点で意見を異にするわけでございます。  最近の日本世論調査会の三月十五日、十六日の調査を見ましても、臓器移植法案について、「成立を急ぐべきだ」が四七%ですが、「急ぐべきでない」が四五・三%と、完全に二分されておるという調査もあります。そしてまた何よりも、中山案によりますと、この法案の第六条で明確に「脳死体」ということで言葉が出てまいりまして、その「脳死体」とは、「脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された死体をいう。」と、こうあるわけです。ところが一方、猪熊案では、第五条の第三項で、「この法律において「脳死状態」とは、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された」、全く言葉は同じでございますが、こうした身体の状態脳死状態と言うと、こういう規定でございます。  要するに、竹内基準に基づいて行われた脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたその身体を中山案死体法律上見るし、猪熊案はこれは死体と見ないと、こういうことです。だから、そういう意味で全く相反するという状況でございますから、法案の提出状況一つを見てもまだまだ議論しなきゃならない、国民的、社会的合意が得られる状況に行くには議論を深めなくちゃならぬというように思っているわけです。  そこで、どういう点について議論を深めなくちゃならぬかといいますと、まず第一は、今日の医学の急激な進歩発展の中で、本当に脳死判定が正しく厳密に行われる、そういうことの基準の明確化が国民に広く知らされ、かつそれが国民的合意が得られるかという問題があります。第二番目に、死の概念ということについて言うならば、それはまさに社会的、宗教、倫理あるいは人生観にかかわるそういう問題でございますから、そういった面からの検討も必要になってまいります。  それからさらに、脳死が人の死であるということを従来の三徴候死に加えて法で規定するということになりますと、それに伴っての法整備が一体十分かどうかという点の検討も必要になってくると思います。私は、そういった点についてまだまだ議論を深めなきゃならぬという、こういう立場でございます。  そこで、第一の問題でありますけれども、脳死というのが、これは竹内先生も参考人としておっしゃっていますけれども、この定義はまさに臨床的な医学的な概念であるということをおっしゃっている。私はそうだと思います。しかし、この臨床的な医学的なある意味で科学的な判断が社会的に人間の死と合意されるという状況になるということが、これは法で人の死と決める上で必要な条件だということを私はどうしても考えるわけです。  この点で林教授は、衆議院の参考人の意見の中で、この脳死という問題について、「脳死という言葉は学問的には正確な言葉ではなく、脳の細胞が機能回復し得ない状態、つまり脳死状態という概念死」、これがその内容の問題なんだということを御指摘になりました。そして、今日の医学進歩の中で、従来の死の概念や法ですべてを解決することが困難な、そういう状況が進む中で一体どう判断するかということになりますと、法によって医学的な死の限界を決めるということについては、この林教授の言葉によりますと、「我々患者を助ける医療人にとっては、非常になじみにくい、疑問が残る方法でもある」、こういう御意見もございます。  私は、そこで一つお伺いをしたいのでありますけれども、中山案によりましても、脳死判定をする場合にはもちろんドナーの明確な意思表示と家族の同意ということが要件になっております。そして、その家族脳死状態ということについて今どういう現状認識であるかということについては、例えば衆議院で濱邊医師は、脳死状態に陥ってしまった患者さんの家族の問題に触れられまして、正しく脳死状態というものを理解しているということはほとんどありませんと臨床医としておっしゃっている。そして家族の皆さんは、これが死だということを納得する家族は皆無で、耳元に声をかけ、感じるはずのない手足をさすり続け、どんな変化も見逃すまいと必死で、患者がまだ生きているという、こういう実感を持っていらっしゃると、こう言うわけです。  そこで、医学上の死の概念を人の死とすることについて、脳死判定するときはこういう患者家族の同意がなきゃいかぬというんでしょう。医学上の死の概念を人の死とするということについて、こういう切実な患者家族の実感と気持ちというものを、これも考慮する必要があるのではないかと思います。その点は、中山案法案で人の死とするということにどれだけ考慮されたのであろうか、いかがですか。
  129. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) まず、二点についてお答えを申し上げたいと思います。  これは、先生も大阪にお住まいでいらっしゃいますが、千里の救急救命センターへ私参りまして、この法案提案前に何遍か専門医たちと意見の交換をいたしました。昔はなかなか家族脳死というものについての理解をするのが難しかったと。しかし最近、脳死判定の二回目のときに聴性脳幹反応を行ったら脳波が平たんになるという経過を見ながら、御家族はわかりましたという御返事をなさるということでございました。  私も、提案する以上は責任を持って現場に何遍も参りまして確認をいたしておりますので、もし御疑問がございましたら再確認をしていただいて結構だと思います。  また、世界はどうなっておるかといいますと、アメリカでは全脳死をもって死としております。これは法律がございます。イギリスは脳幹死ですが法律はございません。オーストラリアは脳幹死で法律がございます。スウェーデンもデンマークも全脳死法律がございます。ドイツは全脳死で法の制定はございません。ベルギーは全脳死で法制定が一九八六年に行われております。オランダは法制定はございませんが移植をやっております。フランス、イタリアも制定をいたしております。スペインも、それからコスタリカ、アルゼンチン、ペルー、パナマ、キューバ、ボリビア、エクアドルも全脳死で、関連法案を制定いたしております。  またアジアでは、シンガポール、インドネシア、台湾が臓器移植法を制定いたしております。タイは全脳死で、法制定をいたしておりません。韓国は現在、脳死の定義を制定するべく立法化準備中であるということでございます。
  130. 橋本敦

    ○橋本敦君 中山先生の御答弁がございましたが、一方、衆議院厚生委員会で参考人に出られました魚住徹教授は、アメリカの例も検証されましたが、患者家族は実際どういう状態かというと、「退院後大分たってから家族に聞いてみると、脳死を死と認める者、一八%、反対の者、四五%というデータがございます。」と。脳死を経験した家族は、今、先生おっしゃったのとは逆に、やっぱり脳死は認めたくないという気持ちが大変強いということも、一方では資料があるわけですね。したがって、魚住教授は、こういう状態で本当に法律で死と決めてよいかどうか非常に疑問でありますという御意見もおっしゃっている。こういう問題があるわけです。  そこで私は、この法律でこういうことを決めるということについて、一体どういう影響がもろもろに出てくるだろうかということについて一つは伺いたいのであります。  法務省、来ていただいていると思いますけれども、脳死状態から出産をした、無事に赤ちゃんが生まれたという例が日本でも外国でもあるというんですが、その場合に、脳死判定で死と決められた母親から出産した子供の戸籍は、扱いはどうなるのか。この問題どうですか、法務省。
  131. 揖斐潔

    説明員(揖斐潔君) お答え申し上げます。  一般的に民事上の観点から申し上げますと、民事法上、人の死を定義した法令は存在しないところでございます。人の死の概念自体は社会通念によって定まっていくということになると思われます。
  132. 橋本敦

    ○橋本敦君 戸籍上はどうなるんですか。
  133. 揖斐潔

    説明員(揖斐潔君) 今の御指摘のような、脳死となった場合に、脳死後出産というような事態があるのかどうかという事態について私十分承知しておりませんけれども、今後この法案の御審議等も十分参考にさせていただきながら、今後よく検討してまいりたいと思っておる次第でございます。
  134. 橋本敦

    ○橋本敦君 さっぱりわからぬということでしょう。  それからもう一つ、相続の問題があるんですが、例えば夫婦が脳死状態ということになって、夫が先に脳死判定されるとその夫の財産の相続はどうなるか、妻が先に亡くなったと判定されれば相続がどうなるか、これも重要な関係がありますね。両親が、あるいは子供がいないということを考えますと、夫が先に死と判定された場合は妻が相続し、夫の兄弟も相続する。ところが、妻が先に脳死判定とされますと、夫の財産は妻の兄弟には行かなくて夫の兄弟だけに行きますね。こういう違いがある。  こういう問題についても深刻に考えておかないといけないということを私がなぜ指摘するかといいますと、この脳死判定する死亡時期の判断が、これが非常に人間権利の得喪及び相続の開始、その他法律関係で社会上重要な問題になってくるからです。  この点について、端的にお答えいただきたいんですが、脳死判定の時期は中山案で伺いますと、どの時期が死と判断される時期になりますか、死亡時刻の特定。
  135. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) 竹内基準による第二回目、六時間後の判断をもって死の診断といたします。
  136. 橋本敦

    ○橋本敦君 その六時間は、症状その他によって六時間を超えて判断される必要がある場合も、これはあり得るということは当然ですね。
  137. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) 御指摘のとおりでございます。
  138. 橋本敦

    ○橋本敦君 したがって、死亡時刻の判定の客観的基準は難しい。  猪熊案で言いますと、死亡時刻の特定はどうなりますか。
  139. 朝日俊弘

    委員以外の議員(朝日俊弘君) お答えいたします。  私どもの法律では、殊さらに死の定義を規定しておりませんが、従来の三徴候による死の判定を踏襲した形で法案はつくられております。  具体的に、脳死判定によって……
  140. 橋本敦

    ○橋本敦君 死の判定
  141. 朝日俊弘

    委員以外の議員(朝日俊弘君) 脳死判定によって私どもは死とはいたしませんから、仮にその後、臓器を摘出した場合、とりわけ問題になるのは心臓を摘出した場合だろうと思いますが、心臓機能が停止した状態を死亡時刻と考えざるを得ないと思います。
  142. 橋本敦

    ○橋本敦君 そのとおりでしょうね。ですから、いつ心臓摘出をするかということも、私が言ったように、同時的に夫婦が交通事故に遭った場合、どっちを先にするかによってこれはまた決まってくるんですよ。だから、そういう意味での客観的基準がない。  だから、そういう意味では、この問題について、脳死について判定をするその場合に、いつ脳死判定を始めるか、その時刻を決定するための客観的根拠、基準というのがないから、したがってある意味で法的困難や恣意が入り込む余地がないとは言えないということを水野さんというお医者さんも指摘されているんですが、私はそう思うんですね。だから、そうなりますと、国民的合意や社会的合意が本当にこういう問題を整備、解決しなくて得られるかといいますとそうはまいりませんね。  それからもう一つ最後に伺いたいんですが、猪熊案では医師治療義務は心臓摘出をするところまで続くんですか。そして、心臓摘出ということは治療義務の放棄になるということになるんですか。違法性の阻却なのか、責任阻却なのかということにもかかわりますから、その点は一体どうお考えか伺っておきたいと思うんです。
  143. 竹村泰子

    委員以外の議員(竹村泰子君) 脳死を人の死としないのが私どもの法案でございますので、脳死状態の人に対して当然治療義務があり、医師の責務でございましょう。正常な状態のときの、脳死になったときには臓器を提供するという本人の究極的、根源的な自己決定を実現するために医師臓器摘出行為を行うのであり、これは医者治療義務と矛盾するものではないと考えております。
  144. 橋本敦

    ○橋本敦君 終わりますが、その問題についてはまだまだ法律的に検討する必要が私はあると思いますので、次回にさせていただきます。
  145. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 私は余り高尚な問題には関心がないものですから、法律技術論につきまして専らお尋ねしたいと思います。  まず、中山案につきまして、医者が死亡診断書に記入する死亡時刻はいっか、こういう問題です。  先ほど中尾委員質問に対して厚生省小林局長は、遺族が強硬に反対する場合には脳死の認定は行われないだろう、こういう答弁をなさいましたが、あれは実は大変な問題発言だろう、こういう気がいたします。  具体的な例を挙げますけれども、ある人が交通事故に遭いまして瀕死の重傷を負う、頭も打ちつけて脳機能も大体だめになった、そういう状態で病院に搬入されます。本人家族臓器移植には全く関心がない、提供なんかしない、そう思っている、こう考えていいです。それから、搬入された患者を診て医師も大体これは脳死と。念のため六時間後に診てみたら状況は変わっていない。念のためさらに十時間後に確認しても変わらない。これは脳死だろうと。しかし、家族は熱心に、とにかく生かしておいてください、一日でも一時間でもいいんです、蘇生の見込みなんかなくてもいいんです、たとえ一秒でも長く生かしておいてください、こういうふうに希望いたします。医師とすれば、わかりましたと言って最善の措置を講ずることになるでしょう。いろんな管につながれまして、その患者さんは仮にそれから三日生きたといたします。生きたかどうか、これが問題ですけれども、呼吸をし脈が動いていた、こういたします。そして、三日後に今でいうところの完全な三徴候死が訪れた。いわゆる御臨終ですね、今の感覚でいいますと。  この場合、お医者さんが死亡診断書に記入する死亡時間は一体どちらなのか。病院にやってきて六時間後か十時間後か、あるいはまた最終的に死んだとみんなが言っているときの時間を書くことになるのか。結論だけで結構ですからお願いいたします。
  146. 山口俊一

    衆議院議員山口俊一君) ただいまの佐藤先生のお尋ねでありますが、我々の考え方としては、脳死判定をすることによって初めて脳死に至っておる、つまり亡くなっておるというふうな確認をするわけでありますので、そのような形で御家族脳死判定拒否なさる、事実上脳死判定ができないといったことは、限りなく脳死に近いかもわかりませんが、脳死状態もしくは脳死ではないというふうに判断をするわけであります。  ですから、先ほど中山議員の方からお答えをいたしましたとおり、竹内基準にのっとって二回目の判定が行われた段階で死とみなす。竹内基準にのっとって、最初期死のいろんな判定をして、そして六時間の経過を見てさらに判定をして、その段階脳死ということが確定をするわけでありますので、御理解をお願いいたしたいと思います。
  147. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 何か最初のお答えと後半の部分が一致しないようにも思うんですが、まあ結構です。六時間か十時間後に書くわけですね。それはそのとおりだ、こう伺っておきましょう。  遺族がこの場合反対して脳死判定が行われなくなるということを私冒頭に申し上げましたけれども、そういう場合を踏まえて、一体医師はどちらの時間を書くのか、こういうことを今お尋ねしておるわけであります。
  148. 山口俊一

    衆議院議員山口俊一君) ですから、先ほどもお答えを申し上げましたが、御家族もしくは御遺族が御反対をして脳死判定ができないという場合はあくまで従来の三徴候死で判断をするということになろうと思います。
  149. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 担当医は一応脳死その他についての権威のある人だと考えまして、彼の目で見ましてこれはもう脳死状態で搬入されてきた、それから六時間たって一応確認した、脳死であることは間違いない、こう思っても、やはり遺族が反対する場合は三日後の、死んだとこう言っている時間を書くことになるんですか。
  150. 山口俊一

    衆議院議員山口俊一君) 先ほど来お答えをしておりますとおり、竹内基準にのっとった脳死判定をやらない以上は脳死とは断定できないというふうなことでありますので、従前どおり三徴候死ということになろうと思います。御遺族が反対をしなくて、その段階脳死判定をやらせていただいた場合には二回目の六時間後の判断脳死ということになろうかと思います。
  151. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 どうも物事に客観性を欠くんじゃないでしょうか。遺族が賛成したり反対すると死亡時刻というのは動いていくんですか。大変おかしいと思いますよ。この法案は「死体脳死体を含む。)」と、要するに脳死は人の死だということを宣明しているようにも受け取れるんです。  いずれにしろ、人がいつ死んだかということは後日の無用な争いを避けるためにもはっきりしておくべきなんであって、じゃ遺族の中の一人は賛成、二人は反対と言った場合はどういうことになるのかとか、いろんな技術的なことが起きてくるわけです。その点はきちっと、後世に残ることですから、立法者としてはっきりしておいていただきたい、こう思うわけです。  遺族が反対した、じゃ二人が反対して一人が賛成の場合はどういうことになるんでしょうか。
  152. 山口俊一

    衆議院議員山口俊一君) 遺族の反対があるというふうなことで、いわゆるインフォームド・コンセント前提からして、もちろんケース・バイ・ケースというふうなこともあろうかと思いますが、脳死判定が事実上できなくなるというふうなことであります。しかも、我々厳密に考えておりますのは、脳死判定というのをきちっとやらない以上は死んでおらない、脳死じゃないというふうなことでありますので、そこら辺ははっきりしておるつもりでございます。
  153. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 いずれにしろ、脳死が人の死だという以上は医師たる者はきちっとその点はやるべきじゃないでしょうか。遺族が反対したからやめておこうとか、後は遺族の判断に任せて三日後に死んだことにしてもいいや、そういう無責任なことでは務まらないと思うんです。遺族の反対は反対といたしましても、きちっと診断をして、これは六時間後に死んだんだというような権威のある断定をすべきじゃないんでしょうか。何か遺族の考えによって、意向によって死亡時間が動いてくるというのは大変に問題だと私は思います。  もしその間に相続人の一人あるいは妻が死んだ、こう仮定しますと、一体夫と妻とどちらが先に死んだのか、これは相続関係に大変重要な影響を及ぼしまして、必ず法廷で争いになります。その場合、一体裁判所が何を見て判定したらいいのか。国会のこういう質疑が裁判官にとっての大変手がかりになる判断資料なんですけれども、どうもよくわからないと、そういうことじゃ困るわけなんですね。相続関係の争いを判定する一番大事な死亡時間が確定されないということにもなりかねないわけなんです。  これは医者にはっきりと、遺族の反対とかそういうことは別として、きちっとした診断を行って死亡時間は何時何分ということを確定しておくべきですよと、それは指示すべきじゃないんでしょうか。
  154. 山口俊一

    衆議院議員山口俊一君) 確かに、先生おっしゃられているような側面もあろうかと思います。ただ、私ども何度も御答弁しておりますように、あるいは脳死臨調にも書かれておりますように、必ずしも脳死というのは人の死じゃないというふうにお考えの方々もおいでるわけであります。そうした方々に対する一つ配慮として、インフォームド・コンセントというのを一つの前程としてそこで脳死判定をきちっとやっていく。そうじゃない場合には、脳死判定現場として事実上することができない、そういうのも、御承知のとおり、竹内基準の中にもいわゆる無呼吸テストというのがありまして、若干の侵襲性がある云々でいろんな御質問もあったわけであります。そうした行為であるだけに、やはりきちっとしたインフォームド・コンセントが必要じゃないかというふうなことでこのように書かせていただいております。
  155. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 現在は法律で死については別に定義しておりませんけれども、解釈でもって三徴候説ということになっておりまして、その状況が発生したら死だ、こういうことについて法律家の間でも社会常識的にも争いがないわけです。今度は率直に言うとそれを変えようというわけですから、遺族の意思でこっちへ行ったりあっちへ行ったりする。そういう問題ではない、このことははっきりしております。  立法者として、人の死亡はこのときだ、それは医者の義務としてきちっと確定すべきだ、その原因になるのが脳死だ、こういうわけでございましょう。それをよくわからない、お医者さんに任せようとか遺族に任せようとか、そういう立法の仕方は私はこれまで聞いたことないんですけれども、脳死はこういう状態をいって、法律的にですよ、医学的ではなくて、そしてこの状況が完成したときをもって人の死とすると。それならば法律的に、いいか悪いかは別としまして、その価値評価は別としまして、事柄は後日無用な争いを招かないことだけは確かだろうと思いますが、その点はいかがでしょうか、中山先生
  156. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) ごもっともなお尋ねでございます。自然死か脳死判定を認めるか、これは御家族意思本人意思が明確である場合に限られているわけであります。もし脳死判定を御家族拒否される場合は当然脳死判定は行いません。そこで死亡時刻というものは自然死の時間帯に当たる、こういうふうに御理解をいただきたいと思います。
  157. 佐藤道夫

    ○佐藤道夫君 相続関係の争いがある場合には、この法律脳死をもって人の死だ、こう言っている以上、こっちで死んだという争いが必ず起きます。無用な争いだと言ってもいいんですけれども、これは想像されるわけでありますから、それを放置しておくというのはちょっと立法府としていかがなものかなという気がしておることを最後に申し添えておきたいと思います。
  158. 栗原君子

    栗原君子君 まず最初に、厚生省にお尋ねをいたしたいと思いますが、「死体の一部を生体に移植する場合の取扱について」ということで、昭和二十九年四月十四日付で厚生省は新潟県の衛生部長からの照会に対しまして見解を出したものがございます。   死体の一部を摘出することは、刑法第百九十  条の死体損壊罪を構成するものであるが、医師  が患者の重大な疾病の治療を目的とし、死亡を  確認した後死体の一部を摘出してこれを生体に  移植する場合において、あらかじめそのことに  関する本人の承諾又は遺族の承諾を得たときに  限り、刑法第三十五条にいう「正当ノ業務二因  リ為シタル行為」として違法性を阻却するもの  と思料する。   なお、本件に関しては、死体解剖保存法の規  定は適用されないものと解する。このことについては今も変わりがございませんか。
  159. 小林秀資

    政府委員小林秀資君) 御指摘の昭和二十九年の通知でございますが、これは角膜及び腎臓の移植に関する法律の制定前の照会でありまして、それに回答したものでありますけれども、その内容は、患者の重大な疾病の治療を目的とし、死体の一部を摘出してこれを生体に移植する場合において、あらかじめ本人の承諾または遺族の承諾を得たときに限り違法性が阻却されるとする見解を示したものでありまして、一般論として現在でも否定されるものではないと考えております。
  160. 栗原君子

    栗原君子君 それでは、続きまして両案の発議者に対して御質問をいたします。  まず、本法案につきましては、臓器移植法案でありながら、臓器移植という新たな技術の社会にもたらすさまざまな影響については全く論じられていないと言えると思います。脳死臨調であって臓器移植臨調ではない、こういったことが言えると思います。九割は脳死の論議になっているように思うわけでございます。  さらに、一人の患者の救命であることはあえて否定はいたしませんけれども、これすらも適切には判断されない場合があるわけでございまして、人が死んでくれなければできない治療でございます。そのことによりまして臓器の不足も必然のことでございますし、ドナーの候補の拡大も予想されるわけでございます。  そしてまた、欧米においてはこういった法律の見直しの機運がございます。とりわけ、アジアを初め発展途上国のドナーの獲得のための著しい人権侵害が横行している、そういった報告も来ているわけでございます。例えば、無脳症児をドナーにすることを合法としたアメリカ、さらには、実際に運用はされておりませんけれども、植物状態の人からの臓器の摘出も既に論議になっているとか、また子供がさらわれるといった報告もありますし、また死刑囚がねらわれているといったような報告も来ているわけでございますが、これらにつきましてはどのようにお考えになっていらっしゃいますか、お願いします。
  161. 自見庄三郎

    衆議院議員(自見庄三郎君) 栗原委員に答えさせていただきます。  今までこの法律が、臓器移植が与える文化的影響あるいは国際的影響、社会的論議をすべきでないか、こういう御意見がいろいろ前段であったと思います。  脳死臓器移植問題については、議員立法により設置されました臨時脳死及び臓器移植調査会、いわゆる脳死臨調において、約二年間の時限立法でございましたが、合計三十三回の定期会議、あるいは三回の国内視察、三回の海外調査、二回の意識調査に加え、全国六ブロックに分けまして一般の方々から広く意見を聞く公聴会などを開催させていただいておりまして、国民各層から広く意見を集め、精力的かつ可能な限り慎重に議論をされたというふうに私たちは思っております。また、調査会委員についても、学識経験者、医師、マスコミ、作家等幅広い人選が行われたということも御承知のとおりでございます。  また、このような国民的論議を集約したものが平成四年の一月の脳死臨調答申でございますが、これを受けて超党派で、私は中山先生が超党派でこの議員連盟をつくったのは十三年前だというふうにお聞きいたしておりますが、そういった超党派の議員から成る各党協議会、各党各党に呼びかけてこういった検討を行ったわけでございますから、そういった意味では中山案は長期間にわたって幅広い論議、検討を重ねた上の提案であるというふうに私たちは思っておりますので、御理解をいただければというふうに思っております。  もう一点、ドナーに関しましていろいろな人権上の憂慮されるべき話が先生の後段の質問であったわけでございますが、これはまさにこの法律そのものが臓器移植の促進に資するために、国民のまさに健康と福祉を目指してやらせていただくわけでございますから、臓器の提供に関する本人意思はまず尊重されなければならない、それから任意でなければならない、強制されたものであってはならない、人道的精神に基づいて移植を必要とする人に公平に与えられなければならない、こういったことでございますから、今までいろいろなお話がございましたが、臓器の売買は強く禁止をいたしておりますから、そこら辺でおのずと明らかではないかというふうに私は思っております。
  162. 朝日俊弘

    委員以外の議員(朝日俊弘君) お答えいたします。  議員指摘のように、ちょっとこの議論脳死をめぐる議論に終始し過ぎておりまして、臓器移植そのものの議論についてもっと深めるべきではないかという御意見は全く同感であります。今後の特別委員会の中での審議をぜひ深めていただきたいというふうに私も思っております。  なお、私どもが提案させていただいた案は、決して臓器移植をどんどん推進しようという趣旨のものでは必ずしもありません。むしろ、気持ちとしたら、脳死状態になってぜひともみずからの臓器を提供したいという人と、それから決して理想的な治療ではないけれども臓器移植しか今命を長らえることができないという人たちの間を何とか橋渡しできないか、そういう意味で厳正な手続によって法的にその手順を決めていこうではないか、こういう趣旨でつくっておりますので、繰り返しになりますが、必ずしも積極的に臓器移植を推進しようという立場のものではないということは御理解いただきたいというふうに思います。  なお、一言つけ加えますと、実は日本でも小児科の学会誌に無脳児からの臓器移植の報告が堂々となされております。臓器移植そのもののあり方について深く私どもも検討をしていかねばならない、こんなふうに思います。
  163. 栗原君子

    栗原君子君 いずれにせよ、日本でも今もう一度きちんと臓器移植そのものについてさまざまな議論を巻き起こす必要がある、こうした声もたくさん来ているわけでございます。例えば、一年間全国公聴会などを行うことによって国民的な議論をもっと巻き起こしていただく必要はないか、このことについてはどうお考えでございましょうか。
  164. 中山太郎

    衆議院議員中山太郎君) 衆議院におきましては既に各地で公聴会を開催いたし、幅広く賛成される方の御意見、反対される方の御意見を聞いてまいりました。当院におかれましてもやがて公聴会も開会されることと考えております。また、それを望んでおります。
  165. 朝日俊弘

    委員以外の議員(朝日俊弘君) 先ほどもお答えしましたように、脳死の問題だけではなくて臓器移植そのものの問題についてもぜひ幅広く、かなり基本的な問題も含めて御議論をいただきたいというふうに思います。  ただ、一年間というふうに決めるかどうかという問題については、これはぜひ特別委員会の皆さんの御判断にゆだねたい、こんなふうに思います。
  166. 栗原君子

    栗原君子君 もう時間がなくなりますけれども、例えばレセプトを出させるとか、あるいはまた人権監視委員会などを設置する必要もあろうと思いますし、あるいはまた今医療現場も大変閉鎖的だといった声も出ているわけでございます。そうした閉鎖的と言われることに対して、もっとオープンにしてもらうためのそうした議論も必要になってくるんではなかろうか、こんなことを思います。  どうか、今慎重な声も私どものところにもたくさん来ておりますので、今の問題でございますので、十分慎重に取り扱っていただきたいということをお願いして終わります。  ありがとうございました。
  167. 竹山裕

    委員長竹山裕君) 本日の質疑はこの程度にとどめ、これにて散会いたします。    午後五時四十四分散会