○戸井田
委員 一年間の
プログラムの中で、私は重要だなと思ったのは、一週間の中で一時間でもいいからそういった時間があった方がいいんじゃないだろうか。そして、
考え方、
思い、その
考え方を聞いてどういうことをそれぞれが思っているか、お互いの意見の交換、そういったものの中にそういう実体験みたいなものが絡んでくる。そして、週に一回、一時間であるけれ
ども、一年間、そして翌年二年間と続けていくこと、そういうのが効果があるんじゃないかなという気がするわけですね。
そして、
小学校一年生だからそういうことが難し過ぎるとかいうことはないと思うわけです。小さくても、そういうものを子供がどう
感じるか、どうそのことによって学び取っていくかということだろうと思うわけであります。そして、その学び取るということは、体験を通じてでは、まさに一瞬にして学び取れる
部分があるのかなということも
感じるわけであります。実は、一私の父が死ぬ間際のときに私は
自分の子供を呼び寄せました。そして、子供に父の看護をずっと付き添いでやらしたわけであります。決してそこにいたからといって父がどうなるわけでもない。しかし、子供に、人生の最後を締めくくる場面は、おじいさんのその場面はぜひ見てほしいと。それによって、
人間はこうやって死んでいくんだ、また死ぬということはどういうことなのか、どんなに活躍してどんなに一生懸命生きてきた
人間であってもいつかは必ず死ぬんだ、死んで後何が残るんだろうかということまで子供たちに
考えてほしいと
思いながらその場に立ち会わせたわけであります。そうしたら、やはり子供の反応というのは素早くて、手のひらを返したように翌日から急に私の方にすり寄ってきて、肩をもんでみたり、そういうようなことが入ってくる。
それは、
自分自身が何を
感じていたかはわからないけれ
ども、だけれ
ども、
人間の人に対する
気持ちというか、そういうものが子供の心の中に芽生えてきたんだろうと思うし、それをどう表現していいかわからなかったけれ
ども、何とか表現しようと思ってそういうふうな行動に出たのかもわからない。しかし、その後を振り返ってみても、何日かして一月、二月すればするほどだんだん薄れてはくるんですけれ
ども、子供の心に与えたインパクトは大変大きなものがあったんじゃないかなということを実は
感じるわけであります。
そういう
意味で、
小学校、
中学校の
義務教育の大切さというものは、決して
知識を教えることだけでなしに、子供自身がその多感な時代にどういうものにぶつかり、どういう経験をするか、それの手伝いをするのが
学校の
先生の役割じゃないかなというふうに
感じるわけであります。
我々も
自分自身の子供のことを振り返ってみると、どうも勉強、勉強ということに走りがちな
部分がある。しかしそれは、今
日本の
社会が置かれた
学歴偏重のそういう
社会構造の中にあるから、どうしても、さっきの
田中眞紀子先生の早口じゃないですけれ
ども、みんなが知らないうちに引きずり込まれていってしまうという
部分があるんじゃないかなと。
そういうことを
考えますと、やはりもう一度改めて原点に立ち返って、
教育というものはどういうものなのかなということも必要なんじゃないかな、そしてなおかつ、その中にボランティアとか介護、
思いやり、そういったものの占める領域というのはもっと大きいはずだったんじゃないかなというふうに思えて仕方がないわけであります。
一つは、私の友人に精薄者施設をお父さんと一緒にやっている人がいるんです。その人は今四十四歳でありますけれ
ども、精薄者の中に同い年の人がいたわけであります。その子は名前がコーちゃんということをよく言っておりましたけれ
ども、そのコーちゃんは、年を聞いてみると
自分の年がはっきりわからない。数を数えてみなさいと言うと、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十までは数えるけれ
ども、そこまで来ると首をひねって黙っている。十の次は何だと聞くと、またじっと
考えて、一、二とまた一に戻っていく。そういう子であるわけであります。
その子がお父さんと一緒に車に乗って営業に出かけていく。車の中でその私の友人のお父さんが、なあコーちゃん、おまえ一番何が好きなんだと言ったら、プロレス見るのが好きだということをコーちゃんが言うわけであります。そうか、プロレス見れて、そして飯が食えて過ごせたらそれで幸せだな、幸せなんだぞということをよく言っていたそうであります。そうしたら、その私の友人がたまたまコーちゃんと横に乗って同じような営業をしていたときに、ああおれもう嫌になったなあ、人生嫌になったなあというようなことをぼろぼろ漏らしてひとり言みたいにして言っていたら、隣のコーちゃんが、プロレス見れて飯食えたらそれで幸せだということを言ったそうであります。何でそんなこと言うのかと思っていたら、お父さんがそういうことを年じゅう言っていたことをそれこそ九官鳥のように言ったのか、また、本人がわかっていて言ったのか、その辺は定かではないんですけれ
ども、そういうことを横で言っていたと。
私の友人は、そのコーちゃんの生き方というものを見ていて、また同い年の
人間だということを見ていて、こういうことを言うんですね。同じ
昭和二十七年生まれの者がずっと並んで生まれてくるんだ。しかし、その中でコーちゃんみたいに十までしか数えられない子もいる。それこそ、どんな試験受けてもすべて百点とってしまうような子もいる。しかし、何でコーちゃんだけがそういうふうにして生まれてきたんだろうか。
自分はこういうふうに思うんだと。
そのずらっと並んだ中にコーちゃんがいて、そのコーちゃんの後ろに僕がいたような気がしてしようがない。そして、だれがコーちゃんに十までしか数えちれない知能しか与えなかったのかといえば、神様なんだ。神様が、だれにしようかなということで順番にいってぼんと当たったのがコーちゃんなんだということを彼は言うわけであります。そしてコーちゃんの後ろに僕がいて、僕のところにひょっとしたら指されたのかもわかもないな、そういうことを思うとコーちゃんと一緒に仲間として生活していけるんだということを言うわけであります。
なるほどなあ、これも彼がその体験の中から得た
一つの感想なのかな、また
一つの
思いかなということも
感じるわけであります。
そうやって
考えてみますと、
人間というのはそれぞれ同じであるわけでありますし、また、ある
意味で機会も均等に与えられなければならない。しかし、それを学び取るか学び取らないかというのは個々にもよるわけであります。いろいろなことで高等
教育、そういったことも大切でありましょうけれ
ども、
人間社会の中で恐らく半分以上の人がそんなに高い
教育を受けることはないだろうと
思います。しかし、
社会はそういった
人たちによっても支えられているんだ、そういうことを覚えていくのも
義務教育の中で大切なことなんじゃないだろうかと。その数ある
社会を構成している者の中でもって、本当にコーちゃんみたいな人でもひょっとしたら世の中に対して役に立つ人がいるんだと。
私、子供から、
自分ら一生懸命試験勉強しているけれ
ども、どうもこれ以上やりようがない、どうしたらいいんだろうかということを聞かれたことがありました。子供に対してどういうふうに答えたらいいのかなと
思いながら、世の中確かに学歴で評価される
部分がたくさんある、しかし、私は、人の評価というのは、学歴だとか偉いポストについているとかそんなことで評価するんじゃない。人それぞれ持って生まれた器がある。人によればこのコップぐらいの器かもわからないし、またこの水差しみたいな大きな器かもわからない。ドラム缶のようなもっと大きな器を持って生まれてきた人もいるかもわからない。そしてコーちゃんみたいに、ある見方からすれば杯はどの器しかないかもしれない。
しかし、その器で評価するんだろうかといえば、私はそうじゃないと思うわけであります。その
自分の与えられた器にあふれるぐらいの努力を積み重ねることができるかどうか、それを続けることができるかどうか、それによって人は評価されるんだ。だから、おまえも確かにいい
学校に行きたいだろう。しかし、
自分が行ける
学校でもって、そこでもって
自分が精いっぱい努力することによって人は評価してくれるんだ。そういう
社会でなければならないというふうに私は思うわけであります。
自分の器いっぱいの努力をして、そしてそれが評価される
社会、それをつくるのも、やはり小さいころからの
教育によるんだというふうに思うわけであります。
そういうことをすべて
考えてみると、いかに
小学校、
中学校の
義務教育が大切なものであるかということは、改めてだれしも
感じることだろうというふうに思うわけであります。
今度の
教育改革プログラムの中でもってやはりたくさんいいことあると
思います。実際に、
社会人や地域
人材の
学校への活用というようなこともあります。我々PTAをやっていて、確かにいいことばかりじゃありません。悪いこともあるわけです。中に、中学生なんかだったらひどいことを平気でやるのもいるわけですけれ
ども、そういう者をきちっと本人を納得させて抑えていこうと思ったら、
学校の
先生だけじゃどうにもならないわけです。中には、具体的な例としたら、本当にやくざを使ってその子を納得させて
学校に来させてと、対症療法かもわかりませんけれ
ども、しかしそういうものもある。だけれ
ども、そこにきちっとした話し合いが行われて、お互いが納得して、子供も納得して
学校に出てくる、それはそれで子供にとって悪いことじゃないわけであります。
しかし、そういうものを
学校の
先生が、じゃ、その人がやくざだからということでもってその人をその子供に対してほっぽりっ放しということになれば、その子はいつまでたってもそれ以上――悪い
方向にどんどん進んでしまうことになる。そういうときに、その地域における
人材というものを活用するというのは恐らくそういうことを言っているんじゃないだろうとは
思いますけれ
ども、そういう
人材の活用方法もあるんじゃないかなと。いろいろな
意味で、現場の
先生方がいろいろな対症療法というものを知っているんだろうと思うのですけれ
ども、それと地域とのつながりというものがやはり子供を支えていくことは間違いないだろうと
思います。
しかし、なかなかPTAも、最近は与えられた役を逃げ回るということが、それぞれ役をやるのが嫌だということで逃げ回るわけですけれ
ども、それが最近の
一つの
風潮だろうと
思います。
自分の子供は
自分一人で育てられるかといったら決してそうじゃないと
思いますし、また、子供が
小学校に行き、
自分の目、親の目を離れている時間というのは、だれかに世話になり、迷惑になりしながら大きくなっている。そういうことを
考えたときに、その地域の人とのつながりというものがいかに大切かということもわかるわけでありますし、その辺の関連のことで、また
文部省の、
大臣の御見解、まだこれからの
方向性というものもちょっとお示しいただけたらありがたいなと
思います。