○久保
委員 新進党の久保哲司でございます。
藤本農林水産大臣並びに
関係者に、今回提案されました
繭糸価格安定法の一部を
改正する
法律案並びに
製糸業法及び
蚕糸業法を廃止する
法律案について御
質問をさせていただきます。
この二法の今回の
改正というのは、ある
意味で、時代の要請といった
観点からも当然のことかなという感じがするわけでございますけれども、そんな中で、御承知のように、この
繭糸、繭あるいは
生糸、また、それによって
生産される絹というものが我が国の中でどういう
役割を果たしてきたのか、そんなことを
考えましたときに、ある種の寂しさを感ぜざるを得ないような部分もございます。
明治以降、昭和初期に至るまで、我が国の
輸出産業の花形として、言うならば、外貨の獲得あるいは経済の
発展に寄与してきた、その最先端が
生糸であり絹製品であったわけであります。
日本は、いろいろな産業分野において、みずからが
生産をしみずからが
輸出をするといった部分は非常に少ないわけでありますけれども、そんな中で、ある
意味ではこれが突出をしてそういった
役割を担ってきた、そんな一分野であります。
もちろん、明治以降、昭和初期に至る中で、
日本がいわゆる富国強兵一あるいは西欧諸国に追いつき追い越せということでやってきた一面があったことも否めませんし、その背景には、言うならば、かつて映画にもなりました女工哀史といいますか、女工さんの悲しい歴史、そういったことが隠されておったこともあるのだろうと
思います。
しかし、いずれにしろ、ある種、
日本の
農業の花形、また
輸出産業の花形としてやってきたこの歴史が、太平洋戦争の勃発と同時に、いわば販路を喪失し、また食糧確保のために桑畑がどんどんつぶされていった、その結果、非常に悲しいというか、残酷な運命をたどらざるを得ない
状況になりました。さりとて、戦後、戦争が終わったわけでありますけれども、それでは、
日本がすぐに手をつけられる産業があったのかといえば、決してそれはなかった。したがって、戦後、再び
もとの夢をというようなことも含めて、もう一度その疲弊の中から立ち上がって、
輸出農産物の中での王座を占めるに至ったわけであります。しかし、その後、昭和三十七年から貿易自由化されたその最初の品目でもあったわけでございまして、どんどんと衰退の一途をたどってまいりました。
今
思い出しますと、私なんかも、昭和三十年代前半、小学生から中学生時分、友達とよく遊んだのは、蚕を買ってきて、それで、家の周りに自生している桑をとってきて、ぬれておったら蚕死によるでというわけで、一生懸命ふいて乾かして、それで、小さい箱に、蚕が何匹かうようよおるところへ葉っぱをほうり込む。
最後まで見届けるというのはまずなかった。
最後は結構大きくなって糸を吐き出して、繭の形ができ上がってくる。うっすらと中でまだ蚕が一生懸命糸を吐いているのが見えている、そのぐらいになったら、もう遊びは通り越して、後ほどないなったんか知らぬという、こんな状態で遊んだことも覚えております。
今はまさに、関東に主流があって、一部東北等にもありますけれども、まさに関西の方ではまるで見ることのない産業になったのかと
思いますが、当時我々が、子供すらそういうことをやっておったということを
考えますと、まさに
日本の産業だったのかなと懐かしく
思い出すような次第であります。しかし、近年は、
中国あるいはブラジルといったところの外国産に押されて
日本産はどんどん衰退をしておる、こんな
状況でございます。
そこで、まず最初、冒頭
藤本大臣にお伺いをいたしたいのですが、
繭糸価格安定法そのものが、今日まで十回にわたる改定を繰り返して今日に至ったわけでございますけれども、これが、言うならば、
繭糸あるいは
生糸の
価格安定にどのような
役割を果たしてきたのか。すなわち、昭和二十六年にこの
法律が制定されて以来、いよいよ今回大がかりな
改正ということになるわけでありますけれども、四十年余りの歴史の中でこの
法律が果たしてきた
役割、これを一体どのように総括され、また評価しておられるのか、この点をまず伺いたいと
思います。