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1997-04-15 第140回国会 衆議院 厚生委員会 第16号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成九年四月十五日(火曜日)     午前十時五分開議 出席委員   委員長 町村 信孝君    理事 佐藤 剛男君 理事 住  博司君    理事 津島 雄二君 理事 長勢 甚遠君    理事 岡田 克也君 理事 山本 孝史君    理事 五島 正規君 理事 児玉 健次君       伊吹 文明君    今村 雅弘君       江渡 聡徳君    大野 松茂君       奥山 茂彦君    嘉数 知賢君       岸田 文雄君    阪上 善秀君       桜井 郁三君    下地 幹郎君       下村 博文君    鈴木 俊一君       田村 憲久君    根本  匠君       桧田  仁君    松本  純君       保岡 興治君    山下 徳夫君       青山 二三君    井上 喜一君       池坊 保子君    漆原 良夫君       大口 善徳君    鴨下 一郎君       倉田 栄喜君    坂口  力君       武山百合子君    福島  豊君       桝屋 敬悟君    矢上 雅義君       山中 燁子君    吉田 幸弘君       米津 等史君    家西  悟君       石毛 鍈子君    枝野 幸男君       瀬古由起子君    秋葉 忠利君       中川 智子君    土屋 品子君  出席政府委員         厚生政務次官  鈴木 俊一君  委員外出席者         議     員 中山 太郎君         議     員 自見庄三郎君         議     員 桧田  仁君         議     員 山口 俊一君 一       議     員 福島  豊君         議     員 矢上 雅義君         議     員 五島 正規君         議     員 金田 誠一君         議     員 山本 孝史君         議     員 枝野 幸男君         議     員 海江田万里君         議     員 北村 哲男君         議     員 秋葉 忠利君         議     員 遠藤 武彦君         厚生省保健医療         局疾病対策課臓         器移植対策室長                 貝谷  伸君         厚生委員会調査         室長      市川  喬君     ――――――――――――― 委員の異動 四月十五日  辞任         補欠選任   安倍 晋三君     阪上 善秀君   大村 秀章君     下地 幹郎君   嘉数 知賢君     大野 松茂君   根本  匠君     岸田 文雄君   能勢 和子君     保岡 興治君   山下 徳夫君     今村 雅弘君   坂口  力君     漆原 良夫君   福島  豊君     池坊 保子君   吉田 幸弘君     倉田 栄喜君   中川 智子君     秋葉 忠利君 同日  辞任         補欠選任   今村 雅弘君     山下 徳夫君   大野 松茂君     嘉数 知賢君   岸田 文雄君     根本  匠君   阪上 善秀君     安倍 晋三君   下地 幹郎君     大村 秀章君   保岡 興治君     下村 博文君   池坊 保子君     武山百合子君   漆原 良夫君     山中 燁子君   倉田 栄喜君     吉田 幸弘君   秋葉 忠利君     中川 智子君 同日  辞任         補欠選任   下村 博文君     能勢 和子君   武山百合子君     福島  豊君   山中 燁子君     坂口  力君     ――――――――――――― 本日の会議に付した案件  参考人出頭要求に関する件  臓器移植に関する法律案中山太郎君外十三  名提出、第百三十九回国会衆法第一二号)  臓器移植に関する法律案金田誠一君外五名  提出衆法第一七号)      ――――◇―――――
  2. 町村信孝

    町村委員長 これより会議を開きます。  第百三十九回国会中山太郎君外十三名提出臓器移植に関する法律案及び金田誠一君外五名提出臓器移植に関する法律案の両案を一括して議題といたします。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。保岡興治君。
  3. 保岡興治

    保岡委員 私は、選挙区の難病患者の皆さんから臓器移植法国会成立を陳情されて以来、中山先生に、一日も早く法案成立を図りましようとお願いをし続けてきた一人でございます。しかし、臓器移植というのは考えれば考えるほど大変なことで、自分がドナーやレシピェントになった場合のことを思うと、まだまだ簡単に割り切れない部分が残るのも事実でございます。  しかし、人間は、宇宙の秩序や生命の神秘さ、これを支配する原理の偉大さ等、とてもこれに及ぶ存在ではないとは思いつつ、その存在に畏敬の念を持ちつつ、生命の神秘に迫る努力を続けてきたのだと思います。移植医療もまた、そういう生命の真理に迫る、人間としての、あるいは人類としての大切な努力一つではないか、そう思っております。  また、せんだっての、米国心臓移植手術を受けられた参考人の木内さんの真摯な生きる姿勢や、作家の柳田邦男さんの御子息の腎臓の移植を受けられた男性の方が、病に冒されてゆがんでいた性格までよみがえって社会復帰されているようなお話を伺いますと、本当に、移植の持つ深い意味あるいは道のりから日本人日本の国が取り残されていってはならないということをひしひしと感じています。  これまで移植問題にいろいろな立場から真剣に取り組まれてきた方々中山先生や、また対案を出された金田先生を初め、臓器移植法成立に全力を上げてこられた先生方にまず心から敬意を表して、質問を始めたいと思います。  まず、脳死を死とする臓器移植法と、脳死を死としない臓器移植法と、二本の法案提出されているわけでございますけれども、いずれの法案臓器移植を推進する立場でございます。今国会で、臓器移植を可能とする法律をぜひとも成立させなければならないと思いますが、両提案者にそれぞれお考えを伺いたいと思います。
  4. 中山太郎

    中山(太)議員 この国会におきまして法案二つ出されて、しかも、幾つかの部門で基本的なところに相違があるということを、私の立場から、提案者十三名を代表して申し上げておきたいと思います。  脳死が人の死であると社会的には容認されて、合意されているといったようなことは脳死臨調で も明らかになっておりますし、また、日本メディカルプロフェッショナル日本医師会の、元東大総長加藤一郎先生を座長とする生命倫理懇談会でも、脳死は人の死であるという考え方でおおむね答申が出され、日本医師会がこれを発表した。  死の診断権を持っているという者は、法治国家である日本では、医師に与えられた職業的な権限、こういうことでございますので、人間の死に関する診断というものは非常に慎重にしなければならない。従来、死の三徴候説診断が行われておりましたが、脳死判定基準というものができまして、今日のような法案提出する結果になってきたわけであります。  問題として私ども考えておりますことは、あくまでも脳死判定が行われて、しかも一定の、六時間、最低の時間が経過して、再び診断が行われて、竹内基準をもって診断をし、さらに聴性脳幹反応というものがどういう形になっているかということを確認した上で死亡診断を行う、こういうのが一つ医学専門領域での基本的な基準であろうと私は思います。  これに対して、あくまでも本人の生存中の御意思が明確に文書で残されている場合で、御遺族反対をされない場合という場合に限定をしております。対案の中で、御家族脳死状態からの摘出に同意された場合にはこれをすることができるという考え方について、この法案にも書かれておりますように、「遺族」という言葉と「家族」という言葉が使われております。私どもは、あくまでも亡くなられた方ということが最大の重要な条件であるというふうに認識をしております。そこが基本的な違いであろうと思います。
  5. 保岡興治

    保岡委員 どうでしょうか。そして、この法律を何とかこの国会成立させたいかどうかの決意を簡単に述べていただいて、後また質問を続けます。
  6. 金田誠一

    金田(誠)議員 私ども脳死を人の死としない、脳死状態死体規定しないという立場から、ようやくこの三月三十一日に法律提出することができたわけでございます。作業に取りかかりましたのは昨年十二月でございますけれども、その間、法制局と大変なやりとりをいたしました。そういう立法が可能であるかないのかというやりとりでございます。  実は、それ以前、各党協段階から、あるいは中山先生の前の法案提出された段階、この期間を通じて、法制局は恐らく、脳死状態を死あるいは死体という規定を設けなければ立法は不可能だという立場をとっておられたのではないかな、こう記憶をいたしてございます。その後、これに並行しながら、例えば日弁連の独自案が出されたり、社会議論が進んだりという背景のもとに、ようやくこの三月の段階になって、脳死状態を死とするという規定を設けずに立法が可能だという意見も認めていただけることになったのかなと思うわけでございます。そういう状況になって初めて、私ども法律が可能になったというふうに思ってございます。  したがって、もし、各党協の当初の段階から、選択肢二つある、脳死状態死体とする、脳死を人の死とするという規定を設けて立法する方法一つ、もう一つは、そうではない、脳死状態脳死状態、それを死と思う人もいれば思わない人もいるという状況のもとで立法する方法一つ、最初から二つ選択肢があって、どちらを選ぶのですかという問いかけがあり、検討がなされていたとすれば、私は、もっと違う議論経過をたどって今日に至っていたのではないのかなというふうに思うわけでございます。それは、だれがいいとか悪いとかという問題ではなくて、事実としてそういう経過であったと思うわけでございます。  その上で、今二つ法案が明確に存在するわけでございますけれども、これに対しては、社会の受けとめとしては、脳死を死と認識する方あるいはしない方、どちらともわからないという答えをされる方、さまざまでございます。そして、医学世界でも、先般の参考人の御意見でも、明確に、脳死状態としか言い切れない、死ではないとおっしゃった方がお二方いらっしゃったと思うわけでございます。現状はまさにそういう状況でございます。  これについて立法決意ということでございますけれども、本来であれば、法律がなくても、先般の参考人の御意見にもございましたが、メディカルプロフェッションという立場で、社会的合意、信頼が形成されていればそういう道もあったろうと思いますし、それが望ましかったと思うわけでございますが、今日の時点では、私どもは、やはり法律によるしかないかなという立場法律提出させていただいております。  したがって、できるなら私ども法律成立することを望んでございますが、しかし、この法律、本当に採決、表決で決めるべきものなのかなという思いも実はいたしてございます。何らかの方法がないものかなという思いも正直ございます。
  7. 保岡興治

    保岡委員 両法案提案者からお話がございましたが、しかし、いろいろ模索するにしても、臨調答申を得てからもう五年もたっておりますし、また、この法案国会審議されるようになってからももう三年が過ぎている。私は、この国会でぜひ成立を期すべきがお互いの責任だと思います。  そこで、本会議に何か中間報告の形でかけて、そこでいきなり採決というようなことが検討されているかに聞くのですが、その場合に、修正案から、原案に遠い案から採決をしていくという原則だそうです。そういう場合に、修正案として少数であった場合、次に、次善の法案とされる次の法案賛成する、こういう過程がないと、臓器移植法法案が分立するために、かえって、移植法案成立させるべきだという議員が多いにもかかわらず、それが否定されてしまうという結果にもなりかねませんが、その点について、ごく簡単に、後また質問もありますので、結論修正案提案者に伺いたい。
  8. 金田誠一

    金田(誠)議員 私ども修正案という形ではなくて、対案ということで提出させていただいているわけでございます。  議会運営方法、定かには承知はいたしてございませんが、仄聞いたしますと、初めに中山先生の案が採決に付され、その後、私どもの案が採決に付されるやに伺っておりますが、そういうことかなと思っておるところでございます。
  9. 保岡興治

    保岡委員 そこはよく両提案者お話しをいただいて、あるいは議運とも相談をされて、臓器移植法賛成者の多数が法案を得ることができるようにぜひお願いをしたいと思います。  そこで、今度の審議を通じて、いろいろ伺っていますと、脳死という死の概念臓器移植のために便宜的に方便としてつくられたものであるというような批判がなされました。私は、全くそういうことはないと思います。そもそも医学的に脳死が死であると定義されていった経緯からいっても、私は、脳死の死の定義移植とはきちっと区別されてきたというふうに認識しておりますが、中山先生、いかがでございましょうか。
  10. 中山太郎

    中山(太)議員 先生のお尋ねにつきましては、脳死概念についての歴史がございます。  アメリカにおきましては、一九〇〇年初頭から、脳死状態があることがわかっておりましたが、その後、一九五〇年代に入りまして、人工呼吸器が普及されるようになり、脳死状態があることが明確にわかるようになり、一九六八年に、ハーバード大学において、これら脳死状態を明確に判定するため、世界初脳死判定基準作成されました。この基準は、脳死を正確に判定するものであり、脳死は人の死としたものではないと承知しております。その後、一九八一年に大統領委員会において死の判定に関する統一法案作成され、このモデル法案の中で、脳死は人の死であると公に定義されたという経緯がございます。  以上が米国における今日までの経過でございます。  我が国におきましても、一九七四年、昭和四十九年に日本脳波学会において脳死判定基準作成後、一九八五年、厚生省研究班において竹内基準作成をされました。この研究班報告書において、「本指針では脳死をもって人の死とは決して定めていない。」としているところであり、この竹内基準も、脳死を正確に判定するために作成された基準であると理解をいたしております。その後、昭和六十三年に日本医師会生命倫理懇談会が「脳死および臓器移植についての最終報告」を出し、「従来の心臓死のほかに、脳の死をもって人間個体死と認めてよい。」という見解を発表したと聞いております。また、平成四年の脳死臨調答申においても、「脳死をもって「人の死」とすることについては概ね社会的に受容され合意されているといってよい」との答申が出されております。  このようなことで、脳死につきましては、純粋に医学的に脳死に対する研究が行われ、その結果、脳死判定基準作成され、その後、脳死は人の死と社会的に受容された経緯をとっており、決して、臓器移植のために脳死判定基準作成し、かつ、脳死を人の死と決定したわけではないと理解をいたしております。
  11. 保岡興治

    保岡委員 ありがとうございました。  それと、臨調の大多数の委員先生方の慎重な検討がなされた旨、今お話もありましたけれども臨調答申でございますが、これは議員立法によって設置された、国会意思でつくられたわけですね。そこで大多数の方が二年にわたって慎重に検討された結果は非常に重いものがある、私はそう思うのです。  そして、この中で、金田案でございますけれども脳死を死としない考え方法案は可能であるということが最近になって明確になってきたからというお話がございましたが、また、その後のいろいろな御意見があって提案に至ったというお話がございましたが、私は、この臨調答申を、真っ向からこれを否定してしまう、ごく一番基本のところで否定してしまう法案になっているのではないだろうかということを非常に強く感じます。  私は、そういった意味で、多くの臨調委員先生、あるいは、長い間、脳死に携わって、それをめぐっていろいろ真摯な議論をされてきた方々が、単に移植目的として、方便として脳死考えてきたことでないことだけは明らかだというふうに思います。今のお答えは実は金田案の方にぜひお願いしたいのですが、時間もございますので、後で、進めながら、その中でお述べをいただければと思います。  それで、脳死を含む心臓死を死とする考え方と、心臓死のみを死とする考え方、これは世論調をやれば、大体六対四ないし七対三で脳死を死とする考え方が多い。これも私は重い事実だと思います。法律で死を位置づけなければならないということが両法案の宿命であれば、これは、そういうことで法案提出をしている以上、私としては、この多数の考え方に沿うことが必要不可欠なのではないだろうか、臨調答申国民の多数の意思というものに従うことが正しいのではないかと。  九九%余の脳死以外の死は、従来の心臓死概念で説明できて、この点については両方の考え方に差もないし、あるいは臨床の現場でも別にそう混乱も起こらないことでございます。問題なのは、残る一%弱の部分についてどう考えるか。これによって死の概念を変えるから反対だという意見もありますけれども、私は、ここに、まさにこの一%弱に、人間として、社会として、医療として対応が正確に求められているのが脳死をめぐる題だと思うのです。要は、心臓が動いている、人工呼吸器呼吸はしている、体温もある、人間のこういった状態をいかに受けとめるかということに尽きるのではないかと思います。  そういった意味で、さきに行われた世論調査で、日本世論調査会全国調査なんですが、「家族脳死状態になった場合、人工呼吸器を外すことについて、あなたはどう思いますか。」という問いに対して、「医師判断人工呼吸器を外してよい」とするのが一二・七%、「家族の承諾があれば、外してもよい」というのが六七・一%、「心臓が止まるまでは、人工呼吸器を着けておいてほしい」が一七・三%で、実は八割近くの人が脳死状態の人から人工呼吸器を外すことを同意というか認めているわけなのです。  このことは極めて重要な意味を持っていて、やはり人間の蘇生の限界点を死とする基本という点では心臓死などと共通しているということが一番基礎にあって、そうして私どもは、人間が脳の機能を喪失して、人間の最も根幹の部分を失って、なお人工的に呼吸をさせたり、その結果、心臓を動かしていることは、むしろ人間の生の尊厳を邪魔するというか、逆らうような、そういう思いも実は一般の人の中にある、これが一つ判断の重要な基礎になっていると思うのです。また、そういう状況になったのに、いたずらに治療、処置を続けるということの問題も、死者に対するいたわりの気持ち、あるいはお医者さんに対する配慮などから人工呼吸器を外すことを容認したという基礎になっていると私は思うのです。  そういうもろもろの、人間の死というものの本来の意味をきちっと考えた上で国民の多数がこの一%の現象に対して正確に答えておる、正しく答えておって、移植のための方便などという認識ではないことは明らかだと私は思うのですね。そういった意味で、私は、これらの世論調査の結果、臨調の大多数の委員先生方の長年の慎重な審議の結果、それを尊重すべき国会立場、そして人工呼吸器が生まれてから長年にわたって脳死定義をしてきた人類歴史、そういったことを考えれば、これはやはり人類共通課題であり、人間としての課題であり、日本人の文化とか日本の何か特殊な習慣に基づいて死、脳死判断をすべき次元の問題ではないように私は思うのです。  そういった意味で、これらの、この一%をめぐる脳死考え方の多数の考えをむしろ少数に置きかえて立法する姿勢というものが私はよく理解できないのですが、いかがでございましょう。
  12. 秋葉忠利

    秋葉議員 お答えいたします。  ただいまの御質問中心点は、法律によって死を定義づける、あるいは法律的な位置づけを死に与えるかどうかというところが中心的なポイントになっております。  その点について申し上げますと、私たち提出いたしました法案では、法律によって人の死を定義すべきではないということが言い過ぎでしたら、法律によって定義づけなくても、これまでの社会慣習、これまでの死の定義日本社会においては十分機能する死の概念というものが存在し、機能しているというふうに考えております。  したがいまして、その立場から申し上げれば、さまざまな御指摘人類全体の広がりやあるいは人類歴史等を勘案されての非常に意義ある御指摘であり、分析だと思いますけれども、それに私たちは答える立場にありませんと申し上げてもいいのですが、せっかくの機会ですので、何点かについて申し上げたいと思います。  例えば、多数決によって決めるということ、私たち国会の中でも採決によってこれを決めることにちゅうちょを感じるという趣旨の説明を同僚の金田議員の方からいたしましたけれども、それはやはり、人間の生と死という非常に重い問題を考えるに当たって、私たちがある意味での社会的なコンセンサスをあくまでも求める、十分な理解を求めるということが非常に大事であるという認識がその根底にはございます。  世論調査もいろいろありますけれども、六対四や七対三という世論調査が一方にあれば、そのもう一方には、逆の四対六という世論調査もございます。その一つ一つについて十分な吟味をすることも大切かもしれませんけれども、私は、現時点ではまだそういった国民的なコンセンサスができていないのだというふうに現状を把握する方が大切なのではないかと思います。  数字についてあえて申し上げますと、例えば六 〇%の賛成があるからといって、保岡議員もおっしゃいましたように、九九%の人間の死である心臓死をいわば無視して、脳死という概念をやたらに拡張するような方向ということもどうかと。数字ということで議論を始めれば、そういった議論もしなくてはならないと思います、この委員会はその場ではないと思いますけれども。  それから、最後にもう一つ申し上げたいのですけれども、一%の方々への対応が求められている、その点については、私たち法案では、脳死を人の死とは認めないけれども移植を望む人がい、そしてドナーとして提供したい人がいる以上、その意思を尊重しましょうということで、具体的な、実際的な対応法律として規定しましょうというのが私たち法案立場でございます。  ただ、そこで私たちが申し上げているのは、あくまでもこれは移植という目的がある場合に限っておりまして、移植可能性がない方々に対して、それではこの人は脳死状態であるから、もう人間ではない、だから治療をやめようというような形で、それ以外の方々にも脳死というかぎ括弧つきの死という概念を押し広げる考え方には賛成できないということでございます。  したがって、現状のまま、脳死は人の死とは認めないけれども、しかし、臓器移植に至る法律的な道は開きましようというのが私たち考え方結論でございます。
  13. 保岡興治

    保岡委員 金田案にしても、「死体又は脳死状態にある者の身体から」というその条文がある以上は、死の法律的な位置づけをきちっとして解釈することになるので、法律上、脳死をどう位置づけるかということはこれはもう必然的なことだと思います。  そしてまた、私は、脳死状態の方へ見舞いに行くときには香典を持っていきますかという話がありますが、これは、死者尊厳、死後直後の家族の深い悲しみを考慮した社会の慣行があると。私は、脳死が死かどうかとは別だと思っております。先ほど、国民の多数の者が人工呼吸器を外すことを容認した事実でそれは明快だと。それは、亡くなった直後に喪服を着ていきなり行くとか、亡くなった直後に飛んでいって香典を手渡すようなことが礼儀に反するというのと同じような次元の話だと思っております。  また、脳死からお産をする例がある、死体から生があるかという議論もあったようでございますが、これは心臓死から帝王切開で出産する例もあるから、これも必ずしも否定する本質的な議論にならない。  それから、心臓死でも脳死でも、そういった意味で蘇生限界点が動くわけですね。かつては心臓がとまればというのが、電気ショックで動き出すとか。したがって、蘇生限界点が動くことをもって、死の判定基準を論議するのは私はやはり間違いだと思います。  それから、そういったことは別として、私は、金田案の一番問題になるところは、多数の国民の一%に対する認識。これは、裁判官の中にもある、弁護士の中にもある、あるいはいろいろな方々の中にある多数の物の考え方というものがいろいろな法律判断でも進んでいくと思います。こういった一%の、多数の意見でいろいろな既成事実や流れができていくのに、それに反する立法をした場合の混乱の方が私は重大だと思っております。  それから、時間がありませんので、最後に指摘をさせていただいて終わりたいと思いますが、金田案の最も問題な点は、脳死を人の死とする医療の現場の多数の考え方と反する形で立法することで、脳死状態にある者から臓器の摘出を行うことを殺人罪に該当するとして位置づけざるを得ないということです。  これは、死者尊厳というのを守るという我々の立場から、そういう家族の深い悲しみを守るという意味で、法律がそこにあるのだという安心感はあるでしょうが、それは別次元の、死者尊厳遺族の深い悲しみに対する配慮をどうするかという問題に帰するものだと思います。むしろ、臓器移植行為を殺人罪に当たる、あとは違法性阻却事由かどうかということで、移植医に違法性阻却事由を行為規範として求めることこそ、私は、現状にも医師認識にも即さない大変な問題点で、果たしてこれで移植医療がうまくいくかどうか、行き詰まるのではないかという危険すら感ずるものでございます。  私は、金田案が、一%の、多数の国民世界の多数の認識あるいは流れ、臨調の長年の検討の結果に反する、それを拒否する形で出した点にこういう問題が起こってくる根本の原因があることを指摘して、本当はもう少し質疑したかったのですけれども、御意見も承ってやりとりをやりたかったのですが、時間もありませんので、これで質疑を終わりたいと思います。      〔委員長退席、住委員長代理着席〕
  14. 住博司

    ○住委員長代理 佐藤剛男君。
  15. 佐藤剛男

    ○佐藤(剛)委員 自由民主党の佐藤剛男でございます。  私は、もうこの委員会におきまして、私の立場を明快にいたしておりまして、私に与えられましたこの十五分間の効率的な活用のために、動議を提出させていただきます。  金田案に対する修正案でございまして、衆議院の法制局の手続が終わりましたので、ひとつ委員長、御配付の了解をいただきたいと思います。そして、その修正案を出す理由を説明させていただきたいと思います。
  16. 住博司

    ○住委員長代理 許可いたします。
  17. 佐藤剛男

    ○佐藤(剛)委員 まず第一に、中山案と言わせていただきたいと思います、また、金田案と言わせていただきたいと思いますが、中山案が臓器移植に一歩踏み出す形での御努力をされたことを多といたします。  そして、中山案があった、出たから金田案が出たのじゃないかと私は思います。これは、脳死を死とするという形が中山案の中に出るわけでございます。  私の立場は、ヨーロッパに起きましたいわゆる神学論争、イエスがどうだこうだというときの神学論争に巻き込まれないで、この移植に一歩進めないと、これは、この両案とも相打ちの形で否決される可能性なしとしない。そうなると、中山案が出ていない場合には、これは医学のガイドラインの中で、死というものを法律規定していないわけですから、そのプロフェッショナルのアカデミーなりクリークでやられるのが一つ方法かと思いますが、情勢が全く変わってしまうと思いますね。両案とも否決となった場合には、私は、臓器移植の将来は真っ暗だと思います。そしてさらに、刑事的に告発などが出ますと、司法官憲がそれに対しまして動き出す可能性もあるわけでございます。  そういう意味において、この取り扱いというのは非常に難しいし、しかし相打ちを避けないでいく形、言うなれば、道路というのを例にとりますと、自動車が走っていないところに道路交通法というものをつくる、しかし、道が悪ければ衝突して谷に落ちるかもしれない、臓器移植というのもそういう形になってやみの中に葬られてはいけないというのが私の動議の背景にございます。つまり、両案が歩み寄っていただける橋渡しになれないか、英語で言いますとアコモデーションでありますが、そういう形のものとして提案をさせていただいたわけでございます。  そして、現在における臓器移植というのが過渡的な治療法として余儀なくされている、そういう状況にかんがみて臓器移植の道も開く。しかし、この場合、参考人からの意見もありましたが、日本現状は二十五年もアメリカ等よりおくれておる。先進国の、より体験を積んだ外国人からの教えを請うたり、それから、ドナーがアメリカにおいて減っておる、この教訓を学んで減らないようにする。それから、医師への不信感というものが存在してしまったらこれは大変なことになるわけでありますから、これを生じないようにする、医師への不信感が生じないようにする。そして、心臓あるいはその他一定の臓器について、国際的に も、日本のあそこに行けば大丈夫なんだ、あそこで治療を受けてもだめならばしようがないというような、日本が国際的医療国になるという道が今後の大きな課題であると私は思います。  そういう観点から見ますと、臓器といって定義いたしていますが、角膜、腎臓、これと心臓とは違うわけであります。その、心臓というものは違うというのは、心臓というのは生体移植ができない。生の体の移植ができないからどこかで死というものを認めようというのが中山案でありますが、そこについての一つの手続的な形で持っていけば、私は、死というものについて避ける、神学論争も避ける。  あるいは、脳死といっても脳神経の細胞までについて技術は進歩するといういろいろなものがあるわけでございますし、日本には古来から、もがりといって、天皇が亡くなられたときに、それについて、生き返ってこないかなというふうなこともあるわけですから、そういう文化というものを、伝統を前提にした上で、しかし、今の医療現場は、一日千秋の思いで待っている人が、もし手術をすれば逆に死んでしまうという現状があるということを参考人は言われたわけであります。  そういうことでありますから、仮に中山案を、脳死を死と認めても、その移植をする場というのは、ちょうど国立がんセンターのように国立心臓移植センター、あるいはせいぜい東に一つ、西に一つ、学閥を超えて、そこに総合スタッフを置いて臨む形に持っていかないと、失敗すれば日本は、第一号で失敗しますとこれからの日本臓器移植の発展はないし、医療に対する将来への発展もないし、ドナーも減ってくる、レシピエントの期待も裏切る、こういうことになるということで私は提案をさせていただいたわけでございます。  したがいまして、私の観点を臓器移植に関する法律案に対する修正案ということで、金田案の附則に入れてありますから、これをごらんいただいて検討していただきたいのですが、どうか金田案提出された方々、動議でありますから真剣に御検討いただきまして、それを入れていただきたいと思いますが、まず、それについての金田先生からの御見解を伺いまして、次に、それを受けて、私は中山先生に御質問させていただきます。
  18. 金田誠一

    金田(誠)議員 佐藤先生が、いずれの案が通っても実際の手術の現場で十分な対応ができるのかというお立場から真摯に御検討されたことについては、敬意を表するものでございます。  ただ、この際申し上げておきたいことは、一つは、私どもは神学論争をしているつもりは全くございません。そのことだけはぜひ御理解を賜りたいと思うわけでございます。  私ども立場は、先般の保岡委員の御質問、御指摘にもあわせてお答えすることになるわけでございますけれども、この脳死臨調の最後のまとめの立場でございます。  脳死臨調の「おわりに」ということのさらに末尾にこのように述べてございます。  本答申の趣旨を一言にして尽くすならば、それは、脳死をもって「人の死」とすることについて大多数の委員は賛意を示したものの、一部の委員反対であった。一方、脳死体からの臓器移植に関しては、前意見の如何に拘らず、委員全員がその意義を認め、行うことに積極的であった。したがって、本調査会の結論としては、「人の死」についてはいろいろな考えが世の中に存在していることに十分な配慮を示しつつ、良識に裏打ちされた臓器移植が推進され、それによって一人でも多くの患者が救われることを希望するものである。 脳死臨調の最後にこのように述べられておりますけれども、私どもはまさにこの立場法律の条文として示した、こう思ってございますので、ぜひひとつ御理解を賜りたいということが一つでございます。  それともう一つ、具体的にこの修正案についての見解でございますけれども、ポイントは附則第二条三項にあろうかと思います。  政府は、心臓その他の第一項の規定により読み替えられた第七条第一項の政令で定める臓器に係る移植医療が早期に、かつ、適正に実施できるよう、これらの臓器移植について高度の医療を提供する能力を有する施設の設置その他のこれらの臓器に係る移植医療の適正な実施のための体制の整備に必要な措置を講ずるものとする。 先般、山口参考人が御心配をされていた、そのことを政府に義務を課すというお立場だと思います。  この趣旨そのものについては、私どもも同感するところ十分にございます。ただし、その前の第二条二項などは、「あらかじめ、国会の承認」というところなどは、検討いたしましたが、この辺については疑義もございました。しかし、確かに施設の整備、スタッフの充実が必要であるという趣旨は理解をいたします。  ただ、ここで、実は私ども、誤解を恐れるわけでございます。私ども対案は、臓器移植反対をするという趣旨の対案ではございません。脳死状態を人の死である、死体であると新たな概念規定法律に設けることについて異議を申し立てているわけでございます。そのことが、この先生の修正をもし受け入れたとすれば、実際の臓器移植の実施が先に延びるということに伴って、実際的にはこれは臓器移植反対をする法案になるということに誤解を受けるのではなかろうかということを懸念いたします。  したがって、どちらが通っても、必要だとすれば、ぜひひとつ双方の修正ということでお出しいただければ検討の余地は十分にある、こう思ってございます。
  19. 佐藤剛男

    ○佐藤(剛)委員 ありがとうございました。  ただいまの金田先生の、つまり、両方の案に入れてください、そうでないとニュアンスが変わってきてしまうという思想は十分わかるわけでございます。  それで、ついては中山先生にお伺いいたします。  今、金田先生のおっしゃられた点というのは、私はよくわかるわけです。ですから、同じ土台ですね。中山案の中にこの修正案というものを入れ込んだ形で、そしてその金田案中山案というのがあって、そうしましたら私は修正案も必要なくなりますから、そういう意味におきましての御検討というものをしていただけないでしょうか。
  20. 中山太郎

    中山(太)議員 先生の動議につきましては、私は前向きに検討することが必要であろうと思いますが、特に、移植をする法律ができたとしても、その場所をある程度、国立移植センターといったようなものにするということについては、私は、現実的に少し無理が生じてくる可能性がある。  と申しますのは、御案内のように、心臓の場合でございましたら、摘出後、血流を始めるまでに四時間というタイムリミットがございますから、この日本列島の中で受けられる方と受け得られない方の不公平性というものが出てくるであろう、だから、この国の中に住む人たちが安心して受けられるような施設というものはどこに置くべきか、どの程度のものでなければならないかということについては十分検討をしていかなければならない、このように存じております。
  21. 佐藤剛男

    ○佐藤(剛)委員 ありがとうございます。  ぜひ中山先生中山案で御検討お願いし、両方同じ土台で、そして採決に臨んでいただくことをお願いします。  そして、つけ加えておきますが、中山先生がおっしゃられるいろいろな、地域的な問題、四時間の問題を考えて、別に優勝者だけ一個ということでは固執しておりません。優勝、決勝戦に臨む東の横綱、西の横綱、そういうことで、それが成功すれば今度は準決勝にふやし、あるいは準々決勝にふやしていく、こういう形だろうと思っておるわけでございまして、そういう点について、私は、東一、西一というふうな観点を前提にして、ぜひ中山先生、この案を御検討いただいて、そして政府が、また各界が中心になって立派な施設をつくる、こういうことでお願いしたいと思いま す。  それで、委員長、これは修正の動議でございますので、ひとつこの取り扱いについては何とぞよろしくお願い申し上げる次第でございます。
  22. 住博司

    ○住委員長代理 後刻理事会において協議いたします。  根本匠君。
  23. 根本匠

    根本委員 自由民主党の根本匠です。  この法案は人の死と向き合う法案ですから、私も、政治家にとってこれほど重い法案はないと思います。その意味で、私も、政治家の責任と良識にかけて、この問題は真剣に考えました。私は、前回は、中山案に御質問をいたしましたので、今回、金田案対案が出てまいりましたので、金田案について質疑をしたいと思います。  私は、金田案にせよ中山案にせよ、本法の一番の懸念は、臓器移植先にありきではないのか、あるいは移植のために死を早めるのではないのか、これが一番懸念される点で、これは参考人質疑でもありました。一方で、心臓移植経験者からは、脳低体温療法などあらゆる治療を試みた後で、それでも脳死になる人があるなら移植をどうか認めてほしい、こういう意見もありました。  私は、この立法の前提は、大前提は二つあると思うのですね。一つは、医の倫理、信頼性、これが絶対的に確立されていなければならない。法的にこの医の信頼性、倫理性が確実に担保されること、これが絶対条件であります。  具体的には、脳死判定基準、この基準によれば、蘇生限界点を確実に超えていると判断される、これが必要ですし、脳死判定については、臓器移植医療と完全に隔離された中で客観的公正になされなければなりません。それから救命救急医療、これは脳低体温療法初めあらゆる救命救急医療をやってもらう。もう一つは、移植医療の水準が確立されていなければならない。  私は、この四点において、医の倫理、信頼性、これが絶対的に確立されていなければならないし、法的にもこれを担保しなければならない、こう思っております。  それからもう一点は、金田案と私は見解が異なりますが、脳死は人の死だ、これを認めて、臓器を提供したいとする本人の意思、自己決定の尊重、これが大事だと思います。この点では、諸外国の立法例と比べて、我が国は、家族による意思のそんたくを削りましたから、自己決定の尊重、厳しい条件をこの法案でつけたということだと思うのですね。  一番論点になっている、脳死は人の死か、これは随分議論が出ました。議論が出た中で、科学的、医学的に見ると脳死は人の死である、この点はほとんど異論がないのだろうと思うのですね。もう一点は、脳死は人の死である、これは社会的な合意が必要だと私も思っております。  ただ、脳死臨調など、これまでさまざまな角度から議論がありましたし、世論調査もありました。私は、脳死は人の死であるということを、社会的な合意を一〇〇%とる、これは非常に難しいと思うのですね。やはりこの法案で本来求めるべき、つまり法案としての社会的合意、これは、脳死が人の死か、これは個々人の宗教観なり死生観で意見は分かれますが、脳死を人の死と認めて、しかも臓器提供の意思を有する人の意思、自己決定、これを、脳死を人の死でないと、認めない人もこの自己決定を受容できるか、こういうことだろうと私は思っております。  その意味で、金田案が出ましたので、私も、かつては脳死状態を人の死とせずに法律が構成できるのが、脳死が人の死かということで分かれているから、私はこれがベターなのかなと思っていたのですが、脳死状態から臓器を取り出すということについては立法上いろいろな問題があると思ったものですから、私はやはり、死というのは客観的に決めるべきだ、こういう考えでおります。  その意味で、死体脳死状態、今回書き分けてありますが、その趣旨、理由を簡潔に御答弁いただきたいと思います。
  24. 北村哲男

    ○北村(哲)議員 お答えいたしたいと思いますが、まず、死体脳死状態と書き分けた趣旨あるいは理由でございます。  もちろんこの法案が、先生言われたように、医の信頼性が前提になっているということは当然のことでありますけれども、私どもがなぜ死体脳死状態を分けたかということは、当然のことながら、脳死は人の死ではないという考え方を前提としておるわけでございます。死体脳死状態とは人の生死という点から全く異なるものと理解しておりまして、その上で、臓器移植は認めるという以上、この二つ概念法律上分けて規定されるのは当然のことだと思います。  また、臓器の摘出についても、脳死状態の者の体からの摘出については、私ども法案の七条において、特に死体と区別して、脳死状態にある者について、その者の生命に重大な影響を及ぼすものであることにかんがみて、本人の書面、特に署名及び作成年月日の記載を要求しておって、本人の意思についても十分な調査と慎重な確認を関係者に求めることによって、万が一にも本人の意思に反した臓器摘出が行われないように配慮しておる、これが私どもの趣旨、理由でございます。
  25. 根本匠

    根本委員 私も時間が短いものですから、最後に私の意見を申し上げたいと思います。  第二点目は、今おっしゃられましたように、第七条二項は、摘出する場合においては、「その者の生命に重大な影響を及ぼすものであることにかんがみ、同項の書面により表示された意思は、十分な調査を行い、慎重に確かめられなければならない。」こうなっていますね。  これは、法律上、脳死状態というのは生きているという状態であるときちっと規定するということなんですね。となりますと、これは法律的には生きているという前提の条文になっていますから、これは、この法律で初めて安楽死を認めることになるのではないのかと私は思います。これは非常に大きな問題だと思います。  それからもう一点は、事前に書面で自分の意思を示していた方が、遺書で、私は近親者にこの臓器を提供したいという遺言が出てきたらどう対応されるのか。この二点をお伺いします。
  26. 北村哲男

    ○北村(哲)議員 お答えいたします。  今、二点でございますが、一つは、安楽死を認めることになるのではないかということ、二番目は、遺言で特定の人を指名した場合どうなるかという点でございます。  もちろん、脳死状態の人はまだ死んでいないということは、私どもはもうはっきり申し上げている点でございますが、まず、安楽死という点については、共通点と、全く違う点があります。  まず共通点は、蘇生限界点を超えているという点では同じでありまして、その超えた段階での問題点、超えた人をどうするかという問題では共通でございます。それで、現在生きている人を医者の手で死期を早めるという点では共通しているけれども、はっきり違う点は目的なんです。  目的は、まず安楽死は、患者さんというか自己の生命の苦痛を除去するという目的があります。それが一つ目的。そしてもう一つの、本案については、これは他人の生命を救うための制度である、そういう目的の違いがあるわけです。その点がはっきり違うので、安楽死とは明快に違うというふうに申し上げたいと思います。  それから二番目の、遺言で近親者に提供したいとした場合はどうだろうかという点についてですけれども、これは、いわば公平性という原則があります。私ども法律にもありますけれども、この点の考え方に全く反することでありまして、仮にそういうふうな場合があれば、これは本人に提供意思がないというふうにみなさざるを得ないと私ども考えております。
  27. 根本匠

    根本委員 私も時間が限られておりますから、今聞いた意見について、私の意見を申し上げたいと思います。  私は、遺言でなった場合には、確かにそれは撤回と理解すべきだと思うのですね。それをやらないと、七条二項で「書面により表示された意思は、十分な調査を行い、慎重に確かめられなけれ ばならない。」となっていますから、これは撤回とみなすべきだと思います。  それから、今、安楽死のお答えがありましたけれども、最後に、私の意見を申し上げたいと思います。  私は、脳死状態から摘出する問題点、これは幾つかあると思うのですね。今お話にありましたように、なぜ死体脳死状態を書き分けたか。そのお答えは、脳死が人の死かで意見が分かれるから、脳死を人の死と思っていない人もいるのだから、要は、国会で人の死を決めないとして、脳死状態からの摘出を規定したということだと思うのですね。  脳死状態からの臓器を取り出す問題点、私は四点あると思うのです。  一つは、脳死状態は生きているということになりますから、これは安楽死を法律で初めて認めるということになります。これは、安楽死をめぐる大論争、大議論法律の詰めが必要だと思うのです。  特に法律的な詰めが必要だと思ったのは、他人の生命を救うから、脳死限界点より超えているという点では共通だが、目的が違う、こうおっしゃられましたけれども立法論からいって、いかなる状態であっても、生きている人の生命を奪うということ、これを違法でないと認めるのは、刑法学者の平野東大名誉教授もおっしゃっていましたけれども、難しいし、できないと私は思うのですね。目的が違うから認めることができるということにはならないと思うのです。これは、殺人罪で告発されて違法性を阻却できるかというところに嘱託殺人のような話も出てきますから、私は、これは相当な法律の大議論が必要だと思うのです。  それからもう一つ脳死を人の死でないという法案が出ました。これが非常にある意味で誤解されがちなのは、脳死を人の死でないという方の意見二つあって、一つは、脳死をもって人の死とすべきではない、要は、まだ死んではいないという宗教観なり死生観、死の概念論でもって、体が温かいというのはまだ死とは言わないのだ、これは死の概念論ですから私もわかります。もう一つは、脳死状態というのは人の死ではないから、臓器移植のために脳死状態を死と規定して、これは死と規定しなくても同じだと思いますが、臓器を取り出すことは認められないのだという本質論があると思うのですよ。  私は、死体脳死状態というのを書き分けたからといって、死の概念論に対してのお答えにはなりますが、本当に脳死状態から臓器を取り出すべきではないということで反対している方々の本質論には対応することにならなくて、やはり便宜的に書き分けたのではないかということになると思います。  それからもう一点、これは七条二項にも書いてありますが、脳死状態にある者は法律上は生きているわけですから、レシピエントの方が、脳死が人の死ではなくて、生きている状態の人からの摘出なら受けることができない、こうおっしゃっています。これは私は重い意見だと思います。したがって、外国の立法例でも、脳死を人の死と認めずに臓器を提供する立法例がないのだと私は思います。  それからもう一点、脳死を人の死と規定する意味ですが、その意味では、この臓器移植法においては、やはり死は客観的なものとして、この法律の適用範囲の死を規定せざるを得ないと私は思います。脳死法律では人の死に含めざるを得ない、これは何も私が冷たいからではないのです、気持ちは温かいのですから、これは真剣に考えていますから。  脳死臨調や、臓器移植法案の法案審議の過程で明らかになったのは、脳死医学的には人の死である、これは明らかになったと思うのですね。もう一つは、医学の進歩によって、死はプロセスであって、脳死は蘇生限界点を超えたところにある、これも明らかになったと思います。  ここで、脳死の死の定義の問題と移植の問題とは区別して考えるべきだと私は思いますが、法律でなぜ脳死体という概念規定しているか。これは、医学の進歩によって死の概念が広がった、死のプロセスの中で臓器提供の意思を有する者に限ってこの法律の適用範囲を規定したのがこの法案考え方だと思うのですね。他の既存の法律死体と書いてある法律に影響するかどうかという議論はありますが、これはそれぞれの法律の有権解釈だと私は思いますが、この法案で初めて、死の概念が広がって、「(脳死体を含む。)」こう書いてありますから、「脳死体を含む」と書いていない既存の法律では脳死体は含まないのだろうと私は思います、有権解釈ですけれども。だから、既存の他の法律にはこれは影響しないと私は思っております。  最後に、私の結論意見を述べたいと思います。  私は、その意味でいうと、臓器移植法の賛否、これは中山案に対しての賛否を問うべきだと思うのですね。大事なのは、脳死を人の死と認め、臓器移植を行うこと、これを一律にするのではなくて、提供する人と受ける人の自由意思の選択に限定する、これが大事だと思います、この点は共通しますけれども。  要は、中山案で大事なのは、脳死医学的には死であって、これを人の死と認めて、臓器を提供しようとする人の自己決定の意思と、これを受ける人の意思人間の自由意思による選択を社会的に受容できるか、この点が社会的に合意が得られるか、これが私はこの法律の賛否の基本だと思います。私は、臓器を提供しようとする方の意思、これは個々人の哲学や宗教によるものですから、この内面意思の自己決定は社会的に受容、尊重されるべきものだと思います。  ただ、最後に強調しておきたいのは、臓器移植の大前提、これは、自己決定の意思の尊重と医の倫理の確立、法律上のこの担保、これは、医学界は大きな責任を有するし、この点でこの法案で不足する部分があれば、それは私は書き加えた方がいいと思います。この医の倫理の確立、これを担保する措置は、もしここで不十分な点があれば私はもっと規制を強化してもいいと思います。  私は、人の死を定義するのは非常に政治家にとって重過ぎる課題でありますが、この法案の賛否に当たっては、私は、ナイーブな感覚も必要だし、人の意見に耳を傾ける、これは本当に大事だと思います。ただやはり、私は、これは本当に重い法案ですから、この法案で大事なのはウオームハートとクールヘッドとリーガルマインドだと思います。ということを申し上げまして、私の質問を終わります。  ありがとうございました。
  28. 北村哲男

    ○北村(哲)議員 今先生のいろいろ御意見は御意見として、質問ではありませんのでお答えできませんが、先ほど正確を欠く答弁をいたしましたので、訂正をしておきます。  安楽死の場合と脳死の場合は蘇生限界点が同じだと申しましたけれども、正確に言うと、私の言った趣旨は、もう生き返る見込みのないという意味で申しましたので、脳死の場合は蘇生限界点を超えている、しかし、安楽死の場合は蘇生限界点は超えてはいませんが、同じくもう死に行く人という意味で申しました。  失礼いたしました。
  29. 住博司

    ○住委員長代理 次に、池坊保子さん。
  30. 池坊保子

    池坊委員 新進党の池坊保子でございます。  私は、五年前、脳死臨調答申が出ましたときから、一国民として深い関心を持っておりました。と同時に、心臓六十から六百、肝臓三千の移植を待っている人がいる、そして年間五百人の人が死んでいる、死と背中合わせにいる人たち現状を踏まえたときに、私は、遅々として進まない法案に政治家への強い不信と憤りすら感じておりましたので、これは一日も早い法案通過が政治家の責務ではないかと思っております。  脳死をみずからの死と認め、そして死後、臓器を他の人に役立たせたいと願う人間、それから、移植を受けることによって命を長らえたいと願う 人、この両者の意思が今は尊重されていないというのが現実だと思います。そのようなことを踏まえたときに、私は、基本的に原案に賛成でございます。  一点は、生きている体から移植すれば、これは生体解剖となり殺人になるのではないか。いかなる場合にも、私は、生きている状態から移植することは反対でございます。  二点目は、人間は生から死に移行するときにけじめが必要だと思います。同じ脳死状態でも、私が遺族でございましたら、御臨終ですと言われて、そして、そのあきらめの中から、次に故人の希望に沿っていきたいというふうに思います。脳死状態というわからない状態の中で、それでは、脳死状態でございますから他人に移植いたしますと言われるのは、何となく納得できない思いがいたします。これは多くの遺族の方がお持ちになる気持ちではないかと思うのです。私たちの日常生活の中に、どれだけけじめや儀式が大きな役割を果たしているかを考えていただきたいと思います。  それから三つ目に、国民の合意がないというお話でございますが、全国世論調査によりますと、六六%の人が脳死を人の死と認めております。これは合意ではないかと思います。と同時に、家族の承諾があれば人工呼吸器を外してもよいと容認している人が六七%ございます。多数決で決めてはいけないという意見がございますが、個々人の気持ちをそんたくしておりましては、これはいつまでたっても決まりません。やはり民主主義は多数決をとらなければいけないのではないかと思うのです。  それから四つ目は、議員が死の基準を法制化することに対しては、いけないのではないかという意見もございますけれども移植調査会の九割がそれをすることを望んでおります。とともに、日本移植学会も法案採決を待っております。この法案採決がなければ移植ができない現状をまず考えていただきたいというふうに私は思っております。  そこで、それを踏まえて、私、時間が限られておりますので、問題提起と質問をさせていただきたいと思います。  今問題になっておりますのは、先ほどからございますように、九九%の人は三徴候死によって死を迎えるわけですから、これは問題ないわけです。一%の脳死の人が問題になっているのですけれども、その脳死基準ですけれども、私はそこに選択死があってはいけないのかと申し上げたいのです。  つまり、一%の人の、臓器移植する人間は、脳死をみずからの死と認めることにもう承諾しているわけです。だから私は、その方に対しては問題はないのではないかと思います。問題があるのは、自分は移植したくない、そういう本人、並びに家族までが、ぬくもりがある、心臓も動いている、でも御臨終ですと言われることはやはり嫌だ、こういう方に関しては、脳死から心臓死を経てこれを死とするということを決めてはいけないのかというのが私の提案でございます。  アメリカのニュージャージー州では一九九一年に、脳死を死と決めてもいいし、また、心停止まで待ってもいいという選択可能な死を内容とした法案がつくられております。これを日本にも取り入れることはできないのだろうか。  これは相続の点で民法的に問題があるとおっしゃる方がございますが、現在は死も二つの死がございます。つまり、従来どおりの心臓停止による死です。そして、それとともに尊厳死というのがあると思います。日本医師会では、一九九二年に「末期医療に臨む医師の在り方」という報告書の中で、回復の見込みのない重症患者の治療の打ち切りを容認しております。その判断は、患者の自己判断並びに家族の依頼による死期の調整ということなんです。つまり、自然の死ではなくて、自分が望み、あるいは家族がそれを望んだならば、死期をお医者様が決めることができるわけです。私の父も、故人の強い希望によって尊厳死を迎えました。もし呼吸器を外さなかったら、私の父の死は一週間後あるいは一カ月後であったかもしれません。こういうことが現在認められておりますので、先ほど私が申し上げました、死の選択が相続などの問題によって認められないというのは私は矛盾するのではないかと思いますので、まず、これはどうかということを伺いたいと思います。
  31. 矢上雅義

    矢上議員 きょうの池坊委員お話の中で、善意の提供者の気持ちとか、また、移植医療の必要性をよくわかっていただきました。  そして、けじめが必要であると。何らかの人の死としてのけじめが必要であるということから、その人の死をだれが選択していくか、故人、つまり本人が選択するのか、いろいろございます。学説にも、通説ではございませんが、本人の自己の死の決定権というものを、選択権というものを認めるかとか、いろいろございます。  ただ、残念ながら、いろいろ説はありながらも、現実、人の死を考える場合に医学的に、一般的に人の死として認められるか。それと同時に、社会的に受容され、合意されておるかというように、医学的、そしてまた社会的な意味合いから客観的に決めていこうというのが今の大勢でございます。つまり、人の死が、例えば三徴候死による死、脳死による死というように二つあって、その二つのどちらを選ぶかは、本人によるのか、また、家族に任せるのか、いろいろな意味があると思います。  しかし、純粋にその人の死の影響がその個人だけにとどまるのならばいざ知らず――例えば、人の死ということがどれだけの範囲に影響するかといいますと、刑法におきまして、殺人罪等の対象としてなるか、また、殺人罪の中で守るべき利益として挙げられるか、また、民法におきましても、相続の決定がそれによってなされるわけでございますので、個人にとどまらず、非常に広く社会に影響することでございます。  そういうことを考えますと、単なる医学的な事実である人の死を、個人が決めるということにとどまらずに、社会的なルールの要素として大きく見ていかなければならないかと思っております。  また、先ほど、決定権として本人なり家族が死を選択するということを認めればいいのではないかという御意見でございますが、もし法律で選択権を決めてしまった場合には、法は一般的、抽象的に決めるものでございますから、なかなか個々の家庭に立ち至っての個別具体的な判断をすることが、今の現状では不可能になってまいります。  そういういろいろな要望もございますが、今の法体系の中で考えていくには、自己の選択権、つまり人の死をいつ認めるかという自己の選択権については、なかなか容認できるところが少ないのではないかと思っております。  ただ、脳死を人の死と考えることを確かにちゅうちょされる方もおられます。そういう家族の気持ちを考えますと、きちんと、実際の医療現場において、脳死判定を終えるまでに脳死についての理解を説明し、家族の了解を得られるように努力していくべきだと思っております。     〔住委員長代理退席、委員長着席〕
  32. 枝野幸男

    枝野議員 お答えいたします。  池坊委員から御指摘がありました考え方というのは、むしろ私どもの案の提出者のかなりの部分に近い考え方だと思っています。  私たちは、死の時期について、今のように三徴候死と脳死と両方が考えられるという状況の中では、脳死を人の死と考える人もいるし、それを考えない人もいる。それぞれの立場をきちんと考慮しようと思ったときに、もちろん、法律で選択できますという書き方をすることができればそうしたいという考え方もありますが、これはいろいろと、それを話し出すとまた長くなりますが、法律的になかなか難しいところがあるだろう。  私どもは、むしろ、脳死を人の死と定義しないということで、私どもの案では、脳死を人の死と考える方はまさに生前に署名をしておいていただいて臓器提供できるというような意味で、そうし た方の意思も尊重する。逆に、脳死を人の死と考えない人たちが、脳死を人の死とする法律ができることで、死んでいると思っていないのに法律的に死だというふうに断定をされてしまう不都合も解消するという意味で、池坊委員の御指摘では、むしろ私どもの案に御賛同いただけるのではないか、こんなふうに思っています。
  33. 池坊保子

    池坊委員 私は、ちょっとまだ法律の勉強をその点においてやっておりませんので不確かですけれども、ただ、それですと、はっきりとそういうふうにここで書くことはできないのでございましょうか。つまり、四つの死があることが容認できたら、この問題は速やかにクリアできるのではないかと思います。  つまり、先ほど申し上げました心臓停止による死、それから尊厳死、これは今認められております。それから、脳死移植希望者に限り脳死を人の死とする。それから、自分で、脳死を経て心停止とすることを死とすることも構わない。この四つをしっかりと書いていただきたいというふうに思います。私は、移植する人間脳死状態のままで死の宣告を受けないということに割り切れない思いをいたしております。  それから、時間がございませんので、続けて申し上げたいと思います。  家族の同意を得るということは賛成でございますが、家族の同意というのはどこまでの範囲をいうのだろうか。つまり、これは同伴者だろうか、あるいは二親等なのか、三親等なのか。これも私は、例えば免許証に、ドナードナーと書くのでございましたら、それも書面化していただきたいと思います。というのは、心臓が四時間でございましたら、アメリカに行っている家族がいるかもしれません、連絡を待っていたらとても移植できないと思います。  それから、後で、自分は家族だけれども連絡を受けなかった、それを容認しなかったというような問題も起こってくると思いますので、ドナーは、同時に、二人ぐらいでいいのだと思いますが、どの人間に連絡をしたらいいかということをはっきりと明快にしておいた方がいいと思います。それでございませんと、例えば、先ほどの対案ですと、これは僕は知らなかった、だからこれは殺人罪だということにもなると思います。また、人を捜す、家族に連絡をとりますことも大変だと思いますので、これをしっかりしていただきたいと思います。  それからもう一つには、先ほど佐藤先生がおっしゃいましたように、二つの案が出ますと、過半数を占めるということは全く不可能に近いと思いますので、これの審議が通らなかったらまたこれは同じ状態になります。国民はこれを大変注目いたしておりますし、もし愛する者が移植を望んでいる、そして時間を急いでいるのだというならば、私たちはこんな審議のための審議はしていられない。もっと切実になると思います。ですから、政治家というのは、いつも弱者の、そういう人たち立場に立たなければいけないと思いますので、私は、どちらにしてもこの法案は通していただきたいと切に希望いたしますので、二案を修正して出していただくことに賛成でございます。  つい先日も、九歳の少女がアメリカに渡りました。心臓移植のためでございます。そして、地方のラジオ局は、日本医療先進国にもかかわらず、なぜ心臓移植ができないのかという疑問を投げかけ、また、非難をいたしております。これは国際的にも非難の対象になっていくと思います。この辺で、私たちはしっかりとした政治家としての責務を考えなければいけないと思います。  それから三つ目にお願いは、今の医学界では、ドナーが少ないので移植がなかなかできないから、個人の意思を尊重するのはしようがないけれども、徐々に変えていこう、家族の承諾だけでいいのではないかというような気持ちがあるのではないかと新聞などを読んでおりますと感じられますので、私は、家族の承認よりも何よりも個人の承認ということ、個人の意思というものが大切にされなければいけないと思いますので、個人の意思を大切にする、これをしっかりといつまでも守っていただきたいと思います。  私は、個人の自立と責任並びに選択肢のある社会の方が成熟した社会だと思います。そして、社会の容認できる範囲でそれぞれの意思を尊重する社会を強く希望いたします。  質問を終わらせていただきます。
  34. 枝野幸男

    枝野議員 幾つかお答えいたします。  まず、死の概念を幾つか分ければいいではないかという話。法律的に難しい話をここで長々としませんが、逆に言うと、違う分け方があると思っています。  私たちは、医者の人が診る医学的な死、それから社会が容認をする死、それと法律的な死、これが全部一致をする必要は必ずしもない。例えば、法律上の死と相対的な生の概念についても、法律によって、民法と刑法で出生の意識は違います。そういった相対化というのは可能である。少なくとも、私どもは、法律上は脳死段階で死とする必要はないのではないか。  それからもう一つ家族の話ですが、家族法律上決めていくというやり方ですと、例えばいわゆる婚姻届を出していない配偶者の関係をどうするかとかというような、実質上はなかなか難しい問題があります。ただ、本人承諾の書面を何か書いておくというのは、一つの発想として十分参考になるのではないか。  ただ、一つ誤解がございますが、家族を見つけられなかったとかというような場合に殺人になるのではないか、これは私どもの案では殺人にはなりません。ある程度の注意義務を払って、家族を捜し、同意をとる努力をしたという中で家族が見つからなかったというような場合については殺人にはなりません。その点の誤解だけ解いておきたいと思います。  ありがとうございました。
  35. 矢上雅義

    矢上議員 遺族の範囲でございますが、私ども立場では、一般的に、喪主ないし祭祀、いわゆるお葬式の主宰者等が遺族に該当するのではないかと。特に、いろいろな家族形態が見られる中で、一親等、二親等、三親等までとすることはなかなか困難でございます。  ただ、現実には、遺族の方でも遠い親戚の方が意外と強い発言権を持っておられて、お葬式の段取りについてもどうするかとか、臓器の提供についてもどうするかとか、非常にあいまいな部分もございます。  ですから、御心配の点は、結局、事実上、その遺族の中で、親族の中でもめますと、そういう人権を侵害するような形での臓器移植とかは行われないということを確信いたしておりますので、御安心ください。
  36. 池坊保子

    池坊委員 ですから、書面化していただきたいということを私は申し上げているので、書面化したらこれは問題は起こらないと思います。  これで打ち切ります。ありがとうございました。
  37. 町村信孝

    町村委員長 十二時半から本会議が予定されておりまして、今十五分おくれになっておりますので、ひとつ各委員の御協力をお願いいたします。  漆原良夫君。
  38. 漆原良夫

    漆原委員 法律議員同士がつくり合うということ、提案者に顔見知りの先生方がいらして、そこで議論できるということは本当にうれしいな、こう思っております。  そこで、中山案についてお尋ね申し上げます。  脳死を死とすることについて、社会的合意ができているとお考えでしょうか、そうお考えだとすればどのような理由でできているとお考えなのか、その根拠をお聞かせいただきたいと思います。
  39. 中山太郎

    中山(太)議員 脳死を人の死とすることに社会的合意ができているかどうかというお尋ねだと思います。  私は、従来の社会的ないわゆる死の認知、死というものをみとるという場合には、死の三徴候という一つの長い医学上の知見が、それで医師によって診断される、こういうことで、家族も親族 もそれに承認を与えた、私はそう思います。  しかし、この脳死というものが新しくいわゆる死の範疇に、死のプロセスの中に入ってくるという医学の進歩の中で、この問題を国民が全部理解できる、国民全部、生と死の中に生きているわけですから全部理解できるということは大変難しいと思います。  そこで、この民主主義の日本では、議会制民主主義で、この国会が、脳死及び臓器移植に関する臨時調査会、脳死臨調というものをつくれ、その答申を政府に出しなさいということを国会法律で決めて、その答申が出た。その答申とあわせて、死の診断権を持っている日本医師会が責任を持った学術団体として、この脳死というものは人の死の中に入るのだということを国民に訴えた、声明した。ここらで私は、およそ国民方々の中で、大多数とは言いませんが、過半数を超えた方々脳死というものについての認識を深めてこられたというふうに理解をいたしております。
  40. 漆原良夫

    漆原委員 移植のために脳死を人の死とする旨の法律をつくらなければならないということは、逆に言いますと、脳死を人の死とすることについて社会的合意ができていないのではないか。  民法でも刑法でも、人の死の定義法律関係を処理する上で非常に重要でございます。しかし、いずれも、民法も刑法も特に人の死を法文上規定しておりません。これは三徴候死をもって人の死として処理されてきているわけでございますし、それはとりもなおさず三徴候死をもって人の死とすることに社会的合意ができておる、こう思うわけでございます。  脳死を人の死とすることに社会的な合意ができておるとおっしゃるのであれば、私は、そのまま脳死を人の死として法律上解釈し、認定すればよいのであって、あえて法律をつくって定義する必要はないというふうに思います。  例えば三徴候死の客体からの心臓摘出手術、これはだれも殺人行為とは見ないと思います。これは三徴候死をもって死とするという合意が社会的にあるからでございます。脳死状態における心臓摘出行為は、脳死が死であるとの合意ができていれば、これもだれも殺人行為とは見ない。しかし、脳死を死と法律定義をしなければ殺人罪になるというふうなことを考えること自体が、脳死を人の死とすることの社会的合意がないというふうに考えるわけでございますが、この点、いかがでございましょうか。
  41. 中山太郎

    中山(太)議員 脳死診断というのは、先生も十分御承知だと思いますけれども、普通の状態での死の診断ではない。しかも、竹内基準診断をする以外に、聴性脳幹反応というもので出てきた脳波の状態を確認するということでございますから、これは、こういう委員会での審議を通じて広く国民議論を聞きながら、やはり新しい医学の進歩の中で考え出された脳死判定、その手順、それに対する判断、こういったものがいわゆる医学を専門としない方々にも次第と御理解がいただいてきている、このように思っております。
  42. 漆原良夫

    漆原委員 先ほど申し上げましたように、国民社会的合意として、脳死が死であるというふうに社会的合意ができ上がっておるとおっしゃるのであれば、三徴候死の人の心臓摘出行為を殺人罪と見ないと同じように、あえて法律脳死を死と定義しなくとも、そういう立法作業をしなくとも、社会的合意があれば脳死状態の人からの、心臓摘出行為は、それはあえて法律をつくらなくとも、死は死として認められる。それをつくらなければならないということ自体、脳死が死として社会的に合意されていないのだというふうに考えますが、いかがでございましょう。
  43. 矢上雅義

    矢上議員 私どもが出しました臓器移植法案は、脳死を人の死とするとか、また、例えば人の死をきちんと定義しますという法律じゃなくて、あくまでも臓器移植医療の手続を定める法でございます。すなわち、あくまでも脳死は人の死であるという社会的合意があることを前提にした法案でございますので、その辺のところを御理解よろしくお願いいたします。  また、それではなぜ移植立法の必要性があるかということでございますが、脳死臨調答申におきましては、「臓器移植は、法律がなければ実施できない性質のものではない」といたしておりますが、しかしその反面、「法制の整備を図ることが望ましい。」とうたつております。しかも、現実、答申後におきましても、実際に脳死体からの臓器移植は実施されておらず、救急医学会また移植学会等を初め関係学会におきましても、きちんとした立法化、つまり臓器移植の手続をきちんと立法化していただくことによって初めて私たちも安心して移植医療に取り組めるという御意見が出されております。そういう観点から、私どもは今回の法案を出させていただいた次第でございます。
  44. 漆原良夫

    漆原委員 ちょっと議論がかみ合いません。私は、合意ができているのであれば法律をつくる必要はないというふうに申し上げているのであって、これ以上はこの問題は省きますが。  脳死の人は、人工呼吸器をつけておるものの、呼吸もあり、脈拍もあり、心臓も鼓動し、体も温かいと聞いております。そこで、中山先生は、医学博士でいらっしゃいますし、医学脳死は人の死であると確信されていることだと思います。脳死法律上の死と規定しないでこのような脳死状態の人からの心臓摘出行為をもし先生がするというふうになった場合には、先生御自身として、法律上、倫理上のちゅうちょ、ございますでしょうか。もしございますとすれば、その法律上、倫理上のちゅうちょの中身は何か、お教えください。これはあくまでも脳死を死と定義しないでという前提でございます。
  45. 中山太郎

    中山(太)議員 私に対する個人的な意見になるかもわかりません。  脳死を死としないでその者から臓器を摘出するかどうか、それの私の倫理観、医師としての考え方はどうかという先生のお尋ねですが、私は、いたしません。  法律ができない間に私自身がそのような立場に立っても、私は古い医学の教育を受けてきた人間でございますから、私どもの大学時代とか病院におったころには、こういう新しい技術の進歩はございませんでした。しかし、最近こういうものに関心を持ち出しまして十数年になりますけれども、その間、救命救急センターとか、いろいろなところへ参りまして、医学を学んだ人間として、新しい医学がどのように転換しているか、進歩しているかというものを見ながら、そこで起こってくる、いわゆる一般の方々からの、法律がない状態での摘発行為、告発行為が何遍かございます。医の倫理の問題もございます。そこらの辺をきっちりと国民のために守るということが、私は、医学を学んだ国会議員の一人の責任であろうということでこの法案研究にいそしんできた、こういうふうに御理解をいただきたいと思います。
  46. 漆原良夫

    漆原委員 まことにそのとおりではないかと思います。しかし、先生おっしゃる医学の観点からは、脳死は完全な死である、しかし、それをあえて、法律ができるまではしないのだとおっしゃる。これは逆に、医学上の観点から見れば死であることは間違いないのだけれども、しかし、先生社会的、倫理的な観点からやはりこれは死ではないのじゃないかという、先生御自身のお考えの中に、医学とは別に社会的、倫理的な観点から、これは死ではないとする別な眼があるのじゃないでしょうか。いかがでしょうか。
  47. 中山太郎

    中山(太)議員 御案内のように、人間の体というのは、脳幹を中心とする大脳部、それから心臓と肺という、この三つがリンクして総合的な機能を発揮している。肺循環、心臓の循環、拍動、こういうものが動いているわけでありますが、脳死状態に入った場合に、人工呼吸器をつけますと、結局、脳の機能はつぶれておっても、心臓と肺は機械によって動かすことができる、それほど進歩してきた。こういった状況が多くの救命救急センターで見られる姿だろうと思います。  こういったことを踏まえて、私はやはり、脳幹の不可逆的な機能の喪失というものが人間生命 に決定的な意味を持つもの、こういうふうな認識を持っております。
  48. 漆原良夫

    漆原委員 次に進めます。  脳死を人の死とする中山案は、私は、二つ生命の間に価値の差を認め、むしろ、高い生命のためには低い生命を犠牲にしてもいいのだという生命の差別観が大前提となっていると思います。対案はこう言っております。移植行為の適法性の根拠、これを、患者自身の生命臓器の提供行為の適法性に求めております。したがって、一方的行為でございまして、生命生命の対立関係はございません。しかし、原案では、移植行為の適法性の根拠を臓器の摘出行為そのものに求めざるを得ません。したがって、そこには必ず、臓器の摘出行為によって失われる保護法益と、移植によって得られる保護法益との比較がなされ、その大小によって適法性が決定されざるを得ないというふうに思います。  例えば、脳死を死と定義したとしても、死体から臓器を摘出する行為というのは、刑法百九十条で言うところの死体損壊罪に該当します。なぜ違法性が阻却されるのか。これは、死体損壊罪の保護法益よりも、移植によって得られる保護法益が大きいという判断があるからだと私は思います。脳死を死と法律規定しようとする原案というのは、本来、臓器の摘出によって失われる生命移植によって得られる生命の軽重の価値判断を迫られるべきところを、脳死者を死とするという法的テクニックを使って生命生命判断を免れたにすぎない、したがって、そこには、大前提の思想として、大の生命を守るためには小の生命を奪ってもよいとする生命の差別観が存在する、こう思いますが、いかがでございましょうか。
  49. 中山太郎

    中山(太)議員 人間生命に優劣はございません。だから、今先生の御指摘のような考え方は、私は持っておりません。
  50. 漆原良夫

    漆原委員 時間がなくなりました。最後に、私の考えを言いっ放しにさせていただいて、終わりたいと思います。  脳死を人の死とすることは社会的合意ができておるとすれば、法律上も倫理上も脳死イコール死として取り扱われることになります。したがって、脳死の人からの臓器の摘出行為は、だれも殺人行為とは考えない。また、倫理上も、人の生命を縮めているという自責、他責の念も持たない。そうだとすれば、何も脳死を人の死と法律規定する必要は全くないと思います。あえて脳死を人の死として法律で明文化しようとすることは、その原案自身が、脳死を人の死とすることに社会的合意がないということを自認するものだと思います。  本原案は、移植行為を容易にするために、死の持つ社会的、慣習的、宗教的な側面を一切捨象し、人の死を単に医学、生物学的観点からのみとらえ、法律の強制力をもって死の時期を早め、医師法律上、倫理上の免罪符を与えんとするものであります。したがって、私は、原案に反対でございます。  きょうは、ありがとうございました。
  51. 町村信孝

  52. 武山百合子

    ○武山委員 武山百合子でございます。  私は、一九九三年の総選挙まで、アメリカで二十年生活してまいりました。その二十年間を振り返ってみますと、移植医療が日常行われているということを今考えますと、大変日本と違うんだなと思っておりました。そして、日本に帰るきっかけがありまして、政治の世界に入りまして、そして、たまたま、ある移植をしなければ命が助からないという団体の皆さんと接する機会がありまして、大変苦労していらっしゃる、すなわち、命を失うか、海外に行かなければ移植ができないという状況を聞きまして、日本の政府、すなわち、この国会で一度も審議されていなかったということに、大変驚きと、また、日本医療に対する認識が欧米と大変違うということに、痛みと、それから現状の違いを痛感いたしました。  それで、私は、この移植の問題は個人の見解でもありますので、そういう弱者の立場に立った、特に子供たちを救いたいという見解に立って、一人でこの移植を進めてまいりました。その視点に立って質問したいと思います。  私、素朴な質問をしたいと思いますけれども基本的には、本人が生前に臓器提供の意思を書面により表示しており、遺族が拒まないときだけに限定するわけですね。その場合、本人が生前に書面により表示するということになっておりますけれども、年齢は何歳からでもいいということなんでしょうか、子供の場合はどうなんでしょうか、その辺をちょっとお聞きしたいと思います。
  53. 福島豊

    福島議員 武山委員の御質問にお答えいたします。  アメリカと比べた場合に日本移植医療は大変におくれている、それで、移植を待つ患者さんがたくさんおられるということに対して、日本に戻ってこられてから、先生立場で非常に問題を感じられたということに私も同感でございます。私どもは、まさに移植を待っておられる患者さんのために一日も早く移植医療日本で実現したいと思って、この法律提出させていただいているわけでございます。  年齢制限の問題でございますが、順次ちょっと御説明したいと思います。  まず、臓器移植ドナー及びレシピエントの年齢制限について、ドナーにつきましては、平成六年三月に、厚生省の日本臓器移植ネットワーク準備委員会ドナー適応基準というのを作成いたしております。これは、心臓については五十歳以下が望ましい、肝臓については特段年齢制限は設けておりません。これはむしろ上の方の規定ということになります。  先生が御質問の点につきましては、何歳から書面による臓器提供の意思というものを認めていいのかということであろうかと思います。  この意思表示というものがまさに意思表示であるかどうかということを確認するためには、まず第一点としまして、正常な判断能力のもとにそれがなされたものでなければならない、これが一つの要件だと思います。そして二つ目は、当該意思表示の具体的な内容、つまり臓器提供するということがどういうことなのかということをまさに十分理解した上で、また、脳死ということがどういうことなのかということを十分理解した上でなされるものが瑕疵のない真正の意思表示である、そのように考えております。  このように確認しました上で、では何歳からが果たしていいのか。私は、これは個々別々のケースによりまして慎重に判断をするということが必要なのではないか、法律で一律に何歳からしてもいいですよということはかえって言うべきではないのではないかというふうに思っております。  本人意思の確認ということでは、さまざまな本人の責任能力といいますか、私は法律の専門家ではございませんのであれなんでございますけれども、例えば少年法、刑法ではどうなのか、そしてまた身分法上はどうなのかというと、必ずしも何歳ということは一致をいたしておりません。十四歳ということもあれば、十五歳ということもあれば、十六歳ということもある。そういう現状を踏まえますと、むしろ、個々のケースにおきまして、かかわる者が的確に、慎重に本人の意思能力というものを判断する、そういう手続が必要なのではないか、そのように考えております。
  54. 武山百合子

    ○武山委員 そうしますと、常識の範囲ということに判断いたしましたけれども医療に携わる方の常識の年齢、それから提供する者の常識の年齢ということですけれども、今、弱者と言われている、本当に移植を必要としている年齢層というのは、先天性とか低年齢下で発見がされるわけです。そうしますと、アメリカでは十八歳以上、そういうまた小さな規定があるわけですけれども日本の場合、それで果たして道が開かれるのかどうか、私は心配しておりますけれども、そういう基準のもとに年間どのくらい提供があると思われますか。
  55. 福島豊

    福島議員 こうした中でどのくらい提供があるかということは、私ども提出者の立場といたしま して、やはり現実に移植医療というものが実施されていく過程の中で、その結果を見詰めていかなければいかぬというふうに私は思います。  委員が御指摘の点につきましては、私も非常に同感でございまして、低年齢の移植を必要とする方、待っておられる方、どういうふうに対応していくのか。果たして、低年齢の方の移植医療というのがスムーズに進んでいくことができるのかどうか。これは国民的な合意も必要であろうかというふうに私は思いますけれども、この法律を今国会で何としても私ども成立させていただきまして、そして移植医療の端緒を開いて、それが日本で現実に育っていく、その中で、こういう点に問題があるなとか、こういうところはまた検討しなければいかぬのではないかとか、そういう意見が多分いろいろと出てくるのだろうというふうに私は思っております。そういう意見一つの側面として、先生がおっしゃられるようなことというのはあるのではないかというふうに思っておりまして、その中で、私ども検討また議論を続けていかなければいかぬ、そのように考えているところでございます。
  56. 武山百合子

    ○武山委員 これは何年後に見直しということでこの法案を上げようとしておりますでしょうか。検討は、あるスパンというか期間を区切りますね。今のままではほとんどないだろうとだれもが予測できると思うのです。あっても、本当に一例か二例であろうと。現実にやはりそうだと思うのです。それを踏み越えて議論しないと、それはもう机上の空論であって、現実を見据えないと、やはり海外へ行って移植をしなければいけないという道しかないわけです。それは何年ぐらいのスパンで検討しようと考えておりますでしょうか。
  57. 福島豊

    福島議員 見直しの期間につきましては、私ども、三年ということに考えております。三年をめどに見直しを進めたいと考えております。
  58. 武山百合子

    ○武山委員 それから、脳死判定基準の比較で、イギリス、アメリカ、ドイツ、日本となっておりますけれども、特に低年齢の子供たち判定ですけれども日本は六歳未満ということで、非常に厳しい判定になっているということを感じます。  それはそれで、今、日本がやっと臓器移植に対して国民的関心を持ちつつある。国民的関心が絶対にあるか、合意形成があるかといいましたら、私は、正直言いまして、オブラートに包まないで言いますと、やはりまだ自立した国民であるとは言えないと思います、欧米社会に比べまして国民一人一人がですね。もちろん自立している方もいますけれども、一般的には、今までの医学界の情報も公開されておりませんし、いろいろな意味で、外国の情報もそんなに国内で、外国では出していても国内の情報機関が出しておりませんので、そういう知識や広い考え方を持つという環境が今までは整っていなかったと思います。ですから、国民の合意として、自立しているかといいますと、私は、正直言いまして、自立していないと思うのです。  ですから、私自身も大変悩みました、これを法律化すべきかどうか。法律化しないでできれば、その方がそれはいいと思いました。しかし、実際に、今までに訴訟を受けたり、医学の進歩の発展を妨げておりますので、意欲をなくされているわけですから、やはり法で整備した方がよいであろうと思っております。ですから、ぜひ法で整備していただきたいと思いますけれども、非常に厳しい日本脳死判定基準は、大変、世界でも類を見ない厳しさだと思っております。  それで、年齢の件は、ぜひ、幼い子供たちを救っていただくために、現実に提供者がないということもあるはずですので、それは短い期間で検討していただきたいと思います。  それから、脳死移植の早急な開始は当然として、十年以上前につくられた竹内基準の内容なんですけれども、六歳未満の判定については、一度見直してはどうかなという意味もあるのですけれども、その辺はどう考えておりますでしょうか。
  59. 福島豊

    福島議員 竹内基準の見直しということでございますが、私ども立法府に身を置く立場といたしましては、脳死判定にかかわる専門的また技術的な事柄につきましては、まさに専門家にお任せするというのが一番正しい姿勢なのではないか、そして、その御判断を踏まえて私ども法案をつくる、その姿勢で臨みたいというふうに考えておるところでございます。  ですから、医療界におきまして、竹内基準の見直しということを考えることが必要であるとか、そしてまたその検討が進むとかということがあれば、当然、それを踏まえて考えなければいかぬというふうに思います。ただ、現状におきましては、医療界における最大のコンセンサスは、竹内基準脳死判定基準としては最も適当である、そういう判断でございますので、私どもはそれを前提として考えておるところでございます。
  60. 武山百合子

    ○武山委員 それでは、この年齢については、三年後に検討していただくということにしまして、あと二点伺いたいと思います。  法律案の附則の方で、「政府は、ドナーカードの普及及び臓器移植ネットワークの整備のための方策に関し検討を加え、」とあるのですけれどもドナーカードの普及といいましても、現実に骨髄移植とか、腎移植のカードの普及が行われておりますけれども、それが統一性がなく、個々にそれぞれの団体がやっているわけなんです。  それで、欧米では、私もアメリカで免許証を取ったときに、運転免許に角膜の移植をするかどうかと。アメリカでは十六歳から運転免許証が取れますので、そのときに必ずあるわけなんです。ですから、そういうドナーカードの普及ではなく、運転免許証などで、そういう必ず国民に情報が行くようなところで普及をしていただきたいと思います。  実は、私、去年の一月の初めにアメリカで交通事故に遭いまして、もう大変な、九死に一生を得まして、私もひょっとしたら脳死状態臓器を提供していたかもしれないわけなんです。それで、交通事故が日本の場合も多いわけですけれども、アメリカの場合も交通事故が多いのですけれども、若年齢層、特に子供を失った両親というのは、社会のために役立ててほしいと思う人も必ずいるわけなんです。日本の国もそうだと思います。しかし、今の法律のままですと、本人の意思がないと提供は受けられないわけですけれども、そういう門戸も将来開いていただきたいと思います。  その免許証の件はいかが判断しますでしょうか。
  61. 福島豊

    福島議員 委員おっしゃられますように、やはりドナーカードを普及していくということが今後移植医療を推進していく上では不可欠のことである、私も全く同感でございます。  このドナーカードの普及につきましては、今まで全く前進がなかったのかというと決してそうではございませんで、例えば腎臓提供にかかわりますドナーカードにつきましては、以前は腎臓バンクに登録する登録制であったわけでございますけれども平成五年度に厚生省におきまして検討が行われまして、自由配布制へ移行した方がいい、そういう提言をなしたわけでございます。  また、平成七年の日本臓器移植ネットワークの準備委員会、これは厚生省に置かれたものでございますが、同様の、自由配布制のドナーカードの導入ということが提言されまして、平成八年から社団法人日本腎臓移植ネットワークで自由配布制のドナーカードをつくって配布を始めたということでございます。私も持っておりますけれども。そういうふうにステップ・バイ・ステップでやっていかなければいかぬという側面があるのではないかと思います。  免許にかかわることでございますけれども、こういった御意見も、先生おっしゃられますように多数ございます。この点につきましては、どこまで進んでいるかということでございますが、現状においては、免許センターにおきまして、先ほど申しました自由配布制のドナーカードを置かせていただいている、そのような状況でございまし て、今後の移植医療の実施状況等を踏まえながらさらに積極的な取り組みをしてまいりたい、そのように考えております。
  62. 武山百合子

    ○武山委員 どんな方法でも結構ですので、国民一人一人がそういう情報を得て、そして、その選択をする、しないはその後の判断であって、選択のチャンスをぜひ統一的なネットワークシステムで与えていただきたいと思います。  それから、最後になりますけれども臓器売買の件で、最近、新聞に、生体腎移植のフィリピンのドナーに謝礼百万円という記事が載ったのですけれども、罰則が非常に軽いと思うのですね。二度とこういうことはしまい、そういう罰則にしないと、簡単に百万円とか数百万円で済むことでしたら必ず行われるのは目に見えていると思います。やはり法律をつくる以上は、もう二度とできないのだという厳しい、欧米のような罰則が必要だと思います。  以上です。どうもありがとうございました。
  63. 福島豊

    福島議員 今回の法案では臓器の売買等に関しましての罰則を定めておりまして、五年以下の懲役または五百万円以下の罰金というような形で定めております。  ちなみに、アメリカではどうなっているかといいますと、臓器売買の禁止違反の罰則は五万ドルを超えない罰金もしくは五年を超えない監禁刑を科せられ、または両者を併科されるということでございまして、アメリカと比較しましても同じような水準の罰則を定めさせていただいた、そのように考えております。
  64. 武山百合子

    ○武山委員 どうもありがとうございました。
  65. 町村信孝

    町村委員長 山中燁子さん。
  66. 山中あき子

    山中(燁)委員 山中燁子でございます。  私は、生死を分かつ病気をした親族を持った人間といたしまして、臓器移植によって助かりたいという方と臓器を贈与してもいいという方がいる場合に、この両者の気持ちを尊重して、脳死状態からの臓器移植を認めたいと考えております。ただ、幾つか疑問がございます。全く素人でございますので、素朴な質問をさせていただきたいと思います。  まず、脳死判定基準でございますが、せっかくきょうは第二案が出ておりますので、第二案の方にお伺いいたします。  竹内基準というのは国際的にも標準的に非常によくできているというふうに認められておりますけれども、十年間のうちに医学は日進月歩でございまして、例えば今のところはまだ細胞が死んだかどうかという判断方法は確立していない、あるいは、脳波がとまっていると思っていても、深部の方の脳波が実はまだ動いていることがあるというような事実は確認なさっていらっしゃいますでしょうか。
  67. 山本孝史

    山本(孝)議員 脳死判定基準についての御質問でございます。  既に御案内のとおりでございますけれども、せっかくつくってまいりましたので使わせていただきます。  深い昏睡と自発呼吸の消失、瞳孔の固定、脳幹反射の消失、平たん脳波の確認というものを行って、この竹内基準というものが脳死に関する研究班の中でつくられている。問題は、ここのところの六時間という時間帯、ここを必ず絶対に必要な最短の時間として置いてくださいというふうに竹内基準では言っています。  今、脳死判定基準とおっしゃいましたけれども竹内基準は、実のところは、この状態にいる、脳死状態におります、もう脳の自己融解が始まってしまいました、ここからは蘇生の限界点を超えましたよという状況にいることを判定していることであって、このポイントを確定するというのは非常に難しいというふうにせんだっての参考人質疑のときも林先生がおっしゃったとおりでございます。どうぞよろしくお願いいたします。  それと、今申し上げました、なかなか判断基準が変わってくるのではないかという部分ですね。脳血流の停止というものが完全に確認をされればここのところで脳血流がとまって血のめぐりがなくなって腐ってまいるということで、ここはよくわかるわけですけれども、今は、そういう意味では簡便な方法として、聴性脳幹誘発反応を九三%ぐらいで行っているということですので、今後、そういった補助的なことも厚生省令の中に策定をされていくというふうに理解をしております。
  68. 山中あき子

    山中(燁)委員 今おっしゃいましたように、脳血流の検査とかその他の検査を導入すべきだという意見もありますし、あるいは無呼吸テストを余り早い段階でやると死期を早めるのではないかというような議論もあるというふうにお聞きしております。  そういうふうに意見がいろいろ分かれているという状況考えますと、例えばドイツの場合には、一九八二年、八六年、そして九〇年というふうにその基準を見直ししておりますけれども、この基準の見直し、英国は随時見直しということになっておりますけれども竹内基準は現在は最適だが、しかし万能ではないという認識でよろしゅうございますか。
  69. 山本孝史

    山本(孝)議員 脳細胞が死んでいるということを確認したいのですけれども、これがなかなか難しい。脳波をとりましても、この細胞の皮質の部分の電気的な反応は検査をすることができますけれども、そこのところが難しいというのがせんだっての参考人質疑でもお話をお伺いしたところでございます。
  70. 山中あき子

    山中(燁)委員 異なる部分、つまり、死ぬプロセスにあるということと死が一致できるかどうかということがこの二つの案の一番大きな相違点であろうというふうに思います。そこに法で医学的な限界を定める危険性というのがあるかないかということを、私は自分がきちんと意思表示をするまでに考えたいと思います。  次に、判定者のことでございます。  移植医は関与せずというのは一般的に国際的にはありますが、中には蘇生の専門医を入れることとか、いろいろな条件をつけているところがありますけれども、その辺はどういう人が判定者であるべきというふうにお考えでしょうか。続けて第二案の方にお願いいたします。
  71. 山本孝史

    山本(孝)議員 竹内基準におきまして、判定者の医師については、「脳死判定に十分な経験を持ち、移植と無関係の医師が少なくとも二人以上で判定する。」というふうに決めております。本法律の委任を受けて制定される厚生省令においても、そのように規定されるものというふうに承知をしております。  問題は、その医師によって判定能力に差が出るのではないかという御質問かと思いますけれども脳死判定といいますものは、その原因となる疾患の治療行為に伴うものですので、それぞれの分野で臨床経験を積んでおられるお医者さんであればしっかりとした判定ができるというふうに言われております。いろいろ臨床の救急のお医者さんにお聞きをしても、必ず竹内基準に基づく脳死判定をしなければいけないというものではない、原疾患が何であってということで病院の方でずっと診ておりますと、ある一定のところですとんと数値が下がって、あっ、脳死になったなというふうにわかるというふうなお話もお聞きをしておりますので、必ずそういうふうに臨床経験を積んでおられる方であれば大丈夫であろうというふうに思っております。
  72. 山中あき子

    山中(燁)委員 ドイツの場合には脳死判定は規格化して、そして、その記録を数年間保存するということにもなっておりますし、客観的に判断のできる体制、そして責任の所在を明らかにできるような体制を組んでいただきたいと思います。  次に、ドナー意思の確認についてでございます。  本人の意思を書面でというその条件というのは、日本は大変厳しいわけですけれども、現実にはなかなか、自分がどういう書面を書いたらいいのかわかりませんし、登録制ということになるのでしょうが、第二案の場合にはドナー不足ということが起きるのではないかと思いますけれども、その辺はどういうふうにお考えでいらっしゃいま すか。
  73. 山本孝史

    山本(孝)議員 どちらの法律をつくりましても、ドナーの不足というのは深刻な状況であろうというふうに思います。今、原案の方からのお話にもありましたように、ドナーカードの普及をするというような形で移植医療に対する理解を深めていただくというのが、遠いようで実は一番近い道ではないかというふうに思います。  意思確認の、その本人の書面によるというのは、例えば一つの例でいけば、ドナーカードの話であり、あるいは免許証のところにそういうふうな表示ができないだろうか、あるいは御本人がお書きになっている日記の中にそういうふうな文言はないだろうかというような形で、実際のところは、お医者さんなり、あるいはあっせん業に携わられるコーディネーターの方たちが、その御家族の方に、御本人の意思はどうでしょうかというような形でお尋ねになるという形での御確認かというふうに思います。
  74. 山中あき子

    山中(燁)委員 四月十二日に、日本移植学会の臓器移植ネットワークの行動指針というのが出ましたけれども、これに、法律なしの状態でも実施できるよう万全の準備を完了しているというのが書いてございますし、それから、九七年一月の「日経メディカル」に、日本移植学会の理事長の野本氏が、「法律がある場合よりもはるかに厳しくコントロールしていく」というふうにおっしゃっています。そして、「最初の方向性を示すのが移植学会、その後で医療として定着させるのは国の責任」というふうに述べていらっしゃいますが、これにつきましては、第一案の方の関係者の方はどういうふうにお考えでしょうか。
  75. 福島豊

    福島議員 先日、日本移植学会が行動指針を取りまとめられまして、私のもとにもお届けをいただきました。まさに、自主的な、専門的な立場で、どのように移植をしていくのかということについて独自にまとめられたものであると考えております。  そういう意味では、私どもは、この独自にまとめられた方針というものが、現場で国民理解を得る、国民に納得される移植医療を推進していくための大きな方針になるのだというふうに考えております。国としましては、そうした専門の立場での御努力に対しまして、移植医療日本で本当に前進していくために大きなバックアップをしていかなければいかぬのだ、そんなふうに思っております。  私ども法案は、この行動指針と直接に関係しているわけではございません。むしろ、その行動指針が現場で遵守されていくという意思の確認ということを踏まえつつ、その大枠となる社会的な合意の一つの姿としてこの法案成立させたい、そのように考えているところでございます。
  76. 山中あき子

    山中(燁)委員 私は、ドイツやイギリスのように、それぞれの医学の関係者、特に王立医学会とかあるいはドイツの医師会のように、日本もそうですが、医学的な造詣と同時に国民の信頼をもって責任を持ってやっていくという体制が非常に大事だと思いますが、その点について、これは質問ではなくて、先日、米英仏、ドイツ、日本との比較の中で、懲罰の規定を持つ身分集団としての強制的な加盟として医師会がないというのが日本だけであるという、そういうことで、厚生省の方にどのぐらいの組織率かということを聞きましたところ、平成六年までしか数字がない、約六〇%であるということをお聞きしました。  その辺も含めて、法的な整備と同時に、医学界の方たちが全体的に意識の醸成を図り、理解を深め、そしてともに前に向かって歩ける、そういうような体制をとっていくことが国民の信頼を築くのに非常に大事なことではないかと思いますので、ぜひ医学に関係のある方はその辺のところもお考えいただきたいと思います。  最後に、人の死というものと脳死というのがどういうふうにかかわるかということでございます。  先ほどからの御議論を聞いておりましても、欧米ではもうほとんど認知されているというふうにおっしゃっておりますけれども、私が、全く素人でございますが、ちょっと調べたところですと、スウェーデン、デンマークそしてロシア、それからペルーは限定つきでございますけれども、その辺が法律として脳死を死と認めている。あとのところは、多くの国では、臓器移植は法の適合性を認めているけれども脳死を人の死とするということは一般的な通念として年月をかけて定着させている。移植の学会が独自の指針を掲げつつ、そういう努力をしていって、そしてこの時期になぜ今ここ日本で、つまり、ちょっと不幸なスタートを切ったということもありますが、まだそこまでいっているかどうかということがさまざまな議論がある中で、脳死は人の死というのを法で定めなければいけないその根拠について、第一案の明確なお答えをお願いしたいと思います。
  77. 福島豊

    福島議員 世界の諸国におきましてどのような法律があるのかということにつきましては、違いがあるということは事実でございます。  ただ、私は、その中に共通するものというのは、歴史的な背景、文化的な背景等々を踏まえつつ、移植医療というものをどのようにして実現していくのか、そこに思いがあるのだというふうに思っております。  私どもが今回法案提出いたしました。これは、今委員おっしゃられましたように、脳死を人の死とするというところに主眼があるのではございません。それは、先ほどからも提案者の方からたびたび御説明をさせていただいておりますが、あくまで日本社会における、調査会での検討もございましたし、そしてまた医師会での検討もございましたし、そういったさまざまな検討の中で、脳死を人の死とするということについて社会的な合意があるのだということを前提として移植というものを適切に国民に納得していただけるような形で推し進めていく、そのために法律をつくらせていただいている、提案をさせていただいている、そのように考えております。
  78. 山中あき子

    山中(燁)委員 私は、当初に申し上げましたように、臓器移植そのものに反対しているわけではございませんが、イギリスで、死の定義そのものは法律上の議論をしないということのそのわけとして、「死ぬことが確実であることと死が等値できるか」どうかということが挙げられております。  私は、死に方というのは、人の人生の最終地点でございますし、人の生き方の問題であって、前から御議論がありますように、これは当然、人の死生観あるいは宗教観、そしてまた人生哲学などによるものもありますが、一方、脳死状態で、これを確実に一歩ずつ、今の医学は日進月歩でございますから、確実に大きな流れが変わっていく中で、これから将来に対しても、医学の進歩に対して柔軟に対応できるような法的な配慮が必要ではないかというふうに思います。  そして最後に、大変失礼になるかもしれませんが、やはり医学者あるいはお医者様たち国民の信頼を、不幸なスタートからということもありますけれども、醸成していくために少し時間をかけられるという意味で、脳死状態からの心臓を初めとする臓器移植というものは容認できますけれども、これを死というふうに全体的に法で決めてしまうということについては少し慎重に考える必要があるのではないかと思います。  救える命は救いたいという医学基本に戻って、臓器を必要としている方と臓器を贈与していいという方、この権利をきちっと法的にこの国会で定められれば、その先のことはもう少し時間をかけて醸成していくことも可能ではないかというふうに私は思っております。  ありがとうございました。
  79. 町村信孝

    町村委員長 午後一時三十分から委員会を再開することとし、この際、休憩いたします。     午後零時二十分休憩      ――――◇―――――     午後一時三十八分開議
  80. 町村信孝

    町村委員長 休憩前に引き続き会議を開きま す。  質疑を続行いたします。山本孝史君。
  81. 山本孝史

    山本(孝)委員 きょうは、我々が提出しております対案も含めての御審議をいただきまして、町村委員長を初め各党の理事の皆さんにはいろいろ御配慮いただきまして、ありがとうございました。  中山案の方に質問させていただきます。  原案から修正案に至る過程の中で二つの大きな変化がございました。一つは、家族のそんたくを外したという部分、もう一つは、見直しの期間が五年から三年に短縮をされました。この二つのことは関連性を持っているのでしょうか。
  82. 中山太郎

    中山(太)議員 前回廃案になりました法案と比較して二つの点が違っているという御指摘でございます。  一つは、家族のそんたくを外しているということ。家族のそんたくということについて、私ども、いろいろと御意見を聞く中で、そんたくというのは、どうも本人の意思家族の同意ということから比べると、本人の生存中の意思というものが明確でないという場合のことも考えて、これはやはり修正すべきものと考えました。  なお、五年から三年に見直しの期間を縮めたことにつきまして、もしこの法案成立をいたしましても、どのような経過をたどって日本の国内における移植医療が定着てきるか、それについては、できるだけ早い時期に、法案自身をどうこれから進めるか、改正すべきは改正すべきということで三年という期間に短縮をしたわけでございます。
  83. 山本孝史

    山本(孝)委員 今、先生方の案が成立をしたとしても、多分、提供される臓器の数は非常に限定されたものになるだろう。それは家族のそんたくを外されたというところでそうなると思いますけれども、そうした状況を受けて、社会の方から、あるいは移植を待っておられる方たちから、提案者はこの法律成立した後もこのように臓器の数が少ないのだということを予測していなかったのか、何のための法律だったのかというふうな声が多分出るだろう、法案を修正して家族の同意で摘出できるようにせよというような要望もきっと寄せられるに違いないというふうに思うのですけれども状況を見ながら法律をおつくりになったのじゃないのですかというような声も含めて、先の見通しを持って法律をおつくりになっているはずだと思いますから、この辺、皆さん方はそういう声をどういうふうにお受けとめになりますか。
  84. 中山太郎

    中山(太)議員 法律を制定せずに移植医療日本でできるような状況、環境ではないという観点から、国民の間にいろいろと法案の内容について疑問があるというような点はある程度思い切って削除をして、そして、だれが聞いても非常に明確である、御本人の生存中の意思が文書によって確認された場合、しかも遺族反対されない場合、この二つに限るということを明示することによって法律審議というものが国会で進むことが可能になるという判断のもとに修正をさせていただいたということでございます。  ドナーの点につきましては、実際にドナーがたくさん出るかどうかということは、これは全く想像することは私は難しいと思っています。  と申しますのは、この臓器移植法というものが日本で定着するにいたしましても、極めて限られた脳死患者、脳死体の方ですから、家族反対される場合もある、そうなると、これはもう全く対象外になりますから、そういった意味では、当初は、非常に大きな期待を持つということは困難かもわかりません。
  85. 山本孝史

    山本(孝)委員 今後ともに、日本社会の中ではかなり難しい状況だろうという認識をお示しになったのだと思いますけれども臓器が足りないからということで、家族の同意での摘出、すなわち原案に戻るということは、皆さん方はお考えになっておられるのか、あるいはおられないのか。  前回の質問の折に、しつこく矢上さんにお伺いをして、提供者とはだれですかというふうにお聞きしたのは、立法者の意思として、医療においても患者の意思を尊重するのだと。今先生も、本人の意思を最優先して考えてやっていく医療なんですという意味合いでおっしゃっておられる。その中に、どちらかというと患者中心主義でいくのだ、あるいは、どちらかといえば患者の権利というものが軽く見られてきた中でこの本人の意思を最前線に置くということは、私は、日本医療に対しての一つのすごい変革だと思うのですね。革命的な取り組みだと私は思っているのですが、そこの部分が、今先生おっしゃった、修正案になったところで、審議を進めるために、法律成立させるためにそこを外したのだというお考え部分と、質的にこの法律の性格が違うと私は思うのですね。我々が言っている、やはり本人の提供の意思を最優先、そこを最大限尊重してやるという部分とがどういうふうに先生の頭の中でクロスしているのかなと。  三年の推移を見守っての検討事項は、何遍お聞きしても、三年たってから考えますとおっしゃっているのだけれども、三年たった時点で明らかに臓器が少ないことは間違いがない。そういう状況の中で、今、もう一度お伺いをしたいのですけれども、この家族のそんたくに戻るのではなくて、どこまでも本人の意思ということで、修正案は、単に小手先で、審議を進めるために、通すために修正したのではなくて、立法者の意思として、本人の意思を最大限尊重する形で法律をつくるのだという思いなのか、そこの御確認をお願いしたいと思います。
  86. 中山太郎

    中山(太)議員 御案内のように、単に脳死体から臓器を摘出するという場合に限らず、一般の疾病によって死に至った方、その方のいわゆる病理解剖といったようなケースのときに、遠いところから来られた親族の方が、そんなかわいそうなことはやめてくれと言われて、本人の御家族の中で、近親者が病理解剖してもいいと言っても、なかなかその反対でできないケースが全国の大学病院ではございます。  そういう意味も含めまして、私は、御本人の生存中の意思と御家族の同意ということがこの問題のスタートには必要な条件であろうと判断したわけでございます。
  87. 山本孝史

    山本(孝)委員 きょうは、十五分しかないので、ほとんど質問らしい質問にならないのですけれども対案を出させていただいて、この間の参考人質疑のときも、柳田先生が、法律がなくてもいいのじゃないか、次善の策が私らの案で、次善の次善の策が先生たちの案だというような柳田先生お話だったと思うのです。  法律なしにできる状況ではないというふうに先ほどもおっしゃいましたけれども、私は逆に、法律によって臓器移植を開始させるという手だてが本当にいいのだろうかと思っているのですね。ドイツやイギリスは、今も脳死を人の死とする法律を持っていません。医学界が、それぞれが、自分たちがきちんとしたガイドラインをおつくりになって、それを法律が追認する形でやってきているというのが世界の大勢だと思うのですね。  そういう意味合いで、本当に法律が必要なんだろうかというふうに、実は、本心のところはずっと思っているのです。余りいいやり方ではないのじゃないでしょうかと。先生方が出された案は脳死を人の死とするという案だから、そこは乗れないので、私は対案という形を出させていただきましたけれども。  今回、日本移植学会がガイドラインをおつくりになって、きっちりと中を精査されて、むしろあのガイドラインは、法律がなくてもやりますよという体制づくりをされたわけだから、そこのところで問題がないのであれば、そこのガイドラインを認めてあげて、それでおやりになったらいいのではないだろうかと。あのガイドラインでやられるのであれば、我々国会も、審議をしてきた中において、移植医の皆さんにもう一度お任せをしてもいいのではないかというふうな思いもするのですけれども先生、いかがでしょうか、やはり先生方法律でないとだめでしょうか。
  88. 中山太郎

    中山(太)議員 国会に議席を持って、国民に対 する一つの責任を持っている立場の私どもとしては、法律なしで行う場合、問題は、日本社会というものは、法律というものを勉強しておられる方々の中で、第三者告発というものが今までも随分行われてまいりました。この第三者告発をとめる手だてというものは、現実にはございません。だから、法律できちっと枠を決めれば、その範囲で行われる正しい医療行為については、私は、いわゆる第三者告発というものは起こり得る可能性はほとんどないという認識を持っております。  現に、医師の中には、告発されてまでこの人たちを助けるということについて、大変困るという気持ちの方が非常に多いです。それで、検察庁へ呼び出されて、殺人罪の疑いで一応取り調べを受けますから、そこまでしなければならないのかという認識がございます。そういう点も踏まえまして、今回の法案をつくった方が私はいいと。  もっと皆様方国民が、絶対にこの医学界の判断が正しいもの、これには従うという国民的なコンセンサスができておれば、それは、先生のおっしゃるように、法律なしでも私は可能だと思います。
  89. 山本孝史

    山本(孝)委員 移植学会の野本理事長がお越しになって、一番先にやっていることは何だと。移植医に、社会のルールを守るということは大切なんですよということを教えているのですというお話。結局、私がこういう質問をすると、おまえは医者を信じていないのか、おまえは医療不信の塊かといつも怒られるのだけれども移植医というか、関係者の方たち自身が、医者の倫理というものは今非常に薄いのですというお話をされて、その中で、法律をつくって、いわば守ってあげて、移植を進めるのですという形が、私は、どうも順番が違うのじゃないですかという思いをするのですよ。  臓器移植に対して法律で始めるということは推進するわけですから、ということは、臓器が足りないということになれば、もっと一生懸命、臓器が集まるような形をとらなければいけない、法律をそういうふうな形に変えていかなければいけないという話になってくるのではないか。片一方に患者の権利法でもあればまた違うと思うのですけれども、その辺がどうしても、私自身、ここは納得のいかない部分なんですね。  それで、本当に法律は必要なんでしょうかということを何度もお伺いをして、そうではなくて、やはり本人の意思を最前線に、そこは絶対崩さない、三年先の見直しのときも、いかに臓器の数が少なくともそこは崩さない、本人の元気なときの意思というのを必ず真ん中に置いて日本移植医療を進めていくのだということであるならば、私はそこは納得できるのですけれども、こういう形でつくって法律をがらっと変えてしまうのは、申しわけない、自見先生にもそう言って、私は怒られることを承知の上で申し上げましたけれども、かなりこそくな立法の仕方じゃありませんかというふうに思うものですから、ここの本人の意思のところは、これは議員立法なので立法者の意思が最前線ですから、先生方としては三年先の見直しのときも、本人の元気なときの提供の意思というのが一番で、家族のそんたくだけでという形にはしないのだというところをお話しをいただけないでしょうか。
  90. 中山太郎

    中山(太)議員 先生のお尋ねの点につきましては、この法案提案させていただいた現在、私は、この今のあり方というものは正しいと信じております。三年後の見直しのときも、御本人の生存中の意思というものが最優先されるべきである、このように存じております。
  91. 山本孝史

    山本(孝)委員 今回、ずっと各党協の中からも、私は、ドナーの人権というのはしっかり守られるべきだと。そこのところがいろいろな事件を起こして、移植医療をおくらせている一つの原因であったと思います。  もう一つは、生きている体からとれるのかというふうにおっしゃる話ばかりなんですけれども、実際の移植現場は、脳死判定をされれば、そこから灌流液を入れるという形になります。だから本当は、あのガイドラインにあるとおり、人工呼吸器をつけたままで胸を切り開き、おなかを割き、そしてそこへ潅流液を入れ、それでとるという形ですから、非常におどろおどろしい部分がある。  それは、そういう人から臓器をいただいて生きていかなければいけない、だから死んだことにしてほしいという木内さんのお話もわかるのだけれども、提供者の側も、その家族も、すごい思いを持ってその後ずっと生きていくわけですね。生きている臓器というものを治療のために人様からいただいて、提供する側は差し上げて、そして生というものが続いていくという大変に重たい医療だということを、これはドナー家族も、受けるレシピエントとその家族も、社会国会考えるべきだというふうに思うのです。自分の家族臓器を提供できるのかというところをしっかり考えないと、私は、これは賛否は出せないのではないか、それだけの重みを持っている法律だというふうに思います。でも、きょうは明確な御答弁をいただきましたので、ありがとうございました。  ありがとうございました。
  92. 町村信孝

  93. 矢上雅義

    矢上委員 新進党の矢上雅義でございます。  きょうは対案に対して質問させていただきます。  まず一問目でございますが、基本的なスタンスとして、脳死は人の死として認められるか否か、その理由等についてお伺いいたします。
  94. 海江田万里

    ○海江田議員 お答えします。  脳死を人の死と認めるかどうかということでございますが、大変難しい問題がございまして、私どもはもちろん脳死イコール人の死でないということでございますが、世の中一般で考えましても、やはりこれは非常に判断の難しいところだろうと思います。  私どもが知り得ている範囲では、各種の世論調査などをやりましても、三割程度の方が脳死を人の死ではないという見方をとっておりますし、それから、これは私が本会議でもお話をさせていただきましたけれども、例えば橋本総理大臣なども国会の場で、脳死を人の死とするかどうかということについては非常に難しい問題である、私は本当に脳死を人の死としていいのかどうなのか、私自身の中でどうしても答えが出ないというような意見もあるわけでございます。  それから、午前中に山本議員から御説明があったということでございますが、やはり死というのは一つのプロセスでございますから、確かに脳死というのは一つの通過点としてそういうものがあるわけで、そこですべてが終わってしまうわけではないというのが基本的な考え方でございます。  もちろん、科学的にはいろいろな判断があると思いますが、これもお話が出た、それから皆さん方が直接この委員会でお聞きになったと思いますけれども、柳田参考人ども脳死を人の死と認めるかどうかということについては、やはりこれは人間の問題であるというような意見も陳述しておりますので、脳死は人の死であると言い切ってしまうことにはかなり無理があるのではないだろうか、こういうふうに考えております。
  95. 矢上雅義

    矢上委員 ただいまの海江田議員のお答えですと、一言で言うと、社会的合意の有無が確認されるか否か、それは世論調査等の結果を通じて反映されるということでございますが、そういう意味脳死を人の死として認めないという理由として受けとめさせていただきます。  続きまして二番目に、対案において臓器の提供者はだれか、そこを率直にお伺いいたします。
  96. 海江田万里

    ○海江田議員 私どもは、脳死状態にある方の場合と、まさに死体から臓器が提供される場合と二通りに考えております。  ですから、死体から臓器が摘出される場合につきましては、やはり遺族が提供者であるというふうに考えればいいかと思います。  ただ、その場合も、先ほど来お話がありますように、本人の臓器提供の意思というものがやはり最大限尊重されなければいけないということでございますので、本人の書面による臓器提供の意思 表示があること、それから、遺族がいる場合はその者が拒まないことが要件とされます。  それから、脳死状態にある者から臓器が摘出される場合でございますけれども、これもやはり、臓器提供者の自己決定に基づきまして、そして脳死状態になった場合、厳格かつ厳密な要件のもとで臓器の提供を求めようということが基本的な考え方にありますので、この場合は脳死状態にある者が臓器の提供者であるというふうに考えることができるだろうと思います。  なお、脳死状態にある者からの臓器の摘出につきましては、脳死状態にある者本人の書面による瑕疵のない真正な臓器提供の意思表示があるかどうかを確認しなければいけませんので、書面に、本人自身の署名及び作成年月日の記載を求めることにしております。  それから、医師などにつきましても、真正な本人の意思表示であることの十分な調査と慎重な確認の努力義務を課しているところでございます。
  97. 矢上雅義

    矢上委員 私も対案を読みまして、死体からの臓器摘出は遺族の同意であろう、そして、脳死状態からは本人の自己決定を尊重するというようなことできちんと文章が流れておりますが、ただ、残念ながら、第十一条三項で、手元にございますか、第十一条三項で、いわゆる記録を作成した後、閲覧に応じる、そこにおきまして、「移植術に使用されるための臓器を提供した遺族」と、一つとしてまとめて書いてございます。  本来であるならば、脳死状態からの摘出による場合には、臓器を提供した方の遺族及び臓器を提供した遺族ときちんと書き改めるべきだと思いますが、こういう表現でいきますと、あたかも脳死状態の人も死体からの人も臓器を摘出する場合にはその本人の自己決定権ではなくて家族の同意で済む。結局、これは対案提案者も、そもそも脳死は人の死であると考えておられるからこのような表現になるのではないでしょうか。その点、御説明ください。
  98. 枝野幸男

    枝野議員 確かに、御指摘のとおり、十一条の三項の記録の閲覧、謄写請求権者として条文上書かれておりますのは、「臓器を提供した遺族」という言葉を使っております。しかし、よくお読みいただけば、「臓器を提供した遺族その他の厚生省令で定める者から」という書き方をさせていただいています。別に臓器を提供した遺族に限定をしているものではありません。  この法律は、脳死状態にある者からの臓器の提供とともに死体からの臓器の提供というものと両方を含んでおりまして、先ほど来の議論の中でも御理解いただけますとおり、なかなか脳死状態からの臓器移植というものの数を考えるときに、むしろ死体からの、まあ心臓などは難しいらしいですけれども臓器の提供というものを一つの例として挙げて、「その他厚生省令で定める者」の中に読み込んでいるという理解をしていただければと思います。
  99. 矢上雅義

    矢上委員 これは、枝野議員がおっしゃるように、「その他」という表現で読めるのか否かということで理解は分かれますが、そもそもこの対案というものは、本人の、つまりドナーの自己決定権、本人の意思を尊重する臓器提供法でございます。それが、臓器提供法ということが原則でございますから、やはり私は、第十一条の三項に来る場合には、「移植術に使用されるための臓器を提供した者の遺族その他」と、逆転するのではないかと思っております。  確かに、枝野議員がおっしゃるように、脳死状態の人は全死亡者のうちの一%ですから、その数からいうと「その他」でございますが、対案提案者の趣旨からしますと、「臓器を提供した者の遺族」、そうなっておりませんと、これはあたかも脳死は人の死であることを前提として書かれた法案ではないかと推測いたします。  続きまして、三番目の質問でございますが、生きているとされる人から、これはいろいろ議論がありますが、法的に生きているとされる人から死に直結する形になる臓器の摘出が許されるための条件とは何か、お聞きいたします。
  100. 枝野幸男

    枝野議員 今の矢上委員の十一条の話でございますが、条文をよく読んでいただきますと、臓器の摘出の条項についても、原則といいますか、先に書いてあるのは六条の方で、「死体からの臓器の摘出」が先に書いてあります。そして七条の方で、「脳死状態にある者の身体からの臓器の摘出」が書いてあります。  したがって、どちらかをベースとして出すとしたら、この条文の順番に従って、死体からの臓器提供の場合を想定した文言が出てくるのはむしろ法律の書き方として自然であると思います。
  101. 矢上雅義

    矢上委員 私ども中山案の提案者といたしましては、あくまでも人の死ということを脳死も含めて人の死と、そして、死体から臓器を摘出するという法案として貫いておりますので、私どもはそのような形でさせていただいておりますが、対案におきましては、あくまでも本人の自己決定権を正当に認める、つまり、臓器提供法案であることを前面に出すならば、私は、法案の文章上からも、条文上からも、臓器を提供する者の遺族なり臓器を提供する者をまず第一に書いていただければと思っております。これは見解の相違でございますのであれでございますが。  先ほども質問がございましたが、臓器摘出の条件とは何かについてお答えいただきます。
  102. 秋葉忠利

    秋葉議員 お答えいたします。  条件という場合に非常に技術的なことが羅列されておりますけれども、今委員も御指摘のように、私たち提出いたしました法案臓器提供法案でございます。しかも、脳死状態というのは私たちは人格を持った生きた人間であるという法的な解釈をいたしておりますので、その脳死状態の人からの臓器の摘出という場合には、まず一番大きな条件としては、本人の事前の明確な意思表示、これについてはそれが明確であるかどうか、書面による、あるいは日付がある、署名があるといったようなきちんとした手続を要求しておりますけれども、やはり本人の意思が一番大事だと思います。  それは、ただ単に、自分の体は傷ついても、あるいは生命はなくなってもほかの人に益がいくのだからといったような、いわばバーター取引の、今まで言われてきた考え方ではございません。自分の生を全うするために――生というのは英語で言うとこれはライフになりますけれども、ライフには生命とそれから人生、二つ意味がございます。自分の人生を全うする一つの手段として、脳死状態という不可逆的な過程に至った場合には自分の生の一部として臓器を提供したい、そういった意思を実現するための手段としてこの臓器の摘出ということを、医師に関与していただいた上で、さらにはそれが臓器移植という、臓器を必要としている方の役に立つという目的のために摘出されることはいいだろうというふうに私たち考えております。  これを私たち法案として提案しておりますけれども法律がなければ一切許されないものだというふうには考えておりませんが、しかし、現時点では法律によって整備をすることが適切であろうというふうに考えております。  さらに、医療現場においてインフォームド・コンセントの実行がきちんと行われるということも、私たちは非常に重要な一つの条件であるというふうに考えております。  その他、例えばセカンドオピニオンが必要であるとか、あるいは第三者が立ち会うべきである、さまざまな厳格な条件が必要だという御意見もございます。  そういった趣旨も十分に生かしながら、本人の生を全うするための意思がきちんと実現されるように、私たち法律を整備するということが現在の私たち立場だと思います。
  103. 矢上雅義

    矢上委員 この対案におきまして、生きているとされる人から臓器を摘出する行為というものはどういう行為に当たるか。  よく取りざたされるのが、安楽死に近いのではないか、尊厳死と言えるのではないか、いろいろございますが、仮に安楽死と仮定しましても、例 えば安楽死は、一定の条件のもとで専ら死に至るまでの苦痛除去の目的で、外形的にも治療行為の形態で、目的にふさわしい方法が選ばれるべきである、これが安楽死の定義でございます。尊厳死については、その目的は、人間尊厳を持って死ぬ権利がある。死を引き延ばすにすぎない治療を拒否することができるという前提を認めたとして、また、だれが同意をするのかという問題がありますが、まず考えていただきたいのは、目的が、安楽死は苦痛の除去、尊厳死は人間として尊厳を持って死ぬことでございます。  この中に果たして、生きているとされる状態から心臓、肺臓など生命に直結するような臓器を摘出してよろしいということの目的まで入るのか。また、摘出行為がいわゆる苦痛除去の行為であるとか治療行為であるとか、そういう形に当たるのか。ある意味では安楽死、尊厳死とは全く違った形の死の形態かもしれません。  そうなりますと、安楽死、尊厳死というものは非常に議論がなされてきておりますし、裁判でも争われてきておりますが、今回の対案で出てきておる、生きておるとされる人を臓器提供により結果的に殺してしまうことになる、文面上ですね、こういうことが果たして安楽死、尊厳死と同じように国民各層で議論されてきたのか、そのような社会的合意がなされてきたのか、その辺について見解をお聞きしたいと思います。
  104. 秋葉忠利

    秋葉議員 先ほども安楽死、尊厳死と比較する上での同趣旨の御質問がございましたけれども、私たちは、安楽死や尊厳死とこの脳死状態における臓器摘出の結果生ずる死というものは別の種類のものだというふうに考えております。  その理由はいろいろありますけれども、最大のものは、恐らく、脳死状態にあるかどうかという違いではないかと思います。  安楽死あるいは尊厳死の場合には必ずしも脳死状態にあるということが必要要件にはなっておりません。しかし、臓器摘出の臓器移植の場合には、脳死状態にあるということが前提条件でございます。その違いが非常に大きいのではないかというふうに私ども考えております。  さらに、脳死状態からの臓器摘出による死というこの状態を、今、矢上委員は殺すという言葉をお使いになって表現されましたけれども、私どもは、そういった感情的な意味が混入するような表現でこの事実をあらわすべきではないというふうに考えております。殺すという言葉には、意図やあるいは意図の中でも悪意が含まれている場合が非常に多い。私たちは、そういった立場でこの臓器移植ということを考えておりませんし、脳死状態ということも考えておりません。  殺すというような言葉を使わないもう一つの理由は、私たち立場は、あくまでも、脳死状態にある人間が事前に自分の生を全うするための一つ方法として明確に意思表示をしたその意思を実現する、そのために医師もあるいは私たちも協力をするという立場でこの臓器移植考えております。  殺すとかあるいは生命を奪うというふうに表現する場合には、私たち法案では、主体になっている、行動の提起者でありその実現を中心になって図っているはずの人間が客体として、医師の方が主体であって、その医師の手にかかって殺されるといったような、主体と客体が全く逆転いたしております。それも私たち法案考え方からは出てこない表現であるというふうに考えております。
  105. 矢上雅義

    矢上委員 私がこの質問の中で殺すという言葉をあえて使ったのは、今回の法案は、対案にしましても中山案にしましても、刑法の殺人罪をどのように違法性阻却事由として扱うかということでございますので、避けて通れないものでございます。人を殺すことができる、人を殺すということにまず当たり得る。しかし、当たり得るけれども、それが違法性が阻却される。厳格にとらえれば、殺すという言葉からは避けて通れないわけでございます。そういう意味で、この臓器移植法案というものは刑法の裏表ともなりますので、より明快な法文上の規定が私は必要だと思っております。  その意味で、脳死は人の死として扱うのか否か、もしそうでなければ、明確にこの問題は法律になじまないという立場を貫かれた方が、国民にとっても国会議員にとってもわかりやすいのではないかと思います。そして、私たち国会議員立法を選ぶにしても、ある意味では泥をかぶり、法律になじまないということを選択したとしても、ある意味では泥をかぶることになるわけでございますから、私は、そういう意味での御指摘を交えまして、今回、その言葉を使わせていただきました。  これで質問を終わらせていただきます。
  106. 町村信孝

  107. 五島正規

    五島委員 先ほど来の矢上委員の御質問にやや継続した観点からの質問でございますが、金田議員らの法律案によりますと、今、秋葉議員あるいはその前に海江田議員の御答弁にもございましたが、生命が存続している状態である脳死状態で、本人、家族意思があるならば、心臓その他の主要の臓器を提供できるというふうな内容と読めます。その場合に、これは臓器の提供という形で生を終わらせるという本人の意思というものが最大のものだという御答弁でございました。  その場合に、先生方がおっしゃる脳死状態という状態、それはいかなるものなのか。そういう意図が明確であれば、脳死状態というのは、限りなく脳死に近い状態であっても、既に脳死に到達した後であっても主要な問題ではないとお考えなのかどうか。また、脳死状態の場合だけとすると、なぜ、脳死状態においては生命を絶つということを本人が申し出、そのことを医療の側があるいは社会が許容することが許されるのか。脳死状態というものはいかなるものとして、そういう生の段階における特殊な状態としてお考えなのか。  さらに、もっとこの問題に関連して申し上げますと、皆さんが脳死状態とおっしゃっている段階における医療は、生命を存続させ、健康を回復するための医療なのか、それとも、生命を取り戻し、生命を創造するための医療なのか、そこのところはどのようにお考えなのか、明確にしていただきたいと思います。  脳死は、医学的に、先ほど山本議員がパネルを示して御説明になっておられました、そのパネルを見ましても、蘇生限界点を明確に超えた、そういう蘇生限界点を確定して死の状態に入っているという認識があって、そしてこの議論は始まっている、そのことは明らかだと思います。  ところが、そのことに対して、まだ三〇%の社会コンセンサスがないということでもって、医学的なそういう知見を何としても法律世界で否定しようというのが先生方法案目的ではないか。その点について明らかにしていただきたい。
  108. 金田誠一

    金田(誠)議員 脳死状態をどう見るかということでは、実は、私ども提出者の中にも意見が分かれるところでございます。私は、個人的に申し上げますと、脳死状態医学的に言ってもまだ死ではないという立場をとっておりますけれども提出者の中には、医学的に見れば死と言えるという立場の方もいらっしゃいます。しかし、それを法律的に死と規定をするべきではないという立場の方も実はいらっしゃるということでございます。  先般、参考人招致がございましたけれども、この中でも、お医者さんの中からでも、脳死状態とまでは言えるけれども、細胞レベルで死は確認する今の医学状態にはない、したがって、脳死状態であって、これをもって人の死とは言えないという御見解もございました。さまざまな見解があるのだろうというふうに思うわけでございます。  そういう状態の中で、なぜ臓器を摘出することが許されるかということでございますが、先ほど来秋葉議員の方からも御答弁申し上げているとおりでございます。まず、本人の意思、これが出発点でございます。脳死状態という、蘇生限界点を超えた、そういう状況になったならば、みずからの臓器移植のために提供することによって生を全うしよう、そういう御意思をまずは出発点とし て、その意思社会的に許容する仕組みをつくる、そして、その仕組みの中でお医者さんが具体的に臓器移植術を執行するということを社会は容認していただけるだろう、こう私は思っているわけでございます。そういうことを申し上げて、御理解をいただければありがたい、こう思います。
  109. 五島正規

    五島委員 全く御理解申し上げることができないわけですね。今、金田議員がお答えになりました、脳死が脳細胞死であるかどうか、この問題については、恐らく、脳死判定の時期によりますが、それによって全脳細胞の細胞死である、そのようなことは絶対言えないだろうと思います。  死という概念はそうではない。もしそうであるとすれば、参考人の方も申していましたけれども、三徴候死のもとにおいて腎臓を摘出し、それが移植の対象となります。すなわち生着するわけです。これは腎臓の細胞レベルではなくて、臓器としての腎臓はまだ生きているから生着するわけでございます。死というものを細胞のレベルにおける完全破壊という形で医学的にとらえるという、そのことと死の問題とを混同するというのは、私は近代医学の否定だろうと思います。  もちろん、理念、個々の考え方としては、東洋の中には、髪の毛一本、つめの先にまで生命が宿っているという考え方がございます。そういう考え方をあえて否定するものではございません。しかし、臓器移植ということに関してそれが許されるかどうかということについては、それは医学的な死であるかどうか。今まさに金田さんがおっしゃったように、蘇生限界点は限りなく拡大できるものではございますが、蘇生限界点を超えたという状況においては、これは完全に死の世界に入っている、その事実を変えられるものではない。  したがって、その事実において臓器は取り出せるということとして理解しない限り、この臓器の摘出というものは、医師そのものが、いかに本人の強い御要望があろうとも、まだ生が続いている生命を絶ち、そして、別の生命の回復のために力を尽くすという生命の選択を行うことになります。私は、医師に、どのような状態であろうとも、生命の軽重を判断する、そのようなことは許されるべきではないと思いますし、また、医療というのはそういう社会的任務を持っていないと考えるわけでございますが、その点についてはどのようにお考えでしょうか。
  110. 秋葉忠利

    秋葉議員 医の倫理という観点から、あるいは二つ生命の選択をすることは医師としてはできないといった趣旨の御質問だと私は受けとめました。  その点について、まず最初に私が申し上げたいのは、仮に、脳死を人の死と呼ぼうと、あるいは人の死ではないと呼ぼうと、臓器摘出において医師の方がなされる実態には何の変化もないということであります。その事実は変わりません。  今おっしゃっているのは、それが法律によって人の死であると認められれば自分はやるけれども、あるいは人の死ではないというふうに言われると、そんなことはできない、あたかも法律によって医学的、科学的実態が変わるかのような前提をもとにした御質問ではないかと思います。  誤りがありましたら、私は専門家ではございませんので、御指摘いただきたいと思いますが、具体的に、それでは手続で、この両案についてどういった要件が必要とされているか。  このことを考えてみますと、まず第一に、ドナー側は明確に書面で承諾をしております。第二番目には、家族あるいは周囲の皆さんもこれを了承している。三番目には、この臓器移植を行う医師法律的に罪を問われないということも両法案で明確になっております。四番目には、その移植を行う医師は、脳死状態医学的あるいは科学的に明確に死である、五島委員が今おっしゃいましたように、その信念を持ってこの手術をなさる。  さらには、これは私たちが主張しているところではございませんけれども、いわゆる中山案の提案者方々、その中には五島委員もお入りになっていると思いますけれども脳死ということが社会的な死として社会的な合意まであるのだということさえおっしゃっている。  となると、一体、そういった実態がある中で、これを言葉によって、人の死とするのか、人の死としないのか。そのことで医の倫理が問われるという意味が私には理解できません。唯一考えられるのは、先ほどの漆原委員の御質問にありましたように、この臓器移植をする医師の皆さんの側に、事によったらこれは人の死ではないかもしれない、事によったら自分たち判断は間違っているかもしれないという揺らぎがあって、その部分法律で担保してほしい、そういう悲鳴にも似た叫びなのかということは考える必要があるかと思います。  しかし、信念のある多くの医師の皆さんがそういったことをおっしゃっているとは私には理解できませんので、となると、実質的に全く同じことをしている、それを言葉でどういうふうに表現するかによって医療の内容が変わってくる、医学判断が変わってくる、科学が変わってくる、ここのところが私にはどうしても理解できませんので、再質問していただければ、その要領でお答えしたいと思います。
  111. 五島正規

    五島委員 医学判断において死として判断をして、これは行うのであろう。しかし、自分たちはそれを容認できないから、法律の上においては、脳死は死ではないという前提に立って法律をつくる。我々は、死が医師判断によって脳死として判断された、それからの臓器の提供法としてこの法案をつくった。それでは、そのことの具体的な運営上の違いはどうなってくるのか。  例えば、提出しておられます対案の第七条の第二項を見てみますと、  前項の場合においては、脳死状態にある者の身体からの臓器の摘出がその者の生命に重大な影響を及ぼすものであることにかんがみ、同項の書面により表示された意思は、十分な調査を行い、慎重に確かめられなければならない。 こういうふうに規定されています。  これ自身は一体だれが確かめるのか。脳死判定した人なのか、臓器移植した人なのか、あるいはコーディネーターなのか、あるいは臓器を摘出に来た人に対する義務なのか、非常に不明でございます。  そのことは後ほど質問することとして、この法案で見る限りにおいては、もし仮に、臓器の摘出を行い、そして本人の書面による意思が例えば三年前に定められたもので、しかし近々の段階において本人はそのような意思を変えていた、その調査を十分にやったかどうかという形でもって告発を受けた場合、当然、この法律に基づいて議論するとするならば、私は法律の専門家ではございませんが、殺人罪としての告発を受けることになるのだろうと思います。  一方、私ども法案というのは、「死体脳死体)」からの臓器の摘出でございますから、もしそのことに違法性があった場合には遺体損壊罪としての摘発を受けるのだろうと思っています。その点においては非常に大きな違いがあると思うわけですが、いかがでしょうか。
  112. 枝野幸男

    枝野議員 今、五島委員が御指摘になりましたようなケースの場合でありますが、基本的には、客観的に脳死状態になった者が生前に書面で意思を示していたということが要件でありますが、移植にかかわった医師などがそのことについて事実を理解していなかった場合、間違って誤解してとらえていた場合、これは法的には殺人にはなりません。難しく言うと、事実の錯誤というものに当たりますので、殺人の故意がありませんので、そもそも殺人の構成要件に該当しません。違法性阻却以前の問題として、構成要件に該当しないとして殺人罪の問題にはなりません。  その意思の確認についてよほどひどいミスがあった、つまり、例えばドナーカードのようなものを見て、そこに日付も何も書いていないのに、あるいはほかの人の名前なのに、その人のものだというふうに誤ったりしたような、ある意味では 子供でもわかるようなミスでもしたような場合には、場合によっては業務上過失致死傷の可能性は出てくるかもしれませんが、まさにそれぐらいいいかげんな場合以外はそういったケースにはなりません。  それから、よくこの議論の中で、殺人罪で告発をされるとかいろいろなことを言われますが、例えばこの告発というのは告発をする者の勝手ですから、中山案で法律が通った後に脳死状態からの臓器移植があった場合でも、第三者からの告発は、いずれにしろ起こります。告発が起こった場合に、それが罪に問われるかどうかということがむしろ問題であって、その場合については、今申し上げたとおり、普通にやっていれば殺人や死体損壊で罪に問われるということは到底あり得ないというふうに考えています。
  113. 五島正規

    五島委員 弁護士さんのお話ですから、そこの法律の解釈というのはそうなのかもわかりませんが、我々、法律に対しての素人、医師立場から見れば、これはやはりどう見てもおまえが命を絶ったのだとはっきりと言われる。そのようなことで、おまえはある命を救うために別の命を絶ったのだと言われるような形で医療を進めるということについては到底容認できないところだろうというふうに思います。  そして、いま一つ質問しておきますが、今の七条の二項のところで、慎重に確かめる義務というのはだれに課したものであるか、これもあわせてお聞きしておきます。
  114. 枝野幸男

    枝野議員 第二項をよく読んでいただきますと、これは主語がございません上に、最後の文末が「慎重に確かめられなければならない。」という書き方をしています。これは、特定のどなたかを想定して注意義務を課している条文ではなくて、一般的に、この問題にかかわる人に対して、正確に法律的には訓示規定という言い方をすると違いますけれども、この条文によって、どなたかに法律上の注意義務が生じるというような規定ではありません。一般的に、これにかかわる人間は慎重に扱わなければならないということを訓示しているというふうに御理解をいただくべきだと思います。
  115. 秋葉忠利

    秋葉議員 いずれにしろ、医師臓器移植をした場合に、生きている人間を殺した、生きている人間から臓器をとってその結果死に至らしめたというようなことを言われるのはたまらないというお話ですけれども、それだとすると、五島委員等の皆さんがお出しになっている法案の背景として、脳死は人の死であるという社会的合意があるという主張は全く意味を持たないことになります。  御自分たち法案を推進するに当たっては社会的合意があると言い、私たち法案を批判するに当たっては社会的合意がないという前提でお話をされるのは、どちらか一つ選んで、きちんとした整合性のある理論を展開していただきたいと思います。
  116. 五島正規

    五島委員 私は、社会的合意というものは、皆さん方がおっしゃっているように、三〇%の反対があるという段階では社会的合意がないというふうには考えておりません。医学判断というのは極めて現実的な問題です。したがって、医学的には死である、そのことに対して容認する国民が過半数であるけれども、まだ容認できない国民が三〇%ある、その事実を言っているわけです。  したがって、死の判断そのものは極めて厳粛な医学的事実の確認である以上、私は、医学に基づいてやるべきだ、そして、そのことを、社会全体の過半数が認めているということによって社会コンセンサスがあると言っているわけでございまして、そのことは決して秋葉議員がおっしゃるような内容として申し上げているわけではございません。  そこで、枝野議員にお伺いしたいわけでございますが、この第七条の二項に書かれている内容が単なる訓示規定的なものであるとするならば、なぜ、そのような具体的な対象を決めて制約しているものでないその文章の中に、「脳死状態にある者の身体からの臓器の摘出がその者の生命に重大な影響を及ぼすものであることにかんがみ、」といったような、皆さん方で言うところの脳死状態生命存在そのものであるという規定をそこに入れなければならなかったのか、そこの点をお伺いしたいと思います。
  117. 枝野幸男

    枝野議員 お尋ねの御趣旨がなかなか理解しにくいのですが、いずれにしても、脳死状態にある者から臓器を取り出せば、少なくとも我々が、死んではいない、死んでいると断定はできないという立場からすれば、生命に重大な影響を及ぼすのだということは、まさに書いてあるとおりでありますし、だからこそ、関係する皆さんはみんな慎重に取り扱ってくださいと。もちろん、その前の六条、我々の条文の六条の「死体からの臓器の摘出の場合」であっても、いろいろと関係者の心情その他、慎重を期さなければなりませんが、それ以上に七条の場合には慎重を期していただきたいということの理由を自然に書いた、素直に書いただけであります。
  118. 五島正規

    五島委員 先ほど山本議員は、パネルをお出しになって、そしてその中で、脳死状態というものはどういうふうなものかというのをお示しになられました。その観点からいって、脳死、皆さんの言葉で言うならば脳死状態というのは、蘇生限界点を超えたところであるということを明確にしておられます。蘇生限界点を超えた状態であったとしても、皆さん方のお考えではまだ生がある、そのお考え、それは皆さん方だけではなくて、先ほどからも申しておりますように、三〇%という国民方々は、脳死を死ではない、そういう感情的にお考えになっているということについては理解できる。  しかし、そこの段階における医療という問題を考えた場合、そこにおける医療というのは、生の維持あるいは健康の回復という観点なのか、先ほどお伺いしました。あるいは、生命の回復、生命の創造ということを目的にして、ここのところを医療をやりなさいとおっしゃっているのか。そこのところをもう一度、最初の御質問のときにお答えはなかったと思いますので、お伺いします。
  119. 山本孝史

    山本(孝)議員 先般来、五島委員とここのところがいつも議論になるところですけれども先生、きょうの議論の中でも、結局、同じ状態というか、同じステップをとって、どういうふうにとらえるかということの議論だと思います。  私たちはやはり、今の医療現場を素直に受けとめるとこうなのじゃないか。五〇%の人たち脳死を認めている。三〇%は認めていない。そうでしょう。医療現場の中で、それじゃ人工呼吸器を切る人たちがどれだけいるのか、恐らく二〇%ぐらいだと思うのです。それは、医療現場におりていくと、死というものがなかなか認められないのだと。先生はお医者さんのお立場ですから、臨床的に見て、こういう状態になったらこれはもう死んでいるのと同じだという話をなさると思うのですが、死んでいるということと、死んでいるのも同じということとは、やはり今の世の中まだ違うのではないか。そこは社会的合意がないという中において、素直に今の社会状況法律に書いてみるとこういうふうになるのではないでしょうかというのが私たち思いなんですけれども、だめでしょうか。(五島委員「それはわかった、私の質問に対してお答えください」と呼ぶ)私は、今お答えしたつもりですが……。
  120. 枝野幸男

    枝野議員 脳死状態になった状況での医師治療行為というものをどうとらえるかというのは、これは、一律に決める必要があるのかどうかということは別として、私見を申し上げさせていただければ、私自身は、この提案者の中では、脳死は少なくとも科学的、医学的には死であろうというふうな立場にかなり近い立場に立っています。そして、医療基本的な目的というものが、生命を維持し、そして健康を回復させるというところにあるというのはそのとおりだろうと思います。  しかし、それだけが医療、あるいは少なくとも業として、あるいは社会存在としての医療目的ではないであろう。少なくとも、死を全うす る、あるいはどのような形で死を迎えるかというところについて、本人あるいはその関係者の感情あるいは社会的な認識というものに対してどういう働きかけができるのか、どういう影響を与えることができるのか、それも医療にかかわる分野の皆さんの一つの大きな責任であろう、仕事であろう。  そうした意味では、脳死状態にある方に対する医療行為というものは、確かに、医師の一般の、ふだんの原則的な目的にはかなわない行為であるかもしれないけれども医師社会的な、医療機関の社会的な使命として社会から期待されている、死をどのようにして全うするのか、迎えるのか、それにかかわる関係者の感情その他というものに対する使命を果たす重要な役割を担った行為である、私は幅人的にはそう考えております。
  121. 五島正規

    五島委員 今の枝野議員の御答弁というのは、これは我々の考え方とほとんど一致するわけでございます。我々もまた、この法案の中におきまして、医学的知見とは別に、現状における臨床現場個々の状況の中において、脳死に至った段階においても、御遺族の要望によって医療の継続、すなわち最低限の医療措置の継続を認めるという立場をとっています。そういう意味においては、医療そのものは社会存在であり、医学判断に対して、それだけではなく、それを超えたところの措置というのは必要だという立場をとっているわけです。  しかし、死の問題というのは医学判断であり、そして、枝野先生自身が医学的には死であろうとおっしゃったように、我々はまさに医学的には死であると考えています。  ところが、この法案の中では、対案の中では、あえてそうした医学的常識を覆して、脳死は死ではないという、いわゆる医学という学問とは異なった概念を、まだ社会の中において三〇%の理解が得られないということを理由にして強引につり込んでこようというのがこの対案であろうというふうに思うわけでございまして、そういう意味においては、この対案については断固として撤回していただくことを求めまして、私の質問を終わります。
  122. 枝野幸男

    枝野議員 多分、一貫して認識のずれが出るところというのは、死というものをどうとらえるのかということなんだろうと思います。医学的、科学的な意味での死というのと、社会が死というものについて持っている意味というものは、必ずしも一致をしていないのだろう。ある意味では、三徴候死しか考えられない時代には、医学的、自然科学的な死、つまり蘇生限界点というものと、社会がそれを死と認める段階というのが一致をしてずれることがなかったので問題になりませんでしたが、しかしながら、今、現時点では、脳死という状況医学の進歩によって出てきたことによって、蘇生限界点というものと、社会が死と認める時点というものとがずれが生じてきてしまっている。  そうした場合に、法律というものの立場はどうした立場に立つべきなのかというのは、これは確かに両論あってもいいだろうと思います。自然科学的なものに従って法律ではっさり切ってしまうというのも一つ立法のあり方だろうと思います。しかし、私は、法律というものは、自然科学の世界と、そして感情、人間社会世界と両方にしっかりと目を配らなければならない。そうしたことを考えたときには、自然科学的な判断社会的な判断、どちらを選択するかということは、立法者の我々国会の責任としてどちらかを選択するということは十分あり得る話だというふうに思っています。
  123. 五島正規

    五島委員 終わります。
  124. 町村信孝

    町村委員長 石毛 子さん。
  125. 石毛えい子

    ○石毛委員 民主党の石毛でございます。  私は、まず両案の提案者の方に、先日の参考人質疑におきまして、柳田参考人が御自分の御子息に関する経験に基づきまして、脳死を人の死とすることは死の青田刈りではないかというふうに申されておられました。私も前回の質問では、中山先生の原案に対して竹内基準の問題とも絡まって質問をさせていただきましたけれども、その質問に継続いたしまして、柳田参考人の発言は、脳死を人の死とすることへの危惧を表現されていた、そういう内容だったというふうに伺いました。  まず、あの柳田参考人の御発言をどのようにお聞きになられたか、両案の提案者の方それぞれにお伺いしたいと思います。済みません。どちらが先というふうなことを申し上げることはございませんので、お任せいたします。
  126. 五島正規

    五島議員 脳死臨調答申では、「脳死をもって「人の死」とすることについては概ね社会的に受容され合意されているといってよいものと思われる。」とされています。提案者としてもこのような考え方に基づいてこの法律案提出したものでございますが、国民の中には、今、私と枝野さんとのやりとりの中にもございましたように、脳死を人の死とすることに対してちゅうちょする方々もおいでになり、柳田参考人お話を聞いて、こうした方々にも十分配慮していくことの必要性と脳死に対する国民理解をさらに深めていくことが重要であるというふうに感じたところでございます。
  127. 海江田万里

    ○海江田議員 私どもは、柳田さんの発言を聞きまして、私自身は速記録で読ませていただいたわけでございますが、まさにこういう問題があるから私たちは私たちのこの法律案提案しているのでありまして、先ほど五島議員は、柳田参考人のような意見も配慮してという御発言がありましたけれども、まさに五島議員提出者になっておりますこの案というのはそういうものに対する配慮を欠いた案であろう、そういうふうに考えております。  それから、五島委員がつい今し方まで質問をしておったわけでございますが、この質問に対する答えの中で、柳田参考人は、「確かに脳死という現象は科学的事実であっても、それが人の死かどうかはこれは人間の選択と決定の問題でありますから、科学ではないわけです。」というような指摘もしておるわけですね。  ですから、科学では確かに脳死という現象、これは一つの事実であっても、科学ではない人間の感情の問題、そういうものも含めてやはり法律考えていかなければいけないのじゃないだろうか。そういう意味におきましては、柳田参考人意見をそんたくすれば私たちのこの法案ということになるのではないだろうか、そういうふうに思っております。
  128. 石毛えい子

    ○石毛委員 今の質問意味としては続くことになるわけですけれども、私は、前回の参考人の方の御意見を伺っておりまして、参考人の方によりましてさまざまな御意見がおありになったと思いますけれども脳死判定そのものが非常に難しいというふうに思いました。私は医学専門ではございませんので、あるいは理解が間違っているかもわかりませんけれども竹内基準は、私はこういうふうに理解をさせていただきました。  つまり、抽象的、客観的には竹内基準は非常に精度の高い、世界的にも大変評価の高い基準であろう、そうだろうと思うのですけれども、前回の参考人意見の方で私が大変心に残りましたのは、例えば基準一つであります無呼吸という状態に対して無呼吸テストをするということ自体が救命救急医の方は逡巡なさる場合が多分におありになる。それから、脳細胞死と神経細胞膜の死というようなこと、それから、脳波がどの臓器といいますか、人間のどの部分をベースにして出てくるかということはそう明快には読み取れないといういろいろなお話がありました。  それを伺いまして、私は、実は脳死判定というのは、蘇生限界点を引き寄せてしまうという、命を縮めるという、そもそも脳死基準は正しいのかもしれないけれども、その基準をあらわすこと自体、それが自己矛盾しているのではないか、実践上自己矛盾しているのではないか、そうした実践上自己矛盾している基準を人の死というふうに位置づけるということにはとても戸惑いがあるというのが正直な実感なのでございます。  ですから、そういうことを人の死と定義づけるのは私にはすかっと落ちないという、そこの戸惑いが非常に前回強烈に残ったのですけれども、この点に関しましても両案の提案者の方にもう一度御意見をお伺いしたいと思います。
  129. 五島正規

    五島議員 まず、竹内基準によりますと、脳死判定の対象となる症例というのは、器質的脳障害により深い昏睡状態と無呼吸状態を呈しており、かつ原疾患が特定されていること、そして、現在行い得るすべての適切な治療方法をもってしても回復の可能性が全くないと判断される症例について行われることになっておりまして、したがって、蘇生の可能性がわずかでもあり得る症例に対しては脳死判定を行わないことになっております。  そして、お尋ねの無呼吸テストでございますが、この竹内基準脳死判定をするという段階におきましては、既に三徴候死の中でもお話しされておりまして御承知のように、瞳孔の散大とかあるいは対光反射の消失といった脳幹死の状態というものが臨床的に十分監視された状態において行われることになります。したがいまして、おっしゃるような形で、わずかでも脳幹の活動が見られるような状態においてこのような判定が行われることはございません。  第二の問題として、この竹内基準で無呼吸テストをする段階においては、酸素濃度を上げて重酸素をずっと吸入させます。そして、無呼吸テストをすることによって、血液ガスの中における炭酸ガス濃度の増加の状態を見ながらこの無呼吸状況というものをチェックするということになっておりますので、そのことについては最大限の配慮を払われるものというふうに考えています。  ただ、それでは完全に無呼吸テストというものは身体に害がないかということにつきましては、既にその無呼吸テストをやる段階において、不整脈が出現してきたり血圧が低下したりという状況は間々見られるわけでございまして、そういう意味において何らかの侵襲というものが無呼吸テストによって起こり得る可能性というものを全く否定することはできない。  したがって、それだけに、竹内基準によるところの脳死判定というのは、先ほど述べましたように、蘇生の可能性がわずかでもあり得る症例に対しては行わない、そしてその上で、これについてはやはり、この段階ではまだ御家族と呼んでいいかと思いますが、との間におけるインフォームド・コンセント等々が当然必要ではないかというふうに思っています。
  130. 山本孝史

    山本(孝)議員 委員今御指摘のとおりに、無呼吸テストをやることで死を早めてしまうのではないかということで、医療現場の中では、救急医療現場で大変問題になっておる。それは、せんだって林先生もおっしゃったとおりです。救急医の何人かの方にお伺いをすると、やはりやりたくない検査の一つだなと。竹内基準の竹内先生自身も、この判定法を何か変えなきゃいけないのじゃないかということを本の中にもお書きになっておられます。  ただ、この質問基本的なところで、なぜ脳死判定をするのですか、なぜしなければいけないのですかというところがあると思うのですね。一つ治療方針の決定であり、一つ家族に納得をしていただくためであり、一つ臓器移植のためであるということですね。大概のところで、実は今、脳死判定をしていても家族に伝えないという状況があるそうです。脳死判定をさせていただきますがと言うと、それは臓器を提供してくださいということと同じですかというふうに家族の皆さんがおとりになるので、家族に伝えないでそっと脳死判定をしているという医療機関もあるやに聞いております。  そういう意味において、今、やはりもう一度考えなければいけないのは、何のための脳死判定なんですかというところをもう一度考えていただいて、こういう検査方法も、よりいい方法が改善されるというか、開発されるように期待をしたいというふうに思っています。
  131. 石毛えい子

    ○石毛委員 脳死状態という定義づけをなさいました対案提案者方々も、やはり何らかの形で判定はせざるを得ないということでございますから、私は、竹内基準は本当に評価の高いものであるかと思いますけれども、蘇生限界点が直近で動いてきているというこの事実、昔動いたのじゃなくて直近で動いてきているというこの事実と、それから、今の論議なども踏まえますと、将来動き得るということも含めて、もっと慎重に考えていただいた方がいいのではないかという率直な私の気持ちといいますか、考えでございます。  それを敷衍すれば、私は新人議員で、この議論に市民としてそれなりの関心は持っておりましたけれども、それほど深くコンタクトしてきたわけではありません。普通の市民としては、恐らく私は関心を持ってきた方の市民だろうと思いますので、それで、何か自分のことをこのぐらいですからと言うのもちょっと何か思いが複雑なのですけれども、これぐらいですので、もう少し丁寧に、時間をかけて審議を尽くす必要があるのではないかということを申し上げたいと思います。  次に、対案提案者の方にお伺いしたいと思います。  今、山本議員は、何のためにというところが重要だというふうにおっしゃいましたけれども、それでは、脳死を人の死としないで移植を進めるというそのメリットはどこにあるのかということを明らかにしていただきたいというふうに思います。
  132. 秋葉忠利

    秋葉議員 私たち法案は、脳死を人の死としないということを明文化してうたっているわけではございません。それについては、人の死については、今までの日本社会に定着した考え方基本にそれを踏襲するという、非常にある意味で保守的な考え方をとっております。したがいまして、社会的、文化的あるいは法律的、この従来の死の考え方にのっとったさまざまな局面において混乱が少ないだろうということは当然のことだと思います。  それからもう一つ、先ほどから出ていますけれども脳死を人の死としない、そう考えたくないという人が三割、四割、五割、何割いるのか、その理解度はどうかというような問題もありますけれども、そういった皆さんに対して、いや、それは違うのだ、あなたが生きていると言っても、法律は、もう死んだというふうに法律でいうのだから、その法律に強制されて、あなたは自分の死の概念を変えなくちゃいけないのだというような押しつけがましい強制はしなくて済むというメリットがございます。  これは、例えば六対四とか数字考えると、六対四、六の方が重いように聞こえるかもしれませんが、実は、人の死ではない、生きているというふうに考え状態を死だと言われて強制される際の人間の心の苦しみ、痛みと、あるいは死んだというふうに自分では思っているけれども、周りの人は、あるいは強制力をもって、それは生きているのだというふうに取り扱われた場合の痛みというのは質的に全く異なります。  事実、精神病の中で一番多いものの一つとして挙げられているのが、生きている状態で死人として扱われる、それに対する恐怖というのが精神医学の教科書には必ず出てまいりますけれども、それほど根源的な人間の恐れといいますか、そういったものを法律によって強制しないというメリットがございます。  もう一つあえて挙げさせていただきますと、それに関連して、恐らく、脳死を人の死としない方がドナーの数がふえるのではないかというふうに思います。  仮に臓器移植をする意思を持っている人がいたとして、もともと脳死は人の死なんだというふうにもう自分の心の中で決めている人にとっては、いや、それは生きているんだよと言われても、別に臓器移植を、それじゃ生きているのだったらやめようというふうに考える方は恐らく少ないだろうと思います。  逆に、臓器移植ドナーになりたいという気持 ちがあっても、それは、自分では生きていると思っている状態で死なんだというふうに決めつけられてしまって、どういうふうに扱われるかわからない、物体として扱われるのは嫌だという人は恐らく臓器移植はしないだろうと思います。  それが、いや、そうではないのだ、それはやはり生きている状態として、人間基本的人権が保障される状態なんだという安心感があれば、だったら自発的な行為としてドナーになろう、そういうふうに考える人が多いのではないかと思います。これは、インフォームド・コンセントが十分に行き渡り、個人として自立した論理的な考え方ができる、いろいろな強制力がない、さまざまな条件がついていますけれども、恐らく、理想的な状態ではドナーはふえるだろうというふうに考えております。  その他については、また継続の質問があるようですので、その中でも御指摘させていただくことができると思います。
  133. 石毛えい子

    ○石毛委員 時間がありませんので、私も感想を申し上げたいのですけれども、それは割愛させていただきまして、そして、質問も飛ばしますのでよろしく御配慮いただきたいと思います。  原案提案者にお伺いしたいと思います。  脳死判定の開始にも家族の同意が必要だというふうに考えますけれども、この点はいかがでしょうか。判定でございます。それから、それは家族に説明する義務があるのかどうか、また、家族はその脳死判定を拒否することができるかどうか、この点はいかがでしょうか。
  134. 五島正規

    五島議員 先ほど無呼吸テストについても申し上げたわけでございますが、脳死判定に当たりましては、家族の同意を要件としたり、家族脳死判定の拒否権を認めるということについては、心臓死脳死の「選択権を認めることは、本来客観的事実であるべき「人の死」の概念には馴染みにくく、法律関係を複雑かつ不安定にするものであり、社会規範としての死の概念としては不適当なものと考えられる。」と、脳死臨調では述べています。基本的には提案者もそのように考えています。  しかしながら、脳死を人の死と考えることにちゅうちょする人々がおられることに対する配慮も必要であり、そういう意味においては、平成六年一月の、臓器提供手続に関するワーキング・グループが策定いたしました脳死体からの臓器摘出の承諾に係る手続についての指針骨子の中で、「脳死判定に当たっては、不可逆性の確認を終え死亡を確認するまでに、家族に対して、脳死判定脳死が人の死であること等について説明が行われ、脳死に関するこれらの事項について理解が得られているものとする。」というふうに述べられていることもあって、「診断にかかわる行為は、担当医および担当チームによって患者親族に対する十分な理解と説明のもとに行われるべき」ものであるというふうに、平成六年四月に救急医学会も策定いたしております。  そういう経過もございまして、現実には、脳死判定に対して家族理解が得られることが大切である、そのためには、説明を行うことは脳死判定にかかわる医師にとって大変重要なことであるというふうに考えています。
  135. 石毛えい子

    ○石毛委員 重要なことというふうにはお伺いしましたけれども五島先生、大変たくさん御説明くださいましたので、私が全部きちっとお伺いし切れなかったと思うのですけれども、結局は、脳死判定に関しては説明の義務はまだないということで原案はお進めになるというふうに理解させていただいてよろしいでしょうか。
  136. 五島正規

    五島議員 現在、救急医学会が策定した中身、これは救急のサイドにおける措置でございますから、救急医学会自身が策定した「脳死患者への対応脳死体からの臓器移植について」というスキームでございますが、その中で、「担当チームによって患者親族に対する十分な理解と説明のもとに行われるべき」というふうに義務規定を掲げております。  そういう意味においては、御指摘のように、法律の中に書くという問題とは違うとしても、そのことが現状においては、やられるであろうし、必要なことというふうに考えています。
  137. 石毛えい子

    ○石毛委員 それでは、今の問題に関連する質問を次に、また質問一つ省略いたしまして、両案の提案者に伺わせていただきたいと思います。  脳死あるいは脳死状態判定の手続について、両法案とも省令に委任していると思います。その基準自体は医学の進歩とともに変わっていくと思いますから、省令委任というのはあり得ると思いますけれども、少なくとも臓器移植に関しては、両法案ともに、きちっとした手続をどうするかということが規定されていないというふうに思います。  前回、私の質問に対しまして五島先生は、複数の医師、具体的には二人以上というふうにおっしゃいましたけれども、私は、二人ではだめなんだというふうに思います。つまり、二人というのは意見が同意しやすいというか、要するに、対抗意見が入るといいますか、その確率がかなり含まれているという、そうした合意の形成が必要なんだろうというふうに思います。そういう意味で、最低でも三人以上の医師、そして外部の専門家等が入ってこの手続をきちっとしていくべきではないだろうか。  と申しますのは、もう時間がありませんので最後の質問を割愛しなければなりませんが、ちょっと付随して申し上げさせていただきますと、私たち普通の市民が思っていますのは、医療が全部、大変失礼な表現を使わせていただいて恐縮ですけれども、密室で行われていることに対する根強い不安感、あえて強調すれば不信感というようなものがあって、すっきりしないという思いがずっと残っているわけです。ですから、そこをどう解くかということのベースがないと、科学的にどうのと言われましても、ずっと議論になっていましたように、社会的、文化的に人は物事を決定していくわけですから、なかなか同感できない、共感できないという問題が残ります。  私は、この法律の中でもっと手続をきちっとしていただきたい、少なくとも臓器移植に関しまして三人以上、あるいは脳死判定に関しましても三人以上というような、そうした丁寧な決定が必要ではないかというふうに考えておりますけれども、両案の提案者の方に御回答いただければと思います。
  138. 五島正規

    五島議員 脳死判定に関しましては、「一般に認められている医学的知見に基づき厚生省令で定める」としております。その意味は、判定基準判定方法というようなものは極めて性格上専門的、技術的な事項でありますので、それをすべて法律規定することは妥当ではないのではないかと考え、その方が医学の水準の向上に即応した判定方法になるものというふうに考えています。  いま一つ、三人以上という問題の御指摘もあるわけでございますが、脳死判定というのは、救急救命あるいは脳外科の現場において、みずからの医療の敗北の認定として行われるわけでございまして、移植のサイドで行われるわけではございません。言いかえれば、お互いに極めて医学の専門性において対立する相手側の中において、複数の医師において行われるということは非常に大きな意味を持つと思っております。そういう意味におきまして、この分野における複数の医師による、しかも移植に利害関係を持たぬ複数の医師が参加するということはこうした性格を担保するに十分ではないかというふうに考えています。
  139. 秋葉忠利

    秋葉議員 竹内基準判定に関しましては、先ほど同僚の山本議員の方から説明をしたところですけれども、現場の皆さんの経験ともあわせて考えてみますと、竹内基準判定そのものについては、ある程度の臨床の経験があればそれほど難しい検査をするわけではない、余り大きく意見が変わるところではないというような認識がございます。  その観点から考えますと、竹内基準の二人というところで十分かなという気もいたしますけれども、ただ、質問の御趣旨の、医療現場にある、あ るいは医療界に対する漠然とした不信感といいますか、あるいは幾つかの事件があったりして、そういったものがありますが、それを医師それから患者、そして国民全体でより健全な環境をつくるために、例えば第三者機関が必要ではないか、そういった御提言だと思いますけれども、そういった御趣旨を十分生かすような方向で、改めて、この判定の際だけではなくて、さまざまな場面においてきちんとした第三者の意見が入るといったような方向で検討をしていきたいと思います。  いろいろな問題提起を、続けてよろしくお願いしたいと思います。
  140. 石毛えい子

    ○石毛委員 時間がもう終わってしまいましたけれども、実は移植に関しても、手続的な規定が両法案とも何にもないというのは、私はとても法律として不思議です、率直に申しまして。ですから、ぜひ両案、十分に協議をなされまして、納得のいく修正といいますか、そこまで持ち込んで採決ということだったらそういうふうにしていただきたい。両法案に、私は、市民感覚、あるいは自分が病人を抱えた家族になった場合、こんなことで進められたら移植だって納得できないという思いが残るということを率直に申し上げさせていただきまして、質問を終わりたいと思います。  ありがとうございました。
  141. 町村信孝

  142. 瀬古由起子

    ○瀬古委員 日本共産党の瀬古由起子でございます。  私は、原案、中山案について御質問させていただきます。  先日行われました参考人の質疑の中で、脳死を人の死とすることを法律で定めることへの疑問や慎重論が大変多く出されました。広島大学の魚住名誉教授からは、「移植のために脳死者のすべてを死者とみなすのであるということを法律で決めるということに対して、反対、疑念、ためらい、あるいは嫌悪感、そういうものが非常に深く内在するのではないか。」こういう御意見がございました。また、日本大学の林教授からは、「法によって医学的死の限界を決めることは、我々患者を助ける医療人にとっては、非常になじみにくい、疑問が残る方法でもある」、このように言われておりました。  長年にわたって医療の前進に尽くしてみえたこれらの医療専門家の方々の御意見だったわけですけれども、これらの意見提案者の皆さんはどのように受けとめてみえるでしょうか、お聞きしたいと思います。     〔委員長退席、住委員長代理着席〕
  143. 山口俊一

    ○山口(俊)議員 お答えをさせていただきます。  先日の参考人からの意見聴取におきましては、確かに委員指摘のとおり、いろいろな御意見がございました。ただ、私ども提案をさせていただいております法案に御理解を示す方と同時に、対案に対しても御理解を示す方も参考人として選ばれております。そうしたことからさまざまな御意見が出たのであろう。参考人の皆さん方の間で意見の一致がなかった結果とも相なりましたけれども、これはまた当然のことでなかろうか。いろいろな各委員会参考人招致を見ておりましても、そういうことであります。  ただ、御指摘の、いろいろな御不安といいますか、いろいろなお気持ちがあることも事実であります。私どもとしては、脳死をもって人の死とすることにつきましては、幾度となくお答えをしておりますように、脳死臨調答申におきましても、あるいはまた近年各種の世論調査等を見ていましても、国民の皆様方の脳死についての御理解、これは逐次深まりつつあるのではないかというふうに判断をいたしております。  同時に、医学界におきましても、御存じかもわかりませんが、日本医師会生命倫理懇談会あるいは救急医学会あるいは日本医学会等におきましても、脳死を人の死と認める見解がまとめられておるところでありまして、医学界としても脳死は人の死と認められておるものと考えております。  ただ、現在の日本のように価値観が多様化していく、いろいろな御意見がある、それをどのように集約をしていくかということが非常に難しい問題であることも確かであります。そうした中で、最近の世論調査を見ておりましても六十数%、あるいは少し前のでも五十数%等々、そこら辺の方々の御意見に集約を図るといったことも私どものまた役割でもなかろうか。  同時に、御理解をいただきたいのは、脳死というのは御承知のとおり一%、つまり百人に一人の方がそうした脳死ということで死を迎えられるわけでありまして、そうした方々、いわゆるそうした死もお認めをいただきたい。圧倒的多数はこれまでのような三徴候死の死に方をなさるわけでありますが、そうした多様性を認める社会といったことも考えていかなければいけないのではないか、そんなふうに思っております。  いずれにしても、我々提案者といたしましては、脳死をもって人の死とすることについては、おおむね社会的にも、あるいは医学界としても受容され、合意をされておると考えておりまして、このような考え方を前提として、今回、このような法案を出させていただいておるところでございます。
  144. 瀬古由起子

    ○瀬古委員 このさまざまな、多様な考え方というのがあるからこそ、こういう問題は本当に慎重に考えなければならないし、法律が一たんつくられると、それは全国民を縛るものになるわけですから、その点でも、私はやはり、この参考人質疑の中で、とりわけ日本の第一線、第一級で働いている専門家の皆さんの中からこの法律をつくることに大変疑問が出たということについては、改めて、この参考人質疑を得て、一層この委員会審議も慎重にしなければならないのではないかということを痛感した次第です。  では、質問させていただきます。  実は、この原案、中山案についてなんですけれども、三月二十五日の委員会で、知的障害者や子供の場合、このときには、書面による意思表示が難しい場合は「公正な第三者の審査機関の設置が必要」、このように御答弁されました。これは、先ほど午前中にも子供の問題が出されておりまして、慎重にその意思能力を個々のケースごとに判断していくという、このような御見解もございました。  これは実際、子供それから知的障害者の場合にはどういうふうに考えてみえるのでしょうか、第三者審査機関というのを設けるというおつもりなんですか、それとも全く別個な形でやるというふうにお考えなんでしょうか。
  145. 山口俊一

    ○山口(俊)議員 お答えをいたします。  これも午前中、子供ということで御議論があったのは先生指摘のとおりでございます。この法案に基づく臓器提供の意思表示、これが果たして妥当有効なものか、これを判断をするためには、意思表示を行う本人が臓器提供というか臓器移植に対して十分な理解があるということと同時に、本人がみずからの意思によってきちっと判断をしたことなのかどうか、これをはっきりしなくてはならないわけでありまして、ですから、その意思が本人の書面によって明確になるというふうなことを申し上げておるわけであります。  また、御指摘の知的障害者あるいは子供につきましては、ただその意思をすべて一律に無効とすることには、確かにこれまた問題があろうと思うわけでありますが、その意思の確認等、その扱いにつきましては慎重の上にも慎重を期すということでやらなくてはいけないであろうと思っております。  有効な意思表示と認めるためには、本人の書面による意思表示がある、これがもちろん前提でありますが、本人が意思能力を有しており、主体的に臓器提供の意思を表示したことが十分確認をされなくてはならないというふうなことから、そうした方策を考える際の一つの案として、第三者による審査機関の設置を挙げさせていただきました。  同時に、御存じのとおり、今実は私も知的障害者のいろいろなお世話をもう二十年来やらせていただいておりますが、やはり御父兄といいますか 親御さんの一番の心配は、自分が亡くなったときに子供たちの権利がどうなるのだろうか、財産がどうなるのだろうかというふうなことがございます。そうしたことを受けて、実は、御存じかもわかりませんが、法制審議会において後見人制度の見直しというのをやっております。またそこら辺の見直しの過程も見ながら、我々としても慎重の上にも慎重を期すというふうなことでやらせていただきたいと思っております。
  146. 瀬古由起子

    ○瀬古委員 今御答弁いただきましたけれども、慎重の上にも慎重を期すということなんですけれども、条文には、「死亡した者が」「意思を書面により表示している場合」というふうにきちんと書かれているわけです。そうしますと、こういうケースに当てはまらないものがあるのだといって、どんどん拡大解釈していきますと、例えば障害者の場合は、本人はうんと言っていたぞとか、あらゆる条件の障害者や子供についてもこれは拡大解釈される可能性は大変大きいのではないか。そういう点で、私は大変重要な問題ではないのかというふうに思うのですけれども、いかがでしょうか。
  147. 山口俊一

    ○山口(俊)議員 そこら辺は、先ほども申し上げましたように、十分認識をいたしておりますので、そうしたこともあって、第三者機関云々というふうなお話を申し上げさせていただきました。  重ねて申し上げますが、ともかく慎重の上にも慎重、もしくは、むしろどちらかといいますと除外をしていくといいますか、とりあえずはそちらの方向で考えた方がいいのではないか、私はそう思っております。
  148. 瀬古由起子

    ○瀬古委員 私は大変この問題は重要な問題だと思うのです。障害のある子供をお持ちの関係者の皆さんからも大変不安が出ているところなので、この辺は私は重要な問題だと思っています。  最後ですけれども脳死判定がなされた後の脳死体について、例えば外国では人体実験を行うケースがあるように伺っている、そういうように委員会でも答弁されたことがありますけれども、例えば、これがもう脳死体だというふうに判断された後、本人から献体などの申し出があった場合には、その脳死体について人体実験ができるのではないかという疑念がございますが、その点の歯どめといいますか、担保はどういうようになっているのでしょうか。
  149. 山口俊一

    ○山口(俊)議員 これも以前お答えをしたことがございますが、御承知のとおり、この法案というのはあくまで臓器移植目的といたしておりまして、臓器移植に関連のない解剖、医学研究につきまして定めたものではございません。同時に、御承知のとおり、献体につきましては、医学及び歯学の教育のための献体に関する法律、この中に「身体の正常な構造を明らかにするための解剖」というふうに献体の趣旨がきちっと定義をされておりまして、この目的以外には使用されないものというふうに承知をいたしておりますし、また、解剖等につきましても、死体解剖保存法の中でその目的等についても規定をされております。  このように医学研究や教育を目的として臓器等を使用する場合には、それぞれの関係法律の中でその目的とか定義、承諾手続等が定められておりまして、法律で定められる範囲以外、例えば人体実験という趣旨での使用はなされないものというふうに理解をいたしております。
  150. 瀬古由起子

    ○瀬古委員 実際には、いろいろな法律があっても、また新たな、脳死を人の死とするということが決められますと、それがひとり歩きするということも十分あるわけで、そういう点でも、私は、本当に慎重に慎重を期すということが大変重要だというように思っております。  特に、こういう法案の持つ重要な問題とともに、専門家の中でも脳死を人の死とすることについても随分慎重論がありますし、また国民的な合意という問題におきましても、先ほど五割、六割の人たちというお話がありましたが、しかし、その五割、六割という人たちについても、脳死そのものについてどれだけ国民の中に十分理解されているかというと、先日、テレビでも放映されていましたが、脳死と植物人間との違いが余りよくわからない場合とか、やはり十分な情報が提供されていないという問題があると思います。そういう意味では、私は、この問題についてはより慎重に審議されることを願って、質問を終わりたいと思います。  ありがとうございました。
  151. 住博司

    ○住委員長代理 児玉健次君。
  152. 児玉健次

    ○児玉委員 日本共産党の児玉健次です。  最初に、中山案に関連してお尋ねをしたいと思います。  いわゆる金田案提出される前の段階から、党議拘束を外すという議論を先行させて進められたのは中山提出の皆さん方ですから、そういう意味で御質問をします。  答弁に立たれる方の場合で結構なんですが、あなたが所属される政党に臓器移植について何らかの党議が存在しているでしょうか。党議があるかないか、あればどんな中身か、それを聞かせてください。
  153. 桧田仁

    桧田議員 個人的なということでございますから、私所属の自由民主党では、党議はございません。
  154. 児玉健次

    ○児玉委員 ないことがわかりました。  そこで、同一の政党の中でも見解をまとめることができないこの重要な問題、先日来、それが一人一人の死生観にもかかわり、そして心の内面に深く根差す問題でもある、この点では、私たち、皆さんと一致していますね。そういう問題について、これを法律にして国民を拘束することができるのかと前回伺いましたら、この点についてのお答えがなかった。きょうは、この点についてお答えを求めます。
  155. 桧田仁

    桧田議員 確かに党議にはございませんが、一人一人の死生観ということももちろんございます。それから、私ども一人一人、国民の代表として自分たち判断で物事を決めるという負託も受けているわけでございますから、この問題は、当然、いろいろな御議論がある中から、一人一人の議員の本当に個人の信念のもとに判断していきたい、そのように考えております。
  156. 児玉健次

    ○児玉委員 党議がないことは今明らかになりましたし、そして、一人一人がさまざまな幅でもってこの問題を真剣に考えているということについてもお話があった。そのような問題を法律にして、その法律が動き出した瞬間に、これは国民を拘束することになるし、答弁者であるあなたをも拘束することになります。私は、その点については深い論議をさらにしなければならない、この点を述べておきます。  次に、金田誠一君外五名提出法律案についてお伺いをします。  現在の日本社会において、脳死をもって人の死とする、このことに関して国民的な合意がないという点で、提案者と私は意見が一致しております。  それから、世界臓器移植医療において、法律の制定が先行したのは、先進国においてはデンマーク、国民投票を行いました。ちょうどそのとき、私はデンマークに滞在しておりまして、国民の合意を形成するということでどのくらいスケールの大きい努力をなさったか、それも文字どおり例外ですね。多くの国においては医学界の自己責任により実績が重ねられてきた。こういう事実認識においても、提案者の皆さんと私は一致しております。  金田案は、脳死状態を生きている状態となさって、その身体からの臓器の摘出を正当なものとなさっていると私は理解しております。この八日の参考人からの意見聴取で、きょうもさまざまな議論がございましたが、例えば日本大学の林成之教授、「医学の進歩とともに脳死も細胞レベルの点まで含めて考える時代に入ってきた」こういうふうにお述べになりました。これは私にとってやはり非常に強い刺激でした。そして、柳田邦男氏は、「脳死臨調は八〇年代の知見をもとに議論しておりますが、九〇年代になってから、先ほどの低体温療法とか、いろいろな新しい知見が出てま いりましたし、データも出てまいりました。」こうも発言なさいました。  そこで申したいのですが、現在、提案者や私、文字どおり私たちに与えられている条件、私たちに付与されている条件のもとでは――この付与されている条件自身が今変わり始めているし、そして、この後大きく変わる可能性を秘めているというのが、八日の参考人からの御意見でもあったし、私たちの論議の中で既に明らかになっている問題です。ですから、私はあえて現在の所与の条件ではと限定的に申します。現在の所与の条件では、金田案が生きている状態とお認めになる身体からの臓器の摘出は、その患者を死に導くことであり、たとえその患者の生命を救いたいという生前からの明示された御意思に基づくものではあっても、結果として人の生命に軽重の差をつけることにつながりはしないか、私はこれを認める見地に立てない、これが第一の点でございます。  そして、二つ目の点は、脳死問題について国民的な合意が存在をしていない、そして、脳死判定自体について今さまざまな議論が具体的に展開されつつあります。まさに八〇年代の知見とは違った知見が今生まれようとしています。脳死判定の科学性、厳密性、そして脳死判定が公正に行われるか否か、そのことについて国民が不安を持っている現状法律の制定を進める、結果として法律の制定を急ぐ、そういう点では中山案と同じ役割を果たすことになるのではないか。  この二点について提案者の御見解を伺いたいと思います。
  157. 枝野幸男

    枝野議員 児玉委員の御指摘のような、人の生命に軽重をつけることにならないかという御指摘は、私どもいろいろなところから伺っております。確かに、ドナーとレシピエントとを比べたときに、そこに軽重をつけて片方の臓器を摘出することを認めているのじゃないかというふうなとらえ方をされる部分があるのは事実であります。  しかし、私たちが、生きている状態から臓器を摘出して死期を早めるというような場合もあることを法的に許容することができると考えましたのは、いわゆる二つの利益、生と生、命と命という利益を比べた結果としてそれが許されるという判断を導いたものではございません。  人間の命を含めた個人の尊厳というものを考えたときに、基本的には、それぞれの意思に基づいて自己決定をする、自分の生き方を自己決定をするという権利が私たちには持たされています。ただ、通常の状態では、自分の命を絶つという形での自己決定権は許されておりません。これは社会全体の通念として、命を絶つという以外の方法で、生を持つ、生を長らえるという形の中で自己実現を図る、自己決定によって自己実現を図るということこそが個人の尊厳にかなうものであるという社会的な判断からだというふうに理解をしています。  ただ、そうした中で脳死状態というものが、少なくとも、医学的にいろいろな言い方はありますけれども脳死状態としてしっかりとした判定のなされた状況以降においては、再び生あるものとして通常の自己実現、自己決定権に基づいた自己実現というものをなし得る状況に戻らない。脳死状態に入った段階で、自己実現をできる手段というものは、まさにみずからの臓器を提供するという形で他の命を救うという部分に、個人の尊厳、自己実現というものを実現をするための手段というものは限りなく限定をされている。そういった中では、まさに自分の命を縮めるというような自己決定というものも法的には許されるのではないか。  そういった考え方でありますので、人の命に軽重をつけるということにはならないと思いますし、そうした考え方に基づいたこの法律ができました場合においても、脳死判定の公平さその他への不安というものについては、むしろ、脳死判定を受けて臓器を摘出をされる者も、それが死体、遺体、物ではなくて基本的人権を享有している人間であるという基本線の中で、そうした不安については他のもろもろの法律の保護の中でしっかりと維持できるのではないか、私どもはそう考えています。
  158. 児玉健次

    ○児玉委員 金田案の準備をなさった過程で、脳死をもって人の死としないというそのことを法律の中で貫きながら、なおかつ、先ほど言いましたように、医学界が先に実績を重ねて、そしてその後、国民の信頼も形成され、必要最小限度の法律が後から追っかけていく、そこを恐らく皆さんは好ましいとお考えになりながら、今の段階で何らかの立法の御努力をなさった、そのことを私は少しは理解できます。  それであえて申したいのですが、今私が所与の条件と申したこと、すなわち、国民の合意ができているかどうかについて、これは意見が一致していますよね。そして、脳死判定自身が変わり得る、この点も私は恐らく余り大きな意見の違いはないだろうと思います。私が言っているのは所与の条件、限定的に申しているのです。今私たちが置かれているこの状況のもとでは、条件のもとでは、法律にして事を進めるという点では中山案と結果として同じことになりはしないか。生命の軽重ということも、私は即物的な意味で述べているのではないのです。あくまで所与の条件においてという意味で述べているので、その点、いかがでしょうか。
  159. 金田誠一

    金田(誠)議員 児玉委員、前段おっしゃっておられました、本来であれば、メディカルプロフェッションというのでしょうが、先般の参考人の御所見にもございましたけれども、そういう形でこの移植医療というものが国民の信頼を得てはしかったなという思いは強うございます。そして、改選前の国会の中では、法案に疑問を持つという立場で、共産党の皆様も含めた一つの会をつくってきたということも御承知のとおりでございます。  しかし、今の段階でどう対処すべきなのか、私ども、正直、考え悩んでまいりました。そして、国民の皆様の目には、どうも私ども臓器移植反対をしているのだ、賛成なのか反対なのかという映り方をしているようだ、こう認識をいたしました。  しかし、そうではない。その所与の条件なるものが本来もっと整備をされて信頼感が醸成される中で、過渡期の医療とは言われながらも祝福される移植医療というものを私は目指してほしいな、そして、医学界が中心となってそういうものを目指す、それに対して立法府としてすることは、脳死を人の死とする立法をすることではないのでないだろうかなという考えで来たわけでございます。  しかし、申し上げましたとおり、その経過の中では、臓器移植賛成反対か、そういう問われ方がされるということは、これは不本意でございます。そういう意図ではございません。本来であれば、どのような形の中で臓器移植がなされるか、臓器移植を前提としてその実際行われる形態を問いたかったわけでございます。そういう選択肢国民の皆様の前に示すことができるとすれば、今の段階に至っては、脳死を人の死としない、そこだけはきちっと踏まえた上での臓器移植法案を提出せざるを得ないという立場でございます。  これにつきましても、またさまざまな曲折がございました。脳死臨調議論から始まれば、梅原先生あるいは原先生少数意見が明記されたというところから御努力が始まったと思うわけでございますが、それと並行して日弁連が御自身の案を提出されたという社会的な積み上げがあって、そして私ども法案があると思うわけでございます。そうしたプロセスがなければ、法制局との対話をいろいろいたしましたけれども、今審議の中で指摘されましたような問題点をクリアする上での理論構成、まず提供の意思から出発をする、生命に軽重をつけるのではなくて、みずからの生命を完結させるという論理構成そのものも私どもの力だけでは構成し得なかったのかなという思いでございます。  そしてもう一つ残念なことは、この論理構成が 脳死臨調を受けた各党協の中でもし行われていたとすれば、立法の道は二つある。一つ脳死を人の死として規定する方法、もう一つ脳死状態脳死状態として移植を可能にする道と、二つある。そのどちらを選ぶかという議論がされていたとすれば、私は、繰り返しになりますが、もっと違う議論国民的に起きたのではないか。この場の議論も、いずれかの道を選択するに当たっても議論されたでしょうし、そしてそのいずれを選択しても、もっと奥行きのある、所与の条件なるものがもっと深められた議論がされたのではないかなという思いで実は残念なんでございます。  しかし、今時点としては、脳死移植の賛否を問うというような世論を払拭できるとすれば、脳死状態を死と規定していいのかどうかという問題提起をせざるを得ないという立場での提案でございます。
  160. 児玉健次

    ○児玉委員 終わります。
  161. 住博司

    ○住委員長代理 秋葉忠利君。
  162. 秋葉忠利

    秋葉委員 中山案の提案者方々に御質問いたします。  中山案と金田案の最大の違いは、もちろん、脳死を人の死と認めるかどうかというところであります。この両案とも、人の死には脳死もあり、心臓死、これまでの三徴候死もあるというところでは一致しているわけですけれども、その最大の違いは、私たち考えますに、中山案においては、脳死法律によって人の死と決めることによって、それは人の死ではないという人たちに対しても強制力を持っている。それに対して、先ほどから言及がありましたように、九九%の死は従来の死であって一%が脳死である、その従来の九九%をいわば本則として認めた上で、一%の例外は、これは事実上、デファクトと言いますけれども、認めるというのが金田案だと思います。  そこのところで、三徴候死が本則であるから、脳死のところにまでそれを広げるという強制力を金田案は持っておりません。いわば、法律によって決めることによって、一つの死がもう一つの死の領域にまで侵入してしまうというところが非常に問題だと私は考えております。  その視点から質問をさせていただきますけれども、例えば、脳死状態になった、これは判定する以前としてアプリオリにそういう状態にあったという場合の人を考えていただきたいのですが、その人がたまたま臓器移植意思は持っていない、あるいは意思を持っていたとしても年齢上あるいはその他の問題があって臓器移植はできない、そういう状態にあった場合に脳死判定をするのかどうか。脳死判定をして脳死だというふうに判断が下った場合には、その時点で、臓器移植はしない場合であるからということになるのでしょうか、治療はどうするのでしょうか。脳死だから、それは死んだのだから治療はやめてしまうというふうにするのかどうか、提案者のお考えをお聞かせください。
  163. 五島正規

    五島議員 まず結論から申しますと、当面の間、この脳死判定というのは臓器移植のために必要とされているものでございます。したがいまして、御本人が臓器移植意思がないということが明らかである場合、あるいは家族臓器移植を拒否する場合に、あえて脳死判定をする必要はないというふうに思っています。  また、御家族がいないというふうな状況で御本人のその意思が不明である場合、その場合は、医師判断において当然脳死判定を行うということはあってもいいと思いますし、その場合は、その脳死判定の結果、脳死に到達しているということになりますと、レスピレーターを外すという行為はあるだろうというふうに思います。  その前段階として、秋葉先生は、三徴候死と脳死というものを対立的概念としてお話しになりました。既に議員御承知のように、三徴候死、心臓あるいは呼吸、そして脳、この三つの状態が臨床的に確認された状態を三徴候死と申しますが、この三つは相互に排除するものではなく、通常の従来の医学的水準においては、あるいは日常的に我々が遭遇する死においては、この三つは極めて速やかに同時的に起こってくる。それが、脳傷害の患者さんなどでは、レスピレーター等により延命効果が得られた場合、そして救急救命医療が行われた場合でも、その治療の敗北として脳死というものが起こるということでございまして、脳死というものと三徴候死というものは対立する二つの死の概念であるというふうには思っておりません。
  164. 秋葉忠利

    秋葉委員 お言葉を返すようで恐縮ですが、対立する概念として、九九%の死は心臓死であり、一%が脳死であるということをおっしゃったのは提案者の側が先でございまして、私はそのことを引用して、それをベースにして質問をしておりますので、今の御説明は提案者の中でまずきちんとやっていただければと思います。  それで、今の点についてですけれども脳死判定臓器移植意思のない人には行わない、それは大変結構だと思いますけれども、その意思があるかどうか判然としない場合には、これはお医者さんの方の判断に任されるということですけれども、それでは、当面ということではなくて、これは一つ基本的な原則として伺いたいのですけれども、自分の体に対して脳死判定はしてほしくないという宣言をする権利は万人に保障されているというふうにお考えでしょうか。それは、言えばいいわけですから、書面に残しておく、その他いろいろな形があると思いますけれども、その宣言をした場合に、医師側ではその宣言あるいはその意思をどの程度尊重してくださるのか、その点を伺いたいと思います。
  165. 五島正規

    五島議員 基本的な、原理的なものとして、そのような宣言が未来永劫有効であるというふうには全く考えておりません。  ただ、この法律に基づいて申し上げるならば、臓器移植というものについては、本人の意思が何よりも優先され、そして御遺族の合意というものが必要です。そしてなおかつ、同時に、脳死に至ったとしても、家族がその治療を望む場合はレスピレーターを外さないということが前提となっております。したがいまして、この法律の範囲の中という状況に基づいて言うならば、そのような意思が明確であるならば脳死判定は行われないものというふうに考えております。  なお、対案者の中において、九九%までが心臓死であり、脳死が一%であるという意見があったということは、死の直接原因としての症状、所見に基づいて言っているわけでございまして、三徴候死の中には脳死は含まれるということでございます。すなわち、心臓死によって脳死が起こることもあり、呼吸死によって脳死が起こることもあり、そういう意味において脳死と三徴候死とが対立する概念ではないということで申し上げました。
  166. 秋葉忠利

    秋葉委員 その点は十分理解しているつもりでございます。  もう一度整理をさせていただきますと、中山案にある生前の意思の表示ということですけれども、我々の場合には、生前という意味ではありませんので、事前の意思表示ですけれども、これは臓器移植をする、しないという、表面上はその意思表示に見えますけれども、今のお答えを総合いたしますと、実は、脳死判定をするかしないか、してもよいかどうかという意思表示を個人個人が事前に行う、脳死判定をしてもよいというふうに言われた場合には脳死判定ということに至るけれども、それ以外の場合はしない、その結果として臓器移植に至る場合もあれば至らない場合もある、つまり、臓器移植判定が一体のものである、意思表示はその一体のものとしての臓器移植判定に対して行われるというふうに理解をいたしましたが、それでよろしいのでしょうか。
  167. 五島正規

    五島議員 ですから、先ほど申しましたように、原則として、患者本人がそれを拒否した、脳死判定を拒否したという場合、患者に脳死心臓死かの選択を認めることになります。そうなりますと、臨調答申にもありますように、本来客観的事実であるべき死の概念ということから考えますと、恐らく、非常に法律関係を複雑に不安定にす るものであって、社会的規範としての死の概念としては不適当ということは言えるかと思います。  ただし、実際の医療現場において、また現実のこの法律の中においては、脳死判定する際には、運用上、脳死判定を終えるまでに脳死についての理解を得られるように家族に対して必要な説明を行うことにしている。そういうふうな状況の中からいいますと、この問題につきましては、家族あるいは本人の意思があるとするならば、その本人の意思というものを最大限尊重する。言いかえれば、御本人が心臓死を選ぶということであれば、この法律の範囲の中においては、現実には選択できるという矛盾を抱えているということになるかと思います。
  168. 秋葉忠利

    秋葉委員 矛盾があることもよくわかりました。  いずれにしろ、臓器移植意思表示をしない限り脳死判定は行われないということですから、これは、脳死判定臓器移植に対する意思とは表裏一体の意思表示であるという結論に論理的にはなるということを御確認いただけたと思います。  もう一つ心臓移植に関して重要な視点があると思うのですけれども、それは、レシピェント側、つまり心臓移植を受けた患者さんの側で、実際に心臓移植を受けた後の方が心臓移植を受ける以前に比べて健康状態がよくなっているかどうか、その評価がやはり必要だと思います。  ほとんどのデータは、例えば手術後一年の生存率が何%であるというような形で表現されておりますけれども移植一年後の生存率が非常に高いというデータがそもそもあって、そういった患者さんたち心臓移植手術を行った結果、それよりも生存確率が悪い、あるいは、事実として一年経過した際にその生存率が以前よりも低くなったということになると、臓器移植の効果そのものが問題視されなくてはなりませんけれども、こういったことについて、個々の患者さんについて、術前よりも術後の方が健康状態がよくなったのだということを示すような具体的な、科学的調査によるデータというのは実際にあるのでしょうか。あるとすれば、大体傾向としてどんなものか、お教えいただければ大変ありがたいと思います。     〔住委員長代理退席、委員長着席〕
  169. 五島正規

    五島議員 今の御質問の前に、私の答弁を誤解されて受け取られているようでございますので、訂正させていただきます。  臓器移植を前提として脳死判定が行われるということが原則でございますが、医師家族に対して脳死に至っている可能性を説明することは、当然、患者の状態の説明としてあり得る話でございます。  その際に、家族の方から、それでは脳死判定をしていただきたい、そして、もう既に死の段階に至っているものであるならば速やかに医療の措置を中止してほしいという要望があり、そして、御本人にそのことについての何らの具体的な意思表示がない場合に、そのことを医師脳死判定することについて禁止しているとか、それをしてはならないというふうには考えておりませんので、念のために申し上げておきます。  そして今御質問の、治療によるところのいわゆるQOLの改善の問題でございますが、国際的な関係学会によりますと、手術前には歩行することもできず寝たきりの状態の人たちが、移植後一年目で、これは心臓移植の場合ですけれども、約七〇%の方が心不全はなく、全く無症状の状態まで回復しているとの報告がございます。また、米国研究者などの報告によりますと、心臓移植を受けた方の八〇%以上が社会復帰され、特に、そのうちの四〇%以上の方が終日勤務ができるまで回復されているという報告がございます。
  170. 秋葉忠利

    秋葉委員 質問時間が終わりました。終わります。
  171. 町村信孝

  172. 中川智子

    中川(智)委員 社会民主党・市民連合の中川でございます。  私は、この中山案というのを最初読みましたときに、ずっと去年の秋までは、先ほどの話の中でよく出てまいります、一国民として、国民的合意の六〇%に入っていたのか入っていないのか自分でもよくわからない、どういうふうなところで合意がなされているのかというのが不思議だなと思って先ほどから国民的合意という言葉を聞いていたのですけれども中山太郎先生がお出しになった法案を読んで、その説明を厚生省の方から伺ったときに、ああ一日千秋の思いで待っている人がたくさんいるんだなとか、こういうときに私の臓器を上げないなんと言ったらけちだと思われるだろうなとか、そういうふうな感じで、とてもとても、優しい心を持っているか優しい心を持っていないかみたいなところでしか、そのような情報しかやはり国民は今得ていないということをまず最初に話したいと思います。  また、とても大切な法案、人の死を法律で決めるというこの大切な審議の中で、これだけの参加者であり、今、部屋でテレビにかじりついて一生懸命見ている議員がどれだけいるかな。本当におつき合いで、中山太郎さんが歩いていて、廊下ですれ違って、よろしく頼むよと言われたら、はいはいというふうな認識の方がとても多いし、金田先生が歩いていらして、よろしく頼むよと言われたら、じゃお友達だからというふうな、そのような形、本当に実際これでいいのかな、こんな大事なことが話されていることに対して、これぐらいの時間で採決に持っていくということに対して本当に不安を覚える、とても恐怖を覚えるということをまず最初に話させていただいて、質問に入ります。  最初に、対案金田案の方に対して伺いたいのです。  私は、脳死を人の死として法制化していくのか、それとも、脳死状態の人から本人の自己決定をもって、それを法律としてなしていくのかというところで、対案が出てきて初めてしっかりと勉強しなければと思ったのです。一つのものが出されてそれだけを見ているときには、ああ、これは大事な法律なのかもしれないというところまでいったのですが、対案が出て初めて問題点が浮き彫りになったのです。  この対案を出された大きな動機、そのあたりの経過をお教えいただきたい。そして、中山案に対する一番の危機感を持つところ、そこをお話しいただきたいと思います。
  173. 金田誠一

    金田(誠)議員 ただいま、対案が出て初めて比較対照して理解を深められたというお話を伺いまして、私ども対案提出してよかったな、国会の中ばかりでなくて国民的な議論もこの対案によって膨らんでいくのではないかなという思いでございまして、ありがたく聞かせていただいた次第でございます。  対案をつくりましたのは三月三十一日でございまして、まだほぼ半月なのでございますが、この半月の間に、手前みそでしょうか、報道機関等も比較対照しながら取り上げてくださる。そういう中で、新聞の投書欄にも意見がちらほら見えるようになる。ようやく議論が始まるなという思いでございまして、ぜひ議論が深まって、いずれに決まるにしても、まずは議論が尽くされていずれかに決まるという方向を望みたいなという思いでいっぱいでございます。  ついては、この対案をつくりました契機でございますけれども、実は私も、お恥ずかしい話でございますが、脳死状態からの臓器移植ということについては全くわかりませんでした。前回の当選まではほとんど耳にしたこともないというような状態でございました。脳死臨調があるということはわかっておりましたけれども、その中で何が争点とされ、それを受けた国会で今どうなっているのかということを、残念ながら、その当時は知らないままでございました。私自身は地方議員もやっておりましたし、この種の問題には人よりは関心を持っていたと自分では思うのですけれども、それでもそういう状態であったわけでございます。  一九九三年の初当選でございまして、そのとき、各党協が行われているということを知りまし た。脳死状態が人の死なのかどうか、それが大きな争点になっておりました。そして、臓器移植の条件として本人の同意、それを文書によるかどうかというあたりも、この脳死は人の死かと同様に大きな争点になっておる。考えてみますと、今日時点まで、この二つがそのまま引き継がれてきていると思うわけでございます。当時はそういう状況でございました。  しかし、各党協の中で、脳死を人の死としなければ法律ができないのだ、したがって、これはもうやむを得ざる選択なんだということが出たやに伺っております。私は、当時、その各党協にメンバーとしては入っておりませんでした。一国会議員として部会に出ていて、その報告を聞いたわけでございます。どうもそれはおかしいというのが事の始まりでございました。その疑問をずっと持ちながら、疑問を持つ会、先ほど来申し上げましたけれども、そういう会を続けてきた。そして、審議も進展することなく、前の国会では廃案となった。その大きなネックになっていたのが、本人の同意、家族のそんたくでいいのかどうかということであったと思うわけでございます。  そして、今回、改選によって新たな国会になり、一部修正された形で提案をされる。そして、その中山先生の案に賛成するのか反対するのか、恐れ入ります、済みません、という問題提起の中で、本当に脳死は人の死なのか、それこそが真に争点となるべきだ、臓器移植の賛否ではないのだ、同じ立場であっても脳死状態を人の死と規定をするかどうか、それを国民議論にもっと付されるべきだという立場で今回の法案提案したということでございます。
  174. 中川智子

    中川(智)委員 もう一つ、いろいろな方が同じ質問をされましたので、通告していないのですが、答えられる範囲できっちりと答えていただきたいと思います。  金田案の方に伺います。  脳死を人の死としないで臓器移植法をつくろうとすると、いわゆる犯罪捜査との関係で立法ができないということをこの間聞いていたのですけれども、先日の参考人招致の質疑を聞いていますと、刑事訴訟法の権威である平野先生から、犯罪捜査との調整について、対案、そちらの方は実にうまくできているというお考えが述べられて、ああそうなのかということで驚いたのですけれども、検視や犯罪捜査との関係については対案ではどのように認識されているか、そこのあたりをお伺いいたします。
  175. 枝野幸男

    枝野議員 普通の場合、人が亡くなって犯罪の疑いがあるときは検視という手続を行います。これは刑事訴訟法に書いてあります。これは、人が死んだときに検視ができるということになっています。したがって、脳死状態、例えば交通事故などで脳死状態になっている方は生きていますから、検視の対象にはなりません。検視の対象にならないということは犯罪捜査ができないではないか、臓器をとってしまってからしか何もできないのかということで、脳死を人の死としないと問題ではないかというようなことが言われておりました。  そこで、私どもは、条文の八条に二項と三項を入れまして、まず、脳死状態から臓器を摘出するに当たっては、交通事故など犯罪の疑いがある場合にはまず警察や検察に一度言ってください、そこの判断を仰いでくださいと。  その上で、検視というのは人が死んだときの手続ですが、検視ではなくて、人が生きているときでも犯罪捜査はできます。少なくとも、例えば交通事故でしたらば、業務上過失致死ではないですが、過失致傷という、けがを負わせたということの犯罪ができます。そういった犯罪捜査として、普通、任意捜査、検視は任意捜査なんですが、裁判所の令状の要らない捜査ですが、これは人の体にやたらさわったりすることはできません。  ですから、患者さんを外から診てみて、例えばこれはちょっといろいろ詳しく調べてみた方がいいなというようなことがあるかもしれません。その段階では、条文に「刑事訴訟法第二百十八条の規定により行われる身体の検査」とありますが、普通の元気な人間に対してでも、裁判所の令状をとれば身体検査ができます。服を脱がせたりして、いろいろさわってみたりして、傷がどうなっているとか云々ということを調べることができます。その令状をとれば、脳死状態にいる方から、脳死状態のまま体をいろいろと検査をしてみて、証拠を集めた上で、その上で、例えば臓器摘出した結果亡くなられた後に今度は検視を行う、これで犯罪捜査には何ら問題がないというふうに思っています。
  176. 中川智子

    中川(智)委員 ずっとこの間の議論を聞いていて、中山案の方にもちょっと一つ質問がしたいのですが、その頭の中に入っていらっしゃる、十分それで大丈夫だと思いますので伺います。よろしいでしょうか。  これも先日の参考人の話の中でとても印象的だったのですが、先ほど瀬古さんがお話しになりましたけれども、日大の林先生が、法によって医学的死の限界を決めることは患者を助ける救急医療医療人にとっては非常になじみにくい、疑問が残る方法であるというふうに思っていますという、かなり衝撃的な御意見がありました。  それで、私もこの間、この臓器移植のことに関しては、さまざまな市民グループでいろいろな話し合いを重ねてまいりまして、昨日も夫や子供を巻き込んで家の中で大論争になったのですけれども脳死、そのような状態になったときに脳死家族として絶対受け入れられない、もう脳死だから死んでいるのですよと言われたときに、絶対嫌だというときの家族に対する配慮というのはどのようになっているか、お聞かせ願いたいのです。ここはたくさんの人が聞きたいと思っているところです。
  177. 自見庄三郎

    ○自見議員 中川先生の御質問ですが、脳死は、御存じのように、脳死は脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止した状態でございまして、今さっき、医学的、科学的には一つのきちっと確立した考えであり、なおかつ、今、竹内基準の話でも、御存じのように、これは国際的に大変高く評価された竹内基準でございますし、アメリカの大統領委員会あるいは英国の王立医学会等々でも似たような脳死判定基準というのがあるわけでございます。その中で、全世界でも既に毎年九千八百例、日本以外の国で臓器移植という医療はまさに日常に定着した医療だ、こういうふうに私は思うわけでございます。  ただし、これはまさに死でございますから、科学的、医学的には、脳死は人の死であるというふうに私自身は思っております。しかしながら、それを今度は受容する社会の側が、まさにそれを受けとめる社会の側というのも当然この死については必要なわけでございますから、脳死は人の死であるということを、脳死は人の死だという考えに立てる方、御同意いただける方、そうかなと考える方がまだ五割、六割という話があったわけでございますし、今さっきから三割、四割の人がそうでないという話でございましたから、もしこの法律が御同意を得て成立した後、御家族方々、まさに自分は脳死を受け付けない、あるいはそういった方も現実にたくさんおられると私は思いますよ。しかし、それは医師脳死というものをきちっと説明し、そして御理解をいただくという真摯な態度が必要である、こういうふうに私は思うわけでございます。  私も臨床医を長くやっておりましたが、なかなか御理解をいただけないところがございますが、最終的には御遺族方々、あるいはそういった方の御意思がこの移植医療についても大変大きなウエートを占めるということはもう言うまでもないことでございますので、御理解と同意をしていただくように最大限の努力を、医師のみならずコーディネーター、また、いろいろなスタッフがやるべきだというふうに私は思っております。
  178. 中川智子

    中川(智)委員 それで納得できない、私は三徴候死で死にたいというのは、法律で決められたらもう選べないのでしょうか。簡単にちょっと言ってください。
  179. 矢上雅義

    矢上議員 三徴候死で亡くなられるか脳死で亡くなられるかについては、そこの現場において、その医療の必要上客観的にお医者さんが判断されると思います。そのときに、お医者さんが脳死と仮に言われるとしますよね、判定されます。しかし、脳死判定されたときに、その患者さんの家族が嫌だ嫌だと言ったところで、やはり脳死脳死だと思いますね、事実としては。  そして、その後の、人工呼吸器を外すのかとか、その後の医療側の行為がどういう形で見られるかといいますと、医療保険の給付として継続して給付される、そういう形になると思います。
  180. 中川智子

    中川(智)委員 ちょっと違うのじゃないですか。そうしたら、もう三〇%は切り捨てられるわけですね、本当に嫌だ嫌だと言ったって。  それと、最後にちょっと一言、中山案の提案者の中でお医者様は何人いらっしゃいますか。――お答えはないでしょうか。それじゃ、また後で教えてください。
  181. 自見庄三郎

    ○自見議員 死ということは、私は、個人の意思にかかわらず、極めて生物学的、医学的には客観的なものだというふうに思っております。やはり客観的事実だというふうに思っておりまして、それをどういうふうに社会が許容するかというところでまさにこの論議があるのだろうというふうに私は思っております。
  182. 中川智子

    中川(智)委員 お医者様の数は。
  183. 自見庄三郎

    ○自見議員 失礼いたしました。十四人の提案者のうち五人でございます。
  184. 中川智子

    中川(智)委員 終わります。
  185. 町村信孝

    町村委員長 土屋品子さん。
  186. 土屋品子

    ○土屋委員 21世紀の土屋品子でございます。  私は、臓器移植に関する法律案中山案の共同提案者の一人でございますので、金田案の方に質問をさせていただきたいと思います。  私は、今回の選挙で議員になりましたので、今までの長い長い移植議論については参加してないわけでございますけれども平成六年四月に衆議院に提出されて、国民の合意を形成していくために、修正を行いつつ審議を重ねてまいったそうですが、百三十七国会の解散とともに廃案になったということを理解しております。  私は、当選後、共同提案者として一緒になってくださらないかということでお声がかりがありました。そのとき私がなぜなったかといいますと、私自身もいろいろ外国の心臓移植の視察をしたことがありまして、特にオーストラリアとアメリカへ行ってまいりまして、そのときに、日本医師がトップクラスで心臓移植に携わっている姿を目の当たりに見、また、その医師たちといろいろお話をするときに、日本移植がなぜできないのか、日本でできれば帰りたい、もう十何年もアメリカにいるというお話も伺ったわけでございます。そういうことが一つ頭をよぎったということもありました。  それから、三年前に、埼玉県で、私の知人の娘さんが拡張型心筋症という病気になりまして、心臓移植しなければもう一年もたないだろう。親にとっても大変なことでございまして、ちょうど九歳ぐらいでございましたのでかわいい盛りで、本当にどうしたらいいだろう。でも、サラリーマンで、お金は、とても海外へ連れていくほどありません。それで、みんなで寄金を募りまして、そしてドイツへ行くことができました。それで、ドイツへ行って、早い時期にちょうど合うドナーが見つかりまして、彼女は手術を受けて戻ってきて、今、泳ぐこともできるぐらいに元気になって、走り回っております。  そういう姿を私は見まして、この臓器移植法案、通ったらいいという思いで参加させていただいたわけでございます。臓器移植に対する思いは、多分、金田案も私どもも全く同じだという気持ちでここにきょうは立たせていただいております。  そういうことで、まず質問一つなんですけれども臓器提供の任意性と、ドナー意思の確認についてお伺いしたいと思います。  中山案では、移植の際に、本人の書面による意思表示に加えて、遺族の拒否がないとき、または遺族のいないときという要件をつけております。それに対して、金田案は、第七条第二項で「書面により表示された意思は、十分な調査を行い、慎重に確かめられなければならない。」としておりますが、この「十分な調査」とは、具体的にどのような機関またはだれがどのような形で行うのか、それはどのような形で担保されるのか、お伺いしたいと思います。
  187. 山本孝史

    山本(孝)議員 お答えいたします。  私どもも、各党協で厚生委員会からドイツに行きまして、南先生にもお会いをして、ちょうどそのころもお子さんがおいでになりました。  今の七条二項の件でございますけれども、これは臓器摘出のための要件ではなくて、関係者に対する一層の努力義務を課したものであるということは、先ほど来からお話をさせていただいているとおりでございます。  具体的にどういう形になるのかということをお話しした方がよろしいかと思うのですが、平成六年一月に、厚生省が臓器提供手続に関するワーキング・グループというのをつくりまして、こういう形でこの提供を求めるのだということを言いました。日本移植学会が、せんだってネットワークの行動指針を出しましたけれども、いずれの方法も、まず、臨床的に明らかに脳死になったという時点で、主治医が家族に、今から脳死判定に入りますよ、あるいは脳死が人の死であるということについて説明をするというふうに厚生省も言っております。それで、脳死に関するこれらの事項について理解が得られているという前提で、主治医が、いろいろな選択肢がありますよということを申し上げる。このまま治療を続けることもできますし、治療を打ち切ることもできます、あるいは臓器の提供もできますよと言ったところで、この主治医のお仕事は終わりになります。  もし提供していいということになりますと、いわゆるあっせん機関、ネットワークからコーディネーターと言われる方が来て、こういう形で臓器の提供をいただくのですよということの御説明をされる。その折に、書面で何か持っておられるものはありますか、例えばドナーカードはございましょうか、あるいは、おうちで何か日記にそのようなことをお書きになっていましたでしょうか、そのような何か書面で残っているものがあればぜひお示しをいただけないでしょうかと言ったところで、書面での確認をするという形になろうかというふうに思います。
  188. 土屋品子

    ○土屋委員 どうもありがとうございました。  本日もいろいろな方から同じような話が出ているかと思うのですけれども、次の点について、対案では脳死を人の死とはしていないという理解、もちろん脳死状態ということで出ていると思うのですが、つまり、死亡していない状態、生きている状態臓器移植を行うというような理解になりやすいというか、そういうふうにとりやすいと思うのです。私なんか、そういうふうにとっているのですが、生きている人からの臓器移植することと考える。  ドナー及びドナー家族の気持ちとしては、まだ生きているうちにみずからの臓器を提供したいと考えるかどうか、また、家族もそういうふうに考えるかどうか、それから、心情的に納得できるかどうか、そこが大変疑問でございます。  それから、臓器を提供してもらう側、レシピェントの気持ちを考えますと、先日も参考人意見陳述で、心臓移植の経験のある木内博文さんが、これから長い人生生きていく上で、生きている人間から臓器の提供を受けることは耐え切れないと言っていました。ですから、彼の場合も、脳死を死としてほしいとはっきりおっしゃっていましたけれども移植後もさまざまな肉体的ハンディを乗り越えて生きていかなければならないレシピエントにとって、生きているという理解をしやすいような形の法律、人の命を犠牲にして臓器を提供してもらうことは、精神的にも大変大きな重圧のもと人生を送っていかなければならないのではないかと考えているわけなんです。  それで、木内さんの話を聞くまで、私も、余りレシピエントのそこら辺の精神的な気持ちまでは深く考えていなかったのですけれども、この間のお話を聞いて、何かすごく、どしんと気持ちの中ヘレシピェントの気持ちが入りまして、レシピェントにとっては、脳死を死としない、その死の規定がきちっとしていないということは確かにこれから長い人生、重荷になるのかなと考えております。その家族も、何か死んでいるか生きているかわからない状態臓器を上げるという不安、それをいろいろ考えますと、人の命の重いとか軽いとかをつけることではないのですが、人権上の観点からもそこら辺は問題にならないのかなということを考えています。  先日、移植学会で、生きている人から臓器を摘出することは医者の倫理上できないというようなことがはっきり出ておりますけれども医療は人の命を救うことであって、命を奪うことではありません。脳死を死としないこと、つまり、生きている状態から臓器を摘出することには、ドナー及びその家族、レシピェント、そして医師、そのどの立場をとりましても人道的に問題があると考えます。  この点について、何度もお話が繰り返しされていると思いますけれども、もう一度、大変申しわけありませんが、お願いいたします。
  189. 秋葉忠利

    秋葉議員 非常に重要な点についての御質問だと思います。  ドナー並びにその家族にとってということですけれども、私たち法案では、脳死状態にある、それはまだ人間として法律的には生きている、それから、個人個人、あるいは家族単位でも違いがあるかもしれませんが、死んでいるか生きているかという考え方の違い、いろいろなものがあると考えております。私たち法案では、その違いがそのまま尊重されるような方向で、できるだけ現状の死の概念に変更を加えずに臓器移植ができないかということを中心に据えております。  そこで、これは何度も確かに申し上げたのですけれども、私たちが中心的な概念として据えているのは、それは、ドナーになる方、本人の事前の明確な意思表示である。それも、先ほどから生命の軽重というような比較のお話がありました。確かに、人間の生のある一時点、時をとめてその時点で考えると、一人の人の臓器をとる、その瞬時にして命がなくなるというような方が片方にあり、その臓器を受けて、その非常に短い時点で見ると、それから利益を受ける方があるという形になり、それは生命の軽重があるのじゃないかというような議論になるのかもしれませんが、私たち法案基礎にある生命考え方人間考え方というのは、生命を一体のものとして、時間とともに流れている、その総体としての生命に価値があるというふうに考えております。だから、いっときいっときに意味がないということを申し上げているわけじゃないのですけれども。  例えば、ある時点で人間の、自分の生を全うする方法として、万一自分が脳死状態になったときには、自分の生を全うする、自分の生き方の一部として臓器移植のために臓器を提供するというのは、これはやはり総体としての人間の生き方として私は非常に立派な選択であるというふうに思います。そういう選択をしない人が立派ではないということを申し上げているつもりはございませんけれども、その選択も立派な選択だというふうに私たち考えております。その意思の表示、臓器を提供したいのだということが中心的な概念になっている、これを大前提にしてぜひ考えていただきたいのですけれども。  ですから、ドナーにとりましては、その意思表示のあるということがまず絶対不可欠の条件でございます。家族も当然その考え方に同調をしてくれるということが望ましいですけれども、しかし、脳死状態というのは、例えば体温もある、心臓も脈打っている、そういう状態でお医者さんに説得をされて、これはもうもとの状態には戻らないのだということが頭では納得できても、それでも、愛する人を目の前にして、これを死んでいるとは認めたくない、その情はあると思います。  そういったときに、まだ生きているから、この人から臓器移植することは、本人の希望はそうだったけれども、やはり残される者としてはやめてほしい、その自然の情もまた尊重されるべきであるというふうに私たち考えました。ですから、その時点で、ドナーにとってはどこかの時点でやはりやめてほしいという意思表示をするチャンスが与えられるわけですし、そのドナー家族意思は尊重されるということが私たち法案基本的な考え方になっております。  レシピエントの場合、おっしゃるように、確かにレシピエントのその後の人生、それが健全な方向に、罪の意識を持ったりあるいは後ろめたい思いを持ったりしないような方向できちんとされるということは、大変重要なことだと思います。  私たちがそこで期待をしておりますのは、そこでお医者さんに活躍をしていただきたい。目の前にある死に行く人、だけれども、生きている人をもう死んでしまったのだよという説得をするかわりに、いや、生きている人の意思が今、脈打っている体からあなたのところに来たわけだけれども、そこでやはり一番大事なのは、一人の個人としての生き方の総体としてあなたに対するこれはギフトなのであるという説得をぜひお医者さんにはしていただきたい。  その意味で、事前に、生前、臓器をとれば死に至るわけですから、生前の意思表示をした一人の人間が自分のために臓器を贈るという非常に温かい、優しい、いわば菩薩行とも言える決定をしてくれたということに対してレシピエントの方が感謝をする、そういった状況をぜひお医者さんたち努力によって、あるいは周囲の人たち努力によってつくり出していっていただきたいというふうに私は思います。  それから、こういう非常に大事な倫理的な問題を議論しているところにこういった議論をまぜるのはふさわしくないかもしれませんけれども、それでもやはり、自分は罪の意識が残るだろうからそういった状態からは移植を受けたくないという方がいらっしゃった場合には、それはそれで尊重されるべきだと私は考えますし、死であると法律で決めようと決めまいと実際に行われることは同じなんですよということも、私はお医者さんに説得をしていただきたい要件の一つでございます。  それから、数字で申し上げますと、恐らく日本心臓移植が行われるようになったとしても、ドナー対レシピエントの数は非常にギャップが出てくると思います。レシピエントの数の方が、レシピエント候補者の方がはるかに多いという状況になるだろうと思います。ドナー、しかも的確なドナーがあるということは非常にまれだと思いますので、そういう状況の中で、やはりそういったことも最終的な決定には反映されるのではないかと思います。  済みません。答えが長くなって申しわけありませんでした。
  190. 土屋品子

    ○土屋委員 あと二問あったのですが、残念でございますが、質疑時間が終わりましたので、これで終わらせていただきます。  どうもありがとうございました。
  191. 町村信孝

    町村委員長 この際、議員遠藤武彦君より委員外の発言を求められておりますが、これを許可するに御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  192. 町村信孝

    町村委員長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。  遠藤武彦君。
  193. 遠藤武彦

    ○遠藤(武)議員 遠藤武彦です。  まず初めに、委員会の皆様方には、昼の本会議を含め、長時間にわたり本当に御苦労さまでございます。  また、お話がありましたように、無所属である私にこのような発言の機会を与えていただきましたことに、委員長を初め委員会の各位に心から厚く御礼申し上げる次第でございます。ありがとうございました。  私は、先ほどからいろいろお話をお聞きしてお りまして、どうも自分がこんなところへ立っているあれじゃないじゃないかなという思いをしきりにしております。  というのは、私は、朝から三十五チャンネルで、皆様方の本当に真摯な、人間のといいますか、人の死というもの、その痛みを共有しながらやりとりなさっているのを聞きまして、ある種の感動すら覚えたのであります。ですから、余計、私のような門外漢がこんなところで果たして務まるだろうかと思っていました。  何しろ、無所属で少しやってみるかというお話があったのは先週でありまして、先週の初めころまでは無所属にも十人くらいおったのでありますが、そのうち、先週ぽろぽろと三人ほどいなくなりまして、また、外遊に行っていたりした者がおりまして、何か残っているのはおまえだけだ、こういうことでございまして、そんな立場からで大変申しわけありませんし、また、これまで国会の中あるいはかつて在籍しておりました自民党の中でも、さまざまな会合で、社会福祉や医療関係の会合にはほとんどといいますか、全く出たことがない、こんな私ですから、本当に申しわけないと思っているのです。  ただ、しかし、そうはいいましても、私も、脳死というこの新しい概念というものを、あるいは今さまざまな面で取り上げられておる臓器移植という問題についてやはり真剣に考えていかざるを得ないと思いましたし、皆様方のやりとりを拝聴しながら、強く、国会という場でこういうことを論ずる、そして何かを決めていくということは大変なことだなという思いもしておるのでありまして、皆様方のこれまでの御努力に本当に心から敬意を表したいと思います。  私自身の立場をまずもって明らかにしておきますと、私は、脳死は人の死であると考えておりますし、また、臓器移植も、自分が、自分自身のこととして、いずれ登録とかそういう形のものをしていかなきゃならぬのじゃなかろうか、そういうふうに考えている立場であります。  ですから、主としていわゆる衆法一二号といいますか、中山先生が出された案を中心にいろいろお尋ねしていきたいと思うのですが、ちょっとばかりお願いをしたいのは、先ほどから、各先生方、本当にまじめでございまして、お答えが相当懇切丁寧でありまして、どうか、私のような門外漢、もう学術用語はわからぬ、もしかすると取り違えて、大脳と小脳ぐらいはわかるつもりですが、やるかもしれませんから、ですから、それは違う言葉だとか、イエスかノーかとか、そうだとかそうでないとか、そういうことで結構ですし、決して不親切だとか、いじめられたなんて思っていませんので、よろしくお願いを申し上げたいと思います。  最初に、人間には万人万様の生き方、だから人生観、死生観があるわけですから、脳死を人の死だと考える人もおれば、絶対そうではないだろうという方もこれはいらっしゃって当然なのでありますね。そのために社会的合意がなされているという言葉が先ほど来しばしば使われておるようですが、私は決して、社会的合意脳死は人の死だということで形成されているとはどうしても思えない。統計の数字などを持ち出されておるようでありますが、私はかつて総務庁におりましたが、統計局というのがございます。統計はとり方でさまざま違うのであります。設問の仕方だけでも違うわけですね。ですから、これだけ多くのお医者さん方が、またお医者さんの中でも職能によって、あるいは法曹界の人や宗教界や哲学者までいろいろな意見を言っているわけですね。すばらしいことを言っているわけです。それでいて社会的合意がなされているということはなかなか言い切れないのではなかろうかな、こんなふうに考えております。  ただ、脳死についても、先ほど言っておりましたが、厚生省令による基準とかいうもので脳死とするか、いや、完全に細胞まで死んでなければ脳死と言えないのだという人だっていらっしゃるわけですね。こういうものをそもそも法律で決めていくということにもいろいろ問題があるということを、そうしたことをやはり基礎にしながらたたき台にしていかなくてはならぬのではなかろうかな、こんなふうに考えています。  それで、私は思うのですが、人工呼吸器というものができてから死の概念というのが変わってきているのではなかろうか。今までだと、たった今、息をお引き取りになりましたとか、大往生でございましたとか、こういう形だったわけですが、しかし現実に、人工呼吸器が発達して、心臓は動いている、体温は温かい、それでも死んでいるのかということなんですね。  ですから、私は、人工呼吸器が発達して今日このようなことになってきているときに、在来の死の概念、死というものの概念を変えなければならなくなってきているのではなかろうか、こういうふうに考えていますが、その点については、お医者様でもいらっしゃいますから、自見さん、簡潔にひとつお願いしたいと思います。
  194. 自見庄三郎

    ○自見議員 今、遠藤先生から、人工呼吸器が大変死の実体を変えたのじゃないかという御指摘がございましたが、私は、まさにそのとおりだと思っております。  従来、死は呼吸の停止、心拍動の停止及び瞳孔散大、いわゆる死の三徴候を確認することで判定したわけでございますが、今先生が御指摘のように、人工呼吸器の登場に伴って、昔、脳死状態であっても、大抵はもう一、二分の間に心臓もとまり、呼吸もとまったわけですね。ところが、人工呼吸器が登場いたしましたので、呼吸が人工的に維持されて、心臓が動き続けていながら、全脳の機能はもう不可逆的に停止している、いわゆるそういった状態になったということでございます。
  195. 遠藤武彦

    ○遠藤(武)議員 まさに人工呼吸器が死の概念を変えたというか、変えつつあるというか、あるいは我々が今まで、人工呼吸器による延命と言っては大変失礼な言い方かもしれませんが、表現がわからぬものですから、御注意いただきたいのですが、そういう状態になってくると、死というものはこういうものなんだという今までの固定概念に新しい死の要素というのが出てきたわけですから、なかなか受け入れられないでいるというのが一般の方々の、私だってそうでありまして、息がとまったら死じゃないのかというのが、今度は脳死が死だということは、やはり考え方を変えていかなくてはならない。しかし、それが全国民的な形になって死の概念を変えていくというところまではまだいっていないのではなかろうかな。  ですから、この死の概念についていろいろな考えがあるうちは、たとえ国会法案を可決したとかいうふうなことになっても、この論争だけは続いていくのではなかろうか、場合によっては裁判だとか訴訟だとかということにもなり得ていく質のものではなかろうか、だからこそ、これはある意味では幅広く考えていかなくてはならぬ問題かなと思います。  そこで、党議拘束を外されたということについて若干お伺いしたいのです。  今申し上げたように、さまざまな死生観やさまざまな死に対する考え方がありますから、これはオープン、全部自由だ、どなたがどんなふうに考えようと構わないのだ、それは思想信条を超えたものだ、主義を超えたものだという観点から党議拘束を外されたのだと私は思ったのですが、その辺はいかがですか。簡単にひとつ。
  196. 自見庄三郎

    ○自見議員 まさに簡単に参ります。  党議拘束を外すということは、先生御存じのように、臓器移植の問題、一人一人のまさしく死生観にかかわるものでございますから、密接にかかわるものでございますから、各党各会派において、共産党は党議拘束をするというふうにお聞きいたしておりますが、今さっき質問にお答えしたように、我が党も党議拘束を外す方向で検討がなされているということでございます。
  197. 遠藤武彦

    ○遠藤(武)議員 しかし、それだからこそ余計自由にいろいろな方がいろいろな意見を述べられるということは大変すばらしいことだと思うのです ね。ですから、脳死を人の死として臓器移植を進めることには問題が残るという人もおるし、人の死の判定、助かる命も助けられないでいいのかという立場の方もいらっしゃるわけです。そういう現実に、やはり私たちは、国会というか政治家が非常に深く思い悩んだ、真剣に論じ合ったというふうな形の合意はできると思うのですね。だとすると、両案を可決するとか反対するとかということじゃなくて、これはもう死生にもかかわる問題ですから、国会としては臓器移植にこういう勧告をする、医学的知見によって脳死として医師判断するのは、それは構わないわけですから、そういうところは残しておいて、国会としてはこう決めたよという国会決議とか、あるいは学会というか国民全体に対してこうあるべきだという勧告を我が国国会がなした、こういう形はとれないものかどうか。これは両案の提案者に一言ずつ、それはできない相談だというならそれで結構ですから。
  198. 自見庄三郎

    ○自見議員 先生の御質問でございますが、脳死臨調におきましても、「臓器移植は、法律がなければ実施できない性質のものではない」とする一方、「心臓、肝臓等の移植を行っていくためには、」「臓器移植関係の法制の整備を図ることが望ましい。」こういうふうに書いてあるわけでございます。  午前中も中山筆頭提案者からお話がございましたように、やはり今まで長い間の経緯経過があるわけでございます。欧米は九千八百例の症例をやっていますが、日本は一例以外やっていませんし、これはやはり法律で後押しをしなければ移植医療日本国において円滑に実施できない、こういったことで法律提出をさせていただいたわけでございます。
  199. 金田誠一

    金田(誠)議員 はしょって申し上げますと、先生のおっしゃるとおり、両案ともこの際取り下げるというのも選択の一つだろうというふうに思っております。特に問題は、先生おっしゃるようにさまざまな死生観がある、価値観があるという中で、脳死は死であるということを法律規定することが最もまずい選択だろう、こう私は思ってございます。
  200. 遠藤武彦

    ○遠藤(武)議員 私は、国会決議とか勧告というか、国民に対して勧告ということがあったことがあるのかどうかわかりませんが、それは一つ提案ですから提案としてお受けとめいただきたいのです。  脳死は人の死かということなんですが、一般的に合意が形成される場合、やはりできるだけ多くの人に受け入れられるということが大前提なわけです。先ほど自見先生の方から脳死臨調お話がありましたが、議事録をずっと読んでまいりますと、結構、少数意見というのはあるのであります。そしてまた、その少数意見にも耳を傾け、よく文字を追っていかなくてはならぬような問題を含んでいるものが多いと私は見ています。こういう大変、人の死生にかかわる問題ですから、やはり少数意見というものも大事にしていくということが法案成立させていく上では大事な大事な大前提になるのじゃないだろうか、こういうふうに考えております。  私は、いわゆる医学的知見による厚生省例というのはいわゆる竹内基準ということで間違いないと思うのですが、竹内基準では完全ではない、何か補完的、補足的な検査というものもすべきじゃないかという意見もあるわけですから、私は英語が弱いからわからぬのですが、ポイント・オブ・ノーリターンとかなんとか言っていますけれども、そこをもう少し深めて、奥深く持っていくというか、蘇生限界点じゃなくて、いわば蘇生限界の範囲といいますか、よく表現できませんけれども、そういうふうなものに今の医学というものは、医術というものはなってきているのじゃなかろうか。ここでもう返るところはないのだというのじゃなくて、何か漠然とした、この辺までならばもうだめだというものなのではないだろうか、こんなふうに私は考えております。  ですから、いわゆる竹内基準というものがある、それに対して例えば脳血流の検査も必要じゃないかとか、こういうふうなことを言っている人がいる、そういう意見もやはり考えていかなくてはならない。  私はなぜこう言うかというと、いわゆる脳死判定基準脳死定義にすりかわってしまっているのじゃないだろうかという危惧を、ああ、こういうのが脳死というのか、こういうことが一般国民にそうなってしまっているのじゃなかろうか、そういうふうに思うから、この蘇生限界点というのをもう少し、点じゃなくて、何か一つのスペースというか領域のようなものに考えられないものか、そして、こういうこともやるべきじゃないか、こういうこともあったじゃないかという補完的検査というものも受け入れる体制というものをまずつくってやることが必要じゃないかと思いますが、医師立場から……。
  201. 自見庄三郎

    ○自見議員 先生お話は、竹内基準の中で、例えば脳血流の停止だとか聴性脳幹誘発反応消失、そういった補助検査と申しますが、それらもある位置できちっと義務づけるべきではないかというような御意見竹内基準を満たしたらもう間違いなく脳死だ、それからもう生き返ることはないのだ、そのために念には念を入れて竹内基準を強化しなさいという御趣旨の御質問だった、こう思うわけでございます。  このことは、この委員会でも何度も問題になったわけでございますが、聴性脳幹誘発反応、全国の病院で九三%あるというふうな話もございましたから、やはりそういったこともきちっと、これは基本的にいよいよの専門家の竹内先生を初め診断基準を決められた方々が決める問題だというふうに思うわけでございますが、ポイント・オブ・ノーリターン、いわゆる蘇生限界点を過ぎれば、絶対にこれはもう脳死から戻ることはないのだ、こういった御理解をきちっといただくことも大事だ。  竹内先生、来られまして、この竹内基準の蘇生限界点を超えた方々で後へ生き返った方はないということをはっきり言われましたし、また、林先生も、脳低温療法をやっておられますが、蘇生限界点を超えた方がこういった治療法でもとに戻ったことはないというふうに私も聞いておりますし、文書でも読んでおりますし、私は、生物の死というのはそういうものだろうというふうに思っております。
  202. 遠藤武彦

    ○遠藤(武)議員 私が申し上げているのは、多くのコンセンサスを得なくてはならぬというならば、やはりもう少し、基準といいますか、竹内基準以外にも見るべき要素があるのじゃないかといったら、どうしてそれを受け入れられないか、こういうことなんです。それはもうもとに戻ることがないからこれで決まりなんだということじゃなくて、そういう方がいらっしゃるならばそれも考えてみょうでいいのじゃないでしょうか、こういうものは。
  203. 自見庄三郎

    ○自見議員 竹内基準の補助検査、聴性脳幹誘発反応、そういったものを受け入れろということでございますが、受け入れて検討すべきだというふうに私も思っておりますし、国会考えとして、そういったことも専門家に検討していただくということはやぶさかではございません。
  204. 遠藤武彦

    ○遠藤(武)議員 さらにお聞きしたいのですが、何か六歳未満の子供、それから麻薬の中毒経験とか糖尿病だとか、そういうものは何か除外しておられますね。なぜ妊婦は除外しないのですか。
  205. 自見庄三郎

    ○自見議員 妊婦は除外をしてありません。
  206. 遠藤武彦

    ○遠藤(武)議員 それはなぜ除外をしないのですか。
  207. 自見庄三郎

    ○自見議員 脳死判定する上で障害にならないというふうに、私もいよいよの専門家ではございませんけれども医学的にはそう考えております。
  208. 遠藤武彦

    ○遠藤(武)議員 私は、竹内基準というのはもう少し広げてもいいじゃないかという根拠の一つに、妊娠した女性、もちろん母親ですが、何十日も百日も脳死状態にありながら出産した例というのは決して一例や二例じゃないわけですね。そう いう脳死状態というか、ほとんどそういう状態の中で、例えばそのときの医師の話を聞いてみますと、当時は竹内基準なるものはなかった時代だ、何か脳波の検査だけで脳死という状態だなと思った、それでも五十七日だか何日目に出産されたというのです。
  209. 自見庄三郎

    ○自見議員 私も、急な話でございまして、今、提案者の方と話したのは、それは先生、植物状態で出産をしたのではないかという話でございまして、植物状態といいますと、脳は五つの部分に分かれますが、脳幹の部分は生きている、しかし大脳皮質の部分は死にますから、記憶だとか考えだとか痛みだとかはなくなるわけでございますが、そういった状態で出産をしたのではないかということでございます。また後から調べてきちっと正確に、文献を調べればすぐわかることでございますから、答弁させていただきたいと思います。
  210. 遠藤武彦

    ○遠藤(武)議員 対案者の中で何かありますか。
  211. 山本孝史

    山本(孝)議員 私の理解している範囲でお答えをさせていただきます。  先生、これは実に生命倫理にかかわる問題でございまして、そのお子さんといいますか、胎児が何週まで来ているかというところが極めて重要な問題だと思います。妊婦が脳死になって出産をしたというケースは日本にも三例か四例ございまして、このまま何日かもたせればうまく出産できるのではないかという、何週目に入っているかというところでの御判断があるのだと思います。  立ったついでで恐縮でございますが、せんだっての参考人質疑の折に、例の日大の低体温療法をやっておられる林先生が、「竹内基準判定された脳死は、脳組織、それを構成する神経細胞まで配慮に入れていきますと、正確には脳死状態意味しております。したがって、科学的には、脳死は人の死とは言えないと思います。」という御発言もありまして、今、竹内基準に対しての疑義をお述べになっておられますけれども、今回の低体温療法の問題は、脳細胞に直接働きかけてうまく体をもたせていれば脳細胞が非常に力強い生命力で戻ってくるというところが極めて大きいところでして、医学の進歩によって少しまた違う観点からの救命というのが始まるのではないかということは言えると思います。  ただ、何とかここで医療の限界を決定して、社会的通念に基づく概念死を導入しないと今回のこの移植というのが始まらないのだ、したがって、その正否というのは、将来にわたって正しいかどうかわからない問題も含んでおりますというのが、せんだっての林先生参考人質疑としてのお話でございました。
  212. 遠藤武彦

    ○遠藤(武)議員 私が申し上げたいのは、繰り返すようですが、竹内基準というのが、いわば脳死判定基準だとはいいながら、脳死そのものの定義になって、すりかわっているのじゃないかということを思うから、ですから、その竹内基準というものを少し領域を広げて、こういうものも加えていく、そして、いろいろな人たちが納得できるような知見というものを確立すべきじゃないか、こういうふうに申し上げておるのであります。  最後の方になりますが、救急救命医療との関係でお聞きしたいのです。  日本救急医学会だか何かよくわかりませんが、救急医学会と私は記憶しているのですが、この団体が、法案成立しなければ臓器移植に協力はできないと声明したそうですが、これは事実ですか。
  213. 自見庄三郎

    ○自見議員 事実だと聞いております。
  214. 遠藤武彦

    ○遠藤(武)議員 今、救命救急センターなんかへ連れてこられる人は交通事故とかそういう人たちですから、ある意味では脳死に至るか、脳死直前のような、言葉をかえて言えば、ちょっと申しわけないのですが、臓器提供期待体といいますか、そういうものに決めつけられないためにも、いわゆる救急救命医療というか、そういうのが非常に大事だと私は思うのですね。  ここのところが、それでは全国的なレベルで見て整備されているかというと、全くお粗末じゃないかと思うのです。私のところなんか、今これから建設しようとしているのですよ、救命センターというものを。ですから、もう全国、日本列島の中にはいろいろな医療格差があるわけですね。  そういう基礎的な部分を、やはり救急救命医療というものは大事なんだというのは、言ってみれば臓器の提供と移植と隣り合わせに、何かそのはざまで苦しむお医者さんというのは結構いらっしゃるのではないかと私は思うのですね。そういう意味では、救急救命というのは非常に大事なところではなかろうか。  ですから、私は、この法案の成否は別としても、とにかく臓器移植も大変だが、その前段階ともなるべき救急救今もこうあらなければならぬということを強くこの委員会で示さなければならぬのじゃないかと思うのですが、一言でどうでしょう。
  215. 自見庄三郎

    ○自見議員 救急医療の充実ということは、私は大変大事なことだというふうに思っております。  御存じのように、アメリカの医学は救急医療を中心にして発達したことがございますが、日本は昔から長期入院型を中心とした医療でございますので、救急医療、大変整備はされてまいりましたが、まだまだの感があるわけでございます。先生の言われるとおり、救急医療、それも大都会と過疎地、私も九州の出身でございますが、そういったところもひとしく整備をしていく必要があるというふうに思っております。
  216. 遠藤武彦

    ○遠藤(武)議員 医療技術が非常に高度化してきているわけで、その分、臓器の提供者というものと隣り合わせになっている、医の倫理がそういう場面をどう乗り越えていくか。新しい死の概念に対する哲学は国民全体が求められているかもしれませんが、まず何よりも医療の側が求められているのではなかろうかと私は思っております。  厚生省、来ていますか。――ちょっとお尋ねしたいのですが、数日前の新聞で、何か臓器移植のための意思を明確にする手だてとして、運転免許証とか健康保険証とかにそれらを記入するというふうなことを、早速、そういう方針だったか何かわからぬが、作業にかかったのか方針を立てたのかわからぬが、そういうふうなことが載っていました。事実ですか。
  217. 貝谷伸

    ○貝谷説明員 先生今おっしゃいましたように、先般、そういう報道がございました。  端的に申し上げますと、報道によりますと、運転免許証、保険証等について、厚生省として、臓器提供の意思の表示の手段としてそれを決めたということがございますが、結論だけ申し上げますと、まだそこまで方針として定まっている状況はございません。
  218. 遠藤武彦

    ○遠藤(武)議員 私は、今回の臓器移植のネットワークシステムもまだ確立されておらぬ、それに、救急救命医療などの整備の問題だって今お話しのとおりじゃないですか。そういう基本的なことをやっていないのに、まあ事実かどうかは別としても、そんな誤解されるようなことがあってはならぬ。ともかく、臓器移植というのは善意のものなんですよ。本当に人間尊厳をかけて、善意で、使ってもらってもいいのだということですから、そういうものに先走って、公権力というか行政が余りかかわることではないと私は思う。これだけは言っておきましょう。答弁は要りません。  湯川秀樹博士が、「物理学は、人間にもどり近づく様相を強めていると言えます。二十世紀前半の物理学にあっては、研究のための研究、真理のための真理の探究が主目標になっていて、それが人間にどう関わるのか、あまり問題になりませんでした。」こういうことを反省している。医療関係者がもって瞑すべきじゃないだろうか、こういうことをつけ加えさせていただいて、委員長、終わります。      ――――◇―――――
  219. 町村信孝

    町村委員長 この際、内閣提出、健康保険法等の一部を改正する法律案審査のための参考人招致の件についてお諮りいたします。
  220. 児玉健次

    ○児玉委員 議事進行について発言を求めます。
  221. 町村信孝

    町村委員長 児玉健次君。
  222. 児玉健次

    ○児玉委員 日本共産党の児玉健次です。  議事進行に関する発言を簡潔に行います。  健康保険法の改定案に関する厚生委員会の質疑は、先週の水曜日と金曜日、二回行われたのみであります。二兆円の負担増を国民に求めるこの案が抱えている問題の重要性が明らかにされなければなりません。審議は引き続き真剣に、冷静に進めることがこの委員会に対する国民の期待にこたえる道です。  委員長がこの案に関して、参考人招致の件について議決を提起されようとしておりますが、今はいまだその時期ではありません。各党各会派あくまで合意のもとで、一致点を目指して、最も適切な時期に参考人意見聴取を行うことが今後のこの委員会審議にとって最善の道であると私は確信するものでございます。  以上の理由から、参考人招致の件について、この時期に議決を行うことの是非に関して各党討論を行うことを私は動議として提出いたします。以上です。(拍手)
  223. 町村信孝

    町村委員長 ただいまの児玉君の動議についてお諮りいたします。  ただいまの児玉健次君提出の動議に賛成の諸君の起立を求めます。     〔賛成者起立〕
  224. 町村信孝

    町村委員長 起立少数。よって、児玉君の動議は否決されました。  引き続き、お諮りいたします。  内閣提出、健康保険法等の一部を改正する法律案審査のため、参考人の出席を求め、意見を聴取することとし、日時、人選等につきましては、委員長に御一任願いたいと存じますが、これに賛成の諸君の起立を求めます。     〔賛成者起立〕
  225. 町村信孝

    町村委員長 起立多数。よって、そのように決しました。  次回は、明十六日水曜日午前九時五十分理事会、午前十時委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。     午後五時一分散会