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1997-04-08 第140回国会 衆議院 厚生委員会 第13号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成九年四月八日(火曜日)     午前九時三十三分開議 出席委員   委員長 町村 信孝君    理事 佐藤 剛男君 理事 住  博司君    理事 津島 雄二君 理事 長勢 甚遠君    理事 岡田 克也君 理事 山本 孝史君    理事 五島 正規君 理事 児玉 健次君       安倍 晋三君    伊吹 文明君       江渡 聡徳君    大村 秀章君       奥山 茂彦君    嘉数 知賢君       桜井 郁三君    鈴木 俊一君       田村 憲久君    中山 太郎君       根本  匠君    能勢 和子君       桧田  仁君    松本  純君       青山 二三君    井上 喜一君       大口 善徳君    鴨下 一郎君       坂口  力君    福島  豊君       桝屋 敬悟君    矢上 雅義君       吉田 幸弘君    米津 等史君       家西  悟君    石毛 鍈子君       金田 誠一君    瀬古由起子君       中川 智子君    土屋 品子君       土肥 隆一君  出席国務大臣         厚 生 大 臣 小泉純一郎君  出席政府委員         厚生政務次官  鈴木 俊一君         厚生大臣官房長 近藤純五郎君         厚生省保険局長 高木 俊明君  委員外出席者         参  考  人         (杏林大学学長竹内 一夫君         参  考  人         (日本大学医学         部救急医学科教         授)      林  成之君         参  考  人         (九州大学生体         防御医学研究所         免疫学部門教         授)      野本亀久雄君         参  考  人         (広島大学名誉         教授)         (県立広島病院         病院長)    魚住  徹君         参  考  人         (順天堂大学医         学部循環器内科         主任教授)         (順天堂医院副         医院長)    山口  洋君         参  考  人         (弁 護 士) 石川 元也君         参  考  人         (東京大学名誉         教授)     平野 龍一君         参  考  人         (三菱化学生命         科学研究所社会         生命科学研究室         長)      米本 昌平君         参  考  人         (ノンフィク         ション作家)  柳田 邦男君         参  考  人         (ニューハート         クラブ連絡班         長)      木内 博文君         厚生委員会調査         室長      市川  喬君     ――――――――――――― 委員の異動 四月八日  辞任         補欠選任   山下 徳夫君     中山 太郎君   枝野 幸男君     金田 誠一君 同日  辞任         補欠選任   中山 太郎君     山下 徳夫君   金田 誠一君     枝野 幸男君     ――――――――――――― 四月八日  健康保険法等の一部を改正する法律案内閣提  出第三六号) 同日  医療保険改悪反対建設国保組合の国の定率補  助削減反対に関する請願穀田恵二紹介)(  第一五二六号)  同(肥田美代子紹介)(第一五二七号)  同(藤田スミ紹介)(第一五二八号)  児童を性的に搾取する行為を禁止するための児  童福祉法第三十四条の改正に関する請願肥田  美代子紹介)(第一五二九号)  同(肥田美代子紹介)(第一五七八号)  同(肥田美代子紹介)(第一六〇〇号)  難病のための新国立病院リューマチ科及び  プール療法に関する請願大口善徳紹介)(  第一五三〇号)  厚生省汚職の糾明、医療保険改悪反対に関する  請願谷口隆義紹介)(第一五三一号)  同(谷口隆義紹介)(第一五六四号)  同(佐々木憲昭紹介)(第一五九一号)  同(谷口隆義紹介)(第一五九二号)  同(谷口隆義紹介)(第一六二〇号)  同(児玉健次紹介)(第一七三〇号)  同(瀬古由起子紹介)(第一七三一号)  同(辻第一君紹介)(第一七三二号)  同(寺前巖紹介)(第一七三三号)  同(春名直章紹介)(第一七三四号)  同(東中光雄紹介)(第一七三五号)  同(福島豊紹介)(第一七三六号)  同(藤木洋子紹介)(第一七三七号)  同(古堅実吉紹介)(第一七三八号)  同(山原健二郎紹介)(第一七三九号)  同(吉井英勝紹介)(第一七四〇号)  国民健康保険制度抜本改革に関する請願(中  川昭一紹介)(第一五三二号)  同(根本匠紹介)(第一五三三号)  同(森喜朗紹介)(第一五三四号)  同(中川昭一紹介)(第一五六五号)  同(森喜朗紹介)(第一五六六号)  同(遠藤武彦紹介)(第一五九三号)  同(中井洽紹介)(第一五九四号)  同(中川昭一紹介)(第一五九五号)  同(中川昭一紹介)(第一六二一号)  同(中川昭一紹介)(第一七四一号)  医療等の改善に関する請願飯島忠義紹介)  (第一五三五号)  同(佐藤剛男紹介)(第一五三六号)  同(斉藤斗志二君紹介)(第一五三七号)  同(穂積良行紹介)(第一五三八号)  同(松本純紹介)(第一五三九号)  同(柳沢伯夫君紹介)(第一五四〇号)  同(斉藤斗志二君紹介)(第一五六七号)  同(戸井田徹紹介)(第一五六八号)  同(蓮実進紹介)(第一五六九号)  同(保利耕輔君紹介)(第一五七〇号)  同(松下忠洋紹介)(第一五七一号)  同(柳沢伯夫君紹介)(第一五七二号)  同(山下徳夫紹介)(第一五七三号)  同(坂井隆憲紹介)(第一五九六号)  同(熊谷弘紹介)(第一六二二号)  同(河野洋平紹介)(第一六二三号)  同(野田実紹介)(第一六二四号)  同(古屋圭司紹介)(第一六二五号)  同(小里貞利紹介)(第一七四二号)  同(木部佳昭紹介)(第一七四三号)  同(田邊国男紹介)(第一七四四号)  同(中尾栄一紹介)(第一七四五号)  同(船田元紹介)(第一七四六号)  長時間夜勤・二交代制導入反対、よい看護に関  する請願池端清一紹介)(第一五四一号)  同(池端清一紹介)(第一五七四号)  同(児玉健次紹介)(第一五七五号)  同(池端清一紹介)(第一五九七号)  同(池端清一紹介)(第一六二六号)  同(池端清一紹介)(第一七四八号)  山西省残留犠牲者救済措置に関する請願(松  本善明君紹介)(第一五四二号)  保険によるよい病院マッサージに関する請願  (井上喜一紹介)(第一五七六号)  同(土屋品子紹介)(第一五七七号)  同(大口善徳紹介)(第一五九八号)  同(桝屋敬悟紹介)(第一五九九号)  同(児玉健次紹介)(第一七四九号)  同(坂口力紹介)(第一七五〇号)  同(桝屋敬悟紹介)(第一七五一号)  療術の法制化に関する請願伊藤達也紹介)  (第一六一九号)  同(山本有二紹介)(第一七五二号)  医療保険患者負担大幅引き上げ中止に関す  る請願池坊保子紹介)(第一六四五号)  同(穀田恵二紹介)(第一六四六号)  同(玉置一弥紹介)(第一六四七号)  同(寺前巖紹介)(第一六四八号)  腎疾患総合対策早期確立に関する請願(甘利  明君紹介)(第一六四九号)  同(粟屋敏信紹介)(第一六五〇号)  同(井奥貞雄紹介)(第一六五一号)  同(伊吹明君紹介)(第一六五二号)  同(池端清一紹介)(第一六五三号)  同(石破茂紹介)(第一六五四号)  同(衛藤征士郎紹介)(第一六五五号)  同(大石秀政紹介)(第一六五六号)  同(大野功統紹介)(第一六五七号)  同(岡田克也紹介)( 第一六五八号)  同(鹿野道彦紹介)(第一六五九号)  同(海部俊樹紹介)(第一六六〇号)  同(金子原二郎紹介)(第一六六一号)  同(河村建夫紹介)(第一六六二号)  同(神田厚紹介)(第一六六三号)  同(木部佳昭紹介)(第一六六四号)  同(木村義雄紹介)(第一六六五号)  同(岸田文雄紹介)(第一六六六号)  同(北村直人紹介)(第一六六七号)  同(北脇保之紹介)(第一六六八号)  同(久野統一郎紹介)(第一六六九号)  同(熊谷弘紹介)(第一六七〇号)  同(栗原裕康紹介)(第一六七一号)  同(河本三郎紹介)(第一六七二号)  同(佐藤敬夫紹介)(第一六七三号)  同(佐藤剛男紹介)(第一六七四号)  同(斉藤鉄夫紹介)(第一六七五号)  同(斉藤斗志二君紹介)(第一六七六号)  同(坂口力紹介)(第一六七七号)  同(坂本剛二君紹介)(第一六七八号)  同(杉山憲夫紹介)(第一六七九号)  同(住博司紹介)(第一六八〇号)  同(関谷勝嗣君紹介)(第一六八一号)  同(仙谷由人紹介)(第一六八二号)  同(田村憲久紹介)(第一六八三号)  同(武村正義紹介)(第一六八四号)  同(達増拓也紹介)(第一六八五号)  同(玉置一弥紹介)(第一六八六号)  同(津島雄二紹介)(第一六八七号)  同(寺前巖紹介)(第一六八八号)  同(土肥隆一紹介)(第一六八九号)  同(虎島和夫紹介)(第一六九〇号)  同(中川昭一紹介)(第一六九一号)  同(中川秀直紹介)(第一六九二号)  同(中山成彬紹介)(第一六九三号)  同(仲村正治紹介)(第一六九四号)  同(長勢甚遠君紹介)(第一六九五号)  同(二階俊博君紹介)(第一六九六号)  同(西岡武夫紹介)(第一六九七号)  同(能勢和子紹介)(第一六九八号)  同(畑英次郎紹介)(第一六九九号)  同(春名直章紹介)(第一七〇〇号)  同(平賀高成紹介)(第一七〇一号)  同(平沼赳夫紹介)(第一七〇二号)  同(福島豊紹介)(第一七〇三号)  同(藤田スミ紹介)(第一七〇四号)  同(船田元紹介)(第一七〇五号)  同(古屋圭司紹介)(第一七〇六号)  同(保利耕輔君紹介)(第一七〇七号  同(細田博之紹介)(第一七〇八号)  同(堀之内久男紹介)(第一七〇九号)  同(牧野隆守紹介)(第一七一〇号)  同(正森成二君紹介)(第一七一一号)  同(桝屋敬悟紹介)(第一七一二号)  同(松本純紹介)(第一七一三号)  同(松本龍紹介)(第一七一四号)  同(御法川英文紹介)(第一七一五号)  同(宮下創平紹介)(第一七一六号)  同(村井仁紹介)(第一七一七号)  同(村上誠一郎紹介)(第一七一八号)  同(目片信紹介)(第一七一九号)  同(持永和見紹介)(第一七二〇号)  同(保岡興治紹介)(第一七二一号)  同(山元勉紹介)(第一七二二号)  同(渡辺周紹介)(第一七二三号)  医療保険制度改悪反対公的介護保障制度の確  立に関する請願木島日出夫紹介)(第一七  二四号)  介護保障確立に関する請願春名直章紹介  )(第一七二五号)  公的介護保障制度早期確立に関する請願(石  井郁子紹介)(第一七二六号)  同(志位和夫紹介)(第一七二七号)  同(春名直章紹介)(第一七二八号)  同(松本明君紹介)(第一七二九号)  若中年層を含めた介護保険創設医療保険改革  の見直しに関する請願仙谷由人紹介)(第  一七四七号) は本委員会に付託された。     ――――――――――――― 本日の会議に付した案件  臓器移植に関する法律案中山太郎君外十三  名提出、第百二十九回国会衆法第一二号)  臓器移植に関する法律案金田誠一君外五名  提出衆法第一七号)  健康保険法等の一部を改正する法律案内閣提  出第三六号)      ――――◇―――――
  2. 町村信孝

    町村委員長 これより会議を開きます。  第百三十九回国会中山太郎君外十三名提出臓器移植に関する法律案及び金田誠一君外五名提出臓器移植に関する法律案の両案を一括して議題といたします。  本日は、両案審査のため、参考人から意見を聴取することにいたしております。  本日、午前、御出席参考人は、杏林大学学長竹内一夫さん、日本大学医学部救急医学科教授林成之さん、九州大学生体防御医学研究所免疫学部門教授野本亀久雄さん、広島大学名誉教授県立広島病院病院長魚住徹さん、順天堂大学医学部循環器内科主任教授順天堂医院医院長山口洋さん、以上五名の方々であります。  参考人方々には、大変御多用中にもかかわらず、また、中には遠路の方もいらっしゃいますが、御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。両法律案につきまして、どうか忌憚のない御意見をお述べをいただきますようにお願いを申し上げます。  次に、議事の順序について申し上げます。  最初に、参考人皆様方から御意見をそれぞれ十五分程度お述べいただきました後、委員より質疑を行うことになっておりますので、どうぞよろしくお願いを申し上げます。  なお、御発言は着席のままお願いをいたします。  それでは、最初竹内一夫さんから御意見をお述べをいただきたいと存じます。竹内さん、どうぞよろしくお願いいたします。
  3. 竹内一夫

    竹内参考人 十五分間いただいておりますが、私は、三つのことについて申し上げたいと思います。第一番は、脳死定義あるいは概念というものに関する混乱について、それから第二は、脳死判定プロセスについて、それから三番目は、脳死判定基準構成に関することということでございます。  最初の、脳死定義についてでありますが、これは脳が死んでいるということを意味するのであって、心臓死とかあるいは窒息死とかというふうに、いわゆる人の死と直結している概念ではなかったはずでありまして、しかもこれは臨床的な概念であるというふうに考えております。  したがって、道端で犬が死んでいるのを子供が見つけた、そういう場合に、犬が死んでいるということに対して、だれもがそれを認める。ただ、犬の一つ一つ臓器がどうなっているとか、あるいは細胞がどうなっているというようなうるさいことはないわけでありますし、さらに、人の死の場合の三徴候というものも、同じようにやはり臨床的な判定によってなされるものであります。  したがいまして、脳死を人の死とするかしないかという場合に、私個人としましては、その死というものをどういう次元でとらえて言っているのかなというふうに首をひねらざるを得ないわけであります。  時に、脳死に関して、器質死とか機能死とかという言葉が出てきたわけでありますけれども、実際にその器質死という概念を用いますと、あらゆる死ということが病理学的な精密な検索を経なければ決定できないのでありまして、とても臨床的な要求には応じかねるということであります。実際に、死体から摘出した腎臓が他人の体の中で生着するというふうなことになれば、いわゆる死亡後の臓器の中でも生きているものがあるということが十分理解できるわけであります。  それと同時に、我が国では、脳死というのは脳幹を含む全脳の機能の不可逆的な喪失という定義でありますが、全脳という範囲は、やはり頭蓋内の脳髄全体を指して、頸髄の上部あたりまで含まれるということでありますけれども、その中の一部分、特に大脳半球、こういう部分障害による植物状態、これが意識がないというようなことで、昏睡状態というようなことで、脳死と混同されて誤解のもとになっているというようなこともあります。  二番目に、脳死判定に関してでありますけれども、脳死判定に関する疑義が今日なお絶えないわけでありますが、脳死判定というものは、野球で飛んできた球をアンパイアがその場でストライクかアウトかと決めるようなものではないということです。もし、かつぎ込まれた患者さんをその場でこれは脳死かどうかと問われれば、返答に困る方が大部分だろうと思うのです、お医者さんは。  そういうものではなくて、脳障害の発症から、私が持ってまいりましたこの図をごらんいただけばわかりますが、脳障害というものが進行する、それに対して医師種々治療をする。残念ながら、その治療効果がなくて、種々の症状、昏睡とか呼吸停止とか脳幹反射消失というようなものが起きてくる。ついに、脳死状態に陥ったというのがこのA点でありますが、これにはやはり時間的なプロセスが当然あるわけです。  右の方に上がる矢印がありますけれども、これは種々治療によって回復状態を示しているのでありまして、林教授の言われる低体温療法もこれに含まれると私は考えます。  したがいまして、少なくともA点に至るまではあらゆる医師の努力によって治療効果がまだ期待できる状態でありますが、必ずしもすべての例が治療効果が得られるとは限らず、残念ながら右の下の方に向かう経過をたどる方が出てくるわけであります。  その場合に、Aの点からBの点までの間、時間的には一応六時間となっておりますけれども、この六時間の経過を経て脳蘇生限界点というものに達するわけでありまして、AからBまでの間は実線ではないけれども点線ぐらいであらわされる回復可能性というものはまだあるというふうに理解できると思います。ただし、Bを過ぎますとその可能性は皆無になるということで、ポイント・オブ・ノーリターンという言葉で呼ばれているポイントがBであります。ただ、この六時間というようなものも、症例によってはより長く設定しなければならないという場合もあるわけであります。  一方、縦軸脳損傷程度という方からいいますと、脳蘇生限界点を経て脳の自己融解というような現象がだんだん起きてくる。ただし、この自己融解の行き着く先が脳細胞のすべての死というところまではなかなかいかないけれども、心停止には至るということであります。  したがって、担当医はこの全経過を見て、さらに当該患者さんの周辺の方々と十分接触して最終的に脳死の判断をするということでありまして、三番目の脳死判定基準構成要素というところに関係がありますけれども、脳死判定基準最初に「前提条件」あるいは「除外例」というものが厳重に設定されております。  したがって、例えば前提条件として、その脳障害に対するあらゆる治療法が実施された後でこの脳死判定をする。まだこういう治療方法をやればいいのじゃないかということが、余裕が残っている場合には当然脳死判定はすべきではないというのが脳死判定常識だと思っております。  さらに、当該症例生命兆候あるいは神経症状、さらに各種の補助検査のデータ、そしてこの観察時間を経て脳死判定をするということでありまして、それぞれの構成要素の間には相互関係があります。  例えば、対象範囲をごくごく絞る。脳のプライマリーの一次性の障害だけに限るとか、あるいは逆に脳の病変を非常に広い範囲でとらえるとか、そういうような場合に観察時間の問題、殊に年齢などで幼小児を入れるというようなことになりますと、観察時間をうんと長くするというのが常識であります。  したがいまして、たまたま私どものつくった基準が一応六時間という時間を設定しておりますけれども、某大学基準が二十四時間である、ただそれだけをとって、六時間と二十四時間といえば二十四時間の基準の方が厳重なんだ、そういうような解釈がよく世の中で行われておりますけれども、その前に、では実際に対象例はどれだけの範囲なんだ、あるいはどういう検査をその場合に使っているのか。検査をできるだけ省いていきますと観察時間が長いということがどうしても出てくるわけですね。したがって、判定基準を批判する場合には、一つ一つ構成要素について十分検討した上で批判をしなければならないということになるわけであります。  いずれにしても、判定に関しては、判定指針及び判定基準を正しく運用する限り正しい判定が可能であるということであって、もしその判定に際して自信がないというような場合には、これは判定を保留するというのが医学的な常識であろうかと思っております。  以上であります。
  4. 町村信孝

    町村委員長 どうもありがとうございました。  次に、林成之さんにお願いをいたします。
  5. 林成之

    林参考人 日本大学救急医学を担当しております林と申します。  私は、日常生活はもうほとんど毎日が生死の境で患者さんを助ける作業を行っておりますけれども、これまでこの問題について数多くの討議がなされまして、今竹内先生から概念を導入した脳死意味について正確に御紹介になりました。  私がここへ呼ばれたのは、多分、この十年間におきまして脳の蘇生法も大きく進歩してまいりました。その中で、脳死に対する考えは現場では変わっているのかどうなのか、あるいはそういう概念死でいいのかどうなのか、あるいは概念死を導入する根拠をもっと明確に、いろいろなことがわかっているのではないかということを多分問われているのだというふうに思います。  それで、きょうは、この問題は、過去のすばらしい討議をいろいろと読んでまいりまして、ほとんど討議し尽くされているのじゃないかと思うくらいよく討議されていると思っております。その中で、まだ疑問に思われていることを幾つか自分なりに考えをまとめまして、自分に対して質問形式で、その質問に対して一つ一つ答えがわかりやすく出るように、一応そういう形で資料をつくってまいりましたので、それを参考にしていただきたいというふうに思います。  まず第一番目に、臓器移植医療における最も重視しなければならないことは何なんでしょうか。私は、最も大切なことはやはり医療原点だと思うわけです。原点というのは患者を治すことです。したがいまして、救急医療臓器移植医療も同時に大切でありますし、その医療を展開するに際して人間の尊厳性が損なわれてはならないということだというふうに思います。  脳死医学的意味は、今竹内先生が、現在の医療は脳の機能回復し得ない状態概念死を導入した一つ考え方であるということを正確に御説明なさいました。アカデミックに我々物を考えているときには、この脳死という言葉、というよりも正確にはこれは脳死状態を指しているというふうに理解しております。  よく質問を受ける、脳低体温療法脳死患者にでも治療効果があるのか、あるいはもう一つ詳しく、脳の蘇生限界を動かした理由はどういうことなんでしょうかという、非常に大きな疑問がこれまでの医学的概念の中から多分出ているのだと思います。  これに対して、これまでの脳の治療は、直接外傷や脳卒中で障害を受けた一次性脳損傷は、壊れていますのでほとんど治せないのだ。それに対して、その壊れた組織中心に発生してくる脳浮腫脳圧高進に伴う脳虚血に対するための脱水療法中心とした二次的組織病態に対する治療が行われてまいりました。  これに対して、脳の低体温療法は、一次的に障害を受けた組織でも、その中にある神経細胞までが一時にすりつぶしてつぶれたということはありませんので、死にかけている細胞、死んだ細胞、いろいろ、非常に危篤状態にある細胞があると思うわけです。この危篤状態細胞に対して、脳の低体温管理によりまして細胞の中に発生するあらゆる病態をとめている間に、神経細胞回復してくるために必要な酸素と代謝基質を供給する、いわゆる神経細胞に対する治療法になっているわけです。それにはまず基本的に、全身循環代謝を安定させまして、脳温上昇を防いだり、いかに多くの酸素を素早く脳に供給するかが非常に大切なポイントになりますので、これは細胞病態治療目標が置かれ、行われてきた従来の組織目標とは、ちょっと少し先に踏み込んだ治療法だというふうに理解しております。  したがいまして、脳死はこれまで、細胞レベルまで含んでいない概念でとらえられてきた歴史がありますが、脳の低体温療法治療成績とか、その前進の結果を見ますと、やはり医学の進歩とともに脳死細胞レベルの点まで含めて考える時代に入ってきたんだというふうに思うわけです。  科学的な実証として、我々が非常に難しいと一に思っているのは、死んだ神経細胞が低体温療法によって回復したという報告はございませんし、低体温療法で、死んだ患者さんが回復するということは、理論的にも実証的にもほとんどそれは不可能なことで、そういうことは、はっきり言って、ないというふうに言っていいと思います。  問題は、次のところから誤解が生じているんだと思うんです。  その一点は、我々にとっても非常に難しいことなんですけれども、科学的に脳の細胞が死んでいるということと、死んではいない、あるいは死にかけておりますけれども神経細胞膜の機能停止を起こしたこととを明確に区別する方法は、臨床症状でも電気生理学的な検索でも明確にできない点が一つあります。  それから第二点として、例えば一番よく用いている頭皮上から脳波活動を見てみましても、それが全く消失したと思われておりましても、深部の脳波や鼻腔脳波で脳波が記録されることがあります。したがいまして、すべての脳の中の神経細胞の活動電位を記録できる方法が確立されていないということが一つの大きな、我々にとっても難しい点なんです。  したがいまして、脳死という言葉は学問的には正確な言葉ではなく、脳の細胞機能回復し得ない状態、つまり脳死状態という概念死の理解が、今竹内先生が正しいんだということをおっしゃったと思います。  低体温療法で、見かけ上、よく間違われるのは、脳幹神経細胞死と考えられておりました瞳孔散大、対光反射消失、除脳硬直患者でも、この治療によって回復していった患者さんがたくさんいらっしゃいます。このことは、脳幹神経細胞膜の機能が消失した症例であって、細胞自体が死滅していた患者ではないと考えざるを得ません。  それでは、厚生省・竹内基準判定脳死判定を受けた患者さんがこの治療法によって回復する可能性があるんでしょうか。  今竹内先生がおっしゃいましたように、脳死には蘇生限界を超えて脳死に至るプロセスがあります。この過程の中で、どこで脳死状態からの回復可能性を決めるのか。それにはどれくらい脳死時間が続いているかという時間的因子への配慮が極めて大切なポイントでありますし、脳死判定における時間的経過でだめ押しする重要性は極めて重要なポイントでありますし、竹内先生と全く同感であります。特に、神経細胞の膜の構造が完成されるのは六歳までと言われているわけですから、この膜の構成が完成していない小児では神経細胞膜の機能消失が非常に起こりやすく、見かけ上、脳死になりやすい傾向があります。このため、小児では脳死判定の適正時間を決定しにくく、竹内基準でも六歳以下の小児は除外されておりますし、今後の問題だと思っております。  現在、六時間経過を見る竹内基準判定回復した患者さんは一人もいらっしゃいませんので、脳死判定の正確さにおいてはこの厚生省・竹内基準は非常に正しい方法だというふうに考えております。  脳低体温療法は、先ほど言いましたように、非常に早期の病態を改善する治療法であり、脳の反応が全く消えてしまった後六時間も経過を見る脳死状態患者さんには、回復可能性は期待できません。  それでは、この脳死判定法において、救急医療の現場では問題はないんでしょうかという一つ質問をよく受けます。  この判定法は、正確には脳の不可逆性といいますか、戻らない状態を正確に判断するために考え出されているために、今度は逆に、患者を救おうという視点から医療を行っている救急医にとりましてはジレンマを感じる点が一つあります。  それは、自発呼吸の判定をするために、無呼吸テストというのが絶対条件になっております。この操作は、あらかじめ純酸素を二十分間吸入いたしまして、脳に酸素が欠乏しないようにした上で人工呼吸器をとめまして、呼吸中枢が反応する血液の炭酸ガス濃度を高める方法で自発呼吸の有無を判定する方法です。この場合、死にかけた呼吸中枢の神経細胞は炭酸ガスに対する反応性が非常に悪くなる方もいらっしゃいまして、自発呼吸を出現させる血中炭酸ガス濃度は四十五から七十一ミリ水銀と、非常に大きな幅が記録されております。この血中の炭酸ガス濃度が七十一ミリ水銀にも上がりますと、心臓を含む体の細胞内は非常に酸性になりまして、途中で不整脈や血圧の低下を招きまして、無呼吸テストによって脳蘇生可能性を断ち切っているのではないかという葛藤を生ずることがあります。このやり方についてはもう少し形を変えた方が望ましいというふうに我々は考えています。  脳死を人の死として考えてよいかどうかという非常に大きな、今までは細胞の話をしてきたわけですけれども、それについて、細胞のレベルからもう一度考えを整理してみたいと思います。  厚生省・竹内基準判定された脳死は、脳組織、それを構成する神経細胞まで配慮に入れていきますと、正確には脳死状態意味しております。したがって、科学的には、脳死は人の死とは言えないと思います。  脳死状態というのは、現在の医療回復し得ない状態と言えるので、この状態を人の死とするためには、科学的な細胞レベルまでの医学的知識を超えまして、医療の限界を決定し、社会的通念に基づく概念死を導入することがもう絶対になってくるわけであります。したがいまして、その正否は、将来にわたって正しいかどうかはわからない問題を含むことになるんじゃないかというふうに考えております。  最後になりますけれども、救命救急医療移植医療の問題をどのように解決したらよいか。  この問題は、これは私見になりますけれども、法で医療の限界を決定することや人間の尊厳性を損なうことなく、患者を助けるという救命救急医療臓器移植医療を同時に展開するためには、その方法は非常に限られているように思います。その時代における医療で蘇生できない脳死状態になった場合という条件で、本人あるいは家族がその臓器を次の医療に役立ててくださいとおっしゃったとき初めて、法の工夫によって臓器移植医療を展開できる方法が無理がないのではないかというふうに考えています。  もし、これはもしですけれども、医学の進歩によりまして、現在の脳死状態判定でも万一助かる患者さんが出た場合は、その時代における医療で蘇生できないという条件から外れできますので、その時点で改めて脳死状態判定を見直す道を確立しておくべきだ、あるいは残しておくべきだというふうに思います。それによって、患者の意思が最優先されることによりまして人間の尊厳性が保たれ、障害を受けた患者に対する救命救急医療の全力投球を損なうことなく、臓器移植医療も展開できると考えています。  ここで非常に大切なことは、臓器提供の数が減ると心配するということよりも、患者を助けるという救命救急医療の充実を図り、臓器提供の申し出があった場合、すばらしい人だと称賛される社会的通念を築いていくことによって臓器提供をふやし、公平な臓器配分方法を工夫して、社会全体で移植医療を発展させていくことこそ大切なことだというふうに思っています。  したがって、脳死判定移植医療は、これまで我々が、一つの生命体といいますか、生命体が基本的に生きようとする原点を侵さないための、心停止、脳機能の消失をもって判定してきたこれまでの死の概念とは次元の異なるものだというふうに思います。  医学の進歩の中で、この従来の死の概念や法ですべてを解決することが困難な場面に直面した場合、最初に述べましたように、患者を治すという医療原点を守ることこそ次の世代に対する我々の任務ではないかというふうに考えています。  これまでこれらの問題をめぐってあらゆる角度から討議されてきたことを本当にすばらしいことだと考えています。法によって医学的死の限界を決めることは、我々患者を助ける医療人にとっては、非常になじみにくい、疑問が残る方法でもあると思っています。どうぞ、それぞれの立場を白紙にして、これまでの法を絶対視することなく、患者を助けるという医療原点を重視した方法でこの問題を解決していただきたいと思っております。  御清聴ありがとうございました。
  6. 町村信孝

    町村委員長 どうもありがとうございました。  次に、野本亀久雄さんにお願いをいたします。
  7. 野本亀久雄

    ○野本参考人 野本でございます。  私、きょうお呼びいただいたのは、基礎科学者としてではなくて、恐らく、多くの移植医を抱える日本移植学会の理事長として、その意見を述べよということだと思います。したがいまして、本格的な臓器移植を分担する社会的な状況に備えて、どのように学会の内部環境、医学界の内部環境の整備に努めてきたかを御報告するのが今回の役割かと存じます。  移植医療は、新しいタイプのチーム医療であり、多くの医学分野のみならず、一般社会の御支援で初めて成り立つものです。当然、移植医はこの大きな流れのワンポイントを分担するにすぎない立場です。  しかし、移植という分野を標榜しておる日本移植学会が、まず専門職としての責務を自覚し、自主管理能力を身につけ、社会から信頼される集団に成長することがすべての出発点だと考えております。  私自身、免疫学を出発点として、生体防御論という考え方を提唱し、その確立に努めているだけの基礎生物学者なものですから、多分そのためだと思いますが、本来無関係な人間がなぜこの問題にかかわるのかという詰問に近いような問いがしばしば私には投げかけられます。そこで、まず私の移植へのかかわりを簡単に説明し、どのような視点から学会のリーダーを務めているかを御理解願いたいと存じます。  一九六四年に第一回の日本移植学会総会が開かれましたが、そのときから、毎回、拒絶反応の回避に関する基礎的研究の成果を発表してまいりました。ところが、一九八八年、その年の学術活動を担当する学会長に選ばれ、移植をめぐる閉塞状態を打開する道を探るよう要請されました。  その際、実情を分析し、市民の多くの方々臓器移植、ましてや脳死については御存じではない、そのこと自身が最大の問題であると判断いたしました。  そこで、一九八八年四月から六カ月ほどの間に、全国十四カ所で、市民参加の公開シンポジウムを開催いたしました。一般市民の側には脳死臓器移植について知っていただくこと、一方、移植医の側には市民の要望を十二分に知ること、この両面に目的を置いて開催したわけです。  その結果、フェア、ベスト、オープンという単純きわまりない、また当たり前な基本原則が守られない限り、この問題は解決の糸口にも到達しないというのがその間の活動の成果だと言えます。  一九八九年からは二年半、三十カ月になると思いますが、特別委員会が設置され、シンポジウムで浮かび上がってきた問題の解決の道を探るという活動を続けてまいりました。毎月一回の会議の内容を公表し、また、取り上げるべき課題を多くの分野から指示していただくという方式をとったわけです。  その際、当然、和思臓移植の問題も取り上げられ、医療問題に堪能な弁護士の方に協力していただき、徹底的な解明を試みてみました。しかし、限りなく疑念が深まるのみで、決定的な証拠が欠損し、断定的な結論を導き出すことはできないというのがいただいた答えです。  しかし、医療の本来の役割から考えると、市民が不安を抱くということ自体既に過ちであり、多少とも不安が生じれば、全情報を公開して不安の解消に努めるのが当然の義務である、これが特別委員会の見解でした。この見解は、記憶に間違いがなければ、京都新聞が全文掲載してくださったと記憶しております。  一九九一年からは、研究室へもう帰ってよろしいということになりましたので、本来の基礎の研究生活に戻っておったわけです。四年ほど移植の問題のリーダーという役割からは縁が切れておりました。  一九九五年九月、移植学会理事長に選ばれましたが、その際、当然、基礎学者ですから、すぐに現状の分析というようなことを始めます。  そうしますと、まさに愕然といたしました。前回オピニオンリーダーとして取り組んだ状況から一歩も前進していないということがわかったからです。心、肝の移植については、多くの方々が多額の寄金を集められ、外国で移植を受けられているのが実情でした。腎臓については、年間百数十例の提供腎移植にまで低下しておるということに唖然といたしました。多くの方々が腎不全に悩んでおられ、人工透析でしのいでおられる実情を考えますと、年間二千例の腎移植を超えて初めて一般医療に貢献できるレベルだと考えられます。  臓器移植は、社会のすべてのチームが参加して行われる新しいタイプのチーム医療ですから、日本移植学会だけが力んでみても、何ほどの意味を持つものではありません。これはもう一番よく私自身がわかっております。しかし、問題解決の糸口を探る役割は我々にある、こう判断しました。  問題が紛糾している背景要素としては多くのものが挙げられますが、医療不信、特に移植医療への不信が少なくとも重要な要素であると判断し、その軽減に理事長としての責務を置くということにいたしました。  やりましたことは、まず第一に、社会的ルールを絶対的に守るという習慣を身につける、こういうことです。第二に、法の保護がなくても国民の支持が得られるような信頼度の高い活動指針をつくること。第三に、ルールを守り、倫理性の高い活動指針をつくるというこのプロセスを経て、学会員の倫理的な感性を高める、こういう方針を固めました。  当時、理事長に選出されました一九九五年の九月には、前回の法案が審議中でしたので、当然のことですが、法案の審議中はそれに係る活動は差し控えるという一般的な社会ルールを学会の方針としても打ち出しました。  一九九六年九月、国会の解散に伴って前回の法案が廃案となり、先行きが、これはだれにも、特に我々移植学会のメンバーには全く見えなくなってまいりました。そこで、移植学会全会員が自主管理能力を発揮し、国民レベルの支持が得られるよう活動すべきときだと判断いたしました。  これは、法がないまま移植を実施せざるを得ないという厳しい状況に追い込まれても、一般市民の幅広い支持で何とか乗り越えられるような信頼度の高い活動指針をつくること、それがこの一つです。同時に、専門職集団としての自主管理能力に磨きをかける時期だと考えました。その実行の手段が、作業部会、ワーキンググループの設置です。  第一の作業部会は脳死状態からの臓器提供に関するものであり、これは本来、救急医学や脳神経外科の方々に一〇〇%依存し、移植医は関与してはならない部分です。しかし、そのことに甘え、脳死現場の厳しい状況についての理解が移植医には不足していると判断しました。そこで、あえてこの点も十分に考えるよう要請しました。  第二の作業部会は、レシピエントの選択、術前術後の管理を考えるものであり、この部分も、第三者的ネットワークシステムや内科系の方々に依存すべきものです。しかし、やはり甘えを取り除くため、移植医としても十分検討するように要請しました。  第三の作業部会は、臓器移植の実施をめぐる問題を担当しました。移植医のほとんどが参加している日本移植学会としては、積極的な義務があるのはこの部分考えます。この作業部会で国民が安心できる方式をみずから打ち出すことが問題解決のかぎの一つになると考え、厳しく対応するようにメンバーたちに要求しました。  三月二十二日に、活動指針の案を理事長として検討し、何とか公表できるレベルに近づいたものと判断しました。  要点を取り上げてみますと、第一に、さまざまな角度からのチェックシステムの監視のもとで臓器移植を実施するという点。第二に、レシピエント選択をネットワークシステムに乗せ、移植医の勝手な判断が入る余地がないようにするという点。第三に、整備が進んでいる施設に限定して移植のスタートを切るという点。第四に、ベストの医療システムを構築するため、全国レベル、さらには海外からの協力も得て、全方位型の支援体制をつくるという点です。  特に、全方位型の支援体制については、理事長、副理事長がチームリーダーとして参加し、各分野の専門家の方々に参加をお願いして体制をつくることにいたしました。各施設にもし弱点があれば支援体制でカバーし、百点満点を超えるような仕組みをつくるということを決定いたしました。  三月二十二日の活動指針の案というのは、大綱としては理事長として受け取れるものでした。しかし、詳細については多くの問題が残されており、これを直していくのが今の作業です。多くの分野の方々の御意見を取り入れて改善し、四月十二日には印刷物の形で公表するように作業が進められております。きょうの国会議員の先生方やメディアの方々にも、印刷ができ次第直ちにお送りすることになっております。  三月二十二日の段階では、私が読みましたところ、医学系の文章にありがちな欠点が多く見られ、難解な言葉があり、あいまいな表現とか無用の修飾が目につきました。こういうことがまたいろんな疑念を生ずる原因になりますので、この点についても、一般社会に通じるように訂正していくつもりであります。  四月十二日に公表します活動指針はあくまで日本移植学会のもので、そこに限定があります。移植のチーム医療の性格から考えますと、この活動指針は、すべての分野の協力を得るための糸口であると考えております。四月十二日以後、移植学会版の活動指針を携え、多くの分野の方々に接点を持たせていただきます。数カ月以上かけて、社会全体の御意見を反映しつつ、活動指針が円滑に動く環境をつくるつもりです。  法を制定していただいた後には、法を守ることはもちろん、自主管理能力をベースとする活動指針を守り、臓器移植が適切な形で活用されるよう努力するつもりです。将来、法制定に基づいて臓器移植をスタートさせてよかったと多くの方々が思ってくださるよう、私としても最大限以上の努力をするつもりでございます。  以上でございます。
  8. 町村信孝

    町村委員長 どうもありがとうございました。  次に、魚住徹さんにお願いをいたします。
  9. 魚住徹

    魚住参考人 私の根本的な立場というのは、脳死を法で死とするということには反対であるということでございます。  脳死臓器移植はなぜ進まないのか。二つぐらい、大きく分けて考えなければならないと思います。  一つは、臓器移植するということそれ自体に対する反対があるのかということでございますが、私は、そうではないと思っております。  前職で広島大学病院長もやっておりましたので、当時、生体部分移植も非常に苦労してやりました。第一例は亡くなられましたが、後ほど、昨年はもう成功しております。成人でございます。ほかに、子供の例も含めて、全国で非常に多数のものが成功してきています。腎臓に関してもそうでございまして、生体腎移植は進んでおります。骨髄移植も、ゆっくりではございますが、進んでおります。  したがって、臓器移植そのものに対する根本的な反対というのは、国民の中にはないのではないか。仕組みをさわったらそれでできるが、それが足りないからできないというようなのは、言い逃れであろうというふうに思っております。  しからば、あとは何が問題かといえば、この委員会でも問題になっております、脳死を人の死とするのかどうかということに対する問題でございます。  恐らく、一般の人から見て、移植のために脳死者のすべてを死者とみなすのであるということを法律で決めるということに対して、反対、疑念、ためらい、あるいは嫌悪感、そういうものが非常に深く内在するのではないか。ここが一番のポイントであろうというふうに私は思っております。  過去十数年にわたりまして、日本の各界のリーダー、積極的に発言なさる各界のリーダーは、脳死をもって死とする、欧米でやっているじゃないかということをもう盛んに発言してこられました。まあ政府もそうであったと言うべきでありましょうが、そうでありました。  けれども、いろいろアンケートをとってみますと、一般人で、容認する人、五〇%ぐらい、それから反対の人、二五%から多いので四〇%でございますが、まあ二、三〇%というのが日本国民の平均的なデータであって、今後もそれは余り変わらないのではないかというふうに感じられます。  立法化されておるアメリカはどうかということでございますが、アメリカでも、一九八七年のデータで、賛成五〇%、反対二五%、わからない二五%ということでございますので、日米ともに一般人の感覚は変わらないというふうに見てよいと思います。  それでは、脳死患者の家族はどうかということでございます。  これは詳しくは申しませんが、御存じと思いますが、東京女子医科大学の救命救急センターとか、日本医科大学の救命救急センターとか、そういうところでたくさんとられた貴重なデータがございます。脳死の家族を体験した後に意見がどのように変わったか、変わらないかということを調べてみますと、従来は脳死を人の死と考えていたけれども、家族のことについて体験してみて、死ではないと思うようになった、そういうふうになったという人の割合が最も多いということでございますので、これは、死の容認の人々の減少が、絶対数が多かったということになると思います。  アメリカでも、臨調委員が米国視察のときに、大きな病院で見てみますと、脳死五十人、そのうちで、どうしても納得しないでレスピレーターを動かし続けておった人が十五人あった。三分の一は絶対うんと言わないということでございました。こういうものをもって本当に法律で死と決めていいのかどうか、非常に疑問であります。このことは、臨調の委員そのものがアメリカ人に聞いたりしております。  退院後、年月を経た場合にどうなるか。これは山梨医科大学の脳神経外科の非常に貴重なデータがございますが、退院後大分たってから家族に聞いてみると、脳死を死と認める者、一八%、反対の者、四五%というデータがございます。これは、年月を経ても、脳死の家族の経験者は、死を容認するという者が二割を切るということになっておりまして、これは、そういうふうな形で押していけば、死だ死だといって押していけば、これは先細りであるということになります。これはつまり、脳死は死なんだという、そういう論理はかなりの無理があるということを如実に示しております。  しからば、死体とは何だろう、死とはどこから始まるか。  こんなことはもう先生方に申し上げるまでもないわけでございますが、全身循環低下が進行いたしまして、それが本当にとまってしまう、そして不可逆になって、いわゆる三徴候というのが出てまいりました。この時点をもって、医者はそこをつかまえて、三徴候というのですけれども、そこを臨終といいます。これが死の経過が始まるところであります。やがて、死後硬直、体温低下、死斑あるいは死臭、そういうものが出てまいりまして、だれの目で見てもわかるというそういう状態の変化と、時間的な非常に早い展開、これを死の真徴というわけでございますが、このだれでもわかるものというのが我々の概念の中で死体という概念を支えてきた。これは恐らくは数百万年前から、我々の先祖の先祖から脳の中にインプットされた、死体とはこういうものであるという本能的な記憶でございます。脳の中に植えつけられた本能の記憶であるということでございます。脳死は死だというのはそれに明らかにあらがうものであると言わざるを得ないというふうに思います。  それでは、いつ、だれが、どういうところで脳死は死なんだということを言い始めたかということでございますが、いろいろな例がございますが、一九六八年に不可逆性昏睡定義という、ハーバード大学医学部の委員会報告がJAMAという雑誌に出ております。  これを読んでみますというと、これは余り紹介されておらないのでちょっと不思議に思うのですが、文頭に、この委員会の元来の目的は不可逆性昏睡をもって死の新しい基準として定義することである、まずそれをディクレアしておるわけですね。  なぜこの定義が必要か。理由が二つある。一つは、永久に知性を失った患者にとって、その家族にとって、その病院にとって、またそのベッドを必要とする、待っておる他の患者にとって、これら昏睡患者は大きな重荷であると書いてございます。社会の重荷であると。もう一つの理由は、臓器を得ようとしたときに、古くさい、原文ではオブソリートという言葉が使ってございますが、死の基準は論争の種になっておる、これを打ち切ろうではないかということでございます。さらに、脳であれ、他の臓器であれ、もはや機能せず、かつは再び機能する可能性なき臓器は、あらゆる実用的な目的から見て死んでいるのだというふうに断言しておるわけでございます。  これは、脳死は社会の重荷であって、脳死者は不要である、無用である、臓器をとるために必要であるから、そのために便宜的に死の定義を新しくつくろう、そういう意図のもとにアメリカでは始まったというわけでございます。  それから後、いろいろな経過がございまして、細かくは申しませんが、脳死者という弱者の立場に立った論議というのは全然しておらないということでございます。  それで、それぞれの国で、いろいろな論議をしながら、それぞれ二十年ぐらいかかって立法したところもあれば、しないところもございますが、なぜ何となくそれが多数を占めておるかといえば、それは、今生きておる我々、それからこういうことを主張する強者にとって実利があるからでございます。例えば、臓器移植をするときに、論議の種、災いの種がないというような、そういうふうな物の見方がその根底にあるということでございます。脳死者の尊厳といったようなことは、どこにも書いてございません。  私も、長い間いろいろな脳死の医学的な問題ということを研究もしてまいりましたけれども、実際に、身体的なことを全部調べていって、いろいろな論議をしてまいりました。たくさんのデータをとってまいりましたが、どこかまでいくとこういう症状が出てきたから、こういうサインがあるからこれで医学的に脳死患者は死んだのだというようなサインというのはどこにもありませんでした。だから、医学的には死んでいるというのは、これはかなりのいろいろなプレッシャーを受けたために、つまり死んだも同然だと言わなければなりませんよということを言っておるのであって、死んだとは言わない。死んだというのは、これは我々の脳の中にインプットされておる本能がそうだと言ったときに初めて決まる。それまでは、すべてそれは便宜的な理屈であります。  そういうことでございますので、我々は、今後はそうではなくて、脳死者も含めた弱者に対する尊厳を求める、思いやりをいたすということから、そこで初めて臓器移植というものも祝福されて進んでいく、そういうふうになっていくのであろう。今、ここで論理を振り回して脳死は死だと言ってこれで臓器移植が進むのかといえば、私は、諸外国の例に見るように、かえってだんだん先細りになるであろうというふうな感じすらいたします。  そういうことでございますので、お考えになりますときには、脳死者は、これは確かにもう死の始まる極めて近いところまで、もう死に転落するプロセスに乗ってしまっておる人ではありますが、死んだも同然とまでは言えるかもしれませんが、まだ死体ではない、だから死体として取り扱ってはいけないというところをぜひ御理解賜りたいというふうに思うわけでございます。  ぜひ、元来の、お互いに尊厳を求めて、ドネーションの本来の意味にのっとって感謝しながら臓器移植を行う、そういうふうに移植をやる方々も、またそれを受ける方々も思っていただけるような、そういうふうな社会であっていただきたい、そういうふうに思っておる次第でございます。  以上でございます。
  10. 町村信孝

    町村委員長 どうもありがとうございました。  次に、山口洋さんにお願いをいたします。
  11. 山口洋

    山口参考人 私は、順天堂大学で循環器内科を専攻しております山口と申します。  本日、このようなところで意見を述べさせていただく機会を与えていただきました町村信孝衆議院厚生委員長、それから私の意見を深く理解していただいて、きょうここにお招きくださいました佐藤剛男厚生委員会理事、さらに、前回より、平成七年六月十三日、第百三十二回の国会の厚生委員会、当委員会におきまして同じように参考人としての意見を述べる機会を与えてくださいました山本孝史厚生委員会理事、また、金田誠一議員様に、常に冷静な態度で医療の問題に取り組み、また、私にそういう勇気と知恵を授けてくださいましたことに対して、心から感謝申し上げます。  やはり、先ほど林教授が申しましたように、この臓器移植問題というのは、随分もめておりますけれども、究極は人を助ける、臓器移植しか助ける道のない患者さんを移植医療によって助けてあげるということが目的でございます。それ以外にはいかなる理由もないはずでございますが、せっかく法律ができて脳死状態から移植が行われるようになったとしても、それによってかえって一日千秋で待っている患者さんを殺すようなことになってしまったのでは、助けることができない手術ということになってしまったのでは、これは大変、本末転倒なことでございます。  私の主張は、ここに、お配り申し上げましたお手元のレジュメにまとめてございますが、臓器移植法の発効前に心臓移植施設を一つに絞ってくださいということに尽きるのでございます。  その理由を申し上げますと、法律上、脳死体あるいは脳死状態からの臓器、私は特に心臓に限って言わせていただきたいと思いますが、心臓摘出を可能としても、日本の医療現場は、総合医療組織・体制とその機能及び病院の清潔度、それらを支える財政基盤等の点で、人命を救うための心臓移植の目的を果たすには医療現場の条件が極めて不備で、かつ病院間で医療水準の差も大きく、すぐに心臓移植手術が成功する保証はないと思っております。  臓器移植法案を通す前に、国として、医の倫理を踏まえた、これが非常に大事だと思いますが、医の倫理を踏まえた条件づくりを先にする必要があると思います。それは、心臓移植施設を一つに絞って、十分財政援助をして、国際的にも誇れる高水準のすぐれた心臓移植センターをつくることに尽きると思っております。  次の三点が具体的な説明になります。  第一は、心臓移植病院の医療組織・体制が、欧米一流施設と日本とでは比べ物にならないほど日本がおくれているということの認識が必要だということでございます。  今までに、日本の患者が欧米先進国へ行き、よい成績の心移植の恩恵にあずかれたのも、お願いした欧米の施設は、心臓移植手術が成功するだけの高い総合医療水準――この総合医療水準というのは非常に大事なんでございますが、そして豊富な経験を持つ、世界でも屈指のよい病院ばかりだったからなのでございます。  心臓移植を必要としている患者の生命を本当に救える心臓移植手術ができる十分な条件を備えている施設が、残念ながら現在の日本には一つもないのでございます。しかし、多くの移植推進論者たちは、日本の医療レベルはもうその水準に十分達していると簡単に言っておられますが、それは事実誤認でございます。あるいはおごりでございます。  日本で今すぐ、現在容認されている多施設、これは臓器移植学会では四つに絞ってこられました。東北大学、埼玉医科大学、東京女子医科大学、大阪大学でございますが、合同委員会では八つの施設を指摘し、その中で、東京女子医科大学、国立循環器病センター、大阪大学の三つが望ましいといって、八つの施設を推奨しておりますが、心臓移植を日本で始めても、一例の経験もないのですから、とうとい人命を救命できる保証はございません。  にもかかわらず、百の議論よりも一の実行だ、あるいは、条件整備だの施設限定だのとぐずぐず言うな、移植手術をして、一日千秋の思いで待っている患者を早く救ってやってくださいというようなことを盛んに言っておられます。そういうことは間違いでございます。むしろ、一日千秋の思いで待っている患者さんを、手術したために殺してしまう、あるいは、せいぜい二、三週間の命にしてしまうというようなことがあっては絶対にならないのでございます。そのような無鉄砲な考えは、国民の生命、福祉を守る責任のある国会内では決して言ってはいけないはずでございます。医療という大義名分のもとに、ちょっときついですが、殺人を許してしまうような法律をつくることになりかねないのです。  残念なことに、今日の日本の医学界・医療界、自分も医者でございますけれども、医の倫理の歯どめがないということが悲しいことでございます。  第二の問題は、心臓移植施設を一つに絞る、限定することの重要性であります。  だれも、この現場の条件が不十分で、これを整備充実することの必要性に気づかずにいるのはどういうわけなのでしょうか。  脳死臓器摘出の問題のみを解決しても、心臓移植は軌道に乗る医療として成功しないのです。一、二例の実験的な試みはできるかもしれませんが、本当に待っている何百人という人たちがルーチンに助けられるような移植医療が成立するということが大事なのでございますが、それはとても今の現状でできるとは思えないのでございます。  心移植医だけがどんなにやる気十分でも、トレーニングされた看護婦チーム、心臓内科医は無論、そのほかにも、術後の拒絶反応、あるいはMRSAとか、さらにはそのMRSAに対する耐性菌や、さらにその耐性菌を抑える薬に対しても耐性になってしまういわゆるバンコマイシン耐性菌、あるいは、そういった感染の問題をいち早く手当てできる免疫学者や感染の専門家を含む総合医療チーム、その他ケースワーカー、心理学者、宗教者、多くの職種の専門家で本当に機能する総合チームをつくらなければだめなのでございます。  日本では、移植医のみが先頭に立って、そのほかは脳死体から臓器を取得するためのいわゆるコーディネーター的な人を少人数育成して移植医療をやろうとしておられますが、今述べましたような各職種の専門家は、むしろ傍観者的になって、チーム医療に積極的に参加していないというのが実情でございます。  その際、もう一つ大切なことは、脳死を容認し臓器を提供する側の家族と、移植を受ける患者とその家族への真実のインフォームド・コンセント、これを説明と同意と言っておりますけれども、それを充実することがまだできていないのでございます。  この医療現場の条件の不完全性とインフォームド・コンセントのあいまいさは、ほとんどの現場の医師たちは知っております。今魚住先生がおっしゃられたこともその一つだと思います。公には言わないだけなのです。無論、厚生省でこのテーマ、臓器移植の御担当の方々もよく御存じだと思います。したがって、施設を一つに絞って、その施設を徹底的に充実してあげることが重要だということを十分御存じのはずなのです。  第三の課題は、心臓移植センターの設立と、臓器、私は心臓を指摘しておりますが、心臓移植財団と、倫理及び移植医療の質の管理・維持機構の設置の必要性でございます。  財政基盤をしっかりしてあげることと、質と倫理の管理をしっかり見守ってサポートしてあげる、これが非常に日本では大事なことだと思います。この問題を解決するためには、今候補になっている既存の施設を一つに絞って、財政的にも十分支援し条件を充実させるか、もう一歩進んだ考えとしては、移植センターを一つ新設して、総合医療のすぐれた組織体制と、高い技能と知識を持つ多くの専門家を集め、その財政基盤と倫理及び質の管理、維持のための心臓移植財団あるいは機構を設立する必要があると思います。  摘出された心臓が、受ける側の患者、レシピエントと申しますが、受ける側の患者移植されるまでの耐久時間は、平均二百四十分、四時間とされておりますので、日本の救急体制による運搬手段を用いれば、この小さな国で間に合わない距離のところは存在しませんから、関東でも関西でも、一つあれば十分ということになります。この距離の問題を重視される方がおられますが、以上の理由により、本邦では問題ではございません。移植医療の質、すなわち助けられる医療をすることの方が、もっとずっと重大な本質的な問題なのであります。  ヨーロッパに、九カ国でつくったユーロ・トランスプラント・ネットワーク・システムというのがございますけれども、スカンジナビア半島からスペインまでかなりありますが、やはり三、四時間かかって運んで間に合っておるのでございます。そして、その時間の前後の成績ということもちゃんと比べて、差がないという結論も出しております。  外国の例、特に米国でドナー不足が毎年深刻化している現状を見ればわかります。米国では、現在百五十八の施設、病院で心臓移植を行っておりますが、年間十例以下しか移植をしていない病院の手術成績は大変悪いのです。年間六十例は行わないと、前述のチーム医療のなれと機能が上手に働かない、これをラーニングカーブ、いわゆる経験と結果向上曲線と申しますけれども、ラーニングカーブが向上しないから心臓移植治療の成績が向上しないと、先日学会で訪日されたミシガン大学の外科総部長のグリーンフィールド教授が説明してくれました。これは、私と、東京女子医科大学病院長で、ことし御定年になられましたけれども、心臓内科の教授をされております先生と夕食をともにしたときに詳しくお話しくださいました。  またさらに、たった一週間前、三月三十一日から四月二日まで開催されました日本循環器学会での心臓移植パネルディスカッションで、私自身、米国あるいはオーストラリアから招待講演として招かれました心臓移植数百例の経験を持たれる第一人者に質問させていただきました際のお返事も、一施設で年間六十例が必要であるということでございました。そして、アメリカでも、年間十から十五例以下しか心臓移植をしていない施設は成績が悪く、そのような病院が百五十八病院の半数以上を占めているので、悪い成績がむしろドナー不足を生じている、いわゆる医師不信感になっているということが不足の原因であるということでございます。もちろん、交通事故が少なくなったということも大きな理由だそうでございます。  世の中の人が、脳死をまた第二人称の死として、柳田邦男先生のおっしゃるように、第二人称の死として実感し、臓器摘出をためらうようになったこと。そして、なかなか報告してこない。成績の悪い移植医療に対する不信感も募ってきたこと。そして、現場において、ドナー提供者の家族も簡単にイエスと言わなくなってきた。それから、救急の現場で脳死発生を積極的にセンターに報知してこなくなってきている、コーディネーターの出るのがおくれてしまうというようなことが現実に起こっております。  心臓移植を待っている患者が四、五万人もいるのに、実際移植を受けた患者はこの数年間頭打ちで、一九九五年あるいは昨年はむしろ減少して、年間二千例を切ってしまっているということを今回の学会でも述べておられました。  このドナー不足の情勢を是正しようと、アメリカの移植推進派の医師は、移植関係機関が病院の救急部門に脳死判定を速やかにするように要請したり、あるいは移植コーディネーターをもっと家族に説得力のある職業人になるように教育して、臓器入手の義務のごとき規制をしいたのですが、結果は逆効果で、家族側の積極的協力が得られる結果にはならなかったのであります。米国では、今ドナー不足で非常に深刻な問題に突き当たっておりまして、臓器獲得に焦っているというのが実情でございます。  もっとびっくりしましたのは、先ほど申し上げました一週間前の循環器学会において、心臓移植の専門家たちのディスカッションの中で、人間の心臓をもらうのではなくて、人工臓器の開発をもっと真剣にやれと、あるいは人間以外の動物、特に豚が一番、ビッグと言っておりましたけれども、最も人間に適しているそうですが、そういうものからの移植考えるべきであるということも主張されておりました。  これはヨーロッパ、先ほど申し上げました、ユーロ・トランスプラント・ネットワークを八から九カ国でつくってドナー取得の効果を上げようとしている先進ヨーロッパでも同じ現象でございまして、非常にドナー不足は深刻でございます。  日本で今移植医療を始めても、上位一位、二位の施設だけで行うとしても、その一位、二位の施設が十分な整備ができておるとは言えません。また、ドナー不足ですから、年間十例から十五例にも満たないでしょう。そうすると、アメリカの最も悪い病院の成績から始めるようなことになりかねません。移植医療の不信感がかなり募ってしまいまして、ドナー不足という同じ傾向の道を二十五年おくれて、欧米におくれてたどることになるわけです。これは極めて愚かなことと思います。わかっていて医の倫理を軽視するようなことを無理強いしてはならないのだと思います。  私は、生体臓器移植ができない心臓移植、すなわち鼓動している心臓を摘出しなければならない心臓移植は、他の臓器移植とは切り離して考えるべきであると思います。十把一からげにして臓器移植を扱うのはおかしいと思います。  以上より、結論は、日本で心臓移植を本当に治療として成功させるには、日常の治せる医療として成功させるためには、心臓移植施設を一つに絞ることに尽きてしまうのではないかと考えるに至りました。そして、高水準の総合医療、チーム医療のできる日本の心臓移植センターになるよう財政面でのバックアップ、また倫理と質の管理をする機構をつくることが大事だと思います。一つに絞ることができるかできないかは、移植医が一日千秋で待っている患者さんを本当に救う目的で努力しているかどうかのよい試金石であると私は信じております。  これは余談ですけれども、ちなみに、日本では近年腎臓透析患者が激増し、窮乏している医療財政を圧迫し、深刻な問題になっています、これを解決するには腎移植を普及するしかないと主張されている国会議員さん方もおられますが、それは事実と違います。  激増している透析患者のほとんどが糖尿病性腎症で、昭和三十五年の糖尿病の患者が一としますと、昨年は六十でございます。六十倍にふえております。かつ他臓器の動脈硬化も高度で、狭心症や心筋梗塞などの心臓血管病、または糖尿病性網膜症や脳血管障害などを合併した六十歳以上のいわゆる老人医療の対象者です。すなわち腎移植の対象にはならない患者さんが激増しているのです。これは生活習慣病でございまして、その予防と治療に全力投球することの方がこれは解決できるはずでございまして、医療費は移植どころではなくて、もっとずっと効果的に節約できるのであります。  無論、腎炎から腎不全にまで進行し、透析して生きている若年から中年の移植対象患者は、三十歳から四十歳の方々は、四十年ぐらい前からおられましたが、その数はむしろ医学の進歩とともに減少してきております。今ここで性急に脳死臓器移植法案を通さねば大変だという切迫した状態を醸し出す根拠にはならないのでございます。  また、先ほど魚住先生がおっしゃられましたように、腎移植は、腎臓は二つありますから生体同士の移植が可能でありますし、死体腎の移植も可能でございます。このようなわけで、腎移植ということで移植医療を早くするということは根拠にならないのでございます。  以上が私の主張でございます。御清聴くださいまして、どうもありがとうございました。
  12. 町村信孝

    町村委員長 どうもありがとうございました。  以上で各参考人方々の御意見の開陳は終わりました。     ―――――――――――――
  13. 町村信孝

    町村委員長 これより委員からの質疑を行いますが、質疑につきましては、理事会の協議によりまして、一回の発言時間が三分以内となっておりますので、御協力をお願いします。  きっと数多くの方々がきょうは御発言を求めると思いますので、できるだけ手短にひとつお願いをいたします。  なお、質疑のある委員は、挙手の上、委員長の許可を得て発言をされるようお願いいたします。また、発言の際は、所属会派及び氏名をお告げいただき、御意見をお伺いする参考人の方を御指名の上、お願いをいたします。  それでは、質疑のある委員の方の挙手をお願いをいたします。  佐藤剛男さん、どうぞ。
  14. 佐藤剛男

    佐藤(剛)委員 ありがとうございます。自由民主党の佐藤剛男でございます。  本日は、御参考人の皆様、大変有益な御意見を賜りまして、まず御礼申し上げます。  そして、全体に流れております御意見は、患者の命というものに立って、そして将来におけるやはり臓器移植の発展というものを重要視されて、そして林先生のお言葉をおかりすれば、患者を助けるという救命救急医療の充実を図って、臓器提供の申し出があった場合に、すばらしい人だと称賛される社会的通念を築いていくことによって臓器提供をふやし、そして公平な臓器配分をやり、社会全体で移植医療を発展させていくこと、いろいろな御意見がございましたが、私は、そういう問題に尽きてくるのではないかと。  そこで、違うところが、五人の参考人方々の御意見の中で、幾ら脳死とは死とか、あるいは脳死状態を死といってもこれではだめなんだ。日本の中に、心臓ということをとらえて、そういう施設がないんだ。一日千秋の思いで待っている患者さんを、今のような状況でこの法律を通して全国至るところでその条件を満たしたところで、心臓の鼓動している、そういう生き生きとした臓器移植というような状況にない。非常におっしゃられているのは山口先生のお話であって、私は、五人の先生の中において、ちょっと一歩進んだ考えが御披瀝されたものだと思います。  そういう意味において、私は、過日、中山案それから金田案に加えまして、附則の点についての修正の部分お願いいたしました。これは、心臓その他一定の臓器については施行の期日というものを別に法令で定めるということでございます。その思想の根底にありますのは、山口先生が言及されましたが、そういう国における一つの国際的な心臓の移植センターみたいなものを設置をするということでございます。  それで、そういうことを前提といたして、山口先生以外の四人の参考人方々に御質問させていただきたいと思います。  外国では、生きている人は「ヒー」とか「シー」とか言うのでありますが、死という通念で、死にますと「イット」になるわけであります。そういう面について、最初竹内先生、それから林先生、野本先生、魚住先生に、山口参考人がおっしゃられたようなポイント、つまり、現在においての、心臓と他の移植を切り離して先生おっしゃられたわけでありますが、その中において、日本の施設というものは十分それにたえられるものなのかどうなのか。  脳死というものを死という判定をするか、あるいは脳死状態を死というか、移植できるという状態にするか、そういう法理論の問題はあります。私は、ある意味では神学論争だろうと思いますが、問題は、それをおいてもどういう点にあるかということを、お一人お一人にまずお話をお伺いできないか。
  15. 町村信孝

    町村委員長 できるだけ質問者を一人に絞ってもらいたいのだけれども。
  16. 佐藤剛男

    佐藤(剛)委員 それでは、竹内先生、御意見を承りましょう。
  17. 町村信孝

    町村委員長 それでは、竹内先生、よろしくお願いします。
  18. 佐藤剛男

    佐藤(剛)委員 現在の状況は大丈夫かどうか。山口先生は一つに絞れとおっしゃった。
  19. 竹内一夫

    竹内参考人 私は、今の御質問に対しての的確なお答えをするだけの知識を持っておりませんが、たまたま韓国での心臓移植を見聞きしておりますと、必ずしも最高級の病院でなくても、かなりいい成績を上げているようにも思えますので、どうかなというふうに思っております。  以上ですっ
  20. 町村信孝

    町村委員長 いいですか。  では、私が指名するのはいかがかと思いますが、移植学会の方のお考えを聞いてみましょうか。野本先生、いかがお考えでしょうか。
  21. 野本亀久雄

    ○野本参考人 私の行動は全部公開してきたので、熱心な議員の先生方は御存じと思いますけれども、何とかして日本でベストの医療体制をつくるということを主張してまいりました。ある時期は、私はそれでみんなに嫌われて学会から追放された時期があるのですが、今回移植学会理事長として、非常に難しい時期に私が一年半何とか立っておられるということ、それからこの間、三月二十二日の理事会、評議員会で、全方位型の支援体制をつくる、その支援体制の中に各分野の方々に入っていただいて、これならというものをつくる、それは国内の方々だけではなくて、外国の方も既にお願いして、何でもやってやろうというところまで来ております。  今、大丈夫かと言われるよりは、私としては、どんなにしてでも大丈夫だというものをつくって、それを国民に提供するのが役割だと考えておりますので、理事長として立っておる限り、自分の信念はそこにあるというようにお答えいたします。それしかございません。それで、体制に自信があるかということに関しては、今の日本の医療水準ですと、少し本格的に手を加えて、腹を据えて動けば対応できるというものだと考えております。
  22. 町村信孝

    町村委員長 ありがとうございました。  では、山本さん。
  23. 山本孝史

    山本(孝)委員 新進党の山本孝史です。  きょう、五人の先生のお話をお伺いしておりまして、この法律の中で脳死を人の死というふうに決めて、なぜ医療現場に脳死判定というものを上から押しつけてこなければいけないのかというところで、やはり極めて疑問に思います。  魚住先生、上から押しつけてはいけないとおっしゃいましたし、かつてここに墨東病院の浜邊先生が来られて、参考人としてお話をお述べになったときも、救急医療現場では、脳死イコール人の死というふうにすると大変混乱が起こりますというふうにおっしゃっておられます。今の竹内先生のお話を聞いておりましても、各医療機関において六時間を置いている時間を、まちまちということになれば、脳死の、死亡時刻というのも随分変わってくるというふうにも思うわけであります。  そういう意味で、野本先生にぜひお伺いをさせていただきたいのですけれども、これは先生御承知のように、両案出ております。我々が出しておる案でも十分いいのではないか。もちろん法律の問題としてはありますけれども、我々の持っている案でもいいのではないか。  それと、必ずしも脳死となっているから脳死判定をしなければいけないということではないはずですし、移植という問題と脳死判定という問題がごっちゃになっているところが、この法律をつくるというところから、基本からずっと出ている問題だと思うのですね。  一番懸念している問題は、救急医療移植医療というのがどういうふうにタッチするのですか。  救急医療は、一生懸命人を助けてきております。救急医療の現場では、脳死判定をする必要は何らありません。脳死判定をする必要があるのは、移植をするときのみというふうにも言っていいでしょう。家族に脳死を理解させるために、あるいは先生がこれは脳死だというふうに理解をするために脳死判定をすることがあったとしても、従来のところにおいては、そこまでする必要はないわけですね。  そうすると、一体どこから移植の先生方はこの救急医療の現場の中にタッチしてこられるのですか。移植のガイドラインであっても、コーディネーターという存在が大きいと思いますけれども、コーディネーターは移植学会員だというふうに、今しておられます。ここのところで、小柳移植学会副会長は、実際は移植関係ある外科医がコーディネーターになるだろうというふうにも新聞でお答えになっておられますけれども、一体どこの現場からこの救急医療の中に移植医療というのはタッチをしてこられることになるのか。  あわせてお伺いすれば、今いろいろ問題になっております、漂流液を入れるという時点が随分あやふやになっている。それは、必ず脳死判定の二回目以降に灌流液は入れるというふうにしておられるのか、その辺をお聞かせいただきたいと思います。
  24. 野本亀久雄

    ○野本参考人 私は、三十七歳までは、夜は救急外科医として働いて、昼間は基礎の大学院とか研究生とか、その当時、何の背景もない人間が大学に残るなんてことはできませんでしたので、本業は夜の救急医くらいだったのです。それで、救急医の感覚はわかるつもりです。幾らだれが言ってきましても、自分が助け得る可能性がごくわずかでもある間、移植医の関与などは許すはずがありません。それはもう、救急医の先生が夜も寝ずに、これくらいつらい商売はありませんから、その仕事を通しておることが誇りですから。  むしろそこからの接点は、救急医の先生方がこれで終わったと判断をされて、指示をしてくれて後の話だと私は考えています。その前に移植医が関与するような余地は当然ないと私は感じております。
  25. 町村信孝

    町村委員長 五島さん。
  26. 五島正規

    ○五島委員 今山本議員からも関連した意見があったわけですが、現在この委員会に二つの議員立法が出されています。そして、その中身は、脳死というものをどのように判断するかということに尽きている内容であると考えています。  そこで、きょう、五人の先生方においでいただきまして、大変参考になる御意見をちょうだいしたわけでございますが、改めて、その点については非常に重要な問題だと思いますので、竹内先生、林先生にお伺いしたいと思います。  脳死というものが個体としての人の蘇生限界点の連続上にあるのか、あるいはそこには大きな断絶ともいうべきものがあるものとお考えなのか。言いかえれば、将来的にも、可能性として、現在の厚生省・竹内基準で判断されたいわゆる脳死になった方、その方に対して蘇生をし得る可能性を幾らかなりとも残している状態なのかどうなのか、その点についてひとつお伺いしたいと思います。  そして、もう一つは、今山本議員の質問にもあるわけでございますが、当然、救急救命医療というのは、蘇生限界点をこれからも大きく延ばしていかれることになると思います。そのことは、結果においてそれだけ大きな救急救命医療の成果を上げていくということでございます。そうなればなるほど、確かに移植として使う臓器というものについては非常に障害のある状態になってくる。そこには、移植によって人を助けようとしている医師と救急救命医とは、基本的には大きな対立関係にあるというふうに考えるわけでございます。  この委員会の中でも幾つかの御指摘がございますが、救急救命に携わっておられます林先生にお伺いしたいわけでございますが、そのような対立というものがあるとしても、救急救命医の場合に、自分の持っている患者さんを、その予後を予測して治療を中断する、あるいは臓器の保存のための療法に切りかえていくということが現実に起こり得るものかどうか、その点についてお伺いしたいと思います。
  27. 町村信孝

    町村委員長 では、竹内先生、林先生、その順序でお願いいたします。  竹内さん、どうぞ。
  28. 竹内一夫

    竹内参考人 話が長くなりますけれども、私ども、脳死になるような患者さんの治療に対して、かなり初期のころは、助かる可能性を信じて治療に努力した時期がありました。それは、バーナードの心臓移植の前の時期です、私は脳死以前の脳死と言っているわけですけれども。  したがいまして、そういうときの治療経験をもとにして、やはり幾らやってもだめだという事例を持ち、さらに、日本脳波学会が脳死判定基準をつくり出した、これが一九七四年ですが、その脳波学会の基準の信頼性を確認するために厚生省の研究班の作業が行われたわけです。その作業では、七百十八症例というものに対して、プロスペクティブ、前向き調査を行いました。したがって、脳波学会の脳死判定基準の信頼性というものが実際の七百十八例の症例によって確認されたというわけであります。  したがって、今おっしゃり、先ほどから申しております蘇生の限界点を過ぎた場合には、これはもう我々は、いわゆる臨床医学的な感覚で蘇生の可能性は皆無であると考えております。これは、日本だけではなくて世界じゅうで考えていると思いますが。ただし、その前の段階、要するに、観察時間を経過する前の段階から限界点までの間の六時間の間はまだ蘇生の可能性がゼロではないという考えを持っております。殊にA点に近いほどまだ可能性があるし、実際、私自身がそういう症例も持っております。  したがって、今おっしゃる御質問に対しては、B点を超えれば、我々は蘇生の可能性は皆無であるというふうに考えているということでございます。
  29. 林成之

    林参考人 人間の脳の神経細胞が死んで蘇生限界を超えていく、死んでいく過程には一つプロセスというか、連続的な一つプロセスの中で細胞が変化していくわけです。で、その連続のところでターニングポイントというのはどこで決めるんでしょうかという、多分そういう質問だと思うわけです。  医学界において我々が非常にわかりにくいのは、細胞が死んでしまったということと、細胞は死にかけているけれども、細胞の膜の機能が消失してしまったという現象が、正確に臨床的にも電気生理学的にもとらえる方法がないわけです。そうしますと、その二つの事実をもってそれは決められないんじゃないですかということになるかと思うわけです。  例えば細胞の膜の構造が発達していない子供の場合は特にそういうことが起こりやすくて、細胞は生きているけれども、見かけ上、電気生理学的にも医学的検査でもすべて死んだように見えるということは日常よくみんな経験していまして、先ほど竹内先生もおっしゃったように、子供の場合は六時間じゃ危ないんで、ひょっとしたら二十四時間かもしれないとおっしゃったのはそういうことを言っておられるわけです。  そうなりますと、どこで限界を決めるかということは必ずポイントがあるはずなんです。そういう意味で、私は、脳死ということと脳死状態ということは常に使い分けて物を考えているわけです。  それで、脳死状態が、ここでもうだめなんです、降参ですというときにはそれなりの時間的経過がないといけないわけです。この時間的経過は、恐らく医学の進歩によって変わり得る可能性はあると思います。今は六時間ではだめですけれども、将来、もっと遺伝子工学とかいろいろなものが発達した時点においては、ひょっとしたら延びるかもしれませんし、全然解決しないかもしれません。そこはだれも答えられない問題だと思うわけですね。  そうしますと、今の現行の医療で戻し得ない状態というのは、やはり概念死という考え方を導入しない限り、アカデミックにこれは死んでいる、死んでいないということを幾ら討議していても答えは出せないんじゃないかというふうに思うわけです。  そうした場合に、医療原点ということを考えていきますと、どこかで折り合いをつけなきゃいけないわけですけれども、じゃ、現在はだめというと将来はどうなんですか、そういう法律をつくっていいんでしょうかという、だれしも思う疑問がそこに出てくるんだと思うわけです。  そういう意味で私は、現行の医療で救命し得ない条件というのは一つの非常に大きな条件になるし、将来に行って、もしそういうことがクリアできる医学的進歩を見た場合でも、その時点ではやはりその時点における医療の限界条件になってきますので、常にそういうことを再検討する道は、やはり残しておくということが医学的には非常に正しいんじゃないかというふうに今考えているわけです。  それで、先ほど先生のおっしゃった、医療の現場では患者を助けることであり、一方では臓器を提供するために準備段階が要るんじゃないか、先生はどこでそれを決めるとおっしゃるんですかという多分御質問だと思うわけです。これは患者にとっても大変な質問だと思います。先生はひょっとしたらどこかで手を抜いたんじゃないでしょうかということを言われても、こうだと幾ら言い張ってもそれは証拠がないわけですから、医者にとっては大変な質問で、我々にとっては答えられない、証明できない問題だと思いますし、そういう法律のつくり方というのは僕らとしてはやめていただきたいというふうに思うわけです。  そうしたときに、先ほど言われたように、今の患者を助ける医療は、従来の考え方は、脳の浮腫をとるという脱水療法中心にしてきた治療で、そういう治療だと臓器が傷んでしまうわけですね。でも今はそういう考え方は先生変わっておりまして、全身の臓器が安定して初めて脳が救えるんだという考え方で、常に全身循環をいかに正確に保つかということをベースにして脳を蘇生する治療に変わってきておりますので、先生が心配なさるような、臓器をとるために治療を変えていくということは非常に少ないと思っております。  したがって我々は、先生がおっしゃるように、次の臓器のことということは一切考えなしに、いかに患者を助けるかということに全力投球して、降参、もうこれはどうしてもだめだといったとき初めて違う人たちがそれに対して対応するシステムが僕らとしては一番ありがたいというふうに思っております。
  30. 町村信孝

    町村委員長 五島さん、いいですか。――児玉さん、どうぞ。
  31. 児玉健次

    児玉委員 日本共産党の児玉健次です。  私たちの委員会の今後の審議に非常に貴重な御示唆をいただいたことを、五人の先生に心から感謝いたします。  この委員会で私たちは、今、林先生もおっしゃった救急救命のためのあらゆる可能性を追求する努力と、望ましいドナーの状態を維持する衝動と、そこのところのぶつかり合いが起きはしないかということを一つの論議の焦点にしてまいりました。  それで、林教授と野本教授にお伺いしたいんですが、先ほどの林教授の御意見の中で、一ページのところに「損傷部の神経細胞に対して、脳の低温管理で細胞内に発生するあらゆる病態を止めている間」の治療についての御陳述がありました。そして先生の御著書には、三十七ページのところで、血圧管理の薬物療法についてもお触れになっております。その点での徹底的な努力をしていただきたいというのが国民の願いでございます。  先ほどの先生の御陳述の中にありました、患者を救おうとする観点からの努力、救命救急医にとってのジレンマ、そこを脳死判定との関連でお話がありましたが、それ以外の部分でジレンマはないだろうかと、この点を林先生にお伺いしたいんです。  野本教授には、移植学会がお出しになった「臓器提供マニュアル(案)」でございますが、そこの十二ページのところに「臓器提供に望ましいドナーの状態とその維持」と「脳死が診断され、臓器提供の可能性考える時」、この「可能性考える時」というのが読んでいてどうしても理解できません。そして、それに続いて「脳死判定が終了した時点で完全に切り替え」るとあります。それでは、不完全な、先行的な切りかえは事前になされるのかという疑念を持ちます。この点について、お考えをお伺いしたいと思います。
  32. 町村信孝

    町村委員長 林さん、野本さんの順序でお願いいたします。  林さん、どうぞ。
  33. 林成之

    林参考人 生命の危篤に陥った患者さんに対する血圧の管理というのが、皆さんが考えていらっしゃるより大変難しい問題がありまして、結論からいいますと、医学的にそれをクリアする方法がよくわかっておりません。  我々のところには、年間三百例の心停止患者さんが運ばれてまいります。この患者さんを心肺蘇生しながら一時的に血圧を戻しましても、あらゆる手だてを使いましても、患者さんは血圧が再度下がっていって亡くなっていく方が非常に多いわけです。  その理由は、医学的にはいまだに証拠がつかまってないわけですけれども、最近の医学の進歩の中では、生体侵襲を受けた体には、血圧に影響するカテコラミンという物質が三種類あるわけですけれども、この三種類が同時に生体を守るために出てくるわけです。これが出過ぎますと、それぞれの三種類の血圧に反応する薬が全く違った病態で、片一方は血流の分布が位置が変わって内臓に血がたまるとか、片一方の物質は心臓の血管を縮めてしまうとか、もう一つの薬は、心臓の収縮筋を縮めながら、心筋が壊死になる、心筋のマイオネクローシスとか、いずれもこの三つは治療薬も全く違うということがわかってまいりまして、それを維持するということは非常に難しい現状になっておりまして、先生が今御質問なさった血圧の保持はどうするんだということは、一概には、医学者は全部、はいこれですと答える段階にはないんだというふうに思います。  我々は、それに対して、日夜、どういうことが問題かということを今も毎日毎日それを探りながら、次の患者、次の患者にそれを確症しながら究明しているというのが現状なわけです。当然、脳死に至る条件におきましても、やはり同じような情報を集めながら、一つ一つ、ちょっとでもクリアできないかということを管理してそれをやっているわけで、血圧を自分の意のままに動かしながら次の患者にという考えは、現在の我々にはとても不可能といいますか、考えもつかないような医療の現場でございます。
  34. 野本亀久雄

    ○野本参考人 可能性考えて、何か動くような可能性があるのではないかという御指摘ですけれども、これは、そういうことを一度でもやらせましたら、もうそれで、日本で移植医療として定着する可能性は壊滅します。当然、そこで、あくまで救急医の先生方が最後の最後まで治療、救命に働いた後から始まることだ。だから、そこの点までは救急医の先生方の責務ということですので、そこから後、初めて移植医の責務が始まると私は考えておりますので、前もって何かを起こすというようなことは、もしだれかがしようとしても私はさせるつもりはありませんし、それから救急医の先生方がまずそれをさせることはあり得ませんので、そこはまずないと考えていいと思います。  それから、もう一つの視点の「完全に」云々という言葉ですが、これはお許しください。先ほども言いましたように、我々の社会の中で、特に臨床の患者さんと接触をしている人たちは、患者さんの主観的な言葉といつも接触しておるものですから、言葉に非常に意味無用、何というのですかね、強調語とか修飾語を使い過ぎるくせがあります。この場合の「完全に」というのも、例えば、一生懸命にという程度言葉で、非常にまともなワードではないと考えていただいたらいいと思います。  それで、先ほど言いましたように、三月二十二日のは、私は、大綱としてはよろしい、移植学会案として。しかし、書いておる内容は、一般市民の方々が読まれたら、随分、あちこちで戸惑う表現が多い。それを早急に直すように指摘しておるのですが、習慣になっておるものですから、そういう意味で使ったのではないということで、私の方がやっつけられたりもしながら、今、直させております。「完全に」という言葉は、むしろそういう、無用の言葉だとお考えください。  以上です。
  35. 町村信孝

    町村委員長 中川さん。
  36. 中川智子

    中川(智)委員 社会民主党・市民連合の中川智子でございます。きょうは、本当にありがとうございました。  私、どうしても五人の先生方にお伺いしたいことがございます。御発言の中で既にはっきりと伝わった先生もいらっしゃるのですが、もう一度お伺いしたいのです。
  37. 町村信孝

    町村委員長 中川さん、全員ですか。
  38. 中川智子

    中川(智)委員 もう、簡単なあれですから。  どうしても、法律で脳死を人の死としなければ移植の道は開かれないのか、この点に対してお答えをいただきたいと思います。特に、野本先生には、その理由を御説明をお願いいたします。  その次に、魚住先生と野本先生にお伺いしたいのですが、関西医大における承諾なしの血管等の摘出に見られますように、万一、医師の側で違法の摘出を行った場合、本人はもとより、遺族の側にも、もとの状態に戻せと言えない状況がつくられます。医師免許が取り上げられたり、賠償請求は可能かもしれませんけれども、本人並びに遺族が返してほしいのは臓器であり、血管であるわけです。ですから、ほとんど慰めにはならないわけですが、こうした事態を事前に避ける方法がおありでしたら、それを伺いたい。事前に避ける方法をとる以外には根本的な解決策はないと私自身は思うのですが、このことについて伺いたいと思います。  それともう一つ、林先生に、将来のいっか、もしも医療が物すごく進みまして脳死状態の方が助かるような、そのような医療の進歩があったときに、このように法律で脳死を人の死と定めたときに、この危険性に対しての御意見を伺いたいと思います。  以上です。
  39. 町村信孝

    町村委員長 盛りだくさんな御質問でございますが、それでは、恐縮ですが、竹内先生の方からお答えをいただけますでしょうか。
  40. 竹内一夫

    竹内参考人 私、今の御質問に直接お答えする立場ではないかと思うのですけれども、私どもは臨床で脳死状態になる患者さんを治療しているわけですね、診療しているわけです。その場合に、心臓が動いている間は全力を注いで治療している。家族の対応その他、時間がたっといろいろ変わってきます。したがいまして、むしろ我々は、脳死判定をした後、ケース・バイ・ケースでの対応というものが臨床の現場では出てくるわけですね。  したがいまして、今、脳死を死としなければ移植ができないかどうかというような問題ですが、脳死になった当該患者及びその家族の方々の意思というようなものがある程度判定できれば、それは移植のドナーとしての可能性は十分考えられると思いますけれども、やはり脳外科として治療に携わっている医師の心理状態も非常に複雑ですから、この辺、難しいと思います。  それからもう一つ、将来、脳死が助かるような状態になったらという御質問があったと思うのですが、一たん脳死という状態になった場合には、脳死が助かるという状態が将来起こるということはないのではないかというふうに私は考えております。
  41. 林成之

    林参考人 僕の態度は辛目に書いてあるのでおわかりかと思いますけれども、学問的なレベルで正確に言葉一つ一つ選んでいく考え方からいきますと、脳死は人の死と言うのは非常に難しい。矛盾があって、それを乗り越えるためには、社会的通念がそこに概念死ということを導入しなければいけないし、法律で死の限界を決めなければいけないという一つの作業がそこに必要になってくるので、それはなかなか難しいのではないかというふうには私は思っているわけです。  では、そうしますと、脳死を人の死として認めないと臓器移植はできないのですかという質問だと思うのですけれども、そういうことはないと思うわけです。  これは、特例によって、そういう条件になったときに、医療原点ということから考えていきますと、人間の工夫によって法律をつくってガードすることは可能でありますし、ひょっとしたらそういう法律がなくても、例えばそういう裁判によって、竹内基準判定された患者さんがこういう目的で臓器提供したいというふうにおっしゃったときに、それに関係する先生たちがみんなその作業に従って患者さんを助けた場合に、判例としてというのですか、ちょっと言葉が不正確でわかりませんけれども、そういうことを死と問わないのだ、殺人だと問わないのだということを決めても、それは一つの形として、患者さんを救う一つの道を開くことは可能であるというふうに私は考えております。  したがって、今までに考えられてきた死の概念から法律をつくってきて社会をうまく動かしてきたわけですから、先ほど言いましたように、そういう死と今回の死は基本的には次元の違うことであって、それを盾に頑張るということは非常に無理が生じるのではないかというふうに考えております。  それから、もう一つの最後の質問で、将来脳死患者が医学の進歩によってそういうことを踏み込む可能性があるのだろうかということが御質問だったと思うわけですけれども、僕の意見は、正確にはわかりません。ただ、脳死という死の定義細胞が死んでいるという概念に入りますと、それは、そういうことは変わることはあり得ないわけです。ただ、今は、脳死状態という一つ概念死を導入している限りにおいては、可能性はないとは言えないわけです。  そういう意味で、将来にわたってそういうことを再チェックする一つの機構を起こすということがやはり人間の工夫だと思うわけです。  それから、そういう状態になって、医学の進歩がどこに関与するのかというもう一つもとへ戻した、多分竹内先生に関する質問意味していると思うのですけれども、そういうことによって竹内基準判定法が変わるとは僕は考えられません。ただ、六時間という時間は医学の進歩によって延びる可能性はあると思います。これは、先ほど言いましたように、細胞が死んでいるのか膜の機能が消失しているかということを、現在の医療で区別する正確な方法がないからであります。
  42. 野本亀久雄

    ○野本参考人 法律が要るのかということなのですけれども、これは、脳死を死とするという背景の法案が国会で二回、これで二度目ですね、ここまで来ますと、市民だけではなくて、医学界のリーダーのほとんどの人が法律が必要なのだと言うようになってしまっております。今の状況から考えますと、単に私は基礎学者として、ですから今言っているのは理事長という立場ですけれども、そういう立場で考えますと、法律なしてはもう身動きがとれないという感じがいたします。  それで、この間の読売のアンケートでも、医科大学の医学部長や病院長の九〇%の方が法律がなければやらせないということを言っておられますし、きょうは、東北大学移植は法がないとやらさないということを何か決めたような記事が出ておりますので、身動きとれずです。  それで、念のために、御参考にあれしておきますと、一九八八年に、私が前回オピニオンリーダーをやったときには、できたら多くの分野の人たちの自発的な支持で移植を始めたい、そして、国民監視のもとで一例一例やりながら、後からルール違反を禁止する法律をつくっていただきたいと考えたわけですけれども、これは実らずに終わりました。今の時点では、あの一九八八年のときの発想では何もできないというように私は考えております。  それから、もう一つのことですが、何とかしてルール違反をさせないようにしなければいけないということなのです。  これは幾つかのやり方がありますが、基本的には、倫理的な感性を高めるというような甘い表現になりますけれども、私としてはどういうやり方をしておるかといいますと、患者さんと医者という関係だけで市民に接触すると、目が開けません。したがいまして、病気ではない一般市民の方々医師として接触する、せざるを得ぬ状況を今つくっています。そうしますと、やはり厳しく批判も受けますから、以前と比べれば世の中が少しわかってきたのではないかと思っております。  その方法は、文書による意思の確認というのがありますので、これはもう自分たちがその場へ突入しない限り移植はできないというので、今みんなを動員しているというのが状況です。それで、これが成功するかどうか、一生懸命やらなければ仕方がないと考えています。それで、二番目は、一度でもルールを破ればもうこの移植というテーマは医療としては定着しない、それをよく自覚せよということをメンバーたちには厳しく言っておりますし、野本さんがきついことを言うだけではやれることではないということは少しずつわかりかけてくれていると思います。  それから三番目は、最初おっしゃられたように、非常に残念ですけれども、いろいろな処分とか処罰とかでも縛っていただく。  やはり三つのやり方を重ねないとだめだし、重ねれば何とかなるのではないかということです。基盤は、もちろん自己の自主管理能力を鍛えるということですから、私自身のような基礎学者が移植学会に関与しておる理由はそのポイントだけだと感じておりますので、それは自分で努力をしております。  以上でございます。
  43. 魚住徹

    魚住参考人 三つあったと思うのですが、一つは、脳死を死としなければ移植はできないかということであったように思います。  先ほどから申し上げますように、移植をやるときに煩わしくないようにしようということから、脳死を死とするのが便利やないかということで始まった話でありますから、これは今いろいろ多くの学部長とか病院長とかが、法がなければ、逆に言いますと、法律であらかじめ免罪しておいてもらわなければうちから出すのは難しい、免罪しておいてもらった方が出しやすいという、やはりそこは便宜主義だと思います。それで、それが私の答えでございます。本来の人の死に関する論議にはなっていないというふうに思います。  違法なといいますか、約束と違う臓器とか組織の摘出でありますが、これはもう言うまでもなく言語道断のことだと。他人に言われるまでもなく、そういうことを起こさないようにしていただくように、その仲間内で自浄作用というのでないと、よその人がわかるわけがない、それは無理だと思います。  それから、現在我々が見て脳死状態であると診断された方が将来助かる可能性があるかということであります。  そこへ至る時間というのがかなり延びていく、つまり、今であればそこへすっと吸い込まれてしまうようなところが、例えば林先生がいろいろな低体温のことをおやりになりまして、私も若いころに一生懸命低体温をやりましたけれども、当時はそんなに成績を上げることができませんでしたが、非常によい考えを持たれて、体全体を一つのシステムとしてリアルタイムでデータをとりながらやられて、新しい医療を開拓された。これによってやはり、つい数年前までは脳死状態に向かって吸い込まれるように落ちていった患者がその途中でとめることができるようになってきた。  これと同じようなことはこれから先もやはり起こってくるだろうと思いますが、今私どもが共通して持っております脳死状態の診断、先ほどから多少の違いのことは言われておりますけれども、そういう方々が将来助かるようになるというのは、私はやはり難しいのではないか、そういうふうに思っております。  以上です。
  44. 町村信孝

    町村委員長 山口さん、何か御発言ございますか。
  45. 山口洋

    山口参考人 私は最初質問にお答えさせていただきますけれども、脳死を法律化しなくても、脳死状態というものの診断がきちっと正しく公正に行われれば、可能であると思います。ただ、脳死を立法化した方がやりいいであろうということは確かですけれども、その場合にはかなり厳しく附則を設けて、限定した施設でやるということが、どうしても倫理を守る意味で必要だと思う。  ですから、それと同時に、どちらの法案にしても、脳死を立法化しようと、脳死状態の診断をきちっとして、脳死を医者の責任あるいは社会の責任でやるにおいても、財政バックと機構を維持するという、そういうものをつくるということが、第三者的な非常に厳しい監視機構をつくるということが、また保護をしてあげる機構をつくるということが絶対不可欠なことだと思います。ただ、脳死を立法化しなくても十分できることだとは思っております。
  46. 町村信孝

    町村委員長 根本さん。
  47. 根本匠

    根本委員 自由民主党の根本匠です。  私は、今回の臓器法案は、大きな二つのポイントがあると思います。  一つは、医の倫理が絶対条件であるということであります。脳死基準、あるいは脳死判定移植医療、救命救急医療臓器移植医療関係、この点で、医の倫理が絶対的に確立されていないとこれが崩れますから、医の倫理の確立が絶対条件。  それからもう一つは、個人の意思の尊重、自己決定の尊重、これがもう一つ大きなポイントだと思います。  ここで非常に大きな論点が、脳死を人の死とするかという点で、ある意味で私は魚住先生の意見ははっきりしていると思うのですが、脳死状態から臓器を摘出するということを認めるということは、これは法律で尊厳死を認めるということだと思います。  その意味で林先生にお伺いしたいのは、実は、法律で脳死を人の死とせずに脳死状態から認めるということになると、これは実は尊厳死を、つまりそこまで死を自己決定させるということになりますから、ある意味で大きく法律で踏み込むということになって、実はそこが私今非常に自信がありません。やはり、社会的通念での、脳死は人の死であるということがどうしても、やむを得ないことではありますが、必要なんではないのかな。  やはり、脳死を人の死とするためには、絶対に、これは脳死状態は医学的には人の死であるということと社会的通念で社会的合意が得られる、これが必要だと思いますが、その点、林先生も社会通念に基づく概念死を導入する必要があると考えておられますが、尊厳死と、この点、御意見をお伺いしたいと思います。
  48. 林成之

    林参考人 先ほど言いましたように、我々は患者さんを介して、一人の患者じゃないわけですから、患者を助けるというために、生きておられる患者さんの臓器をいただくという、一見、相反するような医療展開じゃないかというふうに思われていると思うわけですけれども、その中で、医療人がそれをスケジュールしていくということは、全く主治医からいっても違った医療になりますので、この二つの医療は全く違う医療だというふうに我々は考えています。  そのときに人間の尊厳性が損なわれちゃいけないということを絶対に守るためには、ほかの人が、これは死だから、法律で決まったからどうするこうするということは、もう既に尊厳性を損なうことになるわけですから、やはり条件として、患者さんがもともとそういう提供したいという意思がない限り、尊厳性を損なったか損なわないかということはだれも言えないことであって、損なってますよと言われると、もうそういうことになるんだと思うわけですね。  そういう意味で、これは本人の、患者さんに死を任せているということじゃありませんで、その過程に、お医者さんたちはもう全力投球して患者さんを助けようという、そこに作業が入っておりますので、それだけをもってこれは患者さんに死を決定させたということにはならないと僕は考えております。  だから、もしそういう形で、今、魚住先生もおっしゃいましたし山口先生もおっしゃいましたように、立法化はやはり非常にありがたいことで、我々にとってはぜひ立法化していただいた方が間違いが少ないと思うわけですね。それがないと、医の倫理は一人一人完璧なんですかと言われたとき、やはりみんなはてなマークがつくと思うわけですね。条件によってあるいは状態によって、環境によって人間の考えというのは変わってくるわけですから、そういう意味では立法化というのは非常に大切な作業だと思います。  ただ、それを、絶対、死でなきややりにくいんだという考え方と、医学的な限界から見て、これは医学的には、例えば心臓死一つとりましても、それは法律で決まっているわけじゃありませんで、医学に一つの限界を法律で決めていくというやり方は、医療人としては非常に心が痛むといいますか、なじみのないもので、非常に驚くような話になるわけですね、正確に言いまして。  というのは、いつも患者さんをどうやって治そうかと考えているときに、法律があるからこれなんですよと言われたときに、じゃ、将来の医療の、何といいますか、発展性とか我々の努力をどうしてくれるんだという気持ちがやはりそこへ出てまいりまして、これはひょっとしたら医者のわがままかもしれませんけれども、そういう概念はやはり医療人を納得させるのは非常に難しい面が、納得というのは全員ですよ、全員納得させるというのは非常に難しい面があるんじゃないかというふうに思っております。
  49. 町村信孝

    町村委員長 土肥さん。
  50. 土肥隆一

    土肥委員 土肥隆一と申します。きょうは大変ありがとうございます。  魚住先生と、それから林先生にお尋ねいたしますが、私は、基本的には、医療が発達して臓器移植ができるようになった、そしてそういう臓器提供を待っている患者さんがたくさんいる、だからなるべく臓器は提供したいと思うのです。  しかし、臓器を提供するということで、一つは、個人の意思を確認するということになりました。あとは死の定義だけになったわけですね。  どうでしょうか、今の法文を、脳死を死体とするというふうにしないで、脳死状態臓器の摘出ができるというふうに言い切って法文化して、そして脳死状態というのは、また改めていろいろな、竹内先生竹内基準なども含めて、それぞれ医学の発達に応じて決めていくということにしたらどうかというのが私の持論でございまして、そうすれば、法律で脳死を死とするといったら、結局すべてのお医者さんは脳死をもって死としていただかなければ、ほかに医療的な死の判断というのは法律でないわけでありますから。  魚住先生は三徴候死をおっしゃいましたけれども、三徴候死しかないといえば脳死はないわけでございまして、あるいは二つの死があるのかということになりますけれども、結局、臓器移植をやはり私は進めるべきだという観点からいうと、脳死状態での臓器の摘出ができるというのではどうかということなんですが、お二人の先生の御意見を聞きたいと思います。
  51. 町村信孝

    町村委員長 それじゃ、魚住さん、林さんの順でお願いします。
  52. 魚住徹

    魚住参考人 先ほどからお話ししておりますように、そもそも脳死は死であるという便宜論を持ち出したこと自体が、やはり根本が僕は間違っていたと思うのですね。その間違いから発していろいろなへ理屈がこのようにまかり通っているというのが、私はこの現在行われておる姿だと思うのです。だから、一遍全部論議をもとへ戻さなきゃならぬ、そういう感じであります。  やはり先ほどから言っておりますように、死体とは何だということについて、人間科学の立場からいえば、ほとんどだれも反対しない、法律にもどこの国もほとんど書いてないような死という概念、死体の概念というのはほとんどどこにも書いてない。だれでもわかる、反対者はおらないというほどはっきりしておるような死体の概念というのからやはり始めなければならぬであろう。そうなってくると、死体の概念になる以前のところで何か体を触ろうとすれば、そこにかなり強い何らかの約束事を持ってこないと、だれかに強い差しさわりが起こる。  私どもずっと脳の治療をしてきた者の立場からいうと、何をしてくれるんやという感じですね。ずっと我々が診てきた患者を何をしてくれるんや、臓器をとりに来て何やという感じがいたします。それはもう当然だと思います、林さんも、竹内先生も、全くそれは同じだと思います。  それはぐっと抑えて、臓器移植はとうといことなんだからといって、それを今臓器移植を進める方に何とか歩み寄ろうではないかと言っておるわけですから、臓器移植をやろうとする人の方が、みんな外国でそう言っておるのに、何を脳死は死でないとかわけのわからぬことを言っておるんや、そういうわけのわからぬことやらぬで、早う出せやというような態度でお話しになりますと、これはもう全く話が逆転しておると僕は思っています。今ちょっと余談をしておりますが、そういうことでございますので、こういう、私が今から十年前に書いて出した、まだまだ私の考えも幼かったころのことでございますが、それでもやはり的は射ておる、本当のことを言っておると思います。  やはり、もしも約束事をつくるのであれば、死の概念は変えないということを大前提にした上で約束事をつくる。これは法律であるのか何であるのか、僕にはわかりませんけれども、法律のことはやはり法律家がお決めにならぬとだめなんで、ただ、その法律家が非常に頭のかたいことを言っておられたのでは、これはもうどうにもならないというふうに、これも余談で思っておりますけれども。これはもっと進んだ、新しい時代の概念、強者の論議がまかり通った時分の法の概念でなくて、これからみんなで尊厳を認め合わなければならない、新しい時代のための法理論をつくっていただく。  その中に、今先生がおっしゃった、脳死状態でも臓器を提供しようという人があったときには、その人にどのような社会の約束事が満足させられておったらよいか。このときには、恐らく約束事の中には、間接的には、それまで治療に携わった主治医の納得というのもやはり僕は要るだろうというふうに思っておるのですが……(土肥委員臓器移植に積極的ではないということですね、先生は」と呼ぶ)  いや、そういうことではありません。臓器移植というのは、人類の歴史の中でいえば、ある時期は、これは成立させなければいけないものですから、だから臓器移植そのものは進めていかなければならないと僕は思いますよ。脳死体からもとれるのであれば、とれる条件をちゃんと決めてあげる。ただ、そこで死の概念を変えるのは、それは人間の本能に反していますよということを言っているわけです。
  53. 町村信孝

    町村委員長 数多くの方が手を挙げておられますので、お答えの方も簡潔にひとつお願いしますし、質問の方も簡潔にお願いします。  あと、林先生、どうぞ。
  54. 林成之

    林参考人 ちょっと話がこんがらがってきて、わかりにくくなったと思いますけれども、医療原点というのは患者を治すことですから、救命救急医療移植医療も同時に大切な医療ですので、両方うまく動くように作業をするということが大切だと思うわけです。  その方法論の中で、脳死状態、人の死として遂行するのか、そういうふうにしないでやるのかということが今御質問だと思うのですけれども、僕の立場としては、患者を治す側からいけば、細胞ということまでもう医学が進歩してきていますので、そういう法律で死の限定を先に決められるという方法は、本当に我々としては将来にとっていいのかなというのが正直な疑問で、現時点ではどうなのですかと言われると、それはどちらでもいいのではないかというふうに思うわけです。  ただ、そういう意味で、今魚住先生が最後にちょっとおっしゃいましたように、法律が大切なのですか、医療原点が大切なのですかということをもうちょっと明確にして討議しないと、方法論だけで何か話が違っていってしまうような気がしますので、ぜひそのことはお願いしたいというふうに思います。
  55. 町村信孝

    町村委員長 大口さん。
  56. 大口善徳

    大口委員 新進党の大口でございます。きょうは大変勉強させていただいて、ありがとうございます。  そこで、お伺いしたいのですが、今回の法案につきまして、臓器摘出についてのドナーの書面による同意、これが必要である、こういう形になっております。このことにつきまして、野本先生、移植学会としましてどうお考えなのか。また、魚住先生、このことについて、やはり臓器摘出は書面による同意が必ず必要である、こういうふうにお考えになるのか、この点についてお伺いします。  それともう一点……
  57. 町村信孝

    町村委員長 できるだけ一つにしてください。
  58. 大口善徳

    大口委員 あと、低温療法につきまして、これは患者の方からしますと、ぜひともこの低温療法はやってほしいという気持ちはすごくあると思うのです。こういう可能性があるわけですから。そういうことで、これは医学的に確立されたことが大事だと思うのですが、やはり竹内先生も、あらゆる治療を施すことが脳死判定の前提だ、こうおっしゃっておりますけれども、これが非常に効果があるというふうに確立されたときは、やはり低体温療法というものを、これをしてからでないと摘出できないというふうにお考えになりますか。これは竹内先生、林先生、お伺いしたいと思います。
  59. 町村信孝

    町村委員長 それでは、まず野本さんどうぞ。
  60. 野本亀久雄

    ○野本参考人 書面による同意が云々ということに関する批判などは、する立場ではありませんから、それはいたしません。なぜかと言いますと、実行部隊のヘッドですから。移植学会理事長としては今どういうことを考えておるか、国会で書面による同意が必要であると判断されたというのは、国民の多くの人がそう考えていることだと受けとめておりますので、これはこの間の評議員会でも全員の決議として、移植学会会員は全員市民の中へ入っていって、そういう意思確認のために話し合って、広げていくということを決意しました。評議員クラスはこれから移植医療に携わる中堅クラスですので、この決意表明は私は信じていいと考えております。  したがいまして、本人の意思を尊重をした形で、正しく移植医療が普及するようにしていくのが私の役割かと考えておりますし、それは今のような方法で今始めております。  以上です。
  61. 魚住徹

    魚住参考人 本人の意思の確認ということでございますので、それは必要と思います。御家族がおられれば、その場に臨んだ御家族がさらにそれを強く裏打ちするというようなことがやはり必要であろう、そういうふうに思っております。
  62. 林成之

    林参考人 脳の低温療法をしないと脳死判定してはいけないし、臓器提供、そういう作業をしてはいけないかという質問に対しては、そういう必要は全くないと思います。  我々が幾ら頑張っていてもそういう状況に持ち込めない患者さんもいっぱいいらっしゃいますし、その脳治療が全部全能の治療であるとは思いませんし、将来もっといい治療も出てくるかと思いますから、竹内先生がおっしゃるように、あらゆる治療を施してということで僕は十分だと思います。
  63. 町村信孝

    町村委員長 竹内先生、何かありますか。
  64. 竹内一夫

    竹内参考人 やはりおっしゃるとおり、あらゆる治療方法をやった上でということになりますが、低温療法ないしそれに類似の治療方法、いろいろ我々ベッドサイドで考えるわけですけれども、低温療法だけをとりましても、すべての脳障害患者さん、重症脳障害患者さんに適応があるとは言えないと思いますし、それなりの治療基準が出てくるのではないかと思いますし、そういうことを全部含めて、やることは全部やった、そういうことになるのではないかと思います。
  65. 町村信孝

    町村委員長 金田さん。
  66. 金田誠一

    金田(誠)委員 民主党の金田誠一でございます。きょうは各先生方には大変貴重な御意見を伺いまして、ありがとうございました。  野本先生にお尋ねをしたいと思うわけでございますが、私ども脳死状態を死体ということで一律法律に規定をしないという立場で、脳死状態からの移植に道を開こうという立場の法律案を提案している者の一人でございますが、内容につきましては既に御承知のことと思います。  そこで、お尋ねをしたいのは、こういう法律を提案をしました考え方の一つとして、脳死を人の死と認める方もいらっしゃる、認めないという方もいらっしゃる、わからないという方もいらっしゃる、比率はそれぞれ動いておるわけでございますけれども。さらにまた、脳死状態を人の死だと認める方の中でも、それを一律法律で「死体(脳死体を含む。)」と決めてしまうことには必ずしも賛成でない方もいらっしゃると思うわけでございます。  今の日本の状態では、非常に多くの立場の違い、考えの違いがある、そういう状態をそのまま是認をして、事実は事実として認めた上で、臓器移植のためのルールづくりといいますか、先生も事ここに及んではもう法律が必要だとおっしゃっておりまして、私どももそうだと思うわけでございますけれども、それにしても現実の国民の意識水準、社会的合意の形成の状況等々を素直に見るとすれば、脳死状態脳死状態という形で移植に道を開くのが一番いいのではないかな、こう思っておるわけでございます。  そこで先生には、今のその国民の合意のレベルが、果たして「死体一脳死体を含む。)」ということになっているのかどうか、その辺の認識と、私どもの法律では具体的にどういう不都合が生じるとお考えなのか、これについてお聞かせいただきたいと思います。
  67. 野本亀久雄

    ○野本参考人 これは、どういう立場でお答えしていいかわからない、非常に難しい御質問だと思うんです。  先ほども申しましたように、一九八八年のときに立ち上がったときの考え方は、議員の考えられておるのに近いような考え方で立ったんですが、それは結局しくじりまして、うまくいきませんでした。  本来、私の考え方は、いろんな多様な考え方が共存するような社会をつくっていきたい、私の生体防御論というのはそういう考え方なものですから。ですが、今のような状況で臓器移植脳死といえ、脳死状態といえ、そういう状態から臓器を摘出して移植をするという急激な動きをどうしてもとらなければいけないときだと思うんですが、そのときにはやはりできる限り単純な方式にしていただきたいということなんです。  多様性のものから絞り込んでいくのには、いわゆる時間の余裕がどうしても必要だと思います。今少しでも、何と言うんですか、実際の個人個人の生き方は多様性を認めるべきであって、この法案が国会脳死を人の死として認める形になったとしても、反対する人に押しつけるというのはとんでもない話だと私は考えています。  しかし、今の、移植学会という一つの専門職集団を率いておるという立場から答えさせていただくと、今の時点で複雑な方法は、ちょっと、彼らをコントロールするのに非常にしんどいなというのが、これは正直な話、しんどいなという感じです。
  68. 金田誠一

    金田(誠)委員 ありがとうざいます。
  69. 町村信孝

    町村委員長 青山さん。
  70. 青山二三

    ○青山(二)委員 新進党の青山二三でございます。  本日は、五人の先生方、本当に貴重な意見をありがとうございました。  私は、簡潔に、山口先生にお尋ねをしたいと思います。  今までも議論が出ておりますように、脳死を人の死としていいのか、あるいは脳死を人の死とせずに臓器移植を行うべきだ、そういうお話がずっと続いておりまして、思い悩むところでございますが、先生のきょうのお話によりますと、そのような法律ができて摘出が可能となっても、今の日本の医学の現場では、その成功は大変難しい、一つ移植施設を絞るべきである、このようなお話でございました。  そして、その移植手術を一日千秋の思いで待っている患者さんのことを思って、早くやるべきだと言うことは間違いだ、こういうふうな指摘をされました。多くのお母さんやいろんな患者の方から要請を受け、早くこの法律をつくってほしい、そんな要望をいただいているときに、私も本当にそのとおりだなと思っておりますけれども、かえって手術をしたために患者を殺してしまうというようなことになりかねない、こんな御指摘がございまして、とても心が揺れるところでございます。  それでは、移植施設を一つにして、財政を十分に援助して、国際的にも誇れるような、そういう移植センターをつくってからこの法律をつくるべきだ、このようなお考えなのでしょうか。それができなければ、この法律をつくってはいけないということなのでしょうか。そして、今日の日本の医学界あるいは医療界には倫理の歯どめがないから恐ろしいのですとおっしゃいましたけれども、そのあたりをもう少し具体的にお教え願いたいと思います。
  71. 山口洋

    山口参考人 私がアメリカに二十五年前まだ留学しておりましたところで移植を既にやっておりまして、成功しておりました。それから日本に帰ってまいりまして、びっくりした。一番いいという虎の門病院に帰ってまいりましたが、大変おくれておりまして、本当に、ルーチンにあるカリウムひとつがはかれない、心電図がその日のうちに返事いただけないというぐらいおくれている状態でした。実際に、私は最近、意を強くしましたのは、移植学会で奨励しておる東京女子医大あるいは国立循環器病センター、大阪大学に行きましても、これで移植ができるかというぐらい、中が清潔ではないんですね。  ですから、もしやるとすれば、そういうところが先駆けてやる、今までの実績が、研究実績とか、いろいろな方々が勉強しておりますから。やるとしてもこれではだめだから、移植を早くやってあげた方がいいことは私も百もよくわかっておりますけれども、やって殺さないためには、そういうところをうんと財政援助して、独立したきれいな部屋をつくり、手術室をつくり、また看護婦不足が物すごい今問題でございますし、感染症にもなりやすい。ですから、そういうものがなくて済むようないい組織と環境をつくってあげる財政バックを徹底的にしてあげていくということ。  それが大変、学閥や何かで難しければ、ひとつ独立した高いところで、高い理念でセンターをつくる。外国もうらやましがるような、さすがは経済大国でやったというものをつくって、本当に成功するものをやる。それで、先ほどから繰り返しておりますように、数をたくさんやらないと、チーム医療ですから、うまくなれないんですね。それはもうスポーツでもすべてそうだと思います。  ですから、数をたくさんやって、経験を積んだ人たちが多くなって、最初は、アメリカで何百例、ヨーロッパでも結構ですが、やっている一流施設の先生に来ていただいて、十例ぐらい手ほどきしていただいて、すばらしい、なるほど、移植をやるとこんなによく助かるということを実績を示せば、ドナーもふえてきます。  ドナーがふえないのは、移植って必ずしも言っているほど成績がよくないじゃないか、とられる方にとっても随分残酷だな、皮膚などはがき大で三十六枚分もとられちゃったというような、何かだましちゃったというような感じのインフォームド・コンセントではいけないんで、そういうものをきちんと監視する機構もつくり、また財政バックをきちんとしてあげる。今の保険制度では大変無理がございまして、七千万ぐらいかかると言われております。アメリカで九万ドルと言うけれども、日本はそうはいきません。  ですから、日本は倫理の監視機構もない現実でございますから、そういうものをきちんとやってやる方が、結局は、定着したいい移植医療ができるということでございまして、やっちゃいけないと言うんじゃなくて、やる法律をつくるのなら、どちらの法律にしろ、そういう附帯事項というものをきちんとしてあげて、今女子医大でも、特に移植学会で挙げている埼玉医科大学とか東北大学は、実験はやっているかもしれませんけれども、そういう臨床にたえられる病院というのはとてもとても、理事長さんがバイパス手術ですら亡くなられちゃうという状態――これはうそじゃございません。  それで、国会議員さんたちが視察団でいらっしゃって、ドイツで南教授あるいはスターツル先生、ピッツバーグで藤堂先生にお会いになられたと思いますが、そういう先生方が日本に来て手術するとうまくいかないんです。自分のお城でやるとすばらしい手術をしていらっしゃるという事実を見ても、日本の環境が整備されていないということなんです。  ですから、環境整備ということが本当に大事で、飛行機で例えるなら、これから長距離飛ぶ飛行機に整備もしないで乗って、早く飛んでしまえということをしないで、整備ぐらいちゃんとしてください、そういうことなんでございます。
  72. 町村信孝

    町村委員長 あと、一、二名の方にお願いします。  では、矢上さん。
  73. 矢上雅義

    ○矢上委員 新進党の矢上でございますが、魚住先生にお伺いいたします。  お医者さんというのは、広い意味で科学に携わる人であり、また、政治家というものは、立法という意味で社会学的な立場に立つ人間でございます。そして、科学の常識とか社会の常識が絶えず変化するということを前提にして、そして変化するからこそ一つのルールとしての仮説とか基準を立てていく必要があると考えております。  それを、将来変わり得るかもしれないという理由だけで判断を放棄するのは、政治家として、また医学者としてなぜそこに座っておるかという、責任を放棄するものだと思っております。  そういう中で、先ほど魚住先生は、脳死は人の死ではないが、臓器移植は認めると。臓器移植を認めるに当たって、尊厳死の理論を唱えられました。  ただし、尊厳死の理論は、生きている人を殺すことができるかどうかということであり、それはまさしく立法の判断であります。脳死を人の死とするかどうかという判断は、医学的な判断でございます。医学者としての立場を放棄して、尊厳死が認められるかどうかという、殺すことができるか否かということで、立法府にだけ責任を求めるのは間違っておると思います。  医学と社会学という二つの両輪があって初めて社会が進むわけでございますから、きちんと脳死は人の死であるか否かということについて答えを出す。もし人の死でなければ、それからどうするかというフリーな立場に立っていただくこと。そして、そういう一つの仮説を社会的に認めるということは昔から認められていることであり、刑法等の法律が過去に遡及しないということは、そういう仮説の中で生きておる社会というものを認めておるということと私は認識しております。  その点について、魚住先生の御意見をお伺いいたします。
  74. 魚住徹

    魚住参考人 先ほどからいろいろ言っておることの繰り返しになりますけれども、医学的にこの人は死んでおるということが言えるのは、普通の死体になったときだということを私は申し上げておるわけで、それは、医者がもうまさに、医学という片々たる知識のみならず、自分の本能的な種の記憶といったものに徴しても間違いがない、周りの人もだれも何も言わないというところで、これまで人類の歴史だけでも数千年やってきているわけでございます。  ですから、医学の責任を放棄するというようなことはまるきり反対の話であろうと私は思います。人間の種の方が医学や法律よりも早く、前からあるわけでございますから、我々がだれでも納得できることから始めるということこそ、それを率直に認めて、それ以外の変わったことを認めようとすれば、それについて、それは本当だろうかどうだろうか、自分たちの知識に照らすと同時に感性にも照らし、あるいは自分たちがそれをやっていくだけの本当の、後ろめたさがないかという意欲にも照らし、知情意まとめてやましいところがなければ、それは変えることはできるであろうというふうに思います。  ただ、残念ながら、そういう観点からいたしますと、私は先ほど一つ例を引きましたが、一九六八年に出てきた便宜論というのは、これはやはり行き過ぎであろうというふうに思って、これはまさに、医学界の話ではなくて、あの委員会が新しい死の基準をつくるのだという一つの社会的な発言をしている、ディクレアメントをしたというふうに僕はとらえております。  だから、今でもなおかつ、きょうもつけておきましたけれども、脳死を最も多く見ておる人々からできておる脳死脳蘇生委員会方々でも、七、八割の人は、死としてもいいだろうと言っておられますが、残りの二、三割の人は、これはまだ死に至るプロセスであるというふうに返事をしておられます。古くは、何年か前に某大学でアンケートをとったら九八%までが、自分がなったら、脳死は死であって、臓器を提供してもいいと言ったという話がございますけれども、医者も普通の人と同じだというデータがゆっくりと出てきています。  これは、携わっておる者でも全部が全部納得できないようなものは、法律で決めるというのは非常に難しいことであろうと思うわけです。だから、本質的に便宜論ではあっても、そこに、それを突破していくことができるのは、医学・医療の進歩によって何か使うものが、手段ができてきたときに、それを、その衝に当たった人が困らないように、あるいはそれにかかわった人に不幸が起こらないように考えるというのが、法をつくる方々の義務であろう。それ以外にはない。人間の生があってこそ法律はあるので、法律があって生があるのではありません。そこをよく理解していただきたい。先生にそういうことを申し上げると大変失礼かと思いますけれども、ちょっと、言われたことが反対を言っておられると思うので、このことは何度も申し上げておいた方がいいと思います。ありがとうございました。
  75. 町村信孝

    町村委員長 では、あと、田村さん。
  76. 田村憲久

    田村委員 自由民主党の田村でございます。本日は、先生方、まことにありがとうございました。  私は、基本的に、脳死というものを人の死として考えていいのじゃないのかな、そういう立場に立たせていただいております。  ただし、その脳死という定義といいますか、不可逆的な機能停止よりも、本来はやはり器質死を選ぶべきなんであろうと思うわけでありますが、それを調べる手だてがなかなかないということにおいては、ある意味では、不可逆的な機能停止、いたし方がないのかな、そのようにも思うわけであります。もちろん、心臓死でありますとか呼吸停止等々において最終的には脳が停止するわけでありまして、そのような意味からいたしますと、心臓死も大きな意味からすれば脳死一つになってくるのじゃないのかな、そのようにも思うわけであります。  そこで、やはり一番大事な部分といいますか、根幹の部分というのは、これは脳死の判断基準判定基準になってくるのだと思います。  きょうは竹内先生お見えになられておりまして、本当に間近で御質問をさせていただくという、大変失礼なことをお聞きするのかもわかりませんけれども、先生の判断基準の中で、その対象というものを一次性及び二次性の脳障害、こういうものに、その以前の脳波学会の対象から変えておられる部分があります。脳波学会の方は、急性一次性粗大病変に限るという話であったわけでありますが、あえて二次性の脳障害まで入れられた。さらには、急性ではありませんから、多分慢性疾患の場合も入ってくるのだろうと思います。このように変えられた根拠というのは一体どこにあるのか、これが一点。  そしてもう一点というのは、いろいろな判断の検査があるわけでありますけれども、その検査一つ一つをとりますと、その部分機能が停止しているということは証明されるのかもわかりません。ただ、反射弓なんかの場合を考えますと、どこかに障害があれば、機能は実質的にはあったとしましても、それが反応できないという場合もあろうかと思います。いずれにいたしましても、仮に反射弓、どこにも障害がなかったといたしましても、その機能に対しては機能停止しておるということは言えるわけでありますが、全脳すべてにおいて機能が停止しておるというのは、これは、極端なことを言えば、幾つ検査をしても判断することがなかなか難しいのであろうと思います。でありますから、なるべく多い判定基準というもので脳死というものを判定しなきゃいけない、そのように私は思うのです。  そこで、脳循環の停止の確認でありますとか、また聴性脳幹反応の検査、さらには視覚性誘発反応でありますとか皮膚感覚性誘発反応の検査、こういうものを参考としては入れておられる部分もありますけれども、必須としては抜かれておられるわけであります。私は、こういうものもやはり必須として入れられる必要があるのじゃないのかな、そう思うのでありますが、このようなものを参考にとどめられたその理由、この二点をぜひともお聞かせをいただきたいと思います。
  77. 竹内一夫

    竹内参考人 最初の御質問に対しましては、脳波学会の基準をつくりました当時と厚生省基準をつくりました当時で大きな違いは、CTという装置が広く使われたという、殊に日本はCTの普及率が非常に高くて、全国津々浦々で重症脳障害患者さんの検査に使われておる。したがいまして、器質性の脳障害をCTによって確認するということがぜひ必要であるということが我々の基準にもうたわれております。ですから、そういう点で御理解いただけるのではないかと思います、範囲が広まったという意味では。脳波学会の基準をつくった当時は、セカンダリーの脳障害、二次性の脳障害を含むことが非常に難しかったわけですね。  それから、二番目の御質問ですが、全脳機能の不可逆的な喪失という表現がなかなか理解されにくいのですが、もちろん、多くの脳機能の中には脳死状態になってもなお残存しているのではないかというようなことがあるわけですね。それは病理学者に言わせますと、心臓がとまった後でも脳の一部が明らかに生きていたと思われる所見があるというようなこともありまして、広い脳の中にはそういうことが十分あり得るのではないか。したがって、脳機能すべてをチェックするための臨床的検査方法というのはまだないわけですし、それから脳循環というような検査方法一つとっても、脳のすべての循環を忠実に反映するだけの力はないわけです。  ただ、一方から言いますと、重症脳障害に対して集中治療をやっている場合には、何も脳死判定のためではなくて、治療方針の決定とか治療効果判定のためにいろんな脳機能のモニターをするわけですね。それは脳幹誘発反応であり、脳循環検査であり、そういうことです。ですから、脳死判定に直接利用するということはないかもしれないけれども、参考所見として恐らく臨床の現場にはそういうデータは豊富にあるのではないか。  したがって、あえて必須検査項目としなくてもいいし、逆に、例えば聴性脳幹誘発反応などを必須検査とした場合に、これが側頭骨の骨折のような患者さんでは反応が出ないということがあるわけですね。そういうことがありまして、非常に困ることも起こってくる。そういうことがありまして、必須検査は厚生省基準程度でよろしいのではないか。あそこに入っております脳波検査も、入っていない国の方が多いのですね。  以上です。
  78. 町村信孝

    町村委員長 それでは、まだ御質問御希望の方もいらっしゃいますけれども、予定の時間を若干超過をいたしましたので、以上をもちまして午前中の参考人に対する質疑を終了いたします。  この際、一言ごあいさつを申し上げます。  参考人皆様方におかれましては、大変長い時間、また御多忙の中、貴重な御意見をお述べをいただきましたことを心から御礼を申し上げます。委員会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。本当にどうもありがとうございました。  午後三時から委員会を再開することとし、この際、休憩いたします。     午後零時十三分休憩      ――――◇―――――     午後三時開議
  79. 町村信孝

    町村委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  午前に引き続き、両案審査のため、参考人から意見を聴取いたします。  午後、御出席参考人は、弁護士の石川元也さん、東京大学名誉教授の平野龍一さん、三菱化学生命科学研究所社会生命科学研究室長米本昌平さん、ノンフィクション作家の柳田邦男さん、ニューハートクラブ連絡班長木内博文さん、以上の五名の方々でございます。  参考人皆様方には、御多用中にもかかわらず御出席をいただきましたこと、まことにありがたく、心から感謝を申し上げます。どうもありがとうございます。どうか、両法律案につきまして、忌憚のない御意見をお述べをいただきますようお願いを申し上げます。  次に、議事の順序について申し上げます。  最初に、参考人皆様方から御意見をそれぞれ十五分程度お述べをいただきました後、委員より質疑を行うことになっておりますので、どうぞよろしくお願いを申し上げます。  なお、御発言は着席のまま、どうぞそのままでお願いをいたします。  それでは、最初に石川元也さんから御意見をお述べいただきたいと存じます。石川さん、よろしくお願いをいたします。
  80. 石川元也

    ○石川参考人 弁護士の石川でございます。現在、日本弁護士連合会の刑事法制委員会委員長をしております。  きょう、午前の参考人方々のお話を私も聞かせていただきました。大変熱心な医学関係の五人の方々のお話を伺いました。その中で、脳死状態からの移植が可能になるかどうか、脳死状態を人の死としなければならないかどうか、それぞれ医学の立場からのお話がございました。その中で、法律家の頭がかたいのは困る、こういうお話も伺いまして、私はできるだけかたい方でなくて法律の考えができる、その道をお話ししてみたいというふうに思います。  レジュメに従いまして簡潔に申し述べたいと思いますが、今回二つの臓器移植法案があわせて審議されることになりましたことは、大変問題を深める上で好ましいことであり、歓迎を申し上げる次第です。今後の国会の審議の上でも、あるいは国民的な論議の上でも、この二つの法案を対比して広く解明をされることを期待申し上げたいと思います。  前の法案が提出され、あるいはそれに対する修正案が昨年の六月出されましたが、改めて十二月に再提案されました。金田議員ほかの、脳死を人の死としないで移植の道を可能にする法案が提出されたのはまだ三月三十一日のことであり、四月二日に提案説明がなされたと聞いております。  まだ国民の間では、この二つの法案が出ているということすら知られていないような状況であり、この二つを取り上げて論議されているということは、けさの朝日新聞の社説なり、あるいは読売新聞の囲みの記事の中に初めて出てきた、まだこういう状況でございますから、できるだけ多くの国民の方々に、この問題の二つの法案、どこが違うのか、どこで一致しているのか、相違点についての詳しい理解をいただいた上でこの委員会でお決めいただける、そういうことを期待申し上げるわけであります。  例えばこの二つの法案についての世論調査がどうかとか、そういうことも今までまだないわけでありまして、過去における世論調査あるいはアンケート、そういうものはございますけれども、この二つの法案がそろったところで改めて論議を深めていただくようお願いを申し上げるわけであります。  今回の二つの法案の最大の相違点は、脳死を法的に人の死とするかどうかにあることは申すまでもありません。  提供者本人の事前の提供の意思が書面で示されていること、このことについては基本的に一致したわけでありまして、これは長い間の論議の中で、その成果と言えるでありましょうが、この一致したことは大変重要なことだ、貴重な合意だと申せましょう。  残る最大の課題が、脳死を人の死としなければ臓器移植が進められないのか、それとも人の死としなくとも移植はできるのかということに絞られてまいったと思います。  私たちは、脳死を人の死としなくとも臓器移植はできると考え、それを提言してまいりました。お手元に届けました日本弁護士連合会の臓器移植に関する考え方と提言ということがそれでございますが、私たちの考え方を簡潔に申し上げてみたいと思います。  私たちは、今も申しましたように、脳死状態からの移植そのものに反対しているわけではありません。本人の提供承諾書面、こういうことを前提に移植ができる道を開く、こういうことであります。  その場合に、脳死を人の死と法律で決めなければできないか、また現状では人の死とするのには相当問題がある、こう考えて、人の死としない立場からの移植の道を述べているわけでありまして、その論点は三つほどございます。  人の死とする社会的合意がまだ成立していない。午前中からも論議がありましたように、人の死と認めるあるいは認めない立場、わからない、こういう立場が依然として続いておる状態でありますが、そういう状況の中で、しかも脳死の発生は年間三千人から八千人ということがお配りになっている資料の五ページに出ています。年間八十五万人の死者があるという中で、一%にも満たないこの数で、脳死をもって死とするという、これまでの三徴候死を基準としてきた死の定義といいますか概念、これを変更することは適当ではない、こういうふうに考えるわけであります。前の国会の質疑でも、今度の中山議員ほか提案の法案によれば、死の概念の変更になるという答弁がなされているようでありまして、この点はやはり重要な問題だろうと思っています。  それから、午前中もお話がありましたように、脳死を死とすることによる医療現場の混乱、特に救急救命医療の現場における問題がございます。適切な医療が最後まで続けられることを家族は期待しておるし、また、救命の現場にある医療関係者もそれを最後まで続けようとなさっておられます。人工呼吸器によるものであれ、現に血が通い呼吸をしておるその人のことを死者と受け取ることは到底困難な状況にあります。  よく言われるのでありますが、脳死状態になったからと言われて香典を持っていくというようなことが社会的に妥当でありましょうか。  私も、ごく親しい友人が、昨年、クモ膜下出血で、それで放置されていたために脳死に陥った。こういう友人のまくら元に駆けつけ、家族の人たちと話をしましたけれども、どうしても納得できない。時間の経過とともにようやく受容していくというのが現状ではないでしょうか。  これまでのこの委員会の地方公聴会でも、救命救急医療の現場にあるお医者さんや、あるいは看護の立場から公述人に立たれた方々は、いずれもこのことを強調しておられました。脳死が人の死とは思えない、あるいは肉親が死を納得する臨終の場というものがさま変わりする結果になるじゃないかということがこの資料集にもたくさん出てまいりました。  また、脳死状態を死とすると、その後の脳死体への治療、そういうことができなくなる。この法案でも、当分の間、その処置を健康保険などの給付関係の適用を認めるということをお書きになっていらっしゃいますけれども、これも建前と現実との妥協を図らざるを得ない結果だろうと思いますが、一方の金田法案では、こういうことが必要とならなくなるわけであります。  また、この脳死体を死体とすると、医学実験や医療資材として利用するというようなことも食いとめられない可能性があります。生体では到底できないような医学実験や、特殊な抗体や血液の製造を脳死体を医療資源として悪用するということをとめられません。脳死臨調で出られた先生方が、科学者の飽くなき好奇心に支えられてやられかねないことだという懸念を表明されていましたが、そうした懸念も杞憂とは申せないわけであります。あるいは、脳死体への死体解剖とか病理解剖が許されるでありましょうか。  こういう問題のほか、現在のたくさんある法規との整合性はどうでしょうか。現在の法律で、死とか死亡という用語が使われているのは、法律の数で六百三十三、法律の条項でいえば四千五百五十三もあるというのが法務省の調査の結果です。よく言われます相続の開始時刻、公職選挙法での繰り上げ当選の日時の計算、いろいろ法律上の権利義務の発生、消滅要件との関係が深いのですが、それらの問題の整合性はどうなるか、まだ論議が詰められておりません。  きょうの問題の私どもに課せられた主なテーマのところでありますが、脳死を人の死としないでこの臓器移植を可能にする法理というものはどういうものであるか、この点についての時間をもう少しいただかなければなりませんが、私たちはこれは、脳死状態という不可逆的な状態に陥ったその特殊な状態にある生命の処分は、本人の自己決定によって提供することによってその死に至らしめることはできる、そういうことは違法阻却の考え方で十分に可能だし、今日、かなり多くの刑法学者もこれを認めておられるということを申し上げたいと思います。  先ほどの、三月十八日本会議の審議の中で、それは認められないと御主張なさる方の論点が四つございました。その四つについて申し上げたいと思います。  一つは、殺人または承諾殺人のような場合に違法阻却はできない、違法性の度合いが高い、こういうことをおっしゃられています。  なるほど、一般的に自己決定権だけで是認できるということは困難でありますが、脳死という医学的には蘇生限界点を超えてしまった身体について、本人の事前の提供の意思、自己の残された生命を提供することによって貫徹したいというその意思を社会的に受け入れるという合意、とうといものとして受けとめましょう、こういう合意は可能なのでありまして、その自己決定権を完成させるのに、お医者さんが関与してそれを実現させるということは社会的に相当な行為だ、こういうふうに考えるものであります。  平野先生はこれに厳しく御批判の意見がありましょうが、平野先生のお弟子さんを含めて、私も平野先生の講義を聞いた者の一人ですが、しかしやはりいろいろな考え方が法律学者の中にもある。多くの学者がそのことを認めておることもここであわせて申し上げておきたいと思います。  二番目の反対論としては、脳死を死としないで提供を認めるということは、生命の価値に軽重をつけることになるではないか、脳死状態にある人の生命を軽く見て、そしてレシピエントの命を重く見る、こういう批判がよくございますが、私たちはそういうふうには考えません。  また、そういうことを言われる方は、提供者の命を奪うというふうに表現されるのでありますが、そうではなくて、移植の主体は提供者本人にあり、その提供という敬けんな行為を素直に社会が受けとめていただく、こういうふうに考え、私たちはこの法案は、金田法案と申しますが、ドナーの意思を実現するための法案ではないか、摘出するための法案というよりは、提供する意思を受けとめる法案、こういうふうに評価するのが相当ではないかと思うのでありますし、いわゆる緊急避難という用語もありますが、そういう考え方は日弁連の場合はとっていないのであります。  反対論の三番目としては、医師の立場からは、生きている者から摘出をするということは医のモラルから見てできない、こういうふうにおっしゃられます。なるほど、法律がない状態でありましょう。そういうことが言われることもありますけれども、この脳死状態という特殊な段階に至っておるその方が健全なときに示しておる意思を尊重して受け取る、その意思を厳粛に受けとめ使わせていただくんだ、こういうことは決して医のモラルに反するものではないというふうに考えます。  四番目に、脳死を人の死としないと検視ができないではないか、こういうことを言われますが、これはかなり技術的な問題でありまして、金田法案のように、検視類似の行為、刑事訴訟法のその他いろいろな手続がございますから、それを活用すればできて、捜査と移植との関係を十分調和することができます。もし捜査の上で異議があるならば、それは優先せざるを得ないのはどちらの立場でも一緒でありまして、医師の通告を受けて捜査機関が一定のことができるようになっているわけであります。  要は、こうした場合に、今学説の上でいろいろな議論がありますけれども、その学説をどちらをとるかという問題ではなくて、そういう学説がある中で、立法府として国民の要望にこたえてどういう法案にするか、そのことの問題でありますから、どうぞ御検討いただきたいというふうに思います。  時間が参りましたので、最後に結論だけ申し上げますけれども、脳死臨調の立場といいますのは、こういうふうに言われておったわけであります。脳死臨調の結論、まとめの中で「本調査会の結論としては、「人の死」についてはいろいろな考えが世の中に存在していることに十分な配慮を示しつつ、良識に裏打ちされた臓器移植が推進され、それによって一人でも多くの患者が救われることを希望するものである。」ということでございました。まさにさまざまな考え方がある中で、良識ある法案を御採択いただきたいと思います。  いずれにしましても、二つの法案とも本人意思ということを最大限尊重し、書面による提供の意思が確認されなければできないのでありまして、そういう意味では、ドナーカード、これが普及されなければその基礎を失うわけであります。  お手元に配付しましたように、私自身は数年前に、これとは別の書式で、私の意思を確認して提供する用意があるということを申し上げておりましたが、このただいまのは大阪大学の松田先生と対談した際に示されたカードであり、そのカードをいつもこの名刺入れに入れて持っているわけでありまして、私自身もそういう立場から、しかし脳死を人の死としないで、かつ提供に基づく移植の道があることをぜひ御理解いただきたい、こういうふうに思うのであります。  以上、私の意見とさせていただきます。ありがとうございました。
  81. 町村信孝

    町村委員長 どうもありがとうございました。  続きまして、平野龍一さんにお願いをいたします。
  82. 平野龍一

    ○平野参考人 本日お招きをいただきましたことを大変光栄に存じます。  私は、中山先生ほかが御提出なさいました法案に賛成の意見を持っておりますが、時間もございますので、三つの点に絞って意見を述べさせていただきたいと思います。一つは、なぜ脳死は死であるか、二つ目は、脳死を死と認めないで臓器移植をすることが可能であるか、第三は、提供者が書面で意思を表示した場合に限るということは適当であるかという点でございます。  第一に、脳死を死と認めますのは、臓器移植を可能にするためにいわば便宜的に認めるものではなくて、最近の医療技術の発展に伴って、従来の心臓死という概念が維持できなくなったもので、死とは何かということをもう一遍考え直しました結果、やはり脳死を死とするのが適当であるという結論に多くの国の学者が到達しているんだと私は理解しております。  では、どういう点で心臓死が維持できないかと申しますと、一つは不可逆性でございます。ドイツの教科書などには皆、死とは脳死であると書いてございますが、その説明に、心臓死を死とすると、一度死んで死亡の宣告をした後でまた人工呼吸器で生き返らせるということができる、すると概念的には一度死んだ者がまた生き返るということを認めなければいけなくなる、それが不合理だというようなことを言っております。これは多少ドイツ学者的な理屈に走る傾向もありますけれども、要するに心臓の停止は不可逆であるという点について非常に不確か。これに対して脳はあくまで不可逆であるという点です。  第二は、代替性、すなわち人工心臓ができることによりまして心臓は人工心臓で動かすことができるけれども、脳はこれに代替するものがないという点でございます。  それから第三は、いわゆる生命の源、生命を統合するものは何かという点で、これまで心臓がいわば生命の源であると考えられていたのが、実は心臓はポンプにすぎないのであって、その背後にある脳がこれを動かしているんだという考え方であります。  死というのはプロセスでございまして、ある幅を持っているということは否定できないと思いますけれども、どうしても私どもはそのプロセスの中からある点を選ばなければいけない、社会生活上もそうでございますが、特に法律上はどこかの点をとって死という定義をせざるを得ない状況でございます。その点としては、現在のところはやはり脳死というのが一番適当であるというふうに考えられるわけでございます。  しかし、こういう選択の余地のある問題でございますから、これに対しては、やはり国民がこれを受容をするということが必要だと思われます。しばしば合意という言葉が使われますが、合意といいますと、何でも合意さえすればいいようにも聞こえますので、医学的な基礎を前提としてこれを受容するかどうかということが問題だと思われます。  その際に、どういう状況になったら国民が受容したと言えるか、これは大変難しい問題でございます。  脳死臨調でアメリカに視察に参りましたときに、アメリカではもう七〇年代から法律で脳死ということを認めておりますけれども、八〇年過ぎに世論調査をいたしましたら、脳死に賛成は五一%であり、反対は二五%であり、どっちとも言えないのが二四%だということでございました。私が、やはり脳死を死と認めるには九〇%ぐらい認めなければいけないのじゃないかと申しましたら、いや、そんなことになったらアメリカはアメリカじゃなくなる、アメリカというのはそういう意見が分かれているというところがアメリカなのであって、九〇%も賛成するようになったら、それは思想統制が行われているという疑いがむしろ生ずるんだという答えでございました。  イザヤ・ベンダサンという名前で書かれました本の中にも、日本ではどうも全員一致の神話というのがあって、正しいものは全員が一致する、全員一致したものが正しいという理解があるけれども、ユダヤ人は、むしろ全員一致というのは怪しい、むしろ少数意見があるということが全く健全な状態なんだということを言っております。  ですから、今回も少数意見が出されましたことは大変これはとうといことでございまして、私も非常に敬意を表する次第でございますが、しかし全体として見ますと、最近の、例えば東京新聞の世論調査でも、六六%が脳死に賛成である、二五%が反対であるという状況だそうで、こういう少数、多数の場合はやはり国民がこれを受容していると考えても差し支えないのではなかろうかと考えるわけでございます。  しかし、もちろん少数者に対する配慮というものも必要でございます。実際に脳死が起こりますのは自動車事故の場合でございまして、元気な息子を送り出した母親が数時間後には病院で脳死をした息子に対面するということになるわけで、これをすぐに認めろということは無理でございます。アメリカでは、大体第一次のテストから二十四時間置いてテストをするということにしておりますけれども、聞きましたところでは、全体の三分の二くらいの人は二十四時間たてば納得してくれる、しかしそれでも三分の一の人は納得しないので、そういう人については納得するまで人工呼吸器を動かすんだ、場合によっては一週間、二週間と動かすこともあるし、その費用は病院で負担しているんだという、少数者に対する配慮ということは当然必要になってくるであろうと思われます。  それから第二点の、脳死を死と認めなくても移植できるかという点でございますが、確かに、石川さんおっしゃられましたように、刑法学者の中にもその場合は違法性を阻却するという見解の人もございますけれども、どうも緊急避難の規定を見ましても、あるいは安楽死の定義に当てはめても、あるいは尊厳死の定義に当てはめましても、あるいは医療行為一般という点について検討しましても、違法阻却を認めることは難しいようでございます。何といっても、生命を奪う、たとえ脳死状態であってもやはり生命を奪うことで、我が国では同意殺は犯罪だとしておりますので、それを違法でないと言うことはかなり難しいように思います。  そこで、例えば、私の弟子でない、京都におられました中山教授なども、違法性が減少することは認めるけれども違法性がなくなると言うことはできないんだ、もし処罰しないとすれば責任阻却である、もうやってしまった後で、余りにこれを処罰するのはかわいそうだという場合は処罰しないこともあるけれども、前もってこういうことをやっていいということは言えないんだとおっしゃっているわけでございます。  日本弁護士会のお考えも私の理解ではそうでございまして、脳死臨調の中間答申を出しました後で弁護士連合会の意見が出まして、その御説明のために見えたのでございますが、私が、事後にやってしまったときは処罰しない、しかし事前的にやっていいですかと聞かれたら、いや、やってはいけませんよという答えをする趣旨なんではなかろうかと思うのですがいかがでしようという御質問をいたしましたら、先生のおっしゃるとおりでございますと。基本的にはやはり現状で脳死からの臓器移植は許されない、しかし事後的にそれをすべて処罰すべきかといえば、一定の条件を備えた場合は処罰されない場合もあり得るというのが弁護士連合会の意見であるということをおっしゃっております。  したがいまして、私の感じでは、弁護士連合会の意見と石川さんの意見は食い違っているというふうに理解するわけでございます。これは記録にちゃんと残っておりますので。  それから、最後に、脳死臨調では、本人の意思をできるだけ尊重しなければならないということにいたしました。  これは、意思に反してはいけないというのは当然でございますが、もし文書だけに限ると、現在ではまだ文書にする機会が十分ございませんから、どうしても意思があるにもかかわらずその意思が実現できないということになってしまうおそれがある。そこで、最初は、親族がそんたくして認めたときはと、本人にそういう意思があると認めたときはという案が出ましたが、そんたくと申しますと、勝手に親族がそう思ってしまうというおそれがあるというので、梅原委員が、親族が本人にそういう意思があることを確認したときというふうにしたらどうかとおっしゃいました。私は、それでもいいけれども、確認というのはちょっと言葉が強過ぎるので、認めたときはということではいかがですかと申し上げましたら、それで結構だということで、その点では少数意見も全員一致で、親族が本人にそういう意思があると認めたときは摘出できるという結論になったわけでございます。  ただ、委員の中にも、やはり最初のころは慎重にやって、書面の場合に限るという方がいいのではないかという御意見もございました。ですから、今度の案で初めのうちは慎重にやろうとおっしゃるのは大変結構だと思いますけれども、三年後にお見直しになるときは、どうか脳死臨調の考えを十分御配慮をいただきたいというふうに考えております。  どうも、時間を過ぎまして。
  83. 町村信孝

    町村委員長 どうもありがとうございました。  次に、米本昌平さんにお願いをいたします。
  84. 米本昌平

    ○米本参考人 米本でございます。大変な席にお招きいただきまして、非常に光栄に思っております。  私は、主として先端医療に係る医療政策の先進国間での比較分析をやっておりまして、これまで、脳死臓器移植を含めて諸外国の法の実態といいますか、なぜそういう法のあり方でこういうことは行われているかということまでも分析してまいりました。脳死臨調の中では参与として参加させていただきまして、いわゆる少数派として、脳死を死としない道を見つけるべきだという立場で参加させていただきました。  私は、少数派の中でもまた少数派でございまして、諸外国では脳死が社会的に認められているが、日本では社会的合意がまだ不十分であるからというところが、そもそもおかしいのではないかというふうに思っております。これは、諸外国の臓器移植の実施過程から見ても、どうも社会一般に向けて脳死は死だということを盛んに啓蒙したという節はありません。ですから、そこのところがどうも、諸外国の脳死臓器移植の運用の実態に対して分析が不十分ではないかというふうに思っております。  それで、きょうお時間をいただきましたので、一点だけに絞って私の意見を述べさせていただきたいと思います。  その一点というのは、制度論でございます。私がお配りしております資料の一枚目を見ていただきますと、諸外国では、脳死を法的に死だと認めている国はむしろ少数派でございます。  例えば、アメリカで過半の州が脳死法をつくっておりますけれども、この各州の法律ができたときに国家的な大議論があったという節はありません。これは、やはり日本と同じように、七〇年代の初期に脳死臓器移植が行われ始めたときに、殺人罪その他で非常に裁判が申し立てられまして、その必要上、医療職能集団が各州の州議会にロビーイングをしてつくってもらったというのが実態だろうと思います。  先ほど平野先生のお言葉にもありましたように、八〇年代の初めに、ほとんどの州で脳死法ができた後で簡単な電話の世論調査がありましたけれども、その時点で、約五十数%の人間が、一応脳死という概念を知っておって、脳死は死だということを一応認めてもいいという程度の認識でございました。  なぜこんなことになっているかといいますと、アメリカで脳死というのはなぜ大々的な議論がなかったかということの一つの間接的な証拠は、脳死法がアメリカの違憲審査に一件も申し立てをされておりません。これは、アメリカの各州レベルで州法ができますけれども、それが連邦憲法に違反しているかどうかということを、ほとんどの場合、違憲審査申し立てができます。それの違憲申し立てが一件も実はなくて、そういう意味では、憲法判断が保留になっております。逆に申し上げますと、それほど余り関心がなかったということでございます。  それから、最近も、八七年のスウェーデン、それから九〇年のデンマークが、一応脳死は死だという法律をつくっておりますが、デンマークでは、その後の通達で、家族が脳死を受け入れられない場合には厳格に運用する必要はないとしております。つまり、国民一人一人に脳死は死かというふうに問うた場合には、これは必ず反論が出てくるわけです。  では、どういう状態になっているかといいますと、普通は、医療職能集団が決めた脳死のガイドラインが厳格に守られたものについてそれを死と扱った場合に、行政当局が追認するということだろうと思います。つまり、これはメディカルプロフェッション、医療職能集団の自治、専門性の自治と、それから医療行政としての移植政策との、これは線引きといいますか、権限の問題だろうと思います。これを見ていただくと、脳死問題についてはすべてメディカルプロフェッションのガイドラインを国が追認する、それから、移植の手続については、これは医療行政として立法をするということが現状だろうと思います。  そうしますと、脳死を死としないで移植を認めているのは、非常に簡単に申し上げますと、これは私の解釈ですけれども、日本語の表現で言いますと、構造化された違法性阻却、すなわち、専門家集団としてがっちり決めてがっちり守るというガイドラインについては、構造的に法務あるいは司法当局が手続上認めるということだろうと思います。  その典型が最近のオランダの安楽死法案でありまして、これは、遺体埋葬法の一部を改正いたしまして、その過程で医学界が決めたガイドラインを追認しております。しかし、そのガイドラインを実行した医師は、検視官に安楽死の手続をもって安楽死を実行したということを通告しないといけません。それで不審がない場合には、司法当局がそれを医学界のマニュアルとして追認するということになっております。これは、しかし、形式上は嘱託殺人はまだ残っておるわけでございまして、メディカルプロフェッションの特別の医療行為、要するにガイドラインとして司法当局が法運用上追認するというのがほとんどの国の脳死の認知の仕方だろうと私は考えております。  そういう意味では、脳死問題が出てきたころに、法律を使わないで、いわゆる法律の言葉で言えばソフトロー的な、脳死を死と扱うような医学の現場を追認するようなアイデアをかつて加藤一郎先生が出されております。それは、例えば検事総長談話とか国会決議といういわゆるソフトロー、厳格な法律ではなくていわゆるソフトローとして立法府もしくは行政当局が追認するという方法ではどうかということを、非常に早い段階で加藤一郎先生がおっしゃっておるわけです。私は、この方法でやるべきであろうというふうに思っております。  なぜ日本の場合こういうことが非常に行われにくいかといいますと、二枚目を見ていただきますと、日本の場合は、いわゆるメディカルプロフェッション、これは非常に特殊な職能集団としてある種の特権の与えられた自治組織でございますけれども、そういう自治組織の実態に見合った強制参加の身分団体が存在していない、そのために、専門家としての自治が、制度上、極めて行われにくい、極めて不安定な構造になっているからだろうと思います。  例えば、日本以外の諸外国は、医療業務を業務として実際に行う場合には、地区もしくは連邦の強制参加の身分団体である医師会に所属しないと医療行為というのはできない構造になっております。  これは、近代国家ができる過程で三つの専門職能集団が成立いたしました。これは神父と法律家とメディカルプロフェッションでございまして、この三つの職能集団は、非常に長い訓練を受けて、国家資格を取りますと、独自の自治組織に入ります。日本でいいますと、これは弁護士会。弁護士が司法試験を受けて国家公務員以外になる場合には、どこかの弁護士会に強制的に参加しないと弁護士業は開業できません。それで、その弁護士会の服務規定の中に、非常に厳しい、通常より厳しい倫理行動が、職業倫理がありまして、簡単に外側から懲罰請求がかけられます。それは、そのロープロフェッションの特権との見合いで非常に厳しい自治組織に所属しなくてはいけないということでございます。  これは、日本で非常にわかりやすい例を挙げますと、少しとっぴなようでございますけれども、オウム教団の中で、このプロフェッションに属していた人間が二種類あります。これは法律家、いわゆる弁護士と医者に属していて犯罪を犯した人間がおりますけれども、法律家の側は、綱紀委員会が懲罰請求を受ける以前に、所属弁護士会を自主的に退会いたしました。そういう意味では、非常に厳しい倫理行動を守る制度的な担保がございます。ところが、数名の医師は、いまだ裁判にかかっておりまして、はるか以前に医師の適格性が問題にされてもいいはずですが、これは、現在の医師法の中には強制参加の身分組織がございませんので、なお医師資格を持っている。  日本にも医道審議会があるではないかというような御指摘は当然出ると思いますけれども、これは、医籍を管理している行政当局が、刑が確定した人間について、事務局が医道審議会に諮議をするということですので、メディカルプロフェッションの自治組織としての強制参加の身分団体が存在しない。  もっと厳しく言いますと、そもそも所轄官庁があるメディカルプロフェッションというのは少し先進国の中では例外的でありまして、非常に医療専門行為としては独立の権威、権限を持っているのが本来のメディカルプロフェッションでございます。そういう構造になっておりますので、諸外国は、厳しいといいますか、各専門委員会が決めたガイドラインが非常に高い確度で専門職能集団として守られるという制度的な担保があります。そのために、メディカルプロフェッションが決めたガイドラインがほとんど法に準ずるものとして、行政当局は安心して追認できるという構造になっております。  日本の医師法がなぜ強制参加の身分団体を持っていないのか、要するに、弁護士法と比べて医師法が非対称になっているのはなぜかというのは、これは私もよくわかりませんけれども、ともかく、構造上そうなっております。しかし、だからといって日本の医療の現場が混乱しているわけではありませんで、これは医師個人あるいは医学界が、法によらない倫理行動、いわゆる医者のモラルに従っているのだろうと思います。  しかし、こういった生命倫理あるいは脳死臓器移植その他の問題が出てまいりますと、本来メディカルプロフェッションの自治で決めていい問題を、場合によっては、ことごとく一般の法律を決める立法府もしくは行政府にもたれかかるというような構造になっております。  ですから、私の意見としては、当面は暫定的な法律、しかも、脳死を一律に死としてしまいますと医療の現場が混乱いたしますので、脳死を死としないで行政のバックアップで行いまして、今移植関係学会合同委員会がやっておられる非常に厳しい管理のもとで着実にやっていくのが筋だろうと思います。  日本の場合、最後のページを見ていただきますと、八二年まで、このメディカルプロフェッションの意思決定は、実は日本医師会の武見太郎会長が一元的に決めておられました。これは法的な根拠はないのですけれども、実はほとんどここが決めておられた。なぜ日本が臓器移植ができないのかという一つの理由は、六八年の和思臓移植事件があったからというのは不正確でありまして、むしろ、この和思臓移植を医道審議会で検討された武見太郎先生が、これは当分やめておけということで、実際上ほとんどの医学会が手を挙げられなかった。  ですから、新聞を繰っていただくとわかると思いますが、臓器移植とか体外受精という通常の医療ではない限界的な医療の、俗に言うアドバルーン記事が上がるのが、正確に八二年度からでございます。つまり、こういうガイドラインが確定されるのは、法的正当性、すなわち、英語でいいますとレジティマシーと、それから、権威、オーソリティーと、それから、それだけのことを決められる能力、ケーパビリティーが存在しないと、こういうガイドラインは確定できません。しかし、非常に変則的な形で、八二年まで、武見先生が日本のある種の医療政策は一元的に決められていた。すなわち、法的なレジティマシーはなかったけれども、ケーパビリティーとオーソリティーは一元的に持っておられた。逆に言いますと、法的な根拠はないのですけれども、各医学会あるいは社会の側も、武見ブレーンに決めていただいたためにほとんど楽をし過ぎていたということだろうと思います。  やはり、一つの問題は、八〇年以降、メディカルプロフェッション全体の調整及び意思決定機構及びそれの遵守、メディカルプロフェッションとして専門職能行為を社会に向かって行うためのクオリティーコントロール。このクオリティーコントロールは、医学的判断、医学的技術、カウンセリングも含めて、本来、医者、患者関係のマニュアルは、メディカルプロフェッションのガイドラインとして決めて、メディカルプロフェッション自身が遵守すべきものだろうと思います。  そういう意味では、暫定的には法なり省令で非常に厳格な形で臓器移植をすべきだろうとは思いますけれども、長期的には、日本のメディカルプロフェッションのオートノミー、すなわち、専門家集団の自治とそれから医療行政の線引きを明確にするということを立法府としてはお考えいただきたいというふうに思います。
  85. 町村信孝

    町村委員長 どうもありがとうございました。  続きまして、柳田邦男さんにお願いをいたします。
  86. 柳田邦男

    ○柳田参考人 どうも、この重要な段階に私をお招きくださいまして、感謝申し上げます。  私がここでしゃべることの意味は何であろうかということを考えたわけですが、次の三点ぐらいが私の発言の意味ではなかろうかと考えました。  一つは、私自身、二十五歳の息子を脳死でみとりました経験を持ち、また、その脳死の後で腎提供をいたしまして、そして提供を受けた患者さんがその後どうなっているかということについても体験している、そんな立場でございます。  それから第二は、医学・医療の分野について、この四半世紀ぐらい現場取材というものを続けてまいりました。これは先生方が視察とかあるいは見学なさる場合と違いまして、取材というのは生の姿、本音の姿ということを深く立ち入って見るわけでございまして、現場に長期間にわたって、例えば二年も三年も同じものを見続けるとか、あるいはその当事者のプライベートな問題にまで立ち入って話を聞いて、本当に心の中で何が起こっているかというようなことまで伺うというようなことでございまして、作家の取材というのはそういうものでございます。  それから第三番目には、医療界に若干公的なかかわりを持ってまいりました。それは、厚生省の戦略策定機関である厚生科学会議のメンバーを十年ほどやってまいりました。それから、インフォームド・コンセントの検討会の座長も務めました。それから、薬の安全性検討会のメンバーでもございました。また最近、薬害エイズ問題では、厚生省だけでは真相究明を任せられないというので、厚生大臣の委嘱でシンクタンク、NIRAに設けました黒田委員会、いわゆる薬害再発防止等の研究会のアドバイザーも務めてまいりました。また、国立がんセンターの倫理委員を八年ほど務めまして、さまざまな症例について相当な時間をつぎ込んできた経験がございます。  以上のような三点から、私がこの脳死臓器移植問題について発言する意味があるのではないかと思って参りました。  それで、お話し申し上げたいのは、きょうは六点ほどございます。  一つは、低体温療法という今注目の治療法が何をもたらしているのかという問題、第二は、脳死脳死状態の違いの大きな意味がいよいよ重要になってきたという問題、それから三番目は、脳死は人の死かという問題に関すること、四番目は、死に行く者、特に脳死の人の尊厳について、五番目は、さまざまな医学のあり方に関する原則論や表向きの議論と臨床現場の実態のずれの問題についてでございます。それから六番目は、八〇年代の議論と九〇年代の議論の質的違いについてでございます。  以上、簡単に、順に述べていきたいと思います。  低体温療法は、皆さん非常に御関心が強いようでございますけれども、その療法の中身について、午前中、林先生がお話しになっておられましたけれども、私、若干素人でもわかるようなと言うと僭越でございますけれども、もう少し補足的にお話し申し上げてみたいと思うのです。  従来、重度の脳障害を受けた患者、それは外傷であったり脳内出血であったりするわけですけれども、その治療法というのは、二次的損傷、例えば脳浮腫とか頭蓋内圧高進とかそういうものによって脳内の神経細胞が次々に死滅していく、それを防ごうではないかというのが従来の治療法であったわけです。そして、低体温療法も、そうした二次的損傷をできるだけ防いで、可能な限り被害を少なくしてその患者さんの蘇生を図るというふうに誤解されております。実はそうではないのです。  実は、一次的損傷を受けた脳神経細胞そのものに治療を加えるということなんですね。そこは非常に重要な問題です。といいますのは、私自身現場をずっと見ておりまして、交通事故やあるいは職場での産業災害事故で脳に大変な挫滅を受ける、あるいは鼻腔のところに脳みそが飛び出すような交通事故の傷害患者が出てくる。従来の救命センターですと、これはもう助からないということで治療しないわけです。  そういう患者さんを、頭蓋をあけて手術をします。それは低体温療法に入ることを前提に頭をあけます。そうすると脳がつぶれています。つぶれているのだけれども、そこに低体温療法を加えて、そして一カ月、二カ月たちますと、その人の意識が戻り、知的活動が戻り、運動機能が戻る。そうすると、低体温療法の初期のころですね、林先生自体が驚いたのです、一体あのつぶれていた脳は何だったんだ、あれはどこへ行ってしまったんだ。そして、CTスキャンで見ますと、その後遺症ともいうべき半溝が残っています。  にもかかわらず、例えば私がテレビで紹介しましたあの練馬の樋沼ふじ子さんという四十七歳で交通事故でトラックにはねられた方、本当に脳挫傷はひどいものでした。脳の正中線はゆがみ、生命中枢である脳幹部も傷んでおりました。ところが、それが生き返ったときに、何の運動障害もなし、機能障害もなく、半身不随もなく、言語障害もなく、そして日常の生活は事故前と何の変わりもなく、家事をし、農作業をし、そして家族で笑って日常生活をしており、今は自転車で買い物にも行く、そういう状態でございます。一人ではございません。  そういう蘇生の可能性は一体どうだったのかというと、従来のように二次的損傷を単に防いだというだけではあり得ないことが起こっているわけです。脳の神経細胞の強靱な面というものを見せつけられるわけです。  そして、この脳低体温療法のもう一つ重要な点は、決して脳だけを治療しているのではなく、全身治療だということです。といいますのは、脳の器質としての細胞を保全するためには、当然栄養を補給しなければいけない。酸素とか代謝物質を補給しなければいけない。そのためには血流が必要です。その血流確保のためには、心機能、肺機能、そして循環系のいろいろな保全をしなければいけない。  また、体を冷やしますと、体に対する侵襲が大きくなって、感染症にかかりやすくなる。実際、低体温療法を始めた当初は、もう軒並み肺炎を起こして、しかも肺の機能が弱っていますから、たんが肺の中にいっぱい詰まって、それをどうやって吐き出させるか、大変苦労しておりました。  ところが、そういうものに対してさまざまな治療法を開発して、その感染症防止も、当初のころは八〇%ぐらい肺炎になったのが、この三年の間に、感染症になるのが一〇%ぐらいに減りました。それは、従来考えられていなかったようなさまざまな薬物を使う、例えば成長ホルモンを使うとか、いろいろな意外なことをやっております。あるいはドーパミンを刺激するような薬を使うとか、そして全身を保全しながら脳の神経細胞の弱ったところを回復していく。  それは午前中、林先生が、損傷を受けた脳でもすりつぶしたわけじゃないという表現を使いました。すりつぶすというのは、本当にぐちゃっとつぶしてしまった、そういう状態じゃない。衝撃を受けて、そこで挫傷状態になったということですね。  そういうことの低体温療法の結果、ことしの初めまでですと、七十五人の方が低体温療法を実施しまして五十六例が蘇生しております。残念ながら蘇生しなかった方もおられるわけですが、ただ、蘇生した方々の多くが、従来の脳治療に比べて回復の度合いに驚くべき顕著な、いい方向でのものがある。  例えば、非常に重度な、従来だったら蘇生限界点を超えたような患者であったら、救ったってどうせ植物状態だ、あんなのやったってお金使うだけだというふうに言われがちですけれども、植物状態に入った人はほんの数えるほどしかいません。またもう一つ植物状態に一時的になった患者さえも五人回復しているという驚くべき事実がございます。  このことは結局、さまざまな新しい知見として、今後エイズなんかの自己免疫不全なんかにも応用できる問題を含んでいるのではないかと思われるようなことさえわかりつつあります。  そして、注目すべきことは、この三年半ほどの経過、つまり九三年からこの治療法を始めたわけでございますけれども、その間に、神経細胞の活性化の方法とか、植物状態からの回復とか、感染症予防と治療の方法とか、いずれもアメリカから注目されて、論文を提出せよとか、NIHに来てレクチャーせよとかというのが相次いでおりますけれども、こうしたこの三年間の進歩の意味することは、医学の進歩というものが、ちょうど脳死臨調が答申を出した九二年一月の時点よりはるかに速いテンポで、また予想しなかったテンポで進んでいるということを示すものとして受けとめますと、この問題は非常に大きな意味を持つのではないかと思うのです。  そこで、二番目の、脳死脳死状態の違いの大きな意味を今もう一度考えなければいけないといいますのは、脳死というものは、原理的に言えばそれは脳の神経細胞器質死意味しなければいけないはずですけれども、それは、午前中の先生方のお話でも出ましたように、今日の電気生理学的な方法では確かめようがない。そして、そこでやむを得ず細胞膜表面の電位、つまり活動状況というものが停止した状態を脳波とか聴性脳幹反応とかそういったものでとりまして、それでこの神経細胞は死んだに等しい、あるいはそれに近い状態になっているということで脳死状態というふうに判定するわけですね。脳死脳死状態の違いというのはそこなんですね。  そして、脳死定義として日本では全脳死をとろうということにしておりますけれども、この三、四年の間に明らかになったことは、低体温療法の中で患者さんの中で一時的に脳死状態判定基準をほぼ満たす人、つまり脳の細胞膜表面の電位が全部休んでしまった、停止してしまった、だからこのまま従来だったらもう脳死だというような患者さんが、実際、その後いろいろな反応が戻ってきまして、反応が戻っただけじゃなくて、その患者さんが実際に生きた人間として生還し、そして日常生活に戻っているというこの現実です。つまり、脳死状態というものに対して、今後医学の進歩があるとどういう蘇生の可能性があるかわからない。  午前中、林先生は、医学者ですから非常に控え目に、その辺についてはえんきょくな表現しかしませんでしたけれども、今のこの研究のテンポを見ますと、これから、単に低体温療法ということだけではなくて、さまざまな薬物療法その他、今予想できないような形での進歩というものを考えなければならないのではないかなということを考えるわけです。  また、それでは、竹内基準が満たされたときに生還する可能性が出てくるのかというと、これは今までのところの調査データではないわけですから、当面の問題としてはそれはいいのでしょうけれども、将来的に果たしてそうなのかどうかについてはまだ未確定なものがございます。  したがって、これは法律という形で脳死というものが認定できず、脳死状態という、いわばみなし脳死ですね、よく世の中にみなし法人とかいろいろな使い方がありますけれども、みなし脳死という状態をもって人の死とする、そういう永続的な法で規定すること自体に対する懸念を私は抱くわけでございます。  そしてまた、低体温療法を見ていまして、私が非常に大きくジレンマを感じ、またお医者さんたちが感じているのは、脳死判定の中における無呼吸テストの問題なんです。  これは、午前中、林先生がまたお話しになりました。十分間呼吸をとめるわけです。事前に酸素をたくさん与えておいて、その後、酸素補給がないからだんだんCO2濃度が高まってきて、そしてそれに刺激されて、もし自発呼吸の能力があるならば何か反応があるだろうというので調べるわけですけれども、ところが、今のような脳の膜表面だけの停止状態とか、いろいろな蘇生の可能性が将来的に見るとあるかもしれない。それを、無呼吸テストというもので酸素をとめるということは、確かに百人中九十九人あるいは千人中九百九十九人はその時点では脳が実際にはもう戻らない状態になっているのかもしれないけれども、千分の一か万分の一かに蘇生の可能性が将来にはあるかもしれない人、最終的にその人を殺す作業につながるということが原理的には言える。  それが救命医の今一番ジレンマになっているところで、そのあたりは今、日大の倫理委員会で三年計画で、果たしてこの無呼吸テストというものはどういうあり方にすべきかというのが進行しております。まだ始まって一年目ですので答えは出ていないようですけれども、いろいろと新しいデータが出ているのは仄聞しております。  三番目、脳死は人の死かという問題でございます。  私は、死はプロセスと納得の問題であると考えております。脳死という状態は、それが脳死そのものあるいは脳死状態であれ、科学的事実であることは確かです。しかし、人の死、つまり人間全体の死というものは人間が判断し、選択する問題でありまして、それは意味づけの問題でもあるわけですね。どこで人が死んだかとするわけです。  これは、竹内先生も著書において、脳死とは個体の死の前段階の一つであり、やがて個体死がやってくるという表現で書いておられます。これはだれも異存ないところでしょうし、平野先生も、死はプロセスであるというふうにおっしゃっていて、ただ、どこかでポイントを決めましようということで、法律家のお一人として平野先生は今の科学技術時代において脳死を人の死としましょうということなんでしょうね。  ところが、現実にいろいろと移植外科の先生方の現場の話を聞いていますと、脳死は人の死というのは科学的事実だということをおっしゃっているわけです。そして、それを認めたがらない看護婦さんをしかり飛ばすのですね。おまえら、医療者としてなってない、科学に忠実になれというわけです。  確かに脳死という現象は科学的事実であっても、それが人の死かどうかはこれは人間の選択と決定の問題でありますから、科学ではないわけです。それを科学だ科学だと言うのは、科学主義であります。科学主義というのはある意味でイデオロギーであります。そして、そういう科学主義の押しつけは暴力になりかねないということ、これは我々、歴史的に、日本精神主義とか、神風が吹けば日本は勝てるのだとか、いろいろとそういう精神主義なりイデオロギーの怖さというのは知ってるわけです。もう少しそのあたりをマイルドに考えなければいけませんし、ただ科学だと言うだけでは、五木寛之さんのようにつめの先まで人格の一部だとおっしゃる方を説得するにはちょっと説得力がないというふうに思うわけです。  また、心臓死は単に数十年前に決めたことじゃないか、それを変更してもいいじゃないかということを言うわけですけれども、実はそれは解釈の違いでございまして、心臓死中心とする三徴候というものは歴史的に人間が自然に納得してきたものを医学が数十年前にきちっとそれを認識し、死亡診断をする上の手段として定着させたということの経過でございまして、これは古来の死の追認という形であったわけです。  以上のような経過考えますと、私は、脳死を一律に死とするのは死の青田刈りと呼ぶべきことではないかなというふうに思うわけです。そして、そこに起こる諸問題についてもう少し考えてみたいと思います。  四番目に、そこで、死に行く者、特に脳死の人の尊厳の問題を考えなければいけないと思うのです。  患者には固有の権利があるわけです。それは医の倫理に非常に密接にかかわることでございます。患者の権利法というものは一部の市民グループや法律家などがかねて主張しておったわけでございますけれども、薬害エイズ問題で、先ほどの黒田委員会が今月四日に厚生大臣に中間報告を出しました。その中で、あのような薬害エイズ、あるいは繰り返されてきた薬害事件の根源を見るとその構造的な中には患者不在の医療システム、医療の構造があるということで、患者中心医療への転換のために患者権利法を制定すべきであるということを提言しておられました。  こういう時代の流れの中で脳死問題及び臓器移植問題を考えたときに、脳死の人、脳死状態に置かれた人、そしてそこから臓器をとることについて、本当だったらそれが真っ先に議論され、それを重視して議論すべきだったことが、ずっとそういうことなしに、そして移植を受けると救われる人の話、そして技術的な向上ということばかりが議論されてきて、脳死臨調においても、脳死の人の権利の問題とかあるいはそれを取り巻く家族の問題とかというのはほとんど本質的な面では議論されなかったに等しかったわけでございます。  脳死の人といえども、それは自己決定権あるいはリビングウイルというものが尊重されなければいけないわけです。ここで誤解されてはいけないのは、日本の社会はまだそんな主体性とかリビングウイルなんというのは定着してないから、そんなことを言ったら臓器が集まらぬというのは、これは本末転倒の議論でございまして、そういう自己決定権を普及するための運動こそ今しなければいけない。そういうことをしないで、他者のために死の時間や形を強制され、早めるということがよいのかどうかという問題を議論しなければいけないと思います。  こういう中で、医の倫理ということが午前中においても非常に重視されて議論されましたけれども、これは形だけで言うのではなくて、本当に実態として日本で医の倫理というものがどんな形で議論されているのかというと、ないに等しいです。  この十年ぐらいの間に確かに大学や大きな病院では倫理委員会というのが設けられました。しかし、そこで倫理委員会として設けられたのは、特に大学などでは、ほとんど医学部の教授が八割方委員を占めておりまして、提出された案件、臨床試験の案件についてほとんど黙認していくというふうな形のものでございます。しかも、その議題は、臓器移植とか遺伝子治療とかそういったものに限られております。  しかし、アメリカにおける病院倫理委員会の働きというものは物すごいです。その中には市民代表、患者代表も入っておりますし、委員長は医者でなく看護婦が務めるとか、本当の意味での市民のための倫理、患者のための倫理という視点から議論され、特に治療停止の問題ということが大きな議題になります。重い障害を持っていて、もういろいろな輸血、輸液をするのにもステントさえもつけるところがないほど血管がぼろぼろになってきた、さあどうしようかというときに、その治療停止の問題を半年間にわたって倫理委員会が議論し、一人の青年の命について議論し尽くして、そして結論を出していくという、こういう医の倫理というもののあり方、そういうものは日本ではまだまだ定着しておりません。そういう中で、形式的な医の倫理ということだけが空回りしている時点だと思います。  そしてもう一つ、この死に行く者の尊厳について考えるときに重要なのが人称による死の質的違いについてであります。  死及び命については、一人称、二人称、三人称、それぞれ違った意味を持っております。一人称の死という場合には、当然それは本人の死の美学なり自己決定権というものが重要な意味を持ちます。  また、二人称の死の場合には、死に行く愛する人に対するみとりの問題、ターミナルケアの問題、これは何もがんだけではございませんで、救急医療の現場においても、やはりそこには一種のターミナルケアがなければいけないわけです。そして同時に、二人称の立場に立ったときに、みずからのグリーフワーク、心の傷をどういやすかという問題が非常に重要です。  余りこういう表には出てこないのですけれども、特に突然死、事故死とか阪神大震災のような形の災害死とか、あるいは新生児集中治療室における重度障害児の死亡とか、そういう場合に、残されたお母さん、連れ合い、そういう人が、もうそれから何年も仕事ができなくなってしまうほど喪失感に襲われる、あるいは心に傷を残す、あるいはうつ病になる、アル中になる、物すごくその率は高いのです。そういうものはふだん議論されなくて、脳死というのは、多くの場合、突然死という形で起こることが多いです。事故死あるいは脳卒中、さまざまです。そういうときに、このグリーフワークの持つ意味というのは非常に大きいのですけれども、これについての議論は脳死臨調では全く行われませんでした。  この二人称の死という問題については、私は身をもって経験したので強調したいと思うのでございますけれども、私も最近、知り合いがある大学で精神科の医者をやっていまして、そこである青年がみずから命を絶とうとして脳死状態に陥ったときに、精神科で家族ぐるみで最後の日々を送って、そして非常にいいケアをしたために、残された母親が心がせめていやされていったという話を聞きました。  そういうことなくして機械的に、ただそこにある臓器を使いたいから、脳死は人の死だということで摘出の方へ早く移っていくということがいいのかどうかという問題。しかし、それはもちろん摘出できませんというのじゃなくて、その間のさまざまな対応というのはこれから考えて、現実に実践的に考えるべきだと思います。  こうした二人称の死というものを考えるのは、これは実は現代医療の歴史的な意味を持っていると思います。本来、人間は家族や家の中で家族に囲まれて死ぬ。それが、医療というものが発達してきて、そこに開業医の、かかりつけの医者が来て支えてくれる。そしてやがて、この半世紀ほどの間に病院中心医療が発展して、いつの間にか死というものが家の中でなく病院に行ってしまい、そして死のみとりということが医療機器の中で起こるようになってきて、その中においては治療優先のために家族は排除される。最後は、がんの末期などで心蘇生をするときにもう家族は廊下に追い出される。そして冷たくなってからだめでしたと言われる。  本当に静かなみとりというものがないために、そのために大変な心の傷を残す。特にお子さんなんかの場合には、死とかがんというのはこんなに怖いものかという、この心的トラウマの残す影響というのは物すごく大きいですね。そういう子が、やがて自分が世の中に出て母親になり、自分の子が何か病気になったときに突如うつ病になったり神経症になったりするという、そういう事態が時々見られます。  それゆえに、この医療のあり方というのは、現代医療の中でもう一度二人称まで含めた、それを輪の中に入れた、本当の人間味豊かな医療回復ということが大きな課題になっていると思うのです。それが終末期医療、特にがんの終末期医療とかホスピスケアにおいては今懸命に試みられているわけでございますけれども、そういったことが救急現場でも重要だと思います。  ある救急現場で悩んでいた中堅の救命医が、これからは集中治療室においてもクオリティー・オブ・デスということを考えなきゃいけない。死に行く者、そしてそれをみとる家族に対してどういうふうに医療が支援するか。そこには、やはりよりよい最期のみとり、そして移植するならば、移植したことがその人の残された人にとって本当にあすの人生を輝かしいものにするのかどうかということですね。  私自身も、本当に脳死状態に入っていって何日目かに、息子の生前の意思、それは骨髄バンクのドナーになっておりましたので、その意思を何とか生かしてやりたいということで腎移植を決意しました。そして、その死後できるだけ早い時期がいいだろうということで提供いたしましたら、二つとも、非常に若い青年の腎臓でしたから、中年の男の方と女の方に移植されて、そして片方の男の方は、それまで非常に病気で苦労されていたので性格までゆがんでおられたようです。そして、周りから嫌がられるような人だったのが、移植を受けて、そしてもう透析の必要もなくなったときに人格が変わって、本当に周りから、人が丸くなった、優しくなった、いい人になったねといって喜ばれた。これは本当にすばらしいことです。  だから、私は、移植医療ということについて、それはできるならば進めていくことに賛成したいと思います。しかし、それと同時に、やはり残される者に対する温かい医療、死者の尊厳、そして家族の尊厳ということを忘れてはいけない。  実際、私自身も、死後腎移植とはいえ、心停止が来る十分前から冷却剤の注入が始まりました。まだ心臓の鼓動は弱いながらありました。しかし、冷却剤を注入すると十分で心臓はとまりました。そのときの本当に胸が締めつけられるような思い、殺したのじゃないかという思い、これはいまだに消えません。それを乗り越えて移植というのは成立するのです。まして、それが脳死状態で心臓がまだ元気に鼓動を打っているときに保存剤を入れる、冷却剤を入れる、そのときの家族の心境、これは物すごく大事だと思います。  若干まだ言い残したところがございますけれども、余り時間を一人で占領しては恐縮ですので、この辺でとりあえずはやめておきまして、六番以降の問題については、もしお許しいただければまた後ほど発言させていただければと思います。
  87. 町村信孝

    町村委員長 どうもありがとうございました。  次に、木内博文さんにお願いをいたします。     〔委員長退席、佐藤(剛)委員長代理着席〕
  88. 木内博文

    ○木内参考人 私のような者をこういった立派な場にお呼びいただきまして、まずは本当にどうもありがとうございます。心から光栄に思っております。  なぜ私のような者がこういった席に呼ばれたのか、まず私もそのことを考えました。私は別に脳死臓器移植に関して何ら研究をしたわけでも勉強をしたわけでも何かの取材をしたわけでもなく、家族の中に脳死状態になった者がいるわけでもない。ただ単に、私は数年前アメリカにおいて心臓移植を受けてきた、それだけの理由できょうこの場にお呼びいただきましたので、きょうは、難しい医学的なお話ということは全くできないのですが、せめて患者の心理、移植を受けなければならない者の心理というものを少しお話しできればと思いまして、僭越ながらこちらに来させていただきました。  まずは自己紹介から始めさせていただきたいのですが、皆様のお手元に資料として配りましたように、私の病歴と、あとそのときに感じましたものを簡単にまとめてまいりました。それを一々説明しておりますとちょっと時間がないものですから、それは、もし後でお時間があるようでしたら目を通していただければと思います。  ただ、その最後の方にありますピンク色をしたチラシなんですが、こちらは私が所属しております患者団体、さまざまな団体があるのですが、移植に関連するとされる患者八団体が合同しましてつくり上げたチラシであります。  こちらのものを見ていただくとわかるのですが、この五年間、というのは脳死臨調の答申発表後この五年間ですけれども、移植を必要とされる人たち、移植をされれば助かったのではないかと思われる人たちが七千人、これは一日に換算すると四人以上、これだけの人が脳死臨調の答申後お亡くなりになりました。  もちろん、脳死臨調の答申があってすぐに臓器移植が始まるわけではないので、この人たち全員が助かったとも思いません。また、たとえそのときに臓器移植が行われていたとしても、その人たちすべてがその恩恵にありつけたとも思えない。だから、一日四人のうち一人でも二人でも助かったか助からなかったか、そのぐらいのことかと思いますけれども、それでも、この人たちのわずかでも助かる可能性があったものが、今まで全く助からなかった、一人も助からなかった、このことをどうか重要なことと思って受けとめていただきたいと思っております。  そして、この中にも掲げてありますが、十分な論議を、十分な議論をお願いしますということが書かれております。  先ほど来、きょうは午前中からですか、たくさんの先生方、立派な先生方がいろいろなお話をされています。私のような者ではなく、いろいろな研究をされ、いろいろな取材をされた方がお話をされています。さまざまな意見がありました。そのことをどうかもう一度心深く受けとめて、本当に日本で移植が行われるのか、発展するのか、そのことをどうかもう一度お考えになっていただきたいと思います。  私の自己紹介にもう一度戻らせていただきますが、私が移植を受けなければならなくなった原因、拡張型心筋症という病気なのですが、これに侵されたのは一九九〇年、平成二年でした。当時私は二十、仕事についたばかりで、やっと半年ほどたちまして、仕事の内容を覚え始めて、まさにこれからおもしろい、仕事をするのが楽しいと思えるようになり始めた時期に病気で倒れてしまいました。  そして、数年間の闘病を経て移植ということになるのですが、実は、その途中で脳死臨調の答申が発表されました。脳死を人の死と認めてもよいというような内容の答申がされました。  私は、正直、そのときに初めて自分臓器移植が必要である者なのだというのをテレビ報道で知りまして、非常にショックを受けました。自分は今まで助かるものだと思っていたけれども、テレビによれば自分は助からないと言われている。今まで、もう既に二年ぐらいの時がたったので、残された時間はそんなに長くない。これは困ってしまったと思って、いろいろと調べました。  そのときに、脳死臨調の答申を受けて、私は正直楽観しました、ああ、よかった、これで助かったと。あのときの本当にうれしかった気持ちというのは今でも忘れられませんが、しかし、その後のこのたなざらし状態というのでしょうか、全くそのことについて触れることがなかったこの数年間ということを考えると、私は裏切られたような気持ちにもなってまいります。  しかも、脳死臨調の答申というものが、世論に対し寝耳に水と言ってもいいような状態で発表されてしまったので、各世論、マスコミ等は、それに対して一斉に異議を唱えました、果たしてそれはいいことなのか、悪いことなのかと。  病気で苦しむ私にとって、その言葉というものはどうしても反対の言葉としかとれませんでした。世間で、移植脳死、それが批判されている。でも、自分はそれを受けなければ助からない。そんな批判をされていることを自分は受けて生き延びるのか、そんなことは許されるのだろうか。  自分はそういったことをずっと悩み続けまして、そしてついには、いや、自分移植は受けられない。そんな移植で助かったとしても、世間の人から後ろ指を指されるような生き方だけはできない。このまま病気で死んでいこう、そこまで決意させられてしまいました。  しかし、幸いなことに、私は今こうして移植を受けることができて、元気で過ごすことができています。その中には、さまざまな人たちの努力というか、助力というものがあったのですが、そういったものがなければ、今私がこうしてこのような席にいることはなく、恐らく今から三年半ほど前に、アメリカの地で、もしくは日本の地で、白い小さな箱に入っていたのではないかと思われます。  私がそのころどういうふうに思っていたか。移植を受ける前、移植を決意する前、私は死を決意したと先ほども申しましたけれども、そのときにどういうふうに思っていたかというと、自分はこのまま日本という国に殺されていくのだなとあのときにしみじみと思いました。日本という国に生まれたのが不幸だったなと。  私だけではありません。私が移植後、日本に帰ってきて知り合った、ある肝臓移植を受けた男性の方も同様のことを言っていました。その方は、日本から海外へ渡航する飛行機の中で、日本の成田を見ながら、ああ、自分はこの国に殺されるところだった、自分がこれから行こうとする国は自分を助けてくれる、ああ、よかった、そういうふうに思ったそうです。  私たちのように、移植で助かった者はそれを思い出話として話すことができます。しかし、今現在病気で苦しんでいる人たちはどうでしょう。思い出話ではありません。今まさにその気持ちを持っているに違いありません。でも、それでもまだその人たちは可能性が残されているからいい。もう既にお亡くなりになってしまった人たち、先ほども言ったように、一日四人以上、この人たちは一体どうでしょうか。恐らく少なくない人が、自分は日本という国に生まれたことを不幸だな、かわいそうだな、そう思いながら、悔しい気持ちを胸にいっぱい含みながら、無念の思いのまま亡くなっていったに違いありません。どうかそういったことを御理解いただきたい、そう思います。  私がきょうこの席に来て患者心理を述べるに当たって、幾つか触れなければならない案件があるかと思います。  その一つに、きょうずっと話されているかと思いますが、脳死は人の死なのか否か。今までさまざまな学術的な見地から、もしくは経験的な見地から、脳死は人の死、いや、そうではないという話がされてきたと思いますが、私たち、特にこれから移植を受けなければならない、移植を受けた者たちからすれば、脳死は人の死である、いや、そうあってもらいたい、そうあるべきだと思います。  なぜならば、私が移植を決意するとき、その人は、つまりドナーは既にお亡くなりになっているから、だから初めて心臓がいただけるのであって、もし仮に、その人が生きているとされて、たとえ脳死状態であっても、法的に、社会的に生きていると認められている人から私たちは心臓はいただけません。やはりそのとき、脳死状態で、死と認められていて、社会的に認知がされていて、そこで初めてその人からの心臓がいただけるのです。  もちろん、前出の方々が皆さん言いましたように、脳死状態、人工呼吸器とはいえ呼吸をし、自発の脈があり、そして体温もある、外見上眠っているようにしか見えない、そのような人のことを死んでいるというふうに認めることはその御家族にとって非常に困難であろうことは私たちにも簡単に、容易に想像ができます。  ですから、私たちは何も無理に脳死状態をつくってくださいとは言いません。どうか脳低体温療法でも、そのほか今後開発されるであろう最新医療技術、そういったもので、さんざんな治療行為を施した後、しかしそれでもなお脳死に陥る、脳死状態になる、そういった人がいるのだから、どうかそのことを認めてくださって、そして、そういうふうにして脳死になられた方を、やはりその人は死んでいるのではないかと認めてくださってもいいのではないかと私は思います。  また、今回の国会において二つの法律案提出されているそうですが、一つは以前から出されている脳死を人の死とするもの、そしてもう一つ脳死を人の死としないものが出されているそうですけれども、私は、個人的にですけれども、この脳死を人の死としない法律案の方に対して多少の疑問を感じます。  先ほど前出の先生方もおっしゃられましたが、私がどうしても考えてしまうのは、移植を前提としたときだけ脳死を認める、その人が死んでいることを認める、そのことはどうしても、私たち移植を受ける者の人間としてはなかなか受け入れがたいものがあります。  先ほどから言っているように、私たちはもう既にお亡くなりになっている人、そう思うからその人の臓器をいただけるのであって、死んでいない人からは臓器はいただけません。それにやはり、生きている人と死んでいる人、そうではなく、両者とも生きている人、なのに片方には死んでいってもらい、片方には生き延びてもらう、そういうような考え方をする人間のことを、先ほど少し批判されましたが、しかし、私たち移植を受ける側の人間としてもそのことをどうしても自責の念で、自分のことを責めてしまいます。ですから、どうか私たちの心理、受けなければならない、受けなければ助かることができない者の心理ということもどうかお考えになった上で法律案考えていただきたいと思います。  私たちは、ドナーとその家族が優しい気持ちで、勇気を持ってその死を認め、そしてだれかのためにと思い提供してくださるその優しさと勇気を受け取っているつもりです。何も無理やりどこかのだれかを脳死状態に陥れて、そしてその人からハイエナのようにむさぼる、そのようなまねは私たちはしていないつもりです。  しかしながら、先ほどからの議論の中心にもなっているように、現段階で国民の方々のどれだけが正しく脳死状態のことを理解されているか、脳死が人の死であるか、自分の死であるか否かをどれだけの方が自覚されているか、それには甚だ疑問があります。ですから、以前から出ている法律案で、いきなり脳死は人の死とされてしまえば、もちろんそこに反対意見、異論が出てくることは間違いないだろうと思います。  ですから、少し矛盾する考えかもしれませんが、法律ができた後もしばらくの間は、無理やりに脳死を人の死とせず、そこで医療行為を打ち切るというようなことはせずに、遺族が望むならば心停止まで医療行為を続け、そしてそれに対する保険適用を認めるということがあってもいいのではないかというふうにも思います。  また、脳死を人の死とするかどうかだけではなくて、両法律案の中ではともに竹内基準というものを死の判定の判断材料にしていますから、六歳以下の子供たち、その人たちにドネーションするチャンスも、もしくは移植を受けるチャンスも与えられていません。私たち患者の中には生まれてすぐから重い心臓病を思っている方がたくさんいます。もしくは、若年層にして肝臓を思い、移植が必要となる人もたくさんいます。現に、海外に渡って心臓や肝臓移植を受けた人たちの多くは六歳以下の子供たちです。  せっかく国内で脳死からの臓器移植ができるようにしようと思ってつくるこの法律案でも六歳以下の子供たちは結局救われない、そのような形で果たしていいのでしょうか。大人だけは助かっても子供たちには死んでいってもらう、このような不完全な形での法律案は果たして認められてもいいものなのでしょうか。  しかし、現行では竹内基準以外の妥当な脳死判定法は見つかっておらず、将来的においてはそれを改正することは可能であるにしても、現行では難しいのだと思います。ですから、法律制定後三年後ですか、見直しがありますが、そのときにはぜひ六歳以下の子供たちにも救いの手が差し伸べられるようにしていただければと思っております。  あともう一つは、書面による生前意思の確認という問題ですが、これに関してさまざまな議論がされ、以前出ていたそんたくという言葉は使われなくなり、そして、生前の意思を書面によって確かめる、このことによって一本化されたようですが、このことも私たち患者としてみれば残念なような気がしてしまいました。  現段階、日本において果たしてどれだけドナーカードというものが普及しているでしょうか。国民の何割の人が、何割という数までいっていないと思います。何%の人がドナーカードというものの存在を知っていて、そして携帯しているでしょうか。私はもちろん持たせていただいております。私以外の移植者たち、ほとんどの人たちも持っています。それは、移植に関与したから、移植のことを知ったから、その恩恵を知っているから。でも、病気にもなったことがない、病院にも通わない、自分は健康である、そのことを自慢している人、そのことを誇りに思っている人、もちろん結構、それは喜ばしいことです。しかし、そういった人たちが果たして病気で苦しむ人たち、その人たちにしっかりと目を向けてくれるでしょうか。やはり、その人たちにこちらを見てくださいという啓蒙活動、それこそが今後必要になってくるのではないでしょうか。  ですから、今現在、書面を絶対とする法律が制定されようとしていますが、この書面ということが絶対とされてしまえば、法律成立後、ドネーションはゼロに近くなってしまうのではないかという懸念すらあります。腎臓移植を推進している団体では、現行の法律では行われる腎臓移植すらも、法律制定後は行えなくなってしまうのではないかという懸念を持って、このことに強く反発しております。ですから、どうかこのこともまたもう一つ問題だというふうに認識していただきたいと思っております。  また、この書面問題についてはもう一つ、ある法律家の方は、十五歳以下の人間が残した書面というものは、たとえ生前であっても無効ではないか、つまり未成年の者が残した書面というものの有効性ということを問題として取り上げました。そのことからすれば、先ほど言った六歳以下の人が助からないばかりではなく、十五歳以下の人たちも助かる道がなくなってしまう。やはり、十五歳以下の人たちは法案成立後でも海外にしか頼る道がない、そのようなことがあって果たしていいものなのでしょうか。  しかしながら、先ほどから言っているように、医療不信、医師不信ということが叫ばれている世の中ですので、この書面という方法以外での意思確認ということは、もしかすると今現在は考えられないのかもしれません。しかし、どうか、この法案の成立によって移植を受けなければ助からない人たちを一人でも多く救おうと思ってこの法案を論議されているのであれば、この書面というものが果たして妥当なのかどうか、そのことにももう一度目を向けていただきたいと思っております。  これは私の勝手なお願いというか、思い込みですが、例えば十五歳以下であれば、書面ではなく残された保護者の意思によって臓器提供をできる、そういったような方法が施されてもよいのではないか、そのようにも思ってしまいます。  最後に、私たち移植者の立場というか権利というか、そういったことが最近ひどく誤解されていることがありますので、そのことについて少し言わせていただきたいと思います。  よく言われるのが、私などが日本に帰ってきたときですけれども、木内さん、ドナーにお幾ら払ってきましたか、幾らのお金を払って心臓を買ってきたのですかということを日本に帰ってきた後よく言われました。もちろん、この席に並んでいらっしゃる先生方は、このようなことがあってはならないことだというふうに皆さんがお思いになってくださっていると思いますが、しかしながら世間ではこう思っている人たちが、いや逆に、それこそが正しいことだというふうに思っている人が結構いらっしゃいます。  そのようなことを聞かれたときには、私は、まあ多少の怒りの心も覚えますが、いや移植というものはそういうものではないんだ、ドナーとその家族が優しい気持ちで、だれかが助かればいいと思って無償で提供してくれるんですよというふうに説明すると驚かれてしまいます、そんな人がいるんですねと。どうか、そういったところを皆さんにわかっていただく、そういった活動を今後展開していってくださればと思います。  あと、もう一つ言われてしまいますのが、私たち移植を受けようとする者、移植を待っている者というのは、ドナーに早く死んでもらいたいと思っているのではないか、また、ドナーが死んだときにうれしかったでしようというふうに皮肉を込めて言われてしまいます。  これは、一部の移植に対して批判的な方々からの意見だったのですが、こんなことを私たちは本当に思っているわけがありません。私たちは、自分たちが病気で苦しんだときに、さんざん死の怖さ、恐怖、健康のとうとさ、そういったものを体にしみつかせて心の底から理解しているつもりです。なのに、そのような心ないことを私たちは言われてしまう。  正直、私がアメリカに渡って、ドネーションがあった、お前に移植が施される、そういうふうな話を聞いたときに、私は、喜びの気持ち以上に、ああ、どこかでだれかがお亡くなりになったのだなという悲しい気持ちを強く持ちました。しかしながら、日本でそれはさんざん言われていたのですが、ドナーはかわいそうじゃないんだ、ドナーは優しい気持ちで喜んでお前に提供してくれるんだからそのことを喜べというふうに言われていて、私は、その言葉を信じ、ああ、どこかでだれかが亡くなったことは悲しいけれども、でもその人がただ悲しいだけに終わらず、私に、いやどこかのだれかに頑張ってくれという言葉を残して優しい気持ちを分けてくれたのだから、そのことを喜んで受け取らなければいけないのだと思って、一生懸命笑顔をつくって、ナースたちにうれしいうれしい、アイム・ハッピーという言葉を残しました。心ない人たちは、そのアイム・ハッピー、自分は喜んでいるという言葉を勘違いされています。  私たちはだれの死も望んでいません。自分たちも、自分の家族も、隣人も、実はドナーにも死んでもらいたくない、だれの死も望んでいない。そのことをどうか理解していただきたい、そう思います。  しかしながら、先ほど来言っておりますように、今現在、今この瞬間瞬間、病院のベッドの上で、もしくは自宅で病気と闘っている人たちがいます。その人たちに今すぐにでも移植を施せるよう何らかの方法がとられるべきであるということは、以前から御承知のとおりです。ですからどうか、徹底的な議論、論議は必要ではあるかと思いますけれども、いたずらにその期間を延ばされて、一日四人、その人たちの命が失われないように、一日も早く移植が必要とされている人たちが喜んで国内で脳死からの臓器移植が行えるような、そういった道を開いていただきたいものだと思っております。  何かこう、まとまりませんけれども、この辺で私の意見として終わらせていただきます。どうもありがとうございました。     〔佐藤(剛)委員長代理退席、委員長着席〕
  89. 町村信孝

    町村委員長 どうもありがとうございました。  以上で各参考人方々からの御意見の開陳は終わりました。     ―――――――――――――
  90. 町村信孝

    町村委員長 これより委員の皆さん方からの質疑を行います。  質疑につきましては、午前中申し上げましたとおりでございまして、一回の発言時間をぜひ三分以内、多分数多くの方々の御質問の御要望があろうかと思いますので、しかも質問される方を全員とか、そういう形はちょっとお控えをいただいて、できるだけ特定をしていただければ、こう思っておりますので、委員各位の御協力をお願いいたします。  なお、質疑の御希望のある方は、挙手の上、委員長の許可を得て発言をされるようにお願いいたします。また、発言の際には、所属会派及び氏名をお告げいただきまして、御意見をお伺いする参考人の方を御指名願います。  それでは、質疑のある委員は挙手をお願いいたします。  能勢和子さん。
  91. 能勢和子

    能勢委員 自由民主党の能勢和子でございます。石川先生にお尋ねいたします。  実は、私は今、中山太郎案、脳死を人間の死とする形で提案している者の一人でございます。日本弁護士連合会の方から、脳死状態を人の死とせずということがあります。脳死状態を人の死と認めないのであれば移植もできないというふうに私は思うわけですけれども、先生の方は、脳死状態を人の死とせずに患者さんの臓器移植をというふうに書いてあります。これは非常に、先ほど木内さんも発表がありましたけれども、脳死を人の死としないということであれば、生きた人間から心臓なら心臓をメスを入れて切り出すということは、これこそ納得できない状態ではないかと思います。  今、生体肝移植等、生きた者からの移植をしている部分については幾つかの臓器があって移植しているわけですから、これはいいわけでしょうけれども、生きている人間から心臓を取り出すということは、まさに生きている人間から心臓を出せば死ぬるということでありますので、まさにこれこそ納得できないことだと私は思うわけでございますが、先生のお考えをお聞かせいただきたいと思います。
  92. 石川元也

    ○石川参考人 先ほども申し上げましたとおり、私たちは、脳死状態というのは医学的には蘇生限界点を超えた状態である、ただ非常に特殊な状態、特殊な段階に至ったその段階で認められる、それは本人の事前の提供の意思、しかもそれが書面で示されてだれにも疑いのない状態である、そういうところで認めるわけであって、通常の、健常の状態から心臓を取り出していいなんということを言っているわけではありません。だから、その脳死状態の理解については、それを死とする考え方と同じなのです。医学的には同じ状態だけれども、それをすべて、つまり、すべて脳死を人の死とするということによる死の概念の変更に伴ういろいろな問題やそういう弊害を避けるためには、これはまだ死としない。しかし、そういう特殊な段階に入った、限りなく死に近づいているという表現もありますが、そういう生命について本人の自己決定で提供して差し上げる、この気持ちは社会でも合意していただけるのじゃないか、こういうことを申し上げているわけです。  だから、そういう例があるのかとおっしゃれば、例えば安楽死の問題でもそうですが、安楽死の中には、積極的安楽死といって医師が関与して死に至らしめるのがあります。しかし、それは、物すごく苦痛が激しくてこれ以上生を続けることが困難だ、それが医学的にも周りからも認められておって、かつ本人が明確な意思で早く私を楽にしてくれということが明確にある。幾つかほかの要件もあります、適切な方法ということもありますが、そういうときには最終的に自己決定を認めるというのが判例の立場で、安楽死の条件は非常に厳しいですけれども、これも最終的にはそういう厳しい要件のもとで、自己決定といいますか、それを認める立場があるのです。  だから、私は、この脳死を人の死とするかしないかというのは、一律にそうした場合にどれだけの弊害があるのか、先ほど幾つか申し上げました。そういう弊害を回避するためにはこれはやむを得ないことではないか。だから、先ほど平野先生がおっしゃった、中山研一さんのお名前が出ましたが、この方も一律に死とするのは反対なのです。だから、提供の意思があって、そして判定が行われる、その人だけはその人が死と思ってもいいじゃないか、こういう意味で、つまり摘出寸前にその人は死になったから摘出できる、こういう考えで一律死には反対しておる立場なのです。  以上でございます。
  93. 町村信孝

    町村委員長 鴨下さん。
  94. 鴨下一郎

    ○鴨下委員 新進党の鴨下一郎です。私は、脳死を法律で認定するということには反対の立場で伺いたいと思います。  米本さんにですが、制度論の話をおっしゃいました。そして、医療の職能集団がある意味での自治組織として決めたガイドラインを政治ないしは行政が追認していく、こういうような形が望ましいのだというようなことをおっしゃいましたけれども、私も、今まで社会通念上の死が三徴候死であったにもかかわらず、脳死を法で押しつけるべきでないというふうに思っているのです。ただ、残念ながら、今医療の現場の中ではいろいろな意味医療不信もありますので、この職能集団がガイドラインをつくって果たしてそれが信頼に足るものかというようなこともございます。  ですから、その中で、先ほど、ある一種のソフトロー的な制度で追認していくべきというようなことをおっしゃいましたが、これが私は非常に現実的だと思っておりますが、これを今私たち政治家がやるとしたら、どういうようなことが一番よいというふうにお考えになっているのか、教えていただきたいということ。  それからもう一つ、石川先生に。脳死を法的に認定したとすれば、社会通念上、民事上のさまざまな諸問題が起きてくると思います。例えば相続の問題も出てくると思います。この辺のことで、この脳死を認定する法律が成立した後に起こってくると予測されるさまざまな問題点について、具体的に何かございましたら御指摘をいただきたいと思います。
  95. 町村信孝

    町村委員長 それでは、米本さん、石川さんの順でお願いします。  米本さん。
  96. 米本昌平

    ○米本参考人 これは私、少しはしょって申し上げましたので、大変に答えにくいのですけれども、ですから、日本は医療不信があるから脳死移植ができないんだという一般的な説明では説明できない。要するに日本は、メディカルプロフェッションという本来独立の権威、権力、しかしそれは非常に内部的に専門家がお互いにお互いをチェックをして、医療判断、医療行為は専門性のクオリティーコントロールに責任を負うという制度がないために脳死移植ができないというのが実は私の意見でございますので、現段階でソフトローをどう活用するのかということについては、むしろ医学界が全体として、現在メディカルプロフェッションとしての強制参加の身分団体は存在しませんけれども、実務的に医学界が全体として移植問題を責任を持ってコントロールできるという体制が外側に示されれば、行政当局、特に先ほども申し上げましたけれども、殺人罪で告発された場合に、非常に厳格なガイドラインにのっとっていれば、この厳格なガイドラインを本当に遵守されたことが明らかであれば告発があっても検察当局は受理しない。  それからもう一点は、実は私は言及しませんでしたけれども、突然死から臓器を取り出さないといけない場合が非常に多いわけですので、検視制度との調整が必要になります。  これは多分、現在の警察組織というのが非常にがっちりした組織ですので、これは要するに最高の立法府の法律ができないと、はっきり言って警察が動かないというところが一つ多分立法ということになるんだろうと思いますけれども、少なくとも、外国のようなメディカルプロフェッションの実態がなくとも、明らかにメディカルプロフェッションとして、要するに実務的に信頼がおける移植が医学界としてできるということが外側にわかれば、当然、司法当局及び警察の検視制度とそこの責任主体、そこの責任中心が運用上の交渉に入るべきだし、入れるはずだろうと思います。  それで、行く行くは、先ほど申し上げましたけれどもメディカルプロフェッションとしてのインディペンデンシーあるいはオートノミー、自治と、それから波及する既存の行政手続上の調整、それのガイドラインを明確化するという方向に持っていくべきで、極端なことを言えばやはり医師法改正ということになるのですけれども、これは多分大仕事ですので、そういうことを待っていては多分臓器移植はできないと思いますので、むしろ実績を上げるということだろうと思います。  私はちょっと想像力貧困でこれ以上何とも申し上げようがありませんけれども、ただ、先ほども、繰り返しますけれども、非常に初期の段階で検事総長談話とか国会決議というソフトローという、かなり実務的にリアリティーのある案を加藤一郎先生その他がお出しになったということだけは申し上げたということまでで、御勘弁いただきたいと思います。
  97. 石川元也

    ○石川参考人 例えば中山太郎先生の法案でいきますと、脳死を人の死とするのが一般的な規定になります。  そうすると、先ほど来の、あるいは午前中のお話にもありましたように、脳死の場合には判定なりなんなりが必要ですが、判定が実際に行われるのは移植の前に行われる。そして、それがあるポイントから六時間ないし二十四時間後という二回のポイントがあります。その一回目のポイントの設定にしても、関係するお医者さんの御都合でいつからやるか。つまり脳死状態というのは、その状態になっても通常一週間とか長ければ一カ月とか何カ月とかいろいろありますから、あるポイントでやらなければならぬという必然性がないわけですね。  ところが死の概念というのは、先ほど来お話ありますように、あるポイントで決めなければならぬ。そうすると、それがお医者さんの方の都合で動くこともありましょうし、関係者の要望でもっと先にしてくれというようなこともあるかもしれない。そういうことで動いていきますと、例えば相続の点をとったときに、いつをもって死とするか、こういう点が非常に流動的になってくる。それでいいのだろうか。  だから、そういうところから先ほど申し上げましたような選択死説というのがあって、移植に限りその人を判定して、判定した後に死とするという説が出てくるのも、どうしてもすべての脳死者、臨床的には脳死状態というのはある程度わかる、その状態も私たちわかりますが、そうだとすると、それがそういう臨床的な状況でいつ死とされるかということについての明確なポイントのないままにすべての脳死者についてそれを死とすることになるが、そうした一律な規定というものは適切ではないだろうし、かつ今求められているのは、提供の意思に基づいて移植ができる道をどうして開くか、こういうことですから、その必要にこたえていくのには、例えば金田先生の案なり日弁連の案のようにいくことが十分に可能なんだ。  そこは法律的に、先ほど平野先生が言われたように、それが認められるかどうか、そういうことですが、それについては刑法学会で議論が相半ばする状況ですから、そういう状況の中で御選択いただくことだ、私らはそう思います。
  98. 町村信孝

    町村委員長 伊吹さん。
  99. 伊吹文明

    伊吹委員 自由民主党の伊吹でございます。  私は、数年前この法律を初めて国会に議員提案という形で出したときに、自由民主党としてこの法案を国会に出そうということの自民党の厚生政策の責任者でありました。当時は今の総理の橋本さんが実は政務調査会長で、私の上司であったわけですが、そのときに、法律は国会に出すけれども、党議拘束は外そうという議論を橋本さんといたしました。  一つは、言うまでもなく、自分臓器を使ってもらいたい、あるいは使ってもらいたくない、また、臓器移植してもらって人間らしく他人のために尽くす命を欲しい、あるいは人からそういう移植を受けずに、与えられた命の限り人間的に生きていきたいというのは、その人その人のやはり人生観の問題であろう。だから、先ほど木内さんがおっしゃった、大変苦しい中からいろいろな御経験をなすってきたのと同じようなことを、我々は、そういう立場にはなかったけれども、実は考えたわけであります。  もう一つ、実は我々が党議拘束をすべきでないと考えたのは、実は、きょうは午前中は医療の専門家の方に来ていただきました。午後は法律を中心にいろいろな立場の方に来ていただいているわけですが、やはり、人間というのは何かということを考えてみるために、哲学者かだれかがお一人いらっしゃれば僕は非常にきょうの公聴会はよかったんじゃないかなと思います。  それは、先ほど来本先生がおっしゃったメディカルプロフェッションということなんですが、メディカルプロフェッションというものは、やはりその属している国の、あるいは人類のと言ってもいいかもわかりませんが、生きざまとか伝統とか法律とか社会規範とかというものの枠の中にあるものだと我々は思うのです。その間の調整をどう考えるか。  例えば、今回の法案で、心臓その他政令で定める臓器となっていますが、アメリカで一時行われたように、人の大脳を移植した場合に、一体人間というのはどうなるんだと。さらにまた、卵巣あるいは睾丸、こういうものを政令で書かれて移植をされた場合に、人間というものは一体何なんだということを考えたときに、メディカルプロフェッションというものは、やはり倫理観とか社会規範だとか伝統だとか文化だとかというものを超えて進めないんじゃないか。  我々はポリティカルプロフェッションであり、また別にソーシャルプロフェッションというものもいらっしゃる。そして同時に、メディカルプロフェッションというものに対して尊敬を払い、自分たちが至らない者だという謙虚さと自己抑制がなければならない。  そこのお互いの相互関係によって成り立つのであって、今回、したがって、法律だとか社会のしがらみだとかで移植が受けられないということだけは取り外しておこう、しかし、だからといって、この法案に賛成したからといって、移植自分は進んで受けたいとかあるいは臓器を提供したいとかということとは別の問題だ、我々は実はそう考えて、党議拘束というものを自由民主党としては外したわけです。  先ほど、私の誤解であればいいんですが、米本さんのお話では、メディカルプロフェッションというものを大変強く感じておられるように表現されたように私は理解したんですが、私は、ポリティカルプロフェッションとかソーシャルプロフェッションという勉強はしておりますけれども、それほどソーシャルプロフェッションあるいはポリティカルプロフェッションということについては私は自信はないんですが、先ほど来のお話について、率直なお気持ちを聞かせていただきたいと思います。
  100. 米本昌平

    ○米本参考人 どうお答えしていいか、余り長くなるといけないので、ちょっとどうお答えしたらいいのかよくわからないんですけれども、メディカルプロフェッションがガイドラインを確定するときに、当然これは、境界領域の、それこそ宗教家とか哲学者とか法律家を、暫定的に特別の委員会を組んでもらって、そこでガイドラインを確定する、そのガイドラインの根拠についてそれに見合った調査をするということで固めてきております。  ただし、これはあくまで、医療行為として実際に行う責任主体はメディカルプロフェッションでございますので、メディカルプロフェッションのイニシアチブのもとで、境界領域の権威ある方々にそれぞれガイドラインを固めるに当たっての知的作業に入っていただくというようなことを少なくとも諸外国はやってきておるわけでして、そういう意味では、メディカルプロフェッションだけが特権的に、社会的な価値から突出してメディカルプロフェッションだけの判断でやれるわけではございません。  特に、私がいわゆる比較政策を研究する者として非常に気にしておりますのは、脳死は医学的に死であるという発言が私は非常にひっかかるところがあります。要するに、もし医学が本当のサイエンスであれば、これは価値中立てすので、ある種の医学的もしくは臨床的な現象として脳死状態というのは存在しますけれども、それが死であるということは、メディカルプロフェッションの側が一元的に決めるべき問題ではありません。  これは、英語の文献を読めばよく出てまいりますけれども、要するにファクトとバリュー、ファクトとミーニング、要するに、ファクトというのは脳死状態であって、その状態を社会が死と認めるか、あるいは限りなく死と扱うことをメディカルプロフェッションに対して社会の側が認めるか。その点について、個別にメディカルプロフェッションが、自分たちが実務的にやらなくてはいけない行為判断の重要な基準として、境界領域の識者を集めてレポートづくりをして、メディカルプロフェッションが守るべきガイドラインの根拠として固めてくる。それは、間接的には、日本以外の国では非常に身分上守らなくてはいけないガイドラインがありますし、それを法といいますか行政当局が追認するという、簡単に申し上げますとそういう決め方で諸外国はやってきているのだと思います。
  101. 町村信孝

    町村委員長 五島さん。
  102. 五島正規

    ○五島委員 民主党の五島でございます。  石川先生にお伺いしたいと思いますが、先生のお話の中でも、脳死というこの状況を、蘇生限界点を超えたところであるということは明快におっしゃっているわけでございます。  もちろん、救命医療の進歩によってこの脳死に至るまでの経過については今後変わっていくということがあるとしても、脳死ということが蘇生限界点を超えているということであったとした場合に、では、蘇生限界点を超えている段階において、なおかつそれが死でないとするならば、治療の義務が医者に基本的にあるかどうか。  患者さんの状態確認のために、脳死判定そのものに一定の危険性を伴いますから家族その他の同意を得るとしても、その病状確認のために竹内基準に基づいた脳死判定を行うということはあり得ることだと思います。そして、その結果、脳死にもう到達しているという状況が確認されます。これは、先生がおっしゃるように、脳死の時点を、すなわち蘇生限界点そのものを示したものではなくて、既に蘇生限界点を超えたという状況を医者として知ることができた時期ということになるかと思いますが、その蘇生限界点を超えているということが確認されます。  蘇生限界点を超えた人に対して、いわゆるレスピレーターを通じて呼吸を維持し、そしてそれによって一定循環を維持している、その行為を医者に対して義務的に継続することを求められる根拠というものは、法律上どういうふうになってくるのか。  もちろん、先ほど木内さんおっしゃいましたように、現実問題として、御遺族の方の御要望によってそこで治療を中断するということをしろと言っているわけではございません。ただ、問題点として、法律上の問題として、そこにおいて、違法性阻却というお言葉が出てまいりましたので、蘇生限界点を超えている人に対して医療の行為、すなわちレスピレーターの使用その他の医療の行為をやらなければいけないということについての法的な理解はどういうふうにすればいいのか、そこのところをお伺いしたいと思います。
  103. 石川元也

    ○石川参考人 蘇生限界点を超えた脳死状態にある身体に、医療義務が医者に課せられるかどうか、大変難しい御質問ですが、私は、基本的には医療のあり方は、その段階における家族の気持ちを、それこそ合意の上で程度を落としていくということは今現実に行われていることであろう。その時点になればすぐ医療を放棄すべきであるし医療継続の義務はないとまで言い切れるかどうか、この辺は多少ファジーな言い方になりますけれども、そういう状態にふさわしい医療と申しますか、やはり家族の合意の上でやっていく。  今、救急の現場の皆さんも、限界点を超えたからレスピレーターも外すし一切治療はやらぬということはほとんどないだろうと思います。  ということは、現実にそういう状態であるということを医者の方が確認していてもやはり家族の方がどう思われるか、そういうことで、家族の納得の上で次の段階といいますか処置をとられる、そういう問題であって、一律にそのときになれば義務がないと言い切れるかどうか、これはやはりお医者さんのモラルの一つにもなるかと思う。  だから、そういう点で、はっきりその時点で治療義務はないとまで私は申し上げることはできないし、それにふさわしい対応をしていくべきだろうと思います。  しかし、従前そのままの一種の濃厚な治療をするかどうかということになれば、それはよく説明して納得をいただいていくというのが医療の現場の実態ではないか。ですから、その確認されたポイント治療の義務があるかどうかという法律論で割り切れとおっしゃると、ちょっと私、今割り切るだけのそれを持っていません。率直にそういう点、申し上げておきたいと思います。
  104. 五島正規

    ○五島委員 いや、インフォームド・コンセントの問題も含めまして、医療がそうであるべきだということについては全く異存ございません。  私のお聞きしておりますのは、違法性阻却論という言葉を使うということであるとするならば、当然、蘇生限界点を超えているところにおいても医者に対して医療継続の義務があるという立場に立つのだろうというふうに思うわけですが、現実問題として、蘇生の限界点を超えた、すなわちその患者さんは既に生の側に戻ることが不可逆的にないという状況が判断された段階において法的に医療継続の義務というものが医師にあるのかどうか、そこのところをお伺いしたわけです。
  105. 石川元也

    ○石川参考人 違法阻却というのは、摘出行為について違法阻却を申し上げているのです。それは、あくまでも健常時における提供の意思がある、それでそういう不可逆的な状態蘇生限界点を超えた状態になれば摘出しても違法性を阻却されるという点で言っているので、治療義務との関係で違法性を言っているわけでも何でもありません。ですから、その点は違いがある。違法性阻却を言うからには治療義務があるだろうというふうに御質問ですが、そういうふうにつなげているわけではありません。
  106. 町村信孝

    町村委員長 中山太郎先生、先ほど来から……。
  107. 中山太郎

    中山(太)委員 自民党の中山太郎です。  いろいろ先生方からきょうは御意見をいただいて大変勉強になりましたが、私がお尋ねしたいことは、いろいろとメディカルプロフェッショナルの話をおっしゃいました。  それぞれの学問分野というのは、その社会でその学問を身につけてやっておられる方々、その共通の学問を持っている人たちの集まり、つまり学会、こういったものが国家として学会として認められているということ、例えば法律学界にも刑法学会があると私は思います。その中での考え方というものが非常に国民に対する一つの方向を示すというふうに思います。私、医学の世界でも同じことだと思います。内科学会もあれば胸部外科学会もある、いろいろな学会がありまして、国内では、激しい対立意見の中で、新しい医学の進歩のためにそれぞれの専門家が議論を闘わせているわけです。  そういう中で、この学会がしっかりした学会であれば、当然、国際的な学会に参加しております。国際学会の基準から見て、竹内基準というものが高い評価を受けているということを先生方はどのようにお考えになるのか。そこの点を率直に、簡単で結構でございますから、これは高い評価をするべきもの、あるいはしてはならないもの、それによって死が判断されるかどうかという問題ですから、竹内基準というものが国際的に高い評価を受けているかどうかという御認識を、刑法学者として、あるいは米本さんからもひとつ簡単にお答え願いたいと思います。
  108. 町村信孝

    町村委員長 どなたですか。石川さんと米本さんですか。平野先生もですか。  では、お三方、順次お願いします。  石川さんからどうぞ。
  109. 石川元也

    ○石川参考人 日弁連の見解で申し上げますと、竹内基準に脳血流の検査などあと二項目ほど追加したものをすべきであるという考えでありまして、基本的に竹内基準をさらに補強した検査ということを申し上げております。  したがって、今回の法案が二つとも竹内基準基準にされていることについては、そういう要望は申し上げておるわけですけれども、国際的にもそれが一つ基準として承認されているだろうということは承知した上で、なお念を入れてそういう判定方法についてはさらに厳格なものを求めたい、こういう立場でございます。
  110. 平野龍一

    ○平野参考人 国際的に申しますと、石川さんのような御意見をお持ちの学者も確かに外国にもおられます。しかし、法制度として見ましたら、そういう制度は私はないと思います。  それから、国際学会でいろいろ討論いたしますと、外国の学者は、私たちはそれはもう解決した、しかし日本には日本の御事情があるのでしようという大体のお返事でございます。
  111. 米本昌平

    ○米本参考人 繰り返しになるといけませんので、私は石川参考人とほとんど同じ意見でございます。
  112. 町村信孝

    町村委員長 瀬古さん。
  113. 瀬古由起子

    ○瀬古委員 日本共産党の瀬古由起子でございます。午前中から午後にかけて大変重要な問題提起をしていただきましてありがとうございました。  私、きょう聞かせていただきまして、脳死を人の死とする、人の死としない立場からの臓器移植の問題、またあるいは現段階で法律をつくるべきかどうか、そういう問題も提起されているというふうに思います。  その中で、きょう、私は弁護士の石川さんとそれから柳田さんにお聞きしたいと思うのですが、大変重要な問題提起が出されている段階で、そして専門家の中にも随分意見がまだ分かれている。それから、石川さんが最初に言われたのですが、まだこれが国民の中に十分知らされていないのではないか、こういうお話があったと思うのですが、まだ国民に十分知らされていない今の段階で法律をつくって踏み切るというようになるのかどうか。その点はぜひ聞かせていただきたいと思います。  それから、柳田さんの方からは、私も午前中林先生のお話を聞き、また柳田さんが実際に体験された、そして自分のつらい体験も含めて、低体温療法のすばらしさなども聞かせていただいて、脳死だと言われた人たちが蘇生していく状況というのは、医学の進歩というのはすごいものだということを改めて痛感をしています。  そういう中で、今もっとやらなければならないものといいますか、それこそ今の医学の状況だとか患者さんの権利の問題だとか、そういうものにもつともっと突っ込まなければいけないのではないかというお話もあったので、今の段階での国民的な合意というか、死をどう考えるかという合意ができているのかどうか、その点での御意見と、先ほどちょっと言い足りなかったあの六つ目のところも聞かせていただければというふうに思います。  以上です。
  114. 町村信孝

    町村委員長 それでは、石川さんの方から……。
  115. 石川元也

    ○石川参考人 一番最初に申し上げましたのは、この新しい二つの去案が出ているということすら知らされていない。最初に御紹介申し上げたように、けさの朝日新聞の社説が初めて出た。この先日いただいた当委員会の調査室のつくられた資料でも、昨年の修正案が出た以降の社説として四つ挙がっているだけなのですね。まして、修正案自体がこうなった、今度の法案になったこともまだ十分とは言えないのではないか、まして、新しい金田議員さんらの法案が出ている。この二つの中で国民の皆さんどう考えますかという問いかけをぜひした上でというのを最初に申し上げたのです。  といいますのは、かつての脳死臨調の答申があった後の世論調査でも、脳死を人の死とするのが多数意見でありましたけれども、脳死を人の死としないで移植ができるとすればどうですかと言ったら、これは六〇%を超える賛成があるのですね。だから、移植のために脳死を人の死にしなくてもできるということがどれだけ国民の中に知られているか、そういう論議をもっともっと尽くした上でどちらの道がいいのか。私は、人の死とすることに幾つかの弊害がある、幾つかというか多くの弊害があって、それを認めることの方の弊害が大きいということを申し上げましたが、そういうようなことを含めた国民的な論議が必要ではないかと思うのです。  恐縮ですが、先ほど平野先生が言われた、日弁連の意見がまとまっていないじゃないかというのを、この機会に訂正させておいていただきますが、平野先生がお確かめになったのは、平成二年、一九九〇年の脳死臨調で、私ともう一人、西岡という日弁連の委員が出たときの質問でございまして、その当時は私と西岡さんとの間に若干の意見の食い違いがありましたが、きょうお出ししたパンフレットの段階では日弁連としては統一されているのですから、時期が七年も前だということと、それから、私たちの見解で理事会承認という立場をとりまして日弁連として一本化した、そのことは申し上げておきたいと思います。
  116. 町村信孝

    町村委員長 柳田さんどうぞ。(平野参考人「ちょっとよろしいですか。今、一言だけよろしいですか」と呼ぶ)  そうですが、では、関連でどうぞ、平野さん。
  117. 平野龍一

    ○平野参考人 ただいまのはちょっと事実が違いまして、確かに最初お二人お出になりましたが、その後、日弁連が総会で決議をしまして、その説明に改めて西岡さんがお見えになったときにおっしゃった言葉でございます。
  118. 町村信孝

    町村委員長 それでは、柳田さんどうぞ。
  119. 柳田邦男

    ○柳田参考人 先ほど言おうとした点を加えながら、ただいまの御質問に私の考えをお答えしたいと思います。  五番目に申し上げたかったことは、原則的な議論と医療現場のずれですね。  こういうところで非常に格好よく建前論なり原則論をやっているのと、実際の医療現場の例えば移植外科の先生方の動きとか、そういうものというのはかなりずれがございまして、こうやって合意を得ようと努力している局面がある一方で、例えば一昨年、九五年の四月に、日本医学会総会、四年に一遍のイベントでございますが、名古屋でありましたときに、社会に受け入れられる移植医療というシンポジウムを、かなり大きいものをやりました。そのときに、例えばこういう道があるじゃないか、ああいう道があるじゃないかということをシンポジウミストがお話しになったり、それから、アメリカのニュージャージー州の州法では、脳死心臓死、両方を許容する非常に幅のある、そういう死の決め方をしてやっているというようなことまで問題提起されたりしました。  そうしたら、フロアから、実はそのフロアにはほとんど移植推進の先生方はおいでにならなくて、その前の日のテクニカルなシンポジウムの方は熱気むんむんだったのですが、社会的に受け入れられる医療というシンポジウムでは一人しか移植関係のお医者さんの代表が来ておらなくて、その人が手を挙げて、今はもうそういう議論をしている段階ではない、実行あるのみだ、やればできるとおっしゃったのですね。私、大変ショックを受けまして、私は学会員じゃなかったのですけれども、その直前に尊厳死に関するキーノートというスピーチをやった関係で、挙手しましたら発言を許されたものですから、ちょっとお伺いしたいのですが、実行あるのみと言うけれども、どなたの臓器をお使いになるのでしょうかというふうに申し上げたのです、もちろん答えがありませんでしたけれども。  そういうふうに、現場の方ではたとえ刑事訴追されようと何しようとやろうじゃないかという空気が物すごく強い面があるわけですね。それが実際ですし、私はそれを否定はいたしません。それなりに御自信があるのだろうし、いいだろうと思うのですね。  それで、もう一つ、六番目に言おうと思いましたのは、九〇年代に入ってからの変化でございますが、脳死臨調は八〇年代の知見をもとに議論しておりますが、九〇年代になってから、先ほどの低体温療法とか、いろいろな新しい知見が出てまいりましたし、データも出てまいりました。  それから、全脳死という定義も、その後のいろいろな脳波の測定とか技術的な開発によりまして、竹内基準で全脳死と認定されても、実際には、脳の中の方とか脳底部とか、いろいろなところにまだ生きている細胞が十分あることを示す脳波が検出されるとか、それは測定法によって随分違うわけですね。それが、先ほど言いましたように、脳の神経細胞の表面だけの死亡でとりあえずはみなし脳死としていること自体の限界というのを、もっともっと厳密にしていかないといけないのじゃないかというところに発展していくと思います。  ただし、本当の意味脳死状態になった場合には、それは蘇生の可能性は全くないということだけは、これは確かでございますので、ただ、問題は、それを臨床現場で日常的にどう検査するかという問題になると思います。  そして、最後に申し上げたかったのは、国民的合意の問題でございますけれども、私は、こういう国会の場というのは、緊急な問題と同時に国家百年の計を考える場だと思います。そして、生と死の問題、特に死の認定の問題というのは、これは日本の国民文化あるいは生と死の文化の今後二十一世紀を決める可能性のあるというか、あるいはその重要なポイントになる問題ではなかろうかと思うのですね。  それで、二十世紀を振り返ると、これはすぐれて科学の時代でございまして、科学技術によって新しい知見を得て、そしてそれに従って私たちの考えというのがいろいろと左右されてきた。  そういう中で、もう一度反省しなきゃいけないのは、科学の弊害とか科学によって振り回されるとか、そういう面を考えなきゃいけないのと、科学というのは、しょせんは前提条件がある中でのロジックの話だから、人間というファジーな存在、人間の感情とか人生観とか生活とか、人間の関係性とか、さまざまなものが非常に重要で、それは例えば、先ほど言いましたように、在宅医療などで見ると、そこで初めて医療とのかかわりの本質が見えてくるとかという問題がございますね。そういった意味で、この死というものに関して国民の合意を得るということは無理だと思います。  これは、科学技術の進歩に従って脳死が死に限りなく近いということがわかってきましたけれども、それを死とするかどうかは、いろいろな人の立場で変わりますし、その人の人生観によって変わりますね。そうすると、そういうファジーなあいまいさというものを許容していく文化こそが二十一世紀の文化ではないか。だから、三〇%なり五〇%あればそれでいいじゃないかということで多数決で決めていく問題、それはテーマによってはほとんどそうでしょうけれども、こういった問題については多数決で決めるという問題ではなくて、さまざまな価値観や人生観や死生観というのが共存していくことを許容する、そういう文化をつくる、その姿勢を国会、つまり国民の代表が決めていくということがとても大事なことではないか。  そういう意味で、合意、合意と言って、何か合意を得ない限り移植できないみたいなことではなくて、今の中でできることをやる、そして死の定義についても多様性を認めていく。ニュージャージー州ではそういう例もあるし、あるいは新しい考え方も非常に革新的な法律家によってはできるかと思いますね。  結論として、それでは私はどういう立場をとるかといいますと、本当にメディカルプロフェッションの場において、そしてそこにアメリカのような一般市民のごく常識的な意見も反映した倫理の立場というものを加味しながら、現場で実践として移植医療が行われていくということがよろしいのではないかと。法律で今急いで脳死は死だと一律に決めるということよりは、現場の実践の中でそれが行われていく。そしてそれが一定のグループから刑事訴追されるようなことがあっても、それに対して十分たえ得るだけの準備を医療側がしていく。また、それくらいの苦労や大変さというのは引き受けるというぐらいの決意があってよろしいのではないか。そういう中で、午前中、林先生がおっしゃったように、判例とかいろいろな実績の中で死の形というものの多様性が認められていく。そうすれば、今急いで三徴候心臓死というものを脳死ということに急遽、何か一日四人、人が亡くなるから急いで死を決めようということじゃなくて、もっとやわらかな形で決めていけるのではないか。  それで、次善の策としては、脳死を死としなくても移植ができる道というものを法律界の英知を集めてつくっていく。次善のそのさらに次善でございますけれども、どうしてももう脳死を死としなきゃだめだという場合に、それでは脳死に入った患者の権利を守る最後のとりでは何かといったら、脳死判定に関して拒否権を留保することを法律に明記することではなかろうか。私は脳死判定を受けたくないということになれば、実質的にそれは心臓死を待つことができるわけです。そういう具体的、現実的な道もあるわけです。  私は、二重、三重にいろいろな意味でこれからの新しい文化、多様な価値観、死生観を受け入れていく日本をつくる上で、今回の国会の審議というのは大変大きな意味を持っていると考えております。  以上です。
  120. 町村信孝

    町村委員長 大分時間も迫ってまいりました。あとお一人、お二人にしたいと思いますが、山本さん、石毛さん、佐藤さん、じゃ、このお三方にします。
  121. 山本孝史

    山本(孝)委員 ありがとうございます。  せっかくの機会ですので、平野先生にぜひお伺いをしたいのですけれども、先生は刑事訴訟法の大家でいらっしゃるとお聞きをしております。今回、結局、事故者であったりあるいは犯罪にかかわっていたりという可能性が高い方たちが臓器の提供者になるというふうに思います。したがって、検視の部分との関連でお伺いをしたいのですけれども、どのような原因で臓器提供者になるか、原因ですね。どのような原因であれば脳死状態からの摘出を認めていいというふうに先生はお考えなのか。  例えば、交通事故であれば自損という場合と他損という場合が、御承知のようにあります。アメリカであれば、銃犯罪の被害者からも臓器の摘出をしております。あるいは、例えば家の中で階段から落ちたという場合、それが事故であるのか、あるいは虐待、犯罪につながっているのか、いろいろなケースが考えられるというふうに思うのですけれども、先生のお考えの中で、どういう状況であれば摘出をしていいというふうに思っておられるのか。  それから、済みませんが、石川先生に一問だけ。  今五島先生の話を聞いていますと、やはり脳死判定されればもう治療をやめるべきだというふうな形になっていく。すると、この臓器移植法がいわば脳死判定法、あるいはだんだんそういうふうに推し進められていって臓器摘出法、さらにはもっと臓器を獲得する法というふうにだんだんなっていくような気もするのですね。それは私の単なる懸念でしょうか。平野先生、もしそこのお話があれば、あるいは石川先生もそこで何か御意見があれば、お伺いをさせていただきたいと思います。ありがとうございます。
  122. 平野龍一

    ○平野参考人 検視の問題は、脳死を死と認めるか認めないかによってかなり違ってくるわけでございます。  脳死を死と認めた場合には、脳死後に検視をして、もう犯罪捜査の必要はないから臓器移植をやって構いませんということになって、臓器移植ということになると思います。もし脳死を死と認めない場合は非常に検視が難しくなると思いますが、この点はこの法案は実にうまくできておりまして、これならばあるいはやれるかもしれないという気がいたしますけれども、これはちょっと実際上これでやれるかどうか、私は実務をよく存じませんので、はっきり言えません。
  123. 石川元也

    ○石川参考人 脳死確認後の治療の義務があるかどうかということですが、今度の中山先生の法案にも、その後の処置と書いていて治療とは書いていませんが、処置について保険関係の適用を認める、こうなっていますから、これをどう解されるかということになるんじゃないでしょうか。  つまり、やはりその段階ですぐやめるのは医師として適切でない。法的義務かどうかというよりは、法的にいえば、脳死で死体と確認すれば、治療ということはないから保険の適用がないが、それじゃ家族の人やあるいは医療現場の医療関係者すら納得しないだろう。だから、当分の間その処置は保険関係の適用を認めるというふうになっているのは、やはり適切な治療なり相当なものがある程度継続されるということを想定しているだろうと思いますので、先ほどの多少ファジーなお答えを今のような形で補充させていただきます。(平野参考人「その点にも私、お答えした方がよろしゅうございますか」と呼ぶ)
  124. 町村信孝

    町村委員長 もし御発言があれば……。
  125. 平野龍一

    ○平野参考人 その場合に、脳死を死と認めていながら医療を継続するというのは死者に対する医療を認めるという概念矛盾ではないかという批判もございますけれども、それは全く概念論でございますから、脳死を死と認めた後でも保険を給付するということは十分可能であろうと思いますし、それがない場合でも、例えば病院で負担して出すということも十分可能であろうと思います。  実際には、先ほども申しましたように、遺族が納得されるまで続けるというのが医療の通常であろうと思います。
  126. 町村信孝

    町村委員長 石毛さん。
  127. 石毛えい子

    ○石毛委員 民主党の石毛でございます。本日はいろいろお教えいただきまして、ありがとうございました。  私は今までの議論の中で、脳死概念あるいは脳死判定をめぐっての議論、それから米本先生からメディカルプロフェッションというとらえ方、大変貴重な御示唆をいただいたと思いますけれども、もう一つお伺いさせていただきたいと思いましたのは、臓器移植臓器を提供する側と移植を受ける側、きょう、お受けになった経験者の方はお話しくださいましたけれども、その方たちが日常的にこのことをどう考えるかという、社会的な議論といいますか合意形成の方向が開かれていないと、なかなか難しい問題があるのではないか。  中山先生の新しい法案でも、提供する御本人が書面により納得している、合意をしているということです。これは今までの議論でも、脳死は突然やってくる事態ですから、突然のときになかなか合意はしにくいわけですから、事前、日常あるいは脳死に至るかなり前の段階で書面をつくらなければならない。ということは、私たちが今生きている社会の中で、この移植ということあるいはその前段で生ということ、それから死ということ、そのことについてかなり普通に私たちが議論を進めなければ、書面を作成する、こういう社会的な慣行自体が定着しないというふうに私は受けとめているわけなのです。  御発言で平野先生は三つポイントを御指摘なされた。三点目で、書面のところは三年後の見直しでは早くというようなニュアンスでおっしゃられましたので、そこのあたり、書面についてどういうふうにお考えになるかということをもう一度お聞かせいただければということと、それから柳田先生、移植に……
  128. 町村信孝

    町村委員長 ちょっともう時間ですから。
  129. 石毛えい子

    ○石毛委員 はい、終わります。  柳田先生は、移植について社会的な合意を形成していく方向性というのは、考えられるとすればどういうことなのかということで御意見お願いいたします。終わりです。
  130. 町村信孝

    町村委員長 恐縮ですが、手短に、平野さん、柳田さんの順でお願いいたします。
  131. 平野龍一

    ○平野参考人 私、少し耳が遠くて、おっしゃることを十分理解できたかどうか心もとないのでございますけれども。  先ほど申しましたように、脳死が死であるということについては、やはり国民がそれを受容するということが必要でございますけれども、どういう状況ができた場合に受容をしたと言えるかということは大変難しい問題でございます。  しかし、そういうものを踏まえて結局は国会でお決めになる、そのことが法律家の立場としては大変好ましいことではなかろうかと思います。やはり、各人の生命観、人生観はいろいろでございますけれども、法律的には一律に取り扱わなければならないという場面が多いわけでございますから、国会でお決め願えますと少なくとも法律上の混乱はなくなってしまう、そういう意味で立法していただければ大変幸いだと思っております。  お答えになったかどうかちょっと……。
  132. 柳田邦男

    ○柳田参考人 移植が広まるようなキャンペーンでしょうか、そういう認識が高まる方法というのはたくさんあると思います。  それから、よく言われるのは、日本人は奉仕の精神が欠けているから移植医療は進まないなんというのですが、私はそうは思いません。  例えば、阪神大震災なり北陸の重油流出事故、あそこへ出かけていったボランティアの数、何十万人というあの数、そして北陸ではそれで死んだ人さえいる。あるいは骨髄バンクヘのドナー登録が、中堀由希子さんがCMに出た途端に若者がわっとドナー登録をして、今七万人で、既に実績千人を超えましたね、移植医療。  やはりそれは、関心を高めるある突破口を超えたときに、日本人というのはかなり情熱的に燃えて、そしてそういう善意の行為というのが社会的に成立するのだと思います。私はそういうことを期待したいと思いますし、移植医療が進むことを期待しているわけでございます。  ですから、先ほどの医学会総会で移植推進の方が発言したとき、もう一言、私、申し上げたのです。先生のような方はしばらく黙っていてくれませんか、そうしたら移植医療はきっと国民に受け入れられると思いますと申し上げたのです。  そういう意味で、本当に美しい形でモデルを示していくこと、そして、救われた人たちの本当の喜びの言葉が伝わっていくような、法律で強制しようとすると、むしろ反発があったり反対運動が起こったり拒否運動が起こったりするおそれさえあります。そうじゃなくて、本当の、美しい形で実現したその実例というものがアピールされていくことによって国民の中にいい種が芽生えていくのではなかろうかなと思います。
  133. 町村信孝

    町村委員長 では、佐藤さん、最後に手短にお願いをいたします。
  134. 佐藤剛男

    佐藤(剛)委員 ありがとうございます。自由民主党の佐藤剛男でございます。  私は、団藤刑法、平野刑事訴訟法を必修で受けました。平野先生は私の恩師でございます。できの悪い教え子でございましたが、ずっと朝からあれしまして、学説、非常に多岐に分かれるなという感じを持っております。  それから、平野先生がおっしゃられる点で、また石川先生もおっしゃられました、非常に重要なことは、やはり国民が許容するというか、平野先生はアメリカの七〇年代の状況、八〇年代の状況を数字を指摘されながらおっしゃられていたわけでございます。私は、それは社会通念というような言葉になるのじゃないかなということで、私の立場は、金田案にさらに修正を加えまして、どちらかといいますと、絞り込みをやるという形の、午前中の山口先生の立場に立つわけでございます。  というのは、例えば、私は平野先生にお伺いするんですが、わいせつという通念がございます、わいせつですね。それで、チャタレー裁判が起きたり何が起きたりしていたわけでございまして、当時においては裁判まで起きたわけであります。そのときには、それはわいせつであるという、わいせつ文書であるということでちゃっちゃっちゃっちゃっとやって、それから、税関から入ってくるということで、取り締まりをやって、わいせつ頒布、それからわいせつ陳列になったわけであります。  わいせつとはというのも定義はないわけでありますが、これはやはり性的刺激を与えるものであるという社会通念で解釈された。しかし、ある日あるとき突然変わったわけでありますね。それは取り締まりがなくなったのか何か、急激に、下半身の毛のが、全裸状況がわいせつと言われないという状況になったということを考えますと、私は、法解釈は社会通念によって変わるんじゃないかという基本的前提があるわけであります。  それで、わいせつの場合には、何もフォトグラフの技術がそれほど発展したわけじゃないんですが、医療の技術においては日々発展していくわけでございますね。ですから、現時点において脳死というのが死であると言っても、これは午前中にもあったんですが、脳神経細胞についてもどうするか、これがまた発展してくる可能性がある、また、発展するんですね。  ですから、そういうものを見てきた場合に、定義を、死というのは脳死なんだという形で移植という形をやりますと、私は、午前中のときの山口先生が指摘したように、日本の特に心臓関係というのは、これは二十五年もおくれておる、それで、アメリカの場合にドナーが減ってきて、非常に、今や逆の状況が出ておる、こういう話があったわけであります。  ということで、社会通念の面で、私は今ここで脳死というものを死という形で定義をするというやり方は、これは果たしていかがかというものを持っているわけでございますので、その点について先生の、恩師のお教えをここで、私のそういうわいせつについて一例を申し上げたわけでありますが、動く話ではないかということで申し上げさせていただきました。
  135. 平野龍一

    ○平野参考人 確かに死という概念も社会通念によって変わっていくことはあるだろうと思いますけれども、私は、今まさに心臓死から社会通念が脳死に移りつつある、あるいは移っているんで、それは一応認めなくちゃいけないんじゃないか。  将来は、例えば、脳幹を含む脳全体の死を脳死というと定義されておりますけれども、場合によっては脳幹を取りかえるということもできるかもしれないと言われております。そうなりましたら、やはり定義を少し変えなくちゃいけないと思いますけれども、恐らくそれは何百年か先のことでございまして、少なくともここ数百年は脳死でいいんではなかろうかというふうに考えておるわけであります。
  136. 町村信孝

    町村委員長 それでは、予定の時間をオーバーいたしましたけれども、これにて参考人に対する質疑を終了いたします。  この際、一言ごあいさつを申し上げます。  参考人皆様方、大変長時間にわたりまして貴重なお話を伺うことができました。皆様方の御意見を今後の審議にも生かしてまいりたいと思っております。まことにありがとうございました。委員会を代表して、厚く御礼を申し上げます。  それでは、参考人方々、どうぞ御退席をいただいて結構でございます。どうもありがとうございました。      ――――◇―――――
  137. 町村信孝

    町村委員長 次に、本日付託になりました内閣提出、健康保険法等の一部を改正する法律案を議題とし、趣旨の説明を聴取いたします。小泉厚生大臣。     ―――――――――――――  健康保険法等の一部を改正する法律案     〔本号末尾に掲載〕     ―――――――――――――
  138. 小泉純一郎

    ○小泉国務大臣 ただいま議題となりました健康保険法等の一部を改正する法律案につきまして、その提案の理由及び内容の概要を御説明申し上げます。  二十一世紀に向けて、社会経済の活力を損なわず、公平、公正で効率的な社会保障制度を確立するためには、社会保障の構造改革を進めていくことが必要であります。社会保障制度の中核となる医療保険制度については、将来にわたり制度を安定的に維持していくための総合的な改革が急がれますが、一方、当面の財政危機を回避し、安定的運営を確保することは、今後どのような医療保険制度の構造改革を進めていくとしても、避けては通ることができない喫緊の課題であると考えております。  今回の改正は、引き続き医療保険制度の改革を着実に進めていくことを前提として、制度の安定的運営の確保、世代間の負担の公平等を図るため、給付と負担の見直し等の措置を講じようとするものであります。  以下、この法律案の主な内容について御説明申し上げます。  第一は、健康保険法等の改正であります。  まず、医療保険制度及び老人保健制度の全般にわたる改革を図るため、その基本的事項について審議する場として、既存の審議会を統合し、新たな審議会を設置することとしております。  次に、一部負担の見直しであります。  被保険者本人の一部負担の割合について、経過措置を廃止し、法律本則に規定する二割とすることとしております。また、薬剤使用の適正化等を図るため、新たに外来の際の薬剤について、一種類一日分につき十五円の負担を設けることとしております。  次に、政府管掌健康保険保険料率の改定であります。  政府管掌健康保険については、財政収支の均衡が図られるよう、一部負担の見直しとあわせて、保険料率を現行の千分の八十二から千分の八十六に改定することとしております。  また、船員保険法等についても、健康保険法の改正と同様に、一部負担の見直しを行うこととしております。  第二は、国民健康保険法の改正であります。  まず、健康保険法の改正と同様に、外来の際の薬剤に関する一部負担を設けることとしております。  次に、低所得者の保険料軽減分を公費で補てんする保険基盤安定制度に係る国庫負担の特例措置を平成十年度までとし、段階的に国庫負担額を増額することとしております。  また、国民健康保険組合の国庫補助については、国民健康保険の本来の被保険者である者に係る保険給付費等についての国庫補助は従来のとおりとし、健康保険の適用除外承認を受けて新たに国民健康保険組合の被保険者となる者等に関しては、健康保険における国庫補助の割合を勘案した補助を行うこととしております。  第三は、老人保健法の改正であります。  まず、老後における健康の保持を図る観点から、訪問指導について、寝たきり等の者以外の者に対しても行うことができるよう、対象者の拡大を行うこととしております。  次に、老人医療費を支えている現役世代と高齢者世代との公平、給付と負担の合理化等の観点から、一部負担金の額を見直すこととしております。  外来一部負担金の額については、同一の月に同一の保険医療機関等ごとに、一月千二十円から、四回の支払いを限度として一日五百円に改めることとしております。  入院一部負担金の額については、一日七百十円から一日千円に改めることとしております。この場合、低所得者に係る入院一部負担金の額については、現在は二月を限度として一日三百円としておりますが、これを一日五百円に改めることとしております。  さらに、外来及び入院の一部負担金の額については、二年度ごとに、一日当たり医療費の伸びに応じて改定することとしております。  また、健康保険法の改正と同様に、外来の際の薬剤に関する一部負担を設けることとしております。  最後に、この法律の施行期日は、一部の事項を除き、平成九年五月一日としております。  以上が、この法律案の提案理由及びその内容の概要であります。  何とぞ、慎重に御審議の上、速やかに御可決あらんことをお願い申し上げます。
  139. 町村信孝

    町村委員長 これにて趣旨の説明は終わりました。  次回は、明九日委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。     午後五時五十一分散会      ――――◇―――――