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1997-04-01 第140回国会 衆議院 厚生委員会 第10号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成九年四月一日(火曜日)     午前十時三分開議 出席委員   委員長 町村 信孝君    理事 佐藤 剛男君 理事 住  博司君    理事 津島 雄二君 理事 長勢 甚遠君    理事 岡田 克也君 理事 山本 孝史君    理事 五島 正規君 理事 児玉 健次君       安倍 晋三君    伊吹 文明君       江渡 聡徳君    大村 秀章君       奥山 茂彦君    嘉数 知賢君       河野 太郎君    桜井 郁三君       鈴木 俊一君    田村 憲久君       滝   実君    根本  匠君       能勢 和子君    桧田  仁君       松本  純君    山下 徳夫君       青山 二三君    井上 喜一君       大口 善徳君    鴨下 一郎君       坂口  力君    福島  豊君       桝屋 敬悟君    矢上 雅義君       吉田 幸弘君    米津 等史君       家西  悟君    石毛 鍈子君       枝野 幸男君    金田 誠一君       瀬古由起子君    秋葉 忠利君       中川 智子君    土屋 品子君       土肥 隆一君  出席政府委員         厚生政務次官  鈴木 俊一君  委員外出席者         議     員 中山 太郎君         議     員 自見庄三郎君         議     員 能勢 和子君         議     員 桧田  仁君         議     員 山口 俊一君         議     員 福島  豊君         議     員 矢上 雅義君         議     員 五島 正規君         衆議院法制局第         五部長     福田 孝雄君         厚生省保健医療         局疾病対策課臓         器移植対策室長 貝谷  伸君         厚生委員会調査         室長      市川  喬君     ――――――――――――― 委員の異動 四月一日  辞任         補欠選任   桜井 郁三君     河野 太郎君   山下 徳夫君     滝   実君   枝野 幸男君     金田 誠一君   中川 智子君     秋葉 忠利君 同日  辞任         補欠選任   河野 太郎君     桜井 郁三君   滝   実君     山下 徳夫君   金田 誠一君     枝野 幸男君   秋葉 忠利君     中川 智子君     ――――――――――――― 四月一日  医療保険制度改悪反対公的介護保障制度の確  立に関する請願坂上富男紹介)(第一三四  二号)  同(坂上富男紹介)(第一三九六号)  児童福祉法の理念に基づく保育の公的保障の拡  充に関する請願寺前巖紹介)(第一三四三  号)  医療保険制度改悪反対医療充実に関する  請願松本善明紹介)(第一三四四号)  同(木島日出夫紹介)(第一四六五号)  同(児玉健次紹介)(第一四六六号)  同(佐々木憲昭紹介)(第一四六七号)  同(佐々木陸海紹介)(第一四六八号)  同(志位和夫紹介)(第一四六九号)  同(春名直章紹介)(第一四七〇号)  同(平賀高成紹介)(第一四七一号)  同(藤木洋子紹介)(第一四七二号)  同(古堅実吉紹介)(第一四七三号)  同(正森成二君紹介)(第一四七四号)  同(矢島恒夫紹介)(第一四七五号)  同(山原健二郎紹介)(第一四七六号)  同(吉井英勝紹介)(第一四七七号)  公的介護保障制度早期確立に関する請願(児  玉健次紹介)(第一三四五号)  同(佐々木陸海紹介)(第一三四六号)  同(中路雅弘紹介)(第一三四七号)  同(中島武敏紹介)(第一三四八号)  同(正森成二君紹介)(第一三四九号)  同(大森猛紹介)(第一四七八号)  同(木島日出夫紹介)(第一四七九号)  同(志位和夫紹介)(第一四八〇号)  同(中路雅弘紹介)(第一四八一号)  同(春名直章紹介)(第一四八二号)  同(不破哲三紹介)(第一四八三号)  同(藤田スミ紹介)(第一四八四号)  同(松本善明紹介)(第一四八五号)  同(矢島恒夫紹介)(第一四八六号)  同(山原健二郎紹介)(第一四八七号)  厚生省汚職の糾明、医療保険改悪反対に関する  請願石井郁子紹介)(第一三五〇号)  同(金子満広紹介)(第一三五一号)  同(木島日出夫紹介)(第一三五二号)  同(穀田恵二紹介)(第一三五三号)  同(寺前巖紹介)(第一三五四号)  同(東中光雄紹介)(第一三五五号)  同(藤木洋子紹介)(第一三五六号)  同(藤田スミ紹介)(第一三五七号)  同(松本善明紹介)(第一三五八号)  同(矢島恒夫紹介)(第一三五九号)  同(石井郁子紹介)(第一四八八号)  同(大森猛紹介)(第一四八九号)  同(金子満広紹介)(第一四九〇号)  同(穀田恵二紹介)(第一四九一号)  同(瀬古由起子紹介)(第一四九二号)  同(辻第一君紹介)(第一四九三号)  同(寺前巖紹介)(第一四九四号)  同(中路雅弘紹介)(第一四九五号)  同(中島武敏紹介)(第一四九六号)  同(東中光雄紹介)(第一四九七号)  同(不破哲三紹介)(第一四九八号)  同(藤田スミ紹介)(第一四九九号)  同(松本善明紹介)(第一五〇〇号)  国民健康保険制度抜本改革に関する請願(小  野晋也君紹介)(第一三六〇号)  同(尾身幸次紹介)(第一三六一号)  同(加藤卓二紹介)(第一三六二号)  同(仲村正治紹介)(第一三六三号)  同(小川元紹介)(第一三九七号)  同(小野晋也君紹介)(第一三九八号)  同(尾身幸次紹介)(第一三九九号)  同(河村建夫紹介)(第一四〇〇号)  同(斉藤斗志二君紹介)(第一四〇一号)  同(鈴木宗男紹介)(第一四〇二号)  同(仲村正治紹介)(第一四〇三号)  同(小野晋也君紹介)(第一四三六号)  同(中川昭一紹介)(第一四三七号)  同(仲村正治紹介)(第一四三八号)  同(三ッ林弥太郎紹介)(第一四三九号)  同(小野晋也君紹介)(第一五〇一号)  同(中川昭一紹介)(第一五〇二号)  医療等改善に関する請願小里貞利紹介)  (第一三六四号)  同(河野太郎紹介)(第一三六五号)  同(鈴木恒夫紹介)(第一三六六号)  同(田中和徳紹介)(第一三六七号)  同(二階俊博紹介)(第一三六八号)  同(野田実紹介)(第一三六九号)  同(福永信彦紹介)(第一三七〇号)  同(松下忠洋紹介)(第一三七一号)  同(飯島忠義紹介)(第一四〇四号)  同(小川元紹介)(第一四〇五号)  同(小里貞利紹介)(第一四〇六号)  同(大野功統紹介)(第一四〇七号)  同(岸本光造紹介)(第一四〇八号)  同(河野太郎紹介)(第一四〇九号)  同(佐藤剛男紹介)(第一四一〇号)  同(鈴木恒夫紹介)(第一四一一号)  同(二階俊博紹介)(第一四一二号)  同(野田実紹介)(第一四一三号)  同(武藤嘉文紹介)(第一四一四号)  同(甘利明紹介)(第一四四〇号)  同(飯島忠義紹介)(第一四四一号)  同(北脇保之紹介)(第一四四二号)  同(佐藤剛男紹介)(第一四四三号)  同(前島秀行紹介)(第一四四四号)  同(飯島忠義紹介)(第一五〇三号)  同(栗原裕康紹介)(第一五〇四号)  同(佐藤剛男紹介)(第一五〇五号)  同(斉藤斗志二君紹介)(第一五〇六号)  同(中村喜四郎紹介)(第一五〇七号)  同(原健三郎紹介)(第一五〇八号)  同(保岡興治紹介)(第一五〇九号)  若中年層を含めた介護保険創設医療保険改革  の見直しに関する請願小林守紹介)(第一  三七二号)  同(石橋大吉紹介)(第一四四五号)  医療保険制度改悪反対公的介護保障確立に  関する請願瀬古由起子紹介)(第一三七三  号)  同(木島日出夫紹介)(第一四一五号)  子供の性的搾取・虐待をなくすための立法措置  に関する請願(辻元清美君紹介)(第一三七四  号)  同(瀬古由起子紹介)(第一五一一号)  同(藤木洋子紹介)(第一五一二号)  同(藤田スミ紹介)(第一五一三号)  同(山原健二郎紹介)(第一五一四号)  山西省残留犠牲者救済措置に関する請願(菅  原喜重郎紹介)(第一三九四号)  社会保障福祉充実改善に関する請願(不  破哲三紹介)(第一三九五号)  安心して受けられる医療保険制度の拡充に関す  る請願木島日出夫紹介)(第一四二八号)  保険によるよい病院マッサージに関する請願  (枝野幸男紹介)(第一四三四号)  同(土肥隆一紹介)(第一四三五号)  長時間夜勤・二交代制導入反対、よい看護に関  する請願池端清一紹介)(第一四四六号)  同(池端清一紹介)(第一五一〇号) は本委員会に付託された。     ――――――――――――― 本日の会議に付した案件  臓器移植に関する法律案中山太郎君外十三  名提出、第百三十九回国会衆法第一二号)      ――――◇―――――
  2. 町村信孝

    町村委員長 これより会議を開きます。  第百三十九回国会中山太郎君外十三名提出臓器移植に関する法律案を議題といたします。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。佐藤剛男君。
  3. 佐藤剛男

    佐藤(剛)委員 自由民主党佐藤剛男でございます。  最初に、委員長に対しまして感謝と敬意を表したいと思います。  本委員会の運営につきましては格別なる配慮をしていただきまして、厚生委員一人一人の意見に最低十五分与えていただき、そして、私ども自由民主党におきましては、さらに全部衆議院委員に声をかけまして、筆頭の津島雄二先生名前で、差しかえて議論をしたい人という人にも声をかけたわけでございます。事が非常に重要な問題でございますので、そういう慎重なる議事進行をしていただきました委員長に対しまして敬意を表する次第でございます。今後とも、よろしくその線でお願いいたしたいと思います。  そして今般、三十一日付で当国会の方に中山先生への対案ということで、議員立法で、どういう名前をつけたらいいかわかりませんが、まだここにありませんが、お聞きすると金田誠一案とでも申し上げましょうか、何と言いましょうか、脳死状態の人を死体規定しない臓器移植に関する法律案とでも申しますか、ちょっと同じ名前のようでございますので、そのような使い方でこれから私に与えられた時間で御質問をさせていただきます。  そして私の立場は、私はこれで二回立っているわけでありますが、前回に申し上げましたが、脳死を死とするかどうかのこの議論は、西欧流に言いますと神学論争とよく言うんです。これがずっと続いたわけであります。神学論争になる性格のものでございます。なぜそうなのかといいますと、心臓について言えば生体間移植というのが不可能なわけでありまして、これは、鼓動がある心臓移植するということになりますから、どうしても死とは何ぞやという話が出る。これを脳死と言う。そうすると、対案の方の、金田案の方の脳死状態の人を死体規定しないということの部門は、それを、脳死状態を人の死と規定しないという考え方で、いわば、死とは何ぞやという議論に入らないでやっているわけでございます。  しかしどうあれ、私は前回申し上げましたが、両方の案が、仮にその金田案が出ましても私は納得できないのであります。それは何なのかと言うと、現在の――臓器には幾つもあります。角膜もあるし、腎臓もありますし、皮膚もありますし、広く言えば輸血まで、臓器ではないけれども、そういう人のものをあれしているような話です。ですから、ピンからキリ、そんなことを言うとあれですけれども、非常に違いがある。我々はやはりその違いを、まず心臓の場合と、プラス、常に死との問題が出てくるわけですから、そういうふうな観点で考えなければいけない。  それで、仮に脳死を死と容認しても、今の日本の、こう言っては何ですが、医療体制を眺めますと、全国病院、私なりに私も勉強させていただいておりますが、心臓というこの鼓動をするものを移植するには十分な体制がない。これは私は率直に申し上げるわけでございます。  千秋思いで待っている患者の人の気持ちを知ってくれ、こう提案者方々はおっしゃられる、あるいは臓器移植推進者方々はそうおっしゃられる。しかし、今の体制で、そう言いますと悪いかもしれませんが、もし功名心を持って、あるいは学閥の枠内において、失礼な点はお許しいただきたいと思いますが、そういう点で、これが全国数が限られるにしましても、何カ所において行われるという体制にはないと思う。千秋思いで待っている人を翌日殺してはいかぬ、一週間後に殺してはいかぬ、一カ月後に殺してはいかぬのです。  これにはきちんとした体制を整備する必要があるわけでありまして、私は前回に、その意味におきまして、本来私はこの十年間、神学論争をしないで、国が中心になり、民間拠出するなりして、どっちみち国民健康保険の対象にしたら五、六千万かかる話なんですから、こういうものについて支援をする財団をつくる。そして、国が、総合的スタッフ看護婦スタッフもそうですし、それから、心臓については心臓外科心臓内科、それから、手術をすれば当該病院において他の手術ができないと言われるぐらいの話でございますから、そういうことで、宗教家も入れた総合スタッフ、そういうふうなものを全国一つまず最初につくる。そして、国際的な、外国にはそういう腕を持っている人がいるわけですから、アメリカから呼んで、あるいは、前回にも申し上げましたが、私の知人は肝臓でオーストラリアに行って治ってきました。ですから、そういう人をお呼びして手ほどきを受けて、そしてスタートをする。  それをしないと、ドナーが不足しちゃって、現実に今アメリカで起きております、百五十七もの病院がスタートして、そして、年間六十というと一カ月五つの例、こういうものをやっている病院というのが非常に少なくなっている。四万、五万人の人が待っていてドナーが二千人だというのが、私の知る限りそのような状況になっておる。日本がもし中途半端でスタートしますと、私は、医学失敗すると思いますよ。  その意味において、私は、将来における日本臓器移植発展も願い、その神学論争も避ける、それから、臓器について、待っている人の気持ちも解し、そういうものを考えるには、どうしてもこの中山先生の案も、また、出てまいります金田先生の案も共通して欠けている部分があります。  その意味におきまして、委員長、私の考え方をこの機会に皆さん方に明確にするために紙を一枚用意いたしております。これを「修正意見」ということで配らせていただきたいのでありますが、お許しいただけないでしょうか。
  4. 町村信孝

    町村委員長 はい、結構です。どうぞ配ってください。
  5. 佐藤剛男

    佐藤(剛)委員 それでは、今委員部の方がお配りいたしているわけでございますので、それをごらんになっていただきますれば私の考え方がわかると思います。  これはどういう考え方かといいますと、中山案で、附則の第一条というのが「施行期日」としてございます。それから、私が手に入れております昨日国会提出いたしました金田案というのも、この附則に関する限りは同じであります。つまり、「この法律は、公布の日から起算して三月を経過した日から施行する。」となっているわけであります。私の考え方を法文化いたしますと、修正意見という形でとっていただきたいと思いますが、これは中山案、それから出てくる金田案方々に私は質問をいたすのですが、こういう考え方というのがとれないのかどうなのかということについて御質問いたします。私の案は、附則第一条に次のただし書きを加えるという考え方であります。  本文はこれでいいんです。「この法律は、公布の日から起算して三月を経過した日から施行する。ただし、臓器のうち」これは臓器というのは定義しておりますから説明する必要はないと思いますが、「臓器のうち心臓その他の政令で定める内臓についての施行の日は、別に法律で定める。」という形態といたします。この法律で定めるのか政令にするのかという考え方はあるかと思いますが、私は、次の附則第二条に関係する、全国でまず一カ所でスタートする、成功したらふやす、そういうふうなことで、全国心臓移植センター設置状況を見て、そしてこれについての施行を定めるという観点でございます。  それで、第二条が、これは両案について同じ考え方、一項から三項までございます。検討条項でございます。私の考え方は、この第二条の一項、二項、三項を一項ずつずらしまして、繰り下げちゃいまして、そして、第一項に次のような一項を加えるわけでございます。読ませていただきますと、「政府は、国際移植センター設置その他の必要な措置を講じることにより、前条ただし書き政令で定める内臓移植が迅速、かつ、円滑に実施されるように努めなければならない。」という規定でございます。  これはちょっとわかりにくいかもしれませんが、私は「国際移植センター」という言葉を使わせていただきました。これは前回のときに、私は、虎の門病院の千ベッド増設に私が携わった経験を言いまして、あのとき、インターナショナル・メディカルセンターというのをつくりたいということで、外国の優秀な人を呼ぶ、そして東南アジアならアジアの発展途上国で、将来、そういう臓器移植に入りたいという人も繰り込む、それについてはODAの予算を出す、そういう形を使って、その国際移植センター一つ、どこでもいいですが、新設するのが望ましいのであります。  そういうあらゆる能力が全国一で、そして学閥を超えて優秀な人が来、その国際的な人たちが来、その手ほどきを受け、そして発展途上国人たちをお招きし、また教えていただくケースもあるかもしれない、それでお帰りいただく、そういう形をやっていく。むしろ世界の中において、国際移植日本に行けば助かるんだというのが、私はこれから日本一つの歩む道であると思っているわけであります。  今東南アジアに行って、その東南アジア人たちが裸になって、腎臓、これ日本にとられたと言っているのを見ると、そういうことを私も見ましたが、非常に情けないわけでありまして、そういうことをやめていく必要がある。  しかし、日本現状においては、残念ながら、心臓については――肝臓、ここだと思います。それから、角膜とかなんとか、いわゆる死という段階で、今の社会通念では死んでからでも移植できるわけでありますから、それは構いません、腎臓についても構いません。ですから、生体間の移植ができない、生体というのは生きている体間の移植であります、こういうものについては別の措置をとらなければ体系としていけない。  ですから、全体としては本文として通しても、一定のものについてはただし書き書き方としては、本文ただし書き書き方があるのか、あるいは、心臓その他の政令で定めるものについては別に定め、それから他のものについては、これは公布の日から施行し、三カ月以内という書き方はありますが、私は、そういう形で、本文ただし書き規定というのをやらせていただきました。  それから、「国際移植センター設置」というのは、じゃ、これから新しいものを設置して、土地建物を建てて、そんな時間を待っていられるのかという話があるかもしれません。そこで、私は、既存のどこかの病院、これは例をとって悪いかもしれませんが、例えば東京女子医大なら女子医大の中のそういう施設があるならばそれを拡張したりして、そういうふうなものをやるということについてそれを排除するものではございません。既存施設の活用というものをやるというのが「その他の必要な措置」ということで、例示の意味で「その他」ではなくて「その他の」ということを入れさせていただいたわけであります。そういう形で、国もしっかりと推進する。  それから、これは五千万、六千万の金がかかる話ですから、そういう健康保険についての裏づけとする形で、やはり心臓外科財団法人みたいな形態で、民間拠出を集めるとかいう形で補助でもしないと、健康保険はもたないと私は思います。その意味におきまして、そういうようなものを、単なる国だけの機関の問題じゃなくて、民間拠出を受けるというような仕組みも必要であるというのを「その他の必要な措置」というようなことに含めさせていただいているわけであります。  以上が私の論点でございまして、まず、もう一度繰り返しますと、神学論争は避ける。そして、そのかわり、臓器の中において、これは、心臓角膜とは違う。そして、心臓についてはそのような体制。例えば、心臓をやりましてから感染にならないようにする、それから、何するというような体制。数時間かかる、若い人たちを集める、これはそういう大変なるエネルギーを必要とする手術でございますから、そういうふうな体系をとるということを前提といたしまして、私は修正意見を申し上げさせていただいたわけであります。  ついては、これについて、まず中山先生から、まことに申しわけないのですが、中山案でございますので、中山先生、自見先生提出者のお一人お一人に、できれば私は御意見をお聞きいたしたいと思っているわけであります。
  6. 中山太郎

    中山(太)議員 佐藤委員から修正意見を御提案いただいております。  私は、施行日、とにかく心臓移植についての施行日を別途法律で定めるという御意見だと理解をいたしておりますが、この扱いにつきましては、私は、原案について修正の御意見が出たわけでございますから、委員長中心理事会等原案に対する扱い方、これを御協議いただいた結果に従いたいと考えております。  なお、国際移植センター設置のお話が出てまいりました。  日本移植関係学会が、いろいろと、心臓及び肝臓移植等機関最初指定いたしましたが、現在の段階で絞り込んで心臓四カ所、肝臓六カ所になっておりますけれども、私は、国際移植センターという先生の御提案については大変な御見識だと思います。  ただ、国際移植センターをつくるということになりますと、新しく施設をつくらなきゃならないという問題が、数年間の日数を要する。そこで、どこかが、例えば国立循環器病センターとか、あるいはどこかの大学を特定して、附属機関として国際移植センターをつくるというような構想ではなかろうかと思いますけれども、現在、移植を実施できる機関に指定された病院等においては、海外移植手術を実際に経験してきたドクターが相当配備されておるというのが現状だと思います。  そういう意味から機関指定をしているのでありまして、もしここでこの法律案が成立をいたしまして移植が行われるということになりましても、その間、指定されたところに患者が移送されてくるということは当然起こり得ると思います。  先生も御存じのように、海外へ行って移植を待っている日本患者さん方も、その病院の周辺のところで待機しているというような状態でございますから、肝臓の場合はまだ時間がございますけれども、心臓というような場合には非常に重篤な患者でございますので、相当施設のあるところに移送しなければならない。こういった問題も含めて、今後、これをどういうふうに成功裏に行えるようにするかということは、厚生省中心関係当局が真剣に協議しなければならない問題だと考えております。  なお、外国人の移植を待つ患者たちが日本移植を求めた場合ということも、当然これは国際慣行上あり得るわけでございますので、それらにどう対応するかということも日本の国家としては十分考える必要があろうかと考えております。
  7. 自見庄三郎

    ○自見議員 佐藤委員の先般の質問でも、通産省の課長補佐の時代に虎の門病院を千床にしたという、なおかつ国際センターにしたいという大変意気と情熱を持っておられるということに感銘したわけでございます。また、先般からの御提案でございますが、政府国際移植センターをつくるべきだ、この法律がもし施行されたにしても、それまでは施行をストップすべきだ。これはひとえに、佐藤先生が、日本臓器移植が大変世界でおくれている、ですから第一例、あるいは、当然人の命のことでございますから、国際移植センターをつくって、そしてまず確実にやる客観的条件をつくるべきだ、こういう私は本当に前向きな御提案だと思います。私は、将来的にはこれは大変立派な構想であるというふうに思うわけでございます。  現在、先般も私は答弁をさせていただきましたが、今、中山会長からもお話がありましたように、先生、先般のときも質問の中に入れられたわけでございますが、移植関係学会合同委員会で、これは御存じのように、移植外科医関連診療科の人的資源といたしまして、クライテリアをつくっております。  その中に、例えば、心臓に関しましては、心臓手術経験が年間百例以上あること。VAD、大変難しい手術でございますが、これの臨床使用経験があること。あるいは、肝臓については十例以上。それから心臓肝臓に関しては研究歴五年以上、あるいは研究発表が二十編以上。それから、当該病院で大動物で組織的に行っていること。ちょっと細かいことを申して恐縮でございますが、それから内科医でも、内科の専門医、認定医であること。それから、この前先生からも御指摘がございました、麻酔医あるいは感染症に関する専門家、免疫に関する専門家、拒絶反応がございますから。  そういったことをきちっと、先生、先般もそういうクライテリアを御存じで御質問があったと思うわけでございますが、その辺を学会の方で厳選をして、今、中山会長からもお話がございましたように、合同委員会では、心臓では全国八カ所、移植学会では全国四カ所、肝臓では、合同委員会では十カ所、それから移植学会では六カ所、こういった認定を今させていただいておるわけでございますから、これは第一例でございますから、非常に慎重にやらねばならない。  なおかつ、脳死臨調でも、どこでも医療機関がするということではなくて、やはり特に、学会の方でも、当面の移植実施については、特定された移植施設のうち特に代表的施設において行うことが望ましいという点で一致をいたしておるわけでございますから、やはりそういったことを含めて、先生提案国際移植センターをつくろうということは大変趣旨はよくわかるわけでございますが、それができ上がるまで移植の実施をストップをするというのは、私から申すまでもなく、移植を待っておられる方がおられる。なおかつ日本に、今言いましたように数カ所、実際にそういった能力のある医療機関があるわけでございますから、ひとつその点も御理解をしていただければ、こう思うわけでございます。  特に、今、中山会長からもお話がございましたように、実は、前回も申し上げましたように、藤堂さんという、今は北海道大学の教授になりましたが、ピッツバーグ大学の心臓外科の教授でございまして、日本人でございますが、もう千例以上の肝臓移植手術をやっております。経験を持っております。また、私の知る限り、九大の、もし移植ができるようになれば、スタッフでございますが、彼もアメリカに行って実際に六十例以上の臓器移植の経験があるわけでございますし、また、この前、桝屋委員の方から、ドイツに行って移植の第一人者に会ったら、実際、手術している医者は日本の外科医だったという話があったわけでございます。私は、そういった意味でも、日本国では今、移植手術は行われておりませんが、やはりそういった医者としての能力、あるいは今さっきからずっと言いましたスタッフとしての能力、あるいは看護体制等々も、これは大変大事でございますが、チーム医療としてやはり今言ったように数カ所、しっかり十分にやっていけるというふうに我々は思うわけでございますから、先生のお考えもまた体して、今、既に移植を待っておられる方はたくさんおられるわけでございますから、その点を御理解いただければと思うわけでございます。  しかし、将来的には、もうこれは先生国際移植センターをつくろうということは大変いい御提案でございまして、今会長からもお話がございましたように、当然そういった方向に我々としても努力をしていくことが必要ではないかな、こういうふうに思っております。
  8. 佐藤剛男

    佐藤(剛)委員 ありがとうございました。  委員長、ここにいまだ法案提出はされていないのですが、基本的な考え方は、近々にここに配付される、今印刷の関係で本日ここのテーブルにのらないわけですが、先ほど申し上げました金田案ですね。それで、今その中のお一人でございます山本委員もおられるわけでございますし、また枝野委員もおられるわけでございますので、ひとつそれについて山本委員考え方については共通でございますから、その施行について、心臓と何かを分けた形のものについての質問は一それはここではできないということで、それではやめます。  それでは、残る時間につきまして、先ほど皆さんにと申し上げたのですが、私はもう一回繰り返させていただきます。先ほど自見委員から数カ所のお話がございました。そして、それぞれ外国において経験を積んでおるというお話がありました。私は、ちょっとそこについて見解が根本的に違うのです。  まず一カ所を、先ほど中山議員からもおっしゃられましたが、仮に、例えばどこかの既存病院に集中的に、九州の先生もあるいは東北の先生、あらゆる先生が集まって、そしてそういう看護体制をつくり、感染防止体制あるいは体の拒否だとか、そういう体制ですね。そういうことができ上がって、やはり例としまして年間六十から百の例というのを積んでくる、ラーニングカーブというのはそういうものだろうと思うのです。そういうものができ上がってから、それを二つにする、三つにする、四つにする、八つにする、それはいいのです。私は異存はないのですが、初めから八つという話とか十とか、十とはおっしゃられませんでしたけれども、そういうふうにではなくて逆にいく話ではないでしょうか。一つに絞って、そこからスタートをして、そしてラーニングカーブで、基本的に成功とすることが、経験を積むことが成功に出るわけです。それを積むという地道なことをやらないと、アメリカにおいて私は、一カ月に五例といいますと六十、それ以上やらないとラーニングカーブが上がらないということを聞いているわけでございます。  ですから、学習効果を高めるためには、そういう意味において、私は一カ所から始めて慎重にやっていくということが必要だということを申し上げさせていただきます。それについて、もう時間が私はなくなりましたので、時間の限りにおきまして中山先生それから自見先生、今私が申し上げている、結局どちらからくるかということでございます。お願いしたいと思います。
  9. 中山太郎

    中山(太)議員 現在医学界では、心臓移植をしなければ生きられないという患者数は年間対象例数として五百例から六百例ぐらいの方がおられるだろうと予測をされております。先生も御案内のように、臓器の提供がございまして、臓器の摘出を行ってから移植をする病院まで運ぶ、そして移植を行った後、血流を開始するといった間の時間帯というものはマキシマム四時間でありますから、おのずから距離的な制限が付されておりまして、その場合にどういうふうに対応するのか、私はそこらが一番問題点だと思います。一カ所という先生の御指摘でありますけれども、東西で二カ所ぐらいに最初絞っていくということが一つの案ではないかと思います。  しかし、大体ブロックでネットワークをつくっておりますから、どういうふうな対応をしたらいいのか。患者が現在いる病院と、移植の指定をした地域の機関との間の患者の移送の問題とか、いろいろとこれにまつわる、処理しなければならない問題が多く出てまいろうと思います。その点は法案の審議の過程及び法案がどういう結果になりますか、その採決の結果を見ましても十分検討し、さらに参議院の審議におきましても時間がございますので、そういう場合に十分検討して詰めていくべきだと思っております。
  10. 自見庄三郎

    ○自見議員 中山議員の申されたとおりでございますが、もう先生御存じのように、臓器移植臓器を摘出してから心臓の場合四時間、肝臓の場合十二時間の間に血行を再開しなければいけないというふうな基本的な現実があるわけでございます。今申し上げましたように、私は前回答弁をさせていただいたように、非常に高度の医療機関でなければ大変厳しいこのクライテリアを満たさないわけでございます。もし法律施行されれば、やはり全国民ひとしく移植医療を受ける権利と申しますか、そういったこともあるわけでございますから、やはり全国で四カ所程度、あるいは先生は一カ所だという話でございますが、日本は北から南まで広いわけでございますから、やはりそういったことも勘案して、数カ所は必要ではないかなというふうに思っております。  先生国際移植センターをつくれという基本的な考えについては私も大賛成でございますが、それ以前にぜひ法律施行をお認めいただきたい、こういうことでございます。
  11. 佐藤剛男

    佐藤(剛)委員 ありがとうございました。時間でございますので、これをもちまして終わらせていただきます。
  12. 町村信孝

  13. 河野太郎

    河野(太)委員 河野太郎でございます。  連日の御審議、御苦労さまでございます。本日は、心臓移植に関して幾つか御質問をさせていただきたいと思います。  今こうした臓器移植の法案が国会に上程されましたことによって、この法律さえ通って臓器移植ができれば、心臓移植さえ始まれば、そういう雰囲気、そういう淡い期待が出てきたような気もいたしますが、本当に心臓移植が万能なのかという問題があると思います。  これは私のうろ覚えといいますか、あれでございますから、間違っていたら訂正をしていただきたいと思うのですが、サイクロスポリン、それからプレドニゾロン、それからアザチオプリン、この三者を免疫抑制剤として使って心臓移植を行った場合の患者の一年目の生存率が八五%、それから五年目の生存率が約七五%だというふうに伺っております。ところが、心臓移植の一番の対象となります心筋症の生存率を見てみますと、拡張型の心筋症と言われているものは五年間で生存率が五四%、十年目の生存率が三六%と大変低いわけですから、こうしたものについては心臓移植が確かに有効だと思いますが、肥大型と言われている心筋症は五年生存率で九〇%以上、十年生存率で約八〇%でございますから、同じ心筋症でも心臓移植を受けた方がいいのかどうか、そういう問題があるのではないかと思います。  それから、サイクロスポリンが開発されたことによって生存率が確かに高まったと言われておりますが、このサイクロスポリンによる副作用で、例えば単クローン性悪性Bリンパ細胞腫というような、三カ月の生存率が二割程度しかないという大変予後の不良のものも副作用として起こっているということもございます。  そうすると、もとの心筋症ではなくて心臓移植を受けたがゆえに命を落とす、そういうこともあり得るのではないかと思います。それからまた、心臓移植を受けた後、免疫抑制剤をずっと飲み続けなければいけないということになりますと、患者の生活水準と申しますか、クオリティー・オブ・ライフの問題も出てくると思います。  そうすると、心臓移植を受けた方がいいのか、あるいは、心臓移植あるいは広く臓器移植を受けない方がいいのかという問題が出てくると思います。そうしますと、一つ臓器移植の効果があるかどうかということもございますし、それから臓器の提供者の数が非常に限られてくるだろうと予測されると思うのですが、そういう二つの制約がある中で、この患者さんは臓器移植が適しているのかどうかという判断を、どこかで基準をつくって行わなければいけないと思います。  この臓器移植法律が通りまして臓器移植にゴーサインが出た場合に、臓器移植の対象者といいますか、臓器移植の適応基準というものはだれがどのように決めることになるのでしょうか。まずお伺いさせていただきたいと思います。
  14. 中山太郎

    中山(太)議員 どのような患者移植を受ける条件を満たしているかということであろうと思います。  これは、内科系及び外科系の関係学会の認定医が協議の上でその手術を受けるかどうかということを決定するということでございますが、あくまでも患者及び患者の家族の意思が優先するものだと私は思います。  自分が移植を受けたい、あるいは移植を受けてもらいたいという、家族がそのような希望を持っているということは大きな条件の一つであろうと思います。しかも、それを受ける状態、病状というのは、不治の末期状態に近い、つまり移植をしないと生きられないという症状の患者が選ばれるわけでございますから、そこのところは、患者本人及び家族の意思というもの、それから外科系、内科系の認定医の判断、そこにいわゆるインフォームド・コンセントの重要性というものが存在している。移植を受けても、後に、今先生御指摘のように免疫抑制剤を飲み続けなければなりませんから、術後の自分の生活を管理するということも大変なことでございますので、その点は、受ける前の患者本人及び御家族の決断というものが重要な決定事項の一つであろうと思います。
  15. 河野太郎

    河野(太)委員 その場その場と言うとちょっと変な表現になりますが、その患者ごと、あるいはその病院ごと、その施設ごとに受けるかどうかを決めるということであると、公平性の面からいってやや問題が出てくるのではないかと思います。  例えば、一九九三年の三月に移植関係学会合同委員会が適応基準というものをつくっておりますが、そうしたものを取り上げて、日本ではこの基準でいくのだというような全国共通のルールをつくることはできないのでしょうか。
  16. 中山太郎

    中山(太)議員 全国共通のいわゆる基準を設定する、それは日本臓器移植ネットワーク準備委員会においてそのような検討が行われてまいっておりますが、基準としては、私は全国統一であるべきだと考えております。
  17. 河野太郎

    河野(太)委員 私も、全国共通の基準をぜひつくっていただきたいと思いますが、この適応基準というものは、医師が心臓移植という療法をとるかあるいはそうでない療法をとるかという、医学的なお医者さんの判断だと思います。そうしますと、仮に全国共通の基準だというものができたときに、まさかこれを、先日の脳死の判定基準のように、厚生省が出てきて、省令にする、そんなことはないと思いますが、その確認をさせていただきたいと思います。
  18. 中山太郎

    中山(太)議員 それぞれ移植に携わる専門医は、それぞれの学会、研究会に所属をいたしております。全国統一の基準が決定されればそれに従って行われる、それが当然であろうと思います。
  19. 河野太郎

    河野(太)委員 厚生省の方も、適応基準が行政によって省令としてあるいは政令として定められるものではないことを御確認いただきたいと思います。
  20. 貝谷伸

    ○貝谷説明員 お答え申し上げます。  今先生お話しの適応基準の問題につきましては、既に先生御案内のとおり、関係の合同委員会において、いわばアカデミズムの世界において確立され、議論されてきているものというふうに私ども承知をしておりまして、今先生御案内のようにこれを省令など行政的な手法で定めるということは私ども考えていないというふうに承知をしております。
  21. 河野太郎

    河野(太)委員 こうした統一基準が確立されてつくられた、そう仮定をいたしまして、それがもしどなたかによって守られなかった場合に、処分、処罰といいますか、罰則みたいなものはどのようになされることになるのでしょうか。
  22. 中山太郎

    中山(太)議員 私の認識しております範囲では、移植を判定する医師は、一人で行うものではないと考えております。数名の医師が判断をするということで、チーム医療でございますから、そのチーム全体が狂っているということはあってはならないことであります。  処罰の件につきましては、これは法律上の問題と倫理上の問題、二つ存在していると思います。それを犯した場合、違反した場合のルール等につきましては、今後検討すべき課題であろうと考えております。
  23. 河野太郎

    河野(太)委員 ルールがつくられた後、それにまつわる倫理的な問題についてどうすべきかということが、広く移植に関係をする医師の間で自律的にそうしたルールがつくられることを、私はぜひ望むものでございます。  そのルールの話に少し入りたいと思うのですが、一九九三年三月の移植関係学会合同委員会の適応基準というものを見てみますと、「年齢」という項目がございまして、「六十歳未満が望ましい」ということが書かれております。例えば、アメリカのスタンフォード大学で設定された基準を見てみますと、必要条件の第一に、「不治の末期的状態にある心疾患患者で六カ月生存の可能性が一〇%以下」、第二に、「患者の年齢は五十歳以下」というふうになっておると私は認識をしております。  ここで、例えば共通ルールの中で年齢というものが入るべきなのかどうか、そして、仮に年齢というものが項目として上がったときに、六十歳以下は、「六十歳以下に限る」という書き方になるのか、あるいは「六十歳以下の方が望ましい」という多少含みを持った書き方になるべきなのか。これは回答があるとは思いませんが、提案者側の御意見を少しお伺いをさせていただきたいと思います。
  24. 中山太郎

    中山(太)議員 六十歳未満ということで、移植学会の場合は決めております。
  25. 河野太郎

    河野(太)委員 そうすると、この移植学会の九三年三月の書類を見ますと、「六十歳未満が望ましい」となっておりますが、新しくできるルールとしては、六十歳に達した者は移植以外の道を選ぶ、そういうことになると了解をしてよろしゅうございますでしょうか。
  26. 中山太郎

    中山(太)議員 基本的には先生の御指摘のとおりだと思います。
  27. 河野太郎

    河野(太)委員 スタンフォード大学あるいはマサチューセッツ総合病院その他、諸外国のいろいろな適応基準を見ておりますと、その中にあってこの移植学会の適応基準にないものが幾つかあるように思います。  一つは、諸外国におきましては、人工補助心臓をつけた者を優先するという例が書かれているものがございます。それからもう一つは、集中治療室で現在治療中の者が優先されるという項目もあったように思いますが、日本では、この二ケースの場合、どう扱われるのでしょうか。
  28. 貝谷伸

    ○貝谷説明員 今の御質問は、レシピエントの選択に当たってどういう基準で患者さんが選ばれていくのかというような御質問かというように承知しております。  私ども、心臓移植レシピエントの選択の基準につきましては、日本臓器移植ネットワーク準備委員会におきまして既に議論されてきております。  この中で優先順位を決める基準が幾つかございますが、基本的にはまず虚血許容時間を最優先で考えるということになっておりまして、ドナー心臓を摘出してから四時間以内に行われることを第一とするということでございます。  さらに、その次の段階として医学的緊急度を考慮するということでございまして、今先生お話しになりました補助人工心臓をつけているケース等、非常に重度なケースについて順番に優先順位をつけていくという考え方が既に決められているところでございます。
  29. 河野太郎

    河野(太)委員 失礼しました。適応基準と選択の基準と、どうも多少私が混同していたようなところがあるようでございます。申しわけございません。  適応基準の中の人間の中で今の選択基準で優先順位はっけられる、そういうふうに了解をさせていただきたいと思いますが、それでよろしいでしょうか。
  30. 貝谷伸

    ○貝谷説明員 そういうことでございます。
  31. 河野太郎

    河野(太)委員 はっきりわかりました。ありがとうございます。  先ほど、中山先生の方から、年間で心臓移植の適応患者が大体五百人から六百人というふうに数字が具体的に挙がりましたが、それでは、提供される心臓というものは、大体この法律施行されて幾つぐらいになるものでしょうか。なかなか難しいとは思いますが、五百の患者に対して五百提供されるのか、あるいは半分なのか、それともまだまだ数がかなり少ないのか、そのあたりを少し教えていただきたいと思います。
  32. 中山太郎

    中山(太)議員 なかなかドナーの数を予測することは現段階では難しいと思います。つまり、本人の御生存中の意思が明確に文書で残されていて、しかも遺族が反対しないときという極めて厳しい枠をはめてございますから、どれだけの方がドナーとして臓器を提供していただけるか、また、特に心臓の場合は心臓の大きさ、その移植を待っている患者のいわゆるサイズの問題が出てまいりますし、例えば自動車事故の場合に、衝突して内臓破裂なんかを起こした場合の臓器そのものの損傷度もございますので、今から幾らということは、私は想像することは難しいと思います。
  33. 河野太郎

    河野(太)委員 人数が少しわからないということでございますが、少し心臓移植にかかる費用についてお尋ねをしたいと思います。  本当ならば、一人当たり幾らで大体何例ぐらいということになるのかと思いますが、人数の方がわかりませんので多少中途半端になってしまうかと思いますが、かつて茨城県で行われました救急医学会というところで示されました、心臓移植手術費用というものがございます。これを見てみますと、手術費用が大体二百五十万、それも含め一年間にかかる費用が、経過が順調な場合で約九百万、拒絶反応、肺炎を起こした場合に約一千二百万というような数字が挙げられておりますが、これは一九八〇年代の数字だったと思います。  最近もしそうした試算がどこかで行われておりましたら、大体手術費用が幾らぐらいになるものか、お教えいただきたいと思います。
  34. 中山太郎

    中山(太)議員 日本胸部外科学会の臓器移植問題特別委員会の試算が出されておりますが、それによりますと、手術費用を含めて、移植初年度に約九百万円、拒絶反応等が発生した場合のケースにつきましては一千万から千二百万ぐらいのコストが必要であろうと考えております。
  35. 河野太郎

    河野(太)委員 そうしますと、先般、報道で、海外移植を受けるのに七千万とか一億とかいう数字があったように思うのですが、それに比べるとはるかに安い、安い金額で済むというのが何か変な言い方かもしれませんけれども、ということだと思いますが、それに関する、例えば健康保険でどこまでカバーをする、あるいは、そうした患者が公的な費用負担の対象になっているのかどうか、そのあたりのことをお教えいただきたいと思います。
  36. 中山太郎

    中山(太)議員 この心臓移植のコストについて、もし法律が成立してこの移植が行われる場合に、保険適用が現在決められておりません。  そういうことで、私どもが非常に心配しておりますのは、最低一千万近いコストがかかるわけでございますから、保険適用がない方、この患者さん方の御家族のことを考えますと、いつまでも浄財を集めてやるという形ではなしに、やはり、この健康保険の診療対象にするべく中央社会保険医療協議会にこれを諮るべきだ、私はそのように考えております。
  37. 河野太郎

    河野(太)委員 日本と諸外国を比べた場合に、例えばがんを例にとってみますと、がんの治療の場合、諸外国の方は、これは全く私の主観的なあれでございますので、そうでないとおっしゃるかもしれませんが、諸外国の場合は患者さんの生活水準をどう維持していくかというところにだんだん重点が移ってきたように思います。それに比べますと、私の家族の経験から申しますと、日本の治療というのは、どこまで生活水準を考え、どこまで存命治療なのか、そのあたりの重きの置き方が、諸外国と比べると、まだまだ生活水準よりも存命治療というような方に流れているのではないかと思います。  こうした心臓移植を、あるいは肝臓を含めた臓器移植をやる場合に、存命治療に重きを置くのではなく、その後のことも考えて、患者の生活水準をどう保っていくのかという観点から、少し検討を、これは医師会、諸学会になると思うのですが、ぜひお願いをしたいと思います。この法律にあります施行後の見直しに当たっては、その辺の観点からもぜひ検討を加えていただきたいと思いますが、いかがでしょうか。
  38. 中山太郎

    中山(太)議員 今先生から御指摘の、後の生活の維持をどうするかという問題が一番大きな問題。例えば、人工透析をやっておられる方が、ちょうど今から十年前は日本で約八万人でした。それが今日は十五万を超えております。それで、この方は、一週間に二回なら二回透析をしないと死ぬまで健康は維持できない、生活上、大変な苦痛があるわけです。  この方々のコストが、大体通院の場合に年間五百五十万円、入院の場合六百万以上かかるわけでございますから、これが年間、毎年一万人ずつふえているというこの日本の社会の現象を見るときに、この心臓移植もさることながら、医療の経済面における効果というものをやはり考えておかなければならない。  実は、私がこの問題を扱い出したころは八万人でした。それで、六百万と計算しますと四千八百億円、年間医療費が要るわけです。十五万を突破いたしますと、約九千億円毎年固定的な経費が現在国民の負担になっているということも考えますと、この医療費の問題がやかましく言われる今日、実際に医療を受けておられる方々が生命を維持し続けて快適な人生を送っていただくためにどの方法が一番効率的であるかということも、あわせて国民の皆様方と一緒に考えていかなければならない大きな問題であろうと私は考えております。
  39. 河野太郎

    河野(太)委員 ありがとうございます。  ちょっと時間がありますかどうかわかりませんが、最近、双子あるいは三つ子が生まれる前に、胎児の段階で減数処置を行って、その脳組織を、どういうのでしょうか、ちょっと私も具体的に見たわけでもありませんので、脳組織をとっておいて、その胎児の脳を別な患者移植をすると脳が再生をする、脳は免疫抑制の必要が余りないというような、これは実際にケースとしてあったのか実験段階なのかちょっとわかりませんが、そういうことがどうもあるのではないかと言われているようでございます。これが現実でありますと、脳死の問題にも少しかかわりが出てくるのではないかと思います。  このあたりの事実について、もし何か御存じでしたらばよろしくお願いします。
  40. 中山太郎

    中山(太)議員 自民党の脳死及び臓器移植の調査会でアメリカに参りましたときに、アメリカ国会附属の技術評価事務局でこの議論が行われておりました。  つまり、胎児の細胞をいわゆる成人の脳疾患の患者移植するといった、症例としていえばパーキンソン氏病とかいろいろな病気があるようでございますが、その場合に適用するかどうかということについては、アメリカ国会の技術評価局が、これは人格に影響するのでやるべきでないという結論を下しておりました。日本でも当然のことであろうと思っております。
  41. 河野太郎

    河野(太)委員 このケースは適用されないということのようでございますが、こうした新しい技術というのがどんどんとやはり出てくるものだと思います。そうしますと、ここで決めた仕組みも、この法律が決める仕組みもそれに合わせて変わっていかなければ、今度は逆に医学の進歩を妨げることになるのではないかと思います。  再三申し上げて恐縮でございますが、この法律によりますと、脳死の判定基準を含めいろいろなことが厚生省令で決まることになっておりますが、この厚生省令が変更される仕組み、物事が変わったことによって厚生省令を変えていかなければいけないことになると思います。そうでなければならないと思いますが、厚生省令を一度制定して、それを環境の変化によって変えていく、その仕組みがどういうようなものになるのか、御説明をいただきたいと思います。
  42. 中山太郎

    中山(太)議員 やはり国会が国権の最高の機関でございますから、国会の意思によって厚生省令を変えることもできましょうし、省令を変えなければならないという所管官庁の厚生省からの要請があって省令を変える場合には、当然国会に報告する義務を付するべきであると私は考えております。
  43. 河野太郎

    河野(太)委員 ここで厚生省令で決められるものは非常に医学的なものになると思います。そうしますと、そうしたものを国会がイニシアチブをとって変えていくのはなかなか難しいのではないか。それからもう一つは、厚生省が、いやこれは変えなければいかぬということで変えるということですと、私は、どうしても時代の流れについていけないのではないかと思います。  どこか、医学界を中心にこの省令を常にモニターをするようなところがあって、そこが判断をすればある程度自動的に省令を変えていかなければいけない、そのような、行政が決めたことをある程度機動的に変化をさせていく仕組みが必要なのではないかと思います。そのあたりもぜひとも御検討をいただきたいと思います。
  44. 中山太郎

    中山(太)議員 国会にそのような専門的な分野に関する知見というものが不足しているといった場合には、当然専門医の集団である学会、あるいは日本学術会議第七部がございまして、これは医学関係でございますが、そういったような権威のある機関の専門家の意見というものによって国会も判断することが十分可能であろうと考えております。
  45. 河野太郎

    河野(太)委員 質疑時間が終了いたしましたのでこれにて終わらせていただきますが、繰り返しますが、私は、行政が関与するのではなく、あくまでも医師が自律的にこうしたことに対処できるようになることを強く望むものでございます。  どうもありがとうございました。
  46. 町村信孝

    町村委員長 滝実君。
  47. 滝実

    ○滝委員 自由民主党の滝実でございます。  質問をさせていただく時間を与えていただきまして、まことにありがとうございます。この問題につきましては、随分と長い間慎重な審議を重ねてこられたことでもございますので、重複することが多いとは存じますけれども、まず素朴なところから御質問をさせていただくことをお許しいただきたいと存じます。  私は、脳死に関しまして、これがいいとか悪いとか、そういうようなことを申し上げるつもりはございません。しかし、脳死ということになりますと、従来の死の判定と違いまして、なかなか肉親が納得することができかねる領域の問題だけに、難しさがあるように思います。したがって、本人あるいは肉親の者が脳死というものをどうやって納得していくか、そういうような観点からの配慮が望まれる、こういうふうに考えておりまして、そういう意味で、素朴なことを申し上げてまいりたいと思います。  まず、随分昔に起こった事件のようでございますけれども、重症の糖尿病患者が失神しているのを脳死として誤認して臓器を摘出した例があるのだ、したがって脳死は信用ならぬ、こういうようなことが言われるようでございますけれども、まず、この事件の概要について簡単にお聞かせをいただきたいと思います。そしてその上で、この例はいわゆる竹内基準で判定するとどういうことになるのか。その二点についてまずお伺いをさせていただきたいと存じます。
  48. 山口俊一

    ○山口(俊)議員 滝委員の御質問にお答えをさせていただきます。  委員御指摘のお話は、去る三月十九日の参議院予算委員会で橋本総理もお話しになっておられた件であろうと思うわけでありますが、委員も御指摘のとおり相当以前の話のようでございます。御承知のとおり、昭和四十二年に初めて南アフリカのバーナード博士によって心臓移植が行われました。恐らくそのころであろう、四十二、三年のころではなかろうかというふうな話を聞いております。  そのお話の件はバーナード博士が行った心臓移植の症例の一つでございまして、患者は糖尿病の持病を持っており、意識を失っておるのが発見をされた場合にはインシュリンの投与を求めるというふうなカードを持ったまま昏睡をした状態で、警察によって発見をされ、その後病院に運ばれて、心臓の提供者として昏睡のまま心臓を摘出をされた、そしてそのカードが後で発見をされたというふうな内容であると聞き及んでおります。  そしてお話の、竹内基準で判定をするとどうなるのかというふうなことでございますが、竹内基準におきましては、脳死の判定を行う前提条件として、「原疾患を明確にできなければ脳死の判定をしてはならない。」と、原疾患が確定をされている必要を挙げております。同時に、糖尿病性の昏睡などの代謝・内分泌障害による昏睡につきましては、脳死判定と類似をした状態になり得る症例として、脳死判定を行ってはならないと定めております。  いずれにしましても、竹内基準に沿って適正に判定が行われる限り、脳死に類似をした症状を示す患者が過って脳死を判定をされるというおそれはなく、今委員御指摘のお話につきましては、そもそも脳死判定の対象にすら該当しないというふうに考えております。
  49. 滝実

    ○滝委員 次に、脳死の判定という事態が起こりますのは、各地域にございます救命救急センター、ここに運ばれる患者さんについて行われる事例が多いと思うのであります。現在の救命救急センター、まあいろいろあろうかと思いますけれども、この救命救急センターで慌ただしい時間の中で脳死を判定する能力というものが一般的に備わっているのかどうか、その辺のところについてお聞かせをいただきたいと思うのです。
  50. 山口俊一

    ○山口(俊)議員 能力が備わっておるかというふうなお話でございますが、御承知のとおり、我が国におきましてはいわゆる竹内基準に従って行われるというふうなことになりますが、竹内基準におきましても、脳死の判定は脳死判定に十分な経験を持つ専門医あるいは学会認定医が二名以上で行うというふうなことになっておりまして、これにつきましても救急医学会やあるいは脳神経外科学会等の専門医制度や認定医制度を通じて養成が図られておると承知をいたしております。  そのようなことから、救命救急センター等におきましても脳死判定を行うのに必要な能力は整備をされておると判断をいたしております。
  51. 滝実

    ○滝委員 次に、脳死であることを肉親に納得させる方法についてお尋ねをさせていただきたいと思います。  最初に申し上げましたとおり、今までの心臓死でございますれば、医師が死亡の診断をいたしましても、肉親はそれを確かに死亡の診断だといって納得する機会が十分に与えられる。したがって、死亡の診断には誤診がない。こういうのが通常の事例だというふうに思いますけれども、今度の場合には、それを肉親が納得するだけのものが目に見えてこない、そういうような事態の中で判定が行われることになろうかと思います。  一般に、患者からすれば、あるいは肉親側からすれば、医療の中身は、いわばブラックボックスと言うと大変語弊がありますけれども、それは一般の、通常の人間が立ち入れない、そういうような世界で行われがちでございます。したがって、問題は、仮に竹内基準が世界一すばらしい基準でございましても、肉親としてはなかなか、よかったんだろうかとその場の判断もつきかねる事態でございますでしょうし、年月がたちましても、あのときどうだったかなということは常に意識として出てくるおそれが多分にあるわけでございます。  そこで、後に残された肉親にその脳死を納得させるようなそういう手法といいますか、そういうものについてぜひとも確立しておく必要があるのではなかろうか。  竹内基準では、いわば補助的な検査方法としていろいろなことをとるのが望ましい、こういうことを言っておられますし、その一つの例として脳波検査は義務づけるとかいろいろなことを言っておられますけれども、その辺の目に見えるようなプロセス、そういうものについてどうお考えになっているのか、お尋ねしておきたいと思います。
  52. 山口俊一

    ○山口(俊)議員 滝委員御指摘のとおり、やはりいわゆる脳死というものは非常に実感をしづらい、あるいは一般的にわかりにくい死であるというふうに言われておるわけでありまして、そうしたことから実は脳死臨調でも、お話のとおり、竹内基準というのは現在の医学水準から見る限り妥当なものであるというふうな結論に至っておりますが、同時に、竹内基準により医学的には脳死判定ができるということが認められるとしても、脳死判定に対する社会の安心感を強めるためには判定の結果をよりよく目に見えるようなものにする努力も必要であるというふうにしまして、必須とされた検査以外のいわゆる補助検査につきましても実施可能なものは判定に取り入れることが有意義であるというふうにしておるところでございます。  私どもといたしましても、竹内基準の必須検査によって十分脳死判定ができると考えておりますが、わかりやすい死の確認という観点から、補助検査のうち、例えば簡便で、侵襲性、つまり不必要な負担をかけないというふうにされております、かつ、普及をしてきております聴性脳幹誘発電位というものがございますが、これを実施をすることが望ましいのではないかというふうにも考えております。
  53. 滝実

    ○滝委員 基本的に、そんなようなことを考えますと、例えば今の補助的な検査方法、そういうものについても私は、この際それを必要的な検査ということで法律の条文でむしろ明定すべきじゃないだろうか。ただ単に、法律は六条二項、三項で挙げておりますように、脳死の基本的な定義をするとか、あるいは詳細は省令にゆだねるとかそういうことではなしに、やはり基本的なことは全部法律に書いておくというぐらいのことがございませんと、国民はなかなか納得しがたい点があるのではなかろうかと思うのでございますけれども、この法律の条文で書くということについていかにお考えになっているかをお尋ねしたいと存じます。
  54. 山口俊一

    ○山口(俊)議員 先ほども御答弁をいたしましたが、脳死の判定というのは、従来の三徴候による死の判定と比べまして大変実感をしにくいというふうな面があることも事実でございます。そうしたことから本法案では、そうした不安に配慮しつつ、脳死判定の確実さ、適正さを法的に担保をするために、脳死判定の基準を実は厚生省令において規定をするというふうなことにさせていただきました。  省令におきましては、必須検査の項目などの具体的な検査項目や判定者にかかわる事項につきまして、竹内基準に準拠しつつ定められるというふうなことになるわけでありますが、これらのいろいろな事項というのは、専門的、技術的事項であるというふうなことから、法律規定をすることは必ずしも適当ではないのじゃないかと考えておりまして、また、省令で規定をした方がかえって医学水準の向上に即応した判定方法となり得るのではないか。先ほど河野委員の御指摘にもそうした趣旨のことがございましたが、そうしたことで、ぎりぎりの判断として省令でというふうなことにさせていただいておるわけでございます。  ただ、委員御指摘のとおり、委員の御指摘の点も確かに意義があるものと考えておりますので、そうしたいわゆる補助的検査というのもできるだけ実施をすることが望ましいというふうに考えております。
  55. 滝実

    ○滝委員 今御指摘のとおり、法律で明定すべきかどうかにつきましては、先ほどの河野議員の見解と私は著しく異にいたすわけでございますけれども、問題は、今の医学の水準で竹内基準を変更するだけのものがあればともかくとして、それ以上のものでもないし、それ以下のものでもないだろうと思うのですね。ということは、今の水準をそのまま条文に素直に写しておけばよろしいのじゃないだろうかな。あえてこれをもったいぶって六条二項で、法律では大原則だけ書く、あとは省令でというのはいささか形式ばったことになるのではなかろうかな、こういう感じがいたします。  竹内報告の最初のリポートには、判定基準の様式として、片仮名でプロトコールと書いた様式例が載っておりますけれども、その様式例を見てみましても大変疑問がわいてまいります。まず、山口議員がおっしゃった前提条件、除外条件というものについては、あのプロトコールには一言も触れられていないように思います、様式にはですよ。それから、もちろんのこと肉親を納得させる補助的な方法についても、あのプロトコールには一言も出てまいりません。  そういうところから見ますと、厚生省令で丸投げしていいのだろうかな、こういう感じがいたすのでございますけれども、くどいようでございますけれども、再度お考えを承らせていただきたいと存じます。
  56. 山口俊一

    ○山口(俊)議員 確かにお話のとおり、竹内基準にまさる基準はないと私ども考えておるわけでございまして、ただ、決して丸投げをしておるわけではございませんで、やはりこうした問題のぎりぎりの判断として厚生省令、これが適当であろう。しかも、いわゆる脳死の判定基準というものを果たして法律にうたい込むのが適当かどうかというふうな議論も実はございまして、御承知のとおり、三徴候死につきましても、法的にそこら辺を明言をしておる法律はございませんで、そうしたこと等々も考えながら、ただ、お話のとおり、どこかでそうしたことをきちんと担保をしなくてはいけないというふうなことで、省令で規定をさせていただく。同時に、先ほど申し上げました除外例等、これもやはり省令等できちっと位置づけをしていきたいと考えております。
  57. 滝実

    ○滝委員 それに、問題は、判定者の明確化がぜひとも必要だと思うのでございます。  日本医師会は、判定人は三人必要だとか、あるいは二人でいいとか、いろいろ言われているわけでございます。恐らく脳死を判定する現場におきましては専門医が相当数いるはずでございますから、人数については特段のこだわりを持つ必要がないのかもしれませんけれども、やはりこの辺のところは、例えば内科系の脳神経科あるいは麻酔医、それに主治医と、少なくとも三人ぐらいはきちんと明定しておく、あるいは主治医と脳神経科の医者が一致すれば、それは二人でもいいのかもしれませんけれども、そういうようなことはやはりこれも法律で私は明定しておくべき問題だろうと思うのでございますけれども、それが第一点でございます。  それからもう一点は、先ほども議論がございました移植を受ける者の基準、これも甚だ現在段階では表には出ておりません。  諸外国の例を見てまいりますと、移植を受ける者の順位は、配偶者が第一順位、あるいは親から子へとか、あるいはその他第三者、こういうようなことになっているようでございますし、実際の医学の現場ではそのとおりに必ずしも優先順位が秩序立っていけるわけではないと思いますけれども、この判定をする順序あるいは年齢等の制限、あるいはだれが判定するか、そういったことも当然法律事項できちんと決めておくべき問題であって、私は省令に全部ゆだねるというのはそもそももったいない感じがするわけでございますけれども、その辺についても御意見を伺わせていただきたいと存じます。
  58. 山口俊一

    ○山口(俊)議員 先ほど来るるお話を申し上げておるわけでありますが、ただいまお話ございましたいわゆる移植を受ける者の基準といいますか、選択基準といいますか、それにつきましては先ほども質問がございました。中山議員の方からお答えございましたので私の方からは省かせていただきますが、やはりそこら辺の検討というものも、実は厚生省の検討会なりあるいは移植関係学会合同委員会なり、さまざまなそうしたグループの中で検討されておりまして、また、そうしたことを受けて私どもも議論をさせていただいておるわけでございます。  ただ、先生おっしゃるとおり、やはりそこでどういうふうに担保をしていくかというふうなことも非常に大事でありますので、そこら辺も、委員御指摘のお話を受けて、私どもこれから省令等々にどこまでどういうふうに位置づけるか、また検討もさせていただきたいと思っております。
  59. 滝実

    ○滝委員 その点はぜひとも明確な形で処理されますようにお願いを申し上げておきたいと思います。  次に、脳死判定後の取り扱い、これについてお尋ねをいたしたいと思います。  死の判定の前後におきましては、当然肉親はみんな動転をいたしておるはずでございます。ただでさえも病院の中あるいは救急センターの中では普通の人はなかなか物が言えない、そういうような場所でもございます。そこで、次の段階で心配されますのは、まず臓器の摘出はどこで行うのかとか、あるいは摘出された後の死体はどう扱われるのか、こういった点についてもあらかじめ肉親に明示しておく、こういうような配慮が当然必要だろうというふうに思うわけでございますけれども、こういった点についてはどういうふうにお考えになるのでしょうか、お尋ねをいたしたいと思います。
  60. 山口俊一

    ○山口(俊)議員 滝委員御指摘の点でございますが、平成六年の九月に移植関係学会合同委員会が定めました「臓器移植に関する指針」の中で、臓器提供者の遺族に対して敬意と配慮を払い、臓器移植につきまして理解と同意が得られて初めて実施に移されるというふうなことが明示をされております。また、平成六年四月、日本救急医学会理事会におきまして定められました「脳死患者への対応と脳死体からの臓器移植について」の中でも、コーディネーターが親族に対し、移植の意義、成績、提供臓器の流れ、必要な検査と前処置、臓器摘出後の遺体の処置等、臓器摘出と遺体の処置等につきまして詳細な説明をすることになっております。  こうした規定に基づきまして臓器提供者の親族に対して説明がなされれば、臓器を摘出する場所やあるいは遺体の扱いにつきましても、当然その中で説明がされると考えております。
  61. 滝実

    ○滝委員 その際に、当然病院側が持ちかける相談は解剖の問題があろうかと思うのでございますけれども、こういう解剖なんかの問題については大体どういうようなことで今まで議論をされているのか、それについて触れていただきたいと存じます。
  62. 山口俊一

    ○山口(俊)議員 解剖の件につきましてでありますが、実は、本法案は臓器移植というものを目的にいたしておりまして、解剖について定めておるものではございません。  医学の教育または研究をすることを目的にした解剖等に係る遺族の承諾につきましては、死体解剖保存法の中で、原則的には「死体の解剖をしようとする者は、その遺族の承諾を受けなければならない。」と規定をされておるところでございます。  したがいまして、解剖につきましては臓器移植とは異なる趣旨から行われるものであるというふうなことから、御指摘のとおり、必要がある場合には臓器移植に係る承諾とはまた別に遺族の承諾が必要であるというのが原則であると考えております。
  63. 滝実

    ○滝委員 最後になりますけれども、医療費の問題について伺わせていただきたいと存じます。  先ほど来議論がありましたように、現在角膜あるいは腎移植については医療保険で負担をしている、こういうことでございますけれども、私はこの現在の扱いでも若干の疑義があろうかと思うのです。やはり保険というのは、一件当たりが高額な経費を保険に任せるというのはそもそも保険として無理な点があるわけでございます。  現在の腎移植は透析よりは安く上がる、ただ単にそれだけのことで腎移植の経費は保険負担だ、こういうようないわば安上がり論でそういう結論になったのだろうと思うのでございますけれども、もともと一件当たりが高額になるものを保険で負担をさせるということに、既に保険数理の点からいって非常に無理をしているというふうに考えざるを得ないわけでございます。透析の場合でも、毎年毎年の経費にすれば、それは腎移植でもって一挙に負担をする額よりも単年度当たりは少ないわけでございますから、そういうことを考えますと、高額のこういう移植関係の経費を保険で負担させるというのはそもそも無理がある。  しからばどうするか。これから、この法案によって臓器移植が本格化してまいりますと、当然のことながら、当面は大学の研究費でありますとかそういうようないろいろな制度を運用して、負担が少なくて済むような方法を当然各医療機関ともお考えになるだろうと思うのでございますけれども、これは先ほど中山議員がお話しになったような将来は保険でということよりは、やはり別の方法をとらざるを得ないのじゃなかろうかなという感じがいたすわけでございます。この点についてお尋ねを最後に申し上げておきたいと思います。
  64. 山口俊一

    ○山口(俊)議員 確かに委員の御指摘の点もこれまたあるわけでありますが、ただ、やはり少なくとも一千万近く経費がかかるというふうな中で、いかにしていわゆる低所得のといいますか、そうしたお金を即用意できない皆さん方に配慮をしていくか。これもまた我が国がとってきた健康保険制度の基本的な問題でもあろうかと思っておるわけであります。  移植実施の施設が若干負担をする云々という話もあろうかと思いますが、先ほど中山議員がお答えを申し上げましたように、とりあえずは中医協における論議というふうなことになろうかと思いますが、やはりもろもろのそうした状況を考えた場合には、脳死体からの心臓肝臓等の移植につきましても、角膜腎臓及び生体肝と同様に、費用の面につきましても同じような扱いをするのが適当ではないかと私ども考えております。
  65. 滝実

    ○滝委員 再度同じことを申し上げますので、これは御要望にとどめさせていただきます。  最近私の知人が喉頭がんで大手術をいたしまして、声帯が五%だけ残って、少しは声が使える、こういうような大手術をやりました。首の回りのリンパ腺もとりました。そういう中でお見舞いに参りましたら、現在の保険制度については本当に感謝している、こんなにありがたいことはない、しかし冷静に考えれば、こういうような大手術をしても負担がほとんどかからない、これでは日本はつぶれてしまう、こういうことを筆談で私に書いてくれました。  そういうようなことを心配する人たちもおいでになります。これからの臓器移植というのは、これは何とかしてやらなければいかぬ、そういうふうには思いますけれども、やはりそのための資金集めと申しますか、単純に保険負担に求めるというのは私は無理があるのじゃなかろうかということを申し上げまして、質問を終わらせていただきます。ありがとうございました。
  66. 町村信孝

    町村委員長 山本孝史君。
  67. 山本孝史

    ○山本(孝)委員 新進党の山本孝史でございます。  冒頭、昨日になりますが、私も提案者の一人となりまして臓器移植に関する法律案、全く今の法案と同じ名前でございますけれども、法律案提出をさせていただきました。いわゆる対案の形でございます。この法案の提出並びに審議につきましては、町村委員長初め各党の理事さんに格別の御配慮を賜っておりますことを心からまずもって御礼を申し上げます。ありがとうございます。  きょうは、先回に引き続いてでございますが、関西医科大学の臓器組織の無断摘出事件についてもう一度お伺いをさせていただきたいと思っています。  大変大きな新聞に、特に関西でございますので大きく出ておりますけれども、事件の概要を申し上げますと、九三年の十一月に、関西医科大学で心臓停止後の腎臓の提供がありました。同時に、国立循環器病センターと奈良県立医科大学の合同血管チームが大動脈と大静脈の血管を摘出して、国循でその臨床応用のための研究を目的として冷凍保存をしているということが判明をいたしました。遺族は血管の摘出まで承諾をしていないというふうに主張して今争いになっております。  この件について、私、質問主意書を提出させていただきまして、この二十八日に回答を得たところでございます。  血管チームは、毎日新聞のインタビューに対しまして、移植の際の血管の損傷、狭さくなど異常事態に備えるのが目的で、関西医科大学の要請で摘出をした、家族にはある程度話していると思ったというふうに語っております。  しかし、いただきました答弁書の中では、摘出された血管は腎臓の周囲の血管であったが、その摘出を、腎臓を摘出した医師とは別の医師が行ったものであること、腎臓を摘出した医師と血管を摘出した医師との間で指示、照会等のかかわりが認められないので、当該血管が当該腎臓移植に使用されるために摘出されたものと考えることは困難であるとして、腎臓の摘出とは別個に血管が摘出されたということを認めて、国循の血管チームの移植にかかわっての摘出だったとの主張を否定する見解になっております。すなわち、血管チームはうそをついていたということになりました。  あわせて答弁書では、血管チームは血管の摘出に当たって、臓器・組織提供承諾書に基づいての確認をしていないということも認めておりまして、大変ずさんな手続でこの血管を摘出していたということがわかりました。  今回の事件は、臓器移植を再開させようとしている日本移植医療界の体質を図らずも明らかにしているのではないかというふうに思っています。議員の皆さんには、こういう事実があるのだということを見据えた上で、臓器移植法への姿勢をぜひ決めていただきたいというふうに思うわけです。  以下、繰り返しになりますけれども整理して問題点をもう一度述べさせていただきますと、腎臓摘出の承諾を求めた医師がその家族に血管も摘出してよいかどうかを聞いていない、そういう大変ずさんな承諾の手続でございました。根底にあるのは、インフォームド・コンセントの重要性の認識が極めて希薄であるということです。なぜしっかりとした告知をしないのか。薬害エイズ事件でも、医師が感染を告知しない中で妻や恋人への感染を広めていったということは記憶に新しいところであります。  二つ目の問題として、血管の摘出に当たった医師が同意書をみずから確認せずに摘出をしているという、慎重さに欠ける点です。  三つ目の問題は、答弁書でも明らかになりましたように、摘出された臓器は研究用でした。研究用に摘出をされております。研究に脳死体や摘出臓器が使われる。先般も、アメリカから脳死者の肝臓が薬品の研究用に輸入されて国内の六大学に配分されていたことが判明をしました。こうした研究が必要ならば、その必要性を社会や家族に説明をして理解を求めていくべきだと思います。そういうことをしないで、正しいことをしているからと独走していく、この医師の独善的な体質が私は問題だと思っています。  また、臓器だけでなく、組織の摘出、使用に関する規制もやはり必要なんじゃないでしょうか。  四つ目の問題として、今回の事件について、移植学会や大学の内部から反省の声が全く聞こえてきません。日本社会は、倫理に対して意識が極めて希薄だというふうに思います。倫理が厳しい外国と違って、政治はリンリ、リンリとスズムシが鳴くようでという名文句もありましたけれども、経営責任であってもそうですし、医師の世界でも倫理に対する意識が極めて希薄だと思います。  医の倫理を担保するのは医道審議会、倫理委員会というふうに、先回の御質問でも御答弁がありました。御指摘申し上げたように、医道審議会は全く機能しておりません。オウムにかかわった医師の処遇問題でもこのことは明らかです。  なぜ学内の倫理委員会で問題にならないのか。中山先生は倫理委員会をつくるからというふうにおっしゃいましたけれども、なぜ今回の事件でも学会内から自己批評と自己反省の声が上がらないんでしょうか。  ここに一冊の本があります。「いつ死なせるか」という本ですけれども、これはテキサス州のヒューストンにありますハーマン病院というところの倫理委員会の活動ぶりを紹介した本です。末期の延命治療の可否について常に議論がされています。学内の倫理委員会は、メンバーを同じ病院の医師で固めることが日本の場合は多いですけれども、このハーマン病院の倫理委員会の議長は看護婦さんです。医師のほかにあらゆる部門からの職員が参加をします。弁護士がおられたり、事務職員がおられたり、ケースワーカーがおられたり、あるいはセラピストがおられたりします。外部から医療体験を持つ患者家族まで加わります。当事者の家族も出席をします。  日本ではどうでしょうか。治験でも、学内の治験審査委員会が機能していないことは行政監察局の勧告にもあるとおりであります。  申し上げておりますのは、何回も同じことを申し上げて恐縮でございますけれども、極めて閉鎖的な医療の世界、安部英の例にも見られますように、専門医の年長者の権威は絶対です。移植はチーム医療というふうにおっしゃいますけれども、その医局のトップにいる人に逆らう人が本当にいるのでしょうか。  私は臓器移植一つ医療として認めてはおりますけれども、倫理に対して余りにもルーズな日本社会で、患者に対してインフォームを行わない独善的な医師たちに臓器移植を行う道を開く法律をつくっているんだということを、私たちは十分に認識しておくべきだというふうに思います。  この法律の問題点の一つは、臓器提供についての本人の意思と家族の同意についての問題です。  厚生省にまずお尋ねをしますけれども、毎日新聞のインタビューに、先ほどの関西医科大の事件でございますけれども、厚生省の国立病院部は、「臓器提供に当たっては家族によく説明して、同意を得て行うべきで、同意なしては好ましくない。」というふうに答えています。すなわち、家族の同意がなかったことを問題にしています。  では、逆に言えば、同意があれば摘出してよいのか。なぜよいのでしょうか。厚生省の見解をお伺いします。
  68. 貝谷伸

    ○貝谷説明員 今、関西医科大学事件の事例をお述べになりましたが、一般的に組織移植につきましては、組織の修復困難な損傷等に対しましては非常に有効な治療法であるというふうに理解しております。また、人工的に製造されましたものに比べ、生着率等において大変すぐれておりまして、医療としては評価すべきものというふうに私ども考えてはおりますが、そのための組織を亡くなられた方から提供していただく際には、先生御指摘のように、遺族に対しまして、その組織移植についての説明を十分した上で御承諾をいただくということが不可欠というふうに考えておりますし、摘出に当たりましては、当然ながら、礼意を失わないように十分留意することが必要であるというふうに考えておるところでございます。  法案との関係ということでは、私どもの方からでは直接お答えにならないと思いますけれども、組織の移植につきましては、これまでもそういう当事者の十分な理解と同意ということが前提になって運ばれてきておりまして、基本的にはその形で今後とも進めていくべきではないかというふうに考えておるところでございます。
  69. 山本孝史

    ○山本(孝)委員 家族の同意だけでなぜよろしいのですかという点について、もう一度お答えをいただきます。
  70. 貝谷伸

    ○貝谷説明員 基本的に、御遺体に対する管理権といいますか、そういったことがこの背景にあると思います。また、社会全体の理解ということも、御遺族の同意というもとで、納得した上でその一部を医療のために使わせていただくということに対する理解が関係者にあれば、私どもとしては、それはそれで認められるべきものだというふうに考えておるところでございます。
  71. 山本孝史

    ○山本(孝)委員 死体だから家族の同意があることでいいんだという御答弁だったと思います。  提案者にお伺いをいたしたいと思います。  この法案をつくるに当たってそもそもは、こちら側に善意の提供者がいて、こちら側に移植を希望する患者がいて、その両者をつなぐかけ橋として法律が要るんだというふうに立法の必要性を説いてこられました。このときの、善意の提供者とおっしゃっているときは、それは本人なのでしょうか、あるいは遺族なんでしょうか。
  72. 矢上雅義

    矢上議員 山本委員にお答えいたしますが、臓器移植というものは、まずドナーからの臓器提供があるという事実が必要でございます。そしてまた、その摘出におきましても提供の承諾が必要である。そしてさらに、その提供の承諾とは何かということでございます。  提供の承諾とは、今回私どもが提案している法案におきましては、生前に本人が臓器提供の意思を書面で明確にあらわしているとき、そしてまた死後におきましても、遺族がいる場合にはその遺族が拒まないこと等を要件にしております。つまり、この本人の生前の意思と死後の家族の同意が相まって移植医療というものが行われるわけですから、大きな意味で申しますと、この法案の趣旨に基づきますと、善意の提供者とはドナー本人でもあろうし、また死後、提供に対して承諾された遺族の方々であると言えると思います。  ですから、どちらが、ドナーだけか、また遺族だけなのかということを明確に区別することは、この法案においては難しいと思います。
  73. 山本孝史

    ○山本(孝)委員 法案において難しい。法の中に盛り込もうとしておられる立法者の意思の部分をお伺いしているのですが、提供者というときに、今の御答弁ですと、それは家族であってもいい、本人であってもいい、どちらでもいいんだというふうにおっしゃっておられる。ある意味において、先ほど厚生省は、死体だから家族の同意だけでいいんだとおっしゃった。皆さんの法律は、脳死体は死体だというふうに規定をしておられるわけですから、今の御答弁でいけば、本人の意思云々よりは家族の同意で十分だという御答弁ですか。
  74. 矢上雅義

    矢上議員 私が申しましたのは、臓器の提供というものは、本人の意思と家族の意思が相まってできる。つまり、両者の意思が必要である。両者こそが善意の提供者であると本法案では考えられると思います。
  75. 山本孝史

    ○山本(孝)委員 両者の意思であるというところばそうだと思うのですけれども、各党協議会の議論の中で、家族が臓器提供を迫られる場面が多いのではないかという、各党協議会に出ておりましたメンバーの多くの意見から、今回、皆さん原案としてお出しになったときも、本人の意思が明確な場合というふうに原案は限っておられるというふうに思います。  その後、九四年の一月十一日に厚生省は、法制定後の具体的な手続をまとめた指針を発表になりました。  その中で、本人の意思を推測して許諾、許可可能な例として、「臓器提供について何も言っていなかったが、もし聞いてみたら、本人の平素の言動からみて臓器提供の意思を表明したと思う。」ということも、この場合でも摘出可能であるというふうに例をお示しになって、この点が非常に激しい批判を浴びました。  これで、家族のそんたくでいいのではないか、すなわち家族の同意だけでいいのではないかという部分が落ちて、本人の生前の意思の表示がないとだめだというふうに限定されていったように思うのですけれども、私はそういうふうに思うのですね。皆さん方は、その点はどういうふうにお受けとめでいらっしゃいますか。
  76. 矢上雅義

    矢上議員 この何年間か、各党協議会におきまして、本人の意思が不明の場合に家族のそんたくで足りるのか、いろいろ議論がございました。ただ、私ども、脳死を人の死とする立場からは、脳死による死であろうと三徴候による死であろうと同じく遺体として、死体として取り扱い、原則論からいえば家族の承諾だけで足りるのではないかと思っております。  しかし、各党協議会におきまして、山本委員初め複数の委員の皆様方から、家族はお医者さんの支配下にあってなかなか家族の自由な意思というものが認められないのではないだろうかとか、いろいろ御批判が出ました。また、それぞれ個人におきましては、他人が臓器移植を受けるのは構わないし、他人がドナーになるのは構わないが、私は絶対嫌だという方もおられる。私どもの立場としましては、絶対嫌だとおっしゃる方々に対してまでも、家族の同意を条件としてドナーとするわけにはまいりません。  そういういろいろな観点から、御本人の気持ちを配慮いたしまして、家族のそんたく、承諾だけでなく、本人の生前の意思を条件として今度の法案に加えるということになったわけでございます。
  77. 山本孝史

    ○山本(孝)委員 今提案者もお答えになりましたように、原則論としては家族の同意だけで本当はいいのだという考えだと思うのですね。すなわち、それはなぜかといいますと、角膜腎臓移植、いわゆる角腎法は、遺族の書面による承諾だけでよいというふうにしております。しかも、本人の生前の意思のそんたくという規定も、角腎法にはありません。  そういう意味では、本人の生前の意思を絶対条件として入れておられるというところが、この「(脳死体を含む。)」ということで脳死体を死というふうに定義をしておられる部分とどういうふうにつながっていくのか。  本当は、「(脳死体を含む。)」というふうに規定をされておられるのであれば、本人の生前の意思云々ということを抜きにして家族の同意だけでやれるという方がよっぽどすっきりとしている。そういう法律の形にした方がよっぽど理解がしやすいのではないか。なぜそこで本人の生前の意思を前提条件とすることを今回も入れておられるのかという点を、もう一度御説明をいただきたいのです。
  78. 矢上雅義

    矢上議員 私どもの提案者のかつての原則論としましては、家族の承諾、そんたく等で十分ではないかと考えておりますが、ただ、この移植医療が現実に定着するために一日でも早い私たちの立法の審議が必要である、そういう現実の立場からも幾つかの御指摘に御配慮しまして、本人の生前の意思を絶対条件として入れた次第でございます。
  79. 山本孝史

    ○山本(孝)委員 厚生省にお伺いをします。  今いろいろ議論の中で、提案者としては本人の生前の意思を尊重していくのだということで法律をつくったということですが、厚生省はこの後政省令をおつくりになる、あるいは法の運用に携わるわけですけれども、この点についてどこまで担保できるのでしょうか。
  80. 貝谷伸

    ○貝谷説明員 お答え申し上げます。  いわゆる旧法案提出前の段階におきまして、今先生お話しのとおり、旧法案成立後の状態を想定して、私ども厚生省のワーキンググループで運用事項を議論させていただいております。  そのうち、当然その段階では、そんたく条項というものを念頭に置いたさまざまな運用項目が入っていたものが運用骨子案としてまとめられておりますが、私ども、今回の現法案が、いわばそんたく条項を落とした形で修正され提案されておりますので、基本的にはその際に議論されたものからそのそんたく条項を落とした部分というものを運用の骨子として考えていきたいというふうに考えておりますし、また、今後の国会等での御議論を踏まえながら、十分運用には留意してまいりたいというふうに考えておるところでございます。
  81. 山本孝史

    ○山本(孝)委員 旧法案については指針を厚生省としてお示しになりましたけれども、この新法案についても指針をお示しになると理解していいのでしょうか。
  82. 貝谷伸

    ○貝谷説明員 お答え申し上げます。  先ほど申し上げましたとおり、旧法案提出前におきましては、脳死の判定の問題を含めまして、いわば現法案、いわばそんたく条項を落とす前の旧法案全体像につきましての運用を定めております。現法案につきましては、その部分からいわゆる家族のそんたく条項というものが落ちた形で再提出されている点にかんがみますと、私ども、既に旧法案当時、さまざまな形で御議論いただいた運用項目というのは、相当程度それを検討結果として使えると申しますか、そういうものだろうというふうに考えておるところでございます。
  83. 山本孝史

    ○山本(孝)委員 お示しになる御予定はございますか。
  84. 貝谷伸

    ○貝谷説明員 今現在、法律の審議中でございますので、またこの後の御審議等々を踏まえまして、最終的には私ども、既にまとめてお示ししております運用骨子案に追加すべきものがあれば、当然追加をしてまとめていくという考えでございます。
  85. 山本孝史

    ○山本(孝)委員 今、移植学会の方で自主的なガイドライン等をお決めになっておられる。来週になりますか、野本理事長もお見えいただく予定になっておりますけれども、ぜひそのガイドラインと、以前おつくりになった厚生省のその指針とのすり合わせをさせていただきたいというか、していただきたいというふうに思います。  まあ多分、もともとの法案というか、考え方は、もし提案者が違う御回答があるのであればですけれども、角腎法というのがもともとにあって、それを拡大していく形で、家族の同意だけでやっていける道を開いていきたいという部分が、社会的に脳死というものもまだ合意ができていない、あるいは医療現場の混乱も大きいという、いわば社会的な抵抗の中で、本人の生前の意思を重要視するのだという形の法律の組み立て方をしていったというふうに、現場にいて私もよく理解をしております。  ただ、我々、出していただいている法案について余り触れるのはいかがかと思いますけれども、先生方の法案と私たちの法案の違いは、臓器を摘出する、いわば臓器摘出法という形でおつくりになるか、臓器提供法という形でつくるかによって違ってくると思います。今、自己決定なり、本人の意思の尊重ということが強く言われている。そのことを前提に、一番根底に置いて法律をつくるという形がいいのではないだろうか。だから、私たちにとってはこの本人の生前の意思の確認といいますか、本人の生前の意思があるということが極めて大切なところなのであって、ここのところが落ちてしまう、すなわち三年ぐらいの運用をしている間に、この法律が、本人の意思にかかわりなく家族の同意だけでできるというふうに解釈されていくんじゃないだろうかというふうに思うわけです。  この第六条という部分がありますけれども、第六条違反、いわゆる臓器の摘出について定めた第六条、一つは、脳死判定が間違っていたらどうなるのですかということ、もう一つは、本人の意思が不明でも家族が承諾している場合はどうなりますかと。  脳死の判定を間違うということはまずあり得ないでしょう、それをやってしまうと殺人罪になってしまいますから。しかしながら、本人の意思が不明でも家族が同意をしているのであれば、これは死体損壊罪にも多分当たらないというふうに思います。法務省の方に来ていただいても、個々のケースについてしかお答えできませんというふうにおっしゃるでしょうから、きょうはお呼びもしませんでしたけれども、これは死体損壊罪にも多分問われないのでしょう。  ということは、第六条違反という部分は、実は先生方の法案の中には、第六条に違反した場合はどうなるかという罰則規定は設けてありません。したがって、本人の意思が不明の場合でも、家族が同意すれば摘出をしてもいいというふうにこの法律は読めるように思うのですけれども、そうではないのでしょうか。
  86. 矢上雅義

    矢上議員 山本委員、二つお尋ねですが、三年後の見直しの解釈のあり方についてと、第六条に違反した場合にどういう対応がなされるか。  まず、三年後の見直しでございますが、今回の法律が旧法と違ったのも、皆様方と、また国民の世論を解釈しまして、これが一番国民の合意に基づくものだということで今回の法案の形で出させていただきました。ですから、三年後の見直しにおきましても、三年後の時点で、脳死というものに対する社会の受け入れ方、また移植医療に対する理解の仕方等を含めて積極的な議論をして、きちんと国民の合意に基づく形で三年後見直しされると考えております。  また次に、第六条に違反する場合でございますが、家族の同意があれば死体損壊罪にも当たらないのではないか。つまり、この第六条の規定意味をなさないのではないかという御質問でございますが、今回の移植法案というものは、臓器移植ネットワークという、官民総力を挙げてつくられる基盤整備の中でしか行われないことになっております。そのような、六条違反を行うような医師は当然最初からネットワークにも入れませんし、まだそういう医師がおったとすれば当然排除されるべきでありますし、また当然排除されるものだ、そういうシステムにつくり上げていくことが今回の移植法案のねらいでもございます。
  87. 福田孝雄

    ○福田法制局参事 今、今法案の第六条違反のお話でございますけれども、第六条の規定に違反して臓器を摘出したということになりますと、刑法上法令行為には当たらないわけでございますので、具体的なケースにもよりますけれども、摘出を行った医師は刑法上死体損壊罪の罪に問われることもあり得るというふうに考えられます。
  88. 山本孝史

    ○山本(孝)委員 個々のケースを言ってみないとわからないし、今あり得るというふうにおっしゃいましたので、ここのところが、でも皆さんの法律のつくり方であれば――福田さんには申しわけない。そちらの法案をつくっていただき、私たちの法案をつくっていただくということで、一つの頭で両案のお答えを書いていただかなきゃいけないわけですけれども、でも「(脳死体を含む。)」ということで、死体ということを前提に置いているのであれば、これはもう死体なんですから、そこから、家族の同意があって摘出をするということは角腎法の適用と全く同じであって、ここは死体損壊罪にも問われないと考えるのが私は普通であろうというふうに思います。問われるケースはまずないはずというふうに思うわけです。時間が来てしまいますので、毎回同じことばかり言っておって恐縮ですけれども、やはりここのところが一番問題だと思うのですね。  申し上げたように、皆さん方の法案は臓器摘出法案であって、私たちはそれに対して臓器提供法案という、自分たちの、提供者本人の意思の確認のところからやはりスタートしたいというふうに思っているんです。申しわけありませんけれども、白衣の下によろいが見えるという感じの私にとっては皆さん方の法案なんですね。  それで、時間がありませんのであれですけれども、臓器は絶対的に不足するということは何回も申し上げています。アメリカでは、ドナーカードを持っていても、遺族の半数が拒否をしております。全米平均では、脳死者全体のわずか二割しか臓器の提供者にはなりません。大変に難しいという状況があります。  組織バンクが今活発に動き始めていますので、やはり組織というものの摘出の法的規制問題、これはやはり考えなければいけないんじゃないかというふうに思います。  それで、研究用に臓器を使うことの是非というのもぜひ議論をしないといけないのではないだろうか。脳死からの臓器移植だけを認めて、それ以外の実験的利用は認めないという法的な根拠というものは極めて見つけにくいというふうに思います。ここも規制が必要なんじゃないでしょうか。  脳死判定の現場で、脳がやられてもとに戻りません、あるいは脳がほぼ死んでいる状態ですというふうにお医者さんは説明されると思います。死んだとは多分脳死判定のときもおっしゃらないんだと思うんです。脳死判定基準はそれでいいのかどうか、患者の家族にどう伝えていくのか。  課題は非常に多い。  でも、この皆さん方の法案、私たちの法案もそうですけれども、摘出の規定ばかりでして、皆さんの法案でいけば、二条と四条以外に、レシピエントの移植規定する規定はありません。すべて学会のガイドラインあるいは自主的なルールに法ができれば任せていくんだ、それでいいんだという、皆さん御発想、そこを規制するものを幾ら考えてみてもだめなんだとおっしゃっている。  しかし、本当に医者の倫理というのは確かなんでしょうか。その人たちに任せていいんでしょうか。繰り返しますけれども、安部英の教訓は私たちはどう受けとめるべきなんでしょうか。私たちは、やはりそこをもう一度考え直して、それを法的な規制をしなければいけないということ自体は大変に悲しいことだけれども、そんな規制はなくてもどうぞお医者さんやってくださいというのが一番いいんだけれども、こういう法律をつくらなければいけないんだというところが、本当にこの法律の持っている意味がそれで達せられるのかというふうに実は、何回も言いますけれども、思っております。  自分の子供が脳死になったときに心臓を提供できますか。自分が脳死になったときに自分の心臓を提供できますか。法案の審議で賛否を問うときに、この問いを必ず皆さんもう一度問いかけていただいて賛否を出していただきたい。だから党議拘束が外れているんだと思います。党議拘束の外れている意味をもう一度考えていただいて、私も、ピッツバーグ大学へ行きまして、手術室の中を上からこう見ております。下のところに手術を受けておられる患者さんがおられる。私医者でありませんのでそういうケース、余り見ませんけれども、なるほどこういうものなんだな、ここが開かれ、臓器が出ている。そこを、何か魂が宇宙に飛んでいるような空間から自分がそこにいるような感じで見ていると、そういう状態を本当に自分の場合も認めるのかな、実は正直言って私自身も迷いがあります。しかし、委員の皆さんもぜひその一点一点、もう一度お考えいただいて、自分も臓器が提供できるのかどうかという点でこの法案の賛否をぜひ問うていただきたいというふうに思います。  きょうはありがとうございました。
  89. 町村信孝

    町村委員長 午後三時から委員会を再開することとし、この際、休憩いたします。     午後零時六分休憩      ――――◇―――――     午後三時七分開議
  90. 町村信孝

    町村委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  質疑を続行いたします。大口善徳君。
  91. 大口善徳

    ○大口委員 新進党の大口でございます。  今回の臓器移植法案につきまして、議員立法ということで、一生懸命努力をされている、そういうことに対して、非常に敬意を表したいと思います。  最近も、八歳の少女がアメリカ心臓移植を受けに行かれたという報道もございました。この臓器移植の問題につきましては、国民に大きな関心のあることでございますので、徹底的な論議が必要であろう、こう思っておるわけでございます。  私は、基本的なスタンスといたしましては、臓器移植を一切認めないという立場ではございません。臓器移植を認めるということにつきましてはそういうことでございますが、ただ、これは人の生命にかかわることでございますので、やはりドナーの人権、レシピエントの人権、そしてまた、この臓器移植のシステムというものが公平で公正で透明性の高いものでなければならない、この点につきましては恐らく皆さん共通しているのではないか、どうその度合いを考えていくのかということではないか、こう思っております。  そこで、私の方からは、まず、今回の法案につきまして、今回の法案は脳死を人の死としているのかということ、非常に基本的なことでございますけれども、まずここから確認をさせていただきたいと思います。
  92. 福島豊

    福島議員 大口委員の御質問にお答えいたします。  本法案が脳死を定める法律なのかどうなのかという御質問であろうかと思いますけれども、本法案は臓器移植に関する法律でございます。一般的な死の判定に関する法律または統一的に人の死を定義するという法律ではございません。  したがって、この法案によって脳死を人の死としているわけではございませんで、あくまでも脳死は人の死であるという社会的な合意があるということを前提として、脳死体が死体であるということを確認的に規定しているにすぎません。脳死臨調の答申におきましても「脳死をもって「人の死」とすることについては概ね社会的に受容され合意されているといってよい」というふうに表現されておりますように、こうした社会的な合意を前提とした臓器移植のための法案でございます。
  93. 大口善徳

    ○大口委員 それでは、この法律によって脳死を人の死と定めたわけではない、こういうことでございますが、脳死を人の死とするということについて、公的な、これは何といいますか、お墨つきを与える機能をこの法案が持っているということは認められますか。
  94. 福島豊

    福島議員 お墨つきを与えるというような性格のものではないと考えております。
  95. 大口善徳

    ○大口委員 ただ、これは脳死を人の死とすることを前提としている法律だということであります。そしてまたこれは、この第六条の一項において、「死体脳死体を含む。以下同じ。)」こうなっておりまして、この条文の中でこのことを確認をしているわけですね。そういう点におきましては、法律というものによってその実態を確認するということは、これは言葉はいろいろあり得ると思いますけれども、確認しているということはお墨つきを与えているということではないですか。
  96. 福島豊

    福島議員 再度の御質問でございますが、あくまでも本法は臓器移植に関する法律でございまして、一般的な人の死というものについて、その判定に関する法律ではありません。  先ほども申し上げましたように、一般的な社会におきまして脳死というものが合意をされておる、それを前提としまして、臓器移植の手続等、移植医療の適正な実施に資するための必要な事項を規定しているわけでございます。そのようなことで御理解をいただければと思います。
  97. 大口善徳

    ○大口委員 どうもよくわかりません。理解しがたい部分がありますが、次に進みませんと質問が進みませんので、そうしたいと思います。  それでは、人の死を一体だれが決めるのか、こういう問題がございます。  ある人によれば、脳死を人の死とすることは医学的に合理的な判断であって、そのような専門家の科学的判断が社会的、法的にも承認されるべきである、こういうことで、お医者さんの判断というもの、医学界の判断というもの、これを承認すべきだという考え方もあります。中に、阪大のあるお医者さんですが、自分の確信と阪大の倫理委員会の方針の根拠として、脳死の時刻につきまして、脳死判定時を死亡時刻と記載した、こういうお医者さんもいらっしゃるわけでございます。一方、著名なある脳外科の先生は、脳死を不可逆的な脳不全の状態と認めつつ、しかしなおこれを死体と認めることはできない、これは医者として越権行為である、こういうふうにおっしゃっております。また、アメリカのニュージャージー州においては、脳死の判定について拒否権、これを認めているところもあるわけでございます。  果たして脳死を人の死とだれが決めるのか、これにつきまして、お医者さんなのか、法律家なのか、それとも世論なのか、また本人なのか、家族なのか、そしてまたお医者さんの考えというものが優先される、こう考えておられるのか、お伺いしたいと思います。
  98. 福島豊

    福島議員 お答えいたします。  何をもって人の死とするのかということにつきましては、一般的に例えば三徴候説が今まで人の死の判断の根拠になっておりましたけれども、それにつきましては、別に国の法令でありますとか告示でありますとか通達とかがあったわけではないわけでございます。だれかが決める、どこか特定の人にその判断をゆだねるという性格のものではないというふうに思っております。  脳死をもって人の死とすることにつきましては、脳死臨調の答申におきましても、「わが国も含め近年各国で主流となっている医学的な考え方である。」まず医学的な判断として脳死というものがある、また「概ね社会的に受容され合意されているといってよいものと思われる。」この二つのことが書かれております。医学的な判断、医学・医療界における共通認識ということと同時に、社会の受容、合意、この二つの条件が充足されるということで決まる、決して医学的な判断だけで決まるというわけではないと考えております。  しかし、脳死による人の死の判定というものは、実際には医療の現場におきまして、医療行為として、医師が個々の患者について医学的な見地から死亡という客観的事実を確認しているというふうに考えられると思います。
  99. 大口善徳

    ○大口委員 今、三徴候説については慣習であると。これは、脳死臨調の答申の中においても、死の三徴候については慣習として人々の間に受け入れられている、こういうふうに記載をされているわけでございます。  そして、今お話がありましたように、脳死につきましてもおおむね社会的な合意というものがある、社会的に受け入れられている、こういうふうに脳死臨調の答申にも出ておるわけでございますけれども、では、その社会的な受容、社会的な合意、脳死は人の死であるということについて社会的な合意がある、こういう判断をした根拠、これはどういうものなのか。  社会的合意というものには成立要件というのがあると思います。社会的合意にはこういう成立要件がある、この成立要件を満たしているから脳死を人の死とするということについて社会的な合意が成立しているんだということでしょうが、そのことについてお伺いしたいと思います。
  100. 福島豊

    福島議員 脳死を人の死とすることにつきましては、まず、脳死臨調におきましてさまざまな検討がなされましたけれども、その答申におきましても、「概ね社会的に受容され合意されているといってよいものと思われる。」そのようにされております。そしてまた、近年さまざまな世論調査等が行われておりますけれども、脳死についての社会的な理解また認識は深まってきている、そのように考えております。  当然、脳死というのは五十年前の医学におきましてはなかった概念でございまして、新しく医学の中にもたらされた概念であるということは事実でございます。したがって、この社会的な合意ということにつきましては、一定の時間経過というものを経て広まっていくものであるというふうに私は考えております。  脳死臨調等を含めまして、また国会におきます審議等を含めまして、さまざまな議論が国民的に行われている中で、その社会的な合意というものは確実に広まってきている、社会的な合意が得られている、そのように私どもは考えております。
  101. 大口善徳

    ○大口委員 そこで、その社会的合意の要件といいますか、これは、脳死臨調の答申には、「社会的に受容され合意されたとするためには、その事柄に正当性、説得性があることとともに、相当数の国民の賛成が必要であり、これら両者の適当な均衡の上に立って判断されるべきもの」、こういうふうに社会的合意の要件が記されているわけでございます。  このことについて、まずこれを要件とされるのか、そしてその場合、事柄の正当性、説得性というものは、だれがそれを評価するのか、むしろそれは国民が評価するということであるならば、「両者の適当な均衡の上に立って判断されるべきもの」、こういう言い方も私はよくわからないわけでございますけれども、社会的合意の成立要件について、そしてまた私の今の疑問について、どうお考えでしょうか。
  102. 福島豊

    福島議員 社会的合意の成立要件ということでございますが、例えば何%であるから社会的合意であるというふうに明確な数字をもってこれを示すことというのは、現実にはほとんど不可能なことであろうというふうに私は率直に思います。  正当性ということにつきまして言えば、先ほども脳死ということについて、それはだれが決めるのか、それは医学的な判断そしてまた社会的な判断、二つの判断が相まったところに行われ得るんだというお話をいたしましたけれども、正当性というのは、ある意味で医学的な判断、医学的な根拠があるのかどうかというところに私はあるのであると思います。それは、脳死臨調における検討を待つまでもなく、私は医学的には脳死という概念は一つ確立された概念であるというふうに考えておりますので、十分な正当性はそこに存在する。  そしてその次に、その社会的な合意ということにつきましては、先ほども申し上げましたように、何%であるから社会的な合意である、そのような要件を定めること自体が非常に難しい事柄でございまして、しかし、ここ近年のさまざまな調査におきますところの結果においては、私は、着実にこの合意というものは進んできている、そのように認識をいたしております。
  103. 大口善徳

    ○大口委員 着実に進んでいるということは、合意が成立してさらに進んでいるのか、合意が成立する過程にあるのかということがあると思います。  それから、今、正当性ということはおっしゃいましたが、説得性という要件もあるわけで、これについては国民がどうこれを理解するかということではないかと思います。  それから、脳死臨調答申にも、慣習として死の三徴候というのは認められている。慣習というのは、広辞苑で引きますと、「ある社会の内部で歴史的に発達し、その社会の成員に広く承認されている伝統的な行動様式」ということで、社会の成員に広く承認されている。そして、その慣習を一部変更するわけでありますから、やはり社会の成員に広く承認されることが相当数の国民の賛成ということと同じであろう、私はこう思っておるわけです。  そういうときに、じゃ、どれぐらいの、少なくとも世論調査でこうこうであるからこうだというお話をしていただかないと説得力がないと思いますが、いかがでしょうか。
  104. 福島豊

    福島議員 世論調査について、どのようになっているのか、具体的なお答えを申し上げた方がよろしいのかと思います。  直近の調査によりますと、これは東京新聞でございますが、三月三十日に報道されました報道では、脳死は人の死であると認めるという人が六六%に及んでおります。この六六%という数字はどうなのかという議論もあろうかと思いますけれども、脳死ということについて現実に身近で経験するケースというのは非常に限られているわけでございまして、そのような状況の中においてこれだけの数字の方が脳死を人の死と認めてよいというふうな結果が得られたということは、脳死についての社会的な理解というものが深まっている、また社会的な合意というものが得られつつあるということのあかしであると私は考えております。
  105. 大口善徳

    ○大口委員 これも脳死臨調の少数意見のところに、日本医大救急センターの調べでありますと、「家族の「脳死」を経験して、考え方に変化があった者のうちそれまで「脳死」は死であると考えたがそう思わなくなった人」が五七・一%いる。確かに身近にそういう事例が余りないというお話でございますけれども、脳死というものを家族において体験された方については考え方が変わってきている。こういうようなことはどう評価されるか。  それとともに、脳死臨調の答申の直後にNHKが行った調査結果によりますと、「脳死を人の死として、移植を積極的にすすめる」、これは一五%。それから、「脳死は限り無く死に近いが、人の死とは認めない。しかし、移植は厳しい条件つきで認める」、六二%。こういうことで、これは移植を厳格にするか、積極的にするかとまざっているわけでございますけれども、こういうふうに脳死を人の死としないで厳格に臓器移植をするというのが答申の直後に六二%である。  そしてまた、これは昨年、ちょっと古いわけですけれども、平成八年十月一日の朝日の朝刊によりますと、「脳死を人の死と認める」が五三%、「心臓停止に限るべきだ」が三八%。あるいは、男女で若干違いますが、男性の場合は脳死容認が六〇%、心臓停止に限定が三二%。ところが女性の場合は容認派が四七%、心臓停止に限るが四三%。性別によっても違っているわけでございます。  そういう点で、慣習として社会の成員に広く行き渡っている考え方を変更することについて、このような世論調査の結果で果たして社会的合意があるかどうか、非常に私は疑問だと思います。その点についてもう一度伺いたいと思います。
  106. 福島豊

    福島議員 逆に質問はできないわけでございますが、先ほどから申し上げておりますように、何%ということで区切るということが客観的に果たして可能なのか。私は可能ではないというふうに思います。率直に思います。  それは、先ほども世論調査でございましたけれども、むしろ大多数の方が、脳死を人の死と認める。これが少数派であるというのであればまた話は別なんだと私は思いますけれども、多数派を占めている。その中にあって、全く新しい医学的な現実が脳死ということでございますから、それを踏まえたこれは臓器移植に係る法律でございますけれども、一つ一つの積み重ねこそがまた社会的な合意を内側から成熟させていく大きな力となるんだと思います。  それで、こういうことは、学校教育ではございませんので、例えば百人の人が百人、これがこうだというような状態に果たしてなるのか。そういうことでもないんだというふうに私は思います。そういった、言ってみれば一面難しさのある問題。一つの新しい事実が慣習となり文化となるために、例えば三徴候死というものが一つ確立された慣習となるためにどれだけ時間が経過したものなのか。これは、私、相当長い時間だと思いますよ。そういうことを考えた場合に、我々が今合理的な判断といいますか、妥当な判断といいますか、それをとるということが実は求められているんだと私は思っております。  そういう意味では、脳死を認めるという人が例えば一〇%しかいない、非常に少数派だというのでしたら、こういう提案をするのは大変おこがましいことでもあるし、またその社会にとって受け入れがたいことであろうというふうに私は思いますけれども、こういった世論調査の趨勢を見ている限りにおいては、私は、私どもが提案している法案というものは社会に受け入れられる、そういった合意は十分にあるというふうに考えております。
  107. 大口善徳

    ○大口委員 どうも、根拠というよりも、結論がありきというような答弁であったような感じがいたします。まあ、これくらいにしておきます。  じゃ、国会の審議といいますね。東北大学の名誉教授であります阿部純二さんは、臓器移植の法案というような形で国会が認めれば、それは一つの合意の調達の方法であると考えられる、こういうことをおっしゃっています。それで、国会審議で党議拘束も外して議論をする、議論をしてこういう形で法案が成立した場合には、これは社会的合意の調達の一つの形である、こういう御意見もありますが、これについてはどう思いますか。
  108. 福島豊

    福島議員 国会というのは国民の代表が集まる場でございます。この国会において十分に審議をいたしまして、さまざまな立場の方がおられると思いますけれども、議論を尽くして、そして結論を得るべきだというふうに私は思っております。  そして、私自身は、移植医療というものを待っている患者の方が多数おられるという事実を踏まえるならば、議論をずるずるとただ引き延ばすということではなくて、精力的にその議論をこなすことによってこの国会において結論を得るべきである、そのように考えております。
  109. 大口善徳

    ○大口委員 それでは、脳死を人の死とする考え方と、脳死を人の死としないという考え方、両方声が出ているわけでございますけれども、これによって臓器移植の要件について相違が出てくるかということについて、臓器移植の要件に違いがどう出てくるかということについてお伺いしたいと思います。
  110. 福島豊

    福島議員 本法案におきまして、臓器移植を行う場合による要件というのは、本人の臓器提供の意思があること、その本人意思が書面で提示されていること、遺族が臓器の摘出を拒まないこと、または遺族がないこと、そして四点目といたしまして、死体からの摘出であるということを規定いたしております。  本法案は、脳死が人の死であるということを前提としまして、移植医療の適正な実施のため必要な事項を定めた法律でございまして、このような観点から、摘出について適切な要件はこのようなものであるというふうに考えております。  もう一点は、人の死としないという考え方について臓器移植の要件はどうなのかという御質問でございますが、これは、私はそちらの法案の提案者ではございませんけれども、人の死としないという考え方のもとに臓器を摘出するということはさまざまな問題があるというふうに私は思っております。
  111. 大口善徳

    ○大口委員 その中で、本人の意思、こういうものをどう考えるかということが私は根本的に二つの案において違ってくるんではないかと、こう思っております。  要するに脳死を人の死というふうに考えた場合は、これは、ドナーとは死体でありますので、その場合には、本人の意思とそれから家族の意思ということでいきますと、死体ということになりますと、むしろその死体の管理者である家族の意思というもの、これが重要であって、本人の意思というものはある意味ではこれは軽視される可能性があるのではないかという点はいかがでしょうか。
  112. 福島豊

    福島議員 私どもの法案では、臓器の摘出に際しましては本人の臓器提供の意思が書面により表示されているということを要件といたしておりまして、この要件を欠くときには摘出ができないものと考えております。  軽視されることがあるのではないかということでございますけれども、私ども、こうした規定を設けました以上、本人の臓器提供の意思というものが最大限に医療の現場で尊重されるということを期待し、また信じておるところでございます。
  113. 大口善徳

    ○大口委員 次に、脳死を人の死とするということになりますと、これは、脳死者というのは死体である、そういう考えに立ちますと、例えば、この前、朝日新聞三月二十七日の朝刊に、臓器移植のために提供された肝臓アメリカから日本に受け入れていく、こういうような記事が載っておりました。要するに、医薬品の研究のために使われるとか、あるいは死体解剖保存法による人工呼吸器をつけたままの病理解剖ですとか組織解剖というものをすることになるのではないか、あるいはウイルスの培養や血液の製造等に使われはしないかと、こういう医の倫理の問題があると思うわけです。  脳死を死としないという場合は、これは生ということでその患者の人権というものをかなり配慮するわけで、かなりこういうことについて抑制的になってまいります。しかしながら、脳死を死とした場合については、そのあたりについて医学の進歩ということの兼ね合いにおいてかなり積極的にとらえていこうという考えになるのではないか。そのあたりについてお伺いしたいと思います。
  114. 福島豊

    福島議員 脳死体の病理解剖、そしてまた、さまざまな人体実験への利用についてどうなのかという御質問かと思います。  まず、病理解剖等につきまして現行はどういう規定になっているかということでございますが、第一義的には、死体解剖保存法等の各個別法の趣旨に従って、そしてこの解剖というものは行われるものであるというふうに考えております。実際に人工呼吸器をつけたまま病理解剖を行うとか、また組織解剖を行うというようなことは、通例医療の現場におきまして考えられることではないというふうに考えます。  そしてまた、脳死体がさまざまな薬物の実験に使われるとか、また、摘出された臓器がさまざまな研究に使われるとかという事態が懸念されるということでございますけれども、本法案につきましてはそういった使用というものは認めていないところでございます。
  115. 大口善徳

    ○大口委員 じゃ最後に、今回の第十条の脳死の判定等に関する記録に関して、この記録の重要性、あるいは殺人罪の公訴時効は十五年ということを考えますと、保存期間五年というのは短過ぎるのではないか、やはり十五年ぐらい必要ではないかという、これは日弁連も同じ考えでございます。  それから、閲覧だけでなくて謄写請求権も認めるべきではないかと、こういうこと。  それからもう一つ、これは、この今回の、臓器の公正、公平な配分ということからいきまして、例えば生前にドナーが特定の人に対し臓器の提供を書面で約束するようなこと、これは認められるのか。  この三点についてお伺いしたいと思います。
  116. 福島豊

    福島議員 まず第一点目の、五年では短過ぎるのではないかという御指摘でございますけれども、これは、現行の医師法二十四条に定めるところの医師のカルテ保存期間に合わせたものでございます。  で、この五年の期間が短いかどうかということにつきましてはさまざまな考え方があろうかと思いますけれども、事柄の性質上、五年以上経過して問題事例が明らかになるというようなことは実際問題としては考えにくいのではないか、また、医療機関も五年を経ましてカルテを保存するということは大変な事務的な負担になるということも考えまして、五年が適当なのではないかというふうに考えております。  なお、その場合でも五年というのは短いということでありましたならば、医療全体にかかわる問題としてまた改めて議論をなすべきではないかと、そのように考えております。  そして、この記録についての閲覧だけではなくて、より広い権利を認めるべきではないかという御意見でございますけれども、現実問題としましては、情報開示に当たりましてはプライバシーの保護ということも同時に考えなければならないわけでございまして、そういう意味では、閲覧という形の情報開示というものが、プライバシーの保護にも勘案した上での一番妥当な方法ではないかとそのように私どもは考えております。  そして三点目でございますが、特定の人に対して臓器提供を行うという意思がある場合にどうするのかということでございますね。そのような場合に、特定の人にしか臓器は提供しませんと、そういう意思表示であった場合に、それはそれ以外の人に対しては臓器提供しないということでございますから、本人の意思の確認という上においてそれ以外の人に対して臓器提供するような形での臓器摘出はできない、そのように考えております。  そしてまた、特定の人に臓器提供しますというような形であったとしましても、公平性という観点から、それが公平性、また、実際には臓器移植というのはその人が亡くなるという事態が起きて初めて起こるわけですから、そのタイミングにおいてその方が臓器のレシピエントとして適切な立場におられるかということは、これはだれも予測できないわけでございますから、現実にはそれが成立する可能性は極めて低いものというふうに考えております。
  117. 大口善徳

    ○大口委員 以上で終わります。
  118. 町村信孝

  119. 金田誠一

    金田(誠)委員 民主党の金田誠一でございます。質問の時間をお与えいただきまして、感謝をいたしてございます。  夕べの段階で数点にわたって質問をしたいなと思う項目を差し上げましたが、考えてみますとわずか十五分ということなものですから、けさほど、この一番と二番ぐらいだろうということで申し上げました。その順序が逆になりますけれども、二番の方から、「本人の同意に基づかない摘出について」という立場から質問をさせていただきたいと思うわけでございます。  旧法案がございました。前の国会に出ていた法案でございますが、この法案の中には、本人意思のそんたくという形で遺族の同意、家族の同意というものが認められていて、これが非常に大きな批判の対象になったのではないかなとこう思うわけでございます。  今回は、旧法案とかわる大きな特徴として、この遺族、家族によるそんたくという部分が削除されて、本人の書面による同意、書面による意思表示ということが盛り込まれた、これが大きな変更点ということになろうかと思うわけでございますが、この点がどのように担保されているのかということについては、どうもいま一つ定かではないという気がしてならないわけでございます。  そういう立場から、まず、この本人の書面による意思表示ということを担保するために予定をされている罰則条項はどのようになるのか、刑法百九十条の死体損壊罪が想定されるのか、あるいはそのほかにもあるのか、このあたりからお聞かせいただきたいと思います。
  120. 桧田仁

    桧田議員 ただいまの御質問は、一つの大事なポイントでありますし、また、この法律を新しくつくりました一つの動機でもあるというように思います。  その意味におきまして、承諾を与えていない臓器の摘出というのは、刑法第三十五条に規定する「正当な業務による行為」とは言えないということでございますから、万が一具体的なケースで医師がその摘出を行ったという場合には、死体損壊罪に問われることは当然だと思います。  また、これは当然、遺族にとりましては非常に精神的な苦痛を与えるということですから、民法上の責任も問われる、このように考えております。
  121. 金田誠一

    金田(誠)委員 ただいまの御答弁は、遺族あるいは家族の意に反してということも想定された上での答弁だと思うわけでございます。  それでは、本人の書面による意思表示はなかった、しかし、日ごろからその旨を例えば話しておられたということを家族あるいは遺族の方が覚えていらっしゃって、そして、その本人の意思に沿うという立場で、旧法案で言うところのそんたくになるかと思いますけれども、そういう立場で家族や遺族が同意をした、それによって臓器を摘出をしたという場合にも、同じく刑法百九十条死体損壊罪に当たりますでしょうか。私は、そこまで適用するのは無理があるのではないかな、こう思うわけでございますけれども、いかがでしょうか。
  122. 桧田仁

    桧田議員 この刑法上の判断は、私、専門家でありませんから答えるのはどうかと思いますが、少なくともこの法律の趣旨にのっとりますと、先生のおっしゃるように、そこまで言うのはいかがかと思います。あくまであらゆる条件が関与しているというように思います。  したがって、例えば先生の趣旨のような、本人がどの程度に家族に言っていたかということ、こういうことも大きく判断されなきゃいけませんし、また、死体というものもとのような決め方をするかということにも大きな議論の論点があると思いますので、大きく議論が分かれることと思います。法的なことは簡単には答えにくいと思います。
  123. 金田誠一

    金田(誠)委員 今回の新たに出された法案の大きな特徴として、そのそんたく条項を除いたということが巷間言われておるわけでございますね。その部分が改正をされたがために、前の法案には消極的であったけれども、今回はまあ本人意思が尊重されるんだからということで賛成の立場に立たれるという方のお話も私、直接伺ったこともございます。  しかし、ただいまの御答弁ですと、いわゆる本人が生前、臓器提供の意思等を持っていたということを家族がそんたくをして、旧法案のそんたく条項のとおりそんたくをして、同意を与えて摘出がされた場合、この臓器移植法案に罰則はもちろんないわけでございますし、刑法による死体損壊罪の適用も難しい、こういう解釈でよろしいでしょうか。
  124. 桧田仁

    桧田議員 先ほど申し上げましたように、あくまでこれは刑法の三十五条に書いてございますように、「正当な業務による行為」かどうかによってやはり判断されることと思いますから、じきじき先生のおっしゃることでの判断は難しいと思います。刑法によるものの判断だと思います。
  125. 金田誠一

    金田(誠)委員 今回の法案のポイントは、「死体脳死体を含む。)」と、これが一つのポイント。これを認めるかどうか、これに対してどういう立場をとるかが一つのポイント。もう一つは、このそんたく条項がなくなったということについて、果たしてそれが担保されているかどうかということがこの法案のポイントだろう、二つの大きな柱だろうと思うわけでございます。  その一つの柱の方について私はお尋ねをしているわけでございます。そんたく条項がなくなった、しかし、それを担保する措置がとられていないとすれば、実際は旧法と実態としては変わることがないのではないか。ただいまの御答弁では、そんたく条項がない中での臓器摘出の場合、死体損壊罪等に問われるかどうかについて、明快な御答弁がないわけでございますけれども、そのポイントになる部分でございますから、ぜひひとつ明快にお答えをいただきたいな、今この場で御無理であれば、改めて提案者としての統一見解等を出していただけないものかな、こう思うわけでございます。
  126. 桧田仁

    桧田議員 あくまで刑法にのっとるかどうかというのは「正当な業務による行為」かどうかということでございますから、ただいまの書面が出ているかどうか、あるいは本人の意思がどうかということとは別の問題と思いますので、ここで私がその点を答える立場にいないと思います。
  127. 金田誠一

    金田(誠)委員 それじゃ、質問を進めさせていただきたいと思います。  刑法百九十条につきまして解説書をひもといてみました。「本罪は、死者に対する社会的風俗としての宗教的感情を保護しようとするものである。」あるいは「死者に対する宗教的崇敬感情を保護しようとするものである」この宗教的感情を保護するということがこの百九十条の守るべき法益ということになるわけでございますけれども、まだほかに説があるのかもしれません、とりあえずこの二つの書物なんでございますが。  そういう視点から考えますと、家族がそんたくをして同意をして臓器を摘出した、この場合、死者に対する宗教的感情を保護するための死体損壊罪を適用する対象になるかどうか、いかがなものでしょうか。
  128. 桧田仁

    桧田議員 あくまでこの問題、非常に微妙な問題でございますから、この法案の答弁でそれを答えるのは余りにも私としては答えにくいことでございます。あくまでケース・バイ・ケースでもございますし、それから、先ほどから言いますように、本人がどの程度の意思であったか、家族がどの程度確認していたか、それからそのときの摘出した医師のやはり正当な業務であったかどうか、あらゆる条件が勘案されるものと思います。
  129. 金田誠一

    金田(誠)委員 家族の意思、適正な脳死判定あるいは医師の適正な執行といいますか、そうした条件が勘案をされれば、刑事罰には問われないという解釈でよろしゅうございますでしょうか。
  130. 福田孝雄

    ○福田法制局参事 六条の解釈ということでございますのでお答えさせていただきますが、六条に定めます法的に有効な承諾を欠く場合でございますが、その場合は、本法に定めるところに従って摘出が行われたことにはならないわけでございますので、刑法第三十五条の法令行為には該当いたしません。したがって、当然に死体損壊罪に当たらないということにはならないわけでございます。  そのような場合は、個々具体の事案に応じ、その違法性が阻却されるかどうか判断され、死体損壊罪の成否が問われるということになろうかと思います。
  131. 金田誠一

    金田(誠)委員 この点が大きな旧法案の改正点であるということでございましたけれども、必ずしもそうではないな、死体損壊罪が適用される場合というのは、具体的に想定しがたいな、家族の意思等も無視をして行ったということであれば別でしょうが、旧法案で出たところのいわゆるそんたくを適用して臓器摘出が行われた場合については、刑事罰には問えないのではないかなというふうに受けとめさせていただきました。  関連してお聞きをしたいと思いますけれども、書面による意思表示が必ずしも有効でない年齢の方がおられると思います。脳死判定は、六歳以上ですか、竹内基準では。なされることになりますけれども、六歳以上、脳死判定をされて、法律的な行為能力を有する年齢に達する以前の年齢の、例えば十五歳の少年という方がいらっしゃったとします。そういう場合、御両親なりが親権を行使して、生前の子供さんの意思をそんたくをして同意をして、それによって摘出がされたという場合は、法的にはどのような扱いになりますでしょうか。
  132. 福田孝雄

    ○福田法制局参事 例えば、承諾をされました方が幼児であるとか、その他心神喪失者であるとか、そういう、ケースによりますけれども、承諾に能力を有しない方がした承諾ということになりますと、これは法的に有効なものとは認められないということになろうかと思います。
  133. 金田誠一

    金田(誠)委員 質問の趣旨を取り違えておられると思いますが、例えば、十五歳の少年が脳死状態になった。これに対して、御両親が親権者として、そして生前の子供さんの意思をそんたくをして臓器の摘出を承諾をして摘出がなされた。そういう場合、これは罪に問われないと思いますけれども、いかがでしょうか。
  134. 福田孝雄

    ○福田法制局参事 これは、前回お答えいたしましたけれども、本人の承諾要件、書面による承諾というのがないわけでございますから、承諾がないままの摘出ということになる。その結果の刑法の問題というのは、先ほどお答えしたとおりということになろうかと思います。
  135. 金田誠一

    金田(誠)委員 何歳から、文書による、書面による承諾というものが有効ということになりますでしょうか。六歳の子供で有効になりますでしょうか。あるいは十二歳あるいは十五歳あるいは十八歳、二十歳、その辺の御検討、いや、されてなければないで結構でございますけれども、いかがなものでしょうか。
  136. 桧田仁

    桧田議員 この法案の中には、年齢的なそういう同意を、何歳ならばということは規定にございません。ですから、今の段階ではそれが幾らとはお答えできませんが、先ほど法制局が答えておりますように、あくまで本人の意思が明確に認められて、かつまた本人の意思が書類にあるということをこのたびの法律の条件にいたしておりますので、書類を書いてあるということはもちろんでございますが、法的にまた本人の意思であることが確認できる条件であるということも当然必要だと思います。年齢というよりも、あくまでその二つの要件を満たしていることがこの法案にのっとったものと考えます。
  137. 金田誠一

    金田(誠)委員 ちょうど時間になったようでございますから、これで終わらせていただきます。  お願いでございますけれども、ただいま申し上げましたような、本来、書面による意思表示が必要だ、しかし、何らかの形で書面による意思表示がない事態の中で臓器摘出が行われた。あるいは低年齢という場合もございましょうし、あるいは日ごろ言っていたけれども文書にまでは残しておらなかった。かつての、旧法案のいわゆるそんたくという条項、それによって臓器摘出が行われた場合に、どのようなこれに対する法的な歯どめがかかっているのか、具体的な罰則規定等で担保されているのかということについて、ぜひ明快な統一見解などを賜りますように御検討いただければありがたいと思いますので、ひとつお願いを申し上げて質問を終わりたいと思います。  ありがとうございました。
  138. 町村信孝

  139. 児玉健次

    児玉委員 日本共産党の児玉健次です。  私は前回質問で、救急救命の現場、脳死状態の多くがその場であらわれることはもう周知の事実ですが、その救急救命の現場で新たな可能性が生まれている現実を直視し、救急救命の現場で最善を尽くすということがどういうことなのか、その点をこの審議の中で突き詰めて議論しよう、こういうふうに提起いたしました。きょうはその点について、最初提案者質問いたします。  日本大学板橋病院の林成之教授は、その著書「脳低温療法」の中でこうおっしゃっています。「患者中心医療とは、救命救急センターのような重症患者医療を行う所では、絶対に救命する、できれば後遺症無しに救命するという目的を達成するため、医療従事者は自分の都合を捨て、質的向上をはかり、あらゆる条件を乗り越えて、初めて展開が可能になるのではなかろうか?」私はこの言葉を読んで、あれほどの新たな可能性を提起されるためには、やはりこういう気持ちがあったんだな、そう思って心を動かされました。  このような努力は社会全体で守り立てていくことが今重要ではないかと思うのですが、提案者のお考えを伺います。
  140. 五島正規

    五島議員 今児玉委員がおっしゃった点につきましては、私も全くそのとおりであるというふうに考えています。  医学の進歩によりまして、脳死の問題以外の、さまざまな救急救命現場におきまして、蘇生限界というものは大きく拡大してきたと思っています。したがいまして、脳死の問題につきましても、今児玉委員御指摘の、脳低温療法等によりまして非常に大きく蘇生限界が広がってきた。そうした医学の成果というものについては御指摘のとおりでございますし、この成果が普遍的に一般的に普及していくという努力が極めて大事であるというふうに考えています。  ただ、そのことをもちまして、委員が御指摘になったわけでございませんが、蘇生限界というものと、それから脳死というものとが、全くイコールであるということにはならない。蘇生限界点というものはいかに拡大したとしても、やはり医療というものが死というものを前提にしているという状況の中におきましては、いわゆる蘇生限界にまで行った救急医療の敗北というものは当然起こり得ます。そして、その敗北の一つというのが脳死という状態でございまして、蘇生の可能性がある限り広げていきながらも、やはり脳死というものが状態として存在してくる、そのことは何ら矛盾しないものであるというふうに考えています。  また、蘇生限界としばしば誤って同義的に、ポイント・オブ・ノーリターンの概念というものが使われておりますが、これは全く別の概念であるというふうに考えています。  竹内基準におきましても、六時間以上経過後に二回目の判定を行って、そして基準を満たしていることを再確認した場合には、いわゆるポイント・オブ・ノーリターンを超えているということの確認でございまして、その時点が現在において蘇生限界点とイコールのものであるというふうに考えるならば、救急救命医療の今後の発展を非常に制約するものであるというふうに考えています。
  141. 児玉健次

    児玉委員 この点についての概念のすれ違いは前回質問で既に終わっておりますから。あのときも申しましたように、本当に妙な誤解で、脳低温療法によって脳死状態がよみがえる、こんな議論は大体私たちの間では既に存在していない。医師でもいらっしゃる五島先生は、お聞きしたことにぜひお答えいただきたい、こう思います。  そこで、二番目の問題ですが、この療法は特定のところでなければ成立しないという議論が一部にありました。この点も林教授は、この書物の中で、従来の管理法を少し工夫するだけで、重装備の管理システムがなくても十分活用できるよう、治療のポイントと具体的な方法を詳しく述べることにする。医学の門外漢である私もこれを真剣に読みました。そして、重装備でなくても、具体的な方法をどのようにしていけばこれが広がるのかということについて、非常に説得的に書かれていることがよくわかりました。この点について、提案者の見解を短くお願いします。
  142. 五島正規

    五島議員 こうした画期的な、医学的な成果というものは、私は大変な勢いで普及するものであるとつくづく感じております。  先日も中国地方でお伺いいたしましたが、中国地方の各大学の麻酔科に行きましても、現在この脳低温療法というものを取り入れるために必死になって努力しているというお話をお聞きしました。したがいまして、こうした医療というものが救急現場に幅広く普及していくということについては、それほどもう時間がかからないものというふうに考えております。
  143. 児玉健次

    児玉委員 そこで、林教授は、この新しい療法についてこのように概括されております。  脳温を三十二ないし三十三度Cに管理する脳低温療法は、脳内熱貯留の防止、脳浮腫、頭蓋内圧高進の防止、脳内酸素消費量の低下による虚血状態に対する抵抗力の増大、そこを一つの大きなポイントとして押し出され、それに対して生体に加わる低体温侵襲、侵襲をダメージと言っていいのかどうかよくわかりませんが、「生体に加わる低体温侵襲をどのような麻酔療法で防止するかが本治療法の基本となる。」こう述べていらっしゃって、そしてその上で、先日、本会議でも私お伺いしましたが、瞳孔反応が三週間見られなかった例、聴性脳幹誘発電位が一時消失した例、こういった例を含めて大きな、林先生御自身が「予測しがたい治療成績が得られた。」こう述べていらっしゃいますね。  そこのところをどう受けとめていらっしゃるのでしょう。
  144. 五島正規

    五島議員 まさに脳を低温に維持することによって、血流による冷却効果というものを人工的により強めるということで開発されたこの技術が、非常に大きな成功に到達したという点については、指摘のとおりだと思います。そして、そうした脳低温療法の治療の間におきまして、委員が御指摘になりましたように、脳幹反応というものが非常に特異な状態を保つということについても、既知の事実だろうというふうに思っております。  したがいまして、脳低温療法の治療実施中に竹内基準を実施するということには至らない。その点については、今後さまざまな新しいそういう医療の技術の中において、その間における脳の働きその他については、今後医学的に解明されなければいけない問題であるというふうに考えています。
  145. 児玉健次

    児玉委員 「日本移植学会臓器移植ネットワーク臓器提供マニュアル(案)一九九七年度版」、これを私は拝見いたしました。そこで「脳浮腫の治療方針と脳死」という部分がありまして、その部分で次のように述べていらっしゃる。  種々の原因で脳浮腫が生じた場合、脳死にならないように種々の治療が行われるが、その基本は極力脱水状態に保つ治療法である。この場合、循環血液量は極度に少なく維持されるため、低血圧、臓器の血流量低下がみられ、時に各臓器の機能が可逆的範囲内で犠牲にされることになる。 「可逆的範囲内で犠牲にされることになる。」これはどういうことでしょうか。
  146. 五島正規

    五島議員 私も、脳外科の医者ではございませんし、救急救命の現場にいたわけではございません。したがいまして、医学的知識としては極めて限定されているということを前提に申し上げます。  脳低温療法が出る前において、脳浮腫を予防するためには、御指摘のようにやはり脱水状況というものを維持することによって浮腫を少しでも除去しようという方法がとられてきたと思います。したがいまして、脱水状態を維持するわけでございますから、その他の臓器に対してはやはり一定のダメージを与えるということは当然ある。しかし、生命を救うという前提のもとにおいて、他の臓器に対するダメージというものはあえてやむを得ないものという形でもって従前の療法としては進められてきた。そういう意味において、今回の脳低温療法というのは、全く違った画期的なものだというふうに考えております。
  147. 児玉健次

    児玉委員 マニュアル十三ページの箇所なんですが、そこで「ドナーとして望ましい状態」という部分があります。「ドナーとして望ましい状態」、そのための「対策」では輸液、それでも血圧維持が困難な場合カテコラミンの使用。お聞きしてみたら心臓血管作動薬だそうです。ただし、このマニュアルによれば、「ノルエピネフリンは避ける。」とあります。何でも抹消に血液を送らないという特徴がある薬だそうです。ところが、「脳低温療法」では、血圧管理の薬物療法として収縮期の血圧が七十ミリHg以下の場合はノルエピネフリンの使用が林教授によって提起されています。  そして、同じくこのマニュアルにおいて、脳死の「判定上の留意点」、そこでは「脳死に至るような症例では、集中治療中にしばしば中枢神経抑制薬、筋弛緩薬などが用いられる」「これらの薬物の影響を除外する。」と記されています。ところが、先ほどの「脳低温療法」では、低体温の生体への侵襲に対する対策として、筋弛緩剤の一時間ごとの定時点滴がやはりそこで求められています。  これはほんの一例、二例にしかすぎませんけれども、私はやはりこの問題はここから出てきていると思う。それは救命の可能性をぎりぎり追求していくというひたむきな努力と、ドナーとして望ましい状態を維持したいという意向、これはぶつかり合うのではないか。どうでしょう。
  148. 五島正規

    五島議員 実験動物の問題で話をするのであれば、先生のおっしゃるようなこの二つの矛盾というのはあると答えざるを得ないと思います。しかし、事医療の世界においては、その二つは矛盾するはずがないというふうに私は断定していいものだと思っています。  と申しますのは、そこに生命の回復の可能性のある患者がある限り、まさにそのことによって、仮に脳死になった後、すなわち死に至った後、臓器を取り出され、その臓器がレシピエントにとって最適の状態でないということがわかったとしても、やはり救急救命医療というものは最終的に何よりも第一義的に追求されるべきものであり、そして臓器として提供されるのは医療の敗北の後の話である、そういう基準というものは何よりも明確にすべきだろう。そういう意味において、そのことが提供される臓器にとって決して最善の状態でないということがたとえ医学的に判断されたとしても、救命救急医療がまず第一に全力をもって追求されるべきこと、これが当然であるというふうに考えています。
  149. 児玉健次

    児玉委員 この問題、やはり私はさらに議論しなければいけないと思うのです。  いわゆる脳低温療法、一つの大きな可能性として私はそれを今取り上げておるのですが、その低温に維持する期間というのは、この林教授の御著書によれば、二日から七日間程度を基本にする、こうおっしゃっていますね。そして、一定の、まさにさっき提案者もおっしゃった蘇生限界、私はポイント・オブ・ノーリターンという言葉は一回も使っておりません。その蘇生限界が治療の前進によって変わり得る、その可能性が見えてきたときゆっくりと復温していく、これも三ないし五週間が一般的な期間であって、そして三十六度Cで管理をする、決して急いではならない、こういうふうに強調されておりますよ。  今提案者がお話しになったこと、私は一部わかります。すなわち、林教授が言われているように、絶対に救命する、できれば後遺症を残さない、そのひたむきな努力が大きなインパクトになっていると思います。そのひたむきな努力をどうやって保障するかということが問題なので、そのとき望ましいドナー状態の維持の問題というのは、これは論理的にいってもぶつかり合う命題になっている、そのことを私は指摘しているのです。どうでしょう。
  150. 五島正規

    五島議員 私もまさにそのことを申し上げているつもりでございます。  医療において何よりも重視されなければいけないのは、救急救命の医療を受けておられる患者の蘇生でございます。したがいまして、その段階においてドナーとして提供される臓器がどういう状態にあるかということの判断がそこに入るとするならば、これはもはや救急救命医療ではございません。  したがいまして、そこへ提供される臓器が、結果において敗北した後において、いかに傷つこうとも、やはり医療というのは、まずその生ある限りその生を維持するというところに第一義的に置くべきであるというふうに私自身も考えていますし、そして、救急救命医というのはそういう社会的機能を持っている。そのことがもし仮に放棄されて、臓器の保存のために救急救命をやられるという事例があるとするならば、それはもう救急救命医療と申せない。そのことについて私は明確に、まさに、先ほど別の質問も横で聞いておりましたけれども、そのことの方がよほど刑法上問題になることだろうというふうに考えています。
  151. 児玉健次

    児玉委員 本当に、絶対に救命するという現場の医師やナースたちのひたむきな努力がどのような要素によっても妨害されてはならない、それは貫徹されなければいけない、私はそう思います。  その観点からこのマニュアルを見ますと、どうしても気がかりなところがあります。場所を明示しますが、十二ページにあるのですが、「治療方針変更の時期」という部分がありまして、そこで、「脳死が診断され、臓器提供の可能性を考える時、ショック状態の持続による臓器障害は避けなければならない。そのためには、脳浮腫の脱水療法とは逆に、十分な補液、心臓収縮力の増強などの措置をとらなければならない。いつ治療方針を変更するかであるが、脳死判定が終了した時点で完全に切り替え、」と書いてあるのですね。  私は、ここは理解できない。だって、「完全」という言葉をなぜ使うのか。望ましいドナー状態を維持するために部分的な切りかえが先行していなければこの「完全」という言葉は出てこないと思うのです。どうでしょう。
  152. 五島正規

    五島議員 私は、脳死の判定が実行された後、すなわち死体となった後において、次の段階としてその臓器によって助かる命が存在するということであれば、その臓器の保全に全力を尽くすということについては何ら問題ないと思います。ただし、今委員が御指摘になったように、脳死の判定がまだ終わっていない、すなわちまだ蘇生の可能性がある、そういう状況においてもそのことを考えた治療をするということは認められるものではないというふうに思います。  ただし、そのことについて、委員が御承知のように、救急救命医の社会的機能としては、もともと蘇生限界点を追求するというところに社会的任務を持っています。一方、臓器移植をする医師の側からするならば、自分の持っている移植以外に助からない患者を救命するということに対して、そのことを第一義的に考える。したがいまして、そこにおいては、救急救命医と移植医との間における理念をかけた大きな闘いというものが患者の死というものを迎えるまでは存在する。その緊張関係が存在するというこの医療現場の中でそうしたさまざまなマニュアルが出ると思いますが、今委員が御指摘になったようなマニュアルというのは、私は救急救命医においては到底容認されないものというふうに考えています。
  153. 児玉健次

    児玉委員 本当にそうですね。やはり言葉というのは厳格ですから、「脳死が診断され、臓器提供の可能性を考える時、」と書いてあって、そして、そう言いつつ「脳死判定が終了した時点で完全に切り替え、」と。「完全に」、ここは私は大きな問題を残していると思います。  それで、ひとつこの議論に関連して私は提案者に提起したいことがあるのです。現在、救急救命の分野で生まれている新しい可能性の問題、今提案者と私との間で行った議論は、その大きな可能性がはらむ幾つかの問題点のほんの一部を論議したにすぎないと思います。そして、最後のその「完全」という言葉が使われていることについては、私は絶対に納得できません。そういう問題も含めて、この後広く専門家の意見も伺いながらこの国会で十分審議していくことが必要ではないか、こう考えておりますが、提案者、いかがでしょう。
  154. 五島正規

    五島議員 この八日の日にも、参考人にこの場においでいただきまして、まさに竹内基準をおつくりになった竹内先生、あるいは林先生、あるいは救急現場、そして移植学会等々のそういう専門家の方々を含めましてお呼びすることになっていると思います。そうした中で、今まさに委員が御指摘になったような問題を含めて、移植学会の医者がそのことに対してまじめに患者の命を救おうとすればするほど救急救命の分野における医者とは常時ぶつかるという、しかし、その激しいぶつかり合いの中において、何をきちっと優先させていくべきかということについてのやはり一定の社会的なコントロールが必要なのだという観点からも、この問題についてぜひ議論を進めていきたいというふうに考えています。
  155. 児玉健次

    児玉委員 今の点については、委員長にも御要望しておきたいと思います。  そこで、時間も余りありませんから、次の問題に入りたいと思います。  私、三月十八日の本会議日本共産党を代表して質問をいたしましたが、そのとき提案者は、臓器移植の問題は、一人一人の人生観、死生観にも密接にかかわる問題だ、こうお答えになりました。私は、この問題が、人間の心の内面に深くかかわる問題だとかねてから思っております。  そして、先ほどもちょっと御紹介がありましたが、一昨日、共同通信が幾つかのメディアを通して全国で実施されたアンケートの結果を発表なさいました。その中で、幾つか非常に興味深く拝見した箇所があるのですけれども、特に私がこの点はと思いましたのは、三千人を対象者にして二千人強が答えたこの大型のアンケートの中で、臓器法案の成立に関して、「急ぐべきだ」というのが四七%、「急ぐべきでない」四五%、ここのところはわずか二%、ほとんど有意の差はありませんね。完全に分かれています。国民の考えが完全に分かれている。そのような状況であるからこそ、性急な立法化を行うべきでないというのが私たち日本共産党の基本的な立場です。  そこで、私は、これもまた議論をかみ合わせたいのですけれども、先日の本会議における私の代表質問に対して、提案者は、各党各会派では党議拘束を外す方向で検討されていると承知しています、こうお答えになりました。私は、改めてそのことに関連してお尋ねをしたいのです。  同一の政党の中でさえ見解を一つにまとめかねるようなこの問題を、あえて法律にして、どうして国民を拘束することができるのか。党議拘束を外しているから自由な議論が保障されるんだというその議論はもっと深めなければいけない、そのように私は考えますが、いかがでしょう。
  156. 五島正規

    五島議員 委員の御指摘は二つあると思います。  一つは、まさにこの問題は個々の人の人生観、死生観の問題でございます。したがいまして、先ほどからの議論の中にもございますが、そのことは、そういう臓器移植ということ、脳死からの臓器移植ということを認めるか、認めないかという立場を第三者の立場に立って判断するという場合にも当てはまります。もう一つは、みずからがドナーとなるかどうかというときにおいてもこれは重視されなければいけないという意味から、この問題は、いわゆる遺体に対する権利問題とは離れて、ドナーの、本人の承諾というものが必要だと考えているところでございます。  もう一つは、では、そういう状況の中において法律の整備をあえて急ぐ必要はないのではないかという御意見でございますが、このことにつきましては、現実に移植によって救われる、救いを待っている患者は客観的に多数存在している。そして、それをする技術というものが我が国においても海外その他においても一定の蓄積をされてきている。そういう状況の中においては、このことをあえて医療の現場あるいは国会の場において、助かる命を助けるという意味において、大多数の合意を待つまでもなくそれを進めていくということについては、私は誤っていないのではないか、そのように考えています。
  157. 児玉健次

    児玉委員 私たち日本共産党には何人か議員がおりまして、そしてこの問題について真剣な論議をしております。私はその部分を代表して今質問をしているのですが、先ほど言いましたように、この問題について国民の合意が成立していない。おとといの世論調査でも、臓器法案の成立という点で、急ぐべきか急ぐべきでないか、完全に二つに分かれている。そういう状態で性急な立法化を行うべきでない、このことで私たちはまとまっているのです。  そして、そこで、皆さんもこの問題はすぐれて人間の精神の内面に深くかかわる問題だとおっしゃる。だから党議拘束を外すと言われるのだけれども、国会議員はこの議論が審議されている間自分は自由だとお考えかもしれないけれども、これが法律になったら、国民を拘束するのですか。そして、自由だと思っていらっしゃる国会議員も、これが法律になったら国民の一人として拘束されるわけですからね。そこのところの問題というのもこの後私は突き詰めて議論しなければいけない。いかがでしょうか。
  158. 五島正規

    五島議員 まさにその点において、本人の意思というものが必要である、すなわち本人がドナーになることを承諾する、そしてドナーの登録システムをきちっと整備する中において移植を成功させていくということが必要なのだというふうに考えています。
  159. 児玉健次

    児玉委員 終わります。
  160. 町村信孝

  161. 秋葉忠利

    秋葉委員 先日の委員会に続いて、何点か、短い時間ですが、質問をさせていただきます。  私も、昨日ですけれども、金田誠一議員、山本孝史議員等と一緒に、脳死を人の死としないという立場で臓器移植法案を提出させていただきました。この二つの法案、共通点もありますし違っている点もありますが、その両者がきちんと比較対照されるような形で議論されることを皆さんにお願いしたいと思います。  それで、私たちの立場の一つは、ドナーの人権はもちろんのことですけれども、レシピエントの人権もやはりきちんと視野に入れて考えなくてはいけない。  特にそれがどういうところにかかわってくるかといいますと、ただ単にこれは心臓移植、話を単純にするためにそれに限りますが、心臓移植をやればいいというだけの話ではなくて、手術はしたけれどもすぐ死んでしまったというのでは、これは全く何のために犠牲を払い、そして手術をしたのかわからなくなります。そういった、倫理の問題も大事ですけれども、同時に、手術を受けた方がだれの目にもわかるようなきちんとした結果を得るということも大事だと思います。  そのために、例えば現在の日本移植医療の水準は一体どの程度なのか。心臓移植日本国内では行われていないはずですから、国内で経験を持っていらっしゃるお医者さんはいないはずですし、医療施設としてもそういう経験は全くない。でも盲腸の手術ができるからできるんだという話になるというレベルでも私はないと思いますから、そうすると、全く経験のない医療施設、そして、お医者さんの場合には外国で経験を積まれている方もいらっしゃると思いますので、一体、この無に近い日本医療水準をどの程度の期間をかけてどういうふうに上げていこうというふうにお考えになっているのか。  それで、実はその間、医療の水準がきちんと上がるまで、何人の方かが不十分な施設で不十分な技術のもとに残念ながら不幸な結果を迎えられるというようなことにもなるわけですが、こういった点についてはどうお考えなのか、提案者の方の御意見を伺いたいと思います。
  162. 能勢和子

    能勢議員 秋葉先生の御質問にお答えしたいと思います。お答えというか、見解を述べさせていただきたいと思います。  先ほど先生もおっしゃられましたように、我が国ではそうした手術は行われておりませんが、今行われております腎臓移植について比較をしてみますと、欧米豪と移植成績を比較しますと、我が国においての死体からの腎移植の場合、一年生存率が八八%、三年生存率が八四%。すなわち、どのくらい生きるかということが一つのこの臓器移植の成功といいますか、生存率が一つの水準をあらわすものと考えた場合に、そのような数値が出ております。そしてまた、欧米豪ではそれに対して九四%、九〇%となっておりますから、若干我が国の移植成績が低いわけでありますが、しかし、医療水準としてはその点について遜色ないのだろうというふうに思っています。  しかし、それから……
  163. 秋葉忠利

    秋葉委員 それでもう結構です。質問に答えていただきたい。私は、心臓移植の水準をどう上げるかということを聞いているので、カキの実はおいしいですかということを聞いたときに、私はリンゴはおいしいですというのは答えには……
  164. 町村信孝

    町村委員長 秋葉さん、ちょっと待って。委員長が指名していないのです。議事録の都合がございますので。  では、能勢さん。
  165. 能勢和子

    能勢議員 はい。続けて答えさせていただきます。  実際に、心臓肝臓移植について今言おうと思ったところなんです。  心臓肝臓移植については、移植施設ですが、これから行おうというときには、移植関係学会合同委員会におきまして、我が国において脳死移植を行うにふさわしい基盤を整備したい、そのためには施設を特定して、移植を行う人、材料、人材、そういうものをすべてやらなきゃいけないということを言っておるわけです。  それから、移植先進国であります。アメリカ、ヨーロッパにも日本から大変留学しておりますし、実際に移植を行った経験のある医師が多数帰国していることも御存じのとおりであります。だから、心臓肝臓移植がもし行われた場合にも、それ相当の成績が期待できるものと考えています。  そしてまた、実際に日本でこの法案が通りまして移植が行われ出した場合には、さらに水準を上げるために、当然のことながら、外国に、アメリカに留学するとかあるいは研究するとか、そういう臨床的な観点からも移植自体の実績を上げていかなきゃいけない。そうした、法案が通った後、移植が行われる段階では、おのずと医療水準は上がっていくというふうに考えています。
  166. 秋葉忠利

    秋葉委員 今のお答えは、心臓移植に関しては希望的観測ですね。事実ではなくて、努力をしますからその結果はよくなるでしようというお答えでした。  それから、私が伺った、医療水準が上がるまでに不幸な結果を迎えられるような方が当然出てくるはずだけれども、そういう方についてはどうお考えですかということも全く伺えなかった。私は、そういった点を大変不安に思っております。  医療水準の考え方については、きちんとした計測の方法があります。具体的に、例えばアメリカでは、どういったことが医療水準、心臓移植の水準を高めるために関係があるかということが実証的にきちんと調査されております。しかも、アメリカの医師会のジャーナルにはその論文がきちんと提出されて出ておりますし、これは医学界では恐らく常識と言っていいと思うのですけれども、そういった結果に基づいて今のような希望的観測をお述べになったのでしょうか。
  167. 自見庄三郎

    ○自見議員 お答えをいたします。  秋葉先生……(秋葉委員「一言でいいです」と呼ぶ)ええ。要するに、日本の今の医療レベルが心臓肝臓臓器移植にたえるのか、こういう話……(秋葉委員「いやいや、そうじゃなくて、どう押し上げるのか」と呼ぶ)ええ。押し上げるのかということでございますが、移植関係学会合同委員会が、ちょっと細かいことを申し上げて恐縮でございますが、どういった基準で病院を選ぶかということを決めております。  それは御存じのように、心臓を一年間に百例以上を手術をしたのだとか、あるいはVADという大変難しい臨床経験がある病院でないと指定をしないとか、あるいは肝臓は十例以上をやるだとか、あるいは術者として二十例以上の肝の手術の経験者が二名以上いるとか、また、さっき午前中も出ましたけれども、そこに移植医のみならず、関連の内科の専門医、脳死を判定する専門医、認定医がいるかとか、あるいは免疫、あるいは麻酔等々きちっとした基準を決めている。  やはり最初でございますし、また非常に医療技術の高いところで臓器移植をせねばなりませんから、その辺、今全国心臓では四カ所、肝臓では六カ所。それは十分、今さっき能勢先生も答えられましたけれども、今の医療のレベル、世界のレベルを考えると、もしこの法律が通れば、私は、日本医療のレベルは、また外国からたくさんの、臓器移植の経験のある医者もおるわけでございますから、今の日本の医学のレベルを考えれば、十分にたえ得るというふうに私は思っております。
  168. 秋葉忠利

    秋葉委員 今心臓百件とおっしゃいましたか。(自見議員心臓手術ですね。普通の心臓を百以上している」と呼ぶ)普通の心臓手術ですね。心臓のトランスプラントではなくてですね。わかりました。  アメリカの例ですけれども、これはエバンズという人が中心になって行った調査が一つございます。それから、あと幾つかあるのですけれども、その調査の中で、一番決定的なのは何かというと、一つ施設で年間九件以上の心臓移植をするかどうかというところが非常に大きな分岐点だということが実証的にわかっています。それは当然御存じだと思って申し上げたわけですけれども、しかも、アメリカの現在百五十以上あるこういった心臓移植をする施設においては、大体半分以上、八十ほどの施設がそれ以下の数しか心臓移植手術をしていないということで、非常に明確なデータが出ております。  例えば、そういった実証的なデータ、それから、今いろいろおっしゃいましたけれども、例えば施設で、ほかの関連分野の方がいらっしゃるとか、あるいは看護スタッフが重要である、そういったことは必要条件としてまずどうしても満たさなくてはいけないところの話なんですけれども、それ以上に大事なのは、要するに、施設としてどのぐらいの量の手術ができるかということになります。  その点を私は、皆さんどういうふうに今後、例えば具体的に法律を運用していく上でお考えになっているかということを伺いたかったのですけれども、委員長にお願いしたいのですが、今のような件は、非常に私は大事な点だと思います。ただ単に、期待によって、努力するからできるでしようといった議論でこれは決めてはいけない問題で、今申し上げましたように、例えば実証的なデータがある分野については、きちんとしたデータに基づいた議論の整理を行って、事実に基づいた議論であるのか、あるいはただ単に期待を述べているだけにすぎない主張なのかということを整理していただいた上で、それなりの結論を出すような手順をぜひ踏んでいただきたいと思います。  それで、済みません、時間が大分たってしまいましたので、もう一つ伺いたいのです。  これまた日本の社会では定着していない医療に関する慣行といいますか、よいプラクティスの中で日本では定着していないものの中に、セカンドオピニオンを必ず聞かなくてはいけない、特に重要な決定の際にはそれが必要だということが常識になっているわけですけれども、臓器移植のような重要な問題の場合には、当然セカンドオピニオンを求めるということが私は大事だと思います。  ただし、臓器移植のような場合には、時間もありませんからこれは非常に難しい選択になるわけですけれども、その点はどうお考えになっているのか。緊急性の方が優先するからセカンドオピニオンはなくていいのか、それとも、フェアであるということを優先して、たまには間に合わないことが出てくるかもしれないけれども、やはりフェアなやり方ということを徹底するという方針なのか。あるいは、それ以上に何かいいやり方があるのか、その辺を伺いたいと思います。
  169. 能勢和子

    能勢議員 ただいま先生おっしゃいましたセカンドオピニオンの制度につきましては、当事者以外の第三者の意見を聞いてということだろうと思います。そういうことを治療方針に反映させるということをおっしゃっているわけであろうと思いますけれども、日本において、その概念とか必要性についての議論そのものが必ずしも十分でない今状況にあると理解しています。  しかしながら、移植医療は、さまざまな分野の医療従事者の協力なくしては成り立たない学際的な医療分野でありますので、実際の移植に際しましては、さまざまな医療関係者の判断や意見が治療に反映されている。先ほど先生おっしゃいましたように、医師だけのみならず、さまざまな医療スタッフがそこに入っているわけでございます。  例えば、心臓肝臓移植に際しましては、まず患者の主治医である内科医が長時間にわたる診療の経過から、臓器移植の適応があるかどうかという判断をしておりますでしょうし、適応があると判断された後は、今度は移植待機者として名簿に登載されまして、また、臓器の提供があった場合にしましても、待機者の名簿の中から、専ら医学的な観点から定められておりますレシピエントの選択基準に基づきまして移植を受ける患者が決定され、臓器移植が実施されるが、その後の術後の管理についても、専門従事者、我々というか、看護職も含めて専門医療従事者が当たることになっております。さらに、こうした一連の手順が適正に行われているかどうかということの審査の機関設置されることが、移植関係学会合同委員会においても定められているところであります。  なお、そうした臓器提供を行う前提となる脳死の判定についても、御存じのとおり、二人以上の医師がかかわるわけです。こうしたことから、臓器移植の実施に当たっては、セカンドオピニオンという趣旨は十分に配慮されているというふうに考えております。
  170. 秋葉忠利

    秋葉委員 今のお答えを聞いていますと、今のお答えは、整理をいたしますと、実質的にはセカンドオピニオンの以前のファーストオピニオンをどういうふうにつくるかという御説明です。ただ、最後のお答えを聞いていますと、セカンドオピニオンというのは、一人で決定しないで二人で決定すればセカンドオピニオンは尊重されているというような議論の展開です。セカンドオピニオンの重要性ということが全く御理解されていないような御答弁で、大変残念に思います。  セカンドオピニオンというのは、要するに、最初に決定を下した人たちとは利害関係を異にする人、第三者である場合もありますし、あるいは、それに敵対するような考え方を持つ人の場合もありますけれども、そういった方に改めてそれとは違う決定を、あるいは同じ決定の場合もありますけれども、判断を仰ぐ、そのことによって最終的な決定の正しさを少しでも保障しようというシステムです。ですから、今おっしゃったのは、第二番目の、利害関係がない立場からの判定というのが全くないということを今のお答えの中で改めて確認していただいたわけですから、この問題については、やはり重要な問題点であるとして指摘をさせていただきたいと思います。  最後に、これは提案者の皆さん、それから委員長に対するお願いなんですが、私たちの、脳死を人の死としない臓器移植法案ですが、これは、今こちらで出されている皆さんの臓器移植法案が第一のもの、ファーストオピニオンとすれば、我々はこれをセカンドオピニオンの立場で提出いたしました。この趣旨を生かすためには、やはりこの両法案をきちんと比較対照して、精密な議論をやっていただきたい。最後にそのことをお願いいたしまして、私の質問を終わらせていただきます。
  171. 町村信孝

    町村委員長 秋葉君に申し上げますが、ぜひ今度、四月八日、御参加をいただきますように、そして、先ほどの幾つかの専門的なことも含めて、専門家がいらっしゃいますから、どうぞ積極的に御質問をしてください。
  172. 秋葉忠利

    秋葉委員 ありがとうございます。
  173. 町村信孝

  174. 土肥隆一

    土肥委員 土肥隆一です。  いよいよこの臓器移植法案も、我々厚生委員、それぞれ決断をしなければならないときが来つつあるなと。一つは、もう行こうという意見と、いや、これは絶対だめだというのと、もっと厳密にやって議論をしろ、いろいろ分かれるかと思います。  そうしたときに、一体、国民はどの程度この臓器移植法案について関心を持っているのだろうか、あるいは、脳死というようなものについてどのような認識を持っているのだろうかということを考えるときに、何人かのきょうの質問の中にも出てまいりました脳死世論調査が出てまいります。私は、これを読みながら、まことに時宜を得た調査であるなというふうに思ったのです。三十日か三十一日段階日本世論調査会が出したものでありまして、これを読みますと、実によくできた世論調査だと私は思うのです。  例えば、脳死というのを人の死として認めてよいかというと、「認めてよい」というのが六五・五%もある。非常に高いですね。私、こんなに高いとは思いませんでした。じゃ、脳死状態がどういうときに起きるかというと、脳死状態になったら人工呼吸器をつけるんですよ、それで、人工呼吸器でいわば脳死状態が維持されている、そのときに人工呼吸器を外すことについてあなたはどう思いますかと、非常に具体的に聞くわけですね。そうすると、「医師の判断で人工呼吸器を外してよい」、それから「家族の承諾があれば、外してもよい」、合わせますと七九・八%。非常に高い数字だと私は思います。こんなにも、日本の国民は脳死あるいは臓器移植に理解を持っているんだなというふうに感心いたしました。  ところが、もう少し詳しく、心臓肝臓移植するときに、心臓が動いている脳死状態の人から取り出すのですよ、脳死の人から臓器をとるということはいいと思いますか、こう聞きましたら、途端に、六三・八%の人が、「慎重に進めるべきだ」、こういうふうに変わってくるわけであります。ですから、やはり具体的に国民の皆さんに、人工呼吸器まではよかったけれども、心臓が動いている状態から臓器をとるんだということになりますと、慎重にというふうになってまいります。ですから、非常に理解があるけれども、具体的な情報を提供されると、これはちょっと待ってくれ、こういうふうになるわけであります。  それで、なぜ、あなたは慎重にと言うのだとこの六三・八%に聞きましたら、約半数の方が、「脳死の判定が適切に行われるかどうか不安があるから」、五四・三%。それで、もう一つ特徴的なのは、「脳死状態で体を傷つけるのはしのびないから」というのが一四・五%。だから、具体的に、人工呼吸器、そして、心臓が動いている状態臓器をとる、こうなると、非常に慎重になってまいります。  そこで、もう一つ質問が、第六番目に進めまして、それにもかかわらず、仮にあなたが脳死になったとしたら、あなたの、自分の臓器移植のために提供する意思がありますかと聞きましたら、「ある」という人が五五・一%。だから、私は、非常にやはり認識も高いし、脳死状態についての、あるいは臓器移植についても理解がある。人工呼吸器を外すことについても、医師か自分の家族の判断で外してもいい、しかし、まだ心臓が波打っているときに臓器を取り出すのには忍びない。しかし、自分が脳死状態になったら臓器を提供してもよいという人が五五・一%もあるというのは、私はすばらしい国民だというふうに思うのであります。もちろん、「ない」という人が三七%あります。  そこで、国会の審議に入ってまいります。脳死の人から臓器移植を認める臓器移植法案は、国会での審議が進んでいません、この法案について、移植を待つ患者のために早急に成立させるべきだという意見がある一方、人の死に関する問題なので、時間をかけて結論を出すべきだという意見もありますが、あなたはどうですかというときに、初めて、先ほど児玉先生がおっしゃったように、「成立を急ぐべきだ」が四七%、「成立を急ぐべきでない」というのが四五%となってまいります。非常に、国会の審議に対して、やはりブレーキをかけようとしているわけであります。  そして、移植学会のことも聞いておりまして、移植学会が独自のルールをつくって、臓器移植法が制定されていない状況のもとで脳死移植を実施することについてどう思いますかとり「法律の制定を待つべきだ」が五八・四%、「制定されなくても実施すべきだ」が二五・三%。ですから、やはり国民の気持ちは非常に揺れているわけであります。  そういう揺れた中で国会審議が進んでいないとこの世論調査は言うわけでありますが、もう我々はそろそろ結論を出す状況に来ていると私は思うのでありますが、こういう国民の臓器移植に関する非常な意識の高さと、そして、自分も脳死臓器を提供していいという人が半数以上ある中での国会審議だ、このように考えますときに、一体これはどうするのか。  国民は、私なりにまとめれば、この脳死判定への不安はまだ解消していない。つまり、死ぬということ、それを脳死をもって死ぬということにまだ自信がない。それから、移植学会のことについて言えば、やはり医学界への信頼感が欠けている。それで、この移植学会のような独走を許さないでへ法律を待ってからやれと一方で言いながら、法案は急ぐべきでない、こういう結論になるわけですね。  こういう中で、法案提案者の方は、一体、今の国民の心情というものを、あるいは、このアンケートに出てまいりました結論などを見ながら、もうそろそろ採決に入るべきか、まだ議論を続けるべきか、その辺のことについての御意見を聞きたいと思います。
  175. 五島正規

    五島議員 提案者の側から申し上げますと、慎重に審議を尽くすということは単に時間をかければいいということではないのではないか、やはりこの間非常にこの審議は、先生方のお力によりまして進んでまいったと思っております。こうした形での審議を引き続き続けていただくことによりまして、一日も早くこの法案が通過して、我が国における移植というものの実施ができるということを望みたいと思っております。
  176. 土肥隆一

    土肥委員 さりとて、これは大変な法案でございまして、私も確信を持ってこうだとは言えないわけであります。  しかし、旧法案から新法案に移るときに、いわゆる親族のそんたくというものを削りましたつ削ったのはいいのですけれども、私も初めから削った方がいいなとは思っておりましたけれども、それで法律的に、例えば殺人罪あるいは死体損壊罪、回避できるかというと、これも回避できないだろう。文書によって本人が臓器を提供すると言いながら、そこに疑義を感じた遺族が裁判に訴えることはあるわけでございまして、いずれにしても、私は医学の現場というのは、この訴えられる、国民から訴えられることから逃れることはできない、そのように思っております。  私ども、法案をつくるときに、最後の残る問題はこの脳死体、つまり、この「(脳死体を含む。)」というふうに入れることによって死が幾つもあるように思うときがあるのでありますけれども、これは間違いのもとでありまして、もし「脳死体」を入れたら、もうすべての死は脳死体で決まるわけですね。  三徴候死というのは今までの伝統的な鑑定だったのでしょうけれども、「(脳死体を含む。)」、こうした場合には、もう脳死体、脳死状態が死の宣言であって、死亡診断書の時刻も脳死状態脳死という状態で書かなきゃいけないということになるのではないか。つまり、死の種類が幾つかあるのではなくて、すべての死は脳死が死だというふうになってしまうのではないかと思うのですが、その辺はどうですか。
  177. 五島正規

    五島議員 脳死が云々という前に、臓器の摘出は死体からでなければならないということが前提でございます。したがいまして、死体から摘出するわけでございますが、今日の救急救命医療の発達の中で、脳死ということが現実に十分時間的余裕を持って存在するようになって、それが全死亡の大体一%とか言われているわけでございます。この一%の人たち脳死という、医療という行為の中から必然的に起こってきた一つの死に対して、その脳死状態から臓器を摘出することによって、いわゆる新しい移植医療発展するということでこの法律をつくるという内容でございます。  したがいまして、死の種類が何種類かに分かれたということにはならないわけでございまして、「死体脳死体を含む。)」ということは、脳死という状態、そのことが死体であるということの一つの例示ということで、すべての死を脳死体で、脳死でもって位置づけるということは、現実に九九%の死が脳死でないという点からいっても当てはまらないのではないかというふうに私は思います。
  178. 土肥隆一

    土肥委員 ちょっとよくわからないのですが、では、五島先生はお医者さんだけれども、死亡診断書を書くときに、これから、この法案が通った後、何時何分御臨終ですというときには、それは脳死でやるんじゃないのですか。脳死状態で判定するんじゃなくて、いわゆる従来の三徴候死でやるのですか。そういう二つの種類があるのですか。
  179. 五島正規

    五島議員 死を迎える九九%は従来どおりの三徴候死で死を迎えているわけですね。心臓死でほとんどの場合迎えているわけです。脳死という状態が問題になってくるのは、いわゆる救急救命医療の中でレスピレーターをつけ、そしてそうした医療の、先ほどの話ではございませんが、蘇生限界点ぎりぎりまで探るという、そういう医療行為を続けた結果として敗北した場合に起こってくる一%の死について、脳死が現実問題になっています。そういうふうな状況でなければ、脳死心臓死との間には通常数分の時間差しかないということの中で、心臓死をもって脳死と判定したとしても何ら問題は起こってこないわけでございます。  そういう意味では、この脳死というものが、おまえはどういう形で臨終を決定しあるいはやっているのかということについて言えば、脳死以外については心臓死でもってやっていく、そして脳死についてのみこれは竹内基準を採用して、そしてそこで二回目の判定によって脳死が確かめられた、その時点をもって脳死という判断を下すということになると思います。
  180. 土肥隆一

    土肥委員 いや、まあ実際はそうでしょうけれども、理屈からいうと、「(脳死体を含む。)」としてしまうと死は一つなんじゃないですか。ですから、脳死状態を、ああこれは脳死状態だと見ながら三徴候死で死亡診断書をお書きになるかもしれないけれども、実際上、その法文からいえば脳死状態脳死体で決まるわけですから、脳死体が優先するんじゃないですか。だから、三徴候死の前に脳死体が起こっているわけですね。その時間を死亡診断の時刻に、第一回目のといいましょうか、人工蘇生器をつけているときは第一回目ということになるでしょうけれども、普通の場合でもその脳死状態を死亡診断時期に今後は当てはめることになるのか、そしてお医者さんは死に行く人を前にして、脳死体のところで、御臨終です、こう言うのか。そういうふうにしないと死が移動しますね、死の時期が。これはどうなんですか。
  181. 五島正規

    五島議員 死というのは当然一元的なものです。ただし、この脳死という問題については、心臓死のように心臓がとまったある瞬間をもつて決定するということは、少なくとも現在の医学においては困難だと思います。したがいまして、脳死というものの存在を確実に確定した時期、そのときをもって死の時間としているということでございます。  したがいまして、二回目の脳死判断で脳死が確認されたときを脳死の時間とするということは一つの社会的取り決めであって、そのことが医学的に脳死を、現実に脳死に至った、その厳密な意味での医学的な時期であるかということについては、そうではないだろうというふうに思います。
  182. 土肥隆一

    土肥委員 済みません、私、しつこいようですけれども、これからこの法案が通りますと、あらゆる医者は、それが救急救命医であれ普通の内科医であれ、お亡くなりになるときには脳死状態というのを想定しなきゃいけないわけですね。そして、それを言うか言わないかというのは別にして、その時刻が死亡時刻であろう。脳死状態に入ったときが死亡時刻であろうし、第一回目、第二回目は別にして、私は第一回目だと思いますけれども、そして死亡時刻がそこで決定する。だから、私、この法案が通りますと、すべてのお医者さんは脳死というものを勉強しなきゃいけない、そして死亡診断書を書かなきゃいけないということが起こるだろうというふうに思います。それは意見として、少し煮詰まりませんけれども、そのくらいにします。  最後に、したがって私は、この法案を、この世論調査から見てもかなり国民の理解は得られるだろうというふうに思います。しかしながら、立法府あるいは議員としてこの法案をつくらなきゃいけない、完成させなきゃいけないというときに、この「(脳死体を含む。)」というのを取り外しまして、臓器脳死状態から摘出することができる、あるいは脳死と判定された者から摘出することができるということにして、この脳死すなわち死体脳死体ということを言わなくてもいいんじゃないかと思うのですが、その辺はどうなんでしょうか。
  183. 五島正規

    五島議員 対案の中には「脳死状態」という言葉が使ってあります。医学用語において状態ということを指すときには、通常、生ある者に対する一つの現象を指すわけでございます。  したがいまして、脳死状態というのは、生があるということを前提にして、一つのそのときにおける症状を指すことになると思います。脳死というのは紛れもなく死である以上、それを生ある者として表現するということについては、これは大変問題になってくるということで、私は到底賛成できないというふうに思います。  また、それと同じようにおっしゃるわけでございますが、脳死が判定された場合という場合、脳死というのは死でございますから、これは用語として言えば、現在の、我々が出している法律との間には矛盾がないものかなと個人的には思います。
  184. 土肥隆一

    土肥委員 ですから、生きているか死んでいるかという議論になると、脳死というのは死んでいるんでしょう。生きている状態ではないわけであって、死んでいるわけですから。ですから、それを死んでいるということを言うと、いや、生きているんではないのという議論にまた戻りますけれども、国民もそうだと思うので、それはもう脳死体とは言わないで、脳死状況にあるとか脳死と判定されたところで臓器をとっていいよという法案にしたら、これで我々もすっとする、私も何か救われるような思いがするのですが、最後にもう一度。
  185. 五島正規

    五島議員 脳死というものが死でないということになりますと、前回も御答弁させていただきましたが、生ある者から他の生を長らえさせるために一つの生を奪うということを医者の社会機能として与えることになります。そのことは絶対許されないというふうに考えております。また、医者にはそういう社会的な使命がないというふうに考えております。  先ほど児玉委員の御質問に対して答弁させていただきました。仮に臓器の保存のためであろうとも、救急救命医療というものは、移植医療といかに矛盾しようとも、救急救命というのは最後まで貫徹されるべきであるという観点からいえば、生ある者から臓器をとるということが医療の機能として存在するとは私は思いません。そういう意味において、医学的に明快である脳死が死であるという状況をあえてあいまいにするということであるとすれば、賛成できません。  ただ、先生がおっしゃっている表現の問題として、脳死状態というのは生あることを前提にするのに対し、脳死の判定が下ったというのは死の判定というふうな内容でございます。したがって、そこのところを先生がどちらの意味でおっしゃっているかによって、我々の意見と近いのか遠いのか決まってくるのかなというふうに思います。
  186. 土肥隆一

    土肥委員 終わります。
  187. 町村信孝

    町村委員長 次回は、明二日水曜日午前九時五十分理事会、午前十時委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。     午後五時三分散会