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1997-03-25 第140回国会 衆議院 厚生委員会 第8号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成九年三月二十五日(火曜日)     午前十時一分開議 出席委員   委員長 町村 信孝君    理事 佐藤 剛男君 理事 住  博司君    理事 津島 雄二君 理事 長勢 甚遠君    理事 岡田 克也君 理事 山本 孝史君    理事 五島 正規君 理事 児玉 健次君       安倍 晋三君    伊吹 文明君       江渡 聡徳君    大村 秀章君       奥山 茂彦君    嘉数 知賢君       河野 太郎君    桜井 郁三君       鈴木 俊一君    田村 憲久君       根本  匠君    能勢 和子君       桧田  仁君    松本  純君       山下 徳夫君    青山 二三君       井上 喜一君    大口 善徳君       鴨下 一郎君    坂口  力君       福島  豊君    桝屋 敬悟君       矢上 雅義君    吉田 幸弘君       米津 等史君    家西  悟君       石毛 鍈子君    枝野 幸男君       瀬古由起子君    中川 智子君       土屋 品子君    土肥 隆一君  出席政府委員          厚生政務次官 鈴木 俊一君  委員外出席者         議     員 中山 太郎君         議     員 自見庄三郎君         議     員 能勢 和子君         議     員 桧田  仁君         議     員 山口 俊一君         議     員 福島  豊君         議     員 矢上 雅義君         議     員 五島 正規君         衆議院法制局第         五部長     福田 孝雄君         厚生省保健医療         局疾病対策課臓         器移植対策室長 貝谷  伸君         厚生委員会調査         室長      市川  喬君     ――――――――――――― 委員の異動 三月二十五日  辞任         補欠選任   山下 徳夫君     河野 太郎君 同日  辞任         補欠選任   河野 太郎君     山下 徳夫君     ――――――――――――― 三月二十五日  すべての希望者が安心して受けられる公的介護  保障に関する請願石井郁子紹介)(第一一  九六号)  同(児玉健次紹介)(第一一九七号)  同(瀬古由起子紹介)(第一一九八号)  同(藤木洋子紹介)(第一一九九号)  同(藤田スミ紹介)(第一二〇〇号)  子供性的搾取・虐待をなくすための立法措置  に関する請願(辻元清美紹介)(第一二〇一  号)  同(中川智子紹介)(第一二〇二号)  同(辻元清美紹介)(第一三二一号)  乳幼児医療無料制度確立に関する請願石井  郁子紹介)(第一二〇三号)  同(児玉健次紹介)(第一二〇四号)  同(瀬古由起子紹介)(第一二〇五号)  同(藤木洋子紹介)(第一二〇六号)  同(藤田スミ紹介)(第一二〇七号)  難病のための新国立病院リューマチ科及び  プール療法に関する請願山本孝史紹介)(  第一二〇八号)  介護保障確立に関する請願穀田恵二紹介  )(第一二〇九号)  同(辻第一君紹介)(第一二一〇号)  同(寺前巖紹介)(第一二一一号)  同(不破哲三紹介)(第一二七五号)  同(吉井英勝紹介)(第一二七六号)  公的介護保障制度早期確立に関する請願(金  子満広紹介)(第一二一二号)  同(木島日出夫紹介)(第一二二二号)  同(辻第一君紹介)(第一二一四号)  同(正森成二君紹介)(第一二一五号)  同(矢島恒夫紹介)(第一二一六号)  同(春名直章紹介)(第一二七七号)  同(矢島恒夫紹介)(第一二七八号)  厚生省汚職の糾明、医療保険改悪反対に関する  請願大森猛紹介)(第一二一七号)  同(児玉健次紹介)(第一二一八号)  同(佐々木陸海紹介)(第一二一九号)  同(志位和夫紹介)(第一二二〇号)  同(辻第一君紹介)(第一二二一号)  同(東中光雄紹介)(第一二二二号)  同(藤田スミ紹介)(第一二二三号)  同(古堅実吉紹介)(第一二二四号)  同(松本善明紹介)(第一二二五号)  同(吉井英勝紹介)(第一二二六号)  同(石井郁子紹介)(第一二七九号)  同(大森猛紹介)(第一二八〇号)  同(金子満広紹介)(第一二八一号)  同(木島日出夫紹介)(第二一八二号)  同(児玉健次紹介)(第一二八三号)  同(穀田恵二紹介)(第一二八四号)  同(佐々木憲昭紹介)(第一二八五号)  同(佐々木陸海紹介)(第一二八六号)  同(志位和夫紹介)(第一二八七号)  同(瀬古由起子紹介)(第一二八八号)  同(辻第一君紹介)(第一二八九号)  同(寺前巖紹介)(第一二九〇号)  同(中路雅弘紹介)(第一二九一号)  同(中島武敏紹介)(第一二九二号)  同(春名直章紹介)(第一二九三号)  同(東中光雄紹介)(第一二九四号)  同(平賀高成紹介)(第一二九五号)  同(不破哲三紹介)(第一二九六号)  同(藤木洋子紹介)(第一二九七号)  同(藤田スミ紹介)(第一二九八号)  同(古堅実吉紹介)(第一二九九号)  同(正森成二君紹介)(第一三〇〇号)  同(松本善明紹介)(第一三〇一号)  同(矢島恒夫紹介)(第一三〇二号)  同(山原健二郎紹介)(第一三〇三号)  同(吉井英勝紹介)(第一三〇四号)  国民医療及び建設国保組合改善に関する請願  (瀬古由起子紹介)(第一二二七号)  同(辻第一君紹介)(第一二二八号)  同(中島武敏紹介)(第一二二九号)  国民健康保険制度抜本改革に関する請願(小  野晋也君紹介)(第一二三〇号)  同(津島雄二紹介)(第一二三一号)  同(仲村正治紹介)(第一二三二号)  同(小野晋也君紹介)(第一三〇五号)  同(尾身幸次紹介)(第一三〇六号)  同(津島雄二紹介)(第一三〇七号)  同(仲村正治紹介)(第一三〇八号)  同(平沼赳夫紹介)(第一三〇九号)  医療等改善に関する請願玄葉光一郎紹介  )(第一二三三号)  同(田中和徳紹介)(第一二三四号)  同(小里貞利紹介)(第一三一〇号)  同(木村義雄紹介)(第一三一一号)  同(玄葉光一郎紹介)(第一三一二号)  同(河野太郎紹介)(第一三一三号)  同(鈴木恒夫紹介)(第一三一四号)  同(田中和徳紹介)(第一三一五号)  同(松下忠洋紹介)(第一三一六号)  同(保岡興治紹介)(第一三一七号)  若中年層を含めた介護保険創設医療保険改革  の見直しに関する請願岩田順介紹介)(第  一二三五号)  同(五島正規紹介)(第一二三六号)  同(辻一彦紹介)(第一二三七号)  同(鉢呂吉雄紹介)(第一二三八号)  同(日野市朗紹介)(第一二三九号)  同(小林守紹介)(第一三一八号)  同(中桐伸五君紹介)(第一三一九号)  医療保険制度改悪反対公的介護保障確立に  関する請願木島日出夫紹介)(第一二四〇  号)  同(坂上富男紹介)(第一二四一号)  同(辻一彦紹介)(第一二四二号)  同(辻一彦紹介)(第一三二〇号)  医療保険制度改悪反対公的介護保障制度の確  立に関する請願坂上富男紹介)(第一二七  三号)  児童福祉法の理念に基づく保育の公的保障の拡  充に関する請願瀬古由起子紹介)(第一二  七四号) は本委員会に付託された。     ――――――――――――― 本日の会議に付した案件  臓器移植に関する法律案中山太郎君外十三  名提出、第百三十九回国会衆法第一二号)      ――――◇―――――
  2. 町村信孝

    町村委員長 これより会議を開きます。  第百三十九回国会中山太郎君外十三名提出臓器移植に関する法律案を議題といたします。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。住博司君。
  3. 住博司

    住委員 きょうは二回目の、臓器移植についての法案審議でございます。脳死者として死を約束された人と、移植希望者として死に直面しながら生を希求している人、この二つの生と死、この問題を考えながらきょうは質問をさせていただきたいというふうに思います。  まず、ドナーとその家族についての視点からお尋ねをしたいと思います。  死者との別れというのはだれでもあると思うのですけれども、家族にとっては、お医者さんにも看護婦さんにもわからない人間関係がその背景にあるものですから、言ってみれば特別な感情というのが芽生えやすいというふうに思います。故人との永遠のつながりとか一体感というものを求める人にとっては、まさにその臨終の場にいる、ないしはみとりの作業ということが特別の意味を持ってくるというふうに思います。そういったことから考えますと、その部分というのは、だれにも立ち入ることのできない、言ってみれば不可侵の部分であろうというふうに思うのです。  そこに脳死の問題が出てきた。まさに医療技術が進歩をされまして、今までなら死を従容として待たなければならなかったけれども、移植というものによってもしかすると新たなる生を得られるかもしれない、そういう方が一方でいらっしゃる。そして、一方で脳死状態になっている人がいる。  技術がある以上はその技術を使って新たな生を求めるということについて社会的な合意ができるとするならば、これからどういうことが起きるかというと、あなたの御主人あるいはお子さん脳死状態になりました、これで治療を中止します、もし体の一部を提供していただけるならば、今生命の危機に瀕しておられる方が助かるかもしれません、どうかよろしくお願いしますという現場がそれぞれの医療現場の中で出てくるであろうというふうに想像せざるを得ないわけですね。  しかし、そのときに見落としてならないのは、脳死状態になって臓器を提供できる人というのは若い方が多い。特に不慮の事故というのがありますから、言ってみれば、長い間の末期治療を受けて死を待っている人とは違いまして、突然のことが起きて、そしてなおかつ、あなたのお子さんの、あるいは御主人の、あるいは奥さんの心臓肝臓を摘出させていただきたいという話になる。そのときの感情というのは、だれにもはかり知ることのできない大変難しい問題をはらんでいるのだ、だからこの問題がいろいろと大きな論議を呼んでいるのだと私は個人的に思っております。  そこで、お聞きをしたいのですけれども、例えば家族にとっては、言ってみれば別れという哀惜の念というのを持ちながら、しかし、極めて短い時間の間に決断を迫られるということになりますね。そういう御家族気持ち感情について、提出者としてどのようにお考えになっているのかということをまず最初にお聞かせいただきたいと思います。
  4. 中山太郎

    中山(太)議員 住委員御指摘のように、人の死というものは家族にとっても大変悲しいものでございますし、従来のような死の三徴候による、家族がすぐに死を確認できるような死というものと違いまして、救急医療センター等において脳死判定されるといった場合に、私が現場で見てまいりましたものは、第一回の脳死判定があるまで、家族は外で大変心配そうにお待ちになっていらっしゃる。そして、第一回の脳死判定がされた後、次の六時間の後の脳死判定の第二回が行われるまでに、先生方最後努力をしてほしいというお願いをされる。その間、私の参りましたところでは、御家族がその患者の体をさすりながら、もしもという気持ちを含めて最後努力をされておられる。こういう状況の中で第二回の脳死判定が行われて死が確定されるということになると、やはりまだ別れを惜しむ気持ち患者の体をさすっておられるというような状況現場では見られております。
  5. 住博司

    住委員 今、中山先生がおっしゃったとおりだと思うのですね。やはり体の温かみというものに一縷の望みをつなぎながらというお気持ちがある。  しかし、今までの議論を聞いておれば、脳死状態人間の死と見るのか、あるいは死にかけている重症の脳機能障害者というふうに見るのか、そこはいろいろと扱いは違ってくるのだと思いますけれども、一たん脳死状態と宣告をされてしまったらその状況からの回復は不可能ということでは恐らく一致している。私は、今までその議論を聞いている限りはそうだと思うのですね。そして、人工呼吸器等々を外せば心臓死に至るという説明を受けてまいりました。恐らくそういうことなんでありましょう。  そうしたら、例えば今まで治療対象者であった脳死判定を受けた人、これをほかの第三者、つまり移植希望者のために医学的管理対象者にするのだというときの切りかえがありますね。そのときの説明をいかに行うのか、どういうふうにその説明を御家族の方にされるのかということについての御説明をもう一度いただければありがたいと思います。
  6. 中山太郎

    中山(太)議員 現在行われております腎移植ネットワーク等におきましても、コーディネーターというものが各府県におられまして、脳死判定が行われた場合には、コーディネーター方々がまず呼ばれる、そして、脳死判定した先生方とともに生存中の明確な御意思というものを伺う、あるいは御家族の御意思を伺うという努力をこれからやっていかれなければならないし、現在行われておると思います。それがいわゆるコーディネーターの大きな責任であろうというふうに思っております。
  7. 住博司

    住委員 改めてお伺いをいたしますけれども、今までよく出てまいりました竹内基準というのは、脳死判定するための基準であって、社会的に脳死を死とする、判定をするためのものではないということは御確認できると思うのです。ただ、死の三徴候心臓死を含め三徴候、これを死と定義づけた法律もないわけですから、そういう中で脳死を人の死とする法律案を出した根拠というのは、やはり何回聞いてもよくわからない部分があるのですね。私もそのことから考えたときに、脳の機能が回復不能と判断する際の絶対的な決め手というのは一体何なんだろうかということについて、ぜひこの際、もう一回教えていただきたいというふうに思います。
  8. 中山太郎

    中山(太)議員 現在も、死の三徴候法律で決めておらずに、医師が診断をいたして決定しております。  今回の、脳死判定によって死を確認するといったような場合に、私が現場で見ましたようなカルテとかいろいろなものを調べてみましても、第一回の脳死状態に至る前の脳波、それから第一回の脳死判定のときの脳波、それから六時間後の脳波というものがちゃんと患者の病歴に記録をされておりまして、第二回の判定する時期において、脳波は平たんになってしまっているというところでこの記録を保存しながら死の判断を行う、こういうことであろうと思います。
  9. 住博司

    住委員 それでは、よく私も評論家立花隆さんの本を読むことがあるのですが、立花さんが脳の器質死という言い方をされていますね。脳血流が停止しているということを確認しなければそれは脳死と言えないのではないのか、簡単に言えばそういうことだったと思いますが、このためには相当重装備の検査機器が必要だというふうに聞いておるのですけれども、その点は正しいのでしょうか。  それから、脳の器質死という立花さんのお考えに対する評価について、提出者のお考えをお聞かせいただきたいと思います。
  10. 中山太郎

    中山(太)議員 従来の人間の死、死体におきましても、細胞が全部死んでいるということではないと思います。脳死の場合も、脳の器質死というふうなことをおっしゃっておられますけれども、いろいろな知見を見ましても、また解剖等の所見を見ましても、現在の竹内基準による脳死判定、あるいはプラス聴性脳幹反応等判定によって行われる脳死判定というものについては、脳幹を含む全脳の機能の不可逆的な機能停止ということをもって人間の死として認定するということを、脳死及び臓器移植に関する調査会あるいは日本医師会も、人の死とこれを認めるというふうに発表いたしております。
  11. 住博司

    住委員 そこのところ、要するに、どこをもってして脳死判定するのかということが広くわかっていただけませんと、それは、第一例日、第二例日はかなり厳格にされるというふうに思いますけれども、それが頻繁に起きてきたときに、本当にそれが保障できるのだろうかという疑問点がどうしても残ってしまったときには大変不幸な道を歩むのではないか、私はそんなふうに思うのですね。  したがって、先ほどのコーディネーターの話もそうでしょうし、それから、判定に際するいろいろなシステムをどう完備していくかというのが、これからこの問題については、法律があろうとなかろうと、この技術が発達している以上、つくっていくべきものであろうというふうに思うのですね。  そして、移植学会がつい先日、いろいろな案を出されました。このことについて、今、提出者としては移植学会のあの考え方についてはどう思っておられるのか、そのこともついでに聞いておきたいと思います。
  12. 中山太郎

    中山(太)議員 先般発表されました移植学会のガイドラインについては、高く評価をいたしております。
  13. 住博司

    住委員 それでは次に、法案では本人書面による意思表示ということが臓器摘出必要条件となっておりますけれども、例えば、書面による意思表示が難しいと考えられます知的障害者であるとか子供の場合はどのように判断をされるのでしょうか、そのことももう一度確認をしておきたいと思います。
  14. 中山太郎

    中山(太)議員 知的障害者につきまして先生お尋ねがございますが、私は、公正な第三者審査機関の設置が必要であろうと信じております。
  15. 住博司

    住委員 先ほどから中山提出者お話で、脳死判定された患者の法的な取り扱いの場合、二回目の判定死亡時点考えるのが当然だというふうに思うわけですけれども、二回目の判定時とする、これを適切だとお答えになっているその根拠というのはどこなんでしょうか。一回目と二回目の時間の経過というのがございますけれども、一回目と二回目で状況が余り変化していないときにどちらの方を死亡時刻とするのか、そのことについてはどのようなお考えなんでしょうか。
  16. 中山太郎

    中山(太)議員 第二回目をもって死亡時刻と認定すべきだと考えております。
  17. 住博司

    住委員 このことについても、例えば遺族だとか病院の都合によって時間が変動するようなことがあったら、これは将来的に大変な問題になる。そのことはぜひ確認をしておかなければならないことだと思うのです。  それから、ちょっと唐突な意見なんですけれども、例えば、さっき、みとり現場といって、家族本人の体の温かみをもって、まだ生きているのだ、生きているのだ、こういうふうに思っていて、そして意思確認をしているときに、お父さんは、いいですよ、本人意思表示をしているのだからいいですよ、お母さんは、絶対だめだ、こう言って分かれてしまったときはどういうことになるのでしょうか。
  18. 中山太郎

    中山(太)議員 それは、先生お尋ねの場合は死の判定の場合だろうと思います。  お父様が、いい、お母様は、困る、もっとやってくれとおっしゃった場合には、御家族の同意がない場合ですし、御家族希望がさらなる治療を求めておられる場合でございますから、先般、本会議でもお尋ねがございましたように、医療行為は継続されるものと考えております。
  19. 住博司

    住委員 そうすると、もう一つ、全くこんなことはあり得ないと思うのですけれども、そのときに、脳死判定をされた人に対して、例えば、この子から臓器を取り出すことは絶対嫌だと言って、そこで心臓を刺してしまったり肝臓を刺してしまったりしたら、これはどうなんでしょうか、死体損壊罪という罪になるのでしょうか、それとも殺人罪になるのでしょうか。どちらなんでしょうか。
  20. 中山太郎

    中山(太)議員 私は法律学者でございませんので詳しいことは存じませんけれども、一般論として、脳死状態のときに家族心臓を刺す、これは、第二回目の死が判定された以降であれば死体損壊罪、もし第一回目のときであれば殺人行為に近いものと判断をすべきだと思います。
  21. 福田孝雄

    福田法制局参事 その状態がもし死体ということでございますれば死体損壊罪ということになるわけでございますし、また、その状態が生きているという状態であれば殺人罪ということになると思います。
  22. 住博司

    住委員 それは中山先生がきちんとお答えをいただいたとおりですからそれで結構なんですけれども、ちょっと横道にそれたような質問をいたしましてまことに申しわけないのですが、この問題は、ありとあらゆる事態を想定しながら御議論していただくことが必要なんだろうというふうに思うのですね。  患者あるいはドナー家族立場から考えるいろいろな問題というのはまだあるのですけれども、それはまた別の方や別の機会にお話を聞けるというふうに思いながら、続いて、レシピエントの立場というものの視点からお尋ねをしたいのです。  例えば、報道記事の中には、移植を受けても必ずしも病状は改善しない。免疫抑制剤の副作用などによって苦しむ人もあるようですね。そうすると、移植患者生活の質をどこまで向上させているかという観点から見ておかなければならないと思うのです。  ですから、その前提として、諸外国移植件数及びその心臓肝臓成績、このことについての今の状況というものをお聞きしておきたいと思います。これは説明員で結構です。
  23. 貝谷伸

    貝谷説明員 御答弁申し上げます。  今先生お話しの諸外国移植件数及びその成績ということでございます。諸外国における臓器移植件数の点につきましては、私ども、欧米豪という地域におきまして、毎年、心臓移植で約三千六百件以上、肝臓移植につきましては六千二百件以上行われているというふうに聞いております。  また、その成績は、国際的な関係学会によりますと、心臓移植及び肝臓移植ともに、一年生存率で見まして約八〇%、五年後の生存率で約七〇%でございまして、このうちかなりの方々日常生活に復帰されているというふうに聞いておりますし、移植自体も大変日常的な医療として欧米では定着しているというふうに聞いております。  また、移植を受けても、先生御案内のとおり、免疫抑制剤の影響などによってその後の生活の苦労も多いのではないか、生活の質がどの程度まで向上するのかという点でございますが、移植を受ける前と後とでは、患者さんの生活の質、いわゆるQOLというものが大変大きく改善するというふうに聞いております。多くの患者さんは、仕事や家事あるいは学校に行くというような日常的な生活を行っているというように聞いております。  例えば、心臓移植の場合で、これは国際的な学会のレポートなんでございますが、心臓の手術前には歩行することもできずに寝たきりの状態人たちが、移植した後の一年目で社会復帰をされ、例えば約七〇%の方につきましては心不全というものもなく全く無症状というところの状態まで回復しているという報告もございます。また、アメリカの研究者報告によれば、心臓移植を受けた八〇%以上の方が社会復帰をされ、特にそのうちの四〇%以上の方につきましてはフルタイムの勤務という状態まで回復されているというふうにも聞いているところでございます。  なお、肝臓移植につきましては、このような外国の明確なデータというものは承知しておりませんが、我が国では生体部分移植もございますし、あるいは海外に渡航して移植を受けられた方もいらっしゃいます。そういった方々お話を聞きますと、多くの方がやはり同様に社会復帰をしているケースが多いというふうに承知しているところでございます。
  24. 住博司

    住委員 今は成功例の、かなり高いというふうな御説明を受けましたけれども、一部には、一般的に言いますと、心臓移植をされる方というのは死ぬ直前の患者に行われるというのでしょうか、そういうイメージがあって、いわゆる劇的な蘇生術のようなイメージで受けとられていると思うのです。私もそんなふうに思っておりましたが、例えば外国の雑誌などに散見するところによれば、むしろそういうことよりも、最重症の患者だと手術の成功率が下がるから、体力があってしかし心臓疾患はある、そういう方を優先させてしまう傾向が出てきているやに書いてある外国の雑誌を私も読んだことがあります。このことは、実を言うと、移植医にとっては、よい手術実績というのは言ってみれば評価にもつながってくるというふうに思うのです。  そういったことを考えると、比較的症状の安定している人をどういう適合で決めるかというのがまず前提にあるのですね。これは公正公平と先ほどからおっしゃっているのだけれども、その公正公平というものをだれがどのような形で保証していくのかということをやはりお尋ねをしないといけないと思うのです。  そして、どんな方でも、要するに症状によって選ばれる患者さんというのはあるわけですね。そうすると、心臓疾患にもいろいろな心臓疾患があると思うのですが、私は素人だからよくわからないのですけれども、心臓移植をすべき疾患とそうではないというのは、例えば移植学会の中でも、ここに限るべきだというような御意見を持っている人もいるし、さまざま意見があると思うのです。  そういう観点から、例えば移植臓器の配分についての公正公平をどのように担保するのかということ、それから、患者さんをどのように選択していくのかということ、このことについて今どのような考え方でこの法案をつくり、実施しようとしているのかということをお尋ねしたいというふうに思います。
  25. 中山太郎

    中山(太)議員 臓器の配分の公平性、公正性というものは、私は、この臓器移植の原則でなければならないと思います。  海外の例を見ますと、臓器移植の配分センターというのがございまして、そこには臓器移植を待っているあらゆる患者のデータがあらかじめインプットされております。そして、そこで血液型あるいは他の生物学的な条件が全部インプットされておって、人のいわゆる心の迷いというものが一切関与するすき間もなく、公正に、最も適合する患者をコンピューターが探し出す、こういったことでございます。  なお、心臓移植につきましては、移動時間も含めて最長四時間でございますし、肝臓の場合も十時間前後というふうに言われております。腎臓の場合は二十四時間というふうに学会報告されておりますから、それに適合した患者さんを公正に選別するということが原則でなければならないと考えております。
  26. 住博司

    住委員 そのためには相当しっかりとしたネットワークというのをつくらないといけないと思うのですが、今の状況で本当にそれができるのだろうかということがまず疑問点としてあるということを指摘しておきたいと思います。そのためには、皆さん方が長い間御議論をしてそういう体制をつくるのだということをやってきたのだと私は信じておきたいと思うのですけれども、そういうことが一つ懸念材料としてどうしても残っているということだけは私は申し上げなければならないというふうに思います。  それからもう一つは、移植を待っている人というのは、常に死の危険というか死の恐れというものに直面しているわけですね。そして一方で、先ほども私申し上げましたけれども、免疫不全だとか拒絶反応だとか、移植を受けた後もそういうストレスがある。言ってみれば、移植を受ける前は、他の第三者の死を待つという、大変、人には経験のできない大きな心の葛藤がある。同時に、移植を受けた後は、本当にこれで大丈夫なんだろうかというまたストレスもある。患者さんのこういう精神的なストレスに対してどのような体制で臨まれようとしているのか、そのことをお尋ねしたいと思います。
  27. 中山太郎

    中山(太)議員 先生御指摘のとおり、臓器移植した後、すべてが翌日から元気になっていくということではございませんで、やはり免疫抑制剤というものを使わなければならない。それも相当長期間使わなければならない場合もありますので、そこで移植を受ける側のレシピエントに関するコーディネーターの仕事というものが登場してくるわけで、あくまでもインフォームド・コンセントをきちっと確立して、そして、患者さんに移植を受けた後の自分の生き方、これについての十分な御理解をいただくことが必要条件であろうと考えております。
  28. 住博司

    住委員 まさにそこが大切なんだろうと私も思います。  それから、先日、一回目の審議のときに、佐藤理事お尋ねをして、移植をする機関というのはごく限られる、一カ所にすべきだというようなこともおっしゃった。今度の移植学会で、言ってみれば自分たちで、ここなら大丈夫ですよみたいな言い方をして何カ所か指定されたというような形になりましたね。  これは例外的な医療だというふうに私は思っているのですね。非常に物すごくスタッフも必要になりますし、医療スタッフじゃなくてコーディネーターのことも含めていえば、さまざまなバックアップ体制というのができなければいけない。そういうことから考えると、本当にこの国に何カ所もできるのだろうかというのが素朴な疑問としてあるのですね。例えば、東西二つに分かれて二つずつにするとか、とりあえずスタートするときにはもっと限定した少数の場所でスタートさせてみて、そして同時に、そのことによって社会的合意をさらに広めていくというようなことを考えられないものだろうか。そのことについてはどうお考えになっておられますでしょうか。
  29. 中山太郎

    中山(太)議員 先生御指摘の点は極めて重要な点を御指摘だと思います。  私も先生に近い考えを持っておりまして、恐らく臓器移植、特に心臓等の移植については、結果は生か死かいずれかであります。その場合に、全部が全部成功するとは限りません。失敗というか、不幸な結果を見る場合もあろうかと思います。しかし、これ以上の移植のドクターはいない、あるいはチームを組んでいる看護婦のスタッフはいない、施設の設備、そういうものもこれ以上のところはないと言われるような機関を絞ってやることによって国民の信頼が確立される、そのように信じております。私は、先生の御指摘のとおり、当初はこの臓器移植を行う機関はある程度数を絞るべきで、その条件を満たすことが必要であろうと考えております。
  30. 住博司

    住委員 先ほどからも中山先生お話しになられたように、これは一にかかって、技術論は技術論としてあるかもしれない、しかし同時に、医に対する信頼感、この医の倫理の確立というものが何よりも不可欠だというふうに思うのですね。一方で、いろいろと指摘をされるようなことが出てくる。医の倫理の確立というものをどういうふうにしていくのか、その方法をきちんと示さない限りは広範な社会的な合意というのはなかなか得られないのではないかと思うのです。  その点について、これからどういった形でこの医の倫理の確立に向けて進んでいこうとされているのかということも同時にお尋ねをしておきたいと思います。
  31. 中山太郎

    中山(太)議員 住委員お尋ねの医の倫理の確立は、医療行為の原則、原点でございます。特に移植医療につきましては、それが強調できると思います。  そのようなことで、移植の機関におきましては倫理委員会というものが設置をされておりまして、単に医者だけではなしに法律学者等も入っておりますし、人間科学を修めた人も入っております。そういう方々によって倫理上の問題を審査されるということが一つの過程で行われます。そして、それにあずかる者、手術に関与する医師たちももちろんその医の倫理というものの原則を忘れずにこの患者医療行為を行うことが必要である、そのように信じております。
  32. 住博司

    住委員 本当に短い間だったのですけれども、いろいろとお聞かせをいただいてありがたかったと思っています。  この問題は、一人一人、本当に真剣に考えなければいけない問題だと思いますし、そして同時に、このことは、まさに死に直面しながら生を希求している人、そしてまたその方を助けたいと思って臓器の提供を意思表示している人、その方々気持ちにもこたえていかなければいけないことだということが一つあります。  それからもう一つは、やはりこれは例外的な医療であることもまた事実です。そしてまた、難治性の病気というものは、心臓肝臓、いろいろとありますし、ほかの病気もあるわけですね。そのときに、この脳死という問題だからこそこれだけの皆さん方の議論があります。ほかの非常にごく少数の難治性の病気についても、私どもは専門家だけに任せるのではなくて、例えば国会の中でもいろいろな議論をすべきものなんだろうなということを考えているということを最後に申し述べさせていただきまして、質問を終えさせていただきます。  ありがとうございました。
  33. 町村信孝

    町村委員長 嘉数知賢君。
  34. 嘉数知賢

    ○嘉数委員 自民党の嘉数でございます。  この臓器移植法案につきましては、私は、いろいろな問題、特に人間の人生観あるいは宗教観あるいは倫理観、こういうものが複雑にまじり合っておりまして、なかなか一概にこうとは言えないものが相当あると思うのです。それだけに、たくさんの議論を重ねていかなきゃいかぬだろうと思いますし、また、幾ら議論してもなかなか納得できないものも相当あると思うのですね。ただ、私の個人的な立場からしますと、少なくともこの移植法案、できるだけ早目に成立をさせていただいて、そして、今まさに死に直面している患者の皆さんが一日も早く光明を見出せるような形にしていただきたい、そういう思いをしております。  ただ、そのためにはいろいろ解決しなきゃいけない問題がたくさんあると思うのですが、それはそれで、三年後にもう一度見直しをするということがあるので、まず転がしてみるということが先じゃないかという思いをしておりまして、余り質問をするつもりもなかったのですが、どうしても質問に立てというものですから、一応私も基本的なことだけ、時間も十五分しかございませんから、質問したいと思うのです。  まず、脳死判定についての私なりに考えた問題点です。  脳死判定のための環境整備というのですか、基盤そのものが整備が十分できているだろうか。  それから、脳死判定は一体だれがどのような形で行うのか。法案で規定されていますけれども、本当にその環境整備も含めてしっかりと確立されておるかどうか。  もう一つは、人の死について、今一般的に認知されているいわゆる三機能判定、心停止あるいは呼吸停止あるいは瞳孔散大というのですか、その三つで死の判定が現在されていますが、今臓器法案を通すことによって、脳死ということが一つの人間の死にとらえられる。そうすると、そこに二つの死ということが現実的に起こるのじゃないかという懸念をしております。  まずその三つについて基本的にお答えいただいてから、あとの質問をしたいと思います。
  35. 能勢和子

    能勢議員 先ほど来から出ております死の判定等々でありますが、今の嘉数先生からの御質問に対しましてお答えいたします。  脳死判定につきましては、我が国においてはいわゆる竹内基準に従って行われているところでありますけれども、竹内基準というのは国際的に見ましても厳格なものであるという評価が医学界では一般的でありまして、脳死臨調や、その後の厚生省に設けられました臓器提供手続に関するワーキング・グループの検討におきましても、竹内基準は現在の医学水準から見る限り妥当なものであるというふうに結論が導かれているところでございます。  また、竹内基準におきましての脳死判定を行う医師でありますけれども、それはやはり、脳死判定に十分な経験を持つ専門医あるいは学会認定医が二人以上で行うというふうに言われております。これにつきまして、そうした医師を救急医学会とか脳神経外科学会等の専門医制度を通じて養成が図られているという状況であります。  さらに、法案成立後の具体的な運用事項を取りまとめました臓器提供手続に関するワーキング・グループによる指針の骨子案におきましては、臓器提供施設を、当分の間、先ほどから出ております適正な脳死判定を行う体制が整った一定の施設に限定していきたいということであります。  以上のようなことから考えまして、脳死判定のための必要な基盤がまず整った上で行うというふうに考えています。  さらに、先生から質問がありました、脳死判定はだれが行うかということにつきましては、今のお答えと重なってまいりますけれども、いわゆる竹内基準では、脳死判定に十分な経験を持ち、移植と無関係、だから臓器を取り出す側と移植する側と別個ということですが、移植と無関係な医師が少なくとも二人以上で判定するというふうに理解しております。  さらに、先生今言われました、人の死に二つの定義があるのではないかという、まさに二つあるということになるわけですけれども、脳死臨調の答申にも触れられておりますように、近年の医学さらに生物学的な考え方、生物学の立場に立ってみても、人の生、生きているという状態というのは、身体の各臓器、器官が相互依存性を保ちながら、それぞれ精神的・肉体的活動や体内環境の維持等のために、いわゆる人間の体の合理的かつ目的に合った役割を分担しながら全体として有機的に統合を保っている状態というのを生と言うわけでありますから、そうしますと、個体としての統合性が失われた状態をもって初めて人の死とするのが主流の考え方だということになるわけです。  同時に、医学的に見て脳死が人の死であるとしても、実際には脳死によって死が判定されるのはほとんど例外的でありまして、大部分の場合はこれまでどおり心臓死、いわゆる三徴候の死をもって死と判定するということが多いと思います。今までの経過を見ましても、実際的に脳死によって死が判定されたのは全死亡例の約一%未満ということで例外的でありまして、大部分の場合はこれまでどおり心臓死、三徴候による死、これをもって死の判定となると思います。
  36. 嘉数知賢

    ○嘉数委員 今、私が懸念しておるのは、脳死というのも人の死、それから三機能の停止も人の死ということになると、亡くなるその場所によって人の死が二つできるわけです。死という人間の尊厳を、この施設で死んだら脳死で死ですよ、あるいは町医者、大変失礼な言い方で町医者、あるいは、もう見込みがないから家に帰させてくれと畳の上で死んだときの死というのは、これは今言われている普通の、一般的知見で言う死と、二つあるわけですよ。そこに、生臭い話ですけれども、例えば遺産相続の問題で、いろいろな法的な問題で死をどうするかということが出てくる可能性が十分あるわけです。そうすると、施設で死んだときの死は脳死判定して臓器移植をしてしまうと、畳の上で死ぬよりも何秒か、あるいは何日か先に死んでしまうことになる。  そういういろいろな問題が出てくるので、我が国に二つの死というのがあるのか、それが何ら差しさわりないのかという疑問を持っているので質問しているのです。これは中山先生
  37. 中山太郎

    中山(太)議員 今御答弁がございましたように、脳死は全日本人の死の一%であります。それは、特に交通事故、墜落事故による脳死状態が極めて多い、発生時間も深夜が比較的多いと統計上出ております。  こういった場合に、まず救急車がその患者を救命救急センターに運びます。自宅で、畳の上で脳死になる、これは脳出血の場合の可能性というものは当然あるわけでございますけれども、大体の場合に、救命救急センターで脳死判定というものは行われていきます。  また、脳死判定する医師というものは、その資格といいますか、認定医が行いますから、一般の開業医で、普通の町のお医者さんで脳死患者を扱うということは極めてレアなケースであるというふうに御理解をいただきたいと思います。
  38. 嘉数知賢

    ○嘉数委員 そんなことを聞いているのではないのです。  要するに、町の病院で、施設のないところで亡くなる人と、それから脳死として亡くなる方、法的に差があるわけですね、時間的に。脳死判定されて、それが例えば遺産相続する場合に大変不都合な部分が出てくる場合もあり得るのではないか。そうすると、日本には人間の死というものが二つあるのですよということに対して不都合はないですかという質問なんです。
  39. 中山太郎

    中山(太)議員 不都合は、私はないと思います。つまり、死の診断権というものは、医師によって行われるわけでございますから、その担当医が、死の三徴候によって死んだという診断をする場合の死、また、病院における脳死の診断をして死を確認する場合、二つあっても、死は一つであります。
  40. 嘉数知賢

    ○嘉数委員 どうもよくわからぬのですけれども、わかりました。  それから、もう一つ質問させていただきたいのです。  たしか、せんだっての秋葉先生質問に対しての答弁で、承諾した臓器以外の臓器を摘出した場合にどうなるかという質問に対して、医師はそういうことはありません、我々は信頼していますという答弁があったのです。医師を私ども信頼はしておりますけれども、しかし、信頼できない医師もいることもまた事実なんです。今、現にオウムの裁判で、医師が自白剤を打ったりいろいろわけのわからぬことをやって被告席に座っている人もいるし、あるいはまた安部先生ですか、被告席に座らされている。そういう意味で、要するに、被告席に座らされている医者もいることからすると、決して全員が信頼できるとは言えないという懸念を持っているわけです。  そうすると、承諾した臓器以外の臓器を摘出した場合に、私ども素人としては全くその確認はできない。しかも、それを確認してくれと言われても、肉親の情として見ることも恐らくできないだろう。そうすると、その部分については、何らかの規制をしなければ起こり得る可能性が十分あるという判断をしなければいけないと思います。  ですから、そのときにそれを行った医師に対する責任というのですか、それは先ほどちょうど話が出ましたけれども、死体損壊罪になるとかいろいろその話もありましたけれども、実質的に医師そのものが行った行為で、承諾しなかった臓器も取り出した場合の医師の責任、これは大変重大な問題があると思うのです。また、強い規制をしておかなければ、行われる可能性もある。そういう意味で、その部分について……。これはやはり、筆頭提案者の中山先生の方が適当だと思うのですが。
  41. 中山太郎

    中山(太)議員 臓器の摘出につきましては、これは一人で行うべきものではございません。あくまでもチームで行うわけでございますし、脳死判定医と、いわゆる移植を行うために臓器を摘出に行くチームは別途のものでございます。そして、それは全部記録が五年間保存されるわけでございまして、もし指定された臓器以外の臓器が摘出されたということが判明いたしました場合には、刑事訴訟の対象になると私は考えております。
  42. 嘉数知賢

    ○嘉数委員 もう一つ、第九条との兼ね合いですけれども、第九条で「病院又は診療所の管理者は、第六条の規定により死体から摘出された臓器であって、移植術に使用されなかった部分臓器」、それとの兼ね合いはどうなるのですか。  質問通告していなかったから……。もう時間ですか。結構です。渋々質問したことですから。わずか十五分で大して質問はできぬだろうと思いながら立っていましたから、結構です。後で私、個人的にお伺いしますから、結構です。  終わります。
  43. 町村信孝

    町村委員長 ちょっと、答弁はいいのですか。
  44. 嘉数知賢

    ○嘉数委員 結構です。後で聞きます。
  45. 町村信孝

    町村委員長 桜井郁三君。
  46. 桜井郁三

    ○桜井(郁)委員 自民党の桜井郁三でございます。  脳死の問題、いろいろ委員会の中でやっておりますが、私もいろいろ調べさせていただいて、重複しているところが多いわけであります。また、人の死というものは大変重要なテーマであり、本当にどこで死と認定するのか。あるいは、日本におきますと、法律というよりは医者の中で決めてきた、それを法律で決めていかなければならないことが今回の法律案になっているのだろうというふうに思うわけであります。臓器移植でなければ助からない患者がおりまして、一方に、移植手術のできる専門の医者が大勢おり、さらに、臓器を提供してもよいという人がいるときに、どうしてもこの脳死の問題を避けては通れないのであります。  今、嘉数委員お話もありましたが、私も、脳死心臓死の二つの死があるというふうに考えておったわけでありますけれども、資料を見てみますと、平成六年五月の衆議院の調査議員報告の中で、イギリスのグラスゴー大学のブライアン・ジェネット名誉教授ですか、心臓死脳死の二種類の死があると考えるのは誤りであるというふうなことが書いてありました。心臓が既に停止している場合でも、死は脳幹機能が停止したときにのみ宣言されるものであります、すなわち、脳幹機能の停止が人の死と考えられると言っております。もちろん日本の場合は、脳死は脳幹を含む全脳の機能が停止した状態ということでありますが、今と同じように、二つの死をどのように理解したらよいのかをお伺いしたいというふうに思います。
  47. 桧田仁

    桧田議員 二つの死についての概念はただいま中山先生お答えになったとおりでございますが、あくまで死というものは、医師が高度な医学的な経験と臨床的なあらゆる要素、検査をもって判定するものでございます。  したがって、概念的ではございますけれども、体というのは個々ばらばらに分かれているわけではなくて、機能的にいろいろな各器官が関係しています。あくまで有機的な一つのものになっている。その有機的な統合性がうまくいっているときが生きている状況、その有機的統合性がうまくいかなくなるのがいわば人の死と考えられます。  その意味におきましても、ただいま議論でございます脳死も、あるいは脳幹死も、あえて言えば、現在皆さんが強調しておられますような心臓死というものも、ある一体のものと考えるべきではないかと思います。その点は、先ほど先生がおっしゃいましたのは、イギリスがどちらかというと脳幹死をもって死とするという国の考え方にのっとった教授の発言ではないかと思います。しかしながら、あくまで我が国のこの法律におきましては、全脳の機能が停止したということを私どもは死の判定にしていきたいと思っております。  先ほどから議論が出ておりますように、それでは竹内基準とは一体どうなのかということでございますが、これは、本当に死をどうするかという非常に貴重な議論の中でございますから、何はいい、何はいけないということは私はないと思います。医学の進歩と、先ほど言いました、医師があらゆる最高の判断をするということに関しまして、竹内基準とともに補助的な基準も追加してこの判定に当たるべきではないかと思いますから、聴性脳幹誘発電位というのが補助手段としては比較的簡便で、かつ、どの医療機関でも可能であって正確に近いので、この補助手段をも判定に加えて、できるだけ国民の方に、いわば人の死は一つであるという判断に立っていくように努力したいというように思っております。
  48. 桜井郁三

    ○桜井(郁)委員 私は、脳死というのはある程度専門的な人、お医者さんとかそういう人がわかるので、一般の人がこれが脳死だよということがわかることが大変重要ではないかと思うわけであります。例えば、竹内基準の中にも自発呼吸の消失、無呼吸テスト、こういうようなものを書いてありますが、一般の人でも、呼吸をしていないとかあるいは心臓がとまっているとか、そういうようなことで判断できるわけでございますが、脳が全部停止しているからということだとなかなか一般の方ではわからない。  ですから、普通の人がわかるように、呼吸をもうしていないということがはっきりわかるとか、そういうようなことが大変重要なことではないかと思うのですが、その辺の、一般の方が死ということを確認できるような方法というのは何かあるものなのでしょうか。
  49. 桧田仁

    桧田議員 先ほどお答えしましたように、竹内基準というのは決して医師や専門家だけが、判定はいたしますが、その結果は当然皆様に御提示できるものでありますし、ある程度専門的な医師でありましたら、これがこのようになっているから脳死に至っている、あるいはこのようになっているから呼吸がとまっている、このようになっているから聴性脳幹誘発電位がこういう状況で消失しているということが明らかにできますので、これは、どんな形もインフォームド・コンセントで説明していき、国民の理解あるいは当事者の理解をいただくべきものと考えております。
  50. 桜井郁三

    ○桜井(郁)委員 二十二日に、日本移植学会の中で、臓器移植法律が成立しなくてもやっていくというような方向性を出したわけであります。野本理事長は早くから、移植医療においてはオープン、フェア、ベスト、この三原則がなければならないのだということを言っておるわけでございますが、この移植学会の中では、ベストを尽くす姿勢を見せるべき施設の限定は内科医などから強く要望されておりましたが、今回の施設は学会が指導性を発揮して絞り込んではおらない、さらに、コーディネーター移植医療に通じた医者を充てたことが大変問題になるだろうというようなことが新聞の報道の中でもあるわけでございます。  こういうようなことでは、オープン、フェア、ベストという三原則を国民に知らしめなければならない、公平性がなければならない、そういうような中で、このオープン、フェア、ベストの三原則をこれから国民にどう理解していただけるのか、お伺いをしたいというふうに思っております。
  51. 桧田仁

    桧田議員 移植学会考えは一つの学会考えだと思います。私ども提案者は、学会考えを尊重しながらも、あくまで公平かつ適正な移植医療が行われるということを国民に本当に理解いただくということでのこの法律の法制化を考えているわけでございます。  したがって、先生の御指摘のことはもっとものことと思いまして、これから提案者としても、国民にひとしく公平公正であるということが理解いただける形に努力していきたい、このように思っております。
  52. 桜井郁三

    ○桜井(郁)委員 臓器移植は日本ではまだまだ少ないわけでありますけれども、欧米においては大変多くの国々が時間をかけて実施しているわけであります。もちろん、日本においても死亡した人からの臓器移植というのも少しはあるというふうに聞いておりますが、特に外国においては、人間の死というものは脳死を含めて専門家である医者が最終的に決める、そして、その死亡というものを医者が決めたらそれ以外の一般の国民が口を出すことがないというようなことから欧米においては移植ができるというようなことをある人から聞いておるわけであります。  もちろん日本と欧米とは宗教的な問題もありまして、日本がこれから脳死をやっていく上においては、ある一面では法律で規制するということでなければ前進しないのかというふうに思うわけでございますが、その辺の日本と欧米との違いというのをどう考えておられるのか、お伺いをしたいというふうに思うわけであります。
  53. 桧田仁

    桧田議員 あくまで法律というものは人や世の中の基本を決めていくものだと思います。したがって、宗教観とか人生観、さらには、先生の御指摘のように、欧米は魂と肉体は別であるという考えでもございます。ただ、日本は霊魂が宿るという気持ちも本当に日本の文化の中にあるわけでございますから、その日本の本当の文化ということもきっちり尊重していきながら、この法律というのは前へ行かなきゃならないと思います。  したがって、脳死臨調におきましてもこの点は非常に議論を呼んだところでございますので、あくまで日本の文化、宗教観あるいは人生観を損なうことなく、また、この脳死を人の死とするという考え方が特に否定されるものではないという程度の表現になっているのはその意味と思いますので、今後とも、日本自身の文化とともに統合性を図った法律にしていかなきゃならない、このように思います。
  54. 桜井郁三

    ○桜井(郁)委員 例えば、この法律が成立いたしますと、臓器提供者というのはある程度臓器を出さなければいけない、そういうような身内の方が非常に多くなる可能性があるのではないか。もしそういうときになったときに、遺言書などで、特定した人にこの臓器をお渡しするというような遺言状を書かれた場合に、どういうような形でこれからをやっていかなければならないのか。特に、この法律の中では、公平に与えられるとかいろいろ規定があるわけでございますけれども、その辺の考え方をどうされたらいいのか、お伺いをしたいというふうに思います。
  55. 桧田仁

    桧田議員 先生御承知のように、遺言というのは、生前のいわば元気なときに書いているケースが多うございますから、移植というのは、人の死でございますから、いつ死ぬかわかりません。ですから、現実的には非常に限定されたケースであると思いますし、もちろん、適合性あるいは公平性ということに関しましても多くの議論を呼ぶことと思います。  しかしながら、この点は明確にお答えしておきたいと思いますが、この臓器移植の基本的な理念はあくまで公平性でございますので、特定の方に特定の者がやるというケースを認めておりますと非常に難しいことに今後なるというように考えておりまして、あくまで原則的に認められない。あえてどうしても親族がという場合にだけ、多くの方々と検討するというぐらいにはお答えできると思いますが、原則で認められないという形にさせていただきたい、こういうふうに思っております。
  56. 桜井郁三

    ○桜井(郁)委員 以上で質問を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。
  57. 町村信孝

  58. 河野太郎

    河野(太)委員 臓器移植法案について、幾つか質問をさせていただきたいと思います。  私自身、角膜及び腎臓のドナー登録をさせていただいておりますし、私の友人にも臓器移植を待っている人間がおります。そういう意味で、私は、これをできるだけ進めていきたいという立場ではございますが、幾つか疑問な点がございますので、お答えをいただければと思います。  まず最初に、この法律案の第六条第三項に、「一般に認められている医学的知見」に基づいて厚生省令をつくるということがございますが、今ございます竹内基準というものは「一般に認められている医学的知見」と考えられるのでしょうか。
  59. 自見庄三郎

    ○自見議員 河野委員お答えをさせていただきます。  今委員の方から、角膜、臓器の提供を河野委員が同意をしておられるということがございました。私も実は臓器の提供者として同意をさせていただいております。そういった真摯な態度に大変敬意を表するわけでございます。  今の質問は、法令六条三項にある「一般に認められている医学的知見」とは何か、こういうことだと思うわけでございますが、脳死判定は、「一般に認められている医学的知見に基づき厚生省令で定めるところにより、行うもの」とされております。この厚生省令は、今先生御指摘のとおり、いわゆる竹内基準に準拠して定められるものと承知をいたしております。  今さっきからいろいろな委員への答弁にもございましたように、竹内基準が世界的にも大変高く評価されている。また、前回の委員会でも、竹内基準脳死判定された人は生き返った例はないというようなことを、提案者からもそういった意見の陳述があった、こう思うわけでございます。  具体的には、厚生省令において、脳幹反応の消失あるいは平たん脳波確認など、脳死判定において実施すべき検討項目に関する規定。  これはもう先生御存じのように、脳死というのは脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止した状態でございますから、脳幹というのは極めて基本的に人間の循環だとか呼吸をつかさどるところでございますが、脳幹反応の消失ということは脳幹がまさに機能的に不可逆的な状態になったというふうに常識的に考えられるわけでございますし、平たん脳波確認ということは、これは、大脳皮質から基本的に脳波が出るわけでございますから、脳波がずっと平たんになるということは、今さっきいろいろ質問がございましたが、患者さんの家族にも脳波がずっと平たんになった状態を見ていただくということは、脳死ということを御遺族の方に理解していただける、非常に目で見てわかりますから理解できる一つの検査項目ではないか、こういうように私は思っておるわけでございます。  また、二番目に、二回目の判定は一回目の判定から六時間を経過して見ることなど、観察期間についての規定がございます。  これは、死というものが一連のものでございますから、やはり経過期間を置いて、第一回、第二回ときちっと観察期間を見ていくことが大事だ、こういうふうに思っているわけでございます。  簡単に言いますと、あと、中枢神経抑制剤などの薬物が判定に影響していないかどうかを確認するなどの判定上の留意点に関する規定、それから、六歳未満の小児や、脳死と類似した状態となり得る症例を判定対象から外すことなどの規定、そして、判定は、脳死判定に関し十分な経験を持ち、かつ、臓器移植にかかわらない二人の医師が関与して行わなければならないといった判定者に関する規定などを設けております。  これらの規定が設けられることを念頭に置いて、いわゆる「一般に認められている医学的知見」とは何かということでございまして、そういったことを書くということでございます。
  60. 河野太郎

    河野(太)委員 済みません。私の質問は、竹内基準は「一般に認められている医学的知見」であるかどうかということでございます。
  61. 自見庄三郎

    ○自見議員 竹内基準は、医学界では一般的に当然権威を持って認められている知見だと思います。  先生から、竹内基準を何で厚生省令の中に入れるのか、こういう話があったわけでございますが、確かに医学的には一般的に認められている基準でございますが、脳死の問題がこれほど大きな論議を呼んでいるわけでございますから、脳死判定については、いろいろな国民の疑念、あるいは理解がまだ及んでいないところもあるわけでございますから、そういった意味で、これはきちっと厚生省令に入れよう、こういった法の取り組みをさせていただいているわけでございます。
  62. 河野太郎

    河野(太)委員 第六条三項には、「一般に認められている医学的知見」に基づいて厚生省令を定めるとあります。そうすると、「一般に認められている医学的知見」が定まっていないのであれば、厚生省令をつくることができないのではないでしょうか。竹内基準が非常に限定された分野でしかまだ認められていないということであれば、まず、これを広く「一般に認められている医学的知見」として確立する作業が必要になるのではないでしょうか。
  63. 自見庄三郎

    ○自見議員 竹内基準は、当然、医学界あるいは専門家の間では「一般に認められている医学的知見」だというふうに私は認識いたしております。
  64. 河野太郎

    河野(太)委員 そうすると、「一般に認められている医学的知見」であるということでございますね。もし、竹内基準が「一般に認められている医学的知見」であるのならば、それに基づいて脳死判定を行えばいいのではないでしょうか。「一般に認められている医学的知見」に基づいて厚生省令をつくるということは、私は必要ないのではないかと思います。  一つには、もうそういった医学的な知見というものが確立されているのであれば、それに追い打ちをかけるように行政がそれを省令という形にするということは、移植に携わる、あるいは専門の技能集団といいますか、職能集団としての医者が自己責任においてそういう判断基準確立する、あるいは自律性を、そういう医者としての集団から行政が奪い取ってしまうことになるのではないか。ですから、もし本当に竹内基準が「一般に認められている医学的知見」であるのならば、それでいいのだというふうに私は思います。  もう一つは、厚生省が省令を定めるということは、そこに厚生省のメンツのようなものが入ってくるのではないか。これまで、例えば薬害エイズの問題ですとか、いろいろございました。そこに行政が介在してくることによって、正しい情報公開が妨げられる、厚生省にとって不利益になるような情報が隠されるということがあるのではないか。  現に、私が、和田移植から今日まで、脳死判定を行って臓器移植をした例を調べてくださいというようなお願いを厚生省にいたしましたところ、最初に返ってきた答えは、そういうものはないということでございました。それで、私の方から、横浜総合病院の例があるはずだと言いますと、調べたらありましたといってそれが出てくる。それでは、北里のケースあるいは東京女子医大のケースはどうなるのだということになると思います。都合の悪いものは隠そうということがこの審議の過程からもう既に始まっているのではないかというおそれを私は抱くものでございます。  それからもう一つ、省令をつくらない方がいいのではないかという三つ目としまして、医学の進歩というのがございますから、省令をつくるということによってその進歩についていけなくなってしまう。省令をつくったということは、やはり厚生省がつくったわけですから、すぐに省令を改正すればいいのでしょうけれども、なかなかそれに追いつかない、あるいは改正をしない、そういうようなことが想定されるのではないかということを私は恐れております。  ですから、もし竹内基準のようなものが一般に認められている医学的知見であるとするならば、むしろ、厚生省令をそれに基づいて定めるというようなことはしないで、それに基づいて脳死判定を行うべきだと私は考えますが、提案者側としていかがでございましょうか。
  65. 自見庄三郎

    ○自見議員 河野先生の御意見、私は貴重な御意見だと思っております。医療の内容は専門家である医師にゆだねるべきであり、一般的考えからすれば、脳死判定医療行為でございますから、その判定基準を省令で規定することはなじまないのではないかという御意見だ、こう思うわけでございます。  確かに先生の言われるとおりでございまして、今、死についての法律はございますが、死がどういうものだという定義をした法律はございません。今さっきからずっとございますように、死というものは、いわゆる死の三徴候がある、医師の診断権に基本的に属するものでございますから、従来は、呼吸の停止、心拍動の停止、瞳孔の散大、いわゆる死の三徴候をもって、それが医学界でもそういうことだということでございましたから、従来、そういったことで、死の三徴候で、死に関しての法律的定義はございませんが、死の三徴候で死というものは死亡診断書を書ける医師判断をするということに御存じのようになっておったわけでございます。  今先生が言われた点でございますけれども、私、先般もお答えをいたしましたが、脳死臨調でも、「臓器移植は、法律がなければ実施できない性質のものではない」とする一方、「心臓肝臓等の移植を行っていくためには、」「移植関係の法制の整備を図ることが望ましい。」というふうに書いているわけでございますから、確かに医師判断するということでございますけれども、一方、従来、今私が言いましたように、死の三徴候による死の判定と比べて、なかなか国民にも、あるいは御遺族の方にも実感しにくい面があるというのは否めない事実である、私はこう思うわけでございまして、その点に関して国民の一部の方々が不安感を持たれておられるのも事実だ、こういうふうに思うわけでございますから、その辺、竹内基準というのは大変国際的にも高く評価されている基準だ、私はこう思うわけでございますが、そういった現在の国民の不安感に配慮して、脳死判定の確実さあるいは適正さを法的に担保するために、例えば、五年間きちっと記録を残しなさいという法の規定もあるわけでございますから、そういった意味で、厚生省令において竹内基準に準拠した具体的な基準を設けることが必要であるというふうに思うわけでございます。  それから、もう一点、竹内基準が医学が進歩したら変わってくるのではないか、そのときに、省令に入れておけば、なかなかすぐ省令が変更されないのではないか、これは私は大変大事な指摘だと思うわけでございますから、やはり竹内基準は、今の医学のレベルでは、これは国際的に見ても、アメリカの大統領委員会がございますし、イギリスにも三立医学会等々で脳死状態というのをいろいろ極めて医学的に決めてあるわけでございますから、そういった中ででも、しっかり、常に不断の検証は必要であるというふうに私は思っております。そういった意味で、ひとつ省令に入れざるを得ないということを御理解をいただければというふうに私は思っております。     〔委員長退席、住委員長代理着席〕
  66. 河野太郎

    河野(太)委員 私も、今の現状を見ておりますと、日本で臓器移植をするためには法律をつくらざるを得ないということには、残念ながら、そう考えざるを得ないと思います。ただ、その中に脳死判定基準を省令として入れるということには、私は、それは余り好ましくないのではないかと思います。  臓器移植というのは、脳死の問題がございますから今回大きくクローズアップされておりましたが、これを先端医療の一つであるというふうに考えますと、臓器移植以外にも、例えば遺伝子治療の問題ですとか、いろいろな先端治療があると思います。そうしたものについては人間の生き死にがかかわってこない治療もございますから、そういう問題については、今度は逆に、立法府は法律をつくって対応するということをしないことになるだろうと思います。  そうしますと、臓器移植以外の先端治療に関して言えば、医師の集団が、みずからルールを決めて、みずから行い、違反した者に対してはみずから処分をする、そういうことが必要になってくるのではないか、それが本当にできるのかどうなんだろうかという、医療不信があるように思います。脳死という人間の生き死に、あるいは刑法がかかわってくるような、こういうものを視点にして、今医療不信があるような状況ではありますが、むしろ、専門職能集団としての医師に対して、みずからルールを決めて自律的に行動せよということを訴えるには、この臓器移植に関して、あるいは脳死判定基準というものに関して、みずからルールを決めてやってくださいということを訴えるのが一番いいのではないかと私はずっと思っております。  さらに少し質問を続けさせていただきますと、平成二年の第九回の臨調会議で出されましたコメントでございます。一部、中を省略いたしますが、  判定基準を見直すというようなことについては、私は絶対に反対です。 中略  これは世界で一番厳しいとか、それから、非常に重要な前提条件をつけてあり、これよりいいものが出るはずがないのです。もう一つ申し上げますと、厚生省の委員会は、脳外科を代表する学識のある学者、脳循環代謝のほうの世界的権威の方、こういう世界的な学者が集まった素晴らしいメンバーでやった結果なのです。 一部略します。  これをやり直すようなことをしたら、これは混乱よりほかのなにものでもないのです。脳死臨調の存在を疑われると思うのです。 一部略します。  見直すというのは、学問と経費の無駄です。 そういうコメントすら出されております。  どうも厚生省の省令をつくるということは、こうした権威主義がどうしても後ろ盾にあって、この判定基準を見直してはいかぬというような風潮になることを私は非常に恐れております。  この法律が仮に制定されたといたしまして、実際に厚生省令が制定されるまでどれぐらいの期間を想定されているのか、それから、これに附帯するいろいろな制度が整備されるまでどれぐらいの期間を想定されているのか、そして、その期間の間に、この竹内基準を含め、もう一度最後の見直しをすることになるのかどうか、その辺をお伺いしたいと思います。
  67. 貝谷伸

    貝谷説明員 お答え申し上げます。  この法律案成立後の実施のお尋ねでございますが、この法律案では、公布の後三カ月をもって施行するという規定になっておりますので、今先生お話しのような、この法律案がこのまま通りますと、六条三項の厚生省令というものを、その三カ月間の間に厚生省令として世の中に出していく必要があるというふうに思っております。  また、当然ながら、竹内基準を含めた医学的な検証ということも念頭に置いて省令は定めていく必要があると思っておりますが、私どもとしては、今、竹内基準というものに準拠して作成することが妥当であるというふうに考えるところでございます。
  68. 河野太郎

    河野(太)委員 この竹内基準の名前がつけられました竹内氏でございますが、その著書の中に「脳死とは何か」という本がございます。その中に、例えば「脳死に至る道筋には必ず脳循環の停止がある」という一項がございます。例えば今の竹内基準を見ておりますと、機能が死んだことによって脳死であると考えるということになっておりますが、竹内基準脳死となっても脳細胞は生きているわけでございます。脳のすべての細胞が死んだということではないわけでございます。本当にそれをもって脳死と言えるのかどうかということを私は疑問に思っております。現に、竹内氏みずから、「脳死に至る道筋には必ず脳循環の停止がある」というふうに書いていらっしゃるわけですから、例えば、今の竹内基準にプラスアルファで、脳血流の停止というようなことを入れるべきではないだろうか。  例えば、スウェーデンの例をとりますと、全脳梗塞をもって脳死とするというようなことになっております。しかも、スウェーデンの場合は、すべての場合において脳血流の停止を調べるのではなく、明らかに脳の内圧が高まっていって脳血流がストップするという病態がはっきりしているケースはそうしたことを行わず、本当にわからないところだけ脳血流停止があるかどうかを調べるというようなルールになっております。  そういう意味で、この竹内基準に例えば脳血流の停止を加える、あるいは、先ほど話がありましたTBRですか、補助手段としては非常に有効だという話がございましたが、補助手段としてではなくて、まずその判定基準の一つにそうしたものを当初入れていく、そして、何年か後に見直しをするときに必要なデータが集まっていればそれを補助手段に切り下げるというような方が私は正しい、正しいという言い方がいいかどうかわかりませんが、脳死判定で、生きている人間が、まだ脳死でない人間脳死判定されることは必ず避けなければいけない。しかし、脳死状態にある人間がまだ脳死でないと判定されるのは、これはある意味でやむを得ないのではないだろうかと思います。早過ぎる脳死の誤診を避ける意味でも、脳血流停止あるいはTBRといったものを竹内基準に加える必要があると私は思いますが、いかがでございましょうか。
  69. 自見庄三郎

    ○自見議員 河野先生お答えをいたします。  脳の血流停止ということを竹内基準に入れるべきでないかという御意見でございますが、私はこの分野の専門家ではございませんけれども、竹内基準、脳循環の停止は、補助検査と申しますか、今さっきも話が出ました聴性脳幹誘発反応とともに、基本的な部分でなくて補助的な検査に入れるという判断をしておられるようでございますから、これは、先般も竹内先生お話を聞きまして、分野のいろいろな専門家で検討しておられるわけでございますから、それは現在の竹内基準で、それはまさに専門家の検討、不断に検討を加える必要があるわけでございますけれども、今の脳循環の停止というのは補助検査でいいのではないか、私はそういうふうに思っております。  それから、先生の今さっきの御質問の前半の部分でございますが、器官死と機能死と申しますか、ファンクショナル・デスとオーガニック・デス、こういう話でございますが、現在の、従来からの死の三徴候心臓がとまり、呼吸が停止し、瞳孔が開くということの場合でも、場合によれば視床下部の一部は生きているというふうなこともあるわけでございますから、必ずしも、従来的な死の三徴候による心臓死の場合でも、すべての組織が死んでいるわけではございません。そういったことを考えれば、やはり脳死というのは脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止した状態だというふうに考えるのは、なおかつ、今さっきから何度も申し上げておりますように竹内基準がいろいろな検証にたえた基準でございますから、私は、現在の医学の水準では妥当なものであろうというふうに思っております。  ただし、今さっきも答弁申し上げましたように、これは新しい知見に照らし合わせて不断に謙虚にきちっといつも検討していくということは大事なことであろうというふうに思っております。
  70. 河野太郎

    河野(太)委員 今、視床下部の話が出ましたが、脳死という判定が下されても視床下部からホルモンが分泌されているというような例が報告されてもございます。視床下部の細胞が生きておりホルモンが出ている、そういう状況でも本当に脳死と言えるのかどうか、そこは私も疑いがあるところではございますが、そこは専門家にお任せをするとして、今お話がありました、補助手段として脳血流停止あるいはTBRをということですが、それが省令に具体的に書き込まれることになるのか、あるいは、その補助手段というのはどういう取り扱いをするのか、設備があったらやりなさいという程度なのか、あるいは、具体的にこういうケースは補助手段としての検査を行うということなのか、そのあたりの見解を教えていただきたいと思います。
  71. 自見庄三郎

    ○自見議員 先般も、聴性脳幹誘発反応につきまして九三%近い普及率があるという話もございましたから、これはやはり竹内委員会と申しますか、そういった専門家の間でぜひ検討を、河野先生の御意見もございますし、できるだけ国民に開かれた、わかる診断基準、もう既にありますが、そういったプロセスも非常に大事でございますから、そういった専門家の間で検討していただければありがたいというように私は思っております。
  72. 河野太郎

    河野(太)委員 厚生省の方、いかがでしょうか。
  73. 貝谷伸

    貝谷説明員 省令の具体的な内容につきましては、私どもとしては、一応、竹内基準の必須項目と言われているものを念頭に規定を、省令にするような考え方で今おりますが、なお今後の国会等での御議論を十分踏まえながら、最終的に省令の案を考えていきたいというふうに考えております。     〔住委員長代理退席、委員長着席〕
  74. 河野太郎

    河野(太)委員 今議論に出ております補助手段としての検査項目については、現時点で厚生省はいかがお考えでしょうか。
  75. 貝谷伸

    貝谷説明員 補助検査につきましては、脳死臨調以来、大変な御議論があったというふうに理解しております。  医学的には、竹内基準で必須検査と言われているものにより脳死判定ができるというふうに一般的に考えられておりますが、ただ、脳死臨調でも言われておりますように、それが国民の目にわかりやすいものにする、脳死を国民の目にわかりやすいようにするためにも、補助検査、可能なものはやる意義があるというような考え方も示されておりますので、私ども、こういう補助検査が、特に先生今御指摘の聴性脳幹誘発電位につきましては、私どものワーキンググループでもできるだけやることが望ましいというような検討もいただいておりますので、実態的にはそういう方向で考えていきたいと思っておりますが、省令での問題につきましては、今後の議論等を踏まえて判断してまいりたいというふうに考えております。
  76. 河野太郎

    河野(太)委員 厚生省の省令に委任をしてしまいますと、本当にここで議論をされていることが的確に盛り込まれるのかどうか、今の答弁を聞いても、例えば脳血流停止の件については厚生省は触れられませんでしたけれども、そういうところの、何といいますか、靴の上からかゆい足をかいているようなところがどうしてもぬぐうことができません。これを本当に立法府がどこまで突っ込んでいくのがいいのかということはよくわかりませんが、できるだけ国民の皆様の目の前にきちんとした形で、わかる形で出していただければと思います。行政がこれに関与するのは、いろいろ御意見を伺いましたが、今でも私はやや疑念に思っているところでございます。  そろそろ質疑の時間が終わりましたから、これで終わりにさせていただきます。どうもありがとうございました。
  77. 中山太郎

    中山(太)議員 今、河野先生から御指摘の、聴性脳幹反応あるいは脳血流の停止等の問題につきまして、この委員会での御議論を踏まえて、審査の経過の中で、私どもはいかにこの法案あるいは政令にこれを書くのか、また先生御指摘のように、政令に書く必要はない、竹内基準という世界的な厳しい基準によって行えばそれはそれで立派にいいのだという御意見も私ども大変貴重な御意見だと思いますが、一般的に、その省令に書くということによって、法文の中に書き込むことが国民の信頼を確保する上に必要ならば、それも必要だというふうに考えておりますが、いずれにいたしましても、議員立法でございますから、委員会の御発言、御意見等を承って最終的にこの法案の扱いを決めさせていただきたい、このように考えております。
  78. 河野太郎

    河野(太)委員 ありがとうございました。
  79. 町村信孝

    町村委員長 午後二時から委員会を再開することとし、この際、休憩いたします。     午前十一時三十三分休憩      ――――◇―――――     午後二時二分開議
  80. 町村信孝

    町村委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  質疑を続行いたします。鴨下一郎君。
  81. 鴨下一郎

    ○鴨下委員 私は、この法律案に取り上げられております臓器移植について、ドナーの方の善意からの臓器提供がある限り、現在の医学的技術には、移植によって重篤な疾病に苦しむ患者さんを救う技術や環境が十分にあることを理解しております。また、脳死については、脳死は人の死であるということについての認識もございます。しかし、この上でも、議題の「死体脳死体を含む。)」からの臓器移植について、これを法において規定することについては疑問を抱いている、こういう立場から質問をさせていただきたいと思います。  まずは、法制化の意味についてです。  先般の第百三十六回衆議院厚生委員会公聴会意見陳述におきまして、脳死を人の死とする法律をつくらずに、臓器移植に道を開く努力をするべきではないかという意見が述べられています。その理由は、第一に、臓器移植のための法律臓器移植とは関係のない救急や末期医療現場に影響を及ぼし、それぞれの現状の不備にさらに混乱をもたらす効果を持つおそれがあること。第二には、新しい医療技術は、医学界の自己管理のもとで慎重に実績が積み重ねられて、社会の信頼を得た結果として初めて国が法律によるバックアップを検討するのが筋であるというような意見がありました。  また、既に脳死体からの移植が行われている諸外国、オーストリア、オランダ、西ドイツ、イギリスなどにおきましても、脳死を死と認めながら、その点についての法律の明文を設けておりません。例えば西ドイツにおいては、一九八二年二月四日付で、連邦医師会がそれぞれ、全脳機能の不可逆的喪失をもって死となし得る旨及びその際の具体的判定基準等を表明しており、死の判定はすべて医師の医学倫理上の判断にゆだねるという形式がとられています。  このような意見または諸外国の実情に照らして、なお我が国が早急に法案化をしなければならないというようなことについての必然性についてのお答えをいただきたいと思います。
  82. 福島豊

    福島議員 鴨下委員の御質問お答えをさせていただきます。  経過を申し上げますと、平成四年に、脳死臨調が「脳死をもって「人の死」とすることについては概ね社会的に受容され合意されているといってよい」とした上で、一定の要件のもとに脳死体からの臓器移植を認める答申を取りまとめ、内閣総理大臣に提出をしたわけでございます。今から約五年ほど前でございます。  しかしながら、その答申後においてどうであったのか。脳死体からの臓器移植は実施されていない状況が続いたわけでございます。その結果、我が国におきましては、善意の臓器提供の意思にこたえることができないとともに、移植を受けなければ救命することができない患者方々は、外国移植を受けたごく一部の方を除いて、その救命のすべなく命をなくされる方が続いたということがあるわけでございます。多くの患者さんは、一日も早く我が国で臓器移植を受けることができる日が来ることを待ち望んでおります。  委員御指摘のように、諸外国におきまして、脳死及び臓器移植に関しての立法の状況が種々に異なるということは私も承知をいたしております。しかし、大切なことは、我が国において、今までの経過というものを踏まえて、今何をなすべきなのか、その点に思いをはせるということなのではないかと思います。私どもこの法案提出した者は、こうした現状を踏まえるならば、脳死体からの臓器移植を含む移植医療が国民の理解を得ながら適正な形で進んでいくために必要な法的な枠組みをつくるということが必要なんだ、その思いで法案提出したわけでございます。
  83. 鴨下一郎

    ○鴨下委員 日本移植学会では、法律がなくても学会の責任で脳死移植を実施すると宣言し、学会臓器移植ネットワークシステムは、臓器提供のできる前提条件として、本人が生前に文書で提供の意思を示している場合に限定した上で、臓器提供や患者の選択などに第三者を交えた審査機関を設け、移植医でないコーディネーターによるインフォームド・コンセントの重要性を示し、移植医療の不信感に配慮した一定の歯どめが盛り込まれたものを独自の指針として示しています。また、今月二十二日には同理事会でそれを了承し、五月下旬には体制づくりを終え、条件が整えば法案成立以前でも脳死体からの移植実施に踏み切る方向で動いていると聞いています。  このような日本移植学会指針、専門家による自主規制にゆだねた臓器移植実施はなぜできないのでしょうか、重ねて伺います。
  84. 福島豊

    福島議員 今委員から御指摘がございましたように、日本移植学会が、移植医療に携わる職能集団としまして、移植にかかわる法律の有無にかかわらず、国民の理解が得られる形で移植医療を構築するための検討を行っており、先日、検討の結果を行動指針として公表したということは伺っております。また、その内容につきましてもお聞きをいたしております。  この日本移植学会法律の存否を問わず臓器移植を実施するとの行動指針を出したということは、現在まで臓器移植法案の審議が必ずしも十分行われてこなかったというような状況でありますとか、そしてまた、臓器移植が行われていない我が国におきまして、一日も早く臓器移植を待ち望む患者さんのためにこの職能集団としての責任を果たそう、そういう思いから進められていることとして私は理解をいたしております。  しかし、この法案の成立前に脳死体からの臓器移植を実施した場合に、今までの経過から見まして移植医等が告発される可能性も考えられるなど、今後、移植医療を本当に推進していくためには円滑に行われることが不可欠なことだと思っておりますが、その円滑な実施に関してさまざまな問題が出てくるのではないかと私どもは懸念をいたしております。  私ども、法案提出者といたしましては、日本移植学会のこの自主的な取り組みというものは大いに尊重いたしておりますけれども、同時に、国民の理解を得ながら我が国に移植医療を定着させていくために、今国会でこの臓器移植法の早期成立というものを図らせていただきたい、そのように考えておるところでございます。
  85. 鴨下一郎

    ○鴨下委員 私の論点は、医学界に言ってみればある程度自主的な判断を任せるべきだというようなことで、政治が果たしてこの問題に深くかかわっていいのだろうかというようなことについて甚だ疑問を持っている立場質問をさせていただいているわけであります。  例えば、現時点で法制化するのではなく、医学界にゆだね、実績を見て、しかる後にさまざまな弊害が出てきた事柄に関してのみ法律で規制し縛っていく、こういうような方向で進められないのでしょうか。  法律臓器移植を定めるというようなことは、国民が、法律が成立したということによって、臓器移植を積極的に進めていくのだな、脳死は人の死とするのだな、臓器を積極的に提供することが法によって示されたのだな、こういうように解釈をしかねないというふうに考えております。一般的に死の概念も、いまだに社会的通念では心停止、呼吸停止、瞳孔散大という三徴候をもって死とする観念が支配的でありますので、あえてここで脳死法律によって人の死というふうに定めていくことそのものにある種の性急さを感じるわけですが、その辺につきましてお考えをお聞かせいただきたいと思います。
  86. 福島豊

    福島議員 実際の医療現場での実績を積み重ねて、しかる後に法律をつくるというのであればそれも一つの考え方であるという委員の御見識は、確かに一つの御見識であると私も思います。しかし、この移植医療というものを円滑に我が国において進めていくためには、やはり立法ということを前提にして行うべきではないか、これは私の見解でございます。  そして、今委員の御指摘にありましたことは、この法律ができると、どうも国民の立場では、脳死ということが押しつけられるのではないかとか、そしてまた臓器移植ということが押しつけられるのではないか、実は嫌なんだけれども臓器を取られるのではないか、そういうような雰囲気が醸し出されるのではないかという御指摘だというふうに私は承らせていただきましたけれども、実はそうではないと。  確かに、脳死また臓器移植に関して、現状においても国民の中にさまざまな意見があるということは私も承知いたしております。しかし一方においては、臓器移植によってしか命を救うことができない患者がおり、また善意で臓器提供をしてもいいという方がおられるということも事実であります。私どもがこの立法を進めるのは、こうした個々の意見の相違というものを超えて、脳死臓器移植を押しつけるためにするのではなくて、善意で臓器を提供しようとする人がいる、また、臓器を提供されることによって現代の医療では救うことのできなかった患者さんの命を救うことができる、その二つの立場というものをつなぎ合わせることがこの日本においてスムーズに行われるように、その枠組みとして法律をつくりたいということでございまして、そういう意味では、委員御指摘のように、国民に対して脳死を押しつけ、また臓器移植を押しつけるというような思いでは決してないということを御理解いただければというふうに思っております。  現在までの臓器移植にかかわる状況につきましては、先ほども述べさせていただきましたが、総理大臣に対して答申が出されて、五年間ほとんど実質的に前進が見られなかったということを踏まえれば、やはり今国会におきまして早期の立法というものを急ぐべきではないか、私はそのように確信をいたしております。
  87. 鴨下一郎

    ○鴨下委員 五年間進まなかったということの中には、多く積極的に反対をしようという方ではなく、消極的に、もう少し国民的な合意について議論を深めるべきというような考えも多分あったのだろうと思いますが、その辺につきましてはまた後日の機会に議論をさせていただきたいと思います。  次に、脳死判定に関しての話です。  私は、二十数年間、医者をやってきておりますので、立場上、脳死は厳然たる死だというようなことについては疑う余地を持っておりません。しかし、脳死判定に関する医学的な疑問点はすべて解決しているということではないと思います。また、法律的に正式に脳死を人の死と決定するということにより、民事上のさまざまな問題点が出てくることも考えられます。この二点から、私は、法律脳死を定めることに消極的というようなことで質問をさせていただきます。  一つは、医学的問題点についてであります。  脳死は、臨床症状や電気生理学的に証明することは現在の医学では大変困難であるというようなことです。したがって、どんな基準をつくっても、脳死ではなく脳死状態判定基準になります。限定的な脳死ではなく、脳死状態という言葉に改める必要があるのではないかと思いますが、この点についてのお答えもいただきたいと思います。  それから次に、判定に用いる竹内基準について、幾つかの不備があると考えています。  その一つは、判定には治療薬をすべて中止しなければいけません。あらゆる点滴の中の昇圧剤だとか呼吸促進だとかそういうことにかかわる薬剤をすべて切るというようなことでありますが、中止するということは、患者の死を決定的にしたかもしれない問題を惹起しています。また、無呼吸テストでは血圧低下や不整脈の合併が多く出現します。これは患者を殺している感じにもなりはしないか。臨床医には到底受け入れがたい問題でもあります。竹内基準についてのこの点についていかがお考えになるか、お答えをいただきたいと思います。
  88. 福島豊

    福島議員 脳死判定基準に関しましては、基本的には技術的な議論でございまして、専門家の判断にまつべきであるというふうに思いますが、委員の御指摘のありました竹内基準につきましては、脳死臨調におきましても、竹内基準は現在の医学水準から見る限り妥当なものであるとの結論に至っておりますし、そしてまた、厚生省に設けられました臓器提供手続に関するワーキング・グループにおきましても、竹内基準は現時点での医学的水準から見て妥当であるとの結論が得られております。そういう意味では、諸外国基準に照らしましても、現時点で竹内基準を採用するということは極めて妥当性のあることであるというふうに私は思っております。  先ほど冒頭に御指摘ございました、脳死ではなく脳死状態という言葉に改めるべきではないかという御指摘でございますが、これは、脳死には機能死、器質死という言葉がございますように、一つのプロセスとして考えられるものであるから状態という言葉を使うべきなんだという御趣旨だというふうに受けとめさせていただきましたけれども、しかし、あくまで死を判定する以上は、専門家が合意するある一つの客観的な基準によってどの時点で判断するのかということを明らかに定めておく必要があるというふうに思います。それを、脳死状態というある意味ではあいまいな形の言葉を使うことはかえって混乱を招くのではないか、私はそのように考えております。  そして二点目の、無呼吸テストで血圧低下でありますとか不整脈が発生することがあるという御指摘につきましても、私も承知をいたしております。そしてまた、脳死判定が途中で中断するケースもあり得るということもお聞きをいたしております。  この点につきましては、先ほど申しましたように、専門家としての御判断を仰ぐ必要が今後ともあろうかというふうに思いますけれども、私ども立法を促進する立場といたしましては、厳密に竹内基準にのっとって脳死判定を現時点でしていただく、それが一番大切なことではないか、そのように思っております。その中におきまして、今後のさまざまな検討の中でまた改めるべき点等が専門的に出てくるようであれば、それはそれとしましてまた検討していただくということではないかと考えております。
  89. 鴨下一郎

    ○鴨下委員 反論につきましては、時間もございませんし、多分これから先に移植学会先生方にもお出ましいただく機会もあるのだろうと思いますので、そのときにでも具体的にその辺につきましては議論をさせていただきたいと思います。  次に、民事上の問題につきまして質問させていただきます。  脳死を人の死とすることで、死亡時刻判定の幅が大きくなるというようなことが考えられます。例えば、ある親子が同時にある事故に遭遇したと仮定します。親の方は少々小さな救急病院に運び込まれ、子供の方は、子供といいましても成人している方ですが、医療設備のそろった大学病院に収容されました。両名とも不幸なことに死に向かっている状況です。子供の方は、たまたま生前、ドナーに登録しており、医療機関ではできる限りの処置を行った後、脳死判定を下しました。それが例えば本日の十時三十分だとします。さて、親の方も同じ時刻ごろに脳死状態に陥っていたのですが、脳死判定は行いませんでした。もしくは、行えませんでした。従来の三徴候死をもって死と判定しました。それが翌日の十時三十分であるとすれば、そこには二十四時間の時間差が生じてきます。現代の医学では一週間から十日程度は脳死状態を確保する技術があります。この時間差がさまざまな問題、例えば、親より早く死亡判定を受けたためにドナーの子に相続権がなくなってしまうなど、相続に関する問題などを引き起こしはしないでしょうか。  このように、脳死法律で規定することによって、従来の三徴候死と脳死のダブルスタンダードになることによって、民事上の、あるいは社会通念上のさまざまな問題が起こることのデメリットの方が大きくなってしまう、こういうようなことを心配しています。仮に、脳死臓器移植を前提としたときのみと考えるならば、脳死法律で規定すべきではないと思います。  さらに、三徴候死と脳死との関係性について、もし法律脳死を定めるのだったら、民事上の混乱を避ける上で、法の中でその関係性をきちんと明記するべきだと思いますが、その辺についてのお答えをいただきたいと思います。
  90. 福島豊

    福島議員 お答えいたします。  脳死につきまして、脳死臨調答申においては、「脳死をもって「人の死」とすることについては概ね社会的に受容され合意されているといってよい」、こういうふうにされておりまして、こうした社会的合意を前提に本法律案提出いたしております。  ダブルスタンダードではないかという御指摘だと思います。確かに、率直に申しまして、死の診断の方法というのが脳死判定と三徴候死の判定では違うというのは、それはそのとおりだと思います。  ただ、両方ともに共通することは、高度な医学的知識を持つ医師が死を判定するということでございます。ですから、死の判定というものが医師に任されているということであるのであれば、そしてまた脳死ということが死の判定の一つのあり方として認められている、社会的に合意されているということであれば、両者が全く違うものであるということでさまざまな問題が起こってくるという御見解は、私は賛同しかねます。  むしろ、そうではなくて、社会的に、方法は違っても高度な知識を持つ医師が死と判断をしたのだ、そのように受けとめていただくことができるのではないか、そのように共通して受けとめていただくことが社会的にできるのであれば、今委員が御指摘のような問題というのは特段起こるものではないと私は考えております。
  91. 鴨下一郎

    ○鴨下委員 今おっしゃいましたように、医師が高度な判断でもって死を認定したということになれば、これは脳死医師がきちんと高度な判断で定めれば、それはまさしく死でありますから、法律で定める必要がないというふうに私は思うのですが、その辺についてはまた議論させていただきます。  そして、もう一つの問題点は、私は、この法案は、ある意味で脳死を認定する側面と、臓器移植を制限していこうじゃないか、こういう両面を持った法律だというふうに思っています。  臓器移植に関する法律案の第六条には、「医師は、死亡した者が生存中に臓器移植術に使用されるために提供する意思書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき又は遺族がないときは、移植術に使用されるための臓器を、死体脳死体を含む。)から摘出することができる。」そして、「前項に規定する「脳死体」とは、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された死体をいう。」としています。  本法案は、脳死を認定するという言ってみれば脳死認定的な部分と、本人の同意及び家族の同意といった場合のみ臓器移植が行われるという規制法的な側面の両面を持っていますが、臓器移植に対する規制の面では、罰則規定も明らかでないために、脳死が人の死だと認定される以前では殺人罪になってしまうというような刑事訴追を受けかねないという問題があり、今、ある意味では抑止的な効果を持ってきましたが、今回の法律によって脳死が人の死ということが明文化されることにより、仮に患者の同意及び家族の同意がなくて移植が行われたときも、第三者もしくは当事者による殺人にはならず、死体損壊罪というような問題になってきます。  したがって、移植を促進する立場方々にとっては、遺体損壊の容疑をかけられてもむしろ臓器移植は推進すべきという立場をとることも出てきかねないというふうに考えますが、その辺のところの罰則規定等について、いかがお考えでしょうか。
  92. 福島豊

    福島議員 委員の御指摘では、一面ではこの法律脳死の認定法であるということかと思いますけれども、本法案は、臓器移植の手続等、移植医療の適正な実施に資するため必要な事項を規定しているものでございまして、臓器移植に先立つ脳死判定につきましても、その確実さ、適正さを担保するために必要な事項は規定しておりますけれども、一般的な死の判定法として脳死判定について定めた脳死の認定法ということではないわけでございます。  そして、この法律が施行された場合に、臓器移植を推進する立場では、死体損壊罪にしかならないからどんどん臓器摘出をしてしまうのではないかという御指摘でございますけれども、しかし、私どもは、先日も例えば日本移植学会の行動指針の案が公表されましたように、臓器の摘出について本法案の六条で規定されておるわけでございまして、本人意思、そしてまた家族の同意ということを踏まえて適正に臓器移植が行われるものであるというふうに確信をいたしております。  そして、この点につきまして罰則規定を設けるのはどうなのかということでございますけれども、この点につきましては、私どもは、今後慎重な検討をする必要があろうかとは思いますけれども、移植学会等の提出しております行動指針等も踏まえまして、現行のこの法案の内容が十分に尊重され、そして適正に臓器移植が行われるものというふうに確信いたしておりますので、今後の審議の中での議論というものを慎重に見守っていきたい、そのように考えておるところでございます。
  93. 鴨下一郎

    ○鴨下委員 もう時間もございまぜんので、私は、まず脳死については、法律では定めずというようなことが私の考えとして申し上げたいと思います。そして移植に関しては、今おっしゃっていましたように、最終的には、移植を進めるときには必ずさまざまな規制があってハードルが高くなければ、いろいろな問題が出てきてしまいます。そのことについて法律で明文化するべきだというふうに思っておりますので、ぜひ六条においても罰則規定等を明文化していただきたい、このことを申し上げて、質問を終わらせていただきます。  ありがとうございました。
  94. 町村信孝

    町村委員長 吉田幸弘君。
  95. 吉田幸弘

    ○吉田(幸)委員 私は、新進党の吉田幸弘でございます。  近代医学の発展に伴い臓器移植に関するさまざまな環境が今整いつつある中で、我が国の臓器移植は、諸外国と比較して、その普及というものは決して高いとは言い切れておりません。私も、今まで医療関係者として仕事をさせていただく中で、この法案というものに対して非常に興味深く見させていただいておりまして、今私は、この場で提案者の方々質問をさせていただけるということを非常に光栄に思っております。  また、今月の二十二日、日本移植学会理事会にて、臓器移植法がなくても、法がなくても脳死の人から心臓肝臓移植手術を実施できるようにする指針案をまとめたというように新聞等々で報告がありましたが、今回、私は、その内容も考慮しながら法案質問をさせていただきたいと思います。  まず、臓器移植の社会的需要が高まる中で、今回の、人の死を客観的に定めることの必要の意義が最も大きい対象者は、ドナーなのか、またレシビェントなのか、それとも施術をする医師もしくは医師団なのか、提案者の方々の御意見を伺いたいと思います。
  96. 矢上雅義

    矢上議員 ただいま議員お尋ねの、だれが一番利益を受けるというのか、この法律案の対象として一番恩典を受けるか、そういう御質問でございます。  まず、御存じのように、移植医療というものは、一方では臓器移植を切実に願う患者さんがおられて、また他方で、自分の臓器を困った人のために何とか提供したいと思っておられる善意の方がおられます。そういう二人の方がおられる間に、医療現場として、医師団、個人個人の医師、また医療関係者の方がおられるわけでございます。そういう三者がさまざまな役割を果たして移植医療というものが行われていくわけでございますが、円滑に、安全に、公平に移植医療を行う、そういう大きな意味から言えば、ある意味ではその三者が利益を受けるというか、意義を一番感じるべき対象になるのではないかと思っております。  ただ、議員が今御質問されましたように、一番だれが受けるか、それはまさしく、やはり移植を待っておられる患者さん方が一番利益を受けることは当然のことでございます。特に臓器移植をお待ち願う患者さんたちに一刻も早く臓器移植をできる環境を整えてあげようというのが今回の法律案の趣旨でございますから、当然そういう結論になると思います。
  97. 吉田幸弘

    ○吉田(幸)委員 移植を待つ患者さん方が最も利益を受ける対象者ということなんですが、私の考えでは、医師団と言っていただいた方がすんなり事が進んでいくのではないか。ただ、それを言ってしまっていいものなのかどうか。今の時点では提案者の方々から十分な意見をいただいておりませんので、今のところは、私は医師団のためにと明言したい。  そこで、それじゃなぜ医師団と言わなきゃいけないのか。これは、医師団が施術をすることによって患者さんが救われるというような考えを持ち合わせております。  それにあわせて次の質問とさせていただきますが、人の死亡というものは客観的に判断されなければいけない。また、臓器移植の場合とそれ以外の二つの死が存在してはいけない。そこで、今回、脳死という状態をいま一度明確に説明していただきたい。
  98. 矢上雅義

    矢上議員 二番目の質問お答えする前に、一番目の質問で、医師団が一番利益を受けるのではないかと。  確かにおっしゃるように、もし脳死を人の死としなければ、当然、殺人罪になります。もし法律がなければ、一回一回、臓器移植をするたびに殺人罪という構成要件に当たりますので、司法の場にそのお医者さんが呼び出されて、本当にそれは正しい行為だったのか、でなかったのか、いろいろ問いただされます。そういうことを考えれば、臓器移植の社会的必要性が叫ばれながらも医師団に対して余りにも過剰な負担がかかる、それが結果として臓器移植移植医療をおくらせる、そういう現象自体が無責任ではないかということで、当然、本法律案の趣旨の大きな論点にはなってくると思います。  続きまして、第二の質問でございますが、人の死は客観的に判定されなければならず、人の死というものが幾つもあってはいけない、そういうことで御質問でございます。  特に脳死についてでございますが、脳死とは、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至った状態であり、具体的には、大脳のみならず、人間の基礎的な生命維持機能をつかさどる脳幹を含めた脳全体の機能が停止しており、かつ、その機能が回復することはないという状態であります。  またさらにわかりやすく言うと、脳死になりますと、みずからの力で呼吸することができません。呼吸は人工呼吸器によって人工的に続けるような状況になりますが、これにより心臓は、しばらくの間、動き続けることは可能です。しかしながら、人工呼吸器を使い呼吸を保っても、せいぜい数日かもしくは数週間で心臓もとまってしまう、そういう状態でございます。
  99. 吉田幸弘

    ○吉田(幸)委員 それでは、その定義というか、この脳死という状態を現時点でどの程度国民が認知しているのか。明確な数字がなくても結構ですので、どれぐらいの普及度があるのか、このことを提案者の方にお伺いします。     〔委員長退席、住委員長代理着席〕
  100. 矢上雅義

    矢上議員 脳死の正確な状態をどの程度国民が認知しているかでございますが、平成六年度厚生行政科学研究事業の、脳死についての一般人に対するアンケートによりまして幾つか設問が出されております。  簡単に御報告しますが、脳死と植物状態は違うと正しく回答された方が約七割、脳死になったら自分で呼吸できない、それに対して正しい回答が約七割、また、脳死状態になったら意識が戻ることはないということに対して正しい回答をなされた方が約七割と、おおむね七割程度の方が脳死について正しい理解をしておるのではないか、そういうアンケート調査が出ております。  それと、先ほどの質問で一つ答弁漏れいたしまして、臓器移植につながる死とそれ以外の死の二つがあってはいけないのじゃないかということが質問で出されておりました。  脳死というものは、医師が個々の患者さんに対してこれからどういう治療を行っていくか、そういう治療上の必要性からまず行われます。そういうことを考えますと、脳死判定というものも客観的に判定されていくと。ですから、臓器移植をするから、しないからという恣意的な理由で脳死判定をすることはあり得ないと考えております。
  101. 吉田幸弘

    ○吉田(幸)委員 そもそも人の死というものはすぐれて個の問題であることは言うまでもありませんが、臓器移植も同じような考えのもとに進めていかなければいけない。また、今回、事前に本人の承諾を得て、そして移植へというふうに進みますが、脳死後、また脳死と同時に、家族などは、脳死だと判定を下すことに参加できない。これは医学的にでもいいですし、また医学的じゃなくても、とにかく、ともに納得ができて今脳死状態にあるのだというような方法はないのか、提案者の方にお伺いします。
  102. 矢上雅義

    矢上議員 脳死判定に当たりまして、当然、家族の死を判定するわけですから、家族としては脳死というものがよく見えない。ですから、きちんと自分の目で見届けたいという思いはあると思います。  吉田委員お尋ねでございますが、どういう形で家族が参加できるのか、いろいろあると思います。  まず、論点を分けて考えなければいけないのは、もともと参加できるか否か、そして、参加できるとすればどのような資格で参加していくべきか、幾つかあると思います。当然、先ほど申しましたように、家族の死でございますので参加できて当たり前だと思います。  ただ、脳死判定というものが、専門的には脳幹反射の消失、平たん脳波確認など非常に純粋的に医学的な条件を見きわめて、それに対する判断をすることが脳死判定でございます。つまり、純粋な医学的判定そのものでありますので、それをだれが行うかとなれば、当然、十分な経験を有する医療関係者、医師が行う。ですから、判定を行う構成員としての資格は当然医師に限られます。  ただ、委員が御指摘になりましたが、遺族はやはり自分の家族の最期をそばできちんと見届けたいという人間としての情がありますから、それは当然配慮すべきでございます。ですから、厳格な意味で構成員としては認められなくても、実際、その患者さんの脳死判定のときに同席して、その場で判定について、つまり、脳死判定はいかなるものか、そして脳死判定基準に基づいてきちんと脳死判定がされておるか、そういう説明をきちんとその場で受けるということは当然の権利でございます。  そういう観点から、さらにまた脳死全般について広く国民の理解を得る観点からも、家族の同席を認めていくことは、許す限り、できる限り認めていくべきだと思っております。非常に重要な論点だと思っております。
  103. 吉田幸弘

    ○吉田(幸)委員 今の質問と関連していると思うのですが、医療の不信等いろいろ言われている中で、私自身は、突出して医療不信が蔓延しているとは信じがたいです。しかし、患者の信頼を一層得るべく、治療に当たる医師が心底患者さんに全力を尽くして、そして家族とともにその患者さんの死、あえて死と言いますけれども、死を確定するというような状況をつくるべきではないか。  これは私の考えでありまして、治療に当たる医師、そして脳死判定する医師、そして移植を行う医師は、完全に連続性を遮断しなければいけない。特に、治療に当たる医師の姿勢が問題になってくるのじゃないか。このことに対して具体的なお考えがあれば、ぜひともお聞かせいただきたいのです。
  104. 矢上雅義

    矢上議員 多分、ただいまの質問の要点というのか、移植医療というものは臓器提供者の方が亡くなられて初めて臓器移植を受けることができます、そうしますと、悪い言い方をすると、移植医療とは人の死を待つ医療ではないか、そういうことも言えます。  その中で懸念されておるのは、例えば交通事故を起こして救急センターに運ばれてきた、その方が脳死状態で非常に健康な方で、臓器移植する側とすれば、これは非常に臓器提供の可能性が高いからという意欲も働くと思います。その中で、その緊急医療の場で延命治療に当たっておられるお医者さんが、きちんと自分の力でこの患者さんを助けるのだという姿勢を持って最後まで努力しませんと、やはり移植医療がゆがんでしまったのではなかろうかという疑念を受けることにもなります。  そういうことでございますから、議員がおっしゃったように、まず第一番目に、例えば事故で運ばれた方を最後まで努力して命を救うという立場におられる救急医の方がきちんとそれぞれの職分を果たして全力で頑張るということが、そのような姿勢が当然望まれることだということで、私も吉田委員と同じ考え方でございます。また、そういうことは、私がまたあえて言わなくても、医者の倫理、医の倫理として当然求められることではないかと思っております。  また、臓器移植について、先ほど申しましたように、まず救急医療がございます。その後に脳死判定があって、その後にネットワークを通じまして移植が行われるわけでございますが、この問題は相反する問題ではございません。救急医が全力を尽くして救急医療活動を行った後に、不幸にも治療努力が実らず脳死に至ってしまった、そういう万全の対策を尽くした結果起きたことから次にスタートするのが移植医療の問題でございます。ですから、移植医療を急ぐ余りに救急医療がおざなりになるというおそれはないと私は考えております。  また、その際、救急医療から移植医療に移る際の境目であります脳死判定につきましても、竹内基準によりましても、「現在行いうるすべての適切な治療手段をもってしても、回復の可能性が全くない」ときに行うとされております。つまり、人の生命を救うことに全力が注がれる救急医療と反するものではなくしかも、移植手術を行う人と無関係な医者が少なくとも二人以上で判定するということで公正さの担保をしております。  このようにきちんとそれぞれの職分をわきまえて公平中立にやるように心がけておりますので、改めて言いますが、臓器移植を急ぐ余りに患者に対する治療をおざなりにするようなことはないように努力いたしてまいります。
  105. 吉田幸弘

    ○吉田(幸)委員 法律が制定された後の話なんですが、予測される臓器移植の症例数というか、どれぐらいの件数が見込まれるのか。年次的に、当初はこんなものだろう、何年後ぐらいにどういう形でふえていくのだろうかというのをできれば教えていただきたいのです。  これはやってみないとわからないとは思うのですけれども、私の見解は、当初はふえないだろう、しばらくするとふえてくるのじゃないか。逆に、こういう法律ができても海外に行く患者さんがいたら、今回の法律というものの意義も薄れると思うのです。ですから、今得ているデータで結構ですので、大体の予測される数字を教えていただきたいと思います。
  106. 矢上雅義

    矢上議員 法律制定後、日本でどの程度の数の移植が行われるかというお尋ねでございますが、現在、一番新しい推測でございます。心臓移植については、日本胸部外科学会臓器移植問題特別委員会の試算によりますと、年間約六十人から六百六十人。申しわけございませんが、いろいろな可能性がありますものですから範囲がございます。また、肝臓移植につきましては、肝移植研究会の試算によりまして、年間約三千人でございます。  ただ、委員の御質問にありましたように、これからどのようなペースで伸びていくかということについては、残念ながら、確たる統計がございませんので、お答えすることができません。  そしてさらに、委員の御質問ですが、本当にきちんと日本で対応できるのか、外国にどんどん手術をしに行くのじゃないか、そういう懸念が出されました。  確かに、今回の法案では、前回の法案を修正しまして、臓器摘出の承諾要件を本人書面による同意がある場合と限定しておるわけでございますから、前回の法案よりも今回の法案の方が、当然、臓器提供者の数はかなり減ってくるだろうということは予測されます。  ちなみに、外国での臓器移植件数でございますが、欧州、アメリカ、オーストラリア合計で、一九九五年でございますが、心臓で三千六百件あります。また肝臓で、欧米豪の合計で六千二百件。それに対して日本では当然ゼロ件でございますが、これだけ外国では移植医療が定着しておりますので、当然、本法の制定後も外国に行かれる可能性というのはあり得るかもしれません。
  107. 吉田幸弘

    ○吉田(幸)委員 最初の質問に関連してなんですが、臓器移植経験者、経験者というのは、ドナー家族、レシピエント、あとは医者、医師団の見解というのはおおよそ伺っておりますが、家族またレシピエントのまとまった意見というか、個々のではなくて、何か集団というか組織があったならば、そこのまとまった見解というのを伺いたいのです。要は、臓器移植経験者の、経験者というか当事者の、例えばドナー側の家族も含めてなんですが、まとまった意見、レシピエント側のまとまった意見、そういうものを聞いておきます。
  108. 矢上雅義

    矢上議員 ただいまの、ドナー側の遺族またはレシピエントの方のまとまった意見というのですか、団体としてまとめた意見というよりも、実は手元にある資料でございますが、全国心臓病の子供を守る会が発行しております冊子の中に、ドナーの遺族の方の感想が一つの随筆みたいな形で出ております。それを簡単に抜粋させていただきます。「心臓をまもる」の一九九四年十一月号に掲載されたものでございます。米国留学中の息子さんが事故に遭われ、米国においてその息子さんの臓器を提供された方の御意見でございます。  その息子さんは、留学中に事故に遭われ、結果として脳死になられたわけでございますが、そのとき、御両親の心の中に、息子はこのまま人のためになることを何もしないで死んでしまったら犬死にになるのではないかという気持ちが込み上げてきて、自然に臓器提供の考えが浮かんでこられたそうでございます。そして結果的に、腎臓二つ、心臓肝臓、そして角膜二つの計六つの臓器が命の贈り物として移植を必要とされている方に提供され、それにより六人の方の命の質が高まったということに深い感銘を受けられたそうでございます。  また、その方は、脳死を巡る議論が盛んに行われていますが、私は、脳死を理解して受け入れ、かつ臓器を提供してもよいと考えドナーがあらわれたら移植を実行すべきだと思いますとの御意見を遺族の立場から述べておられます。  また、今度はレシピエントの立場でございますが、同じ号に掲載されております。米国において心臓移植を受けられた高校生の意見です。  米国において心臓移植を受け、帰国後、高校に復学しました。移植後においても、学校生活において、机に向かう普通の授業においては支障はなく、また、体育の授業は、免疫抑制剤の副作用で骨折が起こりやすいために柔道等の格闘技と、感染予防のため水泳はできないが、その他の運動は全くと言っていいぐらい制限がなく行えると述べておられます。特にこの方は、高校に通学中、往復十キロぐらいを自転車で通学されております。  その方が言いますには、自分のように、移植によって日常生活が支障なく暮らせるようになる、このように元気になれる移植であるならば、ただの延命治療でない、昔と同じようになれる移植をやはり早期に実現すべきだ。つまり、延命治療といういつになったら終わるかわからない不治の病的な治療を受けるよりも、移植でこんなに元気になれるのだったら、早く移植医療というものを日本でも実現させたい、そういう希望を述べておられます。  簡単でございますが、これがドナーの遺族とレシピエント側のまとまった感想でございます。
  109. 吉田幸弘

    ○吉田(幸)委員 不老会という会がございます。この会は、私が学生のころに、やはり解剖実習というのを行います。そこの解剖実習で必要とする献体というか、解剖用の材料と言ってはいけませんけれども、要は献体を推進していただける組織と聞いております。ですから、私ども、解剖実習を行った生徒というか、これはみんな不老会に入るのだというような教育を受けてまいりました。  この解剖実習の様子は、献体された体が横たわっていて、我々がそれを題材とさせていただいて解剖実習を行うのですが、目的は、みずからの体を使って今後の医学教育の発展に寄与するのだということで、全く同様とは言いませんが、今回の移植の根底にある考えと一緒だと私は思っております。  この不老会について、組織の背景と、この会のまとまった見解があれば、お知らせいただきたいと思います。
  110. 矢上雅義

    矢上議員 吉田委員の御質問の不老会でございますが、私もよくわからなかったものですから、手元に資料をいただきました。  ここに書いておりますには、「大学医学部・歯学部における解剖学の教育・研究のために、献体することを登録した者たちの団体である。」そして、その団体においては、献体というものが解剖を前提としておりますので、きちんとした体のままで残しておかなければならないことから、腎臓や肝臓などの臓器の摘出は原則として行わず、メスを入れない、人体を切開しない形での角膜の提供だけにとどめる。  そういう形の、珍しい形ではございますが、ドナー立場からの団体ということですね。レシピエントの皆様方の団体というものは存在しますが、ドナーとしての立場の団体というものは、こういう会でないとなかなか見当たらないと思っております。  また、先ほど委員の御質問の不老会の見解でございますが、残念ながら、これまで脳死臓器移植に関する御意見をちょうだいしたことはございません。  ただ、一つだけ言えるのは、ドナー側の団体が果たしていいのか悪いのか、それはやはり一考を要することではないかと思っております。特に、レシピエント側の団体であるとするならば、臓器移植を早く促進してくださいという運動でありますが、ドナー側で親睦会みたいな形で団体をつくってしまいますと、途中でドナーとしての申し込みをやめる場合にどういう反作用が出るか。個人の意思ドナーとなるわけですから、それが団体をつくった場合に、果たして途中で気持ちが変わったときに後戻りすることができるのか。また、自分はこういう形で自分の心臓肝臓を提供したいと思っておっても、その団体で拘束されて自分の意思どおりにできなくなるのではないか、そういう反作用的な面もあるのではないかと思っております。  もし、委員、またこの点について御意見等がございましたら、よろしくお願いします。     〔住委員長代理退席、委員長着席〕
  111. 吉田幸弘

    ○吉田(幸)委員 団体をつくる必要性があるということはありません。ただ、この不老会という方々の心境というものをぜひとも伺いたいなというふうに思っております。  以上で終わります。どうもありがとうございました。
  112. 町村信孝

    町村委員長 米津等史君。
  113. 米津等史

    ○米津委員 まず私は、具体的な法案の中身についてお伺いする前に、臓器移植に関する基本的な考え方を、人の死をどうとらえるかという観点から質問させていただきたいと思います。  私たち人類は、長い歴史の中で、より豊かになる、あるいはより幸福になることを求めて、たゆまぬ努力を積み重ねてまいりました。その結果、人類は現在のような大文明を築き、いまだ多くの問題を抱えているとはいえ、多くの人はこの世に生をうけたことを感謝できる恵まれた世の中ができ上がったものだと言えます。  このような文明の発達を支えたのは、言うまでもなく、自然科学の発達、科学技術の発達は私たちの生活を物質的に豊かにし、それらとともに医学・医療の進歩をもたらし、平均寿命の伸長及び人々の健康増進に貢献してきたところであると言えます。最近までの医学・医療の進歩は人類に多くの利益をもたらしましたが、生や死あるいは生命倫理などの既存の価値観や基準を超えるところまでは達しておらず、その点では多くの人々が違和感を感じることなく医療技術の進歩を率直に受け入れてきたと言えます。  しかしながら、今日における科学技術の飛躍的な進歩は従来の価値観や常識を超えるところまで発達し、多くの人々が戸惑いを感じているのが率直なところではないかと思います。まさに、この臓器移植の問題につきましても、従来より腎臓や角膜の移植は行われてきたところでありますが、心臓あるいは肝臓など、どこまで進んでしまうのだろうかという不安や危惧を持ち始めているのが率直なところではないかと思います。昔であれば、自分の臓器機能が停止したところで死を迎えていた、そしてこれが寿命としてあきらめられてきたものが、その限界が崩れてくるにつれ、人間みずからが生の限界を定めなくてはならなくなってしまったところに今回の根本的な問題があるものと考えます。  このような問題は遺伝子工学の分野でも生じており、遺伝子治療、最近話題になりましたクローンの羊など、科学技術が自然界にあった一線を超えられるようになったために、人間みずからが科学技術の応用について線引きしなければならないという状況が生じてきています。  そしてまた、今具体的に問題になっているのは、人間の死の問題だと思います。脳死状態人間の死なのか。昔であれば厳密な線引きをしなくてもとりたてて問題にならなかったのですが、医学が進歩し、臓器移植が可能になったことにより脚光を浴びるようなことになったと思います。すなわち、臓器移植のための新鮮な臓器を確保する必要性から死とは何かが議論されたところに、この問題が複雑になっていると言えます。  柳田邦男さんが、かつて参考人意見陳述におきまして、人の死には時間的なプロセスがあって、それが重要であるというふうなことを当委員会でも述べておられました。私もこのプロセスという概念が非常に多くの人の合意を得ていく上で貴重なものだと思います。現在の案では、死の時点を脳死の時点に強引に線引きしたというふうな批判がありますけれども、私はここの問題について今から御質問をしたいと思います。  死というのは社会の中でさまざまな法律関係の中で規定されておりますが、死の時点というものは社会のあらゆる場面において一律なものでなければならないのか、一律でなければどういう問題が生じるのか、お考えをお聞かせいただきたいと思います。
  114. 福島豊

    福島議員 米津委員の御質問お答えする前に、先ほどの御質問で答弁漏れが鴨下委員に対しまして若干ありましたので、一言発言をさせていた、だきたいと思います。  先ほど、本法案の第六条に規定する要件を満たさない場合に臓器摘出をする可能性があるのではないかという御指摘でございますが、本法の定める要件に従って行われずに臓器摘出がなされた場合には、ケースによっても違いますけれども、刑法上死体損壊罪に問われることもあるわけでございまして、この死体損壊罪というのは三年以下の懲役ということで決して軽いものではない。したがって、委員御指摘のような懸念につきましては、生じ得ないというものというふうに私どもは考えております。  では、米津委員の御質問お答えをさせていただきたいと思います。  委員が述べられたことにつきまして、医学技術の進歩というものが我々にとって大変大きな認識の変化というものを迫っているという点につきましては、私は同感でございます。しかし、人の死というものは性格上客観的に把握されるべき事柄でありまして、その場面ごとに、また個々の法律の適用ごとに死の時点が異なるということはあってはならないというふうに思います。  いつをもって死の時点とするのかということにつきまして、脳死臨調におきましては、医学的に見て脳死というのが人の死と言えるとともに、社会的にも人の死として受容され、合意されているということを指摘しておるわけでございます。本法案も、この脳死について、医学的にも社会的にも人の死と言えるということを前提として提出させていただいたわけでございます。  そういう意味では、死の概念が三徴候死から脳死ということで広がったわけでございますけれども、そこを超えてさらにさまざまな死というものがあり得るのだということについては、私どもは同意をしかねるものでございますし、また、そうした客観的に把握できないといいますか、個々の事例によって判断基準が異なるような死の判定というものはさまざまな混乱をもたらすものであるというふうに想像をいたしております。
  115. 米津等史

    ○米津委員 脳死心臓死までの間、ここが大変重要な問題だと思うのですが、個々の事象ごとに法律関係を整理することができないものでしょうか。また、脳死心臓死の間を特別な状態として位置づけることについてはどのようにお考えか、お聞かせいただきたいと思います。
  116. 福島豊

    福島議員 委員の御指摘の御趣旨は、脳死心臓死、時間的な経過があるわけでございまして、その個々の事象ごとに、これは死としたり死としなかったりするということがあるのかどうかというような御指摘なのかと思います。  先ほど答弁いたしましたように、人の死というものが客観的に把握されるべきものであるというふうに考えるのであれば、場面ごとに法律関係を整理するというようなことは不適切なことではないかというふうに考えております。  また、脳死心臓死の間を特別な状態として位置づけるということは、私は賛成をしかねるわけでございます。どうしてかといいますと、脳死というのがあくまで人の死として医学的にも社会的にも認められたものであるというふうにして定めます以上は、そこがその個人にとりましての死の時点ということになるわけでございまして、その後に引き続く特別な状態というものは規定のしようがないのではないか、そのように考えております。
  117. 米津等史

    ○米津委員 私は、脳死が人の死であるということについては完全に否定しているものではありませんが、もう少しプロセスというものを慎重に審議していきたいなというふうに考えております。  次に、私は、十分に議論する必要があるというのはもう二つございまして、関係者の合意、それと透明かつ公正な手続の確保、この二点であります。以下、この点について御質問させていだたきたいと思います。  まず、関係者の合意についてであります。  この法案につきましては、平成八年の六月に修正案が提出されて、脳死体から臓器の摘出を行うことができるのは、本人書面による提供の意思表示がある場合で遺族が拒まないときに限られることとなっております。関係者の合意を第一に考えた場合、まず臓器を提供する本人がそれを望んでいるということが最も厳格な取り扱いと言えると思いますので、私は、この修正については極めて評価できると思います。しかしながら、あらかじめ書面を用意しておく必要がある、これについてはどれだけ実効性が確保できるかが非常に問題になってくると考えられます。  そこで、お伺いしたいのですが、平成八年の六月の修正案で本人書面による意思表示がある場合に限ったのは、どのような理由からでありますか。
  118. 福島豊

    福島議員 平成六年の四月にいわゆる旧法案提出されまして、この旧法案におきましては、本人意思が不明の場合にも遺族のそんたくによって臓器の摘出が可能である、本人意思を遺族がそんたくすることによって可能であるということが認められておりました。しかし、その後の議論におきまして、本人書面による意思表示がある場合に限定して臓器摘出を認めるべきではないか、本人意思家族がそんたくすることによって認められるべきではないのではないかというようなさまざまな御意見が出されまして、旧法の審議が進まなかったというような経過がございます。  こうした経緯を踏まえまして、一日も早く臓器移植の開始を望む患者さんの声にこたえるためには、そしてまた国民的な理解をより一層広く得るためには、臓器移植の承諾要件に際して、本人書面による意思表示がある場合に限定する、その修正を盛り込みました法案提出したわけでございます。  その後、この旧法案、修正案は、昨年の衆議院の解散に伴いまして廃案となってしまいまして、今国会で再提出されたわけでございますけれども、こうした経緯を踏まえまして、一日も早い成立というものをお願いしたいというふうに考えております。
  119. 米津等史

    ○米津委員 本人書面による意思表示がある場合に限ったときですが、これはいろいろな先生方からも御指摘がありますけれども、十分なドナーが確保できず、抜本的な解決にならないおそれがあるのではないかというふうなことを言われていますが、もう一度それについてお尋ねしたいと思います。
  120. 福島豊

    福島議員 確かに、委員御指摘のように、臓器摘出の承諾要件について、本人書面による意思表示がある場合に限定した場合には、臓器提供者が減るということは避けられないというふうに考えております。  しかしながら、この修正は、国民的な合意を得て、そして国会法案を成立させるためにはやむを得ない選択である、やむを得ないと言うと語弊がありますけれども、必要な選択であったというふうに私は思います。  ですから、私どもとしましては、この法律の規定のもとに移植医療がより推進されるためには、そして、臓器提供者が減少すると考えられておるわけでございますから、その可能性のある人を確保するためには、ドナーカードの普及に一層力を入れる、そしてまた臓器移植移植医療についての国民的な理解をさらに強力に推し進めていくということが必要であるというふうに考えております。
  121. 米津等史

    ○米津委員 今の御答弁の中にもありましたが、この制度を実効が上がる制度とするためにはドナーカードの普及が非常に大切だ、これが不可欠と考えております。具体的に、この制度を構築していくには何が必要であるというふうにお考えかどうか、お聞かせいただきたいと思います。
  122. 福島豊

    福島議員 ドナーカードにつきましては、今までもなかったわけではございません。腎臓については、従来ですと腎臓バンクに登録することによりドナーカードが配布されていた、いわゆる登録制度によってドナーカードというものが推進されてきたわけでございます。  このような登録制度ですと、やはりその数というのはどうしても限られるということになります。平成五年五月の厚生省臓器移植ネットワークのあり方等に関する検討会の中間報告では、ドナーカードの普及という観点から、この登録制度によるドナーカードの普及ということではなくて、自由配布制によるドナーカードの普及ということを目指すべきであるという方向が示されたわけでございます。  腎臓に関しましても、登録制度によって行われておりましたが、平成七年四月、厚生省日本臓器移植ネットワーク準備委員会報告におきましては、自由配布制のドナーカードの導入ということが提言をされまして、この提言を受けまして、社団法人日本腎臓移植ネットワークにおきましては、平成八年度から全国統一のデザインによります自由配布制の「意思表示カード」というものを作成をいたしまして、腎臓提供者の確保のために、その推進にさまざまなイベント等を通じまして努めているわけでございます。  本法律案におきましても、附則の第二条二項におきまして、政府は、ドナーカードの普及のための方策について検討を加え、その結果に基づいて必要な措置を講ずること、このように定められておりまして、現在、腎臓移植の分野で開始されたところであります自由配布制の「意思表示カード」の配布システムを基盤としまして、これをさらに範囲を広げていくということで検討していくべきであるというふうに考えております。  そしてまた、この努力は国だけではなくて地方公共団体においても行っていただく必要があると私どもは考えておりまして、本法律案では第三条に「国及び地方公共団体は、移植医療について国民の理解を深めるために必要な措置を講ずるよう努めなければならない。」という努力規定を設けておりまして、地方公共団体も含めた、一体となった努力によりましてドナーカード等の普及啓発に力を注いでいきたい、そのように考えておるところでございます。
  123. 米津等史

    ○米津委員 将来的には、修正前の原案のように、本人書面による意思表示がない場合まで適用を広めていく考えはあるのかないのか、もう一回確認をしたいと思います。
  124. 福島豊

    福島議員 本法律案では、附則の第二条「施行後三年を目途として、この法律の施行の状況を勘案し、その全般について検討が加えられ、その結果に基づいて必要な措置が講ぜられるべきものとする。」というふうにされております。  この見直し規定におきましては、委員御指摘の点につきましても当然見直しの検討の一項目になり得るものと考えておりますけれども、現時点におきましては、広く国民の合意を得て法案を成立させるという観点から、この本人書面による意思の表示というものは必要なものとして法律の成立を図りたい、そのように考えております。
  125. 米津等史

    ○米津委員 私はやはり、本人意思表示を基本にして、その範囲で行政的に最大限の努力をしていただく、それが国民の信頼を確保するということに一番重要なものではないかなというふうに考えております。  次に、透明かつ公正な手続の確保についての問題です。  この観点からいえば、まず脳死判定が適切に行われることを担保することが重要であるというふうに考えております。  そこで、お伺いいたしますが、脳死判定については、法第六条第三項において「厚生省令で定めるところにより、行う」というふうにされておりますが、どのようなことを定める予定か、お聞かせいただきたいと思います。
  126. 福島豊

    福島議員 委員御指摘ございましたように、本法の第六条第三項におきまして「厚生省令で定めるところにより、行う」というふうにされておりますが、この厚生省令におきましては、いわゆる竹内基準に準拠しまして脳死判定基準が策定されるものと承知いたしております。  具体的には、この内容につきましては、一点目としまして、脳幹反射の消失、平たん脳波確認など脳死判定において実施すべき検査項目に関しての規定、二点目としまして、二回目の判定は一回目の判定から六時間以上の経過を見ることなど観察期間についての規定、三点目としまして、中枢神経抑制剤などの薬物が判定に影響していないことを確認するなど判定上の留意点に関する規定、四点目としまして、六歳未満の小児や、脳死と類似した状態となり得る症例を判定対象から外すことなどの規定、そして最後に五点目としまして、判定は、脳死判定に関して十分な経験を持ち、かつ、臓器移植にかかわらない二人以上の医師によって行われなければならないといった判定者に関する規定が盛り込まれるというふうに伺っております。
  127. 米津等史

    ○米津委員 また、透明性及び公正性を担保するためには、脳死判定から臓器移植までの一連の経過を記録し、公開することが重要であるというふうに言われております。  そこで、お伺いいたしますが、法の第十条第一項において、医師は厚生省令で定めるところにより判定等に関する記録を作成することが義務づけられておりますが、厚生省令でどのようなことを定める予定ですか、お聞かせいただきたいと思います。
  128. 福島豊

    福島議員 この第十条第一項において定めておりますところの記録の作成についての義務の内容でございますけれども、厚生省令におきましては、医師が作成しなければならない記録の具体的内容について規定が設けられるものと考えておりまして、例えば、先ほども申し上げましたが、脳死判定の際にさまざまな検査を行うわけでございますけれども、その検査の結果でありますとか、臓器移植に当たっての本人または遺族の提供意思確認等に関する事項などが規定されるものと考えております。  さらに細かく申し上げますならば、脳死判定に関しましては、脳死判定を行った日時、場所、また、判定を受けた者の原疾患、そして判定対象から除外される者、六歳未満の小児等は判定対象から除外されるわけでございますけれども、これに該当しないということ、そして、判定の時点における体温、血圧、心拍数というような全身状態についての記載でありますとか、判定における検査項目に関する確認の結果でありますとか、判定上留意すべき点、薬物の使用等がございますけれども、これについての確認の結果でありますとか、そういった一連の判定に関して透明性を担保するような事柄につきまして記録がなされる規定になるというふうに考えております。
  129. 米津等史

    ○米津委員 私は、判定等の記録がきちんとなされて、それが必要に応じて公開されることが非常に重要であるというふうに考えております。  そこで、お伺いいたしますが、法の第十条第三項において記録の閲覧並びに請求権が定められていますが、どのような場合にこの閲覧を拒むことができるか、厚生省で定める予定があるのかないのか、また、閲覧に供するものとしてどのようなものを厚生省令で定める予定なのか、お聞かせいただきたいと思います。
  130. 福島豊

    福島議員 この情報の開示ということも、透明なプロセスを確保するためには極めて大切なことであると私どもは考えております。そして、移植医療が国民の信頼をかち得るものとなるためにも、この項目というのは非常に大切なものであるというふうに考えております。  本法の第十条第三項におきましては、脳死判定等の「記録を保存する者は、」「臓器を提供した遺族」等から「閲覧の請求があった場合には、」「閲覧を拒むことについて正当な理由がある場合を除き、」「個人の権利利益を不当に侵害するおそれがないものとして厚生省令で定めるものを閲覧に供するもの」とされております。  この「正当な理由」ということでございますけれども、「閲覧を拒むことについて正当な理由がある場合」のこの「理由」ですが、法案上では厚生省令への委任というものはなされておりません。では、どういう場合に「正当な理由がある」と言えるのかどうかということでございますけれども、法律の解釈といたしましては、社会通念上もっともであると認められる理由がある場合、例えば閲覧請求が診療時間外にされた場合などには閲覧を拒むことができるのではないか、そのように考えておるところでございます。
  131. 米津等史

    ○米津委員 この問題については、いろいろな先生方が非常にじっくりと議論をなさって、御検討をしていただいて法律案をつくられていらっしゃいますので、私も、多くの患者さん並びにまたその家族の皆さんが苦しんでいる現状を考えますと、臓器移植の開始を非常に待ち望んでいる今、ある意味では成立していった方がいいのではないかなというふうなことを考えてはおるのですけれども、まだ非常に迷っている状況でもあります。  最後質問なんですが、いろいろな資料を見ますと、どのくらいの患者さんが移植術を待っているのかどうか、非常に数字があいまいなものですから、ここは最初に質問項目として出していなかったのですけれども、先生のお手持ちの資料の中で、現実にどれぐらいの患者さんが移植術を待っているのかどうか、数字をお聞かせいただきたいと思います。
  132. 福島豊

    福島議員 心臓移植につきましては、日本胸部外科学会臓器移植問題特別委員会が試算をしておりますけれども、年間六十名から六百六十人の患者さんが待っておられる。また、肝臓移植につきましては、年間約三千名の方がこの対象になり得る患者さんである、そのように試算されております。
  133. 米津等史

    ○米津委員 ありがとうございました。
  134. 町村信孝

    町村委員長 枝野幸男君。
  135. 枝野幸男

    ○枝野委員 私は、現在の社会情勢をかんがみますときに、臓器移植、特に脳死体からの臓器移植が、特に提供者の意思がはっきりしている場合には、できるだけ早い時期に行いやすくする状況をつくらなければならないという要請を強く感じております。そうした意味で、同じような目的からこの法律案を準備され、提案をされた皆様方に敬意を払うものでありますが、しかしながら、現実的な適用をされた場合の状況あるいは法的な整合性を考えましたときに、この法案の中で、脳死を人の死と定義する初めての法律となっているという点についてはどうしても受け入れがたいという立場から質問をさせていただきたいと思います。  まず、提出された法案の第六条では、臓器の摘出をする要件として、「その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき」等と、いわゆる遺族という書き方をしています。これはどういうことからこの遺族の同意を必要としているのでしょうか。特に、ここが法定相続人あるいは祭祀継承権を有する法定相続人と書かずに遺族としている根拠をお知らせください。
  136. 五島正規

    五島議員 今委員御指摘のように、この法案では、臓器移植をする場合に四つの要件を定めております。  まず、本人臓器提供の意思があること、このことがきちっと書面によって確かめられること、遺族が臓器の摘出を拒まないこと、または遺族がないこと、そして、死体からの摘出であること、この四件でございます。このように遺族の同意というものを臓器摘出の要件の一つとしているわけでございますが、死体の管理権者としての遺族の死体に対する敬けん感情に配慮するということから、このように決めたところでございます。  今御指摘ございましたように、遺族の範囲をどうするのか、これは大変基本的に、御遺族の感情というところに配慮したものでありますために、生計を同一にしている方、あるいは祭祀を継承される方、そういう方々が広くおありになるということだと思います。そういう意味におきまして、そうした、生計を同一にしておられる方あるいは祭祀相続権の方が基本的にそれぞれの御遺族の方々の御意見を取りまとめていただくことになるかと思いますが、あえて法定相続人というふうにはしていないというところでございます。
  137. 枝野幸男

    ○枝野委員 もう一点、前提条件を聞かせていただきますが、先ほども若干お話ありました、脳死体となっている者を、第三者、つまり、この脳死判定移植を行う医者とかではなくて第三者がその心臓を刺して心臓を停止に至らしめたとき、どういった犯罪になると想定されておられるでしょうか。
  138. 五島正規

    五島議員 脳死状態が非常に強く疑われたとしても、脳死判定が終了していない段階においてもしそのようなことが行われるとすれば、それは明らかに殺人罪の適用になるというふうに考えます。  しかしながら、脳死判定が行われ、そして、その方が既に死亡しているというふうに判定された後に今委員御指摘のような事件がもし万一発生したとするならば、それは遺体損壊罪に該当するのではなかろうかというふうに考えます。
  139. 枝野幸男

    ○枝野委員 それはちょっと法的におかしくはならないでしょうか。つまり、同一の客観的な状況に置かれているものに対して、これは行政的な手続という言い方でいいのでしょうか、そこすら微妙でありますが、医師脳死判定があったかどうかという一点で、同じ状況にあるものに対して同じ行為を行ったものが、一方では殺人罪になり、一方では死体損壊罪になるというのは明らかに法的な整合性を欠くと思いますが、いかがですか。
  140. 五島正規

    五島議員 脳死判定がなされていない段階において、いかに周辺の状況において脳死が疑われたとしても、そこに存在するのは生ある人間として扱われる、これは医療の持ち場においてもそうでございます。  したがって、それは同じことが三徴候死の問題にも言われるわけでございまして、いかに危篤状態にあろうとも、あるいはもう助からないと医師判断があろうとも、そういうことが起こった場合に殺人罪が適用されるのと同じではないかというふうに思います。そして、死という診断が下った段階において、その人は法的にも死と判断されるということではないかというふうに考えます。
  141. 枝野幸男

    ○枝野委員 実は、これは先ほどの福島さんの答弁の中にもあったのだと思いますが、死の判定医師に任されているというようなニュアンスの答弁がありましたけれども、これは現実は違うのではないか。もちろん、例えば死亡診断書を出すというような行政手続に近い部分での一時的な判定は、確かにその死をみとった医師が行っています。しかし、現実に、人の死がどの段階であったのかということを認定する権限は、それぞれの法律の適用ごとに、基本的には最終段階では裁判所が行うのではないですか。  つまり、殺人罪なのか死体損壊罪なのかという判定をするのは、現場で死亡診断書を書く医者ではなくて、もしそれが死体であったのか、それとも生きている者であったのか、その区別が刑事事件として争われた場合には、もちろん裁判所では医学鑑定をして、医学の専門家の意見を基本的には参考にしながら認定を行いますが、死体に対する損壊だったのか、生きている者に対する殺人だったのかは、最終的には裁判所が行います。  それから、先ほど質問もありました民法での相続の問題が発生したときにも、どの段階で死亡したのかということは、死亡診断書を書いた医師の、その死亡診断書の死亡時刻というものはかなり大きな重要な証拠にはなりますが、裁判所で争われた場合には、死亡診断書の時刻と違う時刻を認定するということも十分あり得ます。  最終的には、現場医師がいつ判定したかではなくて、それが最重要の証拠になるのは事実ですが、最終的な判断はそれぞれの法適用の現場に基づく裁判所ではないですか。
  142. 五島正規

    五島議員 法律上、民法上あるいは刑法上争われる場合において、さまざまな状況の中で裁判所が死亡の時間を判断し、あるいはその本人状態によってそれぞれ独自の判断をされることがあることは承知いたしております。  しかしながら、あくまで死というものは医学的に判断されるものであるべき内容である限り、第一義的に死の判断をするのはやはり医学的知識に基づいた医師であるべきだというふうに考えています。
  143. 枝野幸男

    ○枝野委員 それは現行の法適用を変えるということをおっしゃっているということでいいのですね。現在の、例えば殺人なのか死体損壊罪なのかということは裁判所が決めている、あるいは相続の問題の発生の時期について裁判所が決めているという、この裁判体系をあなたは否定するという趣旨でよろしいですね。
  144. 五島正規

    五島議員 私はそうは申し上げておりません。  そのようなことを判断されるのは裁判所であることは事実です。しかしながら、この法律においては、脳死判断をするまでは生ある人間として対応するということを申し上げているわけでございまして、したがいまして、脳死判定されていない、その段階では患者さんでございますから、患者さんにそういうふうな措置があった場合、当然、殺人罪の容疑でもって捜査が始まるのではなかろうかというふうに申し上げているわけです。その方が死体であるという証拠はないわけでございます。しかし、脳死判断が済んだ段階においては、その方は既に御遺体でございます。したがいまして、遺体損壊罪として捜査が始まるのではなかろうかと申し上げているわけでございます。
  145. 枝野幸男

    ○枝野委員 ちょっと法律的に複雑な話になっていますからわかりにくいのかもしれませんが、それは十分理解をしなければいけないと思っていますけれども、例えば、脳死判定が行われていない段階であったけれども、手続に基づいた脳死判定が正式には行われていて、そして医師がこれは脳死であるということを判定していない段階であっても、客観的な証拠から脳死状態に陥っていたという状況があった者に対してナイフで心臓を突き刺したら、これはやはり死体損壊罪にならないとおかしいし、逆に、現場医師脳死であるという判定をしていても、事後的にその判定が誤っていたということであるならば、殺人にならなければおかしい。それが、最終的には裁判所が医学的知識の専門家の意見をもとにして死亡の時期を判定するという今の法体系なんです。  ですから、最初にお尋ねをした質問は、そういう今の法体糸というものを前提とする限りは、脳死判定の有無にかかわらず、もちろんそれが客観的に証明できるかどうかというのは非常に難しいのはよくわかっていますが、客観的に証明をされた場合には、脳死体に対する心臓を突き刺す行為は死体損壊罪ではないですか。
  146. 五島正規

    五島議員 現在、脳死であるということを客観的に証明でき得るものとしてこの脳死判定基準というものがつくられているというふうに考えています。したがいまして、委員がおっしゃいますように、脳死判定が行われずに客観的に脳死であることが証明でき得る、そういうふうな技術というものが法律の世界で、あるかどうか、私にはわかりません。しかし少なくとも、結果論的に、例えばその患者さんを解剖して、そしてもう既にそれよりも早く脳死に至っていたという客観的事実が出てきたときにそれをどうするのかということについては、それはまさに司法の世界の問題でございまして、我々が申し上げることではございません。  しかし、我々は、この法律は、生ある患者としての、生の終えんというものをどこで客観的に評価するかということで申し上げているわけでございまして、病理解剖その他によってそういう事件が発生した後に結果的にその死亡時間が変更されるということは当然あるだろうというふうに考えます。
  147. 枝野幸男

    ○枝野委員 ちょっとずれるのですが、あえて問題提起としてさせていただきますが、どうも死亡の時期というのを、一義的に物事を考えなければいけないというふうに皆さんお考えになっているように思えるのです。  これは通告もしていませんので、御存じないのが普通だと思いますから、もし御存じなければ御存じないでいいと思うのですが、死に対応する生、出生の時期というのはどういうふうになっているか御存じでしょうか。
  148. 五島正規

    五島議員 妊娠の状態から排臨の状態まで、法律によってそれぞれの扱いが違っているということについては承知いたしております。
  149. 枝野幸男

    ○枝野委員 そういうふうに、まさに人間であるかどうか、基本的人権の享有主体であるかどうかということの始まりの部分は相対的なんです。法律によって違うのです。刑法上の保護が与えられる基本的人権の享有主体としての人間になるのは、体の一部でも母体から外に出てきたところから人間として扱われます。それを殺したら殺人罪になります。しかし、民法上の例えば相続とかそういった問題の関係のときは、母体から体が全部出てきたところまで、人間にはなりません。基本的人権の享有主体になりません。  こういうふうに出生の部分でさえ相対的なんですから、人の死という部分についてもそれぞれの法目的に基づいて相対的であるということは当然あり得ることだということをまず指摘しておきたいと思います。  それで、このあたりから実は、むしろ今までのところは前段なんですが、今のお話を聞いていると大体わかってはくるのですが、この法律脳死体からの臓器移植が行える根本的な根拠というのは、それは本人の同意が基礎なんですか、それとも、これが死体であるということが根拠なんですか。
  150. 五島正規

    五島議員 まず、死体であるということが第一義的要因であるというふうに思います。そしてその上で、臓器を摘出してよいかどうかということについては本人の同意が必要であるというふうに考えています。
  151. 枝野幸男

    ○枝野委員 だとすると、これがまさに客観的に死体である、法的にも死体であるということを一義的な臓器摘出根拠とするのであるならば、これはもう基本的人権の享有主体でも法主体でもありませんから、これは若干複雑な制限がかかってきますけれども、その遺体というものは基本的には祭祀継承をする法定相続人の所有物という考え方をするのが一般的であります。もちろん、その所有権というのは、社会通念とか社会のいろいろな法律によって相当大幅に制約される所有権ではありますが、基本的はその遺体は祭祀継承権を有する遺族の所有物です。だとすると、そこから臓器を摘出するために一番必要なことは、その所有者である、所有権を有する、祭犯継承権を有する遺族の、これは同意ではなくて申し出というところが要件にならないと論理矛盾になります。どうですか。
  152. 五島正規

    五島議員 私は、遺族の申し出という前に、本人そのものが自分がそのような状態になったときにどういうふうにしてほしいかという希望を生前述べる、その権利というものはやはり尊重されるべきだというふうに考えています。そしてまた、そういう患者に対し、御遺族に対してその同意を得るということは、これは何ら問題ないのではないだろうか。  現実に、今の先生の御指摘で申し上げますと、病理解剖というのは一般的に行われています。病理解剖を御遺族の方から申し出がある。法医解剖の場合はあるかもわかりません、ということはまずあり得ない。病理解剖というのは、基本的に御遺族の同意を得て実施されています。私は、そういう意味において、御遺族の同意というものを前提にするということについて、問題があるとは思いません。
  153. 枝野幸男

    ○枝野委員 おっしゃるとおり、実際の手続というものは、脳死体の方からの臓器の摘出をすれば命が助かる人もいるだろうからということで、同意ということで事実上の手続が進むのは、それであり得るのだろうと思います。  しかし、大事なのは、これが死体であって物である以上は、所有者の意思というものが一義的に来る。その上で、もちろん、臓器を死んだ後とはいえ取り出されるということですから、既に基本的人権の享有主体ではなくなっているとはいえ、その生前の意思というものをそんたくしなければならないということで、本人意思というものを要件にするという、そこは別に否定はしません。しかし、一義的には本人意思よりも何よりも、まずは所有者の方が先にあって、所有者がうんと言った上で、なおかつ本人がうんと言っていること、これが、これを死体だと言ってしまう以上は論理的な順番じゃないですか。
  154. 五島正規

    五島議員 所有権論争をするつもりはございませんで、通常、遺体に対しては礼意をもってどのように対応するか、そして、それの具体的な具現者としてのそういう祭祀継承権者の方の御理解というものがない限り、そういうことはできないというふうに理解しております。
  155. 枝野幸男

    ○枝野委員 もう一つ、これが死体であると言い切ってしまわれてしまうと問題が出てくるところがあるのです。  これが生きている人、基本的人権の享有主体であるというのであるならば、それに対してその自分の体の一部をどうこうするというのは本人の処分権限の範囲ですが、しかしながら、これがもう死体であって物である。もちろん、死体に対する礼節とかという意味で、社会的な制約の中で遺族の同意であるとかそういったものが必要になってくるのは当然でありますが、しかし、もう既に人でない以上は本人意思というのは、やはり本人意思考えないといけませんねということで、あくまでもプラスアルファです。死体であるならば、死体から臓器を取り出すということ自体は基本的人権を侵害する行為ではありませんから、そのこと自体は本人の同意がなくても本来はできるのだけれども、つまり、憲法上の人権保障という意味からは本来はできるのだけれども、今の状況考えると、本人意思というものを大事にしなきゃなりませんねというプラスアルファ要素にしかなり得ません。  そうだとすると、例えば、この法律脳死を人の死と定義をしてしまった後は、もしも公共の福祉などの制約によって本人意思というものを無視する法改正をするのは、憲法上何ら問題がなくなってできなくなってしまいます。つまり、今は本人の同意、しかも書面による意思などということを書いてありますが、脳死を人の死と定義をしてしまうと、これはあくまでもプラスアルファでつけているという理屈にしかならなくて、憲法上、公共の福祉、つまり臓器提供者が少ないからもっとどんどん臓器提供者が出てくれないと困るという公共の福祉という制約で、本人意思というものを無視してでもやれるということが憲法上可能になってしまいます。それでよろしいのですね。
  156. 五島正規

    五島議員 本人並びに御遺族の意思を無視して、こういうふうな移植はできるものではございません。現実問題、先生のおっしゃっているような状況の中で、病理解剖等々も進んでいない。現実には、病理解剖については御遺族の判断が最終的なものでございますし、また、現在なされております角膜や死体腎の移植につきましても、これらはいずれも本人意思ということによってドナー登録のもとにおいて行われています。  そういう意味において、こうした制度について見直すことがあったとしても、公共の福祉のために必要な医療材料であるから本人意思は全く無視してどんどん臓器をとってもいいというふうなことになるとは考えておりません。
  157. 枝野幸男

    ○枝野委員 五島先生が、そうなるというふうに、そうしたいと思っていらっしゃるかどうかということをお尋ねしているのではなくて、そういうことが憲法上可能になりますよということ、そういう法律をお出しになっているのですよという御認識があるのですかということをお尋ねしたいのです。
  158. 五島正規

    五島議員 あくまで臓器の摘出を認められるのは遺体である、すなわち死体であるという考えから申し上げているわけでございまして、そのことを法律的に演繹されて、社会の状況の変化によってそういうことになる可能性もあるのではないかという御指摘であれば、そういう社会をつくりたくないものだというふうに思っているところでございます。
  159. 枝野幸男

    ○枝野委員 そもそもこの法律をお出しになった趣旨は、脳死を人の死とすることが目的なんですか、それとも、脳死体からの臓器移植をしたい、そこが目的なんですか、どちらが主たる目的なんでしょうか。
  160. 五島正規

    五島議員 この問題につきましては、諸外国を見ましてもそうでございまして、例えばフランス等におきましては、本人拒否の意思がなければ、遺族の意思にかかわらず摘出可というふうにしている国もございます。  そういう意味におきましては、先生の御指摘になるような状況が法的に起こり得るということについては、必ずしも否定いたしません。しかし、そのことについて、この法案では一定の歯どめをこのような形でしているということでございます。
  161. 枝野幸男

    ○枝野委員 それで、その上で今お尋ねしたのは、そもそもこの法律の目的は、脳死を人の死と定義をしたいことが一番の目的なんですか、それとも、脳死体からの臓器移植を可能にしたいということが第一の目的なんですか、どちらなんですか。
  162. 五島正規

    五島議員 これは臓器移植法案でございまして、あくまでも死体からの臓器移植ということをスムーズに実施できるようにしていくための法律であるというふうに考えております。
  163. 枝野幸男

    ○枝野委員 だとすれば、脳死を人の死と定義をする必要はない。むしろ、脳死状態にある、だけれども、これは法的には基本的人権の享有主体であるということを前提とした上であっても、ここから臓器を摘出する、特に心臓を摘出すればそのこと自体が必然的に三徴候説に基づく死亡にもなるのでしょう、だけれども、それも可能であるという法律をつくることは、今の憲法上不可能ではないと我々は思っていますし、そういった法案をつくって、今週末から来週にかけてお出しをしようと思っています。こういった法律ではだめなんですか。
  164. 五島正規

    五島議員 それは、先日、山本委員からの御質問の中にもあった内容と関連すると思います。  この法律が、いずれにしても、遺体損壊罪の違法性阻却なのか、あるいは殺人罪の違法性阻却なのか。法律専門の先生方としては、同列で法律上は論じられます。しかし、医療現場におきまして、生と死というのは、厳然として何よりも超えることのできない最大の問題でございます。それゆえに、救命医療にかかわっている医師としては、患者さんの命のある限り、その蘇生限界点を延ばそうということで必死になって努力いたします。また、あと数カ月の命に迫っている患者移植以外に助けようのない患者、待っておる患者については、その患者を助けるために必死になって努力をする。  いずれにいたしましても、そうした場合に、いかに蘇生限界点に近い状態にあろうとも、生のある者は、もう抹殺する、より大きな可能性ある者のためにその命を絶つということは医の倫理からして当然できない。そういう意味においては、そこは法律論ではない、超えることのできない大きな限界点だというように思っています。そういう意味において、私は、決して死体以外から、死体であるということをあいまい、あるいは死体ではないという前提のもとで臓器をとるということは理解できないというふうに申し上げたいと思います。
  165. 枝野幸男

    ○枝野委員 先ほども、出生の時期のところで申し上げましたとおり、出生すら相対的なんです。死亡も相対的なんです。確かにおっしゃるとおり、まさに脳死というのはこの基準に基づいて言えば医学的に死であるというのは、法律がどう書こうと何しようと、それは客観的な事実であるということが御主張の基本にあるわけですよね。ということは、法律でどう扱おうと、法律がどう意味づけようと、それはもう蘇生限界点を超えているものなんだということで、まさに自然科学者であるお医者さんたちは、そこに対して、命を奪うのではないという認識で移植をしていただいていいのである。だけれども、その自然科学的な、医学的な死であるということは、ダイレクトに、法律上も死であるということを結びつけなければならないという必然性は全然ない、それで移植ができないなら別ですけれども。自然科学的に専門家が見た死と、それから、法的にどこで死と評価するかというのは、これは何で組み合わせなければならぬのか、さっぱりわからない。それはあくまでも別々に議論はできる話じゃないのですか。
  166. 五島正規

    五島議員 現実問題として、先生が御指摘なさいます脳死状態という状態が生ある人間の末期における一つの状態であるとした場合に、そこから臓器を取り出す、それが、医師の方はそれは遺体であると考えたとしても、そこのところについて明確な線がない場合においては、これまでもございましたように、数多くの殺人罪での告発その他、いろいろな問題が起こってくるという危険がございます。  また、そこの点について、生まれてくる過程の問題と、それから亡くなってくる過程と、生まれてくる過程は法律上でいろいろな段階があるから、死の段階でも各段階があってもいいというものではないと思います。私は、人の死というものは基本的には一つであって、そして、その段階というものは、医学の進歩とともに、さまざまな状態を死と判断することがある。そういう状況というものは、医療の経過の中において違ってくると思います。しかし、それは、いずれにしても明快なことは、人としての統合的な機能というものを不可逆的に破壊された段階、その段階が死であるというふうに考えています。
  167. 枝野幸男

    ○枝野委員 まさにここのところが、哲学論争として、党議拘束も外さなければならないような話になるのかなとも思いますが、しかし、確かに、現場医師立場から見れば、法律上生きているものだったら、それから臓器を摘出したら殺人罪になるのじゃないかという危惧を持つというのは、それはよくわからないではないですけれども、まさに、だからこそ法律をつくって、正当業務行為である、違法性が阻却される事由に当たるのだということを立法をすればいいのであって、同じことは、この法律脳死体ということが死体であるということを位置づけたとしても、やはりそれは、構成要件的には、脳死体から臓器を摘出することは、この法律ができたとしても、それは死体損壊罪の構成要件には該当します。ただ、この法律によって違法性阻却されるだけです。それは、生きている場合の殺人の違法性阻却であろうと、死んだ場合の死体損壊の違法性阻却であろうと、どちらも全く意味は同じです。どちらも、構成要件上は、犯罪に該当することの違法性を正当行為として正当化するにすぎません。  そういった意味では、まさに、殺人の違法性阻却じゃ何か気持ち悪いからというような、そこは現場のお医者さんの感情としてはわからなくはないですけれども、法的な整合性とか将来拡大の可能性ということを考えたときには、あくまでも、基本的人権の享有主体、法的な人間であるという範囲というものはぎりぎり長く置いておくべきではないかというふうに考えますが、いかがですか。
  168. 五島正規

    五島議員 その点が、まさに先生と私との意見の一番大きな違いであると思います。  同じ違法性阻却という犯罪の阻却であるからそれはいいのじゃないかということでございますが、医師にとりまして、生を比較して差別化する、これはどうしても最小限のモラルとして許せない行為であるというふうに考えます。例えば人間の体に手術をするというのは、これは傷害罪です。人の命を助ける、病気を治すということによって違法性阻却されるでしょう。あるいは遺体を病理解剖する、これもやはり、病名を究明し、医学を進歩させるために違法性阻却として、そういう遺体という物体の損壊に対する違法性阻却ということに対しては何の抵抗感もございません。しかし、私は、命を区別し差別する、そして、比較した上でよりどちらかの命を助けるという機能を医者が持っているとは思いません。
  169. 枝野幸男

    ○枝野委員 時間になりましたから終わりますが、まさにそこがポイントで、ただ、逆に言いますと、医学的に死であって社会通念上も死であるというのだったら、この法律脳死の定義とか、「(脳死体を含む。)」だなんということを書かなくても実はいいわけですよね。今の状況のままでも、科学的に死であって、そして社会通念上も死であるならば^今、堂々と脳死状況のところで死亡診断書を書いて出せばいいのですよ。それがやれないということは、やはり社会通念上の死だということが足りないのだというふうにも私は考えておりますので、これから、ぜひ慎重な審議の上で、いずれにしろ、臓器移植を進めなきゃならないということは共通していると思いますので、ぜひ前向きの審議をしていきたいと思います。  ありがとうございました。
  170. 町村信孝

  171. 瀬古由起子

    ○瀬古委員 日本共産党の瀬古由起子でございます。  私は、先日放映されました「NHKスペシャル 柳田邦男の生と死を見つめて・低体温療法の衝撃」を見て大変感動いたしました。医療スタッフの、命を救えという死をあきらめない姿勢がどんどん蘇生限界を動かしていく。一人の患者さんをめぐって、家族また商店街の仲間が必死で呼びかける、とうとうすてきな笑顔が戻ってきた。日大の板橋病院では、低体温療法によって、扱ったケース七十五人中五十六名の命が救われたというのですね。アメリカでは、同じ状態患者さんが脳死判定されて、臓器が取り出されている姿が生々しく映っておりました。  柳田邦男さん自身は、脳死となった息子さんの腎臓の提供を承諾した経験をお持ちで、第百三十二国会の参考人としても意見陳述をしておられます。人間の命というものには、生物学的な命だけではなく、人生を共有し合い、喜びや悲しみを共有し合った精神的な命というのが非常に重要であること、また、死というものを受け入れていく上で、時間の重要性、ゆったりした時間経過というものが極めて重要で不可欠であるということを新しく発見した、このように述べておられます。  あなたの家族脳死です、もう既に死んでいるのですよと医師に言われても、まだ心臓が動いているじゃないか、体も温かいじゃないか、これでどうして死んでいると言えるのですか、体をさすってやればひょっとして奇跡が起きるかもしれない、そのような家族の心情を提案者はどのようにお考えでしょうか。
  172. 山口俊一

    ○山口(俊)議員 この件につきましてはお答えをしたこともございますけれども、まず、最初にお話しの脳低温療法、これにつきましては、確かに、おっしゃるとおり、すばらしい医療であろうと思っております。いわゆる蘇生限界点をどこまで延ばすか、こうした療法によって一人でも多くの方が助かる、これは大変すばらしいことであろうと思うわけでありますが、それもあくまで脳死に至るまでの過程というふうなことでありまして、いわば脳死というのは、ポイント・オブ・ノー・リターンといいますか、決して引き返すことのできないところでありまして、そうした意味合いから、確かに脳低温療法という、いわゆる救急救命医療につきましては、さらに御努力をいただいて、人の命を助けるためにあらゆる方策を尽くしていただきたいと私どもも考えておるところでございます。  また、柳田さんのお話でありますが、確かに、人間として、人の死、特に身内の人間の死、これに立ち会った場合の心情というのも非常によくわかるわけであります。ただ、いかんせん、これも先ほど来御議論がありましたが、やはり死というのはあくまで現実でありまして、同時に、これは、専門家である医師が、それぞれ経験なり知識なり、そうしたもので判断し、死亡診断書を書く、判定するというふうなものでございまして、そうした遺族のお気持ちとはまた別の次元の事実であると考えざるを得ないわけでございます。
  173. 瀬古由起子

    ○瀬古委員 では、実際に現場に携わっている医師の皆さんがどういう態度をとっているかということなんですね。脳死に直接かかわっている救急医療現場では、これは九三年十一月の日本救急医学会の調査なんですけれども、全国の総合病院、九百の病院のうち百二十の病院で調査されたわけですが、脳死判定後の八割以上の患者人工呼吸器を外さないという報告がされております。これは、家族が外さないでほしいと継続を求めたことを意味しています。  さらに、脳神経外科医師の態度についてどうか、近畿地方の脳神経外科施設の責任者を対象としたアンケートがございます。これは学会誌の九三年十二月号に書いておりますけれども、ここでは、脳死を人の死として認める意見が七五・六%あります。認めないという意見が一六・五%なんですね。そして、その医師たちが脳死判定後の治療についてはどういう態度をとっているか。すべての治療を停止するというのが〇・八%、消極的治療に切りかえるというのが五五・九%、家族の決定にゆだねるというのが三七・〇%、要するに、脳死判定した後も医療行為は打ち切られていないわけですね。  実際の現場では、その家族の、まだ生きているのではないかという思い、実際に脳死判定しても、実際には専門家の間でさえ、医師の間でさえ、脳死を人の死と認めるということに合意があるとは言えないのではないか。このような実態の調査からも明らかではないのでしょうか、お答え願いたいと思います。
  174. 山口俊一

    ○山口(俊)議員 確かに統計的にはそのようなことがあるかもわかりませんが、御承知のとおり、今回の法案でやはり問題になっておる一つが、いわゆる脳死判定後も健康保険等の措置をするというふうなことが問題になっておりまして、こうしたことも、そうした御遺族のお気持ち等々、あるいはまた医療現場での混乱を避けるために、やはりそうした措置を健康保険等で認めていく、結果的にはそうしたことをする方がお気持ち等を考えた場合にはよりいいのではないかというふうなことで、今回の法律でもつくらせていただいておるところでございます。  お話のようなことがあろうかと思いますが、ただ、逆に一面、これは先般、児玉委員の御質問お答えもいたしましたけれども、実は、私の義父も脳溢血から結局脳死に至りまして、これは田舎のお医者さんでありますが、もちろん、今回、法的に政令で定めようとしておる竹内基準なんというのを十分御存じかどうかわからないお医者さんでありますが、経験上、脳死ですね、そして、脳波等も調べたりして私どもに見せていただきました。私も、母がどういうふうな反応をするかと思ってじっと見ておりましたら、脳波状況を見て、ああ、やっぱり亡くなったのですね、人工呼吸器等を外していただいて結構ですというふうな話をみずからしておりました。  そうした側面も一つにはあるわけでありまして、この議論が始まって実はもう十年に余って時間が経過をしておりますが、その間、そうしたいろいろな体験といいますか、いろいろな状況を踏まえて、私は、徐々に徐々に脳死というものに対する理解が深まりつつある、同時に、社会的に認められつつあるというふうに判断をしておるところでございます。
  175. 瀬古由起子

    ○瀬古委員 もちろん、今おっしゃられた、あなたのお母さんのように、もう人工呼吸器を外して結構ですと言われる方もあるでしょう。でも、今の経過や今日的な状況で言うと、もうだめだと言われても、それこそ手を握れば生き戻るのじゃないかと、多くの人たちがまだまだそういう状況にあるわけですね。  確かに、脳死というのは、もうこれである意味ではポイント‘オブ・ノーリターンを超えたという意味ですし、それから、脳死状態が当然心臓などの臓器の死に帰結していくということは生物学的には明らかです。しかし、私は、それは決して人の死を意味しないといいますか、人間の死とするにはまだまだ道徳的な人道的な、また社会的な問題がそこに本当に深く横たわっているということを思うわけです。そういう意味で、私は、合意があるとは言えないと。  さらに、柳田さんが体験された問題ですけれども、低体温療法の導入によって、今までは脳死に至ると思われていた人たちの蘇生限界がどんどん引き延ばされている。柳田邦男さんも、息子の生と死に向き合って、息子の入った救命センターはこの低体温療法の設備がなかったとわかっていても、ひょっとして救えたかもしれないのに何であのとき死を受け入れてしまったのだろう、このように語っておられるわけですね。  このように今までなら確実に脳死に至る人たちが生還してくる。このことは一層、今日的に、家族にとっても医師にとっても死というものをより慎重に扱うべきだということを教えていると私は思うのです。家族にとっては、ひょっとして救えるかもしれないという期待と、医師立場からいうともっと蘇生限界点を延ばせるかもしれない、こういう確信を広げたのが今回の低体温療法だったというふうに私は思うのですね。予測できなかった新しい状況がどんどん今広がっているということを考えれば、今日の状況は、脳死を人の死として法律で国民を拘束するなんということはとてもできないと思うのですけれども、いかがでしょうか。
  176. 山口俊一

    ○山口(俊)議員 先ほどもお話を申し上げましたが、確かに低体温療法といいますか脳低温療法といいますか、そうした新しい医療というのは、日進月歩といいますか、どんどん発展、発達してくるものであろう。そして、むしろ発達していってくれなければ困るわけでありまして、そこら辺の努力は大いにしていただきたい。  ただ、それと同時に、そうした療法というのは、あくまで脳死に至る、つまり蘇生限界点をいかに延ばしていくかというふうなことでありまして、脳死というのがいかんせん厳然として存在する、しかも、まさに。ポイント・オブ・ノーリターンである、この事実はいかんせん変わらないわけでありまして、この脳低温療法を行っておられます先生御自身にしても、やはり竹内基準というものは脳死判定するのに妥当であろうというふうなこともおっしゃっておられるわけでありまして、そこら辺、確かに人間の死生観といいますか死に対する気持ち、あるいは遺族の気持ち等々、十分配慮していかなければいけないわけでありますが、同時に、こうした法律をつくらしていただくことによって、移植以外に助かる道のない方々がたくさんおいでる、こうした現実を少しでも変えていこうというのも、私は恐らく政治家の仕事であろうと理解をいたしております。
  177. 瀬古由起子

    ○瀬古委員 この国民的な合意といいますか、やはりそれがなくしては、こういう医療やこうした死に対する問題といいますか、そういうものの合意というのは、本当に国民的な社会的な問題として考えなければならないというふうに思うわけですよ。  国民的な合意という場合に、一体脳死とは何なのかということだって国民はどこまで知っているのでしょうか。死に対して、自分はもう脳死になったら移植していいよと言うけれども、実際に、では家族との間でその死についてどういう話し合いが、十分合意がやられているのだろうか。また、新しい医療技術、先ほどの柳田さんのように、ひょっとしてあの技術をもってすれば自分の子供も助かったのではないか。こういうような新医療技術がどこまで進んでいるのかという知識や判断能力が与えられて、そして国民的な議論が本当に活発になってこそ初めて国民の合意が得られるのじゃないかというふうに私は思うわけです。  本人家族がみずからの意思で決定するという自己決定にはそういう条件が必要だというふうに思います。すべての国民の生死にかかわる立法を早計に行うべきではないと私は考えております。国会においても、国民が納得し得る議論を十分時間をとってやっていただきたい。  委員長最後にここで提案させていただきたいと思うのです。  ぜひ国民の広い意見を聞くためにも、地方公聴会を初めとする国民の声を聞く機会を改めて検討していただきたいと思いますけれども、いかがでしょうか。
  178. 町村信孝

    町村委員長 理事会でよく検討いたします。
  179. 瀬古由起子

    ○瀬古委員 以上で質問を終わります。ありがとうございました。
  180. 町村信孝

    町村委員長 土肥隆一君。
  181. 土肥隆一

    ○土肥委員 もう十年近い脳死論議、そして今までに何回法案が流れたのでしょうか。特に臓器移植を待っていらっしゃる患者さんやその団体は、一体国会は何をしているのだ、やるかやらないか決めてくれという声すらあらわれているわけですが、提案者の皆さん、今国会でこれはもうやろうというふうに思っていらっしゃるのかどうか、一言。
  182. 五島正規

    五島議員 御指摘のとおりでございます。  移植学会におきましても、もう国会の審議を待っていられないとまで言われているわけでございまして、何としてもこの国会委員の皆様方の御賛同を得て成立させたいというふうに願っております。
  183. 土肥隆一

    ○土肥委員 今回、移植学会がいろいろな行動指針案を出しました。私も実は三月二十日の移植学会の公開討論会に出まして、相当長い、五時間ぐらいにわたって、かんかんがくがくの議論が行われました。そのときの印象は、移植学会のあの偉い先生方が、特に障害者の皆さんの激しい抗議を受けておられましたけれども、よく辛抱して、それに一つ一つ丁寧に答えて、大学の心臓外科のトップの医者もあれだけ謙遜になれるのだなと改めて感心をしたわけでありますが、それは非常によかったと思うのです。医療の最前線にいる人が、某大学の教授は、けさまで心臓手術をして今来たのだ、二時間ほど仮眠して来たのだというような先生もいらして、本当によかったと思います。  だけれども、やはりそこで考えましたのは、人の死をどう考えるかということ、人の死の定義ですね。今回、この法案臓器移植促進法案ですから、私も今の発達した医療の中で、移植学会先生方はほぼ完成した医療だ、こうおっしゃいますから、移植の道を開くべきだと思いますが、国会議員一人一人が人の死の定義をしなければいけないわけです。立法府といえども、我々一人一人が賛成、反対で脳死を死とするという死の定義をすることは一体できるのかどうか、そこまでしなければいけないのかということを考えますときに、やはり私もはたと迷うわけです。  どうでしょうか、国会、立法府で死の定義をすることはできるのでしょうか。
  184. 五島正規

    五島議員 国会が死の定義をやらなければいけないというふうには思っていません。ただ、現実問題として、こういう臓器移植をやっていく場合に、国会は、明らかに死というものの存在、脳死というものの存在をそのとおり認めた上で法律を作成していくということが必要なんだろうと思います。
  185. 土肥隆一

    ○土肥委員 ちょっと無理なんじゃないかと思うのですね。  民法上も刑事訴訟法上も人の死の定義をしていない。普通は、お医者さんが御臨終ですと言ってそれでおしまいだと思っているけれども、なかなかそこでは日本人の死生観というのは終わっていませんで、私も葬儀をいたしますけれども、いよいよ出棺のときに、母親がこの子を焼かないでと言って棺おけの上に乗っかって、絶対渡さないというような事態もあるわけでありまして、仏教的にいくと、四十九日が終わりますとやっとこれで満中陰で、死者と別れましたというような話もあるわけでありまして、要するに、死とは何であるかというようなことを法律で定義はしてこないことの方がより国民の実態、生活の実態に合っているというふうに思うわけであります。  したがって、私も自分の臓器は提供したいと思っております。何でもお使いいただきたい、こう思いますが、五島先生、例えば病院で脳梗塞なら脳梗塞で運ばれて、蘇生器にかけられてずっと命は続いていく、命というか蘇生促進の状況は続いていくわけです、心臓機能が低下するとまた強心剤を入れるというようなことで。今、共産党の先生質問していらっしゃったのですけれども、どうなんですか、医者が言うのですか、もう脳死ですよとか、いや、これ以上もう戻りませんよとか。そして最後は、医者が蘇生器を外すのですか、それとも、遺族なり家族がとってくださいと言うのですか、実態的にどうなんですか。
  186. 五島正規

    五島議員 その状態状態での患者の病状についての報告は医者が行います。したがいまして、今先生質問になられましたように、仮にもう脳死状態になっている場合、いわゆる脳死判断というものについて、脳死の疑いが強いので脳死判断をしたいということを当然医者が家族に申し出ることになると思います。  また、その他の死の場合においても、治療の限界点を超えたという状況、その状況について臨終の宣告というのは医者が家族にする。したがいまして、その段階で御家族の了解のもとで治療は終了するというのが通常だと思います。  しかし、あくまで御家族の了解を得ますが、死というものの客観的な存在といいますか、襲来ということについて、告げるのは医者であり、それは速やかに家族に告げるということになっていると思います。
  187. 土肥隆一

    ○土肥委員 そうすると、患者がそれを認めない、受容しないとなればずっと続くわけですね。したがって、蘇生点がずっと維持されているのかどうかというのはわかりませんけれども、既に脳死状態になっていれば蘇生しないわけですけれども、しかし、脳死状態がずっと続いていって、家族もあきらめて、私もその経験があるのですけれども、外してください、こう言ったときに、脳死状態というのを告げられて、一体この人は脳死を受容していたのかどうか、急いで家へ帰って日記をあけてみなければとか、たしかそういうものがあったかもしれないというような話になって、家に飛んで帰るというようなことから、ばたばたして、そういう本人意思確認するだけでも大変なことなんだけれども、またずっとレスピレーターなり蘇生器が続いていくわけですね。それはずっと続いていっても、脳死体であっても、それは移植に可能な状態が続くわけですか。
  188. 五島正規

    五島議員 状態の管理によると思いますが、通常、脳死体になった場合、数日、一週間ぐらいで心臓死に至るのが通例だと思います。そういう意味では、脳死になって全く寸分を争うという状態ではないというふうに思います。
  189. 土肥隆一

    ○土肥委員 よくわかりました。  また移植学会に戻りますけれども、一つ私が発見したのは、先ほどの移植学会の皆さんも大変謙遜に、忍耐深くこの問題に取り組んでいらっしゃるなということがわかったのですが、もう一つは、やはり早く臓器移植をやりたい、やるべきだ、その決意というか決心はひしひしと伝わってくるわけですね。だから私は、余り張り切るとよくないなと思いながらも聞いていたのですけれども。  彼らは職能集団であると自分を規定いたしまして、最高のプロフェッショナルだ、こう言うわけですね。今度の法改正で本人意思確認というところでは妥協したのだ、それでもいいからやろうじゃないか、やらせてくれということなんだろうと思いますが、私はそこまで聞くと、もうおやりになったらどうですか、法案を云々する前におやりになったらどうですかという気持ちになるわけですね。  そして、違法性阻却ということがございますけれども、先ほどの議論では死体損壊罪なのか殺人罪なのかちょっとわかりませんけれども、いずれにしても告訴する人はするわけですよ。だれでも告訴していいわけですから。そこで脳死判定に異議があると後で考えたら、たとえ本人意思があっても、そして遺族が認めても、訴訟して法の判断をもう一遍仰ぐということはあり得るわけで、移植学会がそれだけの自信を持っておやりになるのだったら、あらゆる裁判にたえて、そこでしか社会的な認知を得る方法はないのであって、いかに移植先生方が任せておけと言ったってどうにもならない。  そして、特にナショナルセンターにするかブロック制にするかという移植体制ですけれども、ナショナルセンターの話になりますと、絶対に失敗は許されない、こう言うわけですね。心臓移植臓器移植に絶対失敗は許されないなんという話が通るはずがないですね。だから、結局はどこかでやるのだけれども、たとえここで法律で通しても、脳死体を死体と認めても裁判は起こるわけですよ。  だから、この法文だけで一体日本の法廷の判断が、裁判官の判断が、特に違法性阻却というようなことに関して言えばどれだけ緩められるのか、その辺はどうお考えですか。
  190. 五島正規

    五島議員 職能集団である移植学会が、今日とられているようなみずからの決意によって、法案が通ると通るまいとやるのだというふうな決意を示しておられることについては、それなりにこれまでのこの法案の審議の状況国会状況を見てきた場合に、私自身としては理解できると思います。  しかし、にもかかわらず、そのような形で移植をしていく場合に、今先生も御指摘になりましたように、数多くの告発事件等々の問題が大変起こってきて、そして日本における移植医療の定着には一定の大きな妨害になるということも事実である。そういう意味では、国会の責任においてこのことが速やかに実施できるようにやっていくということが必要なんだろうというふうに思います。  また、先生御指摘になりましたが、移植医にとりまして、何も趣味で移植をしたいと思っているわけではございません。現実に、先ほどからも御指摘ございましたが、六十から六百とかあるいは約三千ぐらいの、移植であれば助かる患者さんの出現というのはあるわけですね。そして一方で、大体一カ月から六カ月以内しか予後のない患者さんに対して移植が行われるわけでございますが、海外の治療経験で見ますと、五年治癒率が七〇%、肝臓で七〇%を超え、心臓でも七〇%に近づこうという治癒率、この大きな治癒率というものは現在の医学ではほかに到達していないわけですね。すなわち、助けられるかもしれない技術は持っておりながら助けることができないということに対するそうした移植医の犯罪的な感覚に襲われるという感情も、我々としては十分理解したいというふうに思います。
  191. 土肥隆一

    ○土肥委員 それはそうなんです。したがって、私もその点は賛成でございまして、何とかこの移植の道を開きたいと思いますが、必ずしも法律を用いなくてもいいのじゃないか。  例えば、この六条でも、「死体脳死体を含む。以下同じ。)から摘出する」とありますけれども、これは移植術に使用される臓器なんですから、脳死状態から摘出することができるとしたら、結局、脳死判定というのは医者に任せて、そしてそこでも問題があるならば裁判に持っていくよりしようがない。あとは、臓器売買であるとかコーディネーターであるとかいうことは我々は全部網羅することができると思いますけれども、この死体脳死体を含むと言い切るところに私は自信がないわけであります。  最後に、この移植学会の行動指針についての新聞によりますと、「心臓で一番準備が進んでいるとみられた国立循環器病センターは、厚生省の方針で法律が未整備な段階では移植が不可能なために除外された。」こう書いてあるのです。これは本当のことでしょうか。そうであるならば、他の医療機関はなぜ認めることになるのでしょうか。厚生省の意見を聞きます。
  192. 貝谷伸

    貝谷説明員 お答え申し上げます。  今般、日本移植学会の方で発表されましたいろいろなデータを見ますと、施設の特定ということで幾つか出ております。今先生御指摘のように、国立循環器病センターについては今回の指定からは漏れているわけでございまして、そういった報道があったことも承知しているところでございます。  今回公表されました移植学会としての指定につきましては、既に平成五年の段階で移植関係の合同委員会において特定されております心臓の施設で八施設、肝臓の施設で十施設、これは各ブロックごとにそれぞれ配置されておりますが、あるいはまたその合同委員会で申請中の肝臓の施設六施設、こういったものを対象に移植学会が各施設長あてに、法律の成立前あるいはその後、移植を実施する体制その他もろもろの整備状況につきましてアンケート調査を行ったものというふうに承知しているところでございます。  この国立循環器病センターが外れたという点についてでございますが、このアンケート調査は今申し上げましたように各施設長に対しまして移植学会が回答を求めたものでございまして、循環器病センターにおきましても、移植学会が既に指定されておりました心臓移植の実施施設という立場で回答したものというふうに理解しております。なお、その際、国立循環器病センターということでございまして、法案が審議中であること等、そういった諸状況、諸事情等を判断した上で、法律制定前の移植につきましては慎重な姿勢をとったものではないかというふうに考えておるところでございます。
  193. 土肥隆一

    ○土肥委員 ちょっと今の問題で。法が未整備だからという理由なんですね。アンケートが二年間おくれたとかいうことじゃなくて、法的に未整備な状態だというのはどういうことですか。
  194. 貝谷伸

    貝谷説明員 国立循環器病センターだけではなくて、移植学会は、法律がまだ制定されていない段階で、法律が未整備な段階でも移植を実施する考えがあるかどうかということを各施設に対して確認しております。  この循環器病センターにおきましても、それに対して移植施設という立場で回答がなされたものというふうに理解しておりまして、繰り返しになりますが、その際に、循環器病センターにおきましては、こういった法案の審議中といったことも含めた諸状況判断しての一つの慎重な姿勢をとったのではないかというふうに私ども理解しているところでございます。
  195. 土肥隆一

    ○土肥委員 いや、今、法が未整備でしょう。全部未整備の状態じゃないのですか。国立だから厚生省がノーと言ったのですか。厚生省に関係する法案が出ているからノーと言ったのか。ほかの国立大学だと文部省、文部省のことは知りませんと。どうなんですか、その辺は。はっきりしてくださいよ。
  196. 貝谷伸

    貝谷説明員 私ども厚生省としての施設ということで、私どもの本省なり私どもの立場からこの問題について移植学会にこう答えろというようなことで取り組んだわけではございません。  先ほど来申し上げておりますが、国立循環器病センターはもちろん厚生省の施設でございますが、学会医療機関として日本の心臓移植を行うに足りるといいますか、能力があるということで既に四年ほど前に指定している、そういう立場法律前の移植の実施の可否というものを確認したという状況でございまして、厚生省の施設だから云々ということでの直接的なものではないというふうに考えております。
  197. 土肥隆一

    ○土肥委員 それじゃ、文部省も呼んでこなきゃいけないですね、文部省さん、どうですかと。法的に未整備な状態臓器移植をもうやるというのですよ、法律前に。できたらやるというのです。それは、きょう文部省を呼んでいませんからわかりませんけれども。そういう理論でいいのですか、そういう理屈でいいのですか。
  198. 貝谷伸

    貝谷説明員 私ども厚生省として、全体の判断というよりも、これは繰り返しになってまことに恐縮でございますが、あくまでも心臓移植を実施するという移植学会あるいは関連学会が既に指定されている施設という立場で、そういう立場で国立循環器病センターが判断したということでございまして、厚生省の施設だから我々はできないのだというような直接的な判断ではなかっただろうというふうに私ども考えております。
  199. 土肥隆一

    ○土肥委員 よくわかりませんけれども、終わります。
  200. 町村信孝

    町村委員長 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。     午後四時三十一分散会