○立木洋君 午前中の同僚議員の質問で、かつての
戦争で
日本が毒ガスを使ったのかどうかということについてどういうふうにお考えかと言って
大臣の御認識を質問したことについて、
大臣は、それは事実の問題だから事実については私としては
承知していないのでというふうなお話だったと思うんです。私は、
大臣の御発言としてはいかがなものかと思わざるを得ないんです。一九三七年七月に日中
戦争が開始されてから毒ガスというのは物すごく使われているんです。
大臣がそのようにおっしゃるので少し詳しくお話ししますと、
日本における
化学兵器の研究
開発は第一次世界大戦の末期から始まりまして、久村種樹、当時の陸軍中佐、これが欧米に行って毒ガスの
調査をやりました。この方は最後は陸軍中将になったわけですけれ
ども、さらには中村隆寿陸軍少将や小柳津政雄陸軍中将あるいは陸軍少将の秋山金正、これらの人々はみんな
化学戦に関係のあった人です。
こういう人々が詳しく書いているわけですけれ
ども、年表がありますが、一九四一年末までに
日本としては研究成果の大要として「
化学兵器 (1)毒物にては欧州大戦に
使用した有効と認むる毒物の研究は全部完了、」、そして新たな「毒物として採用したもの」として、
日本軍が採用した毒ガス
兵器、
化学兵器というものを全部明細に書いてあります。
そして、この問題が、ただ単に研究がされていたというだけではなくて、一九三七年七月に日中
戦争が全面的に始まるわけですが、この七月二十七日、
化学戦の部隊である迫撃第三大隊、第五大隊、第一野戦
化学実験部を華北に派遣するという天皇の命令、当時臨参命という言い方をされましたけれ
ども、その第六十五号が出されて、
化学部隊が華北に派遣されました。そして、早くも七月二十八日にその
使用命令を閑院宮参謀総長が出しております。臨命第四百二十一号で香月清司支那駐屯軍司令官に対して平津地方掃討作戦に際し「適時催涙筒ヲ
使用スルコトヲ得」という命令文書があります。
そしてさらに、三八年の四月十一日に閑院宮参謀総長が寺内寿一北支那方面軍司令官それから蓮沼蕃駐蒙兵団司令官に対して、いわゆる占拠地域の確保安定に関して大陸指第百十号の指令が出された。「左記範囲二於テあか筒軽迫撃砲用あか弾ヲ
使用スルコトヲ得」と言って、その中には、それを
使用した場合には「
使用地域ノ敵ヲ為シ得ル限リ殱滅シ以テ之カ証跡」、つまり跡ですね、「証拠を残サゝル如ク勉ム」べしというふうな命令の文書まであります。これらの問題を全部挙げていきますと、晋南粛正戦だとか徐州会戦、安慶作戦、これは全部命令書があります、閑院宮参謀総長の。これは参謀総長の命令で出されているのと天皇の命令を受けたという形で出されているものといろいろあるんです。
そして、実際にそれが使われだというのでは「武漢攻略戦ニ於ケル
化学戦
実施報告」というのがありまして、その報告を見ると、中支軍においては一九三八年八月二十一日から十一月二十一日までの間に三百七十五回以上にわたって赤弾九千六百六十七発、それから赤筒三万二千百六十二本を
使用した、その攻撃の約八割は成功し、約二割は成果が十分でなかった、こういういわゆる武漢攻略戦における
化学兵器を使った
状況なんかも詳しく報告をされております。あとまだありますけれ
ども、これはたくさん挙げてもあれでしょうから言いませんけれ
ども、こういうふうに事実は明確に当時の軍の文書、
政府の文書によって明らかにされているんです。
それで、防衛庁の方が来られたようですが、防衛庁の防衛研究所図書館の戦史資料の中に上海派遣軍の「
化学戦二関スル報告」、中支派遣軍司令部の「徐州会戦及安慶作戦ニ於ケル特種煙
使用ノ戦例及戦果送付ノ件」、さらに教育総監部本部長の「事変ノ教訓第五号
化学戦ノ部送付ノ件」、これらの資料は図書館にありますよね、防衛庁研究所の。